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第三十六話 ボール

 ボールを使った運動や遊びをした事がない人はいないだろう、球技は学校の体育にも取り入れられているのでボールを使ったスポーツが苦手でも嫌でも触らざるを得ないのだ。


 昭和の時代には住宅街に隣接する野原などで野球をする少年たちがいて漫画やアニメに出てくるシーンのように家にボールが飛んでくるなんてことも本当に起こった。町中の空き地が減り、子供も少なくなった昨今では家にボールが飛んでくるなんて事は無いだろう、もっとも野原で野球やサッカーをするよりゲーム機やスマホで遊ぶ子供たちが増えたのが一番大きいのだろうが……。


 広く遊ばれているが故に思わぬところでボールを見つけることがある。池や川でよく見つけるのはもちろん、滅多に人が入らない山奥や岩がゴツゴツとしている磯場の海、こんなところで誰が遊んだのだろうと思うような場所でも見つかることがある。海などは流れてきたのだと理解できるが人も入らない山奥で見つかる野球のボールなどは謎だ。それこそ怪奇現象と言っていいのかも知れない。


 今時、珍しくボールが飛んでくる家に住んでいた人を哲也は知っている。田舎と都会が混じったようなほどよい地方都市に住んでいて道路を挟んだ向かいが空き地になっている。その空き地で少年たちが野球をするのだという、そのボールが飛んでくるのだ。ボールだけならよかったのだがとんでもないものが飛んできてそれが元で心を病んでしまった。迷惑なボールと同じように何もしていないのに怪異が飛び込んできたのだ。



 朝食を終えた哲也が食堂から出てくる。


「ふぁ~ぁっ、なんか眠いな、戻って寝るか」


 部屋へ戻って昼まで寝ようと外廊下を歩いていると通用口から歩いてくる看護師の森崎と若い女を見つけた。


「ん? 森崎さんだ。連れてるのは新しい患者か、それともお見舞いかなぁ」


 眠そうに目を擦りながら哲也が近付いていく、


「おぉぅ! 可愛いぞ」


 眠気が吹っ飛んだ。看護師の森崎も美人だがその隣を歩く若い女はもっと可愛かった。


「20いってないんじゃないか? 僕と同い歳くらいだぞ、新しい患者だったら…… 」


 嬉しそうなニヤけ顔で呟いていると後ろから誰かに肩をガシッと掴まれた。


「新しい患者さんだったら何をする気なのかなぁ~~ 」

「ひぅっ! 」


 聞き覚えのある声に哲也がビクッと震えながら振り返ると私服姿の香織が直ぐ後ろに立っていた。


「えへへっ、香織さんおはようございます」


 笑顔の香織を見て哲也が卑屈に挨拶をした。


「はい、おはよう」


 知らない男が見たら惚れそうなくらいに可愛い笑みだがその目の奥が笑っていないのに哲也は直ぐに気が付いた。


「かっ、香織さん……今から帰るんですか? お疲れ様です。じゃあ僕はこれで…… 」


 逃げようとした哲也の腕を香織が掴む、


「それで新しい患者だったら何をする気だったの? 」

「えへへっ、何もしませんよ……それより香織さん決まってますね、一瞬誰か分からなかったっす。いつもの白衣も綺麗ですけど私服はもっと美人っす。それじゃあ、僕はこれで…… 」


 誤魔化しながら手を振り払って後退る哲也を香織が怒鳴りつける。


「待ちなさい! 野中さんに変な事したら怒るからね」

「何もして……って、野中さん? 」


 走って逃げようとした哲也が足を止めた。


「野中さんって言うんすか、あの


 引き返してきた哲也を見て香織が溜息をつく、


野中佳恵のなかかえさんよ、歳は二十歳だったかな」

「新しい患者さんなんだぁ、二十歳か……僕より一つ年上なんだぁ」


 嬉しそうな哲也を見て香織が更に大きな溜息をついた。


「あのねぇ、入ってくる患者さんを見て嬉しそうにしないの、退院するなら喜んであげるのは当り前だけど」

「だって野中さん可愛いし…… 」


 ニヤけ顔で話していた哲也が慌てて言い直す。


「もっ、もちろん香織さんはもっと綺麗ですよ、僕は香織さん一筋ですから…… 」

「何言ってんの、哲也くんって本当に気が多いよね」


 呆れ返りながら香織は歩いてやって来る野中を見ろというように顎をしゃくった。


「野中さんの手を見なさい」

「あっ…… 」


 哲也は言葉を失った。野中は両手に包帯を巻いていた。可愛い顔に見惚れていて今まで気付かなかった。


「もしかして自傷っすか? 」


 哲也の顔が一瞬で険しく変わる。野中は自傷するくらいに心に深い傷を負って病んでいるのだと思った。


「やっといつもの哲也くんに戻ったわね、安心なさい、野中さんは自傷症じゃないわよ、皮膚炎なのよ」

「皮膚炎? 」


 険しい顔のまま首を傾げる哲也に香織が神妙な面持ちで話し始める。


「両手とも赤く爛れるくらいに酷い炎症を起しているのよ、色々治療したんだけど治らなくて……手の平だけってのが不思議だけどウイルス性じゃないからそれ以上広がらないのが救いだけど年頃の女の子だから……それが心の病にも出てるようなのよ、本人も気にしている様子だから手の話しはしちゃダメだからね」

「そんなこと絶対にしません、でも香織さんに聞いてなかったら話したと思います」


 真剣な表情でこたえていた哲也が何かを思い付いたように続ける。


「それで……香織さんはそれを僕に教えようとして………… 」


 嬉しそうに頬を緩める哲也を香織が正面から見据える。


「違うわよ、野中さんに見惚れて鼻の下伸ばしてた哲也くんが居たから、からかいに来ただけだから」


 とぼけ顔で話す香織の前で哲也が嫌そうに顔を歪めた。


「からかうって……意地悪しにきただけって事っすよね」

「それだけじゃないわよ、哲也くんがバカな事する前に注意しに来たのよ、気の多い哲也くんのことだから野中さんにちょっかい出すの分かってるからね」


 更にからかう香織の向かいで哲也が嫌そうな顔の口元をニヤリと歪める。


「どうせバカな事ばかりしてますよ……こうなったら野中さんにもバカな事をしてやろう」

「なっ、何言ってんの! そんな事したら怒るからね」


 声を荒げる香織の後ろを哲也が指差した。


「森崎さん来てるっすよ」


 バカ話をしている間に森崎と野中が直ぐ後ろまで来ていた。

 看護師の森崎が香織に挨拶する。


「香織さん、お疲れ様です」

「おはよう、野中さんもおはよう、私は東條香織、夜勤で帰るところだから私服だけど私も看護師なのよ」


 野中がペコッと頭を下げる。


「おはようございます」


 声も可愛い……、香織の隣で哲也の頬が緩んでいく、


「ぼっ、僕は…… 」


 挨拶しようとした哲也を肘で叩いて黙らせると香織が続ける。


「森崎が担当なら安心ね、野中さん、困ったことがあれば何でも森崎に相談するといいわよ、若いけど森崎はベテランだから」

「はい、そうします」


 人見知りするのか元から控え目な性格なのか野中が小さな声でこくっと頷いた。


「あははっ、香織さんに鍛えられてますからね」


 嬉しそうに声を出して笑うと森崎が野中の背を軽く押した。


「じゃあ、さっさと受付済ませて部屋に行こうか」

「はい」


 野中を連れて森崎が本館へと入っていった。


「さてと、帰るか……熱いお風呂に入りたいなぁ~~ 」


 両手を上げて伸びをしながら香織が通用門へと歩いて行く、無視された哲也が恐る恐るその背に話し掛ける。


「あのぅ…… 」

「手の幽霊が出るって言うのよ」


 香織がくるっと振り返った。


「手の幽霊? なんすか? 」


 哲也が香織の元へと走り寄った。


「それがね、手の平だけの幽霊が見えるらしいのよ、もちろん幻覚なんだけど、自分の手の怪我を気にしすぎて、それが幽霊の所為だって思い込んでいるらしいのよ」


 香織が野中のことを教えてくれた。



 野中佳恵のなかかえ20歳、専門学校を卒業した後、就職が決まらずアルバイトをしている。親と一緒に暮らしているので気楽なものである。ある日、手の病気になってしまう、肌荒れが酷いのかと思っていたが痛みも感じて医者に行くと皮膚炎と診断されて塗り薬をもらったが一向に治らない、炎症は酷くなり両手はいつも包帯でグルグル巻になっていた。それを気にしたのかアルバイトも辞めて家に引き籠もるようになった。それが元で心を病んだらしく手の平の幽霊が出てくると言って騒ぎ出して心配した両親が磯山病院へと入院させたのだ。


「アルバイト先や通行人に色々言われたんじゃないかな、手の包帯のこと」

「そんな……野中さんかわいそうっす」


 アトピー性皮膚炎や痣などで他人から心ないことを言われて心に傷を負うことは大いにある。本人は何も悪くはないのだ。本人が一番よくわかって気にしているのだ。他人からすれば悪気の無い些細な一言でも突き刺さるのだ。


 同情して貰い泣きしそうな哲也を見て香織が優しい顔で微笑んだ。


「だから哲也くんも気に掛けてあげてね」

「了解っす。野中さんのことを悪く言う奴がいたら注意してやるっす」

「任せたわよ、私は明日も休みだからね」


 帰ろうとする香織に哲也が待ってくれというように声を掛ける。


「でも僕が訊いてないのに香織さんの方から教えてくれるなんて珍しいっすね」

「さっき野中さんに声掛けてたら教えてないわよ、我慢して余計なこと言わなかったから教えてあげたのよ」


 じゃあねと言うように手を振って香織は駐車場へと歩いて行った。

 哲也も自分の部屋のあるA病棟へと歩き出す。


「手の幽霊か……野中さんのことは分かったからどうにかして話しを聞こう、池田先生に貰ったチーズケーキ食べなくてよかった。野中さんに持って行こう」


 手の幽霊の話しは気になるが可愛い野中と仲良くなりたいのが本音だ。昨日の診察で池田先生に貰ったパックに入った洋菓子を手土産にどうにかしようと企む哲也の顔がニヤけて気持悪い表情になっている。


「さてと……哲也くんのことだから首を突っ込むのは間違いないとしてどうするか見物ね、まぁ哲也くんのことだから結果は予想できるけど、只の幽霊じゃないし……あの子を見捨てるなら私も見捨てようかな」


 楽しげに呟きながら香織が駐車場へと歩いて行く、


「私が居ない間に終ったらどうしよう? 世良さんや須賀や眞部がいるから哲也くんは心配無いけど……まぁいいか、休みだし厄介事は忘れよう」


 軽自動車を運転して香織が磯山病院を出て行った。



 昼食後、哲也はB病棟へと向かった。仲良くしている患者の下川さんに雑誌を借りる約束をして取りに行くのだ。


「野中さんの部屋を訊くのを忘れてたな、香織さんは明日も休みだし……森崎さんは担当だから教えてくれないな、僕が悪さすると思ってるだろうからな、早坂さんにでも聞きに行くか」


 病練の端の出入り口から入って階段を上ろうとした時、廊下の向こうに野中を見つけた。


「野中さんだ! B棟だったのか」


 野中は中央の出入り口から入って階段を上っていくところだ。目の前の階段から哲也の足が離れていく、


「遠目で見ても可愛いなぁ」


 頬の緩みきっただらしない顔をした哲也が廊下の中央へと歩き出す。


「あっ、待って…… 」


 階段を上がって消えていく野中を追って哲也が走った。


「警備員として部屋を確認しておかないとな」


 緩みきった顔で言い訳をしながら階段を上がっていく、野中は2階の廊下を歩いていた。


「野中さん…… 」


 哲也の緩んでいた顔が元に戻っていく、廊下を歩く野中は両手が見えないように服の裾で隠していた。包帯でグルグル巻にしている手を知られたくないのだろう、廊下には窓際や長椅子に座って駄弁っている患者が数人居た。


「声なんて掛けられないな」


 何とも言えない悲しそうな顔で見つめていると野中が何かを落とした。

 拾おうと野中がしゃがむ、薬の入った袋だ。診察の帰りだろう、


「なんだ? 」


 廊下に置いてある長椅子に座って駄弁っていた患者の山口が野中の手に気付いて、見ろというように隣に座る波瀬を小突く、


「うわっ! 」


 座ったまま波瀬が身を乗り出した。2人は哲也の顔見知りだ。もう2年以上入院している山口茂雄やまぐちしげお波瀬邦夫はぜくにおだ。2人とも初老を迎えた60代の男である。


「グルグル巻だぞ」

「凄いなぁ」


 山口と波瀬が立ち上がって近付いていく、包帯を巻いた手では拾い難いのか何度も掴んでやっと袋を持ち上げた野中が2人に気付いた。


「おぅ、グルグル巻だ。ミイラ女か? 」

「凄いなぁ、アレだぞ、自殺未遂って奴じゃないのか」


 物珍しげに見ている2人の前で野中がしゃがんだまま身を固くする。


「彼奴ら…… 」


 哲也がバッと駆け出した。


「何やってんですか! 山口さん、波瀬さん」


 怒鳴る哲也を見て山口と波瀬だけでなくしゃがんでいた野中もビクッと驚く、


「てっ、哲也くんか…… 」

「吃驚させないでくれよ」


 愛想笑いを浮かべる2人の前で哲也が怒り顔のまま口を開く、


「他の患者の悪口を言うなんて最低ですよ」

「悪口なんて言ってないよ」

「そうだよ、この姉さんが……ほら、手がグルグル巻だからさ」


 焦る山口の横で波瀬が床にしゃがんでいる野中を指差した。


「だから何なんです? 怪我をしていれば包帯くらい巻くでしょう? それを何ですか、2人して……最低です」


 怖い顔を崩さない哲也の向かいで卑屈な笑みを浮かべたまま2人が謝る。


「悪かったよ、そう怒らなくてもいいだろ」

「そうだよ、ちょっと言っただけだろ」


 反省の無い2人を見て哲也が怖い顔のまま続ける。


「ちょっとってなんすか? 少しなら悪口言ってもいいって言うんですか? 山口さんも波瀬さんも先輩の患者さんがそんな事したらダメでしょ、他の見本になってくださいよ、2人の事は尊敬してるんですから……だからテレビとか他の違反でも僕は大目に見て力になってるんじゃないですか、頼みますよ」


 哲也は諭すように叱る。一方的に怒鳴りつけたりはしない、2人とも心の病で入院しているのだ。刺激しないように言葉を選んで注意するようにしていた。

 山口と波瀬は大部屋だ。個室と違って時々騒動が起きる。テレビの番組を見るので揉めたり遊んでいたゲームや本の貸し借りなど些細な騒動ばかりだがそれでも罰として暫くテレビを取り上げられたりするのだ。その度に2人が哲也を頼る。入院してきた当初から親しくしてくれた2人の頼みを哲也も利いて看護師や先生に頼んで許してもらうことが何度もあるのだ。院内で一番親しい患者がこの2人だ。


「 ……ごめん、悪かったよ哲也くん」

「俺も謝るよ、今度から気を付けるから怒らないでくれよ」


 先程と違い2人が神妙な態度で謝った。


「僕に謝るんじゃなくて野中さんに謝ってください」


 床にしゃがみ込んでいる野中に哲也が視線を送る。


「わるかった。バカにしたんじゃないんだ。手が……手の怪我が気になってさ」

「本当にごめんよ、もう言わないから許してくれ」


 野中の正面に回って山口と波瀬が頭を下げた。


「野中さんごめんね、山口さんも波瀬さんも悪気は無いんです。気になったことが直ぐに口から出てしまうんですよ、もうしないと思うので許してあげてください」


 2人の横で哲也も一緒になって謝った。


「いいです……気にしてませんから」


 小さな声で言うと薬の袋を持って野中が立ち上がる。


「あっ、ありがとう」


 哲也にペコッと頭を下げると野中は逃げるように早足で廊下を歩いて行く、


「僕は警備員の中田哲也です。困ったことがあったら何でも言ってください」


 野中の背に哲也が声を掛けた。振り返ってペコッと会釈すると野中は部屋へと入っていった。


「ところで哲也くんは何しに来たんだ? 」

「夕方の見回りはまだ早いよね、将棋かオセロでもやっていくかい? 」


 遊びに誘う波瀬と山口の前で哲也がハッと思い出す。


「あっ、忘れてた下川さんに本を借りに来たんだ」

「それじゃ早く行った方がいいよ」


 心配そうな山口の横で波瀬がニヤつきながら口を開く、


「急いだ方がいいぞ、下川さん約束破ると怒って口も聞いてくれなくなるよ」

「マジっすか? 」


 哲也が廊下を走っていく、途中で野中の部屋の前を通った。


「208号室か…… 」


 正直、一刻も早く手の幽霊の話しを聞きたかったのだが良くなったであろう自分の印象が悪くなるのを恐れてその場で訊くのは止めた。もう少し仲良くなってからでもいいと考えたのだ。



 翌日、夜10時の見回りをしていた哲也がB棟の近くで立ち止まる。


「ボールだ…… 」


 今歩いているコンクリートで出来た細い道、その先に野球で使うボールくらいの大きさの球が跳ねていた。


「誰か投げたのか? 」


 哲也がB棟を見上げる。患者が悪戯でボールを落としたのだと思った。


「ちがう……野球ボールはあんな跳ね方しないぞ」


 ポ~ンポ~ンと毬突きをするように跳ねていたボールを思い出して直ぐに視線を戻した。


「へっ!? 猫だ…… 」


 哲也の7メートルほど前を黒猫が悠然と歩いて横切っていく、


「ボールは? なんで? 」


 ボールが猫に変わったとしか思えない、


「見間違いか……猫が跳ねててボールに見えたのか」


 考えていた哲也がハッと正気に戻る。


「ヤバい、捕まえないと」


 どこから入ったと思いながら直ぐに走り出す。感染症など病気を持ち込むことがあるので野良猫や野良犬、その他の野生動物も敷地内に入れるわけにはいかないのだ。といっても鼠や鳥などの小動物は入ってくるのを防げないので効果には疑問もある。だからといって野良猫を見逃すわけにはいかない、アニマルセラピーの犬や猫を飼っているのでそれに病気が移らないようにする為にも見つけ次第捕らえる事になっていた。


「どこから入ってきたんだ。あの猫」


 黒猫のいた辺りまで来ると周りを探す。


「どこ行った……あっ! 」


 黒猫がB棟の窓へと飛び跳ねるようにして消えていくのを見て哲也も直ぐに窓へと向かう、


「マジかよ…… 」


 窓を見て哲也が顔を顰めた。窓は閉まっていた。1階だが格子も付いている。猫なら通り抜けられるだろうが器用に飛び跳ねて通り抜けられるものではない、第一目の前の窓はガラスが閉まっている。


「あの黒猫、生きてる猫じゃなかったんだな、それでボールみたいに見えたのかも知れないな」


 驚くと共に哲也は妙に安心した。野良猫が入ったら捕獲するのに大騒動となるのだ。もちろん警備員の哲也も駆り出されて休む暇も無くなる。


「猫の幽霊か……波辺さんどうしてるかなぁ、チコさんが付いてるから大丈夫だよな」


 以前、病院へ迷い込んできた妖怪猫又のチコと患者だった波辺の事を思い出す。


「波辺さんも可愛かったよなぁ」


 ニヤけながらB棟へと入っていった。


「あの黒猫も誰かに用があったのかな」


 警戒しながら見回るが何も異常は無く、黒猫も見つからずにB棟を出た。

 その後も何も起こらずに見回りを終えて哲也は部屋へと戻っていった。



 深夜3時の見回りで哲也がB棟へと入っていく、


「異常無しっと」


 いつものように最上階まで上がってから一階ずつ下りながら各階を見て回る。


「ボールだ…… 」


 2階の長い廊下をボールがポ~ンポ~ンと跳ねていた。


「さっきの見回りで見たヤツだな」


 哲也は立ち止まると跳ねるボールを凝視した。猫に変わる瞬間を見てやろうと思ったのだ。


『にゃぁぁ~~ 』


 後ろから猫の鳴き声が聞こえて哲也がバッと振り返る。


「しまった! 」


 思わず声が出た。後ろには何もいない、哲也がくるっと前に向き直る。


「猫だ……くそっ! 」


 跳ねていたボールが黒猫に変わっていた。


「やっぱ猫がボールに化けてたんだな」


 悔しがる哲也の前で黒猫が廊下を横切っていく、


「幽霊か化け猫か……あっ入っていった」


 哲也の見つめる先で黒猫がすっとドアを抜けて部屋に消えるのが見えた。


「あの部屋は? 野中さんの208号室か」

「きゃぁあぁ~~ 」


 哲也が思い出すと同時に悲鳴が聞こえた。


「野中さん! 」


 哲也が全力で走り出す。


「野中さん大丈夫ですか、入りますよ」


 ノックもせずにドアを開けて入っていく、


「いやぁあぁぁ~~ 」


 ベッドの上で布団を身体に巻き付けるようにして怯えている野中の周りを何か小さなものが走り回っているのが見えた。


「猫……じゃない、ボールか? 」


 先程の黒猫かと思ったがもっと小さいものだ。猫が化けたボールだと哲也は思った。

 哲也の姿を見て安心したのか野中が震える声を出す。


「てっ、手が……手の化け物が………… 」

「手? 」


 哲也が走り回る小さなものを目で追った。


「手だ!! 」


 思わず大きな声が出た。廊下で見たボールではなく手だ。手首から先の手の平が指を使って走り回っていた。

 普通の幽霊ならともかく手だけの幽霊の異様さに哲也が身を固くする。


「怖い……助けて…… 」

「野中さん、直ぐに助けますから」


 野中の震える声を聞いて哲也が覚悟を決めた。


「きゃぁぁ~~ 」

「この野郎! 」


 震える野中に飛び掛かろうとした手を哲也が叩き落とす。

 床に叩き付けられた手は哲也に向かってこようとしたが次の瞬間、バッと飛び跳ねて閉まっている窓を通り抜けていった。


「待て! 」


 窓を開けて格子の間から確認するが既に手の化け物は消えていた。


「逃げたか…… 」


 くるっと振り返ると哲也は野中に優しい声を掛ける。


「もう大丈夫だよ、手には逃げられたけど」

「こっ、怖かったぁ~~ 」


 ベッドから飛び跳ねるようにして野中が抱き付いてきた。


「おわっ! 」


 急に抱き付かれて哲也が驚きと嬉しさの混じった変な声を出した。


「怖かった……ありがとう、昨日の昼間も助けてくれたよね」


 ギュッと抱き付く野中から良い匂いがする。


「あぁ……うん、僕は警備員だから注意しただけだよ」


 照れる哲也を野中が見上げる。


「ありがとう、嬉しかった」


 哲也より頭一つ小さい野中の顔が20センチも離れていない近くにある。


「うん……野中さんが無事で良かった」


 薄暗い中でも分かるくらいに真っ赤な哲也を見て野中が慌てて離れる。


「ごっ、ごめんなさい……怖かったから………… 」


 頬を赤く染めた野中が俯きながら謝った。


「そんな、謝らなくても……野中さん可愛いし………… 」


 可愛いと言われて野中がサッと顔を上げる。


「哲也さんって言ってたよね」


 名前を呼ばれて哲也が嬉しそうにこたえる。


「うん、中田哲也、中田ってのは先生にも居るから哲也って呼ばれてる」

「ありがとう哲也さん」


 はにかむようにして礼を言う野中を見て哲也は嬉しさに言葉が出てこない。

 照れる野中さん可愛い……。頬どころか身体全体が緩んでいくような気持ちになって呆然としている哲也の顔を野中が覗き込む、


「哲也さん、どうしたの? 」

「えっ? いや……そんな事よりあの手は何なの? 」


 だらしない顔を見られたと焦りながら哲也が誤魔化すように話題を変えた。


「あれは…… 」


 野中の表情が一瞬で険しく変わった。それを見て哲也が笑みを作って話し掛ける。


「言いたくないなら言わなくてもいいけど、話してくれれば僕に出来る事なら何でもするよ、僕は幽霊を触ることが出来るんだ。さっき見ただろ、あの手の幽霊を殴りつけてやった。捕まえようとしたら逃げられたけど」

「幽霊を触れる…… 」


 険しい表情を驚きに変えて見つめる野中に哲也は優しい声で続ける。


「何でか分からないんだけどね、今までも何度も幽霊を触ったよ、殴りつけて追い払ったこともあるんだよ、だから今度あの手を見つけたら捕まえてやる。野中さんの力になりたいんだ。だから教えてくれ」

「助けて! 」


 バッと野中がまた抱き付いてきた。


「おおぅ…… 」


 哲也が変な声を出す。野中は温かくて柔らかくて良い匂いがして気持ち良かった。


「あの手から助けてお願い……触るどころか誰も見えないって……手の呪いで私の両手もこんなになって」


 野中が涙を流しながら包帯を巻いた手を哲也に見せた。


「呪いか…… 」


 手の化け物を実際に見たのだ。呪いと言われればそうかも知れないと哲也は思った。


「哲也さんなら……さっき殴ったようにあの手を追い払えるかも知れない、お願い私を助けて、誰も信じてくれない、哲也さんだけなの」


 胸に顔を埋めて泣く野中を哲也がギュッと抱き締めた。


「任せてよ、初めから力になるつもりだったから、僕が何とかするよ、あの手は僕が退治してやる。野中さんを泣かせるヤツは許さない」


 哲也が安請け合いをする。先程殴った感触からあの手の化け物は大した力はないように思えたこともあるが女の子に泣いて頼まれて断ることなど哲也に出来るはずがない。


「哲也さん、ありがとう」


 野中の涙でくしゃくしゃになった顔に安堵が浮ぶのを見て哲也が頷く、


「どうやって倒すか対策を練るから詳しい話しを教えてくれ」

「うん、わかった。全部話す。あの手は事故で死んだ男の子の手なの、それで…… 」


 抱き付いている野中の両肩を持って哲也が優しく引き離す。


「続きは明日にしよう、明日の昼過ぎ、御飯食べた後にでも聞きに来るから」

「今じゃないの? 」


 不安気に見つめる野中に哲也が微笑みかける。


「ごめん、見回りの途中なんだ。警備員だからね」

「うん、わかった…… 」


 不安そうな野中に哲也が優しい声で続ける。


「安心して眠るといいよ、今日から見回りを強化して4時とか5時にも野中さんの部屋の様子を見に来てあげるから」

「ありがとう哲也さん」


 安堵を浮かべる野中にじゃあと言うように手を振ると哲也は部屋を出て行った。



 見回りを再開して哲也が階段を下りていく、


「野中さん可愛かったなぁ~~、仲良くなれそうだし……気持ち良かったなぁ~~ 」


 抱き付かれたのを思い出して嬉しそうに続ける。


「もう少し時間あればキスくらい出来たかもな……でもなぁ……それに嶺弥さんとか看護師に見つかったら言い訳出来ないからな」


 詳しい話しを聞きたいが深夜だ。看護師や嶺弥たち警備員に見つかると何を疑われるか分からない、だから明日の昼にしたのだ。

 階段を下りて1階を見回り、B棟を出てC棟に向かって外を歩いて行く、浮かれすぎて2階から上を見回るのを忘れている。


「事故で死んだ男の子の手か…… 」


 呟く哲也の顔に先程までの緩みはない、


「絶対に助けてやる」


 B棟、野中の部屋の辺りを見つめて哲也は決意した。


「それにしてもあの黒猫とボールは……手の化け物が猫やボールに化けていたのかな」


 C棟に向かって歩いていると向こうからやって来る人影が見えた。


「哲也くん、お疲れ様」


 誰か尋ねる前に向こうから声を掛けられた。


「眞部さん、吃驚した。何してるんですか? 」


 やってきたのは事務職員の眞部代古まなべだいごだ。勤続年数30年を越えるベテランでおっとりとした性格なのだが指示は的確に出す。他の事務員はもとより看護師や先生からも信頼されている好人物だ。


「あははっ、驚いたかい? いやぁ事務方の仕事が残っててね、今日は泊まったんだよ」

「そうだったんですか、大変ですねぇ」


 何かと親しくしてくれている眞部に哲也は心から同情した。


「哲也くんたち警備員さんほどでもないさ、でもねぇ、慣れないベッドで寝てたら目が覚めてね、それで少し風に当たろうと散歩してたんだよ」

「眞部さんって繊細なんですね、僕なんて眠くなったら何処でも寝れますよ」

「あははははっ、羨ましいねぇ」


 暫く何気ない会話をして哲也は見回りのためC病棟へと歩いて行き、眞部は反対側へと歩き出す。


「哲也くんと接触したか……逃がしたのは不味かったな、気を付けないとな」


 歩きながら眞部がB棟、野中の部屋の窓を見上げる。哲也に向けていた好々爺という優しい表情は一切無い。



 翌日の昼過ぎ、哲也は約束通り話しを聞きに野中の部屋へと向かった。


「女の子はコーヒーよりお茶の方がよかったかな? まぁ微糖の奴だからいいか、お菓子も持ったし、このチーズケーキ旨いんだよなぁ~、でも二つとも野中さんにあげちゃう、えへへへっ」


 缶コーヒーと菓子の入った袋を持ってB棟へと入っていく、チーズケーキはカップに入ったもので進物用の洋菓子セットなどに入っている高い奴だ。池田先生に貰ったものである。以前貰ったときに美味しくて楽しみにしていたものだが野中に喜んで貰おうと持ってきたのだ。


「話しを聞いてぇ……僕が手の化け物をなんとかして……野中さんと……うへへへへっ」


 下心丸出しで浮かれて階段を上っていく、


「楽しそうね、そんなに良い事あったの? 」


 階段の途中で哲也が固まる。直ぐ上の踊場に香織が立っていた。


「ヤバっ! 」


 哲也の口から思わず漏れた。浮かれて前をよく見ていなかった。


「何がヤバいの? 困ったことがあるなら何でも相談していいのよ」


 ニコニコ笑顔で香織が両手を広げた。哲也を通さないつもりだ。


「そのぅ……ごめんなさい! 」


 哲也が飛び跳ねるように階段を下りていく、


「こら! 待ちなさい、嬉しそうな顔してどこ行くつもりなの」

「どっ、どこも……ひぅっ!! 」


 言い訳しながら曲がって廊下へと出た哲也が喉の奥から悲鳴を上げて足を突っ張らせるようにして止まった。


「れっ、嶺弥さん」


 警備員の嶺弥が直ぐ前にいた。


「哲也くん、おはよう」


 爽やかな笑みを見せながら軽く手を上げて嶺弥が挨拶をする。


「あぁ……あの……おはようございます」


 通り抜けようとした哲也の腕を嶺弥がガシッと掴んだ。


「どうしたんだい? 他人行儀じゃないか」


 嶺弥は微笑んでいるがその目が怖い、そこへ階段を下りた香織がやってくる。


「助かるわ須賀さん、そのまま捕まえていてくださいね、哲也くん逃げ足だけは速いんだから」


 にこやかに話す香織の目も笑っていない、


「ちっ、違うんです……別に逃げるとかじゃなくて…… 」


 必死に言い訳を考える哲也の前に香織が立つ、


「逃げたじゃない、私を見て」

「俺からも逃げようとしたよな、逃がさないけど」


 右横で嶺弥が腕を掴んでいる。

 可愛い笑みの香織と爽やかな笑みの嶺弥、美人とイケメンの笑顔だ。何も知らない人なら思わず微笑み返してしまうような笑みだ。だが今の哲也には恐怖以外の何物でもない。


「違うんです……そんなつもりは………… 」


 言い訳が浮んでこない、野中のところへ行くなどと言えば叱られるに決まっている。


「何をしているんだい? 」


 廊下の向こうから事務員の眞部が歩いてきた。


「眞部さんまで…… 」


 もう終わりだと哲也が諦めた時、眞部が呼んだ。


「哲也くん、こんなところで遊んでいないで私の頼んだ用事はしてくれたのかい? 」

「へっ!? 」


 用事など何も頼まれていない、戸惑い、きょとんとした顔の哲也に眞部が続ける。


「倉庫の整理だよ、若い奴が2人休んで大変だからゴミ出しだけでも手伝いが居たらって話したら哲也くん任せてくださいって言っただろ」


 眞部の顔は怒っているようには見えない、助けてくれるのかと思った哲也が直ぐに話しを合わせる。


「あぁ……そうです。倉庫の整理ですよ、眞部さんの手伝いをするんですよ」


 焦った顔に笑みを作って香織と嶺弥の様子を伺う、


「眞部さんの手伝いか…… 」


 右で嶺弥が腕を離してくれた。


「まったく……わかったわよ、私は知らないからね」


 不服そうな香織の前から逃げるように哲也が眞部の横に歩いて行く、


「じゃあ、先に行っていてくれないか哲也くん」

「はい、眞部さん、ありがとう」


 ぺこっと頭を下げると哲也が廊下を早足で歩いて行った。



 哲也が長い廊下の向こうの階段へと消えるのを見てから香織が口を開く、


「どういうつもりなの? 」

「俺も聞きたいな」


 近くの壁に背を付けて嶺弥も訊いた。


「もう奴と接触している。今更、娘に会うのを止めても意味がない」


 香織が険しい顔で眞部を見つめた。


「昨日か……私が休みの時に……それでどうなったの? 」

「はしこい奴で逃した。哲也くんを気に入ったようだ。奴のことだから先に狙っていた獲物を片付けてから哲也くんに行くだろう」


 眞部が顔に悔やみを浮かべてこたえた。


「下等な物の怪には哲也くんは魅力に見えるだろうからな」


 嶺弥の他人事のような口振りに香織がキッと怖い眼を向ける。


「何言ってんのよ、力はないけど知恵が回るわよ、この前も逃がしたじゃない」

「あれは仕方がないさ、哲也くんが庇ったんだ。そうでなければ捕らえているよ」

「貴方ねぇ…… 」


 笑いながらこたえる嶺弥に突っ掛かる香織を見て眞部が止めろと手で制する。


「前の件は私も聞いたよ、それで今回はどうするつもりかね」


 眞部に訊かれて嶺弥がもたれていた壁から背を離す。


「そうだな、哲也くんのことだからな、遅かれ早かれ、こうなるのはわかっていたことか…… 」

「どうするの? 私が片付けてもいいけど」


 香織が見つめる先で嶺弥がキラッと目を光らせる。


「いや、止した方がいい、今の哲也くんは少し不安定になっている。俺たちの力じゃ大きすぎてバレたら困る。それに奴が話す危険もある」

「不安定か……惚れっぽいのにも困ったものね」


 少し考えてから香織が続ける。


「世良さんに頼むか…… 」

「獣の専門家だからな、彼女なら旨く処理してくれるだろう」


 同意する嶺弥を見て眞部が割り込んでくる。


「待ってくれないか、君たちだけで進められては困る。私に任せてくれないか」

「任せる? 只の退魔師に」


 あからさまに嫌な顔で話す香織の向かいで嶺弥も怪訝な目を眞部に向けていた。


「初手で逃したのは私のミスだ。旨く捕らえれば役に立っただろうに」


 悔しげな眞部の前で香織が呆れ顔で口を開く、


「無傷で捕まえるつもりだったの? 」

「ラボからの要請でね、霊体には出来るだけダメージを与えないでくれと言われた」


 黙って聞いていた嶺弥がじろっと眞部を睨み付けた。


「実験には丁度いいレベルだからな、だが哲也くんの安全が第一だ」

「承知している。同じ人間だからな、君たちよりはわかっているつもりだよ」


 嶺弥がフッと笑った。


「なら、お手並み拝見と行こう」

「ちょっ、失敗したらどうするのよ」


 慌てる香織に笑みを湛えたままで嶺弥が向き直る。


「その時は任せるよ、記憶操作は俺より旨いだろ? 」


 香織がムッと怒った顔で言い返す。


「嫌なことを私に押し付けないでよね……これ以上哲也くんの……哲也くんを滅茶苦茶にしたくない」


 話しの最後には怒りは消えて悲しみが浮んでいた。


「ははははっ、今更善人ぶっても遅いぞ、俺たちのことを知れば哲也くんはどう思うか? どう転んでも俺たちは悪人だよ」


 嶺弥が笑いながら廊下の向こうへ歩き出す。


「そうだねぇ、同じ穴のムジナだからねぇ、こんな事をして何になるのかはわからないけど、このままでは人は行き詰まるのは確かだからねぇ」


 嶺弥とは反対側へと眞部が歩いて行く、


「わかったわよ、私がするわよ……全部終ったら……哲也くんには向こうで謝るわ」


 寂しそうな顔をして香織が階段を下りていった。



 眞部に助けられた哲也は反対側の階段を上って野中の部屋へと行く事が出来た。


「叱られると思ったけど眞部さん助けてくれたな……後で御礼言っとかなきゃな」


 階段横のトイレへと入ると鏡を見ながら身嗜みを整える。


「まぁ、こんなもんだろ」


 イケメンではないが悪くもない、普通だと自分では思っている。哲也が格好を気にするのは珍しい、それだけ野中に対しては本気だという事だ。


「野中さん、哲也です」


 ドアをノックすると野中が直ぐに出迎えてくれた。


「哲也さん待ってたよ」


 やっぱ可愛い……、夜の薄暗い部屋ではなく明るい部屋で見る野中は本当に可愛かった。哲也は緩みそうになる頬を口を噛み締めるようにして押さえてキリッとした真面目な顔を作った。


「待たせてごめんね、もうちょっと早く来たかったんだけど仕事が残っててさ」


 戯けるように言いながら哲也の頭の中には怖い顔をした香織と嶺弥が浮んでいた。


「全然待ってないよ、それより入って」


 笑顔の野中に招かれて部屋へと入る。


「お菓子持ってきたから後で食べて、コーヒーも入ってるけど、お茶が良かったかな」


 哲也が自分の分の缶コーヒーを抜くと袋ごと差し出した。


「気を使わせて御免ね……お茶のほうが嬉しいけど哲也さんが持ってきてくれたから缶コーヒーも飲んじゃうよ、早く座って」


 袋を受け取る野中に促されて哲也がテーブル横の折り畳み椅子に座った。


「うん、このコーヒーなら飲めるよ、甘いのは嫌だけど」


 野中が袋の中から微糖の缶コーヒーを取り出すとテーブルの上に置いた。


「ごめんね、お茶にしようか迷ったんだけどさ、いつも買ってるから自然とボタン押してたよ」

「あはははっ、わかる。私もどれにしようか迷いながら同じもの買っちゃうもん」


 可愛い声で笑いながら野中が哲也の向かいに座る。

 缶コーヒーを両手で挟むようにして持ちながら哲也が口を開く、


「昨日は怖い目に遭わなかった? 夜の10時と0時と3時と明け方も見回ったけど何も無かった様子だったけど」


 手の幽霊が現われないか心配だったので普段の10時と3時の他にも野中の部屋を見に行っていた。


「うん、昨日は大丈夫だった。このところ毎晩のように出てきてたのに昨日は出てこなかったよ、哲也さんが殴りつけてくれた御陰だよ」


 嬉しそうに頷いた野中が哲也をじっと見つめた。


「本当にありがとうね」

「そんな……仕事だからさ…… 」


 照れて真っ赤になった哲也は嬉しくて言葉が出てこない。


「哲也さんだけだよ、私を助けてくれたのは」


 潤んだ目でじっと見つめる野中の向かいで哲也は頬を真っ赤に染めながら真面目な表情を作る。


「うん、僕も野中さんを助けたい、だから全部話してくれ、僕に出来る事は何でもするから、手の化け物は僕が絶対に何とかするから」


 哲也は本気だ。自身に危険が及ぼうとも野中を助けるつもりだ。


「哲也さん……ありがとう、哲也さんだけだよ私の事をわかってくれるのは」


 野中の頬を涙が伝った。哲也なら何とかしてくれるそう思ったのだろう、


「3週間くらい前の事よ、あの手が現われたのは…… 」


 包帯を巻いた両手をテーブルの上に置いて見つめながら野中が話し始めた。

 これは野中佳恵のなかかえさんが教えてくれた話しだ。



 野中はそれなりに人口の多い地方都市に住んでいる。専門学校を卒業した野中は就職が決まらずにアルバイトをしていた。両親が買った家が町の外れにあり親元で暮らしている野中はアルバイトだけで充分に暮らしていくことが出来た。放任主義なのか親も就職しろなど口煩く言わないので野中は気楽なアルバイト生活を送っていた。


 中心部から離れたら田畑が点在するといった塩梅の地方都市だ。野中の家は町外れの小さな山を削って作った宅地に建っていた。平屋建てだ。土地も安く、震災を考えて父があえて平屋にしたのだ。それなりに大きな庭の付いた家だが前の道路は坂になっている。おまけに向かいの宅地は業者が家を建てるのを止めたらしく広場となっていて近所の子供の遊び場となっていた。

 野中の住んでいる地区は昨今にしては珍しく子供が多く、昼間は野球やサッカーなどで遊ぶ声が煩いが風通しも良いので道路を挟んだ向かいが広場になっているのを野中はもちろん両親も喜んでいた。ただ一つ問題があった。ボールが良く飛んでくるのだ。小さな山だったので高低差があり風向きの関係もあって此方に向かって飛んできやすいのだ。


 広場の向こうは藪があり更に奥には池がある。子供たちに反対側に向かってボールが飛ぶように注意をしようとしたが藪や池に入って事故に遭うといけないと野中の父親は家のガラスが割れないようにすだれを張って対策しただけだ。もっとも野球と言っても本格的な試合が出来るほど広くはなくグラウンドも半分以下の大きさで使っているボールも柔らかいゴムボールだ。飛んでくると言っても家の壁に当たる事は殆ど無く、庭の端に落ちるくらいなのでガラスに当たっても割れることは滅多に無いだろう、野球好きの父はボールを取りに訪ねてくる子供たちを元気があって良いとさえ思っている節があった。


 子供も多いが野良猫も多かった。地域猫というのだろうか? 近所の人たちも可愛がっている猫だ。野中と母は問題ないのだが父が猫アレルギーらしく庭に入ってくる猫を見ると顔を顰めて追い払っていた。

 そんな父にお構いなしで野中は時々やってくる猫に餌をあげていた。本当は飼いたいのだが流石に父に怒られると野良猫の餌やりだけにしている。

 その猫たちの中に最近見慣れない黒猫がいる。ふてぶてしい顔付きで他の猫と喧嘩もするので近所の人は可愛くないと言ってあまり餌をあげていない様子だが野中は気にせずに餌をやっていた。


「おっ、また来たのかノラ」


 入ってきた黒猫を見て野中が大きな窓を開けて庭に出て行く、如何にも野良猫といったふてぶてしい顔をしているのでノラと呼んでいた。


「ノラ、煮干しでも食うか」


 野中が煮干しを持って近付くと黒猫はさっと下がって距離を取る。


「まだ警戒してるなぁ……何もしないよ、頭撫でてお腹触るくらいだよ」


 残念そうに言いながら煮干しを黒猫の前に放り投げる。


「出汁とった後の奴だけど柔らかくなってるから美味しいよ」


 野中の見つめる先で黒猫は煮干しを咥えるとサッと壁を登って消えていった。


「食い逃げだ……頭くらい撫でさせろよな」


 黒猫の消えた壁を見つめて野中が笑った。


「いつか触ってやるからな」


 近所の人は可愛くないと言うが野中は黒猫が好きになっていた。



 ある日、バイトもないので野中は昼間からゴロゴロしていた。


「暇だなぁ~、バイト増やそうかなぁ」


 リビングで寝っ転がってスマホを触っているとボンッと音が聞こえた。


「ボール入って来たな」


 その日は祭日で向かいの広場からは子供たちが野球をやっている声が聞こえてきていたのでボールが飛んできたのだろうと野中は身を起す。


「すみませ~んってやって来るぞ」


 子供とはいえ、だらしない格好を見せられないと髪型と服装を整える。その時、前の道路から車のブレーキ音が聞こえてきた。同時にボンッと庭からも音がした。


「なんだ? またボールが飛んできたのか? 」


 大きな窓を開けて様子を伺う、


「うわぁ~~ 」

來斗らいとが…… 」

「誰かお巡りさんを! 」


 叫びや悲鳴が聞こえて野中が外へ出ると事故だ。中型トラックが男の子を轢いたらしい、野中は持っていたスマホで直ぐに通報した。


「ああぁ…… 」


 現場を見て野中が顔を背けた。

 轢かれた男の子は血塗れになってビクビクと痙攣している。右手と左足が千切れ身体が捩れたように曲がって顔が真後ろを向いている。子供たちが大騒ぎをしてトラックの運転手はパニックを起していた。どうやら飛んでいったボールを追って道路に飛び出したらしい、救急車が来て男の子が運ばれていく、それを見ながら野中は助からないだろうと思った。顔が真後ろになるぐらいに首が曲がっているのだ。助かるとは思えない。

 トラックの運転手がパトカーに乗せられていった。野中の元にも警察官がやって来て色々聞かれるが直接見たわけでもないので話せることは余りなかった。


 翌日、男の子の父親が挨拶に来た。男の子は亡くなったが即死ではなく直ぐに駆け付けた母と一言二言話しが出来たらしい、野中が直ぐに通報してくれた御陰だと礼を言われた。

 ただ一つ気になったことがある。男の子の右手、手首から先が見つかっていないという、家の前で轢かれたので野中の庭も丹念に調べられた。壁に血の跡があったが少々の肉片が見つかっただけで手の平は無かった。野球に使っているゴムボールが一つ出てきただけである。それを追って男の子は事故に遭ったのだ。


「なんだろこれ? 」


 暫くして野中の手に異変が起きる。初めは手荒れだと思っていたのだが痛みも感じて医者に行くと皮膚炎と診断された。塗り薬をもらうが一向に治らない、


「湿疹の酷い奴って言われたけど…… 」


 所々ピンク色になって痒みもある両手を見つめて野中が呟いた。

 病院で貰った薬を塗続けていたが治るどころか皮が剥がれ、血が滲んで、瘡蓋も出来て人に見せられないほど酷くなっていた。


「こんなんじゃバイトできないよ」


 手の平の3分の1ほどを覆う絆創膏を見つめて野中が嘆いた。



 ある夜、痛みを感じて目を覚ます。


「痛てて……擦れたかな」


 ベッドの上で横になったまま眠くて重い瞼を開けて手の平を見る。


「絆創膏外れてるし……やっぱ寝るときは手袋しなきゃダメだな、でも蒸れて痒くなるんだよな、痒みは寝てるときにはわからないし血で布団が汚れたら嫌だし、やっぱ手袋して寝るか」


 手の平、指ではない部分に貼った大きな絆創膏が剥がれて血が滲んでいる。布団に擦れて痛みを感じたのだろう、


「また病院行って薬貰ってこなきゃ…… 」


 机の上に置いてある薬を取ろうとベッドから起きようとした野中が気配のようなものを感じて足下を見る。


「ボールだ…… 」


 ベッドの下方、寝ている野中の足の向こうでボールがポ~ンポ~ンと跳ねていた。


「なんで? 」


 困惑する野中の周りをボールが跳ねながら回っていく、


「野球のボールだ」


 上半身を起した野中の直ぐ脇をボールが跳ねていくのを見て広場で少年たちが野球に使っているボールだと分かった。庭に入ってくるのを何度も拾ったことがある。その時のボールと同じだ。


「あっ! 」


 野中の見つめる先でボールが窓から消えていった。


「何で? 窓閉まってるよね」


 野中がバッとベッドから出て確かめる。窓は閉まったままで鍵も掛かっていた。


「ボールは? 」


 窓を開けて探すがボールはどこにも見当たらない、


「寝惚けたのかな……そうだよね、バカだなぁ私」


 夢でも見たのだろうと窓を閉めると机の上に置いてあった薬を手に塗って絆創膏を貼り直すとまたベッドに潜って眠りについた。



 次の夜、何かが手に触れたように感じて野中が目を覚ます。


「何? 痛てて…… 」


 驚いて手を見ると絆創膏が剥がれて血が滲んでいた。


「またか……寝るときは手袋か何かしないとダメだな」


 布団に擦れて痛みを感じたのだろう、


「早く治らないかなぁ~ 」


 赤く腫れた手を見ながら呟いた。その時、ベッドの脇で何かが跳ねた。


「あっ、ボールだ」


 直ぐ脇でポ~ンポ~ンとボールが跳ねていた。昨晩見たものと同じボールだ。


「ボールが…… 」


 ボールを取ろうと野中が無意識に手を伸ばす。


「温かい…… 」


 ボールを掴んだ右手に温かさが伝わってきた。


『ありがとう』

「何? 」


 声が聞こえたような気がして辺りを見回す。


「あれっ! ボールは? 」


 掴んでいたボールが無くなっている。顔の前に右手を持ってきて確認するように見た。


「治ってる……さっきまで血が出てたのが消えてる」


 皮膚炎で荒れて彼方此方に血が滲んでいた右手が少し治っているような気がした。


「ボールは? 」


 あのボールの御陰かと探すがどこにも見当たらない、


「右手だけでも治ってくれればいいのになぁ」


 薬を塗ろうと上半身を起した野中の前をサッと何かが横切った。


「えっ!? ボール? 」


 先程のボールだと思って目で追う、


「ボールじゃない……鼠? 」


 本棚の前に何か居た。窓から入ってくる月明かりだけの薄暗い部屋だ。ハッキリとは見えないが大きさから鼠だと思った。

 どうしようかと考えていた野中の目に布団にくっついていた大きな絆創膏が映った。手から剥がれたものだ。


「どっか行け! 」


 絆創膏を丸めると鼠目掛けて投げ付ける。


「はへっ!? 」


 喉の奥から変な声が出た。

 飛んできた絆創膏を避けて前に出てきたのは鼠ではなかった。


「手? 手が…… 」


 窓から先込む月明かりが照らしてハッキリと見えた。手だ。手首から先の手の平が指を使って四つん這いではなく五つん這いとでも言うように立っていた。


「えっ? なんで? 」


 状況がわからず身を固くする野中の前で手の平が指を使って歩き出す。


「手が……なんで…… 」


 タトタトと小動物が天井裏などを走り回るような音を立ててフローリングの床を歩き回る手を野中は呆然と見ていた。

 窓際の壁に付くように置いているベッドの周りを手が歩き回る。壁際を通るときはベッドの下に潜って見えなくなる。


「何で手が……なんなの? 」


 歩き回る手を野中が目で追う、それ程恐怖は感じない、不思議に思うだけだ。


「あっ、止まった」


 ベッドの脇、枕が置いてある横辺りで手が止った。

 野中が自分の両手と床にある手を見比べる。


「右手だ」


 親指の方向で右手だと直ぐにわかった。じっと見つめる野中に手が飛んできた。


「うわっ! 」


 思わず払い除けると布団の上、上半身を起して座ったような姿勢をしている膝の辺りに手の平がポトッと落ちた。


「きゃあぁぁあぁ~~ 」


 野中が悲鳴を上げた。薄暗くてよく見えなかったものが近くでくっきりと見えた。

 切り取られたような手首の断面から白い骨と赤い血に血管か筋のような繊維状のものや脂肪か膿か黄色いものが見えた。

 夢のように思っていたものがリアルな傷口を見て瞬時に覚めて恐怖した。


「いやぁあぁぁ~~ 」


 布団を捲るようにして手の平をベッドから追い払う、


「どうした佳恵! 」


 悲鳴を聞いた父親が部屋に飛び込んできた。後ろには母も居る。


「てっ、手が……千切れた手が………… 」


 ベッドの上で震えながら野中が指差す。


「手? 手がどうした? 」


 野中の指差す先を父親が見るが何も居ない、そのまま野中に向き直る。


「手がどうしたんだ? 」

「痛いの? 薬は塗った? 」


 父の後ろから母が心配そうに声を掛ける。皮膚炎の手がどうにかなったのかと思ったのだろう、


「違うの、私じゃなくて手が……手がそこに居たのよ」

「手がって、この手か? 」


 父親が自分の手を振って見せる。頷きながら野中が続ける。


「うん、手が居たの、千切れたような手が……手の平が飛び掛かってきたのよ」


 父が安堵したように息をついてから口を開いた。


「吃驚させるな、変な夢でも見たんだろ」

「あ~吃驚した。泥棒でも入ってきたのかと思ったわよ」


 呆れた様子の両親を野中が睨み付ける。


「違うわよ! 本当に居たんだって、夢じゃない、私起きてたもん」


 口を尖らせて反論する野中を父親がやんわりと叱り付ける。


「手の平だけで動き回れるわけないだろ、手荒れを気にしすぎて変な夢を見るんだ。薬を塗って触らないように手袋でもして寝なさい」


 父は野中の皮膚炎を手荒れが酷くなったものとしか思っていない、


「そうねぇ、一度大きな病院へ行って診て貰いましょうか」

「そうだな、来週にでも連れて行ってやろう」


 心配そうな母にこたえながら父がドアを閉めた。

 あれこれ話しながら両親が野中の部屋から離れていく、


「本当に見たんだって…… 」


 不服そうに呟きながら野中がベッドから出る。


「手の平が……夢だったのかなぁ」


 常識で考えて有り得ないのは百も承知だ。夢だったのかと思いながら野中は手に薬を塗ると絆創膏を貼り付ける。


『にゃぁ~~ん』


 窓の外から鳴き声が聞こえた。


「ノラ? 」


 野中がひょいっと窓を覗くとふてぶてしい顔をした黒猫がいた。


『ひにゃにゃぁぁ~~ん』


 野中を見上げて黒猫が笑ったように見えた。


「怖っ! 」


 思わず口から出た。可愛い笑みではない、何か邪なものを感じるようなニヤッとした笑みだと野中は思った。


『にゃにゃっ、にゃぁあぁ~~ん』

「腹でも減ってるのか? 」


 気味が悪いと思いながらも猫好きの野中は煮干しでもやろうと部屋を出て行った。


「あれ? どこ行ったんだ」


 ついでにトイレを済ませて戻ってくると黒猫は居なくなっていた。


「まぁいいか、後で食べるだろ」


 窓の下に煮干しを置くと野中はベッドに潜り込んだ。



 翌朝、着替え終った野中が何気なく見ると煮干しはまだあった。


「食べてないのか……まぁいいか、他の猫でも食べるだろ」


 窓を開けようとして窓枠が汚れているのに気が付いた。


「なんだ? 泥か? 」


 小さな黒いものが付いているのを見つけて野中が窓を開ける。


「ん? 砂を噛んだか」


 ザーッと擦れたような音を出して開くと野中は窓から身を乗り出す。


「うわっ、壁にも付いてるよ」


 窓の下、白い壁に転々と黒い泥のようなものが付いていた。何かが登ってきたような足跡に見える。昨晩の手の平を思い出して野中がブルッと震えた。


「マジ? いやいやいや、有り得ないっしょ、猫だ猫、登って入ろうとしたんだ」


 頭を振って否定する。手の平が歩き回ることなど有り得ないのだ。


「ノラが鳴いてたし、彼奴が登ろうとしたんだ。庭の壁を登るくらいだからな、こんなの簡単だ。そんで窓が閉まってて入れなかったんだ」


 自分の推測に納得しながら窓に手を掛けた。閉めようとした窓が砂を噛んだようにザーッと嫌な音を立てた。


「もうっ! 後で掃除しなきゃ、ノラの奴ぅ」


 愚痴る野中は気付いていない、仮に猫が入ってこようとして窓が閉まっていて入れなかったのならガラスの下、窓枠の内側にまで泥が付くなど有り得ないのだ。



 その日の夜、手に痛みを感じて野中が目を覚ます。


「痛てて…… 」


 潜るようにして寝ていた布団から頭を出して手を確認する。


「絆創膏外れてる。擦れたんだ…… 」


 寝惚けていた頭がハッキリしてくる。


「あっ、ボールだ」


 ベッドの脇でボールがポ~ンポ~ンと跳ねていた。


「待って…… 」


 ばっと上半身を起すと野中は咄嗟にボールを掴んだ。右手で掴み取って逃がさないように両手で包み込んだ。その手に温かさが伝わってくる。


「温かい…… 」

『お姉ちゃん、ありがとう』


 ハッキリと声が聞こえた。


「誰? 」


 辺りを見回すが誰も居ない、自分の部屋だ。声がするものなど何もないのを知っている。


「ボールは? 」


 両手で持っていたボールが消えている。温かさが残る手を見つめた。


「ちょっとだけ治ってる気がする」


 絆創膏が剥がれて血が滲んでいた手の平の傷が消えていた。赤く腫れていた炎症も治まっている。両手とも少しだけ治っていた。


「あのボールが治してくれたんだ…… 」


 何故かは分からないが野中はそう思った。ありがとうと聞こえた声も優しくて怖くはなかった。


「このまま旨く行けば治るぞ、よしっ、薬塗ろう……手袋もして、あれっ、手袋は? 」


 寝ている間に擦れたり掻いたりしないように今日は手袋を着けて寝たのだ。それが両手とも外れていた。


「寝ながら外したかな」


 片手を着いて上半身を起すと布団を巻くって手袋を探す。


「どこだ? 足下まで行ったか? 」


 その時、何かが動いたような気がした。


「何だ? あっ、手袋…… 」


 ベッド脇に置いてある小さなテーブルの上に手袋が並べて置いてあった。

 炎症を起している手が痒くて無意識のうちに手袋を外したとして放り投げてあるなら分かるが綺麗に並べて置いてあるのが分からない。


「何で? 」


 不思議に思いながら見つめていると横に並べて置いてある手袋の片方が動き出した。


「えぇっ…… 」


 驚く野中の見つめる先で手の平が指を使って立ち上がるようにして身を起した。


「てっ、手だ……昨日の手だ」


 ベッドの上で座るようにしていた野中が昨晩の事を思い出して布団をバッと被った。


「夢だ……これは夢よ」


 自身を落ち着かせるように言いながら布団から頭だけを出してそっと覗いた。

 テーブルの上には片方の手袋だけが置いてあった。


「ほら、見間違いだ」


 安堵した野中の背を何かがトトッと登ってきた。


「ひぅっ! 」


 身を固くする野中の右肩に背を登ってきたものがポンッと飛び乗る。

 反射的に野中が振り向くと青みがかった灰色をした手があった。手の平だけだ。手首から先は無い、グチャグチャになった断面から白い骨や血管や筋らしき繊維質のものが見えている。


「いやぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら振り払うと手の平はトンッとベッド脇の床に落ちた。


「ひゃ、いやぁあぁ~~ 」


 頭から布団を被る野中の目に手の平が窓の方へと走って行くのが見えた。


「佳恵、どうした! 」

「何があったの? 」


 両親が部屋に入ってきたときには手の平は消えていた。


「手の平が……手の平がいた……ササッて走って私の肩に乗ってきたのよ」


 震えながら説明する野中の前で両親が呆れ顔だ。


「あんたはぁ、また寝惚けて…… 」

「父さん明日も早いんだからな」

「ほんとだって、本当に見たんだから……手袋かと思ったら手が動いて………… 」


 必死で話す野中の前、ドアの傍にいた母親が足下に落ちていた手袋を拾った。


「手袋って……ここにあるわよ」

「えっ? テーブルの上に………… 」


 サッと振り返って見る。テーブルの上には何も無い、片方の手袋が置いてあったはずだが消えていた。


「はいはい、わかったからもう寝なさい、絆創膏外れてるじゃない、薬どこ? 塗ってあげるから」

「何で…… 」


 母が拾った手袋をベッドの上で座り込んでいる野中の脇に置いた。一組、両手分2つあった。


「ほらっ、早く手を出して」

「夢…… 」


 呆然としながら出した野中の手の平に母親が薬を塗っていく、


「本当に治らないわねぇ、でも気にし過ぎちゃダメよ、だから変な夢を見るのよ」

「夢か……全部夢だったんだ」


 母に薬を塗って貰っている野中を見て大丈夫だと思ったのか父親は黙って部屋から出て行った。

 薬を塗って貰って絆創膏も貼って貰い、手袋を着けた野中がベッドに横になる。


「お父さんも母さんも居るから安心なさい」

「ありがとう」


 はにかむようにして礼を言う野中に優しく微笑むと母親も部屋を出て行った。


「全部夢だったんだ……手袋もドアの前に放ってあったし……そうだよね、手だけで動くわけないよね、変な夢見たぁ~ 」


 夢だと思うと面白くなって笑いが込み上げてくる。


『にゃぁあぁ~~ん』


 窓の外から猫の鳴き声が聞こえてきた。


「ノラだな」


 少し掠れた嗄れ声なので黒猫だと直ぐに分かる。


『にゃぁ~ん、んなぁなぁぁ~~ん』


 野中が布団を巻くって上半身を起す。


「餌はないからな、昨日煮干し食べなかっただろ」


 窓に向かって怒った声を出すと布団を頭から被るようにして横になった。


『ケッ! いるか! 』


 舌打ちするような鳴き声が聞こえた。


「なに? 」


 気になった野中が上半身を起して聞き耳を立てるが何も聞こえてこない、黒猫の気配も消えたような気がした。


「聞き間違いか」


 野中が枕に頭を落とす。


「あのボールも夢だったのかな……治してくれるボールは夢じゃなかったらいいのにな、早く治らないかなぁ……これじゃあバイトも辞めなきゃダメになるよ」


 手の皮膚炎が治るように祈りながら眠りに落ちていった。



 翌日から手の平が出てくる夢を毎晩のように見るようになった。あのボールも出てくるが手の平が邪魔をして掴むことが出来ない。

 手の皮膚炎は益々酷くなり絆創膏ではなく包帯をグルグル巻に付けるようになる。接客業などとてもじゃないが出来ない、人の目を気にしてバイトも辞めた。それどころか外へ出ることもなくなった。年頃の娘だ。両手を包帯で巻いている姿など見られたくなくて当然だ。


「もうっ! なんなのよ! ボールはいいけど手の平は出てくるなっていうのよ」


 ある夜、ベッドの周りを走り回る手の平に野中が枕を投げ付けた。

 夢だと思っているので恐怖は無い、それどころか腹が立って退治してやろうとさえ考えていた。


「どうだ! 」


 手の平に枕が直撃した。野中は枕元に置いてあった100円ショップで買った孫の手を持って立ち上がる。手の平が出てきたら追い払おうと思って用意していたものだ。適当なものが孫の手しかなかったのだ。


「こいつめ! この野郎! どうだ。参ったか」


 手の平は枕の下に居るはずだ。孫の手を使って枕の上から何度も殴りつけた。

 暫くして野中は怖々と枕をどけた。


「消えてる……やったぁ」


 手の平が消えて野中は勝ったような気になって安心してベッドに横になる。


『なぁぁ~ん、にゃぁあぁ~~ん』


 鳴き声が聞こえて野中がベッドの上で身を起す。


「ノラか? 餌は無いぞ、お前煮干し食わなかっただろ」


 窓に向かって言うと野中は寝っ転がった。


『にゃにゃぁ~~ん、なぁぁ~~ん』

「煩いなぁ」


 追い払おうと起き上がって窓へと向かう、


「煩いよノラ、煮干し食べるのなら持ってくるけど…… 」


 話し掛けながら窓を開けると直ぐ下に黒猫が居た。


『ケッ! いるか! 』


 舌打ちするような鳴き声を残して黒猫がサッと走って庭を出て行く、


「なによ! 鳴くだけ鳴いて…… 」


 怒りながら窓を閉めようとしたとき、何かが置いてあるのが見えた。


「なに? 」


 黒猫が何か置いていったのかと窓の下を確認した野中が総毛立つ、


「きゃあぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げる野中の直ぐ下、窓の下の地面に手が落ちていた。


「佳恵! 静かにしなさい」

「また夢でも見たの? 」


 両親が直ぐにやってきた。父は怒りを浮かべて母は迷惑そうな表情だ。


「てっ、手が…… 」

「まだそんな事を言っているのか」


 怒る父に野中は違うと首を振った。


「窓……窓の外に手が………… 」

「窓? 」


 怒りを浮かべながら父親が開きっぱなしの窓から首を出すようにして辺りを見回す。


「どこにも無いぞ」

「直ぐ下よ……窓の下に………… 」


 窓の脇で座り込んで震える野中の横に立っていた父親が驚きの声を出す。


「うわっ! 」

「あなた、どうしたの? 」


 心配そうに声を掛ける母に振り向きもせずに父が続ける。


「けっ、警察を呼びなさい……手が……手が見つかったと言いなさい」


 父親には直ぐに分かったらしい、事故で亡くなった少年の手だ。探しても見つからなかった少年の右手だ。


「お前が見つけたのか? どこにあった」


 父が野中の脇に座り込んで顔を窺う、


「ちっ、違うの……猫が……黒猫が持ってきたの」

「猫か…… 」


 震えながら話す野中を見て父の顔が険しく変わった。


「それで見つからなかったんだな、猫が咥えていったんだ」

「猫が? 」


 窓の下に置いてあった手は半分ほど骨になっていた。

 野中の頭に嫌な妄想が浮ぶ、あの黒猫は手を食っていたのではないのか? だから前にあげた煮干しを食べなかったのだ。手を食べて腹は減っていなかったのだ。


 母親が通報して直ぐに警察がやって来る。手の事は父親が猫が咥えてきたと説明した。事故で亡くなった少年の右手だと判断されて事件性は無いと手を回収して警察は直ぐに帰っていった。



 2日後、亡くなった少年の父親がやってきた。これで五体満足供養できると礼を言われた。野中も供養したので手の化け物も出てこないだろうと安堵した。


「やっと安心して眠れるな、私の手も早く治らないかなぁ」


 3日ほど手の平は出てきていない、両手の皮膚炎も少しよくなってきていた。

 安心して眠っていた野中が手に痛みを感じて目を覚ます。


「あぅあぁ…… 」


 震えて悲鳴も出てこない、手の平がベッドの周りを走り回っていた。


「なっ、なんで……何でよぉ~~ 」


 震えながら枕や目覚まし時計などを手の平に投げ付ける。


「この手も呪いじゃ……あの手の平が私を呪って………… 」


 両手の皮膚炎も目の前にいる手の化け物の所為だと思った。


「手が……手の平が…………あれが全部悪いのよ……あの手が………… 」


 パニックを起して部屋にあるものを辺りに投げ付けている野中を両親が取り押さえた。



 流石に何かあると父も思ったのか野中を連れて神社へお祓いに行くが手の化け物は消えなかった。毎晩のように出てきて野中は疲労困憊して譫言を発するようになり心の病だと心配した両親が磯山病院へと連れて来たのだ。

 これが野中佳恵のなかかえさんが教えてくれた話しだ。



 話を終えた野中が向かいに座る哲也をじっと見つめた。


「こんな話なんて信じてくれないよね」

「信じるよ、実際に手の化け物を見たからね」


 哲也は両手に挟むようにして持っていた缶コーヒーを開けるとグイッと一口飲んだ。

 テーブルの上に置いていた缶コーヒーを見つめながら野中が口を開く、


「なんで事故で死んだ子の手が化けて出てくるんだろう……私恨まれるような事したのかな、何度かボールを取りに来た事のある男の子だったけど…… 」

「恨みはどこで買うかわからないからな、逆恨みとかもあるし」

「手の化け物じゃなくて、あのボールだけが出てきてくれたらいいのに」

「ボールか…… 」


 哲也は昨晩の見回りで見たボールを思い出した。


「黒猫も話しに出てきたよね」


 こくっと頷いてから野中が話し出す。


「うん、少し前から庭に来るようになったの、黒猫が来ると近所の人が可愛がっていた他の猫が逃げていくから嫌われて餌も貰ってないみたいだったけど、かわいそうだったから私は煮干しとかあげてたの、痩せてるくせに余り食べなかったけどね」


 猫好きなのか野中の顔に笑みが浮んでいた。


「その黒猫が事故で見つからなかった手の平を咥えてきたんだね」

「うん、それで終ったと思ったのに……手を見つけて欲しくて化けて出てきたんだと思ってたのに………… 」


 怯えるように顔を顰める野中を見て哲也が慌てて話題を変える。


「初めに出てきたボールは怖くなかったの? 」

「うん、夢だと思ってたから……ポ~ンって跳ねるだけで何も無かったし、触ったら温かくて手の炎症が治っていくようだったよ」

「やっぱり…… 」


 猫とボールは同じもので化け猫が野中を守ろうとしたのではないかと哲也は思った。

 考え込むような哲也を野中が覗き込む、


「どうしたの哲也さん? 」

「いや、別に……ボールと手の化け物は違うものだって思ったからさ」


 誤魔化すようにこたえる哲也の向かいで野中も頷く、


「うん、私もそう思う、ボールは助けようとしてくれたんじゃないかと思う、私がボールを触ろうとしたら手の化け物が邪魔したし、あのボールは温かだったよ」


 また笑みの戻った野中を見て哲也も微笑みながら続ける。


「ボールを触れば野中さんの手も治るかも知れないね」

「うん、私もそう思うけどあの手の化け物が…… 」

「手の化け物は僕に任せてくれ、あれくらいだったら僕にも倒せるよ、二度と出てこないように僕が追い払ってやるから安心してよ」


 捕まえて握り潰せるのではないかと思うくらいに手の化け物は強そうに思えなかった。あの黒猫も味方になってくれるのではないかと考えて哲也は安請け合いをした。


「ありがとう哲也さん」


 向かいに座っていた野中が立ち上がる。


「哲也さんだけだよ私の味方は! 」


 座っている哲也に野中が抱き付いてきた。


「おぉう! 」


 思わず声が出た。野中の胸が哲也の顔を包み込んでいた。患者の着ている服の薄い布越しだが野中のおっぱいは柔らかで気持ち良かった。良い匂いもして哲也の全身から力が抜けていく、


「哲也さん……私にはこんな御礼しか出来ないの」


 抱き付きながら上から野中が哲也に顔を近付ける。


「のっ、野中さん…… 」


 野中の唇が哲也の唇に触れる寸前、声と共にドアが開いた。


「野中さぁ~ん、もうすぐ夕食ですからね…… 」


 部屋に看護師の森崎が入って来た。


「おわっ! 」


 驚いた哲也が野中の肩を掴んでバッと離れる。


「もっ、もももっ、森崎さん…… 」


 野中の両肩を掴みながら大慌てする哲也を見て森崎の顔がサッと変わった。


「哲也くん! 」

「ちっ、違うんです……これは……そのぅ………… 」


 野中の肩から哲也が慌てて手を離す。


「違うんです。これは…… 」


 慌てまくるが言い訳が出てこない、哲也の向かいにいた野中が森崎に向き直る。


「私が頼んだんです。缶コーヒー…… 」


 野中はテーブルの上に置いていた缶コーヒーを両手で挟むように持つと哲也に差し出す。


「缶コーヒーを開けてもらおうと思って……こんな手だから開けられなくて、廊下に出たら哲也さんが居たから頼んだんです」

「そっ、そうなんです。野中さん困ってたから…… 」


 焦りながら缶コーヒーを受け取ると哲也は缶を開けてテーブルの上に置いた。

 その様子を森崎が怪訝な目でじっと見ていた。


「じゃっ、じゃあ、また何かあったら何時でも呼んでよ」


 自分の缶コーヒーを持って哲也が森崎の脇を通ってドアに歩いて行く、


「まぁいいわ、今度何かあったら香織さんに報告するからね」

「勘弁してください…… 」


 じろっと睨む森崎に謝ると哲也は逃げるように部屋を出て行く、その背に野中が声を掛ける。


「ありがとう哲也さん」


 その顔に可愛い笑みが浮んでいたが哲也には見えなかった。


「あ~吃驚した。いいところだったのに…… 」


 廊下を歩きながら哲也が缶コーヒーをゴクゴクと飲み干した。驚きと焦りで喉がカラカラになっていた。


「もうちょっと、あと5分……いや3分あればキスできたのに…………でも野中さんと仲良くなれたし、キスは手の化け物を退治した後にして貰おう……その為にも絶対に倒さないとな」


 キスは出来なかったが「ありがとう」という嬉しそうな声だけで充分だとやる気満々で哲也は自分の部屋に戻っていった。



 その日の深夜、3時の見回りで哲也がコンクリートで出来た外の道を歩いていると目の前にボールが降ってきた。


「ボールだ…… 」


 ポ~ンポ~ンと跳ねるボールを見て捕まえようと哲也が手を伸ばす。


「あっ、こらっ! 」


 目の前で跳ねていたボールが右へ大きく飛んでいく、


「風なんて吹いてないよな…… 」


 ボールを追ってまた捕まえようとする。その場で跳ねていたボールがまた右へと向かって飛んでいった。


「野中さんか!! 」


 何かを知らせていると感じた哲也は野中の部屋へと急いだ。



 B棟へと入ると階段を使って2階へと行く、野中の部屋である208号室の前で様子を伺う、


「いっ、いやぁあぁ~~ 」


 悲鳴が聞こえて哲也がバッとドアを開けた。


「野中さん! 」


 ベッドの上、布団の中で怯える野中の胸の辺りに手の平が居た。


「野中さん」


 哲也が手の化け物を払い除ける。


「哲也さん」


 ベッドの上で身を起すと野中が哲也に抱き付いた。


「もう大丈夫だからね」


 野中を後ろに庇うようにして哲也がベッドの脇に立った。


「てっ、手の化け物は…… 」

「あそこに居る」


 震える声を出す野中と違い哲也は冷静だ。手の化け物はベッドの向こうの壁に貼り付いて様子を伺っている。


「大丈夫だから、野中さんはそこに居て」


 抱き付く野中からそっと離れると哲也は懐中電灯を握り締めた。金属で出来た40センチ以上はある長い懐中電灯だ。頑丈で警棒にも使えるので何かあった時にと嶺弥がくれたものである。


「てっ、哲也さん…… 」

「僕が何とかするからね、これ以上野中さんを悲しませるような事はさせないから」


 野中を助けてやりたい一心からだろう、哲也は少しも怖くはなかった。何も悪くはない野中を苦しめる手の化け物など倒してやるそう思っていた。

 哲也が懐中電灯を振り上げた。壁に貼り付いていた手の化け物が飛び掛かってくる。


「この野郎!! 」


 飛んできた手の化け物を哲也が叩き落とす。

 ベチャッと床に転がって動かない手の化け物を捕まえようと哲也が手を伸ばす。


『ニャギャァアァァ~~ 』


 窓の辺りから黒猫が飛び掛かってきた。


「うおぅっ! 」


 叫びながら哲也が咄嗟に身を引いた。


「ノラ…… 」


 呟く野中の前に哲也が庇うように立つ、


「なんであの猫が…… 」


 黒猫は手の平を咥えると閉まっている窓を突き抜けるようにして飛んでいった。


「ノラよ、間違いないわ」

「昼の話しに出てきた野良猫だね」


 振り返った哲也に頷いてから野中が続ける。


「間違いないわ、ああやって手の平を咥えてきたのよ、でも閉まってる窓から……窓を通り抜けていった。あの猫は…… 」


 驚き戸惑う野中に哲也が険しい表情で口を開く、


「只の猫じゃない、幽霊か妖怪か……たぶん化け猫だと思う」

「化け猫? ノラが」


 顔を顰める野中の向かいで哲也が頷いた。


「うん、猫又って言う妖怪に会ったことがあるんだ。それと似てるような気がする。気配は凄く悪いけどね、前に会った猫又はとても優しかった。さっきのは……ノラは悪意しか感じなかった」

「ノラは悪い妖怪ってこと? 」


 戸惑いを浮かべて訊く野中を見つめて哲也が続ける。


「たぶんね、あの手の平もノラが、化け猫が操っているのかも知れない」

「じゃあ、今までの事はノラがやってたってこと? ノラが全部悪いって事なの」


 野中の顔に不安が広がっていく、


「手の化け物じゃなくてノラが……化け猫が私を……どうしたら………… 」


 目に涙を溜めて今にも泣き出しそうな顔で見つめる野中に哲也がニッと笑顔を見せる。


「任せてよ、化け猫なんて僕が倒してやるからさ」

「出来るの? 」

「わからない、けど……けど僕が何とかするからさ、野中さんを苦しめる奴なんて僕が倒してやる」

「哲也さん…… 」


 野中は哲也に抱き付くとその胸に頬を擦り付けるようにして泣き出した。

 堰を切ったように泣き出した野中の背を哲也が優しく撫でてやる。


「大丈夫だよ、化け猫は僕が必ず追い払うからね」

「あっ、ありがとう哲也さん」

「見回りがあるからさ……野中さんの様子はまた見に来るから安心してくれ」


 野中をベッドに寝かせ付けると哲也は笑顔で部屋を出て行った。



 廊下を歩く哲也の顔に焦りが浮ぶ、


「味方じゃなかった……化け猫なんて倒せないぞ」


 どうすれば良いのか必死で考えるがアイデアなど出てこない。


「幽霊を触れるから化け猫だって殴れるはずだ。倒せなくてもいい」


 B棟を出ると哲也は敷地を回る遊歩道の向こう、藪の中へと走って行く、


「もう嫌なんだ…… 」


 藪の中で哲也が叫ぶ、


「もう嫌だ! もう助けられないのは嫌だ……早瀬さんも……浅井さんには助けるって約束したのに…………出来なかった。だから……だから野中さんは……野中さんはどんな事をしても助けたい、僕が死んでも………… 」


 保身のために嘘をついて誰にも信じて貰えなくなったが最後に哲也を助けるために嘘をついて亡くなった早瀬美香はやせみか、迷子の幽霊に襲われると怯えていた浅井芳佳あさいよしか、助けると約束したのに隔離病棟へ送られていって何も出来なかった。他にも沢山居る。哲也は何も出来なかった事をずっと悔やんでいた。


「だから絶対になんとかする! 」


 涙をぐいっと拭う哲也の顔に決意が浮んでいた。



 B病棟の屋上で人影がじっと哲也を見ていた。


「優しすぎるのよ、あの子は…… 」

「覚悟を決めたか…… 」


 哲也の居る場所から少し離れた木の上から影がすっと消えていく、

 B棟の建物の影から事務員の眞部が歩いて出てくる。


「2人とも哲也くんが気になるか……そういう私もそうなんだがね、さてどうするか」


 眞部が屋上を見上げるがそこにはもう人影は無かった。



 深夜3時の見回りを終えて哲也は自分の部屋へと戻った。


「少し仮眠するか……5時頃に様子を見に行こう」


 目覚まし時計をセットしてベッドに寝転がる。野中が気になるので見回りとは別に様子を見に行くつもりだ。

 うとうとと眠りに陥る寸前、ポンポンと床を叩く音が聞こえた。


「うぅ~ん…… 」


 眠りの邪魔をされて鬱陶しそうに寝返りを打った哲也の目にボールが飛び込んでくる。


「ボールだ…… 」


 ベッドの脇、哲也の頭の辺りでポ~ンポ~ンと跳ねるボールを見てガバッと身を起した。


「野中さん! 」


 野中に何かあったのかと哲也は寝間着代わりのシャツ姿のままで慌てて部屋を出た。



 全力で走ってB棟の野中の部屋に行く、ドアの前で様子を伺うが唸り声や悲鳴などは聞こえてこない、


「 ……良かった」


 帰ろうとした哲也の前、廊下をボールが跳ねていた。

 哲也が見ているのを確認したようにボールがポ~ンと跳ねて野中の部屋の中へと消えていった。


「何を言いたい? 」


 気になった哲也はそっとドアを開けて部屋の中を覗いた。


「なっ!? 」


 哲也の見つめる先、ベッドで眠っている野中の上に黒猫が居た。黒猫は眠っている野中の手を舐めていた。


「あっ、あぁ…… 」


 不気味な光景に哲也が総毛立つ、皮膚炎で真っ赤に爛れた野中の手の平をペロペロと黒猫が舐めているのだ。


「うっ、うぅぅ…… 」


 野中が寝ながら苦しそうな声を出す。それを聞いて哲也が我に返る。


「お前が、お前の仕業だったんだな」


 哲也が黒猫に殴り掛かった。


『ニャヒヒ…… 』


 黒猫はサッと跳んで避けるとベッド脇の床にくるっと着地した。


「てっ、哲也さん! 」


 目を覚ました野中が上半身を起す。


「哲也さん、何が…… 」


 言いかけて野中が言葉を引っ込めた。ベッドの向こうに居る黒猫に気付いたのだ。哲也が助けに来てくれたのが分かったのだろう、


「哲也さん…… 」

「大丈夫だからね、僕が守るから」


 ベッドの上で怯える野中を庇うように哲也が前に立つ、


『ニャヘヘ、ニャヒヒ』


 哲也を見上げて黒猫が笑った。


「お前何者だ! なんで野中さんを襲う、何が目的だ? どうしたら助けてくれる」


 話し合いでどうにかなるならと哲也が話し掛けると黒猫が目を光らせた。


『ニャヒヒ、魂を喰らう……魂をくれ』


 人の言葉を発しながら黒猫が哲也に飛び掛かる。


「くそっ! 」


 払おうと伸した哲也の手に巻き付くようにして黒猫が引っ掻いた。


「痛ぇ、痛てて…… 」


 一瞬の出来事だが哲也の腕は傷だらけで血が噴き出している。


「哲也さん! 」


 心配そうに声を掛ける野中の前で哲也が足を踏ん張った。


「大丈夫、これくらいどうって事ないから」


 態と大きな声を出した。本当は物凄く痛かった。だがここで引くわけにはいかない、野中を同じような目に遭わせるわけにはいかないと哲也は気力を振り絞る。


『ニャヒッ 』


 黒猫がニタリと笑いながら飛び掛かってくる。

 殴りつけようと哲也も腕を伸ばす。その伸した腕をトトッと伝って黒猫が哲也の肩に乗ってきた。


『旨そうだ。お前から喰らってやろう』


 黒猫が哲也の首筋に牙を突き立てようと大きな口を開く、


「うわぁあぁ~~ 」


 両手を振り回して落とそうとするが黒猫は哲也の背に爪を立てて離れない、


「哲也さん」

「ダメだ! 野中さんはそこに居ろ」


 助けようと思ったのか立ち上がろうとした野中を哲也が止める。


『ギャヒヒ…… 』


 背中にしがみついた黒猫が奇妙な声で笑う、もうダメだと哲也が思ったとき、閉まっている窓から何かが飛び込んできた。


『ヒギャ! 』


 短い悲鳴を上げて黒猫が吹っ飛んでいく、何事かと思いながらも哲也は体勢を立て直す。


「てっ、哲也くん……あれが…… 」


 震える野中の指差す先を哲也も見る。


「なっ、鬼が…… 」


 哲也も言葉を失った。吹っ飛んで壁の傍に転がる黒猫の前に小鬼がいた。1メートルもない70センチほどの小さな鬼だ。


『ニギャギャ~~ 』


 倒れていた黒猫が小鬼に向かって行く、小鬼が黒猫を殴りつけた。


『ヘギャ!! 』


 黒猫が吹っ飛んで反対側の壁にぶつかって悲鳴を上げた。


「あの鬼は…… 」


 哲也は直ぐに思い出した。開かずの間の鬼に襲われると話していた新垣加寿覇にいがきかずはさんの怪異で現われた3匹いた小鬼の内の1匹だ。


「助けてくれたのか? 」


 小鬼を見つめる哲也のシャツの裾を野中が引っ張る。


「あれが……あの鬼が哲也さんにしがみつく黒猫を追い払ってくれたよ」


 大きな鬼の前に現われた3匹の小鬼を思い出して哲也が頷く、


「うん、前にも見たことがあるんだ。あの時も助けてくれたのか…… 」


 黒猫と戦う小鬼を見ていた哲也が振り返る。


「あの鬼は味方だ。安心していいよ」


 確証はない、だが小鬼からは嫌な気配を感じない、禍々しい気配を感じる黒猫とは正反対の温かな気を感じた。


「うん、私もそう思う」


 哲也に言われたからだけではなく野中にも鬼から出てくる温かな気を感じたのだろう、その顔に恐怖は浮んでいない。



 2人の見つめる先で小鬼が黒猫を投げ飛ばした。


『ギャヘッ! 』


 悲鳴を上げると黒猫は閉まっている窓を抜けて飛んでいった。それを小鬼も追って消えていく、


「野中さんはここに居るんだ!! 」

「てっ、哲也さん…… 」


 野中を置いて哲也が部屋を出て行った。


「今なら化け猫を倒せる。鬼がいる内に倒すんだ」


 小鬼と協力できれば黒猫を倒せると哲也は慌てて2匹を追っていった。


「どこだ? 何処に行った」


 B棟の外、キョロキョロと探す哲也の前に事務員の眞部が現われた。


「哲也くんこっちだ」

「まっ、眞部さん? 」


 眞部はいつもの背広姿ではない、神主が着るような着物姿だ。


「眞部さん、その姿は…… 」


 驚く哲也の腕を眞部が引っ張る。


「化け猫を退治するのだろう? 私も力を貸すよ」

「なんで? 」

「話しは後だ。私の式神が押さえ付ける。哲也くんはそこを力一杯殴りつけてやってくれ」


 眞部についていくと遊歩道の脇にある藪の更に奥、細い木が立ち並ぶ森の中で小鬼が黒猫と戦っていた。


「やはり素早いな、1匹では無理か」


 眞部が懐から人の形をした紙を取り出すと口の中で何やら呪文を唱えながらサッと投げた。


「あぁ……鬼が………… 」


 哲也の見ている前で人の形をした紙が小鬼の姿に変わった。3匹居た小鬼の内の1匹だ。


「あの鬼は? 」


 呆然とした顔で見つめる哲也に眞部が優しい笑みを向ける。


「式神だよ、私の家は陰陽道の家系でね、私も少し使えるんだよ」

「少しって…… 」


 少しとか言うレベルじゃないと思いながら見ている先で2匹の小鬼が黒猫を取り押さえた。


「さぁ、哲也くんの出番だ」

「出番って? 」


 呆気に取られる哲也の前に2匹の小鬼が黒猫を引き摺ってきた。


『ニャギャギャ……助けてくれ、もうしない………… 』

「ダメだ。此処で始末する」


 命乞いする黒猫に眞部が取付く島もなく言い放つ、


「眞部さん、もうしないって言うなら…… 」

「ダメだよ哲也くん」


 同情する哲也を眞部がやんわりと窘める。


「こいつは化け猫でも最下級のものだ。人の心など分からない畜生だ。約束など守らない、それが人の肉を喰らった。人の味を覚えた。魂を喰らって力を得ようと野中さんを襲ったんだよ、此処で逃すと他で人を襲うことになる。それでもいいのかい? 哲也くんがいいと言うなら止めてもいいが…… 」


 小鬼に押さえられている黒猫が哲也を見上げた。


『助けてくれ……もうしない、あの女には何もしない、だから………… 』


 卑屈に頼む黒猫から邪な気配をびんびん感じる。


「だからなんだ? 野中さんだけが助かればいいわけじゃない」


 こいつは此処で始末しないといけない、哲也もそう思った。

 眞部に命じられたのか2匹の小鬼がサッと左右に分かれて黒猫を押さえ付けたまま哲也の前に差し出した。


「では哲也くん、力一杯こいつを殴りつけてやれ」

「僕がですか? 」


 怪訝な顔をする哲也を見て眞部が頷く、


「そうだ。哲也くんの気をぶつけてやるんだ」

「僕の気を? 」

「哲也くんは良い力を持っている。霊能力があるんだよ、だから幽霊を見るだけでなく触れることも出来る。その力で殴りつけてやれ」

「霊能力……僕が」


 哲也が自分の拳をじっと見つめた。


「さぁ早く、二度と悪さをしないように封じるだけだ」


 眞部に促されて哲也が拳を構える。


『止めて……助けてくれ』

「ごめん! 」


 助けを乞う黒猫に哲也は謝りながら拳を振り落とした。


『ヒギャギャ~~ 』


 悲鳴を上げて黒猫が消えていく、眞部が口の中で何やら呪文を唱えると2匹の小鬼が人形の紙に戻った。白かった紙の片方が真っ黒に変わっている。


「旨く捕まえた」


 哲也には聞こえないほどの小さな声で呟きながら眞部が人形の紙を拾って懐へと仕舞う、


「悲鳴? 哲也くん急ぐぞ」


 眞部が走り出す後を哲也が追い掛ける。眞部は60歳とは思えないくらいに速い、全力で走っても追い越すどころか距離が開いていくばかりだ。


「どうしたんです? 」


 必死で走りながら哲也が訊いた。


「野中さんが危ない」

「なっ、野中さんが…… 」


 哲也の走るスピードが上がった。火事場の馬鹿力という奴だろうか、全力で走っていたのだがそれよりも2割ほど速くなっている。それでも眞部の背に追い付くのが精一杯だ。



 B棟の中へ哲也と眞部が駆け入っていく、


「あぁあぁ~~ 」


 野中の悲鳴を聞いて哲也がドアを乱暴に開けて入っていった。


「野中さん! 」


 ベッドの上に座り込んで震えている野中の直ぐ前をボールが跳ねていた。


「なっ、あのボールか」

「哲也さん違う! 」


 ボールが襲ったのだと殴り掛かろうとした哲也を野中が止めた。


「手だよ、手が……あそこに! 」


 野中の指差す先、ベッドの周りを手の平の化け物が左右に走り回っている。


「猫は倒したのに……まだ動けるのか」


 険しい顔をした哲也が野中を守るようにベッドと手の化け物の間に立った。その後ろ、野中の直ぐ前でボールが跳ねているが気にもしない、ボールからは温かな気配を感じたからだ。


「化け猫が野中さんを襲うように仕向けていたのだろう」


 ドアの前で眞部が懐に手を入れた。式神を使うと思った哲也が慌てて口を開く、


「僕がやります。野中さんを傷付けて男の子を事故で殺した。全部あの化け猫の仕業だ」


 自然と口から出た自分の言葉で哲也は全てがわかったような気がした。


「あのボールは……そうか……哲也くんに任せるよ」


 優しい目でボールを見つめながら眞部が懐から手を出した。

 床を左右に走り回る手の化け物を哲也が蹴り上げる。


「この野郎! 」


 叫びながら宙に浮いた手の化け物を力一杯殴りつけた。

 ベチャッと壁に貼り付いて動かなくなった手の化け物に哲也の後ろからボールが跳ねてぶつかっていく、


「ボールが…… 」

「ボールが守ってくれたの……哲也さんが来るまで守ってくれたのよ」


 哲也と野中の見つめる先でボールが手の化け物を包み込んでいく、


「魂だよ、あれは事故で亡くなった男の子の魂だ」


 2人の後ろで眞部が教えてくれた。


「魂……それで優しかったのか」

「ボールが……哲也さん」


 納得して頷く哲也の背に野中がしがみつく、2人の前でボールがぼうっと白く光を放って大きくなっていく、


『お姉ちゃんありがとう』


 淡い光の中に男の子がいた。


「あの子だ……事故で亡くなった子よ」


 哲也の後ろで話す野中の目から涙が溢れ出す。


『お姉ちゃんありがとう、お兄ちゃんもありがとう』


 嬉しそうに笑いながら男の子は消えていった。


「礼を言うのはこっちだよ、ボールになってどうにか野中さんを守ろうとしてたんだ」

「あの子が助けてくれてたんだね」


 哲也の背にしがみつくようにして野中は泣きじゃくった。


「哲也くんが化け猫を倒した。それで力を失った手を少年が取り戻したのだろう」


 2人を見つめて眞部が優しい顔で言った。


「そんな……眞部さんの御陰ですよ」


 礼を言おうとした哲也がフラついてベッドにしがみつくようにして倒れた。


「哲也さん! 」


 野中が慌てて哲也を抱きかかえる。


「哲也さんしっかりして……哲也さん、哲也さんが…… 」


 泣きじゃくる野中の腕を眞部がポンッと叩いた。


「大丈夫だ。少し力を使って疲れただけだ。哲也くんは私に任せて野中さんは休みなさい」

「でも…… 」

「安心して眠るといい、もう君を狙う物の怪はいない、明日、哲也くんに元気な顔を見せてやりなさい、それが哲也くんにとって一番嬉しいことなのだから」

「わかった……哲也さんを頼みます」


 優しく微笑む眞部に頷くと野中はベッドに横になる。気を失った哲也を背負って眞部が部屋を出て行った。



 哲也を背負った眞部がB病棟を出てくる。


「私に任せてくれとか言って哲也くんに態と接触させたわね」


 コンクリートで出来た細い道を歩く眞部の前に香織が出てきた。


「状態が安定しているかどうか試したのだろう」


 いつの間に来たのか後ろには嶺弥が立っていた。

 眞部が背負っていた哲也を下ろす。


「心の均衡は確認したが霊的均衡はまだだったのでね」

「貴方ねぇ! 」


 声を荒げる香織の向かい、眞部を挟んで嶺弥が割り込む、


「止めろ、上からの指示だ。そうだろう? 」


 眞部が振り返ってニヤッと笑う、


「丁度良い相手だったろう、哲也くんも傷付かずに済んだし、実験用に捕まえることも出来た。それとも君たちがやって怪しまれてもよかったのかな? 」

「私ならもっと旨くやったわよ」


 不服そうに言う香織に眞部が向き直る。


「そうですか? では次があれば任せますよ、それより記憶の方をお願いしますよ」


 コンクリートの道に寝かせていた哲也を眞部が指差す。


「あからさまに見せておいて、よく頼めるわね」

「こればかりは人間の私では無理ですから」

「そうだな、俺も苦手だし任せるよ」


 とぼける眞部の後ろで嶺弥も知らんぷりだ。

 ムッと怒りを浮かべて香織が口を開く、


「こんな時ばかり……役に立たない男共が…………わかったわよ、でも完全には消せないわよ、哲也くんはともかく入っているのは普通じゃないからね」

「そうですか……なら、式神を使ったところは消してください、私と哲也くんが協力して倒したという事にしておけばいいでしょう」


 少し考えてからこたえた眞部の隣りに後ろに居た嶺弥がやって来る。


「退魔師だということはバレてもいいのか? 」

「構いません、この先、相談相手が必要でしょう、貴方方がするのなら任せますが」


 にこやかに話す眞部を香織が睨み付ける。


「まったく一々嫌な言い方をする……わかったわ、哲也くんを部屋に連れて行きなさい」

「じゃあ、任せたよ」


 手を振ると嶺弥は歩いて行った。


「おいおい、私に運ばせるつもりかい、結構重いんだよ哲也くん」


 愚痴りながら眞部が哲也を背負って歩き出す。


「頼んでも無駄よ、彼奴は放って置きなさい」


 眞部の後ろを香織が歩いて行った。



 哲也は2日間寝込んだ。意識は直ぐに戻ったが身体がだるくて熱もあるようで動けなかった。疲労が溜まったと先生に言われて2日間ベッドの上で過ごすことになる。

 見舞いに来た眞部に化け猫の霊障を受けて動けないのだと説明されておとなしく寝ていたのだ。野中が見舞いに来てくれるかと期待したが来なかった。嶺弥と香織と早坂にからかわれただけだ。


 あの夜、化け猫と戦ったことは余り覚えていない、眞部が霊能力者で手を貸してくれたのは何となく覚えていた。それを話すと眞部は霊能力のある家系だと言って笑っていた。


 野中が見舞いに来なかったのは手の皮膚炎がみるみる治っていき、その治療に忙しくなり、手の化け物が出るという幻覚も見なくなって心の病もよくなっていると検査や診察で見舞いに行く時間が取れなかったのだ。綺麗に治った手を哲也に見せてやりたいという女心もあったのだろう、治療に専念していたということだ。



 3日後、手の皮膚炎も心もすっかり良くなった野中が退院して行く、


「哲也さん、ありがとう、哲也さんの御陰で治ったよ」


 傷一つ残っていない綺麗な両手を見せて野中が嬉しそうに礼を言った。


「良かったね、綺麗に治って……手だけじゃなくて野中さんは全部綺麗だよ」


 照れを誤魔化すように話す哲也に野中がバッと抱き付いた。


「全部哲也さんの御陰だよ」

「おほぅ! 」


 急に抱き付かれて嬉しさから変な声が出た。


「本当にありがとう」


 柔らかくて温かくて良い匂いがして、哲也の表情が緩んでいくが途中で堪えるようにカッと目を見開いた。


「野中さんを助けたのは僕じゃない、あのボールだ。あの男の子が、男の子の魂が助けてくれたんだよ」


 抱き締め返そうとした手で野中の背をポンポン叩く、


「うん、そうね…… 」


 野中が見上げるようにして哲也に顔を近付ける。


「でも哲也さんだって助けてくれたよ、化け猫と戦ってくれたんでしょ? だから私の手も治ったよ……手の化け物も化け猫も出てこなくなったよ、男の子と哲也さん、2人が助けてくれたんだよ、本当にありがとう」


 背伸びをして野中がキスをする。嬉しさに哲也の全身から力が抜けていった。


「ありがとう、哲也さんのこと忘れないから…… 」


 野中がそっと唇を離した。重ねていたのはどれくらいの時間か、長い時間に思えたが実際は1分も経っていないのかも知れない。


「僕も忘れないよ」

「うん、哲也さんも早く治してね、そしたら私の家に遊びに来てね」

「知ってたの? 」


 ハッとする哲也を見て野中が悪戯っぽい笑みになる。


「眞部さんが教えてくれたの」

「まいったなぁ~ 」


 弱り顔の哲也を見つめていた野中の悪戯っぽい笑みが優しい笑みになる。


「ふふっ、でも関係ないよ、哲也さんは本物以上の警備員だよ、私を守ってくれた素敵な警備員だよ」

「まぁね、自分でもそう思ってる」

「あはははっ、化け物を追い払う警備員なんて滅多にいないもんね」


 戯ける哲也の向かいで野中も楽しそうに声を出して笑った。


「もう行かなきゃ……本当にありがとう」


 野中が飛び付くようにして抱き付くとキスをしてきた。哲也もギュッと抱き締め返す。


「哲也さん、ありがとう」


 涙を溜めた目で礼を言うと野中は迎えに来た両親の元へと駆けていく、


「本当にありがとう…… 」


 野中が綺麗に治った手を振って車に乗り込む、父親らしき男性が哲也に向かって深々と頭を下げて運転席に乗り込んだ。

 車が走り出す。後部座席で野中が手を振っている。哲也も見えなくなるまで見送った。


「良かったね、野中さん…… 」


 万感の思いを込めて呟く哲也は寂しそうな顔だ。


「本当ぅ、良かったわねぇ、哲也くぅん」


 聞き覚えのある声に哲也がバッと振り返る。


「ほんと、見せ付けてくれるよなぁ~~ 」


 後ろで香織と森崎がニヤニヤ笑っていた。


「ちっ、違いますから…… 」


 焦る哲也に香織がニヤつきながら訊く、


「キスしといて何が違うの? 」

「ほんと、ほんと、ほっぺじゃなくて口だもんね」


 意地悪顔の森崎の隣で香織が続ける。


「本当に良かったわね、相思相愛って感じだったわよ」

「もう付き合っちゃえよ、病院公認カップルだ」

「それいいわねぇ、長距離恋愛すればいいわよ、野中さんに時々見舞いに来て貰って」


 からかう2人の前で哲也が大慌てで話し出す。


「ちょっ、違いますから……あれは御礼でしてくれただけで好きとかじゃないですから……違いますから……僕からしたんじゃなくて野中さんからしてきたんですから…………違いますらね」


 必死で言い訳する哲也に構わず香織と森崎が話しながら歩き出す。


「でも焼き餅焼いちゃうなぁ~、私の事も好きって言ってたのにぃ~~ 」

「本当なんですか香織さん? 哲也くんって結構手が早いんですね」

「そうなのよ、ああ見えて肉食系なのかな? 」

「頼りなさそうに見えるけど本当は女癖が悪いとか……母性本能を擽るタイプかも」

「そうかも知れないわね、あれで結構モテるのよ哲也くん」

「女の敵って奴ですね」


 後ろで聞いていた哲也の顔がみるみる情けなく歪んでいく、


「ちょっ、違うから……変な事言わないでください……謝りますから、気に障ったのなら全部謝りますからぁ~~ 」


 泣き出しそうな顔で2人を追いかける。

 香織はともかくイケメンと噂話が好きな森崎が何を言い触らすかわからない、下手に怒るより謝るのが一番だと哲也はひたすら謝った。



 どうにかして香織と森崎の誤解を解いた哲也は疲れ果てた様子で部屋へと戻った。


「化け猫退治より疲れたよ…… 」


 テーブル脇の円椅子に座ると買ってきた炭酸飲料をゴクゴクと飲む、普段はコーヒーで炭酸飲料は気分転換の時にしか飲まない。


「化け猫退治か……2日間も寝込むなんてな、その間に野中さん治っちゃうんだもんな、もう少し時間あればキスだけじゃなくて………… 」


 ゴクゴクと炭酸飲料を飲むとベッドに寝っ転がる。


「あぁ……気持ち良かったなぁ~~ 」


 布団を抱いてベッドの上で身悶えするようにして哲也が続ける。


「野中さん、柔らかかったなぁ~~、良い匂いしたし……胸も……もっと一緒に居たかったなぁ……あっと言う間に治るんだからな、心の病だけでなく手の炎症も…………全部化け猫の仕業だったんだな」


 思い出して身を固くする。


「眞部さんが居なかったらヤバかったな……化け猫にやられてたぞ、でも眞部さんが霊能力持ってるなんて吃驚したなぁ」


 眞部が少しとはいえ霊能力を使えるのは驚いた。


「今までも幽霊とか見えてたんじゃ……今度話しを聞こう、僕にも力があるって言ってたし、いろいろ教えてもらおう」


 ゴロッと寝返りを打って窓を見つめる。


「野中さんを助けることが出来て本当に良かった。眞部さんの御陰だな」


 眞部が言うには野中の家にやって来ていたふてぶてしい顔をした黒猫は年老いて変化する直前だったらしい、それが偶然、事故に遭った少年の手の肉を喰らい気も喰らって化け猫へと変化したのだ。

 少年の手の肉を喰らった黒猫が人の味を覚えて野中を喰おうと手に何らかの術を掛けたのだ。手の味が忘れられなくて初めに食おうと思ったのか、それとも手を塞がれると人は抵抗できなくなる。そう考えて手を封じることにしようとしたのか、今となっては分からない、険しい表情でそう言った眞部の顔が忘れられない。


 だが哲也には別の考えもあった。事故そのものも化け猫が起したのではないかと思っている。化け猫へとなるために事故を起して少年を喰らったのだ。そして更なる力を付けるために野中を狙ったのだとそう考えていた。


「ボールか……あの男の子の魂だったんだな」


 何故ボールとなって現われたのかと訊くと眞部は2つ話してくれた。

 男の子が事故で死ぬ直前に追っていたボールに未練が残ってその姿で出てきたのではないかという仮定ともう1つは魂そのものが丸い形をしているという話しだ。

 玉とは『ギョク』と呼んで元々は宝石の事を指していた。家の中にある玉で宝という漢字が出来たのだ。人の中にある宝、つまり玉が魂だ。

 人魂が丸く見えるように男の子の魂も丸く見えたのだろう、それがボールに見えたのだと眞部は教えてくれた。


 話しを聞いた哲也は極普通の日常を送っていた野中の元にボールと一緒に怪異が飛び込んできたのだと、そう思った。


「同じ化け猫でもチコさんみたいに優しい猫だとよかったのにな……波辺さんも可愛かったよなぁ」


 病院へ迷い込んできた猫又のチコと波辺の事を思い出す。


「あれ? そういやチコさんの時に眞部さんは騒いでなかったよな、香織さんや嶺弥さんはなんか怖かったけど……あれ? 何か忘れてるような…………鬼が居たような気がするんだけど」


 頭を押さえながら哲也が顔を顰める。


「痛てて……頭痛くなってきた……なんだろ、クラクラするな」


 布団を被るようにしてじっとしていると頭痛は直ぐに引いていった。


「僕にも少し霊能力があるって言ってたし怖いこと思い出すのは止めよう、楽しいことだけ考えよう」


 頭痛は嫌だと哲也は野中のことを思い出す。


「良い感じだったし、もうちょっと退院するのに時間あればもっと仲良くなれたのになぁ~~、せめてあと3日あれば野中さんと…… 」


 だらしない顔をして妄想していると部屋のドアがドンッと鳴った。


「おわっ! 」


 香織でも来たのかと吃驚してベッドの上で身を起す。


「気の所為か……まぁいいや、寝よう、良い夢が見れそうだ」


 寝っ転がると哲也が目を閉じる。疲れていたのか直ぐに眠りに落ちていった。


「哲也くんにも困ったものだねぇ」


 ドアの外、廊下を小さな鬼が1匹横切って窓から飛んで消えていく、病練の外で眞部が紙で出来た人形を懐にそっと仕舞った。

読んでいただき誠にありがとうございました。

6月の更新は今回で終了です。

次回更新は7月末を予定していますが既にバテ気味で執筆速度が落ちています。

寒いのは平気ですが暑いのは苦手です。



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