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第五十一話 ゲテモノ

 ゲテモノというと皆さんは何を思い浮かべるだろうか?

 漢字では下手物と書く、上手物つまり上物の逆だ。

 辞書では、一般の人が嫌って顧みないもので一部の好事家が良しとするもの、風変わりなもの、並の品、高価で精密なものに対して日常用いる大衆的なもの、素朴なもの、などと書いてある。

 一般にゲテモノと聞くと食べ物を思い浮かべる人も多いだろう、普段食用にしない野生動物や昆虫、皮や内臓など普通は捨てるような部位のことだ。今でこそホルモンは普通に食べられるようになったが一昔前はゲテモノ扱いだった。

 ゲテモノを好んで食べる好事家も沢山居る。誰も食べないから稀少なのだと味など関係なくありがたがって食べる人もいるが、美食を極めてゲテモノ食いになったというセレブな人も多い。


 哲也もゲテモノ食いの人を知っている。その人はゲテモノどころか伝説の生き物を食べたのだという、それを食べて力を得たのだと退院して行ったが、それがよかったのか今でも判断が付きかねる。



 朝食を終えた哲也はいつものように腹ごなしの散歩をしていた。

「良い天気だなぁ」

 病院の敷地をぐるっと回るようにある遊歩道を気持ち良く歩いていた。

「嶺弥さんは夜勤だし香織さんのとこで遊ぶかな……あっ、今日は診察日だっけ」

 哲也は水曜日と金曜日の週に二回診察を受けている。今日は水曜日だ。

「やべぇ忘れてた。池田先生はともかく香織さんに叱られるぞ」

 診療時間は午前と午後に分かれている。午前と午後で精神状態が違ってくる鬱の人などに対応するために、磯山病院では毎回同じ時間帯ではなく先生に指示された時間に行く事になっていた。

 今月は午前中が水曜日で午後が金曜日に来るように指示されてた。

「走れば間に合うかな」

 哲也は慌てて駆け出した。

 両脇に草木が茂る遊歩道から運動場に出ると病棟に沿うように走って行く。

「うわぁっ!」

 病棟の角から男が現れて、ぶつかりそうになった哲也が慌てて体を反らす。

「おわっ!!」

 相手も慌てたのか哲也と同じ方向へと体を捩って避けようとした。

 体勢を崩している二人はこれ以上避け切れない。

 あっと思う間もなく哲也と男はぶつかった。

「とっ、とと……」

 どうにかバランスを取って足を踏ん張る哲也の斜め左、男が盛大に転がった。

「痛ててて……」

 男が右手を痛そうに上げながら上半身を起す。

 反射的に頭を庇ったのだろう、地面についた右手から血が流れていた。

「すっ、すみません」

 大声で謝った後で哲也は男の横にしゃがんだ。

「大丈夫ですか? 本当に御免なさい」

 お互い前方不注意だが走っていた哲也の方が悪いのは考えなくとも分かる。歩いていれば避けることが出来たはずだ。

「気を付けろよな」

 ムッとした顔で男が睨む。

「本当にすみません、御免なさい。全部僕が悪いんです。御免なさい」

 泣き出しそうに顔を歪めて何度も謝る哲也を見て男の顔から険が消えていく。

「本当に御免なさい……血が……先生のところへ行きましょう」

 男の右手、手首から手の甲辺りが血で赤くなっている。

「ああ、これか、これくらいなら大丈夫だ」

 顔の前に自分の右手を持ってきて男が平然と言った。

 とても大丈夫には見えない、病練の土台のコンクリートで擦ったのだろう点や線ではなく面で擦り傷が出来ている。直径六センチほどの面からじわりと血が滲み出ている状態だ。見るからにヒリヒリと痛そうである。

「本当にすみません、早く先生のところへ行きましょう」

 申し訳なさそうに萎んだ顔で治療に行こうと誘う哲也の前で男が平然とした顔で立ち上がる。

「大丈夫だってこの程度で医者に診て貰えるかよ」

「ダメですよ、バイ菌が入って化膿したら大変ですから、消毒して薬塗って貰わないと……本当に御免なさい」

 泣き出しそうな顔で何度も謝る哲也を見て男が微笑んだ。

「お前、良いヤツだな」

 転んで付いた汚れを払いながら男が続ける。

「名前なんて言うんだ? 俺は桑畑(くわばた)(てる)()、四日前に入院したんだ」

 しゃがんでいた哲也も立ち上がると桑畑に名乗った。

「僕は中田哲也、哲也って呼んでください、ここの警備員です」

「なんだ患者じゃないのか、警備員かよ」

 男の顔から笑みが消えた。

「はい、アルバイトですけど常駐の警備員です。警備員のくせに患者さんに怪我をさせてしまって、本当にすみません」

「何度も謝らなくてもいいよ、誰にも言わないからさ」

 桑畑が何だというようにバカにするようにフッと笑った。

「言っても構いません、僕が悪いんですから、だから早く先生のところへ行きましょう」

「お前、本当に良いヤツだな」

 桑畑が感心したように哲也を見つめた。

 哲也が警備員と知って報告されるのが怖くて何度も謝っているのかと思ったが違った。本当に怪我のことを心配してくれているのだと分かって嬉しくなった様子だ。

「大丈夫だよ、この程度の怪我なら直ぐに治る」

 桑畑が笑いながら怪我をした右手を振るのを見て哲也が顔を顰める。

「ダメですよ、ちゃんと薬塗って貰わないと染みてお風呂にも入れませんよ」

「あはははっ、風呂か、このままだと染みて痛いだろうなぁ」

 大きな声を出して楽しげに笑いながら桑畑が続ける。

「哲也くんだったな、面白いものを見せてやるよ」

 何か話そうとした桑畑の左手を哲也が掴んだ。

「そんなことより早く治療に行きましょう」

 無理矢理にでも治療に連れて行くつもりだ。今はよいが後で何かあると大変だ。桑畑自身がいいと言っても責任問題にもなりかねない。

「大丈夫だって、見てろよ」

 桑畑は左腕から哲也の手を離させると怪我をした右手を哲也の目の前に持ってきた。

「俺は怪我を治せるんだ。このくらいなら直ぐに治る」

 哲也の目の前で右手の擦り傷を覆うように左手を乗せた。

「治れ! 治す。治れ、治す」

 桑畑は目を閉じると何度か治れと呟いた。

「よしっ、もういいだろう」

 時間にして三分もない、桑畑が左手をどけると右手の擦り傷は消えていた。

「えっ!?」

 哲也は自分の目を疑った。

「怪我が……」

 桑畑の右手と顔を何度も見る。流れた血と転んだ際についた汚れがあるだけで擦った時に出来た何本もの切り傷は全て消えていた。

「なんで……傷が消えてる」

「あはははっ、手品じゃないぞ、本当に傷を治したんだ」

 驚く哲也の前で桑畑は笑いながら右腕の血と汚れを服の裾で拭いて改めて右手を見せる。

「傷は無くなってるだろ、これが俺の力だ。俺は不死だからな」

 得意気に話す桑畑の向かいで哲也が身を乗り出す。

「不死って? 死なないってことですか」

 興味津々に見開いた目で訊く哲也の前で桑畑が少し考えてから口を開く。

「……そうだなぁ、死ぬかどうかは試したことは無いが怪我くらいなら直ぐに治るのは何度も試してるよ、足を骨折した時も医者が全治三ヶ月って言うのを一ヶ月で直したんだぞ、なんたって俺は人魚の肉を食ったからな」

「人魚? 本当ですか」

 哲也の声が一段高くなった。

 人魚の肉を食べると不老不死になる話は哲也も知っている。人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという八百比丘尼は昔話でも有名だ。

「本当に人魚を食べたんですか?」

 疑うように再度訊く哲也の顔の前に桑畑が真面目な表情で見せるように右腕を持ってきた。

「ああ、食べたよ、哲也くんも見ただろう怪我が治ったのは人魚の力だ」

 目の前で擦り傷が消えたのを見たのだ。人魚の話が本当かどうかは分からないが桑畑が何か不思議な力を持っているのは確かだと思った。

「人魚の力……」

 呟くように言ってじっと右手を見つめる哲也を見て桑畑がフッと愉しげに笑う。

「まぁ怪我は治るんだが痛みはあるからな、さっき転んだ時は凄く痛かったぞ」

「あぁ……それはすみませんでした」

 謝りながら哲也が立て続けに口を開いた。

「それで話を教えてください、どうやって人魚を食べたんすか? 人魚って美人なんすか?」

 逸る気持ちが抑えきれずに普段なら逡巡するところをストレートに訊いていた。口調も普段のタメ口になっている。それほど人魚の話は魅力的に思えた。

「そうだなぁ……哲也くんには教えてやってもいいかなぁ」

 勿体振る桑畑に哲也が詰め寄る。

「是非、教えてください。人魚なんて凄いじゃないすか」

「でもなぁ、警察や医者に話してもバカにされたしなぁ、まぁ俺自身まだ半信半疑なんだけどな……それでこの病院へ入院したんだけどな」

「僕は信じますよ、だって桑畑さんの傷が治るのを見たんですからね、だから話してください、誰にも言いませんから」

 普段なら相手を気遣ってどんな症状で磯山病院へ入院することになったのか訊くところだが今の哲也は人魚のことで頭がいっぱいだった。

「わかった。そんなに言うなら教えてやるよ、ここじゃなんだから俺の部屋に行こう、個室だからゆっくり話せるよ」

「やったぁ、ありがとうございます」

 大袈裟に喜ぶ哲也を見つめる桑畑も嬉しそうだ。


 桑畑の病室へ行こうと二人並んで歩き出した時、後ろから大声で呼ばれた。

「哲也くん!」

 バッと振り返ると看護師の東條香織が立っていた。

「来ないからどこに居るかと思ったら、こんなところで遊んでるんだから」

 眉間に皺を寄せてじっと睨みながら声のトーンを抑える香織は怒鳴るより怖かった。

「かっ、かっ、香織さん……」

 哲也の声が震えている。すっかり忘れていたが今日は診察日だ。

「おっ、美人だな、香織って言うのかあの看護師」

「桑畑さん、話はまた今度で」

 呑気な声を出す桑畑の隣で哲也が反対方向へ走り出す。

「おぃ、哲也くん、俺の話は……」

「こらっ! 逃げるな哲也!!」

 何か言おうとした桑畑の声を香織の怒鳴り声が掻き消した。

「まったく、逃げ足だけは速いんだから」

 走って行く哲也を睨みながら香織が愚痴った。

「あはははっ、哲也くん足速いなぁ」

 大笑いする桑畑に香織が向き直る。

「すみません、哲也くんが迷惑掛けたのでしょう?」

 まるで母か姉のように謝る香織を見て桑畑は笑いながら顔の前で手を振った。

「はははっ、迷惑なんて……まぁぶつかって転んだけど大したことなかったし、哲也くんは良いヤツみたいだから別に……」

 少し考えて桑畑が続ける。

「俺は看護師さんほど怒ってないよ」

 からかうように話す桑畑に溜息をつきながら香織が再度謝った。

「本当にすみません、いつもああなんですよ哲也くん、幽霊とか怖い話しが好きで患者さんたちに聞いて回っているんですよ、直ぐに調子に乗るから桑畑さんも哲也くんに構う事しないでくださいね、頼みましたよ」

 弱り顔で頼むと香織は哲也が走って行った方へと歩いて行った。

 桑畑も自分の病室へと歩き出す。

「怖い話しが好きなのか、それでか……」

 人魚の話をした途端、嬉しそうに顔色が変わった哲也を思い出して桑畑は楽しそうに笑った。



 反対側の病棟まで走ると哲也は振り返って香織が追ってきていないのを確認すると立ち止まって息を整える。

「ヤバい、ヤバい、反射的に、つい逃げちゃったけど、池田先生のところには行かないといけないしヤバいよなぁ」

 診察をすっぽかす訳にはいかない、そんな事をすれば温厚な池田先生も怒るだろう、だが診察に行けば香織に捕まるのは確実だ。

「どうしよう、ヤバいよなぁ」

 病棟の壁にもたれ掛かって思案している哲也の右に人影が立つ。

「何がヤバいんだい?」

「おわっ!」

 驚いて体を反らす哲也の傍に警備員の須賀嶺弥が立っていた。

「なっ、なんだ嶺弥さんか」

 安堵する哲也の顔を嶺弥が覗き込む。

「また何かやったのかい」

「嶺弥さんこそ……今日は夜勤ですよね」

 誤魔化すように哲也が聞き返した。いつもなら夜勤の日は夜の九時過ぎに出勤してくるはずだ。今はまだ朝の十時前である。

「そうだよ、普段ならまだ家で寝てるよ」

 言いながら嶺弥が手に提げていた大きな紙袋を哲也に見せた。

「知り合いにケーキを沢山貰ってね、一人じゃ食べきれないから東條さんたちに持ってきたんだよ、もちろん哲也くんの分もあるぞ」

 何でも知人の洋菓子屋がケーキを大量に受注したのだが発注先のミスで四分の一ほどキャンセルになり、たまたま通り掛かった嶺弥にキャンセル分を只でくれたのだという。

「ケーキ、やったぁ~~」

 ケーキを渡したら直ぐに帰るという嶺弥に安心して哲也は逃げていた訳を話した。

「と言う訳なんですよ、それで……」

 話の途中で嶺弥が哲也の腕をガシッと掴んだ。

「ちょっ、嶺弥さん何を……」

 何をするのかと訊こうとするが嶺弥は哲也を見ていない。

「あっ、あぁ……」

 嶺弥の視線の先を追うと向こうから香織がやってくるのが見えた。

「逃げるなよ、俺も怒るぞ」

「……勘弁してください」

 嶺弥が相手では逃げ切るなど無理である。哲也は観念した。

「て・つ・や・くぅん」

 香織が前に立った。笑顔だが目が怖い。

「ちっ、違うんです香織さん」

 哲也は既に泣き出しそうだ。

「何が違うの? 診察に来ないで遊んでたんでしょ」

「違いますよ、忘れてたのは確かですけど、思い出して行こうとしたんです。そしたら桑畑さんとぶつかって、桑畑さんが転んでそれで怪我をして……」

 必死で言い訳をしていた哲也がバッと声を大きくした。

「その怪我が、擦り剥いた傷が治ったんですよ、人魚の力だって言ってました。人魚ですよ人魚、桑畑さん人魚を食べたって言ってました。それで僕は驚いて話を聞こうとした時に香織さんが来たから、それで……つい逃げちゃって…………それで……」

 二人がじとーっと軽蔑するように見ているのに気が付いて大きな声が尻窄みになっている。

「幾ら何でも人魚は無いぞ哲也くん」

 言い訳にしても酷すぎる。嶺弥は呆れ顔だ。

「捕まえてくれてありがとう須賀さん」

 ニッコリと愛くるしい顔で微笑みかける香織に嶺弥も笑顔でこたえる。

「どう致しまして、今回は哲也くんが悪いからね」

 あらっと言うように香織がとぼけ顔になる。

「今回だけじゃないわよ、いつもよ、いつも悪いのは哲也くんよ」

「あははははっ、そう言われればそうだな」

 二人して哲也を見つめた。

「すいません勘弁してください。僕が悪かったです」

 こうなったらひたすら謝るしかない。

「まったく、謝れば許してもらえると思ってるんでしょ」

 子供を叱るような半分呆れ顔の香織の前で哲也が口を尖らせる。

「だって……人魚の話聞きたいじゃないですか」

「ダメよ、人魚なんているわけないでしょ、桑畑さんはノイローゼなのよ、ノイローゼで幻覚を見ただけなの」

「ノイローゼ? あの桑畑さんが」

 信じられないといった様子に哲也の腕を香織が引っ張った。

「詳しい話しは後で、池田先生を待たせたら私が叱られるんだからね」

「わかってますよ、僕だって池田先生に怒られるのは御免ですから」

 嶺弥の前で恥ずかしかったのか哲也は香織の手を振り払うと先に歩き出す。

「わかってない、わかってたら逃げたりしないでしょ」

 プンプン怒る香織に嶺弥がケーキの入った大きな紙袋を差し出した。

「おっと忘れてた。詰め所まで届ける手間が省けたよ」

「良い香り、ケーキね」

 香織の顔にパッと明かりが灯る。

「知り合いに貰ってね、俺一人じゃ多過ぎるからみんなで食べてくれ」

「ありがとう、みんな喜ぶわ」

 笑顔の香織の向こう、歩いて行く哲也の背に嶺弥が声を掛ける。

「哲也くんも貰って食べるんだぞ」

「了解っす。午後のおやつに香織さんたちと食べるっす」

 振り返って手を振る哲也に手を振り返すと嶺弥は香織を見つめた。

「アレが哲也くんに目を付けないように気を付けておけよ」

 スッと真面目な顔に戻ると香織がこたえる。

「貴方に言われなくとも分かっているわよ」

 嶺弥がくるっと後ろを向いた。

「ならいい、じゃあ俺は帰って寝るとしよう」

「心配で来たんでしょ? ケーキまで買って」

 嶺弥の背に話す香織は意地悪顔だ。

「さぁな、偶にはみんなの御機嫌でも取っておかないとな」

「ケーキご馳走様」

 ニヤつく香織に背を向けたまま手を振ると嶺弥は門の方へと歩いて行った。

 先を歩く哲也には二人の会話は聞こえない。



 哲也が診察室のドアを開けた。

「遅くなってすみません」

「おお、やっと来たかい」

 診断書だろうか? 書類の束を見ていた池田先生が椅子を回して振り向いた。

「すいません、うっかり忘れてて……」

 恐縮する哲也を見て池田先生が優しく微笑んだ。

「そうかい、まぁそういう日もあるよねぇ」

「御免なさい……香織さんに怒られて慌てて来ました」

 様子を窺うように謝りながら中へと入ってくる哲也に池田先生が楽しげに話し掛ける。

「はははっ、香織くんに見つかったか、怒っていたから大変だったろう」

「そりゃもう、殴り掛かってくるんじゃないかって、鬼みたいな怖い顔してましたよ香織さん、捕まったらヤバいって走って逃げてここまで来ました」

 調子に乗って話す哲也の前で池田先生が声を出して笑い出す。

「あはははっ、鬼か、そりゃいいな、あははは……」

 大笑いしていた池田先生がすっと止めて椅子を回してくるっと背を向けた。

「ほんとに怖かったですよ、香織さん美人だから怒ると余計怖いんですよね、睨まれたらちびっちゃうくらいに怖い。あれさえなけりゃいいんですけどねぇ、付き合っている人いないって言ってたけどあれじゃあ逃げちゃうなって思うくらい怖い、この前だって……」

 ペラペラ話しているその両肩が後ろからガシッと掴まれた。

「ひっ!」

 肩をすぼめて低い悲鳴を上げる哲也の耳元で香織が囁く。

「ふぅ~~ん、そういう風に思ってたんだぁ」

 振り向けば唇が当たりそうな近さに香織の顔があった。

「ひぃぃ……」

 恋心を抱く香織の顔が直ぐ傍にある。普段なら宙を舞うくらいに嬉しいのだろうが今はこの場から消えたいくらいに怖かった。

「ちっ、違うんです……」

 恐怖に振り向くことさえ出来ない哲也の顔を香織が横から首を伸ばして覗き込んだ。

「何が違うの?」

「ちっ、違います。かっ、香織さんが……香織さんは怒っても美人だなぁって、彼氏が居なくてよかったって、ぼっ、僕と付き合ってください」

 哲也は震える声でこたえながらも途中から冗談でその場を乗り切ろうと思った。

「付き合いません! まったく哲也くんは」

 香織が哲也の頭をペシッと叩いた。

「痛てて……」

 哲也が頭を押さえる。冗談で叩く普段と違って本気で痛かった。

「ごめんなさい、もうしません」

 泣き出しそうな哲也の前に香織が立った。

「今日は許してあげるけど、本当に怒ると鬼より怖いわよ」

 香織はもう怒ってはいなかった。冗談を言って微笑む香織に何故か怖さを感じた。

「すっ、すみません、こっ、今度から気を付けるっす」

 哲也が頬を引き攣らせて謝った。

 二人の遣り取りを見ていた池田先生が声を出して笑い出す。

「あははははっ、本当に仲が良いねぇ、まるで姉弟みたいだよ」

 香織と哲也が同時に振り向いた。

「冗談言わないでください、こんな出来の悪い弟なんていりません」

「そうですよ、僕は姉弟より夫婦の方がいいっす。ねっ香織さん」

 笑顔で見つめる哲也の頭に拳骨が落ちてきた。

「何が『ねっ』ですか!」

「……」

 拳骨が本気で痛かったのか哲也は声も出さないで頭を押さえている。

「いってぇ……本気っす。香織さん本気で殴ったっす」

 目に涙を溜める哲也を香織が怖い顔で睨み付けた。

「当り前です。まったく哲也くんは」

「ちょっと冗談言っただけっすよ、香織さんが美人だから」

 頭を摩りながら哲也がおべっかを使う。

「はははっ、その調子なら大丈夫そうだね、じゃあ、いつもの薬を渡しておくよ」

 楽しげに笑いながら池田先生がチラッと香織を見る。

「はい先生」

 ペコッと頭を下げると香織は薬を取りに奥へと入った。


 楽しげな笑みのまま池田先生が哲也の顔を覗き込んだ。

「それで今日は何をしたの? 遅刻だけであんなに怒らないよね香織くん」

「人魚っすよ人魚、さっき会った桑畑さんが人魚を食べて不死の力を持ってるって言うから話を聞こうとしたら香織さんに見つかって怒られたっす」

 嬉しそうにペラペラと話す哲也の前で池田先生の顔が険しく変わっていく。

「それで僕も見たんっすよ、ぶつかって怪我した桑畑さんの傷が……」

 浮かれている哲也は池田先生の表情に気が付かない。

 看護師の香織や早川に話したり聞くことはあっても、医者である池田先生に話すことは先ず無い、幽霊を見たなど変なことを話せば病状が悪化したと取られるのが当り前だ。

「哲也くん! 余計なことを話さないで」

 薬の入った袋を持って奥から出てきた香織に注意されて哲也がハッと正気を取り戻す。

「人魚か……まいったねぇ」

 溜息をつく池田先生を見て哲也が言い訳をする前に香織が口を開いた。

「違うんです先生、哲也くんは、たまたま桑畑さんが話しているのを聞いて……」

 目配せする香織に哲也が慌てて頷いた。

「そっ、そうっす。たまたま話を聞いただけっすよ」

 池田先生は香織にチラッと視線を送ってから哲也に向き直る。

「それでどんな話しを聞いたんだね」

「それは……」

 言い辛そうに見つめる哲也に香織が頷いた。

「人魚の話っす。桑畑さんが人魚を食べたって言ってました」

 香織の了解を経て哲也が桑畑との話を池田先生に聞かせた。

「それで今日が診療日だって忘れてて香織さんに怒られたっす。御免なさい」

 そんな理由で遅れたのだと叱られる前に哲也が頭を下げる。

「哲也くんも哲也くんだが桑畑さんにも困ったものだねぇ」

 大きく溜息をついてから池田先生が続ける。

「人魚なんて本当にいると思っているのかい?」

「それは……」

 口籠もる哲也に池田先生が畳み掛ける。

「いるわけないよねぇ、本当は哲也くんも居ないって思っているでしょ? あんなものはお伽話だよ、もしくは見間違いだ。大昔にイルカやジュゴンやアザラシを初めて見た人が見間違えたんだ。遠目で見ると人のようにも見えるからね、それで人と魚が混じった人魚を想像したんだよ、面白がって色々な伝説のような話も作られたんだ。本物の人魚なんて居るわけがないんだよ、みんなそれと知ってても楽しいから話に乗っかってるだけだよ」

 哲也が口を尖らせる。

「でも桑畑さんの怪我が直ぐに治るのを見たんです」

 頭から人魚の話を信じたわけじゃない、しかし桑畑の右手の傷があっと言う間に消えるのを見たのは事実だ。それが人魚と繋がっているなら面白そうだと考えて我を忘れて池田先生にまで話してしまった。

「ああ、その事かい、それは人魚でも何でもないよ」

 池田先生が何だとでも言うような顔で続ける。

「桑畑さんは特殊なんだよ、治癒力が優れているんだ。人間も動物も怪我や病気の治りはそれぞれ違う、育った環境や日頃の運動、遺伝的なものなど様々な要因がある。年齢でも違いがある。若い時は治りやすくて歳を取ると治りにくくなる。ちょっとした怪我でも年寄りはずっと痕が残るだろ、それは歳を取ると新陳代謝や免疫力が鈍ってきて治るのに時間が掛かるようになるからなんだ。その中でも特殊なものがある。遺伝的なものか突発的なものか、詳しくはまだ分かっていないのだが稀に居るんだよ、人の何倍も早く治る人がね、自然治癒力や自己治癒力と言うんだがね」

「自然治癒力?」

 初めて聞く言葉に哲也が聞き返していた。

「自然治癒力は医学的にはまだよくわかっていなくて、医者も余り口には出さないんだけど、古くから知られていて古代ギリシャの医聖ヒポクラテスが唱えたんだよ。ラテン語で『vis medicatrix naturae』というんだ。その力が異常に優れた人がいる。何万人に一人くらいだろうけどね、それが桑畑さんだ。異様に傷が治るのが早いんだ。普通なら完治するまで一週間掛かるような擦り剥いた傷が翌日には跡形も無く治っている。そういう人が居るんだよ」

 優しい顔でこたえる池田先生の向かいで哲也は悩むような表情だ。

「桑畑さんがそれっていうんですか?」

 池田先生が頷いた。

「そうだよ、私も話を聞いた時は吃驚したよ」

「でも僕が見たのは三分くらいで治ってましたよ」

 先生の言うとおり自然治癒力が優れているとしても一瞬で治るなど信じられない。

 哲也の考えを察知したのか池田先生が続ける。

「上手い具合にスパッと切れたんじゃないかな、そうした傷は普通の人でも一日あれば治るだろ、桑畑さんなら直ぐに血が止まって傷口も見えなくなる事もあるだろう、もちろん完治しているのじゃなくて表面上だけ治ったように見えたんだよ、剃刀で髭を剃ってて切ることがあるよね、血は出ても直ぐに止まる。傷口も殆ど見えないけどヒリヒリ痛むよね、あれと同じだよ」

「そういうものなんですか」

「そういうものだよ、桑畑さんはノイローゼで入って来たんだ。誰かに人魚の肉だと言って得体の知れないものを食べさせられたんだよ、毒か変な薬でも入っていたのか、人魚だと思い込んで幻覚を見て暴れてね、それで暫く様子を見る事になったんだよ」

 池田先生が桑畑の病状を説明してくれた。


 桑畑(くわばた)瑛貴(てるき)二十七歳、三年前に急な病で亡くなった父から受け継いだ不動産業で才覚を発揮して今では何億も稼ぐ実業家だ。自他とも認める優秀な人物だが一つだけ悪いところがあった。悪食だ。セレブに多い美食では無い、ゲテモノを好む悪食である。

 桑畑曰く『旨いものは食い飽きて変わった物を食べるようになった』という事だが事実は違う、父の事業を受け継ぐ前からカエルや虫などを出すゲテモノ屋へ通っていたのだ。どこかで話を聞いた者がいて好事家である桑畑に人魚だと言って何かの肉を食べさせた。それに薬物か何かが入っていたらしく幻覚を見て暴れているところを取り押さえられた。そして部下たちの勧めもあり、自身も精神的に参っていると思ったのか磯山病院へと入院したのだ。


 話を聞いた哲也が考え込む。

「変なものを食べてそれを人魚だって思い込んでいるんですね……でも怪我が治ったのは見たしなぁ」

 池田先生が哲也をじっと見つめた。

「血は出たが大した傷じゃなくて治ったように見えただけだよ、それよりノイローゼが酷くなると困るから桑畑さんに人魚のことを聞いたりしたらダメだからね」

「そういうものなんですか……」

 コンクリで擦った桑畑の擦り傷はとてもそんなものじゃないと思いながらも池田先生と言い合いしても仕方ないので哲也は不服顔で頷いた。

 奥から薬を持ってきた香織が割って入る。

「先生、話しは終わりにしてください、次の患者が待っていますから」

「おお、そうだったね、人魚なんて言うから私も楽しくてついつい話し込んでいたよ」

 池田先生が笑いながら椅子に座り直す。

「哲也くんもいい加減にしないと本気で怒るからね」

 睨みながら香織が薬の入った袋を哲也に渡す。

「えへへっ、冗談っすよ、冗談」

 へつらいながら受け取る哲也に池田先生が饅頭を三つ差し出した。

「まぁ人魚なんて言われたら誰でも浮かれるよねぇ、でも次からは遅れないようにね」

 嬉しそうに饅頭を受け取ると哲也は満面の笑みで敬礼した。

「了解っす。香織さんが怖いですから気を付けます」

「哲也くん!」

 キッと睨む香織から逃げるように哲也は診察室を出て行った。

「まったくもうっ……」

 プンプン怒る香織の前で池田先生の顔から笑みが消えた。

「気を付けてくれよ、変なものが入ると困る」

 池田先生は普段の穏やかな口調とは違う命令するような口調だ。

「申し訳ありません」

 香織の顔からサッと表情が無くなる。

「わかればいい、ヤツに魅入られないように気を付けてくれ、彼は貴重なサンプルなんだからな」

「はい、心得ております」

 慇懃に頭を下げる香織を見て池田先生がニッコリと笑った。

「そうかい、ならいい」

 ガララと音を立てて診療室のドアが開いた。

「おはようございます」

 次の患者が入って来た。

「はい、おはよう加藤さん」

 笑顔で返す池田先生の脇を通って香織が薬を取りに奥へと入っていった。

「サンプルか……」

 予め用意してある薬の入った袋を取りながら香織が何とも言えない複雑な表情で呟いた。



 自分の部屋に戻った哲也がベッドに寝転がる。

「自然治癒力が異常に優れているのか……足の骨折も三ヶ月かかるのを一ヶ月で治したって桑畑さんも言ってたからな」

 桑畑が話していた事を反芻するように思い出す。

「人魚はまぁ、僕も信じてないけど……話は聞きたいなぁ」

 傷が消えたのは確かに見た。どうにかして話を聞こうと思案しながら眠りに落ちていった。


「ここは……」

 気が付くと哲也は海にいた。

 辺りを見回す。砂浜ではなく丸い小石が敷き詰められた砂利浜だ。

「あれは?」

 波寄せる先に大きな岩があり、その上に何かが見えた。

「人魚かな」

 人のような上半身に魚のような尾が見えた。


〝キィキィキィ〟


 岩の上に居た生き物が振り返る。

 短い毛の生えた猿のように見えたが平たい嘴が付いている。その目が異様だ。猿のように愛らしい目ではなくまるで人間のようなギョロッとした目が付いていた。

 不気味な姿に哲也は悲鳴を上げた。

「うわぁあぁぁーーっ」

 叫びながら目を覚ます。夢だったのだ。

「よかったぁ……気持ち悪い夢だ」

 安堵するとベッド脇のテーブルの上に置いてある目覚まし時計を見る。

「もう昼か、お腹減ってないけどな」

 三十分も寝ていないと思ったが時刻は十二時前だ。

「んじゃ御飯食べに行くか」

 腹筋運動するように上半身を起すと哲也はベッドから降りて部屋を出て行った。



 いつものようにトレーを持って食堂の列に並ぶ。

「あっ、桑畑さんだ」

 料理の乗ったトレーを持って席へと歩いて行く桑畑を見つけた。目で追うと長机が並んでいる真ん中の後ろ、決まった席の無い患者が主に使っている場所へ向かっている。

「おっ、あそこなら近くに座れそうだ」

 安堵して向き直ると配膳カウンターから給仕のおばちゃんが哲也のトレーに食事の入った皿を並べていくところだ。

 本日の昼食はアジフライとコロッケに人参とブロッコリーの温野菜だ。

「ブロッコリー少なめでお願いしまっす」

 見知ったおばちゃんがニッと笑いながら哲也の皿にブロッコリーをドンッと載せた。

「好き嫌いはダメだよ、野菜はたっぷり取らなくちゃ」

「うぇぇ、勘弁してくださいっす」

 他の患者より一本多いブロッコリーを見て嫌そうに顔を歪める哲也に周りの患者が大笑いだ。

 肉や魚などは多ければ他の患者から文句が出るので少なめでと自己申告しない限り均等になるように配膳するが野菜は別だ。アレルギーでも無い限り、嫌いなものを少なめとか言うと逆に多く盛られるのだ。当然、哲也も知っていたが桑畑に気を取られてうっかり忘れていた。

「失敗したなぁ~~」

 愚痴りながら哲也が席へと向かう。

「向かい、いいっすか?」

 桑畑の向かいに食事が載ったトレーを置いた。

「おぅ、哲也くん」

 口の中に入っていたものを飲み込むと桑畑が軽く手を上げて挨拶してくれた。

 向かいに座る哲也に桑畑が楽しげに話し掛ける。

「叱られなかったか? あの美人の看護師さんに」

「そりゃもう、こっぴどく叱られたっすよ、患者さんに変な事聞き回ったらダメって」

 顔を顰めて大袈裟に話す哲也の前で桑畑が声を出して笑い出す。

「あははははっ、だろうな、俺にも人魚のことは話しちゃダメって言ってたぞ」

「そうっすね、香織さんならそう言うっす」

 言いながら哲也はブロッコリーを避けるようにして人参を口の中へと放り込んだ。

「哲也くんはブロッコリー嫌いなんだな」

 カウンターでの遣り取りを見ていたのか笑いながら言う桑畑のトレーにはアジフライと人参しか残っていない。

「嫌いっす。緑色した葉っぱのくせにグニョッとした食感がダメっす」

 顰めっ面でこたえる哲也に桑畑が自分の人参を箸先で指した。

「じゃあ、俺の人参と交換しようぜ、序でにアジフライをコロッケと交換してくれると嬉しいんだけどな」

「人参とアジフライ嫌いなんすか?」

 意外だというように聞き返す哲也の向かいで今度は桑畑が顰めっ面だ。

「人参は大っ嫌いだ。肉は好きなんだが魚は嫌いだ。アジフライは食べないこともないんだが、できたら食べたくないほどに好きじゃない、コロッケとブロッコリーは大好きなんだ」

「そうっすね、ブロッコリー処分してくれるならコロッケも交換してもいいっすよ」

 哲也はコロッケもアジフライも両方とも好きだ。一つずつ食べたかったのだが嫌いなブロッコリーを引き取ってくれるならと喜んで交換に応じた。

「助かったよ、人参残して叱られるなんてみっともないからな」

「そうっすね、無理に食べなくてもいいけど、また残したのっておばちゃんに大声で言われると恥ずかしいっすからね」

 桑畑が同意するように頷いた。

「それな、みんなの前で恥ずかしいよな、魚はどうにか我慢して食えるんだが人参だけはダメだ。絶対に食えないからな」

「僕も助かります。ブロッコリー三つも食べたくないですから」

 哲也は笑いながら人参とブロッコリー、アジフライとコロッケを交換した。


 互いに嫌いなものが無くなり上機嫌で食べ始める。桑畑は殆ど食べ終わっていて残りは交換したブロッコリーとコロッケだけだ。

「そうだ。変な夢見たっすよ」

 哲也が先程見た夢の話しを始めた。

「猿みたいな気持ちの悪い人魚みたいのがキキキって笑ったっす。桑畑さんが人魚なんて言うから変な夢見たんすよ」

 冗談でも言うように話す哲也の向かいで桑畑がブロッコリーを摘まんだ箸を手にしたまま固まった。

「どうしたんすか?」

 桑畑の様子に気付いて哲也が訊いた。

「いや、何でもない……」

 一旦否定してから桑畑が続ける。

「本当に見たのか? 先生や看護師さんから聞いて俺をからかってるなら怒るぞ」

 睨む桑畑に哲也が少し臆しながらこたえる。

「からかったりしないっす。第一先生が他の患者のことなんか教えてくれないっすよ」

「そうか……それならいい」

 自問自答するように頷いたあとで桑畑が否定するように首を振った。

「いや、哲也くんが見たのが俺が見てるのと同じだとすると何かあるかもな」

「同じって桑畑さんも変な夢を見るんすか?」

「ああ、人魚の夢だ。猿のような人魚の夢だ」

 驚く哲也の向かいで桑畑がブロッコリーを口の中へと放り込んだ。

「それってどういう事っすか?」

 不安気に訊く哲也の向かいで桑畑がブロッコリーをお茶で流し込むようにしてから口を開く。

「俺にも分からん、人魚を食べた俺が夢を見るのはわかる。哲也くんが何で見るのかは分からない、それこそ俺が知りたいよ」

「猿みたいな人魚なんて偶然にしちゃ気持ち悪いっすよね」

 長机越しに哲也が身を乗り出す。

「人魚の話を教えてください。桑畑さんが何か困っているなら手を貸すっすよ」

「そうだな、看護師さんは話すなって言ったけど全部教えてやる。あの夢を見たのなら信じてくれるだろうからな」

 桑畑が辺りを見回す。患者はともかく見張っている看護師たちが気になる様子だ。

「ここじゃなんだし、俺の部屋で話そう」

「了解っす」

 食事どころではない、哲也は掻っ込むようにして昼食を終えた。


 桑畑に続いて哲也がD病棟へと入っていく。

「Dの211号室か」

 病室へと入る前に哲也がドア横に掛かっている部屋番号を確かめた。

「どこでも座ってくれ」

 どこでもと言いながら桑畑が折り畳み椅子をテーブルの脇に広げてくれた。

「何から話すかな……」

 向かいに座ると桑畑が思い出すようにして話を始めた。



 これは桑畑瑛貴さんから聞いた話だ。


 桑畑の父親は実力主義者で実の息子にも贅沢はさせなかった。金も学費や家賃など必要最低限しか出さずに桑畑は高校生のときからアルバイトをして自分の小遣いを稼いでいた。一人暮らしをしていた大学生の頃、遊びすぎて金が無くなり食うに困っていたときにテレビで海や川で魚や貝にカエルなどを捕まえて食べている番組を見た。調味料以外なにも無かった桑畑は自分も魚を捕って食べてみようと考えた。父譲りの行動力というか、桑畑は思い立った日に綺麗とは言えない近くの川に魚を採りに行った。こんな川で採る人もいないのか、警戒心が無いのか、思ったより簡単に魚は採れた。

 十センチ以下の小さいのは逃がして大きいのを八匹持って帰って焼いて食べてみた。

 美味かった。三日ほど殆ど食事らしきものをしていなかったこともあって川魚特有の臭みも気にならなかった。

 初めは恐る恐る突くように箸で身を取っていたのだが、あまりの旨さに気が付くと頭と尻尾を掴んで齧り付くようにして魚を食べていた。持って帰った八匹の魚をあっと言う間に食べ終えると桑畑は直ぐに、また川へ行って魚を採った。今度は魚以外に海老も採れた。小さな海老だが持って帰って油で揚げて食べると魚以上に美味かった。

 翌日、魚や海老を採りに行くと大きなカエルがいた。テレビで見たウシガエルだ。桑畑は苦労しながらもウシガエルを捕まえた。持って帰ってテレビで見たように内臓を取って皮を剥いで油で揚げてみた。番組内でタレントが言っていたように鶏に似ていたが旨味が凝縮されたように感じて今まで食べた鶏肉などより美味しいと思った。

 そんなことがあってから人が食べないものほど、美味しいものがあるのではないかと考えるようになりゲテモノ屋へ通うようになったのだ。


 父の事業を受け継いで実業家となった桑畑は旨いと言われる高級料理を食べて回った。確かに美味しい、だが何かが物足りない、人が食べない、食べてはいけない、ゲテモノ料理より魅力は感じなかった。

 事業も順調に行き、余裕の出来た桑畑は毎年のように海外へ行くと金にものを言わせてゲテモノを食いまくった。トカゲにカエルに虫などはもちろん、ゾウやトラなどその地でも禁制な生き物も食べた。全てが美味しいわけではなかったが珍しいものを食べたことに桑畑は満足していた。


 半年前のことだ。一人の老人が桑畑を訪ねてきた。

 一等地に建つ自社ビルだ。アポ無しでやってきた老人など実業家となった桑畑に会えるわけはない、受付で断られていたところへ外出していた桑畑が帰ってきて通り掛かる。


「桑畑さん!」


 駆け寄ろうとした老人を桑畑の傍に居た部下たちが慌てて取り押さえる。

「何だこいつ?」

「警察を呼べっ」

 桑畑はおかしなヤツでも入って来たかと軽蔑した眼差しで取り押さえられている老人の脇を通り抜けしようとした。


「オオサンショウウオを食べてみませんか?」


 老人の一言で桑畑が振り返る。

「オオサンショウウオ?」

 聞き返す桑畑を見て老人は嬉しそうに頷いた。

「ちょっ、社長」

「いけませんよ社長」

 桑畑の悪食を知っている社員たちが慌てて止める。

「煩い! その人を放してやれ」

 桑畑に一喝されても社員たちは取り押さえた老人を離さない。

「ダメですよ社長」

「役員会議もあるんですよ」

 取引先との商談が上手く行き、今日はこれから会議があるのだ。

 桑畑が笑みを浮かべて大丈夫だというように手を振った。

「会議? あぁ、大した議題じゃない、お前たちだけで充分だろ」

「しかし社長……」

「お前たちに任す。それくらいお前たちだけでやってみろ」

 笑みから一転して桑畑が社員たちを睨み付けた。

「いいからその人を放せ」

「……わかりました。では後で報告します」

 これ以上逆らっても利がないと思ったのか社員たちが老人を放した。

 桑畑は老人の前に立つと会釈するようにペコッと頭を下げた。

「部下が失礼した。謝るので勘弁して欲しい」

「いえいえ、とんでもない出来た社員さんたちですよ」

 笑顔で返す老人を見て桑畑もニヤッと口元に笑みを浮かべる。

「オオサンショウウオって本当ですか?」

「えぇ、本当、本物ですよ、食べてみませんか?」

 桑畑が大きく頷きながらこたえる。

「食べます。食べます。普通のサンショウウオやウーパールーパーは食べたことがあるがオオサンショウウオは初めてです」

 色々なゲテモノを食べてきた桑畑もオオサンショウウオは食べたことがなかった。当然だ。オオサンショウウオは天然記念物だ。食べるどころか捕まえるだけで罪になる。海外なら金で揉み消すことが出来るが日本ではそういうわけにはいかない、揉み消せたとして何処かで漏れたら大変なことになる。料理として出してくれる店などないのだ。

「中国のですか?」

 ふと思い付いて桑畑が訊いた。日本産のオオサンショウウオはダメだが中国産のオオサンショウウオなら食べても罪に問われることはないので何処かで出している店があるかもしれない。

「中国産のは不味いですよ、水が違うのか味が薄くてダメだ」

 違うと首を振る老人の向かいで桑畑の顔に期待が広がっていく。

「じゃっ、じゃあ……」

「もちろん国産ですよ」

 にんまりと笑みを浮かべる老人の前で桑畑も同じように笑っていた。

「国産……いつ食べられる?」

「桑畑さんのお好きな時間に」

「今日でもか? 今からでも食えるのか?」

 身を乗り出すように訊く桑畑に笑顔の老人がこたえる。

「はい、今朝捕まえたので今からでもいいですよ」

「じゃあ今だ。直ぐに食べたい、金なら幾らでも払うぞ」

 ゲテモノが美味しいのはもちろんだが、食べてはいけない物を食べる一線を越えるという快感が余計に美味しく感じることに桑畑は気が付いていた。

「社長まずいですよ」

「止めてください社長」

 話しを聞いていた社員たちが必死で止める。

「煩い、お前たちは仕事に戻れ、俺は今から休みだ」

 止める社員に目もくれず桑畑は老人を伴って自社ビルを出て行った。



 駅や幹線道路から離れ田畑が目立つ町外れの一軒家、築何十年と経っていて今にも崩れそうな感じのボロ屋の前に高級外車が止まる。

「こんな汚い家ですみません」

 恐縮する老人に桑畑は笑顔でこたえる。

「いえいえ、オオサンショウウオが食べられるのならどこでも構いませんよ」

「そうですか……では中へどうぞ」

 老人に招かれて桑畑は家の中へと入っていく、外見と同じように家の中も古びていた。

 短い廊下の先に台所がある。タイル作りの流し、横にはライターやマッチを使わないと火が点けられない古いコンロ、前の壁は油で真っ黒だ。キッチンなどと呼ぶのが恥ずかしいくらい古風な台所である。

「昭和って感じですね」

 桑畑が呟くように言うと老人は恥ずかしそうに笑った。

「あはははっ、お恥ずかしい、爺の一人暮らしでは手入れはこれで精一杯でして」

「リフォームするなら言ってください、知り合いに安くさせますから」

 遣り手の実業家である桑畑だ。自然と口から商売が出る。

「あはははっ、老い先短いですからこのままでいいですわ」

 楽しそうに笑いながら老人が流しの下を指差した。

 流しの横、勝手口の前に置いてある一抱えもあるたらいの中にオオサンショウウオがいた。

「おお、七十センチはあるな」

「七十六センチあります。昔は一メートルを超えるのも採れたんですけどねぇ」

 話ながら老人が柳刃包丁を取り出した。

「貴方が料理するんですか?」

 思わず訊いていた。目の前の老人は料理人には見えない。

「任せてください、捌くのは慣れていますから」

 老人の持つ包丁は手入れがされていて如何にも切れそうだ。

「そうですか……では任せます」

 天然記念物を調理してくれる料理人など居ないだろう、一抹の不安もあるが任せるしかない。

「心配しなさんな、飛びっ切りを御馳走しますから」

 そう言うと老人はたらいからオオサンショウウオを引っ掴んで、流しに渡したまな板の上に乗せた。暴れるオオサンショウウオに老人が包丁を突き立てる。

「まず、しめて血を抜く。牛や豚など動物はしめてから幾日か熟成させた方が美味しくなるのだがオオサンショウウオは傷みが早くて直ぐに調理した方が美味しいですな」

「そういうものなんですか、魚とかに近いんですかねぇ」

「そうかも知れんな、水の中に棲むものはだいたいが傷みが早いからのぅ」

 説明しながら手早く捌いていく老人を見て桑畑は旨い物が食べられそうだと安心した。


 桑畑も手伝って小一時間もして料理が完成する。焼き物、煮物、揚げ物と大きなオオサンショウウオから沢山の料理が出来た。

「どうぞ召し上がってください」

「ではいただきます」

 台所の隣、八畳の応接間で老人と向かい合わせにオオサンショウウオを食べる。

「酒もありますよ、安物ですが自家製で美味いですよ」

 老人が大きな瓶を持ってきた。梅酒や金柑酒など老人が漬けた果実酒だ。

「それはありがたい、今運転手に買いに行かせようと思っていたんですよ」

 桑畑が顔を綻ばす。家の前に待たせている高級外車のお抱え運転手に酒を買いにいかせようと考えていたところだ。

「桑畑さんの口に合うかわかりませんが、まぁ一杯」

 老人が注いでくれた果実酒を一口飲んだ。

「美味い! 口の中に味が広がり香りが鼻を抜けていく」

「あははっ、それは良かった」

 楽しげに笑う老人の向かいで桑畑がオオサンショウウオ料理に箸を伸ばす。

「酒も良いがオオサンショウウオも最高だ」

 初めに見た時は大きさから大味だろうと思っていた。ぶよぶよしていて身も柔らかいだろうと考えていた予想は全て外れた。筋肉質なのかしっかりとした歯応えがある身をとろっとしたゼラチン質が覆っていて旨味が凝縮されたようで凄く美味しい。

「旨い旨い、これは美味しい」

 箸が止まらないとはこの事だ。桑畑はパクパクと料理を食べていく、老人の調理の腕がいいのか今まで食べた何物よりも美味しく感じた。

「良かった。良かった。捕まえて来た甲斐がある」

 向かいに座る老人も満面の笑顔だ。

 一時間も経たずに料理は綺麗に無くなった。殆どを桑畑一人で食べていた。

「あぁ美味しかったぁ~~、ご馳走様」

 満足気に言いながら桑畑が財布を取り出す。

「こんなに美味しいのは久し振りだ」

 財布から十万円を出して老人に差し出した。

「確かに代金は頂きますが、こんなに頂けませんよ」

 多過ぎると手を振る老人に桑畑が無理矢理札束を握らせる。

「貰ってください、こんなに珍しいものを食べれたんです安いものです」

 もちろん下心あってのことだ。ここで良くしておけばまたオオサンショウウオなど変わったものを持ってきてくれると考えたのだ。

「……そうですか、ではありがたく頂いておきます」

 札束を両手で挟み拝むようにして老人は金を受け取った。

「これも渡しておくよ、何かあったら電話してくれ」

 桑畑は名刺を一枚取り出してプライベートな電話番号を書込むと老人に手渡した。

「何かですか……」

 名刺を受け取った老人は少し考えてから桑畑の目を見つめた。

「もっと凄いものがあるんですがねぇ」

 二人以外に誰も居ない部屋で声を潜めて話す老人に桑畑が身を乗り出す。

「凄いものって?」

 桑畑の態度に老人がニヤッと企むような笑みを浮かべる。

「人魚って知っていますか?」

「人魚?」

 顔を顰めて桑畑が続ける。

「冗談はよしてください、人魚なんているわけ……」

 ハッとして途中で話を止める。

「もしかしてジュゴンですか?」

 老人がとぼけ顔で桑畑を見つめる。

「沖縄にも昔は沢山居たんですがねぇ、今は滅多に見ません」

「ジュゴン……」

 桑畑の顔に驚きが広がっていく。

「ダメですよ、そんな事を言ったら、人魚ですよ人魚」

 人魚のモデルだとも言われるジュゴンは世界的に減少していて貴重な生き物だ。それを食べるために捕まえたなどと知れたら何をされるかわからないので老人は敢えてジュゴンと呼ばずに人魚と呼んでいるのだと察した。

「人魚ですね……人魚、もちろん食べたいですよ」

「お望みなら食べれますよ人魚」

 上目遣いで見つめる老人の前で桑畑が大きく頷く。

「本当ですか? 是非食べさせてください、金なら百万払ってもいい」

 含み笑いをしながら老人が続ける。

「わかりました。六日ほど待ってくれれば御馳走しますよ」

 企むような老人の笑みに有頂天になった桑畑は気が付かない。

「でも良く手に入りましたね、ジュゴン……じゃなかった人魚なんて」

「わざと捕まえたのではありません、事故です」

「事故?」

 事故と聞いて不安気な表情になった桑畑に老人が心配無いというように話を始めた。

「沖縄に居る知り合いの漁師が舟をぶつけてスクリューに巻き込まれたのか死んでしまったんですよ、そのまま放って置いて死体が見つかっても騒ぎになるし、かといって正直に話しても自然保護団体やらが抗議するのは目に見えている。それで仕方なしに船の上でバラして切り身にしてトロ箱に入れて冷凍していたものです。半年ほど前のものですが業務用の冷凍庫なので鮮度は落ちていませんよ」

 トロ箱とは魚介類の運送などに使う発泡スチロールで出来た箱のことだ。

「そういう事ですか」

 納得した様子で頷く桑畑の向かいで老人が続ける。

「普通の冷蔵庫じゃ冷凍焼けして傷むから今も沖縄で業務用の冷蔵庫に入れてあります。それを送って貰うので六日ほど時間を頂きますが、それでよければ御馳走しますよ」

「もちろん、お願いします」

「わかりました。直ぐに手配しますよ」

 声を大きくして頼む桑畑を見て老人が満面の笑みでこたえた。

「用意が出来たら、お電話しますよ」

「時間は空けておくので宜しく頼みます」

 渡した名刺を見ながら言う老人に桑畑は何度も礼を言って帰っていった。



 六日後、桑畑の元へ老人から電話があった。

「先程荷物が着きました。冷蔵庫に入れてありますが鮮度がありますので明後日頃までに来てくれれば御馳走出来ますよ」

「すぐに……」

 直ぐに行くと言いかけて桑畑が言い直す。

「今日の夜、八時までには行きます。場所はこの前伺った家でいいんですよね?」

 直ぐにでも行きたいが昼から取引先へ行く事になっているのだ。

「そうですか、では準備して待っております。場所は前と同じボロ屋ですよ」

 老人の言葉に桑畑の顔に喜びが広がっていく。

「宜しく頼みます。今日は私が旨い酒を持っていきますよ」

 ジュゴンと同じ仲間である海獣のセイウチは食べたことがある。その時にワインが合うと感じたのでとびきり上等なワインを持っていこうと思った。


 夜の七時を回った頃、町外れのボロ屋の前に黒塗りの高級外車が止まった。

「あれ? おかしいな、早すぎたか?」

 夜の八時頃に行くと伝えてあったがボロ屋には明かりは見えない。

 老人が用意して待っていると言っていた事もあるが、少しでも早く食べたいと気が焦り一時間早く来たのだ。

「出掛けているのかな……あっ!」

 車の中で様子を窺っているとパッと明かりが灯った。

「なんだ居るじゃないか、寝てたのかな」

 高級外車からワインの入ったクーラーボックスを下げて桑畑が降りていく、

「二時間ほどここで待っていてくれ」

 運転手に言うと桑畑はボロ屋の門をくぐった。

「待っていましたよ、さぁさぁ中へどうぞ」

 インターホンを鳴らす前に老人が玄関の戸を開けた。

「すみません、待ちきれなくて一時間早く来ちゃいました」

 ペコッと頭を下げる桑畑を老人が手招く。

「構いませんよ、爺の一人暮らし、何の遠慮がいりますか」

「ではお邪魔します」

 老人に続いて桑畑は短い廊下の先にある台所へと入っていった。


 見るからに古い昭和の時代からあるであろう薄緑色をした冷蔵庫から老人が発泡スチロールの箱を取り出した。

「これがジュゴンの肉か……」

 桑畑が覗き込むと五十センチほどの発泡スチロール箱の中に赤身の肉と脂身らしい白い肉が入っていた。

「これが人魚の肉ですよ」

 じろっと睨む老人の向かいで桑畑が苦笑いを浮かべた。

「あっあぁ、そうでした。人魚でしたね」

「そうです。正真正銘の人魚の肉ですよ」

 老人が企むようにニヤッと笑った。

「あははっ、人魚ですか、本物の人魚を食べれるなんて今日は何て良い日なんだ」

 冗談を言う老人の向かいで桑畑は声に出して笑った。

「ほんに良き日です。人魚を食べられるなんて美食家である桑畑さんだけですよ」

 何処かで悪食なのを聞いたのだろう、笑う桑畑を老人がにんまりと見つめる。

「それでどうやって食べるんです?」

 訊きながら桑畑は赤身の肉を指で突っついた。

「前にセイウチとオットセイは食べたことがあります。同じような肉なんですね」

 柔らかそうに見えるがジュゴンやアザラシなどの海獣は筋肉質だ。全身の筋肉を使う海中で生活しているのだ筋肉質になって当然だ。筋肉質の身を脂肪やコラーゲンたっぷりの皮で包み込んでいるので見掛けは柔らかそうに見えるだけである。

「昼に着いた時はカチカチに凍っていたのですが冷蔵庫に入れてゆっくりと解凍して食べ頃になっていますので半分は焼き肉にしましょう、残りは刺身と揚げ物で頂きます」

「焼き肉は旨そうですね」

 一言こたえた後に桑畑は顔を顰めた。

「でも刺身かぁ……大丈夫なんですか? 前に中たったことがありまして」

 色々なゲテモノを食べてきた桑畑だ。寄生虫にあたったことも何度かあり流石に生で食べることには警戒していた。

「ははははっ、寄生虫の心配はいりませんよ、業務用の冷凍庫で半年間カチコチに凍っていたので寄生虫がいたとしても死んでいますから無害ですよ」

 大丈夫と言うように笑いながら老人が続ける。

「極寒地に住むイヌイットはアザラシを生で食べます。火に通すと損なわれるビタミンを効率よく取るためです。それだけじゃない、生肉が美味しいのを知っているのです。血の滴るようなレアステーキ、近頃は禁止されて食べられなくなったレバ刺しなど生で食べる方が本来の味を楽しめるのです」

 寄生虫の心配は無いとわかり桑畑が安心したように頷いた。

「うん、それは分かります。私もレバ刺しは好物ですから、人魚の刺身も楽しみです」

「そうですよ、何も心配いりません、全て爺に任せてください」

 にんまりと笑いながら老人が肉の塊をまな板の上に置いた。

「すみませんが向こうの部屋に焼き肉の用意をしているので火を起して待っていてください」

 柳刃包丁を取り出しながら老人が頼んだ。

「火ですか?」

 桑畑が台所隣の応接間らしき八畳間を覗いた。

「おお、炭ですか、いいですねぇ」

 七輪が用意してあった。炭火で焼き肉ということだ。

「電気やガスは楽でいいのですが、じっくりと焼く炭火には敵いませんよ、せっかく手に入れた貴重な肉なのですから美味しく頂かないと罰が当たりますよ」

「流石分かってらっしゃる。これは期待出来そうだ。火は任せてください」

 桑畑が張り切って応接間へと入っていく、父の会社を継ぐまで一人暮らしをしていて簡単な料理は出来る腕前だ。炭火を起すくらいわけがない。

「頼みましたよ、爺は揚げ物の用意をしますので」

 人魚の脂身を入れた小さな鍋をコンロに掛ける。脂身の油を使って揚げ物を作るのだ。植物性の油より数段美味しくなる。市販の油を使って家で揚げるコロッケよりラードを使うお肉屋さんのコロッケのほうが美味しいのと同じだ。

「楽しみだなぁ~~」

 嬉しそうに呟く桑畑の声を聴きながら老人が柳刃包丁で肉を捌いていく、肉の塊、中心部を刺身として生で食べ、残りは焼き肉と串揚げだ。


 十分ほどして料理が並んだ。

「お待たせしました。油の準備は出来たので串揚げは何時でも出来ます。先ずは刺身と焼き肉を召し上がってください」

 七輪に置いた網の上に老人が肉を並べていく。

「おぉ、旨そうだ!」

 ジュウジュウと音を立てる焼き肉を嬉しげに見ながら桑畑が手を合わせる。

「では頂きます」

 箸を掴むと刺身に手を伸ばした。

「まずは何も付けずに」

 醤油やポン酢、生姜にネギなど薬味も用意してあるが何も付けずに一枚口の中へと放り込んだ。

「旨い! 堅いかと思ったけど溶けていく」

 感嘆の声を上げた。老人の腕が良いのか、筋肉の筋に沿って肉は口の中で溶けるようにばらけていった。

「焼けましたよ、焼きすぎると堅くなりますから表面をサッと焼くだけで美味しいですよ」

 老人が焼き肉を皿に取って渡してくれた。

「これも何も付けずに食べてみよう」

 桑畑が焼き肉を口の中へ放り込む。

「旨! 旨い、旨いとしか言いようがない」

 一段と大きな声だ。

「刺身も美味しかったが焼くとまた別の旨味が出てくるんだな」

 満面の笑みの桑畑を見て老人も嬉しそうに顔を綻ばせた。

「それは良かった。たんと召し上がってください」

 言われなくとも桑畑は刺身や焼き肉を次から次へと口の中へ放り込んでいる。

「串揚げも持ってきましょう、油は用意してあるので直ぐに揚げ立てを食べれますよ」

 爺さんが台所へと行く、直ぐにジュワジュワと揚げる音が聞こえてきた。

「旨い、旨い箸が止まらん」

 桑畑は休む間もなく食べ続けた。

「熱いですから気をつけてくださいね」

 爺さんが皿に盛った串焼きを桑畑の前に置いた。二十センチほどの皿に串焼きが五つ載せてある。どう見ても一人前だ。

「爺さんは食べないのか?」

 ふと我に返ったように桑畑が訊いた。

「はははっ、私は前に食べたので今日は桑畑さんに御馳走ですわ、串揚げもまだあるので食べ終わったら直ぐに揚げますよ、揚げ立てが一番美味しいですからね」

 楽しそうに笑う老人に何か礼をしたいと思った。

「そうだ! 酒、ワインを持ってきてたんだ」

 桑畑が買えば数万するワインをクーラーボックスから取り出す。

「爺さんもどうぞ」

 持ってきていた二つのワイングラスに注ぐと一つを老人に差し出した。

「そうですか、ではお相伴にあずかります」

 人魚の肉は食べないが酒は好きらしく、受け取ったワインを美味しそうに飲み始めた。

「ほぅ、これは美味しい、流石桑畑さんだ。良いものを飲んでらっしゃる」

「あははっ、とんでもない、これ程いいのは私でも毎日飲んだりしませんよ、今日みたいな特別な日は別ですけどね」

 今は裕福な生活をしているが学生時代に苦労したこともある桑畑は厭味が無い、爽やかな物言いだ。

「四本持ってきているのでどんどん飲んでください、私はどんどん食べますから」

「それはありがたい、酒は死ぬまで止められませんからねぇ」

 お互いに今まで食べてきた珍しいものを言い合ったりして楽しげな宴会は続いた。


 一時間半ほどして人魚の肉はすっかり無くなった。五キロ以上あった肉を桑畑一人で平らげたのだ。肉だけをこれ程食べたのは桑畑も初めてだ。流石に飽きるかと思ったがどういう訳か不思議と美味しさは変わらず肉はスルスルと入っていった。

「ふぅーっ、食べた食べた」

 七輪の炭を突きながら桑畑が満足そうに呟いた。

「見事な食べっぷり、見ている私も嬉しくなりましたよ」

 向かいで老人も愉しげに顔を綻ばせた。

「ご馳走様でした。予想以上に美味しかったですよ」

 桑畑が手を合わせて礼を言うと老人も笑顔で返す。

「お粗末様です。楽しんで頂けたみたいで何よりです」

「ええ、これほど満足したのは久し振りですよ、本当に美味しかった」

 桑畑は封筒を二つ差し出した。一つに五十万円入っている。世界的にも数の減っているジュゴンの肉だ。不味くても五十万は礼として渡すつもりだった。美味しければ前に言ったとおり百万払おうとして持ってきたのだ。それが予想を超える美味しさだった。老人に良くしていれば更に珍しいものが食べられるかも知れない、実業家として成功した桑畑にとって百万円など安いものである。

「受け取ってください、珍しい物を食べさせてくれた礼です」

「礼なんて……そんなに受け取れませんよ」

 とんでもないと言うように老人は顔の前で手を振った。分厚い封筒を見ればどのくらい入っているかはだいたい分かる。幾ら珍しい物と言っても庶民の感覚からすれば破格の金額だ。

「遠慮しないで受け取ってください。色々な国に行って様々な物を食べましたがジュゴン……人魚でしたね、人魚の肉が一番美味しかった。貴方に出会わなければ食べられなかったのです。お爺さんが訪ねてきてくれなければ食べられなかった。そう思うと安いものです」

 桑畑は老人の手を取ると分厚い封筒二つを握らせた。

「それ程までに仰るのなら、ありがたく頂いておきます」

 握った封筒を頭の上で翳すようにして老人は頭を下げた。

「また何か珍しいものがあれば頼みますね」

 桑畑が頼むと老人は顔を上げてニッと笑った。

「はい、一番に桑畑さんに連絡しますよ」

「では、そろそろおいとまします」

 桑畑が腰を上げる。ジュゴンの肉を食べるという目的は果たした。ハッキリ言って小汚い老人の家にはもう用は無い。

「何のお構いも出来ませんで……」

 老人が玄関から出て行く桑畑を見送る。

「珍しいものが手に入ったら何時でも連絡してください」

 念を押すように言うと桑畑は待たせてあった高級外車に歩いて行く。

「人魚を食べたんだ。これで貴方も不死になれますよ桑畑さん」

 車に乗り込む桑畑に老人がニタリと企むような笑みを浮かべて言った。

「あはははっ、不死身か、そりゃいいな」

 人魚の肉を食べると不老不死になるという伝説は桑畑も知っている。老人が冗談を言ったのだと笑いながら車に乗り込むと帰っていった。



 セレブな人々が住んでいる高級マンションに桑畑の部屋はある。一昔前に億ションと呼んでいた一億円以上するマンションだ。

 桑畑は二十七歳、そろそろ身を固めようと考えているが今はまだ独身である。


 マンションの地下駐車場に高級外車を止める。

「ご苦労さん、明日は九時半に頼むよ」

「午前の九時半ですね、承知致しました」

 慇懃に頭を下げる運転手とその場で別れる。お抱え運転手は何時でも呼び出せるように近くのマンションに住まわせていた。

「ふぅ、今日は良い日だった」

 ジュゴンの肉の美味さに酒も進み、普段より酔ったのかふらつく足でエレベーターへと乗り込んだ。

「旨かったなぁ~~、沖縄にはまだ少しあるって言ってたなジュゴンの肉……全部買い占めよう、一千万もあれば残り全部売ってくれるだろう、爺さんには感謝だな」

 エレベーターから降りて直ぐ前の自分の部屋へと入っていく。

 住居は一フロアに二つだけだ。マンションの左右にエレベーターがありそれを繋ぐ廊下もあるのだが普段は廊下を歩くことは無い、住居の玄関の前がエレベーターの出入り口となっている。他の住人と出来るだけ合わないようにプライベートが守られているのだ。廊下を歩くのはエレベーターが故障してもう一つの方を使う時か、非常階段を使う時だけだ。

「シャワーを浴びて寝ちまおう」

 服を脱ぎ捨てるとシャワーを浴びた。体に当たる水が心地いい。

「冷た! 冷たい」

 叫ぶと同時に、レバーを捻って水を止める。普段からお湯が出るようにしているのにお湯ではなく水になっていた。

「水かよ!」

 怒鳴りながら確認する。故障かとパネルを見るが動作していた。レバーがお湯ではなく水が出るようになっていただけだ。

「まったく……お湯だ。お湯を出せ」

 おかしいとは思ったが酔っていて無意識にレバーを水の方へと変えたんだと気にもしないでお湯が出る方へレバーを捻った。

 シャワーの湯が体に当たる。

「あぁ、気持ち良いぃ…………熱っ、熱い!」

 直ぐに熱湯を浴びたような痛みを感じて身を捻ってシャワーから離れた。

「熱いっての、何度だよ」

 パネルに映る湯の温度を確認すると四十一度に設定されていた。普段の温度である。

「四十一……いつもと同じだ。何で熱いんだ。故障か?」

 一旦シャワーを止めて温度設定を三十八度にしてまたお湯を出してみた。

「温いな、普段と同じくらいだ」

 故障しているのではなさそうだと思ったその時、急に熱く感じ始めた。

「熱っ! やっぱ熱いぞ、故障かよ」

 パネルに映る設定温度は三十八度のままだ。普段なら温いと感じる温度である。それが熱くて堪らない、温度調整が故障していると考えるのは当然だ。

「明日にでも連絡して直して貰うか……でもシャワー浴びたいしなぁ」

 桑畑は設定温度を三十度にしてみた。

「おっ、温い、丁度いい温度だ」

 夏ならともかく三十度の水など普段なら冷たく感じる温度だが心地好い温かさに思えた。

「やっぱ故障してるんだな、温度表示がおかしいよな」

 愚痴りながらシャワーを浴びる。

「管理に言って直して貰おう、でも明日だ明日、今日はもう寝るぞ」

 高い管理費を払っている高級マンションだ。今からでも連絡すれば業者は直ぐにやって来るだろうが酔っていることもある。何よりも美味しいジュゴンの肉を食べた幸せの余韻を邪魔されたくなかった。

 シャワーから出るとバスローブを羽織ってソファに腰を掛け、グラスに注いだブランデーを傾ける。寝酒に少し飲むのが日課となっている。

「ふぅ、美味しかったなぁ」

 ブランデーを飲み終わるとジュゴンの肉を思い出してニヤつきながらそのままベッドに横になった。



「ここはどこだ?」

 気が付くと桑畑は海にいた。

 砂浜では無い、海中でも無い、ゴツゴツとした岩が足下に広がる磯場だ。

「何で海に……」

 辺りを見回して歩き出そうと右足を前に出す。

「痛て! ててて……」

 素足だった。岩に貼り付いている貝殻やフジツボを踏ん付けて出した足を直ぐに引っ込めた。

「なっ、何で裸なんだよ」

 靴だけでなく何も身に纏っていない、パンツさえ穿いていない素っ裸だった。

「どこなんだよここは!」

 苛ついて怒鳴る。昼では無いが日は昇っているので午前中だろう、辺りを見回しても人影は無い。遠くを見るが建物らしきものも見えない。

「何なんだよ、どこなんだよ」

 まだ酔っ払って幻覚を見ているのか、もしかして自分はおかしくなってしまったのかと、焦りながら必死で考える。


〝キィーッ! キギィィーーッ〟


 甲高い鳴き声が聞こえて振り返る。

「なっ、何だあれは!?」

 波打つ海の向こう、六メートルほど離れた先の岩に奇妙な生き物がいた。

 一瞬子供かと思ったが違った。濡れた毛を体に纏った人の形をした生き物だ。

「猿か? でも何で海に猿が」

 離れていてよく分からないが桑畑には猿のように見えた。


〝キギィーッ、キーキーッ〟


 甲高い鳴き声で猿と思ったのかも知れない。何者かと確認するように見ていると猿のような生き物が此方に振り返った。


〝ギギィィーッ、キィキィーギィィーッ〟


 桑畑を見つけて猿のような生き物が嬉しそうに笑ったように感じた。

「なんだ気持ちの悪い……」

 桑畑は逃げようとしたが素足では貝殻やフジツボが付いている岩場を旨く歩けない。


〝キィキィ、ギキィ、ギギキィィーーッ〟


 嬉しそうに鳴くと奇妙な生き物がドボンと海に飛び込んだ。

「なっ、ヤバい」

 桑畑は足下に気を付けながら歩き出す。奇妙な生き物が此方へ泳いでくるのが見えたのだ。

「痛ててっ……」

 貝殻で切れるのも構わずに歩き出す。走って逃げたいのだが痛くてとてもじゃないが走れない。


〝キィキィ、キギィ〟


 鳴き声が聞こえて振り返る。

 五メートルほど離れた岩に奇妙な生き物が這い上がってきた。

「あっ、あれは……」

 桑畑は絶句した。奇妙な生き物には足は無かった。腰から下には毛は生えておらずにキラキラと光る鱗がびっしりと付いていてその先に大きな鰭がついていた。

「にっ、人魚だ……」

 お伽話に出てくる美女の人魚ではない、上半身も人ではなく猿にしか見えない、だが人のような上半身に魚の下半身、桑畑には人魚としか思えなかった。


〝キィキィ、ギィギィ〟


 人魚のような生き物が岩の上を跳ねるようにしてやってくる。

「たっ、助けてくれ」

 不気味な姿に桑畑は恐怖を感じて足が切れるのも構わずに走り出す。

「がっ! 痛ててて……」

 だが三メートルも行かないうちに動けなくなった。痛みに見ると足の裏が血だらけだ。


〝ギギィィーーッ〟


 いつの間に追い付いたのか後ろから人魚のような生き物が飛び付いてきた。

「やっ、止めろ! 離せ」

 人魚のような生き物が腰に腕を回してしがみつくのを引き離そうと桑畑は体を捻りながら両手を背中へと伸ばす。

「止めろ、離せバケモノ」

 人魚のような生き物を引き離そうとして掴もうとした手が滑る。

 生き物の毛はヌルヌルした粘液を含んでいて旨く掴むことが出来ない、捕まえたと思ったらにゅるっと滑って離れていくのだ。


〝キィキィ、ギィキィ〟


 甲高い声で鳴きながら人魚のような生き物は尾鰭を桑畑の股の間にするっと入れた。

「やっ、止めろ、離せ」

 腰に回した両腕と股に挟んだ尾鰭で組むようにしがみついた生き物は離れない、人魚のような生き物はそれほど大きくはない、感覚で言えば五歳くらいの幼児を背負っているような感じだ。

「くそっ、離せよ、うわぁっ!」

 生き物を引き離そうと体を捩っているうちに足が滑って転んでしまう。

「痛てて……」

 倒れた拍子に左肩を岩にぶつけて痛みに唸っていると背中の感触が消えているのに気が付いた。

 バケモノが離れたんだと思い、今のうちに逃げようとした時、


〝キィキィ、ギィィーーッ〟


 頭の直ぐ後ろから甲高い鳴き声が聞こえた。

 倒れたままで桑畑がサッと振り返ると人魚のような生き物が頭の直ぐ後ろにいた。

「ひっ! ふぅぅ…………」

 間近で見た生き物の姿に桑畑は恐怖で喉の奥から掠れた息しか出てこない。

「ひぃぃ……ひぅぅ…………」

 下半身は大きな鱗に包まれた硬そうな魚で上半身は猿だ。動物園で見るニホンザルにそっくりだ。だがその顔は、猿の顔だが目鼻のパーツが不自然だった。目は人間の目だ。白目がハッキリとあるのが分かる。白目の真ん中に黒眼がある人間の目だ。霊長類の中で白目が白いのは人間だけだ。ゴリラやチンパンジー、オランウータンなどの類人猿の白目は白色ではない、黒に近い褐色だ。他の動物も同じか、もしくは白色でも白目部分は殆ど表面には出ていない、眼球の構造から白目はあるのだが皮膚に覆われていて黒眼の部分、つまり瞳しか表に出ていない、身近な犬猫を見るとわかるが表には瞳しか見えていないだろう、横長のアーモンド型で大きな目をして白目に黒い瞳が付いている目をしているのは人間だけだ。

 その人間のような目が猿の顔に付いている。それだけでも不気味なのに鼻もおかしい、穴が無い、柔らかそうな疣のように突起が突き出ているだけだ。口は更におかしかった。嘴だ。アヒルの嘴を横に広げて短くしたようなものが付いている。不気味な姿に人魚と言うより河童という言葉が頭に浮んだ。


〝キィキィ、ギィギィ、キギィィーーッ〟


 バケモノが嬉しそうにニタリと笑った。

「ひぅぅ……たっ、助けてくれぇぇ」

 腰が抜けたのか桑畑は立つことも出来ずに助けを乞うた。


〝キィキィ、キィギヒヒッ〟


 バケモノが頭を包むようにして桑畑に覆い被さる。

「たっ、助けて……」

 強い磯の匂いと何かが腐ったような生臭い匂いが混じったものが桑畑の呼吸を塞ぐ。

「いっ、嫌だ……」

 人魚のようなバケモノが自分の中に入ってくるような感じがした。

「嫌っ……嫌だ。うわっ! うわぁぁあぁぁーーーっ」

 叫びを上げて桑畑は飛び起きた。

「うわっ、うわぁぁ……ぁああ…………あれ?」

 辺りを見回して安堵する。

「ゆっ、夢かよ…………」

 ベッドの上だった。夢を見ていたのだ。

「ははっ、あはははっ、酷い夢だ」

 夢だとわかり心から安堵した。それほど怖い夢だった。

「それにしても何だ。あの人魚は、不細工にも程がある」

 夢で見たバケモノのような人魚を思い出して苦笑する。

「何処かで見たミイラの人魚みたいだったな」

 テレビか本で見たことのある何処かの寺にあるという人魚だと言われているミイラを思い出した。猿と鯉を繋げて作った偽物のミイラだ。

「まったく、変な夢だ」

 汗を拭くとベッドに横になった。

「あんなキモいのでも食べたら旨いのかもな」

 人魚と呼ばれるジュゴンを食べたので何処かに罪悪感を感じて変な夢を見たのだと思った。



 翌日、沖縄の業務用冷蔵庫に残っているというジュゴンの肉を全部買おうと老人を訪ねるが留守だった。

「出掛けてるのか……遊びにでも行ったのかな」

 ジュゴンを御馳走になった礼に百万円渡したのだ。何処かに遊びにでも行っているのだろうと思った。

「爺さんの様子なら大丈夫だろう」

 自分以外には売ることは無いだろうと考えてその日はおとなしく帰った。


 その夜、いつものようにシャワーを浴びてからベッドに横になる。

「また食べたいなぁ、ジュゴン」

 昨晩食べた人魚の肉を思い出す。比べると全ての食事が味気ないものに思えた。

「爺さんに連絡付けて全部買い占めてやる」

 人魚の肉を手に入れることを考えながら眠りに落ちていった。


 気が付くと海にいた。

「ここは……海かよ」

 辺りを見回す。ゴツゴツとした岩が並ぶ磯場に桑畑は立っていた。

「どこの海だ?」

 何故こんな場所に居るのかと頭を巡らせるが浮んでこない。

「何で裸なんだ?」

 パンツすら穿いていない素っ裸なのに気付いて首を傾げる。


〝キィーッ! キギィィーーッ〟


 甲高い鳴き声が聞こえて振り返る。

「なっ、何だあれは!?」

 波打つ海の向こう、六メートルほど離れた先の岩に奇妙な生き物がいた。

「人魚だ……」

 目を凝らすと猿のように見えるが足ではなく魚のような下半身が付いていた。

「あれは……」

 声が震えた。昨晩見た夢が鮮やかに蘇る。

 ドブンッ! 逃げようと思った時、人魚のような生き物が海へと飛び込んだ。

「うわぁぁーーっ」

 岩に付いた貝殻やフジツボで足を切るのも構わずに走り出す。


〝キィキィ、キギィ〟


 鳴き声が聞こえて走りながら振り返る。

 四メートルほど離れた岩に奇妙な生き物が這い上がってきた。

「あいつだ……」

 猿のような顔に人間のような目が付いている。大きな疣のような鼻に平べったい嘴、上半身は毛むくじゃらなのに下半身は大きな鱗がびっしりと生えた魚だ。

 大きさは一メートル二十センチほどで桑畑なら力で捩伏せることも出来そうだが不気味な姿には恐怖しか湧かず、体が震えて力が出てこない。

「うわっ、うわぁぁあぁーーっ」

 叫びながら逃げ出した。足場の悪い岩の上だ。おまけに素足である。走ると言っても全速力では無い、普段歩いているのより少し早いくらい、早足くらいのスピードだ。


〝キィキィ、キキィキィキィ〟


 後ろから声が追ってくる。

 五分も逃げただろうか、鳴き声が聞こえないのに気が付いた。

「たっ、助かったのか……」

 振り返ると人魚のようなバケモノはいなくなっていた。

「痛てててっ」

 痛みを感じて足を見る。足の裏が血だらけだ。無理も無い、貝殻やフジツボが付いている岩の上を素足で走ったのだ。

「痛ててて……ここまで来れば大丈夫だろう」

 近くにあった少し大きな岩に腰掛ける。波打ち際からは十メートルほど離れている。傍に大きな潮溜まりがあるだけで波はここまでやってこない、バケモノもこないだろうと考えた。

「薬でもあればいいんだが……どこなんだよここは?」

 辺りを見回す。海岸線には建物は疎か道路すら見えない、結構大きな浜だ。道路や建物が一つも見えないのはおかしい。

「夢? そうだこれは夢だ」

 考えていると昨晩見た夢と同じだと気が付いた。


〝キィキィキィ〟


 鳴き声が聞こえて波打ち際に振り返る。

「気の所為か……」

 バケモノがいるのかと身構えたが何もいない、安堵して前に向き直る。


〝キィキィ、ギィィーッ〟


 左横の大きな潮溜まりから甲高い声と共にバケモノが跳ねるようにして現れた。

「ぅうっ、うわぁあぁーーっ」

 叫びを上げる桑畑にバケモノがしがみつく。


〝キィキィ、ギヒヒィ〟


 猿の顔に人の目を付けたバケモノが平べったい嘴の端を吊り上げてニタリと不気味に笑った。

「たっ、助けてくれぇ……」

 引き離そうとするがヌメヌメとした毛で滑ってバケモノを掴むことすら出来ない。


〝ギヒィ、キヒヒィ〟


 バケモノが桑畑の体をよじ登ってくる。

 強い磯の匂いと何かが腐ったような生臭い匂いが混じったようなものが呼吸を塞いだ。

「たっ、助けて……いっ、嫌だ……」

 人魚のようなバケモノが自分の中に入ってくるような感じがした。

「嫌だ。嫌だ。うわっ! うわぁぁあぁぁーーーっ」

 叫びを上げて桑畑は飛び起きた。

 ハァハァと荒い息をつきながら辺りを見回す。

「俺の部屋だ……助かったぁ」

 ベッドの中だ。夢だったのだ。

「まったくなんて夢だ」

 安堵と同時に憤りを感じて起き上がる。

「二日も同じ夢を見るなんてな、まったく」

 ジュゴンの肉が余りにも美味しくて執着して悪夢を見たんだろうとおかしくなってきた。

「まったく……ははっ、あははははっ」

 笑いながら浴室へと向かう、寝間着代わりのシャツが貼り付くくらいべったりと汗を掻いていた。拭くよりシャワーを浴びた方が早いと思ったのだ。

「さっさとジュゴンの肉を買い占めないとな、不安で変な夢を見るんだ」

 美味しい肉を他の誰かに取られるのではないかという不安が見せた夢だと考えた。

 浴室でシャツを脱いでジャージのズボンを下ろした。

「うわっ!」

 思わず声が出た。腰の辺りが赤くなっている。

「なに?」

 腰の少し上、赤い筋がぐるっと巻き付くように出来ていた。

「バケモノの……」

 人魚のようなバケモノがしがみついていたのを思い出してゾッとした。

「まさかな、あるわけない、夢だぞ夢」

 頭を振って否定する。

「変な夢見て汗を一杯掻いたからな」

 脱いだジャージのズボンとパンツを確認するように見た。

「海外製か、聞いたことのないメーカーだな」

 パンツもジャージも新しいものだ。普段使っているメーカーのものではなく店で見つけて試しに買ってみたのだ。それが肌に合わずにかぶれたのだと思った。

「新品で少しゴムがきつかったからな、汗でかぶれたんだろ」

 赤い筋は腰の上だ。パンツもズボンも関係ないことに気が付いていたが怖かったのでそれ以上考えることは止めた。

 シャワーで汗を流して冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲むとベッドに戻る。

 暫くゴロゴロしていたがいつの間にか眠りに落ちていた。



 次の日、仕事を部下に任せて桑畑は老人の家に向かった。

「すみません、桑畑です。お爺さんいますかぁ」

 何度か押したがインターホンは壊れているのか反応は無い、玄関先で呼ぶが返事も無かった。

「今日も留守か」

 老人は出掛けている様子だ。

「どうするか……電話番号も知らないしな」

 まったく人の気配のないボロ屋を見上げる。電話番号どころか老人の名前も聞いていないのに気が付いた。

「何ていう名前なんだ?」

 ボロ屋の表札を確かめる。

「へっ?」

 名前が無かった。表札を掛ける枠があるだけだ。

「どういう事だ?」

 辺りを見回す桑畑を見て運転手が気を利かせて近くの家に老人のことを訪ねに行く。

「ダメです社長」

 二軒ほど回って運転手が帰ってきた。

「空き家ですよ」

「空き家?」

 ボロ屋を指差す運転手の前で桑畑が聞き返す。

「空き家です。もう十年以上誰も住んでいないって言っていました」

「まさか……じゃあ、あの爺さんは」

 顔を顰める桑畑に運転手が続ける。

「お爺さんのことを訊いたのですが二軒とも知らないって言っていました。お爺さんなど見たことはないと、家はずっと空き家で管理する人もいないみたいでここ十年は誰も訪ねてきていないと言っています」

「十年……でも爺さんは確かにいたよな?」

 縋るように見つめる桑畑の向かいで運転手が頷いた。

「はい、私も見ましたし、見送りに社長に声を掛けたのも聞いています」

「そうだよな、幻覚じゃないよな、オオサンショウウオもジュゴンも食べたんだよな」

 何度も頷きながら料理の味を思い出す。確かに食べた。運転手も居るのだ。幻覚や妄想では無いのだ。

「でも居ない……どうなってんだ」

 桑畑は改めてボロ屋を見回す。以前訪ねた時には確かに空いていた窓は木で出来た雨戸が閉まったままだ。屋根瓦は波を打つように歪んでいる。壁も煤けていて長い間手入れをしていないのが分かる。

 門を入った向こう、玄関の右に水道が見えた。庭に水を撒いたりするのに使うのだろう。

「爺さん、居ないのですか?」

 声を掛けながら玄関先へと入っていくと水道の蛇口を捻った。

「出ないな、水道は止まってるのか」

 暫く待つが水が出てくる気配は無い。

「社長、電気も来ていないみたいですよ」

 運転手が指差す先、電気メーターは止まっていて十年前の日付の点検札が付いていた。

「本当に空き家か……」

 電気も水道も通っていない空き家だ。

「でもこの前は電気点いてたぞ、水も出たしガスも使えた。料理して食ったんだからな」

 怪訝に顔を歪める桑畑を見て運転手も頷いた。

「はい、明かりが点いているのは私も見ました」

「だよな、確かに爺さんは居たよな」

 一人ではおかしくなりそうだ。運転手が居てくれて良かったと思った。

「何者なんだ爺さん……」

 何か痕跡は無いかとボロ屋を回って調べるが人がいた気配すら無かった。

 あれこれと探している桑畑を近所の人が不審者を見るような目で見ているのに気が付いて運転手が高級外車のドアを開けた。

「社長、取り敢えず今日は帰りましょう」

「そうだな、地所を調べるか」

 怪訝な表情のまま桑畑が車に乗り込んだ。不動産業だ。土地や建物を調べるのは専門だ。

「悪い人には見えなかったけどな爺さん」

 帰路についた高級外車の中で桑畑は呟いた。


 会社に戻り、老人が居たボロ屋のことを早速調べた。

「どういう事だ。本当に空き家だぞ」

 ボロ屋は十二年前に持ち主が亡くなって以降、空き家になっているのが分かった。身寄りが無い人が亡くなってから持ち主不在で手を付けられずに放置されている物件だ。

「じゃあ、あの爺さんは何者なんだ?」

 老人のことを調べようとしたが手掛かりも無く何も分からなかった。


 その日の夜、また夢を見た。

 猿のバケモノのような人魚に追い掛けられ捕まる夢だ。

 しがみついたバケモノが自分の中に入ってくるような恐怖を感じて叫んで目を覚ます。

「ゆっ、夢か……」

 安堵してシャワーを浴びに行く、水を浴びたように汗でびっしょりだ。

「なっ、なんで……」

 シャツを脱いで、ふと見ると腰の辺りに赤い筋が付いていた。夢の中でバケモノがしがみついた場所だ。

「昨日もあったぞ、新しいジャージにかぶれたんじゃない、だったら……」

 昨晩穿いていたのは無名メーカーの新品ジャージだ。布が肌に合わなくてかぶれて赤い筋が出来たのだと思っていた。だが今穿いているのは普段着ているメーカー製のジャージで今までかぶれたことなど無いものである。

「同じような夢を連続で見るのも変だ。あのバケモノか……」

 思い当たる節は夢の中のバケモノしかなかった。

 ジュゴンを食べたことに対する呵責があったとしても、三日続けて悪夢を見るほど弱い人間ではない。だとしたら夢の中のバケモノが何か関係していると考えるのは当然だ。

「あの爺さんだ。あの爺さんが何かしやがったんだ」

 桑畑はエンターテインメントとしてホラー映画や怪談を楽しむことはするが幽霊や妖怪などの霊現象は信じていない。

「暗示か何か、変なマインドコントロールでもしやがったんだ」

 老人が自分に何かしたのだと思うと同時に怖くなる。

「だとしたら……だとしたら爺さんは俺に何を食わせたんだ」

 初めに食べたオオサンショウウオは本物だろう、実物を捌くところを見たのだ。だが次に食べたジュゴンは肉だけだ。赤身の肉と脂身の塊しか見ていない、肉なのは確かだが何の肉かは分からない、爺さんの言葉を信じてジュゴンだと思って食べたのだ。

「こんな事誰にも相談出来ないぞ」

 社員に話しても冗談か、本当なら桑畑自身がおかしくなったのだと思われるだけだ。

 警察に訴えても相手にされないだろう、仮に信じてもらえたとしてもオオサンショウウオやジュゴンを食べたと分かれば自身も罪に問われるだろう。

 ベッドに横になりながら考えているうちにいつの間にか眠っていた。



 翌朝、寝不足の少しぼうっとした頭で迎えに来た車に乗り込む。

「社長、顔色がすぐれませんが大丈夫ですか?」

 普段なら挨拶を終えた後に直ぐに発進させる運転手が振り返る。

「わかるか? 眠れなかったんだ」

 疲れを浮かべた顔で桑畑がこたえた。

「何か心配事でも?」

 ハンドルに手を掛けたまま振り向いている運転手に暫く考えてから桑畑が口を開いた。

「……そうだな、お前なら信じてくれるかもな」

 桑畑は疲れた声で人魚のようなバケモノの夢の話しを運転手に聞かせた。

「そんな事が……」

 運転手が言葉を詰まらせる。

「信じなくてもいいよ、俺だって誰かに聞いたら信じないしな」

 自嘲するような笑みを浮かべる桑畑の前で運転手が身を乗り出す。

「信じます。信じますよ、あのお爺さんが怪しいのは私も分かりますから」

「そうか、お前は信じてくれるのか」

「当然です。私もあの場所に居たんですから、あの空き家に社長が入っていくのを見てるんですから、あの老人を見たんですから」

 一人でも信じてくれる者がいて桑畑は少しだけほっとした。

「そうだったな……でもどうしたらいいのか」

 頭を抱え込む桑畑に運転手が声を掛ける。

「お祓いでもしてみたらどうです」

 桑畑がサッと顔を上げた。

「お祓いか、そうだな、お前良い事言うなぁ」

「ありがとうございます。神社かお寺を調べておきますので社長の時間が空いたら直ぐに向かいましょう」

 元気になった桑畑を見てペコッと頭を下げると運転手は前に向き直ってハンドルを握り直した。

「そうだな、午前は会議があるから昼から行こう、頼んだよ」

 桑畑はすっかり普段の声に戻っている。

「お任せ下さい、知り合いにこういうことに詳しい者がいますので相談しておきます」

 運転手が車を発車させる。

「任せた。変な夢を見なくなったら特別ボーナスを出してやるぞ」

「ありがとうございます」

 バックミラー越しに桑畑を見て運転手が頭を下げた。


 昼食後、運転手が調べてくれた霊現象に詳しい神社へとお祓いに向かった。

「社長、あそこです。あの神社がこういうことに詳しいそうです」

 信号で止まった際に運転手が右に見えている神社を指差した。

「あれか、結構大きな神社だな」

 横断歩道の向こうに大きな鳥居が見える。その奥、木々の間に社らしきものの屋根も見えた。

「うわっ!」

 信号が変わり発車させる前にサイドミラーを見た運転手が叫びを上げる。


〝ドドォン!〟


 大きな音と共に車が揺れた。

「おわぁーーっ」

 桑畑の叫びが車内に響く、同時に不自然な揺れと共に車が前へと滑った。

「ヤバい!」

 運転手が咄嗟にハンドルを切る。

 後ろから大型トラックに追突されたのだ。

「社長大丈夫ですか!」

 運転手の機転を利かせたハンドル捌きによって車は中央分離帯に乗り上げた。その脇を大型トラックが通り過ぎて横転した。

「痛てて……大丈夫だ。足を捻っただけだ。痛ててて……」

 とても大丈夫そうには見えない、運転手は助手席を前に倒して身を乗り出して桑畑の足を見た。

「社長、靴を脱がしますよ」

「痛ぇ! 止めろ、物凄く痛いぞ」

 靴に触れた途端、桑畑は痛みに怒鳴った。

「折れてるかも知れません、病院へ行きましょう」

 運転手はスマホを取り出すと救急車を呼んだ。

「くそっ、あのトラックめ、どこの会社か知らんがたっぷりと賠償して貰うぞ」

 桑畑は痛みに顔を歪めながら横転したトラックを睨み付けた。

「後のことは私がやっておきます。社長は病院へ行ってください」

 運転手の機転がなければ横転した大型トラックの下敷きになっていただろう、そうなれば足の怪我だけでは済まない、重傷だったろう、下手をすれば死んでいてもおかしくない事故だ。

「ああ、頼んだぞ」

 もうお祓いどころではない、桑畑はやって来た救急車に搬送されていった。



 桑畑は右足首の骨折だ。トラックが衝突した際に前の座席に変な角度で当たって折れたらしい。医者には全治三ヶ月、一ヶ月は入院生活だと言われた。

「まったくついてない……」

 病院のベッドで横になりながら桑畑が愚痴った。

 追突したトラックは居眠り運転だった。何故か分からないが急に眠くなったのだという、向こうが百パーセント悪いので慰謝料はもちろん車の修理代から休業補償まで全て向こうの保険で出る事になる。

「まぁゆっくり休むさ、ここんところ働き詰めだったしな」

 一つだけ良い事があった。事故の後からあのバケモノの夢を見なくなったのだ。これには桑畑も一安心だ。

 だが問題も起きた。四十度ほどのお湯を何故か熱湯のように熱いと感じるようになっていた。医者が言うには事故のショックで神経が高ぶって過敏に反応するのだろう、暫くしたら治ると言われたが桑畑は違うと思った。温い湯を熱いと感じるようになったのはあの夜からだ。バケモノの夢を見てシャワーを浴びた時だ。設定温度の四十一度の湯を熱湯のように感じたのだ。湯沸かし器の故障だと思っていたが違った。自身の体がおかしかったのだと気が付いた。



 五日後、入院生活も落ち着いてきた頃だ。

 あの老人が見舞いにやって来た。

「桑畑さん、お久し振りです」

「あっ、あんた……あんたなぁ!」

 声を荒げる桑畑に老人はまぁまぁと言うように両手を前に出した。

「そう怒りなさんな、色々事情があるんですよ」

「事情?」

 笑顔で話す老人の前で桑畑は一呼吸置いて怒鳴った。

「何が事情だ! あんた何者なんだ」

 怒る桑畑の前で老人は笑顔を絶やさない。

「私ですか? 私は貴方ですよ、貴方と同じ人魚の肉を食ったものですよ」

「人魚? 何言ってんだ! あの肉は何だ! 本当にジュゴンの肉か? 俺に何を食わせた」

 怒り心頭の桑畑の向かいで老人は優しい笑みから一転、ニタリと企むような笑みに変わる。

「何って人魚ですよ、人魚の肉ですよ」

「人魚って……」

 桑畑の頭の中に夢で見た猿のようなバケモノ人魚が浮んだ。

「あれは何だ! あの猿みたいなバケモノは!」

「夢を見たんですか……そうですか、では旨くいっているようですね」

「旨くって何だ? 俺に何をしたんだ」

 何か企むようなニタリ顔の老人を見て桑畑の顔から怒りがフッと消えた。まだ怒っているが不安が混じった表情だ。

「ふふふっ、直ぐに分かりますよ」

 含み笑いをしながら老人が下げていた袋をベッド脇のテーブルの上に置いた。

「お見舞いです。日本で作ったバナナで農薬を一切使っていないので皮のまま食べられるんですよ、輸入品と違って熟していない青いものを採るのじゃなくて黄色く熟してから採ったものですので物凄く甘いですよ、珍しいものが好きな桑畑さんなら気に入るはずです」

 テーブルの上に置かれた一房のバナナをチラッと見てから桑畑が怒りを抑えるような声を出す。

「見舞いなんていらん、それより俺に何をしたんだ」

「大した事がなくてよかった。その怪我なら一ヶ月もすれば治りますよ」

 愉しげに、にんまりと笑う老人を見てまた怒りが湧いてくる。

「何言ってんだ! 全治三ヶ月だぞ、一ヶ月も入院しろって言われたんだぞ」

「ではお大事に」

 怒鳴る桑畑にぺこりと頭を下げると老人が出入り口へと歩き出す。

「まっ、待てっ! 話はまだ終ってないぞ」

 桑畑は追い掛けようとするが右足はギブスで固められているのでベッドから立ち上がるだけで一苦労だ。

「待て! 爺、待ちやがれ」

 松葉杖をつき廊下に出たが老人の姿は無かった。



 全治三ヶ月、一ヶ月ほど入院して二ヶ月は通院だと診断を受けたが桑畑は一ヶ月で完治した。普通の人より倍以上早く治っていくのを見て医者も驚いたほどである。

「あの爺さんの言った通り一ヶ月で治った……」

 桑畑は元々傷の治りが早い方だったが骨折がこれ程早く治るとは思ってもいなかった。老人に何かされたのではないかと不安が更に大きくなった。


 退院して三日後、老人が桑畑の前に現れた。

「桑畑さん」

 高級マンションの地下駐車場、車から降りたところで声を掛けられた。

「爺!」

 地下駐車場の柱の陰から出てくる老人を見て桑畑の顔に怒りが浮ぶ。

「てめぇ、今日は逃がさんからな」

 今にも掴み掛からんとする桑畑の前に運転手が立った。

「お爺さん、貴方何者ですか、名前と住所、連絡先を教えてください、でないと社長に会わせるわけにはいきません」

 両手を広げて庇うように立つ運転手の後ろで桑畑も落ち着きを取り戻す。

「そうだ爺、何者か話せ、でないと警察を呼ぶぞ、ここは部外者立ち入り禁止だ。不法侵入だからな逮捕されるぞ」

 桑畑が老人を睨み付けた。脅しもあるが老人が正体を明かさなくても警察に捕まればどのような人物かはだいたい分かるだろうと考えた。

 老人が桑畑をじっと見つめた。

「私ですか? いいですよ、話しましょう、ですがここではちょっと……」

 運転手をチラッと見てから桑畑を見つめて続ける。

「それと桑畑さん一人だけです。運転手さんには帰って貰ってください」

「何を言っている。社長に何するつもりだ。私も同伴するからな」

 運転手が声を荒げる。若い頃に苦労をした桑畑は変に偉そうにしたり、人を見下したりしないので運転手は仕事だけの付き合いではなく人として好意を寄せていた。

「わかった。俺の部屋で話そう」

 前に立つ運転手の肩を桑畑が掴んだ。

「お前は帰れ」

 険しい顔をして運転手が振り返る。

「社長!」

「大丈夫だ。何かあれば直ぐに呼ぶ、お疲れさん」

 ポンッと肩を叩く桑畑に運転手が複雑な表情で頷いた。

「わかりました。直ぐに呼んでください、待機していますから」

「ありがとう、頼りにしているよ」

 笑いかける桑畑から視線を移して運転手が老人を睨み付けた。

「社長に何かあれば許さんからな」

 老人が穏やかに口を開いた。

「何もしませんよ、話しをするだけですよ、ここは普通のマンションと違って監視カメラも沢山ある。変な事をすれば直ぐに見つかるでしょう」

「心配無い、爺さんが何かしても俺が取り押さえるよ」

 七十は超えているだろう小柄な老人だ。二十七歳のがっしりした体躯の桑畑が腕力では負けるはずがないだろうことは見ればわかる。

 不満を浮かべながら運転手が頭を下げた。

「……わかりました。では社長、失礼します」

「おぅ、お疲れ様」

 桑畑が軽く手を上げて返した。


 老人を連れて自分の部屋へと帰る。

「爺さん何者だ? あれから家に行ったんだが、あの家は爺さんの家じゃない空き家だった。十二年も前から誰も住んでない、ガスも電気も水道も全部止まってる。それなのに爺さんが料理した時は全部使えてた。どういう事だ」

 部屋に入るなり桑畑が捲し立てるように訊いた。

「そうですねぇ……何から話しましょうか」

 間延びした口調で話す老人に桑畑が苛ついた声で訊く。

「名前だ。それと何者か全て話せ」

「名前ですか? そういえば話していませんでしたねぇ」

 にやける老人を前に桑畑はぐっと怒りを抑える。

「訊かなかった俺も悪いが自分から名乗るのが当り前だろうが」

百世(ももせ)、百の世と書いて百世と言います」

 老人の顔から笑みが消えた。

「百世? 百世何だ。名前は」

 怪訝な顔で訊く桑畑の向かいで百世老人が首を振る。

「名はありません、百世だけです」

「ふざけてるのか! 本名を話せ、住民登録してる名前だ」

 百世老人がふざけているのだろうと桑畑は声を荒げた。

「住民登録? そんなものはありませんよ……いや、この老人のものはあるでしょうけど私のはありませんよ」

「何言ってんだ。変な事言って誤魔化そうとしても無駄だぞ」

 怒る桑畑の向かいで百世老人が溜息をついた。

「ふぅ、分からないのも無理はありません、私は普通の人間ではないのです」

「普通じゃない? じゃあ、何だってんだ」

 怒りながらもバカにしたように訊く桑畑を老人がじっと見つめる。

「不老不死、人魚を食べて不老不死になった者ですよ」

「不老不死? 何言ってんだ爺」

 呆れる桑畑の前で百世老人はポケットから剃刀を取り出した。

「まぁ見ててください」

 百世老人は剃刀を左腕に当ててスッと引いた。かなり深く切ったのか血が溢れ出す。

「なっ、何してる! 早く手当てしないと」

 慌てる桑畑に百世老人は待てというように手を突き出した。

「大丈夫ですよ、見ててください」

 百世老人が傷口に右手を充てて何度か擦った。

「えっ!?」

 桑畑は我が目を疑った。百世老人の左腕から傷が消えていた。

「何をしたんだ?」

 溢れ出た血はそのままだが傷は綺麗に消えている左腕を見ながら手品でもしたのかと疑惑の目を向ける桑畑に百世老人が微笑みながら口を開いた。

「これが人魚の力ですよ、これくらいの傷なら直ぐに治る。大怪我でも普通の人の半分もあれば治ってしまう、これが人魚の不死の力なのです」

「人魚の力……」

 言葉を失う桑畑の向かいで百世老人が愉しげに続ける。

「そうです。桑畑さん、貴方も体験したでしょう? 骨折で全治三ヶ月が一ヶ月で治ったのは人魚の力ですよ」

「あれが人魚の力……じゃあ俺が食べたのは? あれはジュゴンじゃなかったのかよ」

 骨折した右足首を見た後で桑畑がサッと顔を上げた。

「ジュゴン? 何の事です」

 とぼける百世老人を見て桑畑が胸倉を掴んだ。

「爺! ジュゴンとか言って俺に変なものを食わせたんだな」

「まっ、待ってください、落ち着いて……これじゃあ話せませんよ」

 百世老人が離せというように胸倉を掴む桑畑の手をポンポンと叩いた。

「全部話せ! いいな」

 怒りながら桑畑が手を離すと百世老人はハンカチで左腕の血を拭きながら話を始めた。

「私は一言もジュゴンなんて言っていませんよ、人魚です。貴方が食べたのは本物の人魚ですよ、私も食べました。それで不死になったんですよ」

「人魚……あの肉が……」

 とても信じられないが医者が驚くほどの早さで骨折が治ったのは確かだ。それに今見た百世老人が剃刀で切った傷、手品でないとすると人魚の力を信じないわけにはいかない。

「じゃあ夢で見たあのバケモノが、あれが人魚か?」

 桑畑は人の目をした猿のような半身魚のバケモノを思い出して顔を顰める。

「そうですあれが人魚です。バケモノなんて失礼ですよ、寧ろ神様に近いものですよ」

 百世老人が叱るように桑畑を見つめた。

「神様? あのバケモノが」

「力を授けてくれるのです。不死の力を、神様以外にこんなことが出来ますか」

 狂信的な目付きになった百世老人を見て桑畑は恐怖を感じた。

「あんなバケモノの肉を食わせやがって、その所為で変な夢を見るんだな、どうしてくれる」

 全て百世老人の所為だとわかり桑畑が詰め寄った。

 百世老人がニタリと口元を歪ませてこたえる。

「私も食べたんですよ、もうかれこれ八十年ほど昔ですけどね、その時から時が止まったように変わらない、この姿のままです」

「八十年前って……時が止まったって、爺さん何歳だ?」

 引き攣った顔で訊く桑畑の向かいで百世老人がとぼけ顔でこたえる。

「さぁ、八十年前に七十五歳でしたから、かれこれ百五十五を越えているでしょうね」

「百五十五歳? 嘘だ。百五十越えたヤツがそんな丈夫に動けるかよ」

 デタラメだというように首を振る桑畑を見て百世老人が笑い出す。

「はははっ、それが人魚の力ですよ」

「全部本当だとして、何で俺に食わせた」

 恐れと怒り、不安が混じった複雑な表情の桑畑の前で百世老人から表情が消えた。

「ですがこの身体も大分とくたびれてきましてね、魂は不死なんですが……体は少しずつ傷んできます。近頃は化学製品が多い所為か傷みが早い、それで代わりを探していたんですよ」

「代わり?」

 何の事だというように訊く桑畑に百世老人は頷いてから続ける。

「そうです。誰でもいいわけじゃない、元から治癒力の高いすぐれた身体能力を持つものでないとダメです。長い間探してやっと見つけたんですよ」

 無表情の百世老人がじっと桑畑を見つめた。

「治癒能力の高い人間を探してたって言うのか?」

 桑畑の表情が不安一色に変わる。

「そうですよ、桑畑さんは覚えがないですか? 子供の頃に怪我をしても直ぐに治ったでしょう? 他の人よりも優れた力を持っているのですよ」

「怪我の治りが早い……」

 桑畑には覚えがあった。確かに子供の頃に転んで擦り剥いた傷も次の日には消えていた。風邪を曳いて寝込んだこともない、病気や怪我をしても他の人よりも早く治っていた。

「力を持つ人を見つけ、その人と共に私はずっと生きてきたんですよ、様々な世の中を見てきました。百の世の中を見たから百世と名乗っています」

「おっ、俺が、俺がそうだって言うのか……」

 震える声でいいながら桑畑は自身を指差した。

 百世老人はこたえる代わりににんまりと頷いた。

「嘘だ! 全部嘘だ。出て行け! 二度と俺の前に顔を見せるな」

 恐怖が頂点に達した。桑畑は怒鳴りつけて百世老人を部屋から追い出した。

「ふふっ、心配いりませんよ、もう来ませんよ、全て終わりましたから、だからもう私は必要無いんですよ」

 玄関から出る時に百世老人がニタリと愉しげに笑った。

「煩い! 二度と来るな」

 桑畑は怒鳴りつけると玄関のドアを乱暴に閉めた。

 玄関に設置してあるカメラ付きのインターホンの映像を見ると百世老人がエレベーターに乗り込んでいくのが映っていた。


 百世老人が帰ったのを確認すると桑畑はキッチンへ行き缶ビールを取り出しゴクゴクと飲んだ。

「不死などあるかよ、あの爺、バケモノに取憑かれてるんだ」

 人魚の話など到底信じられないが猿のようなバケモノの夢を続けて見たのは確かだ。

「お祓いだ。お祓いに行こう、この前は事故で行けなかったからな」

 霊現象など信じていないが祓うことで気持ちが落ち着き変な夢を見なくなるかも知れないと考えた。

 運転手に明日お祓いに行くと電話して、序でに百世老人の話を聞かせた。心配していた運転手は警察に届けると憤慨したが百世老人が二度と来ないと約束したと聞いて怒りを収めた。



 翌日、お祓いをしに神社へ行こうとした桑畑の元へ百世老人が亡くなったと知らせが入った。

 百世老人が持っていた名刺から桑畑へ連絡が来たのだ。桑畑が渡した名刺以外に身分を証明するものなど何も持っていなかった。それで警察が連絡してきたという事だ。

「不死だとか言っていたが……全部嘘だったんだな」

 身寄りのない百世老人に桑畑は葬式を出してやった。

 百世老人は老衰だと診断されている。死期を悟って自分をからかったのだと考えた。

「人魚なんて実在するわけないからな」

 仮に何か企んでいたとしても死んだのなら何も出来ないと憐れに思った。それにジュゴンの肉ではないとしてもご馳走して貰った肉は凄く美味しかったのだ。

「何か知らないが、あの肉の入手先は聞いておくべきだったな」

 百世老人の葬儀のこともあり、お祓いのことはすっかり忘れていた。


 普段より遅く自宅に帰った桑畑はいつものようにシャワーを浴びてブランデーをグラスに注ぐと寝室へと入った。

「今日は疲れたな、仕事だけじゃなくて爺さんの葬式もやったからな」

 夕食は外で済ませてある。後は少し寛いで寝るだけだ。

「あっ、お祓いに行くのを忘れていた」

 ドタバタした一日で神社へ行けなかったのを思い出す。

「まぁいいか、爺さんも死んだしな」

 全てが終ったと桑畑はブランデーを飲んでベッドに潜った。


 気が付くと海にいた。

「ここは……」

 波が打ち付けるゴツゴツとした岩が並ぶ磯場に桑畑は立っていた。

「夢だ。夢の中だ」

 四度目だ。流石に直ぐに気が付いた。

「裸じゃない?」

 一つ違うところがあった。前の三度は靴も服も何も身に纏っていない素っ裸だったのに今は服を着ていた。寝間着代わりに普段着ているシャツとジャージのズボンだ。靴は履いていない。つまり寝室でベッドに横たわった姿と同じだ。

「あの夢の中か……」

 身構える桑畑の耳に甲高い鳴き声が聞こえてきた。


〝キィーッ! キギィィーーッ〟


 声のする方を見る。

 いた。七メートルほど離れた岩の上に猿のようなものが背を向けて腰を掛けていた。

「人魚のバケモノだ」

 ニホンザルのような上半身に鱗に包まれた下半身が付いている。

(見つかる前に逃げないと……)

 不釣り合いに大きな人間の目が付いた不気味な猿の顔を思い出し桑畑は後退(あとずさ)る。


〝ギキィーーッ、キィキィ〟


 バケモノが振り返った。

「ヤバい!」

 桑畑が駆け出した。

 後ろでドブンと水音が聞こえてくる。

「痛てっ! くそっ」

 どうせ夢だと思ったのか、岩に付いた貝殻やフジツボで足の裏が切れるのも構わずに桑畑は全力で走った。


〝キィキィ、ギギキィ、キギィィーーッ〟


 後ろで鳴き声が聞こえ、桑畑が走りながら振り返ると十メートルほど向こうでバケモノが岩の上で飛び跳ねながら鳴いていた。

「捕まって堪るかよ」

 前に向き直り、足の痛みを我慢しながら桑畑は走り続けた。


 どうにか磯場を抜けて砂浜へと辿り着いた。

 バケモノの鳴き声はいつの間にか聞こえなくなっていた。

「たっ、助かった……やった。やったぞ」

 砂浜に倒れ込み、ハァハァと息を切らせながらもバケモノから逃げ切ったと安堵した。

「大丈夫ですか?」

 倒れている桑畑を誰かが見下ろす。

「あっ、爺さん」

 亡くなったはずの百世老人が脇に立っていた。

 桑畑がガバッと起き上がる。

「爺さん、バケモノが、猿みたいな人魚が向こうに居るんだ。俺を捕まえようとして追い掛けてくるんだ」

 磯場を指差しながら先程の出来事を話す。夢の中だからか記憶が曖昧で百世老人が亡くなったことはすっかり忘れていた。

 百世老人が首を傾げる。

「バケモノ? 違いますよ人魚ですよ」

「あれが人魚なものか、猿のバケモノだ」

 食って掛かる桑畑の向かいで百世老人が俯いた。

「猿のバケモノですか……」

「信じてないのか? 向こうの岩に行ってみろ」

 訴えるように見つめる桑畑の前で百世老人が顔を上げる。

「いえいえ、信じてますよ、そのバケモノというのはこんな姿じゃなかったですか」

 百世老人の姿が変わっていく。

「あっ、ああぁ……」

 恐怖に竦んで動けない桑畑の目の前に上半身が猿で下半身が魚のバケモノがいた。

「じっ、爺さんが……」

 只一つ、今までのバケモノとは違うところがあった。

 顔だ。猿ではなく百世老人の顔が付いていた。


〝キィキィ、キギギィィーーッ〟


 甲高い鳴き声を上げながら百瀬老人の顔を付けたバケモノが桑畑に抱き付いた。



「はっ、離せ! たっ、助けてくれぇーーっ」

 叫びながら目を覚ます。桑畑はベッドの上で横になっていた。夢だったのだ。

「夢……よかったぁ」

 横たわったまま部屋を見回し安堵した。

「それにしても、なんて夢を見たんだ……」

 猿のようなバケモノに追い掛けられる夢でも不気味なのに百世老人がバケモノに変わるなんて悪趣味にも程があると愚痴っていると気配を感じた。

『夢じゃないですよ、私は貴方ですよ、貴方と同じ人魚の肉を食ったものですよ』

 ベッドの左、壁との隙間からぬっと百世老人の顔を付けたバケモノが現れた。


〝キィキィ、キキィ、キィキィ〟


 嬉しそうに鳴きながらバケモノが桑畑に覆い被さる。

「ひぅぅ……」

 桑畑は掠れた悲鳴しか出てこない。強い磯の匂いと何かが腐ったような生臭い匂いが混じったようなものが呼吸を塞いだ。

「たっ、助けて……いっ、嫌だ……」

 百世老人の顔を付けたバケモノが自分の中に入ってくるような感じがした。

『怖がることはありませんよ、私に全てを委ねなさい』

 竦んで動けない桑畑の耳元でバケモノに付いた百世老人の顔がニタリと笑った。


〝キィキィ、キキキィ〟


 バケモノが嬉しそうな甲高い声を上げる。桑畑が観念したと思ったのかバケモノの力が緩くなった。

「いっ、嫌だ!」

 桑畑がバケモノを突き飛ばす。

「うわっ! うわぁあぁぁーーーっ」

 そのまま叫びながら部屋を飛び出した。

「ばっ、バケモノが……バケモノが俺の中に入ってくる。俺の中にぃぃ……」

 マンションの前で暴れているところを通報されて警察に保護された。

 心神喪失状態の桑畑を見て会社の役員たちが暫く休養したほうがいいと勧められるままに磯山病院へとやってきたのだ。


 これが桑畑瑛貴さんが教えてくれた話だ。



 話を終えた桑畑が向かいに座る哲也を見つめた。

「今も時々バケモノの夢を見る。毎日じゃないが今も見るんだ。あの爺さんも猿みたいなバケモノ人魚に取憑かれてたんだ。それで爺さんの次に俺に目を付けた。俺は選ばれた。だからあのバケモノが俺の身体に入ってくるんだ……いや、もう既に入っているのかも知れん」

「バケモノに選ばれたって、本当なら大変じゃあ」

 顔を顰める哲也の前で桑畑がニタリと笑った。

「だけど悪いことばかりじゃない、力だ。人魚の力は本当だ。本当に怪我が早く治る。哲也くんも見ただろう? 力は本当なんだ。考えたんだが爺さんが死んだのは老衰だと思えば合点がいく、不死と言っているがそれは病気や怪我だけで寿命は延びたりしない、決められた寿命までの間は不死になる。どんな病気や怪我でも治る。そう思うんだ」

 いつの間にか桑畑の目に狂気が浮んでいた。益々顔を顰める哲也の向かいで桑畑がニヤつきながら愉しげに続ける。

「猿の人魚が入ってくるのは怖い……俺の身体を乗っ取ろうとしているのかもしれない、でも力は本当なんだ。暴れて警察に捕まったときも手足から血が出るほどの怪我をしてたんだ。それがその日の内に治ったんだ。足の骨折も完治に三ヶ月掛かるのを一ヶ月で完全に治った。これは凄いことなんだ。病気を恐れずに暮らせるってことだからな、大怪我をしても直ぐに治る。暴飲暴食、不摂生をしても何の心配も無い、寿命まで俺は無敵ってことだからな」

 哲也は桑畑を刺激しないように抑えた声で話し始める。

「僕も見たから信じます。怪我が治るのは凄いと思います。でも桑畑さん、先生が言っていたんだけど桑畑さんは治癒力が凄いだけだって、自然治癒力と言って医学ではまだ詳しく分かっていないものがあって桑畑さんはそれが普通の人より優れていて怪我や病気が早く治るって、数万人に一人居るか居ないかの凄い人だって言ってたから人魚とは関係が無いんじゃ……」

 小さなテーブルを両手で叩いて桑畑が身を乗り出した。

「違う! 人魚の力だ。全て猿の人魚の力なんだ」

 いつの間にか人魚をバケモノ呼ばわりしていないのに気付いた哲也が慌てて口を開く。

「そっ、そうですね、確かに治癒能力が高くても一瞬で擦り傷が治るわけないですよね、人魚の力ですよね」

「そうだ。人魚の力だ。俺は人魚を食べたんだ。だから力を貰えたんだ」

 テーブルに手を着いて向かいに座る哲也の顔を覗き込むようにして睨む桑畑には恐怖しか湧いてこない。

「そうですよね、桑畑さん凄いなぁ」

 刺激しないように褒めながら腰を上げる哲也を見て桑畑がにんまりと笑った。

「わかればいいんだよ、哲也くんは人魚を食べていないが猿の人魚の夢を見たのなら力が手に入るかも知れないよ、あの猿の人魚を受け入れたら力が貰えるよ」

 一刻も早くここを離れようと哲也が立ち上がる。

「あのバケモノを……あれを中に入れるくらいなら力なんていりません」

「バケモノじゃない! 人魚様だよ」

 ドアに向かおうとした哲也の腕を桑畑が掴んだ。

「ちょっ、すみません、離してください、見回りがあるんです。警備員ですから」

 焦る哲也を桑畑がじっと見つめる。

「なんてな、全部夢だよ夢」

 今までの狂気が嘘のように桑畑の顔に明るさが戻った。

「……なんだ吃驚した。からかわないでくださいよ、マジで焦りましたよ」

 桑畑の手を振り解こうとしていた哲也から力が抜けていく。

「あははははっ、悪い悪い、哲也くんってこういう怖い話しが好きなんだろ? だからさ」

 哲也のぎこちない笑みを見て桑畑が声を出して笑った。

「勘弁してくださいよ、怖い話は好きですけど怖い目に遭うのは御免です」

「あはははっ、そりゃそうだ。俺だって御免だ」

 普段と変わらぬ桑畑の様子に哲也は安堵した。

「じゃあ、話してくれたのは全部嘘なんですか?」

 哲也の質問で桑畑が笑いを止めた。

「いや、嘘じゃないよ、爺さんに何か分からない肉を食わされたのは本当だ。人魚なんて俺も信じちゃいないけどな、それで変な夢を見たのも本当だ。猿のバケモノみたいな人魚の夢だ」

 またおかしくなるのではないかと哲也が身構える。

「全て夢だったんだ……あの肉が悪かったのかな? あれを食ってからおかしくなった。幻覚を見るようになったんだ。あの百世っていう爺さんもおかしくなった俺が作り出した幻じゃないかって、精神がおかしくなったんじゃないかって、そう思ってこの病院に入院したんだ」

 後悔するような萎んだ表情で桑畑が椅子に座り直した。

「全部幻覚ってことですか?」

 ドアに手を掛けながら哲也が訊いた。

「いや、全部じゃない、初めに俺に肉を食わせた爺さんは本当にいたんだと思う、でもその後の爺さんは幻覚だったのかも知れない、医者も言っていたけど肉に薬物でも仕込まれていたんじゃないかって、それで変な夢を見て錯乱したんだろうって……あの爺さん、金が欲しくて人魚なんて言って変な肉を食わせたんだ。それで俺はノイローゼになったんだ」

「そうですか……」

 怪我が早く治るのは幻覚じゃないと思いながらも哲也はそれ以上何も言えなかった。

「まぁいいさ、暫く入院すればノイローゼも治るって先生も言ってたしな」

「話を聞かせてくれてありがとうございました。夕方の見回りがあるので僕はこれで失礼します」

 項垂れる桑畑に礼を言って哲也は部屋を出て行った。


 自分の部屋へと戻る道すがら哲也は気持ちが悪くなって立ち止まった。

「何なんだろう、嫌な感じだ。話し終わった直後の桑畑さんと普段の桑畑さん、まるで別の人みたいだった……バケモノが入ってくる。もう既に入っているかもとか言ってたな」

 バケモノに体を乗っ取られる途中なんじゃないかと思った。

「桑畑さん、悪い人じゃないから僕に何か出来ればいいんだけど……」

 病棟の壁に手を着いて息を整えていた哲也の背を誰かがポンッと叩いた。

「何も出来ないわよ」

「おわっ!」

 飛び退いて振り返ると香織が立っていた。

「ちょっ、いつの間に……」

 驚く哲也の頭を香織がペシッと叩く。

「いつの間も何も、私が歩いているのに哲也くんが気付いてなかっただけでしょ」

「えっ? ああ……すみません」

 確かに自分以外は誰も居なかったはずと思いながらも気持ちが悪くなって周りを見ていなかったのだと考えた。

「まったく」

 溜息をついてから香織が哲也を睨み付けた。

「桑畑さんの所に行ってたんでしょ」

「いや……それは…………ごめんなさい」

 嘘をついても直ぐにバレる。D病棟など見回りのときしか入っていかない所だ。

 哲也の両肩を掴んで香織が正面からその目を見つめる。

「ダメって言ったわよね、ノイローゼが酷くなるといけないから桑畑さんのところへ行くのは絶対にダメだって、私だけじゃなくて池田先生も言ってたよね」

「だって人魚っすよ、人魚の話なんて面白そうだったから……」

 桑畑の様子を思い出して哲也の声が萎んでいく。

「人魚なんて居ません! 居るわけないでしょ、全部桑畑さんの妄想、幻覚です」

 一段大きな声で叱り付けると香織が続ける。

「桑畑さんは幻覚を見るだけじゃなく、ノイローゼで人格障害も出てるのよ、変な話をして症状が悪化したら大変だからもう絶対に近付いちゃダメだからね」

「人格障害……」

 普段とは全く違う目に狂気を宿して話す桑畑を思い出した。人格障害なら納得だ。

「次に桑畑さんの部屋に行ったら池田先生にも叱って貰いますからね」

 静かな声で言う香織の正面で哲也が頷いた。

「それだけは勘弁してください、もう行きません、約束するっす」

 怒鳴ったりしないで本気で叱る香織は怖かった。それ以上に普段温厚な池田先生に叱られるのはもっと怖いと哲也は思った。



 翌日、朝食を食べている哲也の隣に桑畑が座ってきた。

「桑畑さん、おはようございます」

 口の中のパンを野菜ジュースで流し込むと哲也がペコッと頭を下げた。

 今朝の朝食はパンとコーンスープに茹で玉子と野菜ジュースだ。

「うん、おはよう」

 悩むような何とも言えない複雑な顔で桑畑が返した。

「何かあったんですか?」

 哲也の左で桑畑は力無くコクッと頷いた。

「うん、夢を見てな……」

「夢って、あのバケモノ人魚の夢ですか?」

 桑畑には関わるなと香織や池田先生には言われているが気になって仕方のない哲也は自然と訊いていた。

「うん、あいつが……あのバケモノが俺の中に入ってくるんだ。バケモノの顔が爺さんに変わって人魚の力をやるって言うんだ。それから俺の中に入ってくるんだ」

 窶れ顔で話す桑畑に哲也は思わず声を大きくする。

「ダメすっよ! 力なんていらないって言ってバケモノをぶん殴ってやればいいんすよ」

 怒っているのか哲也は普段のタメ口になっている。

 大声に驚いたのか周りで食べていた患者が一斉に哲也を見つめた。それを見て桑畑が窶れた顔に笑みを浮かべる。

「そんな事出来ないよ、あの気持ちの悪い顔を見たら全身震えて動けなくなる。それに……」

 迷うように少し考えてから桑畑が続ける。

「それに不死の力は正直欲しいんだ。会社をもっと成功させたい、日本一、いや世界一の企業にさせるのが夢なんだ。人魚の力があればそれが出来るような気がするんだ」

 注目を浴びたのが恥ずかしかったのか哲也が声を潜めた。

「だからといって体を乗っ取られたら何も出来なくなりますよ」

 桑畑が大きく頷いてから口を開く。

「それなんだ。俺が全く別の、あのバケモノになるなら嫌だが爺さんに……百世爺さんになるのならそれでもいいような気がするんだ」

「何言ってるんですか? 乗っ取られて桑畑さんが消えたらどうするんですか」

 心配に顔が険しく変わる哲也の左横で桑畑がハッとした表情だ。

「俺が消える? そうか……そういう可能性もあるのか」

「そうですよ、バケモノなんて追い返してください。夢なら桑畑さんの思い通りになるはずです。バケモノを殴りつけてやればいいんですよ」

 何度か夢の中で戦った経験のある哲也だ。的確なアドバイスだと思った。

「そうだな、そうしたほうがいいな……」

 考えるようにじっと食事の載ったトレーを見つめていた桑畑がひょいっと茹で玉子を掴んだ。

「茹で玉子嫌いなんだ。哲也くん食べてくれよ」

「いいっすけど、栄養バランス考えて作ってあるから出来たら自分で食べた方がいいっすよ」

 急に話題が変わって慌てたのかこたえる哲也はタメ口だ。

「玉子焼きはいいけど茹で玉子は黄身がボソボソして嫌いなんだ。頼むよ」

 桑畑が茹で玉子を右に座る哲也のトレーへと転がすように入れる。

「いいっすけど、代わりにあげるもの無いっすよ」

 交換するものを探すが飲みかけのコーンスープと野菜ジュースなど渡せるわけがない。

「いいよ、いいよ、俺が嫌いなだけだからさ、食べてくれるだけでいいよ」

「じゃあ、ありがたく貰っておくっす」

 人魚のことなど忘れたように桑畑が食べ始める。香織にも池田先生にも止められているのを思い出して哲也もそれ以上突っ込んで聞くのは止めた。



 夜十時過ぎ、哲也は見回りでD病棟へと入っていった。

「屋上の鍵は異常無しっと」

 いつものように最上階までエレベーターで上がってから階段を使って各フロアを見て回る。

「次は二階か……桑畑さんの部屋があるな」

 少し緊張した面持ちで二階へと降りていった。

「何だ?」

 D病棟211号室、桑畑の病室の前で立ち止まった。

 何やら話し声が聞こえてくる。テレビの音かと哲也はドアに耳を近付けて様子を窺う。

「……爺さん……あんた…………」

 ボソボソ聞こえてくる音はテレビではなく肉声だと思った。

「桑畑さん、誰か居るんですか? 消灯時間過ぎてますよ」

 哲也がドアをノックした。

 消灯時間はとっくに過ぎている。テレビは音を小さくすることで黙認されているが患者同士の部屋の行き来などはダメである。

「……心配無い……」

「爺さん……」

 まだボソボソと聞こえてくる。様子から二人で話し込んでいるらしい。

「入りますよ」

 再度ノックしてから哲也はドアを開けた。

「あれっ?」

 誰も居ない。奥のベッドで桑畑が眠っているだけだ。

「気の所為か?」

 テレビも消えている。念のために誰か潜んでいないかと部屋の中へと入った。

「爺さん、爺さんは何者なんだ?」

 声が聞こえて部屋を見回していた哲也がベッドで寝ている桑畑を見た。

「……爺さん……何者……」

 桑畑は目を閉じて眠ったままだ。

「寝言か」

 場合によっちゃ諍いになると気を引き締めていたのが一挙に抜けていく。

 安堵した哲也が桑畑を起さないように静かに部屋を出て行く。

『私は貴方ですよ、貴方と同じ人魚の肉を食ったものですよ』

 廊下に出てそっとドアを閉めた哲也の耳にハッキリと声が聞こえた。

「桑畑さん」

 ドアをバッと開けて名を呼ぶが桑畑はベッドで静かに寝息を立てていた。

「桑畑さん、起きてるんでしょ? からかわないでくださいよ」

 問い掛けに桑畑はこたえない、ベッドの上で寝息を立てている。何か怖くなった哲也はそっとドアを閉めて廊下を歩き出す。

「さっきの声、桑畑さんじゃ無かったような気がする。人魚の肉を食ったものって……」

 哲也の頭に夢で見た猿のバケモノのような人魚が浮んだ。

「にっ、二階も異常無し」

 哲也は逃げるように階段を下りていった。

 その後は何もなく見回りを終えて部屋に戻ると深夜の見回りに備えて仮眠を取った。



 深夜の三時前、哲也がD病棟へと入っていく。

「早いとこ済まそう」

 最上階から各フロアを見て回り二階へと降りてきた。

「桑畑さんの部屋だ」

 何やら異様な気配のようなものを感じて211号室の前で立ち止まる。

 ドアの前で様子を窺うが夜十時の見回りの時のように話し声は聞こえてこない。

「異常無しっと」

 ほっとして歩き出す。

「たっ、助けて……」

 桑畑の声が聞こえたような気がした。

 異様な気配がするので怖かったのだがドアをノックした。

「桑畑さん、入りますよ」

 助けを求める声を聞いては黙って通り過ぎるわけにはいかない、哲也はドアを開けた。

「ふくぅぅ……」

 哲也は歯を噛み締めて悲鳴を飲み込んだ。

 桑畑が横たわっている向こう、ベッドの脇に小柄な老人が見えた。

『私は貴方ですよ』

 老人が横になっている桑畑の上に跨った。

「くっ、くぅう……やっ、止めろ」

 必死になって抵抗しているようだが桑畑は動けない様子だ。

『私は貴方ですよ、貴方と同じ人魚の肉を食ったものですよ』

 老人の言葉がハッキリと聞こえた。夜十時の見回りで聞いた声と同じだ。

「桑畑さん」

 助けに行こうと数歩進んだ哲也の足が止まった。

 老人ではなかった。いや、先程までは確かに老人だった。だが今、桑畑の上に乗っているのは人ではない、夢で見たバケモノだ。猿のような体に魚の尾の付いた人魚のようなバケモノだ。

『キィキィキィ、これであと五十年は生きられる』

 只一つ、夢と違うところがあった。愉しげに笑うバケモノの顔だ。嘴が付いた人の目をした猿ではなく人間だ。老人の顔が付いていた。

「たっ、助けてくれ哲也くん……哲也くんが言ったとおりだ。バケモノが……こいつは俺を乗っ取るつもりだ」

 哲也に気付いた桑畑が必死の形相で助けを求める。

「桑畑さん!」

 近付こうとした時、バケモノが振り向いた。

『お前も来るか? 一緒になるか?』

 哲也を見てバケモノがニタリと笑った。

「ひぅっ、うぅ……」

 全身が総毛立った。

 ダメだ……。これはダメだと瞬時に分かった。

 普段の哲也なら相手が幽霊やバケモノでも向かっていっただろう、だが目の前に居るバケモノと目を合わせた瞬間、死を覚悟した。頭で理解したのではない、心も体も、全てがもうダメだと諦めたのだ。


 その時、ガタッと音を立ててドアが開いた。

「なんだ哲也くんか」

 ドアを開けたのは嶺弥だ。嶺弥は正規の警備員だ。深夜の見回りで騒ぎに気付いてやって来たのだろう。

「れっ、嶺弥さん……」

 振り向いた哲也の体から力が抜けていく、

「おいおい、どうしたんだ」

 嶺弥は駆け寄ると倒れそうな哲也を抱きかかえた。

「ばっ、バケモノが……」

 哲也がベッドを指差す。

「バケモノ? 何も居ないぞ」

 嶺弥の言葉に哲也が向き直るとバケモノは消えていた。ベッドには寝息を立てている桑畑しか居ない。

「貧血か? 立ち眩みでもしたのか? しっかりしてくれよ」

 心配する嶺弥にしがみつきながら哲也は室内を見回すが猿のような人魚のバケモノはどこにも居なかった。

「違うんです。バケモノが桑畑さんの中に……」

 哲也は途中で話すのを止めた。自分は患者だ。香織や嶺弥、眞部が普通に接してくれるが自分は心の病で入院している患者なのだ。兄のように慕っている嶺弥に病状が悪化したと思われたくなかった。

「……すみません」

「寝不足か何かで幻でも見たんだろう、今日はもう戻って寝るといい」

 悲しそうに謝る哲也に何か察したのか嶺弥が優しい。

「そうします。ありがとう嶺弥さん」

 眠っている桑畑をちらっと一瞥して哲也は部屋を出て行った。


 廊下の端にある階段へ哲也が消えていくのを病室の前で見送ると嶺弥は振り返ってまたドアを開けた。

「貴様が何をしようと勝手だ。だが哲也くんに手を出すのは許さん」

 嶺弥が感情の無い低い声で言った。ベッドの上、眠っていたはずの桑畑の目が開いている。

「もし何かすれば、その時は私が相手になる。覚えておけ」

 嶺弥が睨むと桑畑はスッと目を閉じた。



 翌朝、風邪でも曳いたのか哲也は体が怠くて朝食を抜いて寝ていた。

「哲也くん入るわよ」

 ドアをノックする音と共に看護師の香織が入ってきた。

「香織さん……」

 怠そうに起き上がろうとする哲也に香織が駆け寄る。

「寝てていいわよ、寝不足で風邪でも曳いたんじゃない」

 ベッドの上で上半身を起す哲也の額に香織が自分の額をくっつける。

「熱はないわね、よかった」

「かっ、香織さん」

 突然のことに哲也は顔どころか体全体が火照ってくる。

「心配したのよ」

 熱を測り終えると香織がチュッと哲也の頬にキスをした。

 気が高ぶったのか、ガバッと哲也が香織に抱き付く、

「かっ、香織さん……もう結婚するしか」

「バカ言ってんじゃないの」

 哲也を引き離すと香織はペシッと頭を叩いた。

「何でそうなるのよ、まったく」

 睨む香織の前で哲也が頭を摩りながら口を開いた。

「だって香織さんがチューしてくれたから」

「元気出たでしょ」

 悪戯っぽく笑う香織は普段よりもっと可愛かった。

 見惚れる哲也に香織が袋を渡す。

「朝ご飯食べてないんでしょ? 食べられるんなら食べときなさい、熱もないし疲れているだけならしっかりと食べて寝たら治るわよ」

 袋の中には菓子パン二つに缶コーヒー、それと栄養ドリンクが三つ入っていた。

「ありがとう香織さん、でもなんで……」

 何故、自分が寝ているのを知っているのか不思議だった。

「今朝、須賀さんから聞いたの、見回りでフラついてたって、栄養ドリンクは病院にあったやつだけど菓子パンとコーヒーは須賀さんが買ってきてくれたのよ」

「嶺弥さんが……」

 驚く哲也に香織も悪戯っぽい笑みのまま続ける。

「心配してたわよ、自分で見舞いに行けばいいのに様子を見るついでに渡しておいてくれって私にパン持たせて……結構シャイよね須賀さんって」

 嬉しそうに満面の笑顔で哲也が声を出して笑う。

「あはははっ、嶺弥さんらしいっす」

「その様子なら安心ね」

 優しい笑みの香織に哲也が頭を下げる。

「香織さん、ありがとうっす」

「まぁね、哲也くんには色々手伝って貰ってるからね」

 哲也がとぼけ顔でパンの入った袋を抱き締めた。

「了解っす。香織さんの愛は受け取ったっす」

「バカ言ってんじゃないの、これは貸しにしとくからね」

 叱り付けると香織は出て行った。


 まだ香織がドアの向こうに立っているのも知らずに哲也はベッドの上で身悶えしていた。

「ああぁ……香織さんのチュー気持ち良かったなぁ、いい匂いだし、優しいし、マジで付き合ってくれないかなぁ~~」

「まったく、馬鹿なんだから……でもよかった。まだ何もされていない」

 安堵するように息を付くと香織は廊下を歩いて行った。



 疲れが溜まっていただけなのか、香織のくれた栄養ドリンクが効いたのか、午前中横になっていたのが嘘のように昼にはすっかり体調も良くなり哲也は元気に昼食を食べに行った。

「白身魚のフライと唐揚げか、治らなかったら食べ損ねるところだった」

 今日のメニューは白身魚のフライと唐揚げ、温野菜の人参とジャガイモだ。唐揚げが大好きな哲也は体調が戻ってよかったと思った。

「あっ、桑畑さんだ」

 食堂の中央後ろに座っている桑畑を見つけて、哲也が隣に座った。

「こんにちはっす」

「おや、哲也くんか、こんにちは」

 挨拶を返す桑畑に少し違和感を感じた。

「昨日は眠れましたか? 変な夢は見てないですか」

 昨晩の出来事は哲也自身も本当にあったことなのか分からない、嶺弥が言うとおり疲れて幻覚を見たのかも知れない、それを確認したくて訊いてみた。

「変な夢?」

 首を傾げる桑畑に哲也は言葉を選んで続ける。

「気持ちの悪い夢を見るって言ってたじゃないですか」

「そんな事言ってたかな……」

 考え込む桑畑に哲也はズバリと訊いた。

「人魚の夢っすよ、猿のバケモノみたいな気持ちの悪い人魚に捕まって、体を乗っ取られる夢を見るって言ってたでしょ」

「人魚? ああ人魚の夢ね」

 思い出したように頷いてから桑畑が続ける。

「人魚の夢はもういいんだ。別に何もないし、悪いものでもなかったよ、只の夢だよ」

 哲也に助けを求めたことなど忘れた様子だ。

「……そうっすか」

 本人がいいと言うなら哲也がどうこうすることでもない。哲也自身も昨晩の事は事実なのか今一自信がない。

 話題を変えるように哲也が話し掛けた。

「人参交換しましょうか?」

 桑畑は人参が大嫌いだったのを思い出した。

「交換? 私の好きな人参を取ろうって言うのか」

 何だというように桑畑が哲也を睨んだ。

「えっ? 人参嫌いだったんじゃ……」

 驚く哲也に構わず桑畑が白身魚のフライを指差した。

「人参は大好きだ。それより交換してくれるなら唐揚げを白身魚のフライと替えてくれ、肉より魚の方が好きなんだ」

 哲也が戸惑いながら返事をする。

「えぇ? あっ、いいですけど……」

 おかしい、桑畑が嫌いなのは人参と魚だったはずだ。初めて会った時の昼食で哲也のブロッコリーとコロッケを桑畑の人参とアジフライに交換したのだ。嫌いだが魚は残さない程度には食べられると言っていたが人参は大嫌いで絶対に残すと言っていた。それが急に人参が大好きになるはずがない。

「ついでに僕の人参も食べてください」

 哲也は白身魚のフライと唐揚げを交換しながら人参も差し出した。本当に好きなのか試したかったのだ。

「いいのかい、ありがとう、人参は本当に好きでねぇ」

 ニコニコ笑顔で美味しそうに人参を食べる桑畑を見て哲也の中に不安が広がっていく。

「美味しいねぇ、人参は野菜の中で一番好きなんだよ、魚も好きだ。肉はダメだよ、日本人は昔から魚を食べてたんだ。肉より魚の方が体に良いんだよ」

 笑顔の桑畑を険しい顔をした哲也が覗き込む。

「でもこの前は人参が嫌いって言ってなかったですか?」

「人参が嫌い、私が? あははははっ、そんな事言うわけないだろう」

 笑い飛ばす桑畑の隣で哲也が黙り込む。

「人参は体に良いんだよ、魚もいい、魚はね……」

 桑畑は魚に対する蘊蓄を披露した後、肉が如何に悪いのかと話を始め、それが医学の話に繋がって聞いたこともない症状や専門用語が溢れるように桑畑の口から出てきた。

 桑畑さんじゃない……。哲也はそう思った。既に何かに体を乗っ取られたのだと。


 昼食を終えて食堂を出て行った桑畑を哲也は追った。

「桑畑さんしっかりしてください、バケモノに負けないでください」

 部屋に入る桑畑に続いて哲也も中へと入る。

「ちょっ、何をするんだい?」

 無断で入ってきた哲也に桑畑が渋い顔を向けた。

「バケモノめ! 桑畑さんから出て行け」

 怒鳴る哲也に桑畑が困惑する。

「バケモノ? 私が?」

「そうだ。お前が桑畑さんの体を乗っ取ったんだ」

 睨み付ける哲也の向かいで桑畑が声を出して笑い出す。

「あははははっ、何を言うんだ哲也くん、私がバケモノのはずがないだろう」

 相手が何をしてくるのか分からない、哲也は身構えながら続ける。

「騙そうったって無駄だぞ、お前は桑畑さんじゃない、桑畑さんは人参が大嫌いなんだ。それだけじゃないぞ、話し方が違う、桑畑さんは自分のことを俺って言ってた。今のお前のように私なんて言ってない」

 大笑いしていた桑畑の顔から笑みが消えた。

「まいったな、哲也くんは結構鋭いんだな」

「バカにするな! 早く出ていけ、桑畑さんを戻せ、戻さないと祓って貰うぞ、力のある霊能者を知っているんだからな」

 いつでも逃げられるように身構えながら哲也が怒った。自分一人ではどうにもならない時は眞部に頼ろうと考えていた。

「お祓いか……それは大事だな。でも私は私だよ、桑畑だよ」

 正面から哲也を見つめていた桑畑の表情がフッと変わった。

「俺も初めはあの猿のようなバケモノ人魚に体を乗っ取られるのかと思ったよ、だけど違った。乗っ取ったりはしなかった。授けてくれたんだ」

 桑畑の微妙な変化に気付いたのか哲也の緊張が少し緩んだ。

「授けてくれた? 授けたって何を?」

「人魚の力だ。俺は人魚と一つになったんだ」

「一つになった?」

 何を言っているのか分からないと怪訝な表情をする哲也に桑畑が微笑みながら話を続ける。

「人魚の知識を授かったんだ。爺さんが生きてきた経験や知識、爺さんだけじゃない、それ以前に人魚の肉を食べた人々の知識が俺に入ってきたんだ。俺と一つになったんだ。人魚は俺を乗っ取ったのじゃない融合したんだ。俺は爺さんたちと……人魚と融合して一つになったんだ」

 いつの間にか桑畑は普段の口調に戻っていた。

「融合したって……じゃあ桑畑さんは消えてないってことか」

 驚く哲也の前で桑畑がにんまりと笑った。

「そうだ。今目の前に居るだろ、俺は俺だ。桑畑瑛貴だ。だが昨日までの俺じゃない、爺さんたちと、人魚と一つになったんだ。不死の人魚の力だよ、人魚はこうやって融合して不死を得ている。こうやって何百年も生きてきたんだ。俺一人じゃない、魂が融合して俺の中にこれまで人魚の肉を食べた人が何人も居るんだ。多くの中に俺も居るんだ」

「桑畑さんの中に他にも多くの人がいるってことか」

 とても信じられない、バケモノが桑畑の口調を真似て嘘をついているのかも知れない、何か手はないかと考える哲也に桑畑がニタリと不気味に笑いかける。

「そうだ。みんな人魚の力を得たくて一つになった。哲也くんもどうだ?」

「どうだって、僕も一つになれって言うんですか?」

「そうだ。素晴らしいぞ、何でも出来るような幸福感に包まれる」

「どれだけ知識を得ることが出来ても僕は嫌ですよ、あんなバケモノと融合するなんて……」

 嫌悪するような表情の哲也を桑畑が睨み付けた。

「バケモノじゃない人魚様だ。俺はこの力を使って事業をもっと成功させるんだ。日本一なんて目じゃない世界一の企業にしてやる。これまで様々な人間と融合してきた人魚様の知識があれば出来るんだ。俺の……私の力だ」

 桑畑の目に狂気が浮んだ。

「僕は断ります。僕は僕のままでいい」

 ヤバいと感じた哲也がまた身構える。

「……そうか、なら私の邪魔はしないでくれ」

 引き攣った笑みを口の端に浮かべながら桑畑は病室のドアを開けた。

「わかったら出て行ってくれ、私はこれでいいんだ。幸せなんだ」

 桑畑がドアの外へ哲也を押し出す。

「ちょっ、桑畑さん、バケモノに負けないで……」

 中へ戻ろうとドアに手を掛けて開こうとする哲也を桑畑が睨み付ける。

「これ以上騒ぐなら看護師さんを呼びますよ」

「桑畑さん……」

 手を離した哲也の前でバタンとドアが閉まった。

 バケモノの話など誰も信じてくれないだろう、哲也がおかしくなったと思われるだけだ。今はこれ以上哲也には為す術はない。

「桑畑さん……多重人格になったみたいだ」

 バケモノと融合したなどと信じられないが桑畑の中に何かが居るのは確かだと哲也は思った。



 三日後、別人のように変わった桑畑が元気に退院していく。

「私は生まれ変わったんだ。何も怖いものはない、全てが手に取るように分かるんだ」

 見送りに来た哲也に桑畑が満面の笑みを見せた。

「桑畑さん、お願いしますから神社か寺に行ってお祓いを受けてください」

 治るどころか哲也には悪化したようにしか思えなかった。

 真剣な面持ちで頼む哲也を見て桑畑が声に出して笑い出す。

「お祓い? あははははっ、そんなものは無駄だよ、もう遅い、もう一つになったんだからな」

「なんで急に退院が決まったんですか……」

 訝しむ哲也の心を見透かしたように桑畑が笑顔のまま話出す。

「精神科医など今の私にとっては赤子の手を捻るようなものだ」

 桑畑は人魚と融合して知識が半端なく博識になっていた。精神医学も担当する医者よりも知っていて、現在の自分の症状がどうなれば正常に戻ったと認められるかが分かっていたので医者に治ったと認めさせることなど造作なかったと嘯いた。

「桑畑さん……」

 何か言おうとした哲也の言葉を桑畑が遮る。

「これからは百世と呼んでくれ」

「百世?」

 桑畑に人魚と言って怪しい肉を食べさせた老人と同じ名前だと気付いて哲也が顔を顰める。

「百の世を見てきた百世だ。私たちは代々そう名乗っている。これからは桑畑ではなく百世と名乗って生きていく、哲也くんにはまた会うかも知れない、覚えておいてくれ百世だ」

 桑畑はそう言うと迎えに来た高級外車に乗って帰っていった。



 その日の夜、哲也は夢を見た。

 以前見た猿のバケモノのような人魚が出てくる夢だ。

 只一つ違いがあった。猿の顔に嘴を生やし、人間の目を付けたようなバケモノの顔が桑畑の顔に変わっていた。


〝キィキィキィ、ギキィキィ〟


 甲高い声で鳴くバケモノに哲也が捕まった。

「はっ、離せ! 止めろ、入ってくるな」

 しがみついたバケモノが入ってくるように感じた。

「やっ、やめろ……」

 哲也の声が尻すぼみになっていく、逃れようともがいていた動きも止めた。

『気持ちが良いだろう? 人魚様はあらゆる知識や経験が豊富で悩みが無くなるんだ。一つになれば苦しみから解放されるんだ。哲也くんも一緒になろう』

 桑畑の顔をしたバケモノが哲也の耳元で囁いた。

「ああぁ……」

 幸福感に包まれて哲也は何も考えられなくなる。このまま一つになってもいいと思った。


「そこまでだ」

 声が聞こえて哲也の意識が戻っていく。

「嶺弥さん!」

 しがみつくバケモノを挟んで向こうに嶺弥が立っていた。

「哲也くん意識をハッキリと持て、バケモノに負けるな」

 自分を見つめる嶺弥の目を見ていると力が湧いてくるような気がした。

「嶺弥さん……わかりました」

 しっかりとした声でこたえる哲也に頷くと嶺弥がバケモノを叩き落とした。

『ひっ、ヒギギィーッ』

 バケモノの前に嶺弥が立つ、その手に刀らしき物を持っていた。

『ギキィィーッ』

 甲高い声で鳴きながらバケモノがバッと嶺弥に飛び掛かる。

「嘗めるな!」

 嶺弥がバケモノの左腕を切り落とした。

『ひぃ、ヒギギィィ、お前たちだって同じだろう、そいつを取り込んで……』

 恐怖に顔を引き攣らせてバケモノが数歩退く。

「煩い! 貴様と一緒にするな」

 嶺弥が刀を構える。

『気を付けろ、そいつらは……』

 何か言おうとしたバケモノを嶺弥が一刀両断した。


〝ギギィ、ギゲゲェェーーッ〟


 真っ二つになったバケモノが絶叫を上げて消えていった。


 刀を鞘に仕舞うと嶺弥が振り返る。

「哲也くん無事か?」

「あっ、ありがとう嶺弥さん」

 安堵したのかその場にへたり込む哲也を嶺弥が見据える。

「余り心配を掛けるな、心に隙があるから付け込まれる」

「ごめんなさい」

 泣き出しそうな顔で謝る哲也の前で嶺弥がフッと微笑んだ。

「まぁそこが哲也くんの良いところなんだがな」

「あっ、嶺弥さん」

 何か訊こうとしたとき、嶺弥の体が透けるように消えていく。

「うぅぅ……」

 哲也が目を覚ました。

「嶺弥さん?」

 辺りを見回すが自室のベッドの上だ。当然嶺弥の姿などどこにも無い。

「夢……夢だったのか」

 霊能者の眞部が出てくるならともかく嶺弥が出てくるなんておかしな夢だと一人で笑った。

「まだ一時じゃないか、見回りまで一時間半もあるぞ」

 時計を見ると午前一時を指してた。

「あんな夢を見るなんて……桑畑さん」

 ベッドに寝転がりながら桑畑のことを考える。



 不老不死は肉体ではなく魂だけだ。桑畑に肉を食べさせた百世老人が桑畑の体の中へと入り融合した。体を乗っ取るのではなく一つに混じったのだ。百世老人は、いや人魚はそうやって何百年も生きてきたのだ。

 だとしたら百世老人は人魚の肉をどこから持ってきたのだろうか?

 桑畑の体の中、魂には何人が居るのだろうか? 百世老人も前の人に旨い事言われて人魚の肉を食べさせられたのだろう。

 百世老人、いやバケモノは適合する人を探していた。元から治癒力の高い、何万人に一人の適合者を、そして桑畑を見つけ人魚の肉を食べさせた。そうすることで融合出来るのだろう、では自分は何なのだろう、哲也も適合者だというのだろうか? だが治癒力など高くはない、寧ろ他の人より傷の治りは遅い方だ。では、何故取り込もうとしたのだろうか? 自分には何かあるのだろうか、幾ら考えても心当たりは出てこない。

「桑畑さんはあれでよかったのかな……」

 入れ替わったという人は何人か見てきたが融合して一つになったというのは初めてだ。幾ら不老不死だといってもバケモノのような人魚に取り込まれるなんて御免だと思った。

「もう考えるのは止そう、退院した桑畑さんに僕が出来る事は何もない……嶺弥さんが追い払ってくれたから、バケモノの夢ももう見ないような気がする」

 夢を思い出してごろんと寝返りを打った。

「でもどうせなら嶺弥さんじゃなくて香織さんが出てくる夢がいいなぁ……夢の中でデートしたりさぁ、それでもちろん、えへへへへっ…………」

 ベッドの中でよからぬ妄想をしているうちに哲也は眠りに落ちていった。

「心配して見に来れば、まったく……」

 眠りに落ちる寸前、香織の呆れる声が聞こえたような気がした。


読んでいただき誠にありがとうございました。

次回更新は10月末に行います。


8月28日に竹書房さんから「怪奇現象と言う名の病気」が発売しました。

手に取ってもらえると嬉しいです。


では次回更新も頑張りますので読んで頂けると嬉しいです。

ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりの更新でしたが、変わらず面白かったです!
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