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第三十八話 玩具(おもちゃ)

 おもちゃを辞書で調べると遊びのために用いる道具で玩具がんぐとも呼ぶと書いてある。日清戦争のころに行われた明治政府による国語統一運動で玩具がんぐと呼ぶようになったのだ。

 おもちゃという言葉は平安時代にあった〈もちあそびもの〉が語源である。江戸時代には〈てあそび〉〈もちゃそび〉などと呼ばれていた。


 おもちゃと言っても色々ある。木や紙で出来た素朴なものからゲーム機まで様々だが遊びのために作られているという目的だけは同じだ。


 いい歳をしてゲームや模型作りなどに夢中になっている大人を子供っぽいとバカにする人もいるが大きなお世話である。趣味がたまたまゲームであったり模型制作であったり子供の頃から続けている他のものであっただけだ。

 全てに当てはまるわけではないがおもちゃと趣味は密接に関係している。カメラが趣味の人はカメラがおもちゃであり、車が趣味の人は車がおもちゃだ。遊びのために用いる道具という意味では何ら間違ってはいない、他人の迷惑にさえならなければ好き勝手をしてもよいだろう、おもちゃで遊ぶという行為は気分転換やリラックスなど精神安定に非常に有効なのだ。だから近しい人の趣味を無下にバカにするような行為は慎みたいものである。


 おもちゃという言葉は悪い意味にも使われる。慰み者にすることをおもちゃにすると言ったり、高価なものを買って使いこなせずおもちゃになったなどと使ったりする。

 玩具に執着していた人を哲也も知っている。彼女は犬の玩具で遊んでいた。その玩具は只の玩具ではなかった。彼女は悪い意味でおもちゃにしていたのだ。



 深夜3時、哲也はいつものように見回りをしていた。


「異常なぁ~しぃ、ふぁあぁ~~ぁ」


 C病棟から大きな欠伸をした哲也が出てくる。


「なんか眠い、さっさと終らせよう」


 D病棟へと歩いていると目の前のコンクリート製の細い通路に何かが居た。


「なんだ? 狸? 違うな」


 何かの動物かと逃げられないように慎重に近付いていた哲也の顔が緩んでいく、


「玩具だ……誰のだ? こんなところに放りっぱなしで」


 犬の形をした玩具だ。ぬいぐるみではない、水色のプラスチックで出来た四角いロボットのような犬の玩具が細い道の真ん中に置いてあった。


「他の患者さんに盗られるぞ……預かっておくか」


 患者同士のトラブルになりかねないと哲也が拾おうと手を伸ばす。


『タスケテ……タスケテ…… 』


 小さな声のような音を出しながら犬の玩具が後退るように動き出す。


「おっ、動くんだ。音も出るし、電池式だな」


 電池で動く玩具だと思った哲也が捕まえようと一歩前に出た。

 犬の玩具が後ろへ動きながら音を出す。


『タスケテ……タスケテ……殺される』


 か細い小さな声だが今度は哲也にも聞こえた。


「殺される? 物騒な音声データが入ってるんだな、まぁいいや、預かってる間に少し遊ぼう」


 興味を持った哲也が捕まえようと片手を伸ばすと犬の玩具が走り出す。


「なん!? タイヤでも付いてるのか? 」


 見た目より速いスピードで道の向こうへ走っていく犬の玩具を見て感心したのか哲也の動きが止まった。


「おっと、捕まえないと…… 」

「哲也くん、何しているんだい? 」


 哲也が走り出そうとしたとき、後ろから声を掛けられた。


「あっ、嶺弥さん」


 振り返ると警備員の嶺弥が怪訝な顔で見つめていた。見回りとは違う方向へ走り出そうとしていたのだから不審がられるのは当然だ。


「向こうに何かあるのかい? 」

「嶺弥さん聞いてくださいよぉ、犬の玩具が……患者の誰かの玩具だと思うんですけど、それが急に動き出して、ほら…………あれっ? 」


 哲也が指差す先、コンクリート製の細い道を走って逃げていた犬の玩具が消えていた。


「どこ行ったんだ? 」


 道から外れたのかと辺りを見るが犬の玩具はどこにも見えない。


「犬の玩具が置いてあったんです。電池で動く奴……それが走り出して…… 」


 怪訝な表情の嶺弥に哲也が必死で説明する。


「本当です。向こうに走って行って……草の中にでも入ったかな? 本当に置いてあったんですよ、タスケテとか殺されるとか言って動き出したんですから」


 コンクリート製の道から外れて草の中に突っ込んで止まっているのだろうと探しに行こうとした哲也の腕を嶺弥が掴む、


「どんな玩具だった? 」


 顔を曇らせる嶺弥を見て哲也が戸惑いながらこたえる。


「どんなって……プラスチックで出来た水色のロボットみたいな犬の玩具でしたよ」

「まさか………… 」

「どうしたんです? 誰の玩具か知っているんですか? 」


 不安気に訊く哲也の向かいで険しい表情をしていた嶺弥が声を上げて笑い出した。


「あははははっ、よくある玩具だ。10年くらい前に流行ったペットみたいな玩具だろ、センサーが付いてて鳴いたり動いたりする」


 嶺弥の楽しげな笑みを見て哲也が安心した様子で続ける。


「それっ、それですよ……僕も何処かで見たことのある玩具だって思ってたっす」

「了解した。それじゃあ見回りを再開してくれ」


 嶺弥が笑いながら哲也の背をポンッと叩いた。


「へっ? 犬の玩具は? 」

「放って置けばいい、哲也くんの見間違いだ」


 哲也がムッとして言い返す。


「見間違いじゃないっすよ、マジで見ましたから」

「寝惚けてたんだろ、今も眠そうな目をしているぞ」

「確かに眠いっすけど、犬の玩具は見間違いじゃないっすよ」


 ムキになる哲也をからかうように嶺弥が笑みを湛えて口を開く、


「それじゃあ、お化けでも見たのかな? 哲也くんのことだからな」


 ムッと怒っていた哲也がパッと顔を明るくした。


「あっ、そうかも知れないっす。玩具にしては動きが速かったっす。幽霊とか妖怪なら説明が付くっすよ」

「冗談だよ冗談、幽霊なんているわけないだろ、そんな事を言っていると池田先生に叱られるぞ、見間違いだよ、見間違い」


 呆れ顔の嶺弥の前で哲也がまたムッと膨れっ面になる。


「マジっす。マジで見ましたから…… 」


 不服そうな哲也の肩を嶺弥がポンポンと叩く、


「わかった。わかった。見間違いじゃなければ直ぐに見つかるさ、それよりお腹減ってないかい? 」

「お腹……減ってるっす」


 哲也の顔に笑みが広がっていく、お腹減っていないかと嶺弥が訊くときは何か御馳走してくれるときだ。


「じゃあ、牛丼でも食おう、角田さんが買いに行っているから見回り終ったら控え室に来るといい、哲也くんの分も買ってくるように伝えてあるので一緒に食べよう」

「牛丼っすか? いいっすねぇ」


 哲也の頭の中から犬の玩具のことなど一瞬で消えていく、


「じゃあ、見回りをさっさと終らせよう」

「了解っす」


 哲也が元気よくD棟に向かって歩いて行く、嶺弥は反対側のB棟の見回りだ。



 歩いていた嶺弥が足を止める。


「気配を感じたから見に来たが……まさか逃がすとはな、ラボの連中は何をしているのか、何か聞いているか? 」


 険しい表情で見つめる先、B棟の建物の影から香織が現われた。


「本当、選りに選って哲也くんと接触するなんてね」

「それで連絡はあったのか? 」

「無いわよ、私も今さっき知ったんだから……哲也くんが居なければ捕まえていたわよ」


 こたえる香織も真剣な表情だ。嶺弥の目がギラッと光った。


「其方にも連絡が無いという事はラボの連中、自分たちで何とかするつもりだな」

「勝手なことを……これだから嫌いなのよ向こうの奴らは」


 吐き捨てる香織を見て嶺弥が表情を緩めた。


「フフッ、お手並み拝見と行くさ、だが哲也くんに手を出したら俺は動くぞ、先生に言っといてくれ」

「了解したわ、そんな事は私も許さない、ラボの連中に好き勝手はさせないわ、池田先生には報告しておきますから安心なさいな」


 こたえると香織は建物の影に溶け込むようにして消えていった。


「そっちはいいとして問題は哲也くんか…… 」


 険しい顔をした嶺弥がB棟へと入っていった。



 D棟の向かいにある警備員控え室から哲也が出てくる。


「美味しかったぁ~~、久し振りに食べると旨いよな牛丼」


 見回りも終わり、嶺弥に奢ってもらった牛丼を食べて後は部屋に戻って寝るだけだ。


「時々奢ってくれるもんなぁ、嶺弥さんや角田さん、カップ麺もよく貰うし……世話になってばかりだな」


 笑顔で歩いていた哲也が足を止めた。


「ここら辺だったよな…… 」


 コンクリート製の細い道の脇、雑草が生えている辺りをキョロキョロと見回す。


「無いなぁ、犬の玩具……見間違えじゃないからな」


 先程見た犬の玩具を探すがどこにも見当たらない。


「あんなに速く動くわけないし……やっぱり幽霊か妖怪か何かだったんだな、でも気配は感じなかったぞ」


 暫く探していたが諦めて歩き出す。


「まぁいいや、僕に用があるならまた出てくるだろう」


 この程度の怪異などは慣れたのか哲也はさして気にした風もなく部屋に戻っていった。



 寝ていた哲也が身体を揺すられて目を覚ます。


「うぅ……なに? 誰? 」

「いつまで寝てるの? もう8時よ」


 聞き覚えのある声に哲也の目がカッと開いた。


「かっ、香織さん……何で? 何で香織さんが僕の部屋に…………夜這いっすか? 」

「なっ、何言ってんのよ! 私がそんな事するわけないでしょ」


 怒り声と共に拳骨が哲也の頭の上に飛んできた。


「痛ぇ~~、マジだもんなぁ」


 寝転がりながら頭を押さえる哲也を見て香織がクスッと笑う、


「目が覚めたでしょ、朝食、テーブルの上に置いとくわよ」

「朝食? なんで? 」


 ベッド脇のテーブルの上にあるパックに入ったお弁当を見て哲也が首を傾げた。


「食堂使えないんですか? 工事とか…… 」


 不思議そうに訊く哲也の前で香織が顔を顰めた。


「違うのよ、食堂どころか外出禁止だからね」

「外出禁止って? 何があったんです」


 哲也がバッと身を起した。何かあれば警備員の出番だ。


「それがねぇ……何か感染症の疑いのある動物が入って来たって……それでね、病気になるとダメだからって外出禁止になったのよ、建物から出るなって……患者さんだけじゃなくて先生や私たちも必要なとき以外は外へ出るの禁止だって」


 詳しく知らされていないのだろう、歯切れ悪く香織が教えてくれた。


「動物が入ったんすか? じゃあ警備員の仕事っすね」


 起き上がろうとした哲也を香織が止める。


「ダメよ、患者は建物から出るの禁止、だから食事も弁当になって私たちが配っているのよ、入浴も暫く出来ないでしょうから身体を拭くだけになるわね」

「そんなぁ……僕は警備員っすよ」


 縋るような目で見つめる哲也に香織が真面目な表情で話し出す。


「警備員も一緒よ、須賀さんたちだって動物の捜索には参加していないわよ、何でも専門家が探すってことで私たちの移動も制限されているんだからね、全ての病棟が中央の出入り口以外は鍵掛かっているわよ、中央も見張りが居るから許可無しじゃ出られないわよ」


 話しを聞いて哲也の顔が強張っていく、


「そんなに厳重なんすか? ヤバい病気って事ですね」


 悩むような表情で香織が頷いた。


「うん、詳しくは聞かされてないけどね、だからおとなしくしててよね」

「そういう事なら僕はいいですけど、散歩とか日課にしている患者さんは大変ですよ」


 険しい顔で話す哲也を弱り顔の香織が見つめる。


「そうなのよ、それが問題なのよね、病棟内を散歩するって事にしたいんだけど納得してくれるかどうか…………患者が暴れないようにこの病棟を警備してくれると助かるんだけどな」


 香織に頼られて哲也が胸を張る。


「わかりました。任せてください」

「頼んだわよ、じゃあ私は仕事があるから……余計な仕事が増えて忙しいのよ」


 嬉しそうに微笑むと香織は部屋を出て行った。


「たまには弁当もいいかな」


 テーブルの上に置いてあるパックに入った弁当を見ながら哲也が起き上がった。


「建物内はいいんだよな」


 タオルと歯ブラシを持って部屋を出る。トイレのついでに顔を洗って歯を磨くのが哲也の日課だ。


「何だ? 」


 廊下の窓から外を見た。作業着姿の男たちが遊歩道の脇にある藪の中に居た。香織の言っていた感染症の疑いのある動物を探しにきた者たちだろう、


「彼奴らか……専門家ねぇ、余所者が何を探してるんだか」


 自分たち警備員を加えてくれればもっとスムーズに探せるだろうと思いながら哲也は階段横のトイレに入っていった。



 朝食の弁当を食べ終わると哲也はテレビを付けてベッドに寝転がる。


「腹ごなしの散歩も無しか…… 」


 患者だけでなく、医者に看護師や事務員、警備員さえ用があるとき以外は不用意に外に出るのを禁じられている。食事も弁当の配食となり一歩も外に出られない状態だ。


「まてよ、それじゃあ、見回りも出来ないって事か」


 捜索に哲也たちが手伝うのを許されなかった。患者である哲也はともかく、普段なら警備員はもちろん手の空いている看護師や事務員にも捜索の手伝いに駆り出されるのだが今回は外部からやってきた作業着姿の男たちだけだ。


「まぁ休みだと思ってゆっくりするかな」


 寝返りを打つと哲也は目を閉じた。テレビの音声を聞きながら眠りに落ちていった。


「テレビ点けっぱなし! だらしない、哲也くん、起きなさい」


 どれくらい眠っただろうか? 香織に起されて目を覚ます。


「うぅ……香織さん、おはようございます」

「おはようじゃないわよ、寝るならテレビ消しなさい」


 眠そうに目を擦る哲也を見て香織が呆れ顔だ。


「あぁ……点けっぱなしだったか、考え事してて寝ちゃったから……済みません」


 哲也がベッドの上で上半身を起す。寝惚けていた頭がハッキリとしてきた。


「まったく…… 」

「何か用ですか? もしかして夜這いっすか? 昼間だけど」


 ニカッと笑みを見せる哲也の頭に拳骨が飛んできた。


「いい加減怒るわよ! 」

「痛ぇ~~、もう怒ってるっす」


 頭を摩りながらベッドに寝転がる哲也を香織が睨み付ける。


「本気で怒るともっと怖いわよ」

「冗談っすよ、勘弁してください」


 顔の前で手を合わせて謝りながら哲也が続ける。


「それで何の用なんです? 」

「本持ってきてあげたわよ、オカルトの奴」


 ベッドで寝転がっている哲也の上に香織が雑誌を置いた。


「おおぅ、面白そうっす。買ってきてくれたんすか? 」


 オカルト雑誌を見て目を輝かせる哲也の横で香織が呆れた様子で溜息をついた。


「外の連中が持ってきてくれたのよ、他にもファッション誌や芸能誌から漫画まで色々あるわよ、哲也くんオカルト好きだから読むだろうと思って持ってきてあげたのよ」

「外の連中って感染症の動物を探しに来た奴らっすか? 」


 頷くと香織がベッド脇のテーブルに饅頭を2つ置く、


「うん、本だけでなくお菓子もあるわよ」

「おっ、高そうな饅頭っすね」


 喜びながら哲也が首を傾げる。


「僕だけじゃないですよね? 外の連中が何で饅頭くれるんすか? 」


 香織の後ろ、台車の上に箱に入った饅頭と雑誌などが置いてあるのが見えた。他の患者にも配りに行くのは直ぐにわかった。


「外出禁止の代わりでしょ、本なんてトラックで持ってきたわよ」

「成る程ね、これで暇潰ししろって事ですか」

「そういう事、じゃあ私は忙しいから」


 納得した様子の哲也に軽く手を振ると香織は部屋を出て行った。



 感染症の疑いのある動物の捜索は3日間続いた。

 外を出歩けない患者たちの気を紛らわせるためだろう、看護師たちが度々やってきては週刊誌や漫画雑誌などを置いていく、午前9時と午後3時にはおやつまで出た。その効果もあり患者たちの間で大きな騒ぎは起きなかった。

 3日後、作業着姿の男たちは何も言わずに帰っていき、外出禁止はその場で解かれた。



 朝食の後、診察ついでに哲也が池田先生に訊くが海外から入ってきた感染症らしく今回のような厳重な対策が取られたと説明された。専門家以外に手伝わせるわけにはいかなかったと言われて哲也は納得するしかない。


「3日休んだと思えばいいか……おやつは美味しかったし、まだ残ってるし、これを合わせたら当分おやつには困らないな」


 診察を終えた哲也が池田先生に貰った洋菓子を持って嬉しそうに部屋に戻っていく、外出禁止で貰ったおやつの残りと合わせれば1週間はお菓子に困ることはないだろう、


「昼まで2時間ほどあるし、天気も良いし散歩に行くかな」


 部屋に戻って薬の入った袋と洋菓子を置くと哲也は3日ぶりに外へと出た。


「太陽は窓から浴びるんじゃなくて直に浴びるとやっぱ気持ち良いよな」


 両手を上げて伸びをしながら大きく息を吸う、山の中に建つ病院だ。森の香りがして空気は旨い。


「やっぱ外はいいよな、んじゃ歩くか」


 建物を繋ぐコンクリート製の通路から病院の敷地をぐるっと囲むアスファルトで舗装された遊歩道へと歩き出す。


「送迎車だ……新しい患者でも入ってくるのかな? 」


 表門から入ってくる病院の送迎車を見つけて哲也は散歩を止めて向かって行った。


「女の子だ。なんだ、お見舞いか」


 送迎車から中学生くらいの少女とその親らしき中年男性が出てきた。誰かの見舞いだと思って哲也が散歩に戻ろうと歩き出す。


「山奥じゃない! こんな病院なんて嫌! 入院なんてしないから!! 」


 少女の大声が聞こえて哲也が足を止めた。


「マジか? あの子が入院するのか? 」


 驚いた哲也が改めて少女を見る。背は低い、遠目からでも150センチもないのがわかる。どう見ても中学生にしか見えない、下手をすると小学生かも知れないと思うくらいだ。


「子供も入院できるようになったのかなぁ」


 磯山病院は18歳以下の入院は受け付けていない、


「何言ってんの哲也くん、子供はダメに決まっているでしょ、規定では18歳からしか受け付けていないからね」

「あの子、背は低いけど哲也さんと同い年よ」


 まさか中学生が入院するのかと少女を凝視していると香織と早坂が声を掛けてきた。


「おわっ、いつの間に……驚かさないでください」


 仰け反るように振り返って驚いてから哲也が続ける。


「同い年? 僕と同じ19歳っすか? あの女の子が? 」


 哲也の頭に疑問符が幾つも浮ぶ、車から降りてきた少女はどう見ても19歳とは思えない。


「からかってんでしょ? 騙されませんからね」

「私は担当だから後は頼むわ」


 怪訝な表情の哲也を見て笑いながら早坂が歩いて行く、


「騙されませんからね」


 哲也が香織に向き直る。何度もからかわれているのだ。全く信じていない顔でじっと見つめた。


「本当だってば……あの子は操野結愛くりのゆめさん、本当に19歳よ」

「どう見ても中学生っす。騙されませんからね」


 まだ疑っている哲也に苦笑いしながら香織が説明してくれた。


 操野結愛くりのゆめ、19歳とのことだが幼顔で身長は145センチほどで贔屓目に見ても中学生にしか見えない、子供っぽい服を着れば小学生でも通用するくらいに幼く見える。その事を気にして心を病んだ。周りからも子供扱いされてからかわれて高校を中退して引き籠もるようになった。引き籠もってオカルトにはまり込んで幽霊が見えるなどと言い出したので両親が心配して磯山病院へと連れて来たのだ。重症ではないが検査入院させて暫く様子を見る事になったのだ。


「マジっすか? 検査入院って事は短期間ですね」


 驚きながらも納得した様子の哲也に香織が付け足す。


「子供扱いしたら怒り出すから気を付けるのよ」

「コンプレックスですね、了解しました。子供扱いなんてしませんよ、オカルト好きなら同士です」


 操野がオカルト好きと聞いて色めき立つ哲也の向かいで香織が溜息をつく、


「オカルトの話しもダメですからね」

「えぇ~、無理に聞くんじゃなくて僕もオカルト好きだから…… 」


 嫌そうな顔をする哲也を香織が睨み付ける。


「ダメです! 幽霊が見えるとか言い出して心配だから親御さんが連れてきたんですからね、煽るような真似は絶対にダメです」

「そんなぁ……せっかくオカルト話しできると思ったのに………… 」


 不服そうな哲也が見つめる先で操野と父親らしき男性を連れて早坂が本館へと入っていく、


「ダメですからね、ちょっかい出したら先生にも叱って貰いますからね」


 怖い顔で言うと香織も本館へと早足で歩いて行った。


「話ししたいなぁ……操野さん結構可愛いし………… 」


 散歩のことを思い出したのか哲也は遊歩道へと向かった。


「同い歳だからロリじゃないし……違うから、オカルトの話がしたいだけだからな」


 独り言に突っ込みながら歩いて行く、恋愛感情ではないが何故か操野のことが気になっていた。



 翌日、昼食を終えた哲也が散歩をしていると遊歩道の向こうの藪が大きく揺れているのに気が付いた。


「何だ? 鼠や鼬じゃないな、鳥か? 」


 哲也の胸の辺りまである大きな草が揺れるのを見て足を止めた。


「もしかしてこの前の奴らが探してた動物じゃ…… 」


 哲也の顔が険しく変わる。感染症に掛かっている疑いのある動物が入って来たと騒ぎがあったばかりだ。その動物かも知れないと思ったのだ。


「海外から入ってきた感染症……池田先生の口振りからかなりヤバい奴だってわかる。けど………… 」


 まだ揺れている藪へと哲也が近付いていく、


「確認しなきゃ! 」


 警備員としての使命感が哲也を動かす。本物の警備員ではないが患者たちだけでなく先生や看護師たちにまで信頼されているという自負がある。


「何か武器になるものは…… 」


 藪の前で適当な木の棒か石でも無いかと探していると声が聞こえてきた。


「トロン、どこなの? 出てらっしゃい」

「へ? 女? 」


 可愛い声で女性だとわかる。


「怒らないから出てきなさい、トロン、どこなの、トロ~ン」


 哲也が怪訝な表情で見つめる先でゴソゴソ音を立てて藪が掻き分けられる。


「トロン? 違うわね、あんた誰? 」

「くっ、操野さん…… 」


 藪から出てきたのは操野だ。昨日は遠目で見ただけで顔はハッキリとは覚えていないが背が低く中学生のような体型で一目でわかった。


「はい? 何で私の名前知ってるの? 」


 呆気に取られる哲也を操野が疑わしい目で睨んだ。


「えっ!? 違うから……僕は警備員で藪が揺れてたから……危ないから………… 」


 予想外の出来事に取り乱す哲也を見て操野がじとーっとした疑いの目付きのまま続ける。


「先生や看護師ならともかく、警備員が私の名前を知ってるっておかしくない? 昨日入ったばかりなのよ、長年居るならともかくさ」


 頭の回転は速いらしい、的確に話す操野と違い哲也は焦りまくりだ。


「違うから……香織さんに聞いて……それで操野さんのことを知っているだけで…… 」


 頭の整理が追い付かず言い訳に始終する哲也の前で操野が首を傾げる。


「香織? 看護師の東條香織のこと? 」


 聞き返す操野を指差して哲也がこたえる。


「そっ、そう、東條香織さん」

「ひょっとして中田哲也ってあんた? 」


 驚いた様子で訊く操野に哲也が慌ててこたえる。


「あっ、はい、警備員の中田哲也です」

「あんたが……そうだったの」


 操野の顔が緩んでいく、


「なぁ~んだ。あんたが哲也さんだったの、早く言ってくれればいいのにぃ」


 ニコニコ笑いながら操野が哲也の腕をバンバン叩いた。


「あははっ、ごめん、吃驚したから…… 」


 誤魔化すように笑う哲也は内心ほっと安堵していた。


「私こそごめんね哲也さん、急に名前呼ばれたから吃驚しちゃった」


 操野の可愛い笑みに哲也の頬が赤く染まっていく、どこからどう見ても中学生くらいにしか見えない、姿だけでなくテンションや話し方も中高生と同じだ。


「急に藪から出てきたから僕も吃驚して…… 」


 何故藪から出てきたのか訊こうとした哲也の話を操野が遮る。


「ほんと吃驚したわ……そっか、あんたが哲也さんかぁ~~ 」


 操野が値踏みをするように哲也を見回す。


「ふ~ん、なるほどねぇ」

「あのぅ……なんか恥ずかしいなぁ」


 照れる哲也の肩を操野がポンポン叩いた。


「中々の物じゃない……こっちも旨く行ってるようね」

「あのぅ、旨く行ってるって何の事ですか? 僕のことを知っているみたいだし…… 」


 先程から話しが見えない、急に馴れ馴れしくなった操野に疑問も浮んだ。相手が可愛い女の子だからましだが男なら嫌悪感を抱いていただろう、


「うん、知ってるわよ、噂はラボにも入ってくるから」

「噂って? ラボって何ですか? 」


 怪訝な顔で訊く哲也の向かいで操野が一瞬しまったという顔をした。


「あぁ……気にしなくていいわよ、そんな事よりおもちゃ見なかった? 」


 操野があからさまに話を変えた。


「玩具って? 」


 怪訝な表情のまま哲也が聞き返す。誤魔化されたのが分かりながらも急に出てきた玩具という言葉が気になった。


「うん、犬のおもちゃ、プラスチックで出来たロボットみたいな犬、大きさはこれくらい、色は水色、名前はトロン」


 身振り手振りを交えながら操野が説明してくれた。


「あぁ……だからトロンって呼んでたんだ」


 藪からトロンと呼びながら操野が出てきた訳がわかった。

 操野が藪の中にいた理由がわかって安心したのか哲也が普段の表情に戻って続ける。


「その玩具がどうしたの? 」

「逃げたのよ、大事にしてたのに……それで探してたのよ」

「逃げたって……玩具が? 」

「うん、この辺りで気配がしたから探してたの」


 あっけらかんと話す操野の向かいで哲也の顔が強張っていく、


「この近くで遊んでたんですか? それで藪の中に入っていったんですね」

「ううん、4日ほど前にいなくなったのよ」


 無邪気に首を振る操野の前で哲也が目を閉じて溜息をつく、


「4日前って……僕をからかってんですか? 」


 直ぐに目を開けると迷惑顔で操野を見つめた。


「からかってなんかないわよ、ほんとに逃げたんだからぁ」


 拗ねたように口を尖らせる操野を可愛いと思いながらも哲也は弱り顔で話を始める。


「いや、4日前って……操野さんが入院したのは昨日でしょ、それがなんで此処で探してるんですか? 無くなったのは磯山病院じゃないですよね」

「そうだよ、でもここに逃げ込んだのよ」


 真面目な表情でこたえる操野の向かいで哲也が顔の前で手を振った。


「いやいやいや、玩具の犬がこんな山奥まで逃げてくるわけないでしょ」


 否定する哲也を見つめて操野がニヤッと口元を歪めた。


「AIって知ってる? 」


 バカにされたと思った哲也がムッとしてこたえる。


「人工知能でしょ、それくらい知ってるよ」


 可愛い顔で笑いながら操野が続ける。


「そう、その人工知能が入っているのよ、だから動くこともできるのよ、それで迷子になっちゃったのよ」


 操野の可愛い笑みに哲也の怒りが消えていく、


「よくある人工知能搭載っていう玩具だな、話し掛けたら反応する奴だね」

「 ……まぁね」


 少し間を置いてから操野がこたえた。その様子に不穏なものを感じたが相手は可愛い女の子だ。哲也が放っておけるわけがない。


「それが逃げたんですか? 」

「そうなのよ、探してたのよ…… 」


 操野が正面から哲也を見つめる。


「一緒に探してくれない? 警備員なんでしょ? 病院詳しいよね、哲也さんが手伝ってくれると見つかると思うの」

「いや……僕は忙しいから………… 」


 正直、病院の敷地にあるわけはないと思っている。家で無くしたのなら家の近くで探すのが正解だ。


「お願い、哲也さぁん」


 どうやって断ろうかと考えていた哲也の手を操野が握り締めた。


「いや……あのぅ………… 」

「時間のあるときでいいの、私1人じゃ探せないわ、お願い、哲也さぁん」


 哲也の右手を胸元に引き寄せて両手で包み込むようにして甘い声を出す。


「じゃっ、じゃあ、時間のあるときだけなら…… 」

「ほんと? 」


 握り締めていた哲也の手を操野がパッと離した。


「うっ、うん、朝と昼は暇だから…… 」


 戸惑う哲也に操野が飛び付くようにして抱き付いた。


「嬉しい! 哲也さんが手伝ってくれれば直ぐに見つかるわ」

「おぉぅ! 」


 急に抱き付かれて思わず声が出た。哲也と比べて頭一つ以上小さな身体だが操野は柔らかで女の子特有の良い匂いがした。


「哲也さんって優しいんだね」


 抱き付いたまま操野が顔を上げて哲也を見つめる。20センチも離れていない直ぐ傍に操野の可愛い顔があった。


「ちっ、近い近い…………まっ、任せてよ」


 サッと視線を逸らす哲也は顔どころか全身真っ赤だ。


「じゃあ、早速探そう! 」


 抱き付いていた操野がバッと離れる。哲也と違って異性として意識していないのか平然としていた。


「一寸待って」


 自分でも真っ赤になっているのがわかったのか哲也は手で顔を撫でるように何度か拭くと続けた。


「その犬の玩具のことを詳しく教えてくれ」

「そうね、さっきも話したけど…… 」


 身振り手振りを交えて先程より詳しく説明し始めた。

 犬の玩具は水色のプラスチックで出来ていて大きさは30センチくらい、顔も四角で身体も手足も四角、メカっぽい犬のロボットといった姿だ。手足には関節があり電池駆動で歩くことが出来る。人工知能と大層なことを言っているが要はセンサーとICチップが入っていて人の声などに反応して感情があるかのように見えるだけだ。


「これくらいの水色の犬…… 」


 説明を聞いた哲也がハッと思い出す。


「あの玩具だ! 」


 5日前の深夜の見回りで見た。コンクリート製の通路を走って行った犬の玩具に違いないと思った。


「知ってるの? 」


 身を乗り出す操野に頷いてから哲也が続ける。


「見たことがある。間違いない、水色のロボットみたいな犬の玩具だった」


 感染症の疑いのある動物が入ってきて騒動になった事ですっかり忘れていた。

 操野が哲也の腕を引っ張る。


「どこで見たの? 触ったの? 捕まえた? 」


 それまで平然としていた操野の顔に焦りが浮んでいた。


「捕まえようとしたら凄い速さで逃げていったよ、あれは…… 」


 只の玩具じゃないと言いかけて哲也は操野の様子に気が付いた。


「殺されるとか助けてって言ってたよ、いつの間にか消えてたし……あれなら逃げたって言う操野さんの話しも信じられるよ、あれは何なの? 只の玩具じゃないよね」

「あれは…… 」


 険しい表情で口籠もる操野に哲也が優しい声を掛ける。


「驚かないから全部話してよ、オカルト好きでしょ? 僕もオカルトは好きだからバカにしたりしないよ、あの犬の玩具には何かが憑いているんでしょ? 」

「そう……哲也さんにはわかるのね、それなら大丈夫ね、あの犬のおもちゃには幽霊が憑いてるのよ、座って話しましょう」


 操野が遊歩道の脇にあるベンチを指差した。わかったと言うように頷くと哲也は操野と一緒に歩き出す。

 ベンチに並んで座ると神妙な面持ちで操野が話を始めた。

 これは操野結愛くりのゆめさんが教えてくれた話しだ。



 操野はそれなりに大きな政令指定都市に住んでいる。都市の中心部にある閑静な住宅地に建つ2階建ての建売住宅に両親と弟の家族4人で暮らしていた。父は24時間稼働している大きな工場の責任者でそれなりの給料を貰っているので並以上の生活は出来た。其れ故か操野は少し甘やかされて育った。


 操野は背が低く幼顔で小学校高学年の頃から幼いとか成長が止まっているなどとからかわれ出した。実際に同級生よりも3歳は年下に見えた。小学校6年生の頃に友人たちとプールに行って操野だけ低学年と勘違いされて入るのを注意されたくらいだ。

 其れは歳を取るごとに激しくなっていく、周りの同級生は大人っぽくなっていくのに操野は身長も伸びずに幼いままだ。中学2年生の頃には同級生と比べて5歳は年下に見えるようになっていた。友人たちと遊びに行っても誰かの妹かと勘違いされるのはざらだ。


 操野はもう少し背が伸びて大人っぽくなりたいと願っていたが悪いことばかりではなかった。幼く見えるので頼り無く思えるのか女子だけでなく男子たちも操野ちゃんと『ちゃん』付けして優しくしてくれる。部活の先輩たちなどは愛玩動物のように可愛がってくれた。中学校までは同じ地域の見知った者たちばかりだったので幼い頃から操野のことを知っている人も多く何かと庇ってくれて楽しく過ごすことが出来た。

 だが高校生になって状況が一変する。男子にちやほやされるのが一部の女子に不満だったらしく陰湿な苛めが始まった。なんでも苛めグループの中心人物である女子が恋心を抱いている男子が操野に優しくしているのを見て焼き餅を焼いて取り巻きたちと共に苛めを始めたのだ。


 操野は不登校になり家に引き籠もってしまう、両親は学校に相談して苛めがあったことを知る。学校は対処すると言ってくれたが操野が登校することはなかった。両親が叱ると操野は自分の背が伸びないのは何故かと、弟は成長しているのに自分は成長しないのは何故かと恨むように両親に訴えた。身体の成長のことなど言われても両親には何も出来ない、操野本人が悪いわけでもなく親も悪いわけでもない、無責任に叱り付けるわけにも行かず両親は暫く様子を見る事にした。操野は高校を辞めて部屋に引き籠もって暮らすようになる。


 引き籠もったと言っても全く表に出ないわけではない、菓子や飲み物に本などを買いに出歩くことも多々あった。だが両親や店員以外に話し掛けることは滅多に無い、小学校や中学校の頃の知り合いが声を掛けてきても逃げるように立ち去った。苛めという体験をして心が引き籠もってしまったのだ。


 そんな操野にも遊び相手がいた。プラスチックで出来た犬の玩具だ。ロボットみたいなゴツゴツした姿をした犬の玩具でコンピューターチップが入っているのか此方から話し掛けたり撫でたりすると尻尾を振ったり鳴いたりと反応する玩具である。今のAIを利用したようなものではなく10年以上も前の安っぽいものだが操野にとって親友とでも言ってよいだろう大切な玩具だ。


 大切な物だが買ったのではない、小学校5年生の時に捨ててあったのを拾ったのだ。何気なく拾ってきて綺麗に洗うと本棚に飾っておいた。そのまま放って置いて2年が経ち操野は中学生になった。

 中学2年生になり部屋の模様替えをしていて犬の玩具が目についた。中学生になっても背は伸びず相変わらず小さいままだ。思春期を迎えて操野は自分の身体にコンプレックスを抱くようになっていた。

 こんな玩具を飾っていれば其れこそ子供だと思われると操野は犬の玩具を捨てようとした。その時、犬の玩具が鳴いて動き出した。スイッチを切ろうとして玩具を掴んだ操野は驚く、スイッチどころか電池も入っていない、動くはずのない玩具が動いた。

 怖くなって犬の玩具をゴミ箱に放り込む、だが暫くして操野はゴミ箱から犬の玩具を拾い上げた。離れたくないと玩具が訴えたのだと思ったのだ。

 操野は犬の玩具を飾ってあった本棚に戻した。何か悪いことがあればその時に捨てればいいと考えたのだ。


 高校を中退して引き籠もった操野は何気なく本屋で買った雑誌を読んでオカルトにのめり込んでいく、通販でその手の本を買い漁り幽体離脱の方法や幽霊が見える方法などを色々試すようになった。



 ある夜、操野は本で読んだ幽体離脱の方法を試しながらベッドで横になっていた。


「やっぱダメか…… 」


 残念そうに呟くと寝返りを打って目を閉じる。あれやこれやと15分ほど頑張っていたが何も変化は起きない、今までにも幽体離脱の方法や明晰夢を見る方法など色々試してきたが旨く行った例しがなかった。


「あぁ…… 」


 諦めて寝ようとした時、全身に痺れが走った。金縛りだ。

 身体は痺れたように重く動かないのに意識はハッキリとしている。金縛りは何度か経験したことがあった。その度にお経のようなものが聞こえてきたり枕元をうろうろと歩く影のようなものが見えた。オカルト好きな操野にとって恐怖などは無く、今回も何が起こるのかと期待しながら待ち構えた。


 金縛りのまま暫く経った。期待とは裏腹に幽霊は出てこない、それどころか声や音も聞こえてこない、何か変化はないかと唯一動く目を使って見える範囲を見回した。


「ふぅぅ…… 」


 喉から空気が漏れるような声が出た。恐怖ではない、操野は喜んでいた。

 本棚の上から2番目の棚がぼうっと青白く光っていた。角度の関係か、何が光っているのかは分からない、あの棚には何を置いてあっただろうと操野は必死で考える。


「おもちゃ! 犬のおもちゃだ」


 声が出ると共に金縛りが解けた。操野がばっと上半身を起す。


「消えてる…… 」


 青白い光は既に消えていた。がっかりしながら操野がベッドから起き上がる。


「光ってたのはお前だよな」


 本棚から犬の玩具を取り出した。何の変哲もない水色のプラスチックで出来たロボットのような犬の玩具だ。センサーが付いていて触ったり音に反応して動く、少し前に流行ったペットの代わりにしてくださいと言って売り出された玩具である。


「中学の時に動いたよな、電池も入ってないのに動いて鳴いたよな、それで今度は青く光ったんだ」


 話し掛けながら操野は犬の玩具を調べ始める。


「電池は入れてないし、光るのは目だけだよな、さっき見たようにバーッと光ったりしないよな」


 犬の玩具をポンポン叩きながら操野がニヤッと悪い顔で笑う、


「やっぱ何か憑いてるだろ? 幽霊か妖怪か、何か取り憑いてるだろ? なぁ、誰にも言わないからさ、私と友達になろうよ」


 顔の正面に犬の玩具を持ってくると操野はじっと見つめた。


「今日から友達だよ、だからさぁ、動いてよ、さっきみたいに光ってもいいよ」


 優しく声を掛けながら犬の玩具の四角い頭を撫でてやる。


「安心して私は味方だよ、誰にも言わないからさぁ、だから動いてよ、鳴いてよ、何か取り憑いてるんでしょ? 幽霊でも妖怪でも怖がったりしないからさぁ」


 何度も話し掛けるが犬の玩具は何の反応も無い。


「そうなの……何かが取り憑いてるんじゃないのか」


 ベッド脇のテーブルに犬の玩具を置くと操野は部屋の明かりを点けた。


「トイレ、トイレっと…… 」


 呟きながら部屋を出て行く、操野の部屋は2階だ。態と足音を立てて階段を下りると直ぐにそっと足音を立てないように上がっていった。

 ドアの隙間から暫く覗いていたがテーブルの上に置いた犬の玩具には何の変化もない。


「ダメか…… 」


 がっかりしながら階段を下りてトイレへと入った。

 用を済ましてトイレを出ると玄関へと向かう、靴箱の上にある棚からドライバーセットやペンチなどの工具を取り出して部屋へと戻った。


「ねぇ、本当に何も憑いてないのね、だったらバラしてもいいわよね」


 テーブルの上、犬の玩具の横に+や-のドライバーとラジオペンチやカッターなどを並べて置いた。


「何で動いたか確かめなくちゃ気が済まないのよ」


 ドライバーを片手に犬の玩具を持ち上げた。その時、犬の玩具の目が光った。


「おわっ! 」


 驚いて落とすと犬の玩具は手足を動かしてテーブルの傍から部屋の隅まで走って行った。


「動いた……やっぱり」


 操野が嬉しそうにニタリと笑った。


「やっぱり何か取り憑いているのね、大丈夫よ、私は味方だから…… 」


 宝物を見つけたような嬉しそうな笑みを湛えて操野が部屋の隅にいる犬の玩具に近付いていく、


「ここまで歩いてきなさい、動けるんでしょ? 」


 部屋の隅にいる犬の玩具の前にしゃがんでこっちへ来いと手招いた。だが犬の玩具は動かない、目の光も消えている。


「どうしたの? 今更とぼけても仕方ないでしょ、見たんだから……分解されるのが嫌で逃げたんでしょ? 安心なさい、もう壊したりしないから、それより大事にしてあげるわよ、言ったでしょ、友達だって…… 」


 操野が犬の玩具を抱きかかえた。


「私は彼奴らと違う、私を虐めた奴らと違う、見て見ぬ振りをした奴らとも違う、友達は大事にするわ、だから動いていいわよ、鳴いてもいいわよ、誰にも言わないから、私だけの秘密にするから」


 優しく話し掛ける操野の目に陰鬱な光が浮んでいた。


「ねぇ、何か言ってよ……友達でしょ」


 正面から犬の玩具を見つめながら話し掛ける。


「ねぇ……何か言いなさいよぉ、もう隠す事なんてないでしょ」


 優しい笑みを浮かべて何度も話し掛ける。


「私は味方よ、誰にも言わないわ、だから安心して正体を現わしなさい」


 犬の玩具は何の反応も無い、スイッチどころか電池も入っていないので当り前だ。


「ねぇ…… 」


 操野の顔からすっと表情が消えた。


「壊されたいのか! 」


 怒鳴りながら犬の玩具を乱暴に投げ落とす。


「さっさと正体を現わせ! 幽霊か? 妖怪か? 何かが入ってるのは分かってんのよ、中学の時に動いたでしょ、さっき寝ている時に光ったでしょ、分解しようとしたら逃げたじゃない……他にも夜中に気配を感じることがあるのよ、全部あんたでしょ? わかってるのよ」


 顔に怒りを浮かべてフローリングの床に転がる犬の玩具を踏み付けた。


「今更とぼけても仕方ないでしょ、私が…… 」


 操野の顔から怒りが消えていく、踏み付けていた足をどけると犬の玩具の脇にしゃがみ込んだ。


「私が守ってあげるって言ってるでしょ」


 優しく声を掛けながら犬の玩具を拾い上げる。


「私は味方よ、貴方が何者でも守ってあげる。誰にも言わないから安心して」


 ニッコリと笑って犬の玩具の頭を撫でた。


「そうだ! 名前を付けてあげるね…… 」


 暫く考えると操野がポンッと犬の玩具の頭を叩く、


「トロンってどう? 確かコンピューターか映画か何かでそういうのあったでしょ、あんたロボットの犬だから丁度いいでしょ、今日からあんたはトロンよ」


 部屋の明かりを消すと、トロンと名付けた犬の玩具を持って操野はベッドに寝転がる。


「ねぇ、トロン、何でこのおもちゃに取り憑いたの? 何かしたい事があるの? 私が手伝ってあげるわよ」


 枕元にトロンを置いて撫でながら話し掛ける。


「何でもいいわよ、トロンが望むなら何でも手伝ってあげる」


 トロンは何の反応も無い、話し掛ける操野の目に陰鬱な光が浮ぶ、


「何でもいいわ……人殺しでも何でも、私も殺したいほど恨む奴らは沢山居るから……おやすみトロン」


 目を閉じようとした操野の顔の横でトロンの目が光った。


「トロン! 」


 操野が腕を枕に立ててバッと上半身を起す。トロンの目が光ったのは一瞬だ。


「何が言いたいの? 殺したい奴がいるのね」


 反応したのが嬉しいのか、殺したいという言葉にこたえたのが嬉しいのか、操野の口元が喜びに曲がって引き攣ったような笑みになっていた。


『タスケテ…… 』


 トロンがか細い声を出した。操野が顔を顰める。


「助けて? 何を助けるの? 」


 抱き上げて訊くがトロンは何も反応しない。


「貴方話せるのね、ねぇトロン、もっと話そうよ」


 優しく声を掛けながら撫でるがトロンは動かない。


「まぁいいわ、言葉を話せるってわかったから」


 枕元にトロンを置くと操野も布団に潜り込んだ。


「まだ警戒しているのね、私は敵じゃないからね、トロンのことは誰にも言わないわ、親にも話さないから安心して…… 」


 色々と話し掛けている内に操野は眠りに落ちていった。



 翌朝、いつものように午前10時頃に目を覚ます。高校を中退して引き籠もって深夜まで起きている操野はだらけた生活をしていた。


「ふぁあぁ~~、よく寝た」


 ベッドで寝転んだまま欠伸と同時に大きく伸びをする。


「お腹減った…… 」


 上半身を起した操野が枕元に犬の玩具が無いのに気が付いた。


「トロン? 」


 落ちたのかと身を乗り出してベッドの下を見るがトロンは居ない。


「トロン! 」


 慌てて起き上がるとベッドの周りは勿論、部屋の中を探しまくった。


「トロン! どこなの? 出てきてトロン」


 呼びながら必死で探していると本棚と壁の隙間に水色が見えた。


「トロン……そんな所にいたのね」


 優しく声を掛けながら手を伸ばす。


「あれっ、取れないな、挟まってるのか……何してたのトロン」


 本棚と壁の隙間に入り込んでいたトロンを引っ張り出す。


「埃だらけじゃない、綺麗にしてあげるからね」


 嬉しそうに声を掛けながらウエットティッシュで拭いてやる。


「ベッドから落ちただけじゃあんな所には挟まらないよね、トロンが自分で動いたって証拠よ、昨日の出来事は夢じゃないって証拠だよ」


 正面からトロンを見つめる操野の顔は満面の笑顔だ。


「貴方の正体は何なの? 幽霊? 妖怪? 神様……悪魔でもいいわよ、だから友達になりましょう、私は貴方の味方よ、だから安心して……だから私には正体を教えて、トロンのしたいことを手伝ってあげるからね、だから私にも力を貸してね」


 可愛い笑顔の目の奥に暗い陰を浮かべて話し終えると操野はトロンをベッドの上に置いた。


「私の部屋の中なら勝手に動いてもいいわよ、何があっても私が守ってあげるからね」


 優しく声を掛けると操野は部屋を出て行った。



 顔を洗って歯を磨き、寝間着のまま遅い朝食を食べて部屋へと戻る。


「大人しいじゃない、部屋の中は自由にしてもいいのよ、好きなだけ歩き回りなさい」


 ベッドの上に置いてあるトロンに声を掛けながら服を着替える。


「雄なのかな? 雌なのかな? 男の子なら恋人になってあげてもいいわよ」


 笑いながら言うと机の上からスマホを取って部屋を出て行く、一旦閉めたドアをすっと開けて顔を見せた。


「留守番頼むわよ、お菓子を買ってくるついでに電池を買ってきてあげるわね」


 操野は上機嫌で買い物へと出掛けていった。



 40分程して操野が帰ってくる。

 引き籠もっているとは言っても全く外出をしないわけではない、週に3回ほどは買い物に行っている。但し人と話すことは最低限しか行わない、小学校や中学校の知人を見ると逃げ帰ったりしていた。苛めが原因で他人に対して心を閉じているのだ。本格的な引き籠もりの前段階といっていいのかも知れない。


「電池買ってきたわよ…… 」


 スーパーと100円ショップの袋を持って部屋に入る。


「トロン? 」


 ベッドの上に置いてあった犬の玩具が消えていた。


「トロン、どこなの? 」


 また本棚の隙間に入り込んだのかと探すが居ない。


「どこ行ったの? 出てきなさい、トロ~ン」


 ベッドや机の下、布団の中やテレビの後ろ、目に付く所を探していく、


「トロンちゃぁ~ん、どこかなぁ~~ 」


 幼児かペットを探すように戯け声を出しながら探していた操野の顔から笑みが消えた。


「どこなの……いい加減に………… 」


 怒りを浮かべて怒鳴ろうと少し上を向いた目にトロンが映った。

 本棚の上、不要になったけど捨てるのは惜しい小物などを入れている段ボール箱の横に隠れるように挟まっていた。


「なぁんだぁ、そんなとこに居たのね」


 一瞬で怒りを消すと本棚の前に椅子を持ってくる。


「また汚れたじゃない……仕方ないわねぇ」


 抱きかかえるように下ろすと埃だらけのトロンを見てニィーッと笑った。


「散歩でもしてたの? 部屋の中は動いてもいいけど、いいって言ったけど、逃げちゃダメよ……もし逃げようとしたら承知しないからね」


 ニタリと嫌な顔で笑いながらトロンに付いた埃を拭いてやる。


「綺麗になったわ、電池買ってきたから入れてあげるわね」


 お腹の蓋を開けて100円ショップで買ってきた電池を入れる。


「あれ? 動かないわね」


 電池を入れてスイッチを点けるがトロンは無反応だ。

 捨ててあったのを拾ってきたのだ。元の持ち主は壊れたから捨てたのだろう、動かなくて当り前だ。


「何で動かないのよ! 電池を入れたらもっと動き回ると思ってたのに…… 」


 ムッと怒りながら操野はトロンをベッドの上に放り投げた。

 暫くして操野がベッドに寝っ転がる。


「まだ警戒しているの? 私は味方だって言ってるでしょ」


 トロンを抱き寄せて話し掛けるその顔には怒りは無い。


「ねぇ、トロンは何がしたいの? 誰かに恨みは無いの? あったら手伝ってあげるよ、どんな事でもするよ、トロンのためだったら……それでね、私にも力を貸してね」


 トロンを見つめる操野の顔は無表情だ。


「私はね……私を苛めた奴らに復讐したいの、遥香はるか妃奈ひな、あの2人を殺してやりたい」


 光の加減か、トロンの水色のプラスチック製の四角い頭に暗い目をした操野が映り込む、


『タスケテ……タスケテ………… 』


 トロンがか細い声を出した。操野がバッと上半身を起す。


「助けて? 誰を助けるの? トロンは誰かを助けたいの? 」


 トロンを抱えるように正面に持ってくると訊いた。


『タスケテ……私をタスケテ………… 』

「私? 」


 誰のことだと考えていた操野の顔がみるみる変わっていく、


「私は助けなんて求めてない! 彼奴らに復讐してやりたいのよ! 」


 怒鳴りつける操野の前でトロンが目をピコピコ光らせた。


『タスケテ……タスケテ……私を助けて…………ココカラ出して』

「何言ってんの! 助けてくれなんて頼むか!! 」


 怒鳴りながら操野はトロンを放り投げた。


『タスケ…… 』


 本棚横の壁に当たってトロンが転がった。


「もう電池なんて抜いてやるから! 」


 床に転がるトロンに吐き捨てると寝返りを打って背を向けた。


「助けなんているか! 誰も助けてくれない、助けなんてない……私は彼奴らを許さない」


 目に涙を溜めた操野が布団を頭から被った。



 いつの間に眠ったのだろう、日は落ちて薄暗くなっていた。


「もうこんな時間か…… 」


 スマホで確認すると午後7時を回っていた。


「トロンは? 」


 思い出したように床を見る。トロンは放り投げたまま転がっていた。


「ごめんね……本当にごめんね」


 起き上がるとトロンを抱き締めてベッドに腰掛ける。


「お願いトロン、力を貸して……私を苛めた奴に復讐したいの、トロン……私はその為に力が必要なの、幽体離脱も呪いの方法も、全部仕返しするために調べてるのよ、お願いトロン、私に力を貸して…… 」


 何も反応しないトロンを枕元に置くと夕食を食べに部屋を出て行った。



 誰も居ないキッチンで冷めたおかずをレンジで温めて1人で食べる。父が仕事から帰ってくるのはいつも午後9時を回ってからだ。母は隣のリビングでテレビを見ている。弟は塾へ行っているか、塾の無い日はこの時間帯は風呂に入っている。

 操野はいつも1人で食べるようになっていた。高校を中退するまでは、引き籠もるようになるまでは仕事で遅い父はともかく、母や弟とテーブルを囲んで食べていた。家族を避けているのではない、引き籠もって過ごしている内に食事などの時間がずれていっただけだ。といって操野の方から家族に声を掛けることはめっきりと減ったのは確かだ。


「ごちそうさま…… 」


 食器を洗うと操野はちらっと風呂を見る。弟はまだ入っている様子だ。


「見たいテレビもあるし、今日はいいか」


 風呂に入るのを諦めて自分の部屋へと戻っていった。


「トロン? 」


 枕元に置いていたトロンが消えていた。


「また何処かに隠れたのね」


 操野が部屋を見回す。初めに隠れた本棚の後ろ、次に隠れた本棚の上、どちらにも姿は見えない、


「隠れん坊ね、直ぐに見つけてあげるからね」


 クスッと楽しげに笑うと部屋の中を探し始める。


「トロンちゃぁ~ん、何処に隠れたのかなぁ~~ 」


 名前を呼びながら探すが見つからない、箪笥や押し入れの中まで探した。


「いい加減にしなさいよ、早く出てこないと怒るわよ」


 操野の顔から笑みが消えていた。


「トロン! 出てきなさい、トロン! 」


 怒鳴りながら1人で動かせる物を動かして探していく、


「トロン!! どこなの! さっさと出てこい!! 」


 椅子にテレビ台、ベッドの下に置いてあった小物を入れている箱や雑誌、引っ張り出せる物は全て出して探したがトロンはどこにも見つからない。


「外へ逃げたんじゃ…… 」


 窓を開けて身を乗り出すように辺りを見ているとドアをノックする音と共に弟の声が聞こえた。


「これ姉ちゃんのか? 」

「何よ! 今忙しい…… 」


 鬱陶しそうにドアを開けると風呂上がりの弟がトロンを摘まむようにして持っていた。


「トロン! 」


 弟から奪い取るようにトロンを受け取ると操野が続ける。


「どこで見つけたの? あんたが持って行ったんじゃ…… 」


 怪訝な目で睨まれて弟が慌てて口を開く、


「違うからな、そんなの俺が取るわけないだろ、風呂から出たら部屋に転がってたんだ。それで姉ちゃんのかなって…… 」


 ちらっと部屋の中を見た弟の顔が強張っていく、トロンを探しまくって操野の部屋は荒れていた。


「そっ、そうなの、ごめん…… 」

「 ……わかったらいいよ」


 ぎこちなく謝る操野に弟は何か言いたげだったが何も言わずに向かいの自分の部屋に戻っていった。



 トロンを抱きかかえて操野がベッドに腰を下ろす。


「見てごらんなさい、貴方を探して滅茶苦茶よ」


 膝の上にトロンを載せて荒れた部屋を見せ付ける。


「何で逃げるの? 大切にしてあげているでしょ」


 優しく声を掛けながらトロンの頭を撫でた。


「貴方は私の大事なペット……ペットじゃないわね、友達ね、貴方は私の大事な友達なのよ、だから逃げちゃダメよ」


 枕元にトロンを置くと荒れた部屋を片付ける。


「汗もかいたし、テレビ見たかったけど風呂にするか」


 20分ほど掛かって適当に片付け終えると着替えを持って風呂へと入りにいった。



 風呂から上がって2階の自分の部屋へ戻ろうと階段へ向かう、何気なく玄関に目がいった。ドアの前にトロンが転がっていた。


「トロン! 」


 慌ててトロンを拾い上げる。


「逃げようとしたわね…… 」


 怒りも露わにトロンの首根っこを掴むようにして部屋へと戻った。


「何で逃げた! 」


 部屋へ入るや否や、トロンをベッドに放り投げた。


「貴方は私の大切なペットなのよ」


 タオルで髪を拭きながらベッドに転がるトロンを睨み付ける。無意識だろう、友達からペットに変わっていた。


「私のペットなのよ、逃げちゃダメでしょ」


 ドンッとベッドに腰を下ろすとニタリと不気味に笑ってトロンを持ち上げる。


「ペットのくせに逃げるなんてお仕置きが必要ね」


 ガムテープと紐で首輪をするようにトロンを縛った。


「これでいいわ、ペットの放し飼いはダメなのよ」


 トロンを枕元に置いてベッドの柱に紐を括り付ける。

 深夜までテレビを見たりスマホを触っていたが眠くなったのでベッドに寝転がる。


「貴方は私のものよ、逃がさないから」


 縛り付けたトロンを撫でながら眠りに落ちていった。



 翌日、昼過ぎに目を覚ますと枕元に置いていたトロンが消えていた。


「トロン……逃げたのね」


 縛り付けていたガムテープと紐がベッドの下に落ちている。


「もう許さない…… 」


 顔を洗うのも忘れて探すが部屋の中には居ない、


「トロン、どこなの? 出てきなさい」


 向かいの弟の部屋を見るが気配もしない、


「今なら怒らないわ……早く出てきなさいトロン、今なら許してあげるわ、でも出てこないならバラバラにするからね」


 怒りを露わに家の中を探しまくる。食事も取らずに昼過ぎから夕方まで探すがトロンは見つからなかった。


「トロン……貴方も私をバカにするのね」


 恨めしげに呟くとベッドに寝転がる。


「お腹減った…… 」


 起きてから何も口にしていない、時刻は午後5時前だ。


「もう直ぐ御飯だしお菓子でも食べるか」


 机の上に置いてある買い置きの菓子の入った袋を眺めてどれを食べようかと考えていると玄関のドアが開くのが聞こえた。


「ただいまぁ」


 声と共に階段を上がってくる足音が聞こえた。中学生の弟が帰ってきたのだ。


「お前じゃなくてトロンが帰ってこいよなぁ」


 ふて腐れて寝転がっているとドアがノックされた。


「何か用? 」

「姉ちゃんこれ…… 」


 操野が怠い声を出すとドアが開いて弟の手が出てきた。


「トロン! 」


 ドアの隙間から弟が差し出した手にトロンがぶら下がっているのを見て操野が飛び起きた。


「あんたが持って行ったの! 」


 ガバッとドアを開けて怒鳴る操野の前で弟が違うとブンブン手を振った。


「違うよ! 角の公園の前に転がってたから姉ちゃんのかなと思って持ってきたんだ」


 怒りを戸惑いに代えて操野がぎこちなく頭を下げた。


「そっ、そうなの……ごめん……ありがとうね」


 謝る操野の前で弟が心配と哀れみの混じった何とも言えない表情で話し出す。


「うん……昨日見たから直ぐに分かったけど知らなかったら放ってたぞ、何なんだ。その汚い玩具……姉ちゃん話し掛けてるだろ? 」

「これは……何でもない…………ありがとう」


 トロンを後ろに隠すようにして反対側の手で閉めようとするドアに弟が手を掛けた。


「姉ちゃん! 何かあるなら話せよな、この前からおかしいよ、1人で騒いだりして…… 」

「煩かったの? ごめん……静かにするから」


 操野は謝りながらドアを閉めようと力を込める。


「そんなこと言ってんじゃ…… 」

「ごめん、着替えるから」


 操野は寝間着姿のままだ。着替えると言われて弟は掴んでいたドアを離してしまう、


「ありがとう」


 礼を言って操野はドアを閉めた。


「姉ちゃん…… 」


 心配そうに呟く弟の声が聞こえた。



 ドアの近くで弟の気配が消えるのを確認してから操野はベッドに腰を下ろした。


「何で逃げる? 御主人様に逆らうな」


 首根っこを掴むようにして顔の前にトロンを持ってくる。


「お前の主は私でしょ、逃げるなんて許さない」


 トロンを睨む操野の顔から感情が消えている。


「わかったら返事をしなさい、目を光らせたり鳴いたりしなさい、ちゃんとこたえたら許してあげる」


 抑揚の無い低い声で話し掛けて暫く待ったがトロンは無反応だ。

 反対側の手でトロンを抱くようにして持ち替えると首根っこを掴んでいた手で頭を撫でる。


「どうしたの? 逃げられるなら返事くらい出来るでしょ? この前のように話しなさいよ、タスケテとか言ってたじゃない、出来ないのなら光りなさい、目をピカピカ光らせてたでしょ、何でもいいからやって見せなさい、そうしたら許してあげるわ」


 微笑みかけながら優しい声で話し掛けてもトロンは無反応だ。


「そうなの……無視するのね、苛められていた私を無視していた連中のように………… 」


 微笑みながらトロンをひょいっと摘まみ上げる。次の瞬間、怒鳴りながらトロンを床に叩き付けた。


「逃げるんじゃないわよ、クソ犬が! 」


 床に転がったトロンを目を吊り上げた怒り顔で操野が罵倒する。


「拾ってあげた恩を忘れてバカ犬が! 私が拾わなきゃゴミ収集車で潰されて燃やされてたのよ、それなのにクソ犬が! 私が何をした! 力を貸してあげるって言ったでしょ? 協力してあげるって…… 」


 ガンガン踏み付けながら暫く罵倒していた操野がベッドに腰を下ろした。


「逃げるだけで友達にもなってくれない……いいわ、あんたがその気ならもういいわ、おもちゃならおもちゃ扱いしてあげるわよ」


 トロンに紐を結び付けるとベッドに寝転がる。


「そんなに逃げるのが好きなら散歩してきなさい」


 寝ながらトロンを放り投げた。

 ガシャッと音を立てて床に転がるトロンを見て楽しそうに声を出して笑う、


「あははははっ、ほらっ、戻ってこい」


 結んである紐を引っ張って手元に戻すとまた床に叩き付ける。


「おもちゃなんでしょ? 文句言うなよ、遊んであげてるんだからな」


 数回叩き着けて飽きたのかスマホを弄り始めてそのまま寝入った。


「トロン! 」


 どれくらい眠っただろう、ハッと目を覚ました操野が慌ててトロンを探す。


「良かった……次逃げたらバラバラにするからね」


 床に転がるトロンを見て安堵した。

 その日からトロンを手元に置いて事ある毎に叩き着けたり放り投げたりして遊んだ。結んである紐を引っ張れば直ぐに手元に戻すことが出来る。

 操野は犬の玩具を苛めるのが楽しくなっていた。



 3日ほどして、仕事から帰ってきた父が子犬を連れて部屋にやってきた。


「結愛、お土産持ってきたぞ」

「可愛いぃ~~ 」


 父が抱いている子犬を見て寝転がっていた操野が飛び起きた。


「仕事の知り合いがな、子犬生まれたって言ってたから貰ってきたんだ。血統書はないけど雑種じゃないぞ」


 笑顔でやってきた操野に父が子犬を差し出す。


「やったぁ~、飼ってもいいの? 」


 子犬を抱き締めて年頃の女の子のように喜ぶ操野を見て父も相好を崩す。


「お前、犬が飼いたかったんだろ? 」

「えっ? なんで? 」


 子犬を抱き締めながら首を傾げる操野の前で父が笑顔で口を開く、


功仁くにが言ってたぞ、お前が犬を飼いたがってるって」


 功仁とは弟の名前だ。操野が犬の玩具に話し掛けているのを父に相談したのだろう、話しを聞いた父は操野が少し心を病んでいるのかと心配したのかも知れない、本物の犬を飼うことで情操教育的にも良いと考えたのだ。


「彼奴…… 」


 余計なことを言いやがってとムッとする操野の抱き締めている子犬の頭を撫でながら父が続ける。


「今のままじゃ世話は出来ないって母さんは反対なんだけどな…… 」


 黙り込んだ操野の顔を父が覗き込んだ。


「世話くらいするよな、お前の犬なんだからな、可愛がってやれよ」

「 ……わかった」

「取り敢えず餌は少し貰ってきたから次の休みに父さんとペットショップ行って色々買い揃えような」


 こくっと頷く操野を見て父は笑顔で部屋を出て行った。犬の世話をすることで引き籠もりを治そうと考えたのかも知れない。



 操野が子犬を抱きながらベッドの脇に歩いて行く、


「トロンと違って丸っこいな……丸いからマロンだ」


 名前を付けるとマロンの首根っこを掴んで持ち上げる。

 ベッドの上に転がるトロンを見て操野がニタリと悪い顔で笑った。


「マロン……ほら友達だ。遊んでやれ」


 首根っこを掴まれて身を縮めているマロンをベッドの上に放り投げた。


「ヒャウン! 」


 悲鳴を上げるマロンを見て操野が楽しげに笑う、


「あはははっ、おもちゃが増えたわ、トロンもマロンも壊れるまで遊んであげるわよ」


 楽しげに笑う操野の見つめる先で子犬のマロンが犬の玩具のトロンに齧り付く、


「グゥゥ…… 」


 唸りを上げながらトロンで遊び始めたマロンを見て操野が満足そうに頷いた。


「動かないトロンより可愛いわ、そのおもちゃはもういらないから壊してもいいわよ、噛んでバラバラにしてやりなさいマロン」


 風呂に入ろうと操野は笑いながら部屋を出て行った。



 風呂から出た操野が冷蔵庫からお茶を取り出す。


「マロンも喉渇いてないかな、丁度いい皿は…… 」


 カレーやシチューなどに用いる深い皿に水を入れると部屋へと戻った。


「マロン、水持ってきたぞ」


 もう名前を覚えたのか呼ぶとマロンは直ぐに寄ってきた。


「お前は可愛いなぁ……それに引き換え」


 水の入った皿をフローリングの床に置くとトロンを探す。


「紐が外れてる……あのバカ犬……次はバラバラにするって言ったよな」


 トロンはどこにもいない、ベッドの柱に結び付けてあった紐だけが残っていた。



 寝間着から普段着へと着替えるとトロンをベッドの柱に結び付けていた紐をマロンの首輪に結び付ける。


「マロン、散歩に行きましょうね」


 子犬のマロンを抱っこして操野は部屋を出た。

 時刻は午後の11時を回っている。母は心配したが父は子犬を貰ってきた効果がもう出たかと夜の散歩を許可してくれた。


「マロンも一緒に探してね」


 マロンを抱きながら夜道を歩いて行く、散歩といいながらマロンは抱いたままだ。


「公園には居ないか…… 」


 以前、弟が見つけたと言っていた小さな公園を探すがトロンは居ない。

 近所をぐるっと回って探すがトロンは見つからない、諦めて帰ろうかと歩き出した時、マロンが唸り声を上げた。


「どうしたのマロン? 」


 抱いているマロンが唸りを上げる先に地蔵が入っている小さな社があった。


「お地蔵さんが怖いの? 大丈夫よ、お地蔵さんは…… 」


 赤子をあやすように近付いていくと社の中、地蔵の後ろに水色が見えた。


「ふひっ! ひひひっ」


 変な笑いが出た。マロンの頭を撫でながら辺りに誰も居ないかと見回す。


「マロンは賢いわねぇ~~、それに引き換え…… 」


 マロンを撫でていた手をすっと伸ばして地蔵の後ろからトロンを引っ張り出した。


「お前はバカだ! 」


 怒りも露わに怒鳴りつけるとトロンを掴んだまま歩き出す。


「逃げたらバラすって言ったわよねぇ…… 」


 怒り猛った操野の口元だけが楽しそうに曲がっていた。



 部屋に戻ると操野はトロンを床に叩き付けた。


「お仕置きだ! バラしてやる」


 玄関の道具入れから持ってきたペンチやドライバーをテーブルに並べる。


「バラバラにされるのが嫌ならこたえなさい、タスケテって言いなさい、そしたら許してあげるわ」


 床に転がるトロンは無反応だ。


「クゥ~ン」


 マロンが甘え声を出して足に縋り付いてくる。


「あっちに行ってろ」


 ひょいっとマロンの首根っこを掴むとベッドに放り投げた。


「ヒャウン! 」


 鳴き声を上げたマロンを見て操野が何かを思い付いたようにニタリと悪い顔で笑う、


「トロン、見てなさい」


 ベッドの上で震えているマロンをひょいっと持ち上げた。


「どんなお仕置きをするか見せてあげるわ」


 狂気の宿った目でトロンを睨みながら操野がマロンを掴む手を振り落とす。


「ギャウン! 」


 床に叩き付けられたマロンが悲鳴を上げた。

 薄ら笑いを浮かべた操野が尻尾を丸めて縮こまりブルブルと震えるマロンをまた掴み上げる。


「今度逃げたらトロンもこうなるのよ」

「キャゥゥン! 」


 床に叩き付けたマロンが鳴くのを見て操野がぶるっと震えた。


「ふふふっ、恨むならトロンを恨みなさい、全部トロンが悪いのよ、ふふっ、ふはははっ、そうよ、全部トロンが悪いのよ! 」


 顔を赤らめ興奮した様子でまたマロンを床に叩き付けた。


「ヒャィィン、ヒャイン、ヒャイン」


 助けを乞うかのような悲鳴を上げるマロンを持ち上げるとトロンに見せ付けながら怒鳴る。


「お前が悪いんだ! お前が逃げるからマロンがこうなったんだ」


 トロンが目をピカピカ光らせて操野に近付いてきた。


『タスケテ……タスケテ……殺さないで………… 』

「あはははっ、やっと喋った……やっぱり何か取り憑いてるんだ」


 笑いながらマロンを床に叩き付けた。


「ギャウン! 」


 悲鳴を上げるマロンにトロンが近付く、


『タスケテ……タスケテ…… 』

「あはははっ、次はお前だ! 今度逃げたらお前も殺してやる」


 操野は見せ付けるようにマロンを叩き着ける手を止めない。


「あははっ、ひひっ、お仕置きよ……今度逃げたらトロンもこうなるのよ…………うひっ、ふひひひっ、お前が全部悪いんだ…………くひひひっ」

「ヒャウン! キャウン! ギャギャッ!! 」


 マロンの悲鳴が聞こえたのか両親が部屋へとやってきた。


「きゃぁあぁ~~ 」

「結愛! 何をしてるんだ…… 」


 子犬を床に叩き付けている操野を見て母が悲鳴を上げて父が絶句する。


「あへへへっ、お仕置きしてるの……トロンが逃げるから…………マロンを使って教えてるのよ…………トロンの中の奴に……二度と逃げないようにって……ひひっ、お仕置きしてるのよぉ~~ 」


 2人に気付いて操野が虚ろな目でニタリと笑う、マロンから飛び散った血で上半身が赤く染まっていた。


「あぁ……あなた………… 」


 血塗れになり、ぐったりと動かない子犬を見て母が卒倒する。


「なっ、なんて事を……やっ、止めなさい、結愛……お前………… 」


 母を支えながら父が震える声を出す。


「ふへっ、あひひひっ、お仕置きだから……次はバラバラにするって言ったから…… 」


 両親の前で操野が中身が入った袋を叩き着けるように死んだ子犬を床に何度も叩き付けていた。その向こうで犬の玩具がカタカタと震えるように動いている。


「止めなさい! 何をしているのか分かっているのか!! 」


 正気を取り戻した父が操野を押さえ付けた。

 一夜明けても何かが犬の玩具に憑いていると暴れる操野を見て両親は心の病だと磯山病院へと連れて来たのだ。

 これが操野結愛くりのゆめさんが教えてくれた話しだ。



 話しを聞いていた哲也が腰を上げる。喉がカラカラで水が欲しかった。


「どこ行くの? 一緒にトロンを探してくれるって約束でしょ」


 隣に座っていた操野が立ち上がった哲也の腕を引っ張った。


「のっ、喉が渇いたからジュースでも買おうと思って……操野さんにも奢るからさ」


 振り向いてこたえる哲也の顔が引き攣っている。初めは普通だったが話していく内に操野の目に暗い闇が浮んでいるように思えた。


「ジュースねぇ……そう言えばマロンも美味しそうに水を飲んでいたわ、あれが末期の水だったのね」


 哲也を見上げてニヤッと厭な顔で操野が笑った。

 引き攣った顔を顰めて哲也が操野の腕を振り払う、


「ちょっ、違う……何で? 何で子犬を殺したんだ? 子犬は何も悪くないだろ」

「トロンに見せたのよ、お仕置きだって……次はトロンの番だって教えてあげたのよ」


 ニタリと笑いながらこたえる操野を犬好きの哲也が怒鳴りつけた。


「おかしいだろ! 殺すことないだろ、何で子犬なんだよ、お仕置きならトロンにすればいいだろ、子犬に八つ当たりするなんて酷すぎるだろが!! 」


 不気味な笑みを湛えながら操野が立ち上がる。


「だって犬は他にも手に入るじゃない、何匹でも飼えるわよ、でもトロンは……何かが取り憑いたおもちゃなんてもう二度と手に入らないわよ」

「なっ……そんな理由で………… 」


 犬を殺して平然と笑っている操野に哲也は怒りより恐怖を感じた。


「まっ、間違ってる。操野さんは間違ってるよ」


 強張った表情の哲也を見つめて操野がニッコリと笑った。


「そうなの? じゃあ今度から気を付けるわ」


 先程までと一転して少女のような可愛らしい顔だ。


「その前にトロンを捕まえないと……ここにも連れてきたんだけど逃げたのよ……捕まえてお仕置きをしなきゃ」

「おっ、お仕置きって…… 」


 聞かなくとも想像は付くが哲也は思わず訊いていた。


「バラバラにするわ、足をもいだら歩けないでしょ、もう逃げられないわよね、そしたらずっと一緒に居られるわ……私の……私だけのものになるのよ」


 可愛らしい顔で操野が笑った。中学生のような幼い顔が逆に怖い。


「捕まえるのを手伝ってくれるわよね、哲也さん、約束よ」

「あぁ……うん、手伝うけど………… 」


 断れなかった。可愛い顔で笑っているが操野の目には狂気が浮んでいる。断れば何をされるのかわからない。


「探すのは手伝う、だけど、だけど犬の玩具をバラバラにしたりしないでくれ」

「バラバラにしないとまた逃げられちゃうよ」


 ムッとする操野の前に哲也が待ってくれと手を伸ばす。


「僕が話してみる。僕は幽霊とか見れるんだ。話しもできる。だから僕がその玩具と話してみるよ」


 操野が大きく目を見開いた。


「幽霊が見えるの? 哲也さん霊能力を持ってるのね、凄い、凄いわ」

「うん……僕は見る事くらいしか出来ないけど眞部………… 」


 霊を祓うことのできる事務員の眞部のことを話そうとして止めた。先に眞部の了解を取るべきだと思ったのだ。


「いや、霊能力って程じゃない、見たり触ったり出来るだけだ」

「それでも凄いわ、哲也さんが手伝ってくれればトロンなんて直ぐに見つかるわよ」


 目を輝かせる操野を哲也が正面から見つめた。


「うん、手伝ってあげるから、だから玩具をバラバラにはしないでくれ」

「そうねぇ、哲也さんの頼みなら利いてあげるわ、でもまた逃げたら次はバラバラだよ」


 約束させて哲也はほっと安堵した。

 犬の玩具に何が取り憑いているのかは分からないが犠牲は子犬だけで沢山だ。操野の幻覚や妄想ではなく本当に怪奇現象なら他に何か解決方法があるのではないかとも考えた。


「じゃあ、僕は夕方の見回りがあるから…… 」


 見回りまではまだまだ時間はあったが操野から離れて考える時間が欲しかった。

 歩き出す哲也の後を操野がついてくる。


「僕は仕事だから、警備員の見回りがあるから」


 どうにかして追い払おうとした哲也を見て操野が可愛い顔で微笑んだ。


「ジュース奢ってくれるんでしょ? 私、クリームソーダがいいなぁ、本館の自販機で売ってる奴」

「あっ、あぁ……わかった。約束したからね」


 ぎこちない笑みを返すと哲也は操野を連れて本館へと向かっていった。



 翌日から操野と一緒に院内を探して回る。昼食後から夕方の見回りまで3時間半ほど探すが犬の玩具は見つからない。


「トロンの奴出てこないわね」

「もう病院には居ないんじゃないかな」

「そんな事ないわ、だって私見たんだから絶対居るわよ……手伝うの嫌になったの? 」

「そんな事ないよ、僕もトロンに会いたいからさ、そろそろ夕方の見回りだ。向こうの藪を探して今日は終わろう」


 探し始めて3日目、遊歩道の脇にあるベンチで休んでいた哲也が腰を上げる。トロンに会いたいのは確かだが気配すら感じないので病院には居ないだろうと考えていた。

 時刻は午後4時、日が傾いてきた遊歩道を歩いていると前からやってくる香織が見えた。


「ヤバ! 」


 隠れる場所を探して哲也がキョロキョロしていると後ろに嶺弥の姿があった。


「嶺弥さんまで…… 」


 哲也がサッと操野から離れようとする。


「哲也さん、何処へ行くの? 」


 操野が哲也の腕を引っ張った。


「見つかるとヤバいから他人の振りをしてくれ」


 操野の手を振り払いながら哲也が頼んだ。


「ふ~ん」


 楽しげに目をクリクリさせて香織を見つめる操野から哲也がサッと離れていった。


「哲也くん! こんな所で何をしているの」


 前から歩いてきた香織に声を掛けられて哲也がビクッと体を震わせる。


「なっ、何って散歩です」


 緊張してこたえる哲也の後ろから嶺弥の声が聞こえてきた。


「散歩と言うよりデートに見えたけどな」

「でっ! デートぉ~~ 」


 焦り声を出して哲也がバッと振り返る。


「ちっ、違いますから散歩してただけですから…… 」

「操野さんと楽しそうだったじゃない」


 嶺弥に向かって必死に言い訳していた哲也がサッと前に向き直ると香織が怖い顔で睨んでいた。


「ちっ、ちがっ、違いますから、くっ、操野さんとはさっき会っただけですから」


 慌てまくる哲也の顔を香織が覗き込む、


「本当なの? 」

「ほっ、本当っす。マジっす。だからデートじゃ…… 」


 どうにかこの場を凌ごうと真剣な表情を作る哲也に操野が抱き付いた。


「あぁ~~ん、見つかっちゃったぁ~ 」

「おわっ! 」


 叫びを上げると哲也が腕を伸ばして抱き付く操野を引き離す。


「なっ、何を…… 」


 顔を引き攣らせる哲也の伸ばした腕に操野が手を絡める。


「こんなに早く見つかるとは思わなかったね哲也さん」


 哲也の腕に縋り付いて見上げていた操野が前に向き直る。


「哲也さんとはラブラブなのよ、愛し合ってるのよ」


 怖い顔をしていた香織から表情が消えていく、それを見て哲也の顔から血の気が失せていった。


「ちゃ、ちゃ、ちゃ……違う、違いますから……じょじょ、冗談ですから………… 」

「冗談? 何が冗談なの、楽しそうにデートしてたじゃない」


 無表情で見つめる香織の前で哲也が操野の腕を振り解いた。


「じょっ、冗談です。操野さんがからかってるだけだから…… 」


 顔面蒼白で弁解する哲也に操野がまた抱き付いた。


「そうよ、冗談じゃなくて本気で付き合ってるのよ、ねぇ哲也さぁぁん」

「なっ、何言ってんだ! 違うでしょ? 一緒に探してるだけでしょ」


 哲也は声を大きくして引き離そうとするが操野はしがみついて離れない。

 じとーっと軽蔑した目で見つめながら香織が口を開く、


「探す? 何を探しているの? 」


 哲也がこたえる前に操野がニヤッと悪い顔で話し出す。


「二人っきりになれる場所を探してたのよ、愛し合いたいって哲也さんが…… 」

「ちょちょちょちょっ! 違うっ!! 違いますから! 」


 焦って違うしか口から出てこない哲也の肩が後ろからガシッと掴まれた。


「詳しく聞きたいな……哲也くんがそんな事をするとは思わなかったよ」


 振り返ると険しい表情をした嶺弥が侮蔑を目に浮かべてじっと見つめていた。


「違いますから……何もしてませんから………… 」


 泣き出しそうな顔でふるふる震える哲也の肩から嶺弥が手を離す。


「残念だよ、見損なったぞ哲也くん」

「そうね、昨日も二人で何かしていたみたいだけど……そんな事をしてたなんて……大問題よ」


 押し殺したような香織の声にバッと前に振り返る哲也の目から涙が流れ出る。


「違うから……何もしてないから…………操野さんお願いします。ちゃんと説明してください」

「哲也さん酷い……好きだって……あんなに愛し合ったのに………… 」


 泣き真似を始める操野を見て哲也の顔が引き攣っていく、無言の哲也がゆっくりと香織と嶺弥を見回した。


「哲也!! 」

「哲也くん! 」


 香織と嶺弥の怒鳴りと同時に哲也の足が勝手に動く、


「違うから! 何もやってないから! マジで違うから……何もしてないからぁ~~ 」


 泣きながら哲也は逃げ出した。



 走って行く哲也を見て溜息をつくと香織が視線を操野に向けた。


「どういうつもりなの? 」

「別にぃ……哲也さん面白いから、からかっただけよ」


 とぼける操野の後ろに居た嶺弥が前にやってきて香織と並ぶ、


「調子に乗るなよ、早死にするぞ」


 凄む嶺弥にいつもの爽やかさは無い、怯えを浮かべながら操野が言い返す。


「なによっ! 私はラボの指示で来てるんだからね、私に何かあれば上が黙っちゃいないわよ、困るのはどっちかしら」

「困る? 俺がか? 試してみるか? 」


 険しい顔をした嶺弥が操野の頭に手を伸ばす。


「ちょっ! 止めて……謝るから………… 」


 怯える操野を見て嶺弥がフッと口元を歪めた。嶺弥の手が白く光り出す。それを香織が掴んだ。


「こんな所で揉め事はごめんよ」

「邪魔をするつもりか? 」


 嶺弥と香織が睨み合う、


「私に任せてって言っているの」

「 ……わかった」


 嶺弥は腕を引っ込めるとジロッと操野を見た。


「次は無いぞ」


 低い声で吐き捨てると嶺弥は遊歩道を歩いて行った。

 香織を見つめて操野が震える声で礼を言う、


「あっ、ありがとう…… 」

「止めて頂戴、礼など言われる義理は無いわ、大層な作り話までして哲也くんを利用して……どういうつもりなの? 」


 責める香織の前で口元に笑みを浮かべて操野が話し出す。


「あれは特殊な奴でね、私たちでも見つけ難いようになってるのよ、特別な実験体だからマーカーも付けてなかったらしくてね、大勢で探したけど手掛かりさえ無かったわ、それで私が探しに来たってわけ、ラボの連中、まだ報告してないのよ、内々で処理するつもりね、私は点数が稼げると思って引き受けただけ」

「そういう事か……それで先生にも詳しい報告が無かったのね」


 考えるように俯いていた香織がすっと顔を上げる。


「だからといって哲也くんにちょっかい出さないで欲しいわね」

「基本は同じでしょ? だから手伝って貰ったのよ、既に会ってるのも波長が同じだから引き合っているのよ、早く見つけるには良い方法でしょ」


 楽しげに話す操野の向かいで香織が表情を曇らせた。


「そっちの都合で勝手に使うなって言っているのよ」

「許可無く接触したのは悪かったわよ……でも仕方ないでしょ、内々で処理するつもりで私1人なんだから、終ったらさっさと帰るわよ、だから協力して頂戴、ラボに貸しを作っておけば貴方たちも何かと得でしょ」


 少し怯えを浮かべて見つめる操野に香織が頷いた。


「貸しか……わかったわ、先生には私から旨く言ってあげるわ、でも実験体を探すだけよ、哲也くんにちょっかい出したら須賀でなく私が相手になるからね」

「ふふっ、怖い怖い、わかってるわよ、あんたなんか相手にしたくないからね」


 怯えながらも弱みを見せたくないのか操野がふざけてこたえた。


「わかればいいわ……あとは哲也くんか、参ったなぁ~~ 」


 普段の表情に戻ると香織は病棟へと帰っていった。


「力があるからって……この件は私に一任されているのよ、誰にも邪魔はさせないわ」


 憎むように険しい顔で呟くと操野は反対側へと歩いて行った。



 深夜の見回りで哲也が病棟の外を歩いていた。


「踏んだり蹴ったりだ……もう手伝うの止めようかなぁ」


 あの後、操野が説明してくれたらしく哲也の誤解は解けたがオカルト話を聞くために患者の情報を探ったりして普段からの行いが悪いのだと香織に叱られた。


「冗談とか悪戯にしても程があるよな……ラブラブとか付き合ってるとか言って……何も嬉しいことなかったし、藪の中とか犬の玩具を探しに入って蚊に刺されたり汚れただけだし、良い事なんて一つも無いぞ」


 愚痴りながら歩いているとコンクリート製の細い道の先に青白い光が見えた。


「何だ? 」


 病棟とは反対の方向だったが気になった哲也が近付いていく、


「犬の玩具だ…… 」


 8日ほど前に見たプラスチックで出来た犬の玩具が青い光を放っていた。四角い頭に四角い体、手足も四角だ。四角で構成されたロボット犬といった姿の玩具である。


「間違いない」


 操野の話していた犬の玩具の姿とも一致する。トロンに違いないと哲也は思った。

 捕まえようと哲也が更に近付いた。


『タスケテ……タスケテ…… 』


 言葉を発しながらトロンが逃げていく、急いで追い掛けるがトロンは脇の藪の中へと入っていった。


「トロン! 待ってくれ、話がしたいだけだ」


 藪に向かって哲也が声を掛ける。


「僕は中田哲也、トロン……違うな、トロンって名前は操野さんが付けたんだよな、本当の名前は何って言うんだ? 話がしたいだけだ。君を傷付けるつもりはない、僕に何か出来ることはないか? 君は何で操野さんから逃げたんだ」


 藪に向かって話しを続けた。姿は見えないが気配を感じる。何故かは分からないが哲也の後頭部がじんじんと痺れるように熱くなっていた。


『タスケテ……タスケテ……ワタシヲ………… 』


 藪の中からトロンが出てきた。


「ありがとう出てきてくれて、君のことを教えてくれ、僕が力になるからさ」


 刺激しないように哲也はゆっくりとしゃがんだ。出来るだけ目線を合わせてトロンと話そうと考えたのだ。


『タスケテ……ワタシハ………… 』


 トロンが何か伝えようとした時、藪の中からガサッと手が出てきた。


「捕まえたわよ」

「なっ!? 操野さん」


 驚く哲也の前、藪の中からトロンの首根っこを掴んだ操野が出てきた。


「操野さん、いつの間に…… 」


 気配一つ感じなかった。それ以前に深夜に患者が出歩くなど許可されていない、哲也は治療の一環として例外的に認められているだけだ。

 驚く哲也を見て操野がニッコリと可愛い笑みを見せた。


「哲也さんありがとう、やっと捕まえることが出来たわ、じゃあ私は部屋に戻るわね、こんな所見つかったら本当に疑われるからね」


 トロンを手に提げて帰ろうとする操野の前に哲也が腕を伸ばす。


「ちょっ、待ってくれ、トロンと話しを……トロンが何か話そうとしてたんだ」

「話し? 本当なのトロン? 」


 操野は掴んでいる手を顔の前に持ってきて訊くがトロンは無反応だ。先程まで光っていたのも消えている。


「トロンは知らないって言ってるわよ、ねぇトロン」


 ふざけているような楽しげな表情でこたえる操野の前に哲也が立った。


「僕に1日預けてくれないか? トロンと話がしたいんだ」

「トロンと? 」


 険しい表情で頼む哲也の向かいで操野が顔を曇らせる。


「そうねぇ……明日にしましょう、哲也さんは見回りの途中でしょ? 」


 立ち塞がる哲也を見上げる操野の顔から表情が消えていた。操野が感情の起伏の激しい性格なのは知っている。


「そうだけど…… 」


 怯む哲也の言葉を無表情の操野が遮る。


「私まで叱られるのはごめんだからね、明日私の部屋に来て頂戴」


 その時、トロンが言葉を発した。


『タスケテ……ココカラ出して…………ワタシヲ……タスケテ』

「やっぱり何か話そうとしてるんだよ」


 哲也を無視するかのように操野がくるっと背を向けた。


「おもちゃが内蔵音声を出してるだけよ、じゃあ、もう眠いし帰るわね」

「ちょっ、操野さん…… 」


 歩き出した操野を哲也が追い掛ける。


「大声出すわよ、哲也さんに襲われたって」

「なん! 」


 険しい顔で足を止めた哲也に操野が振り返った。


「ありがとう哲也さん、御陰で助かったわ」


 ニッコリ笑う操野の目が赤く光っていた。言葉も無く驚く哲也の前でくるっと背を見せると操野は走って行った。


「あれは…… 」


 操野の目が光って見えたのは一瞬だ。月の光か何かが目に反射でもしたのかとも思ったが違うような気もした。


「何があるんだ……トロンは何かに怯えているようだったぞ、操野さんもおかしいぞ、何かが取り憑いてる玩具なんて普通は怖がるよな、やっぱ何かおかしい………… 」


 言い知れない違和感を感じた哲也は操野の部屋へと向かった。



 見回りを中断した哲也はA棟へと入っていく、


「確か308号室だったよな」


 トロンを探しているときに聞いたあやふやな記憶を頼りに階段を上っていった。


「あった。操野さんの部屋だ」


 308号室のネームプレートに操野結愛と付いているのを確認すると哲也はドアの外からそっと様子を伺った。


「手間を掛けさせてくれるわね、あんたが逃げてラボは大騒ぎよ」

『タスケテ……タスケテ…… 』


 楽しげな操野の声と幼児のような口調のトロンの音声が聞こえてきた。


「助ける? あはははっ、あんたを助けて私に得なんてないわよ」

『タスケテ……帰して…………ココカラ出して…… 』

「あははははっ、だから無駄だって、私は雇われただけだから」


 操野の笑い声が邪魔で何を話しているのか聞き難い、哲也は良く聞こえるようにとドアにそっと耳を付けた。


『お願い……タスケテ』

「そう悲観することもないわよ、旨く行けば新しい体が手に入るじゃない、話すことも出来なかったのに言葉も覚えてさ、協力すればもっと力が手に入るわよ」

『タスケテ……山にカエシテ………… 』


 山に帰す? 何の事だと哲也が顔を顰めながらもっと聞こうとドアに耳を押し付ける。

 ガタッ! ドアが鳴った。哲也がバッとドアから耳を離す。同時にドアがバッと開いた。


「なんだ哲也さんか…… 」


 薄ら笑いを浮かべる操野の前で哲也が引き攣った笑みをして口を開いた。


「あっ、あのぅ……ごめん、気になったから………… 」

「女の子の部屋を覗くなんて悪趣味ね」


 焦って言い訳する哲也の腕を操野が引っ張る。


「いいわ、入ってらっしゃい」


 操野に腕を引かれて哲也が部屋へと入る。


「なっ! トロン…… 」


 テーブルの上で手足をバラバラにされている犬の玩具を見て哲也が顔を強張らせた。


「約束は? バラバラにしないって約束しただろ」

「うん、したわね」


 ケロッとした顔でこたえる操野を見て哲也は腹が立ってきた。


「じゃあ、何でバラしてるんだよ! 」


 きつい口調で睨み付ける哲也の前で操野がニヤッと厭な笑みをした。


「また逃げようとしたのよ、次に逃げたらバラすって哲也さんにも言ってたわよね」


 嘲るように笑いながらこたえる操野を見て初めから約束など守るつもりは無かったのだとわかった。


「分解はしないって約束だろ! 早く足を付けてやれ」

「私のおもちゃよ、私が何をしようが哲也さんには関係ないでしょ」


 怒鳴る哲也の向かいで操野の顔から感情が消えていく、


「わかったら出て行って頂戴、看護師さんを呼ぶわよ」


 ナースコールを指差す操野を見て哲也の怒りに火が付いた。


「なん!? そっちがその気なら…… 」


 テーブルの上に置いてあった犬の玩具に手を伸ばすと手足を外された玩具の頭と胴体部分を掴み取った。


「トロンは渡せない、僕が預かる。僕が話しを聞いてやるんだ」

「何をするの? 」


 無表情で見つめながら操野が続ける。


「返して、トロンをテーブルの上に置いて哲也さんは出て行きなさい、私が怒らないうちに出て行きなさい」

「約束が違う! バラさないって約束だ。トロンは僕が預かる」


 約束が違うと怒鳴りつける哲也の前で操野の目が赤く光った。


『煩い! 邪魔をするな、仕置きをしているだけだ』


 爛々と目を光らせる操野の前で哲也の身体は金縛りに遭ったように動けない。


「なっ、操野さん…… 」


 引き攣った顔で驚く哲也を見て操野がニタリと不気味に笑う、


『お前にも興味はある。魂をバラバラにして調べてやろう』


 目を赤く光らせた操野が腕を伸ばす。

 その時、部屋のドアがバンッと開いた。


「何をしているの! 」


 入って来た香織を見て操野が顔を顰める。


「哲也くんに手を出すなと言ったはずだ」


 いつの間に入って来たのか窓の傍に嶺弥が立っていた。

 ドアからは香織しか入って来ていないのは哲也も見ていた。窓には格子が付いているので入ってこられるはずがない、そもそも此処は3階だ。ではどうやって嶺弥は入って来たのだろうか? 


「かっ、香織さん……嶺弥さんも………… 」


 安堵する哲也に操野が飛び掛かる。


『動くな! 私に近寄るな、此奴がどうなってもいいのか? 』

「ぐっ、ぐぅぅ……操野さん………… 」


 喉に操野の指が食い込み哲也の言葉が続かない、


「低級霊みたいな真似をするのね」

「ここまでされては黙っていられない、殺してもいいよな」


 哲也の気が遠くなっていく、香織と嶺弥の声が聞こえたような気がするが首を絞められてハッキリとは覚えていない。



 嶺弥に殴りつけられて操野が床に転がった。


「二度と戻らんように滅してやる」

「たっ、助けて……私が悪かった」


 顔を引き攣らせて命乞いする操野に嶺弥がぼうっと光を放つ腕を伸ばす。


「そこまでよ、これ以上すれば問題になるわよ」


 間に入った香織を嶺弥が睨み付ける。


「問題? お前たちの事など知ったことか」

「私たちだけじゃないわよ、哲也くんだってどうなるか…… 」


 真剣な表情で見つめる香織の前で嶺弥がすっと腕を引いた。


「俺にも我慢の限度がある。それは覚えておけ」


 じろっと香織を睨み付けると床に倒れている哲也を抱きかかえた。


「わかったわ、ありがとう、哲也くんを頼むわね」

「お前らに頼まれるいわれなどない」


 険しい表情をした嶺弥が哲也を抱えて部屋を出て行った。



 顔に安堵を浮かべて操野が立ち上がる。


「たっ、助かったわ、この事はラボにも………… 」

わきまえなさい! 」


 香織が操野を平手打ちした。よろけた操野が足を踏ん張って体勢を立て直す。


「何すんのよ! 今回は私に全ての権限があるのよ」


 頬を押さえて睨み付ける操野を香織が見据えた。


「哲也くんに何かしてもいいなんて許可は出てないはずよ」

「実験体の回収に必要なら何をしてもいいのよ、あれと接触した記録を取らなきゃいけないし場合によっては消去しないとね、私なら夢の中で出来るからね」


 怯みながらも言い返す操野の前で香織はちらっと後ろを気にしてから感情を抑えるように声を出す。


「記録など必要無いでしょう、其れと此れとは別でしょ」

「別じゃないわよ、基本はこっちの応用なんだから、情報は共有するべきだわ、今回の件についての情報もラボから報告があるわよ、その為にも…… 」


 香織が引いたと思ったのか調子に乗って話し出した操野が言葉を止める。


「困るねぇ、哲也くんには手出ししないで欲しいねぇ」


 香織の後ろから現われた池田先生を見て操野の顔が強張っていく、


「おっ、お前は…… 」

「お前じゃないでしょ、先生と呼びなさい」


 叱り付ける香織を手で制して池田先生が続ける。


「哲也くんに対する全権は私にある。従って今回は許可は出来ないねぇ」

「わっ、わかりました……せっ、先生がそう仰るなら従いましょう」


 怯えて言葉がつかえる操野を見て池田先生がにこやかに話を続ける。


「そうしてくれると助かるねぇ、哲也くんはまだ不安定でね、余計な刺激は与えたくないんだよ」

「申し訳ありません、しかし私も上からの指示で…… 」

「わかっているよ、君の立場は理解しているつもりだ。だから邪魔はしなかっただろう」


 にこやかに話す池田先生と違い操野は緊張で顔が引き攣っている。


「おっ、お気遣いありがとうございます」


 にこやかだった池田先生の顔からすっと笑みが消えた。


「それと……ラボの連中に伝えておいてくれないか、許可無く多数を入れるな、私の庭で動き回られると目障りだ。次に同じような事をすれば始末すると、そう私が言っていたと伝えてくれ」

「了承しました。伝えておきます。今回は協力感謝します」


 深々と頭を下げる操野を見てにんまりと微笑むと池田先生は開けっ放しのドアから出て行った。


「まったく夢魔如きが…… 」


 操野を一瞥すると後を追うように香織も出て行く、


「あははっ……怖いなぁ~、流石にあれに逆らっちゃ不味いわね」


 ベッドに腰掛けて2人の出て行ったドアを見つめながら操野が自嘲するように笑った。



 長い廊下の先を歩く池田先生の横に香織が追い付く、


「先生、お手数をお掛けしました」


 ペコッと頭を下げる香織に池田先生が優しい笑みを向ける。


「構わんよ、奴らは私も好かないのでね、それよりも哲也くんのケアを頼んだよ」

「はい、お任せ下さい」


 微笑んだまま池田先生は廊下の突き当たりの壁を抜けて消えていく、


「実験体か…… 」


 ボソッと呟くと香織は階段を歩いて下りていった。



 窓から日が差し込んで哲也が目を覚ます。


「うぅ……いつの間に眠ったんだ? 」


 寝惚け眼で辺りを見回す。


「僕の部屋だ……なんで? 操野さんは? 」


 見慣れた自分の部屋だ。次第に頭がハッキリとしてくる。テーブルの上に置いてある目覚まし時計が目に付いた。


「2時半か……見回りまで……2時半!? 」


 ガバッと飛び上がるように上半身を起すと日が差し込む窓と目覚まし時計を見比べる。


「2時半って……待てよ! 見回りは? 」


 よく見ると目覚まし時計の秒針が止まっていた。電池切れか故障で時計自体が止まっているのに哲也が気付いた。


「しまった! 見回りが…… 」


 既に日が昇っていた。目覚まし時計は午前2時半頃で止まっている。目覚ましが鳴らずに起きれなくて寝坊して見回りが出来なかったのだと思った。


「夢どころじゃないぞ、見回りサボった」


 昨晩の出来事は全て夢だと思った。記憶も夢のようにあやふやになっている。


「電池切れかなぁ……遅れることなく元気に動いてたのになぁ」


 テーブルの上の目覚まし時計を手に落ち込んでいるとドアがノックされた。


「哲也くん、居るかい? 」

「ハイハイ、居ますよ」


 嶺弥の声に哲也が慌ててドアを開ける。


「昨日はどうしたんだい? 一緒にアイスでも食べようと少し早く出て哲也くんを探したんだけど見回りに来てなかったよね」

「あのぅ……えへへ……実は目覚まし時計が電池切れで止まったらしくて………… 」


 歯切れの悪い哲也を見て嶺弥が察してくれた。


「そうか、体調が悪いのかと心配したよ、寝坊なら構わないよ、誰にでもあることだからな、アイスは置いてあるから後で食べに来るといいよ」


 ばつが悪そうに哲也が頭を下げる。


「済みません、今度から気を付けます。昼飯の後にでもアイス貰いに行きますから」

「気にすることはないさ、寝坊なら俺もよくするからな、角田さんによく起されるよ、アイスのついでに電池も用意しておくよ、何かのために備蓄の電池が沢山あるからな」

「お願いします。目覚ましが止まるなんて思ってもみませんでした」

「あはははっ、よくあることだ」


 笑いながら嶺弥が部屋を出て行った。



 哲也がベッドに寝っ転がる。


「はぁぁ~~、寝坊して見回りサボるなんてなぁ……嶺弥さんに心配まで掛けて…………格好悪いよなぁ~~ 」


 恥ずかしさに布団を被ってベッドの上でゴロゴロしながら考える。


「全部夢だったのか……犬の玩具を見つけて、操野さんが捕まえて……部屋で操野さんの目が赤く光って…………あるわけないか、全部夢だ。寝坊して変な夢見てたんだ」


 ガバッと起きるとテーブルの上に置いてある目覚ましを引っ掴む、


「電池無くなるなら昼間にしてくれよな」


 迷惑そうに言いながら目覚まし時計から電池を取り出す。


「あれ? こんな電池だったかなぁ…… 」


 電池を入れ替えたのは半年以上前の事だ。その時は有名メーカーのものだったように記憶していたが止まった目覚まし時計から出てきたのは聞いたこともないメーカーの電池だった。


「まぁいいか、さっさと顔洗って朝飯食べに行こう」


 さして気にもせずに電池を置くと哲也は着替え始めた。



 哲也の部屋から少し離れた廊下で嶺弥がポケットから電池を取り出す。


「交換するのは簡単だが使えなくなった電池を探すのは大変だったな」


 苦笑しながら電池をポケットに放り込むと歩き出す。


「旨く夢と思ってくれればいいが……記憶の操作など余りしたくはないからな、しかし夢魔の奴……まぁ俺が口出しすることじゃないか」


 長い廊下を歩く嶺弥の顔はいつもの爽やかな笑みではなく厳しい表情だ。



 その日の夕方、操野が退院することになった。元々短期の検査入院だ。不思議ではない。

 知らせを聞いて慌てて見送りに出てきた哲也の前で操野が犬の玩具を持って可愛い笑みを見せた。


「あれは? 」


 表情を固くする哲也に操野が抱き付く、


「おわっ! 」


 不意に抱き付かれて驚く哲也の耳元に操野が口を近付ける。


「ありがとう哲也さん、御陰で私の任務は旨くいったわ」

「任務って…… 」

「ふふふっ、哲也さんは知らなくてもいいのよ、こっちの話しだからね」


 楽しげに笑いながら操野が哲也の頬にキスをした。


「色々世話になったわね、じゃぁね」


 バッと離れた操野に哲也が腕を伸ばす。


「ちょっ! その犬の玩具は? 」


 操野の腕を掴んで訊いた。キスされた驚きより犬の玩具のことが気に掛かった。


「これ? 今朝拾ったのよ」


 嬉しそうに笑う操野の前で哲也が険しい顔で続ける。


「拾ったって……どこで? 」

「何処でもいいじゃない、哲也さんは知らなくてもいいのよ、今はね…… 」


 掴んでいた手を哲也が離した。操野の目に怪異を話していたときのような狂気が浮んでいた。


「また会うこともあるかもね、じゃぁね、香織さんにも宜しく言っといて」


 可愛らしい顔でニッコリと笑うと操野は迎えに来た車に走って行った。



 表門を出て行く車を哲也が愕然とした表情で見送る。


「あれは……あれは夢じゃなかったのかも…………そうだとすれば香織さんや嶺弥さんも……どうなってんだ? 何かおかしいぞ」


 険しい表情で考えていると後ろからポンッと肩を叩かれた。


「何考えてるの? 操野さんにキスして貰ったこと? 」


 バッと振り返ると香織が意地悪顔で笑っていた。


「ちっ、違いますよ……キスってほっぺにチュってされただけですから」


 焦る哲也の顔を香織が覗き込む、


「それにしては嬉しそうだったじゃない、感動でぼーっとして見送ってたじゃない」

「違いますから、あれは…… 」


 昨晩の事を話そうとして哲也が言葉を詰まらせる。現実か夢か判断出来ない、目覚まし時計が止まっていた事実を見れば夢だ。だが操野が持っていた犬の玩具と任務という言葉が気に掛かる。


「香織さん、昨晩、操野さんの部屋に行ってませんでしたか? 嶺弥さんと一緒に」


 香織の顔を正面から見つめながら哲也が訊いた。


「昨日の夜? 0時頃なら見回りで部屋の前は通ったけど他は行ってないわよ」

「そっ、そうですよね」


 普段と変わらない表情の香織を見て哲也がほっと安堵する。


「何でそんな事聞くの? 須賀さんと一緒とか……早坂さんと違って私は須賀さんには興味無いわよ、私をからかっても無駄ですからね」


 意地悪顔で見つめ返す香織の前で哲也が慌てて口を開く、


「いや……違うんです。さっき操野さんを見送ったときに任務とか言ってたから」

「任務って何の? 」

「いや、それが分からないから気になって…… 」


 聞き返されて弱り顔の哲也の向かいで香織が声を出して笑い出す。


「あははははっ、まったく哲也くんは……からかわれたのよ、操野さんも病んでるから、入院するほどじゃないけど心の病気だから色々あるのよ」

「やっぱし…… 」


 然もありなんという悔しげな表情の哲也の背を香織がバンバン叩く、


「あはははっ、笑わせて貰った御礼にシュークリーム御馳走してあげるわ」


 哲也がバッと顔を上げた。


「シュークリーム、マジっすか? 」

「お昼に早坂さんが持ってきてくれたのよ、沢山あるから哲也くんにも一つあげるわよ、夕食食べた後でみんなでお茶するから8時頃にいらっしゃい」

「8時っすね、絶対に行くっす」

「その前に手伝ってくれる? 書類のゴミ出し」

「了解っす。力仕事は任せてくださいっす」


 病棟へ歩き出す香織の後を哲也が楽しげについていく、頭の中でモヤモヤしていたことなど全て霧散していった。



 愛着や執着があるものには何かが入り込むことがある。思いが変化したものか別の何かかはわからないが何かが入り込んで怪異を成すことがある。

 人の形をした人形は勿論だが幼くして亡くなった子供が大事にしていたぬいぐるみやロボットの玩具などにも何かが入り込むことがある。何かの拍子に動いたりするのだ。

 気の所為でも良い、勘違いでも良い、それでも子を亡くした親にとっては会いに来てくれたと嬉しいものなのだ。悲しみを乗り越えて頑張ろうという気になってくれれば勘違いでもいいのだ。


 操野が持っていた犬の玩具も新品を買ったのではなく何処かで拾ってきたものだ。誰かが大事にしていて思いが籠もっていたのかも知れない、それで何かが入っていたのだろう、オカルト好きの操野はそれに気付いて何かしていたのだと哲也は推測した。



 自分の部屋に戻った哲也はベッドに寝っ転がって考える。


「全部夢だったのかなぁ~~、でも初めに見た犬の玩具は夢じゃないよな、何かが取り憑いているように感じたけど…… 」


 あの犬の玩具の中には何が入っていたのだろうか? 助けを求める舌足らずな幼児のような声、あれは何だったのだろうか? 

 内蔵されている音声チップの所為であの様な声が出たのならよいのだがそうではなく、幼児の霊か何かが憑いていたのだとしたら……。


「苛めの仕返しなんて出来るようには見えなかったけど、操野さんはあの玩具を使って何をするつもりだったのかな? オカルトに興味を持って霊が取り憑いた玩具を傍に置いておきたいだけなのかな、でも…… 」


 操野が別れ際に言った任務という言葉が気になった。


「オカルト本を読んで何かの実験でもしてたのかな? でもあの犬の玩具は何も悪いことしてなかったよな、操野さんが一方的に叱ってただけだ」


 苛められて不登校になって引き籠もった操野が犬の玩具に取り憑いた霊を苛めていたのだとしたら、哲也はもっと話しをするべきだったと後悔した。


「夢かも知れないけど……どうしたらいいのかわからないけど、あの犬の玩具に入ってた奴、助けられるのなら助けてやればよかった…… 」


 済んでしまったことを思い返してモヤモヤした気持ちのまま目を閉じた。


「夢の中の香織さんや嶺弥さんも何か怒ってたなぁ…… 」


 誰かが不幸になったわけではない、操野も無事に退院した。其れなのに何故か後味の悪さを感じると思いながら哲也は眠りに落ちていった。


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