表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/54

第三話 染み

 古い家の天井や壁には染みの一つくらいはあるはずだ。比較的新しい家でも作りが悪くて湿気が溜まりいつの間にか天井などに染みが出来ている事もあるだろう。

 昔からある民宿や古民家などは天井一面に染みが浮いている事も多い、それが趣があって良いところでもある。

 染みとは不思議なものである。いつ出来たのかもわからない、いつの間にか形が変わっているなどよくある事だ。

 染みが出来るのは家屋や家具だけではない、家や家具と同じように年を取ると人にも浮いてくるものだ。これら目に見える染みは化粧で隠したりアンチエイジングで目立たなくすることが出来る。

 だが心に出来た染みはどうだろうか? 気付かない内に古民家の天井のようにいっぱいに広がって手の施しようが無くなっていたら……。



 ある天気の良い日、哲也は昼食を食べた後に磯山病院の敷地をブラブラしていた。散歩というか、歩きながら日光浴をしていたのだ。

 山の中に建つ磯山病院は敷地も広い、小さな山一つ丸ごと敷地と言ってもいい、だが患者が自由に歩けるのは塀に囲まれた中だけだ。塀の中の敷地だけでも充分広く木々も生えているのでピクニック気分で散歩が出来る。勿論出歩けるのは軽度の患者だけだ。


「今日はポカポカして気持ち良いな」


 伸びをすると土が剥き出しの遊歩道に置かれてあるベンチに腰掛けた。

 ポカポカ陽気に食後という事もあり哲也がうとうとと眠りに落ちそうになった時、声が聞こえて顔を上げる。


「隣りいいですか? 」


 美人のお姉さんと言った感じの女性が笑顔で立っていた。


「あっ、ハイ、構いません」


 哲也は慌ててこたえると続けて言い訳のように呟いた。


「ポカポカだったから寝てたよ、ヤバいな」

「うふふ、今日は暖かくて気持ち良いですからね」


 微笑みながら女が隣に座った。


「恥ずかしいところ見られたな……恥のついでだ。僕は中田哲也です。哲也って呼んでください、お姉さんは何て呼べばいいですか? 」


 頬を赤くした哲也が訊いた。惚れっぽいのはいつもの事だ。

 お姉さんと呼ばれた女が嬉しそうに哲也の顔を覗き込む、


「お姉さんか……わかってるじゃない、哲也くんっていったわね、いい名前だね、初めまして、私は及川智音、及川でも智音でも好きなように呼んでいいわよ」


 及川智音おいかわともねは知的美人といった感じの整った顔をしている。悪く言えば少しきつめの顔付きだ。髪は耳が隠れるくらいのショート、少し染めているらしく黒に近い茶髪だ。歳は30歳前後だろうか? 哲也から見てお姉さんと呼ぶのに違和感のない年齢だ。


「じゃあ及川さんって呼びますね、及川さんは患者さんですよね? あっ、言い忘れてた。僕は警備員やってます。アルバイトですけど」


 哲也が今居る場所はA棟の脇にある庭だ。この辺りを散策する患者はA~E棟の人たちが殆どで警備で巡回している哲也が見知った人が大半である。初めて見る及川は誰かの付き添いかとも思ったが患者が着る服を着ていたので新しく入院した人かと訊いたのだ。


「うん患者だよ、私はF棟に入ってるの、いつもは向こうを散歩してるんだけど時々こっちに来るんだよ、今日は天気も良くてポカポカしてたからこっちまで歩いて来ちゃった」


 楽しそうにこたえる及川は病んでいるようには見えない。


「F棟か、見た事ないわけだ。余り遠くに行かないようにって注意されてるからな」


 A棟の哲也とは建物自体が違う、大きな磯山病院はリハビリ室やレクリエーション室も複数ありA~E棟とF~J棟で使う部屋が違う、そういう事もあって建物内で出会う事は殆ど無いのだ。


「だよね、看護師さんが煩いよね、あれはダメ、これもダメって小学生みたいに言わなくても分かるわよね、散歩くらい自由にしたいわよ」


 不満たらたらな及川の隣で哲也が苦笑いだ。


「まぁそうなんだけど、色んな人がいるからさ、普段おとなしくても急に暴れる人もいるし、看護師さんから見たら他の棟の患者と喧嘩になったら困るからね」


 警備員という事になっている哲也は一方的に看護師を責める事は出来ない。


「あ~~っ、哲也くんは先生たちの味方なんだ」


 じとーっと見つめる及川に哲也が慌てて違うと手を振る。


「ちょっ、違うよ、味方とかじゃなくて色んな人がいるからさ、先生たちも患者さんもさ、だから大変だなって…… 」

「あはははっ、だよね、精神病院だけあって変なのいっぱいいるよね」


 自分も磯山病院の患者であると言う事を忘れたように楽しげに笑う及川に哲也が相槌を打つ、


「そうなんだよ、この前なんかボソボソ独り言をずっと言ってる看護師さんがいたよ、看護するより入院した方がいいんじゃないかって思ったよ」

「ヤバいよね、でもこんな仕事してたら愚痴りたくもなるんじゃない」

「まぁ、そうなんだけど……目の前で見てたらマジで怖かったよ」

「あははははっ、この中にいるのはみんなヤバいわ、先生も看護師も私たちもみんなマジヤバだよ」


 大受けする及川を見て調子に乗った哲也は先生や看護師の悪口に話しを持っていく、


「池田先生は優しいんだけど、男の僕には優し過ぎてあっちの趣味でもあるんじゃないかと不安になるんだ」

「あははははっ、居るよねそういう先生、診察する手つきが厭らしかったり、彼氏が居るのかとか聞いてくるセクハラオヤジみたいな先生」


 乗ってきた及川に受けようと哲也が続ける。


「うん、いるいる、良い肩してるね、スポーツでもやってたのって言いながら肩揉んでくる看護師さんとか……肩からいつの間にか腰まで手が伸びてきてたり」

「あはははははっ、あれだわ、哲也くんってあっちの人に好かれる感じだわ」


 腹を抱えて笑う及川を見て哲也が大袈裟に口を開く、


「あぁ~~っ、ひっどいなぁ~~、僕はそっちの趣味は無いからね」

「あははっ、ごめんごめん、でも患者だけじゃなくて先生や看護師も変な人だらけでやっぱマジヤバだ」

「激しく同意だ。警備してると患者だけじゃなくて色んな先生たちとも会うからね」


 戯けて頷く哲也を及川がじっと見つめる。


「ふ~ん、哲也くん警備員なんだ…… 」

「そうだよ、さっきも話した通りA~E棟の警備担当だよ」

「 ……そうなんだ。ふ~ん」


 哲也を観察するように見つめると及川がニコッと笑う、


「この病院って本当に変な人いっぱい居るね」


 哲也が本物の警備員でない事に気付いている様子だ。


「心に病を持つ人の病院だからね、それで及川さんはどんな…… 」


 及川の病状を聞こうとした哲也が言葉を止める。

 先程までにこやかに話していた及川が前の建物を見て険しい顔をしていた。


「及川さん、どうしたの? 」


 及川が前の建物を指して震える声を出す。


「染みが……真っ黒の染みが大きくなっていく………… 」

「染み? 」


 哲也は不思議そうに呟くと及川が指差す先を見つめる。


「染みって? 」


 呟くように訊いた。及川が言う真っ黒な染みなど何処にも見えない。


「ほらっ! あそこ、目の前にあるじゃない、真っ黒の染み、墨をぶちまけたみたいな染みが……見えるでしょ哲也くん」


 からかわれているのかと及川を見るが真剣な表情で建物の壁を凝視していた。


「染みか…… 」


 哲也が前に向き直る。建物も相当古いのでヒビや汚れなどで壁の彼方此方がくすんでいるが及川の言う真っ黒な墨のような染みなどは何処にも見えない。


「やだ、やだ、大きくなっていく……人の形になって出てくるんだ」


 ガクガクと震えながら及川が哲也に抱き付いてきた。


「おぉぅ! 」


 美人に抱き付かれて哲也は思わず嬉しい声が出た。


「怖い、怖い、また出てくる」


 及川が爪を立てるようにして力一杯しがみついてくる。


「痛てて…… 」


 哲也の背に及川の指が食い込む、抱き付かれて気持ち良いという状況じゃない。


「及川さん大丈夫だから、何も無いからさ、黒い染みなんて無いから」

「哲也くんにも見えないの? あるじゃない! そこにあるでしょ!! 」


 落ち着かせようとした哲也に抱き付きながら及川が建物の壁を指差す。


「いやぁあぁぁ~~、出てきた!! あいつらが……お化けが……憎いって私を殺しに来る。怖い、怖い、哲也くん助けて………… 」


 悲鳴を上げて更にしがみついてきた。及川は完全にパニくっている。


「及川さん…… 」


 哲也が何とも言えない顔で及川を抱き締めた。

 及川がここに入ってきた理由がわかった。妄想か幻覚か、染みから幽霊が出てくるといってパニックを起こすのだろう、重度のパニック障害だ。


「怖い怖い……こっちに来ないで……私も悪いけどあんたたちも悪いじゃない、旨くやれなかったからって私を恨まないで…………謝るから……助けて………… 」


 哲也の胸の中で及川がブルブルと震えている。

 旨くやれない? あんたたちも悪い? 何を言っているんだろうと思いながら哲也は及川を抱くとその背を優しく撫でてやる。


「大丈夫だから、僕がいるから及川さんには手出しさせないから」

「怖い……哲也くん助けてぇ………… 」


 落ち着いてきたのかしがみつく及川の力が抜けていく、


「大丈夫ですか? 」


 散策している患者たちを監視していた看護師が騒ぎに気付いて駆け付けてきた。


「哲也くん、どうしたの? 」


 男の看護師の後ろから東條香織が哲也を見て何事かと訊いた。


「香織さん、違うんです」


 自分が及川に何かやったのかと疑われては困ると否定してから哲也が続ける。


「この人は及川さんっていってF棟の患者さんです。行き成りパニックを起こして困ってたところです」

「及川智音さんだ。わかってるよ、パニック障害で入ってきたからね」


 分かったと言うように頷くと男の看護師が及川の肩に腕を回した。


「及川さん、もう心配無いからね、私たちがいるから大丈夫だよ、お化けも怖くないからね、部屋に戻ろう」


 F棟の担当らしく男の看護師は手慣れた様子で及川を落ち着かせた。


「警備員さん手伝ってくれるかい? 及川さんを部屋に運ぼう」


 恐怖で力が抜けたのか及川はぐったりとして動かない。


「わかりました。任せてください」


 哲也は男の看護師と二人で挟むようにして及川を持ち上げる。


「哲也さんがいてくれて良かったわよ、一人でパニックになってたら大変だからね」

「警備員ですからね、何かあれば何時でも呼んでください」


 後ろから付いてくる香織に褒められて哲也は嬉しそうにこたえた。



 看護師と協力して及川を部屋まで運ぶ、


「406号室か」


 部屋の番号プレートを見て哲也が呟いた。及川の部屋はF棟の4階だ。


「迷惑掛けてすみません」


 部屋の前まで来ると及川はすっかり普段通りに戻っていた。

 しおらしく謝る及川に男の看護師が優しく口を開く、


「全部幻覚だからね、気持ちをしっかり持って幽霊なんて追い払ってやればいいんだよ、この病院には先生も私たち看護師も沢山いるから安心だからね」

「でも…… 」


 何か言おうとした及川の言葉を遮って看護師が続ける。


「幽霊を一番よく見るのが寝ているときだ。何故か分かるかい? 半覚醒状態にある脳が幻覚を見せるのさ、極度の不安やストレスを抱えると同じように幻覚を見てしまう事がある。及川さんの場合も同じだよ」


 子供に言い聞かせるような看護師の前で及川は不服そうにしながらも俯いて何も言い返さない。


「落ち着いたみたいだから私はもう行くからね」


 看護師の仕事は忙しい、及川一人に構っていられないという様子だ。

 後ろから付いてきていた香織が哲也の肩をポンッと叩いた。


「もう大丈夫だと思うけど哲也くん少し見ててあげてくれる? 」

「いいですよ、夕食の見回りまでは暇ですから」


 香織に頼まれるまでもなく哲也はもう暫く及川と話をしていたいと思っていたところである。染みから幽霊が出てくる話しを詳しく聞きたかったのだ。


「それじゃ哲也くん頼んだわよ、何かあったらナースコールしてね」


 男の看護師と共に香織が部屋を出て行った。

 2人が見えなくなったのを確認すると哲也はベッドに座って俯いている及川の前に立つ、


「僕は信じるよ、僕には見えなかったけど及川さんには見えたんでしょ? たとえ幻覚であっても見えたのなら本当にあるのと同じだ。だから僕は信じるよ」


 俯いていた及川がゆっくりと顔を上げた。


「哲也くん、ありがとう」


 力無く礼を言う及川の前に椅子を持ってくると哲也が座った。


「今まで色んな人に会って幽霊みたいな事も何度か経験してるから、だから僕は信じるよ、そうだ! 僕は警備員だからね、今晩から及川さんの部屋も見回ってあげるよ、本当はA棟からE棟までなんだけど足を伸ばして及川さんの部屋も見に来るから、だから安心して眠るといいよ」


 窶れた顔で及川が微笑んだ。


「哲也くんが見回ってくれるなら少し安心できそうな気がするわ」

「夜の10頃と深夜の3時頃の二回見回るから安心してよ」

「うん、ありがとう」


 少し元気になった及川に哲也が話を切り出す。


「それで及川さんはどうして磯山病院へ入ったの? 黒い染みはいつから見るようになったのか話してくれないか? 」

「 ……余り話したくないな」


 言い辛そうにする及川に哲也が畳み掛ける。


「何か原因があるなら解決できるかもしれない、無理にとは言わないけど話せるなら聞かせてよ、僕も一緒に考えるからさ」

「 ……わかった。哲也くんなら全部話すわ」


 最後に言った僕も一緒に考えるという言葉が効いたのか及川が重い口を開いて話を始めた。



 これは及川智音から聞いた話しだ。

 及川は1年前までマルチ商法の上位会員をやっていた。搾取されるだけの一般会員と違い及川にはそれなりの収益が入っていた。

 下位会員も順調に増えていたのだが2年ほど前に直ぐ下の会員に裏切られて配下の会員をごっそりと引き抜かれてしまう、及川は本部に抗議したが裏切った会員は本部の役員と繋がっていて逆に及川が会員のケアを怠ったと叱責されて有耶無耶になって終わった。

 及川の収入は半分以下になった。それでも一流企業の正社員並の収入はあった。普通に生活する分には充分なのだが贅沢暮らしをしていた及川には耐えられなかった。

 結果、及川は会員を増やそうとしてそれまで手を出さなかった学生時代の友人や親族などありとあらゆる知人をマルチに誘った。

 マルチが上位しか儲からないという事は知っていたので親族や友人は今まで誘っていなかったのだ。一度覚えた贅沢から抜け出す事が出来ずに信頼を売ったのである。


 商品を買うだけ買っても一向に儲からない事に気付いた友人や親族から騙したと、金を返せと責められるが及川は『貴方たちは商品を買っただけ、ちゃんと商品は渡してるから違法じゃない』と言って突っぱねて聞く耳を持たない。

 借金をして大金を注ぎ込んでそれがバレて離婚して家庭がバラバラになった友人もいた。借金取りに追い込まれて風俗に身を沈めた知人も何人も居るが及川は騙される方が悪いとケロッとしていた。



 そんなある日、及川が住んでいる高級マンションの白い壁に黒い染みが現われた。


「汚い……何よこの染みは!! 」


 怒鳴るように言うと及川は洗剤を持ってきて壁に吹き付けるとテッシュで拭いた。


「消えないわね、油でも付いたのかな」


 染みが浮き出ているのはキッチンの壁だ。


「全然消えないわ、何なのよ」


 食器を洗うものから風呂掃除のカビ取り剤まで試したが黒い染みは消えなかった。


「汚れじゃないみたいね」


 掃除する手を止めると管理会社に電話を掛けた。

 20分もしないで係りの者がやってきた。流石高級マンションだ。


「染みは何処に? 」


 キッチンに通された管理会社の若い男が顔を顰める。


「何言ってんのよ、そこにあるでしょ」


 壁に浮ぶ墨のように黒い染みを及川が指差した。


「どこです? 」


 男が怪訝な顔で及川を見つめる。

 及川は壁際にいくと手でバンッと壁を叩いた。


「ここよ!! あんた目が付いてるの? 私の手より大きな染みがあるでしょ」

「どこに? ……あぁ、わかりました」


 顔を顰めながら男が電話を掛ける。

 チラチラと及川を見ながら男が小声で何やら話し始めた。


「すみません課長いますか……はい、それが……それでどうしましょう…………えぇ……わかりました」


 電話を切ると男はヘラヘラと半笑いで話し始める。


「すみませんが染みなど確認できません、及川様の勘違いではありませんか? 」

「何言ってんの? 見えないって言うの? バカじゃないの、あんたじゃ話にならないわよ、別の誰かを連れて来なさい」


 半分切れ気味で言う及川を見て男がバカにするように手を振った。


「あぁハイハイ、わかりました。直ぐに来ますから、もう呼んでますから」


 直ぐに上司らしき男がやってきた。


「課長これです。ここに染みがあるって言うんですけどね」

「染み? そんなもの無いじゃないか」


 部下の男が指差す壁を見て上司が首を傾げる。


「でしょ、だから困ってんですよ」

「そりゃ困るわな、わかった。ここは私に任せなさい」


 バカにしたような半笑いで相槌を打つ部下に上司も呆れ顔で同意すると及川に向き直る。


「お客様、黒い染みなど私たちには見えません、ですので私どもには何も出来ません、ですがどうしても見えるというのでしたらお客様の方で壁紙の張り替えなどをお勧めします。勿論修繕費は実費でお客様の負担となります」


 慇懃に言うが言葉の節々に嘲りを感じる。

 後ろにいた部下の若い男がニヤニヤしているのを見て及川が切れた。

 及川が怒鳴りながら壁を叩く、


「何言ってんのよ、ここにあるでしょ? 真っ黒の染みが」

「染みなんてねぇよ」


 部下の男がバカにして呟いた。


「名前なんて言うんだ! 客に向かって失礼な事言って…… 」


 今にも掴み掛からんとする及川の前で上司が『まぁまぁ』と手を振って宥める。


「わかりました。では確認のために写真を撮っておきますのでその染みがある場所を指でさしてもらえますか? 」


 上司がデジタルカメラを取り出した。


「初めからそうすればいいのよ、写真撮って確認して壁紙の張り替えとかしてくれれば私も怒鳴ったりしないわよ」


 少し落ち着いたのか及川が壁に浮んだ黒い染みを指差した。

 パシャッ! デジタルカメラで写真を撮る。

 3枚ほど取ると上司がカメラの液晶モニターに写して確認をする。


「お客様、ご覧になってください」


 上司が差し出すカメラを及川が覗き込む、


「染みが……そんな……何で………… 」


 デジタルカメラの小さな液晶モニターを見つめて及川が愕然とする。ハッキリと見えている黒い染みがカメラには写っていないのだ。


「何で写ってないのよ!! ここにあるじゃない! 真っ黒い染みが! 私の手より大きな染みがあるでしょ? 何で写ってないのよ」


 カメラと壁を見比べて取り乱す及川を見て部下の男がバカにしたように笑い出す。


「あんたの目がおかしいんじゃないのか? 」


 及川がキッと怖い目で部下の男を睨み付ける。


「細工してるでしょ? カメラに写らないように何かしてるんでしょ? 私の所為にして修理費を多く取りたいんでしょ? 初めからバカにして…… 」


 上司の男が慌てて口を挟む、


「そんな事するわけ無いでしょ、第一お客様の言う黒い染みだけ写らなくするなんて出来ませんよ」

「それじゃあ何で写ってないのよ、ここにあるのよ」


 食ってかかる及川を見て後ろにいた部下の男がバカにするように口を開いた。


「何処にあるんです? 俺には見えませんよ、カメラにも写ってないでしょ」

「あんたは黙ってなさい! いいから黒い染みを消してくれればいいのよ」

「バカか? 無いものが消せるかよ」


 売り言葉に買い言葉で暴言を吐く部下を上司が叱りつける。


「これ! お客様に失礼な事を言うな! 」

「あっ、つい……すみません」


 若い男がペコッと頭を下げた。

 上司の男が改まって及川に向き直る。


「お客様、私どもには黒い染みなどは見えません、カメラに写っている通り普通の壁にしか見えません、これでは対処のしようがございません」

「何で見えないのよ……私には見えてるのよ………… 」


 狼狽える及川に上司の男が続ける。


「失礼ですが薬か何かやってます? 」


 慇懃に訊く上司の後ろで部下の若い男が必死で笑いを堪えているのが目に映る。


「薬なんかやってないわよ、あんたたちこそおかしいんじゃないの? 」


 怒鳴る及川に上司の男が冷静にこたえる。


「ですが染みなんてありませんので私たちには何も出来ませんよ」

「何言ってんのよ……もういいわよ、自分で何とかするわよ」


 バカにしたような男の目付きに及川は腹が立って追い出した。

 管理会社の男たちが帰った後、及川がじっと染みを見つめる。


「さっきより大きくなってる……何で見えないのよ」


 掌くらいだった染みが二回りも大きくなっていた。


「くそ腹が立つ! あいつらバカにして……でもリビングや寝室じゃなくてよかったわよ、ベッドの傍とかなら気になって眠れないわよ、洗っても消えないんじゃ壁紙張り替えるしかないわね、今日はもう夜だから無理よね、講習会があるから明後日まで無理だし……月曜日に業者呼んで張り替えて貰おう、ほんとキッチンでよかったわ」


 ぶつくさと愚痴を言いながら冷蔵庫から冷凍食品の焼売や唐揚げを取り出して電子レンジに放り込む、


「また大きくなってるような……気のせいね、ほんっと腹の立つ」


 壁に浮んだ黒い染みをちらっと見ると缶ビールを持ってリビングへと行った。

 憂さを晴らすように普段より多目に飲んで良い気分で酔っ払うとシャワーを浴びてそのままベッドに倒れ込んだ。



 翌朝、目を覚ました及川が顔を洗おうとキッチンの脇を通る。


「きゃあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げてその場に固まる。

 何気なく見たキッチンの壁、そこにあった黒い染みが大きくなっていた。昨日、最後に見たときはバレーボールほどの大きさだったのが今朝は縦1メートル、横60センチ程の楕円形になっていた。


「なんで……何で大きくなるのよ、何が染み出してくるのよ、向こうに部屋なんて無いのよ、悪戯だとしてもここは5階よ」


 及川の部屋は角部屋だ。壁の向こうは外である。隣人が何かをして染み出すなどは無いのだ。仮に隣りに部屋があったとしても高級マンションだ。分厚い壁で区切られているので向こうの部屋から何かが染み出してくるなど考えられない。


「休むわけにはいかないし……月曜まで我慢しよう」


 黒い染みを見ないようにして顔を洗いに行った。

 一刻も早く壁紙を張り替えたいがマルチ商法の講習会があって休みが取れない、裏切られた部下にようやく追い付きそうなのだ。ここで休むわけにはいかない、どんな事をしても裏切り者を見返してやりたくて形振り構わず親友や親戚まで巻き込んだのだ。


「土日はカモを捕まえるチャンスなのよ、もう少しであいつに勝てるんだから、気持悪いけど我慢我慢」


 化粧をして着替える。朝食はファーストフード店で済ますつもりだ。黒い染みは気になるが出来るだけ見ない振りをして部屋を出て行った。



 夜の10時前に帰ってくる。


「 ……また大きくなってる」


 キッチンの壁を見て及川が呟いた。

 驚いたが直ぐに気を取り直す。


「明後日までの辛抱よ、綺麗な壁紙を貼って貰うからね」


 出先で業者に電話してある。月曜日に壁紙を張り替えるのだ。


「よし、飲もう、今日は5人も捕まえたからね」


 染みは気持悪かったがマルチ商法のカモを旨く捕まえる事が出来て上機嫌でコンビニで買ってきた総菜と弁当を肴にビールを飲んだ。


「世の中バカが多いわ、今更入ったって儲かるわけないじゃない、何でもそう、先にやったものが勝つのよ」


 ほろ酔い加減でシャワーを浴びにいく、


「ひぅっ!! 」


 思わず息を呑んだ。

 キッチンの壁に浮き出た黒い染みの形が変わっている。1メートルほどの楕円形だった染みの左右に1つずつ、下には2つ、黒い染みが20センチほど棒状に伸びていた。

 一気に酔いが醒めていく、


「何なのよ気持悪い…… 」


 出来るだけ染みを見ないようにしてシャワーを浴びにいくとその日はさっさとベッドに潜って眠った。明日も講演会と称してカモを捕まえるのだ。



 日曜日、朝起きてキッチンの壁を見るとまた少し大きくなっていた。左右と下に伸びた染みが更に長くなっていたが及川は気にした風もなく出掛けていった。月曜日に壁紙を張り替えるのだ。それで終わりだ。そう考えていた。


 仕事を終えて夜の11時前に帰ってくる。


「なっ!? 何なのよ! 」


 染みを見て思わず大声が出た。

 左右と下に伸びていた染みが更に長くなっている。それだけではない楕円の上に丸い染みが出来ていた。まるで人間のように見える。150センチ程の人が両手を少し広げて項垂れているような格好に見えた。


「何なのよ……これ…………気持悪い」


 及川の背筋にゾッとした悪寒が走る。


「今日我慢するだけよ、明日の朝からやって夕方には終わるって言ってたから……そしたら綺麗な壁に変わるわよ」


 険しい顔で染みを睨み付けながら冷蔵庫から缶ビールを取り出す。


「飲もう、休みなんだからいっぱい飲むわよ、壁紙は10時頃に来るから今から飲んでもたっぷり寝れるから大丈夫よ」


 得体の知れない恐怖を紛らわそうと及川はいつもより多くビールを飲んでシャワーも浴びずに寝入ってしまう。


「うぅ……トイレ………… 」


 深夜に目を覚ますとトイレに向かう、トイレはキッチンやリビングの横の廊下を通った突き当たりだ。


「んん!? 何? 」


 廊下を歩く及川が気配を感じてキッチンをふと覗く、


「ひぃぃ!! 」


 短い悲鳴を上げてその場で硬直する。

 薄暗いキッチンに黒い影が動いていた。


「ひぃ~~、ひぃぃ~~ 」


 過呼吸に陥ったような掠れた悲鳴を上げる及川の目にキッチンの壁にある真っ黒い染みからぬうっと黒い人影のようなものが出てくるのが見えた。

 キッチンを徘徊している人影も壁の染みから出てきたのだろう、今出てきたのを入れて4つの人影がユラユラと歩いている。

 はっきりと人間とわかるものではない、人間に似ている影だ。実体があるようには思えない、光を当てると消えそうな正に人影という言葉がピッタリな不気味な物体だ。

 固まって動けない及川が掠れた悲鳴を上げる。


「ひぃ~、ひぃぃ~~ 」


 黒い人影が一斉に振り返った。

 目も鼻もないその顔が恨めしげに及川を見つめているのがわかる。


「いやぁあぁ~~ 」


 及川は叫びを上げると走って寝室へと飛び込んだ。

 鍵を掛けてベッドに潜り込む、鍵が付いているのはトイレと寝室だけだ。


「なに! なに! なに! なに! 何なのよアレは………… 」


 パニックに陥って布団にくるまってブルブルと震えていたがトイレも我慢できない。


「何なのよ……うぅ、トイレ………… 」


 暫くして少し落ち着いたのか怖かったがトイレへと行く、足音を立てないようにそっと廊下を歩いて端からキッチンを覗き込む、


「いないじゃない…… 」


 脱力しながら呟くと独り言のように続ける。


「寝惚けてたんだ。まだ酔いも少し残ってるし……染みが人の形に見えるから怖くて寝惚けてお化けみたいに見えたんだ」


 納得するとトイレを済ませてベッドに潜り込んだ。


「壁紙を張り替えて貰って夜は肉でも食べにいこう」


 予定を考えている内にうとうとと眠りに落ちていった。



 どれ程眠っただろうか? ブルッと寒気を感じて及川が目を覚ます。


「寒っ! 」


 口元まで布団に潜り込むと枕元に置いていたスマホに手を伸ばす。

 時間を確認しようとしてスマホの電源を入れる。スマホの画面から溢れ出た光が部屋をぼうっと照らした。

 スマホを見る目の端に何かが見えた。


「ぴゅぅぅ…… 」


 声にもならない悲鳴が喉から出た。

 ベッドの脇に黒い影が立っていた。


「ぴゅぅ……ひぅぅ………… 」


 発作を起こしたように喉から悲鳴を上げる。同時に体が重く固まったように動かなくなる。金縛りだ。

 逃げるどころか顔を背ける事も出来ない及川の目に黒い人影が幾つも映る。

 ざっと見たところ10人以上いた。数える余裕など無いが数える必要も無かった。寝室いっぱいに黒い人影が埋まっていた


「ひぅ……ぴゅぅう………… 」


 恐怖の悲鳴を上げる及川に黒い人影が近付いてくる。


 こっ、来ないで……お願い……来ないで…………、叫びたいが喉がつっかえたようになって言葉にならない、心の中で必死に念じるだけだ。


 黒い人影の集団から2つがベッド脇まで来ると顔をぬうっと伸ばして及川を覗き込んだ。


「ひっ! ひぅぅっ! 」


 及川の顔の真上に影のような頭が2つ並んだ。布団に潜り込みたいが金縛りで指一本も動かせない。


『返して……お金を返して………… 』

『よくも騙したな……お前の所為で全て無くした。許さない…… 』


 目鼻の無い影が恨めしげに放った。


『返して……お願い……返して………… 』

『騙したな……騙したな…………許さない……絶対に許さない』


 2つの影の頭に凹凸が浮かび上がりみるみる人の顔になっていく、及川には見覚えがあった。2人とも学生時代の友人だ。それ程親しい間柄ではなかったが学校帰りに何度かショッピングセンターやカラオケなど遊びに行った事のあるクラスメイトである。

 2人ともマルチ商法に引き込んでカモにしたのだ。数ヶ月して金を返せと文句を言ってきたので覚えていた。及川が返金などしないで追い返したのは言うまでもない。

 借金を抱えて1人は風俗へと身を投げてもう1人は行方をくらませたらしいとは聞いていたが及川は騙される方が悪いとケロッとしていた。


『お願い返して……お金を返して…… 』

『許さない……お前だけは絶対に許さない………… 』


 恨めしげに見つめる2つの顔を及川は恐怖に見開いた目で視線を反らせない。


『恨めしい、恨めしい、お前に騙された』


 後ろの影たちからもブツブツと声が聞こえてくる。怨嗟の言葉から顔はわからないがマルチに巻き込んだ人たちだろう事は直ぐにわかった。


「ひぃ……ひぅぅ………… 」


 恐怖に喉を鳴らす及川の首に覗き込む女の腕が伸びてきた。


『許さない……絶対に許さない』


 グッと喉仏に圧力を感じる。目の前が真っ暗になり恐ろしい女の顔だけでなく何も見えなくなる。


「ひぅぅぅ…… 」


 首を絞められて余りの苦しさに及川はそのまま気を失った。



 窓から差し込む朝日で及川が目を覚ます。

 ぼうっとする頭に昨晩の記憶が蘇る。バッと上半身を起こして寝室を見回した。


「よかったぁ~~ 」


 何もいないのを確認して安堵の息をついた。

 夢だったのか? 酔ってたからな……、考えを巡らせていると喉に違和感を感じた。

 吐き気を催して洗面所へと駆け込む、


「がっ、ごほっ、がごっ」


 胆と共に赤黒い血の塊を吐き出した。


「くっ、気持悪い」


 血の塊を流すとうがいをして顔を洗う、歯ブラシに手を伸ばしながら鏡を見た。


「なっ、何なのよ! 夢じゃなかったの………… 」


 鏡に映る自分を見て愕然とした。喉に赤い筋が見える。まるで手で首を絞められたかのように指の跡らしき赤い筋が浮かび上がっていた。

 手早く歯磨きを済ますとキッチンへと向かう、


「染みは…… 」


 慌てていたので洗面所へと行くときは見ていなかったキッチンの壁を確認する。


「昨日と同じだ。変わってない」


 昨晩最後に見たときと同じように人の形をした染みは付いていたが大きさや形に変化がないのを見て何故かほっと安堵した。


「ここから出てきた……幽霊? 」


 昨晩の事を詳しく思い起こす。マルチのカモにされた人が自殺でもして化けて出てきたのかと頭に浮ぶ、


「けど由美子は死んでないわよ、風俗で働いてるわよ、借金まみれで私を呪ってるかも知れないけど死んでないから幽霊じゃないわよね」


 幽霊かと思ったが顔を覚えていた1人は生きていて風俗で働いているはずだ。


「夢だわ、首の痣も寝てる間に手で掻いたか何かして出来たのよ」


 怖さを紛らわせるためか自身に言い聞かせた。今日は壁紙を張り替えて貰うのだ。黒い染みさえ消えれば何の問題も無いはずだとも思った。

 トーストとコーヒーで朝食をとると化粧をして着替えて内装の業者を待った。



 午前10時過ぎに内装の業者がやってきた。

 ベテランといった感じの中年とアルバイトらしき若い男の2人だ。


「この黒い染みが気持悪いので張り替えてください」


 及川は男たちをキッチンに通すと黒い染みを指差した。


「染みですか? 」


 男たちが互いの顔を見合わせる。

 責任者らしき中年男が困ったように聞き返す。


「あのぅ……どの染みでしょうか? 」

「ここよ! この大きい染みが見えないの」


 及川が壁をドンッと叩いて教える。

 男たちがまた顔を見合わせる。


「はぁ、染みですか…… 」


 アルバイトらしき若い男が気の抜けた声を出した。

 中年男が若い男の腕をパシッと叩く、


「わかりました。この壁の壁紙を張り替えればいいんですね」


 流石ベテランだ。染みがあろうが無かろうが、見えまいが関係ない、張り替えれば仕事になるのだ。


「わかればいいのよ、この壁だけなら今日中に終わるんでしょ? 」


 機嫌を直した及川が訊くと中年男が営業スマイルでこたえる。


「そうですね、これなら2時間もあれば終わりますよ、今から始めてお昼挟んで2時までには終わりますよ」

「よかった。じゃあ頼みます。私はリビングにいるので用事あれば呼んでください」

「わかりました。早速始めます」


 愛想よく言うと中年男がアルバイトの若い男を連れて一旦出ていった。


「おやっさん、染みなんてありませんよね、ヤバいんじゃないっすか? 」

「俺も見えんよ、変な客なんて長い事してたら時々あるんだよ、でも仕事だ。張り替えてくれって言われたら張り替えればいい、それで稼げるんだからな」

「まぁそうっすね、汚れた部屋の壁よりマシっすね」

「そういう事だ」


 マンションの廊下を歩きながら話す2人の会話は室内にいる及川には聞こえない。



 換えの壁紙と道具を持って2人が戻ってくる。


「じゃあ始めますんで」

「よろしくお願いします」


 愛想笑いする中年男に及川が笑顔で返す。

 壁際にある冷蔵庫や電子レンジなどを反対側に運ぶと壁紙を剥がし始める。

 黒い染みが浮き出た壁はどうなっているのかと及川は暫く見ていた。


「無い? 何で…… 」


 及川の呟きにアルバイトの若い男が振り返る。


「どうかしましたか? 」

「無いのよ、真っ黒な染みが……壁から染みてきたと思ってたのに………… 」


 断熱材を挟んだ石膏ボードらしき壁そのものには小さな染み一つ付いていなかった。

 唖然とする及川に中年男が話し掛ける。


「まぁそういう事もありますよ、台所ですからね、熱で壁紙の接着剤や塗料などが変色したって事も考えられますし壁紙の表面に油が付いてそこに埃がくっついて長い間に変色していくって事もよくありますからね」

「そういうものなんですか…… 」


 プロの言う事に納得したのか及川が頷いた。


「壁に何も無くて良かったじゃないですか、カビとか生えてたら今日一日じゃ無理ですよ、カビの除去に料金も倍掛かりますしね」

「そっ、そうですね、じゃあ、後はよろしくお願いしますね」


 安心したのか及川はリビングへと戻っていった。


「さっさと剥がすぞ、全部剥がしてから飯だ」

「はい、おやっさん」


 業者の男たちがテキパキと作業を進める。

 手早く元の壁紙を剥がすとコテを使って壁にこびり付いた糊や汚れを削り取っていく、綺麗になったところへ新しい壁紙を貼って上下や左右の余分をカッターで切ると完成だ。



 無事に壁の張り替えが終わり及川が上機嫌で業者に料金を支払う、


「綺麗になったわ、黒い染みも消えたし助かったわよ」


 6畳ほどのキッチンの壁一つだ。昼の1時半には作業が終わる。10時半過ぎから始めて昼食の休憩を入れて2時間掛かっていない。


「プロですからね、素人がやると繋ぎ目がズレたり後から壁紙が浮いてきて凸凹になったりするんですよね」


 領収書を渡しながら自慢気に言う中年男に及川が微笑みかける。


「流石プロね、気味の悪い染みが出来て困ってたのよ、ありがとうね」

「気味の悪い染みってどんな染みなんですか? 」


 中年男の後ろにいたアルバイトの若い男が不思議そうに訊いた。


「何言ってんのよ? 貴方も見たでしょ、人の形をした黒い染み」

「いや、俺は…… 」


 見ていないとこたえようとしたアルバイトの若い男の背をベテランの中年男が叩いた。


「染みっていうのは気持悪いものですよ、でももう新しくしたので安心ですよ」

「そうっすね、新しくすると気持ち良いっすよね」


 中年男の後ろでアルバイトの若い男も誤魔化すように笑った。


「では、また何かあれば電話でもしてください」


 ペコッと頭を下げる業者を玄関先まで見送る。


「本当に助かったわ、こんなに綺麗になるなら部屋全部頼もうかしら? お金が出来たら検討してみるわね」

「はははっ、ご依頼お待ちしていますよ」


 愛想良く笑いながら業者は帰っていった。



 壁紙を新しくして3日経ったがもう染みは浮んでこなかった。


「染みも無くなったし幽霊とかやっぱり気のせいだったのね、酔ってたし怖いって思うから幻覚を見たんだわ」


 安心した及川はまたマルチ商法に精を出す。


 更に4日経った。壁紙を張り替えてから丁度1週間目だ。

 新しいビジネスの講習会といってマルチ商法に引き込む会員を集めるのが旨くいって及川は上機嫌で帰ってきた。


「今日のカモはチョロかったわね、私のために精々頑張りなさい」


 リビングのソファに鞄を投げ出しコンビニで買ってきた弁当と総菜をテーブルに置く、服をサッと着替えると洗面所へ行って化粧を落とす。


「今日は飲むわよ」


 冷蔵庫から缶ビールを取り出すとキッチンの壁を見つめる。


「汚い染みも消えたし、仕事は旨くいったし、今日は良い日だわ」


 上機嫌でリビングに戻るとソファに腰掛けてテレビをつける。


「ひぅっ!! 」


 缶ビールを開けようと指を付けたままその場に固まった。

 50インチテレビの後ろ、テレビの枠から右に20センチ程ずれた場所に大きな黒い染みが浮んでいた。

 縦60センチ横30センチ程の縦長の楕円形だ。

 今朝家を出るときには無かった。リビングでニュースを見ながらコーヒーとトーストを食べたのだ。墨のように真っ黒な大きな染みに気が付かないなど有り得ない、とすると今日、出掛けている間に出来たものとしか考えられない。


「なっ、なんで………… 」


 愕然とする及川の耳にテレビから漏れてくる明るい音声が入ってくる。

 及川が視線を移すと流行の芸人が何度も見飽きた下らない芸をしていた。少し落ち着いたのかスマホを手に取る。


「また張り替えて貰えばいいわ」


 もう自分で消そうなどとは思わなかった。

 この前頼んだ業者に貰った名刺に書いてあった番号へ電話する。


「もしもし……壁紙を張り替えて貰いたいんですけど………… 」


 明後日が休みだったので直ぐに業者に来て貰うように予約を入れた。

 缶ビールを開けるとゴクゴクと飲む、毎週見ているドラマにチャンネルを合わすがいつものように集中できない、黒い染みがどうしても目に付いた。


「気持悪い……なんでまた浮んでくるのよ、でもいいわ、今晩と明日我慢すればまた綺麗になるわよ」


 気にしないようにすればするほど気になる。テレビの横にあるので当然だ。


「そうだ! 」


 後ろの壁に付けていたカレンダーを外すと黒い染みを隠すように貼り付けた。


「これでよしっ、私って頭いいぃ~~ 」


 自画自賛すると新しい缶ビールを開けて飲み始める。3缶空けた頃にはすっかり酔いが回っていた。


「真っ白よりもクリーム色の方が落ち着いて良いわね、リビングの壁全部替えて貰おうかしら、朝から来てもらえれば夜には終わるよね」


 ソファにゴロッと横になると部屋を見回す。

 テレビの横のカレンダーが気になった。カレンダーの後ろで真っ黒な染みがジワジワと大きくなっているような気がした。


「よしっ、リビングの壁紙全部替えて貰おう、新しくすれば染みも浮いてこないし、心機一転ってヤツよね」


 バッと起き上がるとシャワーを浴びにいく、


「たっぷり眠って明日もカモを捕まえるぞ」


 鼻歌交じりに出てくると冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってリビングへと入る。


「きゃあぁぁ~~ 」


 悲鳴と同時にミネラルウォーターのペットボトルが足下に転がる。


「なんでよ! 何なのよ!! 」


 逆ギレするように叫ぶ及川の見つめる先、テレビの横で黒い染みが人の形になっていた。背を丸めて項垂れるようにした横向きの女に見える。隠すように貼っていたカレンダーはテレビ台の前に転がっていた。


「何なのよ! 私に恨みでもあるっていうの? 騙された貴方が悪いんでしょ、私だって努力してるのよ、何人も何人も誘ってやっと儲けが出るのよ、稼ぎたかったら貴方もカモを見つけて引き込めばいいじゃない」


 普段より酔っているのか、いい加減腹が立ったのか、落ちていたカレンダーを拾うと怒鳴りながら黒い染みに貼り付けた。大きくなった染みにはカレンダーだけでは隠せないが女の顔と上半身が見えなくなるように貼り付けた。


「私だって裏切られたのよ、あいつが裏切らなければ友達を巻き込んだりしないわよ、化けて出るのならあいつのところへ出なさいよね」


 言い放つとミネラルウォーターのペットボトルを持って寝室へと向かった。


「私は悪くない、悪くない、全部裏切ったあいつが悪いのよ、明後日までの辛抱よ、リビングの壁紙全部替えてやるわ」


 下位会員を連れて裏切った部下に責任転換するように呟きながらベッドに横になる。暫くスマホを触っていたがいつの間にか寝入っていた。



 気が付くと及川はリビングにいた。

 明かりもテレビも点いていない薄暗い部屋でソファにぽつんと座っていた。


『あぁあぁ…… 』


 呻きが聞こえて顔を上げる。


「はぅぅ」


 息を呑むと同時に及川の体が動かなくなった。金縛りだ。

 テレビの横、人の形をした黒い染みから影のようなものがぬっと出てくるのが見える。

 一つじゃない、人の形をした影のようなものが次々と出てくると及川に迫ってくる。


『返して…… 』


 影が恨めしげに手を伸ばしてくる。

 手が首に掛かろうとした時、目の前が真っ暗になる。


「なっ、何が……何も見えない………… 」


 狼狽える及川の首が締め付けられる。

 目がおかしくなったのか及川には何も見えないが先程の影の手が自分の首を絞めているであろう事は想像出来た。


「いやぁあぁぁ~~ 」


 及川は自分の悲鳴で目を覚ました。

 激しい鼓動を整えながら辺りを見回す。


「はぁっ、はぁっ、はぁぁ~~、夢か…… 」


 安堵すると起き上がってベッド脇のテーブルに置いていたペットボトルの水を飲む、


「怖いと思うから変な夢見たんだ。そうよ夢よ、この前のも全部夢だったんだわ」


 今見た夢の御陰で先の出来事も全て夢だと思うと逆に安心出来た。

 気が緩むと同時に尿意を感じてトイレへと向かう、リビングの前で立ち止まって怖々覗いた。相変わらずテレビの横に黒い染みはあるが他には何も異常は無かった。


「ほら、何もないじゃない、やっぱり、夢よ夢、全部夢だったのよ」


 トイレを済ませて寝室へと戻る途中、何気なくリビングに目がいった。


「ひぅっ! 」


 喉から悲鳴が出た。人の形をした影が幾つも蠢いていた。

 逃げるように後ろへ下がる。足が壁に当たってゴツッと音を立てた。

 音に反応するようにリビングを埋め尽くした人影が一斉に振り向いた。


『ああぁ……返して……騙したな………… 』


 影に顔が浮かび上がる。影のようなモヤッとした体に青白い顔だけがハッキリと見える。そのどれもが見た事のある顔に思えた。


『返して……お願い………… 』


 恨めしげな顔をした影たちが及川に腕を伸ばしてくる。直後、フラつくようにして目の前が暗くなる。


「止めて……見えない……目が………… 」


 目の異常か、何も見えない及川の体に影たちの手が纏わり付く、


「きゃあぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げると及川は失神してその場に倒れた。



 翌日、ベッドの上で及川が目を覚ます。


「夢……夢か………… 」


 夢だと思って安堵したが額の汗を拭いた右手を見て息を呑んだ。

 及川は起き上がると慌てて手足を確認する。


「夢じゃない…… 」


 腕や足の所々に赤い手形が浮んでいた。

 もう仕事どころではない、及川は内装業者に電話をするとその日の内にリビングだけでなく寝室や廊下など部屋全ての壁紙を張り替えて貰った。


「これで大丈夫、全部替えたんだからね」


 2日休んだ分を取り返そうと張り切って仕事に行った。



 夜の9時過ぎ、疲れた顔をして及川が帰ってきた。


「なんで…… 」


 寝室の壁を見て愕然とする。

 張り替えた新しい壁紙に項垂れた女のような黒い染みが浮んでいた。


「こんな所で寝てられないわよ」


 鞄を持つと及川は部屋を出て近くのビジネスホテルに向かった。

 あんな部屋には居られないとホテルで数日過ごした後、そのまま引っ越し先を探して退去した。



 新しい部屋は以前よりは狭いが今年建った新築のマンションだ。


「心機一転、頑張るわよ」


 引っ越しのゴタゴタで数日休んだ遅れを取り戻そうと以前にも増してマルチ商法に励んだ。

 暫くは何事も起きなかったが1ヶ月ほど経ったある日、仕事から帰った及川が風呂場で悲鳴を上げた。


「何で? 何なのよぅ~~ 」


 浴室の壁に人の形をした黒い染みが浮んでいた。

 脱いだ服を着直して部屋を出て行く、


「前の部屋がおかしいんじゃない……私に付いてきてるんだ。どうしよう……どうしたら…………御札……御札貰ってこよう」


 その夜はビジネスホテルに泊まって翌日近くの神社に駆け込んだ。

 事情を話すと神主がお祓いをしてくれた。御札も貰って部屋へと戻る。


「これでいいはずだわ」


 神主に言われた通り浴室の黒い染みとリビングの柱の2箇所に御札を貼った。

 効果は抜群だ。浴室の壁に浮んでいた黒い染みは翌日には消えていた。


「あぁ……神様ありがとうございます」


 御札に向かって手を合わせると元気よく仕事に向かった。

 ここ暫くのゴタゴタで5日ほど休んでいたのを取り戻そうとビジネス講習会に来ていた人たちを半ば強引にマルチに誘った。


「男など簡単ね、後は逃げられないように適当にケアして商品を買わせれば私に10%入ってくる。出費が多かった分を取り戻さないとね」


 色目を使って女性経験の少ない男をマルチに引き込んだのだ。美人の及川に言い寄られれば断れない男も多いだろう、学生時代の友人や親族にまで手を出した及川にとって赤の他人を騙す事に罪悪感など欠片も無かった。



 その日の夜、髪を洗っていた及川の前にパサッと何かが落ちてきた。


「きゃあぁぁ~~ 」


 長い髪の毛の束を見て悲鳴を上げる。

 仰け反るように逃げる及川の前で髪の毛がフッと消えた。


「 ……なんだ。御札じゃない」


 髪の毛の束に見えたが目の前に落ちているのは神社で貰った御札だ。


「シャワーで湿気て落ちてきたんだ」


 頭の泡を流すと御札を拾って貼っていた壁を見上げる。


「ひぅっ!! 」


 壁に人の形をした黒い染みが浮んでいた。

 何かに掴まれている感じがして慌てて手を見る。


「きゃあぁあぁ~~ 」


 持っていたはずの御札が長い髪の毛の束になっていた。

 悲鳴を上げながら手に絡み付く髪の毛をシャワーで流し落とすとそのまま逃げるようにして浴室から出て行く、


「ひぃぃ~~ 」


 バスタオルを引っ掴んで出てきた及川が息を詰まらせる悲鳴を上げた。

 リビングの壁の至る所に人の形をした黒い染みが浮んでいた。


「ひぃ……いやあぁぁ~~ 」


 バスタオルを振り回しながらキッチンへと逃げる。


「あぁ……あひゃぁ………… 」


 キッチンの壁にも幾つもの黒い染みが浮んでいる。


「いやぁあぁ~~ 」


 バスタオルを放り出して裸で寝室へと逃げ込んだ。


「はひょっ! ひひっ、ひぁぁあぁ~~ 」


 寝室の壁という壁、天井までもに人の形をした黒い染みがびっしりと覆い尽くしていた。


 この染みの全てから影のような幽霊が出てきたら……、及川の想像にこたえるように染みという染みから黒い影がぬうっと出てきた。


『うあぁぁ……ああぁ…… 』

「ひぅっ! ぴゅひぃぃ~~ 」


 及川は恐怖の余り言葉にならない悲鳴を上げる。


『うぅぅ……返して……、ああぁ……騙したな………… 』


 影のような姿に顔だけが青白くハッキリと浮かび上がる。


「ひぃぃ……違うのよ……私だけが悪いんじゃない…………私も裏切られたのよ…………騙されたのよ…………だから……だから許して…………来ないで……お願いよぉ~~ 」


 人の形をした影のようなものが及川に迫る。


「来ないで……来ないで…………いやあぁあぁ~~ 」


 ベッド脇のテーブルに置いていたテレビのリモコンや箱に入ったティッシュなど手に付くものを辺り構わず放り投げる。


「いやぁあぁ~~、見えない……目が……目がぁ………… 」


 手当たり次第に投げているとまた目が見えなくなった。

 狼狽える及川の手足、体中に影たちの腕が纏わり付いてくる。


「ひひっ……ひふぅ……あひっ…………あははっ……ひひひっ………… 」


 パニックを起こして暴れていた及川は近所の人の通報で警察に保護された。


 落ち着くどころか警察署でも壁や天井に染みが見えると暴れる及川は親に引き取られて実家へと戻る。

 幼い頃から住んでいた実家でも染みが見えると暴れる及川を見て両親は磯山病院へと入れたのだ。

 これが及川智音から聞いた話しだ。



 話し終えると窶れた顔で及川が付け足す。


「それでね、ここに入院させられたの、でも無駄だったわ、染みはついてきたのよ、私は病気なんかじゃないわ、ハッキリと染みが見えるのよ、染みから出てくる幽霊が見えるのよ、幻覚なんかじゃないわよ、私が騙した奴らが出てくるのよ」

「染みですか…… 」


 何とも言えない顔で哲也が呟いた。


「哲也くんにも見えなかったのね……やっぱり私だけ、やっぱり呪われてるのよ、私が騙した奴らが化けて出てくるのよ」


 項垂れる及川を励ますように哲也が声を掛ける。


「及川さんは悪いって思ってるんですよね、だったら謝ればいい、心から謝れば…… 」


 哲也の言葉を遮るように及川が声荒げる。


「無駄よ!! そんなの何度も謝ったわよ、私も全部失って何も残ってないからお金は返せないって、だから謝ったわよ、でも、でも……あいつらは許してくれないのよ、私を恨んで呪ってるのよ」

「呪いか……あるかも知れませんね」


 否定しない哲也を及川が真剣な表情で見つめる。


「信じてくれるの? 」

「ええ、僕は信じますよ、たとえ僕に見えなくとも及川さんは見てるんでしょ? それなら僕は及川さんを信じますよ」


 軽い口調でこたえる哲也の肩に両手を掛けて及川が正面から目を合わせた。


「本当に信じてくれるの? 私の気を引きたいから信じる振りをしてるんじゃないの? 」


 哲也の顔からおどけが消える。


「信じてるよ、及川さんは嘘なんかついていない、僕にはわかる。何故かはわからないけど僕にはわかるんだ。及川さんが本当に幽霊に苦しめられているってわかるんだ」


 及川の目に涙が浮んだ。


「初めてよ、信じて話しを聞いてくれたのは……親も先生も幻覚だって決めつけて私をこんな病院に入れて………… 」

「及川さん…… 」


 ドッペルゲンガーの甲斐真由美を救う事が出来なかったのを思い出すと肩に掛かる及川の両手をとって哲也が握り締めた。


「僕は及川さんを助けたい」

「哲也くん……ありがとう」


 及川の目から涙が溢れ出た。


「黒い染みは見えないけど幽霊なら僕にも見えるかも知れない、だから時間のあるときは出来るだけ及川さんの傍に居る事にするよ」

「ありがとう哲也くん、昼間はまだいいわ、夜が怖いの……夜になると染みから幽霊が出てくるのよ」


 涙を拭うと及川が嬉しそうに微笑んだ。


「そろそろ見回りに行かなくっちゃ」


 怯える及川を部屋に送ってから彼此2時間近く経っていた。


「哲也くん…… 」


 去ろうとする哲也の腕を掴んで及川が離さない。


「安心してください、今晩から及川さんのF棟の406号室も見回りますから」


 離してくれと言うように哲也が及川の手をポンポンと叩いた。


「幽霊が出てきたら守ってくれる? 」

「勿論です。昔はともかく今の及川さんは充分反省してるんです。それを襲うなんて許せません、幽霊だろうが何だろうが僕が及川さんを守りますよ」

「ありがとう哲也くん、見回るときに廊下だけじゃなくて部屋の中も調べて頂戴、哲也くんなら黒い染みが見えるかも知れないから…… 」


 及川が手を離したのを見て哲也が優しく声を掛ける。


「わかりました。部屋の中も調べるから安心して眠るといいよ」

「うん、ありがとう」


 嬉しそうに頷く及川に手を振ると哲也は部屋を出て行った。



 夜の10時、A~E棟の見回りを終えると哲也は及川の部屋であるF棟の406号室へと向かった。

 不審者と思われないようにF~J棟までの担当の警備員には哲也が親しくしてもらっている本物の警備員である須賀嶺弥を通して連絡してある。これで本物の警備員や看護師さんと深夜に鉢合わせしても大丈夫だ。


 軽くノックしてからドアを開けて部屋に入る。

 及川はベッドで寝息を立てていた。壁にも天井にも黒い染みなど無いのを確認すると起こさないように部屋を出る。


「異常無し」


 哲也が小声で呟くように言った。及川の可愛い寝顔を見れて嬉しそうだ。



 深夜の3時、眠そうに欠伸をしながら哲也がF棟へと入っていく、


「仮眠とらなかったから眠いや」


 3階の踊場まで階段を上がると悲鳴が聞こえてきた。


「及川さん!? 」


 慌てて駆け付けると及川がベッドの上で震えていた。


「来ないで……お願い……私が悪かったわ………… 」

「及川さん! 」


 ベッド脇に走り寄った哲也に及川が抱き付いた。


「哲也くん、お化けが……怖い……助けて哲也くん」


 お化けと聞いて辺りを見回すが哲也には何も見えない。


「待って、今明かりを付けるから」


 抱き付く及川の手を振り解くと哲也はドアの横にあるスイッチを入れて部屋の明かりを点けた。


「眩しい……なん? 何も見えないわ、哲也くん何処? 」


 ベッドに上半身を起こして及川が目を擦っていた。

 哲也は直ぐに駆け寄ると及川の顔を覗き込む、


「何処ってここに居ますよ」

「ここって何処よ、哲也くん、真っ暗よ、真っ暗で何も見えないわ」


 狼狽える及川の手を哲也が掴んだ。


「いやぁあぁ~ 」

「僕ですよ、哲也です」


 悲鳴を上げる及川を落ち着かせようと哲也が抱き締める。


「哲也くん……ああぁ、良かった哲也くんだ」


 安堵する及川と目が合った。


「見えるの? 」

「うん、見えるよ、急に電気が点いたからクラッとして目の前が真っ暗になったの、時々あるのよ」


 はにかむように笑う及川を見て哲也が心配そうに声を掛ける。


「先生に見てもらった方がいいんじゃない」

「大袈裟よ、ちょっと立ち眩みしただけよ、今はハッキリ見えてるから安心して、急に明るくなったからクラッとしただけよ」


 今までも度々あったらしく見えなくなる事については及川は慣れっこだ。哲也は胸騒ぎがしたが立ち眩みと言われればそうだと納得するしかない。


「お化けはまだ見えるの? 」

「もう居ないわ、哲也くんが来てくれたから消えたのね、ありがとう哲也くん」


 嬉しそうな及川の向かいで哲也が顔を顰める。


「お化けはともかく何も見えなくなるってヤバいんじゃないかな」

「大丈夫よ、只の立ち眩みなんだから、もう慣れっこよ、お化けには慣れないけどね、でも立ち眩みして暫く何も見えなくなったら幽霊も消えてるのよ、これが起きた後は暫くは染みも見えなくなるから私にとっては良い事なのよ」


 哲也の心配を余所に及川はケロッとしている。

 磯山病院に入院してから見えなくなる事が頻繁にあるらしいがこれが起きた後は暫く黒い染みも幽霊も現われなくなるので及川にとっては嬉しい事らしい。


「それならいいけど…… 」

「うん大丈夫よ、ありがとう哲也くん、おやすみなさい」


 笑顔の及川に見送られて哲也は部屋を出て行った。



 翌日の昼、哲也が嬉しそうにF棟へと入っていく、


「及川さんは洋菓子と和菓子とどっちが好きかなぁ~ 」


 哲也の担当医である池田先生にお菓子を貰ったのだ。病院の購買に売っている安い菓子ではなく箱に入った高級菓子である。

 惚れっぽくて年上タイプが好きな哲也は10歳以上離れた及川が気になって仕方がない、先生にお菓子を貰った時も及川と一緒に食べる事が頭に浮んだ。


「いっぱいお菓子貰ったし、池田先生は苦手だけど今日はグッジョブだ」


 浮かれながら階段を上る哲也の耳に騒ぎが聞こえてくる。


「何だ? 誰か暴れてるのか」


 磯山病院では騒ぎは日常茶飯事だ。

 またかというように哲也が階段を駆け上る。警備員である以上は担当棟でなくとも騒ぎがあれば対応しなければならない。


「あれは……及川さん」


 騒いでいるのは406号室、及川の個室だ。

 哲也が慌てて部屋へと入っていく、


「大丈夫ですから落ち着いてください」

「痛てて……引っ掻かれた」


 初めて及川に会ったときに一緒に病室まで付き添って行った男の看護師とF棟の担当警備員が暴れる及川を押さえていた。


「お化けが……私を呪ってる…………お化けが……止めてぇ~~、何も見えない…………怖い、怖いぃ~~ 」


 暴れる及川が看護師や警備員を所構わず叩いたり引っ掻いたりしている。

 恐怖から必死になっている及川を押さえるのに男2人掛かりでも手を焼いていた。


「及川さん…… 」


 異様な光景にドアの前で固まる哲也に看護師と警備員が気付いた。


「おお哲也くんいいところに来た。手伝ってくれ」


 名前は知らないが面識はある警備員に呼ばれて哲也も及川を押さえるのを手伝う、


「及川さん落ち着いて、僕だよ、哲也です」

「怖い、怖い、黒い染みが……お化けが出てくる………… 」


 また目が見えなくなっているらしく哲也にも気が付かない。


「痛てっ、引っ掻かれた」


 暴れる及川に引っ掻かれた哲也が右手を見つめる。その時、哲也の視界に黒いものが映った。


「なっ……染みが………… 」


 哲也が絶句した。痛いと腕を引っ込めた際に体が少し横になる。その時に見たのだ。ドアの横、真っ白の壁に墨のように真っ黒な大きな染みが浮んでいた。只の染みではない人の形をしていた。項垂れている女の影に見えた。


「あれは! 染みです! 看護師さん」


 哲也の大声が聞こえたのか看護師と警備員が振り向いた。


「なっ……何だ? 」

「染みが……本当に染みがある」


 2人にも見えている様子だ。


「あれが及川さんが言っていた染みですよ、嘘じゃなかった。本当に見えていたんだ」


 バッと哲也が前に向き直る。


「及川さん、哲也です。ありましたよ染みが! 僕にも見えています。及川さんは僕が守るから……だから安心してください」


 哲也が大声で言うと及川の動きが止まる。


「てっ、哲也くん!? どこ? 何処に居るの哲也くん、怖いの助けて」

「ここに居ますよ、もう大丈夫ですからね」


 まだ目が見えないらしい及川の頬に哲也が手を当てる。


「哲也くん!! 」


 及川が哲也に抱き付いた。


「もう大丈夫だからね」

「黒い染みが……お化けが出てきたの………… 」

「うん、わかってる。僕は信じてるから、僕が居るから安心して」


 あれ程暴れていた及川が静かになったのを見て看護師と警備員が一息ついた。


「哲也くん助かったよ」


 看護師も警備員も酷い有様だ。腕だけでなく顔にも引っ掻かれた赤い筋が浮んでいた。


「それにしてもあの染みは…… 」


 確認するように振り返った看護師が言葉を呑んだ。

 釣られるようにドアの横の壁を見た哲也も目を疑った。


「消えてる……なんで? 」


 くっきりと浮んでいた黒い染みが消えていた。

 驚く哲也を見て看護師が引き攣った顔で笑いながら口を開く、


「見間違いだよ、及川さんが染み染みと何度も言っていたので私たちも暗示に掛かって幻覚を見たんだよ」

「哲也くんがドアを開けていたからその影が染みに見えたのかも知れないな」


 隣りにいた警備員が同意すると頷きながら看護師が続ける。


「そうだよ、テンパっていたから見間違えたんだ。哲也くんが始めに黒い染みって言ったから私たちも思い込みでドアの影が染みに見えたんだよ」

「でもあれは…… 」


 一瞬の事なので哲也も強く言えないが確かに見たのだ。


「見間違いだよ、余り変な事を言っていると病状が悪化したと疑われるよ」


 哲也は黙るしかない、自身も入院患者なのだ。下手な事を言って隔離病棟などへ移されるのは御免である。


「哲也くんよね? どうなってるの? 何も見えないのよ」


 抱き付いていた及川が確認をとるように訊いた。


「そうだよ……及川さん目が見えないのか」


 哲也が及川の顔を覗き込む、


「見えないのよ、いつもなら直ぐに見えるようになるのに……くらっとなってから暫くしたら見えるようになるのに……何も見えないのよ」


 普段なら長くて1分ほどの立ち眩みが今も続いているのか何も見えない様子だ。


「見えない、何も見えない、怖い、哲也くん助けてぇ」


 しがみつく及川を看護師と共に先生の元へと連れて行った。



 詳しい検査の結果、一過性黒内障と網膜動脈閉塞症により及川は視力を失った。

 一過性黒内障は突然ブラックアウトする病気である。原因は様々あるが脳梗塞などの予兆としても現われる事がある危険な病気である。

 網膜動脈閉塞症とは網膜の動脈が詰まり血液が止まって短期間で視力を失う病気だ。

 失明の直接の原因は網膜動脈閉塞症である。一過性黒内障が起っていたときに直ぐに検査を受ければ治療できたのだ。

 時々真っ暗になって見えなくなるという兆候が出ていたにも拘わらず立ち眩みだと自己判断して専門医に掛からなかった。染みが見えると言っていたがそれは目が病魔に冒されていて黒い染みとなって見えていたのだろうとの事だ。

 つまり及川が見ていた染みは壁や天井ではなく自身の目の中にあったのだ。


「これで良かったのよ、これでもう染みを見なくて済むから……幽霊を見なくて済むから…………だからこれで良かったのよ」


 そう言って寂しげに微笑むと及川は実家近くの心療内科に転院していった。

 視力は失ったが心から安堵しているような笑顔を見れて哲也は胸を撫で下ろした。


 哲也は思う、及川は大勢の人を騙して恨みを買っていた。だが友人や親族だけは巻き込むまいとした良心もあった。だが部下の裏切りを切っ掛けに大事な友人や親族を裏切ってしまう、しかし心に慚愧もあったのだろう、その後悔の念が染みとなって見えたのではないだろうか? そして実際の染みは壁や天井ではなく及川の心を通して目に現われたのだ。網膜動脈閉塞症という罰が当たったのだ。だとしたら、あの日病室の壁に浮んだ人の形をした黒い染みは何だったのだろうか? 


 心に染みいるという言葉がある。感銘を受けた際に使う言葉だが心に染みいるのは良い思い出だけではない、寧ろ悪い思い出の方が多いかも知れない、わだかまりという染みが哲也の中にもある。それが黒い染みとなって出てこない事を願った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ