第四十二話 序(つい)で
序でを辞書で調べると何かをする時に都合よく一緒に他の物事をする事が出来る状態、何かをする機会を利用してそれとは直接関係のない事を併せて行う様子、そのおりに、その場合に、その機会に乗じて、併せて頼む事と書いてある。
簡単に言うと別の用事も一緒にやっておいてくれという事だ。
序でにやっておいてくれと頼まれることは誰にでもあるだろう、自分から序でにやっておきますと引き受ける場合もある。上下関係が出来ると主に上の立場の者から頼まれることが多くなる。序ででも無いのに序でと言って引き受けるような者は気の利く奴として目に留まるものだ。
簡単な事ならよいが難しい事も序でと言って気軽に頼んでくる人もいる。逆に自分では簡単だと思う事でも相手にとっては難しい事を気軽に序でと言って頼んでしまうこともあるので注意したいところだ。親しい相手ならともかく知り合って間もない相手にも序でで頼むのは厚かましい奴と思われるので注意したい。
序でと言ってあれこれ頼む厚かましい人を哲也も知っている。序ででは出来ないような事まで序でと言って頼んでくる困った人だ。
序でと頼まれてばかりだったが最後は自分から序でと言って厄介事を引き受けてくれた。ハッキリ言って嫌な性格だと思っていたが本当は優しい人なのだと哲也は反省しきりだ。
朝食を終えた哲也が食堂から出てきた。
「ちょっと眠いなぁ……炭酸でも飲んでスッキリするかな、新しい奴入ってたな」
コンクリート製の細い通路を歩いて行く、本館の自動販売機に新しいジュースが入っているのを思い出して買いに行くつもりだ。
「美味しい奴だといいんだけどなぁ、天気も良いし日向ぼっこしながら飲もう」
本館へと入ると自販機が並ぶロビーの後ろに浮かれながら向かって行く、
「おっ、知らないのが4つくらいあるぞ、どれにしようかな、コーヒーも良いけどスッキリしたいから炭酸だな」
自販機で缶飲料を選んでいるとエレベーターから早坂と清水環奈が出てくるのが見えた。清水は香織とは同期の看護師だ。因みに早坂は香織の先輩である。
「早坂さんだ。清水さんも……あっ、新しい患者さんが来るんだな」
適当にボタンを押して炭酸飲料を選ぶと自販機から取り出して早坂たちを追うように哲也も本館を出て行く、
「やっぱり新人さんだ」
表門から入ってくる病院の送迎車を見て哲也が立ち止まる。
「可愛い娘ならいいのになぁ」
哲也が見つめる先で車から職員と一緒に男女1人ずつ出てきた。
「どっちだ? 女の子だったらいいのに…… 」
迎えに行った早坂と清水の様子を見守る。2人の対応から男女どちらが患者か予想しようとしたのだ。
「女の子だったらどうするつもり? 」
聞き覚えのある声に哲也がビクッと振り返る。
「かっ、香織さん…… 」
いつの間に後ろに居たのか香織がニッコリと笑っていた。
「おっおっ、おはようございます」
ぺこっと頭を下げて逃げようとした哲也の腕を香織が掴む、
「はい、おはよう、それで女の子が患者だったらどうするつもりなの? 」
怒るよりも怖い笑顔というのを知っている哲也が観念したように頭を下げる。
「いや……あのぅ……どうもしません、ごめんなさい」
「まったく哲也くんは」
香織が大きな溜息をついた。
「だってどっちが患者か気になるじゃないですか……可愛い女の子なら良いなぁって」
「ほんとに気が多いわね」
呆れ顔の香織を見て安心したのか普段の調子に戻って哲也が続ける。
「それで男か女、どっちなんです? 」
期待している哲也の向かいで香織が口元に笑みを浮かべてこたえる。
「両方よ、藪野さんと白瀬さん、2人とも患者さんよ」
「2人共っすか」
哲也が驚いていると早坂と清水が患者を連れて歩いてきた。
「哲也さん、おはよう」
笑顔で挨拶する早坂の斜め後ろで清水が軽く手を上げた。
「早坂さん、清水さん、おはようございます」
丁寧に挨拶を返す哲也の後ろで香織が新しく入って来た患者に会釈をした。
「おはようございます。私は東條香織です。こっちは中田哲也、一応警備員って事になってるから困ったことは何でも相談していいわよ」
こっちと指差されて適当な紹介をされても哲也は怒らない、女の患者が可愛かったので見惚れていたのだ。
「哲也さんに紹介しておくわね、藪野隼人さんと白瀬姫奈さんよ」
早坂が紹介すると白瀬がペコッと頭を下げて藪野が笑顔で口を開いた。
「患者さんや思ったら警備員さんかいな、あんじょう頼むわ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
藪野の関西弁に哲也が苦笑いでこたえる。
「じゃあ、行きましょうか」
早坂に促されて藪野と白瀬が歩き出す。
「なっ! 」
哲也が思わず声を出す。
横を通り過ぎた白瀬の背中に黒い影が付いているのが見えた。声を上げた瞬間に影はフッと消えたが確かに見た。
「あんた見えるようやな」
前を歩いていた藪野が慌てて哲也の前にやってきた。
「なっ、何が…… 」
焦る哲也の耳元に藪野がニヤつきながら口を近付ける。
「兄ちゃん、幽霊見えるやろ、白瀬って女に変なもん憑いてるの見たんやろ」
「なっ、何を……僕はそんなもの…… 」
「隠さんでもええで、わいも見えるんや」
藪野は自身の事を『わい』と呼ぶらしい、
「見えるって藪野さんも……マジっすか? 」
驚く哲也を見て藪野がにんまりと頷いた。
「霊感体質って奴やな、わいはガキの頃から色々見えてたわ、そんで兄ちゃんも見えるんやろ、誰にも言わへんから安心しいや」
顔を強張らせて頷く哲也の耳元に藪野がまた口を近付ける。
「あの白瀬っちゅう女は変なもん憑いとるんや、兄ちゃんも見たやろ、車の中でチラチラ見えてわいの方に来んように難儀したわ」
「えぇ……影のようなものが見えました」
小声でこたえる哲也を見て藪野がやっぱりなと言うようにニヤッと笑った。
「まぁこの力の御陰でこんな病院に入院することになってもうたけどな」
「そうなんですか、大変でしたね」
険しい顔の哲也と違い藪野は始終楽しげだ。
「そやな、大変やけどわいは感謝もしとる。大事なものを守れたさかいな」
それまで悪戯っぽい笑みをしていた藪野の顔がフッと優しい笑みに変わった。
「大事なものって…… 」
訊こうとした哲也の話しを香織が遮った。
「哲也くん、何をコソコソ話してるんです? 」
「そうですよ哲也さん、藪野さんに幽霊とか変なことを訊こうと思ってるんでしょ、ダメですからね」
怖い目で睨む香織の斜め後ろで早坂が注意した。早坂が本気で怒っていないのは直ぐに分かった。香織や清水の手前、叱って見せたのだろう、
「いや、別に…… 」
誤魔化す哲也の背を藪野がドンッと叩く、
「可愛い看護師さんばっかりでええ病院やて話してたんや」
楽しげな藪野には一瞥も無く香織は叱るような目で哲也を睨んでいる。
「あははははっ……ごめんなさい」
哲也は笑って誤魔化そうとしたがじっと見つめる香織に負けて直ぐに謝った。
早坂が呆れ顔で口を開く、
「そっちは任せるわ、じゃあ行きましょうか清水さん」
「さっさと手続き済ませて部屋に案内するわね」
清水が促すと白瀬は香織と哲也にペコッと頭を下げて歩き出す。
「じゃあ、哲やん、後でゆっくり話ししような」
哲也の背をバンバン叩くと藪野は早坂と一緒に本館へと入っていった。
「てっ、てつやんって…… 」
変な呼び方をされて顔を顰める哲也に香織が向き直る。
「お化けが見えるとか言ってたでしょ藪野さん、本気にしちゃダメよ」
「どういう事っすか? 」
コソコソ話していたのを聞かれていたのかと少し焦りを浮かべて哲也が聞き返した。
「妄想よ、統合失調症で色々と妄想しているのよ、自分に何か特別な力があると思い込んで何かあるごとに心霊や超能力とかに結び付けて考えるのよ、そのうちに本気で霊能力者だとか思い込んで幻覚が見えるようになってくるのよ」
「いや、でも…… 」
白瀬の背に見えた黒い影を思い出して反論しようとしたが思い止まる。哲也も妄想型の統合失調症だ。病状が進んだと思われるだけだと考えて止めたのだ。
「白瀬さんも統合失調症よ、女の幽霊に襲われるって騒いでここに来たのよ」
何か言いたそうな哲也を気に掛けてくれたのか香織が2人について教えてくれた。
藪野隼人36歳、霊感体質で幽霊が見えるらしい、中学生の姪が肝試しだといって心霊スポットに行き悪いものを憑けてきた。藪野は姪を助けるために悪いものを祓おうとしたのだという、経を読み護摩を焚いた。その火でぼや騒ぎになって警察に通報される。悪霊が出たと言い張る藪野を父親が入院させることにしたのだ。
白瀬姫奈23歳、1ヶ月前に彼氏とその友人、白瀬と友人の男2人に女2人、合計4人でドライブへと行った。その帰り、彼氏と白瀬の友人が化け物を見たと言って正気を失う、彼氏の友人の運転する車でどうにか帰り着くことができたが2人はそのまま入院してしまう、白瀬も幽霊を見るようになって怯えて会社にも行かずに引き籠もるようになった。心の病だと心配した両親が磯山病院へと連れて来たのだ。
磯山病院では2人ともよくある統合失調症として入院療養を引き受けた。
話しを聞いた哲也が何とも言えない暗い顔で口を開く、
「そうなんですか……藪野さんも白瀬さんも………… 」
2人とも怪異が原因で入院して来たのだと思うと心が沈むが同時にどんな話しか詳しく聞きたいという興味も湧いてくる。
哲也がパッと顔を上げる。
「妄想でもいいです。藪野さんとオカルト話が出来そうですから」
「あのねぇ…… 」
余計なことをしないように注意するつもりだった香織が呆れながら続ける。
「まぁいいわ、藪野さんはあの調子だから話し相手になるのはいいわ、でも白瀬さんに変な事したら怒るからね」
「その辺は僕だって気を使いますよ、白瀬さんみたいな大人しそうな人に変な事なんてしませんから……藪野さんとオカルト話が出来ればそれで充分です」
白瀬のことも気にはなったが霊感体質で見えるという藪野に色々聞くのが先だと哲也は笑顔で返事を返した。
「まったく……頼んだわよ、哲やん」
哲也の肩をポンッと叩いて香織が歩き出す。
「ちょっ、勘弁してください、変な呼び方が広まったら困りますから…… 」
「哲やん、哲やん、いいわね、みんなにも教えよ~~っと」
弱り顔の哲也に振り返りもしないで楽しそうに呟きながら香織は本館へと入っていった。
「ちょっ! 香織さん…… 」
追い掛けようとするが直ぐに足を止める。本館には各病棟から先生や看護師たちがやってくるのだ。厳しい先生や苦手な看護師たちに会うと何を言われるか分からない、患者がうろうろしている各病棟とは違うのだ。哲也も下のロビーでジュースを買うとき以外に入ることはない、何というか他の病棟とは違う空気を感じて居辛いのだ。
「変な事を言い触らさないように後で口止めしとかなきゃ」
焦って喉が渇いたのか持っていた炭酸飲料の缶を開けた。
「うわっ、不味い……なんだこれ? 」
一口飲んで缶をまじまじと見つめた。
早坂と清水が出て行くのを慌てて追い掛けようとしてよく見ずに買った缶ジュースには炭酸コーヒーと書いてあった。
「新しいコーラだと思ったのに……もう二度と買わんからな」
顰めっ面で缶ジュースを睨みながら哲也が呟く、
「お調子者って感じだな藪野さん……話半分で聞かないとバカを見るぞ」
ゴクゴクと飲み干して缶をゴミ箱に捨てると哲也は部屋へと戻っていった。
夕方、見回りでB病棟の廊下を歩いていると藪野が馴れ馴れしく声を掛けてきた。
「よっ、哲やん、何しとん? 」
「しとん? ああ、何してるかってことか」
暫く考えてから哲也が続ける。
「見回りですよ、患者の皆さんが夕食を食べている間に見回るんですよ、ベッドのシーツを換える業者さんとか掃除や消毒をする業者さんとか外部から入ってきますからね、夜間の見回りより注意してるんですよ」
「そりゃ大変やなぁ~~ 」
感心する藪野を正面から見据える。
「いやいや、僕のことはどうでもいいです。藪野さんは何してるんですか? 夕食の時間ですよ、食堂の場所分かってますよね、昼間も行ったはずだし…… 」
「昼寝しとった。ほんでさっき看護師さんが飯やって教えてくれたんやけどな、二度寝や」
おべっか笑いする藪野を見て哲也が溜息をついた。
「わかりました。早く食堂へ行ってください、今なら間に合いますから」
「そやな、哲やん案内してんか」
哲やんと呼ばれて哲也が顔を顰める。
「案内って……1人で行けるでしょ」
「わい、方向音痴なんや、そやから見回りの序でに案内してんか」
藪野が哲也の腕を掴んだ。
「序でって反対方向ですよ」
振り払おうとする哲也の腕を藪野が引っ張って離さない。
「ええやんか、序でや序で」
「仕方ないなぁ~~ 」
藪野に腕を引かれて弱り顔の哲也が歩き出す。本当の警備員ではないので見回りをサボっても叱られることはないが今までしっかりとやってきたことだ。重要な用事でも無い限りサボりたくはない。
「食堂に寄り道するくらいならいいか」
機嫌を取っておけばオカルト話も聞きやすいと考えたこともあり藪野を食堂まで連れて行った。
「この病院、変なもん付けとる奴多いなぁ、勘弁して欲しいわ」
B病棟を出て辺りに人がいなくなると藪野が話し掛けてきた。
「見えるんですか? 」
身を乗り出す哲也に藪野が怪訝な顔を向けた。
「なんや、哲やんも見えるんやろ? 」
「見えるというか……姿を現わすというか……何時でも見えてるわけじゃないです」
歯切れの悪い哲也を見て藪野が頷きながら続ける。
「そうなんか、てっきり、わいみたいに見えてるんかと思ってたわ」
「藪野さんはどう見えるんですか? 」
興味津々といった様子の哲也の横で藪野が遊歩道の向こうにある大きな木を指差した。
「わいか? そやなぁ……あそこの木、誰か自殺してるで、青白い顔した男が立ってるわ」
「マジっすか? 僕には何も見えませんけど」
食い入るように見るが哲也には姿どころか気配も感じない。
大きな木を見つめる哲也の顔を藪野が横から覗き込む、
「そやろなぁ~、哲やんは元からそうやったんやないみたいやからな」
「どういう事です? 」
哲也が怪訝な表情で振り返った。
「哲やんは…… 」
藪野が話そうとしたとき、後ろから声を掛けられた。
「何してるんですか? 哲也くんは見回りでしょ、藪野さんは食事中のはずです」
哲也と藪野が振り返ると香織が怖い目をして睨んでいた。
「香織さん、違うんです」
言い訳しようとした哲也の前に藪野が横から腕を伸ばした。
「ああ……ごめん、哲やんを叱らんといてや、わいが食堂に案内してって頼んだんや」
香織を見る藪野の頬が引き攣っていく、
「じゃ、じゃあ、哲やん、ここでええわ、おおきに」
「ちょっ、藪野さん」
引き攣った笑みを見せて藪野は逃げるように食堂へ走って行った。
「どうしたんだ藪野さん? 」
首を傾げる哲也に香織が怖い眼を向ける。
「哲也くんは見回りでしょ」
「別にサボったりしてませんから……藪野さんを案内しただけですからね」
言い訳する哲也に香織が怒った様子で続ける。
「じゃあ、さっさと行く、今日はD病棟がシーツの入れ替えだからね」
「了解しました」
サッと敬礼すると哲也は走り出す。
「香織さん機嫌悪かったなぁ……あの日かな」
呟きながら見回りの途中だったB病棟へと入っていった。
病棟と食堂を繋ぐコンクリート製の細い道、哲也が走って行った方を向いて香織が呟く、
「気配を読まれた。気を緩めていたわね」
険しい表情をして香織が歩き出す。
「あの男……憑いた物の怪の力か、気を付けないとダメね、まぁそれもあと数日だけだけどね」
不敵な笑みを浮かべるとA病棟へと入っていった。
夜10時、哲也が見回りでB病棟を歩いていると話し声が聞こえてきた。
「個室のはずだぞ」
テレビの音にしてはリアルすぎる。今見回っている廊下には個室が並んでいる。話し声が聞こえてくるという事は何処かの部屋に2人以上が入っているということだ。
「厳重注意だ」
声のする部屋を探して哲也が近付いていく、
「士多田さんか? 」
412号室の前で哲也が首を傾げる。部屋の主である士多田は大人しい性格で騒ぎを起すような人ではない。
「行け! やってもうたれ!! いてこましたれ」
「そんなに大声出したら怒られるから…… 」
聞き覚えのある関西弁に哲也の顔が険しく変わる。
「消灯時間過ぎてますよ、何やってるんですか」
ムッとした怒り声を出しながらドアを開けた。
「うわっ! ビビったぁ~~ 」
「あぁ……見つかった」
振り返って大声を上げる藪野の横で士多田が泣き出しそうな顔になっていた。
「なんや、哲やんか、ビビらせんといてや」
相手が哲也だと分かって藪野が安堵の笑みを見せた。
初めが肝腎と思ったのか哲也が怒り顔で注意する。
「藪野さん! 何やってるんですか! 」
「何って? テレビ見てるねん」
気の抜けたような返事を聞いて哲也が呆れ声を出す。
「テレビって……藪野さんの部屋にもあるでしょ」
「それがな、映らへんのや、それで隣の士多やんに見せてもろてるねん、士多やんもサッカー見る言うてるから、序でや、序で」
藪野のケロッとした反省の無い顔を見て哲也が声を荒げる。
「何が序でですか! 9時の消灯時間を過ぎたらトイレ以外に出歩くのは禁止です。他の部屋に入るなんて絶対にダメですからね」
「そう怒んなよ、謝るからさぁ、わいと哲やんの仲やんか」
「仲って今日会ったばかりでしょ」
余りの図々しさに哲也の怒りも引いていく、
「昨日の敵は今日の友や、そんで士多やんとも仲ようしてたところや」
へらへら笑いながら士多田の肩をポンポン叩いた。哲也に続いて士多田も『やん』付けだ。
「仲良くって……士多田さんに迷惑掛けてるだけでしょ」
弱り顔で見つめる哲也の前で士多田が泣き出しそうな顔で俯いていた。騒ぎを起せば罰として真っ先にテレビが取り上げられる事を知っているのだ。
「しゃあないやんけ……テレビ見れへんし」
士多田の様子に気付いた藪野が拗ねるように哲也を見つめる。
哲也が大きな溜息をつく、
「本当は10時以降のテレビもダメなんですよ、音を大きくしたり騒いだりしないならと、見回りの看護師さんや警備員さんが見逃してくれているだけなんですからね」
「んなこと言うたかて、わいの部屋のテレビ映らへんもん」
拗ねる藪野の隣りで士多田が小さく手を上げながら口を開く、
「あのぅ……テレビ禁止になるんでしょうか? 」
「大丈夫ですよ、士多田さんは悪くないですからテレビ禁止なんてしませんよ」
哲也の優しい声を聞いて士多田の顔に安堵が広がっていく、
「よかった……ありがとう哲也くん」
「士多田さんは騒ぎも起さないですし、何かあれば僕に言ってください、出来る範囲でカバーしますからね」
「ありがとう哲也くんにそう言って貰えると安心だ」
2人の話しを聞いていた藪野がうんうん頷きながら話し出す。
「流石哲やんや、見直したで、序でにわいのカバーも頼むでぇ」
「何が序でです! 藪野さんはさっさと自分の部屋に戻ってください」
哲也は座っている藪野の腕を引っ張って立たせた。その顔に士多田に向けていた優しい笑みは無い。
「何怒ってるんや、わかったから……部屋に戻ればいいんやろ、その代わりテレビどうにかしてやぁ」
藪野の手を引っ張って士多田の部屋を出て行った。
隣の413号室が藪野の部屋だ。
「今度夜中に士多田さんの部屋に行ったりしたら報告しますからね」
「テレビ直してくれたら行かへんわ」
部屋の中で哲也が叱ると藪野が拗ねるようにテレビを指差した。
「テレビか…… 」
哲也がテレビを調べる。点けてみると確かに映像も音声も出てこない。
「これ新品だ。チャンネル設定してないだけだ」
使い回しのテレビではなく新しいテレビだと直ぐに気付いてチャンネルの設定をする。
「おお、映った。哲やんやるなぁ~、わいは電気さっぱりやからな」
子供のように喜ぶ藪野を見て哲也の顔に笑みが浮ぶ、
「良かったですね、じゃあ僕は見回りがあるから…… 」
出て行こうとした哲也の腕を藪野が掴んだ。
「序でに一緒にサッカー見いへんか? 」
哲也の笑みが一瞬で怒りに変わる。
「何が序でですか! 大人しく1人で見てください、音はこれ以上大きくするのはダメですからね、それと大声出したり騒ぐのもダメ、守らないとテレビ取り上げますからね」
藪野の手を振り払うと怒鳴って叱り付けた。
「じょっ、冗談やがな……冗談、哲やん怖いなぁ~~ 」
流石に悪いと思ったのか藪野が卑屈な笑みを見せた。
「僕だからいいけど、他の警備員にそんな態度取ったら本当にテレビ取り上げられますよ、気をつけてくださいね」
「わかった。哲やんおおきに」
藪野がおべっかするように頭を下げるのを見て哲也は部屋を出て行った。
見回りを再開した哲也が階段を下りながら大きな溜息をつく、
「要注意人物だ。藪野さんって」
変な人に懐かれたなと弱り顔で哲也が呟いた。
翌朝、哲也が朝食を食べていると藪野が隣りに座ってきた。
「哲やん、おはようさん」
「おはようございます」
朝から嫌だなと思いながらも哲也が挨拶を返した。
「飯はまぁまぁ旨いな、この病院」
ゆっくり食べ始める藪野の横で哲也がガツガツと口の中へと放り込んでいく、厄介事に巻き込まれる前に食べ終えて逃げようと思ったのだ。
「さっきおうたんやけど、白瀬はんの奴な、あかん奴や、放って置いたら死ぬ奴やで」
「ゴホッ! 」
小声で話し掛ける藪野の話しを聞いてむせた哲也がコップのお茶を飲み干した。
「なっ、何で分かるんですか? 」
焦りを浮かべて訊く哲也の隣でモクモク食べていたものをお茶で流し込んでから藪野が話し始める。
「言うたやろ、わいはガキの頃から見えるって、そんで色々見て来たんや、白瀬はんに憑いとる奴みたいなんも偶に見た。赤の他人は知らんけどな、親戚や友達はみんな死んでもうた。だからな、わかるんや」
今まで見たこともないような険しい表情で藪野が頷いた。
「あかん奴や、あれはあかん奴や」
「あかん奴って……どうにかならないんですか? 」
藪野の表情から只事ではないのが伝わってきて哲也は身を乗り出して訊いていた。
「わいの姪がな、同じようなもんに憑かれたんや、可愛い姪を助けようおもて色々したんやけどな…… 」
俯いて黙り込んだ藪野の顔を哲也が覗き込む、
「姪御さん亡くなったんですか? 」
「アホか! わいが付いてて可愛い姪を死なせるか、姪は助かったわ、そやけどな……やっぱり、あかんかった。色んな神社や寺を回ったけどどこもあかん、手に負えん言うて追い払われたわ、そやからもう諦めとる」
パッと顔を上げて普段の調子で捲し立てる藪野を見て哲也もほっと安堵した。
「姪御さんは無事なんですよね? 何があかんかったんですか? 」
「それは……そんな事より」
藪野がにへっと厭な笑みを浮かべる。
「あの香織って看護師さん、哲やん仲ええんか? 」
急に話を振られて哲也が焦ってこたえる。
「えっ? うん、香織さんは良くしてくれますよ」
「そうか……ならええか」
藪野の何か含むような物言いに哲也が顔を顰める。
「香織さんがどうかしたんですか? 」
「別に……美人やなって思ってな、ひょっとして哲やんと付き合ってるんか? 」
「ばっ、バカ言わないでください、香織さんが僕なんて相手にするわけないでしょ」
慌てる哲也を見て藪野が声を出して笑い出す。
「ふひゃひゃひゃひゃ、なんや、片思いか」
「かっ、片思いって……まぁそうなんですけど……香織さんが僕なんて相手にしてくれるわけないし………… 」
ふて腐れる哲也の横で藪野がニヤつきながら続ける。
「そらそうやろ、あれだけ美人やったら選り取り見取りや、わざわざ哲やんを選ぶ必要ないわな」
「それは酷すぎますからね」
「ふひゃひゃひゃひゃ、悪い、悪い、そういうわいもずっとお一人様や、哲やんの気持ちはわかるでぇ、そやから勘弁したってな」
楽しげに笑いながら話す藪野に哲也が驚いた顔を向ける。
「そうなんすか? 結婚してると思ってましたよ」
藪野が顔の前で手を振ってこたえる。
「無理無理、ええなぁ思ってたら変なもんが見えて結婚なんて諦めたわ」
「そっか……藪野さん、僕より色々見えるんでしたね」
同情するような何とも言えない表情の哲也の隣で藪野がニヤッと悪い顔で口を開く、
「そやで、大変や、哲やんにも変なもん憑いとるでぇ~~ 」
「冗談止めてくださいよ」
「ふひゃひゃひゃ、こんな病院おったら変なもんの数匹くらい取り憑いてもしゃあないわ」
明るく笑う藪野を見て哲也も自然と笑みになる。
「それは同意します。色んな患者さんが入って来ますからね、心の病の中には心霊が関係していることもあるんじゃないかって僕は思ってますから」
「心霊か……同じ心って字が付くもんなぁ」
成る程という様子で頷いた後、藪野が悪い顔を哲也に近付ける。
「あの香織って看護師も妖怪かもしらんでぇ~~ 」
哲也が迷惑顔で藪野の頭を押し退ける。
「冗談でもそんな事言ったら香織さんに殴られますよ」
「ふひゃひゃ、言わへん、言わへん、わいも命は惜しいからな」
「命って……まったく変な事ばかり言わないでください」
変な話しに焦りまくって喉が渇いたのか空になったコップに哲也がお茶を注ぐと隣で藪野がコップを差し出す。
「わいにも入れてんか、序でや序で」
「序でって……まぁいいですけど」
哲也が呆れ顔で藪野のコップにお茶を注ぐ、
「そうか……味方やったら心強いわ、あの女」
藪野がボソッと呟いた声は哲也には聞こえなかった。
哲也がガツガツと朝食を食べ終わる。隣の藪野はまだ半分も食べていない。
「ご馳走様」
立ち上がろうとした哲也の腕を藪野が掴んだ。
「哲やん忙しいんか? 」
「えぇ……まぁ色々仕事はありますから」
これ以上、藪野の相手はごめんだと哲也は嘘をついた。
「そうか……わいの話しを聞いてもらおう思ってたんやけどな」
食器の載ったトレーに掛けていた手を離して哲也がくるっと藪野に振り向く、
「藪野さんの話しって? 姪御さんに憑いた霊を祓う話しですか」
「なんや知っとったんか、そんならええか…… 」
腕を掴んでいた手を離した藪野に哲也がガバッと身を乗り出す。
「聞かせてください、詳しくは知りません、藪野さんが姪御さんを助けようとして悪霊を祓おうとしてぼや騒ぎになって入院させられたって言うのは聞きましたけど詳しい話しは知りません」
「それだけ知っとったら充分やけどな……まぁいいわ、話したるさかい、わいが食べ終わるまで待っといてや」
言いながら藪野が空になったコップを差し出した。
「序でや序で、立った序でにお茶入れてや」
本当に厚かましいなと思いながらも話しを聞きたいので哲也は黙ってお茶を注ぐと隣りに座り直した。
「藪野さんってゆっくり食べるんですね、関西の人って食べるの早いって思ってました」
仕返しに少し厭味を言うと藪野は気にした風もなくモクモク食べていたものをお茶で流して口を開く、
「そやな、早い言うよりせっかちやねん、わいもせっかちやったけど……もう先が見えとるからな」
「先が見えてるって? なんです」
「白瀬はんなぁ、どうにかしてやりたいけどなぁ」
怪訝な顔で訊く哲也の隣で藪野があからさまに話を変えた。
「僕にはそれほど悪いものって感じなかったですよ」
話を変えられたのは分かったが白瀬のことは気になっていたので哲也は乗った。
「隠れとるからな、悪い奴って気付いたときにはもう遅いねん」
「そうなんですか…… 」
「哲やんはまだまだやな、もっと修業せなあかんな」
哲也がムッとして藪野を睨む、
「修業って僕は別に霊能力者とかじゃないですから」
「わいもそうやで、でもな、ある程度使えるようになっといた方がええ、そしたらわいのようにならんで済む、わいも……わいは手遅れや」
「手遅れって? 」
訊こうとした哲也の隣で藪野が手を合わせた。
「ごちそうさん、ほな食器返してわいの部屋に行こうか」
食器の載ったトレーを持って立ち上がる藪野の横で哲也も慌てて立ち上がる。
朝食を終え、食堂を出ると藪野の部屋へと向かう、
「ジュース奢ったるわ、哲やん何飲む? 」
B病棟のロビーに並ぶ自動販売機を藪野が指差した。
「僕が払いますよ、話しを聞かせてもらいますから…… 」
ポケットから小銭入れを取り出す哲也の手を藪野が止めた。
「若いもんが遠慮すんな、わいが飲みたいんや、序でや序で、哲やん何飲むんや」
「じゃあ、コーヒーで」
「若いもんはコーラとかちゃうんか? まぁええわ、わいはジンジャーエールや、炭酸は強い奴やないと飲む意味無いからな」
自分の炭酸飲料を買うと好きなのを買えというように哲也を自販機の前に引っ張った。
「じゃあ、御馳走になります」
調子が狂うと思いながら哲也が缶コーヒーのボタンを押した。
B棟の413号室、藪野の部屋へと入る。
「適当に座ってや」
ベッド脇の小さなテーブルを囲んで置いてある折り畳み椅子に哲也は遠慮なく座った。
「何から話すか……わいの住んでるとこからか、そやな………… 」
哲也が訊く前に藪野が話を始める。
これは藪野隼人さんが教えてくれた話しだ。
藪野は大阪府の堺に住んでいた。仁徳天皇陵で有名な古墳のある近くだ。都会でもないが田舎でもない、少し寂れた町という塩梅の場所である。大阪市ではなく大阪府という事もあってか関西弁も微妙にニュアンスが違ってくる。藪野自身は小太りという事も相俟って他県の人たちからすれば関西弁が少し鼻に付くタイプだ。
藪野は霊感が強く、子供の頃から怪しいものを色々見てきた。幼い頃から幽霊が見えると騒いでは親に叱られていたが小学校高学年になる頃には自分は人に見えないものが見えるのだと認識して怪しいものが見えても話さなくなる。幽霊の方も気付いているとわかると近寄ってくるので藪野は見えても無視するようになっていた。
感性の鋭い子供の頃だけだと思っていたが大人になっても怪しいものは見えていた。悪いものに憑かれて熱を出して寝込んでしまうような事も多々あったが普通に成人して社会人となり会社勤めをしてマンションで一人暮らしをしていた。霊が見える他に悩みといえば彼女が出来ないことくらいである。
霊感が強いのも困ったもので霊だけでなく他人の性格のようなものが分かってしまうのだ。良い人か悪い人かが分かるのである。友人との付き合いや仕事では役に立ったが恋愛には障害だった。イケメンでもない藪野が選り好みしていては彼女などできるわけがない、そういう訳で35を過ぎた今でも独身である。
藪野には兄が一人いて結婚して子供もいる。親の面倒も兄夫婦に任せっきりだ。しっかりした兄が居るので自分はフラフラ出来ると周囲に冗談を言っているくらいである。
兄夫婦には子供が2人いる。中学生の長女と小学生の長男だ。幼い頃には隼人兄ちゃんと慕ってくれていたが思春期を迎えた長女の方には近頃嫌われているのが何となく分かった。それでも藪野は時々顔を出しては小遣いをやったりして可愛がっていた。自分の出来ないことを、孫を授かり親に会わせることをしてくれた兄夫婦には心から感謝していた。
今から1ヶ月ほど前になる。姪が不登校になったと聞いて藪野は実家で暮らしている兄夫婦の元へ様子を見に行った。
「希乃香ちゃん…… 」
実家に一歩足を踏み入れた藪野が顔を強張らせた。希乃香とは姪の名前だ。
「あかん……あかん奴や」
両親や義姉に挨拶も早々に姪の部屋へと向かった。
「希乃香ちゃん、大丈夫か? 」
ドアからそっと覗く藪野を姪の希乃香が怒鳴りつけた。
「何しに来たん? 入ってこんといて」
「希乃香ちゃんどこ行った? 変なとこ行ったやろ? 」
「私がどこ行こうがあんたに関係ないわ! 」
優しい声で訊く藪野に希乃香はけんもほろろだ。
「そやけど……希乃香ちゃん」
「さっさと出て行け! 」
騒ぎを聞いて義姉が階段を上がってきた。
「希乃香!! 心配して来てくれたのに何言ってんの」
「まぁ義姉さん、ここはわいに任せて……頼むさかい」
後ろで叱り付ける義姉を宥めて藪野が続ける。
「希乃香ちゃん、変なもんが憑いとる。悪霊や、どこ行ったんか教えてくれ、話してくれたら帰るから……なぁ希乃香ちゃん」
ベッドの上で布団を被っていた希乃香がビクッと体を震わせた。
「隼人兄ちゃん分かるの? 」
驚いた顔で見つめる希乃香に藪野が優しい顔で頷いた。
「わいは見えるんや、お爺ちゃんやお父ちゃんに聞いたことないか? 昔から……幼稚園くらいからずっと幽霊とか見えてるんや、そんでな、希乃香ちゃんに悪いのが憑いてるのが見えるねん」
「お兄ちゃん助けて…… 」
泣き出した希乃香に藪野が近付く、
「大丈夫や、任せとき、希乃香ちゃんの為やったら何でもしたるから、だから詳しい話しを聞かせてや」
「わかった…… 」
藪野がベッドの脇に椅子を持ってきて座ると希乃香が話を始めた。
希乃香は先週の土曜日に友達に誘われて心霊スポットへ肝試しに行った。実家のある町から自転車で1時間ほど離れた所にある廃屋だ。元は旅館だったらしい、廃屋へと入って肝試しをした。何も起こらなかったが友人たちと盛り上がって楽しかった。
その帰り、町中にぽつんとある小さな森の前で男子たちが自転車を止めた。序でに森の中を探検すると盛り上がる。希乃香は嫌なものを感じたが盛り上がっている友人たちに水を差すようなことも出来ずに森へと入った。
小さな森の中に神社があった。滅多に人が来ないらしく荒れていた。男子たちは先程の廃屋より怖いと盛り上がっているが希乃香は厭な気配が大きくなるのを感じて一刻も早く出ていきたかった。
調子に乗った男子たちが半分朽ちた社の扉を開けた。
「ひぅっ! 」
社の中から黒い影のようなものが出てくるのを見て希乃香が悲鳴を上げる。
黒い影が友人たちに纏わり付いていく、見えていないらしく友人たちは平然としている。
「気持悪い…… 」
「絵理奈! 」
希乃香が絶句した。しゃがみ込んだ友人の絵理奈は真っ黒に見えた。影が纏わり付いて友人の姿が見えなかった。
「早く出よう、急いで! 」
絵理奈の腕を引っ張って立たせると希乃香は森の外へと向かう、絵理奈に纏わり付いていた黒い影が自分へとやって来るが希乃香にはどうすることも出来なかった。
2人を追って他の友人たちも森の外へと出てくる。怖かったと口々に言い合いながら帰りについた。
月曜日、肝試しに行った友人たちが中学校を休んだ。出席したのは希乃香と絵理奈だけだ。
希乃香も熱っぽかったのだが風邪の引き始めだと思って無理をして出席したのだが学校へ来てあの時の黒い影の仕業だと分かって驚愕した。
影が纏わり付いていた男子たちが次々と入院していく、次は私だと恐ろしくなった希乃香は不登校になって部屋に引き籠もったのだ。
話しを聞き終えた藪野が顔を強張らせて口を開く、
「あかん奴や、廃神社なんて行ったら変なもんに憑かれてもしゃあないわ」
「変なもんってあの黒い煙みたいな奴のこと? 」
不安気に訊く希乃香の向かいで藪野が頷く、
「そや、そこらの悪霊とは違う、もっと質の悪いあかん奴や」
「そんなん……どうしよう隼人兄ちゃん」
泣き出しそうな希乃香を見て藪野がぎこちない笑みを作る。
「わいに任せとき、希乃香ちゃんは優しい子や、友達を助けようとしたんやろ、それと同じようにしたらええ、わいがそいつを引き受けたるわ」
「引き受けるって隼人兄ちゃんは大丈夫なん? 」
「大丈夫や、これでも霊能力持ってるねんで」
希乃香を安心させようとして藪野は嘘をついた。幽霊が見える霊感が少しあるだけで祓ったりする霊能力などは持っていない。
「ほな、やるで、抱き付くけどちょっとだけ辛抱してや」
黙って頷く希乃香を藪野が抱き締めた。
「こっちに来い、そんな娘よりわいの方が旨いで、こっちに来い、わいやったら最後まで付き合ったるでぇ」
強く抱き締めながら何度も話し掛ける。5回ほど言っただろうか希乃香の身体から黒い影がふわっと浮き出した。
「隼人兄ちゃん…… 」
獣のような黒い影が藪野に巻き付くのを見て希乃香が言葉を失った。
「大丈夫や、わいはこれくらい平気や」
苦しげに顔を歪めて藪野が笑う、纏わり付いた黒い影がスーッと消えていく、
「なっ、大丈夫やろ、これで希乃香ちゃんも安心や、もう何も無いから安心して学校へ行き、お父ちゃんやお母ちゃんに心配掛けたらあかんで」
「わかった……ありがとうお兄ちゃん」
はにかむように笑う希乃香の頭を撫でると藪野が立ち上がる。
「心霊スポットとかもう行ったらあかんで、希乃香ちゃんは少し霊感があるんや、やから変なもんが憑きやすい、やから絶対に行ったらあかん、誘われても用事あるからって断るんやで」
「わかった。もう絶対行かへん」
しっかりと目を見て話す希乃香に藪野が念を押す。
「約束やで」
「うん、約束する」
頷く希乃香の前で藪野はにっこり笑うと財布を取り出す。
「お小遣いやるからな、お母ちゃんには内緒やで、凉くんにも渡してや、ここ置いとくからな」
藪野が机の上に5千円札を2枚置いた。凉とは希乃香の弟だ。
ベッドの上で布団にくるまっていた希乃香が言い辛そうに口を開く、
「男子たちまだ入院してるねんけど…… 」
振り返った藪野が険しい顔で首を振る。
「あかん、無理や、わいは修業した霊能者と違う、希乃香ちゃん1人助けるので精一杯やで、でもまぁ心配することないやろ、力のある希乃香ちゃんに集中して他の奴らはちょっと霊障受けただけや、死ぬことはないやろ、まぁちょっとおかしなるかも知らんけどな……自業自得やで、やから心霊スポットとか遊び半分で行ったらあかんのや」
「ごめんなさい……もう絶対に行かへんから約束するから」
泣き出しそうな顔で謝る希乃香を見て藪野が優しい顔で微笑んだ。
「わかったらええねん、これで希乃香ちゃんは安心やからな」
藪野がそっと部屋を出て行った。
両親と義姉に希乃香を叱らないようにと頼むように話しをすると藪野は帰っていった。
翌日、希乃香が学校へ行ったと義姉から御礼の電話が掛かってきた。
「よかったな、希乃香ちゃんによろしゅう言うといてや」
元気な声を作って電話にこたえる藪野は布団の中だ。高熱を出して会社を休んでいた。
「あかんなぁ……どうにもあかんわ」
熱冷ましの薬を飲んで少し熱が下がると藪野は近くの神社へと行った。
「あのぅ…… 」
藪野が声を掛けると神主が大慌てでやってきた。
「藪野さん、あんた何した! そんなもんうちに連れてこんといて」
憑かれた霊を何度か祓って貰ったことのある顔見知りの神社だ。近くに幾つかある神社や寺の中でここだけが本当の力を持っていると藪野が認める神社である。
「祓ってほしいんやけど…… 」
「無理や、力になりたいけどうちじゃ無理や、何したんや藪野さん」
普段は冗談を飛ばし合う陽気な神主が真っ青になっている。
「仕方なかったんや…… 」
藪野は姪の希乃香を助ける為に自分に変なものを乗り移らせた話をした。
「藪野さん……一寸待っててや」
話しを聞いた神主は目に涙を溜めて本殿へと入っていった。
何やら呪文のようなものを唱える声が藪野にも聞こえてきた。暫くして神主がやって来る。
「これ持って行って、私が出来るのはここまでや、こんな札でどれ程の効果があるかはわからへん、少しでも役に立ってくれればええけど…… 」
御札の束を藪野に渡しながら神主が続ける。
「それとこの神社へ行き、私よりも力を持ってる人がおるから……それでも無理やと思う、正直言って手が付けられん状態や、でも今よりは……少しは良くなるかも知れん」
「おおきに、ほんまにおおきに」
ある神社の住所が書かれた紙を受け取りながら藪野が頭を下げた。
「ほんま無理言うてごめんな、おおきに」
藪野が祈祷料を払おうとするのを神主が止める。
「そんなもん受け取れん、私は助けることが出来へんのや、渡した御札は気休めや、ええか藪野さん、気を強く持つんやで、弱っとったら付け込まれるだけやで」
「わかった。ほんまおおきに」
何度も頭を下げて藪野は神社を後にした。
マンションに帰って直ぐに御札を部屋に貼る。
「あっ! 軽なった……御札の効果抜群や」
重かった頭が晴れたようになり熱を測るとすっかり平熱に戻っていた。
「教えてもろた神社へ行かんとな……先ずは電話や」
京都にある神社へ電話をすると相手は直ぐに分かったのか手に負えないと断ってきた。藪野は見てくれるだけでもいいと言って明日訪ねる約束を取り付けた。
翌日、仕事を休んで紹介された神社へと行くがやはり祓うことはできなかった。
「現状維持でも良しとせなあかんな」
完全に祓うことはできないが悪化することは防げるかも知れないと御守りや札を貰うことが出来た。その御陰か熱で寝込むこともなくなり会社へも通うことが出来るようにまで回復することが出来た。
それから1ヶ月ほどして藪野は心筋梗塞で倒れて病院へと運ばれる。幸い仕事場だったので直ぐに救急車が呼ばれて一命を取り留めた。一人暮らしをしているマンションで倒れていたら死んでいたかも知れない。
入院していた藪野が深夜ふと目を覚ます。
「くっ……くふぅぅ………… 」
黒い影のようなものが纏わり付いて藪野の顔の傍で大きな赤い口がニタリと笑っていた。
「へっ蛇か…… 」
恐ろしさのあまり藪野は失神した。
それから毎晩のように現われる黒い影のようなものと藪野の睨み合いが続いた。
「こんなもん、あと3日も続いたら死んどるわ、御札が無いから出てきよるんやな」
1週間後、藪野はどうにか退院することが出来た。
その後も悪いことが続いた。階段から落ちて足を骨折したり、風邪だと思って市販薬を飲んで放って置いたら肺炎の初期症状で1週間ほど入院したり、小さな事を入れれば不幸の連続と言ってもよい、その度に獣のような黒い影が出てきてニタリと笑った。
休日を使って各地の神社や寺に行くが本当に力を持っている所は少なく、やっと探し当てても祓えないと断られた。
「御札がある内は大丈夫や」
悪霊と付き合っていくしかないと覚悟を決めた矢先に会社が倒産した。自分だけならともかく仕事仲間を巻き込んでしまったと藪野は落ち込んだ。
「あかん……こないなことになるやて…………わい1人やったらええ、そやのに…………みんな巻き込んでもうた。わいがどうにかするしかない」
病気や怪我が続いて身体が参っている時に会社の倒産だ。心身共に疲れ果てたのだろう、藪野は正常な判断が出来なくなっていた。
自分で悪霊を退治しようと思った藪野は経を読んだり写経などを始めた。3週間ほどして経を覚えた藪野は夜中、獣のような黒い影が現われると護摩を焚き経を読んで祓おうとした。その火が燃え移って火事となる。幸い発見が早かったので衣類や家具などが焼けるだけのぼやで済んだ。
「わいがどうにかするんや……どうにかせんと…………あの蛇が………… 」
警察に保護された先でも悪霊が出たと騒ぐ藪野を親が磯山病院へと入れたのだ。
燃えたのは藪野の部屋の家具と衣類だけだ。壁などは煤がつく程度で済んだこともあり事件ではなく事故として扱われた。処置が甘いと怒っていた近隣住民も藪野が病院へ入ったと聞いて納得してくれた。
これが藪野隼人さんが教えてくれた話しだ。
話を終えた藪野が哲也を見てニヤッと笑う、
「そんでな、わいには蛇みたいな黒い影が憑いとるんや」
「蛇ですか…… 」
哲也が神妙な顔をして見つめるが藪野からは黒い影はもちろん悪い気配も感じない。
「見えるか? 見えへんやろ」
楽しげに訊く藪野の向かいで哲也がこくっと頷いた。
「えぇ……僕にはさっぱり、というか藪野さんからは悪い気配も感じませんよ」
「そやろな、出てこんとわいも見えへんからな」
少し疑うような目付きの哲也を見て藪野がとぼけ顔で続ける。
「入ってるねん、普段はな、わいの身体の中に入ってる。外に憑いてる奴と違うねん、やからそれなりの力持ってる人しか変なもんが憑いてるってわからへん」
「入ってるって……大丈夫なんですか? 」
身を乗り出して訊く哲也に藪野がとぼけ顔を悪い笑みに変えた。
「大丈夫とちゃうわな、心筋梗塞と階段から落ちた時に死にかけたわな、周りに誰もおらんかったら死んどったでぇ」
「死にかけたって……何で笑ってるんですか」
哲也が弱り顔だ。飄々とした物言いに今一信用できない。
「まぁ仕方ないからな、やれる思たことはやったしなぁ」
藪野がすっと視線を落とした。諦めているような口調に哲也は掛ける言葉が出てこない。
「藪野さん…… 」
「ジンジャーエール温なってもうたな」
心配する哲也の前でとぼけ顔の藪野が缶を開けて炭酸飲料をゴクゴクと飲み干すとベッドにゴロッと横になる。
「まっ、そういうこっちゃ、わいの話しはこれでお仕舞い、昼飯までちょっと寝るわ、昨日も夜中までテレビ見ててな、眠とうてしゃあない」
ベッドに寝転がった藪野が何か思い付いたように上半身を起す。
「あっ、そうや、哲やんA棟やろ? 」
「はい、そうですけど」
何事かと首を傾げる哲也に藪野が枕元に置いてあった雑誌の束を差し出す。
「それやったら丁度ええわ、本返してきて、Aの402の佐田中はんにサッカーの雑誌借りてたんや、序でに返してきてんか」
嫌そうに顔を歪めながら哲也が雑誌の束を受け取る。
「いいですけど……借りたのなら自分で返した方が相手に対する印象が違うでしょ? 」
「序でや序で、そや、一寸待っとき」
ベッドから起き上がると壁に設置されている棚から菓子箱を持ってきた。
「兄貴が見舞いでくれたんや、本の御礼に佐田中はんに3つ、哲やんにも3つあげるさかい本返してきてや、序でや序で、頼んだでぇ」
菓子箱の中から最中を6つ取り出して哲也が持っている雑誌の上に置いた。
高そうな最中を見て哲也の表情が緩んでいく、
「まぁ序でですから…… 」
「そういうこっちゃ、序でや序で、何事も序でで旨く行くんやでぇ」
藪野は悪戯っぽくニヤッと笑うとベッドに寝転がった。
「それじゃあ、失礼します」
部屋を出ようとした哲也にベッドで寝ながら藪野が声を掛ける。
「哲やん、話し聞いてくれておおきにな、でもな、あんまり首を突っ込んだらあかんで」
「はい、気を付けておきます」
ペコッと頭を下げて哲也は部屋を出て行った。
「わかってないなぁ……もう遅いかも知れんなぁ哲やんも………… 」
寝転がりながら呟く藪野の声は哲也には届かない。
雑誌の束を持って哲也がA棟へと入っていく、
「402の佐田中さんか……余り話したことないな」
階段を上りながら先程聞いた話しを思い出す。
「藪野さん……本当かなぁ~~ 」
霊感体質で幼い頃から怪しいものを見てきた為か藪野の話には怯えが殆ど無かった。それが話自体を嘘くさく感じさせた。
「悪い気配も何も感じなかったし……全部作り話なんじゃ…………姪を助けたとか格好良すぎるし」
初めて会った時からお調子者でいい加減だという印象しか抱いていないこともあって藪野のことは話半分で信じないことにしようと哲也は思った。
昼過ぎ、普段より少し遅れて哲也が食堂へと入っていく、
「手前は全部塞がってるなぁ」
食事の載ったトレーを手に空いている席を探す。普段より20分ほど遅くやってきたので出入り口に近い席やテレビが見える席は全て塞がっている。
「藪野さんはっと……居た居た」
食堂に並ぶ長机の真ん中辺りの列に藪野を見つけると哲也は避けるように奥の長机へと向かった。食事中にあれこれ話し掛けられるのを嫌って藪野が近くの席に来ないように態と時間をずらしたのだ。
「飯くらいゆっくり食べたいからな」
話しはともかく藪野の関西弁が耳障りに思えて避けたのだ。
「いただきまぁ~す」
手を合わせると哲也が昼食を食べ始める。
暫くして騒ぐ声が聞こえてきた。
「止めときや、変なちょっかい出したら怪我するでぇ」
「なんだお前? 喧嘩売ってんのか! 」
聞き覚えのある関西弁に哲也は半分ほど残った定食の箸を置いて口の中のものをお茶で流し込む、
「藪野さん何したんだ? 」
食堂の壁際で監視していた看護師の望月が駆け寄っていくのを見て哲也も慌てて席を立つ、
「喧嘩なんか売ってへん! あんたが飯も食わんと女にちょっかい出してるから注意しただけやで」
「なっ、お前……表出ろ!! 」
藪野が斜め前に座っている患者と揉めていた。哲也は見たことはあるが名前も覚えていない殆ど付き合いの無い患者だ。
「コラ! 何してる」
看護師の望月が一喝すると藪野ともう1人の患者が直ぐにおとなしくなる。望月は佐藤と同じように堂々たる体躯で強面だ。患者たちの間でも恐れられている看護師の1人だ。
「お前ら名前は? 食堂で喧嘩していいと思ってるのか? 」
望月が2人を睨み付ける。周りで囃し立てていた他の患者は知らんぷりだ。
「望月さんすみません……藪野さんは2日前に入ったばかりなんですよ、僕から注意しておきますからここはどうか………… 」
藪野の後ろに回って哲也が望月に頭を下げた。
「 ……そうか、入ったばかりなら今回は大目に見てやる」
哲也を睨み付けると望月は食堂の壁際へと歩いて行った。
「哲やんおおきに」
パッと顔を明るくする藪野に哲也が怒り顔で口を開く、
「おおきにじゃないでしょ! 喧嘩はダメって聞いてますよね? なんで喧嘩したんですか……そっちの患者さんも」
斜め前にいる喧嘩相手の患者にも哲也が怖い顔を向ける。
「ちゃうねん、彼奴が白瀬はんにちょっかい出してたからわいは注意しただけや」
言い訳する藪野の指差す先に白瀬が座っていた。喧嘩相手の患者の斜め後ろだ。
「少し話し掛けただけだろ、お前が難癖つけてきただけや、なぁ白瀬さん」
喧嘩相手の患者が後ろに居る白瀬に同意を求める。それを見て藪野が言い返す。
「あんたは少し話し掛けただけでデートに誘うんか? 白瀬はんが黙ってるのいいことに強引に誘ってたやんけ」
気が弱いのか名前を出された白瀬は俯いて黙っている。
「いい加減にしろ! 」
一喝すると哲也が続ける。
「一番迷惑してるのは白瀬さんです。特に貴方、暫く白瀬さんに声を掛けるのは禁止します。見つけたら罰としてテレビ禁止1ヶ月、いいですね」
喧嘩相手の患者にキツく言うのを見て藪野が嬉しそうに口元を歪める。
「流石哲やんや」
喜ぶ藪野に哲也が怖い眼を向ける。
「藪野さん、貴方もですよ、今度騒ぎを起したらテレビ禁止しますからね」
「そんなぁ……わいと哲やんの仲やんかぁ」
「ダメです! ルールは守ってください、みんなもですよ」
他の患者にも聞こえるように言うと哲也は壁際にいる望月を見る。
「はい、騒ぎはこれでお仕舞い、皆さん早く食べてください、もう直ぐ時間ですよ」
望月がこくっと頷いたのを見て哲也はほっと胸を撫で下ろして自分の席に戻っていった。
昼食が終り、散歩でもしようと廊下を歩いていた哲也に藪野が声を掛けてくる。
「哲やん、ちょっと哲やん」
「なんですか? 」
迷惑そうに振り返った哲也に藪野が馴れ馴れしく話を始める。
「さっきは助かったでぇ、他の患者に聞いたんやけどな、騒ぎ起したらほんまにテレビ取り上げられるんやな」
「そうですよ、下手に叱るより効果がありますから、それでもダメなときは一時的に隔離病棟へ入れたりしますよ」
窘める哲也の前で藪野が嫌そうに顔を歪める。
「隔離は嫌やな…… 」
「嫌なら騒ぎを起さないでください、隔離から戻ってきたらみんな大人しくなるから僕たちは楽ですけどね」
「わかった。気を付けるわ、でもな……さっきのはちょっと違うねん」
神妙な顔付きになった藪野を哲也が覗き込む、
「違うって何がですか? 」
「あの男が白瀬はんにちょっかい出そうとしたことはほんとや、でもわいが怒鳴ったのはそれとちゃうねん、白瀬はんに憑いてた黒い影みたいなのが彼奴にも憑きそうになってたんや、そやから怒鳴りつけたったんや」
「それでか…… 」
藪野が『変なちょっかい出したら怪我するでぇ』と言っていたのは白瀬に取り憑いている悪いものが霊障か何か起すのを気遣って止めようとしたのだ。
「でももう勘弁してくださいよ、望月さんとか佐藤さんは僕も苦手なんですからね」
「あぁ、あの看護師な、わいもビビったわ、ヤクザかと思ったわ」
顔を顰める藪野を見て哲也が声を出して楽しそうに笑った。
「あははははっ、やっぱりそう思いますよね」
「まぁ、ああいうのも必要なんやろなぁ」
「大事ですよ、揉め事は一発で止めてくれますから」
ふざけるようにこたえる哲也の腕を藪野が引っ張った。
「哲やん、今から何するん? 」
「今からですか? 散歩します。天気の良い日は外歩くと気持ち良いですよ」
気が緩んでいた。言ってからしまったと思った。
「さよか、わいも散歩しよ、序でや序で、哲やんと一緒に散歩や」
「あははは……じゃあ行きましょうか」
乾いた笑いを上げた哲也が藪野を連れて外へと出て行った。
病院の敷地をぐるっと回っている遊歩道を哲也と藪野が駄弁りながら歩いている。
「白瀬はんや、何して…… 」
藪野の言葉に哲也が前を見ると白瀬が居た。50メートル程先、遊歩道の脇にある大きな木の前に立っている。
「あかん! 」
藪野が走り出すのを哲也が慌てて追う、
「あっ、あれは…… 」
10メートル程近付いた哲也が顔を強張らせる。
大きな木の前に居る白瀬の背に人のような黒い影が伸し掛かるようにして付いている。
「白瀬はんあかん!! 早う離れや! 」
藪野が白瀬の腕を引っ張って遊歩道の先へと早足で歩き出す。
「この木は? あの時の木か…… 」
2人の後を追って大きな木の前を哲也が通り過ぎる。藪野に初めて会った夕方、一緒に食堂へ行ったときに自殺者の霊が見えると言っていた木だ。
「あれか……男だ」
大きな木の下に殆ど透明に近い男らしき白い靄のようなものが揺らいで見えた。
「藪野さんはあれがハッキリと見えるのか」
驚きながら2人に追い付いた。白瀬に憑いていた黒い人影は見えなくなっていた。あの木の下にいた幽霊が何か関係しているのだろうと哲也は思った。
「やっ、止めてください」
藪野に掴まれた腕を外そうとしていた白瀬が哲也を見て助けを求める。
「助けて……この人が急に………… 」
怯えている白瀬に哲也が優しく微笑みかける。
「白瀬さん、安心してください、別に変な事しようとしたわけじゃありませんから」
「そやで、哲やんの言う通りや、わいは…… 」
話を始めようとした藪野を止めて哲也が遊歩道脇にあるベンチを指差す。
「まぁまぁ藪野さん、そこに座って話しましょう」
「そやな、走って疲れたさかいな」
ベンチに座ると藪野が隣に座るようにポンッと叩いた。
「白瀬はんも座りぃや」
「嫌です。私帰りますから」
藪野だけでなく哲也にも怖い顔で睨み付けると白瀬が歩き出す。
去ろうとした白瀬の背に藪野が話し掛けた。
「白瀬はん、あんたどこ行ったんや? 変なもの付いてるで、質の悪い悪霊や」
白瀬がくるっと振り返った。強張った表情で見つめてくる白瀬に藪野が続ける。
「女や……首の長い女が見えるわ、自殺した奴の幽霊やな、自分は失恋したのにあんたは彼氏と仲良うしとる。それを嫉妬して憑いたんや」
「へっ、変な事を言わないでください」
否定する白瀬の声が震えている。
哲也が目を凝らして白瀬を見た。
「あぁ…… 」
喉の奥から呻きが出た。黒い靄のようなものが白瀬の背から顔を覗かせていた。長い髪をしているように見える。女の幽霊だと哲也にも思えた。
「これは怖い! 女の嫉妬は怖いからなぁ~~、どこでそんなもん憑けてきたんや? 全部話してくれたらわいが何とかしてやってもええで」
わざとらしく演技するような口振りで藪野が話し掛けた。
何とか出来るのかと、驚いた哲也が藪野を見つめる。
「わいは霊能者や、白瀬はんを助けたる。やから話してみ」
笑顔で話す藪野を見て哲也が顔を顰めた。デタラメだ。全て嘘だと直ぐに分かった。
強張った表情をした白瀬が藪野を睨み付ける。
「霊能者? そんなもの全て詐欺じゃない! 健司も直美も治らなかったわよ」
吐き捨てるように言うと白瀬は早足で去って行った。
大人しい白瀬の怒る剣幕に藪野も哲也も追うのを止める。
「あかんかったな……話し聞こう思うたんやけどな」
苦笑いする藪野の隣りに哲也が腰掛ける。
「あかんも何も、滅茶苦茶、胡散臭いですから、詐欺師みたいな顔してましたよ藪野さん」
「やっぱり、わいは直ぐ顔に出てしまうねん」
嬉しそうな顔をする藪野を見て哲也は呆れながらも訊きたかったことを口に出した。
「でも何であの木の幽霊が? 白瀬さんに憑いている黒い影と何か関係しているんですか? 」
藪野の顔からすっと笑みが消えた。
「首吊りや、同じ自殺者の霊や、男と女で引き合ったんかもなぁ、でもなぁ、白瀬はんに憑いてるのは厄介なんや、幽霊に何かが力を貸しとる。山に棲む物の怪やな、わいと同じや……あかん奴や、どこで憑けてきたんやろ」
「あかん奴か…… 」
少し考えてから哲也が藪野を見つめた。
「藪野さんはどうにか出来るんですか? あかん奴を」
真剣に見つめる哲也の前で藪野がにへっと悪戯をしたときのように笑う、
「無理やな、わいは見れるだけや、白瀬はんに憑いてるのが祓えるくらい力があったら自分に憑いてる奴を祓ってるわな」
やはり嘘だったと思いながら哲也が続ける。
「じゃあ何で霊能者とか助けるとか言ったんですか? 話しを聞きたいだけで言ったとかなら藪野さんを軽蔑しますからね」
「話しを聞かな対策も取れへんやろ、その後で考えたらええ」
とぼけ顔で返す藪野の隣で哲也が考える。
「話しですか……そうですね、僕も興味ありますからどうにかして聞いてみますよ、藪野さんや僕が無理なら…… 」
霊能者である事務員の眞部の名を出そうとして止めた。藪野に知られたら何をするか分からない、眞部に迷惑が掛かると考えたのだ。
「哲やんが話し聞くんか? その方がええかもな、わいは余計な事言ってまうからな」
納得した様子の藪野に哲也が念押しする。
「話しを聞いたら教えますから藪野さんは何もしないでください、これ以上白瀬さんに嫌われたらそれこそ何も出来なくなりますからね」
自分たちが無理なら眞部に相談しようと簡単に考えた。陰陽道と繋がりのある眞部なら力になってくれるだろうと思った。
「じゃあ、そういう事で、僕は警備員の仕事がありますから」
哲也はペコッと会釈すると病棟に向かって歩き出す。
「今は無理やけど助けることも出来るかも知らへんさかいな、わいはもうじき…… 」
立ち上がりながら呟いた藪野の声は歩きだした哲也には聞こえなかった。
夜10時過ぎ、見回りで哲也がC病棟へと入っていく、
「異常無しっと」
いつものように最上階から下りながら各フロアを見て回る。
「確か白瀬さんはC棟だったよな」
白瀬を探すように各部屋のネームプレートを読みながら廊下を歩いていると嫌な気配を感じた。
「ヤバいな……嫌な感じだ」
以前見た鬼のときよりは小さいが悪い気だと直ぐに分かった。
「ここか……白瀬さんか」
306号室の前で哲也が止まった。ネームプレートには白瀬姫奈と付いている。
哲也はドアにそっと近付いて中の様子を伺うが悲鳴はもちろん物音一つしない、深夜ならともかく夜の10時だ。9時の消灯時間は過ぎているがお年寄りの患者以外はテレビを見たりして起きている事が多い。
「白瀬さん、入りますよ」
嫌な気配を感じた哲也がノックしてドアを開けた。
「なん!? 」
少し開けたドアから顔を出したまま哲也が固まった。
「ああぁ…… 」
掴んでいたドアノブがカチカチ音を立てた。恐怖で震えた哲也の振動がドアノブを鳴らしたのだ。
ベッドで仰向けに横になっている白瀬の上に女がいた。白瀬の上に伸し掛かっているのではない、20センチほど浮いている。
自殺者だ……。哲也はゴクリと唾を飲み込んだ。白瀬の上に首吊り自殺をした女の幽霊がぶら下がっていた。
白瀬は起きていた。目を見開いて首を吊っている女の幽霊を見ていた。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ね…………死ねば楽になる。死ね死ね死ね死ね死ね』
女幽霊の声が聞こえてきた。金縛りに遭っているのか怖くて動けないのか白瀬は目を見開いたまま女幽霊と見つめ合っている。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ぬ、死ね死ね死ね死ね死ね死ね………… 』
ぶら下がっていた女幽霊がすっと下りてきて白瀬に手を伸ばす。
一言も話さず、悲鳴も上げないが仰向けになって見開いた白瀬の目から涙が流れて耳へと筋が出来ているのに哲也が気付く、次の瞬間、体が勝手に動いていた。
「白瀬さん! 」
白瀬の首に手を掛けようとした女幽霊を哲也が殴り飛ばした。
「何で死んだか知らないけど白瀬さんを巻き込むな!! 」
哲也はベッドの上に右膝を載せて白瀬を庇うように前に立った。
『死ねば楽になるのに…… 』
恨めしそうに哲也を見つめて女幽霊がすーっと消えていった。
ベッドで仰向けになっていた白瀬が驚きの表情で哲也の背を見つめる。
「本物の霊能者…… 」
目の前で襲ってくる幽霊を殴り飛ばす哲也を見たのだ。
「本物の……お願い助けて! 」
飛び起きるようにして白瀬が哲也に抱き付いた。
「おおぅ!! 」
急に抱き付かれて哲也が驚くと共に嬉しそうな声を出す。
「ちょっ……白瀬さん」
後ろから抱き付かれて哲也が首を回して白瀬を見る。
「助けてください、女の幽霊が……健司や直美みたいになりたくない……助けてお願い…………昼間怒鳴ったことは謝ります。お願いだから助けてぇ~~ 」
「おおおぅ!! 」
しがみつく白瀬の意外に大きな胸が哲也の背中に広がった。
抱き付く白瀬は柔らかで温かで良い匂いがして気持ちがいい、全神経が背中に集中する中、哲也は必死で邪念を振り払う、
「ああぁ……あのぅ……白瀬さん、これじゃ話しもできないから」
「そっ、そうだね、ごめんなさい」
無意識に抱き付いていたのだろう、白瀬がバッと離れた。
「あの……ごめんなさい…………それで……助けてください」
ベッドの上に座るようにして白瀬が頭を下げた。
哲也は白瀬の肩に手を当てて頭を上げさせる。
「助けるつもりだよ、だから話しを聞かせてください、僕だけじゃなくて藪野さんも力になってくれます。昼間会ったでしょ? 口は悪いけど良い人なんですよ藪野さん」
「昼間はごめんなさい……霊能者なんてみんな嘘だって思ってたから」
また頭を下げようとした白瀬を哲也が慌てて止める。
「謝らなくてもいいから、昼のは藪野さんが悪いんだから……でも藪野さんなりに心配してやった事だから許してやってください」
「ありがとう……あのぅ、何て呼べば………… 」
はにかむように見つめる白瀬に哲也が自己紹介だ。
「僕は中田哲也、警備員です。哲也って呼んでください、さっき見たでしょ? 僕は幽霊を殴れる。藪野さんだって幽霊を見たり出来るんです。2人で白瀬さんを助けますから、だから全部話してください」
「2人で……ありがとう哲也さん、藪野さんにも謝らないと」
泣き出しそうな顔で白瀬が哲也の手を握り締めた。悲しい涙ではない、助かるかも知れないという安心が込み上げさせた涙だ。
「藪野さんも怒っていませんよ、白瀬さんのこと心配してましたよ、藪野さんにも話して対策を練るので僕に全部話してください、大丈夫、白瀬さんは絶対に助けますから」
白瀬を安心させようとしてか哲也が安請け合いをする。
そこらの神社や寺が手に負えないほどの『あかん奴』だと藪野は言っていた。だが哲也はどんな事をしても助けてやろうと誓った。哲也には当てがあったのだ。陰陽道を使うことの出来る眞部だ。眞部を頼ればどうにかなるという確信めいたものがあった。
「全部話します……1ヶ月ほど前になります」
ベッドに並んで座りながら白瀬が話を始めた。
これは白瀬姫奈さんが教えてくれた話しだ。
白瀬は関東のある地方都市に住んでいる。中心部から車で40分も走れば山ばかりといった少し田舎の町だ。そこに両親が買った建て売りの一戸建てに親と弟の4人で暮らしていた。
白瀬には高校から付き合っている彼氏が居る。名前は広瀬健司、よく似た名前だと広瀬の方から声を掛けてきて付き合いが始まった。彼此7年もの長い付き合いだ。双方の親とも面識があり近い内に結婚するつもりでデートの序でにアパートやマンションなどを見て回るのが幸せだった。
1ヶ月ほど前の事だ。彼氏である広瀬と友人の木村、白瀬と友人の直美、男2人に女2人、合計4人でドライブへと行った。広瀬はドライブと言っていたが実は肝試しだ。
昼過ぎに出て心霊スポットである山に着いたのが午後の4時前だった。肝試しだと話しを聞いた白瀬と友人の直美は怖がって反対する。直美は少し霊感体質らしく、遊び半分で行くのは良くないと頑固に反対した。
友人である木村が直美に気があるらしく、どうにかして付き合えるようにしてやって欲しいと広瀬に頼まれて白瀬は渋々肝試しに賛成した。頑固に反対していた直美だが白瀬が行くというので仕方なくついていった。
舗装されていない土が剥き出しの細い山道、待避所に使われているのか脇にあった草ぼうぼうの広場に車を止める。ここに車を置いて歩いて山を登っていくのが定番らしく、広場にはまだ新しいタイヤの跡も残っていた。心霊スポットに遊びに来る者がいる証拠である。
広場から少し山道を歩いて脇道へと入っていく、車が一台通り抜けられるかどうかの道だったらしいが今は草だけでなく細い木も生えていて車は通れない、白瀬や直美を怖がらせるように心霊スポットで起きた怪異などを話しながら4人は歩いて行った。
暫く歩くとトンネルが見えた。手彫りで岩盤を刳り貫いたような側面がゴツゴツしたトンネルだ。中でカーブにでもなっているのか結構長いらしく先に明かりが見えない、厭な感じがするという直美をどうにか宥めてトンネルに入っていく、何事も無く無事にトンネルを抜けて直美も気の所為だったのかと明るさを取り戻した。
トンネルを抜けて20分ほど歩くと廃屋が見えてきた。木材加工所の跡だという、林業が盛んだった頃に山で取った木を加工していた工場の跡だ。
白瀬たちは廃屋へと入っていった。時刻は午後の4時半を回っている。
「電気ないから暗いなぁ」
「ライト持ってきて正解だったな」
薄暗い室内を彼氏である広瀬とその友人の木村が用意していた懐中電灯で照らした。
暗くて足下もおぼつかなかった室内がパッと明るくなる。最近の懐中電灯の性能は凄い、手の平サイズでも充分な明るさだ。
「明るいね、これなら大丈夫だね」
白瀬が直美の様子を窺うと表情を強張らせていた。
「やっぱ止めようよ……服汚れるのやだし、車で夜景でも見に行こうよ」
直美を気遣う白瀬に構わず男共は懐中電灯を手に先に進んでいく、
「おわっ、床腐ってるぞ、気を付けろよ」
「あっ、本落ちてるぞ、古い雑誌だ。昭和だぜ、昭和」
広瀬と木村がはしゃぐが白瀬と直美は正直言って興醒めだ。
「怖い……ダメだよここ、早く出た方がいいよ」
暫くして直美が怯えだした。
「直美、大丈夫? 」
直美の様子を見て白瀬が先を歩く広瀬を大声で呼ぶ、
「健司! 直美がもうダメだって、帰るよ」
「なんだよぉ、まだ半分も来てないぜ」
「向こうに通り抜けられるはずだからさ、もうちょっと行こうよ」
広瀬と木村が不満たらたらといった様子で戻ってきた。
「向こうに行くより戻った方が早いでしょ、帰るわよ」
怒る白瀬の前で不服そうな顔をした広瀬が懐中電灯で直美を照らした。
「なんだよ……幽霊でもいるって言うのかよ」
「そんなものじゃない、もっと怖いのがいるのよ……妖怪か何か、分からないけど悪いものがいるのよ」
顔を上げて話す直美が真っ青なのに気付いて木村が慌てて口を開く、
「大丈夫か? 具合悪いみたいだな、わかった帰ろう」
直美に気のある木村は嫌われないように必死だ。
「わかったよ……ったく、妖怪が何だってんだ」
「いいからさっさと先を歩きなさい、木村くんは後ろを頼むわね」
愚痴る広瀬を先に行かせると白瀬は直美を支えるようにして歩き出す。
「足下気を付けてね」
後ろから木村が白瀬と直美の足下を懐中電灯で照らしながら続いた。
『キーキーキー、キケッ! キーキキー 』
並んで歩き出した途端、後ろから小動物の鳴き声のようなものが聞こえてきた。
「なんだ? 鼠でも居るのか? 」
先頭を歩いていた広瀬が振り返って最後尾の木村に懐中電灯を当てる。
「何か見えるか? 」
「鳴き声が聞こえたよな? ちょっと確認するわ」
木村が懐中電灯を後ろに向けると丸っこいものがババッと動くのが見えた。
「何だ? 何か居るぞ」
「ダメ! 早く逃げるの!! 」
白瀬の手を引っ張って直美が走り出す。
「ちょっ、直美! 」
急に手を引かれてよろけながら白瀬も走った。
「早く、早く、あれに追い付かれたらダメ! 」
直美の焦りが分かったのか白瀬が走りながら大声を出す。
「早く逃げて! 追い付かれたらダメだって!! 」
外の明かりに向かって白瀬と直美が走って行く、その後ろで広瀬と木村が顔を見合わせる。
「ああ……わかった。わかった。姫奈は外で待ってろ」
「けどマジで何か居るぜ」
仕方がないなと言うように苦笑いする広瀬の横で木村が懐中電灯を使って辺りを照らす。
『キーキー、キケッ! キキーキーキー 』
鳴き声のする方へ明かりを当てると丸っこい影がババッと幾つか逃げるのが見えた。
「鼠か何かだろ? 」
「蝙蝠じゃないのか? 丸いのが飛んでたぜ」
何が居るのか確かめようと広瀬と木村が辺りを探した。
『ケヒッ! キケケキ、キーキーキキー 』
「なっ!? 」
広瀬が喉を詰まらせたような悲鳴を上げた。
懐中電灯が照らす先に何か居た。鼠でも蝙蝠でもなかった。猫くらいの大きさの丸いものにカエルのような大きな顔が付いていた。
『ケヒッ! キケケ……貰った。ケキキ……キーキキ』
『キケケキ、キーキー、ケキキ……貰った』
1匹ではない広瀬と木村の周りを10匹以上の丸い化け物が囲んでいた。
「はっ、はぁぁ…… 」
「にっ、逃げるぞ! 」
腰を抜かしそうな広瀬の腕を取って木村が走り出す。
『キーキー、キキーキ、キケケキ、キーキキー 』
「うわぁあぁぁ~~ 」
後ろから鳴き声が追ってくる。広瀬と木村は必死で走った。
悲鳴を上げながら廃屋から出てきた2人を見て直美が白瀬の腕を引っ張った。
「姫奈走るよ」
何が起きたのか分からないが直美に言われるまま白瀬が走る。
「車まで逃げるぞ! 」
直ぐに追い付いてきた広瀬と木村を先頭に白瀬と直美も必死で走った。
岩を刳り貫いたトンネルの前で直美が倒れた。
「直美! 」
転んだのだと白瀬が抱きかかえるが直美は気を失っていた。
「ちょっ! ちょっと健司、直美が大変なのよ!! 」
先を走っていた広瀬と木村が慌てて戻ってくる。
「どうした? 転んだのか? 」
心配して傍にしゃがむ木村の後ろで広瀬が辺りを警戒する。
「あの変なのは来てないみたいだ」
丸い化け物がいないのを確認すると直美の様子を伺う、
「気絶してるのか? 背負ってやれ木村」
「わかった。でも少し休もう、走って膝がガクガクだ」
7分ほど全力で走って乱れた呼吸を整える。
建物の中は元から暗くて懐中電灯で照らしていたので分からなかったが先程まで明るかった外も太陽は奥の山に隠れたのか辺りは薄暗くなっていた。時刻は5時を少し回ったくらいだが山の夜は早いのだ。
暫く休んでからトンネルを通っていく、日も暮れてトンネル内は真っ暗だ。懐中電灯を点けると慎重に進んでいった。
辺りを警戒しながら先頭を歩く広瀬が振り返って後ろを確かめる。
「あの変なのは追い掛けてきてないみたいだ」
直美を背負って真ん中を歩く木村が顔を顰めて広瀬を見つめた。
「何だったんだろうな、アレ」
「カエルみたいな顔してたな、新種の動物かもな」
普段の表情でこたえる広瀬と違い木村は固い表情のままだ。
「貰ったとか言ってなかったか? 健司も聞いただろ」
「いや……話せるわけないだろ、鳴き声がそう聞こえただけだろ」
笑みを作って否定すると広瀬が続ける。
「次はもっと大勢で来ようぜ、こんなライトじゃなくてデカい奴持ってさ、新種の動物なら捕まえたら有名になれるぜ」
「そうだな、録画してネット配信しようぜ、絶対稼げるぜ」
広瀬の態度に安心したのか木村も普段の調子に戻って戯ける。
「カエルか……直美は追い付かれたらダメって言ってたよ」
気を失った直美を心配して怖いのを耐えながら最後尾を歩く白瀬の顔にも安堵が広がっていた。
白瀬を見て広瀬がニヤッと悪い顔で笑う、
「追い付かれるも何も俺たち囲まれたぜ」
「あれはヤバかったよな、怖いと言うよりキモかった。何なんだろな、あの丸っこいカエルみたいな顔したヤツ」
笑いながら話すと木村は直美がずり落ちないように背負い直した。
「何か知らんけどさっさと戻ろうぜ」
疲れたように言うと先頭の広瀬が歩き出す。
『ヒケケッ……貰った。お前も貰うぞ』
木村に背負われた直美が先頭を歩く広瀬を指差しながら目を吊り上げた怖い顔をして嗄れた声を出した。
「直美…… 」
驚く白瀬と違い背負っていて直美の顔が見えないのか木村が心配するように声を掛ける。
「大丈夫? 車まで背負ってあげるから無理しなくていいよ」
『キケケ、キケケキ、貰った。キキーキー 』
「うわぁっ! 」
直ぐ耳元で廃屋で聞いた声が聞こえて木村は悲鳴を上げて背負っていた直美をその場に落とした。
「何やってんだよ! 」
先頭を歩いていた広瀬が慌ててやってくる。
「なっ、直美が…… 」
震える声を出して白瀬が指差す先で直美は気を失って転がっていた。
「直美ちゃんがどうした? 気絶してるだけだから大丈夫だって」
白瀬に優しい声を掛けると広瀬が木村を睨んだ。
「手が滑ったのか? 気を付けろよ、落として石に頭をぶつけたら大変だぞ」
「ちっ、違うんだ。さっき話したんだ……あれ直美さんが言ったのか? 」
震える声で弁解しながら木村が白瀬を見つめた。
「うっ、うん、直美が言ってた」
「マジかよ…… 」
頷く白瀬を見て木村が絶句する。
「だから何なんだよ? 俺にも説明しろ」
先頭を歩いていて見ていない広瀬が困惑顔で訊いた。
「直美が喋ったの…… 」
白瀬が先程の出来事を説明した。
「そんなわけあるか! トンネルだからな音が反響したんだ。怖い顔してたって暗いから見間違えだ」
一笑に付す広瀬に白瀬も木村も反論しない、2人とも怖かったのだ。気の所為だと、見間違えだと思った方が気が楽である。
「じゃあ、行くぞ」
広瀬を先頭にまた歩き出す。
「このトンネルこんなに長かったかなぁ~~ 」
彼此5分近く歩いている。来るときに通ったときには3分も掛かっていなかったはずだ。暗くて慎重に歩いているといっても、もう抜けてもいい頃だ。
「おかしいなぁ…… 」
懐中電灯で前方を照らしながら広瀬が首を傾げる。
『死ね死ね死ね死ね………… 』
「きゃあぁあぁ~~ 」
白瀬の悲鳴が聞こえて広瀬が駆け付ける。
「どうした? 」
「姫奈さん大丈夫か? 」
直美を背負いながら木村も心配そうに見つめる先で白瀬がブルブルと震えている。
「だっ、誰かが……誰かが後ろから抱き付いてきたの、死ね死ねって言って…… 」
涙を流しながら白瀬が広瀬にしがみついた。
有り得ない、白瀬は一番後ろを歩いているのだ。では誰が抱き付いたのか?
『キケケ……キーキー、キキーキ、キケケキ、キーキキー 』
トンネル内に丸い化け物の声が反響した。
「いやぁ~~ 」
パニックを起す白瀬を抱きかかえるようにして広瀬が走った。その後ろを直美を背負った木村も走る。
トンネルを抜けてもそのまま走って車へと辿り着いた。
「みっ、みんな無事か…… 」
「大丈夫……直美も気を失ってるだけだから」
運転席に座った広瀬が確認すると助手席の木村が頷き、後部座席から白瀬がこたえた。
「さっさと帰ろう」
広瀬がキーを差し込むがエンジンが掛からない、その時、車の周りでキーキーと鳴き声が聞こえた。
『キーキー、キケッ! キキーキーキー 』
車の周りを丸っこい影が走り回っていた。広瀬は何度もキーを回すがエンジンは掛からない、
「何やってんだよ! 早く出せよ」
「エンジンが掛からないんだよ! 」
怒鳴る木村に広瀬が怒鳴り返す。
「うわぁあぁ~~ 」
エンジンを掛けようと何度もキーを回していた広瀬が悲鳴を上げた。
「ひぅっ! 」
何事かと覗いた木村が息を詰まらせる。
広瀬の足に毛むくじゃらの丸い化け物がしがみついていた。猫ほどの大きさで身体は真ん丸、頭は無く胴体だけに見える。その丸い胴にカエルのような顔が付いている。
『キケケ……貰う……ケキキケ……貰うよぉ~~ 』
カエルのような大きな口を開けて化け物が人の言葉を話した。
「ふはっ! うわぁあぁぁ~~ 」
広瀬が悲鳴を上げて車から飛び出した。
「健司! 」
慌てて追い掛けようと車のドアに手を掛けた白瀬が後ろから抱き締められた。
「直美、気付いたのね」
隣で気を失っていた直美が目を覚ましたと白瀬が振り返る。
『ヒケケケッ、ヒケケケェ~ 』
目を吊り上げた恐ろしい形相をした直美が白瀬の首を絞めてきた。
「なっ、直美…… 」
苦しげに目で止めろと訴えながら白瀬は蹴るようにして直美を引き離す。
『ヒケッ! 』
反対側のドアに頭をぶつけて奇妙な声を出すと直美は動かなくなった。
前では木村が運転席に座って必死にエンジンを掛けていた。
「掛かった」
キーを何度も刺し直してエンジンが掛かった。
「健司を呼んでくる」
エンジンを掛けたまま車から出ようとした木村が悲鳴を上げた。
「ひあぁあぁ~~ 」
車の周りを丸っこい影が取り囲んでいた。10匹以上はいる。
慌てて車を出そうとした木村に丸い化け物が飛び掛かる。後ろに居た白瀬にも化け物が抱き付いた。悲鳴を上げながら白瀬も木村も気を失った。
目を覚ますと辺りは真っ暗だ。隣の直美も運転席の木村も気を失っている。
車の横に倒れている広瀬が見えた。白瀬は慌てて広瀬を引き摺るようにして車の中へと入れた。白瀬の声が聞こえたのか運転席にいた木村が目を覚ます。
「なっ、何が……化け物は? 」
丸い化け物が見当たらないのを確認して直ぐに車を走らせる。
「健司は無事か? 」
「うん、気を失ってるみたい……直美も大丈夫よ」
運転しながら訊く木村に後部座席の真ん中で左右に広瀬と直美を抱きかかえるようにして白瀬がこたえた。
「山を抜けたぞ、もう大丈夫だ」
山道を抜けて舗装された道路へ出てほっと安堵した。
暫く走って道端に立つ自販機を見つけて止まる。喉がカラカラだ。ジュースを買っていると広瀬と直美が目を覚ました。
「あひひひゃ……ふふはひゅ……ひへっ! いふふひ………… 」
「きへへ……ぐけけけっ! ふけぇぇ…………かけけけけっ 」
安堵したのも束の間、2人の様子がおかしいのに気が付いた。
「健司! しっかりしてよ健司」
「直美さん? 大丈夫? 何処か痛いのか」
白瀬と木村が何度も声を掛けるが広瀬と直美は奇妙な声で笑うだけで言葉も話さない。
「何かおかしい? 病院行こう」
木村と白瀬は慌てて2人を病院へと連れて行った。
医者に肝試しに言ったと事情を話すと叱られた。神経が高ぶって錯乱しているのだと入院することになる。2人の親にも連絡して叱られたが肝試しをしようと言い出したのは広瀬だ。直美の親からは責任を取れと責められた。
広瀬と直美は元に戻らず正気を失ったまま近くの心療内科へと入院することになる。2人の親は寺や神社、怪しげな霊能力者にも頼ったが元に戻ることはなかった。
4日ほど経った深夜、親と同居している自分の部屋で白瀬が寝ていると首に圧迫感を感じて目が覚めた。
「ぐっ……ふうぅぅ………… 」
驚きに白瀬が目を見開く、髪を振り乱した女が跨るようにして首を絞めていた。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ね…………死ねば楽になる。死ね死ね死ね死ね死ね』
女の声が聞こえてきた。肩に耳が付くくらいに横向きになった青白い顔の口は動いていない、舌がだらりと垂れていた。言葉を話せる状態ではない、それなのに早口で話す女は白い薄膜を張ったような目を見開き濁った黒眼が白瀬を睨んでいる。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ぬ、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね………… 』
有り得ないくらいに横に曲がった頭、その首筋に鬱血したような青黒い痣が付いている。
首吊りだ……。白瀬は一目でわかった。首を吊って死んだ幽霊だと、
「ひぅぅ…… 」
喉から掠れた悲鳴を上げながら白瀬は気を失った。
どれ程気を失っていただろう、ビクッと体を震わせて白瀬が目を覚ます。
「ひゃあぁ~~ 」
短い悲鳴を上げて飛び起きる。
「あぁ……夢か………… 」
何の変哲もない自分の部屋を見回して白瀬はほっと安堵の息を付いた。
「怖かったぁ~~、夢で良かったぁ」
直美の両親に責められ、大好きな彼も正気を取り戻さない、白瀬は精神的に参っていたので変な夢を見たのだと思っていた。
スマホで時間を確認すると深夜の3時前だ。二度寝するのも怖かったので横になったままスマホを弄り始めた。
「もう寝てるよね……健司と繋がりたいなぁ」
木村にSNSで連絡を取るが返事は無い、広瀬は正気を戻さずに入院したままだ。
暫くスマホを弄っていたがいつの間にか白瀬も眠りに落ちていた。
気が付くと白瀬は山道を歩いていた。
靄が掛かったようなぼんやりとした頭で山道を上っていく、
「ここは……トンネルだ」
直ぐ前にトンネルが見えた。岩を刳り貫いたようなゴツゴツとした内壁が見えている。
短いトンネルらしく奥に眩しく光る出口が見えていた。
「綺麗……温かそう」
何かに引き寄せられるように白瀬はトンネルへと入った。
辺りが急に暗くなる。同時に靄が掛かっていたような頭の中がハッキリとした。
「なっ、何? 何で私…… 」
状況把握が出来ないまま先に見える明るい出口に向かって白瀬は急いだ。
『死ね死ね死ね…… 』
走る白瀬に後ろから何かがおぶさってきた。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ぬ、死ね死ね死ね死ね………… 』
「きゃあぁぁ~~ 」
早口で囁く何かを追い払おうと悲鳴を上げながら手で払う、
「いやぁあぁぁ~~ 」
背中を必死で払っていると右手に何かが触れた。
ゴロンと左肩を通るようにして女の頭が白瀬の胸元に転がってきた。
「ひゅぅぅ…… 」
仰け反るようにして息を詰まらせる短い悲鳴が出た。自分の胸元で横向きになった青白い女と白瀬が見つめ合う、20センチも離れていない距離だ。
『私は捨てられたのに……死んでも誰も探しに来ない…………それなのにお前は……私に見せ付けて…………恨めしいぃ』
濁った黒眼で睨みながら女が言った。
『キーキーキキー、ケキキケ、キーキー 』
周りを丸っこい影が走り回っている。
「ここは…… 」
丸い化け物の鳴き声を聞いて思い出した。肝試しに行ったトンネルだと、あの時、後ろから抱き付いてきたのはこの女だと、白瀬は言い知れぬ恐怖を感じて気を失った。
母に起されて白瀬が目を覚ます。
「うぅ……今何時ぃ~~ 」
目を擦りながら訊く白瀬に母親が神妙な顔を向ける。
「姫奈、落ち着いて聞きなさい、木村さんが亡くなったわ」
「木村くんがどうしたって? 」
呆けた顔で訊く白瀬に母が枕元に置いてあるスマホを指差した。
「さっき電話があったわ、貴女のスマホに掛けたけど連絡付かないからって…… 」
着信ランプが点滅しているスマホを白瀬が掴んだ。
「木村くんからだ……もしもし」
白瀬が上半身を起して電話を掛けるのを見ながら母親は部屋を出て行った。
「そっ、そんな…… 」
掴んでいたスマホが腿の辺りに転がった。
昨晩、木村が自殺したというのだ。なんでも女の幽霊が出てくると怯えていたそうだ。親友の広瀬や好きだった直美があんな事になってしまって責任を感じていたらしい、それで精神的にも参って幽霊を見るとか言って錯乱した挙げ句に首を吊ったらしい、ハッキリとした原因は分からないが多分そういう事だろうと木村の父親が話してくれた。
「あのっ……あの女だ………… 」
夢で見た女幽霊を思い出して白瀬は恐怖した。木村は自殺ではなく女幽霊に殺されたのだと思った。
木村の通夜を終えて夜、帰ってきた白瀬は飲めない酒を飲んだ。恐怖を紛らわせたかったのだ。親はもちろん友人たちに肝試しのことを話すが誰も信じてくれない。
「つっ、次は私だ…… 」
次は自分の番だと恐怖しながらも酔っ払って眠ってしまう、
「うぐぅ…… 」
『死ね死ね死ね死ね…… 』
どれくらい寝ていただろう、苦しさに目を覚ますと女幽霊が跨って首を絞めていた。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ね…………死ねば楽になる。死ね死ね死ね死ね死ね』
首吊りで骨が折れたのか関節が抜けたのか、歪に横に曲がった頭、濁った黒眼が恨めしげに白瀬を見ている。苦しげに歪んだ口から舌をだらりと垂らせ、話せる状態ではない口から女の声が落ちてくる。
『死ね死ね死ね……お前も死ね…………死ね死ね死ね死ね死ね』
「いっ、いや……いやぁぁ………… 」
涙を流して助けを乞う白瀬を見下ろして女がニタリと笑った。
『私は男に捨てられた……好きだと言ったのに…………死んでも探しにも来ない……それなのにお前は……お前らは…………見せ付けて……恨めしいぃぃ…………死ね死ね死ね死ね……死んでしまえ…………死ね死ね死ね死ね死ね』
『キーキー、キケケキ、ケキッ! キキーキーキー 』
女の幽霊だけでなくカエルのような顔を付けた丸い化け物が何匹も寝ている白瀬の周りを飛び跳ねていた。
「ひぃ……しぃぃ…………いやぁあぁぁ~~ 」
悲鳴を上げ、錯乱している白瀬が両親と弟に取り押さえられる。
暫くして正気を取り戻すがその後も幽霊が出ると怯える白瀬を父親が磯山病院へと連れて来た。未だに正気を失っている彼氏である広瀬や友人の直美を見て娘が同じようにならないように先に手を打つつもりで心療内科へと入院させることにしたのだ。
これが白瀬姫奈さんが教えてくれた話しだ。
話しを聞いて哲也は驚いた。
「藪野さんと同じだ」
「藪野さんって昼間の? 」
怪訝な表情で訊く白瀬に哲也は藪野から聞いた話しを簡単に説明した。
藪野の姪も心霊スポットに肝試しに行っておかしくなり、それを助ける為に藪野が悪霊を引き受けたと聞いて白瀬が顔を強張らせた。
「姪御さんがそんな事に…… 」
「うん、それで白瀬さんのことも気になったのかも知れない」
町中の廃神社と山奥という違いはあるが状況は似ている。
藪野さんは影のような化け物に取り憑かれた。白瀬さんは自殺した女の幽霊だが影のような丸い化け物も何か関係があるように思える。それで藪野は何となく気付いたのだと哲也は思った。
「藪野さんは祓えなかったんでしょ? 」
強張らせた顔で白瀬が見つめてくる。同じような化け物だ。自分に憑いた女幽霊を哲也が祓ってくれるのかと心配している顔だ。
「さっきも見たでしょ? 僕は幽霊を殴り倒すことが出来る。女の幽霊だけじゃなくてその丸い化け物も殴り倒してやりますよ」
ニッと笑顔を作る哲也を見て白瀬の強張った表情に安堵が広がる。
「ありがとう哲也さん」
白瀬が抱き付いて礼を言う、
「おわっ! 」
急に抱き付かれて焦りながらも哲也の顔が嬉しさに緩んでいく、
「白瀬さん…… 」
哲也が抱き締め返そうとした時、ドアの辺りでゴトッと音が聞こえた。
誰か来たと、見回りにきた嶺弥か看護師かと、哲也は慌てて抱き付く白瀬を引き離す。
「哲也さん? 」
哲也の様子に気付いた白瀬もドアを見つめた。
静かにと口に指を当てて合図をすると哲也が立ち上がる。
「気の所為か…… 」
ドアをそっと開けて廊下を覗くが誰も居なかった。
「僕は見回りの途中だから……白瀬さんは絶対に助けるから安心して眠るといいよ」
「うん、ありがとう哲也さん」
そのまま部屋を出て行く哲也の後ろで白瀬が安心した様子でベッドに横になった。
先程の音が気になったのか哲也が辺りを見回しながら廊下を歩いて行く、
「誰か居たような気がしたんだけどな……まぁいいか、さっさと見回りして仮眠とろう、深夜の見回りも厳重にしないとな、白瀬さん可愛いし……えへへ」
嬉しそうに顔をニヤつかせて哲也は階段を下りていった。
病練の中央にあるエレベーターの柱の陰から嶺弥が出てきた。
「困ったものだ。また厄介事に首を突っ込む」
険しい表情で呟く嶺弥の後ろで下りてきたエレベーターのドアが開いた。
「だが藪野は手遅れだぞ、どうする哲也くん? 」
口元に笑みを浮かべて嶺弥はエレベーターへと入っていった。
翌朝、藪野が心筋梗塞で倒れる。処置が早くて一命を取り留めるが設備の整った病院へ転院することになった。
「あれは……藪野さん」
急いで駆け付けた哲也は救急車に乗せられる藪野を見送ると黒い影が纏わり付いているのが見えた。
「何も感じなかったから冗談かも知れないと思ってた……ごめん藪野さん」
藪野の話しは嘘ではなかった。あの黒い影のようなものが姪に取り憑いていた悪霊だろう、全て信じて霊能者である眞部に相談でもしていればと哲也は悔やんだ。
「白瀬さんは絶対に助けないと…… 」
哲也はその足で眞部の元へと向かった。
眞部は総務課にいる。本館の奥だ。哲也は近付いたこともない、もっとも患者である哲也が気軽に訪ねられる場所ではない。
「どうするかな……香織さんや早坂さんに頼むと変に勘繰られるだろうし」
思案した結果、窓の外から眞部を呼ぼうと考えた。幸いな事に総務は本館の1階にある。外から近付くことが出来るのだ。他の患者はともかく哲也は警備員という事になっているので本館の近くを歩いていてもそれ程怪しまれない。
見回りでもしている振りをして少し離れた場所から本館の窓を覗く、
「あれ? 眞部さん居ないぞ」
以前見た時は奥の机に座っていた眞部の姿が今日は見えない。
「何処か行ってるのかなぁ」
近付いて探していると本館の正面玄関の近くから声を掛けられた。
「哲也くん、何してるんだい? 」
「あっ、嶺弥さん、おはようございます」
書類でも入っているのか大きな封筒を持った嶺弥がやってきた。
「何してたんだい? 覗いたりして」
哲也の直ぐ前まで来ると嶺弥が再度聞いた。
「それが……そうだ。嶺弥さん、眞部さんに僕が相談したいことがあるって伝えてくれませんか? 」
嶺弥ならそれ程変に勘繰られることもないだろうと哲也が頼んだ。
「総務の眞部部長さんかい? 」
「はい、その眞部さんです。前にも聞いたことあるけど部長って眞部さんってそんなに偉かったんですね」
哲也が驚き顔を嶺弥に向けた。他の事務員と離れた奥の机に座っていたのでそれなりに上だと思っていた。係長か課長クラスだと思っていたのだが更に上の部長だとは思ってもみなかった。
「そうだよ、温厚で良い人だよ、それで眞部さんに何の用事なんだい? 」
楽しそうな表情で訊く嶺弥の向かいで哲也が弱り顔で口を開く、
「それはちょっと……勘弁してください」
「俺じゃなくて眞部さんにしか出来ない相談か……凄く気になるなぁ~~、でも残念だ。眞部さんは休みだぞ、暫く休暇を取っているらしい」
戯けながら教えてくれた嶺弥に焦るように哲也が続ける。
「やっ、休みって……いつまでなんですか? 」
「さぁ、そこまで詳しくは聞いていないが……明日も休みなのは確かだ。今さっき総務に行ってきた所だからな」
嶺弥が持っている大きな封筒を哲也の目の前で振って見せた。
「休みか……ありがとうございます」
気落ちした様子で頭を下げる哲也に嶺弥が優しい目を向ける。
「何の相談だい? 俺に出来る事ならしてやるぞ」
「うん……嶺弥さんにはまた相談に乗ってもらうよ、あっ! 朝飯の時間過ぎてるや、早く食べに行かないと」
誤魔化すように言うと哲也はペコッと頭を下げて走って行く、
「藪野の事じゃないな……白瀬さんの相談か、どうする哲也くん? 」
楽しげに口元を歪めた嶺弥が警備員控え室へと戻っていった。
その日の夕方、見回りでC棟の3階廊下を歩いていると白瀬の部屋から香織が出てくるのが見えた。
「香織さん何してるんですか? 」
台車を押している香織を見て哲也が訊いた。普段の見回りなら台車など使わないはずだ。第一この時間は患者たちは夕食をとりに食堂へと行っているはずである。
「うん、白瀬さん風邪引いたみたいで熱があるのよ、それで食事が出来そうもないから流動食持ってきたんだけど寝てたから後にするわ」
台車に載せているパックに入ったゼリー状の流動食を指差す香織の前で哲也の口から大きな声が出た。
「風邪っすか? 大丈夫なんですか白瀬さん」
「大声出さないの、大丈夫よ、今測ったら38度だったわ、これでも薬飲んで下がってるのよ、倒れたときは42度もあったんだから」
弟を叱るように注意した後で香織が教えてくれた。
「42度って高熱じゃないですか」
白瀬の部屋のドアノブを掴んだ哲也の手を香織がパシッと叩いた。
「ダメよ! 風邪が移ったら大変でしょ」
「でも……心配だし」
一度は離した手をまたドアノブに近付ける哲也を見て香織が優しい顔で続ける。
「只の風邪だから安心して、先生も大丈夫だって言ってるし、私たちも1時間事に様子を見に来てるから、薬も効いてるから心配無いわよ」
「でも風邪じゃなかったら…… 」
白瀬の背にしがみついていた影のような女の幽霊が何かしたのではないかと哲也は思った。
「風邪じゃないってどういう事? 」
香織が不思議そうに哲也の顔を覗き込む、
「悪霊が…… 」
「哲也くん! まだそんな事言っているの? 私だからいいけど先生に聞かれたら病状が悪化したって大変よ、薬も治療も増やされて警備員なんてやっていられなくなるわよ」
「うん、でも…………ごめんなさい……わかったけど心配だから」
叱る香織の前で何か言いたげだったが哲也は項垂れて謝った。
「仕方ないわねぇ……少し見るだけよ」
溜息をつきながら香織がドアを開けて中の様子を見せてくれた。
「白瀬さん…… 」
ベッドに横たわっている白瀬は熱のためか顔が少し赤いがそれ程心配なさそうに見えた。何より影のような女の幽霊はもちろん、悪い気配も感じなかったので哲也は安心してドアを閉めた。
「良かった大丈夫みたいだ」
「だから言ったでしょ薬が効いて熱も下がってきてるから安心だって」
香織は台車を押して廊下を歩いて行った。
哲也は見回りを再開する。
「でも何とかしないと……弱ってる状態で悪霊が出てきたら白瀬さん持たないぞ」
険しい表情で階段を下りながら哲也が続ける。
「眞部さんが居ないし僕が何とかするしかないな……僕なら数日どころか数週間くらい大丈夫だ。眞部さんが出勤して来たら助けて貰おう……たぶん……いや、絶対に怒られると思うけどこれしか方法がない」
踊場で立ち止まって下りてきた階段を見上げた。
「白瀬さんは絶対に助ける。約束したとかじゃなくて、助けたいんだ。白瀬さんは何も悪くはない……藪野さんだって…………だから助けるんだ」
哲也が覚悟を決めた顔で頷いた。
深夜3時過ぎ、見回りを早めに終えた哲也が白瀬の部屋へと入っていく、
「白瀬さん、起きてますか? 」
ベッドで横になっている白瀬に声を掛けるが返事は無い、哲也はそっと白瀬の額に手を載せる。
「まだ少し熱があるな、白瀬さん、起きてください」
哲也が身体を揺すると白瀬が目を開けた。
「うぅ……うん? 哲也さん? 」
寝惚けているのか、熱で朦朧としているのか、ハッキリしない意識の中でも哲也が居るのが分かった様子だ。
「白瀬さん、今から白瀬さんに取り憑いている女の幽霊を僕に移します」
哲也が抱えるようにして白瀬の上半身を起させる。
「哲也さん…… 」
身体に力が入らないのかフラつく白瀬を哲也が抱き締めた。
「やっ、止めて…… 」
朦朧とした意識の中、白瀬が抵抗するように身を固くした。
「白瀬さん」
逃すまいとするように哲也は白瀬を強く抱き締める。
熱っぽくて温かいというより熱い体温が伝わってくる。女の子の汗の匂い、柔らかな身体、いけない妄想を振り払うようにして哲也が頭を振った。
「違う! こんな事をしてる場合じゃない」
自分に言い聞かせるように呟いた後で哲也が白瀬の耳元に口を近付けた。
「僕に全部任せてください、白瀬さんは絶対に助けますから、今から白瀬さんに憑いている悪霊を僕に移します」
「哲也さん」
哲也が悪霊を祓ってくれるのだとわかったのか白瀬が身体の力を抜いた。
「出てこい、居るのは分かってるんだ。白瀬さんじゃなくて僕に取り憑け、お前の好きなようにしていいぞ、僕の方が取り憑き甲斐があるだろう」
白瀬を抱き締めながら哲也は口に出して話し掛ける。
藪野の姪に憑いていた悪霊は姪より藪野を選んだ。藪野は幽霊を見る事が出来るほどの強い霊感体質だ。悪霊が惹かれて姪より藪野を選んだのだ。同じように霊感体質の哲也は白瀬から悪霊を自分に移せると考えたのだ。
「僕を好きにしていい、この人から離れて僕に憑け」
哲也は何度も自分に入れと念を送った。
5分くらい念じていただろうか、抱き締めている白瀬の背中の辺りから黒い靄のようなものが吹き出すように出てきた。
『死ね死ね死ね死ね…… 』
ベッドの向こう、抱き締めている白瀬の後ろに自殺した女の幽霊が現われた。
『死ね死ね死ね……お前も死ね、みんな死ね…………死ね死ね死ね死ね死ね…… 』
首が伸びて横向きになった頭、舌をだらりと垂らして苦痛に歪んだ顔、その濁った目が哲也をじっと見ていた。
「この人から離れろ、代わりに僕に憑け」
睨み返す哲也に女の幽霊が掴み掛かってくる。
『死ね死ね死ね死ね…… 』
『キーキー、キケケキ、キキーキー 』
いつの間に現われたのかベッドの周りを丸い化け物が走り回っていた。
『死ね死ね死ね……お前も死ね……私を捨てた…………男はみんな死ね……死ね死ね死ね死ね死ね………… 』
女幽霊に首を絞められて哲也の意識が遠くなる。
どれくらい気を失っていたのか哲也が目を覚ます。
「白瀬さんは? 」
床に転がっていた哲也がバッと起き上がった。
「良かった…… 」
白瀬はベッドで寝息を立てていた。
「何だ? 」
哲也がバッと足下を見回した。黒い影のようなものが足下に纏わり付いたように感じたのだ。
「旨く行ったのかな…… 」
風邪が移っただけか、それとも白瀬に取り憑いていた女の幽霊を旨く自分に移すことが出来たのかは分からないが身体が怠く頭が重かった。
哲也が白瀬の額に手を置いた。
「熱は下がったみたいだ。たぶん旨く行ったんだ」
成功したかどうかは分からないが暫くは大丈夫だろうと哲也は確信した。
「おやすみ、白瀬さん」
優しい顔で言うと哲也は部屋を出て行った。
翌日から白瀬の病状はぐんぐん回復していく、幽霊に襲われるなど話さなくなり怯えることもなくなった。逆に哲也はどんどん悪くなって熱を出して寝込んでいた。
哲也の事を本物の警備員だと思っている白瀬は熱を出して休んでいると聞かされては会いに行くことすら出来ない。
4日後、白瀬は退院することになる。
話しを聞いた哲也は熱っぽいのを無理して見送りに出てきた。
「白瀬さん退院おめでとう」
疲れを隠すように笑顔を作る哲也に白瀬が頭を下げた。
「哲也さんの御陰だよ、哲也さんが悪霊を祓ってくれたんでしょ? あの夜のこと忘れないよ」
熱で朦朧となりながらも白瀬はあの夜のことを覚えていた。
「うん、まぁ……どうにか出来たって感じだ」
祓ってはいない、自分に乗り移らせただけだ。
歯切れ悪くこたえる哲也を白瀬が見つめる。
「それで哲也さん……健司や直美も助けて欲しいんだけど」
縋り付くような目をして頼む白瀬の前で哲也が首を振った。
「僕には無理だよ、修業を積んだ霊能者じゃないんだ。白瀬さん1人で精一杯だ。それに白瀬さんに憑いてたのは自殺した幽霊だ。近くに得体の知れない変なのが居たけど直接取り憑いていたのは自殺者の霊だ。だから僕でもどうにか出来た。けど話しを聞いたら広瀬さんや直美さんに憑いているのはあの丸い変なヤツらしい、あれはダメだ。僕じゃ何も出来ない、ごめんね」
謝る哲也の向かいで白瀬が悲しい顔をして口を開いた。
「ごめんなさい、謝るのは私の方……何の関係もないのに哲也さんは助けてくれた。それだけで充分、本当にありがとう」
白瀬が哲也に抱き付いた。
「おわっ……しっ、白瀬さん」
「全部哲也さんの御陰だよ」
驚く哲也の頬にキスをすると白瀬は表門へと走って行く、
「もう心霊スポットには行っちゃダメだからね」
哲也が声を掛けると迎えに来た車の前で白瀬がくるっと振り返った。
「うん、約束する。ありがとう哲也さん」
元気に手を振りながら白瀬は車に乗って帰っていった。
車が見えなくなるまで手を振っていた哲也の後ろに香織が立った。
「まただらしない顔してる。哲也くんのエッチ」
「ちっ、違いますよ」
慌てて振り返った哲也がフラついて倒れた。
「哲也くん! 」
香織が慌てて抱き起こす。
「違いますから……そんなんじゃ………… 」
言い訳する哲也は顔どころか全身が赤くなっている。
「哲也くんしっかりしなさい」
「そんなんじゃ……ない…………から…… 」
気を失ってずり落ちそうになる哲也を香織が引っ張り上げるようにして抱える。
「酷い熱……霊障をまともに受けてるわ」
「こんな身体でよく出歩けるものだな」
いつの間にやって来たのか嶺弥が反対側から哲也を支える。
「今回は俺が祓おう」
哲也を支えながら香織がひょいっと首を伸ばして嶺弥を見つめる。
「珍しいじゃない? でも渡さないわ、哲也くんは私が助けますから」
「俺のミスだ。こんな事をするとは思わなかった」
真剣な表情で見つめ返す嶺弥を見て香織が悪戯っ子のように微笑む、
「だからってダメよ、哲也くんは渡さないわ」
「こんな時に何を言っている。早くしないと、哲也くんは普通ではないのだぞ」
「だからでしょ? 貴方も取り込みたいんじゃない」
「俺はそんな事を…… 」
ムッと怒りを浮かべながら嶺弥が言葉を止めた。
「2人とも止めないか」
池田先生が割って入ってきた。
「先生…… 」
顔を強張らせる香織を見て池田先生がニッコリと笑った。
「実験に参加している仲間同士で争いはよくないねぇ」
笑顔を嶺弥に向けると池田先生が続ける。
「哲也くんが自ら受け入れたからね、少々厄介だよ、派手にやって君たちの事に気付かれても困るし……それでなくとも少し不信感を持っている様子だからね、記憶操作も余りしたくない」
「ではどうするのです? 」
「ラボの方へ行っている眞部くんが明日戻ってくる。彼に任せよう」
強張った顔で訊く香織に池田先生が微笑みながらこたえた。
「眞部にですか…… 」
「彼は力を持っていることも旨く言ってあるし、適任だろう? 」
どうかな? と訊くように池田先生が嶺弥に振り向いた。
「そうですね、哲也くんも眞部を頼ろうとしていましたから」
不服そうな香織と違い嶺弥は異存はない様子だ。
「では、哲也くんを運んで休ませてあげなさい」
「了解しました」
池田先生に一礼すると嶺弥は哲也を背負ってA病棟へ向かっていった。
歩いて行く嶺弥の後ろで池田先生が香織を見つめる。
「不服かね? 」
「いえ……しかし哲也くんを取り込むチャンスだったかも知れません」
「慌てることはない、ゆっくりすればいい、今のところあそこまで旨く適合するのは哲也くんだけだよ、下手をして壊せばそれこそお仕舞いだ」
「それは……以後気を付けます」
頭を下げる香織を見て楽しげに笑いながら池田先生が本館へと向かって歩いて行く、
「眞部たちがいない間に細工をしたかったんだけどな……世良さんに愚痴でも聞いてもらおうか」
自嘲するように呟くと香織はE病棟へと歩いて行った。
その日の夜、病室で眠っていた哲也がふと目を覚ました。
「うぅ……くそぅ………… 」
自殺した女幽霊が跨るようにして哲也を見下ろしていた。
『死ね死ね死ね死ね死ね…… 』
女幽霊が哲也の首に手を伸ばしてくる。
「くぅぅ…… 」
熱の所為か、金縛りか、身体が怠くて指一本も動かない、哲也は負けじと睨み返すだけだ。
『死ね死ね死ね死ね……お前も死ぬ、死ね死ね死ね死ね………… 』
女幽霊の手が哲也の首に触れた。絞められて圧力を感じると思ったその時、枕元から声が聞こえた。
「これは白瀬はんに憑いとった奴やな」
聞き覚えのある関西弁と共にぬっと手が出てきて哲也の首を絞める女幽霊の腕を掴んで引き離してくれた。
「くはっ……くぅぅ……なっ、何が…… 」
苦しげに息を付きながら哲也が首を動かして枕元を見るとベッドの直ぐ脇に藪野が立っていた。
「藪野さん? 元気になったんですね、良かった。謝りたいことが…… 」
女幽霊の事も忘れて哲也が喜んだ。
「あはははっ、元気というか何というか……ゆっくり話したいんやけど時間が無いさかい」
優しい顔で笑いながら藪野が哲也に跨る女幽霊を羽交い締めするように引き離す。
『死ね死ね……ぐぎゅぅぅ………… 』
先程まで死ねと呟いていた女幽霊の顔が苦痛に歪んだ。
苦痛に顔を歪ませる女幽霊を組み伏せる様にして藪野が続ける。
「哲やん、やっぱりええやっちゃな、これはわいが連れて行くから心配せんでええで」
「行くって? 藪野さん」
哲也の顔にフッと不安が浮ぶのを見て藪野がニッと楽しげに笑った。
「序でや序で、哲やんも大変やなぁ、他にも変なもん付いとる。そやかてそいつらは無理や、わいの手に負えん、勘弁してな、その代わり此奴は連れて行くからな、心配せんでええで、あんじょう頑張りや」
「藪野さん…… 」
心配そうに呟く哲也の前で藪野の姿がフッと揺らいだ。
「もう行かなあかん、哲やん、おおきにな」
向こうの壁が透けて見える半透明になった藪野がペコッと頭を下げた。
『嫌だ……私は行きたくない…………まだ…… 』
「序でや序で、そう嫌がらんでもええやんか、地獄でも天国でもわいが付き合ったるがな」
嫌がる女幽霊を組み伏せたまま藪野の姿がスーッと消えていった。
翌朝、様子を見に来た香織から藪野が転院先の病院で亡くなったのを知らされた。
「知ってます。昨晩会いに来てくれましたから………… 」
驚きもせずに寂しげな表情で話す哲也の脇に香織がしゃがんだ。
「哲也くん…… 」
ベッドの上で上半身を起している哲也に視線を合わせるようにして香織がその顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ、どこもおかしくありません、熱も下がったし悪いのは藪野さんが全部持って行ってくれましたから」
「そう……御飯食べられる? ゼリーにする? 」
力無く笑う哲也に香織が心配そうに訊いた。
「昨日何も食べてないから腹ペコです。食堂のランチが食べたいっす」
「わかった。持ってきてあげるわ」
立ち上がった香織に哲也が嬉しそうに声を掛ける。
「今日の香織さん優しいっす。これなら時々熱出してもいいっすよ」
香織が哲也の頭をポンッと叩く、
「バカ言ってないの、心配したんだからね」
「うん、ありがとうございます」
少し元気を取り戻した哲也を見て香織が優しい顔で頷いた。
「よしっ! 昼はケーキ買ってこよう、哲也くんにも奢ってあげるからね」
「マジっすか? やったぁ~~ 」
普段と同じように両手を上げて喜ぶ哲也を見て香織は安心した様子で部屋を出て行った。
哲也の部屋の前で香織と嶺弥が擦れ違う、
「眞部が居なくてもどうにかなったじゃない」
「運が良かっただけだ。同じような事があれば次は手を出すぞ」
お互い目も合わせずに通り過ぎた。
香織の後ろで嶺弥が哲也の部屋へと入っていった。
「哲也くん、アイス持ってきたぞ」
「マジっすか? 丁度冷たいもの食べたいなって思ってたんすよ」
調子よくこたえる声が廊下まで聞こえてきた。
「まったく…… 」
楽しげに口元を綻ばせると香織は長い廊下を歩いて行った。
白瀬の彼氏である広瀬と友人の直美に取り憑いたのは廃屋にいた化け物で白瀬に憑いていたのは自殺した女の幽霊だ。
心霊スポットへ肝試しに行ったときに通ったトンネルで取り憑かれたのだろう、男に振られて自殺した女の幽霊が幸せそうにイチャついていた白瀬に嫉妬して取り憑いたのだ。
丸い化け物と何か関係があったのかも知れない、もしかしたら化け物に憑かれて自殺したのかも知れない、恨みを化け物に利用されたのかも知れない、今となっては分からないことだ。
霊感体質で幽霊を見る事が出来た藪野、だが力は強くなく哲也のように霊を触ることも出来ない、只見るだけだ。
幼い頃から怪しいものが見えていたのだ。霊たちに頼られることもあっただろう、それで霊障を受けて寝込むことも多々あったと本人が言っていた。どれだけ苦労していたか哲也には想像できた。
その藪野が姪を助けるために命を投げ出したのだ。ハッキリ言って姪には嫌われていた。だが藪野にとっては可愛い姪なのだ。しっかり者で頼りになる兄、その娘だ。両親にとっても大事な孫だ。藪野なりの親孝行だったのかも知れない、後悔はしていないだろう。
気軽に姪から離れて自分に取り憑けと約束したのはいいが姪に憑いていたのは只の幽霊ではなかった。寺や神社でも祓うことを断るほどの悪いものが憑いていたのだ。仮に祓うことができても藪野から離れた悪霊がまた姪に取り憑くことも考えられる。この時点で藪野は覚悟を決めていたのだろう、厚かましい態度を取っていたのも先が長くないのが分かっていたからかも知れない。
奇しくも姪と同じように心霊スポットに行って何かに取り憑かれた白瀬を不憫に思ったのだろう、どうにかしてやりたいと藪野なりに色々考えていたのかも知れない。
霊感のある哲也が自分と同じように白瀬を救ったのを知って最後に序でと言って悪霊を連れて行ってくれたのだろう、今まで哲也に序でと言って色々頼んだお返しかも知れない。
熱が引いて体調は良くなったが念のために今日一日は大人しくしていろと香織に言われて寝ていた哲也が窓を見つめる。
「もっと話をしたかったな……僕と同じように幽霊が見える人なんて眞部さん以外で初めてだ。霊感体質か……藪野さんは大変だけど良かったって言ってたな」
初めて会った時に藪野が言っていた言葉が頭に蘇る。
『そやな、大変やけどわいは感謝もしとる。大事なものを守れたさかいな』
優しい顔で笑っていた。あれが藪野の本質なのだろう、優しい人だと改めて思った。
「藪野さん……ありがとう」
格子の入った窓から空を見上げながら藪野が天国へ行けるように哲也は祈った。
読んでいただき誠にありがとうございました。
次回は9月21日に更新予定です。
9月21日と22日、毎日1話ずつ計2話更新いたします。
今月は私用で忙しく2話だけの更新となります。
毎月3話は更新したかったのですが無理でしたすみません
10月も2話の更新予定です。
もしかすると今年いっぱいは月2話更新になるかもしれません
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