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第四十六話 井戸

 井戸とは地下水を汲み上げて生活に利用する設備のことだ。

 幸いな事に日本は雨が豊富で地下には沢山の水が溜まっていて何処を掘ってもだいたいは水が出てくる。場所によっては鉱物などで汚染されていて重金属を含んでいて使えないものもある。昨今ではピロリ菌などがいる場合もあるが煮沸すれば飲料に適する水が多いのも特徴だ。


 そういう事もあって昔から井戸は使われてきた。水道が発達するまでは井戸だけで生活していた場所も多い、隣家とは数十メートルも離れている田舎なら各家々に井戸があるのは当り前だった。家々が立ち並ぶ町では地域の共有物として井戸が掘られ大事に使われてきた。

 其れ故に争いに使われることも多い、戦が始まれば井戸に毒物を入れて使えなくするような事が行われた。籠城した城の井戸に毒物を入れられては降伏するか餓死するしかない、生き物は水が無ければ生きていけないのだから。


 大切なものだからか怪談話も多い、古典的な怪談として有名な番町皿屋敷は殺されて井戸に投げ込まれたお菊の亡霊が現われて皿を数えるという怪異から始まる物語だ。

 有名なホラー映画では井戸から霊が這い上がってくるというものもある。夜中に覗くと未来の自分が映ると言い伝えられている井戸もある。

 ぽっかりと空いた暗い穴を見ていると何処まで続いているのか、溜まった水の先には底はあるのか、落ちれば助からないだろうと怖くなり様々な想像をして物語が生まれたのだろう。


 哲也も井戸を使ったことがある。小学生の時に行った遠足か何かで手で漕ぐポンプを使って井戸水に触れた記憶が確かにあった。その時の井戸はコンクリートで固められてポンプだけが突き出ていて人が落ちないようになっていて少しも怖くはなかった。

 だが哲也が話しを聞いた患者が使った井戸はポンプなどもなくぽっかりと暗い穴があいている古井戸だ。水を汲むのではなく逆に何かを入れていた。誤った使い方に井戸に棲む何かが怒ったのかもしれないと哲也は思った。



 昼食を終えた哲也が何をするでもなくぶらぶらと階段を下りてきた。


「高校野球でも見に行くかな、一人で見るよりみんなで見た方が楽しいからな」


 レクリエーション室へ向かって長い廊下を歩いていると何やら騒ぎが聞こえてきた。


「何揉めてるんだろう? 」


 哲也が駆け付けるとレクリエーション室の前で男の患者が掴み合いの喧嘩をしている。


「俺たちが何したってんだよ」

「そうだよ、何もしてないだろ」

「何言ってやがる! 俺を見て笑っただろが! 」


 哲也と仲の良い波瀬と見知らぬ二十歳くらいの若い患者が互いの腕や胸倉を掴み合って対峙していた。傍で山口がおろおろしながらも波瀬の味方に付いている。


「お前新入りのくせに偉そうなんだよ」

「昼飯の時も俺たちの席に勝手に座りやがって」


 取っ組み合いをしている波瀬の後ろから他の患者たちが野次を飛ばす。

 どうやら波瀬と山口、その他の数名の患者と新しく入ってきた患者が揉めている様子だ。


「煩ぇ! ぶっ殺すぞ!! 」


 若い男が波瀬を殴り倒した。


「止めなさい、喧嘩はダメですから…… 」


 レクリエーション室で監視をしていた男性看護師が止めようとするが殴り合いの喧嘩を見て怯えたのか言葉だけで2人の間に入ろうともしない。


「てめぇ、やりやがったな」


 起き上がった波瀬が若い男に殴り掛かる。


「煩ぇ! お前らが喧嘩売ってきたんだろが」


 若い男は波瀬の拳をかわすと逆に殴り倒した。


「俺は何人も殺してるんだからな、今更お前一人くらい殺しても…… 」


 哲也は興奮した様子の男の腕を後ろから掴んで後ろ手に押さえ込んだ。


「いい加減にしないか」


 暴れる者の取り押さえ方や護身術は本物の警備員である嶺弥や角田に習っていた。もっとも若い男の隙をつかなければ押さえ込むことは出来なかっただろう。


「痛てて……何しやがる」

「喧嘩の原因は何なんですか? 」


 逃れようと暴れる男に伸し掛かるようにして体重を掛けながら哲也が訊いた。

 脇で見ていた男性看護師が哲也に手を貸して患者を取り押さえる。


「哲也くん助かるよ」


 2ヶ月ほど前に入って来た看護師で如何にも頼りなさげな新人と言った様子だ。


「叱るときは怒鳴ってください嘗められますよ、それで喧嘩の原因は何ですか? 」


 やんわりと注意しながら訊くと看護師の代わりに押さえ付けていた患者が怒鳴るように口を開いた。


「彼奴らが悪いんだ。彼奴らが馬鹿にして笑いやがったんだ。俺が悪いんじゃねぇ」


 波瀬と山口を睨みながら暴れる患者を哲也が一喝する。


「だからって殴っていいわけないだろが! 」


 押さえ付けられながら男が首を回して哲也を見た。


「お前誰だよ? 」

「僕は警備員だ。警備員の中田哲也だ」

「警備員が偉そうに……痛ててて………… 」


 首を曲げて睨み付けてくる男の後ろ手に押さえた腕を哲也が捻る。


「少なくとも今はあんたより偉いよ、暴れる患者を取り押さえるのも仕事なんだからな」


 そこへ騒ぎを聞いてベテラン看護師の佐藤が駆け付けてくる。


「何の騒ぎだ? 」

「喧嘩です。この患者が暴れて波瀬さんを殴りました」

「なっ、何言って…… 」


 報告する哲也の下で文句を言おうとした男の声が小さく萎む、強面の佐藤を見て戦意が失せた様子だ。


「喧嘩か…… 」


 辺りを見回す佐藤に臆したのか集まっていた野次馬患者たちが散っていく、


「哲也くんの言う通りです。この患者さんが一方的に殴りつけましたよ、哲也くんが手伝ってくれて助かりましたよ」


 一緒に男を取り押さえていた看護師が言うと佐藤が哲也に向き直る。


「そうか、俺からも礼を言う」


 褒められた哲也の顔に笑みが広がる。


「えへへっ、佐藤さんから褒められるとは思ってませんでした」

「ふんっ! 別にお前が嫌いなわけじゃない、余計なことをしなければな」


 照れたのか強面にニヤッと笑みを作ると佐藤は新人看護師と一緒に暴れていた患者を引き連れて行った。


「助かったよ哲也くん」


 佐藤の姿を見て何処かへ消えていた波瀬と山口がおべっか笑いを見せてやってきた。


「笑ったんですか? さっきの患者さんを見て笑ったんですね」


 ジロッと睨む哲也の前で波瀬が口を尖らせる。


「そっ、そんな事してないぞ、ちょっと目が合っただけだ」

「ごめんよ哲也くん、新人のくせに偉そうだって波瀬さんが言うからさ」


 言い訳する波瀬の隣で山口が申し訳なさそうに謝った。


「まったく……今度騒ぎを起したら罰としてテレビ取り上げますからね、今回は相手が殴ってたから大目に見ますけど」


 波瀬と山口、他数名が新しい患者をからかったのだと直ぐにわかった。相手から思わぬ反撃を受けて取っ組み合いの喧嘩になったのだ。


「悪かったよ……でも殴られたんだからな、俺は殴ってないからな」

「もうしないよ、彼奴、人を殺したとか言ってたし、だから御免ね哲也くん」


 悪かったと言いながら罰が悪そうに波瀬と山口は逃げていった。


「まったく…… 」

「あはははっ、大変だったわね」


 溜息をつく哲也に笑いながら早坂が話し掛けてきた。


「見てたんですか? 見てたなら叱ってくださいよね」


 嫌そうな顔をする哲也の肩を早坂がポンポン叩く、


「悪かったわね、でも長浜くんがどうするのか見たくて…… 」


 長浜とは先程までいた新人看護士のことだ。ベテランである早坂なら取っ組み合いの喧嘩になる前に止めることなど簡単にできただろうが頼りなさそうな長浜の対処法を見たかったらしい。


「長浜さんですか……注意するときは大声で、叱るときは怒鳴るように言っといてください、大声で注意すれば大抵おとなしくなりますから」

「了解、注意しとくわ、ありがとうね哲也くん」


 楽しげにこたえる早坂の向かいで哲也が顰めた顔を笑顔に変える。


「それはそうと、あの患者さん何で入って来たんですか? 殺すとか、何人も殺したとか物騒な事言ってましたけど」


 虚言だろうと思いながらも先程の患者が言っていた言葉が気になった。

 早坂の顔からスッと笑みが消えた。


「ダメよ、哲也さんには話すなって東條さんから止められてるからね」

「香織さんが? って言うことは何かあるんですね」


 興味津々な哲也の前で早坂が顔を顰める。


「だからぁ、ダメですからね」

「そんなぁ、僕と早坂さんの仲じゃないですか、それに問題を起しそうな患者の事は知らないと……さっきみたいな事が起きたら困るでしょ」


 縋るように見つめる哲也の向かいで暫く考えてから早坂が続ける。


「 ……仕方ないわね、私に聞いたってのは内緒にしといてよ、あの患者さんは舘中さんって言って3日前に措置入院で入って来たのよ」

「措置入院ってマジで殺人事件なんすか? 」

「無い無い、本当なら隔離へ送られてるわよ」


 顔の前で無いと手を振りながら早坂が教えてくれた。



 舘中勝喜たちなかしょうき24歳、通行人に対する傷害罪で逮捕されるが責任能力がないとして措置入院で磯山病院へと入ってきた。何でも自分が殺した人々の幽霊が恨めしげに現われるのだという、昼夜関係なく現われる幽霊の恐ろしさに眠ることも出来なくなり睡眠不足と酒に酔って朦朧とした意識の中で通行人に殴り掛かって逮捕されたのだ。

 舘中が言うには暴力団員の知人に命じられて人を殺して山奥の井戸へ捨てたというのだが供述通りに古井戸を探しても遺体は出てこない、知人の暴力団員も殺害など知らないと話す。舘中が殺したと話した何人かは確かに実在していて現在は行方不明になっているが舘中はもちろん知人の暴力団員とも接点は無かった。金銭目的や怨恨などの背後関係も無く死体も出てこないのでは逮捕など出来るわけもない、幽霊が出るなどと真顔で話す舘中を警察も相手にすることはなく、全て舘中の妄想だと、心の病だとして処理されて磯山病院へと入院させられたのだ。


「妄想っすか……人を殺す妄想なんて物騒ですね」


 話しを聞いて顔を顰める哲也の向かいで早坂が弱り顔で頷いた。


「うん、その妄想で殺した人の幽霊が出てくるって怯えてお酒で気を紛らわせたんでしょうね、アルコール依存症になって更に幻覚を見るようになって……悪循環ね、暫く退院なんて出来ないわよ」

「厄介な患者って事ですね」


 わかったと言うようにうんうん頷く哲也を見て早坂が意地悪顔で口を開く、


「哲也さんほどじゃないけどね」


 哲也がバッと身を乗り出す。


「なっ、何言ってんすか、僕は大人しくて優等生の患者っすよ」

「何言ってんのよ、お化けお化けって毎回手を焼かせるじゃない」


 呆れ顔で話す早坂の前で哲也が罰が悪そうにもごもご小声で続ける。


「いや、それは……だって入院なんて退屈だから………… 」

「あはははっ、まぁね、だから今も教えてあげたんじゃない」


 笑いながら哲也の肩をポンポン叩くと早坂が歩き出す。


「そういう訳だから舘中さんは気に掛けておいてね」

「了解っす。揉めないように注意しときますよ、まぁ今頃、佐藤さんに絞られてると思いますけど」

「あははははっ、佐藤さんに捕まるなんて運が悪かったわね」


 哲也が背に話し掛けると早坂は楽しそうに笑いながら歩いて行った。


「人殺しの妄想か……その妄想で殺した幽霊が出てくると…………霊現象とか関係なさそうだけど話しは面白そうだな」


 反対方向へ歩き出す哲也の目が興味津々というように輝いていた。



 その日の深夜、午前3時の見回りで哲也がC病棟へと入っていく、


「舘中さんの部屋どこだ? 早坂さんに聞くの忘れてた」


 病室ドア横のネームプレートを見て回ったがD棟とE棟には舘中の名前は無かった。


「措置入院だから警備員控え室に近いDだと思ったんだけどなぁ」


 独り言を言いながら最上階まで上がっていく、


「屋上の鍵は異常無しっと」


 いつものように最上階から下りながら各フロアを見て回る。


「舘中さんどこかなぁ~~ 」


 見回り序でに舘中の部屋を探していた哲也が4階の廊下で足を止めた。


「はぅっ!! 」


 思わず呻きのような変な声が喉から出た。

 格子の入った窓から差し込む月明かりと非常灯だけが点いている薄暗い廊下の先に行列が出来ていた。


「なっ、なに…… 」


 何をしているのかと話し掛けようとした言葉を哲也が飲み込んだ。

 薄暗い廊下を塞ぐように横向きに並んでいる人々は入院患者ではない、スーツ姿やジャンパー、Tシャツなどカラフルな私服を着ているかと思えば下着も着けていない裸の人もいる。年齢も様々だ。二十歳になっていないような若い女も居れば還暦を超えているだろう老人も居た。


「ああ…… 」


 廊下を塞ぐように並んでいる人々が病室へと消えていく、ドアを開けて入っていくのではない、壁を通り抜けるようにして病室の中へと消えている。1人が壁へ消えても廊下に並ぶ列は途切れない、反対側、格子の入った窓が並ぶ壁から別の人がスーッと抜け出るように現われる。生きている人間ではない、幽霊だ。


「あっ、あんたら……貴方たち何してるんですか」


 哲也が震える声で訊いた。幽霊を見慣れている哲也にもこれ程大勢を一度に見るのは初めてだ。


『ああぁ……うぁあぁぁ………… 』


 哲也の声が聞こえたのか並んでいた霊たちが一斉に振り向いた。


「ふぅっ! ふうぅぅ」


 異常な光景に哲也が唸った。

 老若男女、様々な格好をした人々、そのどれもが恨めしそうなどんよりとした光を目に灯している。


「あっ、あはは……すっ、すみませんでした」


 引き攣った笑みを浮かべて哲也が謝ると霊たちは前に向き直って壁を抜けるようにして病室へと消えていく、


『ああぁ……ううぅ…… 』


 中には苦しげな呻きを上げながら壁へと消えていく霊もいる。

 どれほど時が経っただろう、格子の入った窓側の壁から入ってくる霊が居なくなる。最後尾は若い女の幽霊だった。


「な……何だったんだ」


 最後の若い女が壁の中へと消えたのを見て哲也はやっと人心地がついた。


「あんなに沢山……何があるんだ」


 哲也が発見した時からだけで12人ほどの幽霊が並んでいた。


「誰の部屋だ」


 及び腰になりながら霊たちが消えていった病室を確かめる。


「舘中さんの部屋だ」


 哲也が絶句する。早坂から聞いた幽霊の話しなどアルコール依存症が見せた幻覚だと思っていたのだ。だが自分も見た。見間違いではない、あれ程の大勢の幽霊を一度に見るのは初めてだ。

 ドアに伸ばした手を哲也が引っ込めた。


「眞部さんに言った方がいいな」


 彼奴らが襲ってきたら……、1人2人なら、いや4人くらいでも殴り倒して逃げる自信はあったが流石にあの数では助かる気はしなかった。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏…… 」


 余りの出来事に確かめようかと躊躇していた哲也の耳に部屋の中からブツブツと念仏のような声が聞こえてきた。


「ええぃ! 」


 勇気を奮い立たせて哲也がドアを開けた。


「あれ!? 」


 部屋の中に先程の霊たちがみっちりと詰まっていたらと怖かったが拍子抜けだ。何も居ない、飾り気の無い普通の病室だ。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏………… 」


 窓際にあるベッドから声が聞こえた。舘中だろう、布団を頭から被って念仏を唱えている。


「舘中さん? 大丈夫ですか」

「うわぁあぁぁ~~ 」


 声を掛けながら哲也が布団をポンポン叩くと舘中が悲鳴を上げて飛び起きた。


「たっ、助けてくれぇ~~、俺が悪かった……助けてくれぇ………… 」


 助けを乞いながら布団の中へと潜り込む舘中に哲也が慌てて声を掛ける。


「舘中さん、しっかりしてください」

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏…… 」


 頭から布団にくるまって念仏を唱える舘中に呆れながらも哲也が再度声を掛ける。


「舘中さん、僕ですよ、警備員の哲也です。安心してください、何も居ませんよ、大丈夫ですから顔を見せてください」


 何度か呼びかけると舘中が恐る恐る布団から頭を出した。


「ほっ、本当に大丈夫なんだな……本当に警備員なんだな、人間なんだな、幽霊じゃなくて生きてる人間なんだな」


 辺りを見回しながら何度も確認する舘中を落ち着かせようと哲也が優しく声を掛ける。


「大丈夫ですよ、昼間会ったでしょ、僕ですよ、警備員の中田哲也です」

「あっ、あぁ……本当だ。昼間の警備員さんだ」


 見覚えのある哲也を見て安心したのか舘中が包まっていた布団から出てきた。


「安心してください、もう大丈夫ですからね」

「たっ、助けてくれ、幽霊が……俺が殺した奴らが化けて出てくるんだ」


 昼間、哲也に押さえ付けられた事など忘れたかのように助けを求めてきた。


「落ち着いてください、もう霊たちは消えましたよ」


 優しく声を掛ける哲也の前で舘中がハッと顔色を変えた。


「けっ、警備員さんも見たのか? 」

「見ましたよ、廊下から並んで部屋に入っていくのを」

「まっ、マジか……やっぱり本物の幽霊だ……幻覚じゃないんだ」


 俯きながら震える声で言うと舘中がバッと顔を上げて哲也に縋り付いてきた。


「助けてくれ、彼奴ら毎晩やって来るんだ。警察も医者も、誰も信じてくれない、全部病気だって言うんだ。俺がおかしくなったって……違うんだ。奴らは本当に化けて出てるんだ。俺を呪い殺そうとしてるんだ」

「何したんですか? 1人2人ならともかく10人以上居ましたよ、恨めしそうに……あんなの僕も初めて見ましたよ」


 縋り付いてくる舘中の両肩を掴んで引き離しながら哲也が続ける。


「僕は霊感体質らしくて幽霊とか見えるんですよ、何か力になれるかも知れないから話しを聞かせてください」

「わかった。全部話す。警察も医者も誰も信じてくれないんだ」


 心配そうに顔を覗き込む哲也に舘中は涙を流しながら話を始めた。


「ヤクザのケンジと知り合ったのが切っ掛けだ…… 」


 見回りの途中だが切羽詰まった様子の舘中を前に明日にしてくれとも言えずに哲也はベッドの横に椅子を持ってくると話しを聞いた。

 これは舘中勝喜たちなかしょうきさんが教えてくれた話しだ。



 舘中は都内のアパートで一人暮らしをしていた。

 落ち着きがないというのか、飽きっぽいというのか、一所にいられない性格で何度も転職しては1年と持たずに辞めていた。少し働いてはフラフラと遊び回る。その様な生活をしていた。その癖にパチンコと競馬が趣味と嘯いて博打に明け暮れる。当然のように生活資金が足りなくなる。依存症というほどにギャンブルにのめり込む大勢の人たちと同じように舘中にも借金があった。



 半年ほど前になる。

 闇金から金を借りたのが切っ掛けで舘中は暴力団員のケンジと知り合う、借金を棒引きするから手伝えと言われて舘中はケンジの仕事を手伝うことになる。

 相手はヤクザだ。真っ当な仕事ではないのはわかっていたが400万円ほどにも膨らんだ借金を返す術は舘中には無かった。


 ケンジに頼まれた仕事は死体の処理だった。知られた以上はタダで帰すわけには行かないと脅されて舘中は怯みながらも手伝った。

 群馬県、ある山奥の廃村、朽ちた屋敷の裏に井戸がある。そこへ死体を投げ捨てた。


「こっ、これでいいんですね」


 工事現場などで使うゴミを入れたりするガラ袋に入った遺体を袋ごと井戸に捨てると舘中がケンジの顔色を窺った。


「ああ、上出来だ。簡単だっただろ? 」


 タバコを吸いながら見ていたケンジがニヤッと笑った。

 ここまでは都内から車でやって来た。運転しながらケンジが後ろに転がっている大きな袋の中身を教えてくれた。

 振り込め詐欺をやらせていた中年男だという、仲間がドジを踏んで警察に目を付けられた。主犯である暴力団幹部に捜査の手が回る前に始末されたのだ。


「ええ……袋を持って山を登るのは大変でしたけど」


 舘中が卑屈に笑いながらこたえた。てっきり穴を掘って埋めるのだと、その重労働を一人でやらされるのだと思っていたのだが拍子抜けした。


「だからお前に手伝って貰ったんだよ、村があった頃は道があったんだけどな、今は木まで生えて何処が道だかわかりゃしない」


 タバコをくゆらせながらケンジがかつて道があったらしき藪を指差した。

 大きな煙を吐いてケンジがタバコを投げ捨てた。


「でもまぁ、途中までの草ぼうぼうの道からここまで良い運動になっただろ」

「そっ、そうですね、200メートルくらい担いで歩きましたから」

「ひはははっ、御陰で俺は楽ができたよ」


 引き攣った笑みでこたえる舘中にケンジが封筒を差し出した。


「取っとけ、バイト代だと思えばいい」

「あっ、ありがとうございます」


 舘中は喜んで受け取った。金まで貰えるとは思ってもみなかった。封筒の感触から10万円ほど入っているのがわかる。

 嬉しそうな舘中を見てケンジが悪い顔でニヤッと笑う、


「わかってるだろうが誰かに話したら今度はお前が袋に入ることになるぞ」

「はっ、はい、もちろん、もちろん誰にも言いませんよ」


 震える声で返事をしながら舘中は金の入った封筒をズボンのポケットに押し込んだ。アルバイト代だと言ったが口止め料だという事は直ぐに理解した。


「んじゃ帰るか、せっかく来たんだ。旨い物でも食って帰ろう、奢ってやるよ」

「ありがとうございます」


 新しいタバコに火を付けて歩き出すケンジの後を舘中が喜んで付いていった。

 藪を掻き分け獣道のような小道を歩く、その先、所々に草が生えている舗装もされていない道に車が止めてある。元は山道だった場所だ。車で入れるところまで来てそこから死体の入ったガラ袋を担いで登ったのだ。


「ちょっと待ってろ」


 ケンジが車の後部座席から一升瓶を取り出した。ラベルから日本酒だとわかる。


「山の神様、ご迷惑をお掛けしました」


 大声で言いながらケンジが日本酒を撒いていく、歩いてきた藪の手前だ。

 辺りに日本酒の香りが漂っていく、一升瓶の全ての酒を撒き終えた。


「これでよしっと、じゃあ帰るか」


 ケンジが運転席に乗り込んだ。舘中は助手席だ。来るときに運転手を買って出たのだがケンジは車を運転するのが好きらしく休んでろと一言言って自分で運転してきたのだ。

 町の定食屋で飯を食って都内に帰る頃には夜になっていた。


「ご苦労さん、また何かあったら頼むからな」


 舘中のアパートの前でケンジが車を止めた。自分の家は教えていない、それなのにケンジは知っていた。


「は……はい、何時でも呼んでください」


 震える声で返事をすると舘中は車から降りていく、


「ああ頼む、月に二度ほどあるからな、いい小遣い稼ぎになるぞ」


 ニヤリと含み笑いを見せるとケンジは車を走らせた。

 走っていく車を見つめながら何もかも調べられているのだと舘中の背筋に震えが走った。


「逃げられないな……そんな事をしたら俺も殺される」


 引き攣った青い顔でズボンのポケットから金の入った封筒を取り出す。


「15万も入ってる……今日一日で工場で働いた1ヶ月分と同じかよ」


 400万ほどの借金が棒引きになっただけでなくアルバイト代も貰えたのだ。ヤクザの死体処理を手伝うという怖さはあるが自分が手を下して人を殺したわけではない。


「俺が殺したんじゃないし……あんな山の中じゃ誰も行かないだろうしな、俺は捨てただけだし、良いバイトだぜ」


 言い訳をしながらアパートの階段を上る舘中の口元には嬉しそうな笑みが浮んでいた。



 1ヶ月も経たないうちにケンジから呼び出しがあった。


「悪いなぁ、また手伝ってくれ」


 少しも悪いとは思っていない顔でケンジが後部座席のガラ袋を指差した。


「またあの井戸ですか? 」

「そうだ。あそこが一番楽だからな」


 不安気な舘中の背をケンジがバシッと叩いた。

 ケンジが運転席に乗り込む、舘中は助手席に座った。断ることなど出来ない。


「ドライブだと思えばいい、旨いもの食って帰ろうぜ」


 タバコに火を付けるとケンジが車を走らせる。


「ひひっ、ひへへへっ、後ろの奴なぁ、若頭補佐の女に手を出してな、誰かわからないくらいに殴られて顔が潰れてるぞ」


 運転しながらケンジが楽しそうに教えてくれた。

 20歳くらいの若い男だ。暴力団幹部の愛人とデートしているところを見つかってそのまま拉致されて殴り殺されたらしい、男からではなく愛人の方からモーションを掛けてきた。愛人からの浮気だ。男はヤクザの女とは知らずに付き合ったのだ。その結果、俳優並みのイケメンだったが今は顔が潰れて化け物みたいだと言ってケンジが厭な声で笑った。


「女の方はどうなったんですか? 」


 後部座席に転がっているガラ袋をちらっと見てから舘中が訊いた。


「ひへへっ、気になるか? 」


 喉を震わせるような奇妙な笑い声を出すケンジの隣で舘中が頷いた。


「女から声を掛けてきたのに男だけが殺されるなんてちょっと酷いと思って…… 」

「いへへへっ、だよなぁ~~ 」


 信号で止まるとケンジが厭らしい笑みを浮かべて舘中を見つめた。


「だからさぁ、女はもっと酷い目に遭ってるぞ」

「酷い目って? 」

「いひひひひっ、世の中には色んな趣味を持ってる奴がいるって事さ、人をいたぶって欲情する俺みたいにな」

「ケンジさんみたいに…… 」

「ひへへへっ、近い内にまた仕事が出来るぞ」


 信号が青に変わる。どういう意味かと顔を顰める舘中に構わずケンジが車を発車させた。



 群馬県の山奥、かろうじて道だとわかる草ぼうぼうの山道で車が止まった。


「じゃあ頼んだぞ」


 車から降りるとケンジが背伸びをしながら言った。


「ここも草ぼうぼうでその内に通れなくなりますね」


 舘中が後部座席に置いてあるガラ袋を引っ張り出す。


「そうだな、前はもっと奥まで車で行けたんだぞ、運ぶのも楽だったんだが……まぁ俺が運ぶんじゃないからな」


 ケンジが車のトランクから背負子とロープを出した。


「ひょろっとした小僧だから前よりは軽いだろ」


 ケンジと一緒に背負子にガラ袋を縛り付けると舘中が背負って立ち上がる。


「マジだ。前より軽いや……でも匂いますよ」

「いひひひっ、殴られて血塗れだからな、漏らしてたみたいだし、まぁ我慢しろ」


 楽しそうに笑いながら歩き出すケンジの後ろをガラ袋を背負った舘中が続いて歩いていく、


「ちょっと休みませんか? 」


 斜面を150メートルほど歩いた所で舘中が足を止めた。

 藪を掻き分けるようにして先を歩いていたケンジが振り返る。


「もうバテたのか? あと50メートルほどだ。井戸に着いたら休ませてやる。こんな藪の中じゃタバコも吸えん、火事になったら大変だからな」

「軽いと思ってたんですが結構重いですよ」


 苦しげに息をつきながら舘中がケンジを見つめる。以前運んだ死体よりは確かに軽い、だが前回は重さも疲れも感じないほどに緊張していたのだ。

 ケンジがニヤッと口元を歪めながら話し出す。


「そりゃぁ死体だからな、生きてる人間背負うより死体の方が重いって知ってるか? 」

「ああ、聞いたことありますよ、死体じゃないですけど背負ってた子供が眠った途端に重くなったって、不思議ですよねぇ」


 大きく頷いて舘中がこたえた。死体を背負っている恐怖を紛らわそうとしてか饒舌だ。


「本当は重さなんて変わらないんだろうけど感覚というか、力が抜けて掴み所が無くなるからか重く感じるんだよな」


 ケンジが背を向けて歩き出す。


「また筋肉痛になるな」

「ひへへへへっ、帰りに旨いもの食わせてやるから黙って運べ」


 愚痴りながら続く舘中に振り返りもしないでケンジが笑った。



 崩れた家が所々に並ぶ廃村に辿り着く、殆どが茅葺き屋根という古い造りで全て崩れ落ちてかろうじて家だったと分かるものばかりだ。


「よくこんな場所を見つけましたね」


 背負子を降ろして舘中が伸びをする。


「しひひっ、たまたま埋められそうな山を探してたら見つけたんだ。誰の山か持ち主もわからなくなっててな木を切る奴らも役人も入ってこない、私有地って事になってるから猟師も勝手に入れない、たまに物好きが入ってくるだけだ」


 咳き込むように笑うとケンジがタバコに火を付けた。


「誰も入ってこない山って事か……じゃあ見つかりませんよね? 」


 不安気に見つめる舘中の前でケンジが煙を吐き出しながら口を開いた。


「ああ、絶対に見つからないから安心しろ、そこらに埋めたら獣が掘り返すこともあるが井戸に放り込んだら大丈夫だ」


 絶対という言葉に安心したのか舘中が卑屈な笑みで返す。


「穴を掘らなくても済むから楽ですしね」

「そういう事だ。でもクマが出るらしいからそれだけ気を付けとけよ」


 タバコをくゆらせながらケンジがやれというように手を振った。


「クマは怖いなぁ……見張っててくださいよ」


 おべっか笑いをしながら舘中が死体の入ったガラ袋を縛ってあった背負子から外した。


「古井戸か…… 」


 前回は怖くて見る事も出来なかった井戸の中を覗き込む、


「深いっすね、真っ暗で何も見えないや」


 丸くぽっかりと空いた穴、光が届くのは3メートルほどだ。その先は真っ暗でずっと眺めていると吸い込まれそうである。

 後ろで見ていたケンジが口からタバコを外して他人事のように話し出す。


「ライトで照らしても底どころか水面も見えないぞ、少なくとも2~30メートルはあるだろうから落ちないように気を付けろよ」

「もし落ちたら…… 」


 振り返った舘中を見てケンジがニヤッと悪い顔で笑った。


「助けるロープなんて無いからな」


 ロープがあってもケンジが助けることはないだろう、そう思いながら舘中は死体の入ったガラ袋を持ち上げる。


「悪く思うなよ」


 放り込もうとした舘中が悲鳴を上げて袋を足下に落として尻餅をつく、


「うわぁあぁぁ~~ 」

「どうした? 」


 タバコを手に持ったままケンジが倒れた舘中の脇に駆け付けた。


「だっ、誰か居た……井戸の中に何か居た……目が……目が合った」


 尻餅をついたまま震える声で井戸を指差す舘中を見てケンジが顔を顰める。


「はぁ? 居るわけないだろが」


 馬鹿にするケンジの足下で舘中が震える声で必死に訴える。


「居ましたよ、見ましたから……マジっすよ、泥のような……頭みたいな泥があって白い目が………… 」


 一旦言葉を止めて思い出すようにして続ける。


「 ……白目だけだった。真っ白な目だ。黒い目玉じゃ無かった」

「泥? 目玉? そんなものあるわけないだろが、待ってろ」


 呆れ顔でケンジが井戸を覗く、


「何も無いぞ、真っ暗だ」

「そんな……マジで見たんですって」


 立ち上がると舘中がケンジの横から恐る恐る井戸の中を覗き込んだ。


「居ない……でも確かに見たんですって」

「ビビってるから見えたんだ」


 呆れ返るケンジに舘中が食って掛かる。


「マジで居たんですって、マジで見たんですから……泥のような奴が井戸の壁にへばり付いてたんですよ、目が合ったんですから」

「わかったわかった。カエルか何かだろ、デカいウシガエルなら人の顔に見えなくもないからな、そんな事よりさっさと捨てろ、飯食いに行くぞ」


 手に持っていた火の点いたタバコを井戸に投げ捨てるとケンジが早くしろと言うように死体の入ったガラ袋を爪先で蹴った。


「カエルなんかじゃないですからね」


 怯えながら舘中が死体の入ったガラ袋を持ち上げる。


「前の奴も何か居たって言ってたな」


 後ろでケンジがぼそっと呟くが怖くて震えながら袋を井戸に投げ捨てる舘中には聞こえなかった。


「さっさと帰りましょうよ」


 舘中が逃げるようにして井戸から離れる。投げ込んだ袋を確認もしない。


「なにビビってんだよ、一服させろ」


 ケンジが新しいタバコに火を点ける。


「マジで何か居たんですって……投げ捨てた奴が化けて出てきたんじゃ…… 」

「馬鹿言ってんじゃねぇ! 」


 タバコを咥えながらケンジが怒鳴った。


「でもマジで見たんですって」

「いい加減にしろ! 」


 必死の形相で食い下がる舘中を一喝した後でケンジが声を和らげて続ける。


「お化けとか信じてるのか? そんなものは居ない、何十人と始末してきた俺が言うんだから間違いない、お化けが居るならとっくに呪い殺されてるからな」


 ケンジが怒りを抑えているのがわかったので舘中はそれ以上話すのは止めた。


「俺が付いてるんだ。もうちょっとどっしり構えろ、何かあったら俺がケツ拭いてやる。こんな仕事やってるとな彼方此方に顔が利く、大抵のことは出来るから安心しろ」


 咥えタバコでケンジが封筒を差し出した。


「取っとけ、月に2回も手伝えばそれだけで生活できるだろ、楽な仕事だぜ」

「あっ、ありがとうございます」


 舘中が礼を言って封筒を受け取る。感触から前と同じ15万円ほどが入っているのがわかった。


「じゃあ飯食って帰るか」


 最後に大きく吸うとケンジはタバコを捨てて靴で踏んで火を消した。

 よく見ると彼方此方にタバコの吸い殻が転がっていた。死体を処分しにケンジが何度も来ている証拠だ。


 ドボン! 


 大きな音が聞こえて2人が振り返る。


「何だ? 水の音だよな」

「何かが水に落ちた音です」


 ケンジと舘中が確認するように互いの顔を見合わせる。

 舘中の顔がみるみる強張っていく、


「あっ、彼奴だ……さっきの泥の化け物だ」

「止めろって言っただろが、お化けなんて居るかよ、カエルだカエル、お前が見たって言うのもカエルだ。カエルが飛び込んだんだよ」


 叱るケンジの顔も真剣な表情だ。引き攣った顔で舘中が続ける。


「でも水の音なんて…… 」


 死体が入った重い袋を投げ込んでも水の音など聞こえなかった。それが今聞こえたのだ。近くには水場などどこにも無い、あの井戸だけだ。


「止めろって言ってるだろ! さっさと帰るぞ」


 怒鳴るとケンジが歩き出す。井戸を確認しようとしないところを見ると内心怯えているのかも知れない、これ以上機嫌を損ねて何かされては大変だと舘中は黙ってケンジの後に続いた。



 斜面を下り藪から出て車が止めてある場所に着いた。


「ちょっと待ってろ」


 ケンジが後部座席から日本酒の入った一升瓶を持ってくる。


「山の神様、ご迷惑をお掛けしました」


 大声で言いながら歩いてきた藪に向かって日本酒を撒いていく、辺りに日本酒の良い香りが漂っていく、匂いで安物ではないのが舘中にもわかった。


「何で酒を撒くんですか? 」

「俺の田舎でな、死んだ爺さんが猟をしててな、捕った獲物を沢で血抜きするんだ。その時に酒を撒いてた。ガキの頃に何でかって訊いたら山をけがしたから山神様に謝ってるんだとよ、酒を撒いて清めてたんだな」


 不思議そうに訊く舘中にケンジが神妙な面持ちで教えてくれた。


「死体を捨てたのを清めてるって事か」


 何とも言えない表情で山を見上げる舘中を見てケンジが戯けるように口を開いた。


「神様とかお化けとか信じてるわけじゃないけどな、まっ、おまじないみたいなもんだ」

「いいっすね、自分もパチンコとか競馬をするときにジンクスがありますよ」

「へぇ、どんなのだ。車の中で教えてくれ」


 背負子をトランクにしまうと2人は車に乗り込んだ。

 ケンジが運転して草が生えた山道を下っていく、


「さっきのジンクスって奴を教えろよ」

「まずパチンコは新装開店を狙って並ぶときに女の後ろに並びます。若い女でもお婆ちゃんでも何でもいいから女の後ろに並ぶと絶対に勝つんですよね、自分だけかも知れないけどこれで負けたことはないですね」


 無事に終って緊張が解けたのか、この場所から離れることが出来る安心感からか、舘中の口が軽い。


「ふ~ん、女の後ろねぇ……今度やってみるか」


 食い付いてきたケンジに舘中が自慢気に続ける。


「競馬もあるんですよ、こっちは勝率3割ってところですけど…… 」

「馬か、馬はあんまりやらんけど聞かせろ」


 死体処理をした後とは思えないような陽気な会話をしながら車を走らせ、町の定食屋で晩飯を食べて都内へと帰っていった。



 それから何度かケンジの手伝いで死体を山奥の井戸へと捨てた。

 泥の化け物のような変なものを見たのはあれきりだ。もっとも怖くて井戸の中を覗いていないので化け物がいても気付かないだろう、初めはおっかなびっくりだったが5人も投げ捨てる頃には慣れて恐怖も感じなくなっていた。それどころか一回につき15万円も貰えるのだ。月に2回手伝うと30万円になる。工場で必死に働いても手取りで20万になるかどうかだ。それが月に2回山奥に行くだけで30万だ。舘中は工場勤務を辞めてケンジの舎弟のようになっていた。


「ケンジさん、そろそろ仕事ないんですかね? 」


 助手席から舘中がケンジの顔を窺った。


「はぁん? もう無くなったのか? 」


 車を運転しながらケンジが呆れるように息を吐いた。


「えへへっ、この前の競馬で負けちゃって…… 」


 卑屈な笑みを見せる舘中をケンジが嫌そうな目でちらっと見た。


「ジンクスはどうしたジンクスは? 勝てるんじゃなかったのか」

「えへへへっ、パチンコなら8割方勝てるんですけど競馬は3割ってとこですから……勝てると思ったんですけどねぇ、負けちまいました」


 おべっか笑いする舘中の隣でケンジがハンドルから片手を離すとダッシュボードの上に置いてあるタバコに手を伸ばす。


「お前ギャンブルで身を滅ぼすタイプだな……いや、既に落ちるとこまで落ちてるか、俺の手伝いなんてしてるからな」


 タバコを咥えるケンジに舘中が助手席からライターを持った手を伸ばす。


「何言ってんですか、ケンジさんの御陰で楽させて貰ってますから」


 舘中が差し出したライターでタバコに火を点けるとケンジが煙を吐き出しながら口を開いた。


「感謝しろよ、あんな楽な仕事ないぞ」


 食事はもちろんキャバクラに風俗遊びなど全てケンジの奢りだ。週の5日はケンジに付きっ切りなので生活費には殆ど困らない、死体処理の手伝いで貰った金は殆どがパチンコや競馬などのギャンブルへと消えていた。


「それより仕事はないんですか? もうすっからかんですよ」


 ライターをカチカチ鳴らして火を点けて遊びながら情けない顔で話す舘中の隣りでケンジが咥えタバコで続ける。


「仕事か……来週辺りに入って来そうだけどな、まぁ、それより明日の寄り合いでは飲まされるから運転頼んだぞ、あとで3万やるからそれで暫く持たせろ」


 舎弟である舘中が助手席に座って兄貴分であるケンジが運転をするなど他から見れば変に見えるだろうが運転の好きなケンジが舘中に運転を任せるのは組の寄り合いで酒を飲んで酔っ払ったときだけだ。それもかなり酔ったときだけなので舘中が運転をすることは滅多に無い。


「来週っすか? ありがたい、3万あれば充分ですよ」


 機嫌の良くなった舘中を見てケンジが呆れ顔でレストランの駐車場へと車を入れた。



 レストランで昼食をとる。ケンジは強面だが普段の物腰は柔らかく外見からではヤクザとはわからない、舎弟のような舘中にも細かなことをあれこれ命令することもないので余所から見れば何処かの会社の上司と部下程度にしか見えない、ヤクザの幹部と舎弟など外見ではわからなくとも言葉遣いや態度で何となく分かるものだがケンジと舘中の間にはそれがなかった。


「好きなもん食っていいぞ」


 ケンジと舘中が向かい合わせに座る。


「じゃあ、カツカレーにします。ケンジさんは何にします? 」

「そうだな、生姜焼き定食にするか」


 店員を呼んで注文を終えた舘中が立ち上がる。


「トイレ行ってきます」


 ペコッと頭を下げてトイレへと向かう舘中を見てケンジが冷水の入ったコップを手に取った。


「そろそろいいかな、舘中の奴どんな顔するか楽しみだ」


 悪い顔でニヤッと笑うとケンジが水を飲み干した。



 翌週の水曜日、ケンジが舘中のアパートへ迎えに来た。


「仕事っすか? 」

「ああ、さっさと出てこい」


 午前9時前だ。寝ていた舘中は取る物も取り敢えず寝間着代わりのジャージからジーパンに着替えて出てきた。


「途中でコンビニ寄ってください、腹ペコっす」


 車の外から運転席に座っているケンジに頼むと後部座席をちらっと見た。工事現場のゴミ入れなどに使う大きなガラ袋が1つ載っていた。


「えっ? 」


 転がっている死体の入った大きなガラ袋が動いたような気がした。


「何やってる。直ぐに行くぞ」


 確かめる間もなくケンジに急かされて舘中は助手席へと乗り込んだ。

 直ぐに車が発車する。普段は比較的に優しいケンジだが仕事となると一変する。死体を山へ捨てに行くのだ。見つかればその場で逮捕される。そうなればケンジ自身が全ての罪を背負うことになっていた。組への義理もあるが何より本当の事を話せば刑務所から出られたとしても確実に始末されるだろう、神経質になるもの当然だ。


「それでどんなヤツなんです? 」


 アパート近くのコンビニで買ったおにぎりをモシャモシャ食べながら助手席に座る舘中が訊いた。


「女だ」


 こたえながらケンジがダッシュボードの上にあるタバコへと手を伸ばす。

 舘中が食べかけのおにぎりを口の中へと押し込むと同じくダッシュボードに置いてあったライターを持ってケンジの口元へと手を伸ばした。

 酒は上から誘われたときにしか飲まないがケンジはヘビースモーカーだ。タバコへの対応を間違えると機嫌が悪くなる。それでケンジがタバコを吸うときだけは舘中も他のヤクザの舎弟のような態度になる。


「女っすか? 何したんですか」


 旨そうに煙を吸い込むケンジを見て舘中が安堵して訊いた。


「金だ。借金して風呂に沈めたんだが使い物にならなくなってな…… 」


 煙を吐き出しながらケンジが教えてくれた。

 借金があり風俗へと沈めたが薬に手を出して廃人となり客の相手も出来なくなったので始末するらしい。


「借金か……怖いっすねぇ~~ 」


 他人事のように呟く舘中を見てケンジがニヤッと口元を歪めた。


「お前だって同じだろが、俺が拾わなきゃ振り込め詐欺か薬の売人でもやらされてるぞ」

「えへへへっ、ケンジさんには感謝してますよ」


 おべっか笑いをしながら舘中が新しいおにぎりを食べ始めた。



 山に着いた。死体の入ったガラ袋を降ろそうと手を伸ばした舘中が悲鳴を上げる。


「うわっ! うっ、動いた……ケンジさん!! 」


 後部座席に転がっているガラ袋がモゾモゾと動いていた。

 驚く舘中を見てケンジが楽しそうに口を開く、


「ああ、まだ生きてるからな」

「いっ、生きてるって……マジっすか? 」


 舘中の顔から恐怖が消えていく、死体が動いているなら怖いが生きているなら動いて当り前だ。


「急だったんでな、殺してる暇がなかった」


 楽しげなケンジの前で舘中が顔を顰める。


「じゃあ、どうするんですか? 生きたまま井戸へ捨てるんですか? 」

「そうだな……まぁ取り敢えず運んでから考えよう」


 さっさと運べというようにケンジが舘中の肩をポンッと叩いた。

 車のトランクから背負子を取り出すと舘中は中で女がもがいているガラ袋を縛って背負う、女は袋の中で手足を縛られているのか動くと言っても暴れるほどではない。



 いつものように藪を掻き分けて進んでいくケンジの後を背負子を背負った舘中が続いて山を登っていく、


「生きてるのか…… 」


 死体の処理に慣れたのか普段なら冗談を言いながら登っていく舘中が今日は軽口の一つも飛ばさない。


「どうした? 今日は静かだな」


 ケンジは普段以上に楽しそうだ。


「別に……生きたまま井戸に捨てられるのは嫌だなって思って………… 」


 まだ生きていると聞いて同情したのか舘中の声が暗い。


「気にするな、死んでようが生きてようが一緒だろ、それにその女はもう死んでるのと同じだ」


 陽気に歩くケンジの後を陰鬱な気分で舘中が続いて藪を抜けると殆ど草木に飲み込まれた廃村へと出た。


「ここに降ろせ」


 古井戸の前、砂利が敷いてあって余り草が生えていない場所に舘中が背負子を降ろす。

 普段なら舘中が縛ってあるロープを解いて死体の入っているガラ袋を背負子から外すのだがその日はケンジがロープを解くとガラ袋を砂利の上に転がした。


「どんな女か見てみるか? 」


 ニヤッと悪意ある顔で笑いながらケンジがガラ袋の口を開けた。

 ガラ袋からゴロッと女が出てきた。30過ぎといった窶れた女だ。口が半開きで目の焦点が合っていない、正気を失っているのは一目でわかった。


「まっ、マジで生きてる…… 」

「死んでるのと同じだ。ヤク中の末期だ。飯も食えねぇ舌も回らねぇから碌に話しもできないぞ」


 焦りを浮かべる舘中の前でケンジが女を蹴った。


「ヴァアァ……あぁ………… 」


 軽い力ではない、思いっ切り蹴ったが痛みも感じないのか女は小さな声で唸るだけだ。


「どっ、どうするんです? 殺すんですか? 」


 声を震わせる舘中にケンジが悪い顔を向ける。


「好きにしていいぞ、犯したければ犯してもいいぞ」


 舘中は顔を引き攣らせて改めて女を見る。

 洗っていないのかパサパサの髪の毛、焦点の合っていない目に半開きの口から流れる涎、カサカサに乾いた肌、頬どころか体中が痩せこけているように見える。

 目鼻は整っていてヤク中でなければそれなりに綺麗な女だとは思うが今の姿には好きにしてもいいと言われても欲情など湧いてこない、それ以前に今から井戸に捨てる。殺される女を抱く度胸など舘中にはなかった。


「いっ、いや……俺は何もしなくてもいいです」

「そうか、じゃあ殺すか……んじゃ任せるぞ」


 何処に持っていたのかケンジが包丁を差し出した。


「えっ? 俺が? 俺がやるんですか」


 自身を指差す舘中を見てケンジが頷いた。


「ああ、これが本当の仕事だ。死体を捨てるだけで何十万と貰えるわけがないだろ」

「じゃっ、じゃあ今までの死体も…… 」

「俺が全部殺した。お前が井戸に捨てた奴ら全部な」


 焦りに血色が薄くなる舘中の向かいでケンジが残忍な笑みを見せた。


「お前にもそろそろ一人前に仕事をやって貰おうと思ってな、簡単な仕事だ。この包丁でブスッと刺すだけだ」


 ケンジが受け取れというように包丁を舘中の前に持ってくる。


「おっ、俺が……でも……まだ無理ですよ、俺なんか………… 」


 震えながら出来ないと頭を振る舘中を見てケンジの顔付きが変わった。


「出来ないって言うのか? 」

「ちっ、違います! 」


 舘中が慌てて大声でこたえる。


「じゃあ、さっさとやれ命令だ」


 ケンジが無理矢理に包丁を舘中に握らせた。


「でっ……でも………… 」

「一度で殺すな、何度も突き刺せ、そうすりゃ度胸がつく」


 ブルブルと全身を震わせる舘中をケンジが睨むようにじっと見つめる。


「さっさと終らせて飯食いに行くぞ」


 怖い目で睨まれて舘中は覚悟を決めた。ここでやらなければ自分が危ないのは考えなくともわかった。


「うわぁあぁぁぁ~~~ 」


 舘中は叫びながら倒れている女に包丁を突き刺した。

 女の着ているクリーム色のブラウスに滲み出すように血が広がっていく、


「ぎゃあぁぁ~~ 」


 流石に痛みを感じたのか女が悲鳴を上げる。


「たっ、助けて………… 」


 正気を失いながらも殺されるというのはわかったのか女が泣いて助けを乞う、


「ごっ、ごめんな」


 涙を流しながら舘中が女に包丁を突き立てた。


「ぎぃ、ひぎぃ……いいぃ…………いやぁあぁ~~ 」


 立てないのか身体を引き摺るように這って逃げる女に舘中が続けて包丁を突き刺した。


「かっ、がぁっ、ぎゃががぁあぁぁ~~ 」


 獣のような絶叫を上げて女は動かなくなった。

 それを見て舘中がその場にへたり込む、返り血を浴びて腕やシャツの彼方此方が赤い。


「よくやったなぁ~~舘中ぁ~、これでお前も一丁前だ」


 楽しげにニヤリと笑いながらケンジが分厚い封筒を差し出す。


「30万入ってる。取っとけ」


 へたり込んだ舘中の前に封筒を置くとケンジが続ける。


「これでお前も人殺しだ。これで俺と同罪だぞ」

「ひっ、人殺し…… 」


 ほうけた顔で呟く舘中の前でケンジがタバコに火を点ける。


「お前の前にも手伝って貰ったんだがな、その馬鹿は殺せないって言いやがってなぁ」


 舘中がバッと顔を上げた。


「そっ、そいつはどうなったんですか? 」


 タバコを口から離すと大きく煙を吐いてケンジがニヤッと笑った。


「知りたいか? 」

「いっ、いえ……話したくなければいいです」


 口に持ってきたタバコを咥える直前で止めてケンジが笑い出す。


「ふひっ! いひひひぃっ、その中だ。井戸の底だ…………今日殺さなかったらお前も同じようになってたぞ」


 タバコを持った手で古井戸を指差すケンジの向かいで舘中が焦りまくって口を開く、


「ちょっ……何でもします。何でも手伝うから殺さないでください」

「ひひっ、いひひひっ、心配するな、お前は合格だ。一人じゃ面倒な仕事だからな手伝う奴がいる。お前も人殺しだ。俺と同じだ。これで安心して任せられるよ」


 厭な声で愉しげに笑うケンジを見て舘中は安堵したのか変な笑みを浮かべた。


「へへっ……任せてください、何でもしますから………… 」


 卑屈にこたえる舘中を見つめながらケンジが不思議そうに話し出す。


「この井戸にはもう30人以上放り込んでいるがそれでも底が見えないんだよな、水の音もしないし地球の裏側に繋がってたりな、ひははははっ」

「30人も…… 」


 舘中がサッと振り返って古井戸を見つめる。以前見た泥のような化け物が頭に浮んだ。


「さっさとそのゴミを袋に入れて始末しろ」


 タバコをくゆらせながらケンジが命じる。


「わっ、わかりました」


 金の入った封筒をジーンズのポケットに突っ込むと舘中は殺した女をガラ袋に詰め込んだ。


「服も着替えろ、手に付いた血は今着てるシャツと水で洗え」


 何処に持っていたのかケンジが着替えのシャツとミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。用意周到だ。初めから舘中に女を殺させる予定だったのだ。



 舘中は手に付いた血を洗い服を着替えると脱いだシャツを女の死体が入っているガラ袋に押し込んで袋の口を縛ると井戸に投げ捨てた。


「これからも頼むぞ、1人殺して始末すれば30万やるからな」


 ニヤニヤ笑いながらケンジが舘中の肩をポンポン叩いた。


「さっ、30万…………わかりました」


 舘中が押し込んだ封筒の入っているポケットを撫でながらこたえた。

 人を殺して平然としているケンジに狂気を感じて恐怖するが今更後には引けなかった。

 ここで止めるなどと言えば自分も殺されるだろう、下手に逃げても相手はヤクザだ捕まれば確実に殺される。嫌々ながらも手伝うしかなかった。



 その日の夜、アパートに帰った舘中は昼間のことを忘れるかのように遅くまで酒を飲んで酔っ払って眠りについた。


『 ……返せぇ……返せぇぇ……た……返せぇぇ………… 』


 どれくらい眠っただろうか、くぐもった声のようなものが聞こえてきた。


『 ……返せぇぇ……返せぇ……返せぇぇ………… 』

「うぅぅ…… 」


 煩いなと思いながら寝返りを打つ、


『返せぇぇ~~ 』

「おわっ! 」


 耳元で聞こえたような気がしてビクッと震えて目を覚ました。

 ベッドに横になったまま寝惚け眼で見ると点けっぱなしのテレビがボウッと部屋を照らしていた。


「テレビかよ…… 」


 テレビの音だと安堵したその時、


『返せぇぇ~~ 』


 直ぐ後ろから声が聞こえた。

 反射的に頭を浮かせて後ろを見る。


「うわぁあぁーーーっ 」


 ベッドの後ろ、人のような姿をした何かがぬっと壁を突き抜けるようにして半身を出していた。


「わぁっ、うわぁあぁ~~~ 」


 叫びを上げて舘中が飛び起きる。

 転がるようにしてベッドの脇に座り込んで見ると何も居ない、色褪せた安っぽい壁紙の壁があるだけだ。


「ばっ、化け物が…… 」


 震えながら立ち上がり確認するがベッドの向こうの壁はもちろん部屋の中には何も居ない。


「泥の化け物だ……泥の頭に白い目があった」


 山奥の古井戸に死体を捨てたときに見た井戸の壁に貼り付いてこちらを見上げていた人の姿をした泥の塊のような化け物が頭に浮ぶ、


「あの化け物が…………はははっ、そんな事があるかよ」


 恐怖を紛らわせるように舘中が引き攣った顔で笑う、


「寝惚けたんだ。酔ってるしな、泥の化け物が居たなら泥が付いてるはずだろ、綺麗なもんだ。怖いって思ってるから寝惚けて変なものを見たんだ」


 トイレを済ませて冷蔵庫から缶酎ハイを取り出す。


「30万あるんだ。明日はパチンコでも行くかな」


 寝る前に飲んで既に酔っているので缶酎ハイ一杯で足下がフラつくほどに酔いが回ってくる。


「月2回も手伝えば60万だ。遊んで暮らせるぞ、絶対にバレないってケンジさんも言ってたし今までバレてないんだからな……もう1人殺したんだ後は何人殺しても同じだ。やってやるよ、やってやる」


 酔っ払って気が大きくなったのか、覚悟を決めたのか、偉そうに独り言を言いながらそのままベッドに寝っ転がると直ぐに眠りに落ちていった。



 気が付くと山の中にいた。


「ここは……おわっ! 」


 少し先に屋根が崩れ落ちた農家のような屋敷があり、その横に井戸が見えた。死体を捨てた古井戸だ。


「あの井戸か……ケンジさんは? 」


 また仕事で来たのかとケンジを探す。


「ケンジさん? 何処ですか、ケンジさぁ~~ん」


 大声で探すがケンジは見当たらない。


 ドボン! 


 大きな水音が聞こえた。井戸の方向からだ。


「ケンジさん? 」


 ケンジが居るのかと舘中が井戸に歩いて行く、


「ケンジさん隠れてるんでしょ? 」


 井戸の前、砂利が敷いてあって余り草が生えていない場所までくると足が止まった。


「まだ残ってる…… 」


 地面の所々、生えている雑草にも赤黒く固まった血の跡が見えた。舘中が包丁で刺し殺した女の血だ。


「やらなきゃ俺が殺されてたんだからな、悪く思うなよ」


 辺りに散乱するケンジが捨てたタバコの吸い殻を蹴りながら舘中が呟いた。


『ああぁ……ヴあぁあぁ………… 』


 呻き声のようなものが聞こえて舘中が顔を上げる。


「ケンジさん? 」


 名前を呼びながら井戸の直ぐ傍まで歩いて行く、


『あぁ……ああぁあぁ………… 』


 井戸の中から聞こえてくるとわかって舘中が足を止めた。

 その目の前、井戸の縁に白い手が見えた。


『ヴアァアァァ……あああぁ………… 』


 井戸の縁を掴んで何かが這い上がって来た。

 女だ。パサパサの髪、げっそりと頬の痩けた血色の悪いカサカサの肌、クリーム色のブラウスの所々が血に染まって赤黒くなっている。


『ぁあぁああぁ…… 』


 半開きの口から血を滴らせながら女が井戸から出てきた。


「はっ、はぁあぁぁ~~~ 」


 肺の中の息を吐き出すようにして舘中が掠れた悲鳴を上げた。

 あの女だ。自分が刺し殺したヤク中の女だ。


『あぁあぁ……お前が殺した………… 』


 女が恨めしげに舘中を見つめた。殺したときには何処を見ているのか焦点の合っていなかった目がしっかりと舘中を捕らえている。


『死にたくなかった死にたくなかった。何故殺した。何故助けてくれなかった』


 恨めしげに睨みながら女がフラフラと歩いてくる。


「ふぁぁっ、ふわぁあぁ~~ 」


 逃げ出そうとした舘中がその場に転んだ。何かに掴まれて足が動かなかったのだ。


「何が……うわぁあぁぁーーーっ 」


 足下を見ると砂利の中から泥にまみれた手のようなものが突き出て自分の足首を掴んでいた。


「なっ、何が……何で…… 」


 足を掴む泥の手を必死に外そうとするがパニックを起しているので手を使わずに足で砂利を蹴るようにしてもがくだけだ。


『何で助けてくれなかった……死にたくなかったのに………… 』


 フラフラとおぼつかない足取りで女が直ぐ傍までやって来た。


「おっ、俺が悪いんじゃない、ケンジが悪いんだ。俺は命令されただけだ。やらなきゃ俺が殺されてるんだ」


 舘中は倒れてもがきながら逃れようと必死で言い訳をする。


『死にたくなかった。お前が刺した……お前が殺した……死にたくなかった。死にたくなかったのに………… 』


 倒れている舘中に女が伸し掛かる。


『死にたくなかった……死にたくなかった………… 』


 女のカサカサに乾いた肌が舘中の頬に触れた。


「たっ、助けてくれっ! 俺が悪かった。助けてくれぇ~~ 」


 叫びながら舘中が目を覚ます。


「たっ、助け…… 」


 飛び起きたベッドの上で辺りを見回してほっと安堵した。


「夢かよ……まったくなんて夢だ。悪夢だぜ」


 汗びっしょりで喉がカラカラだ。何か飲む序でに着替えようとしたその時、後ろで気配を感じた。


『死にたくなかった死にたくなかった。何故殺した。何故助けてくれなかった』


 パサパサの髪にげっそりと痩けた頬をした女が立っていた。


「ふぁあぁぁ~~!! 」


 恨めしげな女の目を見ながら舘中は意識が遠くなっていった。



 窓から日が差して部屋を明るく照らす。朝ではない夕方だ。安アパートの部屋は西日がきつくて朝よりも明るく暑くなる。


「うぅ……今何時だ」


 舘中が怠そうに起き上がる。


「おっ、お化けは? 」


 思い出して慌てて部屋を見回すが何も異常は無い。


「夢か……ベッドの横に立ってたのも全部夢だったのか」


 安堵しながら近くのテーブルに置いていた目覚まし時計を見る。工場勤めをしていたときに目覚ましとして使っていたがケンジの手伝いをするようになって工場を辞めてからは只の時計としてしか使っていない。


「もう4時半かよ……何時間寝てたんだ」


 酒を飲んで酔っ払ってハッキリとは覚えていないが夜の0時過ぎにベッドに入ったので彼此16時間ほど寝ていたことになる。


「寝たって言うより気絶してたんだな……クソッたれが! 飯食う序でにパチンコでも行くか」


 愚痴りながら部屋を出るとパチンコ店へと向かう、ギャンブルで身を持ち崩して闇金に借金した挙げ句にヤクザのケンジに捕まって死体処理などという仕事をする羽目になったのに一切懲りていない。



 真夜中の午前1時前に部屋に戻ってくる。


「クソが! 5万も負けたぞ」


 パチンコで負けて居酒屋で自棄酒をして彼此6万ほど使ってきた。


「変な夢は見るわ、負けるわ、碌な事がない」


 愚痴りながらベッドに寝転がる。16時間ほど寝たはずなのに直ぐに睡魔が襲ってきた。


「はぅん? ここは? 」


 気が付くと山の中にいた。前に朽ちた屋敷と井戸が見える。


「ケンジさん? 」


 死体を捨てる井戸を見て仕事だと思い込んでケンジを探す。


 ドボン! 


 水音が聞こえて井戸へと歩いて行く、


「ケンジさんでしょ? さっさと済ませて旨いものでも食いに行きましょうよ」


 吹っ切れたのか、金に目が眩んだのか、井戸へ死体を投げ捨てることに罪悪感は消えている。


『あぁあぁ……ヴぁああぁぁ………… 』


 苦しげな呻きと共に井戸の縁に白い手が見えた。


「けっ、ケンジさん! 大丈夫ですか」


 ケンジが井戸に落ちたのかと慌てて近付く、その目の前で井戸から何かが這い上がって来た。


『ぁあぁぁ……ああぁ……死にたくなかった………… 』


 パサパサの髪にげっそりと痩けた頬をした女だ。クリーム色のブラウスが血に染まっている。舘中が刺し殺した女だ。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げて逃げ出そうとした舘中が転んだ。その足首を泥のような手が掴んでいる。


「たっ、助けてくれぇ~~~ 」


 逃れようともがきながら情けない声を上げる舘中に井戸から出てきた女がフラフラと歩いてくる。


『死にたくなかった死にたくなかった。何故殺した。何故助けてくれなかった』


 恨めしげに見つめながらブツブツと呟く女の後ろ、井戸からまた何かが出てくるのが見えた。


『おぁあぁ…………おおぁああぁぁ………… 』


 男だ。背格好から20歳くらいの若い男に見えるがハッキリとはわからない、その顔が潰れていた。顔にミンチの肉を貼り付けているようにも見える。外れているのか大きく垂れ下がった下顎、右目は潰れてわからない、かろうじて残った左目が恨めしげに舘中を見つめていた。


『おぁあぁ……痛い……止めてくれぇ…………殺さないでくれぇ………… 』


 顔の潰れた男が女の後ろからフラフラと歩いてくる。


「ひぅっ! ひぅぅっ~~ 」


 舘中の喉から掠れた悲鳴が出た。二度目に井戸に投げ捨てた若い男だと直ぐにわかった。

 実際に顔を見たわけではないがヤクザの愛人に手を出して顔が潰れるほどに殴り殺されたとケンジが話していた。


『ああぁぁ……死にたくなかった。死にたくなかった』

『おぁああぁ……痛い痛い……殺さないでくれ………… 』


 パサパサの髪を振り乱した頬の痩けた女と顔面の潰れた若い男が倒れている舘中に左右から伸し掛かる。


「ふっ、ふぁあぁ~~、たっ、助けてくれぇ~~ 」


 女のカサカサに乾いた頬と若い男のミンチのように潰れたぐちゃっとした頬が舘中の顔に左右から引っ付いた。


『死にたくなかった死にたくなかった』

『痛い痛い殺さないでくれ』


 恨めしげな声を聞きながら舘中は気を失った。



 どれほど経ったのか、舘中が目を覚ますと朝になっていた。


「わぁあぁ~~ 」


 悲鳴を上げて飛び起きる。自分の部屋だとわかって安心してその場にへたり込んだ。


「ゆっ、夢かよ……続けて見るなんてまったく………… 」


 夢だったことに安堵しながら人を殺したからあんな夢を見るのだと思った。


「ほんとにビビリだな、1人殺したくらいでよぉ、ケンジさんなんか何十人と殺してるってのによぉ」


 逃げられないならやるしかない、金には困らない生活が出来る。月に2~3度、殺してあの井戸に投げ捨てるだけだ。


「まぁいい、その内に慣れて変な夢も見なくなるだろうしな」


 覚悟を決めたその時、スマホが着信音を鳴らした。


「ケンジさんからだ」


 舘中が慌てて出る。仕事の呼び出しだ。



 ケンジの運転する車に乗って井戸のある山へと向かう、


「此奴、何をやったんです? 」


 振り返って後部座席に転がっているガラ袋を見ながら舘中が訊いた。


「おっさんだ。組の名前使って脅してやがった。最近多いんだよ、ヤクザの振りすればビビると思って騙る馬鹿がな」

「ああ、よくある奴か」


 頷く舘中をちらっと見ると運転しながらケンジが続ける。


「でも相手が悪かった。本物のヤクザの知り合いがやってる店だ。とっ捕まえて金を毟り取ろうとしたら警察に言うとか抜かしやがってな、逆効果なのにな、もう捕まってんだぜ、事務所に連れ込まれてるのに警察だ何だと馬鹿言って只で済むと思うか? 」

「事務所に拉致られてそこで言ったんですか? 」


 呆れて訊いた舘中の横で相槌を打つとケンジが続ける。


「おう、血の気の多い若いのに囲まれてる中でな、警察の名前出したら俺らがビビると思ってやがる。ヤクザの名前出して店がビビったみたいに旨く行くと思ってやがる。今まで何度か店を脅して旨く行ったんだろうな」


 ケンジがハンドルから片手を離してダッシュボードの上にあるタバコに手を伸ばす。

 舘中はすかさずダッシュボードの上からライターを取ると火を点けてケンジの口元へ持っていった。

 咥えタバコで煙を吸い込んだあと口から離してタバコを持ったままハンドルを握ると煙を吐き出しながらケンジが愉しげに口を開く、


「んで、若いのがその場で〆(しめ)てよ、ボコったら打ち所が悪かったのか死んじまいやがってな、それで俺の出番ってわけだ」


 袋が動いていないのとケンジの話から後部座席に転がっているガラ袋に入っているのは既に死んでいる中年男だとわかった。


「馬鹿なおっさんですねぇ、土下座して謝ったら100万ほどで済んだかも知れないのに」


 今日は殺さなくてもいいと舘中は内心ほっと息をついた。


「そんな奴らばっかりだ。あの井戸に捨てた奴らはな、何某なにがしか俺らと関係を持ってな、自業自得って奴だ。だから気にする必要はない、殺されても仕方のない奴らなんだからよぉ」

「そっ、そうですよね」


 様子を覗うようにチラッと見てくるケンジに舘中はおべっか笑いでこたえた。まだ信用されていないのか試されているような気がした。



 山に着いた。車を降りて死体の入ったガラ袋を背負子で背負って登っていく、


「ケンジさん、此奴重いっすよ、人じゃなくて豚じゃないんですか」


 先を歩くケンジに舘中が冗談交じりに愚痴る。


「ふへへへっ、太ってたからな、袋に詰めるのも苦労したんだぞ、デカい袋がなくてよ、いつもの奴じゃ入らないってんで首折って横向きにして無理矢理押し込んだんだぞ」


 厭な声で楽しげに笑うケンジの後ろで舘中が迷惑顔で腕を回すと背負っているガラ袋を殴った。


「天国か地獄か知らんけど向こうへ行ったらダイエットしろよ」


 人を殺すのは御免だが死体を運ぶのにはもう慣れっこだ。


「ふひっ、ふへへへへっ、やるようになったじゃないか」


 振り返って見ていたケンジが楽しげに大きな声で笑った。


「ケンジさんの部下ですからね、これくらいは出来ないと」


 お世辞を言う舘中に満足気な笑みを見せるとケンジは前を向いて歩き出す。



 道無き、獣道のような山道を死体の入ったガラ袋を背負って歩いていると木々の影に何かが見えた。


「何だ? 」


 目の端に映ったものを確認しようと振り向くが何も居ない。

 暫く歩くとまた何かが木の陰に居るような気がしてくる。


「何だ? 」

「どうした? 」


 舘中の様子に先を歩くケンジが気付いて声を掛ける。


「それが……何かが居るような気がするんですが」

「何って何が居るんだ? 」


 ケンジと舘中、2人は立ち止まると辺りを見回した。

 誰かに見られたら大変だと思ったのかケンジの顔が険しく強張っている。


「何も居ないぞ、気の所為だろ」

「すっ、済みません、気の所為みたいです」


 卑屈にペコッと頭を下げる舘中を怖い顔で睨むとケンジが歩き出す。後ろから続いて歩き出した舘中の耳に微かな声が聞こえた。


『死にたくなかった…… 』


 反射的に舘中が振り返ると女が立っていた。

 パサパサの髪に頬の痩けた痩せた女だ。クリーム色のブラウスの所々が赤黒く染まっている。舘中が刺し殺した女だ。


『死にたくなかった……死にたくなかった………… 』

「ふぁあぁ~~っ!! 」


 掠れた悲鳴を上げて舘中が逃げるように走り出すが背負っていた死体の入ったガラ袋が重くてよろけて転んでしまう、


「何やってんだ! 」


 前を歩いていたケンジが怒鳴りながらやって来る。


「おっ、お化けが……あの女がっ!! 」


 舘中が震えながら後ろを指差すが何も居ない。


「お化けが居たんです。俺が刺し殺したあの女が……死にたくなかったって」

「お化け? そんなもの居るわけないだろ、見間違いだ」


 眉間に皺を寄せて叱るケンジに舘中が食って掛かる。


「居ますよ! 見たんですから……本当に居たんですよ、死にたくないって……夢にも出てきたんです。恨めしそうに襲い掛かって来たんですよ」

「お化けなんかいるわけないだろが! 」


 一喝するとケンジが舘中の背を指差した。


「やっと押し込んだってのに出てきてるだろが」


 ケンジが指差す先、背負っていた袋から中年男の頭が見えた。


「うわぁあぁ~~ 」


 舘中が叫びながら背負子を外す。男の頭が有り得ない方向へ曲がって付いていた。


「なにビビってんだ? さっき話しただろ、おっさんの首を折って袋に詰め込んだってな」


 あろうことかケンジは袋からはみ出た男の頭を忌忌しげに蹴った。男の頭はぐるんと回るようにして反対側の肩の方へと転がった。普通は骨でしっかりと繋がっているので少し蹴ったくらいで動くことはないが袋へ押し込めるために首の骨を折っているので筋と皮だけで繋がっている状態なのでぐるんと動いたのだ。


「きっ、聞きましたけど……こんなに殴られてるなんて思ってもなかったから」


 少し禿げ上がった中年男は相当殴られたらしく左目と右頬が大きく腫れ、口の中を切ったのか下顎から胸元が血で赤く染まっている。


「ったく、今日は替えの服は持ってきてないんだぞ、血で汚れるとヤバいからおっさんの頭は袋に押し込んどけ」


 ケンジがタバコを取り出した。藪の中だ。火事になるといけないので歩きながら吸うことはないが男の死体を袋に押し込む間の一服だ。


「すっ、すみません」


 舘中が謝りながらはみ出た男の頭を袋に押し込んでいく、死体は気持ち悪いがそれ以上にケンジの機嫌を損ねるのが怖かった。


『痛い痛い殺さないでくれぇ』


 近くで声が聞こえて舘中が振り向くと右の木の陰に顔の潰れた男が立っていた。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 舘中が悲鳴を上げて近くに居たケンジの腰にしがみつく、


「おわっ! 危ねぇな、火傷するだろが」


 咥えていたタバコを慌てて手で持つケンジに舘中がしがみついたまま右の藪を指差した。


「男が……この前井戸に投げ捨てた顔の潰れた男が………… 」

「はぁ? 何言ってんだ? 」


 馬鹿にするように言いながらケンジが右を見るが何も居ない、右の藪を指差しながら舘中が続ける。


「お化けが……幽霊が出たんです。俺が刺した女と顔の潰れた男の幽霊が………… 」

「まだ言ってるのか、お化けなんているかよ」


 ケンジが呆れ顔でしがみつく舘中を引き離す。


「マジで居たんですって、痛いって、殺さないでくれって…… 」

「いい加減にしろ! 」


 怒鳴りつけるとケンジは転がっているガラ袋からはみ出した中年男の頭を蹴るようにして袋へと押し込んでいく、


「お化けなんているかよ、居るなら俺が真っ先に襲われるだろが」


 吸っていたタバコを袋の中へと投げ捨てると男の頭を足で踏み付けながら袋の口を縛り付けた。


「馬鹿言ってないでさっさと早く運べ」


 ケンジが背負えと背負子を指差す。


「でも……でも幽霊が…………ケンジさんは怖くないんですか? 自分が手伝う前は1人でやってたんでしょ? 」


 背負子を背負いながら舘中が訊いた。


「1人? へへへっ、まぁな……少し前までお前みたいに手伝ってくれる奴は居たけど今は井戸の中だしな」


 ケンジのニタリとした不気味な笑みに嫌なものを感じながら舘中がまた訊いた。


「でも俺が手伝うまでは1人だったんでしょ? 」

「そうだな、5人ほどは1人で運んだぞ」

「1人でこんな山奥まで死体を運んで怖くないんですか? 化けて出てきたら…… 」

「ふひひひひっ、幽霊なんているかよ、死んだら只の肉の塊だ」


 楽しげに声を出して笑うケンジを上目遣いで見ながら舘中が続ける。


「でもこの前の女が……俺が刺し殺した女の幽霊が出てくるんですよ、寝てたら横に立ってるんですよ」

「ふひひっ、寝惚けただけだ。怖いと思ってるからそんなものを見るんだ。お前はマジでビビリだな」

「でもぅ…… 」

「いい加減にしろ! もし幽霊が出てきたら俺がまた殺してやる。俺が付いてるんだ安心しろ、お前は黙って死体を運べ!! 」


 食い下がる舘中を怒鳴りつけるとケンジが先に歩き出す。これ以上機嫌を損ねると困るので舘中は話し掛けるのを止めて黙って後に続いた。



 藪を抜けて朽ちた屋敷へと出る。


「死体を捨てるだけだから15万だぞ、殺したら30万やるからな、次の殺しはお前に任せる。度胸をつけて貰わないと今のままじゃ使えんからな」


 さっさと捨てろと古井戸を指差しながらケンジはタバコに火を点けた。


「わっ、わかりました……任せてくださいよ」


 おべっか笑いをしながら舘中が背負子から死体の入ったガラ袋を外す。


『ヴアァアァ……あぁああぁ…………死にたくなかった』


 死体の入った袋を井戸に投げ込もうとしたとき女幽霊が井戸の底から現われた。


「ひっ!! ひぃいぃぃ~~ 」


 驚いた舘中が井戸の傍に尻餅をつく、投げ出したガラ袋から中年男の頭が見えた。

 有り得ない方向へと曲がった男の頭、その目がカッと開く、


『悪かった……もうしない許してくれ…………助けてくれぇ』


 恨めしげに見つめながら男が口から血をゴボゴボ吐き出した。


「ふはぁあぁ~~ 」


 尻餅をついたまま這いずるように逃げ出す舘中を見てケンジが走ってくる。


「馬鹿野郎! さっさと投げ捨てろ!! 」

「おっ、お化けが……女が…………このおっさんが…… 」


 怒鳴るケンジの前で舘中が袋から出ている男の頭を指差した。


「いい加減にしろ! 幽霊なんているかよ、死んだおっさんが動くかよ」


 目を閉じて動かない死んだ男の頭をケンジが忌忌しげに踏み付けた。


「いいからさっさと捨てろ、今日は寄り合いがあるんだからな」


 怯える舘中の頭をケンジがペシッと叩いた。


「すっ、すみません」


 臆しながら辺りを見回すが幽霊などいない、舘中は中年男の頭を袋に押し込むと井戸へと放り捨てた。

 逆らえば殺されるかも知れない幽霊よりケンジの方が怖かった。



 その日の夜、女幽霊と顔の潰れた若い男だけでなく中年男の幽霊も現われた。その歪に曲がった頭に見覚えがある。昼間、井戸に投げ捨てた男だ。ガラ袋から頭をはみ出させていた中年男だ。


「きっ、気の所為だ。ケンジさんの言う通りビビってるから変なものを見るんだ」


 女と男2人、3人の幽霊に襲われて舘中は寝ることも出来ずに酒に逃げた。

 そんな日が何日も続いた。その度に舘中は浴びるように酒を飲んだ。恐怖を紛らわすには酔うしかなかった。

 だが酒が切れるとそれを見計らうように幽霊たちは現われる。

 初めに現われた自分が刺し殺した女、次に出るようになった顔の潰れた若い男、そして歪に首の曲がった中年男、他にも大勢の幽霊が昼夜関係なく現われるようになって舘中は益々酒に逃げるようになりアルコール依存症となっていく、それでもケンジは容赦なく仕事に誘ってくる。ノイローゼのようになりながらも舘中は従うしかなかった。



 ある日、買い置きの酒が切れた舘中が近くのコンビニに買いに行こうとおぼつかない足取りで歩いていると幽霊たちが現われた。


『死にたくなかった死にたくなかった…… 』

『痛い痛い……殺さないでくれぇ』

『もうしない許してくれ………… 』


 口々に怨嗟を吐く幽霊たちに舘中が殴り掛かっていく、


「うわぁあぁぁ~~、いい加減にしてくれぇ~~~ 」


 気が付くと警察官に取り押さえられていた。

 道を歩く人々に次々と殴り掛かった暴行罪と傷害罪だ。警察署に連行された舘中は幽霊から逃れようと全てを話した。山奥の古井戸に死体を投げ捨てたことはもちろん、暴力団員のケンジに脅されて仕方なく人を殺したことも全部話した。


 話しを聞いた警察は事情聴取ということでケンジを連れてくるがケンジは全部知らないと全てを否定した。舘中の言う通りに山奥の古井戸を調べるが死体どころか血痕一つ見つからない。

 舘中が殺したと話した何人かは確かに実在していて現在は行方不明になっているが舘中はもちろん暴力団員のケンジとも接点は無かった。金銭目的や怨恨などの背後関係も無く死体も出てこないのでは逮捕など出来るわけもない、幽霊が出るなどと真顔で話す舘中を警察も相手にすることはなく、全て舘中の妄想だと、アルコール依存症からの幻覚、もしくは心の病だとして処理されて磯山病院へと入院させられたのだ。

 これが舘中勝喜たちなかしょうきさんが教えてくれた話しだ。



 ベッド脇に椅子を持ってきて話しを聞いていた哲也が強張った表情で舘中を見つめた。

 人を殺したとわかっても目の前に居る舘中に何かされるという身の危険は感じないがやるせないどんよりとした重い雰囲気が漂っていた。


「じゃっ、じゃあ僕が見た幽霊は…… 」


 病室へと入っていく大勢の幽霊を思い出して哲也が言葉を詰まらせる。


「全部殺した奴らだ……井戸に投げ捨てた奴らだ………… 」


 真っ青な顔を引き攣らせて舘中が震える声でこたえた。


「殺して井戸に投げ捨てた……その幽霊か」


 廊下に列を作っていた霊たちが振り向いた時に見た恨めしげな表情、あれは殺されて井戸に捨てられた無念の表情だったのだと哲也は身震いした。

 ブルッと震える哲也を見て舘中が慌てて話し出す。


「俺も1人殺した……でもやりたくてやったんじゃない、あの女を刺さなきゃ俺がケンジさんに殺されてた。あの井戸に投げ捨てられてた」


 必死で言い訳する舘中の向かいで哲也が言葉を選ぶように口を開いた。


「でも井戸は警察が調べたんですよね? 」


 大勢の霊たちを思い出したのか、目の前に居る舘中が人殺しだとわかったからか、哲也の顔色も悪い。

 哲也が疑っているのかと少しムッとしながら舘中が頷いた。


「ああ、警察は井戸を探したけど死体は無かったって言ってた……捜索される前にケンジさんが隠したんだと思ってたけど血痕一つ残さずに隠せるはずもないし…… 」


 一呼吸置くと思い詰めた表情でじっと哲也を見つめながら舘中が続ける。


「それで……それで思うんだ。井戸に投げ捨てた奴らは這い出て何処かに居るんじゃないかって……それで俺のところへ化けて出てきてるんだ」

「そんなぁ……ゾンビじゃあるまいし、僕が見た霊たちは普通の幽霊に見えましたよ、話しを聞く前にも言ったけど僕は霊感体質らしくて幽霊とか見えるんですよ」


 霊感体質と聞いて舘中がバッと身を乗り出す。


「俺はどうすればいい? 助けてくれ! 警察も誰も信じてくれないんだ……何人も……俺が投げ込む前からだから何十人も入っているはずなんだ。ケンジさんは30人以上捨てたって言ってた。それなのに死体一つ出てこない、あの井戸は何なんだ? 」


 頼られて哲也が弱り顔になる。1人や2人の霊ならともかくハッキリ言って哲也の手に負えるものではない、かといって霊能力者の眞部に相談しても叱られるだけなのは想像しなくてもわかる。舘中は人殺しの犯罪者だ。罪を償った後ならともかく現状では除霊などしてくれないだろう。


「何でって言われても……そのケンジって人が舘中さんが捕まったって知って井戸の中の死体を運び出して隠したんじゃないんですか」


 霊たちが現われる原因はわかったが死体が何故消えたのかがわからない、話しから場所を知っているのは舘中とケンジというヤクザだけらしい、そのケンジが運び出したのだと考えるのが妥当だ。


「ケンジさんが運び出したとして、底も見えない井戸だぞ、どうやって引き上げるって言うんだ」


 舘中がケンジを庇うように言った。

 借金の返済で困っていたところを助けて貰っただけでなく死体処理を手伝ってくれた礼だと言って月に30万円以上も貰っていたのだ。それだけではない、週に5日は付き人のように会っていて飯や酒を奢って貰っていた。それなりの地位にいるらしくヤクザの事務所にたむろする若い奴らがケンジにペコペコしていたのを何度も見ている。そのケンジが手下ではなく舎弟のように接してくれたのだ。

 死体処理を手伝わされて挙げ句に人殺しまで強要されて嫌だったがケンジには恩義を感じていたのだ。一種のマインドコントロール状態である。


 ムッと怒る舘中に哲也が少し怯みながら話を続ける。


「それは……僕は見てないからわかりませんけど……じゃあ、なんで死体が消えるんですか? 何十人もの死体が消えるなんて有り得ませんよ」

「わからん……でも幽霊が出てくるんだ。彼奴らが俺を…………俺は全部話した……でも信じてくれないんだ。警察も医者も……みんなアル中の妄想だって…………人殺しで捕まってもいい、刑務所に入れられてもいい、死刑になるならそれでもいい……幽霊に取り殺されるよりマシだ。だから助けてくれ」


 どうしたらいいのかわからないと言うように大きく首を振る舘中の向かいで哲也が腰を上げる。


「霊感体質って言っても僕は幽霊が見えるだけで何も出来ませんよ、どうにかしてケンジってヤクザに白状させるしかないですね」

「無理だ。殺しを楽しむような奴だぞ、死体も見つかってないんだ。自白なんてするわけがない、俺だって病院へ入れられなければ殺されてるかもしれないんだぞ」


 焦りと恐怖を浮かべて舘中が即答した。


「それじゃあ、どうしようもないですね……何か出来るか考えておきますよ」


 出来るだけのことはすると約束して哲也は部屋を出て行った。



 長い廊下を歩いて階段へと向かう、


「見回りサボっちゃったな…… 」


 格子の入った窓の外がもやっと明るくなっている。部屋を出る前に時計を見ると午前4時半近くだった。3時の見回りの途中から彼此1時間ほど話しを聞いていたことになる。


「人殺しか……そりゃ化けて出てくるよな」


 階段を下りながら考える。

 舘中は被害者ではなく加害者だ。だが反省をしている。誰でも自分が殺されるような事になれば何だってするだろう、だからといって許される事ではない、それはわかっているが全てを話して刑に服すと言っている舘中を放って置くことなど哲也には出来ない。


「ヤクザに脅されて仕方なしとはいえ舘中さんは人を殺した。でも警察に全部話して罪に服すと言ってるんだ。何か出来るならしてやろう、でもなぁ~~ 」


 険しい顔で考えるがアイデアは浮んでこない。

 謝るだけでは霊たちは許してくれないだろう、かといって死体が出てこないのでは立証できない、舘中はアルコール依存症だ。恐怖からノイローゼになったのか統合失調症とも診断されている。

 刑に服して罪を償えば霊たちは許してくれるかも知れないが現状では妄想や幻覚を見ての妄言としか思われていないので警察も真面に相手をしてくれない、これでは哲也には打つ手はない。


「眞部さんに相談するか……叱られるだろうなぁ~~、少し様子を見てそれでダメなら相談しよう」


 人を殺したと聞いて頭の整理も出来ていない、哲也は2~3日様子を見て何か出来ないか考えることにした。



 翌日の夜10時、見回りで哲也はC病棟へと向かって外を歩いていた。


「1日考えても何も思い浮かばなかったなぁ、舘中さんともう少し話し合ってみるかな」


 どうにかして舘中を助けてやりたいがアイデアは浮んでこなかった。


「あれだけの霊を納得させるなんて僕には無理だよなぁ~~ 」

「哲也くん、C病棟は見回りをしなくてもいい」


 C病棟へと入ろうとしたとき、後ろから声を掛けられて振り返ると警備員の嶺弥が渋い顔をして立っていた。


「あっ嶺弥さん、見回りはいいって何でですか? 」


 驚きを浮かべる哲也を嶺弥が見据えた。


「舘中は危険だ。これ以上深入りさせたくない」

「舘中さんが? 大丈夫ですよ」


 幽霊の事を何処かで聞いて叱っているのだと哲也は思った。


「お化けの事じゃないよ、舘中は暴力団と関係のある男だ。そんな奴と親密になるのは良くない」


 叱るのではなく心配してくれているのだとわかって哲也の顔に笑みが広がる。


「あははははっ、そんな事ですか、大丈夫ですよ、舘中さんは悪い人じゃないですよ……そりゃ、犯罪を起して入院して来たんですけど、ここで変な事をするような人じゃないですよ」


 笑顔の哲也の前で嶺弥が真面目な表情で話し出す。


「舘中はよくても他がよくない……今朝、堀本健次郎ほりもとけんじろうとか言う奴が面会を求めてきたよ」

「健次郎……ケンジだ!! 」


 ケンジと聞いて哲也の顔から笑みが消えた。


「マジっすか? それでどうなったんです? 面会したんですか? 」


 焦る哲也を見据えるようにして嶺弥が続ける。


「古い友人だとか言っていたが暫くは面会謝絶と言って断ったよ」

「そっ、そうですか」


安堵する哲也の顔を嶺弥が覗き込む、


「何か隠している顔だな哲也くん」

「なっ、何にも……別に隠してなんかないですよ」


バレバレだ。焦りまくる哲也を見れば初めて会った人でも何か隠しているのがわかる。

少し呆れを浮かべて嶺弥がかぶりを振った。


「 ……そうか、ならいい、とにかくC病棟は見回りしなくてもいい、哲也くんは立ち入り禁止だ」

「そっ、そんなぁ…… 」


 情けない声を上げる哲也を嶺弥が睨み付ける。


「利けないというなら今後一切の見回りを止めてもらう」

「見回りを? 」


 顔を強張らせる哲也に嶺弥は冷淡に言い放つ、


「警備員を辞めて貰うという事だ」

「そんなぁぁ~~~~!! 冗談でしょ嶺弥さん」


 大声で驚く哲也の前で嶺弥の表情は変わらない。


「これは命令だからな」

「 ……C棟に、舘中さんに会わなければいいんでしょ? わかりました」


 長い付き合いだ。嶺弥が本気なのは直ぐにわかった。自分を心配してくれていることもわかったので従うしかない。



 しょぼくれて歩いて行く哲也を見つめる嶺弥の後ろに香織がスッと現われた。


「あ~あ、あんなに落ち込んで、かわいそう哲也くん」


 からかう香織に嶺弥が振り向く、


「下手をして哲也くんを危険にさらすわけにはいかない、それともお前がやってくれるのか? 」


 険しい表情の嶺弥の前で香織が顔の前で嫌だと言うように手を振る。


「冗談やめて、泥で汚れるのはごめんだわ」

「なら俺の遣り方に口を出すな、俺たちの……ここの事はまだ知られるわけには行かないのだからな」


 嶺弥を見つめる香織の目がキラッと光った。


「そうね、雑魚だけど用心深くて姿を見せない相手だからね、汚れるのも嫌だし今回は貴方に任せるわ」


 真面目な表情になったのは一瞬だ。直ぐに愛らしい笑みを見せると香織が続ける。


「うふふっ、でも簡単にハイそうですかと利く子じゃないわよ」


 楽しげな香織の前で嶺弥が厭そうに顔を歪める。


「確かにな、俺が注意したくらいで止めるような哲也くんじゃないか」

「そういう事、だから監視くらいは私も手伝ってあげるわよ」


 そこらの男なら頬を染めるような香織の愛らしい笑みにも嶺弥の表情は一切変わらない。


「勝手にしろ、邪魔をしなければ好きにしていい」


 じゃあな、と言うように手を振ると嶺弥はC病棟へと入っていった。


「貴方がいるから出てこないんじゃないの? 怖がって」


 楽しげに呟くと香織は本館へと向かって歩いて行った。



 深夜3時、見回りで哲也がC病棟へと入っていく、


「ダメだって言われても今更引けないよな、舘中さんは反省して全てを話して助けを求めてきてるんだ。僕に出来る事があればしてやらないと」


 病室へと入っていく霊たちを呼び止めて話しを聞いて舘中を許してやって欲しいと頼むつもりだった。

 いつものように最上階まで上がって屋上へと続くドアの鍵を確かめると下りながら各フロアを見て回る。


「次だ…… 」


 哲也が緊張した面持ちで4階へと降りてきた。


「居る…… 」


 長い廊下の先、舘中の部屋である401号室の前に廊下を防ぐように横向きに並んでいる人影が見えた。


「ビビるな! 」


 震える足の太股をバシッと叩いて哲也が歩き出す。


「ふぅぅっ!! 」


 哲也が悲鳴を飲み込んだ。

 反対側の格子の入った窓が並ぶ壁を突き抜けるようにして現われた霊たちが舘中の部屋の壁を抜けるようにして消えていく、その霊たちの並びにクリーム色のブラウスを血で染めた女と顔がミンチのように潰れたまだ若いだろう男に首が有り得ない方向へ曲がっている中年男がいた。舘中の話しに出てきた3人だ。具体的に殺したり井戸に放り込んだ話しを聞いた人たちである。

 その他にも多数の霊が列を作っている。1人が舘中の部屋に消えると窓側の壁を突き抜けるようにして他の霊が現われる。話しでは30人以上が井戸へ放り込まれたらしいので霊も30人以上いるのだろう、


「ぼっ、僕の話しを聞いてくれ」


 覚悟を決めて話し掛けた哲也の前で並んでいた霊たちがゆっくりと振り向いた。

 恨めしげな霊たちに臆しながら哲也が続ける。


「舘中さんは反省している。悪いと思ったから警察に全てを話したんだ。もう許してやってくれないか? 」


 訴えるように話し掛ける哲也の前で3人の霊が苦しげに顔を歪めながらボソボソと話し出す。


『死にたくなかった死にたくなかった…… 』

『痛い痛い……殺さないでくれぇ』

『もうしない許してくれ…… 』


 ブラウスを血で染めた女、目鼻がわからないくらい顔を潰された男、首を折られて頭が有り得ない方向へ曲がっている中年男、他の霊たちも恨めしそうに哲也をじっと見つめている。


「苦しかっただろう、痛かったよな、死にたくなかったよな、それはわかる。でも舘中さんも仕方なくやったんだ。ヤクザのケンジってのに脅されて……やらなきゃ舘中さんも殺されてたんだ。だから許してやってくれないか? 恨むならケンジって奴のところへ行けばいい、そいつが一番悪いんだからな、ケンジってのに祟ってやればいいそれでも気が済まないなら舘中さんも祟ればいい、順番が違うだろ? だから舘中さんは許してやってくれないか」


 必死に説得する哲也の見ている前でクリーム色のブラウスを血で染めた女が壁に消えていく、


「ちょっ、待ってくれ…… 」


 哲也は女を追うように舘中の部屋へと入った。

 一番始めに現われた幽霊である舘中が刺し殺した女を説得できればどうにかなるかも知れないと思ったのだ。


「ちょっ、話しを聞いてくれ…… 」


 哲也が部屋へと入ると霊たちがベッドを囲んでいた。


「舘中さん! 大丈夫ですか」

「てっ、哲也くんか!? 」


 哲也の声が聞こえたのか頭から被っていた布団から舘中が顔を見せた。


「助けてくれ、こいつらを追い払ってくれ」

「舘中さん謝ってください、霊たちに謝って……今幽霊たちを説得していたところです。舘中さんじゃなくてケンジのところへ行けって」


 哲也はドアから数歩入った場所から声を掛けた。

 駆け付けたいがベッドの周りは霊たちが囲んでいる。霊に触れることの出来る哲也なら霊たちを掻き分けることも出来るがそんな事をして霊たちの機嫌を損ねたくなかった。


「わかった。謝る。俺が悪かった……ケンジが怖かったんだ。従わなきゃ殺されてた。やりたくてやったんじゃない、謝る。俺が悪かった許してくれ……頼む、許してくれ、助けてくれ、悪かった」


 手を合わせて拝むように謝る舘中をクリーム色のブラウスを血で染めた女幽霊がじっと見下ろした。


『死にたくなかった死にたくなかった…… 』


 恨めしげな女幽霊の頬を涙が伝わる。


「悪かった。俺が悪かった……全部話したけど警察は信じてくれないんだ。何でもするから許してくれ」


 謝る舘中を見つめる霊たちの顔から険が消えていく、


「舘中さんは反省している。警察に捕まってもいいって言ってるんだ。だから許して…………なんだ? 」


 説得できるかも知れないそう思った哲也が言葉を止めた。

 哲也の見ている先で恨めしげな霊たちの姿がフッと揺らいだ。


『返せぇ~~、返せぇ~~、田を返せぇ~~~ 』


 舘中が必死で謝るベッドの向こう、霊たちの後ろの壁を突き抜けるように黒い影が現われた。


「なっ、何だ? あれは…… 」


 哲也が震える声を出す。全身総毛立って足が竦んだ。

 人の形をした泥の化け物だ。哲也より一回り大きい、その頭、人の顔に泥を塗りたくったような顔に白い目玉が付いている。


『田を返せぇ~~、田を返せぇぇ~~ 』

「ひぅぅ……此奴だ。井戸にいた泥の………… 」


 恐怖に顔を強張らせる舘中に黒い泥のような化け物が襲い掛かった。


「たっ舘中さん! 」


 声は出るが竦んで体が動かない。


「ひっ、ひぅぅ…… 」


 短い悲鳴を上げると舘中がぐったりと動かなくなる。


「やっ、止めろ! 舘中さんを放せ!! 」


 恐怖を感じながらも哲也は警棒の代わりに使える懐中電灯を握り締めて化け物へと向かっていく、


「舘中さんから離れろ! 」


 力一杯殴りつけると懐中電灯が化け物の身体にのめり込んだ。


『返せぇ~~、田を返せぇぇ~~~ 』


 泥の化け物がぐるんと白い目を哲也に向けた。


「ふぅぅ……やっ、嫌だ………… 」


 懐中電灯から手を離すと哲也が後退あとずさる。懐中電灯は化け物の身体にのめり込んだまま落ちもしない、本当に泥で出来ているらしい。


『返せぇ~~、返せぇぇ~~ 』


 ぐったりした舘中を置いて泥の化け物がゆっくりとベッドから降りてきた。


「やっ、止めろ……いっ、嫌だ………… 」


 竦んだ足の太股をバシッと叩いて哲也が部屋から逃げ出した。


「あっ、あれは……あれは幽霊なんかじゃない、あれは化け物だ」

『返せ……返せぇ~~ 』


 廊下へ出た哲也を化け物が追ってくる。


「眞部さんの所へ…… 」


 走り出す哲也の足首が何かに掴まれた。


「うわっ! 」


 叫んで転んだ哲也は廊下の床から生えた泥の手が自分の足首を掴んでいるのを見た。


「なっ、何で………… 」

『返せぇ~~、返せぇ~~、田を返せぇぇ~~ 』


 足首を掴む泥の手を外そうともがく哲也に化け物が近付いてきた。


「おっ、お前なんかにやられて堪るかよ! 」


 倒れたまま哲也が泥の化け物に殴り掛かる。

 殴った感触は腕に伝わるが固い物や人を殴ったような感じではない、軟らかい泥に腕を突っ込んだようなベチョッとした感触だ。


「なっ、クソッ! 離せ!! 」


 殴った腕が化け物の身体にめり込んで抜けない、泥に手を突っ込んで抜けなくなった状態だ。


「くそっ、離せよ! 」

『返せぇ~~、返せ返せ、田を返せぇぇ~~ 』


 もがく哲也に泥の化け物が覆い被さるようにして襲い掛かる。


「うわぁぁ~~! 」


 泥に覆われた頭らしきものから二つの白い目玉が哲也を睨む、


「その子に手を出してもらっては困る」


 嶺弥の声が聞こえたような気がした。


「嶺弥さん………… 」


 薄れゆく意識の中、廊下の向こうに立つ嶺弥の手にキラリと光るものが見えたような気がした。



 倒れている哲也を泥で包み込むようにしていた化け物がぬっと上半身を起す。

 泥を塗りたくったような顔、鼻はあるのかわからないが白い目玉と口のような穴は見える。そのぽっかりと開いた口からくぐもった声が出てきた。


『邪魔をするなぁ~~ 』

「邪魔? それは此方のセリフだ」


 嶺弥が左手に持っていた刀を構える。細身の剣だが日本刀ではない、両刃の剣だ。


『返せぇ~~、田を返せぇぇ~~、邪魔をするなぁあぁ~~ 』


 泥の化け物が腕を伸ばした。嶺弥はサッと右に飛んで避ける。


「今なら見逃してやる。哲也くんはもちろん、舘中からも手を引いてさっさと井戸の中へ帰れ」


 格子の入った窓が並ぶ壁を背に嶺弥が化け物を見据えた。


『返せぇ~~ 』


 白い目をギョロッと剥いて泥の化け物がまた腕を伸ばす。


「貴様如きが敵うと思っているのか? 」


 廊下の反対側へと飛んで避ける嶺弥に化け物が連続で腕を伸ばして攻撃する。


『返せ返せ返せ、返せぇ~~ 』


 狭い廊下だ。直ぐに逃げ場は無くなる。


「脳味噌も泥が詰まっているらしいな」


 左手に持っていた剣をサッと振ると嶺弥はスッと後ろに跳んだ。


『返せぇぇ~~ 』


 嶺弥の着地する瞬間を狙っていたのか化け物の腕が伸びてくる。

 当たると思った瞬間、泥の腕がボタッと廊下に転がった。嶺弥は何もしていない、飛び退けてトンッと着地しただけだ。


『ググゥ……返せ返せ返せぇ~~ 』


 化け物がムキになったように連続で泥の腕を幾つも伸ばす。


「笑止! 」


 嶺弥がサッと飛ぶ、狭い廊下の壁や天井を蹴りながら化け物の直ぐ前に降り立つと左手に持つ剣をササッと数回振った。だが妙だ。剣は化け物ではなくその手前、何もない空間を切っている。素振りでもしているようにしか見えない。


『返せぇ~~ 』


 倒れている哲也の上にいた化け物が直ぐ前にいる嶺弥に襲い掛かる。


「遅いな」


 嶺弥が跳ぶようにして壁や天井を蹴って化け物の後ろに回り込む、


『返せ…………ギェェエェ~~ 』


 嶺弥を追うように振り返った化け物の上半身が3つに切れて転がった。


「哲也くんは返して貰うぞ」


 下半身を泥に埋まるようにして倒れている哲也を嶺弥が引き抜くようにして助け出す。

 近くの階段から香織が姿を見せた。


「凄い凄い、久し振りに見たわ、貴方の剣」


 どうやら初めから見ていた様子だ。


「時遅れの剣だっけ? 時間差攻撃が出来る奴」


 楽しげな笑みを湛える香織の足下に嶺弥が哲也を放り投げる。


「ちょっ、乱暴にしないでよ、起きたら大変でしょ」


 慌てて哲也を抱きかかえる香織を見て嶺弥が意地悪顔で続ける。


「俺たちが化け物だと知ればどんな顔をするかな」

「見せたいの? 」


 顔を顰める香織を無視して嶺弥が後ろ、泥の化け物の方へ向き直る。


『返せ返せ……返せぇぇ~~ 』


 3つに切られたはずの化け物が繋がって元に戻っていく、


「あの程度では復活するか、厄介な泥だな」

「ここで見物させて貰うわよ、哲也くんは任せなさい」


 哲也を抱えながら香織が数歩後ろに下がる。


「見世物ではないのだがな……今日は特別だ」


 振り返りもせずにこたえる嶺弥の背に香織が微笑みながら話し掛ける。


「滅しちゃダメよ、ラボが欲しがっていたから」

「ラボが? 」


 バッと振り返った嶺弥に泥の化け物が腕を伸ばして攻撃してくる。


『返せ返せ、返せぇぇ~~ 』


 振り返りもせずに化け物の腕を避けると嶺弥がササッと剣を振る。また何もない空間だ。傍から見ると素振りか何かしてるようにしか見えない。


「なら貴様が捕まえろ! 」

「そのつもりで来たのよ、でも汚れるのは嫌だから捕まえやすいように畳んでくれないかしら? 」


 腕ではダメだと思ったのか化け物が嶺弥の後ろから襲い掛かる。香織と話している嶺弥は動かない、


『返せぇ~~、かぁえせぇぇ~~ 』


 嶺弥の後ろから両手を広げて泥で包み込むようにして襲い掛かろうとした化け物の身体が四散した。


『ギギッ! ギヘェェーーッ 』


 悲鳴を上げて化け物の四散した身体が床に転がる。


「捕まえやすくしてやったぞ」


 倒れた化け物に振り返りもしないで嶺弥が剣を鞘に収めた。


「数秒か数分か、後から見えない刃が切り裂いていく……時遅れの剣、剣も凄いけどそれを使いこなす貴方も凄いわね、敵にはしたくないわ」


 嶺弥を見つめながら香織が右手を胸の前に持ってくる。


「泥など乾けば何も出来ないわよ」


 右手の上にボウッと炎が灯る。


「炎を自在に操る女など俺も相手にしたくはないな」


 かぶりを振る嶺弥を見て香織が愛らしい笑みを浮かべる。


「あらっ? 燃えるような恋は嫌いなのかしら」


 微笑みながら香織が床に転がる化け物に右手を向けた。


『かっ、返せ…………返せェェ………… 』


 香織の右手から吹き出した炎が化け物を焼いていく、不思議なことに壁や床には害は無い、化け物だけを炎が包み込んでいた。


『かっ、がはっ、返せ……かえ………… 』


 炎に焼かれて化け物が小さくなっていく、それを見て嶺弥が何とも言えない表情で口を開いた。


「泥田坊か……大人しく井戸に居ればいればいいものを」

「舘中の先祖が山の村に住んでいたらしいわよ、村を捨て田を捨てた。それを恨んでるんじゃない? 知らないけど」


 カラカラに干からびた化け物だった土の塊を香織が拾い上げる。


「これでよしっと……哲也くんは頼んだわよ」

「言われなくとも部屋まで運ぶよ」


 嶺弥が哲也を背負って運んで行く、


「何だかんだ言って優しいのよね」


 嬉しそうに微笑むと香織がスッと姿を消した。



 部屋で目を覚ました哲也に嶺弥が笑いかける。


「廊下で寝るなんて警備員失格だぞ」

「寝る? 廊下で…………あぁっ! 」


 泥のような化け物を思い出して哲也の顔が引き攣っていく、


「ばっ、化け物が! 泥の…… 」


 言いかけて止めた。化け物に襲われたなどと言っても信じてもらえないだろう。


「貧血でも起したんだろう、少し眠れば大丈夫だ」

「すみません……嶺弥さんが運んでくれたんですか? 」


 横になったまま首をコクッと動かして礼を言う哲也の横、ベッドの脇に立っていた嶺弥の顔から笑みが消える。


「ああ、俺が運んだ……でもC病棟には入るなって言ったよな」

「すみません……舘中さんが気になって……本当にすみません」


 泣き出しそうな顔で謝ると思い出したように哲也がバッと上半身を起した。


「それで舘中さんは? 舘中さんは無事なんですか? 」


 落ち着けと言うように嶺弥が哲也の肩をポンポン叩く、


「大丈夫だ安心しろ、哲也くんが廊下で倒れていたから何かあったのかと舘中さんの病室を覗いたけどベッドで眠っていたよ」

「そっ、そうですか……良かった」


 安堵する哲也の背を嶺弥がバシッと叩いた。


「今回は大目に見る。でも次は無いからな、今度約束を破ったら本当に警備員を辞めてもらうよ、見回りとか言って夜間外出するのも禁止するように先生に進言するからな」

「すっ、すみませんでした」


 哲也は謝るしかない、あれだけ言われていた約束を破って挙げ句の果てに廊下で倒れて嶺弥に迷惑を掛けたのだ。言い訳など何も出来ない。

 泣き出しそうな顔で謝る哲也を見て嶺弥の顔に優しい笑みが浮んだ。


「わかればいい、大抵のことは大目に見るが俺との約束だけは守ってくれ、そうすれば俺が哲也くんを守ってやるよ」

「僕を守るって嶺弥さん…… 」


 気を失う寸前、嶺弥を見たような気がするのを思い出した。


「今日はゆっくり休め、おやすみ哲也くん」


 何か訊きたげな哲也の肩をポンッと叩くと嶺弥は部屋を出て行った。


「夢だったのかな……化け物は何処へいったんだ? 嶺弥さんが助けてくれたのかな……でも……化け物の話しなんて信じてくれないだろうし、そんな事を言えば悪化したと思われてそれこそ警備員を続けられなくなるよな」


 色々考えているうちに哲也は眠りに落ちていった。



 次の日から約束通りC病棟へ入ることはなくなった。嶺弥との約束もあるが泥のような化け物が怖かったのだ。夢かも知れないが二度と遭いたくないと思うほどの恐怖を感じていた。


 3日後、舘中が警察に呼ばれたという話しを聞いて朝食を終えた哲也は思い切って会いに行ってみた。


「面会は禁止だ」


 舘中の部屋の前、椅子を置いて見知らぬ男が座っていた。警察関係者だろう、病院関係者でないことは直ぐにわかった。


「あら? 哲也くんじゃない、どうしたの? 」

「香織さんどうにかしてください」


 通り掛かった香織に舘中に会いたいと伝えると警察関係者に何やら話してくれた。


「10分だけね、貸しにしとくわよ」

「ありがとうございます香織さん」


 香織に礼を言って哲也は舘中の部屋へと入った。


「哲也くん、会いたかったよ」


 哲也を見ると舘中は涙を目に浮かべてしがみつくように腕をとった。


「良かった。無事だったんですね」

「無事も何も哲也くんの御陰だ。あの夜から幽霊が出なくなったんだよ」

「本当ですか! 」


 霊たちが出なくなったと聞いて哲也が声を大きくして聞き返した。


「本当だ。ここ3日一度も出てきてない、哲也くんが幽霊たちに話してくれたんだろ、それが利いたんだよ」

「僕は別に…… 」


 泥の化け物のことを訊こうとしたが舘中は覚えていない様子なので訊くのは止めた。

 哲也の手を握り締めながら舘中が何度も礼を言う、


「本当にありがとう、部屋から出るのを禁止されてね、礼を言いたかったんだが行けなかったんだ。でも最後に会えて良かった」

「最後って? 」


 顔を顰める哲也の前で舘中が言い辛そうに話し出す。


「うん、じつは…… 」


 なんでも井戸から死体が見つかったのだという、以前あれほど探して血痕一つ見つからなかった古井戸から37体もの遺体が発見されたのだ。

 井戸の捜索が再度行われたのには訳がある。ヤクザのケンジが幽霊が出ると出頭してきたのだ。供述通りに井戸を捜索すると今度は遺体が見つかったという事だ。

 以前は見つからなかったものが出てきて警察も首を傾げた。捜索を逃れるために死体を一時的に隠したのかとも思われたが動かした形跡などもない、白骨化した遺体が綺麗な形のままだ。動かしたのならバラバラになっているはずである。


「彼奴ら俺じゃなくてケンジさんの所へ行ったんだ。哲也くんが幽霊に話してくれた御陰だよ、これでもう幽霊に悩まされなくても済む……俺も捕まるけどこれで良かったんだ」


 舘中は共犯として起訴された。死体の遺棄を手伝っただけではなく命じられて仕方なくとはいえ殺人までやったのだ。重い刑が待っているだろう。

 その日の昼過ぎ、警察官がやって来て舘中を連行していった。


「哲也くんありがとう……本当にありがとう」


 見送った哲也に舘中が安心した表情で礼を言った。

 幽霊たちに襲われることがなくなった安心か、罪を受けることが出来て良心の呵責が少しでも安らいだのか、どちらにせよ殺された人々も舘中もこれで少しだけでも楽になっただろうと哲也は思った。



 翌日、化け物のことを眞部に訊いた。また変な事に首を突っ込んでと叱られた後で教えてくれた。


「泥の化け物なら泥田坊かも知れないな」

「泥田坊? 」


 首を傾げる哲也の前で確認したわけではないのでハッキリとはわからないがと前置きして眞部が話し出す。


「妖怪だ。田んぼに棲むと言われている妖怪だよ」


 苦労して開拓した田畑を放蕩息子が借金の形に手放したり、田畑を騙し取られたものが恨みを残して死んで変化したものが泥田坊だと言われている。

 元は人だが妖怪と化して長い年月を経て人の心など失ってしまったのだろう、時には人を殺めることもある恐ろしい妖怪である。

 田を返せと言っていた事から哲也の見た泥の化け物も泥田坊の仲間だろうと眞部は言った。


 山奥の村が無くなり田んぼも消えた。泥の中に棲む妖怪である泥田坊は古井戸へと逃れたのだ。そして井戸に投げ込まれた死体を養分として肥えた泥として力を貯めていたのだろう、泥田坊に捕らえられた人々の魂が幽霊となって舘中の前に現われたのだ。


「もっと生け贄をよこせと言っていたのか住処である田んぼを返せと言いたかったのか、どちらにせよ人間を憎んでいたんだろうな」

「ありがとうございます眞部さん」


 話しを聞かせてくれた眞部に礼を言って哲也は部屋へと戻った。


「妖怪泥田坊か…… 」


 ベッドに寝転んで哲也は考えた。

 今までケンジの元へ霊たちが現われなかったのは泥田坊が霊たちを拘束していたからだ。

 泥田坊が居なくなり解放された霊たちが自分を殺したケンジを恨んで現われた。霊に怯えたケンジが出頭したというわけだ。

 では何故、泥田坊は舘中の元へ霊たちを送ったのか、舘中は知らないが何代も前の先祖があの山奥の廃村に住んでいたのだ。泥田坊は田畑を捨てた村人の子孫である舘中を恨んで取り殺そうとしていたのかもしれない。



 後日、舘中から手紙が届いた。哲也への感謝と霊に悩まされる事もなく反省して安らかに日々を送っているという内容だ。


「良かったのか良くなかったのか……僕にはわからないや」


 舘中には終身刑が言い渡された。女性一人を殺したことはもちろん、遺体の遺棄に金銭を受け取っていたこと、舘中が早く出頭でもすればその後に殺された7人は助けることが出来たかもしれない事など稀に見る凶悪犯としての実刑だ。

 ヤクザのケンジ、堀本健次郎ほりもとけんじろうには更に重い刑が処される。死刑だ。当然である。刑に処されるまでケンジは幽霊たちに悩まされるだろう、それこそが罰なのだ。


「 ……でも、舘中さんが良かったって言うならそれで良かったんだよな」


 自分の部屋で少し泥の付いた懐中電灯を見つめながら哲也が呟いた。

 懐中電灯は廊下に落ちていたと香織が届けてくれたのだ。泥田坊に殴り掛かって身体の中にめり込んだ懐中電灯だ。


「泥田坊か……嶺弥さん………… 」


 テーブルの上に置いてある懐中電灯から目を離してベッドに寝転がる。

 外で落としたならともかく廊下で落として泥など付くはずがない、だが哲也は怖くてそれ以上考えるのは止めた。


「今日の晩御飯は唐揚げだったな、明日は麻婆春雨だし、その次はカレーだ。暫く好きなものが続くよな」


 頭に浮ぶ色々なことを紛らわすように食事のメニューを思い出しながら哲也は眠りに落ちていった。

読んでいただき誠にありがとうございました。


10月の更新は今回で終了です。

次回更新は11月末を予定しています。

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