第三十七話 お婆ちゃん
歳を取った女性のことを婆という男性では爺だ。お婆さんやお爺さんと親しみを込めて呼ぶのが殆どだが憎しみや侮蔑を込めてババアやジジイと呼ぶこともある。
身内である祖母や祖父、更に上の曾祖母や曾祖父のことをお婆さんやお爺さんと呼ぶだけでなく赤の他人でも○○さんちのお婆さんなどと使うことが多い。
お爺ちゃん子やお婆ちゃん子などという言葉があるように祖父や祖母は孫を可愛がるものだ。
自分の血が息子を通じて孫に受け継がれるという安心感、我が子が立派に育って家庭を作り次の世代である孫を産んでくれたという喜び、様々な嬉しさが孫に向くのだ。可愛く思えて当然である。
単純に幼子が可愛いということもあるだろう、大人になって生意気になった我が子より可愛くて当り前だ。
人生の終盤になって先が見えているということも関係しているだろう、この先どれ程の時を孫と過せるかと考えると甘やかしてしまう年寄りが出てくるのは仕方のないことなのかも知れない。
お婆ちゃんに守られているという患者に哲也は出会ったことがある。物心つく前に亡くなった祖母が守護霊となって守ってくれているらしい。
祖母や祖父と過ごした記憶など無い哲也は羨ましいと思った。自分は何に守られているのだろうか? どんな守護霊が付いているのか? 哲也は色々考えさせられた話しだ。
朝食を終えた哲也が食堂から出てコンクリート製の通路を怠そうに歩いていた。
「ふわぁあぁ~~ぁ、ヤバい眠い、寝よう」
昨晩見回りを終えた後で深夜番組を見てしまい余り眠っていないのだ。
大きな欠伸をしながら自分の部屋へと戻ろうとA病棟へ入ると看護師の早坂が患者を連れて歩いていた。
「早坂さんだ……新しい患者さんだな」
後ろ姿だったが新しく入って来た患者だと直ぐにわかった。足が悪いのか杖をついていたからである。A病棟には杖をつく患者は居ないのだ。
エレベーターの前で早坂と患者が止まる。階段へと向かって歩き出した哲也が足を止めた。
「何だ? 」
哲也が顔を顰めた。杖をついている患者に纏わり付くように影が見えた。
「あっ、消えた……女みたいだったな」
エレベーターがやって来てドアが開くと同時に患者に纏わり付いていた影が消えた。哲也が影を見たのは数秒だ。
「危ない! 」
立ち止まって見ていた哲也が走り出す。
「おわっ! 」
早坂と一緒にエレベーターに入ろうとした患者がよろけて転びそうになる。
「藤実さん! 」
叫ぶ早坂の前で哲也が患者を抱きかかえた。
「間に合ったぁ~~ 」
患者を支える哲也を見て早坂も安堵の息を付く、
「ありがとう哲也さん」
「ありがとうございます」
哲也に支えられている患者がペコッと頭を下げた。
後ろ姿しか見ていなかったことや杖をついていたことから年寄りだと思っていたが20歳くらいの眼鏡を掛けた男だ。
男が杖をついてしっかりと立ったのを見て哲也が掴んでいた手を離す。
「杖が引っ掛かったんですね」
エレベーターのドアの溝に杖が引っ掛かったらしい、影のようなものが気になってじっと見ていたから哲也は直ぐに駆け付けることが出来たのだ。
「哲也さん助かったわ、流石警備員ね」
哲也を褒めた後で早坂が患者を紹介した。
「此方は藤実周哉さん、今日から暫く入院するから宜しく頼むわね」
藤実がペコッと頭を下げる。
「藤実です。よろしくお願いします」
「中田哲也です。哲也って呼んでください、警備員をしています。困ったことがあれば何でも言ってくださいね」
互いに挨拶をしながらエレベーターへと乗った。
4階で止まって早坂と藤実に付いて哲也も下りた。
「哲也さん4階に用があるの? 」
早坂に訊かれて哲也が恥ずかしそうに口を開いた。
「あっ、ボタン押すの忘れてた……まぁいいや、手伝うことあれば言ってください」
普段から階段を使うようにしているのでエレベーターのボタンを押すのを忘れて一緒に上がってきてしまったのだ。
「そうね、ベッドの位置とかテーブルの位置を変えるかも知れないから頼もうかな」
笑いながら歩き出す早坂と藤実の後を哲也が付いていく、A病棟の408号室、長い廊下の真ん中辺りが藤実の部屋だ。
藤実の希望を訊いてベッドやテーブルの位置を変える。
早坂が病棟の説明や規則などを話し出すと哲也は一足先に部屋を出た。患者個人の情報もある。聞かれたくない事もあるだろうと気を使ったのだ。
「眠いけど気になるからな」
哲也は欠伸をしながら廊下に置いてある長椅子に座った。
早坂が出てくるのを待っているのだ。先程見た影のようなものが気になった。
「じゃあ昼食前にまた来ますから、食堂の使い方を教えますから、気分が悪くなったりしたら直ぐにナースコールを押してくださいね」
部屋から出てきた早坂が哲也を見てすっと目を逸らす。
「ちょっ、待ってくださいよぉ~~ 」
無視して通り過ぎる早坂を哲也が必死で止めた。
「何が聞きたいの? 」
ムッと怒り顔の早坂の向かいで哲也がおべっか笑いをする。
「えへへっ、藤実さんのことを……何で入って来たんですか? お化けとかあるんでしょ? 」
「まったく、そういうのだけは鋭いんだから」
早坂がまたかと呆れながら話してくれた。
藤実周哉23歳、2ヶ月ほど前に交通事故に遭った。一緒に居た会社の同僚が亡くなり自身は左足に後遺症が残って杖無しでは歩けなくなるほどの怪我を負った。信号待ちをしていた所を誰かに押されて同僚と一緒によろけたところへ信号無視をした車が突っ込んできたらしい、誰かに押されたと話すが信号で待っていたのは藤実と同僚の2人だけで近くには誰も居なかった。
以前から見えない誰かが自分を殺そうとしていると言い出した藤実を事故のショックで心を少し病んだのだと心配した両親が磯山病院へと連れて来たのだ。磯山病院は検査入院という事で短期の入院を認めた。
「目の前で会社の同僚が死ぬところを見て自分も死にそうになったんだからショックを受けて当り前よ、それで見えない誰かが自分を殺そうとしているって妄想しているのよ、躓いたか何かして事故の前によろけて亡くなった同僚と一緒に倒れそうになってそこへ車が突っ込んできたらしいのよ、よろけてしがみつかなかったら同僚は死ななくても済んだかも知れないって思っているかも知れないわね、慚愧の念か、現実逃避か、見えない誰かの所為にしたいのかもね」
説明を終えた早坂がニッと悪戯っぽい笑みをして哲也を見つめる。
「と言うわけで今回は病んだ原因も全て分かっているから哲也さんの好きなお化けとかの話しは無いわよ」
「いや、僕は別に……お化けとかは………… 」
先程見た藤実に纏わり付いていた影のようなものは見間違いだったのかと哲也にもわからなくなっていた。
弱り顔で誤魔化すように笑みを作る哲也の肩を早坂がポンッと叩く、
「軽い薬とカウンセリングで治る症状よ、様子を見るために検査入院って事で1週間ほど入院させる事にしたってわけ、そういう事だから頼んだわよ、藤実さん足が悪いから気を付けてあげてね」
「了解しました。任せてください」
サッと敬礼してこたえる哲也に微笑みながら頷くと早坂はエレベーターに乗って下りていった。
「見間違えかな? でもな……話しを聞くだけ聞いてみたいな」
長い廊下の真ん中辺り、藤実の408号室のドアを哲也が見つめた。
自分を殺そうとしている誰かというのが気になった。話しを聞こうと考えるが切っ掛けが無い、行き成り先程見た女の影のようなものの話しをしてもいいが変に思われると逆に聞き難くなるだけだ。
「まぁいいか、戻って寝よう」
その場で訊くのは諦めて哲也は自分の部屋へと戻っていった。眠かったのだ。冷静な判断が出来ずに失敗することもあるのだ。出直すのが一番である。
その日の深夜、3時の見回りで哲也がA病棟へと入っていく、
「さっさと終らせて寝よう、もう深夜番組見ないぞ、今日は一日中眠かったからな」
いつものように最上階まで上がって各フロアを見回りながら下りていく、
「藤実さん起きてるのかな? 」
4階の長い廊下の真ん中辺り、408号室の前で哲也が立ち止まる。
「嫌な感じだ! 」
顔を強張らせた哲也がそっとドアに近付いた。ドアに耳を付けるようにして中の様子を探るが物音一つしない、だが嫌な気配は強く感じる。
哲也はドアノブを掴むと音を立てないように少しだけ開いて部屋の中を覗いた。
「ふぅぅ…… 」
悲鳴を上げそうになって自分の顎をギュッと掴んで止める。ベッドの脇に2つの影が立っていた。
声を出さないように顎を掴んでいた手で口を塞ぐようにして哲也が目を凝らす。
1人は藤実かと思ったが違った。23歳の藤実より歳を取った中年男だ。ベッドで眠っている藤実を挟むようにして向こう側に老婆がいた。2人とも透けて向こうの壁が見えている。幽霊だと直ぐにわかった。
『帰れ! 消えろ!! 』
『ヒヒヒヒッ、イヒヒヒヒッ』
藤実が眠っているベッドを挟んで2人の幽霊が睨み合っていた。
男は40歳くらいの中年でがっしりとした体付きをしている。骨と皮だけといった様子の痩せた老婆は皺くちゃで年齢はわからないが100歳近いのではないかと哲也は思った。怒りを浮かべた真剣な表情の中年男と違い老婆はニタリと醜悪な笑みをしていた。
『消え去れ! 』
『イヒヒヒッ、ヒィーヒヒヒッ』
怒鳴る中年男と笑う老婆、2人の間で藤実は眠っていた。
「藤実さん…… 」
何かはわからないが取り敢えず藤実の容体を確認しようと哲也は部屋へと入った。
「藤実さん大丈夫ですか! 」
藤実に声を掛けながら哲也は幽霊を追い払おうと両腕を大きく振った。
「ぅわちっ! 」
中年男に触れた腕にバシッと静電気に触れたような衝撃が走った。
「痛ててて…… 」
哲也が驚いて腕を引っ込める。
警戒してサッと構えるが中年男と老婆の幽霊は消えていた。
「藤実さんは? 」
慌てて容体を確認すると藤実は無事だ。眠っているだけだ。
「ふぅ……うぅぅ………… 」
哲也の声に起きたのか藤実が目を覚ます。
「うぅ……うわっ! うわぁぁ~~ 」
「藤実さん、僕です。哲也です。警備員の哲也です」
驚いて叫びながら上半身を起す藤実を哲也が必死で宥めた。
「警備員? 」
藤実が枕元に置いていた眼鏡を掛けた。
それほど悪くはないのだが眼鏡が無いと細かい判別が出来ない、何が置いてあるのか物は判別できるが細かい文字などは見えない程度に目が悪いのだ。
「なんだ警備員さんか…… 」
哲也だと分かって落ち着いた藤実が今度は怪訝な顔を向けてきた。
「何してるんですか? こんな夜中に」
「見回りです。夜は10時と深夜の3時に見回りをしているんです」
誤解をされないように哲也は冷静な声で静かに話す。
「見回りは分かった。でも部屋の中まで入るのはおかしいだろ」
益々顔を顰める藤実に哲也が待ってくれと言うように片手を突き出す。
「違うんです。普段は部屋になんて入りません、でも何かあった場合は別です。様子を見るために部屋の中を覗きます。それで…… 」
哲也の話しを藤実が遮った。
「何かあったらって……何があった? 幽霊を見たんだな」
心当たりのありそうな藤実の向かいで哲也が頷いてから続ける。
「見ました。男と老婆の幽霊が睨み合ってましたよ」
驚く藤実に哲也は先程見た中年男と老婆の幽霊の事を説明した。
「お婆ちゃんだ……お婆ちゃんが助けてくれたんだ」
怖がるどころか嬉しそうに呟く藤実を見て哲也が怪訝な顔で口を開く、
「お婆ちゃんって、あの老婆の事ですか? 」
「うん、お婆ちゃんだ。俺を守ってくれてるんだ」
嬉しそうに頷くと藤実が続ける。
「俺が幼い頃に亡くなった祖母だ。幼稚園に入る頃に亡くなったから殆ど覚えてないけど俺はお婆ちゃん子だったらしい、お婆ちゃんは守護霊になって俺を守ってくれてるんだ」
「お婆ちゃんですか…… 」
嫌な笑みをしていた老婆を思い出しながら哲也は中年男の幽霊の事を訊いた。
「それで男の方は何なんです? 怒ってたみたいでしたけど」
藤実がサッと顔を強張らせる。
「見たのか? どんな男だった? 目を吊り上げた怖い顔をしていただろ」
「藤実さんの言う通りです。40歳くらいのがっしりした男でした。何か凄く怒っているような顔をしてましたよ」
説明する哲也の前で藤実が青い顔をして震え出す。
「そいつだ……そいつが俺を殺そうとしてるんだ」
男の霊は悪霊で子供の頃から自分を狙っているのだという、
「この足も……木村さんも……その悪霊が殺したんだ」
事故で不自由になった左足を摩りながら憎らしげに言った。木村とは事故で亡くなった会社の同僚だ。
「お婆ちゃんが居なかったら俺はとっくに死んでるんだ……いつも助けてくれる。お婆ちゃんありがとう」
感謝するように目を閉じて手を合わせる藤実に哲也が興味津々の眼を向ける。
「詳しい話しを教えてくれませんか? 僕に何か出来る事があれば力を貸しますから」
「警備員さんに? 」
目を開けた藤実に哲也が真面目な表情を作った。
「僕は幽霊が見えるんですよ、だから今も気が付いて藤実さんの部屋に入ったんです。何が出来るか分かりませんが出来る事はしますよ、力になりますから教えてください」
「幽霊が見えるか……そうだな、警備員さんには話してもいいか」
少し考えてからこたえると藤実が座れと言うようにベッド脇のテーブルを囲む折り畳み椅子を指差した。
「それじゃ少し長くなるから…… 」
哲也が待てというように手を伸ばす。
「一寸待ってください、今は見回りの最中ですから昼にでも教えてください、お菓子と飲み物持って行きますよ」
「そうだな、わかった。じゃあ昼飯を食べた後にでも来てくれ」
「わかりました。お昼の2時頃にでも伺います」
部屋を出て行く哲也を見送って藤実はベッドに横になった。
見回りを再開した哲也が長い廊下を歩いて行く、
「あの老婆が守護霊か……でも嫌な顔で笑ってたぞ」
ニタリとした醜悪な笑みを思い出して哲也がブルッと震える。
廊下の奥、階段の前で哲也が振り返って藤実の部屋の辺りを見つめた。
「話しを聞いてからだな、見た目で判断するのは良くないからな」
一人呟くと哲也は階段を下りていった。
その日の昼、昼食を終えた哲也は約束通り藤実の部屋を訪ねた。
「お菓子持ってきましたよ、それとジュース、コーラでいいですか? 缶コーヒーもありますけど」
売店で買った安い菓子と缶ジュースをテーブルの上に置いた。
「サンキュー、コーラ貰うな」
手元に炭酸飲料を置く藤実の向かいに哲也は腰掛けた。
「お菓子もどうぞ」
チョコレート菓子を開けてテーブルの上に置くと哲也は缶コーヒーを一口飲んだ。
「サンキュー、遠慮無しに貰うぜ」
チョコレート菓子を口に放り込んで炭酸飲料で流し込むと藤実が哲也を見つめた。
「何から話すか……ガキの頃から話さないとお婆ちゃんが守護霊だってわからないな」
掛けていた眼鏡を外してテーブルの上に置くと藤実が話しを始めた。
これは藤実周哉さんが教えてくれた話しだ。
藤実は生まれも育ちも東京だ。23区の外れ大田区に建つマンションに両親と一緒に暮らしている。自然と接するのは学校の遠足や旅行の時だけといった典型的な都会っ子である。
一人っ子の藤実は両親と祖父の4人家族だ。祖母は藤実が物心つく前に亡くなった。お婆ちゃん子だったらしく藤実はぼんやりと祖母のことを覚えている。
その亡くなったお婆ちゃんが藤実のことを守ってくれているのだという、藤実曰く守護霊になってくれているらしい。
小学校4年生の頃の出来事だ。ブランコで遊んでいると誰かに足を掴まれて落ちて転がった。痛さに泣きながら誰がやったのかと辺りを探すと公園の隅で老婆がニコニコと笑って見ていた。バカにされたと思って腹が立った藤実が文句を言ってやろうと歩き出す。
ブランコから離れた後ろで大きな音がした。藤実が振り返るとブランコが倒れていた。乗っていた3人が地面に転がって泣いている。
近くに居た大人が集まってきて大騒ぎになる。老婆はいつの間にか居なくなっていた。
ブランコの柱が錆びていて倒れたらしい、何でも散歩の犬が毎回おしっこを柱に掛けて劣化が進んだのだろうということだ。ブランコに乗っていた3人は酷い怪我だ。2人が足を骨折して、残りの1人は太股を3針縫う大怪我だ。
先にブランコから落ちて転がった藤実は膝を擦り剥いただけで済んだ。
中学2年の時にはこんな事があった。
友人たちと遊んでの帰り、夕方の道路を自転車で急いでいると後ろから引っ張られて転んでしまう、誰の悪戯かと後ろを見るが誰も居ない、痛さと恥ずかしさに慌てて自転車を起そうとしたとき、直ぐ前の交差点を信号無視した原付バイクが2台走り抜けていった。
あのまま転けずに交差点を渡っていたらバイクと事故っていたかも知れない、驚く藤実の目に道路の向こうに老婆が見えた。此方を向いてニコニコ笑っているように見えた。
近付いて確かめようと自転車に跨って前を向くと老婆の姿は消えていた。下を向いたのは一瞬だ。歩いて行ったのかと辺りを見るが老婆の姿はどこにも無かった。
高校1年の時は死ぬかと思うような出来事があった。
学校へは電車で通っていた。中間テストを終えて昼に帰りにつく、朝夕と違い駅のホームは疎らで余裕がある。同じ学校の制服を着た生徒たちが十数名いるだけだ。
友人と駄弁りながら歩いていた藤実が誰かに押されて線路へと落ちた。電車が迫ってくる。友人に助け上げられた藤実の前を電車が通って行く、何が起きたのかわからずに呆然としている藤実の前で電車が止まった。視界が遮られる数秒ほどの間だが向かいのホームで老婆が笑っているのが見えたような気がする。
公園の隅で笑っていた老婆、交差点の向こうで笑っていた老婆、ホームの向こうで笑っていた老婆、顔は覚えていないが祖母が助けてくれたのだと藤実は思った。
同時に誰かが自分を殺そうとしているのではないかと考えるようになる。人ではない何かだ。姿の見えない何かが自分を殺そうとしていて祖母が助けてくれたのだと考えた。
その後も何度もお婆ちゃんに助けられた。祖母が守護霊として付いていてくれるのだと藤実は思った。
時は戻って今から2ヶ月前になる。
会社の飲み会に出て夜遅くに帰りについた。家が同じ方向の同僚である木村と2人で駅へと向かう、
「二階堂さんな、お前に気があるぞ」
2人並んで歩いていると木村がニヤッと笑って藤実を肘で突っついた。
3歳年上の木村は入社当初から仕事のことを色々教えてくれる良い先輩で藤実は会社で一番信頼を置いている。同僚というだけでなく友達といってもいい存在だ。
「また冗談言ってぇ、木村さん、この前は総務の西田さんが惚れてるとか言ってたじゃないですか」
嫌そうな顔をする藤実の横で木村がとぼけ顔で口を開く、
「そんな事言ってたか? でもな、今度はマジだ。二階堂さんのお前を見る目はマジだったぞ、だからデートに誘え! 」
「何言ってんです。ダメだったら恥かくでしょ、それに二階堂さんは別に好みじゃないし」
迷惑そうな藤実を余所に木村がうんうん頷きながら続ける。
「二階堂さんは良い人だぞ、仕事は出来るし料理も旨い、いつも手作り弁当持ってきてるんだぞ……俺なんか初めの1年だけで今はコンビニ弁当だぞ」
「木村さんの奥さん働いてるんでしょ? 共働きなんだから仕方ないですよ」
木村は結婚4年目だ。最近は愚痴が多くなってきた。
「仕方ない……いや仕方なくない! だからお前も早く結婚しろ」
絡んでくる木村に藤実が迷惑顔を向ける。
「木村さん酔ってんでしょ? 俺はまだ結婚する気なんて無いですからね」
「結婚は良いぞ、小遣い制になって使える金は減るし、他の女の子にちょっかい出せなくなるし、手料理は食えるし……直ぐに手抜き料理になったけどな」
「いや、全然良くないですから」
良い気分で酔っ払った2人が談笑しながら夜の繁華街を抜けて駅前の交差点で信号待ちで止まった。道路の向こうには数人居たが此方で信号待ちをしているのは藤実と木村の2人だけだ。
「ふぅっ、少し酔ったかな」
緩めていたネクタイをするっと外して鞄に入れようとした時、後ろから誰かに押されて藤実が体勢を崩した。
「おわっ! 」
隣りに立っていた木村の腕を掴むと2人してよろける。
「危ない!! 」
誰かが叫んだ。次の瞬間、トラックが突っ込んできた。
強い衝撃を感じて藤実が吹っ飛ぶように転がった。
「きゃぁあぁ~~ 」
「マジかよ…… 」
「事故だ! 」
「誰か警察を呼べ!! 」
「いや、救急車だ! 」
悲鳴や怒号が聞こえた。
地面に倒れていた藤実が目を開けるとトラックの下に木村が見えた。
「きっ……木村さん………… 」
木村の顔の下、白いシャツが真っ赤に染まっている。
「木村さん! 」
藤実は叫んで起き上がろうとするが身体が痺れて動かない。
「大丈夫か? 直ぐに救急車が来るからな」
「頑張れ! 気をしっかり」
藤実の周りに数人がやって来て心配そうに声を掛けてくれる。
「ありが…… 」
礼を言おうとどうにか動く首だけを動かして周りを見た。
老婆が居た。野次馬の中に混じってニヤニヤと笑っていた。
「お婆ちゃん………… 」
意識が遠くなっていく、救急車のサイレンを聞きながら藤実は気を失った。
次に目を覚ますと病院のベッド上だった。
「周哉……良かった」
「心配掛けやがって…… 」
母と父が心配そうにベッドの脇から覗き込んでいた。後ろでは祖父が医者に頭を下げているのが見える。
「俺は…… 」
「事故に遭ったんだ」
呆然と訊く藤実に父が教えてくれた。
「事故……そうだ! トラックが突っ込んできて…………木村さんは? 木村さんは無事なんですか? 」
ガバッと起き上がった藤実を父が慌てて抱きかかえる。
「無理するな」
「痛てて……足が……左足が痺れる」
「だから無理をするなって言ってるんだ。いいから寝てろ」
父に叱られて藤実がベッドに横になる。
「それで木村さんは? 」
不安気に訊く藤実に父が険しい表情を向けて話し出す。
「亡くなったよ、木村さんは病院に運ばれて直ぐに亡くなった」
「死んだ……木村さんが………… 」
愕然とする藤実に父が顔を顰めて続ける。
「お前だって死ぬところだったんだぞ、トラックが突っ込んできたんだ。木村さんは下敷きになって亡くなった。お前は跳ね飛ばされたから助かったんだ」
木村と2人で信号待ちをしている所へ中型のトラックが突っ込んできたのだ。まだ詳しいことはわかっていないが警察の話しによるとトラックの運転手は電話が掛かってきて取ろうとしてハンドル操作を誤って突っ込んだらしい。
「木村さんが死んだ……木村さんが」
驚き焦りながら必死に思い出そうと記憶を辿る。
「俺の所為だ……俺がよろけて木村さんの腕を掴んだから木村さんは逃げられなかったんだ……俺が腕を掴まなかったら木村さんは死ななかったんだ」
トラックの下で血を流していた木村の姿が目に浮んで藤実は涙を流す。
「何を言ってる! お前の所為なんかじゃない」
「そうよ、全部トラックが悪いのよ、運転中に電話なんかして……全部トラックの運転手が悪いのよ、警察だって100%相手が悪いって言ってたわ」
自分を責める藤実を父と母が心配そうに宥めた。
藤実がハッとして顔を顰める。
「 ……誰かに背中を押されたんだ。それでよろけたんだ……でも誰も居なかった」
誰かに背を押されてよろけたことを思い出す。だが信号待ちをしていた場所には自分と木村の2人しか居なかった。近くには誰も居なかったのだ。
「誰かが俺を殺そうとしてるんだ…… 」
子供の頃から押されたり引っ張ったりされて怪我をしたり死にそうになったことを思い出して藤実が必死に話し出す。
「誰かが……見えない誰かが俺を殺そうとしてるんだ。それで木村さんが死んだんだ…………見えない誰かが……幽霊か何かが俺に取り憑いてるんだ」
「周哉何を言っているんだ」
「しっかりしなさい周哉」
狼狽える藤実を叱り付ける父と母の横に医者が立った。
「大丈夫ですよ藤実さん、何も心配いりませんからね」
医者の声に安心したのか藤実が黙り込む、そこへ看護師がやってきた。
「先生用意が出来ました」
わかったと言うように頷くと医者がドアの近くに両親を呼んだ。
「事故のショックで混乱しているんでしょう、精密検査をしますからお父様方は暫くお待ちください、まぁ私の経験から大丈夫だと思いますよ、ただ左足が痺れるのが気になりますね、後遺症が残るかも知れません、それ以外は大丈夫だと思いますよ」
「そうですか……よろしくお願いします」
「後遺症ですか……命が助かっただけでも奇跡だと思わないといけないんでしょうね」
医者と話す父と母の心配する声が聞こえてきた。
「藤実さん、ストレッチャーに移しますからね」
看護師に抱きかかえられるようにしてストレッチャーに載せられた藤実が運ばれていった。
精密検査の結果、脳や内臓には何も問題がない事がわかる。だが左足の痺れは取れない、誰かに支えられないと旨く歩けないほどだ。
左足に障害が残るかも知れないが一先ず命には別状がないと聞いて両親は安堵した。
「じゃあ父さんたち帰るからな」
「着替えと歯ブラシとか持ってくるからね」
藤実は2週間ほど入院することになった。
「スマホの充電器持ってきてくれ、それと机の上に置いてあるノートパソコンも、アダプタとか忘れずに持ってきてくれ、それと眼鏡……眼鏡はいいか、退院したら買おう」
帰る両親に藤実が頼んだ。鞄に入れてあったスマホは無事だ。スマホとノートパソコンがあれば会社はもちろん友人知人に連絡を取ることが出来る。
眼鏡は事故で壊れて手元に無い、見え辛いだけでそれ程困らないので退院してから新調すればいいと考えた。
「藤実さん、何かあればナースコールを押してくださいね」
両親と一緒に看護師も部屋を出て行った。1時間ほど意識を失っていて、目覚めた後の精密検査や何やらで既に深夜の2時を回っている。
「木村さん……ごめん」
明かりの消えた部屋の中、藤実は一人涙を流した。
悪霊が殺そうとして背を押したのだと思った。それを祖母が助けてくれたのだ。
木村が死んだのは悲しいが自分も死んでいたかも知れないほどの酷い事故だったらしい、気を失う寸前、確かに老婆の姿を見た。あれは祖母に違いない、祖母が守護霊となって守ってくれているのだと思った。
明け方近くだろうか? 藤実がふと目を覚ます。色々考えながらいつの間にか眠っていたらしい。
「んん…… 」
怠そうに寝返りを打った藤実が息を止めて身を固くした。
何かが居た。自分の寝ているベッドの向こう、壁の手前に影が2つ見えた。
「ふぅぅ…… 」
驚きと共に藤実が息を吐き出す。
『消えろ! 帰れ!! 』
『お前こそ邪魔だよ、あんたが消えな』
2つの影が掴み合いながら互いを罵っていた。影の形と声から男と老婆のように思えた。
『私はこの子が気に入ったんだ。邪魔はさせないよ』
『手出しはさせん! 消え去れ!! 』
楽しげな老婆と違い男は怒鳴り声だ。
藤実はこの男が自分を殺そうとしている悪霊で老婆は守ってくれている祖母だと思った。
「おっ、お婆ちゃん…… 」
助けを求めるように呟いた藤実の声が聞こえたのか2人の影が振り向いた。
眼鏡を掛けていないのでハッキリとは見えないが男は怒り猛った怖い顔をしていて老婆は優しい顔で笑っているように見えた。
「そいつが……お婆ちゃん助けて」
男の影に恐怖を感じた藤実は老婆の影に助けを求めた。
藤実が目を覚ましたのに気付いたからか2人の影がスーッと消えていった。
「お婆ちゃん! 」
藤実がばっと上半身を起す。
「痛てて…… 」
左足が痺れと共に痛み出した。鎮痛剤が切れたらしい、動かすと痛みが走る。
「夢……じゃないよな」
足が痛まないようにそっと横になる。
「彼奴が……あの男が俺を殺そうとしてるんだ」
先程の出来事は夢か本当か判断がつきかねている。だが本当だとしたら祖母が守ってくれてはいるが同時にあの男が悪霊で自分を狙っているのだと怯えた。
翌日、見舞いに来た両親に2人の影のことを話すが事故のショックで変な妄想をしているのだと適当にあしらわれた。
入院している間に何度か同じような影を見た。医者にも話すが鎮痛剤や睡眠導入剤で意識が混濁して幻覚を見たんだろうと宥められた。
影を見るのは毎回寝ている時だけだ。夢か現実か藤実も確信が持てないのでしつこく話すのは止めた。
2週間ほどして退院する。左足が痺れて杖無しでは歩けないが脳や内臓など他には異常も無く奇跡だと医者に言われた。
家に帰った藤実は昼間は杖を使って歩く練習をして夜はパソコンを使って簿記や表計算ソフトなどの勉強をした。
会社からは入院していた2週間を入れて1ヶ月の休暇が出ている。杖で歩く訓練と心の整理にと特別に休みをくれたのだ。仲の良い同僚の木村が亡くなったことに考慮もしてくれたのだろう。
帰って3日ほどした夜、ふと目を覚ますと影がいた。
『去れ! お前の来る場所ではない!! 』
『嫌だよ、この子は私のものさ、あんたこそ消えな』
男と老婆の影が取っ組み合いをしながら罵倒し合っている。
「おっ……お婆ちゃん」
怯えながら藤実は枕元に置いてあった眼鏡に手を伸ばす。
『ヒヒヒッ、この子は私のものだ。邪魔をするな』
『違う! 消え去れ!! 』
取っ組み合いをしていた2つの影が振り返った。
退院して真っ先に新調した眼鏡を掛けて祖母の顔をハッキリと確認しようとしたが藤実が眼鏡を掛けると同時に2つの影はスーッと消えていった。
「あぁ……やっぱり……やっぱり悪霊だ」
祖母の顔は見れなかったが男の顔はハッキリと見た。
40歳くらいの中年男だ。目を吊り上げ黄色い歯を剥き出しにした怒り猛った表情をしていた。自分の命を狙っている悪霊に違いないと藤実は思った。
その後も度々、争う2人の影を見た。藤実に見られるのを嫌ってか確認しようと眼鏡を掛ける前に消えるのであれ以降どちらの顔もハッキリと見たことはない。
2人の影のことを両親や祖父に話すが相手にしてもらえない、事故のショックがまだ続いているのだと心配されるだけだ。
数日経った夜、夜中に目を覚ますと2人の影が居た。
『消え去れ!! 二度と出てくるな! 』
『ひぃぃ……止めて…… 』
いつもと違って老婆の影が男の影に押されていた。
『今日こそ許さん! 消し去ってやる』
『ぎっ、苦しい……ぎひぃ……助けて………… 』
怒鳴る男に伸し掛かられて老婆が悲鳴を上げて倒れ込んだ。
「お婆ちゃんが………… 」
藤実の目の前で老婆の影が男の影に押し潰されるようにして消えていった。
「お婆ちゃんが……消えた………… 」
愕然とする藤実の見つめる先で男の影がニッと笑った。
眼鏡を掛けていないのでハッキリと顔は見えなかったが男が笑っているのはわかった。
「嫌だ……助けて………… 」
守ってくれていた祖母が悪霊に負けた。藤実は恐怖した。次は自分が殺される。そう思った。
「いっ、嫌だ……死にたくない…………助けて……死にたくない……殺さないで…………助けて…………嫌だ……嫌だぁあぁあぁ~~ 」
錯乱している藤実を両親が取り押さえる。
暫くして落ち着いたように見えたが藤実は『悪霊に殺される。お婆ちゃんがやられた』などと言って怯え部屋に閉じ籠もってしまった。
何を言っても利かない藤実に困った両親は事故のショックで心を少し病んだのだと磯山病院へと連れて来たのだ。病院は検査入院という事で短期の入院を認めた。
これが藤実周哉さんが教えてくれた話しだ。
「お婆ちゃんは悪霊にやられたと思ったけど大丈夫だったんだ。1週間ほど影は出てこなかったけど、この前寝てたら見たんだ。男の悪霊もいたけど、お婆ちゃんが悪霊と闘っていた。俺を守ってくれてるんだ。だから入院なんてしないでいいって言ったんだけどな」
苦笑いをして藤実が付け足した。
「お婆ちゃんですか…… 」
哲也は夜の見回りで40歳くらいの男と睨み合っていた老婆を思い出す。怒っている様子の男と違い老婆の口元には笑みが浮んでいた。あの老婆が藤実の守護霊だったのかと思いながらもあまり良い笑みに見えなかったと感じた。
「そうだ。お婆ちゃんがずっと守ってくれてるんだ。思い起こせば幼稚園の時も滑り台から落ちたことがある。その時も知らないお婆ちゃんに助けられたような気がするんだ。あれも祖母だったんだ。お婆ちゃんが守ってくれたんだ」
哲也の向かいで藤実は楽しげに言うとグイッと炭酸飲料を飲んだ。釣られるように哲也も缶コーヒーを一口飲む、
「本当に祖母なんですか? 顔はハッキリと見てないんですよね」
「ああ見てない、でも俺には分かるんだ。今までずっと助けてくれたんだからな」
藤実は目が悪いので老婆の顔をハッキリと見たことはない、いつも少し離れた場所にしか老婆は出てこない事もある。だが笑っていることだけは何となく分かるのだという、
「お婆ちゃんの写真とかは無いんですか? 」
哲也はハッキリと見たのだ。確認してやろうと考えた。
「写真は殆ど残ってないな、遺影にも困ったから古い写真を修正して使ったって聞いたぞ、俺自身お婆ちゃんの顔は余り覚えていない、幼稚園の前に死んだからな、遺影を見てもピンとこなかったし……でもあれはお婆ちゃんだ。あの影はお婆ちゃんで俺を守ってくれてるんだ。男の顔はハッキリと見たんだ。目を吊り上げて怒ってた。あの顔は俺を殺そうとしてる悪霊に違いない、だからもう1人の影はお婆ちゃんなんだ」
笑顔でこたえながら藤実が左足を摩った。
「お婆ちゃんが助けてくれたから足だけで済んだんだ。ニュースだけじゃなくて警察に事故の写真を見せて貰った。酷い事故だぞ、木村さんはほぼ即死だし……俺が生きてるのは奇跡だって警察も言ってたんだ。お婆ちゃんが居なかったら絶対に死んでた」
「そうですか…… 」
哲也がゴクゴクと缶コーヒーを飲んだ。老婆の影は何となく嫌な感じがしたなどとは口が裂けても言えない、言えば争いになるだろう、
「話しを聞かせてくれてありがとうございます。僕は夕方の見回りがあるから…… 」
腰を上げた哲也に藤実が笑顔で話し掛ける。
「警備員さんはお婆ちゃんを見たんだよな? どんな感じだった? 」
「ちらっとしか見てないから……優しそうな気がしましたよ、でも直ぐに消えたんでハッキリと見たわけじゃないけど………… 」
嫌な声を出してニタリと醜悪に笑っていたとは言えずに哲也は言葉を濁すようにしてこたえた。
「そうか、やっぱりお婆ちゃんだ。俺の守護霊だ」
うんうん納得する藤実に苦笑いをした哲也がペコッと頭を下げる。
「ハッキリとは見てませんし、見間違いかも知れませんけど男の幽霊と老婆の幽霊、2人が見えたのは確かですから気をつけてくださいね、僕も夜の見回りでは気を付けますけど…… 」
「男の悪霊には気を付けるよ、いつも押してきて俺を殺そうとしてるんだ。でもお婆ちゃんが付いてるから安心だけどな」
笑顔でこたえる藤実を後にして哲也は部屋を出て行った。
翌日の昼、食事を終えた哲也が再放送の時代劇でも見ようと自分の部屋に戻っていく途中、階段を上っていく藤実を見つける。
「エレベーターいっぱいだし階段使うよな」
食事や風呂の時間帯はエレベーターに列が出来るので年寄りはともかく若い患者は階段を使う人も多い。
「足が悪いのに結構速いな」
哲也は感心した様子で階段を上る藤実を見ていた。左足が不自由だが藤実は慣れているのか手摺りと杖を使ってトントントンっと器用に上っていく、
「うわっ! 」
叫びを上げて藤実が階段から転がり落ちる。
「藤実さん! 」
哲也は見た。カサカサの骨と皮ばかりの手が階段を上る藤実の右足首を掴んだのを、後ろ向きによろけた藤実の肩を掴むゴツゴツした男の手を、確認しようと哲也が目を凝らしす。次の瞬間、藤実が階段から落ちてきた。
「藤実さん、大丈夫ですか」
哲也は直ぐに駆け付けて藤実の様子を見る。鋭い視線を感じてふと顔を上げると階段の上、踊場に老婆が居た。
「お婆ちゃん…… 」
声に振り向くと藤実も踊場を見つめていた。
「めっ、眼鏡を…… 」
外れて落ちた眼鏡を拾おうと藤実が手を伸ばす。眼鏡を掛けてしっかりと老婆を見たかったのだろう、
「藤実さん、眼鏡です」
眼鏡を拾って藤実に渡すと哲也は踊場を見上げた。
「お婆ちゃんは? 」
藤実も見上げるが既に老婆の姿は無かった。
「また顔を見れなかった。お婆ちゃん……痛ててて………… 」
立ち上がろうとした藤実が苦痛に顔を顰めて足を押さえた。
「何処が痛いんです? 」
「足が……右の足が……足首が痛い」
「頭は大丈夫ですか? 」
「頭は打ってない、足が折れてるかも知れない」
「先生を呼んできますので動かないでください、折れてると大変だから絶対動いちゃダメですよ」
藤実は右足が痛いという、足から落ちていくのを哲也も見たので捻挫か骨折でもしているかも知れないと慌てて先生を呼びに行った。
医者と看護師を連れて哲也が戻ってきた。状況を伝えてあるのでストレッチャーも持ってきてある。
「藤実さん、ストレッチャーに載せますからね、哲也さんは上半身を頼みます。私は足を打たないようにしますから」
「わかりました。藤実さん持ち上げますよ」
哲也は看護師の早坂と一緒に藤実をストレッチャーに載せた。
「警備員さんありがとう」
藤実がペコッと頭を下げた。早坂も褒めるように優しい目で見ている。
医者と看護師たちに連れられて藤実は運ばれていった。
藤実は右足首を骨折していた。足から落ちたので頭を打たずに済んだのは幸いだ。
哲也が見舞いにいくと藤実の方から話し始めた。
「肩を掴んで引っ張られたんだ。それでよろけて落ちたんだ……たぶん悪霊の仕業だ」
「足首は? 僕には足首を掴んでた手が見えましたよ、肩を掴む手も見えたけど」
哲也の話しに藤実が驚いて続ける。
「足首? マジか? 肩を掴まれたことしか気付かなかったぞ、足も掴んでたのか……あの悪霊め」
「悪霊かどうかは…… 」
哲也が顔を顰める。足首を掴む手と肩を掴んでいた手は全く違う手だった。
「悪霊に決まってる。あの男の悪霊が俺を狙ってるんだ。今度もお婆ちゃんが助けてくれた。だから足の骨折だけで済んだんだ」
何か言いたげな哲也の話しを遮って藤実が言い切った。
「お婆ちゃんが階段の上で笑ってただろ、悪霊から助けてくれたんだ」
「あれは…… 」
違うと言いかけて哲也は止めた。嬉しそうな藤実に言っても信じて貰えないだろう、階段の上で確かに老婆は笑っていた。ニタニタと悪意ある顔で嘲っていた。
翌日、藤実は転院して行った。
元々短期の検査入院だ。心の病の症状は軽く入院するほどでも無いと診断されて家の近くの病院へと転院していった。
ベッドで横になりながら哲也は考える。
「お婆ちゃん……本当に藤実さんの祖母なんだろうか? 」
老婆の邪悪な笑みを思い出す。病室で見た時も階段の踊場で見た時も嘲るように口元を歪めていた。
「少ししか見てないけど全然似てなかったし」
血の繋がりがあれば目元や鼻の形など何処か似ているところがあるはずだ。だが哲也が見た老婆は何一つ藤実と似ているところが無かったように思う。
本当に藤実の祖母なのだろうか?
それ程きつい近眼ではないので普段は眼鏡を掛けないと言っていた。老婆の姿を見たときは眼鏡をしていても転んだりして外れていたのではないだろうか? 夜寝ているときは当然眼鏡など掛けていない、男と老婆が睨み合っているのを見た時もハッキリと顔は見ていないはずだ。第一、物心が付く前に亡くなった祖母の顔を藤実自身も覚えていないのだ。回忌供養の時にアルバムで何度か見ただけだ。
それで祖母だと思い込んだのではないだろうか?
階段から落ちたときに見えた足を掴んでいた骨と皮だけの手はあの老婆のものではないだろうか? 藤実は肩を掴んで引っ張られて階段から落ちたとしか話さなかった。肩を掴む男の力が強く、足を掴んでいた老婆の事など気付かなかったのではないだろうか?
男の幽霊が肩を持って引っ張らなければ藤実は頭から落ちていただろう、頭を打って下手をすれば死んでいたかも知れない。
もしそうだとしたら藤実の話していた全てのことは逆ではないのか、老婆が藤実を殺そうとして男が助けようとしていたのではないだろうか。
隙を突かれると少しの力でもよろけたり転んだりするものだ。そこから体勢を持ち直すのは結構力がいる。転けそうになって足を踏ん張って耐えたことは誰にでもあるだろう。
老婆の霊が藤実の隙を突いて軽い力で倒そうとしたのを男の霊が強い力で引っ張ったり押したりして助けたのではないだろうか、老婆が悪霊で男が守護霊だとしたら、藤実はとんでもない勘違いをしていることになる。
いつも少し離れた所に居るのは藤実を守っている男の霊がいて近付けないからではないのか? 男の霊の隙を突いて藤実にちょっかいを出しているのだ。
全く別人の老婆を祖母だと思い込んで守ってくれていると安心しているのだ。その老婆の霊が自分を殺そうとしている事に気付かずに……。
今となっては哲也にはどうすることも出来ない、本当に守ってくれている男の霊を悪しきものとしてお祓いしたりしないことを願うだけだ。
「守護霊か……僕にも付いてるのかなぁ」
ゴロンと寝返りを打つと哲也は目を閉じた。
守護霊が居るとしてどんな霊だろうか? 色々と怪奇な出来事に遭ってきたので何かに守られているような気はする。色々考えているうちに哲也は眠りに落ちていった。