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第四十七話 家族

 家族を辞書で調べると夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団などと書いてある。砕いて言うと夫婦・親子・兄弟などの近い血縁の人たちのことだ。

 だからといって役所へ出す書類など公式の文章などは別として普段の生活では明確に線引きをする必要はない、血縁関係でなくとも親しくしていて家族同然の人もいるだろうし、同じ人間でなくとも犬や猫などペットも家族と言う人もいる。


 哲也にも家族は居る。細かいことは言わない物静かな父、あれこれと小煩かった母、二人のことは何となく覚えている。心の病の所為なのかハッキリとした記憶は無いが小学生や中学生だった頃、両親と過ごしていた記憶は確かにあった。

 磯山病院へ入院してからは会ってはいない、両親は見舞いにも来ない、自分のことなど忘れられたのかと少し寂しく思うこともあるが直ぐに忘れてしまう、昔の事を考えると何故か頭が痛くなった。痛みが治まる頃には考えていた事など全て忘れているのだ。


 だが哲也は寂しくはない、磯山病院には兄のように慕う嶺弥や姉のように叱ってくれる香織、父のように見守ってくれている眞部が居るのだ。哲也にとって彼らが家族なのかも知れない。


 家族のことを忘れている哲也と違い、家族を大事にしている患者が入ってくる。その男には妻と5歳になる娘が居るらしい、らしいというのはその家族は実在していないからである。全て男の妄想らしい、妄想の家族と暮らしているのだ。

 自分とその患者、どちらが幸せなのか哲也は考えたが答えは出ない、なのでどちらも幸せなのだと思うことにした。



 昼食を終えた哲也が本でも借りようと図書室へと向かっていた。


「オカルト雑誌戻ってきてるといいなぁ、結構人気あるんだよな」


 図書室といっても本格的なものではない、24畳ほどの部屋に本の詰まった棚が並べてあるだけだ。空きスペースがないのでその場で読むことは出来ない、選んで借りて部屋に帰って読むスタイルで月水金の3日間だけ開いていて事務員さんが管理している。


「最新号借りられてたらバックナンバーでも借りるかな」


 哲也が借りる本といえば雑誌や漫画だ。ホラーやミステリー小説は時々読むことはあるがその他の小説などは殆ど借りたことがない。

 図書室は食堂の上にある。食堂がある建物は他にも催し物を行う広い部屋などがあり年に数回、プロジェクターを使った映画鑑賞や演劇などが行われているのだ。


「ん? 何だ」


 階段を上がっていると何やら騒ぎが聞こえてきた。

 図書室の更に上の階にあるレクリエーション室だ。各病棟にあるレクリエーション室より大きくて運動もできるようになっている。


「何やってんだか…… 」


 哲也が呆れ顔で階段を駆け上がる。



 レクリエーション室の常時開放されている出入り口の前で患者が3人言い争っていた。


「挨拶くらいしろってんだよ」

「そうだよ、ぶつかっといて無視はないよね」


 3人の内の2人は波瀬と山口だ。2人とも60近い年配の患者で哲也が磯山病院へ入院してきたときに色々と世話になって院内では一番親しくしている患者である。

 2人の向かいにいる患者は30歳くらいの中年男性だ。ムスッと怒ったような顔で波瀬と山口を睨んでいる。哲也の知らない患者だ。


「どうしたんですか? 喧嘩はダメですよ」


 割って入る哲也に波瀬と山口が笑みを見せた。


「哲也くん聞いてくれよ、此奴がさ、山口にぶつかっといて謝りもしないんだ」

「卓球しようとしてレクリエーション室に入ろうとしたらこの人が出てきてぶつかったんだよ、波瀬と話ししてて前見てなかったから謝ったんだけど睨み返してきてさ」


 味方に付けようと状況を話してくる2人を哲也がわかったと言うように手で制した。


「そっちの人は何か言う事は無いかな? この2人の意見だけ聞くのは公平じゃないからね」


 優しい声を作って話し掛ける哲也を男がジロッと睨んだ。


「あっ、僕は警備員だ。警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」


 急に現われて不審に思っているのかと哲也が慌てて自己紹介をした。


「警備員か…… 」


 男が睨んだままボソッと呟いた。

 不機嫌そうな男の前で哲也が笑みを作る。


「ぶつかったのなら謝りましょうよ、ごめんねの一言で済む話しじゃないですか」


 哲也の後ろで波瀬と山口が勢いを得て話し出す。


「そうだ。そうだ。謝れ」

「俺は謝っただろ、それなのに睨んできてさ」

「そうだぞ、喧嘩売ってんだ此奴」


 哲也がくるっと振り返る。


「ダメですよ、僕に任せてください」


 2人に注意したあとで向き直ると男が不機嫌顔でぼそっと口を開いた。


「そっちがぶつかってきたんだろが…… 」


 だいたい想像できた。波瀬と山口が駄弁りながら廊下を歩いていてレクリエーション室から出てきた男とぶつかったのだ。お喋りに夢中で波瀬と山口が前を見ていなかったのだろう、つまり男は悪くはない。


「だから山口は謝っただろが! それなのにガン付けてきやがってよ」

「そうだよ、喧嘩売ってきたんだよ」


 哲也が味方に付いてくれそうだと思ったのか波瀬と山口は鼻息が荒い。


「喧嘩なんて売ってるか……勝手にしろ」


 男がくるっと背を向けて歩き出す。


「逃げんのかよ! 」

「哲也くんがこっちに付いたからビビってんだよ」


 調子に乗る波瀬と山口に男が振り返りもしないで吐き捨てる。


「馬鹿なんて構ってられるか」

「んだと! 待ちやがれ! 」


 飛び掛かっていきそうな波瀬を哲也が押さえ付ける。


「ダメですよ、喧嘩はダメですからね」

「あっちが売ってきたんだぞ」


 掴んだ腕を振り解こうとする波瀬を必死で押さえながら哲也が男の背に声を掛ける。


「ちょっと待ってください、ぶつかったのは2人が悪いですけど貴方も悪いですよ」


 男が振り返って哲也を睨み付けた。


「知るかよ…… 」


 ぼそっと吐き捨てると男はムッとした不機嫌な表情で歩いて行った。


「あの野郎ぉ~~! 殴ってやる」


 本気で怒る波瀬を哲也が必死で止める。


「ダメですから……止めてください波瀬さん」

「そうだよ、テレビ取り上げられちゃうよ」


 山口は初めから大事にする気は無かったらしく一緒に波瀬を止めてくれた。


「あそこまで馬鹿にされて黙ってられるかよ! 」


 怒鳴る波瀬を宥めようと哲也が思い付きで話し掛ける。


「そっ、そうだ。将棋しましょうよ、今から波瀬さんの部屋に行って遊びましょうよ」

「将棋か? 哲也くんとするのは久し振りだな」


 波瀬の機嫌が一瞬で良くなる。

 反対側で波瀬を押さえていた山口がパッと顔を明るくする。


「じゃあさ、オセロもしようよ、哲也くんになら勝てそうな気がするからさ」

「そうっすね、将棋終ったら山口さんとオセロしますよ、だから早く行きましょうよ」


 押さえていた手を離すと哲也が波瀬の背をポンポンと叩いた。


「 ……わかった。あんなヤツに構ってるより哲也くんと遊んだ方が楽しいからな」

「そうだよ、喧嘩なんてしても得は無いからね、それよりオセロ楽しみだなぁ」

「じゃあ、久し振りに遊びますか、今日は負けませんからね、将棋もオセロも」


 まだ少しムッと怒っている波瀬と笑顔の山口と一緒に哲也は2人の大部屋へと向かった。



 波瀬と山口の相手をして夕食前に哲也は2人の大部屋のあるB病棟を出た。


「もう夕方の見回りだ。時間経つの早かったな……本借りれなかったし」


 これも警備員の仕事の内だとぼやきながら自分の部屋のあるA病棟へと向かっていると先程、波瀬と山口と喧嘩していた男が前を歩いていた。


「ちょっと、済みません、ちょっと」


 名前も聞いていなかったと哲也が声を掛けると男が振り返った。


「何か用か? 」


 相変わらずムスッと怒ったような男に哲也が笑顔を作って話し掛ける。


「さっきは済みませんでした。警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」


 再度自己紹介をしてから哲也が続ける。


「新しく入院して来た人ですよね? 見ない顔だったから気になって……名前なんて言うんですか? 」


 何で名前なんか聞くんだというような不審な目を向ける男に哲也が慌てて口を開く、


「夕方と夜の10時と深夜に見回りしてるんで患者さんの名前とか知っておくと騒ぎがあった際に誘導とかしやすいですから……別に嫌なら教えなくてもいいですけど」

「増田だ。増田玲二ますだれいじだ」


 男がぼそっと教えてくれた。


「増田さんですね、ありがとうございます」


 ペコッと頭を下げてから哲也が本題に入る。


「さっきは済みませんでしたね、あの2人が余所見しててぶつかったんですよね? でも山口さんは直ぐに謝ったんでしょ? だったら許してあげてくださいね、この程度で喧嘩して叱られてもつまらないですからね」

「別に俺は怒ってない」


 怒っていないと言いながら増田は哲也を睨み付けている。

 苦笑いを浮かべて哲也が続ける。


「でも睨んでたでしょ? この病院には神経質な患者さんが沢山居るから些細なことでも気になるんですよ、お互い様ですからそういうのは止めましょうよ」

「別に睨んでない、目付きが悪いのは生まれつきだ」

「えっ? あのぅ…… 」


 生まれつきと言われては哲也に返す言葉は無い。


「出来るだけ気を付ける。これでいいだろ」

「あっ、はい……お願いします」


 戸惑う哲也にくるっと背を向けると増田は歩いて行った。


「生まれつきか…… 」


 哲也がA病棟へと歩いて行く、不機嫌顔で怒っているように思えたが素直に話しを聞いてくれたところを見ると目付きの悪いのは本当に生まれつきらしい。


「どんな病気で入って来たんだろう? 」


 始終怒っているような増田に興味を持った哲也は香織か早坂に話しを聞きに行くことにした。



 夕方の見回りの途中で看護師の早坂を捕まえる事が出来た。


「またか……あとじゃダメ? 今日忙しくてお昼食べる時間無かったのよ」


 香織と同期の清水環奈しみずかんなと一緒に外に夕食を食べに行こうとした早坂を捕まえて増田のことを訊いた。


「飯っすか? 嶺弥さんも外に食べに行くって言ってましたよ」

「須賀さんが? 今から? 」


 パッと顔を明るくする早坂を見て哲也がニヤッと悪い顔で続ける。


「見回りを早めに終えて今から行くって言ってました。早坂さんと清水さんも一緒に行けばいいじゃないですか、嶺弥さんの車に乗せて貰って……僕が頼んであげますよ」

「ほんと! 」


 身を乗り出す早坂の腕を清水が引っ張る。


「ちょっ、先輩、乗せて貰うなんて悪いですよ、私の車で行きましょうよ」


 清水は病院まで車で通っている。早坂は送迎のバスを使っていた。


「えっ、あっ、そうね…… 」


 残念顔で思い止まる早坂に哲也が笑顔で話し掛ける。


「工藤さんと2人で食べに行くって言ってましたから早坂さんと清水さんの2人なら嶺弥さんの車に乗っていけばいいじゃないですか」

「工藤君も行くのか…… 」


 清水が考え込む、工藤は嶺弥が指導している新人の警備員だ。

 そこへ見回りを終えた嶺弥が通り掛かった。


「哲也くん、見回りは終ったのかな」

「あっ、嶺弥さん、丁度話してたところなんですよ」


 哲也が話しをする後ろで早坂が頬を赤く染めて嶺弥を見つめている。


「そんな事ならお安い御用さ、工藤と2人で食べるより楽しそうだ。車2台出すのは無駄だしな」


 哲也の話しを聞いた嶺弥が早坂と清水に向き直る。


「俺でよければ一緒に食べに行こうか」


 爽やかな笑みを見せる嶺弥の向かいで早坂の顔に笑みが広がっていく、


「はい、喜んで」

「済みませんね、じゃあ乗せていって貰えませんか」


 即答する早坂の隣で清水が苦笑いだ。


「じゃあ工藤を呼んで一緒に行こう」


 警備員控え室に向かって嶺弥が歩き出す。駐車場はその向こう、本館の隣りにある。

 嶺弥の後ろを清水が歩き、その後ろを早坂と哲也が並んで歩く、


「それで増田さんのことですけど…… 」

「わかったわよ、でもお化けの話しは無いわよ」

「お化けとかじゃないなら手短にお願いします」

「まったく仕方ないなぁ」


 呆れながら早坂が教えてくれた。


 増田玲二ますだれいじ32歳、独身で結婚したこともないのに家族が居ると妄想している。存在しない娘に暴力を振るったとして訪ねてきた男を殴って逮捕されるが増田が働いていた工場の社長が被害者の男と示談したこともあり心神耗弱として罪に問わない代わりに磯山病院へと入院させたのだ。


「犯罪犯して措置入院っすか? 」

「措置入院じゃないわよ、親代わりの社長さんが入院させたのよ」


 コソコソと話す2人の前で嶺弥がくるっと振り返る。


「哲也くん、見回りを終えたなら食堂じゃないのかな? 」

「あははっ、わかってますよ、ちょっと見送りしただけですから」


 笑って誤魔化しながら哲也が逃げるように走って行った。

 溜息をついてから嶺弥が早坂に話し掛ける。


「迷惑掛けて済まないね、早坂さんは優しいっていつも言ってるよ、哲也くん」

「迷惑なんて全然…… 」


 頬を赤く染めた顔の前で違うと手を振っていた早坂が言いかけた言葉を訂正する。


「全然って事はないわね、時々迷惑掛けてくるけどその分手伝いもしてくれるから助かってますよ哲也くんは」

「あははははっ、お互い哲也くんには苦労しているみたいだな」

「はい、哲也くんって大人しそうに見えてアクティブですから」


 楽しげに笑い出す嶺弥を見つめて早坂が幸せそうに笑顔になった。



 食堂へと向かっていた哲也が歩を緩めて駆け足から歩きに変わる。


「あー吃驚した。嶺弥さんに叱られるかと思ったよ」


 歩きながら息を整え考える。


「家族が居るって妄想か……今回は霊現象じゃないみたいだな」


 始終不機嫌そうにしていた増田には何かあるのではないかと期待していたが怪異ではなく只の妄想らしいとわかって哲也は興味を失った。


「まぁいいか、早坂さんに貸しが出来たし、これで話しが聞きやすくなるってもんだ」


 増田のことなど忘れて哲也は食堂へ夕食を食べに行った。



 夜10時の見回りで哲也がC病棟へ入っていく、


「異常無しっと」


 いつものように最上階へと行ってから下りながら各階を見て回る。


「何だ? テレビの音か? 」


 5階の廊下を歩いていると楽しげな会話が聞こえてきた。消灯時間を過ぎてもテレビを見るのは黙認されているが廊下まで漏れ出る音はダメである。


「ここか、増田さんの部屋だ」


 音は503号室から漏れ出ていた。ドア横のネームプレートには増田玲二ますだれいじと書いてある。


「今日来たばかりだしな、ちゃんと注意しとくか」


 哲也はノックしようとした手を止めてドアに顔を近付けた。

 部屋から聞こえてくる音がやけにリアルだ。増田ともう1人、大人の女らしき楽しげな笑い声に幼女のはしゃぐ声も聞こえる。テレビの音ではなく、まるでそこに人がいるような声に聞こえた。


「増田さん、入りますよ」


 ノックしてから哲也がドアを開ける。


「増田さ…… 」


 哲也が言葉を飲み込んだ。テレビは点いていない、増田はベッドで寝息を立てている。もちろん他には誰も居ない、不思議に思いながらも寝ている増田を起すわけにも行かずに部屋を後にした。


「寝言かな? 」


 増田の寝言が女の子の声にでも聞こえたのだろうと納得するしかない。



 深夜3時の見回りでC病棟の5階へと行くと笑い声が聞こえてきた。


「まただ……増田さんの部屋だ」


 先程のこともあって哲也は慎重に確認する事にした。


「他の部屋じゃないよな」


 503号室のドアに顔を近付けて中の様子を覗う、増田の笑い声に混じって女の子のはしゃぐ声が聞こえる。それだけではない大人の女の声も聞こえてきた。


『まぁそんなことが……こまったお父さんねぇ』

『あははははっ、お父さん怒られたぁ~~ 』

「まいったなぁ」


 呆れるような大人の女性の声に女の子の笑い声、それにこたえる増田の声が聞こえてくる。テレビの音ではない、誰かと会話しているようにしか聞こえない。

 哲也はそっとドアを開けた。


「ふぁぁっ!? 」


 驚きが喉から掠れた悲鳴となって出た。

 ベッドで上半身を起す増田の横に女が立っている。幼稚園児くらいの女の子がベッドの上で増田に抱き付いていた。


「まっ、増田さん! 」


 哲也が慌てて入る。同時に女と幼女がすっと消えた。


「なん? あれは…… 」


 ベッドの上で座るように上半身を起していた増田が驚く哲也を見て微笑んだ。


「怖がることはない俺の家族だよ」

「家族? 」


 顔を顰める哲也の向かいで増田が頷いた。


「俺の家族だ。信じてもらえないかも知れないが俺の家族なんだ」


 始終ムスッと怒ったような不機嫌顔をしていた増田が優しい目付きで微笑みながら話すのを見て哲也の心が落ち着いていく、


「信じますよ、だって見ましたから」

「見えたのは君が初めてだ。声は聞こえたって人は居たんだが悪戯だろうと相手にしてくれなかった」


 少し驚いた様子で増田が哲也を見つめた。


「ところで君は? 確か警備員さんだったね」

「あっハイ、警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください、見回りで声が聞こえたから何かあったのかと思って勝手に部屋に入りました。すみません」


 ペコッと頭を下げる哲也に増田が優しい声を掛ける。


「謝ることはないよ、しっかり見回りをしているって事だからな」


 哲也の人となりを観察するように見つめながら増田が続ける。


「それより怖くないのか? 幽霊だぞ、俺の家族だけどあの2人は幽霊だ」


 哲也が顔を綻ばせて口を開く、


「怖いとは思いませんでしたよ、だって増田さん楽しそうに笑ってたじゃないですか、それに僕は幽霊は何度も見たことがあるんですよ、だから怖くはなかったです。それに女の人も女の子も悪い気は感じませんでしたから」


 増田の顔に笑みが広がっていく、


「そうか……哲也くんにはわかるんだな、あの2人は何もしないよ、危害なんて加えない、俺の家族だからな」

「楽しそうでした。良い家族ですね」


 頷くと増田はベッド脇の窓に目をやる。


「うん……哲也くんには話してもいいかな、あの2人と家族になったことを」


 遠い目付きで格子の入った窓から月夜を見つめる増田に哲也が身を乗り出す。


「是非聞かせてください、僕に出来る事があれば力になりますから」


 振り向いた増田が微笑んだ。


「わかった。でも今は遅いから明日にしよう」

「あっ、そうですね、僕も見回りの途中でした。じゃあ、明日の昼過ぎにでも話しを聞かせてください、部屋を訪ねますから」


 恥ずかしそうにこたえる哲也を見て微笑みながら増田が頷いた。


「わかった。話しを整理して待ってるよ」

「じゃあ、僕は見回りがありますから」


 ペコッと頭を下げて哲也は部屋を出て行った。

 長い廊下を歩いて階段の前で振り返る。


「怖い人だと思ってたけど全然違ったな増田さん、優しい人だ」


 安堵した様子で階段を下りていく、


「幽霊の家族か……妄想じゃなかった。心の病じゃなくて怪奇現象だ。でも独身で結婚したことがないって早坂さんが言ってたぞ」


 色々考えているうちに哲也がニヤけていく、


「まぁいいや、話しを聞けばわかるだろ……楽しみだ」


 浮かれ気分で見回りを再開した。



 翌日、昼食を食べ終えると哲也は増田の部屋へと向かった。


「二つ残しておいて良かったな、喜んでくれたらいいけど」


 クリームの挟んである小さなパンケーキを手に哲也がC病棟へと入っていった。

 昨日の午後8時前、見回りに来た早坂から洋菓子を3つ貰ったのだ。恥ずかしそうにしてハッキリとは話さなかったが嶺弥と一緒に食事ができた御礼らしい、1つは食べたが残りは今日食べようと置いていたのが役に立った。


「増田さん、入りますよ」


 ドアをノックして増田の部屋へと入っていく、


「哲也くん、待ってたよ」

「あの、これ女の子に……娘さんって言った方がいいのかな」


 哲也が差し出した洋菓子を受け取ると増田が笑顔でテーブル横の椅子を引いてくれた。


「ありがとう、喜ぶよ、さぁ座ってくれ」


 ペコッと会釈して哲也が椅子に座る。


「じゃあ、早速だけど話をしようか……哲也くんは警備員の仕事もあるだろうからな」


 向かいに座ると増田が話を始めた。

 これは増田玲二ますだれいじさんが教えてくれた話しだ。



 増田は都内の端、東京では地価の安いある町に建つマンションで一人暮らしだ。ローンは残っているがマンションは持ち家である。3LDKのマンションだ。


 増田は幼少期に父親に暴力を受けていた児童虐待だ。所謂ネグレクトという奴である。母は増田が殴られるのを見て見ぬ振りだ。口を出せば母も殴られるのだ。自分を守るために増田を犠牲にしたのだ。


 ある日、父が帰ってこなくなる。新しい女でも作ったのか借金に追われて逃げたのか、増田は幼心にこれで殴られなくなると思った。父が居ないときは母は優しかったのだ。母と2人だけになり安心できると思っていた。

 だが暫くして母も家を空けるようになる。食事の用意もしなくなり、たまに弁当を買ってくるだけだ。育児放棄である。生活に疲れたのか水商売をしていた母は増田が邪魔になったのかも知れない、父が消えて1ヶ月も経たぬうちに母も消えた。


 親戚など誰も引き受けるものの無かった増田は施設に入れられる。施設で高校生まで育ち、その後、施設の紹介で工場で働くことになる。

 工場の社長は増田を不憫に思ってか何かと気に掛けてくれたが人見知りする性格からか人付き合いは苦手で恋人どころか友人さえ殆どいなかった。


 女と付き合ったこともなく増田は32歳になっていた。19歳から勤めて13年、工場では責任者の地位にまでなっていたが相変わらず人見知りが激しく、殆ど誰とも付き合わないで生きてきた。親しい人と言えば工場の社長だけだ。

 心配した社長が見合い話などを持ってくるが旨く行かない、幼い頃に父に殴られ母に育児放棄をされた事が心に大きな傷を付けているのだと社長もキツく言わなかった。


 世話を焼いてくれる社長に悪いと思ったのか将来のことは自分なりに考えていると見せたくて増田はマンションを買うことにした。賃貸なら更新を拒否されて追い出されることもあるが持ち家ならそんな心配は無い、老後の事もあって社長も賛成してくれた。


 勤めている工場からそれほど遠くない地価の安い都内の端に良い物件を見つけて購入した。築10年の3LDKのマンションだ。相場より安いと言っても3500万円ほどする物件である。

 増田は酒やギャンブルはしない、趣味と言えば読書くらいで散財することもなく貯金はあったので頭金どころか半分以上払うことができて残りを月8万円の10年ローンで賄える。働き盛りの増田には余裕のローンだ。



 住み始めて暫くして増田は妙な気配に気が付く、一人暮らしのはずなのに他に誰か人がいるような気がするのだ。

 飾っていた物がズレていたり、テーブルの上に置いていたリンゴに小さな歯形が付いていたこともある。


「気の所為じゃないな…… 」


 頻繁に起るので何かあるのだろうと増田は気を付けていた。



 ある休日、夜勤明けで昼まで寝ていると子供のはしゃぐ声が聞こえてきた。


「煩いなぁ……誰か引っ越してきたのかな? 」


 増田の部屋は角部屋で右には部屋は無い、左の部屋は空き部屋で売り出し中だ。その左の部屋に子連れの住人が入って来たのだと思った。


「女の子だな……少々走り回るくらいならいいかな」


 キャアキャア歓声をあげて走り回っているのは女の子らしい、引っ越ししてテンションが上がっているのだろう、男の子なら暴れて煩くなるかも知れないが女の子なら直ぐにおとなしくなって普段と変わらない生活がおくれるだろうと増田は気にも掛けないで二度寝を決め込んだ。


『やめてぇ~~、お願い………… 』

『お母さん! いやぁぁ~~ 』


 悲鳴のようなものが聞こえたような気がしたが疲れもあってか増田はそのまま眠りに落ちていった。


「うぅぅ…… 」


 どれくらい眠っただろう身体を揺すぶられたような気がして目を覚ます。


『おじさん誰? 』


 耳元で声が聞こえた。


「うっ……ううぅ…… 」


 寝返りを打った増田の目に女の子が映った。


「んあっ! 」


 驚いてバッと枕から頭を浮かせた瞬間、女の子の姿がパッと消えた。


「なっ? 寝惚けたか? 」


 目を擦りながら部屋を見回すが女の子など何処にも見えない、当り前だ。一人暮らしの自分の部屋だ女の子など居るわけがない。


「幼稚園くらいだったな……変な夢でも見てたのかな? 全然覚えてないけど」


 夢にしてはリアルだったなと思いながら増田が起きると隣の部屋でバタンとドアが閉まる音が聞こえてきた。


「何だ? まさかな」


 引っ越してきたらしい女の子が自分の部屋に入ってきたのかも知れないと増田が隣の六畳間を見に行った。


「やっぱ気の所為だな、寝惚けてたんだ」


 物置として使っている六畳間には段ボール箱が3つ転がっているだけだ。

 増田が買ったマンションは六畳間が2つと八畳間が1つにダイニングキッチンが付いた3LDKの部屋だ。六畳の1つを自分の部屋として使い、残りの六畳間を物置にして八畳間は客間として残してある。


「腹減った晩飯でも買ってくるか」


 さして気にもせずに増田は買い物へと出掛けていった。



 買い物から帰ってきた増田がエレベーターから出てきて自分の部屋へと向かう、


「静かだな? 」


 引っ越ししてきたらしき隣の部屋の前で立ち止まる。


「はしゃぎ疲れたのかな」


 キャーキャー騒いでいた女の子の声も聞こえない、親に叱られたか暴れ疲れて大人しくなったのだとまだ表札も出ていない部屋を通り過ぎて自分の部屋へと入っていった。



 いつものようにテレビを見ながら買ってきた弁当を食べる。


「あははははっ、馬鹿だ此奴…… 」


 テレビを見て笑っていた増田が視線を感じてドアを見る。


「またか……建て付けが悪いのかな」


 閉めたはずのドアが少し開いていた。引き戸ではなくドアノブの付いたドアだ。カチッとロックが掛かるので普通は開くはずがない。


「ノブは壊れてないよな、何で開くんだ? 」


 閉めてからドアノブを回さずに押してみるがドアは開かない、壊れているわけではなさそうだ。


「お化けでも居るのかな? まぁいいや」


 さして気にもせずに増田はまたテレビを見ながら弁当を食べ始めた。

 食後、シャワーを浴びると暫くスマホを弄くってからベッドに横になる。

 増田が働く工場は二交代制だ。日勤と夜勤が5日おきにある。今日明日が休みで次からは日勤だ。2日の休みで体調を整える必要がある。



 夕方近くまで眠っていた所為か一向に眠くならずに増田は深夜まで起きていた。


「明後日から日勤だからな、無理にでも寝ないとな」


 どうにか寝ようと眠くはないがベッドに転がって本を読んでいた。


『うふふ…… 』


 声が聞こえたような気がしてドアを見るとまた少し開いていた。


「またかよ」


 ベッドから起きるとドアを閉めに行く、


『あはははっ 』

「誰だ? 」


 小さな人影がキッチンへと走って行くのが見えた。

 増田は慌てて追うがキッチンには何も居ない。


「気の所為じゃないな…… 」


 これまでの出来事を考えるとやはり何かが居るらしいと結論付けた。

 広いダイニングキッチンを見回すと増田が少し大きな声を出す。


「お化けならお化けでいいから俺の邪魔をしないでくれ、一緒に住めばいいだろ、部屋は空いてるんだからな」


 増田は幽霊など怖くはなかった。


「生きてる人間の方がずっと怖いからな……本当の親でも子を捨てるんだぞ」


 幼少期に父に殴られ母に捨てられた。その頃から誰も信じてはいない、優しくしてくれた施設の人も今働いている工場の社長も、上辺では慕っている振りをしていたが本心では何かあれば裏切るのだろうと信じてはいなかった。



 部屋に戻ってベッドに寝転がる。

 暫く本を読んでいたがいつの間にか眠りに落ちていった。


「ここは? 誰の家だ? 」


 気が付くと増田は何処かの家の中にいた。窓の多い作りや部屋の雰囲気からマンションなどの集合住宅ではなく一軒家だとわかる。


『ごめんなさい……パパ……ごめんなさい』


 啜り泣くような女の子の声が聞こえてきた。

 増田が隣の部屋に行くと5歳くらいの女の子が父親らしき男に殴られていた。


『ごっ、ごめんなさい……許して………… 』


 女の子は殴られても悲鳴さえ上げない、ただ父親らしき男に謝るだけだ。

 女の子の後ろで母親らしき女が倒れている。殴られたのだろう頬に痣が出来ていた。


『あなた。もう止めて……お願い……恵子を殴るのだけは………… 』


 倒れていた母親が女の子を庇うように抱き締めた。


「うるせぇ! てめぇの躾が悪いんだろが!! 」


 父親らしき男が女の子ごと母を蹴り倒す。


『ママァ……止めて……パパ止めてよ』


 倒れた母の前に女の子が庇うように座り込む、その女の子に父親らしき男が殴り掛かった。


「うるせぇ! ガキのくせに引っ込んでろ」

『ごっ、ごめんなさい……ごめんなさい………… 』


 女の子は殴られても悲鳴一つ上げない、目に涙を溜めて泣くのも必死で堪えていた。

 ドアの隙間から覗いていた増田の頬を涙が筋を描いて落ちていく、


「俺と一緒だ…… 」


 自分と同じだと増田は思った。

 大声で泣いたり悲鳴を上げると更に殴られるのを知っているのだ。幼い頃に父に殴られていた自分と目の前の女の子の姿が重なった。


「このガキが! 」


 父親らしき男が女の子を殴ろうと手を上げたのを見て増田が飛び出した。


「止めろ! 何してんだ! あんた父親だろが!! 」


 怒鳴った自分の声で増田が目を覚ます。


「なっ……夢か………… 」


 寝転がったまま部屋を見回す。いつもの自分の部屋だ。

 全て夢だったのかと増田が目を擦った。


「何で泣いてんだよ」


 腕が濡れているのを見て恥ずかしそうに呟いた。


『ありがとう』


 女の子の声が聞こえたような気がしてドアを見る。


「開いてる……あの女の子か」


 この部屋にいるものが何なのかわかったような気がした。


「何でここに居るのかは知らないけど好きなだけ居ていいからな」


 少し開いたドアに向かって優しく声を掛けると増田はベッドに寝転がった。



 翌日、昼前まで寝ていた増田が弁当を買いに行こうと部屋を出た。


「表札が無いな……引っ越しじゃなかったのか」


 左隣の部屋には表札が掛かっていない、気配もしないので空き部屋のままだとわかる。


「騒いでたのも全部あの女の子だったのか」


 隣りに子連れの家族が引っ越してきて煩かったのかと思っていたがどうやら初めから自分の部屋に居た女の子の幽霊の仕業だったらしいと気が付いた。



 全てがわかった所為か以前にも増して女の子の気配を感じるようになった。


「用があるなら何でも言ってくれ」


 少し開いたドアに優しく話し掛けると小さな影がすっと走って行くのが見える。

 幽霊に間違いないだろうと思ったが5歳くらいの可愛い女の子だ。少しも怖くはなかった。それどころか父親に殴られて酷い目に遭っていた女の子に同情したのか増田はお菓子や絵本などを買ってくるようになる。


「お菓子置いとくから食べていいよ」


 少し開いたドアの隙間にお菓子を置いて暫くして見に行くと消えている。

 風呂から上がるとリビングのテーブルの上に絵本を広げて声を出して読み始める。暫くすると近くに気配を感じた。

 顔を動かさずに目だけを動かして見ると目の端に女の子が見えた。


「お菓子も食べていいからね」


 振り向くと女の子はすっと消える。

 こんな事が1週間ほど続いたある日、工場に大口の注文が入って忙しくなり休み返上で働くことになった。

 増田は責任者だ。ミスが起きないように気を使うと同時にパートで働いている人たちの管理もしなければならない。


「ふぅ……疲れたぁ~~ 」


 マンションへ帰ってもくたくたに疲れて何もする気が起きない、弁当を食べてシャワーを浴びて寝るという日が続いて女の子の幽霊に構っている暇も無くなった。



 ある夜、眠っていた増田が身体を揺すぶられて目を覚ます。


『絵本…… 』


 ベッドの脇に女の子が立っていた。


「あっ……ああ…… 」


 近くでハッキリと女の子の姿を見て増田が驚いて身を固くする。


『絵本…… 』


 寂しそうに呟いた女の子は抱えるように絵本を持っていた。忙しくなる前に買ってきたのだが読んでいない絵本だ。


「読んで欲しいのか? 」


 いつもなら消える女の子が消えずにコクッと頷いた。


「 ……じゃあ、読もうか」


 ベッドの上で増田が身を起すと女の子の顔がパッと明るくなった。


『パパ、絵本読んで』


 女の子が増田の膝の上に載ってきた。


「パパって……俺のことか? 」

『うん、パパはパパだよ』


 少し戸惑ったが女の子の嬉しそうな笑顔を見ると何も言えなくなる。


「じゃあ読むか」


 女の子を抱きかかえるようにして絵本を広げると増田は声を出して読み始めた。

 幽霊だとはとても思えなかった。膝の上の女の子は重さも感じるし体温さえ感じた。


『あははははっ、面白いねぇ、ねぇパパ』


 楽しげな女の子を見ていると増田は何故か心の中が温かくなってくるのを感じた。


「はい、おしまい」

『面白かったね、ねぇパパ』


 絵本を読み終わると甘えてくる女の子を横にして一緒に眠った。


 翌朝目を覚ますと女の子は消えていた。


「夢か……夢でもいいや」


 増田は元気に部屋を出て行った。連日の忙しさに疲れていたのがいつの間にか吹っ飛んでいた。



 その日から女の子は普通に姿を見せるようになった。朝も昼も関係なく姿を見る。増田が買ってきた絵本を1人で読んでいたり、お菓子を食べていた。夜になると絵本を読んでくれとやって来て増田の膝の上にちょこんと座った。

 増田は幸せだった。こんな気持ちは初めてだ。口には出さないが全てを憎んでいた。自分を殴った父も捨てた母も、施設に居た事も、自分の人生が惨めなものだと思っていた。

 只一人工場の社長を除いて増田は全てを憎み恨んでいた。だから誰とも付き合わなかった。だから人見知りになっていた。そんな増田が女の子と過ごす一時はとても幸せに感じたのだ。


 女の子の幽霊を普通に見るようになって5日ほど経ったある日、女の子以外の気配を感じて増田が身構える。


「あの子だけじゃなくて他にも何か居るのか? 」


 増田が注意していると大人の女が見えた。精気の無い青い顔をしてキッチンからじっとこちらを見つめていた。


「おわっ! 」


 増田が驚いて身を仰け反らせる。雰囲気から直ぐに幽霊だとわかった。


「なっ、ななっ、何か俺に用か」


 震える声を出す増田の横をいつ現われたのか女の子が通って行く、


「ちょっ、大丈夫なのか? 」


 増田の心配を余所に女の子はキッチンの陰にいる女に駆け寄っていく、


『ママァ~~ 』


 青白い顔をした女が女の子を抱き締めるのを見るに、どうやら母親らしい。


「そっか……お母さんが居たのか」


 母に捨てられた増田は女に抱かれる女の子を見て優しい母親が居てくれるんだと羨ましいと思う反面、良かったと心から思った。


『ありがとう』


 女の子の声が聞こえた。女の子を抱えながら母親が会釈をして一緒に消えていった。


「あっ……まっ………… 」


 母親に会えた女の子はもう現われないかも知れない、待ってくれと言いかけた言葉を増田は飲み込んだ。


「これでいいんだよな」


 寂しげに呟くと増田はテーブルの近くに置いてあった数冊の絵本を拾い集めて本棚の中へと仕舞った。



 その日の夜、また夢を見た。自分の部屋では無い、一軒家らしい見たこともない部屋だ。


『ごめんなさい……パパ……ごめんなさい』


 女の子が父親らしき男に暴力を受けていた。近くに母親らしき女も倒れている。父親らしき男が母らしき女を蹴っていた。母娘に暴力を振るっているのだ。


『あなた。もう止めて……お願い……恵子を殴るのだけは………… 』


 母が女の子を必死で庇っている。容赦なく二人を殴りつけると父らしき男は部屋を出て行った。


「恵子って言うのか…… 」


 暴力を受けていた女の子が自分の部屋に現われていた女の子だと気が付いた。


「俺と同じだ…… 」


 涙を流しながら増田が目を覚ますと枕元に母娘が立っていた。

 少しも恐怖は感じなかった。女は先程キッチンで見た青白い顔ではなく、普通の人のように血色の良い顔色をしている。恵子という5歳くらいの女の子は母に抱き付くようにして増田を見て微笑んでいた。


「同じだけど優しいお母さんが居てくれて良かったね」


 増田が話し掛けると笑顔の女の子を抱きかかえた母親が物言いたげにしながら消えていった。


「何か俺に言いたいのか? あの家で何があったんだ」


 夢で見た一軒家で何があったのか、もしかして暴力を振るっていた父親に2人とも殺されたのではないのかと気にはなったが増田にはどうすることも出来ない。


「何か言いたいなら何でも言ってくれ、俺に出来る事があれば何でもするからな」


 誰も居ない暗い部屋の中、増田は母娘に話し掛けるように言うと枕に頭を置いた。

 暫くあれこれと考えていたがいつの間にか眠りに落ちていた。


「ここは? 俺の部屋……いや、似てるけど違うな」


 気が付くと何処かの家の中にいた。間取りが自分のマンションとそっくりだ。


『ママッ! ママァ~~ 』

『恵子、逃げなさい恵子! 』


 声が聞こえて増田が駆け付けるとキッチンで男が母娘に襲い掛かっていた。


『早く逃げなさい! 恵子! 早く……きゃあぁぁ~~ 』


 女の子を庇う母の上半身が真っ赤に染まっている。


『いやぁ~~、ママッ、ママァ~~ 』


 母にしがみつく女の子に男が包丁を突き立てた。


『きゃあぁあぁ~~ 』


 背中を刺されて女の子が悲鳴を上げる。


「なっ、何が…… 」


 何が起っているのかわからず増田が立ち尽くす。

 母娘は先程の夢に見た自分の部屋に出てくる幽霊と同じだ。男は知らない顔だ。母娘の父親でもない、二十歳くらいの若い男だ。唇の下、顎の左に大きな黒子が付いている。


『ギャアァァーーッ!! 』


 母親が男に刺されて絶叫する。


『ママァァ~~ 』


 倒れた母にしがみつく女の子の首に男が包丁を突き刺した。


『クァアァァ~~ 』


 掠れるような悲鳴を上げる女の子の首から血が噴き出す。


「うわぁあぁぁぁ~~ 」


 叫びながら増田が目を覚ました。


「あぁ……あぁあぁ………… 」


 ガタガタと震えながら辺りを見回す。


「ゆっ、夢か……夢で良かった」


 鼓動が高鳴りゼイゼイと息を付きながら安堵した。


『ここで殺された…… 』


 声が聞こえてバッと見ると部屋のドアが開いていて向こうに女が立っていた。


「あぁはぁぁ…… 」


 血塗れの女を見て増田が低い悲鳴を上げる。


『ここで殺された……あの男に………… 』

『知らないおじちゃんが入って来たの』


 ドアの向こう、キッチンの入り口に立って恨めしそうに見つめる女の腰の辺りに首に包丁が突き刺さった女の子がしがみついていた。


『ピンポン鳴ったから出たの……そしたらおじちゃんが入って来たの』

『あの男に殺された……やっと安心して暮らせると思ったのに………… 』


 悲しそうに言うと母娘は消えていった。


「ここで? この部屋だ! 」


 夢で見た間取りを思い出した。壁紙は違っているがこの部屋に違いない、今自分が住んでいるこの部屋であの母娘は殺されたのだ。


「ここであの子は殺されたんだ…… 」


 引っ越しして直ぐに聞こえてきたキャアキャア歓声をあげて走り回っていた声、あの声ははしゃいで走り回っていたのではなく殺人鬼から逃げ回っていたのだろう、殺された無念を伝えたかったのだ。



 気になった増田が調べると10年ほど前に自分の部屋で母娘が殺されていた。犯人はまだ捕まっていない、暴力を振るう夫と別れて増田が今住んでいるマンションに引っ越してきて生活し始めた矢先だという、


「あの男が犯人だ……顎の左に大きな黒子があった」


 あの夢に出てきた男が犯人だとわかったが10年も前だ。夢の話しなど警察も取り合ってくれないだろう増田にはどうすることも出来なかった。


 憂鬱な気分で部屋に戻る。


「この部屋でか…… 」


 賃貸と違って買った家だ。そう簡単に引っ越しなど出来るものではない、あれこれ考えていると視線を感じた。

 増田が見るとドアが少し開いていて女の子が半分顔を見せていた。首に包丁が刺さったままの血塗れの姿ではない、普通の可愛い姿だ。


「絵本読んであげようか? 」


 増田が声を掛けると女の子が嬉しそうに部屋に入ってきた。


『パパァ~~ 』


 女の子を膝の上に載せて絵本を読んでいると向かいに女が現われた。


『ママだよ』


 女の子が嬉しそうに教えてくれた。母親も普通の姿だ。前に見た血塗れの恐ろしい姿ではない。


「ママか……それもいいかもな」


 増田の呟きが聞こえたのか女の子の母親は微笑みながらテーブルの向かいに座った。


「じゃあ一緒に住むか……いや、俺が住ませて貰うんだな」

『ありがとう』


 増田が笑い返すと母親が嬉しそうに頷いた。

 その日から増田は母娘の幽霊と共に暮らし始める。母娘を憐れに思ったのか少しも怖くはなかった。それどころか絵本やぬいぐるみを買って女の子の幽霊と一緒に遊んであげていた。母の温もりを、家族の幸せを求めていたのかも知れない。



 母娘の幽霊と暮らすようになって増田は変わっていった。

 他人と接触するのを出来るだけ避けて来たのが嘘のように工場内で話すようになり、パートの人たちとも打ち解けるようになった。

 自分でも生まれつきの悪い目付きだと思っていたが良く笑うようになって穏やかな顔付きになったと周りから言われるようになる。

 何かと心配して声を掛けてくれていた工場の社長も増田の変化を喜んだ。


 暫くして社長の耳に変な噂が飛び込んできた。増田が娘がどうこうと話しをしているらしい、娘どころか結婚さえしていないのは正社員なら誰でも知っている事だ。

 心配した社長が増田に話しを訊いた。


「社長、心配無いですよ、俺は元気にやってますから、5歳の娘がいるからガンガン働きますよ」


 笑顔で話す増田の向かいで社長が顔を顰める。


「娘って? お前結婚なんてしてないだろ」

「はい、でも妻と娘が居るんですよ」


 少し前までは見せなかったニコニコとした楽しげな笑みでこたえる増田の前で社長が険しい表情で椅子に座り直した。


「どういう事だ? 詳しく話して見ろ」

「話しても信じませんよ……でも社長になら本当の事を話してもいいですよ」

「いいから話せ、悩みがあるなら何でも相談しろって言ってるだろ」


 心配顔で見つめる社長の向かいで増田は母娘の幽霊が部屋に現われる事を話して聞かせた。


「幽霊? そんな馬鹿な…… 」

「本当ですよ、社長だから話したのに……まぁ信じないってわかってましたけどね」


 笑顔でこたえる増田の向かいで社長が腰を上げた。


「その部屋に、お前のマンションに案内しろ、確かめてやる」

「いいですけど……他人を連れて行くのは初めてだからなぁ」


 只事ではないと心配した社長は仕事を切り上げて増田を連れてマンションへと向かった。



 社長の運転する車でマンションへと帰ると増田が部屋に入っていく、


「ただいまぁ~~、お客さん連れてきたよ」

「お邪魔します」


 部屋の中に向かって元気に声を掛ける増田のあとから社長が続いた。


「これは…… 」


 増田に続いて居間としても使っているダイニングキッチンに入った社長が顔を顰める。

 ソファとテーブルが置いてあるダイニングキッチンの彼方此方に絵本やぬいぐるみが置いてあった。それだけではない、壁には女物の服や幼女の服が掛けてある。


「またこんなに散らかして……片付けないとダメだろ恵子」


 呆れ口調で言いながら増田が絵本やぬいぐるみを拾い上げて片付けていく、


「子連れと一緒になったのか……まぁいい、早く紹介しろ」


 自分の知らない所で増田が子連れの女と付き合い始めたのだと思った社長は複雑な心境ながらどんな女か見極めてやろうと思った。


「あははははっ、何言ってるんですか、そこに居るじゃないですか」


 笑いながら増田がソファを指差した。


「何処に? 」


 ソファには誰も居ない、ダイニングキッチンには増田と社長の2人だけだ。

 怪訝な表情で辺りを見回す社長の横で増田がニヤつきながら頷いた。


「あぁ……やっぱり、だから言ったでしょ幽霊だって、俺にしか見えないんですよ、ネットショッピングで絵本を買ったときに運送会社の人が持ってきてくれたんですが受け取りの時に娘の恵子が傍に居たんですが運送会社の人には見えてないみたいではしゃぐ恵子を叱る俺を不思議そうに見てましたからね」


 社長が増田の正面に立った。


「俺をからかってるんじゃないだろうな? 」

「社長をからかって何の得があるんですか、世話になってる社長だから本当の事を話したんじゃないですか」


 険しい表情で訊く社長に増田も真面目な顔でこたえた。


「 ……そうか、わかった」


 神妙な顔付きで頷くと社長はそのまま帰っていった。



 暫くして一旦帰った社長が医者を連れて訪ねてきた。


「増田、俺に話したことを全部先生に話してみろ」

「何ですか急に…… 」


 嫌がる増田に社長が凄む、


「いいから全部話せ! 社長命令だ」

「わかりましたよ……社長じゃなきゃ怒ってますからね」


 増田は医者に母娘の幽霊の事を全て話した。


「成る程……宜しいですか? 」


 医者が社長を呼んで部屋の隅へと行くと何やらコソコソと話を始めた。


「統合失調症ですね、幼い頃にネグレクトを受けた方は心の病に掛かりやすいんですよ」

「やっぱり……どうすれば宜しいでしょうか? 」

「カウンセリングを受けさせた方がいいですね、今なら軽い薬で良くなるでしょう、でも放って置くと入院が必要になりますよ」


 社長と医者には見えていないのか5歳くらいの女の子が2人の周りをクルクル歩き回っている。


「恵子、邪魔しちゃダメだよ」


 女の子を叱る増田に社長と医者が振り向いた。

 何とも言えない表情の2人の間を女の子が走って増田にしがみつく、


『パパ、あの人たち統合何とかって言ってたよ、心の病気だって』


 2人の会話を女の子が増田に教える。

 増田が2人の前に出る。


「どういう事です? 俺は病気じゃないですから」


 眉間に皺を寄せて険しい顔で睨み付ける増田に医者が優しい声で話し掛ける。


「心の病の人はみんなそう言うんだよ、自覚していないのは病状が進行している証だ」


 社長が増田の肩に手を置いた。


「増田、いいから一回病院へ行け、仕事は休んでいいから」

「何言ってんですか? 話せって言うから話したんだ。俺は病気じゃない、あんたらには見えないかも知れないけど俺の家族は居るんだ」


 手を払い除けながら怒鳴る増田に社長が宥めるように両手を伸ばす。


「わかった。わかったから一度病院で診てもらえ」

「何言ってんだ! 出て行ってくれ!! 俺は病気じゃない」


 増田は怒鳴り散らしながら社長と医者を追い出した。

 次の日から増田は工場に来なくなる。社長が訪ねると辞めるとだけ言ってマンションから出ても来ない。



 工場を辞めて暫くしてマンションに男が訪ねてきた。


「どなたですか? 」


 インターホンで訊くと男が横柄な言葉使いで聞き返す。


「ここ、礼子の家だろ? 礼子を出してくれ」

「礼子? 」


 増田の顔が曇る。礼子とは一緒に住んでいる幽霊の名前だ。母親が礼子で娘が恵子だ。


「礼子出せよ、居るんだろ? 娘に恵子に会いに来たんだよ」

「 ……居ませんよ、ここは俺の家ですから」


 少し考えてからこたえた増田を怪しいと踏んだのか男が厭らしく笑いながら続ける。


「へっ、へへへっ、お前が新しい男か? まぁいい、金くれよ、10万ほどあればいい、じゃないとここで騒ぐぞ、礼子や恵子が困るだろ」


 男は女の子の父親だ。別れた夫が母娘が亡くなったのを知らずに金をせびりに来たのだ。女の子を殴っていた父親だと気付いた増田はとぼけたのだ。


「まだ苦しめるつもりか」


 玄関のドアを開けて増田が飛び出した。


「別れても恵子の親には違いねぇからな、会いに来てもいいだろが、さっさと礼子を出せよ、少し話しするだけだ……まぁあんたが金くれるならこのまま帰ってもいいけどな」


 ニヤつく男を見て増田が切れた。


「お前が! 」


 増田が男に殴り掛かる。


「なにしやがる」


 男は反撃してくるが酒でも飲んで酔っているのか足下がフラついていた。


「お前が酷いことをしなければ礼子も恵実も引っ越さないで済んだんだ。死ぬこともなかったんだ」


 増田は泣きながら男をタコ殴りにしていった。


「たっ、助けてくれ……金はいい…………もう二度と来ない、だから助けてくれぇ~~ 」


 男の悲鳴が聞こえたのかマンション住民が通報して増田は逮捕された。



 身寄りのない増田に工場の社長が身元引受人として警察署にやって来る。


「どんな事情があるか知らんが殴った方が悪くなるんだぞ」

「すみません社長…… 」


 訪ねてきた女の子の父親に社長が慰謝料を払って示談させて刑事事件にはならなかった。


「悪いと思うなら一度病院へ行ってくれ、何もなければそれでいい」

「わかりました」


 親身になってくれる社長の頼みを断れるわけがない。

 警察署でも居もしない母娘のことを話す増田は心に病があるとして磯山病院を勧められた。それを聞いた社長が増田を入院させたのだ。

 これが増田玲二ますだれいじさんが教えてくれた話しだ。



 長い話を終えた増田が苦笑しながら付け足すように話し出す。


「哲也くんは実際に見たから信じてくれるだろうけど社長も医者も誰も信じてくれなかったよ、まぁ無理もないよな、幽霊と一緒に暮らしているなんて俺が社長や医者だったら信じてないだろうからな」

「僕も話しを聞くまでは母親と女の子の幽霊に増田さんが取り憑かれているのかと思ってましたよ」


 向かいに座る哲也が戯けるようにして言うと増田が声を出して笑い出す。


「あははははっ、そうだよな、普通の幽霊話だとそうなるよな」


 楽しそうに笑った後で増田が優しい顔をして続ける。


「でもな、幽霊でも何でも俺にとっては家族なんだ……やっと家族が出来たんだ」

「増田さん…… 」


 幼少の頃、父に暴力を受けて母に育児放棄をされて捨てられた。ネグレクトを受けていた増田のことを思うと哲也には掛ける言葉が出てこなかった。

 哲也の寂しそうな顔を見て増田が優しく微笑みかけた。


「そんな顔しないでくれよ、今は幸せなんだ。哲也くんのようにわかってくれる人もいるってわかったしな」


 逆に励まされた哲也がパッと顔を上げる。


「そうですね、あの夜、見回りで部屋に入ったとき増田さん楽しそうに笑ってました。娘さんも奥さんも楽しそうにしてましたから……あの時は割り込んで邪魔して済みませんでした。今晩からは声が聞こえても邪魔しないので安心してください」

「あはははっ、妻や娘にも哲也くんのことを話しておくよ」


 楽しそうに笑う増田の向かいで哲也が腰を上げる。


「じゃあ、僕は警備員の仕事がありますから」

「そうだな、俺も早く退院してガンガン働いて娘に色々買ってやらないとな」

「そうですよ、だから幽霊の話しはもうしない方がいいですよ、先生が態とからかうようにして話してきても怒らずに全部妄想だったってこたえてください、病状が良くなったって思わせるんですよ、様子見の短期入院ですから直ぐに退院できますよ」

「わかった。もう話さないよ、哲也くんのように理解してくれる人がいるってわかっただけで充分だ」

「じゃあ、失礼します」


 大きく頷く増田を見て哲也は安心して部屋を出て行った。



 3日後、昼食を食べに行こうと外の通路を歩いていた哲也を増田が呼び止めた。


「哲也くん、一緒に食べようか」

「増田さん何か良いことあったんですか? 」


 不機嫌そうにムッとしていた以前からは考えられないような笑顔の増田を見て哲也がからかうように訊いた。


「うん、先生がな、病状が良くなっているみたいだからもう少し様子を見てから退院だなって言ってくれたんだよ」

「本当ですか? おめでとうございます」


 大袈裟に驚く哲也の横で増田が嬉しそうに続ける。


「哲也くんの御陰だよ、家族のことを存在しないとか幻覚だとか言われても怒らないようにして全て妄想だったってこたえて今まで買った絵本やぬいぐるみとか家に置いてある物は全て処分するって約束したら先生も治ったと思ってくれたみたいだ」

「それは良かったですけど全部捨てるのは残念ですね」

「また買えばいいさ、退院して働けば幾らでも買えるからな…… 」


 楽しそうに話していた増田が急に言葉を止めた。

 顔を強張らせる増田に哲也が不思議そうに声を掛ける。


「増田さん? 」


 増田がじっと通路の先を睨むようにして口を開いた。


「哲也くん、あの男は何ていう名前か知っているか」


 増田の睨む先、通路の角から男の患者が歩いてくる。

 哲也には見覚えがあった。2日前に入ってきた新しい患者だ。


「あの患者さんですか? 島里悟代しまさとごだいさんですよ、2日前に入って来た患者さんですよ」


 島里の事は早坂に聞いて知っていた。何でも幽霊が枕元に立つらしい、怪異な話しに興味を持ったが島里が堅気の人間ではないと聞いて流石の哲也も話しを訊きに行くのは止めていた。


「あの黒子ほくろあの黒子だ……間違いない彼奴だ。島里って言うのか」


 血相を変える増田に哲也が不思議そうな目を向ける。


「黒子がどうかしたんですか? 島里さんのこと知ってるみたいですけど」


 島里の唇の下、顎の左に大きな黒子が付いていた。


「いや……何でもない、気の所為だ。知り合いに似てたからさ」

「そうですか……じゃあ、さっさと昼飯食べに行きましょうよ」


 あからさまにとぼける態度に不審なものを感じたが穏やかな増田が騒動など起こさないだろうとその場は深く追求するのを止めた。



 その日の深夜、3時の見回りをしていると建物の影に入っていく人影を見つけた。


「何だ? 嶺弥さんじゃないよな」


 確認しようと哲也がそっと近付いていく、


「看護師さんか事務員さんか…… 」


 驚かしてやろうと茶目っ気を出した哲也が足音を立てないように人影を追った。


「あれ? 増田さんだ」


 患者が出歩くのは禁止されている時間帯だ。


「何してるんだろう? 」


 本来なら注意しなければいけないのだが母娘の幽霊の事もあって何をしているのか気になったのでこっそりと後を付けることにした。

 哲也が後を付けているのも知らずに増田はB病棟へと入っていく、増田の部屋はC病棟だ。こんな深夜に他の病棟へ入って何をするのだろうと哲也も続いてB病棟へと入っていった。


 B病棟の223号室へと増田が入っていく、後を追っていた哲也がドアの横にあるネームプレートを確かめると島里悟代しまさとごだいと書いてあった。


「島里さんの部屋か…… 」


 昼間、怒りを込めた目で島里を睨んでいた増田を思い出す。


「うわぁあぁぁ~~、なっ、何しやがる! 」


 部屋から叫びが聞こえて慌てて入ると増田が島里の首を絞めていた。


「ちょっ、増田さん!! 」


 止めようとした哲也の前に女の子がダメというように両手を広げて立った。


『此奴が全部悪いのよ……こいつの所為で私も恵子も………… 』


 ベッドの向かいでは青白い顔をした女が怒りも露わに島里を睨み付けている。


「ぐがっ、ぐぅぅ………… 」


 島里の苦しげな呻きが聞こえてきた。それを聞いた哲也の身体が自然と動いた。


「ごめん」

『ダメ! 』


 止めようとする女の子を脇へと避けると哲也は増田を止めた。


「増田さん、止めてください」


 島里の首を絞める増田の腕を横から引き離す。


「離せ哲也くん! 離してくれ、此奴が…… 」

「ダメですよ、何か知りませんが絶対にダメですから」


 暴れる増田を必死に押さえている哲也の前、ベッドの向こうから青白い顔をした女が島里に襲い掛かった。


『全部此奴が……此奴が悪い…………憎い、此奴がぁ~~ 』

「ひぃっ! ひいぃぃ~~、お化けが……たっ、助けてくれぇ~~ 」


 女幽霊に伸し掛かかられて島里が情けない悲鳴を上げる。


「止めろ! 何があったか聞かせてくれ、ちゃんとした理由があったら僕は止めないから」


 哲也の口から咄嗟に出た。その場限りの言い訳か、本当に理由があれば島里を殺そうとするのを止めないのか、考えている余裕は無かった。


『此奴が殺した…… 』


 島里から女がすっと離れた。


「哲也くん、手を離してくれ、全部話すよ」


 暴れていた増田が神妙な面持ちで哲也を見つめた。


「わかりました話してください」


 掴んでいた増田の腕を哲也が離す。ベッドの脇に立って恨めしげに睨む母娘の幽霊に怯えているのか島里はベッドの上で縮こまっている。


「此奴が犯人だ。此奴が礼子と恵子を殺したんだ」


 憎々しげに島里を睨み付けながら増田が話を始めた。



 10年前、暴力を振るう夫と離婚した礼子が恵子を連れてあのマンションで新しく生活を始めた。母子家庭の生活は苦しかったが夫の暴力から逃れることが出来て礼子も恵子も幸せだった。やり直そう、そう思った矢先のことだ。

 インターホンが鳴って出ると隣の部屋の○○ですという男が回覧板を持ってきたという、隣のご主人だと思った礼子は夕食の用意で忙しかったので5歳になる恵子に受け取ってきてくれるように頼んだ。

 元気よくこたえて恵子が玄関を開ける。次の瞬間、男が土足で入って来た。驚く礼子を男が殴りつける。玄関から恵子が泣きながらやって来た。恵子を守ろうと礼子は必死に抵抗した。

 暴れる2人に興奮したのか男は夕食の用意で流し台に置いていた包丁を手に取ると礼子と恵子を刺し殺した。


「何度も夢で見た。間違いない、此奴が犯人だ。顔付きは少し変わったが顎の黒子で直ぐにわかったよ」


 怒りとも悲しみとも言えない複雑な表情を浮かべて増田が話を終えた。


『このおじちゃんがママを殺した。私を殺した』

『此奴が殺した……全てを奪った』


 ベッドの脇に立つ母娘が恨めしそうに島里を指差した。

 島里は知らないとでも言うように震えながら首を振っている。


「本当なんですか島里さん」


 哲也が詰め寄る。増田の話しだけなら只の夢で済ますことも出来るが母娘の幽霊を見ていると嘘とは思えない。


「しっ、知らん……俺は殺しなんて知らない…………証拠なんてないだろが」


 怯えながらも島里は否定した。


「お前がやったんだろが! 」

「増田さんダメですから」


 怒る増田を哲也が押さえた。それを見て島里が引き攣った笑みを浮かべる。


「へっ、へへっ、知らないって言ってるだろ……あんた警備員だろ、此奴を捕まえてくれ、俺を殺そうとしたんだ訴えてやるからな」


 哲也が味方に付いてくれるとでも思ったのか母娘の幽霊に怯えながらも島田が強気に出た。

 哲也が増田の腕を離す。


「捕まえたりしませんよ、増田さんも礼子さんも恵子ちゃんも何も悪くはないですから」

「哲也くん」


 今にも飛び掛かろうと怒っていた増田が落ち着いた顔で哲也を見つめた。


「ありがとう哲也くん」


 礼を言う増田に哲也が優しい顔で微笑みかけた。

 それを見て母娘の幽霊に怯えながらも島里が震える声を出す。


「おっ、お前ら……こんな事して只で済むと思っちゃいないだろうな」


 虚勢を張る島里を哲也が睨み付けた。


「只で済まないのは島里さんですよ」

「なっ、何だよ、やるってのかよ」


 幽霊と違って怖くないのか島里がジロッと凄む、その向かいで哲也がベッドの後ろを指差した。


「見えないんですか? この2人だけじゃないですよ、貴方の周りには沢山の霊がいますよ、ほらっ、後ろにも…… 」


 島里がサッと振り返る。


「ひっ、ふひぃぃ~~ 」


 悲鳴を上げながら仰け反るようにしてベッドの反対側まで逃げていく、島里の後ろにはお爺さんにお婆さん、若い男女、子供まで沢山の幽霊が立っていた。


「ひぃぃ……たっ、助けてくれ…………俺が悪かった……助けてくれぇ~~ 」


 悲鳴を上げて怯える島里に哲也が強張らせた真面目な顔で話し掛ける。


「本当の事を話さないと呪い殺されますよ、毎晩出てきますよ、呪われて苦しんで死ぬんです。でも話せば霊たちは許してくれますよ、どっちがいいんですか島里さん」


 哲也の言葉に反応するように後ろに居た幽霊たちがベッドを囲んだ。


「わっ、わかった。話す……全部話す。だから助けてくれ……俺を呪わないでくれ」


 島里は観念した様子で話し始めた。



 増田が言った通り島里は10年前に母娘を殺害した犯人だった。他にも数名殺人を犯していた。島里が磯山病院へ入院したのも自分の殺した幽霊が枕元に立つのが原因で錯乱して統合失調症と診断されたからである。

 島里は捕まり裁判を受けることになる。磯山病院の医者が心の病だが程度は軽く刑事責任を問えると診断したのだ。



 翌日、妻と娘が礼を言っていたと増田が哲也に笑顔で話し掛けてきた。病状も安定していると診断されて増田は退院することになる。


 見送りに来た哲也に増田が笑顔を見せた。


「幻でもいい、心の病でもいい、俺はずっと一緒に暮らすんだ。やっと家族が出来たんだ……哲也くん以外は誰も信じてくれないだろうけどな」

「僕の他にも見える人はいますよ、その人たちは信じてくれますよ、素敵な家族じゃないですか」


 笑って返す哲也に増田がペコッと頭を下げた。


「ありがとう、哲也くんの御陰で犯罪を犯さずに済んだ。これで静かに暮らしていける。本当にありがとう」

「静かに暮らしたいなら見えない家族のことは他の人には内緒にしといた方がいいですよ」


 戯ける哲也に増田が恥ずかしそうに苦笑いだ。


「そうだな、入院させられて懲りたよ、今度から旨くやるよ」

「旨くやってください、生きてる人との付き合いもですよ」

「そうだな、社長にも謝らないとな……許してくれるといいが………… 」


 フッと目を伏せた増田の顔を哲也が下から覗き込む、


「大丈夫ですよ、今の増田さんは凄く良い顔してますから……初めて見たときは怒ってるようで声を掛け辛かったけど今は優しそうで良い感じですから」


 哲也をじっと見つめて増田が頷いた。


「うん、娘の仇も討てたからな、こんな俺でも何か出来るってわかったからさ」


 増田が戯けるようにニッと笑う、


「頑張って働いてさ、娘に色々買ってやらないとな」

「あははははっ、親馬鹿は困りますよ」

「馬鹿で結構、その方が楽しく暮らせるさ」

「あはははっ、退院おめでとうございます」


 哲也が笑いながら手を差し出す。


「うん、ありがとう」


 哲也の手をしっかりと握って握手すると増田は元気に退院して行った。



 自分まで幸せになったような楽しい気分で哲也は部屋へと戻る。


「家族か……そういや父さんも母さんも一度も見舞いに来ないなぁ…… 」


 ゴロッとベッドに横になって考える。


「あれ? 父さんってどんな顔してたっけ……母さんは…………僕の家って……痛てて、頭痛くなってきた」


 きりきりと締め付けられるような頭痛に哲也は身を固くしてじっと耐えた。


「 ……大分楽になった……あとで香織さんに頭痛薬でも貰おう」


 5分程して痛みが治まる頃には父や母のことなどすっかり忘れていた。


「増田さん幸せそうだったな、幽霊の家族か……マジで見たんだよな? 」


 見回りの夜に見た光景を思い出す。ベッドの上で上半身を起す増田に抱き付く5歳くらいの女の子、その脇で2人を見て微笑んでいた母親らしき女性、確かに見た。島里に襲い掛かる女も自分の前に腕を広げて立つ女の子も、確かに見たのだが夢のようにも思えた。


「児童虐待にあって母親に捨てられて増田さんは世間を憎んで生きてきた。その心に霊たちが反応したのか、それとも…… 」


 幼少の頃に児童虐待、ネグレクトにあって心の傷を負った増田が見せた幻だったのだろうか? 増田が求めた家族への愛、渇望してた心が作り出した家族という幻だったのかもしれない、その心にあのマンションで殺された母娘の霊が反応したのかも知れない。


「いいなぁ増田さん、幸せそうだった……僕も香織さんと家族になりたいなぁ…… 」


 布団を丸めて抱き付きながら哲也は眠りに落ちていく、見る夢は家族の夢か、心を寄せる香織の夢か、どちらにせよ幸せな寝顔だ。

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