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第四十三話 拾った双眼鏡

 双眼鏡は望遠鏡と同じく遠くを見るために作られたものだ。

 双眼鏡を辞書で調べると両眼にあてて見る装置の望遠鏡、2個の望遠鏡の光軸を平行に並べ両眼で同時に遠景を拡大して見る事の出来る光学機器などと書いてある。双眼鏡の小型のものをオペラグラスと呼んだりもする。


 基本的に双眼鏡も望遠鏡も同じものではあるが近場を見るのが双眼鏡で月やその他の天体を観察するなど遙か遠くを見るのが望遠鏡だと理解していればいいだろう。


 遠くの景色や星々を見るだけなら望遠鏡でもよいが動くものを観察するには片目では不便である。やってみるとわかるが片目だけでは疲れも大きい、肉眼で見る場合、長時間の観察には不向きなのだ。それだけではない望遠鏡は片目を塞いで見るために他の事をしようとして望遠鏡から目を離した瞬間、咄嗟に焦点が合わないこともある。片目では立体感も掴みにくい、それで双眼鏡が作られたのだ。


 双眼鏡、望遠鏡、いずれにしても遠くを見るのは楽しいものだ。遠く離れた場所へ瞬時に行ったような気分にもなれる。


 哲也も望遠鏡で月を見た記憶がある。ハッキリとは覚えていないが友人の持っていた望遠鏡で見させてもらったような記憶があった。双眼鏡は何処かのビルの屋上でコインを入れて数分間景色を見られるヤツで見たような記憶がある。楽しいものでついつい夢中になってしまう、自分も欲しいと物欲が湧いてくる。

 新しく入って来た患者も欲しくなったのだろう、それで落ちていた双眼鏡を拾って持って帰ってしまったのだ。



 夕方の見回りを終えた哲也が食堂へ行こうと歩いていると表門から送迎車が入ってくるのが見えた。


「誰か退院でもするのかな? 」


 足を止めて見ていると車から職員と一緒に男が出てきた。


「退院じゃなさそうだ」


 新しい患者らしい、患者の受け入れは通常は午前中、遅くとも昼過ぎである。


「こんな時間に珍しいな、ちょっと見に行くか」


 哲也が駆けていくと本館から総務の眞部が出てきた。


「哲也くん、何してるんだい」


 穏やかな声だが目付きが怖い、


「新しい患者が来たからどんな人かと思って…… 」

「またか……まったく、余計な事に首を突っ込むのは止しなさい」


 余計な事と言う言葉が引っ掛かった。


「何かあるんですか? 」


 期待にぱっと顔を明るくする哲也の前で眞部が険しい表情で話し出す。


「あの患者さんには何か変なものが憑いている。だから無闇と近付いちゃいけないよ」

「変なものって? 」


 訊こうとした哲也の耳に看護師の早坂の大声が聞こえた。


「哲也さん! 何してるんですか」

「あっ、早坂さん」

「早坂さんじゃないでしょ、何してるんですか」


 笑顔を向ける哲也を叱り付けると早坂が眞部に向き直る。


「眞部部長、哲也さんが何かしましたか? 」


 申し訳なさそうな顔で早坂が訊いた。眞部の険しい顔を見て哲也が何か失礼な事でもしたのだと思ったのだ。


「いや、別に……食堂へ行っている時間帯だよね、それで何をしているのか訊いていただけだよ」

「えへへへへっ、そっ、そうなんですよ」


 誤魔化す眞部に呼応して哲也も笑ってとぼけた。


「また……哲也さんは…………済みません、私から言っておきますから」


 新しく入って来た患者の事に興味を持ってやって来たのだと直ぐに分かった早坂が申し訳なさそうに眞部に頭を下げた。


「いやぁ、私は別に怒ってはいないよ、哲也くんは見回りとか、よくやってくれているからね……それより患者さんはいいのかい? 」


 にこやかに話す眞部の前で早坂がハッと思い出したような顔をする。


「そうだ! 唐本さんの出迎えに来たんだ」


 新しい患者の担当らしい、慌てる早坂を見て哲也が笑い出す。


「あはははっ、患者さんもうそこまで来てますよ」

「哲也さんはさっさと食堂行く! 」


 怖い顔で睨み付けると早坂は患者の元へと早足で歩いて行った。


「余り怒らせちゃダメだよ」


 優しい声の眞部に哲也がおどけ顔だ。


「えへへっ、早坂さん優しいですからつい…… 」

「ベテラン看護師さんだからね、それより唐本さんには近付いちゃダメだよ」

「わかりましたけど何が憑いているんですか? 」


 眞部がこたえようとした時、早坂の怒った声が聞こえてくる。


「まだ居るんですか、哲也さん! 」

「わかってますよ、お腹ペコペコだ」


 逃げるように走って行く哲也が言った「わかってます」は眞部に言ったのか早坂にこたえたのか、両方なのかもしれない。


「まったく哲也さんは…… 」

「本当に仕方がないねぇ」


 新しい患者の横で呟く早坂の前を呆れ顔の眞部が歩いて行った。



 夕食を終えた哲也が食堂から出てきた。


「変なものって何が憑いてるんだろう? 」


 近付くなと眞部に言われたが気になって仕方がない、


「唐本って言ってたな」


 哲也は早坂に新しい患者の事を訊きに行く事にした。


「今日は香織さん休みだしな」


 一昨日まで3日ほど夜勤続きだった香織は昨日と今日が休みだ。強面の佐藤は普段はC棟かD棟のナースステーションに居るはずだ。早坂だけなら簡単に話を聞けるだろうと哲也は呑気に歩いていった。


「煩い香織さんは居ないし、時々やってくる佐藤さんだけ気を付けよう」

「何に気を付けるのかなぁ~ 」


 ナースステーションの近く、後ろから声が聞こえて哲也が振り返る。


「何って、小煩い……おわっ! 」


 私服姿の香織が立っていた。


「かっかかかっ、かおっ、香織、香織さん」

「誰が小煩いのかなぁ~~ 」


 焦って旨く話せない哲也の向かいで香織がニッコリと可愛い笑みだ。


「ちっ、ちがっ、違う! 違いますから………… 」


 必死で言い訳を考えていた哲也が何か思い付いた様子で口を開く、


「それより何で香織さんが? 今日は休みですよね」


 咄嗟に話しを逸らそうと逆に質問をぶつけた。


「うん、休みだったんだけど清水さんが急用で来れないって言うから代わってあげたのよ夜勤、こういうときはお互い様だからね」


 微笑みながらこたえる香織を見て哲也が安心した様子で続ける。


「清水さんの代わりですか、大変ですねぇ」


 笑みを返しながら哲也がくるっと背を向ける。


「じゃあ、僕はこれで…… 」

「あはははっ、冗談ばっかりぃ~ 」


 逃げようとした哲也の肩を香織がガシッと掴んだ。


「ちょっ、何するんですか? 」

「誰が小煩くて、何に気を付けるのか、答えがまだでしょ? 」


 直ぐ近くで聞こえた声に怖々と首を回した哲也の頬に香織の顔が当たった。


「誰が小煩いのかなぁ~ 」


 哲也の左肩を後ろから掴んだ自分の手に顎を乗せるようにして香織の顔があった。


「ちっ、違いますから…… 」


 哲也の頬と香織の右耳の辺りがくっついている。恋心を抱いている香織の顔が直ぐ傍にある。普段なら嬉しいはずなのだが今の哲也にはそれどころではない。


「私の事じゃないよね、哲也くんが私の悪口なんて言うわけないよねぇ」


 にこやかに話す香織から逃れようと哲也がコクコク頷いた。


「あっ、当り前じゃないですか……香織さんには世話になってるんだから冗談でもそんな事言いませんよ」

「ふぅぅ~~ん、わかったわ」


 楽しそうに鼻を鳴らしながら香織が哲也の肩から顎を離す。


「じゃあ、誰が小煩いの? 」


 ちらっと哲也の向こうを見てから香織が訊いた。


「そっ、それは…… 」


 首を後ろに回したまま哲也が必死で考える。香織の後輩である森崎は確かに小煩いがそんな事を言っていたとバレると後が怖い、佐藤たち強面看護師など論外だ。


「はっ、早坂さんです。早坂さんはちょっと小煩いかなぁーって」


 当たり障りのない早坂の名前を出した。後でバレても早坂なら誤魔化せると考えたのだ。


「へぇ、早坂さんかぁ~~ 」


 楽しそうに話す香織の目は哲也を見ていない、その後ろだ。首だけを回している哲也の体の向きからすれば前になる。


「そういう事らしいですよ早坂さん」

「そう………… 」


 低い声に続いて聞き慣れたいつもの早坂の声が聞こえてきた。


「哲也さんって私の事そんな風に思ってたんだ」


 哲也がバッと首を前に戻すと2メートルほど前に早坂が立っていた。


「はっ、早坂さん………… 」


 哲也の顔に焦りが広がっていく、


「違いますから……勘弁してください、僕が全部悪かったです」


 早坂と香織に哲也が深々と頭を下げた。完全敗北だ。


「まったく哲也くんは」

「本当です。最低です哲也さん」


 呆れ顔で非難する2人の前で哲也は深く頭を下げたまま嵐が通り過ぎるのを待つだけだ。


「御免なさい、反省してます。全部僕が悪いです」


 哲也の頭を香織がペシッと叩く、


「それで何を訊こうと思ってたの? 早坂さんに迷惑掛けるんじゃないわよ」


 香織は全てお見通しだ。下げていた頭を哲也が上げる。


「新しく入って来た唐本さんの事を訊きたくて…… 」

「唐本さん? 」


 知らなかったらしい、香織も早坂を見つめた。


「ああ、休みだったから東條さんには連絡いってなかったみたいね、今日入ってきたのよ、何でも総務の眞部部長さんの伝らしいわよ」


 普段の顔でこたえる早坂の隣で香織が顔を顰めた。


「眞部部長の? 」

「それで夕方なんて時間帯に来たのか」


 2人の向かいで哲也が大きく頷いた。眞部が全て知っているような様子だったのに納得したのだ。


「それでどんな患者なの? 」


 哲也が訊く前に香織が訊いてくれた。


「まぁいいか」


 哲也をちらっと見てから早坂が教えてくれた。


 唐本隼人からもとはやと、27歳、仕事はコンピューターのシステム管理をしていた。それまで何も問題なかったのだが2週間ほど前に深夜に暴れて警察に保護された。

 化け物がやって来ると強迫観念に取り付かれた妄想型の統合失調症だと診断された。パニックを起して深夜に騒いで警察沙汰になる。本人は心の病などでは無いと言うが近所に迷惑を掛けているのは自覚しているのか警察に促されて磯山病院へとやってきたのだ。


 化け物と聞いて哲也の顔がパッと明るくなる。


「哲也くん! 余計な事したら怒るからね」

「私が担当なんだからね、変な事して迷惑掛けないでよ哲也さん」


 2人に睨まれて哲也の口からボソッと出る。


「マジで小煩い…… 」


 もちろん冗談半分だ。近くでも聞こえないほどの小声だ。


「何ですってぇ~~ 」


 怖い顔をする香織の隣で早坂が驚いた表情だ。


「ちょっ、東條さん…… 」


 早坂には哲也の呟きが聞こえなかった様子だ。困惑するように香織を見ている。


「うわっ! 香織さん地獄耳だ!! 」


 哲也が走り出す。後ろで香織が早坂に説明している。


「哲也さん!! 」

「哲也! 覚えてなさい! 」


 早坂と香織、2人並んで怒鳴る前を哲也は必死に走った。


「もっ、もう忘れましたからぁ~~ 」


 哲也は階段を上って逃げていった。


「まったくもう…… 」

「本当に仕方ないわね、あっ、着替えてこなきゃ」


 呆れる早坂を見て苦笑いすると香織は更衣室へと歩いて行く、早坂はナースステーションへと入っていった。


「ラボからの要請か……池田先生は知っているはずよね」


 女子更衣室の中で上着を脱ぎながら香織が呟いた。



 夜の10時、見回りで哲也がA棟から出てきた。


「唐本さんの病室を聞くの忘れてたな」


 早坂から唐本の病状を聞いて眞部が変なものが憑いていると言っていたのはこの事かと、どんな化け物がやって来るのか哲也は興味を持った。

 陰陽道の流れを汲む霊能力者の眞部が言う以上は妄想でも心の病でも無く、間違いなく怪奇現象だと思ったのだ。


「近付くなって言われても気になるしなぁ……話しを聞くだけならいいよな」


 E棟から順番に見回りをしてB棟へと入っていく、


「屋上の鍵は異常無しっと」


 いつものように最上階へ上ってから下りながら各階を見回っていく、


「眞部さんに怒られないように本当に話だけにしよう、唐本さんの部屋は何処かなぁ」


 見回りながらドア横のネームプレートで唐本の病室を探していた。


「あっ、あった。おわっ! 」


 B病棟の400号室、ネームプレートに唐本の名前を見つけたとき爪先に何かが当たって驚いた哲也がバッと後ろに跳んだ。


「何だ? 箱か? 」


 薄暗い廊下に落ちているものは20センチ四方の箱に見えた。


「あっ、双眼鏡だ」


 近付いてよく見ると双眼鏡だ。今風の小型でお洒落なものではなく昔の戦争映画などで出てくる古臭い形のゴツい双眼鏡だ。


「何で双眼鏡が……唐本さんのかな? 」


 哲也が双眼鏡を拾い上げる。ドアの前に落ちていたのでてっきり唐本の持ち物だと思った。


「動くのかな? 壊れてるみたいだけど」


 双眼鏡には傷が沢山付いている。錆も見えて相当古い物だとわかる。

 懐中電灯で照らして双眼鏡を繁々と見つめていた哲也の耳に呻き声が聞こえてきた。


「うっ、うぅぅ…… 」


 哲也が耳を澄ませて辺りを窺う、


「ぐぅ、うっ、うぅぅ………… 」

「唐本さん? 」


 目の前のドアから聞こえる。哲也は慌てて部屋に入った。


「大丈夫ですか! 」


 駆け寄るとベッドの上で唐本がうなされていた。


「くぅぅ……あぅぅ………… 」

「唐本さん、大丈夫ですか」


 哲也は声を掛けながら唐本の頬を軽く叩いた。体を大きく揺すったりはしない、病気や発作で苦しんでいる場合は下手に動かさない方がよいときもあるのを知っている。


「ぐぅぅ……あぁ……あぁーっ、はぁぁ~~ 」


 唐本が目を覚ました。

 焦った表情で辺りを見回す唐本に哲也が声を掛ける。


「うなされてましたよ、大丈夫ですか? 」

「ああ……あんた誰だ? 」


 哲也に気付いて唐本が顔を顰めた。


「僕は警備員です。見回りをしてて苦しそうな声が聞こえたから…… 」

「警備員さんか、助かったよ、怖い夢を見てたんだ」


 安堵する唐本を見て哲也が笑顔で自己紹介だ。


「警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」

「ありがとう哲也くん……ひゅぅぅ! 」


 礼を言おうとした唐本が哲也の持つ双眼鏡を見て悲鳴を上げた。


「ひっ、ひわぁぁ~~、ももっ、持ってくるなぁ~~ 」

「ちょっ、唐本さん、落ち着いてください」


 何事かと宥めようとする哲也の前で唐本は逃げるようにベッドの端へと身を引いた。


「持ってくるな! 早く捨ててくれ」


 唐本が怯えているのは双眼鏡だと哲也が気付く、


「へっ? これですか? 」


 左手に持っていた双眼鏡を差し出すと唐本が顔を引き攣らせて怒り出す。


「そんなもの何処から持ってきた! 早く捨ててくれ」

「捨ててくれって唐本さんの双眼鏡じゃないんですか? 」

「俺のじゃない!! それは……それは彼奴のだ。化け物の双眼鏡だ! 」


 化け物の双眼鏡と聞いて哲也は顔の前に持ってくると双眼鏡を繁々と眺めた。


「ドアの前に落ちてたんですけど……普通の双眼鏡ですよ」

「どっ、ドアの前に……きっ、来たんだ……彼奴がここまで来たんだ」


 唐本がバッと布団を頭から被った。


「化け物が返せって……捨てても捨てても戻ってくるんだ」


 布団を被って震える唐本の前でそういう事かと哲也は頷いた。

 双眼鏡には怪しいものなど感じない、傍から見てもわかるくらいに震えている唐本に哲也が声を掛ける。


「捨てて戻ってくるなら燃やしましょうか? バラバラに潰すとかすれば二度と戻ってこなくなるんじゃないですか? 」

「燃やす……壊しても戻ってきたんだ……でも燃やせば、直せないほどに燃やしたら………… 」


 布団をバッと捲ると唐本が顔を出した。


「本当に燃やせるのか? 燃やしてくれるのか? 」

「焼却炉があるんですよ、本当は書類とか紙とか木しかダメなんですけど時々ビニールとかも焼いてるみたいですよ、この双眼鏡は樹脂製みたいだから燃やせると思うけど」


 唐本が哲也の腕を引っ張った。


「頼む! 燃やしてくれ」


 必死で頼む唐本を見て哲也が内心ほくそ笑む、


「いいですけど、その代わり話しを聞かせてくれませんか? 」

「話し? 」

「化け物の話しです。化け物の双眼鏡とか言ってたじゃないですか、教えてくれたら僕も協力しますよ」


 唐本の顔色がサッと変わった。


「それは…… 」


 言い淀む唐本に哲也が畳み掛ける。


「燃やしたら僕にも何かあるかも知れないですよね? それを承知で燃やすんですよ、話しくらい聞かせてくれても…… 」


 覚悟を決めたような唐本の表情を見て哲也が言葉を止めた。


「わかった。話すよ、けど燃やした後だ。話しを聞いた後で怖くなって燃やさないとか言い出したら困るからな」


 真剣な目で見つめる唐本に哲也も真面目な顔を作ってこたえる。


「了解しました。じゃあ、明日の午前中、朝食を食べた後で燃やしましょう、唐本さんも見に来ればいいですよ、ちゃんと燃やしたか確かめてください、その後で話しを聞かせてくださいね」

「わかった。約束する」

「じゃあ、僕は見回りの途中ですから」


 会釈をすると哲也は部屋を出て行った。



 見回りを再開して長い廊下を歩き出す。ふと窓の外に綺麗な月が見えた。


「これで見えるかな? 」


 拾った双眼鏡を顔に付けて窓から月を覗いた。


「曇ってるな、レンズがダメになってるのかな? 」


 壊れているらしく双眼鏡は白い靄が掛かったように何も見えなかった。


「化け物の双眼鏡ねぇ」


 呆れたように呟くと哲也は双眼鏡を片手に長い廊下を歩いて行った。



 翌朝、服を着替えた哲也がテーブルの上に置いていた双眼鏡を手に取った。


「やっぱり見えないな、レンズがダメだな」


 明るければ見えるかと思って部屋の窓から双眼鏡で覗くが白く靄が掛かったようになって何も見えない。レンズが曇っているのかとタオルで拭いてみるがやはり何も見えない。


「使えないんじゃゴミだな、心置きなく燃やせるな」


 約束したが使えるものを燃やすのには抵抗があった。正常に使えるのなら欲しいとさえ思っていたのだが壊れているのなら躊躇無く燃やす事が出来る。



 朝食を食べ終わると哲也は唐本を連れて病棟の裏にある焼却炉へと行った。

 毎週水曜日のこの時間帯に焼却炉を使うのを知っているのだ。


「すいません、これ燃やしてもらえませんか? 」


 焼却炉で書類を燃やしていた事務員に哲也が双眼鏡を差し出した。


「それって双眼鏡かい? 困るなぁ」


 哲也から双眼鏡を受け取ると事務員が顔にあてた。


「壊れてるのか」

「はい、それで燃やして貰おうと思って」


 双眼鏡を顔から離すと事務員が弱り顔で振り向いた。


「困るんだよねぇ、書類とか紙か木材しかダメなんだよ」

「えへへっ、知ってます。でも頼みますよ」


 おべっか笑いしながら頼む哲也を見て事務員が溜息交じりに頷いた。


「仕方ないなぁ……私が燃やしたって言わないでくれよ」

「絶対に言いませんよ、僕も怒られますから」


 哲也にとっては暇潰しの遊びだったのだが事務員とは荷物運びや焼却炉の手伝いなどで仲が良かった。


「でも燃えるかなぁ…… 」


 事務員が焼却炉の中へ双眼鏡を放り込んだ。

 哲也が事務員と談笑している横で唐本が不安気に焼却炉を見つめている。


「うわっ、臭い、プラスチックの焼ける匂いだ」


 キツい匂いに哲也が顔を顰める。


「臭いねぇ、プラスチックが溶けてるんだな、でも匂うって事は燃えてるって事だよ」


 事務員が焼却炉の蓋を開けて金属製の棒を突っ込む、先が曲がっていて焼いているものを引っ掛けて出すために使う棒だ。


「臭いっ! 目にくるねぇ」


 事務員が金属製の棒で黒い塊を引っ掛けて焼却炉の外に出す。


「ドロドロに溶けてるよ、これ以上はダメ、匂いがキツすぎて苦情が来ちゃうよ」

「これだけ解けたら充分ですよ、ありがとうございました」


 事務員に礼を言いながら哲也がちらっと見ると唐本がコクッと頷いた。

 唐本の納得した様子に安心して哲也が続ける。


「それゴミに出してもらえますか? 」

「わかった。燃えないゴミにでも突っ込んどくよ」

「お願いします」


 ペコッと頭を下げると哲也は唐本と一緒に戻っていった。



 B病棟の400号室、唐本の部屋だ。


「じゃあ、化け物の話しを教えてください」


 哲也が遠慮無しにテーブルの傍にある折り畳み椅子に座った。


「わかった。約束だからな……双眼鏡も燃えたし」


 向かいに座ると唐本が話を始めた。

 これは唐本隼人からもとはやとさんが教えてくれた話しだ。



 唐本は登山と言うほどではないが山歩きを趣味にしていた。

 住んでいるのは地方都市の外れ、一人暮らしをしているマンションから500メートルほど離れた所に山があり唐本の5階の部屋からいい塩梅に見る事が出来る。窓から山を眺めることも好きだが、休みの日には毎日のように山歩きに訪れていた。


 観光地でもなく、登山はもちろんハイキングコースなどない山だ。細い山道は雑草に覆われて山の中腹から先は道が無くなっている。知らない所で管理しているのかも知れないが唐本には持ち主も放ったらかしにしているように思えた。

 その様な山なので山菜採りの季節はともかく、それ以外は地元の住民も殆ど見掛けることはない、唐本は気兼ねすることなく散歩してた。


 ようやく暖かくなってきた春先、山歩きをしていた唐本は普段は入らない山道が途絶えている先へと行ってみた。目的があったわけではない、只何となくこの先は何があるのだろうと行ってみたくなったのだ。

 雑草どころか木まで生えて元の山道は殆ど無くなりかけているがそれでもどうにか道らしきものを進んでいくと開けた場所に出た。

 広場の真ん中辺りに屋根の落ちた潰れた小屋がある。周りを囲む藪の奥に鳥居らしきものが見えたので更に進むと朽ち果てた社があった。廃神社だ。手前にあった小屋は何かの作業に使っていたか神社の関係者が住んでいたものかも知れない。


 廃神社は何となく気味が悪く思えたのでざっと見回すと直ぐに手前にあった潰れた小屋まで戻った。

 小屋の近くにあった岩に腰掛けて水筒に入れておいたアイスティーを飲んで一休みしていると半分土に埋もれた四角い小さな鞄のようなものを見つけた。何かと拾い上げて開けてみると双眼鏡が入っていた。今風の小型でお洒落な双眼鏡ではない、昔の戦争映画に出てくるような軍隊で使っているような大きな双眼鏡だ。


 鞄の中まで土が入り込んでいて双眼鏡も汚れていたがまだ使えるように思えた。

 唐本は泥を払った双眼鏡を顔に当てて山の中腹から自宅のマンションの方角を見た。レンズが曇っているのかぼやけてハッキリとは見えないがマンションらしき四角の建物は見えた。


「まだ使えるな……勿体無いしいいよな」


 綺麗にすれば使えると唐本は双眼鏡を持って帰る事にした。

 いいものを拾ったと浮かれて家に帰ってから水筒が無いのに気が付いた。ステンレス製の青色の水筒だ。置き忘れたか落としたか双眼鏡に夢中ですっかり忘れていた。


「あの小屋で飲んだときだな、まぁいいか、双眼鏡の代わりだ」


 真空断熱構造で保温性に優れたものだが3年以上使ってくたびれていたし1500円ほどの安物だ。今度山に登ったときに探そう、無くても新しいものを買えばいいと気にもしない。



 部屋で双眼鏡の清掃をする。×20と書いているので最大で20倍に拡大して見えるのだろう、錆びているのか泥が詰まっているのか、ピントを合わせるダイヤルが動かない、無理に動かしても壊れるかも知れないと一旦手を止めてバルコニーに出ると双眼鏡で夕方の町を見る。


「山で見たときよりは見えるけど……まだダメだな」


 掃除したのが良かったのか山で見たときのような白い曇りのようなものは見えないがピントが合っていないらしくぼやけてハッキリとは見えない。

 町を見るのを止めて山へとレンズを向けるとピントが合ったのかハッキリと見えた。


「おお、見えるぞ、これはいいや」


 凄いと興奮しながら山の彼方此方を見る。普段は日が落ちる前に帰る山をまるでそこに居るかのように見れて大喜びだ。


「町は……ぼやけてダメだな、ピントが合うように直せるかな」


 5分ほど楽しげに見ていたがどうにかして直そうと部屋に戻った。

 内部に入らないように油を差すがピント調整のダイヤルは動かない、これ以上弄って壊れると困るので直すのは諦めた。初めから覗きのように町を見るつもりなどはない、自分の部屋から山が見れたらいいなと思ったのだ。現状で山が見えるのだからそれでよいと納得した。


「あの小屋に住んでた人の物か、誰かの忘れ物か、どっちにしろあのまま土に埋もれてたら完全に壊れてるんだからな、誰かが返せって言ってきたら返せばいいよな」


 双眼鏡を黙って持ってきたのは少し悪いと思ったがこれで休みの日だけでなく登れない日も山を見て楽しめるとほくそ笑んだ。



 翌日から山に登れない日は双眼鏡で楽しんだ。普段通る道はもちろん、普段は入らない山奥も双眼鏡で見る事が出来る。

 3日ほどした日暮れ、薄暗くなっていく山を見ていた時、レンズの端に何かが動いているのが見えた。野生動物かと興奮して双眼鏡を向ける。


「何だ!? 」


 思わず声が出た。見たこともない生き物がいた。

 唐本が双眼鏡を拾った朽ちた小屋のある開けた場所だ。その藪の中、ぽっかりと出来た広場に白い猿のような動物がいた。白い猿のようなものは崩れ落ちた小屋の屋根の上に座っていて痒いのか時々背中や足を掻くような仕草をしている。


「猿だ! それもアルビノの白猿だ」


 あの山に猿がいるなど知らなかった唐本は興奮して観察した。


「白い猿なんて珍しいよな、写真撮ったらニュースになるかもな」


 暫く見ていると白い猿のような生き物は上の藪へと消えていった。

 双眼鏡を覗いていた唐本は何処に行ったのかと慌てて追う、今見ていた広場の上、藪の奥には廃神社がある。そこも小さな広場となっている。その辺りへ白い猿は行ったように思えたが幾ら探しても見つからない、直ぐに暗くなってきてそれ以上探すのを諦めて部屋に引っ込んだ。


 次の日、散歩がてらに山に登りたかったのだがあいにくの雨で唐本は部屋にいた。

 唐本はコンピューターの管理の仕事をしている。24時間動いているシステムの管理だ。朝勤、昼勤、夜勤の三交代制である。今週から昼勤なので家を出るのは昼の1時頃だ。

 午前中、双眼鏡で雨の山を見ていたが雨脚が激しくなってきたので直ぐに止めた。昼食を食べた後で雨が止んだ。出勤前に山でも見ようと双眼鏡を持って部屋を出た。


「おっ! 昨日の白猿だ」


 マンション5階の自室のバルコニーから山を見ていると白い猿のような生き物が居た。昨日見た藪の中の広場だ。朽ちた小屋の屋根の上に座っていた。そこがお気に入りらしい。

 観察するように見ていた唐本はおかしな事に気付く、猿にしては大きすぎる。座っているので確信は出来ないが屋根の板と比べても2メートル近くありそうだ。


「何だあれ? 猿じゃないのか? 」


 疑問に思いながら見ていると白い猿のようなものが此方を見た気がした。


「うぉう! 」


 思わず双眼鏡を落としそうになった。見慣れたニホンザルやチンパンジーの顔では無く人の顔に見えた。中年の男のような顔だ。


「おっさんか? 人間なのか? 」


 確認しようと慌てて双眼鏡を構えるが白い猿のような生き物は既に居なくなっていた。


「人間? 化け物? 気の所為だよな……見間違いだ」


 有り得ないというように首を振ると唐本は部屋の中へと戻っていった。



 翌日の昼、仕事に行く前に唐本は山を見ていた。


「あっ、いた! 」


 潰れた小屋のある開けた場所に白い猿のような生き物が見えた。以前見たように朽ちた小屋の屋根の上に座っていた。お気に入りの場所らしい。


「痒い…… 」


 急に背中が痒くなった唐本は左手で双眼鏡を持ちながら右手を背中に回してボリボリと掻いた。


「あははっ、彼奴も掻いてるや」


 片手で双眼鏡を持って覗く先、白い猿のような生き物もボリボリと背中を掻いていた。


「あはははっ、俺の真似をしてるみたいだな、それにしても何だろうなぁ……日本の猿じゃないのかもな」


 ペットで飼っていた猿を誰かが放ったのかも知れないと思いながら見ていると白い猿のような生き物とくるりと振り向いた。


「うぅ……なっ、何だ………… 」


 白い猿のような生き物に付いている中年男のような顔が此方を見てニタリと笑った。その目が赤く光っている。唐本は双眼鏡越しに視線を感じた。


「うわぁっ!! 猿じゃない! 化け物だ」


 片手で持っていた双眼鏡が焦ってズレる。確認しようと慌てて両手で構えてレンズを向けると既に白い猿のような生き物は消えていた。


「なっ……何だ。何なんだアレは? 」


 暫く探していたが白い猿のような生き物は見つからない、不思議に思いながらも出勤時間になったので唐本は部屋を出た。



 その日の深夜、唐本が眠っているとペタペタと足音が聞こえた。


「うぅ……何だ? 」


 寝返りを打った唐本の目に薄いカーテン越しに影が見えた。


「何だ? 」


 声に出さずに呟くと唐本はじっと窓を見つめた。


『みたみた……みた見た…… 』


 窓の外、バルコニーを何かが行ったり来たり歩いている。

 泥棒かと思った唐本が武器になればとキッチンからフライパンを持って窓を開けた。先程まで確かに行ったり来たりする影がカーテン越しに見えていたのだが何も居ない。


「何で……寝惚けてたのか? 」


 警戒しながらバルコニーに出て確かめるが誰も入った形跡など無い、見間違いか、寝惚けたのかと唐本は部屋に戻るとベッドに横になる。暫く警戒していたがバルコニーには変化はない、気の所為だったと唐本は眠りについた。



 次の日、昼勤なので1時までは家に居る。出勤前に双眼鏡で山を見ていると白い猿のような生き物が朽ちた小屋の崩れた屋根に座っていた。


「居た……何なんだ彼奴は? 」


 異様な姿の生き物に怖さを感じたが山は500メートル以上も離れている。何もされないという安心感があった。


「外国の猿か何かなんだろうな」


 観察していると左頬が痒くなる。


「痒い、蚊にでも刺されたか? 」


 右手で双眼鏡を持ちながら左手で頬を掻いた。


「何だ? 彼奴も掻いてるよ」


 先程までじっとしていた白い猿のような生き物が頬を掻いている。


「あはははっ、俺と同じだな、真似をしてるみたいだ」


 左頬を掻きながら笑っていると白い猿のような生き物がくるっと振り向いた。

 白い毛に覆われた中年男のような顔が付いている。レンズの向こうでおっさんのような顔の左頬を掻きながらニタリと笑った。


「なっ! 」


 唐本の笑みが一瞬で凍り付く、ニタリと笑うその赤く光る眼と目が合った。


「うわぁぁ~~、やっぱり見てる。目が合ったぞ」


 驚きながら双眼鏡がぶれた。構え直して見ると白い猿のような生き物は既に居なかった。


「真似をしてたのか……本当に俺の真似を……俺が見てるのを知ってるのか? 」


 掻きすぎて赤くなった左頬を摩りながら反対側の手に持った双眼鏡をじっと見つめた。

 有り得ない、双眼鏡も無しに此方が見えるはずなど無いのだ。


「止めよう、もう見るのは止めだ」


 双眼鏡を本棚へ置くと唐本は部屋を出て会社へと向かった。

 その日から双眼鏡を使うのを止めた。怖くなったのだ。あの山へ行く事も止めて山歩きの好きな唐本は退屈な日々を送っていた。



 5日経った深夜、唐本の部屋のドアがドンドン叩かれる。


『みたみた……みた見た……見た見た見た………… 』


 部屋の前で何か喚くような声が聞こえる。酔っ払いが間違ったのかいずれにしても不審者だと唐本はドアの前でフライパン片手に居留守を決め込んだ。


『見た見た見た……見た見た…………見ろ! 』


 3分ほどしてドアを叩く音が無くなり、更に3分ほど待ってから唐本がそっとドアを開けた。直ぐに閉められるように少しだけ開けて確認するが誰も居ない。


「臭っ! 何だ? 動物の匂いか? 」


 廊下には何とも言えないキツい匂いが漂っていた。


「ゲロじゃないだろうな? 」


 酔っ払いが何処かに嘔吐していないかと廊下を見るがそれらしいものは無い。


「ウンチでも漏らしてたか? 脅かしやがって…… 」


 酔っ払いが間違ったのだろうと大して気にもせずに愚痴りながら唐本はドアを閉めた。



 翌日、朝勤なので朝の8時に部屋を出る。


「良い天気だなぁ……山歩きしたいなぁ」


 近くの山を見つめて溜息をつく、


「でも、あの化け物がいるからなぁ」


 1週間ほど山歩きをしていない、我慢の限界に近かった。


 仕事を終えて帰ってくる。時刻は夕方5時前だ。


「見るか…… 」


 山へ行くのは怖いが双眼鏡で見るだけなら大丈夫だと我慢できなくなった唐本はバルコニーへと出た。


「おお、久し振りだ。やっぱ山はいいよなぁ……山歩きしたいなぁ」


 いつも登っていく道筋を双眼鏡で追っていく、


「やっぱいいよなぁ……明日はどっかの山に出掛けよう」


 朝勤から昼勤へシフトが変わるので明日は休日だ。休み前でゆっくりと出来るので山好きの唐本は夢中で双眼鏡を覗いた。


「ああぁ…… 」


 白い化け物が見えた。山道が消えた藪の奥、朽ちた小屋の屋根の上に座っている。


「何なんだよ……彼奴は何なんだよ」


 怖いが目を離せなくなる。じっと見ていると頭が痒くなってきて右手で掻き毟る。


「まっ、まただ……また真似してる」


 レンズの向こう、白い化け物が右手で頭を掻いていた。


「ばっ、化け物が…… 」


 怯えながらも唐本は頭を掻く手を左手に替えてみた。


「ふぅぅ……やっぱり真似だ。俺の真似をしてるんだ」


 白い化け物が右手から左手に替えて頭を掻き始めるのを見て唐本は恐怖に息を呑んだ。


「うわぁあぁ~~ 」


 唐本が悲鳴を上げて双眼鏡を落とした。

 白い化け物が振り返るとおっさんのような顔がニタリと笑って此方を見たのだ。


「俺に気付いてる! 彼奴は俺を見てるんだ」


 パニックになった唐本はそのまま部屋へと逃げ込んだ。


「もっ、もう使わないぞ、あんな双眼鏡捨ててやる」


 バルコニーに転がっている双眼鏡をそのままに窓を閉めるとカーテンを引いた。

 双眼鏡は捨てるつもりだ。雨に濡れようが壊れようが構わない。



 その日の深夜、バルコニーから物音が聞こえて唐本が目を覚ます。


『見た見た見た……見た見た………… 』

「煩いなぁ……ひぅっ!! 」


 寝惚け眼でバルコニーを見た唐本が息を詰まらせて身を固くした。

 誰か居る。薄いカーテン越しに人影が見えた。


「だっ、誰だ! 警察を呼ぶぞ」


 泥棒だと思った唐本が大声を出した。


『見た見た……見た見た見た………… 』


 影は何やらぶつぶつと話している。


「さっさと出て行け! 警察呼んだからな、直ぐにくるからな」


 まだ通報はしていない、身の危険を感じたので咄嗟に嘘をついたのだ。


『見た見た見た……見ろ見ろ見ろ…… 』


 ぶつぶつ話す声が次第に大きくなる。


『見ろ見ろ……見ろ!! 』


 人影が大声で怒鳴った。

 2メートル近い人の形をした影、その顔の辺りに赤い光が2つ見えた。昼間見た白い猿のような化け物の赤く光る眼が思い浮かんだ。


 彼奴だ……、唐本が悲鳴を上げる。


「うわぁぁ~~、たっ、助けてくれ……俺が何をしたって言うんだ」


 唐本が震える声で必死に訴えた。


『拾った拾った……見た見た見た……返せ返せ返せ』


 甲高い奇妙な声で言うと化け物がスッと消えた。


「ふぅぅ……なっ、何で………… 」


 助かったと思いながら唐本は必死で考える。


「拾った? 何を……双眼鏡か? 」


 バルコニーに繋がる窓をじっと見つめる。双眼鏡が転がっているはずだ。いい大人があれこれ拾うなどしない、ここ数年で拾って持って帰ったものは双眼鏡しか思い付かない。

 また現われないかと怯えていたがいつの間にか眠ってしまった。



 翌朝、目を覚ました唐本は無事なのを確認してほっと安堵した。今日は休みだ。2日休みで昼勤へとシフトが代わるのだ。


「この双眼鏡のことか…… 」


 昨夜のことを思い出してバルコニーに出て双眼鏡を拾うと唐本が考え込む、


「あの猿みたいな化け物の双眼鏡なのかな……でも捨ててあったぞ」


 おかしいと思った唐本は山以外に双眼鏡を向ける。距離は同じはずなのにピントが合わない、山にしかピントが合わないと分かって双眼鏡が怖くなる。


「何だこの双眼鏡……ピントの調子が悪いんじゃなくて山しか見えないのか? 」


 自分の目がおかしいのか双眼鏡がおかしいのか、確認するように町と山を何度も見ているとおかしな事に気が付いた。

 双眼鏡の倍率は20倍だ。つまり裸眼より20倍遠くのものが見える。唐本は視力は良い方だ。だとしても500メートル近く離れた山をこれ程までハッキリと見えるだろうか? 双眼鏡を使わなくとも10メートル先に落ちている空き缶がどのメーカーの飲料なのかどうにか判断できる程度の視力はある。なので20倍なら200メートルほど離れたものが同じように見えるはずだ。山は500メートル近く離れている。なのに山道に落ちている小石も判別できるくらいにハッキリと見えていた。有り得ない、少なくとも50倍の倍率はないと見る事は出来ないはずである。


「どうなってんだ…… 」


 確認するように山を見ていたレンズの向こうに白い化け物が映った。


「うぅぅ…… 」


 白い化け物が両手を使って双眼鏡を覗き込む格好をして此方をじっと見ていた。


「やっぱり彼奴の双眼鏡なんだ」


 恐怖に震える唐本と化け物の目が合った。

 構えていた両手を降ろすと化け物がニタリと笑う、


『拾った拾った。見た見た見た。返せ返せ』


 頭の中に化け物の甲高い声が聞こえてくる。


「うわぁぁ~~、助けてくれぇ~~ 」


 唐本は双眼鏡を放り出すと部屋の中へと逃げて窓を閉めてカーテンを引いた。



 部屋の中で震えながら考える。


「かっ、返せばいいんだ……化け物のなら返せばいい、返して謝るんだ。お菓子か酒か何か持って行こう、謝って許して貰うんだ」


 怖くなった唐本は双眼鏡を元の場所へと返しに行く事にした。


 昼食を早めに済ますと昼前に部屋を出る。山に登っても往復で夕方までには戻れる計算だ。夜はもちろん、薄暗くなった山で化け物と出会うなど御免である。


「返しに行くんだ……だから大丈夫だ」


 念のために包丁を懐に忍ばせて警戒しながら山を登った。

 あの化け物が出てきたらと怖かったが双眼鏡を持っているのはもっと怖かった。ゴミとして捨てたらどんな目に遭うかも分からない、返すのが一番だと思ったのだ。


 怯えながら潰れた小屋のある開けた場所へと辿り着いた。

 辺りを見回すが白い猿のような化け物はいない。


「返す! 双眼鏡は返すからな……知らなかったんだ。落ちてたと思って拾っただけだ。悪かった。謝る。だから勘弁してくれ」


 何度も謝りながら双眼鏡の入った鞄を潰れ落ちた小屋の屋根の上に置いた。鞄は唐本の私物だ。詫びのつもりで不要になった鞄に入れて持ってきたのだ。


「お菓子と酒も受け取ってくれ、悪かった。謝るから許してくれ」


 双眼鏡の横にコンビニで買った菓子と日本酒の小瓶を置いて辺りを見回す。怪しい気配は感じない。


「謝るから助けてくれ、何もしないでくれ、悪かった知らなかったんだ」


 大声で何度も謝りながら唐本は逃げるように山を降りた。



 その日の深夜、バルコニーの窓がドンドンと叩かれて目を覚ます。カーテン越しに人影が見えた。


「ひぅぅ…… 」


 人影の顔の部分に2つの赤い光を見て唐本が悲鳴を上げる。


『返す返す……見ろ見ろ見ろ』


 甲高い奇妙な声が聞こえ次の瞬間人影はスッと消えた。


「ばっ、化け物が……助けてくれ、俺が悪かった………… 」


 震えて一睡もしないで朝を迎える。日が差してきて安心したのか唐本がバルコニーを見ると双眼鏡が置いてあった。


「そっ、そんなぁ……返したのに…………なんで」


 双眼鏡を手に取るとキツい獣臭が漂ってきた。


「臭っ! 化け物の匂いか…………あの時だ!! ドアの向こうに居たんだ」


 深夜にドアをドンドン叩かれた事を思い出した。その時に嗅いだ匂いと同じだ。酔っ払いではなく化け物がドア一枚先にいたんだと思って体が震えた。


「返事をしなくて……開けなくて良かったぁ~~ 」


 唐本は力が抜けたようにその場にへたり込んだ。その後の記憶は無い、どうやら気を失っていたようだ。



 日が差して眩しさに唐本が目を覚ます。


「うぅぅ……バルコニーで寝てたのか」


 傍に双眼鏡が転がっている。

 唐本は何気なく手に取ると双眼鏡で山を見た。


「ああぁ…… 」


 白い化け物がいた。普段は朽ちた屋根の上に座っているのだが今日は違う、


「なっ、何をしてるんだ」


 気になった唐本が見つめる先で化け物は朽ちた屋根の上に登っては何度も飛び降りていた。じっと見ているうちに唐本の頭がボーッとしてくる。


「飛ばないと…… 」


 双眼鏡を片手で持ちながら唐本がバルコニーの手すりに足を掛けて体を持ち上げる。

 片手で持つ双眼鏡の先では化け物が何度も何度も屋根から飛び降りていた。


「俺も飛ばないと………… 」


 唐本がグイッと体を持ち上げた時、目覚まし時計が鳴った。


「おわっ! 」


 慌てて手すりから離れると部屋に戻って目覚まし時計を止める。


「朝勤で目覚まし掛けたままだった」


 近所迷惑になると思って慌てて目覚ましを消した後で片手に持ったままの双眼鏡に気が付いた。


「何で戻ってくる。謝って返したのに…… 」


 何故か頭がフラフラする。テーブルの上に双眼鏡を置くと唐本はシャワーを浴びに風呂場へと行った。


「謝り方が足りないって言うのか? 」


 シャワーを浴びてスッキリすると頭のフラつきも無くなった。


「高い酒とお菓子持ってもう一度返しに行こう」


 コンビニで買った安い菓子と酒がダメだったのかと唐本はもう一度謝りに行こうと考えた。



 トーストとオレンジジュースで軽く朝食を済ませると唐本は駅の近くの和菓子屋で饅頭を買い酒屋に寄ってそれなりの値段のする日本酒を買った。


「俺に何かするならとっくにしてるはずだ。殺すなら昨日でも殺せたはずだ。だから大丈夫だ。謝れば大丈夫だ」


 あの白い化け物のいる山には正直言って登りたくはない、だが双眼鏡を放っておくのはもっと怖かった。


「ちゃんと謝れば大丈夫だ。許してくれるはずだ」


 戻ってきた双眼鏡だけでなく折り箱に入った和菓子とそれなりの値段のする日本酒をリュックに入れて背負うと自身に言い聞かせるようにして山を登った。


 山道が途切れた藪の中を歩いて朽ちた小屋のある広場へと出た。


「双眼鏡を返しに来ました! 」


 崩れ落ちた屋根の手前で大声を出す。


「盗んだわけじゃありません、捨ててあったと思って拾ったんです」


 大声を出しながら辺りを見回すが白い化け物はもちろん、他の動物の気配さえしない。

 化け物がいないと思って安心したのか唐本が大声で続ける。


「貴方の持ち物とは知らなかったんです。謝りますから許してください、お詫びと言っては何ですがお菓子とお酒を持ってきました。この前持ってきた奴より良いものです。どうかこれで許してください」


 言い終わると崩れた屋根の上に双眼鏡と菓子折と日本酒を置いてもう一度同じ言葉を繰り返して謝った。


「もうこの山には入りませんのでどうか許してください」


 最後に大声で言ってから唐本は逃げるように山を降りるとマンションへ帰る途中にある小さな神社へ寄って化け物が来ないように神様にお願いした。


「神様、どうか御守りください、化け物がやって来ませんように…… 」


 心の中で何度も唱えると神社を出る。


「これで大丈夫だ。ちゃんと謝ったんだ……大丈夫だ」


 神社の神様にも頼んで恐怖が少し収まったような気がした。



 その日の深夜、物音で唐本が目を覚ます。


『返す返す……見ろ見ろ見ろ』


 バルコニーに繋がる大きな窓を人影がバンバン叩いていた。


「しひぃぃ~~ 」


 唐本が絞り出すような悲鳴を上げた。

 薄いカーテン越しに2メートル近い影が見える。その頭の部分に2つの赤い光が見えた。白い化け物の赤く光る眼だと直ぐにわかった。


「たっ、助けてくれぇ……双眼鏡は返しただろ…………謝っただろ、他に何か欲しければ用意するから……だから助けてくれ……貴方の双眼鏡だとは知らなかったんだ」


 震える声で謝ると化け物が窓を叩くのを止めた。


『見ろ見ろ……返せ返せ……見た見た返せ返せ』


 甲高い奇妙な声で言うと化け物はすっと消えた。


「なっ、何を見るんだ? 何を見ろって言うんだ」


 唐本が怖々とカーテンを捲るとバルコニーに双眼鏡が転がっていた。


「何で……これで見ろって言うのか? 」


 窓を少し開けて近くに化け物が居ないのを確認してからバルコニーへと出る。


「何を見ろって言うんだ? 」


 双眼鏡を拾うと顔に当てて山を見た。深夜だ。明かりのある町ならともかく真っ暗な山など見えるわけがない。


「ああぁ…… 」


 喉から声が漏れる。山の中腹、朽ちた小屋のある広場の辺りがボウッと淡い光に包まれているのが見えた。


「彼奴だ…… 」


 崩れ落ちた屋根に白い化け物が座っていた。

 化け物は唐本が見ているのに気付いたのか振り向くとニタリと笑った。


「うぅぅ……何処へ行くんだ? 」


 怖くて視線を逸らせない唐本の見つめる先で化け物は小屋の近くの木まで歩いて行くと枝に絡まっている蔓を引っ張り出して自分の首に巻き付けた。


「吊ってる……面白そうだな」


 蔓にぶら下がってニタリと笑う化け物を見て唐本も何故か同じようにしなければならないと思った。


「ロープは? 」


 フラフラと酔ったような足取りでバルコニーから部屋に戻ると辺りを見回して本棚の下に置いてあったビニール紐を取り出した。


「俺も吊らなきゃ…… 」


 ビニール紐を首に掛けると唐本は窓のカーテンレールに反対側を縛り付けた。


「吊らなきゃ…… 」


 そのまま窓の下に腰を下ろす。


「かっ、かかっ! がへっ……なん!? 」


 腰は床に着いているが自分の体重で首が絞まっていく、


「ががっ! 」


 唐本は首に掛かったビニール紐を解こうと必死でもがいた。

 パニックになって立ち上がる事さえ出来ない、細いビニール紐が首に食い込んでいく、


「かっ、かぁぁ…… 」


 意識が朦朧としてきたその時、ブチッと音を立ててビニール紐が切れた。


「がっ、がはっ……ぐぐぅ………… 」


 緩んだビニール紐を必死で首から外すとゼイゼイと息をついた。


「なっ、何で…… 」


 少し落ち着いたのか唐本が切れたビニール紐をじっと見つめる。


「あの化け物だ……彼奴がやったんだ」


 化け物が小屋の近くで首を吊っていたのを思い出す。


「こんな紐だったから切れて助かったんだ。頑丈なロープなら死んでたぞ」


 先程の苦しさを思い出して喉を摩りながら唐本はゾッとした。その目にバルコニーに続く窓の下に落ちている双眼鏡が映った。


「捨ててやる。返しても戻ってくるなら二度と戻らないように捨ててやる」


 翌朝、双眼鏡を新聞紙に包むとゴミと一緒に出した。

 ゴミ収集車がやって来て双眼鏡の入ったゴミ袋をバリバリと圧縮していく、樹脂製の双眼鏡だ。中で潰されて二度と使えないだろう、


「これでいい、もし化け物がやって来ても無視だ」


 物理的に双眼鏡が壊れたのを確認して唐本は安心して部屋に戻っていった。



 今日から朝勤だ。朝の7時過ぎに仕事に行って午後の5時半頃に帰ってくる。

 化け物が現われないかと寝ずに待っていたが何も起きなかった。その日だけでなく4日経つが化け物は現われない。


「双眼鏡を始末したからだ。あの双眼鏡が悪かったんだ」


 5日目、化け物が出なくなって安心していた唐本が家に帰るとテーブルの上に双眼鏡が置いてあった。


「なっ、何が…… 」


 怖々と確認すると山で拾った双眼鏡だ。形はもちろん傷や錆、調整するダイヤルが動かない事からも間違いない。


「何で? 捨てたはずだ。パッカー車で潰されたはずだ」


 有り得ない、ゴミと一緒にパッカー車の中で圧縮して潰されるところを確認しているのだ。


「化け物が! 」


 軽いパニックを起した唐本はバルコニーへ出ると双眼鏡を投げ捨てた。

 マンションの5階だ。下を歩く人に当たれば大事である。幸いな事に誰にも当たらずに双眼鏡はアスファルトに叩き着けられてレンズが飛び出して割れただけだ。


「壊したぞ! この目で見たからな、ざまぁみろ!! 」


 バラバラになった双眼鏡を見下ろして吐き捨てると部屋へと戻った。



 その日の深夜、窓をバンバン叩く音に唐本が目を覚ます。


『返す返す……見ろ見ろ………… 』


 化け物が窓の外に立っていた。


「ひぃうぅぅ~~ 」


 恐怖に掠れた悲鳴しか出ない、


『見ろ見ろ……返せ返せ……見た見た返せ返せ』


 甲高い奇妙な声で化け物が言った。


「かぁぁ……返しただろが!! 」


 唐本が切れた。恐怖と理不尽からくる怒り、パニックを起した唐本がバルコニーの窓をバッと開ける。


「どこ行きやがった! 」


 化け物は消えて双眼鏡が転がっていた。叩き落として壊れたはずが元に戻っている。


「ふざけるな! クソが!! 」


 怒鳴りながら双眼鏡をバルコニーから投げ捨てると唐本はキッチンから包丁を持ち出して部屋から出て行く、


「クソが! ぶっ殺してやる」


 完全に切れて正気を失っている。


 包丁を持ってうろうろしていた唐本をパトカーが見つけて警察官が取り押さえる。

 正気を失った顔で化け物を殺しに山へ行くという唐本を警察が保護した。警察署で落ち着きを取り戻した唐本が拾った双眼鏡と化け物の話をした。それを聞いた警察官が磯山病院を勧めてくれたのだ。


 これが唐本隼人からもとはやとさんが教えてくれた話しだ。



 長い話を終えた唐本が俯いて自嘲するように笑う、


「へっ、へへへっ、ゴミ回収のパッカー車で潰しても、マンションから投げ付けて壊しても、戻ってきたんだ……でも燃やせば、あれだけドロドロに溶けたらもう大丈夫だ」


 唐本がバッと顔を上げると哲也を見つめた。


「大丈夫だよな? もう戻ってこないよな? 」


 窶れた顔の目だけがギラついていた。


「大丈夫ですよ、形も無いほど溶けてたじゃないですか、ドロドロのプラスチックの塊です。あんなの元に戻せるはずがないですよ」


 哲也は安心させるようにこたえた。

 唐本はまた俯くとぶつぶつと小声で話し始める。


「あの双眼鏡は彼奴の玩具なんだ……それを俺が拾って……化け物は俺の真似をして俺を玩具にして遊びやがったんだ……双眼鏡より面白い玩具を見つけたとでも思ってやがるんだ……あんな双眼鏡拾うんじゃなかった……彼奴は……化け物の罠だったんだ…… 」


 壁に掛かる時計をちらっと見ると哲也が立ち上がる。


「もうこんな時間だ。僕は警備員の仕事があるので失礼します」


 向かいの唐本の様子を覗うが振り向きもしないで俯いたままだ。


「俺の真似をしてバカにして……化け物のくせに……ゴミみたいな双眼鏡で………… 」


 ぶつぶつと呟く唐本を置いて哲也は部屋を出て行った。

 長い廊下の先、階段の前で哲也が振り返る。


「化け物か……本当かな? でも何か憑いているって眞部さんも言ってたしなぁ、双眼鏡も落ちてたし、でもなぁ…… 」


 口元に引き攣ったような笑みを浮かべてぶつぶつと呟いていた唐本は心に病を持っているように思えた。


「本当だとしたら双眼鏡燃やしたのは不味かったかもな」


 燃やしただけでどうにかなる相手じゃないと険しい表情の哲也は階段を下りていった。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也はB病棟の長い廊下の先に人影を見つけた。


「唐本さん? 」


 4階の400号室の辺りだ。唐本が部屋の前で立っているのだと思った哲也は声を掛けながら薄暗い廊下を近付いていく、


「何してるんですか? こんな時間に歩き回るのはダメですよ、唐本さん」


 6メートルほど前で哲也が立ち止まる。前に見えるのは人ではなかった。


「なっ! 」

『燃やした燃やした』


 白い毛をした猿のような化け物がくるりと振り向いた。


『燃やした燃やした……お前燃やした』


 白い毛の間から禿げ上がった中年男のような顔がぬっと突き出ている。


「おっ、お前が、ばっ、化け物だな……そっ、双眼鏡の…… 」


 哲也が震える声を出しながら警棒にも使える長い懐中電灯を握り締める。


『燃やした燃やした。お前燃やした』


 白い化け物が滑るように近付くと何かを差し出した。


「すっ、水筒? 」


 ステンレス製の青色の水筒だ。


『お前だお前だ。お前が燃やした』


 化け物が差し出す水筒に哲也が手を伸ばす。


「ダメだよ! 」


 叱るような声に哲也が手を引っ込めた。


「眞部さん…… 」


 呆然とした顔で振り返った哲也の目に眞部が歩いてくるのが見えた。


「受け取ってはいけないよ哲也くん」

「眞部さん、受け取るって? 何をですか? 」


 不思議そうな表情の哲也の横に眞部が並んだ。


「やはり操られていたか」


 化け物の持つ水筒を眞部が指差した。


「あの水筒は……唐本さんのだ」


 唐本が話していた山で置き忘れた水筒だと哲也は気が付いた。


『クヒヒッ、邪魔をするな』


 白い化け物が腕を振り上げ眞部に襲い掛かろうとした時、小鬼が二匹現われた。


『ギヒィーッ! 』


 左右から小鬼に抱き付かれて白い化け物が廊下の窓から飛んで消えていった。もちろん窓は閉まっている。通り抜けて行ったのだ。


「助かった……ありがとうございます」


 哲也は安堵すると眞部にペコッと頭を下げた。


「唐本さんには近付くなと言ったはずだよ」


 普段はにこやかな眞部がムッと怒った顔をしている。


「ごめんなさい」


 謝る哲也の見つめる先で白い紙が二つ窓の隙間から入って来て眞部の手の上に重なるようにして乗った。


「それは? 」


 指差す哲也の前で眞部が呪術札のような白い紙を懐にしまう、


「式神だよ、さっきの小鬼を見ただろ? 私の式神だ。せっかく捕らえようとしていたのに双眼鏡を燃やすから退治しなければならなくなったよ」

「あの子鬼が……じゃあ、前に見たのも眞部さんの式神だったんですね」


 ハッとした顔で見つめる哲也に眞部が難しい顔をしてこたえる。


「そうだよ、あまり使いたくはなかったんだけどね」

「すみません、僕のために……ごめんなさい」


 眞部の愚痴るような物言いに哲也はひたすら謝るだけだ。


「まったく、哲也くんには呆れるよ」


 眞部の顔に笑みが浮んだのを見て安心したのか哲也もぎこちない笑みを浮かべた。


「あのぅ、一つ訊いてもいいですか? 」


 無言で頷く眞部の前で哲也が続ける。


「何で水筒を受け取ったらダメって言ったんですか? 」

「契約を交わした事になる」

「契約? 」


 首を傾げる哲也に眞部が真面目な顔で話し出す。


「彼奴は物を介して取り憑く化け物だ。水筒を受け取ると次は哲也くんに取り憑いていた」

「受け取っていたら僕が取り憑かれてたのか……本当にありがとうございます」


 礼を言う哲也の下げた頭を眞部がポンッと叩いた。


「あの程度なら取り憑かれてもどうとでもなるが用心に越した事はない、今日は見回りは中止して部屋に戻りなさい」

「わかりました。本当にすみませんでした」


 何かしようとしていた眞部の邪魔をしたのだと思った哲也は素直に従って部屋へと戻っていった。



 長い廊下の先にある階段へ哲也の姿が見えなくなったのを確認してから眞部が反対方向へ歩き出す。


「何か用かい? 」


 立ち止まった眞部の横、使っていない病室から香織が現われた。


「用も何も、哲也くんに悪い気を感じたから来ただけよ」


 ムッと怒りを浮かべる香織に眞部が楽しそうな笑みを向ける。


「そうかい、御苦労だねぇ」

「とぼけないでほしいわね、貴方が原因でしょ」


 鋭い眼で睨む香織の向かいで眞部の顔から笑みが消えた。


「原因? 哲也くんが首を突っ込んだんだよ、私の忠告も利かずに……御陰で大変さ、ラボからの要請で捕らえようと思っていたのに失敗だ」

「失敗? 勝手な事をしておいて…… 」


 怒り顔の香織が唐本の部屋である400号室を指差した。


「それでどうするの? 」

「退治するしかない、哲也くんを付け狙うだろうからねぇ」


 渋い表情でこたえる眞部の向かいで香織が怖い目付きで口を開く、


「そっちじゃなくて唐本の方」

「ああ、そっちか……君たちが人間の心配をするとは思わなかったよ」


 表情を緩める眞部と違い香織が険しい顔をして続ける。


「別に心配しているんじゃないわよ、私たちに断りもなく対象者を送ってくるなんてどういうつもりなのかと訊きたいだけ」


 眞部の顔がサッと曇った。


「其方に連絡は無かったのかい? 」

「無いわよ、池田先生も知らなかったって……先生の許可も得ずに勝手な事をして貰っては困るのよ」


 叱る香織の前に眞部が一歩踏み出した。


「本当かい? 君はともかく池田先生に知らせていないなんて……ラボの連中からは何も聞いていないぞ」

「知らなかったの? 貴方が知らないなんておかしいじゃない」


 険しい顔に焦りも浮かべる眞部を見て香織が語気を緩めた。


「私は唐本に憑いた物の怪を捕らえて欲しいと頼まれただけだ。池田先生とは話しが着いていると思っていたよ」

「貴方が知らなかったのなら責めても仕方ないわね、此方に連絡なんて無かったわよ」

「すまない、次から確認を取るようにする」


 香織が引いたのを見て眞部も頭を下げた。


「眞部くんも知らなかったのなら仕方がないねぇ」


 2人が話している廊下、窓がある外向きの壁を突き抜けるようにして池田先生が現われた。


「すみません、私の方から確認しておきます」


 頭を下げる眞部の向かいで香織が訴えるように話し出す。


「この前の操野の事といい、このまま勝手を許してもいいのですか? 」

「そうだねぇ、香織くんの言う事も尤もだよねぇ、近頃ラボとは疎通が旨くいっていないようだね、一度話をした方がいいねぇ」


 穏やかな口調で香織を宥めると池田先生が体ごと眞部に向き直る。


「そういう事だから来週にでも寄らせてもらうと伝えて置いてくれるかな」

「わっ、わかりました。私も御一緒します」


 緊張した面持ちでこたえる眞部を見て池田先生が満足気に頷いた。


「眞部くんが来てくれるならスムーズに行くねぇ、じゃあ頼んだよ」


 池田先生は来たときと同じように窓側の壁を突き抜けるようにして消えていった。



 池田先生が去った後、香織が話しを蒸し返す。


「それで唐本はどうするの? 」

「どうもしないよ、私の仕事じゃない」


 表情を変えずにこたえる眞部の向かいで香織が楽しそうに続ける。


「同じ人間じゃない、冷たいのね」

「慈善事業じゃないんでね、哲也くんに頼まれれば考えてもいいがね」

「怖い怖い、貴方たち人間の方が余程怖いじゃない」


 香織のからかいに眞部が笑みを湛えてこたえる。


「個別じゃ君たちの方が恐ろしいが集団になれば人の方が恐ろしくなる。自分だけじゃない他の人もやっている。他から命令されてやっただけだ。自分だけが悪いんじゃない、集まれば罪の意識が薄れるんだよ。歯止めを掛けるものが居なければ止まらない」

「愚かしいわね」


 失笑する香織の前で眞部の顔から笑みが消えた。


「だがそれが発展を産んだもの事実だ」

「今やっている事も発展なの? 」

「それは…… 」


 言葉を詰まらせる眞部を見て香織が可愛い顔で笑った。


「愚かしいことだって貴方はわかっているのね、それなのに何故ここに居るの? 」

「ラボの連中もそうだが君たちに好き勝手をさせないように参加しているだけだ」

「私たち? 貴方の力は認めるわ、でもかなうと思っているの? 」


 眞部がニヤッと悪い顔をして口を開く、


「人は沢山居るという事を忘れるなよ、君たちなどより遥かに多い」

「肝に銘じて置くわ」


 ゾクッとするような妖艶な笑みを浮かべると香織は長い廊下を歩いて行った。


「しかし、ラボの連中……私一人では哲也くんを守るだけで手一杯か」


 呟くと眞部は反対側へと歩いて行った。



 翌日、心配になった哲也は朝食前に唐本の部屋へと向かった。自分の所に化け物が現われたのだ。唐本の所にも現われないはずがない。


「何も無ければ一緒に朝ご飯食べに行けばいいや」


 呑気に考えながらB病棟に入ると何やら騒がしい、


「唐本さんか? 」


 哲也は慌てて階段を駆け上がった。

 思った通りB病棟の400号室、唐本の部屋で騒ぎがあったらしい。


「唐本さん! ちょっ、どいてくれ」


 廊下に集まっていた他の患者を押し退けて哲也が部屋へと入る。


「いらない……やだ……だめ………… 」


 燃やしたはずの双眼鏡を抱えながら唐本が涎を垂らしてへらへらと笑っている。


「唐本さん、しっかりしてください」


 哲也の呼びかけにも反応が無い、唐本は涎を垂らして何やらぶつぶつと呟いている。


「何で双眼鏡があるんです。これはダメですよ、唐本さん」


 抱えている双眼鏡を哲也が取ろうとすると唐本が泣き喚きだした。


「わあぁぁ~~、だめ……ぼくの……ぼくのだから………… 」


 まるで幼児だ。自分の事を俺と言っていたのがぼくに変わっている。


「これは……この双眼鏡はダメなんです」

「哲也さん! 止めなさい、診察の邪魔です」


 双眼鏡を引き離そうとする哲也を早坂が止めた。


「早坂さん違うんです…… 」


 言い返そうとした哲也が言葉を止める。化け物の事など信じてもらえない、自分までおかしくなったと思われるだけだ。

 唐本はストレッチャーに乗せられて運ばれていった。


 双眼鏡は燃やしてドロドロに溶けたはずだ。それなのに元通りの双眼鏡を持っているのが気になった。

 集まっていた患者や看護師に訊いて回るが誰も知らない、見舞いなど誰も来ていないのだ双眼鏡など持ち込むものなどいない。



 化け物に何かされたのか唐本は記憶を失ってしまう、何もかも忘れて幼児のようになってしまった。

 先生たちは若年性認知症が急速に進んで記憶を失ってしまったのだと言うが哲也は違うと思った。


 化け物が自分の真似をすると言って唐本は怯えていた。双眼鏡より面白いものを見つけたと玩具にされているんだと言っていた。

 だが本当に真似をしていたのだろうか? 背中を掻いたり頬を掻いたり、確かに初めは真似をしていたかも知れない、だがバルコニーから落ちそうになったりビニール紐で首を吊ったりしたのは真似ではない。

 逆だ。逆になっていると哲也は思った。初めは真似をしていたがいつの間にか唐本が化け物の真似をさせられていたのだ。操られていたのだ。



 3日ほど様子を見るが唐本は治る気配は無い、そのまま隔離病棟へと送られていった。


「哲也くんも危なかったんだよ」


 唐本を見送っていた哲也に眞部が話し掛けてきた。


「危なかったって……水筒ですか? 確か物を介して取り憑くんですよね」


 驚きを浮かべて訊く哲也に眞部は頷いてから話を始める。


「そうだよ、唐本さんは記憶を盗られた。双眼鏡で化け物を見ているつもりが唐本さんが見られていたんだよ」


 哲也の顔に焦りが浮ぶ、


「水筒を受け取ったら僕も記憶を盗られていたのか…… 」

「それはどうだろうねぇ、水筒は喉を潤わせるものだ。体中の水分を抜かれたりしたかも知れないよ」


 意地悪顔の眞部を見て哲也が嫌そうな顔でブルッと震える。


「そんな事されたら死んじゃいますから…… 」

「だから危険だと言ったんだよ、唐本さんはもう戻らない、記憶を失ったんだ死んだのと同じじゃないのかな」


 優しい表情で叱る眞部に哲也が頭を下げる。


「ごめんなさい……せっかく注意してくれたのに、本当にすみませんでした」

「仕方ないねぇ、私も全部話しておけばよかったんだ。哲也くんが興味を引くのはわかっていたんだ……だから今回は謝らなくてもいいよ」

「すみませんでした。次からは気を付けます」


 反省を浮かべる哲也に安心したのか眞部は微笑みながら肩をポンポンと叩くと本館へと歩いて行った。



 双眼鏡を唐本が拾って水筒を置き忘れた。化け物が水筒を拾って哲也に差し出した。唐本が水筒を置き忘れたのも全て化け物の仕業だろう、元の双眼鏡も何かを拾った代わりに誰かが置き忘れたものかもしれない、そうやって次々に拾った人の前に現われては怪異を成していたのではないだろうか? 

 いつの間にか双眼鏡は消えていた。山に戻ったのだろうか? また誰かが双眼鏡を覗かないことを哲也は祈った。


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