第四十九話 ニコイチ
ニコイチとは2つを1つにするという意味だ。2つ、もしくはそれ以上の複数の使える部品を集めて正常に動く1つのものを修理したり再生することである。複数から部品を取ったものはサンコイチやヨンコイチなどと言う場合もあるが他から部品を取ってきて直したという意味で便宜上、ニコイチでだいたい通用する。
機械弄りが得意な人や電気工作が趣味の人など手先が器用な人たちが良く使ったりする言葉だ。
個人の趣味だけではなく古いもので部品の供給が止まったものなどは中古品を掻き集めて修理や再生する業者もある。
ニコイチは多岐にわたる。パソコンや玩具といった小さなものから車や飛行機まで幅広いものがニコイチされて再生される。
補給が絶たれ部品供給の止まった軍隊などで戦車や戦闘機などをとにかく使えるようにしようと残った機体から状態の良いものに他の機体から部品を持ってきて少しでも稼働するようにする共食い整備と呼ばれるものもニコイチと言ってもよいだろう。
物の修理に使われるニコイチ、物だけでなく生物ならどうだろうか? 移植手術だ。どちらも助けようとする生体移植はともかく亡くなった人から移植する死体移植の場合は不謹慎だと思われるかも知れないがニコイチと言ってもいいのかも知れない。
入院患者である哲也は電子工作などをする機会は無いが事務員さんを手伝って棚の修理をする際に使わなくなった他のスチールラックから部品を持ってきて直したことがある。これもニコイチといってよいだろう。
少し前の事だ。哲也は自分の幽霊に襲われるという患者と出会った。今にして思えばその患者もニコイチだった。これはそんな話しだ。
病院内の広い敷地をぐるっと回る遊歩道、昼食を終えた哲也が日課の散歩をしていた。
「何してるんだろう? 見ない人だな」
遊歩道を一周して部屋に戻ろうと自分の部屋のあるA病棟へと向かう哲也の目に男性患者が映った。
「お金無いのかな? 」
遊歩道の端、幾つか並んでいる自動販売機の1つで見慣れない患者が困った顔をしているのを見て哲也が近寄っていく、
「どうしました? 」
声を掛けると患者が弱り顔で振り向いた。20代くらいの若い患者だ。
「両替できませんか? この自販機に入っているヤツが飲みたいんだけどお札が使えなくて、何処かに両替機があればいいんだけど…… 」
男が立っているのは並んでいる自販機で一番古いものでお札が使えないタイプだ。小銭が無くて欲しい飲み物が買えないらしい。
「両替機はありませんよ、食堂にある売店で両替して貰うしかないですね」
「そうですか……ありがとう」
ペコッと頭を下げて歩き出そうとした患者を哲也が止める。
「待ってください、僕も喉が渇いたから飲もうと思って来たんですよ、奢りますよ」
別に喉は渇いていない、困っている人を放っておけないのが哲也だ。
「そんな……患者間で貸し借りはダメだって言われてるし…… 」
遠慮がちに『いいです』と手を振る患者に哲也がニッと笑みを見せた。
「大丈夫ですよ、僕は警備員ですから」
「警備員さん? 」
自分が着ている患者の服と違うことに気付いて聞き返す男に哲也が笑顔で続ける。
「はい、警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」
「警備員の哲也くんだね、自分は船井、船井敬也って言います。今朝入院して来たばかりだから何もわからなくて…… 」
弱り顔で挨拶を返してくれた船井の前で哲也がポケットから小銭を取り出した。
「船井さんですね、じゃあ一緒に座ってジュースでも飲みませんか? 分からないことあれば何でも聞いてくださいよ」
「哲也くんは何歳だ? 年下に奢って貰うなんて悪いよ」
遠慮する船井を見て哲也の顔に優しい笑みが広がる。
「19歳です。じゃあ奢るのは止めます。貸しますから後で返して下さい、それならいいでしょ? 患者同士の貸し借りじゃなくて僕は警備員ですから」
「 ……ありがとう、じゃあそうさせて貰うかな」
哲也の優しい気持ちが伝わったのか船井が嬉しそうに頷いた。
遊歩道の脇にあるベンチに並んで腰掛けてジュースを飲みながら病院のことについて色々話した。船井の質問に哲也が答えるといった感じで話していると香織がやってくるのが見えた。
「あっ、香織さんだ」
パッと顔を明るくする哲也の隣で船井も香織を見て嬉しそうに口を開く、
「知っているのかい? 綺麗な人だね、自分の担当看護師さんだよ」
「香織さんが担当か……美人ですけど気が強いですよ、僕なんてしょっちゅう怒鳴られてますから…… 」
少し考えてからニヤッと含み笑いを浮かべた悪い顔で話す哲也を見て船井が声を上げて笑い出す。
「あはははははっ、まぁ看護師さんなんてみんな気が強いからな」
「そうっすね、厄介な患者も居るから気が強くないとやってけないですもんね」
同意するようにうんうん頷く哲也の前に香織が立った。
「楽しそうね、何の話をしていたのかな? 」
「えへへへっ、香織さんは美人だなって言ってたんですよ」
おべっか笑いで誤魔化す哲也の正面で香織が満面の笑みを湛えてゆっくりと頷いた。
「そう……てっきり私の悪口かと、気が強いとか怒鳴ってばかりだとか」
哲也の顔色がサッと変わった。
「地獄耳なの忘れてた」
「誰が地獄耳ですって! 」
笑顔から一転、香織が叱り付けながらベンチに座る哲也の耳を摘まんで引っ張った。
「痛ててて……違いますから……謝りますからぁ」
「あははははっ、看護師さん、その辺で許してやってよ、哲也くんには色々教えて貰ってたんだよ」
哲也の耳から手を離すと香織は楽しげに声を出して笑う船井に向き直った。
「変な話ししませんでしたか哲也くん? 」
「変な話し? 」
笑いを止める船井を見て香織がほっと息を付く、
「してないならいいわ、オカルトマニアなのよ哲也くん、それで新しく入った患者さんに色々聞いて回って迷惑してるのよ」
「幽霊か…… 」
考え込む船井に気付いた哲也が目を輝かせる。
「何かあるんですか? 」
「幽霊なら…… 」
何か話そうとした船井を香織が止める。
「ダメですよ船井さん、それより診察ですからね」
「もうそんな時間か……じゃあ哲也くん、今度は自分がジュースを奢るからな」
池田先生が診察するので迎えに来たらしい、哲也に礼を言って船井は香織と一緒に歩いて行った。
缶に残ったジュースを飲みながらベンチに座ったままの哲也が歩いて行く2人をじっと見つめる。
「幽霊ならって……何かあるんだな船井さん」
怪異なことがあるのだとピンときたのか哲也の顔に悪い笑みが広がっていく、
「担当だし香織さんに聞いたら怒られるな、早坂さんにでも聞こう」
飲み終えた缶を自販機横のゴミ箱に捨てると哲也はB病棟へと向かった。
B病棟の1階、ナースステーションが見える廊下の端で隠れるようにして哲也が中を窺った。
「佐藤さんたちは居ないな、今がチャンスだ」
強面で見るからに体育会系の看護師である佐藤や望月たちが居ないのを確認してから哲也はナースステーションへと近付いていく、
「ん? 何しに来たの哲也くん」
窓口に一番近い席にいた看護師の森崎が哲也に気付いてやってきた。森崎は香織の後輩で哲也とも仲が良い、イケメンと噂話が大好きなちょっと困った看護師だ。
「森崎さんこんにちは、早坂さん居ますか? 」
ペコッと頭を下げて哲也が尋ねると森崎が振り返って大声を出す。
「早坂さぁ~ん、哲也くんがデートのお誘いだよぉ~~ 」
「わぁあぁぁ~~、違いますから……違いますからね」
大慌てする哲也を見て森崎が声を出して笑い出す。
「えぇーーっ、違うの? デートしてくれたらラッキーじゃない早坂主任美人だしぃ」
楽しげに散々笑った後で森崎が驚く振りをしてからかうと哲也が弱り切った顔で続ける。
「違いますから、そりゃ早坂さんは美人だからデートなんてしてくれたら嬉しいけど、そんなんじゃないですからね、だいたい早坂さんには…… 」
早坂は嶺弥のことが好きなのだと思わず言いかけて哲也は慌てて口をつぐんだ。
奥の部屋から早坂がやって来るのが見えたのだ。
「馬鹿言ってないの森崎」
森崎の頭をペシッと叩くと早坂が哲也に向き直る。
「何が聞きたいの? 新しく入った患者さんなら藤実さんか船井さんね」
哲也の目的などお見通しだ。
「えへへっ、船井さんの事をちょっと…… 」
「まったく…… 」
呆れ顔で溜息をつくと早坂が部屋の隅に置いてある段ボール箱を指差した。
「これいらないのよね」
「はい主任、整理したカルテです」
森崎がこたえると早坂が哲也を見てコクッと頷いた。
「じゃあ倉庫にしまおう、哲也さん持ってきて頂戴」
「了解しました」
敬礼すると哲也がナースステーションへと入っていく、使わなくなったカルテの入った段ボール箱を倉庫に運ぶ序でに話しを聞かせてくれるとピンときたのだ。
段ボール箱を抱えた哲也を従えて早坂が地下階へと階段を下っていく、
「それで船井さんがどうかしたの? 」
先を歩く早坂が振り返りもせずに訊くとカルテのぎっしりと詰まった重い段ボール箱を抱えた哲也が口を開く、
「幽霊とか何かあるんでしょ? 香織さんが怒ってたから何かあると思って…… 」
「ああ……東條さんが担当だったわね、それで私に訊きに来たんだ」
地下にある倉庫の鍵を指でクルクル回しながら早坂が成る程と言うようにコクンと頷いた。
「えへへへっ、頼りになるのは早坂さんだけっす」
おべっかを使う哲也の前を下っていた早坂が階段の踊場で振り返る。
「残念でした。お化けじゃないわよ、只の幻覚、船井さんは薬物依存症だったの、施設に3年いて今は症状が安定してるけど……薬物依存の方は押さえ込んだみたいだけど病んでしまったみたいでここへ入って来たのよ」
「薬物依存っすか…… 」
楽しそうに笑っていた船井を思い出して哲也は何とも言えない気持ちになった。
「船井さんと会ったの? 」
「さっき会いました。色々話したんですけど普通の人でしたよ、それが薬物依存症なんて…… 」
悲しそうな表情の哲也を見て早坂が優しい顔で口を開いた。
「そっか……船井さんね、自分の幽霊が襲ってくるって言うのよ」
「自分の幽霊って何ですか? 」
顔を強張らせる哲也の前で早坂が頷いてから続ける。
「有り得ないでしょ、自分の幽霊なんて……仮に幽霊が居るとしても自分の幽霊が自分を襲うなんて有り得ない……だから幻覚よ、薬物依存症の患者さんはみんな薬物から抜け出したいって心から思っているの、願いと言ってもいいわね、でも簡単には抜け出せない、どんなに精神力が強い人でも少しでも隙を見せると誘惑に負けてしまう、薬物依存やアルコール依存は一度陥ったら治らない、一生戦い続けることになる。自分の精神とね」
船井敬也27歳、薬物依存症で暴れて逮捕され専門の施設で療養していた。症状が回復してきたので社会復帰プログラムへと移行して監視員付きで施設の外へと出た時にまた幽霊を見たと言って町中で暴れて取り押さえられる。
薬物依存によって妄想や幻覚を見て、それにより心が病んだのだろうという事で磯山病院へと転院が決まった。
「逮捕されて薬物依存専門の施設に送られたのか……それで良くなったと思ったらまた暴れて磯山病院へ来たってわけか、でも何で隔離じゃなくてこっちに入ったんです? 」
「うん、普通はそうなんだけどね」
早坂が苦笑いをしながら教えてくれた。
暴れると言っても他人に殴り掛かったりするのではなく幽霊に怯えて逃げ回るだけでそれほど害がないこと、隔離病棟が耐震補強工事中で空き部屋が足りないこと、などの理由でこちらに入院することになったという事だ。
「3年治療しても治らなかったって事か…… 」
同情を浮かべる哲也を早坂が真面目な表情で見つめた。
「そうよ、薬物にしてもアルコールにしても依存症は怖いのよ、絶対に治ることはない、身体だけじゃなくて心も病んでいく恐ろしい病気よ」
船井が薬物に手を出したのは21歳の頃だ。海外旅行へ行って大麻を覚え、より大きな快楽を求めて覚醒剤に手を出した。よくあるパターンだ。
逮捕されたのは24歳のときだ。初犯だったため執行猶予が付いて専門の施設に送られ、そこで3年間の治療を受けたが自分の幽霊が襲ってくるという幻覚は収まらず磯山病院へと転院してきたのだ。
「気の良い人だったけどな船井さん…… 」
やるせない様子で哲也が呟いた。
その後は会話も無く地下の倉庫へと行って古いカルテの入った段ボール箱を空いていた棚に押し込むと部屋から出た。
「重かったでしょ、助かったわ」
倉庫の鍵を掛ける早坂の後ろで哲也がぼそっと口を開いた。
「荷物より船井さんの話の方が重かったですよ」
「哲也さん…… 」
早坂の心配そうな顔を見て哲也が笑みを作った。
「あはははっ、冗談ですよ冗談、また手伝いますから何時でも言ってください、話しを教えてくれてありがとうございます」
ペコッと頭を下げた哲也の後ろ、階段から香織が姿を見せた。
「哲也くん! 」
「おわっ、香織さんだ」
驚くと同時に哲也は廊下の反対側へと走り出す。
「待ちなさい、こらっ!! 」
「なっ、何もしてませんからね……早坂さんの手伝いをしただけですからね」
「だったら逃げるな! 」
叱る香織に振り向きもしないで長い廊下の向こうにあるもう1つの階段へと哲也は消えていった。
「まったく……あとで覚えてなさいよ」
廊下の先を睨む香織の傍で早坂が楽しそうに笑い出す。
「うふふふふっ、逃げ足に磨きが掛かってるわね哲也さん、怒鳴り声と同時に走り出してたわよ」
「ほんっとに、もうっ! 」
忌忌しげに吐き捨てると香織が早坂に向き直る。
「すみません、また話しを聞きに来たんでしょ? 」
申し訳なさそうにペコッと頭を下げた香織に早坂が楽しそうに口を開いた。
「船井さんのこと心配してるみたいだったから教えちゃったわよ」
「本当にすみません、私に訊けばいいのに早坂さんに迷惑掛けて……まったく」
「うふふっ、無理無理、見つかったら叱られるって怯えてたわよ」
楽しげな早坂の向かいで香織がムッと怒った顔で続ける。
「当り前です。哲也くんは変な事に首を突っ込みすぎですから」
「そうね、でも仕方ないわよ、こんな山奥に閉じ込められて自由に外出も出来ないんだから何か楽しみでも見つけないとやってられないわよ」
宥めるように話す早坂の前で香織の顔から怒りが消えていく、
「まぁ、それはわかりますけど……哲也くんには言わないでくださいね、調子に乗るとダメですから」
「わかってるわよ、それより何しに来たの? 倉庫の整理? 」
「あっ、薬の在庫確認に来たんだった。哲也くん怒鳴りつけてて忘れるところだったよ」
倉庫の鍵と薬などのリストの束を持つ香織を見て早坂が微笑みながら口を開く、
「それじゃあ、さっさと終らせましょう、手伝うわよ」
「ありがとうございます早坂さん」
早坂と香織は先輩後輩の仲だ。2人は楽しげに駄弁りながら別の倉庫へと入っていった。
部屋に戻った哲也がベッドに寝っ転がる。
「やべぇ、香織さんに見つかった」
香織にバレないように早坂に訊きに行ったのが水の泡だ。
「会ったら絶対に叱られるな……言い訳考えとかないとな…………それにしても船井さん、自分の幽霊ってドッペルゲンガーじゃないよなぁ…… 」
言い訳を考えるより船井のことが頭に浮んだ。
「ドッペルゲンガーが本人を襲うなんて聞いたことないし……薬物依存か…………やっぱり今回は只の幻覚かな」
自分の幽霊と聞いてドッペルゲンガーかと思ったがドッペルゲンガーが物理的に襲うことなどないだろうと考え直す。
「513号室か、同じA棟だから直ぐに行けるけど…… 」
船井の病室は哲也と同じA病棟の513号室だ。
「詳しく聞きたいけど薬物依存とか訊き辛いよなぁ……香織さんも怒るだろうし」
あれこれ考えているうちに瞼が重くなってきてそのまま眠りに落ちていった。
深夜3時、見回りをしていた哲也がA病棟へと入っていく、
「ふぁわぁぁ~~っ、眠たい……テレビなんて見ずに仮眠とればよかったよ………… 」
大きな欠伸をして階段を上っていく、自分の部屋のあるA病棟だ。少し気が緩んでも仕方がない、E病棟からA病棟へと順番に見て回るのでA病棟で見回りは終了である。
「屋上の鍵、異常なぁ~し」
普段のように最上階から下りながら各フロアを見て回る。
「お腹減ったなぁ~~、でも寝る前に食べると太るからなぁ~~ 」
眠気と食い気と戦いながら階段を下りるその耳に悲鳴が聞こえてきた。自分の部屋のある病棟だ。他の病棟より住人のことは把握している。
「誰だ? 」
哲也は慌てて階段を駆け下りると5階へと出た。
9時の消灯時間を過ぎても0時過ぎ頃までならテレビを見て起きている患者も多いが流石に深夜3時は静まり返っている。
「たっ、助け……誰か、誰か! 助けてくれっ!! 」
「向こうか! 」
悲鳴が聞こえる廊下の先へと哲也が駆けていく、
「513、船井さんだ」
悲鳴は513号室、船井の部屋から聞こえていた。
「大丈夫ですか船井さん」
ノックもせずにドアを開けると船井がベッドの上で震えていた。
「ゆっ、幽霊が……自分の……自分の幽霊がっ………… 」
ベッドの上で上半身を起して布団を身体に巻き付けるようにしてブルブルと震えている船井を落ち着かせようと哲也が優しい声を掛ける。
「落ち着いてください船井さん、もう大丈夫ですよ、僕が付いてますから」
「てっ、哲也くん……幽霊が…………自分とそっくりの幽霊が…… 」
ベッド脇に来た哲也の腕に船井がしがみついた。
「安心してください、もう大丈夫ですよ」
「ああぁ……哲也くん、助かったよ、ありがとう」
肺の中の空気を全て吐き出すようにして掠れた声で礼を言う船井の背を優しくポンポン叩きながら哲也が続ける。
「落ち着きましたか? 何があったんですか? 」
「幽霊だ……自分の幽霊が出るんだ。鏡で見たようにそっくりな幽霊が襲い掛かってくるんだ」
興奮しているのか震えながら話す船井の頬が赤く染まっている。
「幽霊ですか……あっ! 」
ベッドの下、哲也の爪先に何かが当たった。
「紙パック? 何だ? 」
ベッドの下に転がる飲料などが入っている四角い紙パックを拾い上げた。
「料理酒だ……何でこんなところ………… 」
言いかけて酒臭いのに気が付いた。慌てていて気が付かなかったが船井から酒の匂いが漂ってくる。
「船井さん! 何でお酒があるんです? 」
料理酒の紙パックを突き出すようにして哲也が問い質す。船井の頬が赤いのは興奮しているからではなく酒に酔っているからだ。
「そっ、それは………… 」
言い淀む船井に哲也が怖い顔で続ける。
「何処から持ってきたんです? お酒なんて自販機や売店でも売ってませんよね」
「それは…………食堂から持ってきた。ごめんよ、悪いとはわかってる。でも怖かったんだ。幽霊が出てくるんだ……だから………… 」
「厨房から盗んできたのか…… 」
顔を顰める哲也に船井がバッと頭を下げた。
「ごめんよ、盗んだんだ。悪いのはわかってる。でも仕方なかったんだ。売ってるなら買ってるよ、売ってないから盗むしかなかった……どうにかして気を紛らわせたかったんだ。怖いんだよ、自分の幽霊が襲ってくるんだ。幻覚なんかじゃない、本当に幽霊が出てくるんだ。だから……だから酔っ払えば大丈夫かと思って………… 」
謝りながら捲し立てる船井を見てやはり心の病なのだと哲也は思った。
「幽霊が見えるから酒を飲んで気を紛らわせようとしたって事ですか? 」
「そっ、そうだ! 怖かったんだよ、だから………… 」
縋り付く船井の手を解きながら哲也が続ける。
「酔っ払ったから幽霊が見えたんじゃないんですか? 」
呆れ口調の哲也の前で船井が違うと首を振る。
「そっ、それは……違うんだ。本当に幽霊が出るんだ。酒なんて飲まなくても幽霊は出てくるんだ。自分にそっくりの幽霊が……本当なんだ。信じてくれ哲也くん」
必死で訴える船井の前で哲也が悩むような顔で口を開いた。
「飲酒はもちろん、理由はどうあれ窃盗ですよ、本当なら先生に報告しないとダメなんですよ、でも今回は見なかったことにしますから……これは僕が処分しておきます」
食堂で働いている従業員の中に親しくしてもらっている人が何人かいる。その人に頼んで料理酒の件は内々で処分して貰おうと思った。
「哲也くん、ごめんよ……でも幽霊は本当なんだ。本当に出てくるんだ」
「それならナースコールを押してください、看護師さんが直ぐに駆け付けてくれますから」
「でも哲也くん…… 」
何か言いたげな船井を哲也が怖い顔で睨み付ける。
「二度としないでください、次は報告しますからね」
「わかった……本当にごめんよ」
泣き出しそうな顔で謝る船井にきつく言うと哲也は料理酒の空の紙パックを持って部屋を出た。
見回りを再開する哲也の顔は憂鬱だ。
「船井さんに嫌われたかな…… 」
きつく叱り付けたのは船井のためを思ったからだ。料理酒を盗んだことなどどうでもいい、昼間会った時に優しそうな船井に好意を持ったのだ。心の病はもちろん、薬物依存にも勝ってほしいと思ったからだ。
「薬が手に入らないから代わりに酒に手を出したんじゃないだろうな…… 」
陰鬱な気持ちで廊下を歩いていると前から誰かが来るのが見えた。
「誰ですか? 出歩くのは禁止ですよ」
患者がトイレにでも行っていたのだろうと声を掛けた哲也がその場で固まる。
「なん!? 」
船井だ。前から歩いてきたのは先程叱り付けた船井である。有り得ない、船井はまだ部屋に居るはずだ。
『ニコイチ…… 』
固まったように動けない哲也を見て不気味に笑うと船井がすっと消えていった。
「なっ、なんで……船井さんが………… 」
「わぁあぁあぁ~~ 」
何が起きたのかわからず呆然と立ち尽くす哲也の後ろから悲鳴が聞こえた。
「船井さんだ! 」
我に返ったように哲也が駆け付けるともう1人の船井がベッドで横になっている船井の首を絞めていた。
『ニコイチ…… 』
「がっ、ががっ………… 」
ニタリと不気味な顔で笑う船井に首を絞められて横になっている船井が苦痛に顔を歪ませる。
「船井さんが船井さんに………… 」
絶句する哲也に気付いたのかベッドで横になっている船井が手を伸ばす。
「ぐぅぅ……がっ……助けて………… 」
「船井さん! 」
哲也は慌てて駆け寄ると襲っている方の船井の腕を取って引き離す。
「止めろ! その手を離せ!! 」
『邪魔をするな……ニコイチだ』
突き飛ばすようにして引き離された船井がニタリと不気味な笑みを残して消えていく、
「なっ……幽霊か……船井さんが船井さんを襲ってた……本当だったのか」
呆然として振り返る哲也の前でベッドに横たわっていた船井が上半身を起す。
「くはっ……はあぁぁ…………助かった。ありがとう哲也くん」
「船井さん、あれはいったい…… 」
顔を強張らせる哲也の前で息を整えてから船井が話し始める。
「言っただろ本当だって……そっくりだっただろ、自分の幽霊だ。彼奴が毎晩のように現われるんだ」
「本当だったんだ」
驚く哲也を真剣な表情でじっと見つめて船井が続ける。
「ニコイチとか言ってただろ……彼奴は……もう1人の自分が自分の身体を乗っ取るつもりかも知れない、だから怖くて、それで酒を飲んだんだ」
「自分の幽霊が自分を襲うなんて………… 」
これまでの経験からドッペルゲンガーや生き霊とは思えなかった。何者かが船井に化けているのか、それとも本当に船井の幽霊なのか、哲也は詳しく話しを聞くことにした。
「詳しい話しを聞かせてください、あの幽霊は……船井さん自身の幽霊は何時から現われるようになったんですか? 」
「信じてくれたようだな、教えてやるよ、あれは…… 」
酔いも覚めたのか遠くを見つめるような眼差しで船井が話を始めた。
これは船井敬也さんが教えてくれた話しだ。
船井は愛知県の田舎で育った。大学に進学して名古屋で一人暮らしを始め、卒業した後もそのまま就職して田舎へは戻らなかった。
実家には両親と祖父が居る。祖母は船井が生まれる前に亡くなった。仏壇には祖母の位牌と共にもう1つ位牌が置いてあった。今は何の問題も無いが船井は幼い頃は身体が弱かった。そんな船井が風邪を引いて寝込んだ時などに母が真剣な表情で仏壇に手を合わせていたのを覚えている。
一人暮らしを始める為に実家を出て行く際にも母は仏壇に手を合わせていた。亡くなった祖母に自分を守ってくれるように願っているのかとも思ったがどうやら違うようだ。母が熱心に祈っていたのは祖母の隣に置いてある位牌らしい。
長い間、誰の位牌かと聞きそびれていたが大学へ進学して都会に出てくる前に母が教えてくれた。
母は子供が出来にくい体質だったらしく、何度も治療を受けてようやく授かったのが船井だ。だが死産も覚悟していたと言うほど船井は難産だったらしい、母体も危なかったがこれを逃せば子供など二度と出来ないだろうと母は産む決心をした。そうしてようやく授かったのが船井だ。
未熟児で生まれた為か幼い頃は身体が弱かったが両親が甘やかさせずに育てたこともあって小学校を卒業する頃には平均値以上の体力のある立派な少年へと育ってくれたと涙ぐんだ。
結局、誰の位牌かはハッキリとは教えて貰えなかったが母が妊娠し辛い体質だと聞いて自分が生まれる前にこの世に出てこられなかった兄弟が居るのだと察した船井は何も訊かずに笑顔で家を出ていった。
船井は裕福な家庭ではない、父親は一般的な会社員だ。学費と部屋代は親に出して貰ったが小遣いはもちろん食費などはアルバイトで賄っていた。
土日を含め週に4日間のバイトだ。もちろん勉強も疎かにしない、忙しい中、どうにか時間を作っては友人たちと遊んでいた。
苦労をしながらも楽しい学生生活を送り卒業することになる。
就職先も無事に決まり友人たちと卒業旅行に海外へ行った船井は現地で知り合った長期滞在している日本人に誘われて大麻に手を出した。
友人たちと一緒だという安心感と学生最後の海外旅行で浮かれていた所為もあり誘われるままに大麻を吸ってしまったのだ。
その結果、船井は大麻に嵌まってしまった。
社会人になると自由に使える時間は減るがお金には余裕が出来た。船井は纏った休みが取れる度に海外へと行って大麻を吸った。
大麻を吸うようになって1年半が経つ、何度も訪れている内に現地の売人と顔見知りとなりより強い薬を勧められた。コカインや阿片などの薬物だ。麻薬の怖さは知っていたので船井は断っていたがある時、現地に住んでいるという日本人に騙されてコカインを吸ってしまう、大麻とは比べものにならない感覚に船井は一度で虜になった。
日本に帰ってからも薬の感覚が忘れられずにネットで調べて売人を見つけ出して薬物を吸うようになっていた。
「こんな事してちゃダメなんだ……だけど…………これで最後だ」
何度目の最後だろう、自身に言い訳をしながら薬の売人にメールを送る。
「へへっ、明日はゆっくりと楽しむぞ」
メールの返信を見て船井が嬉しそうに笑った。休みの前日、昼休みに連絡をつけて薬を購入して仕事が終った後で受け取って帰る。そんな生活を1年ほど続けていた。
「残りの仕事もさっさと終らせるか」
まだ自制心が働いているのか仕事中に薬に手を出すところまではいっていない、今なら自分1人だけで止めることも出来る程度の中毒だ。
仕事を終えた船井が普段は立ち寄らない途中の駅で降りると繁華街の外れで売人から薬を受け取る。
「船ちゃん毎度、1パケ8000円だ」
如何にもチンピラといった風体の若い男が馴れ馴れしく船井のことを船ちゃんと呼んだ。
「なっ、高いぞ、先月は7000円だっただろ」
顔を顰める船井の前でチンピラがニヤッと口元を歪めながら続ける。
「嫌ならいいんだぜ、これでも安くしてるんだ。船ちゃんはお得意さんだからな、他の奴らは9000円貰ってるんだぜ」
「わかったよ……3つ買うから少し負けてくれよ」
苦々しい顔をしながら財布を出す船井を見てチンピラがニタリと笑う、
「仕方ないなぁ、3パケで1000円まけて23000円でいいよ、船ちゃんはお得意様だからな」
「23000円だな……ほらよ」
船井から金を受け取るとチンピラは白い粉の入った小さなビニール袋を3つ差し出した。
「毎度、わかってると思うけど一度に使うなよ、死んじゃうよ」
「わかってるよ……前まで一袋の半分でよかったのに今じゃ一回で1つ使っちまう、こんな物に8000円も使うなんてな」
愚痴りながら薬の入った袋を財布にしまう船井の向かいでチンピラが楽しそうに笑い出す。
「えひゃひゃひゃひゃっ、8000円で天国に行けるんだぜ、安いもんだろ」
「クソがっ! これで最後だ。薬なんて止めてやる」
「えひゃひゃひゃひゃっ! そりゃ健康でいいな、でもまぁ、また欲しくなったら何時でも連絡してくれ、えひゃひゃひゃひゃひゃっ」
悪態をつく船井にバイバイと手を振るとチンピラは笑いながら歩いて繁華街へと消えていった。
「足下見やがってクソがっ! 」
愚痴りながら船井が駅へと入っていった。
「半年前まで1つ5000円だったのに1ヶ月毎に1000円値上げして来やがる」
カモにされているのがわかっていても薬が止められない自分に苛ついていた。
駅のトイレに入ると財布を出して買ったばかりの薬を確かめる。
「でもまぁこれで今晩から楽しめる」
小便を済ませると満面の笑みでトイレから出て行った。
一人暮らしをしているマンションに帰り着くと夕食もとらずに薬を取り出すと炙って吸った。
「ふぁあぁぁ……これだよ、これ…………はぁあぁぁ~~ 」
幸福感に包まれて船井はそのままゴロッと横になった。
「ふふっ、ふひひひっ、我慢したから効くよなぁ~~ 」
ゴロッと寝返りを打つ、壁や天井がぐにゃりと曲がって見えた。
「ふぃひひっ……ひゃもちいい………… 」
薬が効いて呂律も回らなくなり焦点の合わない目の彼方此方から光が飛んで見える。寝ているのか立っているのか自分の位置がわからない。
薬を使うのは3日ぶりだ。限界まで我慢してから使うのだ。毎日使う奴は馬鹿だと思っていた。そんな船井だが半年前までは週に一回だけだったのが3日に一度と我慢できる期間が短くなっているのに気付いていても気付かない振りをしていた。
「ふぁへ? 」
誰かが部屋の中にいるような気がした。
『お前は……親不孝者が………… 』
声が聞こえたような気がするが薬でトリップしている船井には考えることも出来ない。
『ニコイチだ……俺が貰う』
寝転がっている船井の目の前に横向きに顔が現われた。男が横から自分を覗き込んでいる状態だ。
「ふぁれ? 誰……ふぉれ? 自分だ……自分がいる。あははははっ 」
上から覗き込んでいる顔が自分だと気付いて船井が楽しそうに笑い出す。
『親不孝者が……俺と代われ…………ニコイチだ』
覗き込んでいた自分とそっくりの男が船井の首に手を伸ばす。
「ふっ、ふごっ! 」
船井が苦しげに息を吐く、自分そっくりの男が首を絞めていた。
「がっ、がはっ!! 」
首を絞める男の手を外そうと船井が両手を首に持っていく、
「かひっ……ひぐぐぅ………… 」
船井が恐怖に目を見開いた。首を絞める男の手が掴めない、どかそうと男に伸ばした腕がその顔を突き抜けた。もがいた手は空を切るだけだ。男に触れない、それなのに男の手はしっかりと船井の首に食い込んでいた。
『親不孝者が……ニコイチだ…………俺が貰う』
叱るような男の声を聞きながら船井は気を失った。
暫くして船井が目を覚ます。
「ぐぅぅ……何だよ……気持ち悪い………… 」
胸を押さえながら上半身を起す。胸がむかむかして吐き気がする。頭も少し痛い、こんな症状は初めてだ。
「気持ち悪い……これがバッドトリップかよ…… 」
胸を摩りながらトイレへ行って吐いた。昼食だけで夜は何も食べていないので胃液しか出てこない。
「頭も痛いし……最悪だな」
まだ薬が効いているのかフラつきながら冷蔵庫から缶酎ハイを取り出すと部屋に戻ってゴクゴクと飲んだ。
「変な物混ぜてるんじゃないだろうな、値上げして混ぜ物ありじゃ堪らんぞ」
残り2つの薬の入ったビニール袋を見つめる。
「でも面白かったな、自分がいた……自分が自分で首を絞めてたよ、あはははっ、あんな幻覚は初めてだ……あははははっ」
酔ったのか薬が残っているのか、頭がぼうっとして身体がふわふわとフラついてくる。
「まぁいい、今日はもう寝るか」
ベッドに横になる。天井や壁、周りの物全てがグルグルと回って見えてきた。
「あはははっ、面白いなぁ~、気持ち良いぃ………… 」
幸福感に包まれて船井は眠りに落ちていった。
どれくらい眠っただろうか、船井がふと目を覚ます。
「あれ? 電気消したかなぁ」
薄暗い部屋を見回した。明かりを消した記憶など無い。
『ニコイチ…… 』
横になっている頭の上から声が聞こえた。
寝転がったまま船井が振り向く、
「おわっ! 」
短い叫びを上げると同時に身体が痺れて動かなくなる。
男がいた。ベッドと壁との僅かな隙間に挟まるようにして男が立っていた。
『親不孝者が…… 』
横になっている船井を見下ろして睨む男の顔に見覚えがある。自分だ。毎日鏡で見ている自分とそっくりの顔があった。
「しっ、しぅぅ………… 」
驚きに悲鳴を上げるが全身が痺れていて空気が漏れたような掠れた音しか出てこない。
『ニコイチだ……俺が貰うぞ』
自分とそっくりな男が上から覗き込むようにして腕を伸ばしてくる。
「ひぅぅ……しっ、しぃぃ………… 」
恐怖に顔を引き攣らせる船井の首に男の手が触れた。氷のように冷たい手だ。
『苦しめ、苦しめ、親不孝者が…… 』
自分そっくりな男が首を絞めてくる。
「しぃっ……ひぅぅ…… 」
逃れようと必死でもがくが身体は痺れて指一本も動けない。
『苦しめるな、苦しめるな、親不孝者が……母を苦しめるなら俺と代われ…… 』
自分そっくりな男の怒る目を見ながら船井は気が遠くなっていった。
窓から日が差してきて船井が目を覚ます。
「うぅぅ……うわっ! 」
昨晩の事を思い出したのか船井がガバッと身を起す。
「なんだ夢かよ」
明るくなった部屋の中に何も居ないのを確認してほっと息を付いた。
「バッドトリップであんなものを見たんだな……でもそっくりだったな、自分の幽霊だったりしてな、あるわけないか、あはははっ」
昨晩の出来事は全て夢か幻覚だと笑い飛ばしながら顔を洗いに行く、
「腹減ったなぁ~~、カップ麺食うか、弁当でも買いに行くか……腹減ってたからバッドトリップしたのかもな、満腹だと吐くけど腹が減りすぎててもダメなのかもな」
歯を磨きながら朝食に何を食べようかと考えていると鏡に映る自分の首が赤いのに気が付いた。
「なっ……なんで」
歯ブラシを咥えながらよく見えるようにシャツを引っ張って襟首を広げた船井がその場で固まった。
首に赤い筋が付いている。まるで絞められたかのようだ。
「ゆっ、夢じゃなかったのかよ」
震える声を出す船井の口から歯ブラシが落ちていく、
「そっくりだった……同じ顔だった」
鏡に映る自分を見つめて思い出す。
毎日見ている自分の顔だが改めて見ると昨晩現われた男とそっくりなのを再認識した。
「夢じゃなかったら何なんだ? 自分の幽霊? 生き霊とか言う奴か? 」
部屋に戻ると腹が減っているのも忘れてスマホを使って調べる。
ネットで調べて初めはドッペルゲンガーかと思ったがどうやら違うらしい、ドッペルゲンガーが物理的に襲ってくるなどという話しは聞いたことがない、自分の知らない場所に現われて友人などに目撃されるか、自分が見たとしても姿を見せるだけで襲ってくることなどはないはずだ。
「ドッペルゲンガーでも生き霊でもないならアレは何なんだ? 」
財布の中に入れていた薬の入ったビニール袋を取り出した。
「腹が減ってる今ならまた見れるかも…… 」
ビニール袋を開けようとした手を止めた。
「あはははっ、夢だ夢、首の赤いのは何処かにぶつけたんだ。弁当でも買ってこよう」
薬の入ったビニール袋を財布にしまうと立ち上がる。確かめたい気持ちもあるがそれ以上に怖かった。次は殺されるかも知れないのだ。
「バッドトリップはもう御免だ。飯食って少し休んでから楽しもう」
弁当を買いに船井は部屋を出て行った。
コンビニ弁当を食べながら安酒を飲む、
「朝から酒を飲む……落ちるとこまで落ちたなぁ~~、あははははっ」
情けないのはわかっている。だが薬に金を使って遊びに行く余裕などは無い、もちろん貯金も殆ど無かった。
「あははっ……でもいいさ」
テーブルの上に置いた財布を撫でる。麻薬のことを考えると他の事はどうでもよくなってくる。
「そろそろいいかな」
昼前、そわそわしながら薬を取り出すと粉を炙って吸い込んだ。
「やっぱ我慢したあとで吸うと効くよなぁ~~ 」
5分も経たずに全身を幸福感が包み込む、
「ふふっ、あははっ、神の光だ」
目の中を虹色の光が飛び交う、身体がフラついてそのまま床に寝転がった。
「はぁぁ……ひもちぃいぃ~~ 」
部屋の全てがぐにゃりと曲がって見え快楽に包まれて呂律も回らなくなる。
『親不孝者が…… 』
倒れている船井の横に誰かが立った。
「ふぁ~~い」
驚きもしないで船井が浮かれた返事をする。
『ニコイチだ……俺と代われ』
船井の頭の中にハッキリと声が聞こえた。
「かぁわぁる? 何とぉ~~ 」
『親不孝者が…… 』
へらへらと笑う船井に男が跨るようにして首に手を掛けた。
『苦しめ、苦しめ、親不孝者が…… 』
「ふぐぅ! 」
首を絞められてトリップしていた意識が戻る。
自分だ。自分とそっくりな顔をした男が跨って首を絞めてくる。
「ぐぅぅ……ぐがっ! 」
どうにかして引き離そうとするが船井の腕は男の体を通り抜けて掴むことも殴ることも出来ない。
『苦しめるな、苦しめるな、親不孝者が…… 』
自分そっくりの男が目を吊り上げた怒りの形相でグイグイ首を絞めてくる。
「かっ、かははっ…… 」
『母を苦しめるなら俺と代われ……ニコイチだ。その身体を俺によこせ』
苦しさにもがく船井を男が持ち上げる。
船井はスッと浮んだように感じた。喉を締め付ける苦しさに頭を動かしたその時、船井の目に床に転がっている自分が映った。
「くはっははぁ~~ 」
苦しさか、驚きか、肺の中の空気を全て吐き出すと共に掠れた悲鳴が同時に出てきた。
自分そっくりの男、その男に首を絞められて持ち上げられるように上半身を起している自分、後ろの床に倒れている自分、3人の自分が居た。
『母を苦しめるなら俺と代われ……お前の身体をよこせ、ニコイチだ…… 』
「はっ、はぁあぁ…… 」
倒れている自分と腰の辺りで繋がっているのを見て船井が目を見開く、
「じっ、自分だ…… 」
自分そっくりの男が自分の身体から魂を引き抜こうとしている。そう思った。
『母を苦しめるなら俺と代われ…… 』
自分そっくりの男が怒りながら首を締め付けてくる。
『ニコイチだ。ニコイチだ……その身体をよこせ』
男の声を聞きながら船井の意識が遠くなっていった。
どれほど時間が経ったのか船井が目を覚ますと部屋は薄暗くなっていた。
「たっ、助けて…… 」
手足をばたつかせて船井が上半身を起す。
「居ない……夢か、幻覚か…………でも首が…… 」
首がヒリヒリと痛かった。フラつく足で洗面所へと向かって鏡を見る。
「夢でも幻覚でもない…… 」
首には絞められたような赤い痕が付いていた。
「身体をよこせって……ニコイチって言ってた」
ニコイチ、男の話す意味が分かった。幽霊か何か知らないがあの自分そっくりの男が自分の身体に入り込もうとしているのだと船井は思った。
「そっくりな奴が自分の身体を乗っ取ろうとしている。自分の幽霊が襲ってくるんだ」
薬物による幻覚だと思っていたがどうやら本当に自分そっくりの男が現われるらしい、その自分の幽霊がニコイチと言って自分の身体に入ってこようとしている。
船井はこのままでは殺されるか身体を乗っ取られるかと恐怖したが麻薬は止められない、3日置きだったのがいつの間にか昨日から続けてやっていることにさえ気付いていなかった。
「こっ、怖い……自分の幽霊も薬が無くなるのも…………あと1つしかない、買わないと………… 」
スマホを取ると薬の売人に連絡をしていた。
夜の繁華街、船井は薬の売人が来るのを待っていた。
「遅いな……何やってんだ」
苛つきながらスマホを取り出す。
「毎度! 」
船井が電話を掛けようとした時、後ろから売人のチンピラが姿を見せた。
「遅いじゃないか、来ないかと心配したんだぞ」
文句を言う船井の前でチンピラがニヤッと黄色い歯を見せて笑った。
「ああ……悪かった。いつもは夕方だろ、会社帰りなのに夜だからさ、ちょっと心配してさぁ」
夜の10時過ぎに取引するのは初めてだ。チンピラの物言いから警察か何かが居ないか何処かで船井を観察でもしていたのだろう、
「わかった。いいから早く売ってくれ」
急かす船井を見てチンピラがニヤつきながら口を開いた。
「毎度、1パケ1万って言いたいところだけど船ちゃんはお得意だから9000円でいいよ、大サービスだ」
「ちょっ、2日前は8000円だっただろ」
焦りを浮かべる船井の向かいでチンピラから笑みが消えた。
「2日前はね、今は1万だ。船ちゃんはお得意さんだから9000円に負けてやるけどさ」
「何で2日で2000円も上がるんだよ」
納得いかないと口を尖らせて文句を言う船井を見下すようにチンピラが続ける。
「嫌ならいいんだぜ、客は他にもいるんだし……じゃあな」
馬鹿にするように手を振りながら帰ろうとするチンピラの腕を掴んで船井が止めた。
「わっ、わかった9000円でいい、5万あるからこれで買えるだけくれ」
財布から乱暴に1万円札を取り出す船井を見てチンピラがニヤッと口元を歪める。
「5万か……本当なら5パケだけどオマケして6パケやるよ」
「あぁ、ありがたい」
船井が礼を言いながら麻薬の入った小さなビニール袋を受け取る。先程まで高いと怒っていたのが嘘のようだ。完全に思考が停止している。薬さえ手に入れば後はどうでもよくなっているのだ。
「毎度、じゃあまたいつでも連絡してくれや」
「ああ、無くなったら直ぐに連絡するよ」
ニヤけながら背を向けるチンピラに船井が笑顔で手を振った。
「ありゃぁ、そろそろ潮時だな」
去って行くチンピラが呟いた声は船井には届かない。
一人暮らしをしているマンションに帰ると船井は財布の中に入れていた麻薬の入った小さなビニール袋をテーブルの上に並べた。
「今日買った分と残りを合わせて7つある。これで1週間は持つぞ、ふへへへっ、これで安心だ」
ストックがないと不安で仕方がないほど中毒になっている。半年前までは週に一度、それ以降、昨日までは3日に一度だったのが今は毎日吸うのが当然だと何の疑問もなく思っている。薬物依存が進行して我慢が出来なくなっていた。
「ふへへっ、きょっ、今日は寝よう……薬は昼にやったからな……今日は寝よう、また明日だ」
流石に日に二度はダメだという自制心が働いたのかその夜は夕食も食べずにベッドに入った。
深夜、寒気を感じて震えながら船井が目を覚ます。
『ニコイチだ……俺によこせ』
枕元に自分そっくりの男が立っていた。
「ふひぃぃ~~ 」
恐怖の悲鳴を上げると同時に体が痺れたように動かなくなる。
『親不孝者め! 母を苦しめるなら俺と代われ……ニコイチだ』
「ひっ、ひぃやだ…… 」
痺れて動かない喉を振るわせるようにして船井が嫌だと発した。
触れることも出来ない人間ではない自分そっくりの男、自分の幽霊かも知れない男が船井の首に手を伸ばす。
『苦しめ、苦しめ、親不孝者が…… 』
「ふぐぅ! 」
自分の幽霊に首を絞められて船井は気を失った。
昼前に船井が目を覚ます。
「ニコイチ……自分の幽霊が……そっくりの幽霊が身体を乗っ取ろうとしてる」
朝食も食べずに麻薬の入った小さなビニール袋に手を伸ばす。
「落ち着くんだ……大丈夫だ…………これがあれば大丈夫だ」
ビニール袋を開けると白い粉を指に付けて鼻の中へと塗っていく、いつもはアルミホイルの上で炙って煙を吸うのだがそれすら面倒になって鼻の粘膜に直接塗ったのだ。
「ふひひっ……あははははっ、幽霊がなんだ! そんなもの怖くないぞ」
暫くして薬が効いてくる。気が大きくなってあれ程怖がっていた幽霊を罵倒し始めた。
「だいたい幽霊なんているかよ、みんな幻覚だ。夢だ……ゆふれいにゃんれ………… 」
虹色の光が周りを飛び交い、部屋の壁や天井がぐにゃりと曲がって見える。薬が効いて全身が幸福感に包まれた。
「ふゃひゃひゃっ、あははははっ、にゃんもこわぁくないぃぞ~~ 」
呂律の回らない言葉を発しながらその場にゴロンと横になる。
『親不孝者め……ニコイチだ…… 』
倒れた船井を上から覗くように自分の幽霊が現われた。
「あひゃひゃひゃっ! また出た……出た…………あひひひひっ」
船井が笑いながら自分の幽霊に手を振った。薬が回って何も怖くはなかった。
『親不孝者め……苦しめ、苦しめ……ニコイチだ』
「がっ、ぐががっ! 」
自分そっくりの幽霊に首を絞められて船井が嘔吐く、
『ニコイチだ……身体をよこせ』
幽霊が首を絞めたまま船井を引っ張り上げた。スーッと抜け出すように船井の上半身が持ち上がる。
「ふあぁっ! 」
船井が短い悲鳴を上げた。
床には倒れたままの自分が居る。今の自分は倒れている自分から引き離された魂か何かだと考えなくともわかった。
『ニコイチだ……親不孝者が………… 』
「たっ、助けてくれ……殺さないでくれ」
薬の効果が切れたのか何故か意識はハッキリしていた。
『苦しめ苦しめ、親不孝者が……ニコイチだ』
自分そっくりの幽霊が身体から離れた魂だけの船井の首を締め付ける。
「ががっ……たっ、助けて…………ぐぅぅぅ 」
もがきながら船井は気を失った。
次に船井が目を覚ますと窓から西日が入って来ていた。
「夕方か…… 」
昼前から5時間は気を失っていたらしい、上半身を起して部屋を見回す。
「痛たた……ガンガンする」
麻薬によるバッドトリップか、幽霊に首を絞められた為に脳に血が回らなくなっていたためか、頭がガンガン痛かった。
「喉が渇いた…… 」
頭痛に顔を歪めながら冷蔵庫から缶酎ハイを取り出して飲む、麻薬中毒のためか空腹は感じないが焼け付くような喉の渇きが収まらずに缶酎ハイを3缶も飲み干した。
「自分の幽霊か……ニコイチって………… 」
薬が残っているのか酒に酔ったのかそれほど恐怖は感じない。
「あははははっ、幽霊なんて怖くないぞ、幽霊なんているわけない、幻覚だ。全部夢だ」
『親不孝者め……ニコイチだ…… 』
台所から笑いながら部屋に戻ろうとした後ろで声が聞こえた。
反射的に振り返った直ぐ後ろ、自分そっくりの男が立っていた。
『親不孝者め……その体をよこせ、ニコイチだ』
「ふひぃ~~ 」
自分の幽霊に襲われて船井がその場に倒れ込む、
『苦しめ苦しめ、親不孝者が……ニコイチだ』
「ぐがっ……がががっ………… 」
苦しさにもがくが船井の手は男の身体を通り抜けるだけだ。
「かはっ……たっ、助け………… 」
苦しみながら気が遠くなっていった。
自分とそっくりの幽霊は昼夜関係なく現われるようになり、船井は恐怖とストレスからノイローゼになり会社も辞めてしまった。もちろん麻薬によって無気力になった事も関係している。
「薬が……薬がもう無い」
幽霊を見るのも全て麻薬による中毒が原因だと思っているが既に自分1人では止められなくなっていた。
「買わないと……金は? 貯金を下ろせば買えるな……50万あるから50回は大丈夫だ。良かった……良かった」
部屋代や公共料金の支払いなど頭から消えていた。思考力は無く薬中心の考えになっている。
「何で出ないんだよ……何で繋がらない」
いつも買っていた売人に連絡するが繋がらない、
『親不孝者め……ニコイチだ…… 』
焦る船井の前に自分そっくりの幽霊が現われた。
「でっ、出たぁ~~ 」
船井は逃げるようにしてマンションの部屋から飛び出した。
『ニコイチだ。ニコイチだ……親不孝者め、その身体をよこせ』
自分そっくりの幽霊が追ってくる。
「ひぃぃ……たっ、助けてくれぇ~~ 」
叫びながら逃げる船井の足がもつれてその場に転がる。
「ゆっ、幽霊が……自分の幽霊が………… 」
気が付いた時には警察署の中だった。大声で助けを求めながら通りを走っていたところまでは覚えている。
薬物検査を受けて陽性反応が出た船井はその場で逮捕された。拘置所でも自分の幽霊が出ると騒ぐ船井は初犯という事もあり執行猶予が付いて刑務所の代わりに薬物中毒専門の施設へと入れられた。
施設で3年間の治療を受けて薬物依存からは脱却したと判断されたがまだ自分の幽霊が現われると訴える船井は心の病だということで磯山病院へと転院してきたのだ。
これが船井敬也さんが教えてくれた話しだ。
長い話を終えた船井が窶れた顔でフッと笑った。
「確かに自分は薬物依存だ。さっきも酒を飲んでた。不安で仕方ないんだ……怖くて不安で……それから逃げるために酒まで盗んで…………自分の幽霊が自分を襲うなんてバカな話しだ。自分だって人から聞いたら妄想だって馬鹿にするさ、でも哲也くんなら信じてくれるだろう? 」
縋るような目で見つめられて哲也がゆっくりと頷いた。
「信じますよ、見ましたから、だからって酔っ払っても何の解決にもなりませんよ」
「わかってる。わかってるよ……でもな、怖くて怖くて仕方ないんだ。彼奴が……俺そっくりの幽霊が俺の身体を奪おうとしてるんだ」
実際に船井そっくりの幽霊を見て話しを聞いた哲也は何も言えなくなる。その向かいで涙を浮かべて船井が続ける。
「昼でも夜でも出てくるんだ……ニコイチだと言って首を絞めてくる」
寝間着を引っ張って見せる船井の首筋に赤い痣が浮んでいた。
「苦しくて気を失って目を覚ます……怖くて怖くて自分の手や身体を見るんだ。まだ自分だ。まだ乗っ取られてない、そうわかってやっと安心するんだ…………この怖さがわかるか? いつか自分じゃなくなってる。彼奴が……そっくりの幽霊が自分の身体を乗っ取って自分として船井敬也として暮らし始めたら…………そしたら今の自分はどうなる? それを考えたら怖くて怖くて………… 」
涙を流す船井の向かいで哲也が苦痛に顔を歪ませて口を開いた。
「気持ちはわかりますよ、でも隠れて盗んだお酒を飲むなんてダメですよ、先生に話せば不安を解消する薬を処方してくれますよ、だからもう盗んだりはしないでください、今回のことはバレないように僕が何とかしますから」
治療と称して薬漬けになって一日中呆然として暮らしている患者を知っているので船井には薬に頼らずに治って欲しいと思いながらも他に考えが浮ばなかった。
「 ……わかってるよ、悪かった。もう盗んだりしないから」
悲しそうな表情でこたえる船井の前で何とも言えない険しい顔をして哲也が腰を上げる。
「何が出来るかわかりませんが僕も出来るだけのことはしますから…… 」
「ありがとう哲也くん」
力無くこたえる船井を元気付けるようにわざと声を明るくして哲也が続ける。
「何かあればナースコールを押してください、大丈夫ですよ、ここは病院ですから看護師さんが直ぐに駆け付けてくれますからね」
「そうだな……ありがとう」
消え入りそうな声で礼を言う船井を置いて哲也は病室を出て行った。
「こんな時間か……まぁA病棟の見回りはもういいか」
廊下の端、壁に掛かっている時計は午前4時半を回っていた。3時前に見回りを始めて普段なら4時前に終えて自分の部屋に戻っている。かれこれ40分程話しを聞いていたことになる。
「何とかしてやりたいな……自分の幽霊か……先ずは正体を確かめてからだ」
船井そっくりの幽霊、その正体を確かめてから自分の手に負えないなら眞部に助けを求めようと哲也は思った。初めから眞部に相談しても相手にされないかも知れないと考えたのだ。
「船井さんは触れないって言ってたけど僕は触れた。どうにかして捕まえて正体を確かめてやる」
ハッキリ言って船井は自業自得かも知れない、いけないとわかっていて薬物に手を出した。他にも何かあるのかも知れない、何者かに恨まれるようなことがあるのかも知れない、だが哲也は助けてやりたいと思った。
船井の話し口調や物腰から自分勝手な人物ではなく優しい人だという事がわかった。そんな人を哲也が見放せるわけがない。
翌日の夜10時、哲也が見回りでA病棟へと入っていく、
「異常無しっと」
いつものように最上階から下りながら各フロアを見て回る。
「次が問題だな」
5階に降りてくる。長い廊下の先に船井の513号室があった。
少し緊張気味に哲也が歩いて行く、まだ10時だ。消灯時間は過ぎているが起きてテレビを見ている患者も多く各病室から音が漏れてくる。
「竹本さん、テレビの音、少し大きいですよ」
他の部屋を注意しながら船井の513号室の前にやってきた。
「寝てるのかな? 」
船井の部屋からはテレビの音声は漏れてこない、ドアの磨りガラスから見てもテレビを付けていないのがわかる。
「一応見とくか…… 」
昨晩の事もある。また酒でも飲んでいたら大変だ。哲也はそっとドアを開けた。
「あっ、船井さん、起きてたん…… 」
薄暗い部屋の中、ベッドの脇に立つ船井を見て声を掛けた哲也がその場で構えた。
「お前何者だ! 」
押し殺した声で哲也が訊いた。
ベッドの脇に立っていたのは船井ではない、船井はベッドの上で寝息を立てている。脇に立っている船井そっくりの男は患者の着る服ではなく私服姿だ。
横を向いていた男がゆっくりと振り返る。
『俺は船井だ……船井だよ』
正面から見た男は本当に船井そっくりだ。
「うっ、嘘つけ、船井さんに化けて何をするつもりだ」
『俺は船井だ……んん!? お前も……そうか、なら邪魔をするな』
震える声を出す哲也を見てもう1人の船井がニタリと不気味な笑みを見せた。
「邪魔? 船井さんに何かしてみろ、僕が許さないからな」
警棒代わりにも使える懐中電灯を握り締める哲也の前で船井そっくりな男がベッドで眠っている船井を指差す。
『こいつは人生で一番楽しい時期を過ごしたんだからもういいだろう、次は俺の番だ。俺が替わる。ニコイチだ』
「何が代わるだ。船井さんから離れろ! 」
警棒代わりにも使える懐中電灯で哲也が殴り掛かった。
「なん!? 」
当たったと思った瞬間、船井そっくりの男の体が薄れて消えていく、
『ふひひっ、気を付けろよ、お前にも何か入ってるぞ』
消える直前、哲也の耳に顔を近付けて男が笑いながら囁いた。
「何言ってんだ! 」
思わず声を大きくした哲也の前、ベッドで眠っていた船井が目を覚ました。
「哲也くん? 何を…………もしかして幽霊がいたのか? 」
上半身を起して顔を強張らせる船井に哲也が険しい表情で頷いた。
「いました。そこに立って寝ている船井さんを見てましたよ」
「本当か……哲也くんが追い払ってくれたんだな、ありがとう」
薄暗い部屋の中でもわかるほど青い顔をして船井が礼を言った。
「でもあれは何なんだろう? ドッペルゲンガーとは違うみたいだし……生き霊でもないな、何なんだろう? 」
険しい表情で考えながら哲也が続ける。
「誰だって訊いたら船井だって、俺は船井だって言ってました。こいつは人生で一番楽しい時期を過ごしたんだからもういいだろう、次は俺の番だ。俺が代わる。ニコイチだって寝ている船井さんを指差して言ってましたよ」
「俺は船井だって? そんな事を…… 」
ベッドで上半身を起したまま船井が思い出すように話し始める。
「自分の兄弟かも知れない、昨日話しただろ、自分の母は妊娠し辛い身体だって、仏壇に祖母の位牌と一緒にもう1つ位牌が置いてあったって話しただろ、ハッキリと訊いてないけどあれは自分が生まれる前に死産か何かした自分の兄弟の位牌だと思う」
「船井さんの兄弟か…… 」
納得した様子で大きく頷く哲也の前で船井が震え出す。
「そうだとしたら自分が麻薬なんかに手を出してだらしないことをしたから怒ってるんだ。だからニコイチって言って自分の身体を奪おうとしているんだ」
「そうかも知れませんね」
険しい顔で哲也が同意した。何かが化けているのかとも考えたが先程見た幽霊からはそれほど悪い気配は感じなかったのだ。
「そうに決まってる……どうしたら」
焦りを浮かべる船井に哲也が悩むような表情で口を開いた。
「僕の知り合いに力を持っている人がいます。その人に頼んでみますよ」
事務員の眞部に頼むつもりだ。霊能力者で陰陽道に通じる眞部なら何とかしてくれるだろう、また首を突っ込んだと叱られるかも知れないが他に方法は無かった。
「ほっ、本当か? 頼むよ哲也くん」
縋るように見つめる船井に哲也が自信のある笑みを見せた。
「任せてください、その人は本当に力があるのでどうにかしてくれると思います。じゃあ僕は見回りの途中ですから」
「ありがとう、本当に頼んだよ哲也くん」
頭を下げる船井に任せてくれと言うように頷くと哲也は部屋を出て行った。
深夜3時の見回りで哲也はA病棟へと入っていく、
「眞部さんに相談するとしても、もう少し情報が欲しいな、あのそっくりな男が本当に船井さんの兄弟なのか違う何かなのか、それくらい僕でも調べられるよな」
いつものように最上階から見て回り5階へと下りてきた。
「ふっ、ぶわぁあぁ~~、助けてくれぇ…… 」
「船井さんだ! 」
悲鳴が聞こえて哲也が駆け付ける。
「大丈夫ですか! 」
『親不孝者め……俺と替われ…………ニコイチだ』
哲也が部屋に飛び込むと船井にそっくりな幽霊がベッドで横になっている船井の首を絞めていた。
「ぐっぐぐぅ……てっ、てつや………… 」
船井が助けを求めて哲也に手を伸ばしてくる。
「止めろ!! 船井さんを離せ! 」
哲也が殴り掛かると船井にそっくりな幽霊はふわっと跳ぶようにベッドの向こう側へと逃げていく、
『邪魔をするな、この親不孝者を懲らしめる……ニコイチだ。俺が替わる』
ベッドの向こう、格子の入った窓の前で船井そっくりな男の幽霊が哲也を睨んだ。
「てっ、哲也くん、助けてくれ」
ベッドから這い出てきた船井を庇うように哲也が前に立った。
「お前何者だ? 船井さんの兄弟か? 生まれて来れなかった兄弟が居るかも知れないって船井さんが言ってたぞ」
『俺は船井だ。そいつそのものだ』
船井そっくりな幽霊が哲也の後ろに隠れる船井を指差した。
「そのものってどういう事だ? 」
顔を顰めて訊く哲也の前で船井そっくりな幽霊が続ける。
『俺は船井だ。俺が身体を取られて此奴が生まれた。次は俺が此奴の魂を吸収して1つになる。ニコイチだ』
「身体を取られた? 」
振り返った哲也に船井は知らないと首を振る。
「知らない、自分は何もしてない本当だ」
『母のお腹の中だ。俺たちは2人いた。でも異変が起きて俺はそこの船井に吸収された。それなのに…………親不孝者め』
哲也がバッと前に向き直る。
「お腹の中で吸収されたって……じゃあ船井さんは双子だったのか」
船井にそっくりな幽霊が哲也を見つめて頷いた。
『ニコイチだ……今度は俺が替わる。母を悲しませるようなヤツに任せられない』
ベッドを突き抜けるようにして前に出てくる幽霊に哲也が待てと言うように両手を伸ばす。
「ちょっ、待ってくれ、そんな事をしたらそれこそ母親は悲しむんじゃないのか? 」
『 ……親不孝者は許せない』
幽霊の顔に迷いのようなものが浮んだのを見て哲也が続ける。
「お母さんは死を覚悟して船井さんを産んだんじゃないのか? 」
隠れるように後ろにいた船井が哲也の横に出てきた。
「自分が麻薬に手を出したから、それで怒ってるんだよな? 悪かった。もう絶対に薬なんてしない、約束する……だから許してくれ兄さん」
『兄さん…… 』
じっと見つめる幽霊に船井が深々と頭を下げた。
「双子だったんだろ、だったら兄さんだ。自分はこんなだから……兄さんの方がしっかりしているから兄さんだ。自分が悪かった。許してくれ兄さん」
船井そっくりな幽霊の顔から怒りが消えていく、
『兄さんか……親を心配させるな、今度馬鹿な真似をしたら本当に俺がこの身体を貰うからな』
「兄さん……約束するよ、二度と馬鹿はしない」
謝る船井の目から涙が溢れ出す。
『約束だぞ、母さんに心配掛けるなよ』
「うん、ありがとう兄さん…… 」
『俺はお前だ。いつも一緒に居るからな』
涙を流して謝る船井を見て優しく微笑むと船井にそっくりな幽霊は消えていった。
「兄さん……約束するよ薬は、麻薬はもう絶対にしないから」
涙をぐいっと拭って船井が哲也に向き直る。
「哲也くんもありがとう、兄さんと哲也くんが救ってくれた……本当にありがとう」
「そんな、僕は何も…………でも良かったです。優しいお兄さんでしたね」
礼を言う船井の前で照れた哲也が頭を掻きながら微笑んだ。
「ああ……こんな自分を…………本当にすまなかった」
「大丈夫ですよ、幾らでもやり直せますよ、じゃあ、僕はこれで」
項垂れたまま悔やむように何度も謝る船井に元気付けるように声を掛けると哲也はそっと部屋を出て行った。
翌日、自分そっくりの幽霊が言った言葉が気になって船井は先生に頼んで実家に連絡を取った。そして母親から話しを聞いて本当に双子だったことを知る。母の体内で異変が起きて生まれるはずだった双子の片方の身体を吸収して船井は生まれたのだ。
母胎で双子の片方が何らかの原因で死んだ。残った方が死んだ身体を吸収して船井となって生まれ出た。その証拠に双子が存在していた証となる髪の毛や骨の一部などが船井と一緒に母体から出てきた。
超未熟児だった双子は片方を吸収する事によって1つの命として生まれ出たのだ。そうしなければ双子はもちろん母親も死んでいたかも知れないのだ。
自分そっくりの男が自分の身体に入り込もうとしているのではなく胎児の時に母胎で双子の片方が吸収されて既に入り込んでいたのだ。そっくりの幽霊が言っていたニコイチはその事を表わしていたのだ。
5日ほどしてすっかり回復した船井は元気に退院して行った。
「二度と馬鹿な真似はしないよ、自分だけじゃなくて兄さんに誓ったんだ。俺の中にいる兄さんに……だから………… 」
青空を見上げる船井に哲也が笑いかける。
「船井さんなら大丈夫ですよ、薬なんてものに頼らなくとも不思議なもの神秘的なものがあるのを体験したんですから」
「そうだな、自分1人の身体じゃないんだからな…… 」
「そうですよ、でも船井さんの兄さんとはちゃんと話をしてみたかったな」
「うん、自分もだ」
自分の胸に手を当てて船井が寂しそうに笑い返す。
「話せると思いますよ、夢の中とかで……船井さんは兄さんの存在に気付いたんですから、何時でも傍に居るんだから」
「そうだな……ありがとう哲也くん」
船井の頬に涙が伝わる。悲しい涙か、嬉しい涙か、哲也には判断できなかった。
一度薬物に手を出したものは一生治ることはない、薬物による快楽を脳は忘れることはなく少しの隙をついて出てくるのだ。そして誘惑に負けてしまう、再犯が多いのはその為だ。
だが船井は大丈夫だと哲也は思った。もう1人の船井が、兄がいつも見守っているのだから、もう1人の船井は初めから乗っ取る気などなかったのだろう、兄として叱るために現われたのだと哲也は考える。
では何故、船井が薬物を始める前に現われて守ってくれなかったのだろうか? 哲也は思う、兄である双子のもう1人の船井は母の体内で身体と共に心も、魂も船井に吸収されて1つになったのだ。もう1人の船井が言っていたニコイチだ。それで現われる事はなかった。
ニコイチとは2つを1つにするという意味だ。2つ、もしくはそれ以上の複数の使える部品を集めて正常に動く1つのものを再生することである。船井の場合は母の体内でニコイチが起きたのだ。妊娠し辛い母の体内で何かが起きて双子の片方が亡くなり、吸収されて1つになった。1つになった兄は動くに動けなかったのだろう、だが薬物による刺激が船井の中に眠っていた双子の兄を呼び覚ましたのではないだろうか? 母の体内で吸収して1つになった兄か弟、その魂が目を覚ましたのだ。
身体を取られ生きることの出来なくなったもう1人の船井は薬物に溺れる船井を見て歯痒い思いをしながらも何も出来なかった。しかし薬物による脳や精神への刺激によって船井に隙が出来て姿を現わすことが出来た。そしてだらしない船井を叱り付けたのだ。
気を付けろよ、お前にも何か入ってるぞ……、もう1人の船井が言った言葉が頭から離れない。
「変な事言いやがって僕に何が入ってるっていうんだ……そんな事あるわけないだろ、変な事があったら眞部さんが教えてくれるはずだからな」
込み上げてくる不安を紛らわせるようにベッドに寝転がると哲也は雑誌を読み始めた。
文字を追っていると瞼が重くなってくる。
『戻して……助けて………… 』
眠りに落ちてゆく頭の何処かでか細い声が聞こえたような気がした。
読んでいただき誠にありがとうございました。
次回更新は来年1月末を予定しています。