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第四十一話 手

 手を辞書で調べると人体の左右の肩から出た肢、肩から指先に至る間の総称、何かを掴んだり持ったりするときに使う部位と書いてある。

 犬や猫、その他の動物が主に歩行に用いる四肢は前足、後ろ足と全て足と呼ぶ、左右合わせて6本の足を持つ昆虫や多数の足を持つムカデや8本足の蜘蛛などの節足動物も足だ。先頭の足から第1歩脚、第2歩脚などと順番に呼んでいく。


 器用に手を使えるのは人間と猿など一部の動物だけである。そして手を器用に使う動物は総じて知能が高い。

 手を器用に使うようになってその刺激が脳を活性化させて知能が高くなって今の人類となったという説もあるくらい手は重要な器官だ。


 身振り手振りで感情を表すことも出来る。手話を使って会話することも出来る。器用に動かすことのできる手があってこそ人類は文明を発展させて繁栄してきたのだ。


 器用に動かせて感情も表わせることから想像力も働くのか怖い話しも多い、泳いでいるときに足を掴まれたり、暗闇から手だけが出てきて招いていたり、天井や壁から手だけが伸びてきたり、寝ているときに顔を撫でられるなどはよく聞く話しだ。


 哲也も手に纏わる話しを知っている。手だけがぬっと出てくるという、おかしなもので有り得ない現象でも何度も起ると慣れてしまう、その人も慣れたのか欲を出してしまった。



 朝食後、いつものように散歩しようと哲也は遊歩道へと向かう、


「今日の焼き鮭ペラッペラで薄かったなぁ……予算無いのかな」


 朝食で出た焼き鮭が名人技と呼んでいいほどに薄かったのを思い出して顔を顰める。


「無理に出さなくても玉子焼きとかでいいのに……玉子焼きじゃ作るの大変か、じゃあ目玉焼きとか納豆だけでいいよな」


 ブツブツ呟きながら歩いていると本館から看護師が出てくるのが見えた。


「香織さんだ……やっぱ美人だなぁ~、朝一で見れるなんてラッキーだぞ」


 足を止めて厭らしく頬を緩める哲也の見つめる先で看護師の香織が早足で表門へと向かっていった。


「新しい患者さんが入ってくるんだな」


 表門から送迎車が入って来た。


「可愛い娘だといいなぁ…… 」


 哲也が見つめる先で送迎車から二十歳くらいの男が降りてくる。


「なんだ男か……散歩しよう」


 がっかりして興味を失った哲也が遊歩道へと歩き出す。


「土多畠さん、おはようございます」

「おはよう……よろしく頼みます」


 挨拶を返す男の声が聞こえて哲也が何気なく振り返った。


「へっ!? 」


 哲也が両手を使って目を擦る。男の姿が揺らいでいた。半透明になって向こうが透けて見えたのだ。


「何だ? 」


 何事かと見直すが男には何も変化は無い、透けてなどいなかった。


「気の所為か? 光の加減か? 」


 額に手を当てて庇を作ってもう一度男を見た。何も変化は無い、透けて見えたのは一瞬だけだ。


「やっぱ気の所為だな…… 」


 呟きながら歩く足は香織と男の方へ向いていた。



 哲也がニコニコ笑顔で香織に近付いていく、


「香織さん、おはようございます。新しい患者さんですか? 」

「おはよう哲也くん、そうよ、土多畠さん、色々教えてあげてね」


 哲也に男を紹介すると香織が土多畠とたはたに向き直る。


「彼は警備員の哲也くん、優しいから何かあれば聞くといいわ」

「警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください、夕方の5時頃と夜の10時頃に見回りしてますから何かあれば言ってくださいね」


 香織に優しいと言われて哲也が照れながら自己紹介をした。


土多畠京哉とたはたけいやです。よろしくお願いします」


 ペコッと頭を下げる土多畠を哲也がジロジロ観察するように見る。

 別に悪い気配は感じないし変な物も付いている気配は無いなと思っていると香織が怖い顔で哲也を睨み付けていた。


「哲也くん! 」


 ビクッと体を震わせて哲也が慌てて口を開く、


「違いますから…… 」


 言い訳が浮ばない哲也の正面に香織が立った。


「何が違うの? また変な事考えていたんでしょ」

「違いますから、嶺弥さんに呼ばれてたの思い出したんです」


 咄嗟に嘘をつくと哲也はくるっと背を向けた。


「じゃあ、僕忙しいですから…… 」

「哲也くん! 」


 逃げるように駆け出した哲也の背を香織が怒鳴りつけた。


「まったく…… 」


 香織は振り返ると弱り顔で土多畠に話し掛ける。


「御免なさいね、哲也くんは普段は優しくて頼り甲斐があるんだけど……オカルト好きでね、新しい患者さんが来るとオカルト系の話しがないかって聞いて回るのよ」

「オカルトですか…… 」


 顔を顰める土多畠に香織が慌てて続ける。


「構わなくていいからね、哲也くんが変な事訊いてきても無視すればいいからね、じゃあ行きましょうか」


 わかったと言うように頷く土多畠を連れて香織が本館へと入っていった。

 遊歩道へと走っていた哲也がくるっと回れ右をする。


「土多畠さんか……さっき透けてたぞ、見間違いかも知れないけど」


 興味津々の顔をして哲也が戻っていった。



 哲也は本館の正面玄関から少し離れた花壇の縁に腰掛けて香織が出てくるのを待った。


「取り敢えず香織さんに話しを聞こう、それで面白そうだったら土多畠さんに詳しく聞けばいいや」


 何で入院して来たのか病状を聞こうと待っていると15分ほどして手続きを終えた土多畠を連れて香織が出てきた。


「香織さぁ~ん」

「何してるの? 」


 笑顔で近付く哲也を香織が睨み付けた。

 哲也がオカルト好きと香織から聞いた土多畠も怪訝な表情で見ている。


「怒らないでくださいよぉ、土多畠さんの部屋に行くんでしょ? ベッドの移動とかテレビの設置とか手伝いますよ」


 おべっかを使うように笑顔のまま話す哲也の前で香織が怖い顔のまま続ける。


「須賀さんに呼ばれてたんじゃなかったの」

「えっ!? あぁ……それは……そのぅ……嶺弥さん居なくて………… 」


 しどろもどろで嘘をつく哲也の前で香織が大きな溜息をついた。


「土多畠さんに変な事訊こうとしても無駄ですからね」

「なっ……僕は別にそんな事しませんから」


 図星を指されてムッと怒る哲也に呆れ顔を向けていた香織がくるっと背を向けた。


「それならいいわ、じゃあ何か手伝って貰うかも知れないから一緒に来てもいいわよ」

「手伝いますから何でも言ってください」


 土多畠と一緒に歩き出す香織の後を哲也が嬉しそうに付いていく、


「B病棟か」


 2人を追ってB病棟へと入るとロビーで駄弁っていた患者の山口茂雄やまぐちしげお波瀬邦夫はぜくにおが話し掛けてきた。


「哲也くん、いいところに来た。見舞いで貰った饅頭があるから俺たちの部屋においでよ」

「テレビのリモコンが利かなくてさ、困ってるんだよね」


 山口と波瀬に腕を掴まれて哲也が立ち止まる。2人とも初老を迎えた60代の男性で哲也とは仲の良い患者である。


「リモコンは電池が切れてるんですよ、電池はナースステーションに行って貰ってくるといいですよ、電池替えても動かなかったら後で代わりのリモコン持って行きますよ」


 今はそれどころではない、哲也がちらっと見ると香織と土多畠はエレベーターを待っていた。


「電池かぁ~~、じゃあ哲也くん頼むよ、饅頭あげるからさぁ」

「俺たち機械とかさっぱりだからさ」


 電化製品に詳しくないとは言っても電池を入れ替えるだけなら誰でも出来るだろうが山口と波瀬は哲也と遊びたいのか部屋に来いと誘う、


「今っすか? 今はちょっと…… 」

「置いてくわよ」


 香織と土多畠がエレベーターへと入っていくのを見て哲也が慌てて走り出す。


「ちょっ、待ってくださいよ」

「哲也くん、俺たちのリモコンはぁ~ 」

「後で部屋に行きますから、リモコン無くても本体のボタンでチャンネル変えてテレビは見れるでしょ? 不便だけど暫く我慢してください、電池は後で持って行きますから待っててください」


 振り向きもせずに言うと哲也はエレベーターへと入った。

 ドアが閉まってエレベーターが動き出す。


「直ぐに行ってあげればいいじゃない」


 じっと見つめる香織に向かって哲也が顔の前で手を振った。


「いやいや、今行ったらオセロや将棋で2時間は離して貰えませんから、夕方の見回り前なら30分くらいで済みますから」

「ふ~ん、意地悪してるのか」

「違いますからね、今は土多畠さんの手伝いを優先しただけですからね」


 意地悪顔の香織に弱り顔の哲也がこたえる。同時にエレベーターが止まってドアが開いた。


「5階か、何号室なんです? 」

「510号室よ」


 後から入った哲也が先に出て後から出てきた香織と土多畠に続いて歩き出す。

 長い廊下の端に近い510号室へと入っていく、


「何か空気籠もってますね、窓開けるっす」

「この部屋は暫く使ってなかったからね、窓は私が開けるから哲也くんはテレビを持ってきてくれる」


 窓を開けようとした哲也が香織に言われてベッド脇の棚を見た。

 暫く使っていなかったので外したのか前に入っていた患者がテレビを見ない人だったのか棚の上にはテレビが無かった。


「え~っと、テレビの書類はっと…… 」


 持っていた書類の束からテレビ設置の用紙を取り出すと香織がサインをした。


「これ事務に持って行って、テレビ置いてある倉庫は知ってるわよね」

「何度も行ってますから知ってますよ、じゃあテレビ持ってきますね、序でに山口さんたちの代わりのリモコンも取ってきますよ」


 テレビの借用用紙を受け取って哲也が部屋を出て行く、開けっ放しのドアから室内の説明をする香織の声が聞こえていた。



 哲也が小走りで本館へと入っていく、


「受付あるけどいつも人いないんだよなぁ~ 」


 ロビーにある受付を哲也が窺う、ちょくちょく自動販売機でジュースを買いに来るが受付カウンターに人がいたのを見たことがない。


「ナースステーションに行くか…… 」


 少し奥にあるナースステーションへ向かった。ここまでは哲也も入ったことがある。 更に奥の事務室へ患者が行く事などは無い、と言うか立ち入り禁止だ。


「あのぅ、済みません…… 」


 ナースステーションの小窓から哲也が呼ぶと看護師の佐藤がやって来た。


「何しに来た? 」


 強面の佐藤がジロリと睨む、哲也は臆しながらテレビ借用の用紙を差し出した。


「かっ、香織さんに頼まれて……事務の人呼んで貰えますか? 」

「テレビか…… 」


 確認するように用紙を見ている佐藤におべっか笑いをした哲也が続ける。


「新しく入って来た土多畠さんの部屋にテレビが無いから……香織さんは今部屋を案内して説明してます。それで頼まれて…… 」

「一寸待ってろ」


 おどおどしながら話す哲也をジロッと見て佐藤が奥へ引っ込もうとしたとき、事務員の眞部が通り掛かった。


「おや、何してるんだい? 」

「眞部さん! 」


 哲也の顔がパーッと明るくなる。苦手な佐藤と違い優しい眞部は大好きだ。


「哲也くんが本館に訪ねてくるなんて珍しい、何しに来たんだい? 」

「テレビの貸し出しです。事務員さん呼んでもらおうと思って……丁度いいから眞部さんに頼もう」


 近付いてきた眞部に哲也が笑顔でこたえた。


「こら! 眞部部長にそんな事を頼むな」


 ナースステーションの小窓から佐藤が怒鳴った。


「あははっ、いいよいいよ、哲也くんなら構わないよ」

「眞部部長、おはようございます」


 声を出して笑う眞部にペコッと頭を下げて挨拶しながら佐藤がテレビ借用の用紙を差し出した。


「はい、おはよう、ありがとう佐藤くん、あとは私がやるからいいよ」

「すみません、では頼みます」


 笑顔の眞部に再度頭を下げると佐藤がキッと哲也を睨んだ。


「迷惑掛けるんじゃないぞ」

「迷惑なんて掛けませんから」


 哲也が臆しながらこたえると佐藤はナースステーションの奥へと引っ込んだ。


「倉庫の鍵を持ってくるから待っててくれ」


 用紙を手に廊下の奥へと歩いて行く眞部に哲也が声を掛ける。


「あのぅ……テレビの他にリモコンも1つ貰えますか? 山口さんと波瀬さんの大部屋のリモコンが調子悪いらしいんです」

「わかった。テレビのリモコンだね」


 了解というように用紙を持つ手を振ると眞部は奥の事務室へと消えていった。



 暫くして倉庫の鍵を持って眞部がやって来る。


「はい、鍵、哲也くん一人で行けるだろ? 」

「テレビを置いてある倉庫は知ってますけど……眞部さんに少し話しが………… 」


 喉の奥に引っ掛かるような言い方に眞部が哲也の顔を覗き込んだ。


「何の話しだい? また変な事に首を突っ込んでいるのかい? 」

「違います。まだ突っ込んだりしてません」


 慌てて首を振ると哲也が続ける。


「今日入ってきた土多畠さんなんですけど身体が透けて見えたんですよ、一瞬だったから見間違いかも知れないけど表門から歩いてくるときに揺れるように身体が透けて向こうの門が見えたんです。まるで幽霊を見てるみたいでした」

「本当かい? 」


 眞部の顔が険しく強張る。


「一瞬だったから見間違いかも知れません、それで近くで確かめたんですけど別に悪い気配も無かったし変なのが憑いているような感じもしませんでした。けど何か変な感じがするような気がするんですよね、まぁ僕は霊視とか出来ないから勘みたいなものですけど……それで気になって、テレビの序でに眞部さんに訊こうと思って」


 眞部の変化に哲也も神妙な面持ちで話した。


「土多畠さんか……あれは……そうか、哲也くんにも見えたか………… 」


 眞部が険しい顔で考え込む、


「やっぱ、何かあるんですね、眞部さん知ってるんですね? 」


 期待顔の哲也を眞部が真剣な目で見つめる。


「総務の部長だよ、入ってくる患者の事は知っているよ」

「それで土多畠さんはどうなんですか? 霊とか憑いてるんですか、眞部さんならわかるでしょ、それを訊きたくて…… 」

「ダメだよ! 」


 身を乗り出すようにして訊く哲也の言葉を眞部が一喝した。


「良くないものが憑いている。土多畠さんには近付かない方がいい」


 直ぐに優しい声に戻った眞部に哲也が頼む、


「やっぱり……どうにかならないんですか? 眞部さんの力で」

「私は只の事務員だよ、先祖が陰陽道を少し学んでいて私も少し力が使えるだけだよ」


 弱り顔でこたえる眞部に哲也が食い下がる。


「でも僕のときは……眞部さん凄かったですよ、野中さんも助かったし……眞部さんが居なければ僕も野中さんも死んでたかも知れない……だから助けられるなら土多畠さんも助けてあげて欲しいんです」


 化け猫に襲われた野中を助けてもらった事を持ち出して再度頼んだ。


「哲也くんが優しいのは知っている。だけどね、今の状況で私に頼むのは違うんじゃないかな? 話し振りからするとまだ何も聞いていないんだろ? 土多畠さんの姿が透けて見えただけだ」

「そうですけど…… 」


 口籠もる哲也に眞部が優しい声で続ける。


「それにね、こういう事はあまりしたくないんだ。哲也くんのときだって本当は力を使いたくなかったんだよ、でも哲也くんは息子みたいに思っているから……ハッキリ言うとね、自業自得で祟られたようなのには手を貸したくないんだよ、商売で陰陽師をやっているわけじゃないからね」

「 ……わかりました」


 鍵を受け取ると落ち込んだ様子で倉庫へ向かって歩き出す哲也の背に眞部が声を掛ける。


「哲也くんのことだから話しを聞きに行くんだろ? 私や東條さんが止めても……土多畠さんのことは私も直接話しを聞いたわけじゃない、先程手続きをしに来たときに少し見ただけだ。だから話しを聞いて哲也くんの手に負えないならまた来るといい、手を貸すかは話しを聞いてから決めるよ」


 哲也がくるっと振り返った。


「あっ、ありがとうございます」

「倉庫の鍵はナースステーションへ返してくれればいいよ」


 嬉しそうに頭を下げる哲也を見て眞部が優しく微笑んだ。


「やっぱ眞部さんは優しいなぁ」


 機嫌良く呟きながらテレビを取りに倉庫へと歩いて行った。

 哲也の姿が見えなくなるとナースステーションから看護師の佐藤が出てきた。


「甘過ぎませんか? 下手に手を貸すと調子に乗って変な事にちょっかい出しまくりますよ彼奴は」


 厳つい顔で話す佐藤を眞部がにんまりと見つめた。


「それも実験の内だよ、不安定な状態でも制御できなければ使い物にならないからね」

「魂の制御ですか……機械のように使えると本当に思ってるんですか」


 笑顔の眞部と違い佐藤は険しい表情だ。


「さぁねぇ……上の連中は思っているみたいだよ」

「先生は賛成していないみたいですね」

「そう言う君はどうなんだい? 池田先生が怖いのかい」


 佐藤の表情が崩れた。楽しげにニタリと開けた口の奥に牙が見える。


「怖いですよ、彼奴らは……でもそれだけじゃない、我らの安住の地をくれるというので手を貸しているだけです」

「信じるのかい? 彼奴らの言葉はともかく人間を……羅生門や桃太郎のように退治されちゃうよ」


 意地悪顔で話す眞部の前で佐藤が声を出して笑い出す。


「がははははっ、昔と違って今の人間など怖くはない、先生みたいな力を持っている人は少なくなったからな、だからといって事を荒立てる気はない、我らも少なくなった。取引が旨く行けばそれでいい」

「そうか……君たちの思いは考慮しておくよ」


 頷く眞部を佐藤がじっと見つめる。


「先生みたいな人がいる内は我らは何も出来ませんよ」

「ふふっ、それじゃあ当分安泰だねぇ、この前生まれた孫がね、いい素質を持っているって息子のヤツが嬉しそうに話すんだよ」

「参ったな、人間は直ぐに増える。叶うはずがない」

「ふふふっ、何だろうねぇ、君たちとは旨く共存できる気がするよ」

「まぁ今まで生きてきましたからね」


 互いを見つめる顔には笑みが浮んでいた。

 眞部が話を戻す。


「それは置いておくとして哲也くんには困ったねぇ」

「今のところ唯一の成功例ですからね、先生はそれ以上に肩入れしているみたいですけど」


 からかうような佐藤の背をポンッと叩いて眞部が廊下の奥へと歩き出す。


「哲也くんは君たちと違って人間だよ、だから私が味方をするのはおかしくないだろ」

「人間ねぇ」


 ニヤッと笑いながら佐藤がナースステーションへと戻っていった。



 テレビを抱えた哲也がB病棟へと入っていく、


「今のテレビは軽いよなぁ、20インチのテレビなんて3キロくらいだもんな」


 土多畠の部屋に戻ってテレビを設置する。


「お疲れ様、もう終ったから帰っていいわよ」


 香織が哲也の肩をポンポン叩いた。テレビを持ってくるまでに説明は終った様子だ。


「僕は少し土多畠さんと話しを……痛てて………… 」


 哲也の腕を力一杯掴みながら香織が土多畠に振り向いた。


「色々疲れたでしょ、ゆっくり休んでください、食堂の使い方を教えますからお昼にまた来ますね」


 笑顔で言うと哲也の腕を引っ張って香織が部屋を出て行った。



 哲也の腕を引っ張りながら香織が廊下の端にある階段へと歩いて行く、


「ちょっ、待ってくださいよ」

「待ちません、変な事しないって約束でしょ」


 キッと怖い目で睨む香織に臆しながらも哲也も引かない。


「言いましたけど……気になるじゃないですか、何で入って来たんです土多畠さん、別に心の病には見えませんけど」

「ほんっとにそういう話し好きよね、哲也くんって」


 呆れ顔で階段を下りながら香織が教えてくれた。



 土多畠京哉とたはたけいや26歳、路上で錯乱しているところを警察に保護された。幻覚を見て突然騒ぎ出す症状に警察や親族は薬物中毒を疑ったが本人からは薬物反応は出なかった。

 どんな物を見るのかと訊くが詳しくは話さない、話せば殺されると思い込んでいる様子だ。両親がどうにかして聞くと土多畠は少しだけ教えてくれた。

 何でも手が出てくるのだという、昼夜関係なくぬぅっと後ろから小さな手が出てくるのだ。幼児のような小さな手だが手の甲や指の関節にごわごわした毛が生えているらしい、驚いて振り返るが何も居ない、手も消えている。そんな事が日に2~3度はあるらしい。

 困った両親が病院へと連れて行くと妄想型の統合失調症だと診断されて磯山病院へと入ることになったのだ。


「妄想型の統合失調症にパニック障害も少しあるみたいなのよ」

「手が出てくるんすか…… 」


 興味津々な哲也の頭を香織がポカッと殴りつけた。


「変な事したら怒るからね」

「痛てて……何するんすか! 」


 ムッとしながら哲也が足を止めた。


「あっ、僕は山口さんの部屋に行きますから、リモコンと電池貰ってきましたから」


 ニヤつきながら話す哲也を階段の下から香織が見上げる。


「土多畠さんの部屋に行ったら怒るからね」


 本気で怒る香織の怖い顔を見て哲也が顔の前で手をブンブン振った。


「行きませんよ、だいたいリモコン替えるだけで済みませんから山口さんと波瀬さんが昼まで離してくれませんから」

「それならいいわ、じゃあ私は忙しいから」


 ムスッと怒った顔で香織が階段を下りていく、


「香織さん怖え……マジで怒られそうだから作戦考えないとな、まぁ今はリモコンだ」


 哲也はそのまま山口と波瀬の居る大部屋へと向かった。



 B病棟から香織が出てくる。


「どうすることも出来ないわよ、哲也くん」


 楽しげに呟くと香織は本館へ向かって歩いて行った。



 波瀬と山口のいる大部屋へ哲也が入っていく、


「哲也くん待ってたよ、饅頭食べるかい? その代わりオセロしようよ」


 山口が饅頭の入った箱を持って寄ってくる。


「哲也くん勝負だ。今日も勝つからな」


 波瀬が空いているベッドの上に折りたたみ式の将棋盤を広げた。

 4人部屋だが今は3人しか使っていないので空いているベッドは将棋やオセロなどを遊ぶ場所として使っているのだ。


「違うでしょ? テレビのリモコンが故障したから直して欲しいんでしょ」


 弱り顔で哲也が手に持つリモコンを見せた。


「おお、そうだった。リモコンが利かなくなってたんだ」

「そうだよ、リモコンだよ、山口は直ぐに忘れるんだからな、仕方ないなぁ」


 驚く山口をバカにして波瀬が古いリモコンを持ってきた。


「いや、波瀬さんも忘れてたでしょ? 山口さんを悪く言わないの」


 古いリモコンを受け取ると哲也は点けっぱなしのテレビに向けてボタンを押した。


「チャンネル変わりませんね、電池かな? 」


 色々ボタンを押すがどれも利かない。


「なっ! 壊れてるだろ」

「昨日は何度か押してたら動いたんだけど今朝からダメだったんだ」


 何故が自慢気な顔をする山口の横で波瀬が説明してくれた。

 2人の話しを聞きながら哲也が電池を入れ替えた。


「やっぱ電池だ。直りましたよ」


 新しい電池を入れるとリモコンはしっかりと動いた。


「流石哲也くんだ。饅頭あげるよ」

「これで一々テレビまで行ってボタン押さなくても済むよ」


 嬉しそうに饅頭を差し出す山口の隣で波瀬がリモコンを使ってテレビのチャンネルを次々と変えていく、


「僕はリモコン返しに行かないと…… 」


 使わなかった新しいリモコンを返しに行く口実で部屋を出ようとした哲也の腕を山口と波瀬が両脇から掴んだ。


「そんなの後でいいだろ……饅頭もう一つあげるからさ」

「そうだよ、今日は帰さないからな、将棋するからな」


 哲也がちらっと壁に掛かる時計を見た。午前10時半だ。


「わかりましたよ、お昼までですからね」


 昼間の食堂は11時半から開いて1時半ごろまでやっている。11時半から12時半の間に行くと昼食が食べられる。12時半から器具や食器を洗い始めるので余り遅くに行くと受け付けてくれないのだ。


「1時間あれば将棋できるな」

「オセロは? オセロもしようよ」


 嬉しそうな2人を見て哲也が苦笑いだ。


「じゃあ先ずは将棋しましょうか、時間あればオセロもしますよ」


 哲也は昼まで山口と波瀬の大部屋で遊ぶことになった。



 将棋の勝負は直ぐに着いて続けて山口とオセロをする。


「あっ、僕の負けだ」


 15分ほどで勝負が着いた。


「相変わらず弱いなぁ~~、哲也くんは」

「ほんとほんと、哲也くんは弱いなぁ」


 嬉しそうな波瀬と山口の前で哲也が頭を下げる。


「参りました。将棋はともかくオセロは勝てると思ったんだけどな」


 将棋は駒の動かし方を知っているだけの初心者なので負けて当然だがオセロは態と負けたのだ。


「波瀬や高槻さんには負けるんだけどね、哲也くんとやると面白いよ、また遊ぼうね」


 山口が嬉しそうに饅頭をもう1つ差し出した。高槻とは大部屋を一緒に使っている最後の1人だ。散歩にでも行っているのか今は居ない。


「僕も楽しかったですよ、次は負けませんからね」


 優しい顔で微笑みながら哲也が饅頭を受け取った。山口が波瀬や高槻に勝てないのを知っているので哲也は毎回わざと負けてやっているのだ。


「じゃあ飯食いに行こう」


 波瀬の言葉で哲也が立ち上がる。


「僕は香織さんに用事を頼まれてますから、リモコンも返してこないといけないし」

「哲也くんは忙しいなぁ~ 」


 一緒に食べたかったのか山口が残念そうだ。


「警備員ですからね、饅頭ありがとうございました。またゲームしましょうね」


 ペコッと頭を下げると哲也は大部屋を出て行った。



 哲也が慌てて階段を駆け上がっていく、


「11時45分だ。もう食堂に行ったかなぁ」


 息を切らせて5階の廊下へと出ると510号室から香織と土多畠が出てくるのが見えた。


「まっ、間に合ったぁ…… 」


 ぜいぜいと息をつく哲也に香織が怪訝な顔を向ける。


「何しに来たの? 」

「僕も一緒に食べようと思って……土多畠さんに食堂の使い方を………… 」

「食堂の使い方は私が教えますから必要ありません」


 息を整えながら話す哲也を香織が冷たく突き放す。


「違いますよ、患者たちのルールもあるから……席順とか喧嘩っ早い人とか仲の悪い人の間に座らないとか」


 哲也が食い下がる。どうにかして土多畠に話しを聞こうと思っているのだ。


「そっちのルールか……そうね、そういうのは哲也くんの方が詳しいか」


 暫く考えてから香織が続ける。


「じゃあ哲也くんに頼もうかな、食堂の使い方だけじゃなくてレクリエーション室と図書室の使い方、それとお風呂も」

「任せてください、他にも色々案内しますよ」


 パッと顔を明るくして返事をする哲也に構わず香織は土多畠に顔を向けていた。


「哲也くんが変な事したら報告してね、きつく灸を据えるから」

「わかりました。オカルトの話しをしてきたら報告します」


 頷いて返事をする土多畠を見て哲也が顔を顰める。


「そんなぁ~~、酷いですよ香織さん」

「じゃあ、任せたわよ、変な事したら怒るからね」


 嘆く哲也に構わず香織はスタスタと歩いて行った。



 香織が廊下の向こうの階段へと消えたのを見て土多畠が楽しげに話し掛けてきた。


「東條さんって美人だけどキツい人だな」

「普段は優しいんですよ、でも怒らせるとマジで怖いから土多畠さんも気をつけてくださいね」

「あははははっ、気を付けるよ」


 戯けるように話す哲也を見て土多畠が声を出して笑った。


「じゃあ、昼飯食べに行きますか、ここの飯結構旨いんですよ」

「病院の飯って不味いって聞いてたけど楽しみだ」


 哲也と土多畠が食堂へと向かって歩き出した。



 食事を載せるトレーを持って一緒に並びながら食堂の使い方を教える。テーブルに並んで座って食べながら互いのことを色々話した。


「少し話しを聞いたんですが手が出てくるって本当ですか? 」


 打ち解けてきたと思った哲也が手の話を切り出すと土多畠の顔色が変わった。


「誰に聞いた? 東條さんか? 」

「違います。他の看護師さんです。オカルト好きだから何か変わった話しは無いかなって思って……ちょっと聞いただけで詳しくは聞いてないから」


 怪訝な表情で見つめる土多畠に哲也が咄嗟に嘘をつく、香織に迷惑を掛けるわけにはいかない、というかバレたら叱られる。


「後ろから手が出てくるって土多畠さんが言っているって事しか知りません」

「そうか……悪いけど話せない、話せば大変なことになる。殺されるかも知れない」


 険しい表情でこたえると土多畠は食事を口に運んだ。


「殺されるって? どういう事です」


 隣に座る哲也に振り向きもしないで土多畠は黙々と食べている。


「僕は幽霊が見えるんです。見るだけじゃなくて触ることも出来る。それで幽霊を殴って患者さんを助けたこともあるんですよ」


 哲也が過去に遭遇した怪異を2つほど簡単に話して聞かせる。

 黙々と食べていた土多畠が箸を置いた。


「それ以上しつこくしたら東條さんに報告するよ」

「あっ……すみません」


 香織に話すと言われると哲也には為す術がなくなる。この場は諦めるしかない。



 食事を終えて図書室や風呂場などの説明をして病院内をぐるりと周り3時前に土多畠の部屋に戻った。


「じゃあ僕は夕方の見回りもあるからこれで失礼します」

「ありがとう警備員さん」


 哲也が自分の部屋に戻ろうとした時、土多畠が怯え出す。


「ひわぁっ! 」


 ドアノブに手を掛けた姿で哲也が振り返る。何事かと目を凝らすと土多畠の左肩、後ろから小さな手がぬっと出てくるのが見えた。


「土多畠さん…… 」


 ドアノブから手を離して哲也が土多畠の正面まで近付いた。


「うわぁあぁ!! 」


 土多畠が叫んで後ろを向いた瞬間に手はすっと消えた。


「手が……病院でも出てくる」


 泣き出しそうな真っ青な顔で前に向き直った土多畠の後ろ、右肩の上にぬっと手が出た。


「捕まえた! 」


 土多畠の右肩に腕を伸ばすと哲也は咄嗟に手を掴んだ。想像以上に小さな手だ。幼稚園児くらいの小さな手だが固くてゴワゴワしている。手の甲に毛が生えているらしく小さなブラシを掴んでいる感触だ。


「この野郎出てこい! 」


 小さな手だ。大した気配も感じない、自分でもどうにか出来るかもしれないと哲也が掴んだ手を引っ張った。

 それほど力を入れて引かなくても手が前に出てきた。その後ろ、土多畠の後ろに黒い大きな影が見えた。


「うわっ!! 」


 人の幽霊ではない、毛むくじゃらの円柱のような化け物だ。その円柱の上の辺りに犬のような顔が付いていた。


「わぁあぁぁ~~ 」


 驚き叫んで哲也が手を離すと化け物はすっと消えた。


「彼奴が……山神が………… 」


 振り返ろうと首を横にしていた土多畠も化け物を見たらしい、ブルブルと傍から見てもわかるくらいに震えながら前に向き直って哲也を見つめた。


「けっ、警備員さん…… 」

「化け物だ。化け物の手だ」

「本当に見えるんだな、誰にも見えなかったのに……警備員さんは本当に見えるんだな」


 震えながら見つめる土多畠の前で哲也が頷いた。


「見えるだけじゃない、化け物の手を捕まえてやった。言ったでしょ、僕は幽霊を触れるって……さっきのは行き成りでビビったけど今度は殴り倒してやりますよ」


 化け物の異様な姿に内心焦りながらも哲也は平静を装った。


「本当だったんだ。警備員さんが化け物を倒せるって……お願いです助けてください」


 泣き出しそうな顔で土多畠が助けを求めてきた。


「落ち着いてください、先ずは話しを聞かせてください」


 倒せるなどとは言っていない、哲也は弱り顔だ。

 哲也の様子に気付いたのか土多畠が顔を強張らせる。


「話してもいい……でも本当にあの化け物を倒せるのか? 社長が山神だって言ってたぞ、倒せないなら俺が殺される…………本当に倒せるのか? 」

「山神? あの化け物が? 」


 弱り顔で考える哲也の頭に事務員の眞部が浮んだ。


「本当に山神なら僕の力じゃ無理ですね、でも眞部さんなら助けてくれますよ」

「眞部? 誰だ」


 益々顔を顰める土多畠に哲也が真面目な表情で話し出す。


「この病院で事務員をしている眞部代古まなべだいごさんです。陰陽道の流れを継ぐ退魔師で凄い人です。僕も助けて貰ったことがあるんですよ、眞部さんなら土多畠さんを助けることが出来ると思います。ですから話しを聞かせてください」


 哲也の自信ありげな表情を信用したのか土多畠が重い口を開いた。


「 ……わかった。どうせこのままじゃ殺されなくても本当におかしくなってしまう、何処に居ても手が出てくるんだ。誰も見えなかったのに警備員さんは見えたんだ。その眞部って人を俺も信じるよ」


 ベッドの上に土多畠が座る。哲也は近くのテーブルから折り畳み椅子を持ってきて土多畠の向かいに腰掛けた。

 これは土多畠京哉とたはたけいやさんが教えてくれた話しだ。



 土多畠は東北地方のある町で両親と妹の4人で暮らしている。閑静な住宅街に両親の建てた家があった。父親は農家や漁師ではなく普通の会社員だ。

 土多畠は大学を出た後、地元の企業に勤めたが直ぐに辞めた。その後も勤めては辞めてを繰り返し今は定職に就かずにフラフラしていた。

 自分から辞めたのではない、寝坊して遅刻に無断欠勤、ミスをしても謝らずに人の所為にするなどの素行不良で辞めさせられたのだ。


 心配した父親が知り合いの伝を頼って土多畠を山へと送った。林業である。

 長らく低迷していたが近頃は国産材木の価値が見直されて業績は回復傾向だ。もっとも多くの林業が国や自治体の補助金無しでは成り立たない現状に代わりはないが中には補助金無しでも収益を上げているところもある。土多畠が送られた会社も独自に工夫して補助金無しでやっていた。


 無理矢理押し付けられた土多畠は初めは直ぐに逃げ出そうと思っていたが1ヶ月ほど働いてみて逃げる気は無くなっていた。

 父の知り合いである社長の谷津谷やつたには厳ついが気さくな人で土多畠の愚痴も聞いてくれる。他の社員も皆、会社勤めの出来そうにない現場タイプの人間だ。有り体に言えば周りの連中がみんな土多畠と同じようなタイプである。体力勝負で身体は大変だが精神的な居心地の良さを感じて土多畠は真面目に働いた。


 土多畠のような独身者は社長の家の近くの寮に住むことになっているので遅刻や仮病の病欠などは出来ない、朝が弱く遅刻しては叱られていた土多畠も寮生活なら寮母さんに起される。朝食を食べて寮から現場の山まで車に揺られている内に目は完全に覚めた。

 26歳とまだ若い土多畠は重労働にも直ぐに慣れてこの会社でずっと働くことに決めたのだ。それを聞いた両親と妹は大喜びだ。


 そうは言っても来た直後、余りの重労働に土多畠は逃げようとしたことがある。

 直ぐに捕まって社長の谷津谷の前に連れて行かれた。


「危険な仕事だからこそ仲間を信頼する。だから土多畠、お前のことも信頼しているぞ」


 その時の谷津谷の言葉だ。社長は叱らなかった。

 口ではどうとでも言えると土多畠は反感を持った。朝の弱い土多畠が遅刻しても事務所でスマホを弄っていても社長は怒鳴ったり叱ったりすることはなかった。他の社員も好き勝手にやっている。


 だが現場では社長の態度ががらりと変わった。怒鳴るだけでなく木の枝でヘルメット越しに頭を叩くなど日常茶飯事だ。反感を持って観察していると社長は決して理不尽に怒ったりはしないのがわかった。怒鳴るのも作業員が間違えそうになったりふざけたりしたときだけだ。危険な現場で社員たちの命を預かっているのだ厳しくなるのは当り前だ。それがわかったとき、土多畠から逃げる考えなど霧散していた。



 半年ほど経った。仕事に慣れて取り敢えず基本的なことは一通り出来るようになった土多畠を連れて3つ向こうの山へといった。仕事をするのは初めての山だ。

 山に登って社長をはじめ、作業員全員で小さな祠の周りの草を刈り掃除をして菓子や酒を供えて手を合わせる。


「これ何ですか? 神社? 」


 土多畠が祠を指差して訊いた。不思議に思うのも仕方がない、今まで登った山には祠などなかった。安全祈願も大きな木に酒を捧げて祈るだけだ。


「この山には神様がおる。だから悪いことはするなよ」


 社長の谷津谷やつたにが教えてくれた。


「神様ですか…… 」


 厳つい顔をニヤッと歪める社長を見て土多畠は冗談を言って怖がらせようとしているのだと思った。



 仕事が始まる。作業自体は他の山と同じだ。

 林業は木を切り出すだけだと思っているかも知れないがそうではない、林業は山を育てる仕事だ。

 間伐と言って木を切るのは主に11月~12月の間だけだ。木材の収穫は当然として木の成長を助けたり山全体を見ながら木を切っていくのだ。

 雪深い1月は多くの山では作業はしない、山は危険だ。雪や雨の日は休日となることが多い。2月~3月になると地ごしらえと言って立木を伐採した跡地を整理して苗木を植える準備をする。4月~5月に行うのが植栽だ。苗木を植える作業である。6月~8月は下刈りやつる切りだ。苗木の成長の邪魔となる雑草や灌木などを刈り払う作業だ。9月~10月は余分な枝を切り落としていく枝打ちや除伐じょばつを行い、間伐する木の目安を付けていく、このような行程を繰り返して森を管理して山を育てていくのが林業である。



 土多畠たちが今回するのは植栽である。苗木を植える作業だ。


「あてて……腰が痛い」


 土多畠が伸びをするように腰を捻ってストレッチする。

 町中の工事現場などと違い山の中だ。しかも道などない山の斜面だ。そこに苗木を植えるのだ。殆どの作業が手作業となる。


「飯にするか」


 社長の一言で昼食となる。作業員たちが集まって弁当を広げる。

 弁当はコンビニ弁当だ。寮に入っている独身者は朝晩は寮母さんの作る食事だが好きなものも食べたいだろうと昼はコンビニ弁当を自分で選んで買ってきている。

 山の下の村にコンビニが1軒だけある。唯一の商店だ。林業に携わっている他の業者も弁当や飲み物を買っていくのでそれなりの収益があり田舎の村でもやっていけている。


「おい、土多畠、こっちで食えよ」

「汗かきだから暑いのは苦手です。日陰で食べます」


 まだ木が生えていないので日差しがきつい、土多畠は日差しが嫌だと1人だけ離れて木陰に腰を掛けて弁当を食べ始めた。


「あ~喉渇いた」


 土多畠はペットボトルのお茶をゴクゴクと飲むと弁当を広げる。


「寮の飯もいいけどコンビニ弁当も旨いよな」


 半分も食べたとき、肩越しに後ろからぬっと手が出てきた。


「うわっ! 」


 驚いて振り返るが何も居ない、誰かの悪戯かと見るが離れた所に居る作業員たちは談笑していて誰も欠けはない。


「気の所為か……影かゴミでも飛んできたかな」


 見間違いかと思い直して食べ始める。暫くしてまたぬっと手が出てきた。


「ふぅぅ…… 」


 驚いて振り返るがやはり誰も居ない。


「何だ? みんな向こうに居るし…… 」


 自分たちの他にも誰かが居て悪戯をしているのかと後ろの木々に目を凝らすが誰も居る気配は無い。


「おかしいなぁ…… 」


 変だと思いながらもまた食べ始める。

 暫くして左の肩越しにぬっと手が出てきた。3度目だ。驚いたが誰が悪戯しているのか確かめてやろうと思って手を観察した。

 幼児のような小さな手だが手の甲や指の関節にごわごわした毛が生えている。人間の手とは思えない。


『旨そうだ』


 後ろから突き出て左肩の上にある手を見つめているとボソッと声が聞こえた。


「誰だ! 」


 慌てて振り返るが何も居ない、手も消えている。


「何だ? 動物か? 」


 土多畠は手の大きさから猿か何かだと辺りの木の上を探すが何も居ない。


「さっさと食おう」


 食べている途中でみんなの元へと逃げると臆病者だと思われると考えた土多畠は慌てて食べ始める。

 暫くして後ろからぬっと手が出てきた。今度は右肩越しだ。


『旨そうだ』

「 ………… 」


 怯えながらも弁当のことだと思った土多畠はおかずの唐揚げを1つ手の平に置いてやった。唐揚げを掴んで手の平がすっと消えた。その後は何も起こらずに弁当を食べ終わった。


「何だあれ…… 」


 お茶をゴクゴクと飲み干すと慌てて社長の下へと向かう、


「社長、変なものを見ましたよ」


 土多畠が手のことを話すと社長が血相を変えた。


「山神だ…… 」


 青い顔で呟くと社長の谷津谷がその場の全員を見回した。


「みんな今日はお仕舞いだ。道具を片付けて運ぶ物は全部トラックに乗せろ」


 土多畠が詳しく聞く暇も無く作業員たちはテキパキと片付けていく、


「えらいもの見たなぁ」


 ワゴン車に乗り込む土多畠に年配の作業員が話し掛けてきた。


「土多畠、みんなにも話してやれ」


 助手席に座る社長の谷津谷に促されて土多畠が先程の出来事を詳細に話した。

 話しを聞いて車内が静まり返る。


「お前が見たのは山神だ」


 山を降りて舗装された道路に出ると社長が話しを聞かせてくれた。



 あの山には昔から山神が棲んでいるという、姿はハッキリとしない、毛むくじゃらの熊のようだと言う人もいれば大きな猿だと言う人もいる。姿を知らないのは見ると死んでしまうと言い伝えられているからだ。


 山には3つの禁がある。

 1つ、決して山神の姿を見てはいけない。

 2つ、此方から話し掛けてもいけない。

 3つ、山神が欲しがる物は渡さないといけない、故に大事なものを持って山に入ってはいけない。

 この3つの禁を破ると命を取られるというのだ。


 土多畠と同じように手を見たと言う作業員が他にもいた。谷津谷の会社の社員ではないが15年ほど前に山で作業をしていた作業員が妙な物を見て声を掛けてそれに追い掛けられて崖から落ちて死ぬということがあったらしい。


「まさか……マジっすか? じゃあ俺は危なかったって事ですよね? 」


 社長や年配社員の手前、怖がって見せたがよくある話しだと土多畠は信じてはいない。

 第一ぬっと出てきた手は幼稚園児のように小さかった。それから推測すると大きさは猿くらいだろう、犬や猫でも人の言葉に聞こえるように鳴くことがある。猿が人の声を真似ることも出来るかもしれない、そう気楽に考えていた。



 翌日、あの山へ仕事にいく、山神が出たといって仕事をしないわけにはいかない、昨日のように小さな祠にお参りしてから作業を開始した。

 昨日と同じ植栽である。苗木を植える作業だ。


「ふぅ、疲れた…… 」


 しゃがんでいた腰を伸ばして一息つきながら土多畠が木が生えている山肌を見た。昨日、手が出てきた場所である。


「別に何も居ないよな、猿の手だと思うんだけど…… 」


 昨日、寮に戻ってから思い出して考えた。手の大きさから猿だと1人で結論付けていた。毛の色が黒かったがそれは影になっていたので黒く見えたのだと思っていた。


「飯にするぞ」


 社長の谷津谷の一言で昼食となる。

 コンビニで買った豚カツの入った弁当を持って土多畠が昨日の場所へと向かう、


「土多畠、こっちでみんなと食え」

「俺暑いの苦手なんでここで食います。それに昨日のは見間違いですよ」


 心配そうな社長に笑顔でこたえると土多畠は昨日と同じ場所に座って弁当を広げた。

 素行不良で度胸もある土多畠は内心怖かったが昨日の出来事は本当だったのか確かめてみたいという気持ちがあった。

 1人で黙々と食べていると左肩の上を通って後ろからぬっと手が出てきた。


「くぅぅ…… 」


 驚いて口の中に入れていたもので喉を詰まらせそうになり慌ててペットボトルのお茶を飲む、


「なっ、消えてる……何も居ない………… 」


 お茶を飲みながら振り返るが後ろには何も居ない、いつの間にか手も消えていた。


「昨日と同じ手だったな、昨日は唐揚げをやったら消えたな」


 思い出しながらまた食べ始める。

 暫くして今度は右肩の上にぬっと手が出てきた。昨日と同じ幼稚園児くらいの小さな手だ。小さいが手の甲には黒い毛が生えている。土多畠は猿だと思った。


『旨そうだ』


 無視していると声が聞こえた。土多畠は驚きながらも弁当から豚カツを一切れ摘まんで手の上に置いてやると手はすっと引っ込んで消えた。

 また弁当を食べ始めるがもう手は出てこなかった。


「何もなかったか? 」

「はい、別に何もありませんでした。やっぱ昨日のは俺の見間違えでした」


 心配そうに訊く社長に土多畠が笑顔でこたえた。

 何もないと聞いて作業員たちの顔に安堵が浮ぶ、作業が中止になると困るので土多畠は嘘をついた。順調に進めば1週間程度で終るのだ。こんな事で中断されて作業が伸びて休日が無くなっては堪らないという考えがあった。



 次の日も弁当を食べていると手が出てきた。元々肝の据わった男だ。3日目になるともう慣れて怖さも無くなっている。弁当のおかずを1つやると手はすっと消えた。

 4日目、その日の弁当はコンビニで買ったおにぎりが4つだ。


『旨そうだ』


 皆から離れて1人で食べていると手が出てきた。

 体力勝負の仕事だ。おにぎりをやるわけにはいかない、考えた末に土多畠は500円玉を手の平に載せた。意地悪してやろうという気持ちもあったのだ。


「それで何か買ってくれ」


 500円玉を握り締めて小さな手がすっと引っ込んだ。振り返るがやはり何も見えない、土多畠は前に向き直ると次のおにぎりを食べ始める。


『これで何か買ってこい』


 暫くしてぬっと出てきた手には500円玉が2枚あった。

 土多畠が思案するように見ていると手がくるっと下を向く、500円玉が2枚、土多畠の足下に転がった。


 欲しがる物は渡さないといけない、山神の禁を思い出した土多畠は食べ足りないと言ってトラックを借りて山を降りてコンビニへといくとおにぎりを買って戻ってきた。

 元の場所に戻っておにぎりを食べ始めるとぬっと手が出てきた。土多畠がおにぎりを2つ置くと手はすっと引っ込んだ。振り返るが何も居ない。


 その後は何も無く作業が終って帰路についた。

 車の中で土多畠は考える。500円玉が2枚になった。じゃあ千円や一万円だとどうなるのか? 2枚になって返ってくるのか、今度試してやろうと思った。



 翌日、5日目だ。

 昼になり皆から離れて1人で弁当を食べていると手がぬっと出てきた。


『旨そうだ』

「それで何か買ってくれ」


 待っていたとばかりに土多畠は小さな手に一万円札を置いた。札を握り締めると手はすっと引っ込んだ。


『これで何か買ってこい』


 暫くしてぬっと出てきた手の平には一万円札が2枚載っていた。

 昨日のようにトラックを借りてコンビニに行くと弁当を買って戻る。


 元の場所で缶コーヒーを飲んでいるとぬっと手が出てきた。土多畠は買ってきた弁当を置くとすっと引っ込んだ。振り返るが何も居ない。

 その後は何も起きなかった。作業を終えて帰る。600円ほどの弁当だ。お釣りの9400円は返していない、催促されなかったので手間賃として貰って置いた。


 6日目、出てきた手に二万円を置いてみた。一万円札が4つになって返ってきた。昨日と同じように弁当を買って手の平に置いてやると満足したのかその後は何も起きなかった。お釣りの19400円は手元に残った。

 倍になって返ってくる。100万置いたら200万になって返ってくると土多畠は欲を出した。



 7日目、この山での作業も大詰めだ。

 昼になり、土多畠は1人離れて木陰で弁当を広げる。


『旨そうだ』


 弁当を食べていると左肩の上にぬっと手が出てきた。

 土多畠が振り返るが何も居ない、いつの間にか手も消えている。


「用意しとくか…… 」


 小声で呟くと土多畠は私物を入れている鞄から封筒を取り出して膝の上に置くと何食わぬ顔でまた弁当を食べ始める。


『旨そうだ』


 暫くして右肩の上にぬっと手が出てきた。

 土多畠は封筒から一万円札の束を取り出すと小さな手の平に載せた。


「それで何か買ってくれ」


 札束を掴むと手がすっと引っ込んだ。土多畠が振り返るが何も居ない、前に向き直ると弁当を食べ始める。その手が震えていた。

 昨日、銀行から降ろしてきた100万円だ。土多畠の全財産に近い、このまま戻ってこなかったらと考えると気が気でない。


『これで何か買ってこい』


 心配は杞憂に終る。ぬっと出てきた手の上に2つの札束があった。土多畠は冷静を装って札束を受け取ると鞄の中へと入れた。

 食べかけの弁当をコンビニの袋の中へと押し込むと土多畠が立ち上がる。


「あっ、通販の代金を入れるの忘れてた。社長車借りますね」


 社長に許可を貰うと土多畠はトラックに乗り込んだ。


「やったぜ、100万得したぜ」


 ドキドキ胸を躍らせてトラックを借りてコンビニへと向かう、札束が2つ、つまり200万だ。100万が200万になって返ってきたのだ。



 村に1軒だけあるコンビニの駐車場にトラックを停める。


「マジで神様だぜ、山の神様、様々だ」


 浮かれながら鞄の中の札束から一万円札を引っこ抜くとポケットへ押し込んだ。


「高い弁当買っていってやるか」


 土多畠はトラックから降りると上機嫌でコンビニへと入っていった。

 千円ほどの弁当にペットボトルのお茶を買うと一万円札で支払ってコンビニを出る。


「ちょっ! お客さん、ちょっと待ってください!! 」


 トラックに乗ろうとした土多畠をコンビニから慌てて出てきた店員が捕まえた。


「何だよ? ちゃんと払っただろ、万引きとかしてないからな」


 腕を掴む店員に土多畠が迷惑そうな顔を向ける。


「ちょっ、待ってください、お金ってこれですか? 」


 店員が葉っぱを見せる。木の種類はわからないが広葉樹の葉だ。


「はぁ? その葉っぱが何だよ」


 意味が分からず怪訝な顔で訊く土多畠の腕をしっかりと掴みながら店員が続ける。


「あんたが出した一万円が葉っぱに変わったんだよ、レジに入れようとしたらこの葉っぱになったんだよ」

「一万円が葉っぱに? 何言ってんだお前、大丈夫か? 」


 バカにする土多畠の耳に遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。


「一万円が葉っぱになるわけないだろが、変な事言うな! 」


 怒鳴りつけて腕を振り払おうとしたところへもう1人の店員が出てきて土多畠を挟むようにして捕まえた。


「何すんだよ! 離せ! 仕事があるんだからな、さっさと離せよ」


 トラックへ乗り込もうと暴れる土多畠を2人の店員が必死に押さえ付ける。


「離せよバカ!! ぶん殴るぞ」


 怒鳴り声を上げる土多畠の目に前の道路からやって来るパトカーが映った。


「お前ら警察呼んだのか? 何考えてんだ。バカじゃねぇの! 」


 コンビニの駐車場へパトカーが入ってくると2人の警察官が降りてきた。



 警察官を間に入れてコンビニ店員と土多畠の話し合いが始まる。

 通報したコンビニ店員が先に話を始めた。

 昨日のことだ。売上金の集計をした時に一万円足りなかったという、何故か葉っぱが1枚あったのだという、その前の日も一万円足りずに葉っぱがあったらしい、不審に思った店員が一万円を使う客に注意していると土多畠がやってきて一万円を使ったのだという、貰った一万円を注意深く見ていると葉っぱに変わったのだと証言した。


「何言ってんだ。一万円札が葉っぱに変わるわけないだろが! 昔話かよ」


 土多畠は知らないと白を切った。偽札なら犯罪だが葉っぱである。受け取るときに間違えるわけは無いという土多畠の主張が通った。

 店員の気の所為だと警察官も土多畠を庇ってくれた。当然だ。土多畠が葉っぱを使ったなどという証拠は無い、あったとしても葉っぱと一万円札を間違えることなど有り得ないだろう、土多畠はその場で解放された。


「名誉毀損で訴えても俺が勝つぞ、今日はお巡りさんに免じて許してやるけどな」


 不服そうな顔で謝る店員に文句を言いながら土多畠はトラックへと乗り込んだ。

 トラックを走らせて山の入り口付近で止める。


「一万円が葉っぱに…… 」


 助手席に置いてあった鞄を確認すると山で貰った100万円札の束が葉っぱに変わっていた。元々の100万円は無事なのを確認してほっと息を付くと同時に怒りが湧いてくる。


「あの野郎! もう少しで捕まるところだったぞ」


 怒りながら作業現場へとトラックを走らせる。

 作業現場では社長たちは昼食を食べ終わって談笑していた。


「遅かったな」

「参りましたよATMに2人居て並んでたんですよ」


 咄嗟に嘘をつくと土多畠は木陰へと歩いていって先程の場所へと腰を掛けた。


『旨そうだな』


 ペットボトルのお茶を飲んでいると右肩の上にぬっと手が出てきた。

 土多畠がコンビニで買ってきた弁当を置くと手はすっと引っ込んだ。


「 ……クソがっ! 」


 振り返って見るが何も居ない、腹が立ったがここで怒って何かあっては大変だと考えて今日のところは大人しくしたのだ。


 何事も無く作業が終って寮へと帰る。明日は休日だ。風呂に入って夕食を食べて他の社員たちとゲームをしたり談笑してから自分の部屋に戻って寝床に付いた。


「葉っぱを使って騙すなんて狐か狸だな……何が山神だ」


 それ程頭の良くない土多畠は昔話によく出てくる狐か狸に騙されたのだと思い仕返ししてやろうと考えた。



 翌日、休みを使って土多畠はホームセンターへと行くと殺鼠剤を買ってきた。


「匂いのしない毒だ。これで仕返ししてやる」


 次の日、殺鼠剤を入れたおにぎりを2つ作ると山へと持って行った。

 昼になりいつもの木陰で昼食をとる。


『旨そうだ』


 ぬっと出てきた手に土多畠は殺鼠剤入りのおにぎりを2つ置いた。おにぎりを掴んですっと引っ込んだ手を見て振り返るがやはり何も居ない。


「今日こそ正体を見てやるぞ」


 土多畠はほくそ笑みながら弁当を食べ始める。


『うげぇぇ~~ 』


 暫くして叫びが聞こえた。後ろの木々の中だ。


「ざまぁみろ! 」


 土多畠は振り返って探すが何も見えない。


『ぐげぇえぇ~~、うげげぇえぇ~~ 』


 姿は見えないが苦しげな叫びは聞こえてくる。


「何処だ? 狐か狸か? 何処に居る」


 サッと立ち上がると土多畠は目を凝らして木々の間を探す。


『ぎぇえぇぇ~~、ごぇえぇ~~ 』

「何だあれは? 」

「ヤバいぞ! 社長どうします? 」


 叫びは社長たちにも聞こえたらしく騒ぎ始める。


「山神だ……直ぐに帰るぞ!! 」


 何かを察知したのか社長である谷津谷の一声で作業員たちは素早く片付けるとワゴン車に乗り込んだ。


「ふへへへ……やったぞ、ざまぁみろ」


 ワゴン車の中で仕返ししてやったと意気揚々としている土多畠と違い社長たちは真っ青になっている。


「おかしい? 」


 社長の谷津谷が運転している作業員の顔を覗き込む、


「どうした? 」

「道がおかしい…… 」

「迷ったのか? 」


 社長の谷津谷が前の林道を睨むように見つめる。

 初めて来た場所ではない、今の作業だけでなく山には何十回と入っているのだ。迷うはずの無い道で迷った。同じ道をグルグルと回っているように感じた。


『騙した騙した騙した』


 走っている車の外でチラチラと木々の間を飛び回る影が見えた。猿にしては素早すぎる。何だろうと目を凝らしていると社長が叫んだ。


「誰かが山の神様を怒らせたんだ! 」


 車の中、社長が作業員たちを見回した。


「土多畠! お前だな」


 サッと目を逸らした土多畠を社長が指差した。


「車を止めろ!! 」


 ワゴン車を止めさせると社長が土多畠を連れて外へと出る。


「謝れ! 山の神様に謝れ!! 」

「神様ってあれは狐か狸ですよ、葉っぱ使って化かされたんですから…… 」


 へらへら笑いながら話す土多畠の襟首を社長が掴んだ。


「何でもいいから謝れ!! 殺されたいのか! 」

「いいから謝れ! 」


 凄む社長だけでなくワゴン車の中にいた年配の作業員たちも土多畠を怒鳴りつけた。


「ごめんなさい、俺が悪かったです」


 不服そうにしながら土多畠が向かいの木々に向かって頭を下げた。


「もっと大声で謝れ! 」

「すみませんでした!! 俺が悪かったです。ごめんなさい、許してください」


 土多畠が大声で怒鳴るようにして謝った。


「もう一回だ」

「ごめんなさい、許してください」


 何度か謝っていると辺りを飛び回っていた影はいつの間にか消えていた。


「よしっ、帰るぞ」


 辺りを確認すると社長は土多畠を連れて車に乗り込んだ。その後は道に迷うこともなく帰り着くことが出来た。


 会社の事務所でこれまで起きた手のことを社長に話すとこっぴどく叱られた。

 自分は悪くないと納得できない土多畠はどうにかして仕返ししてやろうと思った。山の神などと大層なことを言っているが狐か狸が化かしているのだとしか思っていない。



 翌日、作業8日目だ。

 山神が出たといって作業を止めるわけにはいかない、予定通り行けばこの山での作業は後2日ほどで終るのだ。

 山神様を鎮めるために今日は御神酒だけでなく重箱に入った料理も持ってきて捧げた。それが利いたのか変な事は何も起きずに昼になった。


「土多畠、今日はこっちで食え、みんなと一緒に食べろ」


 社長だけでなく年配の作業員に睨まれて土多畠はみんなと一緒に弁当を食べた。


「ご馳走様……小便行ってきます」


 手早く弁当を食べ終えると土多畠は木々の中へと入っていった。


「何ビビってんだよ、山神なんて居るわけないだろ」


 適当な木に向かって立ち小便をしていると後ろから左肩の上にぬっと手が出てきた。


「おわっ! 」


 立っているときに出てきたのは初めてだ。驚いて振り返るが何も居ない。

 小便は終っていたが土多畠は前に向き直ると小便をしている振りをした。


『何かくれ』


 今度は右肩の上にぬっと手が出てきた。


「狐か狸か! 正体見せろ!! 」


 土多畠が手を掴んで引っ張った。


『ギキキッ、イギギギッ 』


 手を掴みながら振り返った土多畠が固まった。狐でも狸でも無い、2メートルほどの化け物が立っていた。


「うっ、あぁあぁ…… 」


 大きな毛虫のような身体に犬のような顔が付いていた。その毛むくじゃらの胴体から細い腕が何本も伸びている。幼稚園児のように小さい手が左右合わせて10以上生えていた。


『キキキギ、イキキキッ、見た……見た。見た見た見た』


 毛虫のような身体の上に付いている犬のような顔がニヤリと笑った。


「ひぅぅ……違う………… 」


 狸か狐、違っても手の大きさから小さな相手だと思っていたが自分よりも大きな化け物に土多畠はパニックを起す。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 叫びを上げて土多畠が逃げ出す。化け物が追っていく、木々の間から飛び出してきた土多畠を社長たちが呆然と見つめた。


「あいつ……見たんだな」


 社長の谷津谷が呟いた。自分たちには何も見えないが土多畠が何かに追われるように悲鳴を上げて逃げ回っている。


「おい、作業止めて帰るぞ」


 社長が大声で作業員たちに命令した。


「社長、土多畠は? 置いていくんですか? 」


 年配の作業員が強張った顔で訊くと真っ青な顔をして社長が頷いた。


「仕方ない、巻き込まれて死ぬのは御免だ。運が良ければ助かるだろ……明日探すことにする。今追い掛けて俺たちまで山神を見たらどうなるか………… 」


 社長の言葉に他の作業員も異存は無い、直ぐに片付けて車に乗り込んだ。


「ちょっ! 待って……助けてくださいよぉ~~ 」


 走って行くトラックやワゴン車を見て土多畠が慌てて駆け寄る。


『ゲキキキキ……見た見た見た。お前は帰さん』


 土多畠の前に大きな毛虫のような化け物が立った。


「ひわぁあぁ~~、たっ、助けてくれぇ~~、俺が悪かったぁ~~ 」


 反対方向へと逃げ出す土多畠を置いてトラックとワゴン車は山を降りていった。


「あぁ……車が………… 」


 置いていかれたことを知った土多畠は化け物から必死で逃げ回った。


「助けてくれ……俺が悪かった。謝る。ごめんなさい」


 昨日の帰り、道に迷ったときに謝って許して貰った事を思い出して大声で何度も謝るが化け物は追い掛けるのを止めない。



 どうにかして山を降りようとするが行く先に化け物が現われる。土多畠は山頂付近に逃げるしかなかった。


「あれは? 」


 息を切らせて走り回り体力が限界になったとき、目の前に小屋が見えた。


「山小屋だ! 」


 これ以上走り回れない、土多畠は山小屋へと逃げ込んだ。


『ギキキキッ、見た見た見た。お前は見た。見たら生きては返さん』


 追ってきた化け物が山小屋の周りをグルグル回る。


「許してください、誰にも言いません」


 土多畠は小屋の中にあった物でドアが開かないように塞ぎながら大声で謝った。


『イギキキッ、ゲキギギッ、生きては返さん』

「助けてくれ……誰にも言わない約束する」

『見た見た見た。イゲキキッ、姿を見たら返さん』

「助けてくれ……神様お願いします。誰にも言いません」


 土多畠は震えながら必死に頼んだ。日が落ちても謝り続けた。何度も謝り声が掠れる。


「神様には食べ物をあげたじゃないですか……誰にも言いません、約束します。助けてください」

『ギキキキッ、約束だぞ、約束約束約束』


 半分諦めながら掠れた声で訴えるように言うと山小屋の周りをグルグル回っていた気配が消えた。


「たっ……助かったぁ~~ 」


 安堵すると同時に土多畠は倒れ込んだ。

 目が覚めるといつの間にか夜は明けていた。


「眠ってたのか……助かったんだ………… 」


 山小屋を出て疲れ果てた様子で歩いているところを社長たちに見つけられた。

 土多畠は何も話さずにその日の内に会社を辞めた。生きているだけでも良かったと言って社長は深く追求しなかった。



 1年が経った。土多畠は地元にある工場の社員となっていた。素行不良もすっかり大人しくなり朝も起きるようになって真面目に勤めていた。

 あの山での出来事は誰にも話していない、今でもあの毛虫のような化け物の姿を夢に見て飛び起きることがあった。


 ある夜、会社の飲み会で土多畠はいつも以上に飲んで酔っ払う、真面目に働いたのが認められて受け持ちの責任者となった祝いの飲み会だ。


「土多畠さんおめでとう」

「これからも頼んだぞ」

「もっと頑張れば係長になれるぞ」


 上司や同僚に祝って貰って土多畠は上機嫌で酒が進んだ。


「そうだ。芝山さん、これ見てくださいよ」


 横に座っていた同僚が土多畠の肩越しに反対側に座っている上司である課長の芝山にスマホを差し出す。


「うわぁあぁ~~ 」


 肩から伸びた同僚の腕を見て土多畠が悲鳴を上げた。


「なっ、何があった? どうした土多畠? 」


 課長の芝山を始めその場の全員が土多畠に注目した。


「なっ、何でもありません…… 」


 青い顔でこたえる土多畠を隣に座っている課長の芝山が覗き込む、


「何でもないって事ないだろ? 真っ青になってるぞ」

「手が……手が出てきたから驚いただけです」

「手? 手がどうしたんだ? 詳しく話してみろ」


 心配そうに見つめる課長に頷くと土多畠が話し始める。


「1年ほど前の事です。山で仕事してたんですよ俺…… 」


 いつも以上に酔っていて気が大きくなったのか、判断力が鈍ったのか、土多畠はあの山での出来事を話して聞かせた。


「怖っ! 」

「マジかよ、怖すぎるわ」

「土多畠って怖い話しもできるんだな」


 女性社員たちが怖がり、男性社員も喜んで課長には褒められた。話しが受けて土多畠は上機嫌だ。

 飲み会が終って帰りについた。同僚たちと駅で別れて電車に乗った。


「ちょっと飲み過ぎたな……まぁいいか」


 最寄り駅で電車を降りると両親と妹と一緒に住んでいる家まで歩いて帰ることにする。

 普段は駅まで自転車で来ているのだが相当酔っ払っているのは自分でもわかっていたので今日は駅に自転車を置いて歩いて帰る事にしたのだ。


「暑いなぁ……お茶が飲みたい」


 自分ではしっかりと歩いているつもりだが身体が左右に揺れている。


「自販機だ」


 駅から少し離れた交差点の脇、閉まっている商店の壁際に設置してある自動販売機でペットボトルに入ったお茶を買った。


「ふぅっ、俺が責任者か……頑張らないとな」


 学生の頃から叱られたりバカにされてばかりだった。それでふて腐れて素行不良になっていたのだ。それが責任ある立場になって認められるようになったと士多畠は心から喜んだ。それが嬉しくて飲み過ぎた。


『約束だぞ』


 自動販売機を背にペットボトルのお茶を飲んでいた土多畠の後ろから左の肩越しにぬっと手が出てきた。


「ぴゅぅうぅ…… 」


 喉の奥から声にならない悲鳴が出た。

 幼児のように小さな手だが黒い毛が生えている。山で見た化け物の手だ。

 直ぐ後ろは自動販売機だ。もたれるようにお茶を飲んでいたのだ。人が入れる隙間などないのは土多畠自身が一番理解している。


「ひわぁあぁ~~ 」


 叫びながら飛び退くと後ろを見た。


『約束だぞ、話したな、話したな』


 山では振り返ると消えた手が消えないで残っている。明るく光る自動販売機から毛だらけの黒い手がぬっと生えるように出ていた。


「ばっ、ばけっ……化け物が………… 」


 震える土多畠の手からペットボトルが抜け落ちて足下に転がった。


『話した話した話した。約束だぞ、話したな』


 自動販売機から抜け出るようにして大きな毛虫のような化け物が姿を現わした。


「ひぃぃ……たっ、助けてくれ、助けてくれぇ~~ 」


 鞄を放り出すと土多畠が逃げようと地面を蹴った。


『見た見た見た。話した話した話した。約束約束約束』


 必死に走る土多畠の足が空を切る。


「たっ……助けてくれ……俺が悪かったぁ………… 」


 10本以上生えた化け物の小さな手が後ろから土多畠を捕まえて持ち上げていた。


『約束約束約束、破った破った破った』

「ひやぁあぁ……許してくれ……助けてくれぇ………… 」



 駅から少し離れた交差点の近くにある自動販売機の前で錯乱して暴れている土多畠を警察官が取り押さえた。

 警察に保護されて一時は落ち着いたが両親が迎えに来る前にも数回、手が出たと暴れ出すのを見て薬物中毒を疑われて検査されたが薬物反応は出なかった。

 家に帰ってからも約束を破ったから殺されると騒ぐ土多畠を見て困った両親が病院へと連れて行くと妄想型の統合失調症だと診断されて磯山病院へと入ることになったのだ。

 これが土多畠京哉とたはたけいやさんが教えてくれた話しだ。



「誰にも話すなという約束を破ったから山神が怒って出てきたんだ……1年間何もなかったのに飲み会で俺が話したから………… 」


 怯えと焦りを浮かべた顔で土多畠が哲也を見つめる。


「助けてくれ警備員さん、あの化け物から俺を守ってくれ」


 眉間に皺を寄せた険しい表情で哲也がこたえる。


「正直言って僕じゃ無理です。でも眞部さんならどうにかしてくれると思います」


 土多畠の肩の上に現われた手を引っ張ったときにぬっと出てきた大きな毛虫のような化け物を思い出す。霊を触れるだけの哲也にどうこうできる相手ではない。


「助けて貰えると思ったから話したんだ……2回も約束を破ったんだ。今度はどうなるか…………その眞部って人に話して……いや、直ぐに会わせてくれ」


 必死な形相で頼む土多畠の向かいで哲也が頷く、


「わかりました。眞部さんには今日中に話をします。明日にでも会えるようにしますから安心してください」


 眞部の話しを持ち出したのは哲也だ。怒られるのを覚悟で眞部に話をしに行こうと腰を上げる。


「夕方の見回りがあるから僕はこれで……晩御飯を食べた後にでも眞部さんに話しをしますから安心してください」

「わかった。出来るだけ早くしてくれ、それまであの手から逃げ回ってやる」


 憔悴しきった顔でこたえる土多畠に頭を下げると哲也は部屋を出て行った。



 長い話しに時刻は午後の4時を回っていた。


「見回りまで時間はあるな、眞部さん怒るだろうなぁ…… 」


 哲也はB病棟を出ると自分の部屋に戻って新品のリモコンを持って直ぐに出てきた。


「どうやって眞部さんを呼んでもらうか…… 」


 本館へと向かいながら哲也は握り締めた新品のリモコンを見つめた。山口と波瀬の大部屋のテレビリモコンは電池を入れ替えると動いたので新品のリモコンは使わなくて済んだのだ。



 憂鬱な顔をして哲也が本館へと入っていく、本館は厳しいというか、他の病棟とは空気が違う、見たこともない先生や看護師たちがいるのだ。基本的に立ち入り禁止なので患者がふらふら歩き回ることなど出来ない、哲也も飲み物を買いに1階のロビーに入るくらいで奥へは滅多に入ることはない。


「ここの受付、人がいたところ見たことないぞ、まぁ山の中だし、全部予約とか転院だけみたいだから人がいなくてもいいんだろうけどさ」


 ロビーの奥にある受付カウンターをちらっと見ながら哲也は廊下を少し入った所にあるナースステーションへと向かった。


「やべっ、佐藤さんだ」


 誰か顔見知りの看護師が居ないかと窺っていると佐藤と目が合った。

 逃げようかと思ったが怖い顔で睨みながらやって来る佐藤を見て諦めた。ここで逃げたら後で怖いと考えたのだ。


「何しに来た? 」

「あのぅ……テレビのリモコンを返しに来ました。電池入れ替えたら動いたから新品のヤツは使わなかったので………… 」


 哲也がおずおずとリモコンを差し出した。


「そうかわかった。俺が預かっておく」


 受け取ろうとした佐藤の手から哲也はすっとリモコンを引き寄せた。


「眞部さんを呼んでもらえませんか? 」


 真剣な表情で頼む哲也のリモコンを握り締める手が小刻みに震えている。


「眞部部長に何の用だ? リモコンなら俺が返してやる」


 震える哲也の手を見つめながら普段でも強面の佐藤が顔を顰める。


「お願いします。相談事があるんです。お願いします佐藤さん、眞部さんを呼んで来てもらえませんか、お願いします」


 必死で頼む哲也を見下ろして佐藤がフーッと鼻から大きな息を吐いた。


「珍しいな、お前がそこまで食い下がるなんてな」


 佐藤がくるっと背を向けた。


「そこで待ってろ、眞部部長が居なかったら諦めろよ」

「あっ、ありがとうございます」


 廊下の奥に歩いて行く佐藤の背に哲也がバッと頭を下げた。



 暫くして眞部を連れて佐藤が戻ってきた。


「どうしたんだい哲也くん? 」


 心配そうに訊く眞部の後ろで佐藤がナースステーションへと入っていく、


「佐藤さんありがとうございました」


 頭を下げて礼を言う哲也に軽く手を振ると佐藤は奥へと入っていった。

 それを見ていた眞部が優しい顔でまた訊いた。


「苦手な佐藤くんに頼むくらいだから余程のことだろう、何があったんだい」

「ごめんなさい眞部さん、余り首を突っ込むなと注意されたんですが……僕じゃどうしようもなくて………… 」


 頭を下げて謝った後で哲也は土多畠のことを話した。


「山神か……それは厄介だねぇ」

「僕には神様と言うより妖怪か何かに見えましたけど」


 疑うように話す哲也を見て眞部が頷いた。


「哲也くんがそう感じたのなら多分当たっているだろうね、山神と言っても色々だからね、本当に神様のような力を持っているものから狐狸の類いまで良いものから悪いものまで色々いるからね、人は不思議なことや恐ろしい目に遭えばあの山には神様が居ると思い込むからね、それが化け物であっても」


 話しを聞いても眞部は動揺した様子もなければ顔色も変化がない、どうにかなるかも知れないと思った哲也が話を切り出す。


「それで土多畠さんを助けてあげて欲しいんですけど……僕が出来る事なら何でもしますから、お願いします」


 頭を下げた哲也の肩を眞部がポンポン叩く、


「相手次第だな、私の手に負える相手ならどうにかしてみよう」


 哲也がバッと頭を上げる。


「ありがとうございます」

「礼を言うのは早いよ、危険だと感じたら直ぐに手を引くよ、言っちゃ悪いけど赤の他人のために命を懸けるつもりはないからね」

「わかりました。会うだけでもいいので会ってみてください」


 いつになく真剣な表情で頼む哲也を見て眞部が優しい顔で続ける。


「夜にでも土多畠さんの部屋に行ってみるよ、確かBの510だったね」

「はい、B棟の510号室です。僕も行きます。手伝えることは何でもしますから」

「そうだねぇ、じゃあ10時の見回りのときに行くよ、実際に会ってから対策は考えることにするよ」

「ありがとう眞部さん」


 安堵する哲也の向かいで眞部がナースステーションの奥に見える時計を指差す。


「哲也くんの頼みだからね、特別だよ……それより見回りは行かなくてもいいのかい? 」

「あっ、もう5時回ってる」


 夕方の見回りの時間だ。哲也は持っていた新品のリモコンを差し出した。


「これ使わなかったので返しに来ました」

「わかった。倉庫に戻しておくよ」


 リモコンを受け取った眞部に哲也が頭を下げる。


「じゃあ失礼します。今夜10時よろしくお願いします」


 礼を言うと哲也は小走りに本館を出て行った。



 ナースステーションの受付の小窓から佐藤がひょいっと顔を出す。


「いいんですか? あんな約束をして」

「仕方ないよ、哲也くんの頼みだからね」


 笑顔の眞部と違い佐藤は物言いたげだ。


「でも間に合いませんよ、土多畠は既に…… 」

「わかっているよ、土多畠はどうでもいい、哲也くんに害が及ばないようにさ」

「成る程……了解です」


 納得した様子で佐藤が奥へと引っ込んだ。


「何だかんだ言って佐藤くんも哲也くんには優しいよね」


 楽しげに呟くと眞部はテレビのリモコンを片手に長い廊下を歩いて行った。



 夕方の見回り、患者たちが夕食をとりに行って静かになった廊下を哲也が歩く、


「B棟は昨日シーツも換えたし掃除も終ってるし静かなものだ」


 週に一度業者が来て掃除をしていく、B病棟のシーツ交換も掃除と重なって昨日で終えている。今日は業者などが入っていないので普段より静かだ。


「あっ、下川さんまだ居たんですか」


 エレベーターの手前で患者の下川を見つけた。


「昼寝しててさ、参っちゃうよね」

「早く行ってください、まだ食堂間に合いますから」

「えへへ……わかってるよぅ」


 照れ隠しに笑いながら下川がエレベーターに乗り込んだ。下川は山口や波瀬と並んで哲也と仲の良い患者だ。


「B棟は問題ある患者も居ないし楽なもんだ」


 哲也が階段を下りていく、


「うわぁあぁぁ~~ 」


 叫び声が聞こえて哲也が慌てて走り出す。


「何処だ? 誰が残ってるんだ? 」


 5階の長い廊下を哲也が見つめる。


「くふぅ……たっ、助けてくれぇ~~ 」

「土多畠さんか! 」


 哲也が510号室へと入っていく、


「なっ…… 」


 ドアを開けて一歩踏み込んだ哲也がその場に硬直した。


「たっ、助けて……誰か助けて………… 」


 土多畠が大きな毛虫のような化け物に捕まっていた。

 2メートル以上ある円筒形の毛むくじゃらの化け物だ。円筒形の上の辺りに犬のような顔が付いていた。身体の左右からは細長い小さな腕が10本以上伸びている。犬の頭を付けた大きな毛虫に見えた。


「けっ、警備員さん助けてくれ………… 」


 哲也に気付いた土多畠が腕を伸ばす。

 何本もの細長い腕に抱きかかえられるようにして土多畠の身体は毛虫のような化け物に半分めり込んでいる。


「たっ、助けて……警備員さん…… 」

「土多畠さん!! 」


 飛び出そうとした哲也の両肩が誰かに掴まれた。


「ダメだ! 手遅れだよ哲也くん」


 バッと振り返ると眞部が険しい顔をして哲也の両肩を掴んで止めていた。


「眞部さん、土多畠さんを…… 」

「手遅れだ!! 手を出したら哲也くんも連れて行かれるぞ」


 助けるどころではない、連れて行かれると言われて哲也が身を固くする。


「助けて………… 」


 毛虫のような化け物に包み込まれて土多畠の姿が見えなくなる。


『見た見た見た』


 大きな毛虫に付いている犬のような顔が哲也と眞部を見てニタリと笑った。


「消え去れ! 」

『ギケッ、ギキキィ~~ 』


 眞部が懐から呪符のようなものを投げ付けると毛虫の化け物は呻きをあげて消えていった。



 土多畠が行方不明になったと眞部が報告して大騒ぎになる。警備員はもちろん手の空いている看護師に職員、総出で探すが見つからない。

 夕方から翌日の昼まで探しても見つからないので昼過ぎに通報した。

 警察が病院の敷地内を3日掛けて探しても土多畠は見つからなかった。

 眞部に口止めされて化け物のことは話していない、話しても信じて貰えないだろうと哲也も話す気はなかった。


 1週間ほどして警察から連絡があった。

 土多畠が見つかったという、以前勤めていた林業の会社が担当している山から土多畠の遺体が見つかったのだ。


 遺体は白骨化していた。検死によると死後1年以上経つとのことだ。

 そんなバカな事はないと、遺体は別人だと親族が訴えたがDNA検査の結果や歯の治療痕から土多畠に間違いないとのことだ。

 病院から土多畠が消えて10日ほどしか経っていない、どのような事が起って短期に白骨化したのかはわからない、風化の具合から見ても一年以上は経っているのは間違いないと警察も首を傾げた。


 以前の会社の社長である谷津谷やつたにが事情聴取を受けて山神のことを話した。もちろん警察はそんな話しは信じない、だが病院に話をしに来た刑事は偶に訳のわからない事件があると、霊現象を信じたくなる事件があると言って帰っていったという。



 遊歩道の脇にあるベンチに哲也と眞部が腰を掛けている。


「僕の所為だ……無理に話しを聞いたから土多畠さんは連れて行かれたんですね」


 暗い顔で訊く哲也の隣で眞部が首を振る。


「それは違うよ、哲也くんが話しを聞かなくても土多畠さんは消えていたよ」

「でも約束を破ったから山神に……あの毛虫のような化け物に連れて行かれたんでしょ? 話すなって約束したのに僕が訊いたから……飲み会のときだけじゃなくて僕にも話をしたから化け物は怒って連れて行ったんでしょ」


 責任を感じて思い詰めた目で見つめる哲也に眞部が優しい目をして話し出す。


「哲也くんの所為じゃない、飲み会で話したのも切っ掛けに過ぎないさ、土多畠さんは化け物に追われて逃げ回っていた山で既に死んでいたんだよ、化け物に殺されたか足を滑らせて滑落したかはわからないけど士多畠は1年前の山で死んでいた。化け物の力か、山の力か、自分が死んでいるのに気付かずに士多畠は彷徨っていたんだ」


 驚きを浮かべながらも納得したのか哲也が頷く、


「死んでいた……だから初めて見たときに姿が透けて見えたのか」

「ある程度の力がある人なら気付いただろうね、私も直ぐにわかったよ、土多畠さんだけじゃない、生命力とでも言うのかな、その力が弱っている人は直ぐにわかる。この人はもう直ぐ死ぬなってわかるんだよ、土多畠さんの場合は既に死んでいるんだから少し驚いたけどね」

「知ってたんですね、それなら何で教えてくれなかったんですか」


 ムッと少し怒った様子の哲也を眞部が神妙な面持ちで見つめた。


「教えたら哲也くんはどうした? 助けようと無茶をしたんじゃないかい? 私が傍に居ればあの程度の化け物などどうにかなる……どんな事をしても哲也くんは助ける。だけど私の知らない所で無茶をして化け物に襲われたら……哲也くんに何かあれば私は悔やんでも悔やみきれないよ」

「眞部さん…………ごめんなさい、僕が悪かったです」


 自分のことを考えて敢えて話さなかったと知って哲也は素直に頭を下げた。


「だけど、死んでいたとしても僕が話しを聞かなければ、二度も約束を破ることにならなければ士多畠さんは連れて行かれずに済んだんじゃないんですか? あの姿のままでも生きて行けたんじゃないんですか? 」


 涙を浮かべて訊く哲也の隣で眞部が言葉を選ぶようにして話し出す。


「どうだろうねぇ、化け物の手が見えると言っていただろう、哲也くんが話しを聞かなくとも近い内に連れて行かれてたさ、身体はとっくの昔に朽ちているんだ。化け物の力か山の力か、それで仮の姿を貰っていただけだ。自分の力じゃない与えられた力だ。いつかは消える力だよ」

「仮の姿ですか……どうすれば良かったのか僕にはわかりません、でも僕は助けるって約束したんです。それなのに何も出来なかった」


 哲也の目から溜まっていた涙が堰を切ったように流れ出す。


「哲也くん………… 」

「僕は卑怯だ。話しを聞きたいが為に眞部さんのことまで持ち出して……それなのに結局助けることも出来なかった。僕は最低だ」


 前屈みになって泣く哲也の背を眞部がポンポン優しく叩いた。


「そうだね、今回は少し悪かったね、でもね、土多畠さんはあの姿のままずっと生きていられるわけがない、他の化け物や悪霊に利用されることもある。そうなる前に解放してやったんだよ、少なくとも哲也くんを恨んではいないさ」


 眞部が立ち上がる。


「土多畠さんを助けるのはあの姿のまま生かすことじゃない、既に死んでいるのを理解させて迷いを説いて成仏させてやることだよ、私もそのつもりだったんだよ、彼を成仏させようと引き受けたんだよ」


 ベンチに座って泣いていた哲也がすっと顔を上げた。


「成仏出来たんでしょうか? 」

「出来たさ……御遺体も見つかった。両親や妹さんが供養してくれて成仏したさ」


 優しい顔でこたえると眞部は歩いて行った。


「土多畠さん…… 」


 腕で涙をぐいっと拭って哲也は考える。



 顔付きや目付きで感情を表すことが出来るのと同じように手でも意思の疎通は出来る。だからといって手だけでは中々伝わらないものだ。


 旨そうだと、食べ物をくれと出てきた手、だが本当は食べ物ではなく土多畠の命が欲しかったのではないだろうか? 

 慣れとは恐ろしいもので有り得ない現象でも何度も起ると慣れてしまう、土多畠も手が食べ物をねだっているだけだと思って慣れてしまったのだ。

 土多畠がもう少し小心だったら、欲を出さなかったら、手だけでも怖がってそれ以上関わり合いにならなければこんな事にはならなかっただろう。


 手だけしか見せない化け物、言い伝えにも姿を見てはいけないとあった。その禁を破ったのだ。あの化け物は何だったのだろうか? 怪しいものからは速やかに距離を置くべきだと哲也は思った。


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