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第四十八話 溝貝(どぶがい)

 貝と聞いてどのような種類を思い浮かべるだろう、味噌汁でお馴染みのアサリやシジミだろうか、生で食べると美味しいがたると怖い牡蠣を真っ先に思い浮かべる人もいるだろう、バター焼きや貝柱が旨いホタテ、壺焼きでお馴染みのサザエ、今は少しお高くなってしまったハマグリ、高級なアワビ、缶詰でお馴染みの赤貝の仲間のサルボウ貝、大昔から色々な貝が食べられている。

 遠くの沖に出なくとも磯場や砂浜で捕まえることが出来て逃げることもない、貝ほど簡単にとれる生き物はいないだろう、捕まえると言うよりも拾うと言った方がよい、それでいて出汁が出て旨い、栄養もある。大昔の縄文時代や弥生時代でも食べられていたことは貝塚が証明している。


 現在主に食用にする貝は海産が殆どだが昔はシジミはもちろんタニシや溝貝どぶがいと言われるイシガイの仲間の貝を食べていた。タニシなどは漢字で田螺と書くように田圃に沢山湧いたので簡単に捕まえることが出来て昔の人はよく食べていたのだ。


 これだけ馴染みがある生物だからか怪しい話しも幾つか伝わっている。蜃気楼しんきろうの蜃とは大蛤のことで蛤が気を吐いて楼台が現われる事だとされていた。30年以上生きたサザエが鬼と化すサザエ鬼、鶴の恩返しの貝バージョンである蛤女房、日本だけではない、大きな二枚貝の上に立つ女神様の絵を見たことがないだろうか? ヴィーナス誕生の絵は有名だ。


 実際にも怖い話がある。大きなシャコ貝に挟まれて溺れ死ぬ事故は本当に起っている。イモガイの仲間であるアンボイナは強い毒を持っており刺されると人でも死んでしまうほどだ。身近な話しとなると貝毒がある。有毒なプランクトンを貝が食べることによって毒素が溜まっていくのだ。貝毒を持つ貝を食べると食中毒を起す。市販されている貝は心配は無いがそこらの海で取ってきた貝は要注意である。


 シャコ貝などは何十年どころか二百年以上も生きるものがいるらしい、哲也も貝に纏わる奇妙な出来事に遭遇した。その貝も百年以上生きていたらしい。



 昼食を終えた哲也が警備員の角田たちと一緒に遊歩道を歩いている。


「あの藪の奥、5メートルほど先に漆が生えてましたよ、まだ小さかったです」


 脇の藪を指差しながら哲也が教えると一緒に居た病院職員が院内の図が描かれた紙に何やら記入していく、


「藪の奥に入る事は無いでしょうが此方に伸びてくると困りますね、伐採しましょう」


 職員の横を歩いていた警備員の角田が先を歩く哲也の背をポンッと叩いた。


「手伝って貰って助かるよ、遊歩道は哲也くんの方が詳しいからな」

「任せてください、週に4日以上は散歩してますからね」


 得意気にこたえる哲也を職員も持ち上げる。


「眞部部長も哲也くんは良く手伝ってくれると褒めていたよ」

「眞部さんが? 嬉しいなぁ~、何でも言ってください何でも手伝いますから」


 調子に乗る哲也を見て職員と角田が苦笑いだ。


「あの辺りの藪も全部刈りましょう、向こうの木はこっちに枝を伸ばしてきてるからあれも切った方がいいですね」


 責任者らしい職員が言うと角田の横にいた職員が院内の図が描かれた紙にチェックをしていく。



 哲也たちが院内を見て回っているのは草刈りをする為の下見だ。

 2ヶ月以上前に草刈りをしたのだがまた伸びてきて雑草が遊歩道に出てくるようになったのでまた草刈りをするのだ。病院では春から秋にかけて3~4回ほど業者を呼んで大掛かりな草刈りをしていた。

 どの辺りをどれくらい刈るか調べるために病院職員2名と警備員の角田と工藤、それと暇を持て余していた哲也が手伝うことになった。


 夜間警備が主な嶺弥は居ない、今日と明日は休みだ。嶺弥より年上の警備員で哲也も仲の良い角田と余り話をしたことのない新人警備員の工藤、本物の警備員2人と哲也、病院職員の2人、合計5人で見て回っていた。



 建物から少し離れた遊歩道の奥へと進むと哲也が脇に立つ木を指差した。


「あの木も切った方がいいですよ、何の木かわかりませんけどこの前、赤い実がなってて患者さんが食べようとしてましたから、注意して止めさせましたけど」

「それは危険だね、直ぐに切らせよう」

「食べられる実でも洗わずに食べて食中毒でも起したら大変ですからね」


 責任者の職員の後ろで記入係りの職員が顔を顰めながら用紙にチェックした。



 更に奥へと歩いて行くと遊歩道が2つに分かれていた。1つは建物の裏を通ってぐるっと回る道で普段散歩に使っているものだ。もう片方は更に奥へと続く道だが金網で出来た柵で塞がれている。この道の先には今は使っていない病棟や倉庫などが建っている。

 以前、竹から美女が出てくると言っていた南辺の葬儀に使った建物もある。患者は立ち入り禁止となっているが警備員である哲也は3度ほど入ったことのある場所だ。


 責任者の職員がポケットから鍵を取り出す。


「向こうも刈るんですか? 」

「今回は全部刈るよ、滅多に行かないと言っても放って置くと道が無くなっちゃうからね、年に1回は刈らないとね」


 驚く哲也に職員が笑いながら教えてくれた。


 柵の向こうにあるのは普段は使わない建物だ。身寄りのない患者が亡くなったときに葬儀に使ったり、病院内の催し物に使う道具や長机など大きな物の倉庫として使っている建物があるので年に一度だけ草刈りと掃除を行っていた。

 そういう場所なので患者が入らないように敷地の向こうまで金網で出来た柵が伸びている。遊歩道の前に金網で出来た扉があり南京錠が付いていた。責任者がポケットから出した鍵は扉の南京錠の鍵だ。


「向こうに行くのか、付いてきて良かった」


 柵の向こうを見て喜ぶ哲也を角田が肘で突っついた。


「嬉しそうだな」

「いつもの散歩コースと違って新鮮ですからね、滅多に入れない所に入るのはワクワクしますよ」

「あははははっ、探検って事だな」


 楽しげに笑う角田の横で新人警備員の工藤が顔を顰める。


「毛虫とか蜘蛛とかいっぱい居そうで俺は嫌だけどな」

「大丈夫ですよ、棒で払いながら進めば毛虫とか蜘蛛は落ちますからね、棒を持ってる工藤さんが先頭を歩けば大丈夫です」


 嫌そうに顔を顰める工藤を見て哲也がニヤッと意地悪顔だ。

 責任者の職員と警備員の角田と工藤は藪を掻き分ける竹の棒を持っていた。


「俺の前を歩いてくれ哲也くん」


 工藤が自分の持っていた竹の棒を哲也に差し出した。工藤は3ヶ月前に病院へ配属してきた新人警備員で歳は23歳、哲也より4つ年上だ。今はまだ研修期間のようなものなのだが哲也が本物の警備員ではないと知ってからは偉そうに振る舞っていた。


「まぁ前を歩くのはいいですけど…… 」


 竹の棒を受け取りながら勿体振るように話す哲也の顔を工藤が見つめる。


「何だよ、他に何かあるのか? 」

「建物の中も凄いっすよ、この前入ったときはゲジゲジとかザトウムシがいっぱいいましたよ、ザトウムシって知ってます? 黒い丸い体に長い足が付いてて、それが何十と群れを作ってゾワゾワって、天井から落ちてきたりするっすよ」

「止めてくれ! 俺はそんな所は入らんからな」


 虫が嫌いなのか工藤が本気で怒りそうなので哲也はそれ以上からかうのは止めた。



 職員が南京錠を開けて金網の向こうへと進んでいく、こちら側は年に一度だけしか草を刈らないので場所によっては遊歩道が見えないくらいに雑草が茂っていた。


「南辺さんの葬儀に来たときはこんなに生えてなかったのになぁ」


 遊歩道の左右から生い茂る草や潅木を竹の棒で払いながら哲也が進んでいく、同じようにして先頭を歩いていた角田が振り返った。


「あの時は歩けるように道の辺りだけ草を刈ったんだよ、私と須賀さんと久米田でさ、草刈り機使ってバババッてさ」

「そうなんですか? 僕も呼んでくれればよかったのに…… 」

「あはははっ、哲也くんってこういうの好きだよね」


 残念そうな哲也を見て大笑いすると角田がまた歩き出す。


「ん!? なんだ? 」


 暫く進むと遊歩道の脇の藪からガサゴソと男が2人出てきた。


「おわっ! 」

「やべぇ、逃げるぞ!! 」


 哲也たちを見ると2人の男が逃げ出した。


「あれは? 」


 顔を顰める哲也の脇を工藤が走って行く、


「待て! こんなとこで何してる」


 怒鳴りながら追い掛ける工藤を見て哲也も慌てて走り出す。


「待ちなさい! 2人とも」


 2人とも? ああ……山口と波瀬だ。走りながら哲也は思い出す。立ち入り禁止の場所だ。人と出会うなど思ってもみない、咄嗟のことで頭が混乱していて山口と波瀬と認識するのに一時掛かった。


「こらっ! 大人しくしろ」


 直ぐ先の藪の前で工藤が男たちを捕まえていた。


「離せよ、俺たちは何もしてないから…… 」

「ごめんなさい、もうしないから………… 」


 逃れようと暴れる波瀬の隣で山口は泣き出しそうな顔で謝っている。


「何してるんですか2人とも」


 呆れを通り越した弱り顔の哲也を見て2人の顔がパッと明るくなる。


「哲也くん! 」

「あぁ……哲也くん助けてぇ~~ 」


 哲也の名前を呼ぶ2人を両手で捕まえながら工藤が振り返った。


「知ってるのか? 」

「えぇ……B病棟の波瀬さんと山口さんです」


 弱り顔でこたえる哲也を見て工藤が捕まえていた2人を離した。


「哲也くん助けてくれ」

「ごめんなさい、哲也くん」


 波瀬と山口が哲也に縋り付いてきた。


「お前らなぁ!! 」

「工藤! 」


 怒鳴りつけようとした工藤を後ろから来た角田が制した。

 角田の隣で職員が険しい表情を2人に向ける。


「ここは立ち入り禁止ですよ、職員でも許可無く入るのはダメなんですよ、厳重に処罰して貰いますからね」

「しょっ、処罰ってなんだよ」


 反抗的な波瀬と違って山口は震える声を出す。


「テレビ取り上げられるんじゃ………… 」

「テレビか? 」


 波瀬が哲也の腕を引っ張る。


「哲也くん助けてくれ、俺たちが悪かった」

「謝って済むわけないだろが! 」

「工藤止めとけ」


 また怒鳴ろうとする工藤を角田が止める。工藤は短気らしい。


「哲也くん…… 」


 反対側から腕を引っ張りながら山口が泣き出しそうな顔で哲也を見つめる。

 2人に腕を引っ張られながら哲也が呆れ顔で口を開く、


「こんな所で何してるんですか? ここは入っちゃダメなんですよ、どっから入ったんですか? 」

「向こうの柵の下がさ、穴が空いてて通り抜けられたからさ、探検してたんだ」

「波瀬さんが行くって言うから……俺はダメだって思ったんだけど………… 」


 長く続いている金網で出来た柵を指差しながら得意気に話す波瀬と違い山口は悪いとわかっているのか消え入りそうな小さな声だ。


「こりゃテレビ1ヶ月取り上げだな」


 意地悪く工藤が呟くと波瀬と山口が両脇から哲也の腕を引っ張りながら情けない声を出す。


「そんなぁ……哲也くんどうにかしてくれ」

「悪かったから謝るから……哲也くん」

「もうしないって約束できますか? 」


 弱り顔で哲也が訊くと波瀬と山口が声を張り上げて即答する。


「する! 約束する。もう絶対に探検しないから」

「俺も約束するよ、波瀬さんが行きたいって言っても次は絶対に止めるから」


 縋り付く2人の手を振り解いて哲也が真面目な表情で山口と波瀬の顔を交互に見つめた。


「本当ですね、約束ですよ、今度ここに入っているの見つけたら本当にテレビ1ヶ月禁止にしますからね」

「わかった。約束する。絶対に入らない」

「俺は最初から反対だったから、もう絶対に入ったりしないよ」


 目を見つめて約束した2人から少し離れると哲也が職員の前に出た。


「僕からキツく言っておきますので今日は勘弁してやってもらえませんか」


 深々と頭を下げる哲也に職員が険しい表情を向けた。


「哲也くんの頼みは利いてやりたいんだがね」

「ダメでしょ? 他の患者が真似したら困るから…… 」

「止めろ工藤」


 横から口を挟む工藤を止めると角田が職員に話し掛ける。


「ここは哲也くんに任せてはどうでしょう? よく知っている患者さんらしいですし、反省もしてますし」

「角田さんまでそう言うなら今回は大目に見ましょうか」


 仕方がないというように職員がこたえた。角田に頼まれただけではない、哲也が総務の眞部部長とも仲が良いのを知っているのでそれも考慮したのだろう。


「ありがとうございます」


 礼を言いながら頭を上げた哲也が角田に向かってペコッと頭を下げた。


「角田さんも済みません」

「まぁ哲也くんは信頼しているからな、任せてもいいと思っただけだ」


 これしき何でもないと言うように角田が手を振った。


「ありがとうございます。それじゃあ、僕は2人を連れて戻りますから」

「二度としないように2人に注意してくれよ、それと手伝ってくれてありがとう哲也くん」

「何でも手伝いますから何時でも言ってください」


 表情を崩した職員を見て哲也も一安心だ。


「ったく、甘いなぁ」


 愚痴る工藤に哲也が竹の棒を差し出した。


「工藤さん、これ返します。それとゲジゲジとかザトウムシは此方から近寄らなければ逃げていくので大丈夫ですよ」


 竹の棒を受け取る工藤を見て角田が意地悪顔で口を開く、


「哲也くんが抜けるからお前が先頭だ」

「ちょっ、マジっすか? 俺、虫とか苦手なんですけど…… 」


 嫌そうな工藤を横目に哲也は波瀬と山口を連れて引き返していった。



 戻りながら何故ここに入ったのかと訊くと2人が楽しそうにこたえた。午前中に職員が南京錠や遊歩道の具合を調べに来て入っていくのを見てそれで何があるのか探検したくなったらしい。

 山口と波瀬は長く伸びている金網の柵の向こう、傾斜地の下が窪んでいてそこから入っていった。藪の中を歩いていると小さな流れを見つけた。そこで遊んでいたらしい、遊び飽きて戻ろうとしたところを哲也たちに見つかったのだ。


 金網の扉を抜けて普段通っている遊歩道へと出る。


「哲也くん、良いものを見せてやろうか? 」

「波瀬さんダメだよ」

「哲也くんなら大丈夫だって」


 山口が止めるのも利かずに波瀬がニヤッと悪い顔で笑いながらポケットから何かを取り出した。


「何拾ってきたんですか? 」


 場合によっては叱り付けようと顔を顰める哲也に波瀬が得意気に手の上に載るものを見せた。


「あっ、沢蟹だ」


 哲也の怪訝な表情が緩んだ。波瀬の手の上に沢蟹が3匹いた。


「凄いだろ、向こうの水溜まりで見つけたんだ」

「なんかねぇ、湧き水が湧いてるみたいでね、そこに居たんだよ」


 哲也が怒らないと思ったのか山口もポケットから沢蟹を取り出した。

 波瀬と山口が侵入した先に水が湧いている場所がありそこに沢蟹が居たらしい。

 山の中に建つ病院だ。人が入らないような藪の奥には湧き水が湧いている場所もあれば雨水が溜まって小さな池のようになっている場所もあった。病院の敷地内には雨水を流すためのコンクリで出来ている側溝もある。


「こんなの捕まえてたのか…… 」


 嬉しそうな2人を見て哲也は怒る気も無くなった。


「このカニ飼ってもいいだろ? 」

「ちゃんと世話するからさ」


 笑顔で頼む波瀬の隣で山口が不安気に哲也を見つめる。2人合わせて7匹の沢蟹を捕まえていた。


「生き物なんて飼えるわけないでしょ、病院ですよ」


 迷惑そうにこたえる哲也の前で波瀬と山口が手を合わせるようにして頼む、


「そこを何とかさ、哲也くんは先生たちにも顔が利くだろ」

「お願いだよ哲也くん、ちゃんと世話するからさ」

「ダメですよ、寄生虫とか病気を持ってたら大変ですから」


 哲也が叱るようにして断った。個人的には許してやりたいが2人だけを特別扱いするわけにはいかない。


「ダメって言われても飼うからな、先生たちに見つからないようにするだけだ」

「哲也くんなら大丈夫だと思って相談したのに…… 」


 膨れっ面で睨む波瀬の横で山口がしょぼくれた顔で哲也を見つめた。

 大きな溜息をついてから哲也が口を開く、


「もう絶対にあの柵の向こうへは行かないって約束してください、沢蟹が全部死んでもまた捕まえに行ったりしないって約束できるなら先生に頼んでみます」

「飼ってもいいの? 」


 山口のしょぼくれた顔に笑みが浮んだ。


「先生に相談してみます。先生がダメって言ったら捕まえた所へ逃がしに行きましょう、僕が責任持って付いていきます」


 哲也の向かいで波瀬が大きく頷いた。


「わかった。それでいい、先生に頼んでくれ哲也くん」

「了解しました。その代わり約束は守ってくださいよ、また柵の向こうへ入ったら本当にテレビ取り上げますからね」


 哲也が約束すると2人は大喜びだ。

 このまま沢蟹を取り上げてもまた捕まえに行って黙って飼育しようとするだろう、あの柵のもっと奥へと行くかも知れない、無理に止めさせるより飼育させた方が安心だと考えた。沢蟹にはかわいそうだがそれほど持たずに死んでしまうとも思った。

 飼育の許可はアニマルセラピーの責任者である世良静香に相談すればどうにか出来ると考えた。


「哲也くんが頼んでくれたら安心だね」

「そうだな、こいつら飼う入れ物用意しないとな」

「煎餅が入ってた缶があるよ」


 波瀬と山口が嬉しそうに歩き出す。


「たらいかプラケースを借りてきてあげますよ」


 後ろを歩きながら言う哲也も笑顔だ。



 B病棟の大部屋まで山口と波瀬を送る。途中のトイレで哲也が掃除に使うバケツを1つ持ってきた。


「取り敢えずバケツの中に入れて置いてください、水は…… 」


 哲也が大部屋の中を見回すと山口のベッド脇のキャスター付きの小さな台の上にペットボトルに入ったミネラルウォーターが目に付いた。


「山口さん、その水を少し入れてください、沢蟹の足が浸かるくらいでいいです」

「わかった。俺の水わけてやるぞ」


 山口が嬉しそうにバケツにミネラルウォーターを注ぐのを見て波瀬が首を傾げる。


「水道の水はダメなのか? 」

「ダメですよ、殺菌のために塩素が入ってますからね、水道水を使うならバケツに二晩ほど置いた水を使ってください、そのままの水道水を入れると魚とか蟹は死んじゃいますよ」


 本当は水質の合った水が良いのだが水分があれば水の中で無くとも呼吸が出来る沢蟹は魚ほど気を使わなくても良いだろう、それにバケツで飼うのは一時的だ。アニマルセラピーをしているE病棟には金魚を飼っている水槽がある。ケースを借りる序でにその水を少し貰えば完璧だ。

 沢蟹を捕まえた水場の水が一番いいのだがそれを話すと絶対に取りに行くであろう事は想像できたので口が裂けても言うことはない。


「やっぱ哲也くんに相談して正解だな」

「哲也くんは頼りになるなぁ」


 波瀬と山口が褒めまくるが哲也は慣れっこだ。何か頼むときはいつも褒めてくるのがパターンだ。


「石とかで隠れる場所作ってやらないとダメだぞ」

「餌は御飯のおかずの魚の切れ端とかでいいよね」

「じゃあ僕はケースを借りてきますから」


 子供のようにバケツを覗き込んでいる2人を見て苦笑しながら哲也は大部屋を出て行った。



 B病棟を出てE病棟へと向かう、


「せっかく柵の向こうへ行けると思ったのになぁ」


 角田や工藤たちが今も居るであろう向こうの木々を見つめて哲也が愚痴った。滅多に入れない柵の向こうへ行くチャンスを失ってがっかりだ。


「山口さんはともかく波瀬さんは困ったもんだ」


 時々騒動を起こすが扇動するのはいつも波瀬だ。山口は子分のように付いていくことが多い、今回も話し振りから波瀬が唆したのがわかった。


「世良さん居るかな……もう散歩は終ってる時間だけど」


 E病棟と繋がるように建てられている大きな犬舎で遊び回っている犬たちを見ながら哲也は建物へと入っていった。


「ここには世良さんは居ないな」


 小さなロビーの右、入って直ぐの大きな部屋を覗く、ここは猫と患者が遊べるようになっている。ロビーを挟んで反対側は犬と遊ぶスペースだ。E病棟は1階部分は全て犬猫と遊ぶスペースとなっていた。


「おっ、珍しいな、犬の散歩は終ったぞ、それとも猫と遊びに来たのか? 」


 哲也を見つけて看護師の森崎がやって来た。三毛猫を抱っこして嬉しそうな笑顔だ。


「森崎さんは何してるんですか? サボってたら香織さんに怒られますよ」


 じとーっと見つめる哲也に臆した風もなく森崎が抱っこした三毛猫を哲也の顔に押し付けてくる。


「サボリじゃないぞ、セラピー受けてるんだ。看護師も疲れるからな」


 頭に猫を乗せようとしてくる森崎から逃れながら哲也が続ける。


「はいはい、それで世良さん何処に居るか知りませんか? 」

「静香さんか? 自分の部屋に居ると思うよ、患者と面談終って一休みしてるんじゃないかな」


 自分の部屋とは治療室のことだ。アニマルセラピーを受けている患者の個人面談に使っている部屋で責任者である世良にとっては個人の部屋みたいなものだ。


「森崎さんありがとう」


 礼を言って階段へと向かおうとした哲也に森崎が話し掛ける。


「サボってるとか香織さんに言うなよ」

「言いませんよ、森崎さんだけじゃなくて早坂さんや他の看護師さんもよく遊びに来てますよ、旨く時間作って一休みするのに誰も文句なんて言わないでしょ」


 振り返って笑う哲也を見て森崎がムッとする。


「あっ、生意気だな、哲也くんの癖に大人ぶった言い方して」

「猫をモフモフしながら言っても全然説得力無いですからね」

「抱っこすると自然とモフモフしてしまうのが猫だ。これは人間のDNAに刻み込まれた行動だから仕方がないんだ」


 呆れる哲也の前で森崎が抱いている三毛猫に頬を擦り付ける。


「癒やされるよねぇ~~猫は」


 抱きかかえていた猫に頬摺りしていた森崎がバッと顔を上げた。


「そうか!! 哲也くんは静香さんと遊びに来たんだな、アニマルセラピーじゃなくて美人セラピーかよ、厭らしいぃ~~ 」


 悪い顔で笑いながら話す森崎に哲也が慌てて声を張る。


「違いますからね! 用事があって来たんですからね」


 哲也に構わず森崎がニヤけながら続ける。


「哲也くんって母性本能を擽るタイプだからな、香織さんだけでなく静香さんまで毒牙に…… 」

「違うから! 香織さんと世良さんなら毒牙に掛けられるなら掛けたいですけど逆に食い殺されちゃうでしょ」


 言い返す哲也の向かいで三毛猫を抱えた森崎がニヘッと嫌な笑みをした。


「そんな事考えてたんだぁ~~、香織さんに言ってやろうっとぉ」

「わぁあぁ~~っ!! 勘弁してください」


 大慌てする哲也を見てほくそ笑みながら森崎が続ける。


「んじゃ来週倉庫の整理手伝えよな、C棟の奥で期限切れの薬品とかいっぱい見つかったから廃棄しなきゃダメなんだ。私と鈴原がクジ引いちゃってさ、男手が欲しいと思ってたんだよねぇ」

「わかりましたから香織さんには絶対に言っちゃダメですからね」


 項垂れながらこたえる哲也の前で森崎が三毛猫に頬を擦り付けながら頷いた。


「わかった。わかった。内緒にしてやるよ、哲也くんが手伝ってくれればまた時間できてモフモフしに来れるからな」

「まったく……頼みましたよ」


 疲れ顔で哲也は階段を上っていった。



 E病棟は1階が犬猫のスペースで2階がナースステーションや犬猫の治療室や病気の犬猫の隔離部屋など実務に使う設備が置いてあり3階から上が患者たちの部屋となっている。

 人間不信になっていたり傷心な心に癒やしを求めるナーバスな患者が多いので気を使うのがE病棟だ。


「森崎さんに旨く乗せられたな……来週大変だぞ」


 愚痴りながら廊下を歩いて世良の診療室へと向かった。

 世良静香せらしずかはアニマルセラピーの責任者で臨床心理士である。背中の中ほどまで掛かる長い髪にほっそりとした頬に切れ長の目をした大人の女だ。背も高く180センチ近くある。出来る女という言葉が当てはまる知的美女だ。香織の次に哲也が恋心を抱いている女性でもある。


「世良さん、哲也です」


 ドアをノックすると返事が聞こえたので哲也が遠慮なく入っていく、


「あら珍しい、手伝ってくれるのは良いけど犬の散歩は終ったわよ、ケージの掃除を手伝ってくれるなら大歓迎よ」


 書類の整理をしていたらしい世良が顔を上げて哲也を見つめた。


 森崎さんより酷いし……、どんよりした顔で哲也が近くの椅子に腰掛けた。


「ケージの掃除でも何でもしますから頼み事を利いてください」


 嫌そうな顔をしながらも哲也は交換条件を出した。室内はともかく外の檻の掃除は大仕事だ。頼まれるのは外の檻の掃除に決まっている。


「頼み事? 私の所に来るなら動物の事かしら」

「はい、沢蟹を飼いたいっていう患者が居て…… 」


 小首を傾げて訊く世良に哲也が山口と波瀬のことを話した。

 直ぐに世良の顔が険しく変わる。


肺吸虫はいきゅうちゅうって知ってる? 犬猫や豚の肺に寄生する寄生虫よ、肺吸虫症って言って人にも付くのよ、沢蟹は肺吸虫の中間宿主よ、犬猫を飼っている私は許可できないわね」

「やっぱり…… 」


 寄生虫のことは何処かで聞いて哲也も知っていた。


「そこを何とかお願いできませんか? 金魚も飼ってるじゃないですか」

「あの金魚は病気や寄生虫がないか全部調べてから飼っているのよ、そこらで捕まえて来た沢蟹と一緒にしないで欲しいわね、犬猫は当然としてここに居る動物は全て安全確認をして定期的に予防接種も受けさせているものばかりよ」


 頼み込むが世良は表情を変えない。


「それはわかってます。けどダメって言っても隠れて飼いますよ、だから目の付くようにした方がいいと思って……山口さんも波瀬さんもここには来ませんし、自分たちの秘密って喜んでるから他の患者にも話さないと思いますから頼みますよ」


 弱り顔で頼む哲也の向かいで世良が溜息をつく、


「隠れて飼う方が厄介か……わかったわ、許可してあげるわよ、その代わりその2人はE病棟には出入り禁止だからね、哲也くんもここに入ったら玄関に置いてある除菌剤で手を洗うのよ、その2人にも沢蟹を触る触らないに拘わらず部屋を出入りするときは手を洗うようにしなさい、除菌剤をあげるからこれで手を洗うように言うのよ」


 世良が後ろの棚からポンプの付いたボトルに入った除菌剤を哲也に手渡した。


「ありがとうございます。僕が責任持って2人に言いますから安心してください」


 笑顔で受け取ると哲也が続けて頼む、


「それとたらいかプラケースとかないですか? 今は便所掃除のバケツに沢蟹入れてるんですよ」

「いらないプラケースなら幾つかあるわ、沢蟹7匹なら45センチくらいのケースで充分でしょ、それならあそこにあるから好きなの持って行って」


 世良が指差す部屋の隅、器具などと共に透明なプラスチックで出来たケースが幾つか置いてあった。


「じゃあ、このケース貰っていきますね、金魚の水も少し貰いますね、じゃあ、ありがとうございました」


 プラケースを手に出て行こうとした哲也に世良が笑顔で話し掛ける。


「哲也くん、月末に犬のお風呂と散髪、それとケージの大掃除やるから手伝って貰うわよ、4日くらい時間空けとくのよ」

「あははは……はい、喜んで手伝わせて貰います」


 乾いた笑いで返事を返す哲也に断る術など無かった。



 哲也が持ってきたプラケースを使って山口と波瀬は大喜びで沢蟹を飼い始めた。

 翌朝、哲也が見に行くと山口と波瀬が落ち込んでいた。何でも沢蟹が死んだのだという、7匹いた沢蟹が4匹になっていた。

 哲也が水が悪いのかもしれないと言うと波瀬があの場所の水を汲んでくると言いだした。ダメだと言っても利かない、このままでは2人だけで行きそうだと哲也は覚悟を決めて2人と一緒に水場へと行く事にする。

 当然見つかれば叱られるだけでは済まない、警備員という事になっているのを辞めさせられるかも知れない、だが哲也も沢蟹がいる水場を見てみたかったのだ。


 立ち入り禁止になっている金網で出来た柵の前で辺りに誰も居ないのを確認して遊歩道から脇の藪へと入っていった。


「哲也くんこっちだよ」

「向こうのな、坂になってる所の下が潜り抜けられるんだ」


 山口と波瀬に連れられて長く伸びている金網の柵の向こう、傾斜地の下が窪んでいてそこから2人が入っていく、


「こんな所から…… 」


 後で塞いでおこうと思いながらも哲也も2人を追って中へと入った。


「これで哲也くんも同罪だからな」


 一番先頭を藪を掻き分けながら歩いていた波瀬が悪い顔で振り返った。


「嫌なこと言うなぁ~、僕は2人が入っていくのを見て慌てて追い掛けたって事にしといてくれ、もし誰かに見つかったら弁解できるからな」


 最後尾を歩く哲也の弱り顔を見て真ん中を歩いていた山口が楽しそうに口を開く、


「また俺らを助けてくれるならそれでいいよ」

「庇えるなら庇うけど今度見つかったらテレビ1週間は取り上げられる覚悟はしといてくださいよ、僕だって叱られるの覚悟してるんだから」


 弱り顔でこたえながら哲也は何で付いてきたんだろうと今更ながら後悔した。


「1週間か……まぁそれくらいは仕方ないな、行かないって約束破ったんだからな」

「見つからないようにするしかないね」


 楽しげに歩いていた波瀬と山口が足を止めた。


「着いたぞ」

「あそこの水溜まりにいるんだよ」


 2人の指差す先に直径3メートルほどの水溜まりとそこから伸びる10メートルほどの流れが出来ていた。湧き水だろう、水は途中で地面に吸い込まれて沢にはなっていない。


「へぇ、いい感じの水場だね、沢蟹だけじゃなくて色々いそうだな」


 子供の頃にカブトムシやクワガタムシを捕りに行ったりザリガニや亀を捕まえた記憶が哲也にもあった。

 哲也の顔が明るくなったのを見て波瀬と山口が饒舌に話し出す。


「イモリとかカエルもいるぞ」

「カエルは餌に困るから捕まえなかったんだよね」

「毎日虫を捕まえるなんて大変だからな、沢蟹は御飯のおかずを餌にして飼えるからな」

「イモリは何を食べるのかわからないし……ちょっと気持悪いからね」

「カエルは鳴き声でバレるし、イモリは飼うの大変そうだからな」

「水だけじゃなくて死んだヤツの代わりの沢蟹も捕っていいよね」


 思い付いたように話す山口の背を波瀬がドンッと叩いた。


「良いこと言ったな山口、沢蟹も捕まえて行こう、いいよな哲也くん」


 期待するように見つめる2人の前で哲也がニッコリと笑った。


「じゃあ、水を汲んでから沢蟹捕まえようか、元気のいいヤツ3匹だけだよ、7匹だけって言って許可貰ったんだからね」


 近くで蛙の鳴き声が聞こえる。落ち葉を捲ると沢蟹やイモリがいた。コンクリの壁に囲まれた病院の敷地内だ。狸や狐などは入ってこれない、小さな水場だが天敵は鳥や鼬や鼠くらいだろう、沢蟹やイモリにカエルなど水場に棲む小さな生き物たちには棲みやすい場所となっているのだ。



 山口と波瀬が手に持った空のペットボトルに湧き水を汲んでいく、2リットルのペットボトル2本を満タンにしてから沢蟹を探し始めた。


「デカいヤツじゃなくて中くらいで元気なヤツが良いぞ、死んだ奴はみんなデカかっただろ? デカいのはダメだ」

「そうだね、小さいヤツの方が元気だよね」


 いつものように波瀬に従うようにして山口が沢蟹を探して石を捲った。


「うわっ! 石だと思ったら貝だよこれ」


 山口が引っ繰り返した黒い貝を波瀬が持ち上げる。


「おおマジだ。デケぇ貝だ」

「本当だ。凄いなぁ、たぶん溝貝どぶがいだな」


 テレビで見たのか図鑑で見たのか忘れたが哲也の記憶に見覚えがあった。どうやら溝貝どぶがいらしいが波瀬が手に持つ貝は30センチほどもあった。これ程大きなものは哲也も見たことがない。


「溝貝って言うのか、でも綺麗な湧き水だよね、ドブじゃないよね」


 小首を傾げる山口に哲也が笑いながら教えてやる。


「汚い所だけに棲んでるわけじゃないよ、川や池に湖とかにも棲んでるから、ここは落ち葉とか溜まってるから栄養があって棲みやすいんじゃないかな」


 話しを聞いていた波瀬が両手で持っている溝貝をじっと見つめる。


「綺麗な所にも居るのに溝貝って嫌な名前付けられてんだな」

「貝にとっては迷惑だね、綺麗な水で育ったヤツは食べる事も出来るんだよ、それほど美味しくはないらしいけど昔は食べてる所もあったらしいよ」

「食べられるのか……そうだ! 此奴を沢蟹の餌にしよう」


 大きな溝貝を地面の上に置いて近くの石で叩き割ろうとする波瀬を哲也が慌てて止める。


「わぁあぁ~~、ダメだよ、かわいそうだよ」


 石を持つ手を止められて波瀬が不服そうに哲也を睨む、


「水もこの場所のがいいなら餌もこの場所で取れたのがいいだろ」

「こんな場所でここまで大きくなるのは何十年と掛かったはずだよ、だから逃がしてやろうよ、カニの餌は僕が食堂で貰ってあげるからさ」


 どうにか言い聞かせようとする哲也に構わず波瀬は溝貝を叩き割ろうとする。


「何十年も生きてるなら美味しいよな、沢蟹も喜んで食べるぞ、これなら1ヶ月は餌に困らないぞ」

「食べる前に腐るよ、蟹が死んだのも凄い匂いしただろ、こんなデカい貝が腐ったら大変だよ、哲也くんの言う通りに逃がしてやりなよ」


 山口も波瀬を止める側に回ってくれた。それを見て哲也が波瀬に畳み掛ける。


「山口さんはわかってるね、貝が腐って水も腐ってカニが死んじゃうよ、だから逃がしてやろうよ」

「わかった。その代わり沢蟹を2匹追加だ。7匹に2匹足して全部で9匹だ」


 Vサインをするように腕を突き出す波瀬の前で哲也が弱り顔で頷いた。


「全部で9匹か……わかった。僕が責任持つよ、溝貝は逃がしてやりなよ」

「命拾いしたな、哲也くんが居なかったら潰してミンチにしてたぞ」


 溝貝を持ち上げて話し掛けると波瀬は水の中へと逃がしてやった。

 その後、沢蟹を5匹捕まえてペットボトルに汲んだ水と一緒に持って帰った。



 3日が経った。取ってきた水が良かったのか山口と波瀬が飼っている沢蟹は9匹とも無事だ。餌も放ったらかしにしないで2時間ほど経つと捨てるようにさせたので水が悪くならずに旨く飼育できている様子だ。


 昼食を食べに哲也が食堂へと入っていく、


「哲也くんこっちで一緒に食べようよ」


 先に席に着いていた波瀬が大声で哲也を呼んだ。他の患者たちの注目を浴びて哲也が恥ずかしそうに手を振ってこたえた。


「参ったなぁ~~ 」


 沢蟹の一件で波瀬と山口には以前より懐かれたようで嬉しい反面、厄介事を色々頼まれそうで弱っていた。


「まぁ何かあった時は協力してくれるだろうし、まぁいいか」


 トレーを持って配食カウンターへと並ぶ、少し遅れてきたので並んでいる患者は少ない。


「貴方が哲也くんね」


 配膳係の女の人がおかずの載った皿を哲也のトレーに置いた。

 新しく入ったのか見たこともない人だ。歳は30歳くらいだろうか、食堂のおばちゃんなどと呼ぶのは失礼に当たる。綺麗な人だ。


「あっ、はい、哲也ですけど何で僕の名前を…… 」


 美人に見惚れながらも哲也は不思議に思って訊いた。


「さっき大声で呼ばれてたでしょ、昨日の夕方は食堂を閉めるときに残ってる患者さんに出ていくように言ってくれたし」


 気付かなかったが昨日から食堂へ入っていたらしい、


「えっ、あっ、はい……まぁ一応警備員ですから」


 波瀬に大声で呼ばれたのを聞かれたとわかって恥ずかしさに哲也の頬が赤くなっていく、


「哲也くんって人気あるのね」


 じっと見つめながら女が副菜をトレーの上に置いた。


「いや、別に……警備員してるからかな」


 美人に見つめられて哲也が嬉しそうに照れる。


「ふふふっ、知ってるわよ、夜に見回りしてるんでしょ? じゃあしっかり食べて頑張ってね」


 女が微笑みながらトレーに御飯を載せた。


「頑張ります……ありがとう」


 ペコッと頭を下げて哲也が配食カウンターを離れていく、


「あれ? まぁいいか」


 普段はそれぞれの担当に御飯やおかずを1つずつ置いて貰って並んで歩いて行くのだが今日は話し掛けてきた女の人だけで全ての食事がトレーに載っていた。



 食事の載ったトレーを持って山口と波瀬の座っている向かいに哲也は腰掛けた。


「哲也くん、はい、お茶」


 向かいに座る山口がコップにお茶を注いでくれた。


「ありがとう」


 礼を言う哲也の食事の載ったトレーを山口がじっと見つめる。


「哲也くん大盛りだね」

「御飯だけじゃないぞ、唐揚げも俺より2つくらい多いぞ」


 山口の隣で波瀬が哲也の唐揚げを数えるように指差した。


「いやそんな事は…………多いな」


 トレーに目を落として哲也が否定しようとした言葉を飲み込んだ。

 食べかけの2人と比べてもわからないが言われてみれば普段よりも御飯が大盛りだ。何度も食べたことのある唐揚げも少し多く思えた。


「新しい人だから知らないのかな」


 ちらっと配食カウンターを見ると先程の女が微笑みながら哲也に手を振った。何か知らないが気に入られている様子だ。


「まぁ今日はいいか、後で教えとかないとな」


 哲也が嬉しそうにペコッと会釈をする。

 食事の量で喧嘩することもあるので主菜は自己申告で少なくすることはあっても多くすることはない、御飯やサラダの大盛りは可能だ。

 哲也の唐揚げが多いのは明らかに違反である。


「なんで唐揚げ多いんだ? 」

「いいなぁ哲也くん」


 向かいに座る波瀬と山口が羨ましそうに言うのを見て哲也が自分のトレーから唐揚げを箸で摘まんで2人に1つずつ渡した。


「新しく入った人みたいで間違えたんだよ、みんなには内緒だよ」


 唐揚げは人気のメニューだ。他の患者に知られるとヤバいと思った。


「新人か、なら仕方ないな」

「唐揚げ一つ得したね」


 笑顔で食べ始める2人を見て哲也はほっと安堵した。


「後で注意しないとな、いただきます」


 手を合わせると哲也も食べ始める。教えるという名目で女と話ができると思ったのは言うまでもない。



 食堂の壁際で香織がじっと見ていた。


「デレデレして……ほんっとに気が多いんだから」


 全ての病棟から大勢の患者が集まる食堂は争いが起きないように看護師たちが監視している。今日は香織も監視役らしい。


「それにしても何を企んでいるのかしら」


 香織が配食カウンターへ目を向けた。哲也を見ていた目と違い鋭い目付きだ。



「ごちそうさま」


 哲也が食べ終わるのを待って山口と波瀬が話し掛けてくる。


「哲也くん、沢蟹見に来るかい? 」

「序でに将棋しようぜ」


 ここのところ毎日2人の部屋に行っていた。沢蟹を飼う許可を貰った手前、何かあれば哲也の責任になる。餌やりや水替えをした後には手を洗うか除菌剤で消毒することを忘れないように注意するためにも毎日訪れているのだ。


「うん、後で行くよ、ちょっと用事頼まれているから3時過ぎにでも行くから」


 哲也が嘘をついた。沢蟹を見に行くだけでは済まない、2人にせがまれて遊びに付き合わされる。昨日も2時間ほど掛かったのだ。


「わかった3時過ぎだな」

「2時間あればオセロも出来るよね」


 2人が立ち上がる向かいで哲也も食べ終わった食器の載ったトレーを持って腰を上げた。


「じゃあ哲也くん待ってるからな」

「唐揚げ食べるかなぁ~ 」


 食器を返しに行く哲也と別れて2人が食堂を出て行く、山口は唐揚げの切れ端を持っていた。沢蟹の餌にするつもりだ。


「ご馳走様でした。あのぅ…… 」


 規定の場所に食べ終わった食器の載ったトレーを置くと哲也がひょいっと首を伸ばして配食カウンターの奥を覗いた。


「あれ、どこ行ったんだ? 」


 話し掛けてきた女を捜していると後ろから肩を撫でるようにポンポン叩かれた。


「哲也くん、誰を探してるの? 」


 振り返ると先程の女が小首を傾げていた。


「おわっ! 吃驚した」


 後ろどころか近くには誰も居なかったはずだ。驚いて振り返った哲也の前で女がニッコリと笑う、


「うふふっ、驚いた? 作戦成功だ」

「作戦って……ビビらせないでくださいよ」


 可愛い女の笑みに怒るどころか嬉しさが湧いてくる。


「それで誰を探してるの? 呼んでこようか」


 カウンターから食堂の奥を覗く女に哲也が慌てて話し掛ける。


「いや、お姉さんを探してました」


 女の顔に笑みが広がっていく、


「お姉さん? 私の事? 嬉しいぃ~~ 」


 哲也の手を握って女が喜んだ。


「何の話し? 奥で話しましょ」

「いや……あのぅ…… 」


 戸惑う哲也の手を引っ張って女が配食カウンターの奥へと入っていった。


「あのぅ……さっきの御飯ですけど………… 」


 言い辛そうに配膳の注意をしようとした哲也の言葉を女が遮る。


「私は溝渕華良奈、昨日からここの食堂で働くことになったの、宜しくね哲也くん」


 溝渕華良奈みぞぶちかいな30歳くらい、美人だ。スラッとした香織と違い少し肉付きがいい、良く言えば肉感的な美女である。食堂の求人を見てやって来たらしい、食堂のおばさんと言うよりお姉さんだ。


「中田哲也です。警備員してます。此方こそ宜しくお願いします」


 自己紹介されて哲也も慌てて返した。

 微笑みながら溝渕が哲也の顔を覗き込む、


「それで話しってなぁに? 哲也くんなら付き合ってもいいわよ」

「つつつっ、付き合うって……ぼぼっ、僕と? 」


 大人の女といった風貌の溝渕に見つめられて哲也がテンパる。


「哲也くん私のタイプよ、哲也くんなら何でもしてあげるわよ」

「ななっ、何でも………… 」


 哲也の頬が緩んでいく、美女に告白されたも同然だ。嬉しくないはずがない。


「付き合う……溝渕さんが………… 」


 妄想が頭を駆け巡る。お姉さんタイプが好きな哲也にとって目の前の溝渕に不満など一切無い。


「うふふっ、付き合ってあげるわ、哲也くんなら大歓迎よ」

「マジっすか? それじゃあ…… 」


 こたえようとした哲也がブルッと震えた。

 鋭い視線を感じて振り向くと配食カウンターの向こう、食堂の壁際に香織が立っているのが見えた。


「ヤバ! 」


 哲也が一瞬で正気に戻る。


「どうしたの哲也くん? 」


 顔を覗き込む溝渕から笑みが消えている。


「溝渕さん、配膳のことですけど…… 」


 哲也が配食の話を持ち出す。御飯とサラダは大盛りでも良いが主菜と一部の人気のある副菜は決まった量を入れるようにと注意する。


「私の事心配してくれたのね、哲也くんありがとう」


 礼を言いながら溝渕が哲也に抱き付いた。


「おわっ! 」


 突然のことに哲也が身を固くする。

 化粧の匂いかシャンプーか、良い匂いが鼻を擽る。肉感的な溝渕は胸だけでなく全身が柔らかだ。驚いて固くなった哲也の身体がほぐれていく、自然と腕が動いて溝渕を抱き締めた。


「哲也くん、嬉しい」

「溝渕さん…… 」


 このまま押し倒したい、そう思った哲也の目に配食カウンターに腕を着いてじっと見ている香織が映った。


「うわぁあぁ~~ 」


 哲也が叫びながら引き離すようにして溝渕から離れた。


「あっ、あぁ……じゃっ、じゃあ溝渕さん、僕は警備員の仕事があるから」


 真っ青な顔で出て行こうとする哲也の腕を溝渕が掴んだ。


「待って、これ持って行って、昨日作ったの、見回りしてるんでしょ? 夜にでも食べて」

「あっ、ありがとう、じゃっ、じゃあ」


 溝渕から袋を受け取ると哲也は慌てて出ていった。



 配食カウンターから出ると哲也は無言で食堂の出入り口へと向かう、香織の視線を感じるが無視だ。内心走って逃げたいくらいだ。


「ヤバいヤバい……ヤバいって…… 」


 青い顔で呟きながら食堂を出て早足で歩く哲也に後ろから声が聞こえた。


「哲也くぅん、そんなに急いで何処へ行くの? 」


 からかうような甘えるような香織の声だが哲也には恐怖以外の何物でもない。

 哲也は聞こえない振りをした。取り敢えずその場凌ぎでもいい、言い訳が思い付かなかったのである。


「ふぅ~ん、無視するんだ……ふぅ~~ん」


 香織の声のトーンが落ちた。哲也がバッと振り返る。


「違いますから……香織さんの誤解ですから」


 弱り顔の哲也を見て香織がニッコリと微笑んだ、


「あの女と何を話したの? 」

「違いますから……溝渕さんに注意しただけですから」


 弱り顔に怯えを浮かべて哲也が配食の盛り過ぎを注意したことを話した。


「ふぅ~ん、注意して抱き付かれるんだぁ~~、ふぅぅ~~ん」


 冷たい目で見下す香織の前で哲也がブンブン首を振る。


「僕は知りませんから……溝渕さんが急に抱き付いてきたんです」

「何言ってるのよ、哲也くんも抱き締めてたじゃない」

「それは……そのぅ………… 」


 哲也が泣き出しそうな顔で口籠もる。溝渕が気持ち良くて自然と抱き締め返していたなどとは口が裂けても言えない。


「ほんっとに気が多いわね、まぁいいわ、それよりあの女に何を貰ったの? 」


 哲也の持つ袋を香織が指差した。


「何かは……食べてくれって言われました」


 哲也も中身は知らないので香織の前で紙袋を開けてみた。


「クッキーだ」


 袋の中には大きさや形の不揃いなクッキーが入っていた。

 香織が一つ摘まんで口の中へ入れる。


「手作りね……うん、普通のクッキーだ」

「美味しいですよ、甘さ控え目だけどバターはたっぷり使ってるって感じで」


 向かいで哲也も一つ食べると感想を述べた。その場の空気がふっと和らいだ気がした。


「手作りクッキーを貰うなんてやっぱり妖しいわね、あの女とどういう関係なの? 」


 ニヤッとからかうように笑う香織の顔には先程までの険がない。


「関係も何も、さっき知り合ったばかりですから…… 」

「知り合ったばかりで手作りのお菓子渡すなんて変じゃない? 何か隠してるでしょ? 話して貰うわよ」


 香織が正面から哲也を睨み付ける。


「なっ、何も隠してませんから……隠してたとしても香織さんには関係ないでしょ」


 哲也が逃げ出した。溝渕に付き合ってもいいと言われたなどと話すわけにはいかない、香織も好きだが溝渕の事も好きになっていた。


「待ちなさい! こらっ哲也!! 」


 後ろから香織の怒鳴り声が聞こえてくるが哲也は振り返りもしないで必死に走った。



 哲也が消えた廊下を見つめて香織が溜息をついた。


「まったく……気が多いんだから」

「そこが哲也くんらしいんだが今回は困るな」


 いつの間に居たのか香織の後ろに嶺弥が立っていた。


「貴方が何とかしたらどうなの? 」


 香織が振り返る。嶺弥が居るのがわかっていたような口振りだ。


「構わんよ、滅するのは簡単だ。でもいいのか? 」

「いいも何も、害虫は早めに駆除した方が良いに決まっているわ、低俗なやからに哲也くんを好きにさせていいわけないでしょ」


 香織の感情を込めた口調に嶺弥がフッと口元を綻ばせる。


「いや、俺が言ってるのはそっちじゃない、指示を仰がなくてもいいのかって事だ」

「これくらいの事は私の一存でどうとでもなります」


 ムッと怒った顔でこたえる香織の前で嶺弥が口元に笑みを浮かべたまま頷いた。


「なら直ぐにでも始末しよう」

「おいおい、2人で結論を出すのはいいがそう早まる事もあるまい」


 2人の横から池田先生が現われた。前後から来たのではなく壁からすっと抜け出るようにしてやってきた。


「ですが先生…… 」


 何か言いたげな香織を見て池田先生がわかっていると言うように頷いた。


「暫く様子を見よう、あんなものは何時でも始末できるだろぅ」

「わかりました。但し哲也くんに危険が及べば直ぐに始末します」


 不服を浮かべながらこたえる香織に池田先生が優しい顔で続ける。


「当然だ。今は何よりも哲也くんが優先されるからねぇ」


 2人の会話を黙って聞いていた嶺弥がくるっと背を向ける。


「そういう事なら了解した」


 嶺弥が廊下を歩いて行く、二~三会話をしてから香織と池田先生が廊下の反対側へと歩いて行った。



 その日の深夜、3時の見回りを終えた哲也が部屋へと戻る。


「さて寝るか……クッキー美味しかったなぁ」


 テーブルに置いてある紙袋を見て呟くとベッドに寝転がる。見回りの前に溝渕から貰った手作りクッキーを食べたので空腹感は無い、哲也は気持ち良く眠りについた。


 どれ程眠っただろうか? 廊下からパタパタパタとリノリウムの床をあるく足音が聞こえてきた。


「うぅ……ナースコールでも鳴ったかなぁ………… 」


 看護師が歩いているのだろうと思ったが眠気に勝てずに哲也は目も開けずにそのまま眠りに落ちていく、


『哲也くん……哲也くんってばぁ』

「んぁぁ…… 」


 身体を揺すぶられて哲也が目を覚ます。


『やっと起きた……哲也くん』


 ベッド脇に溝渕が立っている。


「溝渕さん? 何か用ですか…… 」


 寝惚けている哲也の前で溝渕がするっと服を脱いだ。


『恩返しに来ました。可愛がってください』


 裸になった溝渕が横になっている哲也に抱き付いた。


「おわっ……おっぱいが………… 」


 哲也の顔を溝渕のふくよかな胸が包み込む、


『好きです。抱いてください』


 良い匂いがして温かで柔らかい、寝惚けている哲也の理性のたがは直ぐに外れた。


『あぁ……哲也くん………… 』


 哲也は夢中で溝渕を抱いた。



 目を覚ますと朝になっていた。


「溝渕さん? 」


 横になったまま探すが溝渕の姿は無い。


「夢……夢か………… 」


 ベッドの上で上半身を起すとバッとパンツを確かめる。


「良かったぁ……汚れてない」


 淫夢を見てパンツを汚していないか確認したのだ。


「それにしても気持ち良かったなぁ~~ 」


 ベッドの上で座るようにして哲也がニヘラと頬を緩めた。


「溝渕さん……くぅぅ…………良かった。こんな夢なら毎日見てもいいよなぁ」


 溝渕と愛し合った感覚がリアルに残っている。

 妙にリアルな夢を見る事はこれまでも何度もあったがエッチな夢でここまでリアルなのは初めてだ。


「起きるのが勿体無いくらいだ。二度寝してまた見れないかなぁ、溝渕さんの夢」


 ベッドに倒れ込むと目を閉じるが興奮して眠気など吹っ飛んでいた。


「ダメだ! 起きるか」


 ガバッと起きて立ち上がった哲也がよろけてベッド脇のテーブルにもたれ掛かる。


「ヤバい、足がフラついた」


 気分は最高だが何故か身体は怠かった。


「はしゃいで起きたからフラついたかな」


 暫くすると体の怠さも引いていく、


「今日は良い事ありそうだ」


 タオルと歯ブラシを持って哲也は元気に部屋を出て行った。



 朝食を終えると日課にしている散歩をしてから山口と波瀬の部屋に行って沢蟹の様子を見るついでに2人と遊ぶ、


「もう昼だよ」

「遊んでるとあっと言う間だな」


 山口と波瀬と一緒に食堂へ昼食を食べに行く、


「何か良い事あったの? 哲也くん」

「俺も訊きたかった。今日はずっと機嫌良かったな」


 長い廊下を歩きながら山口と波瀬が訊いてきた。


「いや別に……昔の友達と遊んでる夢を見てさ、懐かしくて何かうきうきしてた」


 少し考えてから哲也が誤魔化した。エッチな夢を見て浮かれているなどとは口が裂けても言えない。


「良い夢だね、そういう夢見ると1日幸せだよね」

「俺も時々見るぞ、辞めた会社に遅刻する夢」

「あはははっ、波瀬さんのは悪夢だな、僕も飛び起きた事あるけど今朝の夢は良い夢だったよ」


 3人でわいわい話をしながら食堂へと着いた。

 並んで座る2人の向かいに哲也が座って談笑しながら昼食をとる。


「哲也くん昼から何するの? 」

「警備員の仕事があるから御免ね」


 昼も遊ぼうと誘う山口を哲也がやんわりと断った。別に仕事は無いが2人は年上なので遊ぶのにも気を使うので2時間ほどが限界だ。今日は午前中に遊んだので午後からはゆっくりしたいので断ったのだ。


「哲也くんは俺たちと違って忙しいからな」


 食べ終わったトレーを持って波瀬が立ち上がった。知ったか振りをして納得してくれるのでこういうときは楽である。

 山口と哲也も食器の載ったトレーを返しに行った。


「ご馳走様」


 哲也がいつものように一声掛けてトレーを所定の位置に置くと配食カウンターの向こうから溝渕が手招いているのが見えた。


「哲也くん行くよ」


 一緒に戻ろうと待っていた山口と波瀬に哲也が慌てて返事をする。


「ごめん、トイレ行くからさ」

「じゃあ、待ってるから早く行ってきなよ」


 山口の優しい言葉は嬉しいが哲也は溝渕に用があるのだ。


「沢蟹が腹減らしてるよ、早く持って行ってやりなよ」


 沢蟹の餌にする為に山口はおかずを少しテッシュに包んで持っている。


「ウンコか? んじゃ、先に帰ってるぞ」

「そだね、沢蟹に餌をやるからね」


 納得したのか2人は先に食堂を出て行った。



 哲也が配食カウンターの中へと入っていく、


「溝渕さん、クッキーありがとう美味しかったよ」

「本当? 嬉しい」


 礼を言う哲也に溝渕が抱き付いた。

 良い匂いが鼻を擽り柔らかな感触が伝わってくる。


「ああぁ…… 」


 昨晩の夢を思い出して変な声が喉から漏れた。

 視線を感じてバッと溝渕から離れると哲也は配食カウンターの外を覗う、


「気の所為か…… 」


 また香織が睨んでいたらと焦ったが見ているものは誰も居ない。


「どうしたの哲也くん? 」

「いや……別に何でも」


 小首を傾げる溝渕の向かいで哲也が笑って誤魔化した。


「ふ~ん、今日も見回りでしょ? これ持って行って」


 溝渕が紙包みを差し出す。


「カップケーキかぁ~、これも作ったの? 」

「うん、お菓子作りが趣味だから」


 袋の口から中を見て哲也が訊くと溝渕が嬉しそうにこたえた。


「ありがとう、見回りって結構腹が減るんだ。有り難く貰うよ」

「哲也くんが喜んでくれると私も嬉しいわ」


 溝渕が哲也の頬にチュッとキスをした。


「おわっ! 」

「じゃあ、私は仕事があるからね」


 驚く哲也を見て悪戯っ子のように笑うと溝渕は奥へと引っ込んでいった。

 哲也がニヤけながら食堂を出て行く、


「溝渕さん……あれは正夢じゃぁ………… 」


 嬉しそうに頬を撫でながら哲也は歩いて行った。


「まったく……あとでお仕置きしてやるからね」


 廊下の角から見ていた香織が怖い顔で呟くが哲也には当然聞こえない。



 その日の深夜、見回りを終えた哲也が部屋へと戻ってベッドに寝転がる。


「ふぅーっ、何か疲れたなぁ……でも溝渕さんのカップケーキ美味しかったなぁ」


 深夜3時の見回りの前に貰ったカップケーキを食べたのでお腹は満足していて直ぐに眠気が襲ってくる。


「抱き付いてくるし、キスもされたし、溝渕さんって俺に気があるのかなぁ……からかわれてるだけかなぁ……でも香織さんは何もさせてくれないしなぁ、もう溝渕さんと付き合おうかなぁ………… 」


 昼間キスされた頬を撫でながら嬉しそうな表情で眠りに落ちていった。



 どれ程眠っただろう、パタパタパタというリノリウムの床を歩く足音が聞こえて哲也が寝返りを打つ、


「うぅん……誰か歩いてるなぁ………… 」


 ナースコールで呼ばれた看護師が廊下を歩いているのだと哲也は眠ったままだ。


『哲也くん……哲也くんってばぁ』


 身体を揺すぶられて哲也が重い瞼を開いた。


『あはっ、やっと起きた』

「うぅ……うん、溝渕さん? 」


 寝ている哲也を覗き込むようにして溝渕の顔が横向きにあった。


『哲也くん、好きよ、愛してるわ』


 寝惚け眼の哲也の目前に溝渕の顔が迫ってくる。


「ふぐぅ…… 」


 何か言おうとした哲也の口が溝渕のキスで塞がれた。


『好きよ、哲也くん』

「みっ……溝渕さん………… 」


 突然キスをされて混乱している哲也の前で溝渕がするっと服を脱いだ。


『うふふふ……さぁ愛し合いましょう』


 裸の溝渕が抱き付いてきた。


『うふふっ、哲也くんのためなら何でもしてあげるわよ』


 柔らかな肢体に包まれた哲也の鼻を女の匂いが擽って何も考えられなくなる。


「なっ、何でも……溝渕さん! 」


 溝渕をベッドに押し倒すと哲也は覆い被さる様にして身体を合わせた。


『あぁ……哲也………… 』


 行為が終ったあとで哲也が冷静になっていく、


「何でこんな事を…… 」


 並んで寝ている哲也を見て溝渕がクスッと可愛く笑った。


『恩返しよ、哲也くんが私を助けてくれた。だから私を自由にしてもいいのよ、私は哲也くんのもの……哲也くんの好きにしていいのよ』

「恩返し? 」


 わからないと言った様子で怪訝に顔を顰める哲也の上に溝渕が伸し掛かる。


『哲也くん愛してるわ』


 抱き付きながら溝渕が唇を重ねてくる。

 溝渕さん……、哲也の意識が遠くなっていく、


『私は哲也くんのもの……哲也くんは私のもの』


 溝渕が起き上がる。サッと服を着るとベッドの上で昏睡している哲也を見て嬉しそうにニタリと笑って部屋を出て行った。



 窓から日が差し込んで哲也が目を覚ます。


「うぅ……うん? 溝渕さん…………今何時だ」


 ガバッと上半身を起して壁に掛けてある時計を見た。


「ヤバっ、寝過ごした」


 時計の針は午前8時半近くを指している。


「早く行かないと朝飯食えないぞ」


 ベッドから立ち上がった哲也がよろけるようにして転んだ。


「痛てて……怠い……足がもつれた。風邪でも引いたかな」


 ベッドに手を着いて起き上がる。意識はハッキリとしているが全身が怠かった。400メートルを全力疾走してゴールに倒れ込んだときのような怠さが続いている。息切れなどは無い身体が怠くて重いだけだ。


「飯食ったら治るかなぁ……ダメだったら香織さんに薬貰おう」


 寝間着から普段の服に着替えると怠い身体を引き摺るように部屋を出た。



 朝食にはどうにか間に合った。と言うか規定時間は10分ほど過ぎていたが患者の揉め事を止めたり他にも手伝いなどをしている哲也を大目に見て配食してくれたのだ。


「溝渕さんは朝はいないんだな」


 配食カウンターから中を覗いたが溝渕の姿は無かった。朝は簡単な料理だけなので働いている人も昼や夕の半分以下だ。溝渕は昼と夕だけのパートで来ているらしい。


「それにしても……気持ち良かったなぁ」


 朝食の載ったトレーを持ってテーブルに向かいながら昨夜見た夢を思い出して哲也が頬を緩ませる。


「二度も見るなんてマジで正夢なんじゃ……やたら触ってくるし……抱き付かれたし、キスもされたし……マジで行けるかもな溝渕さん」


 緩み切った顔で朝食を終えた。味など覚えていない、頭の中ではずっと溝渕とエッチした夢を反芻していた。


 食堂を出た哲也が空を見上げて伸びをする。起きた直後よりはましだがまだ身体は怠かった。


「まだ少し怠いなぁ……今日は散歩止めて昼まで寝よう……沢蟹は昼からでいいや」


 山口と波瀬の部屋に様子を見に行くのも止めて哲也は部屋に戻っていった。



 哲也は夕方まで眠っていた。念のために目覚まし時計をセットしていたので夕方の見回りには間に合う事が出来た。


「危なかった……目覚ましセットしといて良かったよ」


 夕方の見回りを終えて食堂へと向かう、


「腹減ったなぁ……山口さんたちの様子も見に行かなかったし……まぁ1日くらいいいか、それにしても腹減った」


 たっぷり寝たので身体の怠さは無くなっていたが昼食を食べていないので腹ペコだ。おまけに山口と波瀬が飼育している沢蟹の様子を見に行くのをすっぽかした。


 見回りの後で食べるので夕食は他の患者より1時間ほど遅くなる。トレーを持って配食カウンターへ行くと奥から溝渕がやってきた。


「哲也くん大丈夫? お昼来なかったから心配したのよ」

「あははっ、ずっと寝てたから…… 」


 笑って誤魔化す哲也をカウンターの奥から溝渕が覗き込む、


「具合でも悪いの? 」


 溝渕の心配そうな顔を見て哲也が笑いながらこたえる。


「あはははっ、大丈夫っすよ、風邪でも引いたのかちょっと怠かっただけっす。もう治りました。心配してくれてありがとう溝渕さん」

「それならいいけど……お夜食におにぎりでも作ってあげるわね」


 不安気な顔を笑顔に代えて溝渕が言うと哲也が嬉しそうに身を乗り出す。


「マジっすか? 嬉しいっす。カップケーキも美味しかったですよ」

『うふふっ、哲也くんのためなら何でもしてあげるわよ』


 艶のある目で見つめながら溝渕が妖艶に微笑んだ。


「えっ!? 」


 哲也が驚きの表情で溝渕を見つめた。夢で聞いた台詞だ。口調も表情も全く同じだ。頭の中に抱き合った夢がリアルに蘇る。


「どうしたの哲也くん? 」


 ニッコリ笑いながら溝渕が訊いた。普段の笑みに戻っている。妖しく感じたのは一瞬だ。


「いや、別に……昼抜いたからお腹減ってさ」

「あはははっ、じゃあ大盛りにしてあげるわね」


 戸惑いながらこたえる哲也の前で溝渕は楽しげに笑いながら食事を用意してくれた。


「帰りに寄ってね、おにぎり作って待ってるからね」

「ありがとう、溝渕さんのおにぎり楽しみっす」


 大盛りの夕食を持って哲也はテーブルへと歩いて行った。



 一部始終を食堂の出入り口から香織がそっと覗いていた。


「精気を吸われているわね……あの女」


 いつの間に来たのか嶺弥が香織の横に立つ、


「始末するなら俺がやろうか? 」

「ダメよ、ラボの連中が欲しがってるみたいなのよ」


 くるっと回って歩き出す香織のあとを嶺弥が続く、


「ラボの連中か……池田先生が話したのか? 」


 歩きながら訊く嶺弥に香織は振り向きもせずにこたえる。


「さぁ……先生は言ってないと思うけど」

「向こうの連中が入り込んでいるって事か」

「そういう事、操野みたいにあからさまに送ってくるのと違って哲也くんを監視するだけだから先生でも見つけるのが難しいらしいわ」

「眞部のように力があるならともかく少し霊力があるだけの人間だと見分けが付かないからな」


 香織がくるっと振り返る。


「先生の中には居ないって池田先生が言っていたわ、私や佐藤が知っている範囲では看護師にも怪しいのは居ないし」


 其方はどうなのかと見つめる香織に嶺弥が鋭い目を向ける。


「警備員も全員白だ。新人の工藤と白木はまだ見てないが多分大丈夫だろう」

「そう、それならいいわ、後は職員と患者か…… 」


 またくるっと前に向き直ると香織が歩き出す。


「わかった注意しておこう、それで哲也くんはどうする? 」


 嶺弥は追わない、身体は建物の出入り口に向いている。


「暫く様子を見るしかないわね……でも危なくなったら殺すわよ、あの女」

「おいおい、捕まえるんじゃなかったのか? 」

「言い訳なんて幾らでも出来るわ、ラボの連中なんて雑魚ばかりよ」

「怖いねぇ……敵にはしたくないなぁ」


 口元に笑みを湛えながら嶺弥が建物から出て行く、


「お互い様でしょ」


 愉しそうに微笑みながら香織は長い廊下を歩いて行った。



 夕食を終えた哲也が食堂から出て来る。


「うへへ……溝渕さんのおにぎり」


 おにぎりが入った紙袋を持って哲也が厭らしい顔で笑った。

 配食カウンターの奥で溝渕が抱き付いてキスをしてきたのだ。頬ではなく口である。


「えへへへ……好きって言われた。もう付き合うしかないなぁ」


 緩みきった表情で部屋に戻っていく哲也の頭の中では香織の存在が薄くなっていた。



 深夜、見回りの終った哲也が部屋に戻って眠りにつく、


「うぅぅ…… 」


 廊下からパタパタパタとリノリウムの床を歩く足音が聞こえてきた。


『哲也くん、ねぇ哲也くん』


 ドアがすっと開いて溝渕が入って来た。


「溝渕さん…… 」


 待っていたように哲也が上半身を起した。


『好きよ哲也くん、愛し合いましょう』


 溝渕がするっと服を脱ぐのを見て哲也もさっと裸になった。


「僕も好きだよ溝渕さん」

『嬉しい! 』


 ベッドに入ってくる溝渕を哲也が抱き締めた。


「ああぁ……溝渕さん、もう我慢できないよ」

『うふふっ、哲也くんのためなら何でもしてあげるわよ』


 1時間ほど愛し合って溝渕がベッドから起き上がる。


『本当に好きよ、食べちゃいたいくらいにね……哲也くんは私のものよ』


 サッと着替えると寝ている哲也を置いて溝渕は部屋を出て行った。



 3日経った。毎夜のように溝渕は現われた。哲也は夢か現実かわからなくなっていた。いや、夢か現実かなどはどうでもよくなっていた。溝渕を抱く事だけに幸せを感じていた。


「怠い……朝飯はいいや昼まで眠ろう」


 目を覚ましたが身体が怠くて起きる気にもならなかった。腹は減ってはいない、あの日以来、夜食だと言って溝渕がおにぎりやサンドイッチを作ってくれてそれを深夜に食べるので朝食は抜いても平気だ。



 その日の夜、身体が怠くてフラつきながら深夜の見回りをしていると眞部が声を掛けてきた。


「哲也くん何があった? 」

「あっ、眞部さんか……何って? 何もありませんよ、ちょっと疲れてるだけですよ」


 険しい顔で訊く眞部の向かいで窶れた顔で哲也が笑った。

 溝渕と毎晩エッチをする夢のせいで疲れているらしいのは哲也も薄々感づいていた。だが快楽に呑まれた哲也は正常な判断力など無くなっている。


「何もない事はないだろ、怪しい気配を感じる。何があったか全部話しなさい」

「大丈夫ですから……何もないですから」


 フラつきながら去ろうとする哲也の手を眞部が掴む、


「物の怪に憑かれている。私と一緒に来なさい」

「止めてください! 眞部さんには関係ないでしょ!! 」

「哲也くん…… 」


 怒鳴る哲也を見て眞部が手を離した。


「僕の事は放って置いてください、心配いりませんから」


 フラフラと左右に身体を振りながら哲也は自分の部屋へと歩いて行く、


「何が憑いている? 」


 後を追おうとした眞部がサッと横に跳んだ。


「流石だな」


 いつから居たのか嶺弥が眞部を見て微笑んだ。


「その言葉そっくり返しますよ、そこまで近付いても気付かないなんて…… 」

「ふふっ、触る前に気付かれた俺の負けだよ」


 険しい表情の眞部と違い嶺弥は楽しげだ。


「触れられた瞬間に私は死んでいると思うがね」

「ご謙遜を…… 」


 目をギラッと光らせる嶺弥の正面に眞部が立つ、


「それで何の用です? 」

「あの化け物はラボが欲しがっているらしいぞ」

「ラボが? 」


 顔を顰める眞部を見て嶺弥が表情を緩めた。


「眞部さんは知らないようだな、安心したよ」

「詳しい話しを聞かせてくれないか? 」


 嶺弥が今までの経緯を話して聞かせると眞部の表情が曇った。


「様子を見るという事か……わかった従おう、だが哲也くんに何かあれば動きますよ」

「了解だ。東條さんも同じ事を言っていたよ」


 わかったと言うように手を振ると嶺弥はすっと姿を消した。


「私にも知らせない……ラボの連中は何を考えている」


 険しい表情で眞部は本館の方向へと歩いて行った。



 翌日の夜、山口と波瀬がこっそりと部屋を抜け出した。


「明日にしようよ、見つかったら怒られるよ」

「バカか、見つからないように夜に行くんじゃないか」

「哲也くんに頼めばいいよ」

「ダメだったらどうする? 水はともかく新しい蟹はダメって言われるぞ」


 時刻は午後の9時半を回っている。沢蟹の水を換えるのを忘れて半分死なせてしまったのだ。あの水場に換えの水と共に沢蟹を捕りに行くつもりだ。


「止めた方がいいよ」

「なにビビってんだよ、じゃあ俺一人で行くよ、その代わりお前はもう沢蟹触るなよな」

「そんなぁ……わかったよ、俺も行くよ」


 嫌がる山口を波瀬が無理矢理に連れ出した。

 見回りの看護師や警備員に見つからないように病棟を出ると遊歩道を走って金網の柵まで行った。


「見つからなかったね」

「旨く行っただろ、夜の方がいいんだって」


 何処から持ち出したのか波瀬が懐中電灯を点けた。


「用意いいね、懐中電灯なんて何処にあったの? 」

「これか? この前、空調の掃除だか整備だかあっただろ、そん時に業者のヤツが忘れていったんだ」


 自慢気な波瀬を先頭に藪の中を歩いて傾斜地まで行くと柵の下に出来た窪みを通って中へと入った。

 木々が生えた藪の中は真っ暗だったが懐中電灯の明かりもあり3度目という事もあってか迷う事なく水場へと着いた。

 湧き水が湧いている辺りは木が生えておらず月明かりが差し込んでいる。暗い森の中にぽっかりと明るい空間が浮いているようだ。


「さっさと水汲んで沢蟹探そうぜ」


 明るいとは言っても月明かりだけでは小さな蟹を探すのは無理だ。湧き水が流れる辺りを波瀬が懐中電灯で照らした。

 その時、ガサガサと藪を歩いてくる足音が聞こえた。


「誰か来るよ? 」

「ヤバい、こっちだ」


 波瀬は懐中電灯を消すと山口の腕を引っ張って近くに立つ木の後ろに隠れた。

 暫くして藪を掻き分けて女がやってくるのが見えた。


『綺麗にしないとね、哲也くんに嫌われちゃうわ』


 女がするっと服を脱いだ。

 少し離れた木の後ろで隠れて見ていた波瀬と山口が色めき立つ、どうにかしようと思ったのか波瀬が山口の脇腹を肘で突いた。


「おい、やっちまおうぜ」


 小声で言いながらニタリと厭らしい笑みをする波瀬の横で前を見ていた山口の顔が引き攣っていく、


「ひゃあぁ…… 」


 小さな悲鳴を上げる山口を見て何事かと波瀬が前に向き直った。


「あっ、ああぁ…… 」


 そこに女の姿は無かった。代わりに化け物がいた。ぶよぶよとした白い肉の塊のようなものが湧き水へと入っていく、


『誰だ? 』


 化け物がくるっと振り向いた。目鼻は何処にあるのかわからない、ぶよぶよした肉の塊だが鋭い視線を感じる。


「おおおっ、お化けだ!! 」

「たっ、たたっ、助けてくれぇ~~ 」


 波瀬と山口は一目散に逃げ出した。



 夜10時の見回りで哲也が外を歩いていた。


「怠い……風邪かなぁ…… 」


 ここ数日、身体が重い、疲れているのかと日課にしている散歩も行かずに時間のある限り部屋で休んでいるのだが身体が怠くて仕方がない、かといって腹痛や頭痛などはなく意識はハッキリしている。


「さっさと見回り終らせて溝渕さんの弁当食べて寝よう」


 夕食の後、溝渕から手作りの弁当を貰った。溝渕が作ってくれる夜食が楽しみで怠い身体を引き摺って気力だけで見回りを続けている状態だ。


「今日も溝渕さんと……えへへへっ」


 溝渕と愛し合うエッチな夢は毎晩のように見ていた。最早もはやそれが1日で最大の楽しみとなっている。

 窶れた顔でフラフラと歩いている哲也を見つけて波瀬と山口が駆け寄ってきた。


「てっ、哲也くん…… 」

「哲也くん、助けて! 」


 左右から波瀬と山口が哲也の腕に縋り付いた。


「なっ! 何やってんですか? 夜中に出歩くのはダメでしょ」


 2人にしがみつかれてよろけながら哲也が叱り付けた。


「そっ、そんな事より大変だ。大変なんだ」

「お化けが……肉の塊のお化けが………… 」


 2人の慌て振りに哲也は怒るのも忘れて聞き返す。


「お化け? 何があったんです」

「あの水場に行ったんだ。そしたらお化けが出たんだ」

「女が……女がお化けに変わったんだ。ぶよぶよの肉のお化けに」


 波瀬と山口が先程の出来事を哲也に話して聞かせた。


「夜中にあんな所へ行ったんですか? ダメじゃないですか、約束したでしょ」


 怒りを浮かべて顔を顰める哲也に構わず波瀬と山口が続ける。


「水を汲みに行ったんだ。死んだ沢蟹の代わりも欲しかったし」

「俺は止めたんだよ、でも波瀬さんが…… 」

「そんな事はいいだろ! それよりもお化けだよ、本当に見たんだ。山口も見てるんだから間違いないぞ」

「うん、見たよ、波瀬さんも見たからね、2人で見たんだ間違いないよ」


 2人の様子に只事ではないと思ったが夜に出歩いているのを見つかって誤魔化すために嘘をついているのかも知れないとも考えた。


「何かの見間違いじゃないんですか? 」

「見間違いなんかじゃない、本当に見たんだ」

「2人で見たんだよ、間違いなんかじゃないよ」


 譲らない2人を見て哲也が真剣な表情で口を開いた。


「それじゃあ、確認しに行きましょうか? 」

「行くって……お化けだよ、何されるかわからないよ」


 腰が引けている山口の横で波瀬がジロッと哲也を睨み付けた。


「疑ってるのか? わかった。行ってやるよ」

「疑ってなんかないですよ、波瀬さんが何かを見たのは確かです。嘘をついている顔じゃないのは僕もわかりますよ、でもお化けかどうかは……動物か何かを見間違えたって事もあるでしょ」

「わかった。哲也くんがそこまで言うなら行こうぜ」


 度胸が据わっているのか波瀬が歩き出す。その後を哲也が続く、


「今日の見回りは中止だな、深夜の見回りはしっかりしよう」

「ちょっ……待ってよ、俺も行くから…… 」


 腰の引けた山口も2人の後を追って歩き出した。



 先程まで怠くて歩くのも億劫だった哲也が今は早足でしっかりと歩いている。オカルト好きの哲也が気力を振り絞ったのだ。

 遊歩道の脇の藪を通って柵を抜けてあの水場へと着いた。


「お化けなんて居ないじゃないですか? 」


 哲也が持っていた警棒にも使える懐中電灯で辺りを照らすが何も居ない。

 波瀬が持っている懐中電灯で水が湧いて深くなっている場所を照らした。


「本当に居たんだって、あそこに、水の中に入っていったんだって」

「本当だよ、初めは女だったんだ。服を脱いで水に足を入れた途端にぶよぶよの肉みたいなお化けに代わったんだよ」


 波瀬は見ていないが山口は女が化け物に変わるところを見たらしい。


「そうは言っても足跡も無いよ、僕たちの足跡が付くくらいだから大きな化け物なら痕跡があるはずだよ」


 哲也が水場の周りを照らすが自分たちの足跡以外には小動物が来たと思われる形跡しか無い。


「おっ、溝貝だ。デカいなぁ~~、こんなに大きくなるんだな」


 少し深くなっている場所で前に見た30センチはある溝貝を見つけて哲也が顔を綻ばせる。


「せっかく来たんだから水を汲んで帰ろうか」


 元気な溝貝を見て気分が良くなったのか哲也が優しく2人に声を掛けた。

 波瀬がバッと振り返る。


「蟹は? 死んだ沢蟹の代わりはダメかな」

「今何匹残ってるんですか? 」


 哲也の優しい表情に安心したのか山口が元気にこたえる。


「4匹だよ、前に1匹死んで今日の夕方見たら半分死んでたから残りは4匹だよ」

「じゃあ2匹だけなら捕まえてもいいです。世良さんに許可を貰ったのは7匹ですから1匹死んで6匹になったって事にしときましょう」

「2匹か……わかった。約束破ったのに頼みを利いてくれたからな」


 もっと欲しいと文句を言うかと思ったが波瀬も素直に従った。


「今回だけですからね、次に約束を破ったら本当にテレビを1ヶ月禁止にしますからね、沢蟹を飼うのも中止ですからね」


 注意するのも忘れない、夜間に歩き回って怪我でもしたら大変である。


「わかった。約束する」

「波瀬さんがまた行こうとしたら今度は絶対に止めるよ」


 沢蟹を2匹捕まえてペットボトルに水を汲んで帰りについた。

 お化けの事などすっかり忘れている様子の2人を見て哲也も何かの見間違えだと思った。


 金網で出来た柵の下に空いた窪みを通って遊歩道のある藪へと出て行く、哲也が先頭でその後を沢蟹を持った波瀬が続く、ペットボトルに入った水を持って最後尾を歩く山口が振り返る。


「危ない危ない、あんなのに襲われるんじゃ割に合わないよ、危険手当も付けて貰わないとね、哲也くんを見てるのは面白いけどさ」


 その顔にはいつもの優しい笑みは無い、鋭い目付きで水場のある藪を見つめていた。


「おい、さっさと来いよ、早く戻って沢蟹をケースに入れてやらないとな」

「うん、わかった」


 柵の向こうで呼ぶ波瀬に山口はいつもの笑顔でこたえた。



 深夜3時の見回りで哲也がB病棟へと入っていく、


「やっぱ怠いな……山口さんたちとあんな場所へ行ったから余計に疲れたんだな」


 エレベーターの前で哲也が呟く、普段は階段を使って最上階まで上がるのだがここ3日はエレベーターを使っている。階段を上って最上階まで行く気力は無い、それほど身体が怠かった。


「あぁ怠い……サボってもよかったけど10時の見回り途中で止めたからな、3時の見回りはやらないとな」


 開いたドアからエレベーターに乗り込んだ。本物の警備員ではないのでサボっても叱られる事は無い、だが哲也にも意地がある。警備員だという事になっているから信頼も生まれていると考えていた。


「風邪かと思ったけど違う病気かも知れないな、香織さんに相談するか……でもなぁ、溝渕さんのことを訊かれるのは嫌だし………… 」


 溝渕との事で後ろめたさもあってここ暫く香織を避けていた。早坂や森崎とも会話はしていない、噂話が好きな森崎に溝渕との事を知れたらあっと言う間に院内に広がってしまうだろう、兄のように慕っている嶺弥にさえ内緒にしているのだ。

 そういう訳で誰にも相談できずに風邪薬も貰わずに身体の怠さを我慢していた。


「早坂さんに言って風邪薬でも貰うかな」


 たっぷり寝て休めば治ると思っていた。日課の散歩も止めて用事の無いときは部屋で寝ていたのだが治るどころか疲れが溜まっていくように益々身体は怠くなる。トイレや風呂の鏡で顔を見ると青白く窶れているのが自分でもわかるほどだ。


「変な病気じゃ無きゃいいけど……エッチな夢を見てる所為かもな」


 最上階に着いてエレベーターから出てくる哲也がニヘラと厭らしい顔で笑った。

 溝渕が部屋にやって来て愛し合う夢は毎晩のように見ていた。気持ちの良さに夜寝るのが一番の楽しみとなっている。最早虜だ。


「僕に気があるみたいだし……夢じゃなくて本当に誘ってもイケるかなぁ」


 ニヘラと笑いながら長い廊下を歩いて行く、夜10時の見回りを途中で止めて山口と波瀬に付いて水場に行ったあと、部屋に戻って溝渕の手作り弁当を食べてから仮眠をとった。その為か眠気は無い、歩くのも億劫なくらいに身体は怠かったが頭はスッキリとしている。


「溝渕さんって良いお嫁さんになるよなぁ……料理は旨いし……手作り弁当美味しかったもんなぁ~~ 」


 廊下の端にある階段を下りていく、普段はしっかりと見て回っているのだがここ数日は身体の怠さだけで無く溝渕のこと妄想して碌に見回らずに只歩いているだけだ。


「そういや、沢蟹も放ったらかしだなぁ」


 山口と波瀬が入っている大部屋のある廊下に下りてきた。


「半分死んで、さっき2匹獲ってきて6匹か……まぁいいか、今度あの場所に行ったらテレビ1週間取り上げよう、そろそろ本気で怒らないと利かないからな」


 大部屋のドアを睨んで通り過ぎようとしたとき、叫びが聞こえてきた。


「うはぁあぁ~~ 」

「たっ、助けてぇ…… 」


 聞き覚えのある声に哲也がノックもせずにドアを開けた。


「何を騒いでるんです……か………… 」


 注意しようとした哲也に山口がしがみついてきた。


「おっ、おばっ、お化けが…… 」


 震える声で山口が指差す先、波瀬のベッドの横に化け物が立っていた。


「うひぃ~、くっ、来るな! 向こうへ行け……たっ、助けてくれ………… 」


 大部屋の角にベッドを置いていたので波瀬は逃げる場所が無い、山口は向かいの角にベッドを置いていたのだが波瀬が襲われている内に逃げ出したのだろう、ドアを開けてやって来た哲也に助けを求めてしがみついたのだ。


「あれが…… 」


 灰白色をしたぶよぶよの肉の塊のような化け物を見て哲也が絶句した。


「水溜まりにいたお化けだよ、追い掛けてきたんだよ」


 哲也にしがみつきながら山口が震えた。

 目鼻どころか頭や手足の区別も付かない、ぶよぶよな身体をぬめっと光らせた肉の塊という表現がピッタリな化け物だ。よく見ると黒い甲羅のようなものを背負っている。特徴はそれだけだ。


『お前は私を殺そうとした……潰してミンチにしてやるよ、うふふふふっ』


 何処から発したのか口も無いのに化け物が笑った。


「たっ、助けて…………哲也くん! 助けてくれぇ~~ 」


 ドアの前にいる哲也に気付いて波瀬が助けを求めて手を伸ばす。


『てつや…… 』


 ぶよんっと身体を曲げて化け物が振り返った。

 やはり目も口も無い、只、頭らしき辺りに漏斗ろうとのような筒状の穴が見えた。


「哲也くん助けてくれぇ~~ 」


 波瀬の叫びにこたえるかのように哲也は警棒代わりに使える長い懐中電灯を握り締めて化け物に殴り掛かった。


「この野郎! 向こうへ行け!! 」

『てつや…… 』


 ぶにょんとした肉の塊が殴り掛かった哲也の腕を包み込んだ。柔らかで温かかった。ふっと哲也の鼻を良い匂いが擽る。


「溝渕さん? 」

『うふふふふっ』


 肉の塊の化け物が窓の外へと跳んでいく、窓は閉まっている。外側には鉄で出来た格子も付いている。それなのに化け物は通り抜けるように難無く消えていった。


「なんで? 」


 溝渕の名前が何で出たのか不思議に思っている哲也の腕を波瀬が握り締めた。


「助かったよ哲也くん、流石だな哲也くん」


 安堵を浮かべた波瀬が何度も礼を言う、ドアの傍に居た山口もやって来た。


「おっ、女が部屋に入ってきてお化けに変わったんだ」

「女? 」


 腕を握り締めながら話す波瀬を見て哲也が顔を曇らせる。

 哲也の横に並んで山口が口を開いた。


「哲也くんと話ししてた女だよ、食堂に居る女がお化けに……あの女がお化けなんだよ」

「溝渕さんが? 」


 化け物から漂ってきた匂いが溝渕と同じだったと思いながらも哲也は軽く首を振った。


「何言ってんですか? そんな事あるわけ無いでしょ」


 否定する哲也の前で波瀬が真剣な表情で続ける。


「でも確かに見たぞ、女がお化けになったんだ」

「波瀬さんの言う通りだよ、女が部屋に入ってきて波瀬さんのベッドの横で服を脱いだんだ。何をするのかと見てたらぶよっとしたお化けに変わったんだよ」


 波瀬はともかく山口が嘘をつくとは思えない、哲也は思案するように大部屋を見回した。


「あの食堂の女はお化けだ。話なんかしたらダメだぞ哲也くん」

「そうだよ、哲也くんも襲われるよ」


 心配そうに言う2人と一緒の部屋の高槻が哲也の目に映る。


「僕は疲れが溜まってて此処のところ身体が怠いんですよね」


 哲也の顔を見て波瀬と山口が頷いた。


「うん、そういや哲也くん顔色悪いな、病気か? 」

「昨日食堂で見掛けたけど疲れてるみたいだったから声を掛けるのを止めたんだよ」


 月明かりだけの薄暗い部屋の中でも哲也の顔色が悪いのがわかるほどだ。


「風邪引いたみたいで調子悪いんだよね、それで幻覚を見たんだよ」

「幻覚? 」


 顔を顰める波瀬の前で哲也が続ける。


「見間違いだよ、波瀬さんと山口さんは寝惚けてた。僕は風邪で疲れてぼうっとしてた。それで化け物の幻覚を見たんだ。集団幻覚だよ」

「何言ってんだ? さっきのが幻覚だって言うのかよ」


 口を尖らせる波瀬の前で哲也がドアのある壁の横のベッドを指差す。


「高槻さんが寝てるでしょ? 騒ぎなんて無かった。お化けなんて居なかった。だから起きずに寝てるんだよ」


 あれ程の騒ぎがあったにも関わらず一緒に大部屋を使っているもう1人の患者である高槻はベッドで熟睡していた。

 山口が考えるようにして話し出す。


「そう言われれば自信無くなるなぁ、寝てたのに女が部屋に入ってくるのがわかったし……あの時は寝てて夢だったような気がするし……起きて夢の続きを幻覚で見たのかも知れないね」

「何言ってんだ山口」


 不服そうな波瀬の前で哲也がまあまあと言うように手を振った。


「波瀬さん、そう怒らないで、化け物が居たとしても大丈夫ですよ、殴ったら逃げたでしょ? もしまた現われたら殴ってやればいいですよ」

「 ……わかった。哲也くんがそう言うならな」


 不服を浮かべながらも波瀬が引いてくれた。


「じゃあ、僕は見回りがあるから」


 哲也は大部屋を出て見回りを再開した。


「溝渕さんか……まさかね」


 有り得ないというように首を振ると長い廊下を歩いて行った。



 深夜の見回りを終えた哲也が部屋に戻ってベッドに横になる。


「疲れたぁ~~ 」


 身体の怠さもあって直ぐに眠気が襲ってきた。


『哲也くん、ねぇ哲也くん』


 眠りに落ちたか、落ちる寸前、ドアがすっと開いて溝渕が入って来る。


「溝渕さん! 」


 ベッドの横に立つ溝渕に哲也が抱き付いた。


『うふふっ、待っててくれたのね、さぁ愛し合いましょう』


 服を脱ごうとする溝渕を待ちきれないといった様子で哲也はベッドに押し倒した。


『そうよ、好きにしていいのよ、私は哲也くんのものだから…… 』

「溝渕さん、僕も好きだよ」


 哲也は夢中で溝渕を抱いた。

 行為が終って溝渕がベッドを出る。


『うふふっ、もう直ぐよ哲也くん……哲也くんは私のものよ』


 ベッドで眠っている哲也を見て溝渕がニタリと笑った。

 いつもなら気を失ったように眠っている哲也だがその日は意識があった。


『もう直ぐ私だけのものになる。私の力となる。うふふふふっ』


 ニタリと厭な顔で笑いながら部屋を出て行く溝渕を見ながら哲也は意識が遠くなっていった。



 翌日、夕食を終えた哲也を溝渕が配食カウンターの奥へと呼んだ。


「はい、今日はおにぎりだよ、哲也くんの好きなタラコと鮭、それと唐揚げも入れといたからね」

「いつもありがとう、溝渕さんのおにぎりは美味しいから嬉しいよ」


 溝渕から紙袋に入った夜食を手渡されて哲也が照れながら礼を言った。


「うふふふっ、夜の見回り大変だからね、私が出来るのはこれくらいだから遠慮なんていらないわよ」


 溝渕が哲也に抱き付いた。


「哲也くんの為なら何でもしてあげるわよ、好きよ哲也くん」

「みっ、溝渕さん…… 」


 驚く哲也の口を塞ぐように溝渕が唇を重ねた。

 気持ち良くて哲也の全身から力が抜けていく、すっと離れると呆けたような哲也を見て溝渕がにんまりと微笑んだ。


「私は哲也くんのものよ」


 聞き覚えのある言葉に哲也がハッと思い出したように自然と話し出す。


「溝渕さんがお化けだって言ってる患者が居てね…… 」


 山口と波瀬があの水場で化け物を見た話しや大部屋で襲われた話しを聞かせると溝渕が楽しげに笑い出した。


「あはははっ、変な話し、お化けなんて居るわけないでしょ」

「そうだよね、あの2人はいつも変な事を言い出すから…… 」


 大笑いしながら否定する溝渕の前で哲也も笑い飛ばした。


「じゃあ、私は仕事があるから」

「夜食、いつもありがとうね」


 奥に引っ込む溝渕に礼を言うと哲也も食堂を出て行った。



 その日の夜、10時の見回りに行こうと哲也がA病棟を出る。


「怠い……まだみんな起きてるなぁ」


 外からA病棟を見上げると患者の入っている殆どの部屋からぼうっとしたテレビの光が漏れていた。身体が怠くて歩くのも遅くなっていたので普段よりも20分ほど早く出たのだ。


「早く終らせて溝渕さんのおにぎり食べて寝よう」


 怠い身体を引き摺って歩いていると遠くに見える遊歩道を歩く人影が見えた。


「誰だ? 」


 山口か波瀬がまた抜け出したのかと思って哲也が近付いていく、


「溝渕さんだ…… 」


 有り得ない、食堂で勤めている人は掃除や器具の洗浄で手間取って遅く残っていても午後の9時までだ。


「何で? 何処へ行くんだ? 」


 不思議に思いながら哲也は後を追った。何かの用事で今まで残っていたとしても帰るなら方向が違う、表門や裏門に当たる西門とは全く違う方向へ歩いている。

 溝渕は遊歩道から外れて金網で出来た柵の方へと向かって行く、


「こんな時間に何をするんだ? 」


 険しく顔を顰める哲也の見つめる先で溝渕がすっと金網を通り抜けていった。


「なっ、なん!? 」


 驚きに哲也が駆け出した。


「穴なんて無いぞ」


 溝渕が入っていった金網を調べるが何処にも通り抜けられるような穴など無かった。


「何が……溝渕さん…………もしかして…… 」


 哲也は慌てて傾斜地へと向かう、地面が窪んでいて金網の下を通り抜ける事が出来るのだ。山口と波瀬と一緒に通り抜けた場所である。


 警棒としても使える長い懐中電灯で藪を掻き分けながらあの水場へと向かった。


「ふぅぅ…… 」


 藪の影からそっと覗くと溝渕が居た。


『うふふふっ、もう直ぐよ、もう直ぐ私のものになる。私の力となる。哲也くん』


 楽しげに歌うように言いながら服を脱いでいく、


『私のものよ、哲也くんの精を吸ってまた百年生きられる』


 裸になった溝渕が湧き水に足を浸した。次の瞬間、その身体が膨らんでぶよっとした肉の塊のような化け物に変わった。


「ふぅぅぅ…… 」


 驚きに哲也は手で自分の口を押さえた。


『うふふふふふっ、もう直ぐ力が手に入る。哲也くんは私のものよ』


 楽しげに笑いながら化け物が水の中へと消えていく、有り得ない、沢にもならない湧き水だ。深い所でも精々60センチ程しかないのは昼間に見て知っている。


「みっ、溝渕さんが………… 」


 声を出さずに呟くと哲也は慌てて逃げ出した。



 見回りもせずに哲也は部屋へと逃げ帰った。

 ベッド脇のテーブル横の折り畳み椅子に座って先程の出来事を思い出す。


「溝渕さんが化け物に……山口さんや波瀬さんが言ってた事は本当だったんだ」


 呟きながらテレビを点ける。静寂が怖かった。テレビから聞き慣れたCMの音が流れてくる。


「溝渕さんは化け物だったのか? 」


 明るいトークが流れるテレビの音を聞きながら考える。自分の見たものが信じられない、昼間会った溝渕からは怪しい気配など感じなかった。


「違う! 溝渕さんが化け物のはず無いだろ……普通に働いてお菓子や夜食まで作ってくれるんだぞ」


 食堂で働く調理師さんや給仕のおばちゃんたちとも普通に会話していた溝渕を思い出す。


「溝渕さんが化け物じゃなくて化け物が溝渕さんに化けているんだ」


 昼間会っている溝渕が化け物では無く、溝渕に化けた化け物が別にいるのだと哲也は考えた。好意を示してくれる溝渕を悪く思いたくないという気持ちも大いにある。


「他に化け物がいるとして僕が見てる夢は? 」


 同時に不安がよぎった。


「毎晩夢に出てくる溝渕さんは本物なのか? あれが化け物の仕業だったら…… 」


 淫夢を毎晩見るなど異常だ。今ままでは快楽に流されて考えもしなかった。寧ろ毎晩見る淫夢を楽しみにしていた。化け物の姿を見て哲也はやっと冷静になった。


「眞部さんに相談しよう……僕に何か憑いてるって言ってた…………謝らないとな」


 テーブルの上に置いてある目覚まし時計を深夜3時前にセットして哲也はベッドに寝転がった。


「3時の見回りはしっかりしないとな……怠いのも化け物の仕業かもな」


 横向きに寝ながら目覚まし時計の横に置いてある紙袋を見つめる。


「 ……夜食は後でいいや」


 紙袋には夕食時に溝渕が手渡してくれた夜食のおにぎりと唐揚げが入っている。おにぎりの具は哲也の好きなタラコと鮭だ。唐揚げも大好きである。良い具合にお腹も減っている。だが何故か食欲は湧かなかった。


「違うよな……溝渕さんは違うよな」


 声に出して話したのか頭の中で呟いただけか、哲也は眠りに落ちていた。



 目覚まし時計に起されて哲也が目を覚ます。


「んあぁ……3時か」


 怠い身体を腕で支えるようにして起き上がる。


「見回りしないと……飯はいいや」


 目覚まし時計を止めながら横に置いてある夜食の入った紙袋を見た。

 全身が怠くて腹は減っているが食欲が湧いてこない、作ってくれた溝渕に悪いと思いながらも哲也はそのまま深夜の見回りへと出て行った。



 どうにか見回りを終えて哲也が部屋へと帰ってきた。


「もうダメだ。怠過ぎる。明日香織さんに診てもらおう」


 普段なら着替えるのだが身体が怠くて服を脱ぐのも面倒だ。哲也は着替えもせずにベッドに転がった。


「ダメだ……寝たら夢を見る。今日は起きてるんだ………… 」


 淫夢に出てくる溝渕は化け物かも知れない、眠るまいとする意識に反して哲也は眠りに落ちていった。



 どれくらい眠っただろうか、パタパタパタとリノリウムの廊下をあるく足音が聞こえてきた。


「うぅ…… 」


 足音を不快に感じたのか哲也が寝返りを打つ、あれだけ眠るまいとしていた気持ちなど既に掻き消えていた。


『哲也くん、ねぇ、哲也くん』


 身体を揺すぶられて哲也が目を覚ました。


「んあっ? 溝渕さん? 」


 ベッドの脇に立っていた溝渕がするっと服を脱いだ。


『うふふふっ、好きよ哲也くん、愛し合いましょう』


 裸になった溝渕がベッドに潜り込んでくる。


「溝渕さん…… 」


 夢か現か、ぼんやりとしている哲也の上に溝渕が覆い被さるように乗ってきた。


『愛し合いましょう、好きにしていいのよ、私は哲也くんのものだから…… 』


 溝渕が重ねてきた唇に哲也が吸い付いた。


『うふふふふっ、私は哲也くんのもの、哲也くんは私のものよ』


 キスを終えて妖艶に微笑む溝渕の言葉が哲也の脳裏を駆け巡る。


「私のもの…… 」


 哲也の頭の中で化け物が言っていた言葉と溝渕が言った言葉が重なった。


「やっ、止めてくれ! 」


 上に乗る溝渕を押し退けて哲也が上半身を起した。


『なっ……どうしたの哲也くん? 』


 哲也の目の前で露わな胸を隠しもしないで溝渕が顔を顰めた。


「止めてくれ、今日はそんな気分じゃ無い」


 険しい顔で断る哲也を見て溝渕が笑みを作って続ける。


『何を言っているの? 私の事が嫌いなの? 嫌いになったの? 』


 目の前に居る溝渕はどう見ても普通の人間だ。化け物とは思えない。

 美人で肉感的な溝渕が裸でいるのだ。抱き締めたい気持ちを抑えて哲也が断る。


「溝渕さんを嫌いなわけないけど……今日は疲れてるから………… 」

『うふふふっ、疲れなんて癒やしてあげるわよ、ねぇ愛し合いましょう』


 抱き付いてくる溝渕を哲也が押し退ける。


「ごめん……今日は本当にごめん」


 押し返された溝渕がベッド脇のテーブルを見た。


『食べなかったのね……それで目を覚ましたんだ』

「食べなかった? 」


 哲也がサッとテーブルを見た。目覚まし時計の横に溝渕が作ってくれたおにぎりの入った紙袋がそのまま置いてある。


『うふふふふっ、今日は帰るわ、でも哲也くんはもう私のものよ』


 食べなかったとはどういう事かと戸惑っている哲也に抱き付くと溝渕がキスをしてきた。

 抵抗する事も出来ずに哲也の意識が遠くなっていく、


『今更気付いても遅いわよ、哲也くんは私のものよ、私の糧となるのよ』


 ニタリと不気味に笑いながら溝渕は部屋を出て行った。



 昼前に哲也が目を覚ます。


「寝坊した……また朝食抜きだ」


 怠さのためか此処数日は寝坊して朝食を食べていない、だが溝渕に貰った夜食を食べていた為か腹は減らなかった。


「昼まで1時間半あるなぁ……腹減ったなぁ」


 テーブルの上にある紙袋が目に付いた。昨晩食べていない夜食のおにぎりが入っている。


「眞部さんに見てもらおう」


 服を着替えると紙袋を引っ掴んで哲也は部屋を出た。


「怠い……腹減ってるから余計に怠いなぁ」


 重い体を引き摺って本館へと歩いて行く、


「昼まで我慢できなかったら嶺弥さんにカップ麺貰おう」


 D病棟の向かいにある警備員控え室をちらっと見ながら哲也は本館へと入っていった。


「あっ、どうやって呼んでもらおう」


 眞部に会う口実を考えていなかった。


「おや? 哲也くんじゃないか、何か用かい? 」


 弱っていた哲也に職員が話し掛けてきた。草刈りの下見で院内を見回っていたときの職員だ。書類の束を持っている。他の病棟から戻ってきたといった様子だ。


「すみません、眞部さんを呼んできてもらえませんか? 」


 渡りに船と哲也が頼むと職員が優しい顔で聞き返してきた。


「眞部部長に何の用だい? 私でよければ言ってごらん」


 気を利かせてくれる職員に哲也が頭を下げた。


「ありがとうございます。でも眞部さんに直接話があるんです。お願いします」

「わかった。それより哲也くん顔色悪いよ、大丈夫かい? 」

「大丈夫です……それもあって眞部さんに相談したいんです。お願いします呼んできてもらえませんか? 」

「此処で待っていなさい」


 哲也の窶れた青い顔を見て只事ではないと思ってくれたのか職員は眞部を呼びに行ってくれた。



 怠そうに壁に寄り掛かっていた哲也が姿勢を正す。長い廊下の奥から眞部が歩いてくるのが見えた。


「そろそろ来る頃だと思っていたよ」


 険しい表情の眞部が開口一番に言う前で哲也がバッと頭を下げる。


「すみません、この前の事は謝ります。せっかく注意してくれたのに……本当にごめんなさい」


 深く頭を下げたままで哲也が続ける。


「何かが憑いているって心配してくれた眞部さんに怒鳴るなんてどうかしてたんです。本当にごめんなさい」


 険しい表情から一転して眞部が微笑みながら哲也の肩に手を掛ける。


「わかってくれればいいよ、それで何があったんだい? 」


 肩を持って頭を上げさせながら眞部が優しい声で訊いた。


「化け物が……肉の塊のような化け物を見たんです」


 哲也は今までの経緯を全て話した。山口と波瀬が水を汲みに行って化け物を見てその後に襲われた事はもちろん、哲也も水場で溝渕が化け物に変わるのを見た事や毎晩見る淫夢の事も隠さずに全て話した。もっとも溝渕を抱いたのは夢だと思っているから話せたのだ。現実に抱いたのなら叱られるだけでは済まないので話さなかっただろう。


「もう隠している事はないね? 」


 話し終えた哲也の顔を窺うように眞部が訊いた。


「はい、全部話しました。それとこれを」


 哲也は溝渕が作ってくれた手作りのおにぎりが入った紙袋を差し出した。


「溝渕さんが作ってくれたおにぎりです。夢の中で食べなかったとか言ってたから気になって持ってきました」


 受け取った眞部の顔が険しく変わる。


「悪気を感じるね」


 呟くと眞部は口の中で何やら呪文のようなものを唱えた。


「哲也くんを誘引して淫楽に落とすか……比較的力の弱い物の怪が使う手段だね」


 相手の見当でもついたのか眞部が哲也を見つめながら続ける、


「その水場で何か変わったものを見なかったかい? 」

「変わったものですか? 」


 考え込む哲也に眞部が具体的に喩えを出して再度訊いた。


「見た事もないような生き物や何十年と経つ大木や祠や石仏、岩でもいい何か感じるものは無かったかい? 」

「注意して見たわけじゃないけど大きな木や祠とかは無かったです」


 思い出すようにして話す哲也の脳裏に溝貝が浮んだ。


「溝貝がありましたよ、30センチくらいの大きな溝貝、僕は詳しくは知らないんですけど普通は大きくなっても20センチくらいだと思います。あれだけ大きくなるには何十年と掛かると思います」

「溝貝なら私も知っているよ、実家の近くの沼に沢山居るからねぇ、30センチもある大きなものは見た事がないけどねぇ」

「じゃあ、あの溝貝が? 」


 眞部の口元が愉しげに歪むのを見て哲也が思わず訊いていた。


「変化か精か、妖怪と言うところだろうね」

「あの溝貝が溝渕さんに化けてたのか……僕が気があるのを知って溝渕さんに化けたんですね? 」


 顔を顰める哲也の前で眞部がとぼけるように話し出す。


「どうだろうねぇ、器物百年を経て化して精霊を得て人の心を誑かすという付喪神つくもがみ、雀海中に入て蛤となり、田鼠化して鶉となる。ならば栄螺が鬼となっても不思議ではないという栄螺鬼さざえおに、年を経ると色々化けるものさ」

「溝貝が妖怪だとして何で僕を襲うんですか……襲うにしても何であんな事をするんです? 山口さんや波瀬さんは直接襲おうとしたんですよ」


 首を傾げるように訊く哲也に眞部が楽しそうな顔で続ける。


「蛤女房という妖怪の話しを知っているかい? 」

「蛤女房? 何ですそれ」


 哲也に訊かれて眞部が話を聞かせてくれた。


 ある漁師が海で大きな蛤を捕まえる。何十年と生きたであろう大蛤だ。ここまで生き延びるのは大変だったろうと漁師は大蛤を逃がしてやった。

 暫くして漁師の元へ女が訪ねてくる。この辺りの村では見ない稀に見る美人だ。行く所が無いと言う女を漁師は喜んで家へと迎え入れた。綺麗なだけで無く甲斐甲斐しく働く女を気に入った漁師は直ぐに妻にした。

 女は家事全般を難無くこなすが特に料理が旨かった。だが一つだけ不思議な事があった。料理を作っている姿を見られるのを嫌ったという、女が調理をするのは決まって漁師の居ない時だけだ。

 こんなに旨い料理をどうやって作るのかと気になった漁師はある日、漁に行くと言って家を出ると海へは行かずにそっと引き返して家に戻った。

 料理をしている妻を覗くと煮物の中へ自分の尿を入れていた。鍋の上に跨って尿を入れている妻を見て怒った漁師はその場で家から叩き出すと妻はあの時助けて貰った蛤だと言って海へと消えていった。


 話しを聞いた哲也が嫌そうに顔を顰めて口を開く、


「鶴の恩返しの海バーションですよね、美味しくても食べたくないですけど…… 」


 言葉の途中で思い付いたのかハッとした様子でおにぎりの入っている紙袋を見つめた。


「まさか…… 」


 哲也の焦り顔を見て眞部が笑い出す。


「あははははっ、尿は入っていないよ、妖術か何か気のようなものは入っているけどね」

「そっ、そうですか……良かったぁ~~ 」


 安堵する哲也の向かいで眞部の顔から笑みが消えた。


「淫乱になる気が入っている。淫行を通して哲也くんから精気を吸い取っていたんだよ、窶れていたから気にしていたんだが…… 」

「注意してくれた眞部さんを僕が怒鳴りつけたんですね、ごめんなさい」


 しおらしく謝る哲也の肩を眞部がポンッと叩いた。


「驚いたよ、哲也くんに怒鳴られるなんて思っていなかったからね、かと言って放って置いた私にも責任がある。私も謝るよ、ごめんね哲也くん」

「そっ、そんな、僕が全部悪いんです。眞部さんは悪くないです」


 大慌てで違うと手を振る哲也を見て眞部が優しい顔で微笑んだ。


「じゃあ、お互い相子で収めよう、それより化け物をどうにかしないとね」


 眞部が哲也を正面から見据えた。


「私の見たところ、あと3日もすれば魂まで吸い取られるよ」

「まっ、マジっすか…… 」


 驚きに声を震わせながら哲也が続ける。


「あの化け物は夢で淫行をして精気を吸っていたんですね、だから疲れてたのか……風邪じゃなかったんだ」

「夢か……哲也くんは夢と思っているんだね」


 顔を曇らせる眞部の前で哲也が思わず大きな声を出す。


「まさか! 夢じゃないって言うんですか? 」


 眞部が静にと言うように唇に右手の人差し指を当てた。


「牡丹灯籠の話しは哲也くんも知っているだろう」

「はい、知ってます。恋仲になった女が幽霊で毎晩カランコロンと下駄を鳴らして男の元へと逢い引きに来る話しでしょ、男には美女に見えるけど他の人には骸骨に見えて幽霊だとバレる。心配した親族がお坊さんに御札を貰って男を部屋に籠もらせる。女の幽霊は毎晩のように現われて恋しいと男の名を呼ぶ、期日まで籠もっていれば取り殺されずに済むので男は必死に我慢した。期日が過ぎて朝が来る。女がもう会えないと、諦めるので最後に顔が見たいと悲しげに呼びかける。期日が過ぎたのだから安全だと男は御札を破って外に出るとまだ夜だった。女の幽霊が朝に見せかけて男を騙してたんです。本当の朝になって家人か駆け付けると男は死んでいたって話しでしょ」


 哲也の話しを聞いて眞部が頷く、


「よく知っているね、牡丹灯籠は男が恋しくて女幽霊が一緒になりたくて連れて行った話しだ。蛤女房は漁師に恩返しがしたくて化けて出た話しだ。今回の溝貝もそれに近いんじゃないかな」

「近いって溝貝が恩返しに出てきたって言うんですか? 溝貝が僕に惚れてるって言うんですか」


 嫌そうに顔を顰める哲也の前で眞部が楽しげに続ける。


「話しに聞けば沢蟹の餌にしようとした溝貝を哲也くんが助けたんだろ? その恩返しをしたくて現われたんじゃないかな、だけど哲也くんが霊力を持っているのに気付いて精気を吸い取ろうとした」

「恩返しになってないですから、殺されそうですから……本物の溝渕さんならともかく貝の化け物はちょっと………… 」

「本物? 溝渕さんが」


 顔を顰める眞部の前で哲也が言葉を失う、


「まさか…… 」

「調べてみたんだがね、溝渕なんて人は雇っていないよ」


 総務の部長である眞部が言う事に間違いは無い、だがわかっていても哲也は信じたくはなかった。


「 ……でも食堂に、他の人たちとも楽しそうに話をしてましたよ」

「何か、術のようなものを使っているのだろうね、哲也くんに夢と勘違いさせて淫行をさせるくらいだよ、人を騙すなど容易いはずだ」

「そっ、そんな……溝渕さんそのものが化け物なんて………… 」


 弱り顔の哲也を見て眞部が意地悪顔で口を開いた。


「本気で好きになったのかも知れないよ、食べたいくらいに好きって言うだろ、人と違って化け物の考える事だからね」


 意地の悪い笑みを湛えながら眞部が繁々と哲也の顔を見つめた。


「死相が浮んでるよ、哲也くんもあと3日の命かな」


 哲也が顔を引き攣らせて眞部に縋り付いた。


「みっ、3日って……恩返しだけなら化け物でも何でも我慢しますけど殺されるのは嫌ですから……幾ら気持ち良くてもまだ死にたくありませんから助けてください」

「仕方ないな、哲也くんに頼まれると断れないな、じゃあ化け物退治でもするとしよう」

「ありがとう眞部さん、僕に出来る事があれば何でもするので言ってください」


 哲也に泣き付かれて眞部が化け物退治を引き受けた。



 昼になり哲也は昼食をとりに食堂へ行った。配食で並んでいると溝渕が話し掛けてくる。哲也は平静を装ってそれにこたえた。


「化け物なんて信じられない……美人だし、僕の事を好きだって言ってくれるし」


 昼食を終えた哲也が食堂から出てくる。

 正直言って未練たらたらだ。精気を吸い取って殺そうとしないで人の姿のままで居てくれるのなら正体は化け物でも良いとさえ思えるくらいに溝渕は好みのタイプだ。



 何も手に付かないまま夕方になる。見回りを終えた哲也が食堂へと行くと溝渕が待っていた。


「今日は哲也くんの好きなカレーだよ」


 哲也がトレーを取って並ぶ前に用意したのを差し出してくれた。


「あぁ……ありがとう」


 正体を知っている哲也がぎこちない返事を返した。


「どうしたの? 元気ないわよ」


 哲也の額に溝渕が自分の額を付けた。


「おわっ! 」

「熱はないわね、しっかり食べて元気になってね」


 身体を反らせて驚く哲也を見て溝渕が笑いながら紙袋を差し出す。


「お夜食のお弁当を作ったわ、残しちゃダメよ」

「あっ、ありがとう…… 」


 ぎこちない笑みを作る哲也の頬にキスをすると溝渕は奥へと引っ込んだ。

 テーブルに着いて流し込むようにカレーを食べると哲也は食堂を出て行った。



 深夜、3時の見回りを終えた哲也が部屋に戻る。


「空の弁当箱を見えるように置くのを忘れちゃダメだよ」


 哲也の後ろから眞部も部屋に入ってきた。


「はい、勿体無いけど中身は捨てましたから」


 言われた通りに空の弁当箱をテーブルの上に置くと哲也はベッドに寝転がる。


「じゃあ、話しは終わりだ」


 無言で頷く哲也を見て眞部は部屋の隅へと向かうと小さな声で呪文のようなものを唱えた。


「ああぁ…… 」


 哲也の口から思わず声が漏れた。部屋の隅にいるはずの眞部の姿が見えない、呪文と共に姿が消えたのだ。


「凄いな」


 呟くと哲也は目を閉じて眠った振りをした。ここ数日、身体が怠くて横になった途端に眠気が襲ってきていたのだが今日は眠くならない、眞部が何かしてくれたのだと哲也は思った。



 暫くしてパタパタパタとリノリウムの廊下をあるく足音が聞こえてきた。

 足音が部屋の前で止まる。ドアの開く気配を感じて哲也はベッドの上で身を固くした。


『今日は食べてくれたのね』


 部屋に入って来た溝渕がベッド脇のテーブルを見て嬉しそうに笑った。


『これでたっぷり愛し合えるわ、哲也くん、ねぇ、哲也くん』


 横向きになって寝た振りをしている哲也の身体を溝渕が揺すった。


「うぅぅ……溝渕さん? 」


 眠そうに目を擦る哲也の前で溝渕がするっと服を脱いだ。


『うふふふっ、好きよ、愛し合いましょう』


 溝渕が抱き付こうとした時、哲也が身を捻ってベッドから落ちるようにして逃げた。


「姿を現わせ! 」


 眞部の声と共に呪術札が飛んできて溝渕の背に貼り付いた。


『 っぎ、ギギャギャギャ~~ 』


 悲鳴を上げる溝渕の姿が変わっていく、灰白色をしたぶよぶよの肉の塊のような化け物になっていた。


「みっ、溝渕さん…… 」


 まだ信じられないのか絶句する哲也の手を眞部が引っ張った。


「哲也くんこっちだ。私の後ろに居ろ! 」


 普段の優しい声ではなく命じるような厳しい声に哲也は無言で従った。


『なっ、何で……貴様は何者だ! 』


 ぐにょんと身体を曲げて化け物が眞部を睨んだ。口も無いのに話し、目も無いのに鋭い視線を感じる。


「人を喰らう化け物に貴様呼ばわりされる謂れはない」


 懐から短剣を取り出すと眞部が化け物を切り付けた。


『ひぎぃ……ビギャギャァァ~~ 』


 化け物がベッドの向こうの窓へと跳んだ。


「逃げられんぞ、結界を張ってある。貴様如き低級妖物に破れるものか」


 窓へ貼り付く化け物を眞部が何度も切り付けた。


『ひぎぎぃ……フギャギャギャァァ~~、たっ、助けて……助けてくれ、もうしない、哲也くんは諦める。助けてくれぇ…… 』

「人を喰らう化け物をこのまま野に放つわけにはいかん」


 許しを請う化け物に眞部は容赦なく切り付ける。


「溝渕さん…… 」


 化け物を切り付ける眞部の腕を哲也が掴んで止めた。


「眞部さん、僕からも頼みます。もう許してやってください」

「情けを掛けるな! 化け物に人の情などわかりはしないぞ」


 眞部に険しい表情で睨み付けられても哲也は引かない。


「お願いします。許してあげてください」


 哲也が視線を化け物へと向ける。


「溝渕さんはあの溝貝だよね」

『哲也くん……知っていたのね』


 ぶよぶよの肉の塊といった化け物が溝渕の声でこたえた。

 頷いてから哲也が続ける。


「うん、山口さんたちが見たって聞いたときから何となく……それでも信じたくなかった。溝渕さん美人で僕の好きなタイプだったし、優しかったし…………あんなに大きな溝貝なんて初めて見たよ、あれほど大きくなるには何十年も掛かったはずだよね、これだけすれば二度と僕を襲おうなんて思わないよね」


 哲也の優しい声に化け物が項垂れた。


『初めは助けて貰った恩を返そうと思った。だけど……哲也くんは他の人間と違った。力を感じた。私のものに出来ればもっと強くなれると思った。哲也くんの力を貰えればもっと長生きできると…………それで襲ってしまった。恩人であることを忘れて………… 』


 話しを聞いていた眞部が化け物の背に貼り付いている呪術札をすっと剥がした。

 ぶよぶよの肉が縮むようにして化け物の姿が変わっていく、


『それなのに哲也くんは今も私を助けてくれるという…………私はとんでもない事をしてしまった。謝っても謝りきれない……本当にごめんなさい』


 人の姿になった溝渕が深く頭を下げた。


「恩返しは嬉しいけど僕はまだまだ生きたいからさ」


 裸の溝渕を前にして哲也は声の掛け方がわからない。

 哲也を庇うように眞部が前に出る。


「哲也くんに免じて許してやる。だがまた哲也くんを狙うというなら何処までも追い掛けて滅するぞ」

『二度と致しません、約束します』


 怯えを浮かべた顔で眞部にこたえると溝渕が哲也を見つめる。


『二度も助けられた。この恩は決して忘れない、哲也くんの事は本当に好きよ、ありがとう、また……いいえ、もう会う事は無いでしょう、ありがとう』

「溝渕さん…… 」


 寂しそうに微笑むと溝渕は窓を通り抜けて消えていった。



 溝渕が通り抜けた窓を見ていた哲也が横にいる眞部に体ごと向き直った。


「眞部さん、ありがとうございます。僕だけじゃなくて溝渕さんも助けてくれて」


 礼を言う哲也を眞部が鋭い眼で見つめる。


「人の精気を吸う化け物だ。牡丹灯籠のように何処かで人を殺めるかも知れん、それを逃がしたのだと言う事だけは覚えておいてくれ」

「あっ……ごめんなさい」


 哲也の顔に不安が浮んだ。そこまで深く考えていなかった。自分に好意を持ってくれている溝渕に同情しただけだ。


「でも……だったらどうしたら良かったんですか? 」


 反省を浮かべる哲也の隣で眞部が表情を緩めた。


「どうにも出来ないよねぇ、私は只の事務員で哲也くんは患者だ。今回はたまたま旨く化け物を払う事が出来ただけ……そう思えばいい」

「僕はともかく眞部さんは…… 」


 何か言おうとした哲也の口に眞部が手の平を当てて止めた。


「只の事務員だよ、たまたま陰陽道の家に生まれて少し術が使えるだけだよ」


 楽しげに笑いながら言うと眞部がくるっと背を向けた。


「あの化け物が他で悪さをするなら本職の退魔師や霊能者が何とかするだろ、私や哲也くんはそこまで責任を持たなくてもいい、じゃあ、おやすみ」


 背を向けたまま軽く手を振ると眞部は部屋を出て行った。

 哲也がベッドに寝転がる。


「身体の怠さが無くなってる……貝の化け物か……溝渕さん」


 あれほど怠かった身体が軽い、逆に頭が朦朧もうろうとしてきた。張り詰めていた緊張が解けた所為だろう、色々考えながら哲也は眠りに落ちていった。



 金網で出来た柵で区切られた藪の向こう、あの水場に香織と池田先生がいた。


「こんなところに物の怪が居たなんてね、灯台下暗しだね」


 池田先生の見つめる先、湧き水が吹き出して出来た水溜まりの一番深い所に大きな溝貝が居た。


「ラボへ持って行きますか? 」


 香織が片手を振るとたも網が現われた。たも網とは虫や魚などを捕る柄の付いた小さな網の事だ。


「そうだね、せっかく助けてやった哲也くんには悪いが実験には丁度いいレベルだよ」

「わかりました。直ぐに…… 」


 溝貝を掬おうと香織が網を入れたその時、水が盛り上がってぶよぶよとした肉の塊のような化け物が姿を現わした。


『なんだ貴様らは! 喰らってやろうか』


 凄む化け物を前に香織も池田先生も眉一つ動かさない。


「掬う手間が省けたね」

「はい先生」


 持っていた網を捨てると香織が化け物に片手を向ける。


「涼しくしてあげるわ」


 香織の手から白い煙のようなものが化け物へと吹き出す。


『ぎげぇ……ヒゲギギィ………… 』


 肉の塊のような化け物が白く凍り付いた。


「相変わらず見事だねえ」


 言いながら池田先生がドアをノックするように凍った化け物を叩くとガラガラと粉々に崩れていった。

 氷の欠片と共に大きな溝貝が香織の足下へ転がってくる。


「直ぐに行きますか? 」


 溝貝を拾う香織に池田先生がにこやかに頷く、


「そうだねぇ、ラボの連中に話もあるからねぇ」

「わかりました」


 池田先生と溝貝を片手に持った香織がすっと姿を消した。



 翌日の昼、哲也が昼食を食べていると山口と波瀬がやって来た。


「哲也くん、あのさぁ…… 」


 言い辛そうな波瀬が山口を肘で突っついた。


「沢蟹を逃がしたいんだけど……付いてきて欲しいんだよ」


 波瀬に命じられたのだろう山口が申し訳なさそうに言った。


「えっ!? 逃がすんですか? 」


 獲りに行くならともかく逃がすなど思ってもみなかった哲也は二度訊いた。


「何で逃がすんですか? 」

「もう1匹だけなんだよ、みんな死んじゃってね、最後の1匹だから、それで…… 」

「直ぐに死ぬし、部屋は臭くなるし、もう沢蟹はいいかなってさ」


 申し訳なさそうな山口と違って波瀬は沢蟹を飼うのに飽きた様子だ。


「僕が見に行っていない間にそんな事になっていたのか」


 溝渕の一件で身体が怠くなってここ暫く山口たちの大部屋には行っていなかった。


「わかった。沢蟹を逃がしに行こう、このまま死なせたらかわいそうだからね」


 責任を感じたのか哲也が直ぐに了承すると山口の顔がパッと明るくなる。


「良かった。ありがとう哲也くん」

「俺たちだけで行こうと思ったんだけどな……化け物がさ」


 波瀬は前に見た化け物を怖がっている様子だ。


「ダメですよ、2人だけで行ったら本当に化け物に襲われますよ」

「わかってるよ、沢蟹を逃がしたら二度と行かないって」


 哲也が駄目押しした。怯えを浮かべる波瀬の顔を見て本当に行かないだろうと安心だ。



 昼食後、哲也は波瀬と山口と一緒にあの水場へと向かった。


「哲也くん、何処へ行くんだい? 」


 遊歩道を歩いていると眞部が声を掛けてきた。


「眞部さん、こんにちは、じつは…… 」

「あれだけ念を押したから大丈夫だとは思うが私も一緒に行こう」


 沢蟹を逃がしに行く話しをすると眞部が付いてきてくれる事になった。

 叱られると思ったのか縮こまっていた山口と波瀬に哲也が笑顔を向ける。


「眞部さんが一緒なら安心ですよ、許可取ったのと同じですから」


 哲也の一言で山口と波瀬は安心して水場へと向かった。

 何故持っていたのかわからないが眞部が鍵を使って金網の柵の扉に付いている南京錠を開けてくれた。

 遊歩道を暫く歩いて脇の藪を掻き分け水場へと着いた。


「無理矢理連れて行ってごめんね」

「これでお前は自由だ。他の蟹の分も生きるんだぞ」


 山口と波瀬が沢蟹を逃がす近くで哲也は溝貝を探した。


「居なくなってる……溝渕さん」


 10センチくらいの小さな溝貝は幾つか見えるが30センチ以上ある溝貝は何処にも見えない。


「これは…… 」


 近くに落ちていた網を見つけて眞部が顔を顰める。


「溝渕さん、何処に行ったんだろう」


 水溜まりを必死に探す哲也の目に留まらないように眞部が網を藪の中へと放って隠した。

 しゃがみ込んで水面を見つめる哲也の横に眞部が立つ、


「百年以上生きた貝が力を付けて水場に来た動物たちの精気を吸って変化したんだろう、更なる力を求めて人を、哲也くんを喰らおうとした。でも哲也くんの優しさに改心したのかも知れないよ」

「何処に行ったんでしょうね? 」


 眞部を見上げて哲也が訊いた。


「さぁ……この山には他にも水場はあるだろうからねぇ」

「他に誰も襲わなければいいけど…… 」

「どうだろうねぇ、哲也くんには優しくしても所詮化け物だからねぇ」


 眞部が空を見上げた。釣られるようにして哲也も見上げる。

 青い空を見ながら哲也は化け物を助けたのは良かったのかと複雑な心境で考えた。



 沢蟹を逃がした後、大部屋に遊びに来ないかという山口と波瀬の誘いを断って哲也は部屋へと戻った。


「どこ行ったんだろう? 」


 ベッドで寝っ転がりながら哲也は色々考えた。


「初めは恩返ししようと思っていたって言ってたな……溝渕さん」


 哲也が頬どころか顔全体を緩ませてニヘラっと笑う、


「貝の恩返しか…………気持ち良かったなぁ~~ 」


 部屋のドアがそっと開いたのに妄想している哲也は気が付かない、


「えへへへっ……痛い思いして殺されるのは嫌だけどエッチしながら気持ち良く殺されるのはいいかもな」


 溝渕との逢瀬を思い出して布団を丸めて抱き付いた。


「殺されるのはもちろん、歩くのも怠くなるほど精気を吸うのはダメだけど……いやいや、毎日少しくらい精気を吸われてもいいからあのままずっと居てくれたら良かったのに溝渕さん……そしたら毎晩……えへへへっ」


 妄想してベッドの上で身体をくねらせる哲也にそっと誰かが近付いてくる。


「もし殺されるってなったら気持ち良い方がいいよなぁ~~、やっぱり」

「じゃあ哲也くんを殺すときは気持ち良くさせてあげるわね」

「ぉおわっ!! 」


 哲也が飛び起きた。


「かっ、香織さん! 」


 先程、音も立てずにドアを開けて入って来たのは香織だ。


「心配して見に来たら……哲也くんのヘンタイ」


 ベッド脇に立って哲也をじとーっと軽蔑した目で見下ろした。


「ちっ、違うから…… 」

「何が違うのよ、全部聞こえてたんだけど」


 哲也の顔からスーッと血の気が引いていく、


「ぜっ、ぜぜっ、全部って? 」


 震える声で訊く哲也を軽蔑した目で見つめながら香織がこたえる。


「貝の恩返しがどうとか、気持ち良かったってところから全部」

「そそっ、そんな前から…… 」


 青を通り越して白い顔で呟く哲也の向かいで香織がこくりと頷く、


「うん、気持悪い顔でニヤけてたところから全部」

「ちょっ、何でノックしないんですか僕の部屋ですよ」

「ノックしたわよ、哲也くんが気付かなかっただけじゃない」


 ムッと怒る哲也を見て香織が嘘をついた。ノックどころか音を立てないように入って来たのだ。


「僕が気付かなかっただけ……あはっ、あははははっ」


 笑って誤魔化す哲也の顔を香織が覗き込む、


「厭らしいことばっかり考えて……ほんっとに哲也くんは気が多いよね」

「いや、そのぅ……ごめんなさい」


 逆らっても無駄だと哲也は謝り作戦に出た。謝って下手したてに出てこの場を切り抜けようと考えたのだ。


「それで溝渕さんとは何をしたの? 」

「なななっ、何って……なんにも………… 」


 焦りまくった哲也が声を震わせる。顔どころか全身真っ赤になっていた。


「ほんとにぃ? 」

「ほほほっ、本当です……べべっ、別に……別に何もしてませんから」


 唇をブルブル震わせてこたえる哲也を見て香織が悪い顔で悪戯っぽく笑う、


「眞部さんから全部聞いたわよ」

「マジっすか? 」


 思わず大声を出していた。


「やっぱり何かあったんだぁ~~、哲也くんのスケベ」


 じとーっと軽蔑した目で睨む香織の前で哲也ががっくりと項垂れた。


「どうせスケベですよ……眞部さんに聞いたなら全部知ってるでしょ、意地悪なんだから香織さんは………… 」

「ほんっとに変な夢ばかり見るんだから哲也くんは」

「夢って? あれは………… 」


 言い返そうとした哲也の言葉を香織が遮る。


「貝のお化けなんて居るわけないでしょ、そんなの昔話か漫画の世界だけよ、女の幽霊がエッチな事するなんて怪談話であったじゃない、何だっけ? 」

「牡丹灯籠です」


 姉が弟を叱り付けるように話す香織の前で哲也が縮こまりながらボソッとこたえた。


「そうそう、牡丹灯籠、カランコロンって下駄慣らして女幽霊が男に会いに来る話し……どうせ溝渕さんが良いなぁとか思って厭らしい妄想ばかりしてるからオカルト好きなのと混じってお化けの出てくるエッチな夢でも見たんでしょ、ほんっとに哲也くんって気が多いよね」

「夢って……眞部さんがそう言ったんですか? 」


 哲也が香織の顔を窺った。話しの持って行き方によっては誤魔化せると思った。


「眞部さんも付き合いいいわよね、哲也くんと一緒に化け物と戦ったなんて言ってたわよ」

「本当ですよ、眞部さんは陰陽道の流れを継ぐ退魔師で………… 」


 香織が大声で笑いながら顔の前で手を振った。


「あははははっ、無い無い、退魔師とか漫画の世界だわ、オカルト好きの哲也くんに話しを合わせてくれているのよ、眞部さん優しいし哲也くんのことを孫のように思っているみたいだからね」

「違いますからね! 眞部さんの言ったことは本当ですからね」


 バカにして笑う香織の前で哲也がムッと怒って膨れっ面だ。


「はいはい、わかったわかった。でも私以外に言っちゃダメよ、池田先生に知れたら病状が悪化したって大騒ぎになるわよ、隔離病棟に送られても知らないからね」


 怪奇現象など全く信じていないような香織の話し振りに哲也はムッとしたまま続ける。


「他に話したりしませんよ……だいたい香織さんが話しをしてきたんでしょ」

「エッチな妄想して悶えてた哲也くんが悪いんじゃない」

「 ……そうですよ、全部僕が悪かったです。勘弁してください」


 謝り作戦続行だ。反論しても勝ち目など無い、香織に嫌われるのも避けたい、謝って済むなら土下座でも何でもするしかない。


「よしよし、非を認めた哲也くんに良いものをあげよう」


 香織がベッド脇のテーブルの上に小さな箱を置いた。


「ケーキっすか? 」


 良く買ってくるケーキの箱を見て哲也が顔を綻ばせる。


「哲也くんの好きなモンブランとチーズケーキだよ、最近具合良くなさそうだったからお見舞いよ」

「かっ、香織さん、そんなに僕のことを……もう結婚するしか………… 」


 冗談を言う哲也の頭を香織がポカッとグーで殴りつけた。


「痛ててて……何するんすか! お見舞いでしょ? 」


 頭を押さえる哲也を香織が怖い目で睨み付けた。


「風邪で体調崩したのかと思ってたら只のヘンタイじゃない」

「ちょっ、ヘンタイヘンタイって変な事言わないでくださいよぉ」


 哲也を無視するかのように香織がドアの方へと歩いて行く、


「まぁいいわ、ヘンタイも立派な病気だからね」


 呟きながら香織がドアを開けた。


「良い話しができた。早坂さんと森崎にも教えてやろうっと」

「わぁあぁあぁぁ~~ 」


 叫んで駆け寄る哲也の前で香織がスッと出て行く、


「香織さん、勘弁してください、他に話すのだけは……お願いします」


 ドアから身を乗り出すようにして頼むと廊下に出ていた香織がくるっと振り返った。


「仕方ないなぁ~~、じゃあ貸しにしとくからね、私が頼み事した時は何でも利くのよ」

「貸しって……わかりました。何でも言ってください、僕に出来る事なら何でもします」

「じゃあね、哲也くん」


 笑顔で廊下を歩いて行く香織の後ろでがっくりと窶れた哲也がドアを閉めて部屋に引っ込んだ。



 あの溝貝は何だったのだろう? あの湧き水の湧いている水溜まりで百年以上も生きてきたのだろうか? 水から出て動くこともできずに沢にもならない小さな水場でずっと生きてきたのだとしたら何を考えていただろう。

 眞部さんも言っていたが付喪神というものがある。命の無い器物でも百年も経つと精霊が宿って動き出すという、それなら命のある生物は更に力を持ってもおかしくはない、力を得た溝貝が更に力を得ようとして人を襲ったのだ。だが哲也の優しさに心を打たれて去って行った。


 ベッドの上で色々考えながら哲也がゴロンと寝返りを打った。


「溝渕さん何処に行ったのかなぁ~~ 」


 命を取られるのは嫌だが溝渕には正直言ってまた会いたいと哲也は思った。

読んでいただき誠にありがとうございました。

11月の更新は今回で終了です。

次回更新は12月末を予定しています。


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