第四話 迷い猫
都会では野良犬は見なくなったが野良猫は昔と変わらずによく見掛ける。
野良犬は狂犬病予防のために積極的に駆除が行われたという説もある。それも要因の1つだが、度々野良犬が人に襲い掛かるという事件が起きて全国的に駆除されたというのが本当のところだ。
犬と違い猫は向こうから人を襲う事は無いというのが猫が駆除対象にならない大きな要因だろう。
猫は神秘的な力を持っていると書かれる事が多い、魔女の使いや、妖怪など、世界中で猫は不思議な力を持っていると描写されている。もちろん犬の妖怪なども居るが猫と比べると圧倒的に少ない。
群れで生活していた狼から飼い慣らされた犬と違い猫は単独で行動している。足音も立てずにいつの間にか現われたり消えたりする姿を見たり暗くても視力が劣らないように瞳の形を変えるのを見て神秘的だと思ったのかも知れない。
磯山病院にも犬や猫が数頭飼われている。アニマルセラピーに使われているのだ。患者の中には人間不信に陥った者も多い、アニマルセラピーはその様な人たちに効果絶大だ。
一方野生動物は厳しく制限されている。野生動物はノミやダニやその他の寄生虫の宝庫だ。体の弱った患者が感染症にかかる恐れがあるため敷地内に入らないように厳重に管理されていた。とは言っても空を飛ぶ鳥や鼠などの小さな動物は防ぎようがない、狸や狐に鼬なども見る事もある。患者が触らないように注意したり建物に侵入しないように管理しているのだ。
そういう事も有り野良犬や野良猫が敷地に入って来たとなると大騒ぎになる。もちろん警備員である哲也も侵入者の排除に走り回るのは言うまでもない。
深夜の見回りを終えた哲也がベッドに横になる。
今日は騒ぎもなく楽だったな……、1日を振り返りながら眠りに落ちていった。
「ここは? 」
木々の間を哲也は歩いていた。下っている所を見ると山道だろうか?
「ここはどこだ? 」
立ち止まると辺りを見回す。
後ろを見ると山肌に沿ってコンクリで出来た大きな壁が見えた。
「あれは…… 」
壁に見覚えがあった。思い出そうと記憶を辿ろうとした時、声が掛かった。
『外だよ、私が居る外の世界だ。でも本物じゃない、こうして見せるだけで精一杯だ』
哲也が前に向き直る。
「えっ? 山下さん…… 」
小柄で少し腹の出た中年男が立っていた。自分の事を狸だと言っていた山下勝也さんだ。哲也には一目で分かった。怖い記憶ではなく楽しかった思い出なので忘れるわけがない。
「山下さん、御久し振りです。元気そうで安心しましたよ」
懐かしさに哲也の顔が綻んでいく、
『挨拶している場合じゃない、逃げるんだ哲也くん』
哲也と違い山下は真剣な表情だ。
「逃げる? 何から逃げるんですか」
『ここからだよ、磯山病院から出るんだ』
「磯山病院? 」
言いながら哲也が振り返る。
「あぁ……病院の壁かぁ~~ 」
見覚えがある筈だ。山肌に沿ってそそり立つ大きな壁は磯山病院を囲っている壁だ。広い敷地をぐるっと囲んでいる壁の外に哲也は居た。
山下が哲也の腕を引っ張った。
『哲也くんチャンスだ。チコさんと一緒に逃げるんだ。磯山病院から出るんだよ』
前に向き直った哲也が怪訝な顔を山下に向ける。
「病院から? 何言ってるんですか、僕はまだ退院なんて先ですよ」
哲也の腕を掴みながら真面目な表情をした山下が首を振る。
『そうじゃない、退院なんてどうでもいいんだ。ここは哲也くんが思っているようなところじゃないんだよ、やっとチャンスが来たんだ。チコさんと一緒なら出られるんだ。だから逃げるんだ』
「何で逃げなきゃいけないんです。僕はこの病院に不満なんてないですし先生も看護師さんたちも親切にしてくれてますよ、他の病院へ移るなんて嫌ですからね」
哲也が顔を顰めた。山下の事は好きだし頼みは利いてやりたいがこればかりは無理である。
『そんな事言ってるんじゃない、あいつらは哲也くんを取り込もうとしてるんだ』
「取り込む? さっきから何言ってるのかさっぱり分かりませんよ、チコさんって誰なんです? そんな患者知りませんよ、先生でも看護師さんでも聞いた事ないし…… 」
山下が険しい顔をして辺りを見回す。
『チコさんは……くそっ、気付かれた。私じゃこれ以上留まれない、いいかい哲也くん、チコさんと逃げるんだ。いいね、私を信じて逃げるんだよ』
山下の体がフッと揺らいだ。
「山下さん待って…… 」
消えそうな山下を引き留めようと哲也が手を伸ばす。
その時、どこからともなく看護師の東條香織の声が聞こえてきた。
「ダメよ哲也くん、そんな話しを聞かないで! 早く起きるのよ、哲也くん」
「香織さん? 」
辺りを見回す哲也の前で山下の姿が薄くなる。
『哲也くん……もうダメだ……チコさんと逃げるんだよ』
山下がボワッと煙に包まれていく、
「山下さん、ちょっ、待って…… 」
『コォ~~ン』
狐の姿に戻った山下が一声鳴くとバッと飛ぶようにして消えていった。
体を揺すられる感覚と大声で哲也の記憶が遠くなる。
「哲也さん! 哲也さん! 起きて哲也さん」
「うぅ…………香織さん? 」
体を捩って哲也が目を覚ました。
「起きたわね、おはよう」
目の前に香織の心配そうな顔がある。
「香織さんが何で俺の部屋に………… 」
寝惚けた頭が段々ハッキリしていく、
「悪い夢でも見てたのかしら? うなされてたわよ、それで起こしてあげたのよ」
「夢……そうだ!! 山下さんが………… 」
バッと起き上がる哲也の額に香織が自分の額をくっつける。
「おわっ! 香織さん…… 」
急に顔を近付けられて驚く哲也を見て香織がクスッと笑う、
「熱は無いようね、うなされてたから心配したわよ」
「えっ……あぁ、うん、夢を見てたんだよ、山下さんが逃げろって……何から逃げるんだっけ? あれっ? 」
直ぐ傍に可愛い顔で笑う香織の顔がある。
「うふふっ、変な夢見てたんでしょ? 日頃からお化けとかの話しばっかり聞いたりしてるからね、哲也くんは」
「あっ、うん、変な夢見てたような気がするけど忘れちゃった」
「あはははっ、それでいいのよ、夢なんて忘れて今日も警備任せたわよ、頼りにしてるんだからね哲也くん」
香織に急に額を付けられて驚いて夢の事など殆ど忘れてしまった。
「任せてよ、なんたって警備員だからね」
「あははははっ、今日は診察もあるからね、忘れないようにね」
頬を赤くして戯ける哲也を見て安心したように声を出して笑いながら香織は部屋から出て行った。
「でもおかしいな、香織さん夜勤明けで今日は休みじゃ……何で居るんだろう」
首を傾げながら着替えようと起き上がった哲也の足下に葉っぱが一枚落ちていた。
哲也が葉っぱを拾い上げる。病院の敷地内には生えていない種類の木の葉っぱだ。
「山下さん…… 」
以前狸の山下から話しを聞くために看護師に頼んで病院の敷地の外から持ってきて貰った葉に似ていた。
「山下さん、何が言いたかったんだ……チコさんって? そんな人知らないぞ」
夢の内容は断片的にしか思い出せない。
「香織さんのおでこが……気持ち良かったなぁ」
美人の香織が熱を測るために額をくっつけてくれたのを思い出してにやけながら呟いた。
葉っぱをテーブルの上に置くと服を着替えて部屋を出て行く、
「今日は良い事ありそうだ」
夢の事などすっかり忘れていた。
朝食を済ませると哲也は敷地内の散策に出る。
深夜の見回りがメインなので夕方までは暇なのだ。いつもは昼まで一眠りするのだが香織に起こされたのが効いているのか眠気は無くぶらぶらする事にした。
本物の警備員なら色々細かな仕事もあり忙しいのだろうが哲也はアルバイトの警備員だと妄想しているだけなので仕事は専ら見回りだけだ。あとは看護師たちや本物の警備員に頼まれて手伝いをするくらいである。
「散歩の時間か」
前から犬を連れた集団が歩いてくるのを見て哲也が呟いた。
アニマルセラピーの犬たちの散歩だ。猫は基本的に室内飼いなので外に出す事はないが犬は朝夕の2回敷地内をぐるっと散歩させている。敷地にはドッグランや大きな檻など犬や猫が運動不足にならないような設備は全て揃っているが自然と接する散歩は犬だけでなく患者にも良い影響を与えるのだ。
「犬だぁ!! 可愛いぃ~~ 」
はしゃぐ声に哲也が振り返る。
5メートル程後ろに20歳くらいの女が居た。
「犬だぁ~~、この病院犬も居るんですね」
はしゃぎながら女が声を掛けてきた。
「うん、あれはアニマルセラピーの犬だよ、お姉さん犬好きなの? 」
誰だろう? 見掛けない人だなと思いながら哲也がこたえた。
「大好き! 犬も猫も好きだよ、ウサギもハムスターも動物はみんな好き」
余程好きなのかハイテンションの女を見て哲也も自然と笑みになる。
「おとなしいから近くに行って触らせて貰うといいよ、先生に言えば…… 」
「ほんと? やったぁ~~ 」
哲也の話が終わらぬ内に女は駆け出していった。
「先生に言えばアニマルセラピー受けさせてもらえるよ」
後ろから追い掛ける哲也の声は聞こえていない様子だ。
哲也が追い付くと女は既に雑種の中型犬を抱くようにして撫でていた。
「可愛いぃ~~、名前なんて言うんですか? 」
「ポコだよ、ポコは保健所から貰われてきたんだよ」
アニマルセラピーを受けている患者の中年男が教える前で女は他の犬に移っていた。
「こっちも可愛いぃ~~、あっ、あの子犬はもっと可愛いな」
次々と犬を撫でていく、落ち着きの無い様子で心の病だと分かる。
看護師が出てきて女を止める。
「散歩の途中だから触りたいならドッグランにでも来なさい」
「 ……ごめんなさい」
女は一気にテンションを下げると小さな声で謝った。
看護師が慌てて口を開く、
「怒ってるわけじゃないからね、散歩させてやらないと犬がかわいそうでしょ、散歩が終わったら幾らでも犬と遊んでいいわよ」
顔見知りの看護師の困った様子に哲也が前に出る。
「僕に任せてください」
看護師に言うと哲也が俯いている女の顔を覗き込む、
「お姉さん、猫と遊びに行こうか」
「猫? 何処にいるの? 」
バッと顔を上げた女を見て哲也が笑いながら話し掛ける。
「アニマルセラピーはE棟でやってるよ、そこで猫も飼ってる。散歩が終わったら犬も戻ってくるから前の広場にあるドッグランで思いっ切り遊べるよ」
「行く! E棟ってどこ? 」
一気に機嫌を直した女に吹き出しそうになりながら哲也が続ける。
「僕が案内してあげるよ、そんなに好きならお姉さんもアニマルセラピーを受けるといいよ、今いっぱいらしいけど僕も頼んであげるから一人くらいどうにかなるよ」
「うん、受ける。早く猫触りに行く、案内して」
場所も知らないのに哲也の腕を引っ張って女が歩き出す。
分裂症かな? 女を見ながら哲也が思った。分裂症とは統合失調症の事だ。昔は精神分裂病と呼ばれていた。
「お姉さん名前は何て言うの? 僕は中田哲也、警備員のアルバイトをしてるんだ」
「私? 私は波辺利理奈よ、それよりE棟ってどこ? 」
波辺利理奈は哲也の事など眼中に無い、犬や猫の事しか考えていない目付きだ。
波辺は歳は20歳くらいで背は哲也より15センチほど低い、顔は普通、美人ではないが愛嬌のあるタイプの可愛い顔だ。
「波辺さん、E棟はあっちだよ」
違う方向へ歩き出そうとした波辺の手を哲也が引っ張った。
「あっちか……えぇ~っと誰だっけ? 」
「僕は中田哲也、哲也って呼んでくれ」
やっぱり話しを聞いてない……、哲也が苦笑いする。周囲とコミュニケーションが取れなくなる統合失調症の典型的な症状だ。
「んじゃ行こっか哲也くん」
引っ張る哲也の手を取って繋ぐと波辺が歩き出す。
「波辺さん……うん行こう」
思わぬ事から波辺と手を繋ぐ事になって哲也は内心喜んだ。
他の棟と違いE棟の1階は犬猫の施設になっている。猫が日向ぼっこ出来るように大きな檻が建物から飛び出すように出ているのが特徴的だ。猫は完全室内飼いだ。外に出さずに日光浴が出来るようにしてあるのだ。犬は前の広場にドッグランが設置されている。天井が付いているので雨の日でも運動が出来るようになっている。
アニマルセラピーを受けている患者だけでなく他の患者も犬猫と触れ合えるようになっているのだ。
「猫だ! いっぱいいる」
中に入って猫を見た途端に波辺のテンションが更に高くなる。
哲也が今にも走り出しそうな波辺の腕を掴んで止めた。
「先生に許可を貰ってからだよ」
2人を見て臨床心理士の女がやってきた。
ペコッとお辞儀をしてから哲也が話し掛ける。
「すみません、ちょっと猫と遊ばせてやってくれませんか? 」
「猫可愛いぃ~、早く触りたい」
哲也の横で落ち着きの無い波辺を見て臨床心理士の女は直ぐに理解した様子だ。
「そうなの、いらっしゃい、猫さんといっぱい遊んであげてね」
快く入れてくれると波辺は礼も言わずに駆け入った。
「すいません、急に押しかけて、彼女は統合失調症みたいで猫とか犬を見てると落ち着くみたいだから」
「そうなの、大変ね……貴方は確か警備員の哲也くんだったわね」
臨床心理士の女はE棟にも見回りに来る哲也の事を知っている様子だ。
「はい、中田哲也です。あの人は波辺利理奈さんです」
「私は世良静香、アニマルセラピーの責任者です。哲也くんって呼んでいいよね、みんな呼んでるみたいだし、私の事は世良でいいわよ」
世良静香は背中の中頃まで掛かる長い髪にほっそりとした頬に切れ長の目をした大人の女だ。背も高く180センチ近くある。出来る女という言葉が当てはまる知的美女だ。
「はい、哲也で構いません、世良さんが責任者なら丁度良かったです。波辺さんにアニマルセラピーを受けさせてやってもらえませんか」
「そうね…… 」
世良が考え込む、アニマルセラピーは人気で既に規定の人数を超えている。臨床心理士や看護師などの手が足りない状況だ。
「お願いします。僕も手伝えるときは手伝いますから」
「困ったわね」
「波辺さんは何か違うんですよね、何て説明したらいいか…… 」
世良が哲也の顔を覗き込む、
「違う? 」
「何て説明したらいいか分からないけど他と違うっていうか……何か気になるんですよ」
説明に困った哲也が波辺と知り合ってここに来た経緯を話した。
「仕方無いわね、哲也くんに頼まれたら断れないわね、彼女一人だけよ、他はもうダメだからね」
根負けしたように引き受けてくれた世良の向かいで哲也が笑顔で口を開く、
「ありがとう世良さん、僕に出来る事があれば何でも言ってください」
「そうね、何かあれば頼むわ、この貸しは大きいわよ」
冗談っぽく微笑む世良の前で哲也の頬が赤く染まっていく、
「哲也くぅ~~ん」
波辺が猫を抱えながら手を振ってきた。
親しげに名前を呼ばれて距離が近くなったようで哲也も嬉しそうに手を振り返す。
「すっかり仲良しみたいね、でもあまり深入りしない方がいいわよ」
意味ありげに言う世良に哲也が振り向く、
「深入りって……そんなんじゃないですから」
波辺の気を引こうとしていると思われたのだと哲也は慌てて言い訳だ。
「ふ~ん、哲也くんは波辺さんみたいなのが好みなのか」
後ろから聞こえた声にビクッとなって哲也が体ごと向き直る。
「かっ、香織さん……いつの間に」
看護師の東條香織がじとーっと軽蔑するように見ていた。
「哲也くんって女の子に手を出すの早いよね、警備員とか言って近付いてさ」
「違う……違いますから、波辺さんをどうこうしようとか思ってませんから、犬とか猫が好きって言うから案内しただけだから………… 」
美人の香織に嫌われまいと哲也は必死で言い訳だ。
「ふ~ん、案内するって言って声掛けたのかぁ~~ 」
からかうような香織の前で哲也が違うとブンブンと手を振る。
「違うから、向こうから声掛けてきて犬の散歩見て猫も触りたいって言うから連れてきただけだから…… 」
言い訳する哲也の頭にアイデアが浮ぶ、
「それより香織さんは波辺さんの事知ってるんですか? 新しい患者さんですか? 初めて見る人だから知らないだろうと案内してあげたんですよ」
波辺の病状も聞けるし言い訳も出来る。ナイスなアイデアだと思ったのだが前に立つ香織は怖い顔だ。
「知りません! 知っていても哲也くんには教えてあげません、躁鬱が激しいから近々隔離病棟に移す予定です。だから余り親しくしない方がいいです。わかりましたね」
「隔離病棟って……マジっすか? 」
「10日ほどは様子を見るわ、それで改善しなかったらね、自殺でもされると困るからね」
驚く哲也にこたえると香織は世良と何やら話をしながら早足で歩いて行った。
「躁鬱か……詳しい病状を聞かないとな、でも香織さん何で怒ってたんだろう? もしかして焼き餅かな」
嬉しそうにニヤける哲也に波辺が駆け寄ってきた。
「哲也くんもおいでよ、猫可愛いよ」
「そうだな、猫触るのは久し振りだな」
波辺に手を引かれて哲也が奥へと行った。香織に親しくしない方がいいと言われても基本的に優しい哲也は波辺を放っておけないのだ。
その様子を廊下の角から世良と香織が観察するように見ていた。
「余り近付けない方がいいわね」
「そうみたいね、注意しておくわ」
険しい表情の世良に香織が分かったと言うように頷いた。
波辺は猫と遊んだ後、散歩から帰ってきた犬とも遊んだ。哲也は夕食前まで付き合わされた。
犬と追い掛けごっこをして遊んでいる波辺に哲也が優しく声を掛ける。
「夕食だから今日はここまでだよ」
「うん、哲也くんありがとう」
散々遊んで満足したのか波辺は素直に従った。哲也は夕方の見回りで波辺は食事だ。
世良に挨拶するとE棟を出て行く、
「あ~~面白かった…… 」
大きく伸びをした後、波辺がブルッと震えた。
「怖い……ここ何処なの? 」
青い顔をしている波辺に哲也が慌てて声を掛ける。
「波辺さん大丈夫? 具合悪いの? 」
「違うの……体は大丈夫よ…………哲也さんだったわね、貴方は平気なの? 」
「なんっ!? 」
哲也が驚いて波辺の顔を覗き込む、
「波辺さんどうしたの? 違うって? 」
驚くのも無理はない、波辺の様子が変だ。子供っぽい口調から大人の口調に変わっている。哲也の事も『くん』ではなく『さん』付けだ。
「怖い、怖い、ここは違う、ここにいてはダメなのよ」
ガタガタと震え出す波辺を落ち着かせようと哲也が優しく声を掛ける。
「大丈夫だよ、この病院には良い先生がいっぱい居るからね、だから安心して、波辺さんも直ぐに良くなるよ」
「違う! 病院なんかじゃない、ここは……私たちはここに縛り付けられているのよ……怖い所よ」
波辺が怒鳴った後で直ぐに泣き出しそうな顔をして哲也に縋り付く、
「ここは心の病んだ人の病院だよ、ここにいれば大丈夫だから、波辺さんも良くなって退院出来るようになるからさ」
落ち着かせようと優しく背に手を当てる哲也を波辺がじっと見上げる。
「貴方はまともね、哲也さんはまだ大丈夫……まだ望みがあるわ」
「望みって? 」
哲也が詳しく聞こうとした時、後ろから香織とレスラーのようにがっしりとした体躯の男の看護師がやってきた。
「また発作を起こしたのね」
哲也に縋り付く波辺を香織が引き離す。
「いやぁ~~、助けて哲也さん」
暴れる波辺を男の看護師が羽交い締めするように押さえ込んだ。小柄の波辺など簡単に組み伏せるほどの大男だ。
「ちょっ、乱暴するなよ」
男の看護師を止めようと手を伸ばす哲也の前に香織が立った。
「鬱の発作よ、薬を飲めば落ち着くわ、波辺さんは薬を嫌がって時々飲まないのよ、それでよく錯乱するのよ」
「でも…… 」
哲也が何か言う前に香織が捲し立てる。
「親しくしたらダメって言ったでしょ、彼女は優しくされたら直ぐに靡くのよ、自己が無いの、自分という人格が無いのよ、それで色々な人に騙されて人間不信になって鬱になったのよ、彼女を直すには突き放さなきゃダメなの」
「自分に自信が無いって事ですか? 」
納得したような哲也の態度に香織が語気を和らげる。
「簡単に言えばそうなるかな、でも彼女の場合は全てにおいて自信が無いように何でも信用して従ってしまうのよ、人を頼ってしまうのよ、依存症ね、人格形成が出来てないのよ、だから優しくしてはダメ、きついかも知れないけど彼女のためなのよ、鬱も依存症も治さなきゃダメなのよ、わかったら哲也くんも近付いちゃダメよ」
「わかりました。気を付けます」
納得したわけではないが哲也は承諾するしかない。
「私は病気なんかじゃない……哲也さん助けて………… 」
「わかった。わかった。早く薬を飲もうな」
手を伸ばして助けを求める波辺を男の看護師が押さえて歩き出す。
「佐藤さん手伝います。直ぐに薬を飲ませましょう」
香織が2人を追っていく、男の看護師は佐藤と言うらしい。
「鬱って……違う、あれはそう言うのじゃない」
佐藤と香織に挟まれるようにして連れられていく波辺を見て哲也が険しい顔で呟いた。
「先生に話しを聞きに行こう」
一刻も早く聞きに行きたいのをぐっと我慢する。
「先ずは見回りだ。僕は警備員なんだからな」
早足でE棟へと戻っていく、普段はA棟から見回るのだが急いでいるのでE棟から逆に見回る事にしたのだ。A棟で終ればそのまま池田先生の診察室まで直ぐである。
哲也は普段より20分程早く見回りを済ませると夕食をとるのも忘れて池田先生のいる診察室へと向かった。
挨拶も無しで診察室へと入ってきた哲也に池田先生が優しく声を掛ける。
「どうしたんだい? 食事は済んだのかい? 」
「まだです。先生に聞きたい事があって…… 」
いつも優しい池田先生の顔が曇る。
「先に食事を済ませてきなさい、迷惑が掛かるよ」
「今日はご飯抜きでいいです。6時までに食堂に行かなかったら僕の分は用意しなくてもいいって言ってありますから、お腹減ったら警備員控え室でカップ麺でも食べますよ」
おべっか笑いをする哲也の向かいで池田先生がやれやれと言うように口を開いた。
「それで何を聞きたいんだい? 哲也くんの事だからまたお化けの話しかい? 」
哲也が心霊現象や不思議な話を聞いて回っている事は担当医である池田先生や看護師たちは当然知っている。
「今日はそっちじゃなくて波辺利理奈さんの事を聞きたくて…… 」
「また首を突っ込んでるのか、困った人だな」
池田先生から笑みが消えた。
仲の良くなった患者同士で話すのならいいが先生に他の患者の事を聞くなど御法度だ。プライバシー云々もあるが哲也も患者なのだ。心を病んでいる患者に余計な事を話して諍いにでもなったら大変である。
「波辺さんに近付くのは禁止だ。それが守れるなら話してあげるよ」
真剣な表情で見つめる池田先生の向かいで哲也が何とも言えない表情で続ける。
「禁止って……香織さんにも言われたけど……波辺さんは依存症が激しくて人格形成が出来てないから親しくするなって言われました」
「香織くんの言う通りだよ、波辺さんの病状は厄介でね、哲也くんがあれこれすれば治療の邪魔をすることになるんだよ」
「邪魔ですか…… 」
顔を強張らせる哲也を見て池田先生が頷いた。
「そうだよ、治療の邪魔をすることになる。だから波辺さんに近付くのは止めて貰いたい、彼女のためなんだよ」
「わかりました。それで波辺さんはどんな病気でここに来たんですか? 」
納得した様子の哲也に池田先生が話しをする。
波辺利理奈は統合失調症と躁鬱を併発している。幼児退行とは少し違うが人格障害もあり躁の時は子供のようになるらしく、その状態の時に優しくされると依存するようになるので下手に優しくするのは禁止だ。
極度の躁鬱で暴れる事は滅多に無いが過去に数回自殺未遂を起こしている。磯山病院に入院させられたのも自殺未遂が原因だ。
近くの心療内科に通って薬を貰っていたのだが飲むのを忘れて酷い鬱になり自殺未遂を繰り返したので管理されて薬を飲み忘れる事のないように親が入院させたのである。
20歳くらいだと思っていたが波辺は26歳だ。躁の時の子供っぽい行動と背の低さと相俟って若く見えていた。
「だからね、彼女には近付かないように、約束だよ哲也くん」
「優しくされる事がダメなんて…… 」
最後に付け足すように言った池田先生の前で哲也が絶句した。
「かわいそうだと思うが治療のためだよ、治ったら、ここを出て行けたら幾らでも優しくしてもらえればいい、哲也くんだって同じだよ、早く退院出来るようにならないとね」
「そうですね……わかりました」
優しく諭すような池田先生に哲也が悲しそうな顔で返事をした。
哲也を見て池田先生が話題を変える。
「哲也くんはまだ警備員をやっているのだろう? 」
「はい、僕の仕事ですからね」
誇らしげに頷く哲也に池田先生が笑顔で続ける。
「それなら言いつけは守るんだよ、破るようだと私も考え直すからね、薬もちゃんと飲むんだよ」
「はい、薬は飲んでますよ、僕も早く退院したいですからね」
自分が入院患者だと思い出して哲也が自嘲するように笑う、
「そうだな、私たちの言う事を聞いて早く治さないとな」
「治す……僕は………… 」
哲也が何か言おうとした時、後ろから背中をバシッと叩かれた。
「大丈夫ですよ、哲也くんは約束は守りますからね」
いつの間に来たのか香織が微笑みながら哲也に薬の束を差し出した。
「今週の薬です。新しいのも入ってますから忘れずに飲んでくださいね、新しいのが効いたら順次替えていって薬の量を減らしましょう」
「新しい薬か…… 」
呟きながら哲也が薬を受け取る。本来なら診察を受けた後に貰う事になっている。
「そうだな、哲也くんは大丈夫だな、私の言う事も利いてくれるし、順調に回復して行っているよ」
池田先生がニコニコしながら哲也が受け取った薬の束の上に饅頭を3つ置いた。
「ありがとうございます」
礼を言うと哲也は診察室を出て行った。
会うなと言われたのは失敗だと思ったが波辺の病状を聞けば仕方がないとも考えた。
3日ほどが経つ、哲也は池田先生や香織に言われた通り波辺には会っていない、散策などをしていて遠目で波辺を見つけると逃げるように離れる事にしていた。
「なん? 彼奴ら…… 」
昼食の後、病院の敷地内を散策していると3人の男患者が波辺を囲んで楽しそうに談笑していた。
「波辺さんは依存しやすいんだぞ」
ちょっかいを出す男たちに注意しようと近付こうとした哲也を香織が止める。
「哲也くん何をするつもりなの? 波辺さんと会っちゃダメって約束でしょ」
「わかってますよ、でも彼奴らも…… 」
ムッとして言い返す哲也の腕を香織が引っ張る。
「私が注意します。哲也くんは向こうに行ってきなさい」
「俺も行きますよ、彼奴ら時々暴れる奴らだ」
3人の男の内の1人は揉め事を起こす常習犯だ。
心配そうに言う哲也を見て香織がニコッと可愛い笑みを見せる。
「ダメです。佐藤さんもいますから安心してください」
いつの間にいたのか男の看護師が哲也の後ろにいた。
「なっ…… 」
哲也が驚いて体を反らせる。気配も感じなかった。
「暴れたら私が取り押さえるから安心してくれ」
がっしりとしたレスラーみたいな体躯の佐藤がニッと歯を見せて笑った。
「いつの間に……香織さんだって気付かなかったよ」
驚く哲也に香織が話し掛ける。
「警備の須賀さんが探してたわよ」
「嶺弥さんが? 何の用事だろう」
波辺の事は気になるがアルバイトの警備員だと思い込んでいる哲也にとって本物の警備員である須賀嶺弥は上司みたいなものだ。探していると言われれば行くしかない。
「じゃあ波辺さんは頼みます」
「任せなさい、その為に来たのよ」
ペコッと頭を下げると哲也は警備員控え室へと駆け出した。
嶺弥の用事は何でもない事だった。警備員控え室の机やソファーなどの位置を変えるので人手が欲しかっただけで哲也が駆け付けた頃には終っていた。
「来て貰ったのに悪いね、アイスでも食べて行きなよ」
嶺弥が笑顔で差し出すアイスクリームを受け取るとソファーに座ってテレビを見ながら食べる。
「嶺弥さん相談したい事が…… 」
「なんだい? 何でも相談してくれよ」
兄のように慕っている嶺弥に波辺の事を相談した。
暫く考えた後で嶺弥がこたえる。
「哲也くんは先生を信じられないのかい? 心療内科の先生を信用出来なくて誰を信じるんだい? 」
「そうなんですが何かしっくりこなくて……香織さんも何か怖いし………… 」
口籠もる哲也の隣りに腰掛けながら嶺弥が続ける。
「先生も看護師さんも優しくするだけで治るならダメなんて言わないよ、厳しくしないといけない患者もいるんじゃないかな、それがその人のためになるんじゃないかな」
「うん、そうですよね、やっぱ嶺弥さんに相談して良かった」
哲也が大きく頷いた。誰かに結論を出して欲しかったのだろう、兄のように慕っている嶺弥に言われた事で自身を納得させたのだ。
「もう直ぐ夕方の見回りだ。アイス御馳走様です」
「元気になったようだな、見回りしっかり頼むぞ」
ペコッと頭を下げる哲也を見て嶺弥が優しく微笑んだ。
夕方の見回りを終えた哲也がE棟から出てくる。
「哲也くん? 哲也くぅ~~ん」
波辺が手を振って走ってきた。
「波辺さん、アニマルセラピーか…… 」
逃げるわけにも行かず哲也が弱り顔で立ち止まる。
正式にアニマルセラピーを受けているのは知っていた。夕食を終えて戻ってきた波辺と鉢合わせしたのだ。
「哲也くぅ~ん」
波辺が甘えるように哲也の腕に縋り付く、
「久し振りだね、元気してた? 」
哲也が素っ気なく挨拶する。抱き付かれて正直言って嬉しかったが心を鬼にしてぐっと堪えた。
「あれから会いに来てくれないんだもん、嫌われたかと思ったわよ」
「そんな事ないよ……忙しかったからさ」
言い訳する哲也に抱き付きながら波辺が顔を覗き込む、
「警備員ってそんなに忙しいの? 」
「今も忙しいんだ。だから行かないと………… 」
腕を振り解こうとした時、波辺がブルッと震えた。
「怖い……怖い……ここから出ないと、哲也さん、一緒に逃げましょう」
青い顔をした波辺が哲也の腕を引っ張った。
発作が出たのかと哲也が宥めようと声を掛ける。
「ちょっ、ダメだよ、波辺さん落ち着いて」
「違うの、私は正気よ、ここは怖いところなのよ、私も哲也さんも居てはダメなの、だから一緒に逃げましょう」
震える波辺を連れてE棟へと入ろうとする。
「嫌! 早く逃げないと……今のうちに…… 」
「大丈夫だからアニマルセラピーを受けよう、猫と遊んで落ち着こうよ」
「違うのよ、そんなの……奴らが来る前に逃げるのよ」
踏ん張って動かない波辺に手を焼いている哲也の目に向こうからやって来る香織と佐藤が映った。
「来た……怖い、哲也さん」
波辺が哲也の後ろに隠れる。
「奴らって香織さんたちの事か…… 」
弱り顔で呟く哲也をやってきた香織が睨み付けた。
「哲也くん何しているの? ダメって言ったでしょ」
佐藤が後ろに回ると波辺を取り押さえる。
「怖い! 止めて! 私は何処も悪くない……早くここから出して……哲也さん助けて」
嫌がる波辺を見て哲也が大声を出す。
「あんまり乱暴にするな! 」
「哲也くん!! 」
哲也の大声より遙かに大きな声で香織が一喝した。
「違うんだ。ここで偶然会って……僕は見回りで波辺さんはアニマルセラピーで……それで少し話をしただけだ」
必死で言い訳する哲也を香織が怖い顔で睨み付ける。
「それにしては楽しそうに話してたじゃない」
いつから見ていたのだろう? 波辺が発作を起こす前から見ていた口振りだ。
「本当です。信じてください」
約束を破れば警備員を辞めさせられるかも知れない哲也は必死だ。
香織の表情が緩んでいく、
「あははっ、冗談よ冗談、わかってるわ」
「よかったぁ~~ 」
安堵する哲也に香織が釘を刺す。
「でも約束は破っちゃダメよ、私も先生も哲也くんの味方なんだからね」
「わかってますよ、警備員続けたいですからね」
「それならいいわ」
佐藤が捕まえている波辺を見つめながら香織が口を開く、
「また鬱になってるわね、早く薬を飲ませないと」
「止めて離して、薬なんていらない、私は病気じゃない、哲也さん助けて………… 」
香織と佐藤に引き摺られるように波辺は連れて行かれた。
「ごめん波辺さん…… 」
何とも言えない厭な思いが哲也の胸を締め付けた。
翌日、波辺と会わないように散歩コースを代えた哲也が昼食を終えてぶらぶらしていると低い木が生け垣のようになっている場所から猫が出てきた。
「なん? 猫だ」
哲也が立ち止まると猫も止まって此方を振り向いた。貫禄があるというか少し太った三毛猫だ。
『ナァァ~~ン』
「何で猫が? E棟から逃げてきたのか? 」
アニマルセラピーで使っている猫には首輪を付けている。ICチップが入っていて逃げてもわかるようになっているのだ。だが目の前にいる三毛猫には首輪は付いていない。
「外から入ってきたのか、ヤバいな」
哲也が捕まえようとゆっくりと近付いていく、
「よ~し、よし、怖くないからな、キャットフードでも食わせてやるぞ」
哲也が手を伸ばすと三毛猫が大きく口を開けて鳴く、
『ナァァ~ン、ナァ~ン、リリナァ~~ン』
「リリナ? 喋ったのか…… 」
哲也が手を止めた一瞬の隙に三毛猫はバッと走って藪の中へ消えていった。
「ヤバ! 逃げられた……でもあの猫……尻尾が2つあったように見えたけど」
追うのも止めて哲也が呆然と猫の消えた藪を見つめた。
暫くして我に返ったように走り出す。猫を追うのではないA棟にあるナースステーションに向かっている。
「大変だ。野良猫が入ったって知らせないと」
アニマルセラピーはあるがそれらに使われる動物は病気など媒介しないように予防接種を受けさせたり定期的に検査をして管理されている。病院という場所柄ノミやダニや寄生虫などのいる野良犬や野良猫などは駆除対象でしかないのだ。
哲也一人なら患者の見間違いと判断されたかも知れないが他にも数人の患者や看護師が敷地内で猫を見ていた。知らせを受けて迷い猫の駆除が始まる。
哲也は警備員の須賀嶺弥と一緒に捕獲用の罠を仕掛けて回る。
「この辺りで見たのかい? 」
「はい、あそこの生け垣みたいな所から出てきて向こうへ逃げていきました」
哲也は抱えていた小動物捕獲用の四角い籠のような罠を下ろすと猫が通っていった場所を手で指しながら教える。
「じゃあ生け垣の所に1つと向こうの藪の中に2つ仕掛けようか」
嶺弥が罠を1つ持って生け垣へと歩いて行く、その後ろから哲也が罠を2つ抱えて続いた。
「これでよしっと、全部で50個くらい仕掛けて後は毎日見回りだ」
藪にも罠を仕掛けると嶺弥が一仕事終ったというように手をパンパンと叩いた。
「罠の見回りもあるのか、捕まるまで暫く忙しくなるな」
誰に言うとなく呟いた哲也を見て嶺弥が笑う、
「猫退治するとは思わなかったよな、哲也くんにも手伝って貰うからね」
「任せてください、なんたって警備員ですからね」
胸を張ってこたえる哲也を見て嶺弥が更に楽しそうに声を出して笑う、
「あははははっ、その調子だ。先生にも言っとくよ、哲也くんが手伝ってくれて助かるってさ」
「頼みましたよ、池田先生に褒められてお菓子貰えますから」
冗談を言いながら2人は帰って行った。
2日経ったが迷い猫は捕まらない、罠に入れている餌を色々替えてみたが見向きもされない、それどころか見掛けた人もいなくなる。
3日目、嶺弥と一緒に仕掛けてある罠を昼前に見回る。
「今日も掛かってなかったですね」
「猫は賢いからもう外へ逃げたかもな」
最後の罠を確認するともう昼だ。50個の罠を見回るのに小一時間掛かる。
「お疲れ様です。んじゃ僕は食堂に行きますから」
「おう、お疲れ、明日も掛からなかったら終わりにしよう、目撃者も居ないし、もう逃げたんだろ」
「そうっすね、猫の代わりに鼠ばっかり掛かって殺すの嫌ですよ」
「そうだな、鼠退治は俺たちの仕事じゃないよな」
嶺弥と別れて食堂へと向かう哲也の目に猫が映った。
「よしよし、あんたは賢いなぁ~ 」
敷地をぐるっと回る遊歩道の脇においてあるベンチで波辺が猫を抱っこしていた。
「波辺さん……あの猫間違いない」
少し太った貫禄のある三毛猫だ。哲也が確認するように見ていると三毛猫の尻尾が2つあった。
「尻尾が2本、見間違いじゃなかった」
見間違いだと思ったので香織や先生たちには言わなかったが初めて見たときと同じように尻尾が2つに割れていた。
哲也がそっと近付いていく、
「どうしたの猫ちゃん? 」
波辺に抱かれた猫が哲也に気付いて体を起こした。
猫が見ている方へ波辺が視線を移す。
「あっ、哲也くん」
「こんにちは波辺さん」
出来るだけ刺激しないように哲也がベンチに座る波辺の直ぐ前にやってきた。
「波辺さん、その猫捕まえてて、離しちゃダメだよ」
「猫ちゃん? 哲也くん知ってるの、この猫、可愛いよねぇ~~ 」
「うん、探してたんだよ」
波辺が膝の上に置いて抱きかかえている猫に哲也が手を伸ばす。
『ウニャァーーッ 』
毛を逆立てる猫を波辺がサッと体の後ろに回す。
「ダメ! 猫ちゃん嫌がってる。猫ちゃんをどうする気なの哲也くん」
波辺に睨まれて哲也が伸ばした手を引っ込める。
「その猫は野良猫だ。セラピーに使ってる猫と違って病原体を持ってるかもしれない、だから病院の外に出さなきゃいけないんだよ、感染して病気になると怖いからね、だから僕に渡してくれないか」
優しく言い聞かせる哲也を波辺がじっと見つめる。
「外に出すだけ? 本当? 猫ちゃんに酷い事しない」
「うん、約束する。病院の外に連れて行くだけだよ」
波辺が後ろに隠していた猫を前に持ってくる。
「約束だよ哲也くん、猫ちゃん外に逃がしてあげてね」
「約束だ。僕が責任持って病院の外に逃がすからね」
猫を受け取ろうと哲也が手を伸ばした時、後ろに人影が立った。
「よく見つけたわね哲也くん、流石だわ」
「哲也くん、早く猫を捕まえろ、病原菌だらけの猫だ。さっさと処分してしまおう」
哲也が振り返ると看護師の東條香織と池田先生が立っていた。2人の後ろには大柄の佐藤もいる。
「処分って……猫ちゃん殺すの? 」
波辺が猫を渡そうとした手をサッと引っ込めた。
香織と池田先生が猫を見て口を開く、
「当り前よ、野良猫は処分します」
「そうだよ、猫からも感染症にかかるからね、汚い猫に触ったら波辺さんも手を洗わないとね、早く猫を渡しなさい」
2人の目付きが異常だ。哲也が慌てて波辺と猫を庇うように前に出る。
「ちょっ、香織さんも池田先生も何言ってんですか」
「どきなさい哲也くん」
「邪魔をする気かい? 哲也くんでも許さないよ」
怒鳴る香織の隣で普段温厚な池田先生が怖い目で睨んでいる。
「嫌! 猫ちゃん逃げて」
哲也の後ろで波辺が猫を放した。
「おわっ! 」
足の間を抜けようとした猫を哲也が捕まえた。
『ナァ~~ン、ウナァァ~~ 』
「こら、暴れるな、おとなしくしろ」
哲也は引っ掻かれながらも猫を押さえ込んだ。
『ハナセ、ナァァ~~ン』
「えっ!? 喋った? 」
驚く哲也の後ろから香織と池田先生が声を掛ける。
「よくやったわ、早くこっちに渡しなさい、処分は任せて」
「さっさと処分してしまおう、その猫は危険だ」
猫を抱えた哲也の背を波辺がバンバン叩く、
「哲也くんのウソつき! 酷い事しないって言ったよね」
「波辺さん…… 」
振り返った哲也の目に涙を流す波辺が映った。
暴れる猫を捕まえている腕を香織が掴んだ。
「哲也くん、早く猫を渡しなさい」
「直ぐに処分しよう、その猫は我々の邪魔だ」
哲也が前に向き直ると同時に香織の手を振り解いた。
「何も処分しなくてもいいじゃないですか」
渡さないというように正面に抱いていた猫を左脇に寄せた。
『ナァ~~ン』
哲也を見つめて一声鳴くとそれまで暴れていた猫がおとなしくなる。
香織が声を荒げる。
「何を言っているの? 汚い猫は処分するのに決まってるでしょ」
「院内に入ってきた犬猫は処分だよ、保健所に送っても同じさ、こっちで処分する方が早い、さぁ早く渡しなさい」
池田先生が怖い顔をして渡せと手を伸ばす。
「ねぇ哲也くん、わかるでしょ? 後は私たちに任せて猫を渡しなさい」
香織が微笑みながら声を和らげる。普段の哲也なら香織の可愛い笑みに負けて頼みを利いていただろう。
後ろから波辺が哲也の背にしがみついた。
「ダメ、ダメよ哲也くん、猫ちゃん悪い事してないよ」
「でも…… 」
香織と波辺に挟まれて哲也が弱り切る。警備員としては先生たちに渡すのが当然だ。だが猫を処分すると、殺すと言われては素直に渡せない、猫がかわいそうだと思っただけではない、波辺と約束したのだ。この猫は病院の外に逃がしてやると。
哲也の背にしがみついていた波辺がブルッと震えた。
「猫ちゃん……ダメ……怖い……怖い怖い、ここは? どうしてこんな所に……私に何をするの? 止めて……怖い……哲也さん助けて………… 」
池田先生が険しい顔で哲也の腕を掴んだ。
「発作か? こんな時に……哲也くん猫を渡すんだ」
「佐藤! 波辺さんを押さえて連れて行きなさい、猫と引き離すのよ」
香織に命令されて後ろに居た佐藤がサッと出てきて哲也の背から波辺を引き離す。
「哲也さん……猫が…………猫を渡しちゃダメ! 猫を……チコ………… 」
佐藤に捕まりながらも波辺が自分の事より猫の心配をするのを見て哲也の心は決まった。
「波辺さん…… 」
「その猫を渡せ! その猫は危険だ」
哲也が抱える猫の首に池田先生の手が伸びる。
「波辺さん!! 大丈夫ですか! 」
大声で言いながら哲也が捕まえていた猫を放した。
『ナァァ~~ン』
一鳴きすると猫がバッと遊歩道の脇の藪に突っ込んで消えた。
「なっ、猫が……哲也くん何故逃がした? 」
いつもニコニコしている池田先生が見た事もないような怖い顔で哲也を睨む、
「違います! 態とじゃありません、波辺さんが発作を起こして吃驚して……佐藤さんが波辺さんを無理矢理押さえ付けるから止めようとして思わず手を緩めたら逃げたんです」
哲也は嘘をついた。猫を逃がしたのは態とだ。波辺に嘘はつきたくなかった。猫には酷い事をしないと約束したのだ。それだけではない、猫を見た途端に香織や池田先生の目付きが変わったのを哲也は見逃していない、普段優しい香織や温厚な池田先生の変わりように不信感を抱いた事もある。
直ぐに猫を殺すなんて哲也も知らなかった。保健所に引き取って貰うと思っていた。保健所なら引き取り手が現われて死なずに済むかも知れない、ここで直ぐに殺すなど鼠でも嫌なのに猫なんて考えられない。
「哲也さんありがとう…… 」
ぐったりした波辺を佐藤が抱きかかえるようにして歩き出す。
連れて行かれる波辺を一瞥した後、香織が哲也の正面に立つ、
「どういうこと? 哲也くん」
「私にも説明して欲しいな」
香織の隣りに立って池田先生も怖い顔だ。
「ちっ、違いますよ、猫がスルッて逃げていったんです。本当です。態と逃がしたりするわけないです。僕は警備員ですよ、あの猫を捕まえるために罠を仕掛けて見回りまでしてるんですからね」
必死で言い訳する哲也の前で無表情な香織が池田先生に向き直る。
「波辺さんを隔離病棟へ移しましょう、池田先生、直ぐに手続きをとりましょう」
「そうだな、暫く様子を見ていたが薬を変えても発作は止まらないし、躁鬱も相変わらずだ。10日ほど様子を見る予定だったし丁度いいな、直ぐに手続きをしよう」
険しい顔で頷く池田先生を見て哲也が慌てて口を開く、
「隔離病棟……ちょっ、一寸待ってください、何も隔離病棟に入れなくても波辺さんはそれほど酷くないじゃないですか? 時々怖いって発作起こすだけで…… 」
冷たい目をした香織が哲也の話を遮るように少し大きな声を出す。
「その発作が問題よ、色々薬を変えたけど一向に改善しないわ、何度取り押さえたか……哲也くんも知っているわよね、今も野良猫を逃がして……問題行動が多過ぎます」
「そうだよ、発作を起こして自殺でもされたら問題だよ、医者も看護師も彼女一人に構っていられないんだよ」
迷惑事は御免だというように池田先生が哲也の肩をポンポン叩いた。
弱り顔をして哲也が二人を見つめる。
「そうですけど……アニマルセラピーを受けているときは落ち着いてるじゃないですか、もう少し様子を見ても……頼みますよ先生」
「ダメよ、波辺さんは問題を起こしたのよ、野良猫を逃がすなんて他の患者に感染症でも起きたら大変な事になるのよ」
冷たく言い放つ香織の横で池田先生が哲也の肩をギュッと握った。
「哲也くんも同じだね、今までは自由にさせていたけど改善しないなら対処しないとな」
驚いた哲也が聞き返す。
「対処って? 」
香織と池田先生が続けて口を開く、
「規定の治療を受けて貰うわ、もちろん、警備員なんて止めよ」
「そうだね、私の指示に従わないなんて病状が悪化してる証拠だよ、薬だけじゃなくて療法も変えなきゃいけないねぇ」
哲也が大慌てで二人の顔を交互に見ながら頼み込む、
「ちょっ、まって、待ってください、僕は今のままがいいです。病状が良くなってきたって先生も香織さんも言ってたじゃないですか、警備員を辞めるなんて嫌です。薬もちゃんと飲みます。お願いします先生」
頭を下げる哲也を池田先生が険しい表情で見つめる。
「私の指示に従うと約束するならもう暫く様子を見てあげてもいいよ」
「従います。このまま先生の治療を受けさせてください」
一も二もなく返事を返す哲也を見て池田先生の険しい表情が緩む、
「哲也くんがそこまで言うなら暫く続けようか」
「そうですね先生、哲也くんは他の先生や看護師にも受けがいいですからね」
香織も普段の優しい表情に戻っている。
「ありがとうございます」
安堵する哲也の顔を香織が覗き込む、
「じゃあ先ずは猫を捕まえてもらうわよ、野良猫は処分します。これは決まりですからね」
「そうだね、かわいそうだと思うよ、でも決まりなんだよ、感染症でも起きたら病院の存続問題にも関わりかねないからね」
二人とも普段の柔らかい表情だが目だけは真剣だ。
「いいわね、哲也くん」
「 ……はい、わかりました」
有無を言わせぬ香織の目付きに哲也は頷くしかない。
「猫は捕まえます。処分も反対しません、その代わり波辺さんを隔離病棟に入れないでください、もう少し様子を見てください、お願いします」
必死で頼む哲也の正面で香織が呟く、
「交換条件か…… 」
隣の池田先生に香織が体ごと向き直る。
「あの野良猫は波辺さんに懐いていたみたいだからまたやってくるかもしれないわね、そこを捕まえましょう、哲也くんなら捕まえられるわ」
「うむ、旨く行けば波辺さんももう少し様子を見る事にしよう、いいね、哲也くん」
何やら目で合図し合った後で二人続けて言った。
「わかりました。猫は僕が捕まえます」
複雑な表情をして哲也が引き受けた。猫はかわいそうだと思ったが自分と波辺の保身のために諦めるしかなかった。
香織が腕時計をちらっと見る。
「定期診断の時間少し回ってますよ、急ぎましょう先生」
「では頼んだよ、哲也くん」
忙しそうに二人が歩いて行く、
「いつもと違ってた……池田先生も香織さんも…………何か変だよ」
立ち去る香織と池田先生の背を見つめながら哲也が小さな声で呟いた。
その日の夜、10時の見回りで哲也はB棟へと入ると階段を駆け上っていく、いつものように最上階まで上がって下りながら見回るのだ。
「波辺さんの部屋を探そう、まだ起きてたらどうにか事情を話して許して貰わないとな」
波辺がB棟だとは知っているが部屋番号までは聞いていない、猫を捕まえて処分する事になった経緯を話すつもりだ。
普段は長い廊下をぶらぶら歩いて見回るのだが今日は部屋のネームプレートを1つずつ確認しながら歩いて行く、
「この階じゃなかったか、嶺弥さんと鉢合わせしないように気を付けないとな」
早足で階段を下っていく、E棟から見回っている本物の警備員の須賀嶺弥が来る前に波辺と話を付けたいと急いでいた。
順に見回って2階まで降りてくる。
「あれは? 」
薄暗い長い廊下の向こう、小さな影が見えた。
『ナァ~ン』
少し太った貫禄のある三毛猫が廊下の真ん中に座っていた。
「あの猫…… 」
捕まえようとゆっくり近付いていく哲也の前で猫がスッと立ち上がる。その猫の尻尾が2つに見えた。
『ナァァ~~ン』
端から2番目の部屋の前で一鳴きすると猫が振り向いた。哲也には自分がいるのを確認しているように感じた。
『ナァ~ン、ナナァァ~~ン』
哲也が見つめる先で猫がドアをすり抜けるように消えていった。
「なん!? 」
哲也が慌てて駆け付ける。
「ここは……波辺さんの部屋だ」
202号室のドアの横に付いているネームプレートに波辺利理奈と書いてある。
「猫を捕まえないと…… 」
正直、猫を捕まえるなど、どうでもよかった。ドアをすり抜けた猫が何をするのか気になったのだ。
「波辺さん、起きてる」
ドアをノックすると直ぐに返事が聞こえてきた。
「哲也さんでしょ? 入っていいわよ」
「うん、じゃあ入るね」
何で僕だとわかったんだ? 哲也が慎重にそっとドアを開けて覗くと波辺がベッドの上で三毛猫を抱きかかえていた。
「波辺さん、その猫…… 」
「チコよ、私が飼ってた猫なの」
嬉しそうに三毛猫の頭を撫でる波辺に哲也が近付く、
「波辺さんが飼っていた猫って? 」
「うん、チコはね…… 」
怪訝な顔で訊く哲也に波辺が話してくれた。
チコは波辺が物心ついたころから家にいた三毛猫だ。波辺の母が子供の頃から飼っていたというから現在26歳の波辺が物心ついた時点で猫は20歳を超えていただろう、波辺が23歳の頃に居なくなったと言うから少なくとも40年以上は生きていたという事になる。
普通猫の寿命は長くても15年前後だ。40年以上も生きる猫など聞いた事もない。
「お婆ちゃんが言ってたの、チコは普通の猫じゃないって、猫又だって、ずっと昔から家に居たんだって、百年以上生きてるって言ってた」
波辺の膝の上でじっと動かない三毛猫を哲也が見つめる。
「猫又って化け猫だよね」
「うん、詳しくは知らないけど妖怪とか何とかお婆ちゃんが言ってたのは聞いた覚えがあるわ、尻尾が2つに割れてるでしょ、百年生きると2つに割れて猫又になるんだって」
「妖怪猫又か…… 」
何とも言えない顔で哲也が呟いた。ドアをすり抜けるのを見ていないと笑い飛ばしていたかも知れない。
確かに目の前にいる三毛猫は尻尾が2つに割れていた。子供の頃に本かテレビで見た事のある化け猫は尻尾が2つだった。百年生きた猫が妖力を得て妖怪となるのだ。その際に尻尾が2つに分かれるという、それを猫又と呼ぶのだ。
「哲也さん、この前は逃がしてくれてありがとうってチコが言ってるよ」
猫の背を撫でながら波辺が嬉しそうに微笑んだ。
「哲也さんって……発作は大丈夫なのか? 」
驚いた顔で哲也が訊いた。波辺は普段は『くん』付けで呼んでいる。『さん』付けで呼ぶのは発作を起こしたときだけだ。
微笑んでいた波辺が神妙な面持ちに変わる。
「発作じゃないわ、今の私が本当よ、昼間は薬でぼうっとしてておかしくなってるのよ」
「薬でぼうっとする……有り得るな、きつい薬を飲んでぼんやりしている患者は見た事がある。隔離病棟じゃそんなのばかりだって聞いた事もあるからな」
顔を顰める哲也の前で波辺が猫の背をポンポン叩いた。
「そうよ、だからチコが助けに来てくれたのよ」
「チコ……チコさんが? 」
哲也の頭に一週間ほど前に見た夢が蘇る。
「あははっ、猫にさん付けなんて哲也さん変わってるわね」
楽しげに笑う波辺に哲也が慌てて違うと手を振る。
「違うんだ。夢で見たんだ」
「夢で見たってチコの事? 猫の夢を見たの? 」
首を傾げる波辺に哲也が夢の話しを聞かせた。
「猫の夢じゃなくて狸……じゃなかった。狐の夢だよ、それでチコさんと一緒に逃げろって言われたんだ」
「チコと一緒に? 狐がそう言ったの? 」
「うん、狐は山下さんって言って前にいた患者なんだ。優しい人で僕を心配してくれてるんだと思う」
「山下さんって言う狐か……哲也さんの顔見てるといい人らしいね、私も会ってみたいな」
二人の会話を聞いているようにじっと動かなかった猫がポンッとベッドから飛び降りると窓の下まで歩いて行く、
『ナァァン』
小さな声で鳴くと窓枠に飛び付いたと思ったらそのまま直ぐに窓の外へと跳んでいった。窓は開いていない、ドアと同じようにすり抜けていったのだ。
カツン、カツンと足音が廊下から響いてきた。
「嶺弥さんだ」
哲也は猫が窓をすり抜けた事より嶺弥が来た事に驚いた。
「嶺弥さん? 」
「須賀嶺弥さんだ。警備員だよ、見回りだ」
哲也が静かにと言うように人差し指を唇に当てた。
息を潜める哲也と波辺、足音がドアの前を通り過ぎていった。
「チコは気付いて逃げたのね」
「そうみたいだね、僕も一先ず見回りに戻るよ、チコの事は明日にでも考えよう、僕は味方だから安心してくれ」
「ありがとう哲也さん」
嬉しそうに微笑む波辺に手を振ると哲也はそっと部屋を出て行った。
猫を処分するという気持ちは哲也の中にはもう無い、というか化け猫を処分出来るなどとは思わない、チコと一緒に逃げろと言った山下の夢が気になった。
見回りを終えて自分の部屋に戻ると哲也は目覚まし時計をセットしてベッドに寝転がる。次の見回りは深夜の3時だ。それまで仮眠をとるのだ。
「どうにかして猫を、チコさんを逃がさないとな……波辺さんは監視されてるみたいだし僕一人でどうにかするしかないな」
必死に考えるがアイデアは浮んでこない、
「チコさんと一緒に逃げろってどういう意味だ? 山下さん…… 」
夢の事を思い出しながら哲也はうとうとと眠りに落ちていった。
どれくらい眠っただろうか? ぶるっと寒さに寝返りを打つ、
『ナァァン、ニャアァン』
横になった顔の頬を温かで柔らかなものがポンポンと突くように叩いてきた。
「うぅ…… 」
『ナァ~ン、ナァナァン』
猫? 鳴き声が聞こえたような気がして目を開けると顔の横、直ぐ近くに猫が居た。少し太った貫禄のある三毛猫だ。
「チコ……チコさん」
驚いて身を起こそうとするが体が動かない、金縛りだ。
横になったまま怯えたように目を見開く哲也を猫のチコがじっと見下ろしている。
『お前は違うな? 何故ここにいる? 』
チコが人の言葉を放った。
妖怪猫又……、波辺から聞いた話しを思い出す。
「チコさんだな、僕をどうするつもりだ? 波辺さんをどうするつもりだ」
パニくると思ったが自分でも信じられないくらいに冷静だった。
『お前には何もしない、利理奈を守ろうとしてくれた感謝する』
パニックにならなかった訳がわかった。哲也を見つめる猫又チコの目が物凄く優しかった。慈愛に満ちた母のような目付きだと哲也は思った。
『お前は違う、何故ここにいる? 』
初めと同じ質問を繰り返すチコの前で哲也がわからないと顔を顰める。
「違うって? ここにいるのは僕が患者で入院してるからだ」
『 ……そうか、何も知らないのだな』
「何も知らないってどういう意味だ」
哲也にこたえずチコは首を振ると一方的に話し始める。
『儂は利理奈を救いに来た。利理奈を縛り付けている柵をやっと切ったところだ。今晩利理奈を連れて行く、お前も来るか? 』
「来るかと言われても…… 」
戸惑う哲也の前でチコがベッドから飛び降りる。
『ここはお前のいる場所じゃない』
言い残すとドアをすり抜けて消えていった。哲也の頭に山下の夢が蘇る。
電子音が聞こえて哲也がベッドの上で目を覚ます。
「夢か…… 」
ベッド脇に置いていた目覚まし時計が鳴っていた。3時の見回りのために目覚ましをセットしておいたのだ。
「見回りに行かなきゃ」
目覚まし時計を止めると怠そうに起き上がる。
「妖怪猫又のチコさんか……山下さん、僕はどうしたらいい」
目覚まし時計の横に置いていた葉っぱを見つめて呟いた。
深夜3時の見回り、哲也がB棟へと入っていく、
「チコさんか? 」
波辺の202号室へと入っていく三毛猫を見つけて哲也が慌てて走り出した。
『ナァァ~~ン』
ドアの前に行くと中から猫の鳴き声が聞こえてきた。
「間違いないチコさんだ」
ノックもせずにドアを開けた哲也の目にベッドの上で妖怪猫又のチコを抱きながら話をしている波辺が映る。
「そうなの、お婆ちゃんが……よかった。ありがとうチコ」
『うむ、約束だ。儂が猫又になれたのもお前たちが守って育ててくれた御陰だ』
流暢に人の言葉を話す猫と何の疑問も持たない顔で笑っている波辺を見て哲也が思わず声に出す。
「やっぱ話してる。夢じゃなかったんだな」
驚く哲也に波辺とチコが振り向いた。
「哲也さん来てくれたんだ。よかった」
『よく来たな、お前はここにいるべきじゃない』
波辺と猫又のチコの目がとても優しい、
「来たって言うか見回りだからさ……警備員だし」
照れながら哲也がベッドに近付いていく、
『ここはお前のいる場所じゃない儂と一緒に来い』
「行こ哲也さん、チコと一緒なら大丈夫だよ」
じっと哲也を見つめるチコを膝に乗せた波辺が行こうと両手を差し出した。
「でも…… 」
チコさんと一緒に逃げるんだ……、迷う哲也の頭の中に夢に出てきた山下の声が蘇る。
『時がない早く決めろ』
何かを警戒するように猫又のチコが言った。
思いを吹っ切るように頭を振ると哲也が口を開く、
「僕は……僕は行きません、まだここで何かする事があるような気がするんです」
哲也をじっと見つめてチコが頷いた。
『 ……そうか、わかった』
「哲也さん……さよならは言わないわ、また会えるような気がするから」
寂しげに微笑む波辺の膝からチコがそっと降りた。
「僕もさよならは言わないよ」
別れの挨拶の代わりに哲也が手を差し出す。
「うん、ありがとう哲也さん」
握手する二人をチコが優しい目で見ていた。
『時間が無い、始めるぞ』
促すように言うチコを見て波辺の手を離すと哲也は少し後ろに下がった。
『利理奈、力を抜いて目を閉じろ』
「わかったわチコ」
ベッドの上に座って目を閉じた波辺の向かいで猫又のチコが立ち上がる。
『ニャニャン、ナァナァ、ナニャニャン、ナァ~ン』
呪文のようなものを唱えながら波辺の額をポンポン叩いた。
「ああぁ…… 」
思わず声を上げる哲也の見つめる先で波辺の体がぼうっと白い光に包まれていく、金縛りか、気を失っているのか波辺は動かない。
『安らかに眠れ利理奈』
猫又のチコが口を大きく開いた。
次の瞬間、波辺の姿が白い光の玉に変わる。その光の玉をチコが吸い込んでいく、
「波辺さんが…… 」
驚く哲也の前で光を全部吸い込んだチコが振り返るとニィーッと笑った。
『心配無い、利理奈の魂は儂が解放する』
猫又チコが窓を通り抜けて跳んでいった。
「魂の解放か…… 」
波辺と猫又が消えた窓の外を眺めながら哲也が呟いた。
翌日、波辺が消えたと院内は大騒ぎになる。哲也も色々訊かれるが何も知らないととぼけ通した。池田先生や香織には責めるように質問攻めに遭うが何も知らないと、疑うなら警備員を辞めさせられてもいいとまで言い切った。波辺とチコを裏切るような事だけはしたくなかったのだ。
哲也は今日も警備員を続けている。覚悟を決めた哲也に香織も池田先生もそれ以上は責める事はなかった。
どうにか誤魔化せたとはいえ池田先生や看護師の香織との間に少し距離が出来たような、気まずい空気が生まれたのは事実だ。
哲也は毎週水曜日と金曜日に定期診断を受けている。
「まいったなぁ……行きづらいなぁ」
弱り顔をした哲也が池田先生のいる診察室へと向かう、
「本当の事は言えないし……言っても信じてくれないだろうし……病状が悪化したって思われたら大変だし」
波辺が消えるのを黙って見ていたなどと知られれば警備員を止めさせられるどころか病状が悪化したとして下手すれば隔離病棟送りになりかねない。
行きづらくなっていた哲也が様子を探るようにそっと診察室を覗き込んだ。ドアの隙間から見ていると本日診断する患者のカルテの束を抱えた香織が見えた。
「まさかあの日の内に行動するとは思いませんでしたね」
「うむ、彼女を隔離しなかった私のミスだよ」
椅子に座って何やら書類に目を通しながら池田先生がこたえた。
香織がテーブルの上にカルテを置く、
「仕方無いですよ、哲也くんの頼みでしたからね」
「そうだな、哲也くんには色々やって貰わねばいけないからね」
見ていた書類を脇に置くと池田先生がカルテを1つ手に取った。
「何をしているんだい哲也くん? 」
池田先生がくるっと椅子ごと振り向いた。
「あっ……へへへっ」
愛想笑いをしながら哲也が診察室へと入っていく、色々やるって何をやらされるんだろうかと思ったが下手に訊いて波辺さんの事を蒸し返されても困るので黙っている事にする。
「何か後ろめたい事でもあるんですか? コソコソして」
優しく微笑む香織を見て哲也が安心した様子で椅子に座る。
「えへへっ、別に何もありませんよ」
誤魔化すように笑いながら哲也がシャツを脱いで上半身裸になる。
哲也の胸に聴診器を当てながら池田先生が話し掛ける。
「経過は順調だね、警備員も妄想だって自覚してるし、これなら近い内に退院出来るかも知れないよ」
哲也の後ろに立っている香織が相槌を打つ、
「そうですね、先生の指示に従っていれば早い時期に退院出来るかも知れませんね」
「退院ですか? マジっすか? 」
喜ぶ哲也を見て香織が悪戯っぽく笑う、
「あぁ~~でもまだ暫くは無理かな、お化けを見たって言ってるうちは無理かなぁ」
「お化けって……不思議な話が好きなだけですからね」
弱り顔で言う哲也の顔を香織が覗き込む、
「でも夢の中までお化け出てくるんでしょ? この前も山下さんとか言う化け狐が出てきたでしょ」
「本当かい? 夢にまで見るなんて重傷だね、退院はまだ先かな」
池田先生にまでからかわれて哲也が笑いながら口を開く、
「酷いなぁ、山下さんは良い人ですよ」
「何言ってんですか、山下さんは化け狐なんですからね、化け物の言う事など信じちゃダメですよ、哲也くんを騙して喜んでるだけですからね、まぁ夢の話しですけどね」
「酷いなぁ、夢くらい好きに見せてくださいよ」
弟を叱るように言う香織に哲也がおべっか笑いだ。
診察が終って部屋に戻ってベッドに寝転がると哲也が呟く、
「そういや、何で狐って知ってるんだ? 狸なら誰かに話しを聞いたってわかるけど……まて、それ以前に夢の話しなんてしてないぞ、波辺さんには話したけど香織さんには話してないぞ、何で知ってるんだ? 」
香織が夢の話しを何で知っているのか疑問に思ったがそれ以上に山下の事を知っているのも疑問だ。
山下は自分の事を化け狸だと言っていた。山下が消えた後から看護師としてやってきた香織も噂話くらい聞いて知っていてもおかしくはない、だが山下の本当の正体は狸ではなく狐だという事は哲也しか知らないはずだ。別れ際に哲也にだけ狐の姿を見せてくれたのだ。では何故香織は知っているのだろう?
「訊いても誤魔化されそうだな、香織さん口旨いからな」
怖くなって深く考えるのは止めた。
「山下さんは何を言いたかったんだろう? チコさんって名前じゃなくて猫って教えてくれれば僕も……いや、僕がここを出て何処に行くんだ? 波辺さんは何処へ行ったんだろう? 妖怪猫又か………… 」
迷って来たのは猫だけだろうか? もしかして僕自身も迷っているのではないだろうか? 考えても結論は出なかった。だが1つだけ確信できたことがある。波辺さんは救われたのだと、波辺さんを見つめる妖怪猫又の目が物凄く温かで優しい目付きだった。
あの目は信用出来る。哲也はそう思った。だが反対に香織や池田先生たちを睨む猫又の目はゾッとするほど怖かった。そして猫又を追い回す香織たちの目も怖かった。
何かあるのだろうか? 哲也の中に疑問が浮ぶがそれを知ってしまうと全てが変わってしまうような気がして香織にも先生たちにも聞く事は無いだろう、それでいいと、今はいいと、哲也は今日も警備員として巡回を続ける。