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第四十話 目の端(はし)

 幽霊など見たことのない人や、そもそも霊現象などを信じていない人も奇妙なものが見えることがある。

 目の端に光が見えたり何かがサッと横切っていくなどの体験は誰もがあるだろう、具体的に人の姿や顔が見えることもある。だがそれらの殆どは科学的に証明できるものだ。


 じっと正面を見つめたままで目の端に注意するとぼやけていたり歪んでいるのが分かるだろう、眼球は丸いので端の方はどうしても歪んだり不鮮明に見えたりするのだ。その目の端に近くを動くものや窓から差し込む影がちらっと映る。電灯やテレビの光が何かに反射してちらっと見える。それらが人の顔や姿に見えるのだ。

 何かの模様や光の具合で点が3つあれば脳内で人の顔と認識してしまう、目の端のようにぼやけて鮮明に映らないものなら尚更である。人の姿も同じだ。木や何かの柱がちらっと映れば脳内で人だと認識してしまうものなのである。


 体調が悪くても変なものが見えたりする。

 眩暈を感じたときにチカチカと光が見えたり、大きなくしゃみをした瞬間にパッと光が見えたりする事があるだろう、それらは全て実際に光を見ているわけではない、脳や眼球、神経などが見せているのだ。目を閉じて瞼の上から眼球を押さえるとぼやっとした光が見えたりするのも同じである。


 目に限らず耳や口に内臓など人間の身体は精巧に出来ている。その中でも脳は緻密だ。だからといって正確とは限らない、脳の判断は結構曖昧なのだ。その曖昧さが恐怖を緩和したり苦しみを軽減するのに必要なのだ。必要以上に驚いたり興奮したりしてそのショックで心身に異常が出ないように出来ているのだ。


 だからといって全てが錯覚だろうか? 目の端に何かが映るという人を哲也も知っている。初めは少しずつ、それが頻繁に起こるようになってその人は心が壊れてしまった。全て錯覚かもしれない、だがその人にとっては事実だったのだ。



 朝食を食べた後、天気が良いので散歩でもしようと哲也はA病棟を出た。


「なんだ? 何かあったのかな? 」


 本館の前で数人の看護師が集まっているのが見えた。


「騒ぎでもあったのかな? 」


 患者が暴れたのかと表情を強張らせた哲也が近付いていく、


「本当に格好良いんだから…… 」

「森崎が言うなら間違いないな」


 看護師たちの会話が聞こえてくる距離まで近付いた哲也が険しい顔のまま首を傾げた。


「暴れたんじゃなさそうだ」


 集まっている看護師は女性ばかりだ。皆楽しげに笑っている。


「あっ、来たわよ! 」


 1人が言うと集まっていた全員が会話を止めて正門を見つめた。


「何が来るんだ? 」


 哲也も釣られるように正門を見ると送迎用の車がやってきて止まった。


「新しい先生でも入ってくるのかな? 」


 女性看護師の騒ぎようから若い男の先生でもやって来るのかと思った。

 哲也が見つめる先で車から職員と一緒に男が1人降りてくる。


「マジだ。マジで格好良いよ」

「言ったでしょイケメンだって」

「背も高いし完璧じゃない」


 此方へ向かってやって来る男を見て女性看護師たちが黄色い声を上げて騒ぎ出す。


「なっ、なんだ彼奴…… 」


 哲也が男を睨み付けた。男は俳優かと思うくらいのイケメンだ。背も高くスタイルも良い、集まっていた女性看護師たちが騒ぐのも分かるくらいのイケメンである。


「新しい先生か? 」

「違うわよ、患者さんよ」


 やっかみ半分で見ていると後ろから肩を叩かれた。


「おわっ! かっ、香織さんか」


 哲也が驚いて振り返ると笑顔の香織が立っていた。


「格好良いでしょう、室田さんって言うのよ」

「室田……患者ですか? 」


 香織の向かいで哲也が視線を室田に向ける。


「そうよ、措置入院して来たのよ」

「措置入院って何かしたんですか? 」


 哲也がバッと振り返ると香織が笑顔のまま話し出す。


「錯乱して通行人を殴ったらしいのよ」

「殴ったって……ヤバい奴じゃないですか、それなのにみんな嬉しそうに……注意しないとダメですよ香織さん」


 騒いでいる女性看護師を指差しながら哲也が続ける。


「看護師があれじゃ困りますよ、犯罪を犯して措置入院して来た患者は特に注意しないとダメですよね、イケメンだからって浮かれてちゃダメですよね」


 険しい顔をした哲也が女性看護師たちに注意をして貰おうと香織に訴えるように話した。イケメンに対するやっかみも多分にあるのは自覚している。


「そうねぇ……でもたまには良いんじゃないの」


 香織がニッコリと笑顔で手を振った。


「じゃぁね、私が担当だから」


 嬉しそうに歩いて行く香織の後ろで哲也の顔が引き攣るように強張っていく、


「かっ、香織さんも浮かれてる…… 」


 香織が自分から患者の事を話すのは珍しい、浮かれて口が軽くなっているのだと哲也は思った。


「香織さんが担当……あのイケメンの………… 」


 イケメンの室田とイチャつく香織が頭に浮んだ。


「なっ、何とかしないと……あんなヤツに香織さんを………… 」


 焦る哲也の見つめる先で香織が室田に話し掛けていた。


「あんなに楽しそうに……僕に見せる笑みと違うし………… 」


 悔しげに見つめる哲也の前を香織と室田が歩いて行く、その後を女性看護師たちが嬉しそうに追って本館へと入っていった。


「通行人を殴るヤツだぞ、何か欠点があるはずだ。それを見つけて…… 」


 嫉妬した哲也は怪異ではなく、室田の欠点や弱点を探ろうと考えた。普段はどんなに嫌いな患者でも名前で呼ぶ哲也が室田のことはヤツ呼ばわりだ。


「先ずはヤツの詳しい話しを聞かないと……香織さんはダメだ。早坂さんに頼もう」


 あの様子では香織は全面的に室田の味方をするだろう、哲也は早坂に訊くことにした。嶺弥に惚れている早坂なら安心だ。



 夕方、一休みしている早坂を捕まえることが出来た。早く話しを聞きたかったのだが早坂は診察などで午前中から忙しかったのである。


「疲れた顔してるな……今日は担当の患者が診察だから忙しかったんだな」


 どうやって声を掛けようかとナースステーションを窺っていた哲也に気が付いたのか早坂が廊下に出てきた。


「何か用? 東條さんならいないわよ」

「香織さんじゃなくて早坂さんに…… 」

「私? 何の用」


 遠慮がちに訊く哲也の前で早坂が自身を指差して首を傾げた。


「早坂さん、休んでいるところすみません…… 」


 下手に出る哲也を見て早坂が顔を顰める。


「どうしたの? いつもは遠慮無しに来るのに」

「そんな事はないっす。僕だって気を使うっすよ、早坂さん朝から忙しくてやっと休みが取れたところでしょ? だから…… 」


 申し訳なさそうな哲也を見て早坂が相好を崩した。


「なに遠慮してるのよ、哲也さんには須賀さんの事を色々教えて貰ってるんだから話せることなら教えてあげるわよ」


 哲也がパッと顔を明るくする。


「やっぱ早坂さんは優しいっす」

「なっ、何言ってんのよ、それで何が訊きたいの? 」


 頬を赤くして照れる早坂に哲也が用件を切り出す。


「今日入ってきた室田さんのことが知りたくて……措置入院って聞いたけど…… 」

「室田? ああ、あのイケメンね、それなら東條さんに聞いた方がいいんじゃないの? 担当だし」


 哲也の思った通り、早坂は室田のことを軽く流した。早坂もイケメン好きだが今は嶺弥に夢中で他は目に入らない様子だ。


「香織さんはちょっと……怒られそうだし……イケメンだし………… 」


 拗ねるような哲也を見て早坂が声を出して笑い出す。


「あはははっ、焼き餅焼いてんだ。哲也さん可愛いぃ~~ 」

「ちょっ、違いますからね、通行人を殴りつけて措置入院して来たって聞いたから気になっただけですから」


 必死で言い訳する哲也の背を早坂がポンポン叩く、


「はいはい、おねぇさんに任せなさい、哲也さんには須賀さんの事で世話になってるから何でも教えてあげるわよ」

「だから……違いますからね」


 弱り顔の哲也に早坂が室田のことを話してくれた。


 室田仁功むろたじんく27歳、長身で顔も良い、イケメンというヤツだ。小学生の頃からモテて現在でも異性には不自由しない生活をしている。周りからちやほやされて育った所為か堪え性がなく我儘だ。幾人もの女性を取っ替え引っ替えして貢がせて生活していたが、目の端に幽霊が映ると騒いで通行人に殴り掛かって逮捕されてしまう、心神耗弱として罪には問われなかったが代わりに磯山病院へと措置入院させられた。


「まぁ一言で言って女の敵ね」


 話を終えた早坂が付け加えると哲也の様子を伺った。


「女の敵……羨まし……じゃなかった。許せないっす」


 ニヤつく早坂を見て哲也が慌てて話を変える。


「でも患者の事は看護師さんたちも知ってるんですよね? 措置入院してくる患者なら担当でなくとも連絡が入ってくるって香織さんから聞いたことがあるっす」

「知ってるわよ、要注意人物は連絡入ってくるから、室田さんも連絡来てたから今日来てる看護師はみんな知ってるはずよ」


 楽しげにニヤつきながら話す早坂の向かいで哲也が納得いかない様子で口を開く、


「だったら何で……通行人を殴りつける危ないヤツって分かってるのに本館前で騒いでたっす。森崎さんたち…… 」


 香織の後輩に当たる森崎は哲也も馴染みの看護師だ。


「イケメンだからじゃない? 森崎はイケメン好きだから、他も興味本位で見に行ったのよ、アイドル見て騒いでいるのと一緒よ」


 悪戯っぽい口調でこたえる早坂の前で哲也が溜息をつく、


「やっぱイケメンは得だな……でも香織さんまで嬉しそうなのはショックだったな」

「あはははっ、今日の哲也さん本当に可愛いわ」


 声を出して笑いながら早坂が哲也の背をドンッと叩く、


「心配しなくてもいいわよ、遊びみたいなものだから、幾らイケメンでも患者と付き合うなんてみんな考えてないわよ、特に東條さんは患者さんとそんな事をする人じゃないからね、だから安心しなさい」

「うん……やっぱり早坂さんに聞きに来て良かったっす」


 慰めてくれるのが分かって哲也がぎこちない笑顔を作った。


「あはははっ、お姉さんに任せなさい、今日みたいな哲也さんなら何でも教えてあげるわよ、本当に可愛いわぁ」


 焼き餅を焼いて弱気になっている哲也が余程気に入ったのか早坂は始終笑顔だ。


「勘弁してください、ヘコみ捲ってるんすから……それで室田さんの部屋は何処なんですか? 」

「ここよ、A棟の515号だよ」

「A棟か……ありがとう早坂さん」


 室田の部屋番号を聞いてペコッと頭を下げて去ろうとした哲也に早坂が声を掛ける。


「一つ言っておくね、看護師の女子を敵に回すと厄介だから気を付けるのよ」

「了解っす。敵どころか僕じゃ相手にもならないっすよ」


 弱り顔でこたえる哲也を見て早坂は笑いながらナースステーションへと入っていく。

 哲也がとぼとぼと歩き出す。


「患者さんとそういう関係にならないって……だったら僕もダメって事だよな」


 がっくりと落ち込みながら部屋へと戻っていった。



 哲也が夕方の見回りを終えて食堂へと行くと室田がいた。


「何だ彼奴…… 」


 女性患者に両脇を挟まれて室田がペラペラと饒舌に話をしていた。食事は終えた様子で食器の載ったトレーも見当たらない。


「女の敵が…… 」


 ぶつくさ言いながら哲也が食事の載ったトレーをテーブルの上に置いた。室田の様子を窺える席だ。


「あははははっ、室田さんったらぁ~~ 」

「それでどうなったの? 」


 楽しげな会話を聞きながら哲也はガツガツと夕食を?き込んでいく、


「確かにイケメンだけど人を殴って事件を起すヤツだぞ」


 呟くように愚痴った後でお茶を飲もうとコップに口を付けたまま哲也が固まった。


「なんだ? 」


 室田の顔の近く、何かが見えたような気がした。


「手? 腕か? 」


 目を凝らすと腕のようなものがユラユラと見えた。お茶を飲むのも忘れて哲也は凝視した。初めは左右に座る女性患者が手を伸ばしているのかと思ったがどうやら違うようだ。


「幽霊が見えるって騒いで殴ったらしいな」


 ユラユラと揺れる手は半透明だ。幽霊に取り憑かれているというのはどうやら本当らしい。

 楽しげに会話をしていた室田が悲鳴を上げた。


「ふぁっ、ふわぁあぁぁ~~ 」


 仰け反るようにして椅子を引く室田を見て左右にいた女性患者が何事かと辺りを見回す。


「どうしたの室田さん」


 不思議そうに覗き込む女性患者の前で椅子からずり落ちそうに身体を斜めにした室田が震える声を出す。


「てっ、手が…… 」

「手? 手がどうかしたの? 」


 もう1人の女性患者が自分の手と室田の手を比べるように見つめる。


「手が……いや、何でもない」


 騒ぐと不味いと思ったのか室田が平静を装って笑みを作った。

 室田が悲鳴を上げると同時に半透明の手が消えたのを哲也は見ていた。


「もう消えてるよ」


 哲也の呟きが聞こえたのか室田がサッと顔を向けた。


「お前、見えたのか? 」

「御馳走様でしたぁ~~ 」


 哲也はこたえるどころか室田の顔も見ずに口の中のものをお茶で流し込むと席を立った。


「ちょっ、ちょっと待てよ」


 立ち上がろうとした室田の左右から女性患者が腕を引っ張る。


「どこ行くのよ? もう少し話をしようよ」

「そうよ、まだ時間あるじゃない」

「離してくれ、俺は彼奴に用があるんだ」


 引き留める女性患者の手を離そうと室田が身を捩る。


「ちょっ、待ってくれ、オイ! 」


 大きな声で呼ぶが哲也は無視するように食器の載ったトレーを返すと食堂を出て行った。


「早く離してくれ、彼奴に話があるんだ」


 迷惑そうに顔を顰める室田を右にいた女性患者が見つめる。


「哲也くんと知り合いなの? 」

「哲也? 哲也って言うのか」

「うん、中田哲也、警備員だよ」


 古参の患者は哲也が警備員だと思い込んでいる患者だと知っているが室田の左右にいる女性患者は最近入ったのか知らない様子である。


「警備員か…… 」


 追うのを諦めたのか室田が椅子に座り直した。



 食堂を出て外廊下を歩いていた哲也がD棟の向こうに見える警備員控え室のある建物を見て足を止めた。


「嶺弥さん、もう来てるかな? まだ来てないか……一眠りするか」


 愚痴を聞いてもらおうと思ったが嶺弥も迷惑だろうと諦めて部屋へと戻った。

 夜の見回りまで時間があるので仮眠を取ろうとベッドに転がる。


「マジでチャラいヤツだな」


 食堂で左右に女性患者を侍らせていたのを思い出して腹が立ってくる。


「香織さんを彼奴から守らないと……でも、あの手も気になるな……良くないもののような気がするし」


 室田に嫉妬する気もあるがユラユラと揺れていた半透明の腕が気になった。少しの間しか見ていないが悪い気配を感じたのだ。


「目の端に映る幽霊か……話しを聞きに行くかな……聞いてから考えよう、マジで嫌なヤツなら放って置くけどそうじゃないなら力を貸してやろうかな」


 色々考えていたが寝返りを打つとそのまま眠りに落ちていった。



 夜の9時半、見回りに備えてトイレへ行こうと廊下を歩いていた哲也の前に香織が立った。


「哲也くんちょっと」

「えへへっ、トイレ行くんで後にしてください」


 香織の怖い顔を見て哲也が逃げようとする。


「逃げたらもう口も聞いてあげないからね」

「そんなぁ~~ 」


 哲也は走り出そうとした足を止めて従うしかなかった。

 格子の入った窓を開けて外を眺めながら話しをする。


「室田さんにお化けの話をしたって本当? 」


 怖い顔で覗き込む香織の前で哲也がブンブンと首を振った。


「してませんよ、お化けどころか話しもしてませんから、誰に聞いたんです」

「仁功……じゃなかった室田さんが言ってたわよ、警備員の哲也ってどんな奴かって訊かれたのよ」


 開いた窓から手を伸ばして鉄で出来た格子を哲也がガシッと掴んだ。


「仁功ってなんすか! 」


 怒った哲也を見て香織が焦って話し出す。


「えっ? あぁ……えーっと、室田じゃなくて仁功って呼んでくれって言われて…………室田さんって名字で呼んでも返事しないのよね、それで名前の仁功さんって呼んでたのよ」


 香織が焦るのは珍しい、だが今の哲也にはそれに構う余裕も無い、


「名字じゃなくて名前って……馴れ馴れしいっす。今日入ったばかりのくせに……香織さんも香織さんっす。厳しく叱ってやればいいっすよ」


 哲也が焼き餅を焼いているのに気付いたのか香織の表情が緩んだ。


「なに怒ってるのよ、哲也くんだって名字の中田じゃなくて名前の哲也で呼ばれてるじゃないの」

「僕のは先生や他の患者に中田って名字が居るから哲也って呼んでもらってるだけです。チャラい室田と一緒にしないで欲しいっす」


 ムスッとする哲也の横で香織が笑いながら続ける。


「はいはい、わかったわよ、その代わり室田さんに変な事を話すのはダメだからね、哲也くんのことあれこれ訊かれて大変だったのよ、おまけに口説かれるし…… 」


 哲也の顔色がサッと変わった。香織と室田が親しげに話している様子が頭に浮ぶ、


「なっ! 口説いた……何処で? 彼奴と何を話したんですか? 」

「何処でって室田さんの部屋よ、担当だから」

「二人っきりで……香織さんと彼奴が…………ダメっすよ、そんなのダメだから……彼奴は……彼奴は悪い奴っすよ」


 哲也は焦りまくって自分でも何を言っているのか分かっていない。


「何考えてんのよ! 個室だから当り前でしょ」


 弱り顔で叱る香織から哲也が数歩後退る。


「香織さんは彼奴の味方なんすね、もしかしてもう既に奴の毒牙に……イケメンなんてみんな敵っす」


 捨て台詞を残すようにして哲也は走って男子トイレに入っていった。


「ちょっ、待ちなさい……私は変な事なんてしてないからね」


 流石に男子トイレの中までは追う気は無いのか香織がくるっと回って引き返す。


「困った子……今の私が興味あるのは哲也くんだけなんだけどな」


 嬉しそうに口元を綻ばせると香織は階段を下りていった。



 深夜3時の見回り、哲也はA棟の最上階へと上がるといつものように下りながら各階を見て回る。自分の部屋があるA棟だ。用事がなくても歩き回って患者たちも全て顔馴染みなので一番気楽に見て回れる。


「異常無しっと……くそぅ、あのチャラ男、香織さんに何かしたら承知しないからな」


 愚痴りながら階段を下りていく、


「誰だ? 」


 5階に出た哲也が長い廊下の先を歩く人影に気付いた。


「患者さんか」


 幽霊かと身構えながら近付いていくと見慣れた服装だったので足を速めた。


「誰ですか? 夜中に歩き回るのは禁止ですよ」


 近付きながら声を掛けると男が振り返った。


「すいません、トイレです」


 聞き覚えのある声に哲也の顔が曇る。室田だ。


「あっ、昼間の…… 」


 室田も哲也に気付いた様子で直ぐ近くまで駆け寄ってきた。


「昼間の警備員さんですよね? 何で逃げたんです? 俺が呼んでるの聞こえてたでしょ、何で無視するんですか? 」


 顰めっ面の室田の前で哲也が少し考えてから口を開く、


「昼間? ああ、食堂にいた」


 とぼける哲也の向かいで室田が声を荒げる。


「ああ、じゃない、俺を無視したよな」

「何の事です? 無視なんてしてませんよ」


 首を傾げる哲也を睨んでムッと怒った顔で室田が続ける。


「だったら何でこたえなかったんだよ、大声で呼んだだろ」

「大声? そうだったんですか? すみません、仕事のことを考えてぼうっとしていましたから……警備員って結構忙しいんですよね」


 哲也はあくまでとぼけ通すつもりだ。


「ぼうっとしてたぁ~ 」


 室田は声を荒げるが直ぐに怒りを堪えるように低い声になる。


「まぁいい、それよりもお前、見えてたよな」

「見えてた? 何をですか? 」


 これ以上やったら殴られるかも知れないと思いながらも哲也はとぼけた。


「とぼけるな! 幽霊だよ」


 怒鳴る室田を哲也が正面から見据える。


「幽霊ですか……幽霊かどうか分かりませんけど手は見えましたよ」


 真面目な表情で話す哲也を見て室田の顔に安堵が広がっていく、


「やっぱり見えてたんだな……幻覚じゃなかったんだ。やっぱりあれは幽霊だったんだ」


 室田が哲也の肩をガシッと掴んだ。


「頼む、先生たちに説明してくれ、幻覚なんかじゃなくて幽霊だって……お祓いして幽霊を追っ払うように頼んでくれ」


 哲也が身を捩るようにして肩を掴む室田の手を引き離す。


「ちょっ、待ってくださいよ、僕がそんな事言っても信じて貰えませんよ、只の警備員なんですからね」


 弱り顔の哲也の前で室田が切羽詰まった様子で下手に出て頼み込む、


「でも見えたんだろ? 恵実の幽霊を見たヤツはお前しかいないんだよ、頼むよ」

「恵実? 誰です? 」

「幽霊だよ、お前が見た手の幽霊だ」

「その恵実さんが何で室田さんに取り憑いているんですか? 」


 見つめる哲也から室田がすっと目を逸らした。


「それは……俺を恨んで……金を返せって、そんな事言われても俺が知るかよ」


 やましいことがあるのか室田が直ぐに話を変える。


「そんな事はどうでもいいんだ。幽霊が見えたのはあんただけだ。俺を助けてくれよ」

「助けてくれって言われても……僕は只の警備員だし」


 迷う哲也の腕を掴んで室田が頼む、


「とにかく話しだけでも聞いてくれ」


 室田の方から話しをすると言ってきたのを聞いて哲也は内心喜んだ。


「そうですね、話しを聞くくらいなら…… 」

「頼む、今から俺の部屋に来てくれ」


 腕を引いて歩き出そうとした室田の手を哲也が振り払った。


「今はダメですよ、見回りの途中ですから、仕事さぼったら怒られますから」

「じゃあ、いつならいい? 」


 ムッとする室田の前で少し考えてから哲也がこたえる。


「そうですね、明日の昼過ぎにでも室田さんの部屋に行きますよ」

「わかった昼過ぎだな」

「はい、昼食を食べた後、1時過ぎくらいに行きますよ」


 室田の脇を通って哲也が階段へと歩いて行く、


「そうそう、昼間の事ですけど仮にあの場でこたえても話しはできませんよ、僕は警備員の仕事があるし、他の患者さんたちもいましたからね、食堂で幽霊が見えたなんて話したら怒られますから」


 階段の手前で振り返った哲也を見て室田の顔に怒りが浮ぶ、


「なっ、やっぱり無視したんじゃないか、てめぇ! 」


 今にも殴り掛かってきそうなくらいに怒った顔を見て哲也が笑いを堪えながら続ける。


「下手にこたえるより良いって思っただけです。室田さんのためですよ、幽霊なんて騒いだら隔離病棟に送られても文句言えないんですからね」


 隔離病棟と聞いて室田の顔に焦りが浮んだ。


「かっ、隔離か……まぁいい、無視したことは許してやる。その代わり明日は絶対に来いよ、幽霊をどうするか一緒に考えるんだからな」

「わかりました。お菓子でも持って行きますよ、じゃあ僕は見回りの途中ですから」


 調子の良いことばかり言う室田にうんざりしながらも怪異の話しは聞きたいので哲也は愛想良くこたえると階段を下りていった。



 翌日の昼過ぎ、香織に見つからないように気を付けながら哲也は売店で買ったお菓子とジュースを持って室田の部屋を訪ねた。いつもなら池田先生に貰ったお菓子も持って行くのだが今回は安い菓子だけだ。


「警備員さん待ってたよ」


 にこやかに迎える室田に嫌なものを感じたが帰るわけにも行かずに哲也は部屋へと入っていった。


「まぁ座ってくれ」


 室田に促されて哲也はテーブル脇の折り畳み椅子に腰掛けた。


「これお菓子とジュースです」


 自分の分の缶コーヒーを抜くと菓子と缶コーヒーの入った袋を室田に差し出した。


「悪いな……遠慮なく貰っとくぜ」


 話しを聞きながら食べるつもりだったのだが室田にはその気は無い様子だ。袋ごとベッドに置くと哲也の向かいに腰掛けた。


「警備員さんは見えたんだよな、それでどんな風に見えたんだ? 」


 室田が哲也の顔を覗き込んだ。少し疑っている顔だ。本当に幽霊を見たのか、一晩経って冷静に考えていたらしい。


「どんな風って、室田さんの顔の傍で半透明の手がゆらゆら揺れてましたよ」


 哲也は自身の顔の横に手を持っていくとヒラヒラさせてジェスチャーしながらこたえた。


「おお……マジだ。マジで見えてたんだな」


 室田が嬉しそうに身を乗り出した。


「それで相談なんだがお祓いをして幽霊を追い払いたいんだが、手を貸してくれないか? 警備員さんだけが頼りなんだ」


 縋るように頼まれて哲也が顔を顰める。


「頼られても僕1人の判断じゃ何も出来ませんよ、ここじゃ先生の許可無しでは何も出来ないですからね」

「それはわかってる。そこをどうにかして頼んでるんじゃないか」


 何もわかっていない様子の室田にこれ以上言っても無駄だと思いながら哲也が口を開く、


「話しを聞かないことには……僕に何か出来る事があれば手を貸しますけど………… 」

「そっ、そうだな、手を貸してくれるなら全部話すよ」


 椅子に座り直すと室田が話を始めた。

 これは室田仁功むろたじんくさんが教えてくれた話しだ。



 地方都市の繁華街に近いマンションに室田は住んでいた。少し古いマンションだが部屋は2DKで地方といっても家賃は8万円もする。同じ築年数のワンルームが3万ほどで借りられるのだ。定職に就いていない独身の室田には少し贅沢な物件である。

 ワンルームではなく2DKにしているのは目的があった。ナンパした女を連れ込むためだ。室田はイケメンなのを最大限に活かしてナンパした女に貢がせて生活していた。マンションの家賃も食費も遊ぶ金も全て女に払わせていた。俗に言う「ひも」である。


 数回デートを重ねて肉体関係を持ち親しくなってから女を自宅へと招く、マンションへ初めて女を入れると一人暮らしなのに2DKは贅沢だと言われることがある。その度に室田はこう言う『君と結婚して夫婦になる予行演習だよ』これが決め台詞だ。

 イケメンの室田に結婚という話を持ち出されて浮かれない女はいない、そういう女しか相手にしていないのが室田だ。

 化粧品に着替え、その他諸々、女は男より荷物が多くなる。ワンルームだと荷物で溢れてしまう、それで室田は2DKにしているのだ。一つは女の部屋という事にしてある。喩え同棲しなくても自分の荷物を置いてあるだけで女は安心して金を払うのだ。


 女の方から言い寄ってくるほどのイケメンだ。室田はそれを最大限に活かして生活してきた。中学生の頃から今まで付き合って来た女は100人を越える。大学を中退して一人暮らしを始めてからは女に貢がせて金が取れなくなると次の女というように取っ替え引っ替えして生きてきた。室田はそれを少しも悪いと思っていない、騙される方が悪いのだ。女も楽しんだからいいだろう、そう考えていた。



 4月になり、室田は新しい女を物色していた。前の女は地味な事務職員だった。金を貢がせ貯金が無くなり借金までさせてから捨てたのだ。初めから金目的なのだから当然だと泣いて縋り付く女に情の一片も掛けずに捨てた。金の切れ目が縁の切れ目、これが室田の口癖だ。


「いるいる、田舎者丸出しのバカ女が」


 時刻は夕方、繁華街の通り、待ち合わせ場所にも使われる広場にあるベンチに腰掛けて室田が呟いた。目の前の通りを新卒らしき者たちがグループ、あるいは単独で歩いて行く、新卒が進学や就職して都会に出てくる4月は獲物を狙う室田にとっては絶好の機会だ。


「あれはダメだな、上から下まで安物だ」


 前を通る女をグループ、単独、関係無しに物色していく、


「おっ、あれは良さそうだ。良い服着てるぜ」


 これから飲み会でもするのかグループで歩く社会人らしき女に目を付けた。


 室田が狙う女には二通りある。地味な女と派手な女だ。

 地味な女の中で内向的なタイプを狙う、異性と殆ど付き合ったことがなく、殻に閉じこもるようなタイプは一旦信用させると簡単に落とす事が出来る。その殻を破るのも何十人もの女と付き合って来た室田にとっては簡単なことだ。自分のような女でもイケメンの室田を彼氏に出来た。結婚までしてくれると言っている。そう思わせると後は言うがままにできた。

 派手な女は自尊心が強く人と競い合う、持ち物はもちろん付き合っている彼氏でも比べようとする。バッグやアクセサリーなどは金さえ出せばどうとでもなる。だがイケメンの彼氏は金でどうにかなるものではない、大金持ちなら金の力で侍らせることが出来るかもしれないが遣り繰りしてブランド品を買っているような女には無理である。室田が狙うのはそんな女だ。その中で容姿に自信の無い女がターゲットとなる。友人知人に見せびらかせて自慢の出来るイケメンの彼氏に捨てられないように貢いでくれるようになる。

 もちろん両方とも金を持っているかどうかが一番重要だ。貢がせることが出来ないとわかるとさっさと別れてしまう、金以外の女そのものはセックスをするだけのおまけ程度としか考えていないのが室田である。


「よしっ、行くか」


 狙いを付けた女に話し掛けようと立ち上がろうとした室田がその場に固まる。


「またかよ…… 」


 鬱陶しそうに言いながら目を擦った。

 最近目の調子が悪い、目の端にチラチラと光や影が見えるのだ。疲れているのか飛蚊症かとさして気にせず生活していた。


「ちらちらして鬱陶しい」


 1分ほど目を擦っていた室田が顔を上げる。


「あれっ? どこ行ったんだ? くそっ! 」


 狙いを付けていた女がいなくなっていた。女のいたグループが歩いていた方を見るが既にグループごと消えていた。


「ったく…… 」


 次の獲物を探そうと座り直した室田に女が声を掛けてきた。


「あのぅ、お一人ですか? 」


 友人同士らしい2人連れの女だ。まだ若いが派手な化粧だ。背伸びした高校生に見える。


「よかったら私たちとお茶でもしませんか? 」


 もう片方の女が頬を赤く染めながら室田を窺う、逆ナンだ。イケメンの室田は慣れっこである。


「ごめんねぇ、仕事で待ち合わせしてるんだ。仕事じゃなかったら喜んでお茶するんだけど……ほんと御免ね」


 2人の容姿をサッと見てから室田が笑顔でこたえた。


「仕事じゃ仕方ないですよね」

「それじゃあ、今度遊びませんか? よかったら連絡先教えてください」


 女がスマホを見せてニッと笑った。


「おじさんじゃなくて、もっと若い子と遊びなよ」


 軽く流そうとした室田の前で女が2人揃って身を乗り出す。


「何言ってんですか、おじさんなんてとんでもないお兄さん格好良いですよ」

「そうですよ、名前なんて言うんですか? 」

「まいったなぁ~、名前か……おじさんじゃダメかな」


 爽やかに笑って誤魔化そうとするが女は引かない。


「ダメですよ、教えてください」

「そうですよ、連絡先も教えてください」


 若いから無謀なのか、単に肉食系なのか、2人は遠慮がない。


「仕方ないな……俺は若林………… 」


 嘘の名前を言いながら室田が左を向いて軽く手を上げた。


「あっ、新田さん」


 通りの左を見て呼びながら室田が立ち上がる。知り合いなどいない、女たちから逃げるための演技だ。


「ごめんね、取引先の人が来たから…… 」


 歩き出す室田の腕を女が掴んだ。


「連絡先だけでも」

「ほんと、御免ね」


 女の手を振り払うと室田が早足で去って行く、


「若林さん」


 後ろで若い2人組の女の声が聞こえた。


「新田さん、御久し振りです」


 室田は態と聞こえるように声を出しながら行き交う人混みへと入っていった。


「ガキには興味無いんだよ、交尾したきゃ金持って来い」


 悪態をつきながら細い路地を歩いて行く、何処で誰が見ているのか知れない、人通りのある場所で女に酷いことを言ったり振ったりはしない、女に対して真摯に見えるように気を使っているのだ。


「暫くあの場所はダメだな、南の通りに行くか」


 室田がナンパに使っている場所は幾つもあるのだ。



 先程いた広場から直線距離で400メートルほど離れた南の通りにやってきた。


「ふぅ、疲れた……アラサーだからな、ここらで良い金蔓でも見つけなきゃな」


 大通りの歩道に立つ自販機でコーラを買うと脇のガードレールに腰掛けるようにして飲み始める。直線距離で400メートルだ実際は500メートル以上歩いて汗だくだ。


「おっ、中々だな」


 通りを歩く女3人グループの1人に目を付けた。

 ゴクゴクとコーラを飲み干すと室田が腰を上げる。


「なん! 」


 室田が鬱陶しそうに顔の右側を払うように手を振った。


「またかよ…… 」


 直ぐに目を擦る。目の端に何かがチラチラと見えたのだ。顔の直ぐ右で黒い影が動いているように思った。


「何度も鬱陶しい」


 愚痴りながら顔を上げると狙っていた女はいなくなっていた。


「くそっ! 今日はもう止めだ」


 歩いて汗をかいたこともあって室田は諦めて帰る事にした。

 前の女から巻き上げた金はまだあるのだ焦る必要などない、イケメンだと自覚していて女など幾らでも捕まえることが出来ると思っている。その自信と余裕が室田の雰囲気を良くしてイケメンを更に引き立てていた。


「病院でも行くか……女の医者とか引っ掛けるのもありだな」


 何度も目を擦りながら室田はマンションへと帰っていった。



 5月のある日、次の獲物を探していた室田は大学生の恵実めぐみをナンパする。地味な女だったが着ている服や持っている小物が良い物ばかりだ。室田は経験から直ぐに分かった。親が金持ちだと。

 室田の読みが当たった。恵実の親は大地主だ。大学へ進学して田舎から出てきた地味な女が恵実だ。

 数回デートをして肉体関係を持つ、恵実は処女だった。女子高から女子大へと進学して男と付き合う機会など無かったと言っているが美人でもなくスタイルが良いわけでもない地味な女の恵実など金目当てでなければ付き合わないとさえ室田は思っていた。


 男性経験も無くお嬢様育ちの恵実は室田にとってはボーナスステージのようなもので簡単に籠絡できた。なんやかんや言っては金を出させた。イケメンの室田に嫌われたくないのか恵実も素直に金を出した。

 室田も細かい気遣いを忘れない、女子大へ迎えに行って恵実の友人たちに恋人だと挨拶する。イケメンの彼氏を友人に見せ付けることが出来て恵実のプライドが満たされていく、これで益々室田とは別れることが出来なくなる。室田はそれを狙っていたのだ。

 恵実は地味だが自尊心の強い女だった。室田は次第に面倒になってくる。もともと好きで付き合っているのではない、ハッキリ言って全く好みではない、初めから金目当てだ。付き合っているうちに地味と言うより陰気だと思うようになっていた。


 半年ほど付き合っていたある日、恵実がこれ以上金は出せないと言い出した。何でも親が訝しんで室田に貢いでいるのがバレそうなのだという、室田は何だかんだと金を出させようとすると恵実は結婚してくれと迫ってきた。結婚するなら生活費は全部出すと迫ってきた。だが金のためとはいえ好みでもない女と結婚など出来るわけもない、室田はここらが引き際だと思った。半年間で恵実から引き出した金は300万を超える。200万は生活費と遊びで消えたがまだ100万ほど残っていた、これで暫くはやっていける。次の獲物を見つけるまでは充分だ。



 恵実に別れ話を持ち出すと今まで払った金を返せと言ってきた。室田には返す金はもちろん初めから返す気などはない。


「お前も楽しんだだろ? 部屋も食い物も、遊びも全部一緒に金を使っただろ、だからチャラだ。半年も付き合って良い思いをさせてやっただろが」

「何言ってんのよ、良い思いをしたのは仁功じゃない、私のお金を使って遊び回ってたじゃない」


 マンションの部屋で言い争いになる。付き合い始めた頃はおとなしく控え目だと思っていたが恵実はお嬢様育ちだったらしくプライド高く我儘だった。


「だからお前も楽しませてやっただろ、だからチャラだって言ってんだ」

「何がチャラよ! 別れるって言うなら返しなさいよ」


 一歩も引かない恵実に室田も手を焼いていた。


「返す金なんてねぇよ、全部使っただろ、そもそもお前がもう金は出さないって言うから別れることにしたんじゃないか」


 語気を緩めた室田に恵実が寄り掛かる。


「ねぇ、私の言う通りにしようよ、そしたら返せなんて言わないから、パパは土地とかマンションとかいっぱい持っているのよ、その家賃だけで遊んで暮らせるわよ、だから……ねぇ、私と結婚しようよ」

「結婚などするかよ! 」


 乱暴に引き離す室田を恵実が睨み付ける。


「じゃあ、返しなさいよ!! 」

「うるせぇ! このブスが! 」


 暴言を吐く室田に恵実が掴み掛かる。


「なっ……何言ってんのよ、金も返さないくせに、責任取りなさいよ」

「触るんじゃねぇ! 」


 室田が恵実を殴りつけた。


「痛い……なっ、何をするの」

「うるせぇ! クソが!! 」


 室田は恵実の髪の毛を掴んで引き摺るようにして玄関へと向かう、


「痛っ、痛い、止めてよ、痛いって言ってるでしょ」

「さっさと帰れ! 二度と来るな」


 ドアを開けて恵実を外に放り出した。


「何するのよ! こんな事して只で済むと思ってんの? 後悔しても知らないわよ、わかってんの? さっさと金返しなさいよ………… 」


 暫く玄関先で騒いでいたがそのうちに静かになった。


「帰ったか……クソ女が…… 」


 玄関で様子を伺っていた室田が部屋へと戻る。


「楽勝かと思ったら外れだな……とんだ地雷女だ」


 読みが外れて自嘲しながら缶ビールを呷った。



 翌日も恵実はやってきた。いつの間にか合い鍵を作っていたらしく室田が外で遊んで夜に帰ると部屋の中で待っていた。


「おっ、お前……何やってんだよ」


 驚く室田を見て恵実がニッと笑った。


「ねぇ、昨日はごめんなさい、もう一度話し合いましょう」

「はっ、話す事なんてない、さっさと出て行ってくれ」


 ソファに座る恵実に出て行けと玄関を指差す。


「何言ってんの? この部屋の家賃も私が渡したお金で払ってるんじゃない」

「はぁ? そんなもん関係あるかよ」


 ソファに座ったままで嘲るように言う恵実の向かいで室田が声を荒げた。


「いいから出て行け、勝手に入ってくるな、合い鍵置いてさっさと出て行け」


 腕を掴んで立たせようとする室田を恵実が睨み付ける。


「出て行け? 何言ってんの、私がいないと何にも出来ないくせに…… 」


 何も出来ないと言われて室田が顔を真っ赤にして怒り出す。


「なんだとぉ~、このブスが! いい気になってんじゃねぇ」

「なっ、何言ってんのよ、あなたこそいい気になってるじゃない、私のお金がなきゃ何も出来ないニートのくせに」


 売り言葉に買い言葉、言い返した恵実の向かいで室田の表情が変わった。


「クソがっ!! 」


 ニートと言われて室田がキレる。


「陰気のクソブスが! 」


 室田が恵実に殴り掛かった。


「きゃぁ~~ 」


 悲鳴を上げる恵実を何度も殴りつけた。


「痛っ、痛い、止めて……痛い、止めてよ」

「てめぇみたいなブスを相手にしてやっただけありがたいと思え」


 床に丸まって動かなくなった恵実の髪を掴んで引き摺っていく、


「止めて……痛いって……ごめんなさい………… 」

「うるせぇ! 二度と来んなクソ女が!! 」


 玄関から外へと恵実を放り出した。


「何でよ……好きって言ったじゃない……結婚してくれるって約束したじゃない」


 暫く玄関先で騒いでいたが隣の住人が何事かと出てくると恵実は泣きながら帰っていった。



 3日ほどしてまた恵実がやってきた。室田は喧嘩して直ぐに追い出すが更に2日ほどするとまたやって来る。女子大へは通っているらしく、その合間合間にやって来ているらしい、室田はその度に罵声を浴びせて殴りつけて追い払った。


「幾つ合い鍵持ってんだ…… 」


 賃貸物件なので勝手に鍵を替えることも出来ない、管理会社に話せば替えられないこともないが事情を話すのも嫌なので仕方なく放って置いた。


「あの手でいくか」


 翌日、室田は繁華街へとナンパをしに行った。



 3日ほどして恵実がやってきた。


「仁功ぅ……ねぇ、やり直そう、私と結婚すれば遊んで暮らせるんだよ」


 猫撫で声を出して部屋に入ってきた恵実がその場で固まった。


「なっ、なによ、その女…… 」


 奥の部屋で室田が若い女と抱き合っていた。


「何って彼女だ。俺が愛してるのは涼子だけだ」

「あぁん、仁功さんったらぁ~~ 」


 室田の胸に頬を付けて涼子が嬌声を上げる。美人でスタイルも良い、陰気な恵実とは正反対な可愛い女が涼子だ。


「なっ、なっ、なにが彼女よ、違うでしょ、仁功の彼女は私でしょ、仁功は私と結婚するんでしょ」


 抱き合う室田と涼子の前にドカドカと恵実がやってくる。


「離れなさいよ、仁功は私のよ、私のものなのよ」


 目を剥いて睨み付ける恵実を見上げて涼子がバカにしたように笑う、


「はぁ? 何言ってんの、あんたみたいなブスが仁功さんの彼女のわけないじゃない」


 室田が涼子の額にキスをしてから恵実を見る。


「だろ? このブス、少し優しくしたら勘違いしてさ、困ってたんだよな」

「きゃはははっ、そりゃ勘違いするわ、仁功さんみたいなイケメンに優しくされたらブスなんてコロッといっちゃうわ」


 目の前でじゃれる2人を見て恵実の顔が引き攣っていく、それに構わず室田が涼子の顎に手を掛けて引き寄せた。


「俺も困ってるんだ。結婚しろなんてバカ言い出してさ、俺が好きなのは涼子だけなのにさ」


 恵実に見せ付けるように室田が涼子とキスをする。


「あぁん、仁功さんったらぁ」


 涼子が甘えながら更に室田の口に吸い付くようにキスを返す。


「なっ…… 」


 目の前でキスを見せ付けられて恵実がキレた。


「私の……私の仁功から離れろ! 何が仁功さんだ。仁功は私のだ。私と結婚するんだ」


 涼子に掴み掛かろうとする恵実を仁功が蹴り倒した。


「誰がお前のだ? ブスが寝言言ってんじゃねぇ」


 室田は立ち上がると床に倒れた恵実をボコボコに殴りつけていく、


「やめっ、止めてぇ~~、痛い、痛いぃ………… 」


 蹲って悲鳴を上げる恵実に容赦なく殴りつける室田を涼子が止める。


「ちょっ、やり過ぎよ仁功さん、もういいわよ」


 後ろから抱き付くようにして止められて室田は正気を取り戻す。


「クソブスが! 」


 恵実の腕を引っ張って玄関から外へと放り出した。


「二度と来るな、俺の彼女は涼子だけだ。お前みたいなブスじゃない、わかったか陰気なブス女が! 」


 暴言を吐いてドアを閉めると態と聞こえるように涼子とイチャつき始めた。


「何で……私の事が好きって言ったじゃない…………何でよ、何で………… 」


 それから恵実はやってこなくなった。

 室田は諦めたと安心してナンパ生活に戻った。



 3日ほどして室田はナンパをしに繁華街へと出た。涼子とは直ぐに別れた。しつこく言い寄る恵実から逃れるために使っただけだ。金目当てではなく美人を選んでイチャついている所を恵実に見せ付けて諦めさせたのだ。


「面倒は片付いたし、ゆっくりとやりますか」


 繁華街の大通り、車が通れるほどの大きな歩道の端に並べられている花壇の縁に腰掛けながら室田が獲物を物色する。


「おっ、中々だな」


 買い物をしに来たらしい30前くらいの女に目を付けた。身なりは整っている。さりげなくブランドものを身に着けていた。


「探ってみるか」


 金を持っているか探りを入れようと腰を上げた時、目の端にチラチラと赤っぽいものが映る。


「なんだ? 」


 サッと横を見るが何もない、直ぐ近くで何かが揺れるように見えたのだ。


「またかよ…… 」


 室田が目を擦る。目の端に映るものが頻繁になっていた。赤っぽいものや黒いもの、灰色のものなど様々だがぼやけていて何かはハッキリとしない、光の加減か何か動いたものを目の端が捕らえたのだろうと室田も気にしないでいた。


「あれ? どこ行った? 」


 目の具合がおかしいのだと暫く擦ってから顔を上げると狙っていた女は居なくなっていた。


「なんだよ、クソが…… 」


 愚痴りながら座り直すと次の獲物を探し始める。


「次は派手なバカを狙うか、執念深いのは御免だからな」


 恵実のことを思い出して室田が顔を顰める。


「おっと、いかんいかん」


 両手で挟むように頬を叩くと爽やかな笑みを作る。如何に格好良く見えるか鏡の前で何度も練習した笑みだ。


「あれにするか……小銭くらいは持ってるだろう」


 通りの向こうを歩く三人組の女に目を付ける。


「さてと…… 」


 立ち上がると室田はスマホを出した。スマホを操作している振りをして態とぶつかって話す切っ掛けにするのだ。女が倒れそうになるくらいの強さでぶつかる。当然女は怒るだろう、そこをイケメンの室田が謝りながらお詫びにお茶か食事でも奢ると持ちかける。目的もなく遊びに来ている女なら高確率で誘いに乗ってくる。室田がよく使う手の一つである。


「はい? 」


 立ち上がって直ぐ、室田が振り返った。目の端に手のようなものが見えたのだ。誰かが肩でも叩こうとしたのかと横や後ろを見るが何も無い、そもそも大きな歩道の端に並んである花壇の縁に腰を掛けていたのだ。室田の後ろにはガードレールがあってその向こうには車が走っている。車道に出るか花壇の上に乗るなら分かるがそれ以外で後ろに人が立つスペースなど無いのだ。


「またかよ…… 」


 目を軽く擦りながら室田が続ける。


「手に見えたぞ、気持悪い……一度医者に行くかな」


 目の端に見えたものを思い出す。半年ほど前は外に出たときに少し見えるくらいだった。光の加減か何かだと思っていたのだがここ数日は外だけでなく部屋の中でも頻繁に見えるようになっていた。


「そんな事より女だ」


 慌ててナンパしようとした三人組を探すが何処にも見えない。


「くそっ、やっぱ医者行くか…… 」

「あのぅ、お暇ですか? 」


 愚痴る室田の横から女が声を掛けてきた。


「よかったら私たちと一緒に遊びませんか? 」


 高校か専門学校の学生のような四人組の女だ。


「ごめんね、今から仕事なんだ」


 爽やかな笑みを見せて室田が断った。


「えぇ~~っ、そうなんですかぁ~~ 」

「だって座ってたじゃないですかぁ~~ 」


 ナンパしようとしていた室田を逆ナンしようと何処かで様子を窺っていたようだ。


「ごめんね、少し休んでただけだよ、早く戻らないと部長に叱られるから」


 微笑みながら室田はその場を後にした。


「ったく、金のねぇガキに用は無いんだよ」


 愚痴りながら歩いていた室田が仰け反るようにして短く叫んだ。


「おわっ! 」


 顔の左、目の端に顔のようなものが見えた。


「だっ、誰だ!! 」


 上擦った声を出して振り向くが何もいない。


「女だ……女が………… 」


 一瞬だが確かに大きな顔が見えた。目の端だったのでハッキリとは見えなかったが髪の毛の多さや輪郭から女だと思った。


「誰が…… 」


 焦りを浮かべて辺りを見回すが直ぐ近くには誰も居ない、脅かした後に逃げたのかとも思ったがその様な素振りを見せる者もいなかった。

 通りを歩く人々が怪訝な表情で見ているのに気付いて室田が慌てて歩き出す。


「やっぱ医者行こう」


 目の病気だと思った室田はその足で眼科へと向かった。



 夕方、眼科から室田が出てきた。


「肩凝ったなぁ……今日はもう帰るか」


 伸びをすると室田はマンションへと向かって歩き出す。予約も無しで1時間ほど待つことになったが医者に何も異常は無いと言われて一安心だ。


「恵実に貰った金はあるし、ゆっくりやるさ」


 手元にはまだ60万ほど残っている。焦る必要はないと室田は呑気に帰っていった。



 5日経った。大通りでナンパしていた室田が愚痴をこぼす。


「まただ……クソがっ! 」


 声を掛けようと歩き出した時に目の端にチラチラと黒っぽいものが見えて気になっている内に獲物を見失ってしまった。


「クソっ……病気じゃないのに何だってんだ」


 室田は苛ついていた。恵実と別れてから11日経っている。普段なら次の獲物を捕まえていてもおかしくないのだ。それなのに獲物どころかナンパの声すら掛けていない。


「あのぅ…… 」


 2人組の女が声を掛けてきた。逆ナンだ。


「あぁん、何か用か? 」

「あっ、ごめんなさい」


 室田が睨むと女たちは逃げるようにして歩いて行った。


「おいっ……やっちまった」


 室田が自分の頬を両手で挟んでパンッと叩いた。険しい顔を見て女たちが逃げ出したのに気付いたのだ。


「落ち着け、こんなんじゃナンパなんて無理だぞ」


 呟くといつもの爽やか笑みを作る。


「取り敢えず誰でもいいから捕まえるか」


 マンションの家賃を払って持ち金が30万ほどになっていた。長く金を引き出せる女は後回しにしてその場を凌げる適当な女を探すことにした。


「あれにするか、働いているみたいだから100万くらいはどうにかなるだろう」


 社会人らしい女に目を付けて室田が歩き出す。


「くさっ……なんだこの匂いは」


 何かが腐ったような匂いがして辺りを見回す。


「おわっ! 」


 身体を捻るようにして短い悲鳴を上げた。目の端に顔が見えた。前に見た女の顔に似ていると思ったが輪郭がぼやけていてハッキリとはわからない。


「だっ、誰だ…… 」


 辺りを見回すが直ぐ近くには誰も居ない、周りを行き交う人々は2メートル以上間隔を開けていた。目の端に映った顔は20センチも離れていないようなアップに見えた。


「見間違えか……匂いは? 」


 いつもの見間違えだと思ったが匂いが気になった。


「臭いものなんて食ってないぞ」


 自身の口が匂うのかと掌を当てて息を匂ってみるが別に臭くはない。


「気の所為か…… 」


 目の端に見えるのも一瞬だが匂いも一瞬だった。

 室田はナンパを再開するが旨く行かない、声を掛けようとすると目の端にチラチラと何かが映って邪魔される。無視して声を掛けようとすると腐ったような匂いがして戸惑っている内に女を見失った。


「くそっ、今日は止めだ」


 コンビニで酒を買ってマンションへと帰った。



 3日経った。同じような事が繰り返し起こる。目の端に映るものと腐ったような匂いで室田は苛つき、ナンパも旨く行かなくなって金も底をついてくる。


「何だってんだ! 」


 恵実と別れてから今日で14日目だ。次の女を捕まえることが出来ずに苛ついた室田は部屋でヤケ酒を飲んでいた。


「チラチラ見えるのもアレだが匂いもアレだな……加齢臭じゃないだろうな、服が匂ってるって事もあるぞ」


 目の端に映るものも気になるがそれ以上に何かが腐ったような匂いが気になった。


「シャワー浴びて服は全部洗濯に出すか」


 ナンパに使っている服を数着鞄に入れると酔い醒ましにとシャワーを浴びる。


「そろそろ誰か捕まえないと金がヤバいぞ」


 愚痴りながら洗髪していると目の端に黒い何かが見える。同時にバサッと肩に何かが掛かったような気がした。


「またかよ」


 バッと振り返るが何もない、いつもの見間違えかと洗髪を再開する。

 暫くしてまた目の端に黒いものが見えた。おまけに何かが腐ったような匂いもする。


「目の病気じゃなきゃ何なんだよ」


 振り向くが何もいない、室田は泡立てていた頭に載せていた手を止めた。


「髪だ……髪の毛だ」


 目の端に映っていた黒いもの、髪の毛の束だと何となく思った。


「手と顔と髪の毛か……どうなってんだ」


 今までに見えていたものを思い出しながら泡の付いた頭をシャワーで流す。続けて身体を洗っていると目の端に見えた。髪の毛の束だ。意識した所為かハッキリと分かった。


「俺のじゃないよな? 」


 自分の髪がちらっと見えているのかとも思ったが違った。自分の髪の毛はそれ程長くは無い、肩の向こうにあるように見えたのだ。


「何か知らんがもう一度医者に行ってみるか……デカいところでしっかり調べて貰おう」


 何かが髪の毛のように見えたのだと気にしないで風呂場から出る。


「またかよ、今日はよく見えるな」


 身体を拭いているとまたちらっと見えた。腐ったような臭い匂いもした。今度は赤いものだ。手のように思えた。


「酔っ払うとよく見えるようになるのかな」


 振り返るが何もいない、背中を拭いているとまたちらっと見えた。


「まったく……クソがっ」


 室田は気にしないで足を拭こうとしゃがんだ。その時何気なく見た洗面台の鏡に女が映っていた。


「くわぁぁ! 」


 仰け反るようにして驚いた室田が頭を壁にぶつけてその場に蹲る。


「痛てて……なっ、何が………… 」


 恐る恐る顔を上げて確認すると鏡には何も映っていない、


「なっ……見間違いか、ははっ、酔ってたからな」


 酔っ払ったのだと笑いながら身体を拭いて部屋へと戻った。



 翌日、市内で一番大きな眼科へと行く、色々と検査をして貰うが何処にも異常は無いと言われた。


「やっぱ気の所為か……医者も気にしすぎるなって言ってたしな」


 室田は動体視力が良いらしく視野の端で光や影が僅かに動いただけでも目が捕らえてしまうのだろうと医者に言われた。


「顔と同じで目も良すぎるって事だな」


 大きな病院で異常は無いと診断されて室田は浮かれて大通りへと向かった。


「チラチラ見えるのは無視して引っ掛けるか」


 夕方の繁華街、室田が女を物色し始めた。


「おっ、アレがいい」


 派手な服装をした20代半ばといった様子の2人組の女に目を付けた。


「もしもし、はい、室田です」


 スマホで電話している振りをして2人組に近付いていく、


「はっ……はい」


 目の端に顔のようなものがちらっと見えたが室田は無視した。設備の整った大きな病院で気の所為だと、動体視力が良くて目の端に映るものを捕らえてしまうだけだと医者に言われた。病気かも知れないと不安だったものが払拭されたのだ。安心してナンパに専念することにした。


「そうです。はい、先方さんは…… 」


 電話に集中している振りをして2人組の女の片方に態とぶつかった。


「いったぁ~~、なにす…… 」


 よろけた女が文句を言おうとして言葉を引っ込めた。

 室田は女の腕を掴んで引き寄せる。


「ごっ、ごめん……怪我しなかった? ごめんね、電話してて……ほんとにごめん」


 女の正面で見つめながら室田が謝った。


「あっ……いえ…… 」

「本当にごめんね、何処も痛くない? 怪我してない? 」


 30センチと離れていない直ぐ傍でイケメンの室田に見つめられて女の頬がみるみる赤く染まっていく、


「大丈夫です」


 赤い顔で可愛い声を作る女の横からもう1人の女が割って入ってくる。


「気にしないでください、こっちも話しに夢中になってて…… 」


 室田が爽やかな笑みをもう1人の女に向けた。


「僕が悪いんです。本当にすみません」

「そっ、そんな事ないです。私たちが悪いんです」

「そうですよ、前見てなかったし…… 」


 もう1人の女も頬を赤く染めている。室田はここだととびっきりの笑みを見せた。


「本当にごめんね、お詫びと言っちゃ何だけど何処かでお茶でもしませんか? もちろん僕が奢りますよ、ケーキでもパフェでも何でも奢りますから……お酒でもいいですよ」

「そんな悪いですよ…… 」


 ぶつかった方の女がはにかむように見つめる横でもう1人の女が嬉しそうに口を開いた。


「ほんとですか? 私たちも飲みに行こうとしてたんですよ」

「じゃあ決まりだ。行きつけの店があるんで案内しますよ、もちろん僕の奢りなので安心してください」


 2人組の女を連れて室田が歩き出す。ナンパは成功だ。後は酔わせてものにすればいいだけである。イケメンの室田なら酔った勢いで関係を結んでも悪く思う女は殆どいない、そういう女を初めから選んでいるのだ。


「バーがいいかな? それとも居酒屋にする? 」


 女たちと談笑しながら歩いていると目の端にチラチラと何かが見えた。


「またか…… 」


 錯覚を消すように顔の左横で手を振った。

 ベチャッとする何かが手に触れた。何事かと振り返る。


「うわぁあぁ~~ 」


 室田が仰け反るようにして大きな悲鳴を上げた。


『返して…… 』


 青紫の膨れた顔があった。女だ。長い舌を出して苦しげに顔を歪めている。その恨めしそうな目が室田をじっと見つめていた。


『結婚…… 』

「うわっ、うわぁあぁぁあぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら室田が走り出す。


「ちょっ、ちょっとぉ~~ 」

「どうしたのよ」


 2人組の女が声を掛けるが室田は手を振り回しながら叫んで人混みに消えていった。



 50メートルほど走ったところで足がもつれて転びそうになって室田が止まる。


「なっ、顔が……女が………… 」


 建物の壁に手を着いて息を整える。


「触ったし、なんか言ってた」


 女の顔が見えたのは一瞬だ。誰かはわからないが確かに女の顔に見えた。直ぐ傍だったので輪郭はぼやけていたが青紫に膨れた顔が苦痛に歪んでいたような気がする。なにより口から垂れた長い舌と恨めしげな目だけはハッキリと覚えている。


「見間違えにしちゃリアルだったし……しまった…… 」


 ナンパの途中だったのを思い出した。


「2週間ぶりに旨く行ってたのに……今更戻ってもな」


 醜態を見せた後では格好がつかない、その日は諦めて帰る事にした。



 見間違いだと思っていたが翌日から同じような事が何度も起きてナンパどころではなくなる。室田は初めて恐怖を感じた。


「誰か俺を呪ってるんじゃ…… 」


 金を毟り取って捨てた女が恨んでいるのだと思った。


「厄払いだ。神社へ行って祓ってもらおう」


 自分を恨んでいる女など二桁はいる。怖くなった室田は神社へ行って神様に助けてくれるように祈る事にした。


「神様、俺に何か憑いているなら祓ってください、助けてください」


 家から一番近い神社へ行くと賽銭を入れて熱心に祈った。


「どうかお願いします。目の端にチラチラするのが見えなくなったら3万、いや5万は賽銭に入れます。お願いします神様」


 目を閉じてぶつぶつと呟くように頼んだ。


「どうかお願いします神様」


 目を開けてしっかりと見つめながら念を押すように頼む、神社の作法など知らない、我流で頼んだだけだ。

 帰ろうと振り返る。その時、目の端に何かが見えた。


「神様、これです。このチラチラしたのを見えなくしてください」


 頼みながら前に向き直った。


『返しなさいよ、私のお金…… 』


 目の前に女の顔があった。斜め横から覗くように室田を見ていた。


「うわぁぁっ! 」


 悲鳴を上げて後ろに飛び跳ねた。

 ボサボサの乱れた髪をした女だ。灰色に紫を混ぜたような血色の悪い顔を苦痛に歪め、半開きに曲がった口から長い舌が垂れている。


『ねぇ、結婚してくれるって言ったよね』


 飛び跳ねた室田に顔が付いてきた。舌をだらりと下げている口から聞き覚えのある声がした。


「めっ、恵実か…… 」


 震える声を出す室田を見て女がニタリと笑う、


『返せないなら結婚しましょう』


 腐ったような匂いが室田の鼻を突く、


「ひぅぅ……ひゃあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら室田は気を失った。


「しっかりしてください、大丈夫ですか? しっかり…… 」


 誰かに身体を揺すられて室田が目を覚ます。


「うぅ……うわぁあぁ~~ 」


 飛び起きた室田に神主が心配そうに声を掛ける。


「大丈夫ですか? 気をしっかり持ちなさい」

「かっ、神主さん…… 」


 神主を見て安堵した室田の全身から力が抜けていく、


「たっ、助かったぁ~~ 」


 地面にへたり込んだ室田に神主が厳しい眼を向ける。


「良くないものが憑いていますよ、何か身に覚えはありませんか? 詳しく話せば祓えるかも知れませんよ」

「詳しく…… 」


 室田が立ち上がる。


「助けて貰ってありがとうございます」


 険しい顔で頭を下げると室田は神主に背を向けて歩き出す。


「祓わなくともよいのですか? 」

「大丈夫です。何とかしますから」


 後ろから神主が声を掛けるが室田は振り返りもしないで神社を出て行った。

 祓ってもらいたいのは山々だが呪っているのがナンパして金を毟り取った女だとは言えなかった。



 次の日からハッキリと見えるようになる。目の端にチラチラと見えたと思った瞬間、横から女の顔がバッと現われる。ボサボサの乱れた髪、青紫の顔を苦痛に歪め、半開きに曲がった口からだらりと舌を伸ばし、恨めしそうに目を見開いた恵実の顔だ。


『お金を返して……返さないなら結婚して』


 舌を伸ばしたままどうやって話すのか分からないが恵実が耳元で囁く、


『ねぇ、結婚してくれるって言ったよね』


 何かが腐ったような臭い匂いは恵実から漂ってくるのが分かった。

 もうナンパどころではない、室田は恐怖を感じて部屋に籠もったままだ。

 部屋に居ようが外に出ていようが何処にでも恵実は現われた。外で騒ぐと危ないヤツだと思われる。イケメンだと自覚している室田は体裁を考えて出来るだけ外に出ないことにしたのだ。


「謝ろう……恵実が呪っているなら話し合いで決着を付ければいい、金を返せというなら100万くらい渡せばいい、あいつも楽しんだんだからそれで充分なはずだ」


 恐怖に震えながら3日ほど考えてやっと結論を出した。

 室田は騙される方が悪いとしか思っていない、謝るなどプライドが許さなかった。だがこのままでは生活できない、残金は20万も残っていないのだ。恵実に謝って許してもらって他の女を騙せばいいと考えたのだ。


「まだ番号消してなかったよな」


 スマホを握り締めて恵実に電話を掛ける。


「何で出ないんだよ」


 何度掛けても恵実は出なかった。電源を切っているか圏外にいると事務的なアナウンスが流れるだけだ。


「このまま呪われて堪るか、どうにかして連絡を取らないと…… 」


 実家から送ってきたと恵実が小さな段ボール箱を持ってきたことがあるのを思い出す。中身は高そうな果物の詰め合わせだった。まともな食事を取っているか心配した親が送ってきたらしい。


「確かまだあったはずだ」


 室田が玄関へと向かう、


「あったあった。荷札が付いてる」


 靴箱の上、ダイレクトメールやチラシを捨てるのに丁度いいと置いていた段ボール箱に恵実の実家の住所が書いてある荷札が付いていた。

 早速電話を掛けると父親らしき男が電話に出てきた。室田は大学の職員の振りをして恵実のことを聞き出すと娘は行方不明になっているとのことだ。


「行方不明…… 」


 呟きながら電話を切った。その時、目の端に何かが見えた。反射的に室田が振り向く、


『私のお金よ、返せないなら結婚して』


 苦痛に歪んだ顔をした恵実がいた。青紫の顔の彼方此方が裂けて膿のようなものが出ている。


『ねぇ、結婚しましょう』


 半開きに曲がった口からだらりと下がった舌が室田の頬をベチャッと舐めた。


「ひぅっ! いひぃぃ~~ 」


 室田は悲鳴を上げながら気を失った。

 どれほど倒れていただろう、気が付くと窓の外は暗くなっていた。


「恵実が…… 」


 行方不明の恵実は既に死んでいるだろうと思った。


「どうすればいい…… 」


 恐怖を紛らわせようと室田は酒を浴びるほど飲んで酔っ払うとそのままベッドに転がった。



 酒に溺れるようになった室田はナンパも出来なくなり金も底をついてマンションから追い出される。

 行くところは無くなったがイケメンということもあって女が放って置かない、逆ナンされて女の部屋に転がり込むがそこでも恵実は現われる。

 幽霊が出ると騒ぐ室田に呆れた女は直ぐに追い出した。何度か同じような事を繰り返したある日、イケメンでもおかしいのは御免だと暴言を吐かれて室田は女を殴りつけた。

 直ぐに通報されて警察に連行される。

 室田は警察官に恵実の幽霊が現われると話し助けを求めた。余りにも怯えるので室田が恵実を殺したのではと疑った警察が恵実の実家に連絡を取る。

 室田の疑いは直ぐに晴れた。実家近くの山中で首を吊って自殺している恵実が見つかったのだ。事件性は一切無いと判断されていた。


「首吊り……やっぱり恵実だ。恵実の幽霊だ」


 警察署から出てきた室田がフラフラと通りを歩く、腐乱して青紫になった顔を苦痛に歪め、半開きに曲がった口からだらりと舌を伸ばし、恨めしそうに目を見開いた恵実の顔を思い出す。


「首を吊ってもがいた顔だ…… 」


 釈放されたはいいが行く所など何処にも無い、


「おにーさんどうしたの? 」


 大通りの花壇の縁に腰掛けていた室田に派手な女が声を掛けてきた。


「何かあったの? さっきからずっと座ってるけど」


 水商売でもやっているのか派手な化粧をした30前後の女だ。項垂れて座っていた室田を暫く観察していた様子だ。


「別に……どうしたらいいか分からなくなっただけだ」


 俯いたままの室田に女が優しく声を掛ける。


「何落ち込んでるか知らないけどお酒でも飲みに行きましょうよ、奢るわよ」

「酒か…… 」


 顔を上げた室田を見て女が一瞬固まった。


「かっ、格好いい…… 」


 遠目でもそれなりだと思って声を掛けたのだ。少し窶れたとはいえ間近で見た室田に瞬時で惚れた顔だ。


「ねぇ、飲みに行きましょうよ、嫌なことは飲んで忘れるのが一番よ」

「言っとくが金は無いぞ、行くところも無いんだからな」


 ヨロヨロと立ち上がった室田の腕を掴んで女が歩き出す。



 居酒屋で飲んだ後、女は自分のマンションへと室田を誘った。帰る所の無い室田に断る理由は無い、部屋で女を抱いた。

 水商売をしていて経験豊富な女だが室田は更に其の上を行った。イケメンで女の扱いも旨い室田を女は本気で好きになる。


 事を終えて甘えるように抱き付いていた女が室田を見つめる。


「ここにずっと居てもいいわよ、行く所無いんでしょ? 一緒に住みましょうよ」

「いいのか? 俺には幽霊が憑いてるんだぞ」


 真面目な表情でこたえる室田を見て女が声を出して笑い出す。


「あはははっ、何言ってんのよ」


 真面目な表情を崩さない室田の前で女が笑いを止めた。


「本当なの? 」


 表情を変えずに室田が頷いた。


「マジだ。それでもいいのか? 」

「いいわよ、幽霊の1人や2人、あなたが私のものになってくれるなら安いものよ」


 冗談だと思ったのか女は微笑みながらこたえると室田に唇を重ねた。

 キスをしている室田の目の端にチラチラと何かが見えた。同時に腐ったような臭い匂いが鼻を突く、


「ふぅぅ…… 」


 肩を押すようにして女から唇を引き離した室田の目に恨めしそうに睨む恵実が映った。


「めっ、恵実…… 」

『仁功は私のものよ、私と結婚するのよ』


 青紫の顔を苦痛に歪め、舌をだらりと下げた恵実が室田を見つめてニタリと笑った。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 仰け反るようにして悲鳴を上げる室田に女が身を乗り出す。


「どうしたのよ? 何かあった? 」


 室田の正面から覗き込む女と恵実の幽霊が重なった。


「ねぇ、大丈夫? 」

『ねぇ、結婚しましょう』


 心配そうに訊きながら女が手を伸ばしてくる。室田には恵実が捕まえようと手を伸ばしてくるように見えた。


「やっ、止めろ! 来るな!! 」


 叫びながら室田が女を殴りつけた。


「きゃぁ~~、なっ、何をするのよ」


 女はベッドから逃げ出した。


「来るな! 俺を……俺を殺すつもりだな」


 ベッドの上で怯えて騒ぐ室田を見て女が顔を引き攣らせる。


「なっ、何言ってんのよ? 薬でもやってるの? 」

「来るな、来るな、消えろ化け物め」


 何も見えない空間に向かって追い払うように手を伸ばす室田を見て女が顔を顰めて大声を出す。


「何言ってるの? イケメンでもおかしいのは御免よ、出て行って頂戴、私の部屋から出て行って」

「めっ、恵実が……あいつが出てくるんだ」


 我に返った室田が縋り付くような目で見るが女はスマホを握り締めて玄関を指差した。


「警察を呼ぶわよ、早く出ていって」

「けっ、警察…… 」


 室田は逃げるようにして女のマンションから出て行った。


「恵実……同じだ。俺が恵実にやったことと………… 」


 夜の繁華街を歩きながら室田がハッと気が付いた。

 自分が恵実にやったことと同じだと、ブスだと罵倒して殴り、放り出したのと同じだと、これは恵実の復讐だとわかって震えていると目の端にちらっと何かが見えた。


「めっ、恵実…… 」

『あなたは私のよ、ねぇ、結婚しましょう』


 振り向くと恵実がケタケタと笑っていた。苦痛に歪んでいた顔は無い、腐乱した青紫の顔を嬉しそうに歪めて、だらんと垂らした舌を左右に振りながらケタケタと笑っていた。


「めっ、恵実……お前が……全部お前が悪いんだ。お前がぁ~~ 」


 錯乱した室田が通行人に殴り掛かって取り押さえられる。逮捕されるが心神耗弱だとして磯山病院へと送られたのだ。

 これが室田仁功むろたじんくさんが教えてくれた話しだ。



 向かいに座って話しを聞いていた哲也がぬるくなった缶コーヒーを開けて飲み始める。


「これで俺の話は終わりだ。警備員さん、恵実の幽霊が見えるなら手を貸してくれ、どうにかして俺が退院できるようにしてくれ」


 小さなテーブルの向こうで室田が頼むのを見て哲也が顔を顰める。


「どうにかって……恵実さんの幽霊に謝るしかないんじゃ………… 」


 哲也の話を室田が遮る。


「謝る? 俺がか? 何で俺が謝らなきゃいけない、俺は何にも悪くない、あいつが、恵実が勝手に自殺したんだぞ」


 向かいの折り畳み椅子に踏ん反り返る室田を見て処置無しと思いながらも哲也が続ける。


「貢がせたんでしょ? それで殴って捨てたんでしょ、恵実さんが可愛そうじゃないですか、別れるにしてももう少し遣り方があると思うけど……酷すぎますよ」

「はぁ? 確かに貢がせたよ、でもあいつも楽しませてやったからな、少しの間でも俺の彼女にしてやったんだぞ、あんなブスが俺と付き合えたんだぞ、それで相子だろが」

「いや、それは室田さんから見た考えで恵実さんは違うと思いますよ」


 弱り顔で話す哲也を室田が怒鳴りつけた。


「何が違う! 金だって300万ほどだぞ、俺1人で使ったんじゃない、恵実も遊んだんだ。それを返せとかおかしいだろ? 大地主でマンションや土地を持ってて結婚すれば遊んで暮らせるとか言ってた癖にセコすぎるだろが」


 考え方が根本から違う、これ以上は無駄だと哲也が腰を上げようとすると室田がテーブルに身を乗り出して腕を掴んできた。


「ちょっ、どこ行くんだよ、話は終ってないだろ」

「お化けの話しは聞きましたから…… 」


 哲也は振り解こうとするが室田はしがみつくようにして離れない。


「何言ってんだ。話をしたら力を貸してくれるって言ってただろ」

「僕に何か出来る事があれば力を貸すとは言いましたけど、話しを聞いたら無理ですね、僕がどうこうできる問題じゃないですよ」

「そこを何とか、頼むよ、他の奴らは幽霊が見えないし警備員さんだけが頼りなんだよ」


 腕を引っ張って頼む室田を見て哲也が椅子に座り直す。


「何とかって……無理ですよ、僕は只の警備員ですよ、医者でも看護師でもないんですよ、建物を見回るのが仕事で患者さんの事をとやかく言えるわけないじゃないですか」


 話しを聞いて益々室田が嫌いになった。やっかみだけではない、女を道具としか思っていない、ハッキリ言って男のクズだ。だが同時にこんな男でもイケメンだったために昔からモテて女の扱いだけが上手くなって今の室田が出来たのだとも考えた。

 どこで人格形成を間違ったのか、人として、男として普通に心があれば幸せな暮らしが出来ただろうにと思った。


「恵実さんの幽霊、今でも見えるんですか? 」


 哲也が訊くと室田は掴んでいた手を離して頷いた。


「ああ、目の端にチラチラしたと思ったら右か左に急に現われる。金を返せって、結婚しろって言ってくる。死んでるのに結婚なんて出来るかよ」


 顔に焦りを浮かべて室田が続ける。


「このままじゃおかしくなっちまう、だからお祓いとか何かして恵実の幽霊を追い払いたいんだ。力を貸してくれ警備員さん」


 自身の事ばかりで反省が一切無い、これでは恵実さんの幽霊も浮かばれないとそっちの方に同情した。


「今までに何人も女の人を利用してきたからこんな目に遭っているとは考えませんか? そこのところを考えないとお祓いしても同じですよ、たぶん、祓えないと思いますよ」


 哲也は反省を促すが室田は直ぐに言い返す。


「利用したって嫌な言い方するなよ、女も楽しんだんだからお相子だ。アイドルに金を注ぎ込むバカ女が居るだろ? それと同じだ。俺の場合は彼氏として実際に付き合ってやるんだぜ、アイドルよりずっとマシだろが」

「ハァァ~~ 」


 哲也が大きな溜息をついた。アイドルは騙してなんかいない、ファンもそれと分かっていて、付き合ったり彼氏には出来ないと分かってて応援しているんだ。お前のように騙して貢がせているわけじゃないと言いたかったが目の前の室田には何を言っても無駄だと言うのを止めた。


「それでさ、どうにかしてお祓いをしてもらえるように頼んでくれないか」


 小さなテーブルの上に身を乗り出して室田が頼んだ。


「わかりました。僕の方から先生に言ってみますけど期待しないでくださいよ、僕は只の警備員で発言力なんてないんですからね」


 これ以上話しても無駄だと哲也が立ち上がる。お祓いを頼む気などは無い、こうでも言わないと室田が帰してくれないだろうと思ったので嘘をついたのだ。


「じゃあ、僕は夕方の見回りがありますから…… 」

「おっ、そうか、じゃあ、お祓いの件は頼んだよ」


 部屋を出て行こうとした哲也に室田が卑屈な笑みを作ってこくっと首だけを曲げて頭を下げた。


「早く退院したいのなら幽霊とか余り言わない方が良いですよ、そんな事を言っているといつまで経っても退院できませんよ」


 最後に一つだけ忠告して哲也は部屋を出て行った。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也は廊下で室田に会った。トイレに行っていたらしい、その場で二~三話をして別れる。


「うわぁっ! けっ、警備員さん…… 」


 廊下の奥、階段を下りようとした哲也は室田の叫びを聞いて振り返った。


「室田さ…… 」


 室田さんと言いかけて哲也の口が止まった。


「なっ、なんだ…… 」


 哲也の口から震える声が出る。


「たっ、助けてくれぇ~~、恵実が……恵実の幽霊が………… 」

『お金が返せないなら結婚しましょう、ねぇ、結婚してくれるって言ったよね』


 室田が叫びながら自分の顔の横を手で払っている。その背に女がしがみついていた。

 女はボサボサの乱れた髪に青紫の顔を苦痛に歪め、半開きに曲がった口からだらりと舌が垂れている。その首が異様に長い、首を吊って伸びたのだろう、60センチほどもある。伸びた首を蛇のようにくねらせて左右から室田の顔を覗き込んでいた。


「あれが恵実さんか」


 険しい顔の哲也が見つめる先で室田が必死に追い払おうと自身の顔の横を手で払っていた。


「クソッたれが……また出やがった」


 暫くして落ち着いた様子の室田が哲也の元へと駆けてくる。


「警備員さんも見えたのか? また出やがった。恵実の幽霊だ」

「あっ、あぁ…… 」


 哲也が引き攣った顔で言葉にならない返事をする。

 安心した顔で話す室田の後ろには恵実の幽霊がしがみついたままだ。室田には見えていない様子だが哲也にはハッキリと見えている。


「どうした? 幽霊を見てビビったのか? 」


 不思議そうに訊く室田の後ろ、左肩の上で恵実の幽霊が哲也を見てニタリと笑った。


「あっ……うん、夜に見るとやっぱ怖いからな」


 幽霊を見ないようにして哲也が返事をする。


「そうだろ、怖いよな、だから協力してくれるよな、お祓いの件、よろしく頼むぜ」


 へらへらした態度で頼む室田の後ろで恵実の幽霊が怖い顔で哲也を睨み付けていた。

 恵実の幽霊に目で必死に訴えかけるようにして哲也が話し出す。


「一応先生に話しはするけど僕は只の警備員だからな、決定権なんて持ってないから約束は出来ないよ、先生に話すだけだ」

「わかってるよ、それでいいからよろしく頼むぜ」


 室田が笑いながら哲也の肩を叩いた。全くわかっていない、ダメだったときに文句を言う顔だ。


「じゃあ、僕は見回りがあるから…… 」


 哲也は逃げるように階段を下りていった。

 恵実の幽霊は目の端に現われていたのではない、室田の背中にしがみついていたのだ。ずっと背中にしがみついていて後ろから手や首を伸ばして室田の顔を窺っていたのだ。だから髪の毛や指先がチラチラと見えたのだ。


「冗談じゃない、とばっちりは御免だ。あれはお祓いなんかで祓えるもんか……室田さんが心から反省しないとどうしようもないぞ、恵実さんだってあのままじゃ浮かばれない」


 階下の廊下で階段を見上げながら哲也が呟いた。

 身勝手な室田には何の同情も湧かなかったが恵実はあのまま成仏できないままなのかと気になった。



 翌朝、気になった哲也が室田の部屋を訪ねた。


「どうした? お祓いしてくれるのか? 」


 恵実の幽霊がいるかも知れないと不安だったが期待顔で見つめる室田の背には何も見えない。


「そうじゃなくて昨日の話をしようと思って…… 」

「昨日の話? 何の事だ」

「室田さん、昨晩の事なんですけど…… 」


 怪訝な顔で訊く室田に哲也は思いきって昨晩の出来事を話した。


「何言ってんだ? じゃあ、恵実の幽霊はずっと俺の背中にしがみついてるって言うのか? 」


 顔を顰める室田の前で哲也が真剣な表情で頷いた。


「そうです。後ろから首を伸ばして室田さんの顔を覗いているんですよ」

「はぁ? キモい冗談止めてくれ、じゃあ今も居るって言うのかよ」


 喧嘩腰で声を大きくする室田に居ないと首を振ってから哲也が続ける。


「今は居ません……僕にも見えません、けど昨日は見えてました。室田さんが手で追い払った後もずっと背中にしがみついていました」

「いい加減にしろよ! 俺に見えなくて何でお前に見えるんだよ、お祓いを頼むのが面倒になって誤魔化そうってんじゃないだろうな」


 怒り出した室田を見て哲也が慌てて口を開く、


「違いますよ、そんな事しませんよ」

「だったら変な事言わずにお前はお祓いしてくれるように話を着けてくれればいいんだ。わかったな」


 横柄な室田に哲也がペコッと頭を下げた。


「話しはしますよ、でもお祓い出来るかなんて約束できませんからね」


 お前呼ばわりされて哲也はムッとして部屋を出て行った。

 ぶつぶつと愚痴りながら哲也が長い廊下を歩いて行く、


「人がせっかく忠告してあげたのに……反省でもすれば僕も力を貸すのに………… 」


 嫌な奴だが反省の欠片でも見せれば出来る限りの協力はしてやろうと思っていた。だが今の室田にそこまでする義理はない、幽霊を殴って引き離すことも出来るかもしれないがそんな事をすれば自分に何が起こるか分からない、室田から離れて哲也が取り憑かれるかも知れないのだ。同情に値する人物なら哲也は後先考えずに動いただろう、だが室田にはそんな気は起こらなかった。



 夕方、見回りをしていた哲也が香織に呼び止められた。


「哲也くんちょっと」

「なっ、なんすか? 」


 香織の険しい表情を見てまた叱られるのかと怯えながら哲也が立ち止まる。


「室田さんの事なんだけど」

「また室田っすか、僕は何もしてませんからね」

「違うのよ、様子が変なのよ」


 室田の心配をする香織に哲也がむくれてこたえる。


「変って? 香織さんの気を引こうとしてるんじゃないんすか」

「違うのよ、幽霊がしがみついているって言って怯えているのよ」


 哲也の顔色がさっと変わる。


「幽霊が? 」


 おぶさるように室田の背中にしがみついていた恵実の幽霊を思い出す。


「そうなのよ、出てくるんじゃなくてずっと居たんだって言って布団に包まって……食堂にも行かないからさっき食事を部屋に運んだところなのよ」

「そうですか……やっと気付いたんだ………… 」


 言葉を濁す哲也に香織が怪訝な目を向ける。


「なに? 心当たりありそうな顔して、哲也くんが何か言ったんじゃないでしょうね」

「なっ、何にも言ってませんよ、僕は彼奴嫌いですから話しもしませんから……女を騙すようなイケメンは嫌いですから」


 誤魔化すように言いながら哲也は数歩後退りして香織から距離を取る。


「あっ、待ちなさい! やっぱり何かしたんでしょ」

「してませんから! 香織さんの方こそ室田に入れ込んでるんじゃないんですか」


 くるっと背を向けると哲也は走って逃げだした。


「まったくもう…… 」


 怒っていた香織がふっと口元を歪める。


「哲也くんに接触して影響を受けたみたいね、哲也くんは何もする気はないみたいだから安心だわ、彼は自業自得ね、今晩か明日までには自滅するわね」


 楽しげに口元を歪めながら香織はナースステーションへと戻っていった。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也が悲鳴を聞いて駆け付けると室田が錯乱していた。


「背中に……背中にいる……ずっと居たんだ…………ちらちら見えたんじゃない、ずっと、ずっと後ろにいたんだ………… 」

「室田さん…… 」


 哲也は言葉を失った。恵実の幽霊がしがみついているのに気が付いたのだろう、それで恐怖が限界を超えて精神に影響が出たのだろうと思った。


「しっかりしてください室田さん」


 手遅れだと思いながらも声を掛け続けてナースコールを押した。

 3分経たずに香織が数名の看護師を連れてやってきた。


「森崎、ストレッチャー持ってきて、環奈ちゃん治療室お願い、先生呼んで」


 後輩看護師の森崎に指示を出すと同期の清水環奈に準備を頼む、手際の良い香織の対応に哲也はすることがない。


「哲也くん、室田さんが暴れるようなら一緒に押さえて、頼むわよ」


 手持ち無沙汰の哲也に気付いたのか香織が頼む、


「任せてください」


 当てにされて哲也が嬉しそうにこたえた。

 森崎がストレッチャーを持ってきた。


「ひへぇ……彼奴が……居るんだ。後ろに……ずっと居たんだ……ずっと………… 」


 香織と森崎が載せようとするが室田は手足を振って暴れ出す。


「哲也くんお願い」

「任せてください、僕が押さえてますから足からベルトしてください」


 怯えて暴れる室田を抱きかかえるようにして哲也がストレッチャーに載せる。香織と森崎が固定ベルトで室田の身体を固定していった。


「ありがとう助かったわ」


 礼を言うと香織は室田を載せたストレッチャーを押していった。

 1人部屋に残った哲也が床に落ちている布団や枕をベッドの上に置いていく、


「おかしいな、香織さん1人で来ずに清水さんや森崎さんを連れて来てたぞ……予知してたのかな、室田さん変だって言ってたし………… 」


 室田が手遅れなのは哲也にもわかった。だが室田に一言も掛けずに事を進める香織に違和感を持った。


「そうだよな、香織さんはプロなんだからさ」


 好意を寄せている香織を悪く思いたくないのか、哲也は考えるのを止めて見回りを再開した。

 室田はそのまま戻ってくることはなかった。錯乱したまま意識が戻らず隔離病棟へと送られたのだ。



 目の端にちらちらと見えていたのは幽霊となった恵実の指先や髪の毛だ。おぶさるように後ろからしがみついた恵実だったのだ。だが全てがそうだとは哲也は思わない、自殺した恵実の幽霊が見える前にも室田の目の端にはチラチラと何かが見えていた。

 目の端に映っていたのは人ではなく恨みだったのではないだろうか? 自殺した恵実だけではなく、室田が騙した女たち、その恨みが積もり積もって目の端に恵実の幽霊として映ったのだ。


 ありきたりな錯覚と済ませるのは簡単だ。だが錯覚だとしても室田はこれからも苦しむことには代わりはない、女にたかって生きてきた室田、これからは幽霊となった恵実にたかられて生きていくのだ。病院という外界から遮断された世界で……。


 突然やってくる怪異もあるが何らかの予兆を見せる怪異もある。今回は目の端に映るという予兆を見せたにも拘わらず対処しなかった室田の不手際だ。神社へ行った際に神主に全てを話していれば防げたかも知れない、それをしなかったのは心にやましいことをしているという思いがあったからだ。


「幾らイケメンでもああなったらお仕舞いだな」


 譫言を発しながら涎を垂らし歩くこともままならない室田を思い出して哲也が呟いた。

 イケメンに対するやっかみがないと言えば嘘になるが同情は全く湧かなかった。


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