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第五十話 呪い水

 哲也が食堂で昼食をとっていると見たこともない患者が左隣に座って来た。

「お茶どうぞ」

 口の中に入っていたものを飲み込むと哲也は自分の右にあったお茶の入ったやかんを男の前に置いた。

「おぅっ、ありがとうな」

 三十過ぎくらいの少し小太りな男が軽く手を上げて礼を言った。

 哲也もペコッと礼を返して食事を続ける。新しく入ったらしい患者に色々聞きたかったが今日の昼食は哲也の好きな唐揚げだ。何も考えずに唐揚げの味を堪能したかったのだ。

「チッ! やっぱ不味いな」

 左隣に座った男が舌打ちした。哲也は自分の好きな唐揚げを不味いと言っているのかと男をチラッと見た。

(なんだお茶か)

 男は食事にはまだ手を付けていない、自分でコップに注いだお茶を飲んでいた。

(まぁ美味しくはないよな、不味くもないけどな)

 唐揚げと御飯が入った口をもごもごさせながら哲也もお茶を飲んだ。

 入院患者全て合わすと五百人を越える磯山病院だ。食堂で使うお茶は一番安いランクのものだろうことは考えなくとも分かる。だからといって不味いと口に出すほど酷いものではない、そこらのチェーン店で出てくるレベルのお茶だ。

「本当に不味いお茶だ」

 不味い不味いと言いながら男は何杯もコップに注いで飲んでいた。

 哲也は何か嫌なことでもあったんだろうなとスルーして自分の食事を続けた。

「あっ、もう無いぞお茶」

 哲也の向かいに座って食べていた波瀬が男の前にヤカンをドカッと置いた。

「最後に飲んだのお前だろ、新しいお茶貰って来いよ」

 空のコップをテーブルに置くと男が波瀬を睨み付ける。

「はぁ? 何言ってんだお前」

 気の強い波瀬が男を睨み返す。

「最後に飲んだヤツが新しいの貰ってくるんだ。さっさと行ってこい」

 波瀬が早く行けと言うように追い払うような仕草で手を振った。

「何で俺が行かなきゃなんねぇんだ。飲みたきゃ、お前が行ってこい」

 目の前に置かれたヤカンを男が波瀬の前にドカッと置き返す。それを見て波瀬が声を荒げる。

「んだと! この野郎」

「ああん、やんのかゴラァ」

 売り言葉に買い言葉、男も怒鳴り声で言い返した。

「ちょっ喧嘩はダメだよ波瀬、この人新人さんだよ、ちゃんと教えてやらないとダメだよ」

 波瀬の隣で食べていた山口が割って入った。

「山口は黙ってろ、最後に飲んだヤツが新しいお茶貰ってくるって教えてやってるだろが、それをこの馬鹿が絡んできたんだろが」

 馬鹿と言いながら波瀬が向かいに座る男を指差した。

「誰が馬鹿だてめぇ! 調子乗ってんじゃねぇぞ」

 座っていた男が立ち上がる。波瀬も黙っていない。

「ルールも守れない馬鹿だから馬鹿って言ったんだ」

「ダメだよ波瀬、怒られるよ」

 隣に座る波瀬を止めながら山口が斜め向かいの哲也を見つめる。

 昼食を終えた哲也が箸をトレーに置いた。

「喧嘩はダメ! 山口さんの言うとおりだよ」

 哲也が波瀬をジロッと睨み付けた。

「ちょっと待ってよ哲也くん、哲也くんも見てただろ、俺は悪くないだろ、お茶を貰ってくるルールだろ」

 慌てて言い訳する波瀬を見つめたまま哲也が続ける。

「うん、そうだけど新人さんだよ、波瀬さんはルール分かってるけど新しく入った人は知らないでしょ? 喧嘩腰じゃなくてちゃんと教えてやらないとダメだよ」

「だから教えてやろうとしたらこいつが……」

 こいつと指差されて男がさらにヒートアップする。

「はぁ? 何言ってんだ。持って来いって命令しただけだろが」

 男は波瀬から視線を哲也に向ける。

「それに何だお前? 偉そうに言いやがって」

 哲也は相手を宥めるように『まぁまぁ』という感じで手を振った。

「新しく入った人だよね? 僕は中田哲也、警備員です。この病院で常駐の警備をしています」

「けっ、警備員? だったらなんだよ」

 警備員と聞いて男の語気が少し弱まった。

「うん、さっきから見てたんだけどさ、ちょっと落ち着こうよ」

 落ち着けと言われたのが気に障ったのか男がまた語気を強める。

「はぁ、俺は別に悪くないだろが、こいつから喧嘩売ってきたから……」

 言葉を遮るように男の前に手を伸ばしながら哲也が口を開いた。

「わかってるから、貴方は悪くないからさ」

 悪くないと言われて男は席に着くと哲也を見つめた。

「病院には約束事、ルールがあるよね、それは貴方も分かっているよね」

 頷く男を見て哲也が続ける。

「病院が決めた約束事とは別に入院している患者さんたちが決めたルールもあるんだよ、例えば今使ってる食堂、適当に座っている様に見えるけど殆ど席が決まってる。毎日同じ席で食べている人が多いんだ。だから勝手に座ると揉め事になる。だから新しく入った人は看護師さんが教えてくれるはずだよ」

 優しく話す哲也に怒りも収ったのか男も落ち着いた様子でこたえる。

「うん、それは聞いた。この辺りは席が決まってないから大丈夫だってな」

 哲也たちが座っているのは食堂の真ん中の後ろだ。

 壁沿いの席は人気で座る人は決まっている。食事が運びやすい前の席も人気だ。不人気なのが真ん中の後ろ、その辺りは決まった席がなく好き勝手に座っても揉め事は起きない。

「席のことは聞いてるんだね、お茶のことは聞いてなかったの?」

 優しく訊く哲也の隣で男が知らないというように頷いた。

「そうか、じゃあ今教えるね、食堂はセルフだから自分で全部しないといけない。みんな並んでトレーに盛って貰うんだ。それで、お茶はテーブルに幾つか置いてある。一番初めは食堂のおばちゃんが置いて行ってくれるんだけどヤカンが空になったら最後に飲んだ人が新しいお茶を貰ってくるルールなんだ。これは病院が決めたんじゃなくて患者さんたちが自分たちで決めたルールなんだよ、だから今度からは気を付けてね」

「わかった。ヤカンを空にしたヤツが新しいお茶を貰ってくるんだな」

 頷いた男に哲也もありがとうと言うように頷き返すと続ける。

「お茶は食事を貰ったところ、あそこにヤカンを持っていく、おばちゃんが居なければお茶頂戴って言えば奥から出てくるよ」

 並んでトレーに食事を盛って貰うカウンターを指差しながら哲也が説明を終えた。

 向かいに座っていた波瀬が男の前にヤカンをドカッと置いた。

「そういう事だからな、だから最後に飲んだお前が新しいお茶を貰ってくるんだよ」

「てめぇ……」

 男がギロッと目を剥くのを見て、哲也が波瀬を叱り付ける。

「波瀬さんは黙ってて! これ以上揉めたら僕も怒るよ」

 波瀬を叱り付けた哲也の隣で怒鳴ろうとした男から険が引いていく。

「わかった俺が貰ってくるよ」

 立ち上がろうとした男の前で哲也がヤカンを手に取った。

「まぁ今日は僕が貰ってくるよ、食べ終わった食器返しに行く序でだ」

「悪いな警備員さん……中田さんって言ったな」

 座り直しながら男が訊いた。

「はい、中田哲也です。哲也って呼んでください。中田ってのは先生や看護師さんに何人かいるのでみんなには哲也って呼んでもらってます」

 哲也が再度自己紹介すると男も笑顔で返してくれた。

「俺は池上修司、二日前に入院したんだ」

「池上さんですね、よろしくお願いしますね」

「おぅ、こっちこそよろしくな哲也くん」

 男の笑顔を見て案外良い人なのかもと思いながらお茶を貰いにいった。

 心を病んでいるので当然だが、患者には色々な人がいる。

 何にでも突っ掛かってくるタイプか、入院したばかりで気が立っているのか、そのどちらかだろうと思っていたが池上はどうやら後者らしいので安心した。


 お茶を持って哲也が戻ってくる。

「ありがとう哲也くん」

 礼を言う池上の向かいに座る波瀬を睨み付けながら哲也がテーブルにヤカンを置いた。

「揉め事はダメだからね、ヤカンの件でまた何か言ったら怒るからね」

「わっ、わかってるよ哲也くん、気を付けるからさぁ」

 これ以上余計なことをしないように釘を刺す哲也の前で波瀬が作り笑いをしながらこたえた。

 哲也は溜息をつくと波瀬の隣に座る山口に視線を送る。

「波瀬さんはいつも喧嘩腰なんだから山口さん頼んだよ」

「うんわかったよ、哲也くん、任せてよ」

 山口が笑顔でこたえた。今一頼りにならないが何もしないよりマシだ。

 池上は気にした様子もなくヤカンからお茶をコップに注いで飲んでいた。

「やっぱ、不味いなぁ」

 呟く池上を見てこれ以上喧嘩はしないだろうと哲也は食堂を出た。

「そんなに不味いかなぁ……お茶」

 哲也は自分の味覚が鈍いのかなと思いながら部屋へと帰っていった。



 その日の夜十時半過ぎ、哲也が見回りでC病棟へと入っていく。

「早く済ませて続きが見たいなぁ」

 いつものようにエレベーターを使って最上階まで上がる。テレビで面白い映画をやっていたのだが見回り時間になったので仕方なく途中で部屋を出たのだ。続きが気になって仕方がない、見回りを手早く済ませてせめて結末だけでも見るつもりで普段より早足になっている。

「屋上の鍵オッケー」

 最上階まで上がり、屋上への鍵が閉まっているのを確認すると下りながら各階を見て回る。

「C棟、異常無しっと」

 一階まで見て回り、最後にロビーを通って病棟を出ようとしたとき気配を感じて哲也は立ち止まる。ロビーの隅、自動販売機が置いてある前の長椅子に誰か座っていた。

「誰ですか?」

 階段の近くから声を掛けても聞こえていないのか動きもしない。患者らしき人影は二つ見えた。髪型から男女に見える。

(夜に何してんだか)

 患者同士で逢い引きでもしているのかと思った哲也は警棒代わりにも使える長い懐中電灯を握り締めて近付いた。逆上して殴り掛かってくることもあるのだ。

「何しているんですか? 消灯時間過ぎて……」

 哲也はあれっと思った。一人しかいない、確かに男の隣に座る女らしき影が見えたのだが近付くと男が座っているだけだ。

「ああん?」

 男が不機嫌な顔で振り向いた。

「あっ、池上さん」

「おぅ、哲也くんか」

 座っていたのは池上だ。相手が哲也だと気が付くと池上の相好が崩れた。

「池上さん一人ですか?」

「ああ、そうだが何かあったのか?」

 池上が怪訝そうに顔を顰めた。哲也は不安にさせてはいけないと女らしき人影を見たことは話さずに何をしていたのかと話題を変えようとした。

「いえ、それより何して……」

 何をしていたのかと訊こうとしたが止めた。見ただけでわかった。池上の足下や長椅子の隣に空き缶が幾つも置いてある。

「ちょっと喉が渇いてさ」

 照れるように言う池上の手には缶コーヒーがあった。

「喉が渇いたって……飲み過ぎですよ」

 哲也が呆れ声を出す。池上の周辺には空き缶が十近く置いてある。

「分かってるんだけど喉が渇いて仕方ないんだ。だから不味いジュースでも飲んでるんだ」

 話ながら池上は持っていた缶コーヒーをグイッと飲んだ。

「本当に不味いコーヒーだ」

 一気に飲むと空き缶を足下に転がした。

「ああ不味い、不味い」

 不味いと言いながら池上が自動販売機に手を伸ばす。

「まだ飲むんですか? 体に悪いですよ」

 心配顔の哲也の前で苦笑いしながら池上が炭酸の入ったジュースを買った。

「うん、わかってるんだけどな……水やお茶じゃ渇きは収らないんだ。酒があれば一番いいんだが、ジュースやコーヒーでもたっぷり飲めばどうにか収るからさ」

「喉が渇いてるんなら仕方ないですね、それじゃあコーヒーはカフェインが入ってますから寝られなくなるとダメですから他のものにしてくださいね」

 医者や看護師ならともかく、哲也は警備員だ。池上が自分のお金で飲む分には哲也がどうこう言う立場ではない。

「そうだな、眠れないのは困るな、コーヒーは止めとくよ、他のジュースにするよ」

 素直に利いてくれた池上にこれ以上言って揉めるもの損だし哲也は見回りを再開することにした。

「消灯時間過ぎてますから騒がないようにお願いしますね」

「うん、わかった。あと二つくらい飲んだら収ると思うから直ぐに寝るよ」

 炭酸ジュースの缶を開けながら池上が頷いた。

「じゃあ僕は見回りがありますから、おやすみなさい池上さん」

「おぅ、おやすみ哲也くん」

 陽気に返すと池上は炭酸ジュースをゴクゴクと飲み出した。

「不味い、不味い」

 ロビーを離れていく哲也に池上の呟き声が聞こえてきた。

(何が不味いんだろうな、不味けりゃ飲まなかったらいいのに)

 少し不機嫌になりながら哲也はC病棟のドアの前で振り返ってロビーを見た。

「でもあの影は何だったんだろうな」

 池上の隣に座っていた人影を思い出す。ショートカットの髪をした女の影を確かに見たのだ。

(見間違い……じゃないよな、何の病気だろう池上さん)

 考えながらC病棟のドアに手をかける。池上は不味い不味いと言いながらまだ飲んでいた。

「直接訊いたら怒りそうだしなぁ……喉の渇きといい、女の影といい、池上さんには何かありそうだな、香織さんにでも聞いてみるかな」

 何の病気だろうと気にはなったが昼間の喧嘩腰の池上を見ているので直接聞かずに看護師の香織か早坂にでも聞こうとその場を後にしようとしたとき池上の呻きが聞こえた。

「痛ぇ! 痛ててて……」

 哲也が慌てて駆け寄っていく。

「池上さん、どうしました?」

「痛ぇ、痛ててて、体中が痛てえんだよぉ」

 池上が長椅子の上で丸まるようにして苦しんでいる。

「直ぐに看護師さんを呼びますから」

 只事ではないと哲也はナースステーションへと走った。


 一階だったこともあり奥にあるナースステーションから直ぐに看護師が駆け付けた。

「大丈夫ですか池上さん」

 看護師の森崎が声を掛けながら池上の背を摩る。

「痛ぇ、あちこち痛ぇ、手と足が痺れて動けねぇ」

 こたえる池上の顔は薄暗いロビーでもわかるくらい真っ青だ。

「先生を呼んでくるから哲也くんは池上さんに付いていてあげて」

「わかりました」

 香織の後輩で普段は今一頼りにならないと思っていた森崎がテキパキとこなすのを見て哲也は感心した様子で頷いた。

 当直の先生を連れて森崎と数人の看護師がやってくる。

「ありがとう哲也くん、助かったわ」

「ちょうど見回りだったんで良かったっす」

 森崎に礼を言われて哲也が照れながらこたえた。

 池上はストレッチャーに乗せられて運ばれていった。

 哲也は見回りを再開する。

「もう十一時か……さっさと見回り終らせよう」

 哲也がC病棟を出て行く、映画のことなどすっかり忘れていた。



 翌日、朝食を終えた哲也は池上の話しを聞こうとナースステーションへと向かった。

「森崎さんは夜勤だったからもう帰ってるよな、香織さんか早坂さんが居ればいいんだけど」

 廊下の柱に隠れながら様子を覗う、苦手な男性看護師の佐藤や望月が居ないか確認しているのだ。

「あっ、早坂さんだ。佐藤さんたちは居ないみたいだしラッキーだぞ」

 ナースステーションの受付近くを歩く早坂を見つけて哲也が隠れていた柱の陰から出る。

「早坂さんがどうかしたの?」

 後ろから声を掛けられて哲也がバッと振り返る。

「うわっ! かっ、香織さん」

 驚く哲也を見て香織がニコッと微笑んだ。

「いつの間に……」

 佐藤たち苦手な看護師が居ないかと確認するために後ろの廊下は見ていた。長い廊下には誰も居なかったはずだ。リノリウムの床は普通に歩けばペタペタと足音がする。哲也が後ろを確認してから一分ほどだ。足音を立てないようにゆっくりと歩いてきたのだとすれば長い廊下の距離的に有り得ない。

 驚いて言葉が続かない哲也の前で香織が微笑みながら続ける。

「それで何がラッキーなの? 早坂さんがいるとラッキーなのかな」

 愛くるしい顔で見つめられて普通の男なら喜ぶところだが今の哲也には逆に怖かった。

「いや、そのぅ……香織さんいつの間に来たんですか? さっき居なかったですよね、廊下見たけど誰も居なかったですよ」

 どうにか誤魔化そうとする哲也の向かいで香織が五メートルほど離れたドアを指差した。

「うん、そこの倉庫に居たから」

「倉庫ですか……あはは、吃驚した。香織さん急に出てきたからテレポートでもしてきたのかと思ったっす」

 引き攣った顔で乾いた笑い声を出す哲也を見つめて香織が楽しそうに微笑んだ。

「うふふっ、テレポートなんて出来たら哲也くんを逃がしたりしないわよ」

「あはははっ、そうっすね、テレポートなんてあるわけないっすよね」

 乾いた笑いを上げながら哲也が数歩後退る。

「それじゃあ僕はこれで」

 じゃあと言って去ろうとする哲也の肩を香織が掴んだ。

「まだでしょ? 早坂さんがいて、何がラッキーなのか聞いてないでしょ」

 笑みの消えた香織の顔を見て哲也は観念した。

「実は昨日……」

 昨晩見た池上のことを話した。

「池上さんね」

 香織の顔が険しく変わる。

「池上さんに近付いちゃダメよ、あの人ヤクザよ、人を刺して措置入院して来たのよ」

「池上さんがヤクザ……マジっすか」

 確かに喧嘩早いところや話し方からやんちゃだとわかっていたがまさか本職のヤクザとは思ってもみなかった。

 驚く哲也に険しい表情のまま香織が続ける。

「それだけじゃないのよ、重金属中毒で幻覚を見るようなのよ」

「重金属中毒っすか? なんすかそれ」

 首を傾げる哲也に香織が真剣な面持ちのまま説明する。


 重金属中毒とは銅や鉛に水銀やカドミウムなど有害元素による土壌や水質が汚染され、その汚染された水を直接飲んだり、汚染地域に棲んでいる魚や動物を食べる事によって人の体内に重金属が入って起る中毒だ。

 視野の周辺部が欠け、中心部だけしか見えなくなる求心性(きゅうしんせい)視野(しや)狭窄(きょうさく)、聴力障害や言葉の発生に障害が出る構音障害、四肢末端が痺れて動かせなくなったりする感覚障害など、中枢神経系疾患が起きる水銀中毒の水俣病。

 腎臓障害を生じ、次いで骨軟化症を起こし、腰痛や下肢の筋肉痛などの初期症状を経て酷くなれば咳をしたり僅かに体を動かしただけで激しい痛みを伴うようになり、最後には歩行出来なくなるカドミウム中毒のイタイイタイ病などは有名だ。


「だから池上さんには近付いたらダメよ、優しそうに見えてもヤクザなんて何やってるかわからないんですからね」

 重金属中毒の話の後に池上本人について香織が教えてくれた。


 池上(いけがみ)修司(しゅうじ)、三十五歳、一ヶ月ほど前から体の不調を訴え、幽霊が見えるなどと騒ぎ出す。間もなくして手足が痺れ、上手く歩くことが出来なくなったのを年下のヤクザにからかわれて逆上して持っていた包丁で胸や腹部を十三箇所も刺した傷害罪で逮捕された。

 拘置中に体の痛みを訴え、幽霊が出るなど騒ぐので鑑定を受けさせたところ精神異常はもちろんだが、重金属中毒になっていることもわかり罪に問えないということで措置入院が決まり磯山病院へとやってきた。


 説明を聞いた哲也が顔を強張らせる。

「そんな怖い中毒に池上さんがなってるって言うんすか?」

「うん、症状から水銀とカドミウムの中毒らしいわね、それで幻覚を見て暴れるらしいわ」

 真剣な表情でこたえる香織に哲也が身を乗り出す。

「幻覚で見る幽霊って女の幽霊ですか?」

「あらっ、何で知ってるの、もしかして池上さんに話しを聞いたんじゃないでしょうね」

 香織に睨まれて哲也が慌てて違うと手を振る。

「ちっ、違いますよ、池上さんに話しを聞いたんなら香織さんや早坂さんに聞きに来たりしませんよ」

「それもそうね……まぁいいわ」

 香織が表情を緩めるのを見て哲也はほっと安堵した。

 女の影を見たことは香織には話していない、哲也自身も患者なのだ。幽霊を見たなどと話すと病状が悪化したと思われるだけだ。

「そうっすよ、それでお茶とかジュースを大量に飲むのも中毒が原因なんすか?」

「うん……それねぇ、わからないのよ、中毒からくる複合的な症状かも知れないって先生は言うんだけどね」

 歯切れ悪くこたえる香織に悪いと思ったのか哲也が話を変える。

「それで何で重金属中毒になったんすか」

 香織がまた険しい顔をして話出す。

「水よ、田舎の……池上さんの実家は山の麓にあってね、近くの山で沢の水を飲んだのが原因らしいわ、人を刺した騒動があって警察が沢を調べたら水銀やカドミウムが出たらしいわ」

「水銀とかカドミウムって一番ヤバいヤツじゃないっすか」

 驚く哲也の向かいで香織が大きく頷いた。

「そうよ、池上さんは重度の中毒患者よ、本当なら隔離病棟へ入れるんだけど、ちょっとごたごたしてて暫くこっちで様子見するようになったのよ、だから池上さんには近付いちゃダメよ、幻覚を見て刺されたら嫌でしょ」

「幽霊の幻覚っすか、そうっすね、刺されるのは嫌っすけど……」

 哲也の顔がパーッと明るく変わった。女幽霊を見るという話を聞きに行きたくてうずうずしている顔だ。

「哲也くん!」

 察した香織が叱り付けようとしたとき、哲也がバッと走り出す。

「わかってるっすよ、無茶はしないっすから安心してください」

「待ちなさい、こらっ、哲也!」

 香織が怒鳴った時には哲也は既に階段へと消えていた。

「わかってるっす~~」

 階段を駆け上がる足音と共に哲也の声が聞こえてきた。

「まったく……わかってないわよ、強力な呪いなのよ」

 哲也が消えた階段の方を見つめながら香織が心配顔で呟いた。



 自分の部屋に戻った哲也はベッドにごろっと寝っ転がった。

「ヤクザか……怖いけどここは病院だし、怒りっぽいのは確かだけど池上さんは話し掛けやすかったしな」

 どうにかして池上から女幽霊を見るという話や重金属中毒の話しを聞けないかと思案する。

「幽霊か……確かに見たよな、でも自販機の影がそう見えただけかも知れないしな」

 昨晩見た池上の隣にいた女の影を思い出す。

「どうにか聞けないかなぁ……本物のヤクザかぁ…………」

 池上が本職のヤクザと聞いて、出来るだけ穏便に話を聞けないかと考えているうちに眠りに落ちていった。


 目覚まし時計の音で目を覚ます。

「うぅ……寝てた」

 ベッド脇の小さなテーブルの上に置いてある目覚まし時計を止める。

「見回り行かなきゃ」

 夕方の見回りの時間だ。

 哲也は近くのトイレに行き、手洗い場で顔を洗うと見回りを始める。

「食事時間ですよ、早く食堂に行ってくださいね」

 廊下や階段でうろうろしている患者たちに声を掛けながら各病棟を見て回る。

 C病棟を回っていた時、後ろから声を掛けられた。

「おぅ、哲也くん、昨日はありがとうな」

 池上が照れ臭そうに笑いながら礼を言った。

 すっかり回復した様子の池上を見て哲也が戯けるようにこたえる。

「池上さん、吃驚しましたよ」

「悪い悪い、時々痛くなるんだ」

 顔の前で手を立てにして悪いと謝る池上を見て哲也が意地悪顔になる。

「ジュースの飲み過ぎなんじゃないんですか?」

 冗談で言ったつもりだ。池上も冗談で返すと思っていたが違った。

「そうかもな……水に呪われてんだよ」

 すっと暗い表情に変わると池上が呟くように言った。

 向かいで聞いた哲也が顔を顰める。

「呪われてるって?」

「呪い水だよ」

 ぼそっと言った池上に詳しく聞こうとしたとき、向かいから香織がやってくるのが見えた。

「哲也くん!」

「やべぇ!」

 香織の怒り声に哲也はさっと身を正すと少し大きな声を出す。

「池上さん、夕食時間なので食堂へ行ってくださいね」

「おっ、おおぅ」

 なにやらわからぬ様子で池上が返事をした。

「じゃっ、じゃあ、僕は見回りの途中ですから」

 哲也はくるっと回れ右して廊下の奥へと早足で歩いて行った。

 池上の前へ香織がやってくる。

「まったく哲也くんは……」

 廊下の奥へ逃げていく哲也を一瞥した後で香織が池上に向き直る。

「池上さん、哲也くんが変な事訊いてきても構わないでくださいね」

「変な事って?」

 逆に訊かれて香織は躊躇した後で話出す。

「うん……何て言うか、哲也くん怖い話とか好きでね、患者さんたちにお化けの話とか不思議な話しは無いかって聞いて回っているのよ」

「あはははっ、哲也くんそっちの話しが好きなのか」

 大笑いした後で池上が悪戯っ子のような目で続ける。

「それじゃあ、飛びっ切り怖い話を聞かせてやれるぞ」

「池上さん! 調子に乗るから止めてくださいね」

 弱り顔の香織を見て池上は更に楽しそうに笑い出す。

「あはははっ、あんた良い女だな、哲也くんもたじたじだ」

「お願いしますよ池上さん、哲也くんに変な事言わないでくださいね」

「はははっ、わかった。わかった」

 楽しげに笑いながら池上は食堂へと歩いて行った。

「笑い事じゃないわよ……もう遅いか」

 呟く香織の目がキラッと光った。



 その日の夜十時過ぎ、見回りで哲也がC病棟へと入っていく。

「今日も異常無しっと」

 各階の見回りを終えて病棟を出て行こうとロビーを通る。

「今日もだ。池上さん……」

 ロビーの隅、自動販売機の前の長椅子に座っている人影が見えた。

「やっぱり」

 哲也がぼそっと呟く、池上の隣に座る女の影が見えたのだ。

 確かめてやろうと哲也は足音も立てずにそっと近付いていく。

 その時、池上が立ち上がった。

「あっ!?」

 女の影がすっと消えるのを見て哲也は思わず声を出していた。

「なんだ哲也くんか」

 池上が振り返った。ジュースを買おうと立ち上がったらしい。

「……池上さん、今日もですか?」

 一瞬、女の影のことを話そうと思ったが気分を害した池上が怒り出しても困ると思い話すのは止めた。

「おぅ、喉が渇いてな」

 笑顔でこたえる池上を見て哲也が呆れ声を出す。

「渇いたからって飲み過ぎるとまた痛くなりますよ」

 池上から笑みが消えた。

「痛くなるか……うん確かにな、でも飲み過ぎとは関係ないぞ、痛むのは呪いだ」

「呪いって?」

 哲也は思わず身を乗り出して訊いていた。

「哲也くんは怖い話しが好きなんだってな」

 意味ありげな顔で見つめる池上の向かいで哲也が頷く。

「ええ、好きで患者さんたちに聞いて回って看護師の東條香織さんに怒られています」

「あはははっ、昼間の美人の姉ちゃんだな」

 声を出して笑い出す池上を見て哲也が戯けて返事を返す。

「うん、美人だけど怒ると凄く怖いんですよ香織さん」

「あははははっ、キツそうだったからな、あの看護師」

 更に大笑いしながら池上は自動販売機から炭酸ジュースを二つ買った。

「怖い話なら俺も一つ知ってるぞ」

 言いながら池上は炭酸ジュースを一つ哲也に差し出した。

「本当ですか? どんな話しなんです」

 ジュースを受け取りながら哲也は期待に目を輝かせた。

「呪い水の伝説だ」

 池上は長椅子に座ると哲也にも座れと隣をポンッと叩いた。

「呪い水? なんですか、それ?」

 座りながら哲也が訊いた。

「そうだなぁ……哲也くんには話してもいいかもな、昨日助けて貰ったしな」

 炭酸ジュースの缶を開けながら池上が哲也を見つめた。

「聞かせてください、誰にも話したりしません、約束します」

 貰ったジュースを握り締めながら哲也が池上の目を見つめ返す。

「わかった。そこまで言うなら教えてやるよ」

 池上は炭酸ジュースをグイッと飲むと話を始めた。

 思いがけずに池上の方から話をしてくれたので哲也は内心ガッツポーズだ。



 これは池上修司さんから聞いた話だ。


 池上の生まれ故郷は東北地方の山の麓にある村だ。今は過疎化が進んで村人は二十人ほどしか居ない。高齢化も進んでいて後十年もしないうちに無くなるだろう。

 村には「呪い水」の伝説があり、池上も幼い頃に今は亡き祖母から聞いて怖さに震え上がったものである。


 呪い水の伝説とは次のような話だ。

 今は山の麓にあるが、村は元々、山奥にあった集落だ。

 大昔、雨が降らずに山に湧く水も無くなり沢も止まった。飲み水は元より作物を育てる事も出来なくなる。飢饉だ。

 集落で使う水は全て山から湧き出る湧き水だ。山の彼方此方で沢となって流れる湧き水を集落の近くまで引いてきて更に竹で作った管を使って各家々の水場まで持ってきて使っている。その湧き水が止まったのだ。集落にとって死活問題である。

 村人は神に祈り、雨乞いをするが効果は無い。

 困り果てていたとき、山奥から修験者が下りてきてこう言った。

『人柱じゃ、山の地脈が乱れ、水が止まったのじゃ、人柱を立て山神様に地脈を正して貰うしかあるまい、人柱じゃ』

 村人は半信半疑だった。それを見た修験者は証拠を見せると言って村の広場で護摩焚きを行った。直後、雨が降ってきた。時間にして三分もない通り雨だったが村人たちの心を動かすのには充分であった。


 直ぐに村の実力者たちによる会合が開かれた。議題はずばり誰を人柱、すなわち生け贄にするのかということだ。

「美津子さんがええ」

 誰も発言しない中、村長がぼそっと言った。

「美津子か……そうだな美津子が適任だ」

「そうじゃな、それがええ、人柱になれば儂の借金は勘弁してやろう」

「俺とこの借金も許してやるわ」

 実力者たちが次々と賛成した。

 皺寄せはいつの時代も弱者に来る。

 美津子は小作人だ。自分の田畑を持たずに地主から借りた田畑を耕していた。夫に先立たれて女手一つで二人の幼子を育てている。

「借金の棒引きと子供の世話は村で見るという事にしたらどうだろうか?」

「そうじゃな、それがええ、それで決まりじゃ」

 村長の一声で実力者たちが頷いて会合は終った。


 その日の内に美津子の家に話に行った。

 当然、美津子は承諾しない。

 村長たちは嫌がる美津子に一度に払えと借金の返済を迫る。毎月利息分と元金の一部を僅かに払うだけで精一杯の美津子が一度に払えるわけがない。出来ないと断ると村を出て行けと脅す。

 周りの村々も元から貧しく、この飢饉で更に余裕など無い。そんな中、幼子を抱えて村を出て生きていけるはずがない。

 弱り果てた美津子に村長たちが甘い言葉を囁く。

「人柱になってくれれば借金は棒引きしてやる。子供たちは村長が引き取り、村の子として育てる。それだけじゃない、二人の子には畑をやろう、これで将来安泰じゃ」

 二人の幼子の名が記された畑の権利書を二枚差し出しされて美津子は頷いた。このままでは親子三人死ぬだけだ。自分が犠牲になれば幼子たちは生きていける。畑があれば自分のように苦労しなくても済む、そう考えると頷くしかなかった。


 修験者の言う通りに山の中腹、この辺りで一番大きな沢のたもとに深い穴を掘って美津子を生きたまま埋めた。人柱だ。

 三日ほど待ったが何も変化はない、雨も降らないし、山の湧き水も止まったままだ。

 村人たちはどういう事かと修験者に詰め寄った。

『一人では足らんと山神様が仰っている。あと二人、合わせて三人の贄が必要じゃ』

 村人たちに囲まれて修験者が臆する風もなくこたえた。

「三人じゃと」

 村の長老が顔を顰め、村長が修験者を睨み付ける。

「あと二人か……だが嘘だったら只で済まさんぞ」

 修験者がくわっと目を見開いて大きな声を出す。

『儂は逃げも隠れもせん、三人でも雨が降らなんだら、次はこの儂を人柱にするとよかろう』

 自信に満ちた目で言われれば村人たちは信じるしかない。


 また会合が開かれる。

 皆険しい表情で相手の出方を窺っていた。自分の身内はもちろん、友人縁者から犠牲者は出したくないのだ。

「あの二人がええ、親子三人仲良く出来るじゃろ」

 村長がぼそっと言った。

「そうじゃな、それがええ」

 村の長老が頷くと他の実力者たちも次々と賛同した。

「村にとって余計な食い扶持も減るし俺も賛成だ」

「そうだな、村長がやった土地は借金の返済で俺たちに渡すというのなら賛成しよう」

 村長がわかったと言うように頷く、

「儂がやった土地の半分をお前たちで分けるといい、半分は返して貰う、雨が降れば村長としての面目も立つし、お前たちは全部とは言わんが借金の半分は戻ってくるだろう、それでどうだ?」

 村の長老が集まった実力者たちを見回す。

「そうじゃな、それがええ」

 美津子に金を貸していた村人たちが納得した顔で口を開く。

「わかった。それで手を打とう」

「承知した。これで雨が降れば万々歳だ」

「村のためとはいえ、親子仲良く人柱か……供養は懇ろにしてやろうぞ」

 美津子との約束など忘れた様子で村人たちが全員賛成して二人の幼子が次の人柱と決まった。


 翌日、まだ年端もいかぬ二人の幼子は人柱として生きたまま埋められた。

 母である美津子の埋められた大きな沢の対岸に深い穴を掘って二人の幼子を放り込んで泣くのも構わずに土を被せて埋めた。

 果たして、人柱の効果か、三日後に大雨が降り山の沢に流れが戻った。生活用水として沢の水を使っていた集落は救われた。人々は人柱となった母子に感謝して懇ろに供養した。



 一ヶ月ほどしたある日、大きな地震が起き、山が震え、集落の彼方此方の家屋が倒壊したり損傷を受けた。幸いな事に人死には出なかった。山の集落だ。木材は豊富にある。倒れた家屋を村人総出で直し普段の生活に戻るのにそれほど日は掛からなかった。


 それから暫くして集落で奇妙な病気が流行った。

 指先が痺れるなどの四肢末端の感覚障害、視野の周辺部が欠け、中心部だけしか見えなくなるなどの求心性(きゅうしんせい)視野(しや)狭窄(きょうさく)、呂律が回らなくなるなどの中枢性聴力障害、ズキズキと痛む疼痛(とうつう)が少しずつ体中に広がり、酷くなるとアヒルのようによちよちとしか歩けなくなり、最後には起き上がることも出来なくなる。

 それだけではない、病気を患った者が女の幽霊を見たと言い出す。初めは病気の症状で視野が狭くなり何かと見間違えたのだと人々は思っていたが一人二人じゃなく、何十人も幽霊を見たと騒ぎだし、それと共に奇妙な病気も広がっていった。約束を守らずに二人の幼子まで人柱にした美津子の祟りだと人々は噂した。


 村長を含め集落の実力者たちは祟りなど無いとして奇妙な病気の原因を探り始める。

 病気になった者たちに話しを聞いて回ると共通点があった。沢の水だ。病気になった者たちは同一の沢から水を引いていたことがわかったのだ。

 その沢とは美津子を人柱として埋めた沢だ。約束を破り、幼子二人を埋めた沢だ。

 大昔の事だ。学者や医者など集落の近くはもちろん、遠くの町にも居らず。都から呼ぶには莫大な費用が掛かり集落ではとてもじゃないが払うことなどできない。呼べたとしても今のような知識も無く原因はわからなかっただろう。

 村長たちは独自で色々と調べたが病気の原因は沢の水としか思えなかった。

 これには村長たちも美津子の祟りだと認めざるを得ない。その間にも病気は蔓延し、美津子の幽霊を見たと言う人も増え、恐れを成した人々が次々と村を離れていった。


 三ヶ月もすると集落の人口は半分にまで減った。それだけでなく大きな沢の水だけでなく他の沢の水を飲んだ者たちまで奇妙な病気に掛かりだす。沢の水を使った田畑で作った作物を食べると病気になることもわかり、残った人たちも生きていけないと集落を捨てて出て行く。

「この集落の水は飲めない、呪われた水だ。呪い水だ」

 村長は集落を移転することに決めた。

 三分の一ほどになった人々全員で山奥の集落を離れて山の麓に新たな村を作った。

 約束を破って美津子に祟られた話は「呪い水」として村の中で受け継がれて行く事になる。

 これが「呪い水」の伝説だ。


 そして、その山の麓に移転した村が池上の生まれ故郷である。

 池上は十八歳になると家出同然で村を出た。

「辛気臭い村に居たんじゃ俺まで腐っちまう」

 そう言って都会へ出たはいいが、悪い奴らに騙されて借金まみれになってしまう。

「逃げても無駄だ……殺されちまう」

 にっちもさっちもいかなくなった池上の前にある男が現れた。

「俺の所に来い、借金なんて返さなくてもよくなるぞ」

「ほっ、本当か? 何でもする。何でもするから助けてくれ」

 男の甘言に池上は縋った。

 借金の肩代わりをして貰う代わりに池上はヤクザとなった。元来、素行不良の池上だ。なるようになったということだ。


 頭が良いわけでもなく、要領の悪い池上はいつまで経っても下っ端の使いぱしりのまま三十五歳になっていた。

 そして事件を起す。

 些細なトラブルでヤクザに借金をしている女を殺してしまったのだ。相手は借金を踏み倒そうとした女だ。殺したことに対して同情も哀れみも慚愧さえ浮んでこなかった。

 だが死体の処理には困った。死体の処理自体は何度かやったことがある。風呂場で血を流し抜く、死体を切り刻んで冷蔵庫へと入れ腐らないようにする。後は生ゴミとして少しずつ処分していけばいい、骨も砕いて同じようにする。もちろん、処分する場所は選ぶ。

 大阪府などはゴミの分別などしていないのと同じだ。缶や瓶にペットボトルなどは分別して出すようになっているが他のゴミは全て一緒くたに出して全部焼却処分される。余程のことがないとゴミ袋の中身を一々調べたりはしない。他にも同じような地域は全国に沢山ある。その様な緩い地域を選んで処分するのだ。

 小さく切ってトイレで流すなどよく聞く話だが手間が掛かりすぎる。トイレは意外と簡単に詰まるのだ。肉の塊を詰まらせずに流すなど三センチ以下に切り刻まないと無理だ。余程のことが無い限りその様な手間は掛けない。


 今回は池上の個人的な問題だ。下っ端だったこともあり手伝ってくれる者も居ない。

「村に捨てちまおう」

 池上の頭に辛気臭い故郷の村が浮んだ。

「山奥なら誰も入らん、手っ取り早く捨てればいい」

 過疎が進んで殆ど人がいないのは噂で知っていた。

 両親や親族はもう居ないが実家はまだあった。自分の家だ。池上が訪ねても不審ではない。

「山奥に昔の集落があるって言ってたな、そこへ捨てればいい」

 呪い水の伝説は当然知っている。子供の頃は怖かったが大人になった今ではどうと言うことはない、子供が山へ入らないようにする為や沢で泳がないようにする為の作り話だろうと思っていた。集落が本当にあるなら見てやろう、そういう軽い気持ちで行く事にした。


 女を殺した翌朝、まだ暗い午前三時だ。池上は知人に車を借りると寝袋に入れた遺体を積んで故郷の村へと走らせた。

「序でに家を見てくるかな」

 人を殺した罪悪感など一切無い、遊びに行くように陽気に村へと向かう。

『ガフッ、ブフゥ』

 二時間ほど車を走らせ、周りの景色が街中から自然豊かな風景に変わった頃、後ろの席から吐くような呻きが聞こえた。

「なんだ?」

 ミラー越しに後席を見る。女の遺体が入った寝袋が転がっているだけで何も変化はない。

(気の所為か)

 街中ほど整備されていない道路を走る振動が呻きのように聞こえたのだと池上は気にもしない。

『ぐっ、ぐぐぅ……』

 暫く走っていてまた聞こえた。

「なんだ?」

 池上は車を路肩に止めた。今度は確実に声のような気がした。

 チラッとミラーで確認してから体を捻って後部座席を見た。

(生き返るわけなんてないよな)

 遺体の入った寝袋をじっと見つめる。

 女は確実に殺したはずだ。昨夜、首を絞めて殺して今朝まで浴室に放り込んでいたのだ。首を絞めて間もなくなら息を吹き返すことはあるが五時間以上経っているのだ生き返るなど有り得ない。

「やっぱ気の所為だ」

 ウインカーを出して車を道路に戻す。

 午前五時過ぎ、田舎道に車の数が次第に増えてくる時間帯だ。田舎は夜寝るのは早いが代わりに朝も早い、漁業関係者はもちろん、農業関係者も日が昇る前に田畑を見回りに行くなどよくあることだ。

『ゲフッ!』

 吐くような声に池上は思わずブレーキを踏んで車を止めていた。

「なっ、なんだ?」

 反射的に振り返って寝袋を見つめるが変化は無い。


〝ブブーーッ!〟


 後ろからクラクションを鳴らされて池上は慌てて車を走らせる。

(おかしい……確かめるか)

 普段なら鳴らした相手に怒鳴り返しているところだが動転していた池上は追い抜いていく車に愛想笑いをしながら頭を下げた。

 少し走った先に潰れた飲食店があったので池上はそこに車を停めた。

「なんもねぇ、やっぱ気の所為だ」

 車から降りて後ろの寝袋を確かめるが異常は無い、只の遺体だ。

「生き返るわけなんてねぇ、バカにしやがって」

 忌忌しげに寝袋を蹴ると運転席に戻る。

「ああ、あれか、ガスが出てくるってヤツだ」

 体内に溜まったガスが体から抜ける時に音を出すと聞いたことがある。同時に体が動くこともあるというのもヤクザ仲間から聞いていた。

 安心した様子で車を走らせる。その後も何度か呻き声のようなものが聞こえたが原因が分かった池上は気にした風もなく故郷の村へと辿り着いた。

「確か俺んちは……あったあった」

 記憶を辿って実家へと向かう。実家に戻るのは十八歳で家を出て以来だ。両親は町に住む兄夫婦と一緒だ。

 実家の敷地に車を入れると池上は降りた。

「この鍵で行けるかな?」

 家を出た時に持っていた鍵で玄関の戸は開いた。

「思ったより綺麗だな、時々来てるみたいだな」

 実家に入るのは十七年振りだが両親や兄とは三十を過ぎてから年に一度くらいは会うようになっていた。若い頃は親のことなど邪魔だとしか考えていなかったがこの頃は感謝していた。それで連絡くらいはするようになったのだ。だが必要以上に接触はしない。自分がヤクザで家族に迷惑を掛けないようにと気を使うくらいの心はあった。

「こんなんだったかな……少し休んでから山にいくか」

 家の中は記憶と同じものもあるが全く別のものもあった。

 少し埃が溜まっていたが居間のソファに腰を下ろし、来る途中にコンビニで買った弁当とペットボトルのお茶に缶ビールで朝食をとる。時刻は午前六時半だ。

「ちょっと寝てから埋めに行こう、さっきも畑に人がいたからな」

 過疎地の田舎だ。朝夕は畑仕事に出ている人もいるが昼間は人を見掛けることはない、それで今から行くよりも昼過ぎに山へ行った方が人に会わないだろうと思った。

「ふぅ、食った食った」

 弁当の箱や空き缶をビニール袋に放り込むと池上はそのままソファに寝転がった。

 運転疲れか、朝食を食べたからか、酒を飲んだ所為か、池上はスッと眠りに落ちていった。


『うっ、うぅっ、うっ、くぅぅぅ』


 どれくらい眠っただろう、しゃくり上げるような声が聞こえたような気がして目が覚めた。

(なんだ? 泣き声か)

 寝惚け頭で辺りを見回す。

(どこだここ? あっ、そうか田舎に帰ってきたんだ)

 いつもの部屋じゃないので一瞬混乱したが直ぐに実家だと思い出した。


『うっ、うぅぅ、うっ、ふぅぅ……』


 声が聞こえた。ソファで寝ている自分の頭の向こうからだ。

 誰か勝手に入ってきたのかと池上は寝転がったまま首を傾げるようにして頭の向こうを見た。

「ぐっ、ぐふぅ!」

 思わず息を呑んだ。女が立っていた。


『うぅぅ、うっ、くぅぅ……』


 ソファで横になっている池上の頭の直ぐ傍に下着姿の女が立ってしゃくり上げるように泣いていた。

「だっ、だれ……」

 誰だと問おうとしたとき、体が痺れたように動かなくなった。


『うっ、うぅぅ……許せない』


 青を通り越した真っ白な顔をした女が池上を恨めしげに睨んでいる。

「おっ、おまっ、お前……」

 見覚えがあった。体は痺れたように動かないが目は動いた。池上は確かめるように女を見た。

 耳が隠れるくらいのショートヘア、ほっそりとした体、黒の下着、左の鎖骨に大きな黒子が付いていた。

 池上を睨みながら女の口が動いた。


『散々嬲っておいて死んでからも蹴るなんて……許せない』


 遺体の入った寝袋を蹴ったことなど池上しか知らないことだ。それを知っているという事はあの女しかいない。池上が殺した女だ。


『許せない、許せない』


 真っ白な顔をした女が手を伸ばしてくる。

「ひぅっ!」

 恐怖に引き攣る池上の首を女が締め付ける。

「がっ、かぁぁ……」

 息が出来なくなり、気が遠くなる。


『許せない……』


「わぁあぁぁーーっ」

 悲鳴を上げながら池上が飛び起きた。

「おばっ、お化けが……」

 叫びながら辺りを見回すが女の姿などどこにも無い、少し埃の溜まった実家の居間だ。

「夢かよ」

 安堵しながらペットボトルのお茶を飲んだ。

「くそっ、変な夢見たぜ」

 忌忌しげに吐き捨てた。自分にもまだ良心が残っていて、こんな夢を見たんだと思うと腹が立ってきた。

「お化けが怖くてヤクザが出来るかよ」

 ペットボトルのお茶を飲み干すと池上は立ち上がった。

「昼の一時か、そろそろいいな」

 五時間半ほど眠っていたようだ。

 池上は家を出ると車へ乗り込む、

「化けて出ても無駄だぞ、あいにく幽霊とか神とか信じてないからな」

 後席に転がる遺体の入った寝袋に嘯くと山へと車を走らせた。

 舗装された道路から土が剥き出しの山道へと入り山奥へと登っていく。

「車はここまでか……面倒だがもう少し先に埋めるか」

 雑草が生い茂り道を塞いでいる前で車を止めた。

「呪い水の村ってもっと先にあるのかな」

 車を降りて山を見上げる。今いる場所は六合目辺りだ。

 雑草が刈られて車が入れるという事はこの辺りまで人が入って来ているということだ。逆に言えばここから先は滅多に人が入らない場所だという事である。

「手間掛けさせやがって」

 後席に置いていた遺体の入った寝袋を乱暴に降ろす。

「背負子とシャベルだ」

 トランクから背負子と大きなスコップを取り出して寝袋と一緒に登山に使う背負子に縛り付ける。

「おっと、お茶お茶」

 余分に買っておいたペットボトルのお茶を助手席から取ると背負子を背負った。

「くそ重てぇな」

 愚痴りながら雑草が生えた山道を上り始めた。

「車は入れないが歩いて通れるか……埋めるならもっと奥だな」

 今回の殺人は個人的なものだ。頼まれたものなら組織が守ってくれる。遺体の処分も指示してくれるが今回はそれがない。それこそバレたら迷惑を掛けて大変なことになるかも知れないので一人で済ませ、何も無かったことにするしかない。

「重てぇなぁ、何食ってんだこの馬鹿女」

 藪を掻き分け三十分ほど山を登ると開けた場所に出た。開けたと言っても地面が剥き出しな平地ではない、木が生えていないだけで腰の辺りまである雑草で覆われている場所だ。

「石垣かな」

 何処か休める場所を探していた目に石が組んであるのが見えた。

「用水路の跡か……と言うことはここが集落かよ」

 石を組んで作ったような溝があった。沢から水を引き込んでいた水路跡だ。

「家なんて無くなってるぞ、まぁ大昔だって聞いてたからな」

 辺りを見回すと家が建っていたであろう土台らしき跡も彼方此方に見えた。

「ここが呪い水の村かよ、廃村どころか只の野っ原じゃねぇか」

 子供の頃に怖がっていたのが馬鹿らしくなるような風景だ。

「まあいい、適当に埋めて帰ろう」

 背負子を降ろして一休みする。

「もう一つお茶買っててよかったぜ」

 用水路跡の石垣に腰を掛けてペットボトルのお茶を飲んだ。

「さて、さっさと埋めるか」

 タバコを一服した後で背負子を背負って近くの藪の中へと入った。

「一メートル以上掘らないとな、クソ馬鹿女が」

 脇に置いた寝袋をガンガン蹴った後でスコップを使って穴を掘る。

 浅いと獣が掘り起こす。食い散らかした跡から発見されないとも限らないので最低一メートル以上、出来るなら二メートル近くまで掘って埋めると掘り返されることは少なくなる。

「あ~っ、疲れた。クソ馬鹿女が!」

 愚痴りながら穴を掘り続けた。

 途中何度か休みながら深さ一メートル五十センチほどの穴が出来た。

「ふぅ、やっと掘れたぜ、まったく馬鹿女が」

 ペットボトルのお茶に手を伸ばすが殆ど残っていない、土を掘りながら飲んでいて空になっているのに気付かなかった。

「くそっ、もう一つ買っておけばよかった」

 喉の渇きに腹立たしさを覚えて、穴の中へ寝袋を蹴り落した。

「てめぇが悪いんだからな、金は返さねぇ、風俗も嫌だってんなら殺すしかないだろ」

 憎々しげに愚痴りながら土を被せていく、掘り起こした土を穴に戻し終えた頃には喉はカラカラだ。

「何処かに水ないかな……」

 子供の頃に近くの山で遊んでいて喉が渇いた時に湧き水を飲んでいたのを思い出す。

「水路を辿っていけばいいんだ」

 沢から引いてる水路だ。辿っていけば湧き水のある場所に出るはずだと池上は歩き出す。



 子供の頃を思い出したのか、水路の細い壁の上をバランスを取って楽しげに歩いて行く、石を組んで出来た水路跡が細い道のように藪の奥へと続いていた。雑草が生えていないので歩きやすい、暫く行くと水の音が聞こえてきた。


〝サザァーーッ、サザザァァーーッ〟


「あった。水だ」

 小さな沢が山肌を削るように流れていた。

「少ないなぁ、これじゃあ水路に流れてこないわけだ」

 沢は岩を切るように溝は深かったが流れている水は底に付くくらいに少ない。

「昔はもっと多くてこの水路まで流れてきてたんだろうな」

 石造りの水路の端は沢の岩を大きく削った場所にあった。昔はその辺りまで水量があったのだろう。

 足場を探して沢の下まで降りていく、小さな沢で一メートルもないので直ぐに降りることが出来た。

「おっ、冷たいな」

 沢の水で手を洗う、綺麗な水に見える。

「この水も飲めそうだけど、もう少し上にいくか」

 険しい岩場では無い、素人でも登って行けそうだ。

 池上は上流へと登って行った。水が湧き出す源泉があればいいが無くても上流の方が綺麗な水なのは考えなくともわかる。

「ここまでだな」

 二十分ほど登っただろうか、大きな岩に行く手を阻まれた。

「ここでいいか、飲もう」

 岩の脇を通れば更に登れそうだったが喉が渇いてカラカラだったこともあり、この辺りで妥協した。

「水はどうだ?」

 沢の水を手で掬うと色や匂いを確かめた。

「うん、飲めそうだ」

 濁りも無いし変な匂いも無かったので池上は一口口に含んだ。

「うん!? 美味い」

 喉が限界までカラカラなのを考慮しても水は美味しかった。

「ペットボトルがあったな」

 空になったお茶のペットボトルを使って水を汲むとゴクゴク喉を鳴らして飲んだ。

「美味い、美味い、市販のミネラルウォーターなんかより美味いぞ」

 水の美味しさに池上は我を忘れたようにたらふく飲んだ。

「ふぅ、美味かった」

 渇きを癒やすと沢の岩に腰掛けてタバコを一服だ。

「もう夕方か……」

 時計を見ると午後四時前だ。一時過ぎに実家を出たから、かれこれ三時間近く掛かっている。

「穴を掘るのに手間取ったからな、あのクソ女が」

 愚痴りながらタバコの吸い殻を捨てようとして手を止めた。

「おっと、沢はダメだ。こんなに美味い水を汚しちゃ罰が当たる」

 立ち上がると吸い殻を足下の岩の上で踏み消す。

「綺麗だなぁ、川底が赤く染まってらぁ」

 夕日が山肌を照らす。沢が赤く染まって見事と言うほどに綺麗だった。

「ペットボトルに水汲んで帰るか」

 お茶の入っていた空のペットボトルに沢の水を汲んでから帰路についた。

「シャベルは置いていこう」

 女の遺体の入った寝袋を埋めた辺りで一休みする。

「今度処理を頼まれた時に使えるな」

 スコップを近くの木の根元に突き刺して置いていくことにする。また使うことがあるかも知れないと物騒なことを考えていた。

「悪く思うなよ、お前が悪いんだぜ」

 寝袋を埋めた跡に吐き捨てるように言うと池上は山を降りていった。

 実家に戻った頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。

「泊まるっていっても晩飯無いからな」

 懐かしそうに家の周りを見回した後で車に乗り込みそのまま一人暮らしをしているマンションまで帰っていった。



 自分の部屋に戻った頃には夜の十時を回っていた。

「ふぅ、今日は疲れたなぁ」

 シャワーを浴びて汚れを落とし、コンビニで買った弁当と缶酎ハイで遅い夕食をとると疲れていたのか直ぐに眠くなってきた。

「ふわぁぁ~~っっ、眠い」

 そのままベッドに倒れ込んで眠った。


〝サザァーーッ、サザザァァーーッ〟


 どれくらい眠っただろう、沢の音が聞こえたような気がして目を覚ます。

「水の音だ……そうだ! 汲んできた水だ」

 空のペットボトルに汲んできた沢の水を思い出す。

「確か車の助手席に置いたままだったな」

 水の美味しさを思い出し、すっかり目の覚めた池上はマンションの駐車場へと向かった。

「んん? 誰だ?」

 車の後部座席に人影のようなものを見て池上が走り出す。

「誰だてめぇ!」

 車上荒らしかと怒鳴りながら近付くが誰も居ない。

「気の所為か……」

 ドアを開けて後部座席を見るが人のいた気配すら無い。

「寝惚けてたかな」

 駐車場の外灯の反射が寝惚けていて人影に見えたのだろうと気にもせずに助手席に置いてあった沢の水が入ったペットボトルを持って部屋へと戻った。


 部屋へと戻り、冷蔵庫の前でじっとペットボトルを見つめる。

「ぬるいな……冷たい方が美味いよな」

 飲みたかったが我慢した。沢の水は冷たくて美味かった。この水も冷やした方が美味いに決まっているとペットボトルを冷蔵庫へと入れてベッドへと転がった。

「明日が楽しみだ」

 沢の水を飲むことを楽しみに眠りについた。


『うっ、うぅっ、うっ、くぅぅぅ』


 眠りに吸い込まれていく寸前、声が聞こえた。

「煩いなぁ」

 寝返りを打った耳にはっきりと聞こえてきた。


『うっ、うぅぅ……許せない』


 嗚咽するような女の声だ。

(許せない? あの女だ)

 実家で昼寝した時に夢に見た女幽霊を思い出した。


『うっ、うぅぅ、うっ、ふぅぅ……』


 女の嗚咽するような声が更にはっきりと聞こえると同時に体が痺れて動けなくなる。


『うっ、うぅぅ……許せない』


 寝返りを打った頭の後ろから声が近付いてくる。


『許せない、呪ってやる』


 横向きに寝ている耳の直ぐ傍で声が聞こえた。池上は目だけを動かして上を見る。

 下着姿の女がいた。耳が隠れるくらいのショートヘア、ほっそりとした体、黒の下着、左の鎖骨に大きな黒子が付いている。

 あの女だ。殺して寝袋に入れて山に埋めた女が池上の顔を覗き込んでいた。


『うぅ……許せない、呪ってやる。くぅぅぅ……』


 嗚咽しながら女が手を伸ばして池上の首を絞めてくる。

「がっ、ががっ!」

 息が出来ずにビクッと痙攣した瞬間、体の痺れが無くなり動けるようになる。

「がっ、ぐわぁあぁーーっ」

 叫びながら女を押し退ける。

「ふざけんじゃねぇ!」

 ガバッと上半身を起して女の居た辺りを見るが何も居ない。

「なっ、なん……また夢かよ、まったく俺もまだまだだな」

 池上は幽霊など信じていない、十年以上ヤクザとして生きてきた。人に言えない酷いことを沢山してきた。何人か殺害もしている。恨む者など何人もいるだろう、だが幽霊など一度も見なかった。だから幽霊などいないと確信していた。

「ちっ、酷い夢だ。こんなの話したら笑われるぜ」

 自嘲しながら起き上がる。時計を見ると深夜の二時を回っていた。

「もう冷えてるかな」

 喉の渇きと共に冷蔵庫に入れてある沢の水を思い出した。

「いい感じに冷えてるぜ」

 冷蔵庫から沢の水が入ったペットボトルを取り出す。

「ちょっとだけ飲もう」

 一口だけ飲むつもりが余りの美味しさに全部飲んでしまった。

「ふぅっ、美味しかったぁ~~」

 薄暗い部屋の中、空のペットボトルをじっと見つめる。

「美味すぎるんだよな、全部飲んじまった……」

 惜しそうに呟くと空のペットボトルをテーブルの上に置いて、またベッドに潜り込んだ。

 その後は女幽霊の夢も見ることもなく熟睡することが出来た。



 翌日、沢の水が飲みたくて堪らなくなり兄貴分からの頼まれ仕事も手に付かなくなる。

「酒に使ったら美味いだろうな、割るのもいいが、凍らせて氷にしてもいいな」

 そのまま飲んでも美味いのだ。ウイスキーや焼酎で割るとどれくらい美味いだろうかと考えると居ても立っても居られなくなる。

「汲みに行こう」

 兄貴分の仕事を終らせると深夜にも拘わらずに池上は実家へと車を走らせた。

「早く水が飲みたい……いっぱい汲んでこよう」

 途中で見つけた二十四時間やっているスーパーへと入っていく、食料はもちろんのこと日用品も豊富に置いてある店だ。

「あった。あった」

 十リットル入る折畳み式のビニール製の飲料水用タンクを三つ買うと直ぐに車に戻る。

「ああ、朝飯も買ってこなきゃな」

 一旦車に戻った池上が飲料水用タンクを後部座席に放り込むとまた店に入っていく、沢の水のことで頭はいっぱいで思考が追い付かない状態だ。

「飯も買ったし、お茶も酒も買った。タバコはある。よしっ、大丈夫だ」

 忘れ物はないかと声に出して確認すると車を走らせた。


 まだ日の昇らない朝の四時前に過疎の村にある実家へと着くことが出来た。

「流石に夜は危ないな、熊はいないだろうが猪くらいならいるだろうからな」

 一時も早く沢へと行きたかったが、道無き山を登るのは危険だと判断して夜が明けるのを待つ事にした。

「でも早く飲みたいしな」

 実家に車を止めずにそのまま走らせて件の山の麓に停めた。

「ふぅ、食った食った」

 車の中で弁当を食べ酒を飲む、良い感じにほろ酔いになったころ、日が昇ってきた。

「よしっ、行くか!」

 後部座席に置いていた折畳み式の飲料タンクを持って車を降りる。

「背負子を乗せたままでよかったな」

 車のトランクから背負子を引っ張り出す。数日前に女の遺体の入った寝袋を背負うのに使った背負子だ。

「これで楽に運べるぞ」

 折畳み式の飲料タンクを背負子に縛り付けて背負った。死体を運ぶのに使った背負子だが池上は気にもしない。

「いっぱい汲んでくるぞ」

 朝靄が立ちこめる山道を元気に登っていく、沢の水のことで頭がいっぱいだ。

 三十分ほど歩いて山奥の集落跡に辿り着く。

「馬鹿女はっと、大丈夫だな」

 寝袋に入れた女の遺体を埋めた場所を確かめる。獣が荒らした様子もないことに安堵してタバコを一服した。

「化けて出ても無駄だぞ、幽霊なんて居ない、何人も殺したんだ。恨み言言ってたヤツも居たよ、化けて出てやるって言ったヤツも居る。でも何も無かった。だから幽霊なんていない」

 吸い終わったタバコの吸い殻を埋めた場所で踏み付けるようにして消しながら池上が嘯いた。

「さてと馬鹿女なんか構ってられるかよ、水だ水」

 石造りの用水路跡を通って沢へと向かった。


〝サザァーーッ、サザザァァーーッ〟


 水の音が聞こえてくると池上は駆け出した。

「水だ。水」

 沢に降りると手で掬って水を飲む、

「冷たくて美味い……でももっと上流の方が美味かったよな」

 初めに水を飲んだ場所まで岩場を歩いて登っていった。

「ここだ。ここ」

 水を汲んだ場所に着くと沢を見渡す。

「赤いな……川底が赤いんだ」

 数日前に来た時は喉が渇きすぎて気付かなかったが川底が赤かった。夕日に染まっていたのでは無く川底の砂が赤かったのだ。

「赤くて綺麗だ。これが美味さの秘密かもな」

 底の砂や岩は赤いが水は澄んでいる。変な匂いも無い、数日前に飲んで腹も壊していないのだ。赤いのを変に思うことなど無く、逆にこれが美味い味と関係あるのかもなと気楽に考えながら持ってきた折畳み式の飲料タンクに水を汲んだ。

「これだけあれば一週間は持つぞ」

 飲料タンク三つで三十リットルだ。一日四リットル使っても一週間は余裕で持つ。

「やっぱ美味いな」

 タンクに汲み終わると沢に顔を付けてゴクゴクと水を飲んだ。

「何だろうな、この赤いのは」

 沢の底に溜まっている赤い砂を手で掬う、赤いだけでサラサラしていて普通の砂と同じだ。

「砂なんてどうでもいいか、それよりさっさと帰ろう、誰かに見つかると面倒だ」

 この水で酒を割って飲めばさぞかし美味いだろうと急いで帰路についた。


 道無き山、藪を掻き分け下っていく。

「ふぅ、ふぅ、馬鹿女より水の方が軽いのに、やっぱ下りの方が重く感じるな」

 下り道の所為か体重五十キロ近い女の遺体を背負って登った時より三十キロの水入りタンクの方が重く感じた。

「ふぅ、ふぅ、少し休むか」

 昔は山道だったらしき平らな場所で一休みする事にした。

 背負子を下ろし、三つ括り付けてある水タンクの一番上のタンクを外すと蓋を開けてそのまま口を付けて水を飲んだ。

「ふぅーっ、美味い。美味いけど、温くなってるな、やっぱ冷えた方が美味いよな」

 喉の渇きを癒やすとタンクを括り付けて背負子を背負った。


『うっ、うぅぅ……』


 歩き出そうとしたとき、後ろから声が聞こえた。何事かと池上が振り返る。

「気の所為か」

 辺りを見回すが人などいない、当然だ。老人ばかりの過疎の村にある山、それも道も無い山奥だ。人など入ってくるわけがない。

「立ち止まると重いんだよな」

 背負子を背負い直すと池上は前に向き直って歩き出す。


『うぅっ、ぐぅうぅ……許さない』


 直ぐ後ろから声が聞こえた。池上が反射的に振り返って辺りを見回すが何も居ない。


『うぅぅ……許さない…………呪ってやる』


 振り返った池上の後ろから声が聞こえた。

「なんだ!?」

 バッと前に向き直って辺りを探るが人はもちろん獣もいない。


『許さない、許さない……呪ってやる』


 ハッキリと聞こえた。

(背負っている背負子だ!)

 池上は慌てて背負子を肩から外した。

「うわぁっ!!」

 降ろした背負子を見て驚きの余り尻餅をついた。

 水の入ったタンクではなく、寝袋が括り付けてあった。

「なっ、何が……」


『うっうぅ……うぅぅ……』


 驚愕して見つめる先で寝袋のファスナーがゆっくりと開いていく。


『うぅぅ……許さない……呪ってやる』


 寝袋から下着姿の女がずるりと出てきた。

 耳が隠れるくらいのショートヘア、ほっそりとした体、黒の下着、左の鎖骨に大きな黒子が付いている。池上が殺して寝袋に詰めて埋めた女だ。

「おっおっ、お前は……お前はぁぁーーっ」

 恐怖に声が震える池上に女が這うようにしてやってくる。


『うぅぅ……許さない』


 尻餅をつき、座り込んだ池上の足に女がしがみついた。

「やっ、止めろっ! おっ、お前がっ、お前が悪いんだろが……」

 逃げようとするが足に力が入らない。立つことも出来ない池上の足下から女が抱き付きながら上ってくる。


『呪ってやる。呪ってやるから』


 真っ白い顔、温泉卵の白身のようにグチョグチョで白濁した目、ニタリと笑う口の中だけが真っ赤だ。


「たっ、助けてくれぇ」

『許さない、呪ってやるからぁぁ』


 頬に口が付くくらい、間近で女が恨めしげに言うのを聞いて池上の気が遠くなっていく。



 どれくらい気を失っていたのか池上が目を覚ました。

「ここは……おっ、女は?」

 ばっと上半身を起して辺りを見回すが女はいない。

「しょっ、背負子は?」

 降ろした背負子を見た。何も変化は無い、水のタンクが三つ括り付けてあるだけだ。

「ゆっ、夢かよ……」

 震える声を出す。とても夢とは思えない、第一起きていて歩いている最中だ。夢でないのは分かっていたが怖くて夢という事にしたのだ。

「何時間気を失ってたんだ」

 辺りは薄暗くなっていた。時計を見ると夕方の五時前だ。

「九時間近いじゃねぇか! 冗談じゃねぇぞ」

 池上は背負子を背負うと慌てて歩き出す。朝の六時前に山に入って沢の水を汲んだのが七時半頃だ。少し休んで八時頃に降り始めた。それが今は夕方の五時前だ。九時間ほど気を失っていたことになる。

「冗談じゃねぇ、お化けなんているかよ」

 誰も居ないのに当たり散らすように愚痴りながら急いで山を降りていく。口では幽霊などいないと言っていたが怖かったのだ。


 麓に停めた車まで辿り着くと安堵の息が出た。

「ふぅ、助かった」

 背負子を降ろして水タンクを外すと後部座席に並べて乗せた。

「お化けなんているかよ、あれだ。滑って転んで気絶したんだ」

 背負子の水タンクが寝袋に変わっていると幻覚を見て驚いて尻餅をついた時に気絶でもしたのだろうと思うことにした。

「そうに決まってる。寝袋もあれだ、あれ。疲れてたから見間違えたんだ。まったく俺もまだまだだな」

 本心では怖いと思っている。だが池上はヤクザだ。弱みを見せたり、嘗められるわけにはいかない、そうやって虚勢を張って生きてきたのだ。

「まぁ水が無事でよかったぜ」

 美味い沢の水のことを考えると恐怖など吹き飛んでいった。

「早く帰って冷やして酒でも飲もう」

 そのまま車を走らせて一人暮らしをしているマンションへと帰っていった。


 自分の部屋に戻ると水タンクに入っている沢の水を空のペットボトルに入れ替えて冷蔵庫に入れる。

「三時間くらいで冷えるよな、そうだ! 氷も作っとこう」

 冷蔵庫に付いている製氷機へと水を入れた。冷えた水と氷を使って飲む酒が今から楽しみだ。

「今日は疲れたなぁ、風呂に入ってゆっくりするか」

 普段はシャワーで済ますのだが山に登ったためか、手足の関節が少し痛かったので風呂に入って温める事にした。

「ああ、気持ち良いぃ、マッサージしとこう」

 湯船に浸かりながら手足をマッサージする。先程まで痛かった関節が楽になった。一時間ほどゆっくりと風呂に入っていた。

「喉渇いたな……水飲むかな」

 冷蔵庫で冷やしていた沢の水が入ったペットボトルを取り出す。

「一時間くらいじゃまだ冷えてないな、まぁいいか」

 コップに注いで飲む、冷えていなかったが美味しかった。

「ああぁ……やっぱり美味い。他の水なんか飲めなくなるぞ」

 コップ一杯にするつもりが五百ミリのペットボトル一本全部を飲んでしまった。

「全部飲んじまった。まぁいいか、まだいっぱいあるからな、無くなったら汲みに行けばいい」

 空のペットボトルに沢の水を移すと冷蔵庫へと入れた。

 寝転がってテレビを見て時間を潰す。

「もう冷えたかな……まだ二時間しか経ってないし、もう少し待つか」

 沢の水が気になって仕方がない、先程から何度も飲もうと冷蔵庫を見つめたことか。

「まだだ。後一時間、いや三十分は待とう、氷が出来てから酒だ」

 沢の水で割った酒で晩酌しようと夕飯も我慢している。

「もう我慢出来ねぇ」

 二十分ほどして池上は冷蔵庫から沢の水が入ったペットボトルを取り出すとウィスキーとグラスを片手にテーブルに腰掛けた。

「氷も出来てたし、飲むぞ」

 夜の十時、我慢出来ずに池上は酒を飲み始めた。

「美味い、安酒が美味い酒に変わったぜ、コンビニ弁当も美味く感じるぞ」

 沢の水で割った酒は今まで飲んだ酒の中で一番美味しく感じた。

「美味い、美味い、幾らでも飲めるぜ」

 普段より飲んで酔いが回って眠くなる。

「ふふっ、良い水見つけたぞ、俺だけの秘密だ。俺だけの秘密……そうか!」

 酔っ払ってごろんと床に寝転んで考えていた頭に呪い水伝説が思い浮かんだ。

「呪い水の伝説ってあの沢の水の事なんじゃないのか? 美味しい水を誰かが独占したくて幽霊だとか病気になるとか噂を流したんじゃないのか」

 沢に誰も近付かないように変な噂を流したのだと考えた。独り占めしたくなるほどに沢の水は美味しかったのだ。

「絶対そうだ。あんな小さい沢じゃ、みんなが飲んだら直ぐに無くなるからな」

 自分の案に納得しながら眠りに落ちていった。


〝サザァーーッ、サザザァァーーッ〟


 沢の音が聞こえたような気がして目を覚ます。

「うぅ……喉が渇いた」

 水の音に誘発されたのか激しい喉の渇きを覚える。


『うぅ……ぐうぅぅ……許さない』


 水を飲みに起きようとした時、声が聞こえ、同時に体が痺れて動かなくなる。

(くっ、くそっ、また出やがった)

 どうにか動く目だけを動かし部屋を見渡す。

 いた。床に転がって眠っていた頭の左上辺りに女が立っていた。真っ白な顔をした下着姿の女だ。池上が殺して寝袋に詰めて埋めた女だ。


『うっ、うぅぅ……許さない、呪ってやる』


 女が体を屈めて上から池上の顔を覗き込んだ。

(ふっ、ふざけやがって)

 女幽霊を見るのは四度目だ。それに夢だと思っている池上は腹が立ってきて殴り掛かってやろうと思うが体は痺れて動かない。


『許さない、呪ってやる。呪ってやるからぁぁーーっ』


 真上から池上の額に唇が付くくらいに近寄ると女が絶叫した。

 真っ白い顔、黒眼があるのか分からない、温泉卵の白身のようにグチョグチョで白濁した目、大口を開けたその口の中は真っ赤だ。

「うわぁあぁぁーーっ」

 池上は叫びながら目を覚ました。

 ガバッと起きて辺りを見回すが何も無い、女幽霊などいない、いつもの自分の部屋だ。

「ゆっ、夢か……くそっ、嫌な夢だ。水、水だ。水飲もう」

 夢だと安堵すると激しい喉の渇きを思い出す。

「痛てっ、痛ててて……」

 水を飲みに立ち上がろうとした時、激しい痛みを感じた。

「痛てて、寝違えたかな」

 足だけでなく腕の関節も痛かった。痺れもある。

「痛ててて……正座した時のように痺れてるな、やっぱ寝違えか」

 暫くじっとしていると痺れはあるが痛みは大分ましになった。寝違えだろうと気にせずに起き上がると台所へ行って冷蔵庫から沢の水が入ったペットボトルを取り出す。

「ふぅ、やっぱ美味いや」

 余りの美味しさにゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲んだ。

 ペットボトル一本全部飲み終わる頃には手足の痛みも痺れも収っていた。

「この分じゃ直ぐに飲んじまうな、まぁ無くなったらまた汲みに行けばいいか」

 台所の隅に置いてある沢の水が入ったタンクから空のペットボトルに水を移し替えると冷蔵庫に入れて部屋に戻ってベッドに横になって眠った。



 翌日、兄貴分に頼まれた仕事を自分より若い隆二というヤクザと一緒にやった。

「池上、これやっとけ、俺たちは飯にいくからな」

 自分より十歳も年下の隆二に顎で使われるが池上は文句一つ言わない、隆二は兄貴分のお気に入りで逆らうと損をするのは自分だと分かっているのだ。

「くそっ、隆二のやろう偉そうに……兄貴も兄貴だ。俺の方が先だぞ、後からきた馬鹿隆二だけ贔屓しやがって」

 愚痴りながら仕事を済ます。手柄は全て隆二のものだ。憎たらしいが要領の悪い池上にはどうすることも出来ない。出来る事と言えば帰って自棄酒を飲むだけだ。

「まぁいい、俺にはあの水があるからな」

 普段なら自棄酒でべろんべろんに酔っ払うのだが、沢の水が飲めると思うとそれほど腹も立ってこなかった。


 仕事を終えてマンションへ帰ると早速、晩酌だ。

「ウイスキーも美味いが焼酎も美味しいぞ」

 前日から冷やしていた沢の水や氷で割って飲む酒は美味しくて嫌なことを忘れさせてくれた。

 ついつい飲み過ぎて酔っ払って眠ってしまう。


〝サザァーーッ、サザザァァーーッ〟


 どれくらい寝たのか、沢の音が聞こえたような気がして目を覚ます。


『うぅぅ……うっうぅ……許さない』


 目の前に白い顔をした女が立っていた。

「また出やがったなてめぇ!」

 酔いが残っていた所為か気が大きくなり女幽霊など少しも怖くなかった。


『許さない、許さない、呪ってやる』


 女幽霊が池上の首を絞めようと手を伸ばしてくる。

 いつもなら幽霊が現われると動けなくなるのに、どういう訳かその日は体が動いた。

「またぶっ殺されてぇか!!」

 女幽霊に殴り掛かろうと起き上がろうとした足がもつれて転がってしまう。

「痛てっ、痛ててて……足が痺れる。手も、腕も痛い」

 倒れると同時に手足の関節に激痛が走り、末端が痺れて動かせなくなる。

「痛てててっ、痛ぇ……」

 痛む足や腕を摩ろうとしたが指先が痺れて思うように動かせない。

 床に転がって身を縮み込ませる池上を女幽霊が見下ろす。


『ふふっ、ふふふふっ、許さない、呪ってやるから、呪ってやるからぁぁ』


 真っ赤な口を大きく開き、嬉しそうに笑いながら女は消えていった。

「痛ぇ……痛ててて……痛ぇよぅ」

 激痛に苦しみながら池上は気を失った。


 目が覚めると朝になっていた。

「あっ足は……」

 手足の痛みも痺れも消えていた。

「夢だったのか?」

 手足を摩りながら考える。夢とは思えないくらいに痛かったのだが、夢と言われると反論出来ない。

「夢だ夢、酔って変な夢を見たんだ」

 悪酔いしたのだと自身に言い聞かせるように言うと台所へと急いだ。

「水、水だ。あの水を飲みたい」

 酷く喉が渇いていた。

 冷蔵庫から沢の水が入ったペットボトルを取り出すとゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲んだ。

「やっぱ美味いなぁ」

 人心地ついて部屋に戻ろうと歩き出した足がもつれて床に転がった。

「痛てっ……痛ててて」

 手足が痺れ、体中が痛かった。それだけではない目もおかしい。視界が狭くなっている。視野の周辺部が欠け、中心部だけしか見えない。

「痛ててて……目が……目が変だ。どうなってんだ」

 床に転がったまま、身を縮こませて痛みに耐えていた。

 五分ほど耐えていると痛みは次第に治まってきた。目の調子も普段通りに戻っている。

「よかったぁ、熱中症か何かか、喉が渇いてたしな」

 立ち上がってストレッチするように体を動かすが痛みも痺れも無い。寝てる間に水分不足になって不調を起したのだろうと思った。



 同じような事が数日続いた。

 手足が痺れ体中が痛くなるのは決まって女幽霊が現われた後だ。

「あの女の呪いかよ……呪い水か」

 流石の池上もおかしいと思い始めた。殺した女の祟りではないかと思うと同時に子供の頃に聞いた呪い水の伝説を思い出す。

「伝説では確か、手足が痺れて動けなくなったり、目もおかしくなるんだったな」

 自分の今の症状とそっくりだと池上に悪寒が走った。


 呪い水伝説が伝わる山奥の集落で流行った奇妙な病気は、指先が痺れるなどの四肢末端の感覚障害、視野の周辺部が欠け、中心部だけしか見えなくなるなどの求心性(きゅうしんせい)視野(しや)狭窄(きょうさく)、呂律が回らなくなるなどの中枢性聴力障害、ズキズキと痛む疼痛(とうつう)が少しずつ体中に広がり歩くのも困難になって最後には起き上がることも出来なくなるというものだ。


「ヤバい、マジで呪いかよ」

 女幽霊も怖かったが呪い水が一番怖かった。

「じゃっ、じゃあ……あの水は……あの沢で汲んだ水が呪い水ってことか」

 台所の隅に置いてある水の入ったタンクを見つめる。一つ十リットルのタンクが三つ、合計三十リットル汲んできたが半分は既に飲んでいた。

 残りを捨てようかと思ったが全く関係の無い只の水だという可能性もある。

「あんなに美味しいのが毒なわけないよな、どこかで調べて貰えばいいんだ」

 水の美味しさに捨てるのが惜しくなった池上は医療機関か何処かの大学で水を調べて貰ってから毒だったら捨てればいいと考えた。


 その日の夜、寝苦しさに目を覚ます。

「水……」

 喉がカラカラだ。池上は起き上がると台所へと向かった。

「水を……」

 冷蔵庫から沢の水が入ったペットボトルを取り出そうとして手を止めた。

「ダメだ。この水は調べて貰ってからだ」

 隣に置いていたお茶のペットボトルを取り出すとゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。

「もっとだ。もっと飲みたい」

 酷い喉の渇きに水道の水をジョッキに入れて何杯も飲むが渇きは収らない。

「ダメだ普通の水じゃダメだ……そうだ酒だ。ビールがあったよな」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し飲んだ。

「ふぅ、冷たくて美味しい……」

 喉の渇きが収っていく。

「ダメだ。喉がカラカラだ」

 収ったのはビールを飲んでいる間だけだ。飲み終えると直ぐに喉が渇いてくる。

「普通の水じゃダメなんだ」

 沢の水が入ったペットボトルに手を伸ばす。

「ダメだ! この水は飲んだらダメだ」

 馬鹿な池上でも沢の水が有害かもしれないと考えるくらいは出来た。

「シャワーを浴びて体を冷やして寝よう」

 シャワーを浴びると冷房を付けて室温を下げてベッドの寝転がる。

「寝ちまおう、このまま寝たらいい」

 幾分楽になったが、まだ喉は渇いていた。

 無理矢理眠って明日病院にでもいこうと考えた。


〝サザァーーッ、サザザァァーーッ〟


 いつの間にか寝ていたが沢の音が聞こえたような気がして目を覚ます。


『ふふっ、うふふふふっ、許さない、許さない、呪ってやる』


 枕元に白い顔をした女が立っていた。

 当初、恨めしげに睨んでいた女だったが今は楽しそうに笑っていた。

「てっ、てめぇ!」

 怒鳴りながら起き上がろうとするが足が痺れて動かない。


『呪ってやるから、呪ってやるからぁぁ』


 白濁した目を見開き、真っ赤な口を横に広げて、楽しげに叫ぶと女はすっと消えていった。

「くそっ、バカにしやがって」

 痺れる足を引き摺って池上が起き上がる。

 尿意を催してトイレへと行こうと台所に入って呆然とした。

「なっ、なんで……」

 台所の端に置いていた沢の水が入ったタンク、二つ残っていた内の一つが空になっていた。

「寝てる間に飲んだのかよ」

 あれほどあった喉の渇きが収っていた。床が水で濡れている。無意識で飲んだと考えるには充分だ。

「痛てっ! 痛ててて……」

 激痛が全身に走った。手足が痺れて歩くことはもちろん、立っていることも出来ずにその場に倒れ込んだ。

「痛い、痛てててっ」

 手足を縮めて丸まって痛みに耐えている内に気が遠くなっていった。



 翌朝、窓から差し込む日差しで目を覚ます。

「痛ててて……」

 じっとしていたのが良かったのか節々はまだ少し痛かったが昨晩よりは大分ましになっていた。

「あの女か、呪い水か、どっちか分からんがマジで呪いだ。お祓いだ。お祓いして貰おう」

 これは本当に呪いだとお祓いに行く事にした。

「痛てっ! 痛てて」

 動かす度に関節がズキズキ痛むのを耐えながら車に乗り込むと地元で一番大きな神社へと行ってお祓いをして貰った。もちろん自分が女を殺したなどとは言わずに山奥の心霊スポットへ行ってから調子が悪いと嘘をついてお祓いをして貰い、御札を貰って帰った。

「一番デカい神社で祓って貰ったんだ。少しは効き目があるはずだ。暫く様子を見よう」

 マンションへ戻ると直ぐに普段使っている部屋と玄関に御札を貼った。お祓いをして貰った後から節々の痛みも少しは楽になったような気がする。

 帰り道で買った弁当と冷凍食品やパック飯などを台所に置きに行く、体が痛くて動けなくなったら大変だとインスタント食品などを大量に買ってきたのだ。

「あっ、水だ。水を調べて貰うのを忘れた」

 沢で汲んできた水を調べて貰おうと思っていたのを忘れていた。

「まぁいいか、お祓いして貰ったから暫く様子見だ」

 台所の隅に置いてある沢の水が入ったタンクを横目に弁当とお茶を持って部屋へと戻った。


 その日の夜、また女幽霊が現れて呪ってやると言って消えた。

 喉の渇きに台所へと行くと残っていた沢の水が殆ど無くなっていた。

「まただ……寝ている間に飲んだんだ」

 空になった水タンクを呆然と見つめていると体中に痛みが走った。

「痛てっ、痛ててて……あの神社デカいだけで効き目無しかよ」

 這うようにしてベッドへと戻ると体を折り曲げて丸まって痛みに耐えている内に気を失ってしまった。


 翌朝目を覚ます。節々は痛かったがどうにか歩ける程度には回復していた。

「沢の水はもう無くなったからこれ以上飲む心配は無い、お祓いだ。他の神社や寺でお祓いして貰おう」

 それなりに名の通った寺へ行くが女幽霊は毎晩のように現われる。

 その後も彼方此方の神社や寺にお祓いにいくが体調は一向に良くならない、それどころか関節がズキズキと痛み出し、普通に歩くこともままならなくなる。



 そんな折り、兄貴分から仕事の連絡が来た。

 池上に断ることなど出来ない、兄貴分からの命令は絶対だ。運が悪いことにその日の仕事は池上が嫌いな自分より若い隆二というヤクザと一緒だ。

「なんだ池上、ふざけてんのか?」

 集合場所へやって来た池上を見て隆二が顔を顰めた。

 池上がぺこりと頭を下げる。

「すいません、ちょっと調子が悪くて……」

 痛む関節を出来るだけ曲げないように杖をついてよちよちとアヒルのように歩いていた。

「調子が悪い? 何の調子だ? 頭か?」

 馬鹿にする隆二の向かいで池上が頬を引き攣らせて笑みを作る。

「はははっ、すいません、足が痛くて……」

「足が痛い? 何言ってんだ。どうせ飲み過ぎて二日酔いだろが」

 隆二が馬鹿にした様子で池上の頭をペシペシと叩いた。傍から見ればよちよちと歩く姿は酔っ払いと思われても仕方がない。

「違いますよ、本当に足が痛くて……」

 引き攣った笑みのまま池上が頭を叩く隆二の手を払い除けた。

 払い除けられた手と反対側の手、何かの書類を持っていた手で隆二がバシッと池上の頭に書類を叩き着けた。

「はぁ? 何言ってんのお前、マジで足が痛い? そんなんで仕事が出来るかよクズが、役立たずはいらん、もう帰っていいぞ、兄貴にも言っといてやるからな、池上は簡単な仕事も出来ない役立たずだってな」

「がかっ!!」

 池上の首に激痛が走った。手足だけで無く体中の節々が痛く、首も痛かったのだ。書類で頭を叩かれた痛みに思わず声が出た。

「あっ、兄貴には内緒にしてくれませんか」

 へりくだる池上の前で隆二がニヤッと馬鹿にした笑みをする。

「はぁ? んなわけないだろ、仕事も出来ない馬鹿って報告するよ」

「ははっ……そこを何とか」

 懇願する池上の頭を隆二が持っていた書類でボコボコ叩いた。

「何ともなるかよ馬鹿が、お前何歳だ? いい歳して足が痛いから仕事できませんって通用するかよ、馬鹿かよ」

「ははは……」

 池上は引き攣った笑みのまま懐から包丁を取り出した。

「そこを何とか、ねぇ、頼みますよぉ、兄貴には、ねぇ、頼みますよぅ、ねぇ、隆二さん」

 笑いながら池上は隆二に包丁を突き立てた。

 真正面、腕を少し上げれば届くほどの距離に居た隆二に避けることなど出来なかった。

「ぐがっ!」

「そこを何とか、ねぇ隆二さん……そこを何とか」

 呻く隆二に池上は何度も包丁を突き立てる。

 隆二の仲間も近くに居たのだが二人の距離が近すぎて死角になっていて対処が遅れた。

「なっ、何やってんだ!」

 仲間が慌てて止めた時には隆二は胸や腹を十箇所以上刺されて高級スーツが血に染まっていた。

「てめぇらが悪いんだろが」

 池上が血塗れの包丁を振り回す。

 要領がよく日頃から兄貴分に可愛がられていた年下のヤクザ隆二のことはよく思っていなかった。それがからかわれたことで爆発して刺したのだ。

 血塗れの包丁を振り回す池上を見た通行人が警察に通報する。

「俺が悪いんじゃねぇ……彼奴らが……あの女が……水が、あの水が悪いんだ」

 駆け付けた警官に池上は逮捕された。

 呪いだの幽霊だの騒ぐ池上は精神鑑定を受けて罪には問えないと措置入院となり磯山病院へとやってきたのだ。



 これが池上修司さんが教えてくれた話だ。


「あの水は本当に美味しかったんだ」

 話し終えた池上が遠くを見るような表情でぽつりと呟いた。

 哲也が顔を顰める。香織から聞いていた重金属に汚染された水だと確信した。

「いや、どう考えてもその水がヤバいでしょ」

「わかってる。わかってるよそんなことは……でもな、でも美味かったんだ。哲也くんも飲んでみれば分かるよ、あれは本当に美味しかった」

 沢の水の味を思い出したのか池上は持っていた炭酸ジュースをゴクゴクと飲み干した。

「不味い、ジュースも酒も、他の水もあれと比べれば全部不味い、あの水がまた飲みたい……哲也くんにも飲ませてやりたい」

 哲也が慌てて、いらないと言うように顔の前で手を振った。

「そんなヤバい水なんて飲みたくないですから」

「一度飲めばわかるさ……」

 恍惚の目をして呟く池上に嫌なものを感じて哲也が話題を変える。

「水の話はわかりました。それで池上さんは隆二って人を刺して捕まったんですよね」

 池上の目付きが変わった。

「ああ、そうだ。生意気な野郎でな、俺のことを馬鹿にしやがったから殺してやろうと思って刺した。死ななかったけどな……重傷で今も入院してるってな、ふひひひっ」

 今までの人の好さそうなおっさんといった感じの目が鋭いヤクザの目付きになっていた。

 少し臆しながら哲也が続ける。

「それで傷害罪で捕まったんですよね」

「そうだよ、それがどうかしたか?」

 鋭い目付きの口元を楽しげに歪ませて池上がこたえた。

「じゃあ、女の人は? さっきの話で聞いた池上さんが殺して寝袋に入れて埋めた女の人はどうなったんですか?」

「ふひっ、ふひひひっ、いけねぇ、思わず喋っちまった」

 奇妙な声を出して楽しげに笑った後で池上が哲也を見つめた。

「あの馬鹿女な、今も埋まってるぞ、警察の奴ら山の沢まで行ったらしいが何も気付いちゃいない、だから今も土の中だ」

「まだ埋まってるって……」

 哲也はしまったと思った。余計なことを聞いたと思ったが引くに引けなくなっている。

「何で言わなかったんです」

 隣に座る池上が身を乗り出して弱り切った表情の哲也を覗き込む。

「ふひっ、ふひひっ、何で自分から言わなきゃならねぇ、言っても何の得もないだろ、警察なんてのは訊かれたことだけにこたえたらいいんだよ、訊かれた中で言ってもいいって思ったことだけ話せばいい、余計なことを言う必要なんてない」

「でも女の人を殺したんですよね」

 哲也の顔の直ぐ横、池上が頬を吊り上げニタリと笑った。

「殺したよ、けじめってヤツだ。返す金も無い、風俗にも行かない、それで済んだら俺たちの仕事無くなっちゃうだろ、だからけじめを付けさせて貰った。言うこと利かせようとボコボコにしたんだが、それでも嫌だって言いやがる。それでな、それで殺した。最後にはもうどうとでもしてくれって感じで暴れもしなかったよ、ありゃぁ、もう死にたかったんだな、だから殺してやったんだ。慈悲だよ、俺は悪くないんだ」

 企むような厭な笑みを浮かべたまま池上が哲也の肩をギュッと掴んだ。

「だから俺は悪くない、哲也くんもそう思うだろ」

「すっ、すみません……ぼっ、僕にはわかりません」

 こたえる哲也の唇がブルブル震えているのを見て池上が声を出して笑い出す。

「ふひひっ、ふひひひひっ、わかりませんかぁ、哲也くんは賢いなぁ」

 肩を握っていた手を離すと池上は哲也の頭をポンポンと叩いた。

「だったらわかるよね、俺が女を殺して埋めたってことバラしたらどうなるか」

「だっ、誰にも言いませんから……」

 スッと目を逸らす哲也を見て満足気に池上が頷いた。震える声で哲也が続ける。

「でっ、でも……」

 まだ何かあるのかと池上が聞き返す。

「でも? でも何だ?」

 哲也は深呼吸すると池上の目をしっかりと見た。

「その殺した女の幽霊が出てくるんですよね」

「ああ、あの馬鹿女が出てきてから体が痛くなりやがる」

 何だそんな事かとこたえる池上の隣で哲也の顔から怯えが消えていた。オカルト話が聞けるならヤクザも怖くないのが哲也だ。

「呪われてるんじゃないんですか? 警察に全部話して女を供養してやれば池上さんの体も治るんじゃないんですか?」

 先程見た池上の隣にいた影は殺された女だと確信して、女はもちろん池上も助けることが出来ないかと思い切って話してみた。

「ふひっ、ふひひひっ、幽霊なんているかよ、いたとしても俺が何で馬鹿女に謝らなきゃいけない、全部あの女が悪いんだぞ」

 哲也の気持ちなど知らずに池上は楽しげに奇妙な声で笑い飛ばした。

「それにな、体の痛みとか痺れは呪いなんかじゃない、あの水だ。あの山の水に重金属だとかの毒が入っててそれでおかしくなったって医者が言ってたぞ、今は薬も飲んでるから大分ましだ。このまま治療してれば治るぞ、あの馬鹿女の供養なんかいるかよ」

 自分の身体の不調は重金属中毒によるものだとわかっている様子だ。

「……そうですか、それなら仕方がないですね」

 哲也が腰を上げる。

「僕は見回りがありますから」

 去ろうとする哲也の腕を池上が引っ張った。

「わかってるだろうけど、もう一度言っとくぞ、話したら哲也くんも女みたいになるぞ」

 笑顔の池上の目が笑っていないのを見て哲也が慌てて返事をする。

「誰にも言いませんから……僕はお化けの話を聞いただけですから」

「あははははっ、哲也くんは賢いなぁ」

 いつもの明るい声で笑いながら池上は手を離してくれた。

 哲也はペコッと頭を下げると逃げるようにロビーを抜ける。C病棟を出る時にゴトッと後ろで自動販売機でジュースを買う音が聞こえてきた。池上は今日は何本飲む気だろうか。

「人を殺して慈悲だとか……やっぱヤクザだ。良い人に見えたけどな池上さん」

 哲也が早足でC病棟を離れていく。

「あの影はやっぱり幽霊だったんだな、池上さんが反省しないならどうしようもないな」

 普段ならどうにかして助けてやろうと考える哲也だが今回だけは手を貸す気にはならなかった。



 翌日から哲也に対する池上の態度が変わった。

 昼食時、隣に座っていた池上が空のヤカンをドカッと哲也の前に置いた。

「哲也くん、お茶貰ってきてくれよ」

 不味い不味いと言いながら自分が殆ど飲んで空にしたヤカンだ。本当なら最後に飲んだ池上が貰いに行かないといけないルールである。

「最後に飲んだのお前だろ? だったらお前が貰いに行けよな」

 近くで食べていた波瀬が注意するのを哲也が止める。

「いいよ、いいよ、僕が行くからさ、僕も飲みたかったからさ」

 波瀬の隣で食べていた山口が不思議そうに哲也を見つめる。

「飲みたいからってダメだよ、ヤカンを空にした人が貰ってくる決まりなんだからね」

 不思議がるのも無理はない、決まり事を守れと普段から注意している哲也本人がルールを破っているのだ。

「あぁ……序で、序でだよ、トイレ行きたかったからさ、トイレの序でにお茶貰ってくるよ」

 誤魔化すように言いながら哲也が空のヤカンを持って立ち上がる。

「あはははっ、哲也くんは優しいなぁ、じゃあ早く頼むよ」

 楽しそうに笑う池上に愛想笑いを見せると哲也はお茶を貰いにいった。


 哲也が貰ってきたお茶の入ったヤカンを池上が独占するように飲み始める。

「不味い、幾ら飲んでも不味いなぁ」

 不味いと言いながらコップに注いで何杯も飲んでいる池上を波瀬が睨み付ける。

「お前だけのお茶じゃないんだぞ」

 手を伸ばす波瀬から池上がヤカンを自分の元へと引き寄せた。

「俺のだよ、哲也くんは俺のためだけにお茶を貰ってきてくれたんだからな」

 波瀬の隣に座っていた山口が不服そうに口を開いた。

「何言ってんだ。お茶はみんなで飲むんだよ」

「山口の言う通りだ。自分で貰いにも行かないで何やってんだお前、さっさとヤカンをよこせ」

 今にも突っ掛かりそうな波瀬を見て哲也が慌てて割り込んだ。

「波瀬さんも山口さんも喧嘩はダメだよ、池上さんは病気で喉が渇くんだよ、だから許してやってよ、お茶はもう一つ貰ってくるからさ」

 山口と波瀬が哲也に向き直る。

「どうしたの哲也くん? 何かあったの」

「そうだぞ哲也くん、そいつに何か言われたのか?」

 二人が訝しむのも当然だ。池上に顎で使われていると見られても仕方がない。

「別に……」

 言い淀む哲也の隣で池上が大声で笑い出す。

「あははははっ、俺と哲也くんとは友達なんだよ、友達のために色々するのは当り前だろ、俺だって哲也くんが困ったら助けてやるさ、なぁ哲也くん」

 気安く肩を叩いてくる池上の横で哲也が歯切れ悪く返事をする。

「うっ、うん……池上さんは入ったばかりだからさ、僕が色々教えてるんだよ」

「そういう事だ。俺と哲也くんとは秘密の友達なんだ」

 秘密と言われて哲也が一瞬固まった。池上が女を殺して埋めた事を知っているのは哲也だけだ。その秘密を共有している友達だと池上が言っているのがわかったからだ。同時に秘密をばらしたらどうなるかと脅されているのもわかった。


 食事時だけではない、池上は喉が渇いたからと言っては哲也にジュースを買いに行かせるようになっていた。

「まだ飲み足りないなぁ……喉が渇いてしょうがない」

 食堂を出て並んで廊下を歩いていた池上が哲也に財布を差し出す。

「哲也くんロビーでジュース買ってきてくれ、哲也くんにも一本奢るからさ」

「……わかりました。十本くらい買ってくればいいですよね」

 少し不服そうにしながら財布を受け取る哲也に池上は笑いながら自分の部屋へと戻っていく。

「おぅ頼んだぞ」

 池上は哲也を舎弟みたいに扱うようになっていた。女を殺した事を誰かに話せば同じ目に遭わすと言って哲也がビビったのだと思ったのだろう、初めから哲也を舎弟のように扱うために殺人のことも話したのかも知れない。



 哲也はロビーへ行くと愚痴りながら自動販売機でジュースを買う。

「なんで僕がパシリなんてしなきゃいけないんだ。話なんて聞くんじゃなかったな」

 池上が本物のヤクザと知っていて迂闊に近付いたのがダメだったと、哲也は今更ながら後悔した。

「こんなところ嶺弥さんや香織さんに見つかったら何て言われるか……」

 悪いことをしているわけでもないのに辺りをきょろきょろしながら十本ほどのジュースを抱え持つ。

「さっさと池上さんへ渡しに行こう」

 誰も居ないのを確認して歩き出そうとした時、後ろから声が掛かった。

「哲也くん、そんなにいっぱい買ってどうするの?」

「うわぁっ!!」

 驚き声と同時に抱えていたジュースが床に転がる。

「あぁ、落としちゃった」

 いつの間に居たのか香織が後ろに立っていた。

「かっ、香織さん……」

 誰かに見つからないように気を付けて買っていたのだ。当然周りを確認している。今回はナースステーションのときと違って近くに隠れる場所など無い、香織が気付かれずに哲也の後ろに立つなど無理な状況だ。そんな状況にも哲也は気が付かない。それほど焦っていた。

「違うんです。僕が飲むんじゃなくて池上さんが……」

 落ちたジュースを拾いながらこたえる哲也は池上の名を出して慌てて言葉を止めた。

「池上さんか」

 足下に転がるジュースを拾って哲也に渡しながら香織が続ける。

「まったく、あれ程言ったでしょ、池上さんには近付くなって」

「ごめんなさい」

 ジュースを抱え持つと哲也が項垂れた。

「それで何があったの? 私が何とかしてあげるから全部話して」

 心配そうな香織の前で哲也は首を振った。

「いえ……何でもありません」

「何でも無いわけないでしょ? 食堂でもいいように使われてたじゃない」

 食堂でお茶を貰ってこいと頼まれたことを香織は何処かで見ていた様子だ。

「あれは……別に何でもありません」

 ペコッと頭を下げると哲也が走り出す。ジュースを十本ほど抱えているので普段より遥かに遅い、香織でも追い付く速度だ。

 だが香織は追い掛けない、怒鳴ることもしない。

「哲也くん……私に気を使わないでもいいのよ」

 走り去る哲也の背を見つめて香織が優しい顔で呟いた。自分を巻き込ませないように話さないのがわかっていた。

「池上か……哲也くんに何かしたら只じゃすまさないわよ」

 哲也に見せた優しい顔から一転して険しい顔で呟く香織の目がキラッと赤く光った。



 その日の夜、深夜三時過ぎだ。哲也はC病棟のロビーに居た。

「コーヒーと炭酸とお茶にスポーツドリンクっと」

 見回りの途中だが池上にジュースを買ってきてくれと頼まれたのだ。

「まったく何で僕がこんなこと……」

 愚痴りながら自動販売機で飲み物を幾つも買っている。


『許さない……』


 声が聞こえたような気がして振り返る。

 誰も居ない、深夜の三時だ。ロビーは静まり返っている。

「気の所為か」

 哲也が前に向き直る。後三つほどジュースを買わなければいけない。


『許さない……あの男……』


 右から振り向いて後ろ、ロビーを見渡して前に向き直ったその左、女が立っていた。

「はぁぁっっ」

 腹から絞り出すような悲鳴が出た。


『許さない……呪ってやる…………』


 硬直して動けない哲也の左で女が呟くように言った。

 服は着ていない、下着姿の女だ。血の気の全くない真っ白い顔、耳が隠れるくらいのショートヘア、ほっそりとした体、黒の下着、左の鎖骨に大きな黒子が付いていた。

 哲也には直ぐにわかった。池上に殺されて山に埋められた女だと。

「ぼっ、僕には何も出来ませんよ、池上さんに供養するように言ったんですけど無駄でした。だからこれ以上僕には何も出来ません」

 哲也は女を見つめて必死に言った。女幽霊に取憑かれるなんて御免である。それに池上の仲間だと思われるのはもっと嫌だった。


『許さない……あの男……許さない』


 女幽霊がペットボトルを一本、受け取れというように差し出した。

「こっ、これを池上さんに渡せばいいんですね」

 哲也は何の疑問も無く受け取った。何故か頭に靄が掛かったようにボーッとしていた。


『許さない……呪ってやる』


 女は頷くとスーッと消えていった。

 女から受け取ったペットボトルを見る。何の変哲もない五百ミリのペットボトルだ。お茶のラベルが付いているが中身は透明の水に見えた。

「池上さんに飲まさないと……」

 寝起きのようにボーッとする頭のまま、哲也は十本ほど買った缶飲料やペットボトル飲料を抱えると、受け取ったペットボトルと一緒に抱えてロビーを出て行った。


 哲也がフラフラとした足取りで階段を上っていく。

「池上さんに飲ませなきゃぁ……」

 三階を通り過ぎて四階へ上がる踊場で立ち止まる。

「あぁ……池上さんは300号室だったなぁ……間違えちゃった」

 池上の部屋は三階にある。通り過ぎてから気が付いた。何故だか頭がボーッとして思考が巡らない、怠くて何も考えられないのだ。

「三階だ……三階」

 フラフラと壁を伝わるように降りていき三階の廊下へと出た。

「300号室だぞ……三百だぁ」

 ドアに付いている部屋の番号を確かめながら歩いて行く、普段なら有り得ない、番号など一々見なくともどの部屋が何号室かは頭に入っている。

「あっ、あったぁ、三百だぁ、池上さんに飲ませなきゃぁ……」

 池上の部屋である300号室を見つけて哲也が嬉しそうに呟いた。

「池上さぁん、買ってきましたぁ」

 ドアをノックして中へと入る。ベッドに横になっていた池上が起き上がる。

「おぅ哲也くん、悪いな」

 池上は少しも悪いと思っていない顔で飲料をここへ置けというようにベッド脇のテーブルを指差した。

「適当にぃ、十本ほど買ってきましたぁよ」

 哲也がテーブルの上に飲料を並べた。もちろん女から受け取ったペットボトルも一緒だ。

「財布ぅ返しときますねぇ」

「どうした? 眠いのか」

 哲也がボーッとしているのに池上も気付いた様子だ。財布を受け取ると中身を確認してからベッドの枕元へと置くとテーブルの上から缶コーヒーを掴んで哲也に差し出す。

「寝惚けてたら見回り出来ないぞ、コーヒーでも飲んでしゃんとしろ」

「コーヒー……っすか」

 怠そうに哲也が受け取る。先程から頭がボーッとして何も考えられない。

「おいおい、ここで寝るなよ、寝たいなら帰って寝ろ」

 呆れながら池上は炭酸ジュースを開けてゴクゴクと飲み干した。

「不味い、不味いジュースだ」

 池上はいつものように文句を言いながら次々と飲んでいく。

 哲也は缶コーヒーを両手で握りながらボーッと見ていた。

「不味い、不味い」

 女から受け取ったペットボトルに池上が手を伸ばす。

「あっ!」

 哲也の頭の中に掛かっていた靄がスーッと晴れていく。

「池上さんダメ……」

 止めるのも間に合わず、池上はペットボトルをゴクゴクと飲み出した。

「んん!?」

 ペットボトルを口に付けたまま池上の動きが止まった。

「美味い! 凄く美味いぞ」

 一旦口を離して声を大きくして言うと直ぐにペットボトルを飲み干した。

「これは美味い! 哲也くんこれは美味いよ」

 空になったペットボトルを突き出すように哲也に見せながら池上が続ける。

「もっと買ってきてくれ……全部だ。自販機にあるの全部買ってこい」

 反対の手で枕元に置いてあった財布を掴んで買ってこいと哲也に差し出す。

「ちっ、違うんです。その水は……」

 哲也が女幽霊から貰ったものだと言おうとしたとき、池上が苦しみだした。

「痛てっ、痛ててて……痛い、痺れる……」

 池上がベッドに倒れ込んだ。

「池上さん、大丈夫ですか」

 駆け寄る哲也の前で池上が手足を縮めるようにして丸くなって苦しんでいる。

「痛てて……体が……てっ、哲也くん」

 握り締めていたペットボトルを見て池上の顔色が変わった。

「こっ、これは……このペットボトルは、このお茶は…………」

 山の沢から初めて汲んで持って帰ってきたときに使ったお茶のペットボトルだと気が付いた。

「痛ててて……哲也くん、これは…………」

 痛みに顔を歪めながら訊く池上に哲也が頭を下げる。

「すみません、貰ったんです。さっき自販機の前で女が……女の幽霊がくれたんです。その後のことはよく覚えてないんです。ボーッとしてて、気が付いたら池上さんが飲んでいて。止めようとしたんですけど……」

「あの女が……痛ててて……あの水だ。あの水の味だ」

 苦しみながらも池上の口元は嬉しそうに歪んでいた。

「あの水だ……やっぱり美味いなぁ……痛てっ、痛ててて…………」

「直ぐに先生を呼びますからね」

 痛い痛いと苦しむ池上を見て哲也がナースコールのボタンに手を伸ばす。


『許せない……許せない』


 池上が倒れ込んでいるベッドの向こう、壁との隙間など二十センチもない場所に女が現れた。

「あっあぁ……」

 驚きに哲也のナースコールに伸ばした手が止まる。

「痛ぇ、体が痺れる。痛ててて」

 池上は背を向けているので女には気付いていない。

「池上さん!」

 ハッとしてナースコールのボタンを押そうとした哲也を女幽霊が止めた。


『貴方も許せないんでしょ』


 女幽霊に訊かれて哲也が首を振る。

「うん、確かに脅されてパシリみたいにされたけど苦しんでいる池上さんを放っては置けないよ」

 ベッドの向こう、女幽霊が微笑んだような気がした。


『そう……でも私は許さない、呪ってやるから』


 そう言って女幽霊はスーッと消えた。

 哲也がナースコールを押して看護師を呼んだ。

 看護師がやって来ると池上の様子を見て慌てて当直の医者を呼びにまた出て行った。

 直ぐに数名の看護師を引き連れて医者がやってくると苦しむ池上をストレッチャーに乗せて運んで行った。

 池上はそのまま戻ってこなかった。中毒症状が急速に悪化したのだ。手足を少し動かすだけでも全身に痛みが走り寝たきりとなり隔離病棟へと搬送された。



 翌日、池上が隔離病棟へと搬送されたと香織から知らされた哲也は酷く落ち込んだ。

「僕が……僕がいけないんです。僕があんな水を飲ませたから……だから池上さんは症状が悪化して…………全部僕が悪いんです」

「そんなことないわよ、池上さんは元から重度の中毒だったのよ、それが悪化しただけよ」

 患者にオカルト話を聞きに行ったなどと言うと、普段なら怒る香織が今日は優しい。

 女幽霊にペットボトルの水を渡されたことなど、香織にはあの夜のことは全て話してある。哲也が相談出来るのは香織か嶺弥か事務の眞部だけだ。

「でも僕が女の幽霊に……」

「何言ってるの! 幽霊なんていないわよ、哲也くんの見間違いよ」

 心配そうに叱る香織の向かいで哲也が項垂れながら続ける。

「でもペットボトルの水を貰ったんですよ」

 香織がしゃがんで項垂れている哲也の顔を覗き込む、

「そんなものどこにも無かったわよ、哲也くんに話しを聞いて池上さんの部屋を片付けた森崎に部屋にあったゴミを全て調べさせて貰ったけどC病棟のロビーで売っている缶やペットボトルしか無かったわよ、余所から持ってきたペットボトルがあったら直ぐわかるわよ」

 哲也がパッと顔を上げた。

「無かった? 本当ですか?」

「無かったわよ、私が調べたのよ」

 正面から見つめる香織の前で哲也が頷いた。

「香織さんが言うなら間違いないっす……だったら僕が貰ったのは? 僕が見た女幽霊は何だったんですか」

 少し元気になった哲也を見て香織が畳み掛ける。

「見間違いよ、変な話しを聞いたから感情が高ぶって幻覚を見たのよ」

「でも……」

「でもも何も、哲也くんも患者なのよ、心を病んでいるのよ、薬だって飲んでるでしょ、幻覚くらい見るわよ」

「そうだけど……香織さんの言うのはわかるけど、でも僕が持っていった水を飲んで池上さんが苦しみだしたのは本当ですから……」

 患者と言われてまた落ち込む哲也の頬を香織が両手で挟むようにして上を向かせる。

「だから、そこから間違ってるの、哲也くんが持っていかなくても池上さんは自分で買って飲むでしょ、今まで何度も自販機で買って飲んでたでしょ、私も見たわよ、何本も買って飲んでるのを、私が見たのは昼間よ、哲也くんは夜に見たんでしょ、昼と夜、他にも飲んでたとしたら一日に三十本じゃ済まないわよ、それだけ飲めば体調がおかしくなって当然よ」

 香織を見つめて哲也が頷いた。香織も頷き返すと話を続ける。

「仮に幽霊が居たとして哲也くんは操られていたんでしょ? ぼーっとして何も考えられなかったって言ってたじゃない」

「うん、確かにあの時はおかしかった。でも、それでも僕がしっかりしていればあんな事にはならなかったと思う」

 頬を包み込む香織の手は温かで気持ちが良かった。

「普段の哲也くんなら操られたりしないわよ、殺された女に同情したんでしょ? それをさせたのは池上さんよ、罰が当たったのよ、哲也くんの所為じゃないわよ、だから自分を責めるのは止めなさい、なるようにしかならないのよ、ここでは……」

 頬を挟んでいた手を後頭部に回してそのまま哲也を抱き締めた。

「かっ、香織さん」

 驚いて離れようとする哲也の頭を胸に押し当てるようにして香織は離さない。

「私は哲也くんの味方よ、今回のことは哲也くんは悪くない、人を殺して平然としている池上に罰が当たっただけ、だから自分を責めるのは止めなさい」

「香織さん、ありがとう」

 香織の胸に顔を埋めて哲也は泣いた。



 香織から聞いた話だが急性的な中毒症状が出て池上は起き上がることも出来ずに隔離病棟へと搬送されていった。

「水……水が飲みたい、あの沢の水が……あれが飲めれば死んでもいい」

 引き攣った顔で笑いながらそう言うと池上は運ばれていった。


 池上は確かに重金属中毒だ。だがそれが呪いでないと言い切れるだろうか?

 呪い水伝説とは、長い間、問題の無かった沢の水が地震で地層のズレか何かを起して重金属が流れ出てしまった。それと知らずに沢の水を飲んだ人たちが重金属中毒による病に掛かる。

 母子を人柱にした後で起きた地震だ。それによって沢が汚染された。昔の人々が母子の呪いだと考えるのは当然かも知れない。

 その様な場所に村出身の池上は遺体を埋めに行った。殺した女だけでなく人柱にされた母子が祟っても仕方がない。


 池上の症状は重金属中毒によるもので間違いない。だが、沢の水を飲ませたものがいるのではないのか? いくら美味しいといっても只の水だ。片道三時間近くも掛けて水を汲みに行くだろうか、哲也には何かに取り憑かれて、それこそ水の虜にされてしまったとしか思えない。

 重金属の入った水が物凄く美味しく感じる。これが呪いだったのだろう、池上は女幽霊を見る度に起きて冷蔵庫に入れてあった沢の水をゴクゴクと飲んだ。女幽霊は池上に沢の水を飲ませるために化けて出ていたのだ。

 そういう意味では「呪い水」は確かに存在するのではないだろうか、哲也はそう思った。


読んでいただき誠にありがとうございました。

更新停止していて申し訳ありませんでした。


調子が出てくるまで月に一度の更新となります。

次回更新は9月末に行います。


8月28日に竹書房さんから「怪奇現象と言う名の病気」が発売しました。

手に取ってもらえると嬉しいです。


一つでも面白いと思う話がありましたらブックマークや評価をしてもらえれば嬉しいです。

感想やレビューもお待ちしております。

単純な人間なので感想やレビューを貰えるとヤル気が湧いてきます。


では次回更新も頑張りますので読んで頂けると嬉しいです。ありがとうございました。

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