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第三十五話 竹

 竹は不思議な植物である。

 木のように見えるが普通の木のように二次肥大成長はしない、肥大成長とは縦に伸びるのでは無く横に太くなっていくことだ。木の年輪のことである。木は年輪を作りながら太く大きく育っていく、だが竹は横に太って大きく育つことは無い、筍の段階で太さは決まってしまうのだ。後は上に伸びていくだけである。木でもなければ草でもない独特の存在が竹なのだ。


 種子で増える一般的な植物と違い竹は地下茎を広げて増えていく、大きな竹林が一つの根で繋がっているなどはよくあることだ。

 竹の成長は早く、1日で1メートル以上成長することもある。地下茎から筍が生え出て50日程で大きな竹へとなり成長が止まる。年輪がないので地面の上ではそれ以上成長することはないが地下茎は活発に成長をしていくのだ。

 そのため竹林を放置していると地下茎を広げていって周りの草木を浸食して竹林へと変えていく、結果として森林の減少を招くのはもちろん、地滑りなどの災害を起す問題が起きている。


 この様に不思議な生態をしているためか竹に纏わる話しも多い、竹から生まれてくるかぐや姫、竹取物語は有名だろう、他にも天までとどいた竹の子という話もある。お爺さんが空高く伸びた竹を上って月の世界に行きもてなされて帰ってきて話すと婆さんも行きたいと言う、婆さんを袋に入れると爺さんは袋を咥えて竹を上っていく、ようやく辿り着いた爺さんが婆さんに着いたぞと言った途端、咥えていた袋が落ちて婆さんは死んでしまうという話しだ。ジャックと豆の木に似ているがばあさんが死ぬのが日本の昔話的というか嫌な話である。


 怖い話もある。竹林に現われる妖怪として砂かけ婆がいる。

 竹が光を遮るので他の植物は生えない、枯れた竹笹が積もった薄暗い竹林は何とも寂しいものである。風で飛ばされてきた砂が竹の葉に溜まって、それが落ちてくる。砂を掛けられたと辺りを見回すが何も居ない、これは妖怪の仕業に違いないと生まれたのが砂かけ婆だ。


 哲也も竹に纏わる不思議な話を聞いたことがある。羨ましいとも思ったがその老人は亡くなってしまった。だが老人は後悔はしていないだろう安らかな笑みを湛えて旅立ったのだから。



 朝食を食べ終えた哲也はいつものように病院の敷地をぐるりと回る遊歩道を散歩していた。


「ふぁあぁ~~、ちょっと眠いなぁ」


 大きな欠伸をしながら遊歩道脇のベンチに腰掛ける。昨晩は見回りの仮眠を取らずにテレビで深夜番組を見ていたので眠気が襲ってきた。


「戻って寝るか……ここで寝たら怒られるからな」


 ベンチで横になりたいのを我慢して立ち上がる。


「兄さん、ちょっといいかい? 」


 声を掛けられて哲也がバッと振り向くと左に男が立っていた。

 70歳ほどに見える老人だ。眠くて警戒心が落ちたのか傍に居るのに気付かなかった。


「ぼっ、僕ですか? 」


 哲也が自身を指差す。冷静を装っているが驚いて声が震えていた。


「何処かに竹はないかな? 」

「竹ですか? 事務員さんに聞いたらあると思うけど…… 」


 竹の棒や竹籤たけひごで何かするのだろうとこたえた哲也の前で老人が違うと手を振った。


「そうじゃなくて竹が生えていないかな、この病院は広いから、森もあるし竹林はないかと思ってね」

「竹林ですか…… 」


 E病棟の裏、森の奥に小さな竹林があるのを思い出した。アニマルセラピーの犬が逃げて捕まえるのに森に入ったときに見つけたのだ。警備員で敷地内を色々歩いている哲也だから知っていることだ。殆どの患者は竹林のことなど知らないだろう、


「竹林は見たことないですね」


 少し考えてから哲也がこたえた。目の前の老人がどのような患者かわからない、竹林で何をするのかもわからない、迂闊な返事は出来ないのだ。


「そうですか……山の中だしあると思ったんだがな」


 気落ちしている老人に哲也が優しく声を掛ける。


「竹で何をするんですか? 乾燥してるのじゃなくて青竹が必要なら僕が用意しますよ」

「いや、そういうのじゃなくて……用意するってお兄さんが? 」


 怪訝な表情の老人の前で哲也が微笑みながら続ける。


「はい、僕は警備員ですから、警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」


 納得するように頷いてから老人が話し出す。


「警備員さんだったのか、警備員さんが言うなら竹はないな……来るときに見た山裾にはあったんだがなぁ、竹林」


 突然話し掛けられたので自然に会話していたが初めて見る老人だ。


「新しい患者さんですね、竹で何をするのか知りませんが遊歩道から外れて森の中に入ったらダメですからね」

「はは……迷惑を掛けるようなことはしないよ、そうか……竹は無いのか………… 」


 注意する哲也に寂しげな笑みを見せて呟くと老人は遊歩道を歩いて行った。



 歩いて行く老人の背を見つめていると背後に気配を感じて哲也が振り返る。


「森崎さんだ」


 遊歩道の向こうから看護師の森崎が早足でやってきた。


「哲也くん、南辺さんと何を話したの? 」


 睨むように訊く森崎の横で哲也が歩いて行く老人を指差した。


「南辺さんって、あのお爺さんですか? 」

「そうよ、南辺尚雅さん、それで何を話したの? 」


 森崎は香織の後輩だ。仲の良い看護師の1人だがキツい性格なので哲也は少し苦手である。


「何って竹は無いかって訊かれました。棒切れじゃなくて生えている竹です。竹林を探しているみたいでしたよ」


 睨みながら訊く森崎に哲也が少し臆しながらこたえた。


「竹か…… 」


 やはりと言うように頷いた森崎の顔を哲也が覗き込む、


「竹がどうしたんです? あのお爺さん……南辺さんでしたね、竹林は無いって教えると残念そうにしてましたけど」

「哲也くんは気にしなくてもいいわ、南辺さんは認知症なのよ」

「認知症っすか? 徘徊したら危ないんじゃ…… 」


 遊歩道の先を歩く南辺老人を哲也が心配そうに見つめる。


「だから私が見張ってたのよ、認知症でぼや騒ぎを起してね、本当なら隔離病棟へ入れた方がいいんだけど本人が嫌がるし、先生も重症じゃないからって暫く様子を見る事になったんだけど昨日から歩き回って困ってるのよ」


 弱り顔で森崎が教えてくれた。

 南辺尚雅みなみべなおまさ68歳、定年退職後、一人暮らしをしていた南辺は調理中に鍋を火に掛けているのを忘れて出掛けてぼや騒ぎを起してしまう、同じような事が何度かありその度に消防車が駆け付けた。役所の福祉担当者が医者に診てもらうと認知症だと診断された。身寄りの無かった南辺は役所の勧めで磯山病院へと入ることになったのだ。



「それで後を付けてたんですね」


 納得した様子で頷く哲也の前で森崎が何か思い付いた様子で口元をニヤッと歪める。


「自然の中で伸び伸びと治療するって言うのはいいんだけどこの病院大きいからね、森の中に入って怪我でもしたら大変だからね、それに竹のお化けが出てくるって言うし…… 」


 話しを聞いた哲也がバッと身を乗り出す。


「お化け? 何すか、竹のお化けって」

「あぁ……えーっと、忘れて、聞かなかったことにして、変な事話したでしょって香織さんに怒られちゃうから」


 はぐらかそうとする森崎に哲也が声を大きくして頼む、


「そんなぁ、誰にも言いませんから……香織さんにも森崎さんから聞いたって絶対に言いませんから」

「どうしようかなぁ~~ 」


 勿体振る森崎の向かいで哲也が拝むように両手を合わせた。


「頼みますよ森崎さん、竹のお化けって何の事です。南辺さんが竹林を探しているのも関係してるんでしょ? 」

「うん、何でも竹から美女が出てくるらしいわよ」

「美女っすか? 竹の精霊か何かですかね? 」


 美女と聞いて哲也の顔が嬉しそうに緩んでいく、


「さぁね……あっ、南辺さんが行っちゃうから」


 去ろうとした森崎の手を哲也が掴んだ。


「頼みますよ、何でもしますから」


 必死で頼む哲也を見て森崎がほくそ笑む、


「私も忙しいし……森の中へ入ったりしないように哲也くんが南辺さんを見張っててくれると助かるんだけどなぁ~~ 」

「任せてください、夕方までは暇なんで見張りますよ、その代わり竹のお化けの話しを教えてください」


 二つ返事で引き受ける哲也の前で森崎が話を始めた。


「竹の精か妖怪か、何かは分からないけど夢に美女が出てきて色々と世話をしてくれるらしいわよ、宴会したり踊ったり色々してくれるらしいわ」


 説明が下手なのか森崎は所々端折るので分かり辛い。


「それが……その美女が何で竹のお化けって分かるんですか? 」


 話しが見えないというように首を傾げる哲也に説明が下手なことを自覚しているのか森崎が弱り顔で続ける。


「うん、私も気になって訊いたんだけど何でも筍が生えてくるんだって、夢を見る前に筍が生えてくるんだって、庭とか家の近くに筍が生えてそれが竹になって枯れるまで美女の夢を見るらしいわよ、まぁその後は…………認知症が進んで夢と区別が付かなくなっているって先生は言ってたけどね」


 最後を誤魔化しながら森崎が話を終えた。


「まぁそういう訳だから南辺さんが変な事しないように見張りは頼んだわよ」


 背中をポンッと叩かれて哲也がサッと敬礼する。


「了解しました。南辺さんの部屋は何処ですか? 他に仕事を頼まれない限り昼から夕方に掛けて南辺さんを見張りますよ」

「C病棟の213号室よ、哲也くんが引き受けてくれて助かるわぁ~~ 」


 伸びをしながら森崎は歩いて行った。


「何か旨く乗せられたような気がするけど……竹から出てくる美女は気になるからな、いつもの散歩の序でだと思えばいいや」


 南辺老人が歩いて行った方へ哲也が走り出す。


「居た! また訊いているみたいだな」


 直ぐに追い付いた。ベンチに腰掛けて談笑していた患者たちに話し掛けている。


「それほど会いたいのかな、竹の美女……色々してくれるってエッチな事もしてくれるのかなぁ~~ 」


 妄想して顔をだらしなく緩ませながら呟く哲也の前で南辺がベンチに座る患者たちに礼をして歩き出す。


「おっと、バカやってないで南辺さんから話しを聞く作戦を考えよう」


 南辺を追いながらどうにかして本人から直接話しを聞こうと考える。



 後を付けるが南辺は変な行動は無い、認知症とは思えないくらいに矍鑠としている。

 森崎に担がれたのではないかと思ったが竹のことは本当かも知れない、南辺は会う患者に竹林は無いかと聞いて回っていた。


「そろそろ昼だな……良く歩くなぁ南辺さん」


 哲也が散歩に出たのが朝の9時頃だ。今は昼前である。彼此3時間近く歩き回っていることになる。


「南辺さん、もう直ぐお昼ですよ、一緒に食べに行きましょう」

「昼飯か…… 」


 哲也が誘うと南辺は何も言わずについて来た。


 食堂で並んで昼飯を食べる。


「今日のランチはチキン南蛮か、結構旨いんですよ」


 哲也が話し掛けるが南辺は心ここにあらずという様子で返事も無い。


「南辺さん、お茶どうぞ」


 コップにお茶を注ぐ哲也を南辺がじっと見つめる。


「警備員さんだったな」

「はい、警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」


 笑顔でこたえる哲也に南辺が怪訝な表情を向けた。


「なんで親切にしてくれる? 」

「看護師さんに頼まれました。南辺さんの担当の森崎さんです。南辺さんが竹林は無いかって探して森に入らないかって心配してましたよ」

「そうか森崎さんか…… 」


 南辺の顔から疑いが消えていく、


「話しを聞いて回ったんだが本当に竹は無いみたいだな」

「竹林ですか」


 落ち込む南辺の隣で哲也が呟いた。

 E病棟の後ろ、森の奥に小さな竹林があることを話そうとしたが思い止まった。道も無い森の中だ。南辺が1人で入り込んだら危ない、教えるのは本人から直接話しを聞いた後でもいいと考えた。この情報を元に南辺から話しが訊けるかも知れないとも思ったのだ。


「竹から美女が出てくるって聞いたんですけど本当ですか? 」


 哲也が思い切って訊くと南辺がサッと顔を曇らせた。


「森崎さんに聞いたのか? 」

「はい、南辺さんが認知症で入院してきた話しを聞いてその中で夢の話しが出てきました。竹の美女の話が…… 」

「そうか……言っとくが私は認知症じゃないからね」


 ムッと怒った南辺を見て哲也が慌てて口を開く、


「僕も南辺さんが認知症には見えません、しっかりした足取りで歩いてましたし、話しも出来るし……先生が言っていただけですから」


 言い訳する哲也の前に南辺がもういいと言うように手を突き出す。


「わかった……夢の話しは知らん、どうせバカにするだけだ」

「バカになんてしませんよ、僕は幽霊とか信じてますから」


 どうにか話しを聞こうとする哲也の隣で南辺がムッと怒って話し出す。


「幽霊? あれはそんなもんじゃない、あれは……見ないとわからん、良いものか悪いのか私にも分からん」

「済みません、謝ります。冷めないうちに食べましょう、竹林を探すなら僕も手伝いますから」


 また怒り出した南辺を見て哲也は話を止めると食事を食べ始める。


「見つけても無理だろうな……私の家に生えてた奴とは違うだろうしな」


 呟くと隣で南辺も食べ始めた。

 その後は黙って昼食を終えた。竹林を探すのを止めたのか南辺は大人しく部屋へと帰っていった。



 翌日、その日は朝から雨で朝食を終えた哲也が様子を覗いに行くと南辺も出歩かずに部屋で大人しくしていた。


「おっ、ちゃんとやってるな哲也くん」


 自分の部屋に戻ろうとした哲也に森崎が声を掛けてきた。


「森崎さん、おはようございます。約束ですから任せてください」


 ペコッと頭を下げる哲也の肩を森崎がポンポン叩く、


「おはよう、昼には雨止むって天気予報で言ってたから頼んだわよ」


 森崎も南辺の様子を見に来たらしい、哲也を見つけて安心した顔だ。


「了解しました。任せてください、その代わり竹のお化けみたいな面白い話し聞いたらまた教えてくださいね」


 哲也が調子よくこたえた。手伝いをすれば患者の話も聞きやすいと考えたのだ。


「あはははっ、哲也くんって本当にそんな話し好きだよね」


 森崎が哲也の背をバンバン叩く、


「まぁ退屈凌ぎに丁度良いですから」

「あははははっ、わかったわ、また面白い話しあったら教えてあげるわよ、でも香織さんや早坂さんには内緒だよ」

「わかってます。僕も怒られるの嫌ですから香織さんには話しませんよ」

「オッケー、オッケー、じゃあ昼から頼んだわよ」


 楽しげに笑いながら森崎は長い廊下を歩いて行った。


「昼から止むのかな? 結構降ってるぞ、まぁいいや、戻って寝よう」


 廊下の窓から雨の降る外を見ると哲也も部屋に戻っていった。



 雨は昼前に止んだ。昼食を終えた哲也が様子を覗いに行こうとコンクリート製の通路をC病棟へ向かって歩いていると通路から外れた土が剥き出しの地面にしゃがんでいる南辺を見つけた。


「南辺さんだ……何してるんだろう? 」


 哲也がそっと近付いていく、


「あっ、筍だ! 」


 思わず声が出た。しゃがんでいる南辺の前、雑草が茂っている間から50センチほどの筍が生えていた。


「ああ、筍だ。私の筍だ」


 しゃがんでいた南辺が振り返ると嬉しそうに哲也を見上げた。


「筍が……でも何で? 」


 ここはC病棟の裏だ。近くに竹林など無いのに不思議だと思っていると南辺が笑いながら呟いた。


「お迎えが来るんだよ」

「お迎えって? 」


 哲也が訊くと南辺はくるっと前に向き直った。


「待ってたんだよ……もう切らないからね、だから迎えに来ておくれ」


 愛おしそうに筍に話し掛ける南辺の後ろから哲也が再度訊く、


「迎えって何ですか? その筍から美女が出てくるんですか? 」

「哲也くんだったね、警備員の……君は何歳だい? 」


 話しながら南辺が振り返る。


「あっ、はい、哲也です。19歳です」


 慌ててこたえる哲也を見上げて南辺が優しい顔で頷いた。


「19か……まだまだ若いねぇ、君は知らなくてもいいよ、知ると哲也くんの筍も生えてくるかも知れない、そうなったら大変だよ」

「僕の筍? どういう事ですか? 」


 益々気になった哲也の前で南辺が立ち上がった。


「これは普通の竹じゃないんだよ、私の居た村の竹だ。みんなが眠っている村の竹だ」

「南辺さんが住んでいた村の竹ですか? それがどうしてここに? 」


 意味が分からないといった怪訝な表情の哲也の肩を南辺がポンポンと軽く叩いた。


「私が何かしないか見張っていたんだろ? もう探して歩き回ったりしないから安心してくれ、ここだと私の部屋からでも見えるから安心だ」


 南辺が自分の部屋を見上げた。筍が生えているのはC病棟の裏だ。南辺の部屋である213号室からでもよく見える位置である。


「今晩からゆっくりと眠れそうだ」


 南辺がC病棟へと入っていく、話しを聞こうと哲也は慌てて追った。


「南辺さん、話しを教えてください、竹から美女が出てくるってどんな話しなんです? あの筍が関係しているんでしょ? 」

「ダメだよ、哲也くんは知らなくてもいい話しだ」


 笑顔のまま南辺は部屋へと入っていった。しつこく訊くのは逆効果だと哲也も諦めて帰る事にした。


「おわっ! デカくなってる」


 帰り道、気になった哲也はC病棟の裏を見に行くと筍が大きくなっていた。50センチほどだった筍が80センチほどに伸びていた。

 有り得ない、竹は伸びるのが早く1日で1メートル以上伸びることもあるが哲也が先程見てから10分も経っていない、30センチも伸びるのは異常である。


「何だ? この筍…… 」


 まじまじと見ていると上から声が聞こえた。


「ダメだよ、切ったりしないでくれ、大事な筍なんだからね」


 振り返って見上げると2階の窓から南辺さんが見ていた。


「僕は切ったりしないけど……大丈夫かなぁ」


 哲也が顔を顰める。建物の近くだ。根を張って増えていく竹は土台を荒らす厄介な植物だ。


「お願いだからそっとしておいてくれ、1週間ほどでいいんだ」


 南辺の頼む声を聞きながら哲也は歩いて行った。



 筍はぐんぐん大きくなる。2日目には4メートルを超えていた。

 看護師や事務員にまで見つかって切ろうという話しも出てくる。当然だ。建物に近すぎる。このまま増えたら厄介なことになる。



 3日目、筍は竹へと育って6メートル近くになっていた。

 朝食を終えた哲也が散歩の序でに様子を見に行くと揉めている事務員と南辺を見つける。


「待ってくれ、切らないでくれ、この竹は増えない、あと1週間でいいんだ」


 鋸を持った事務員2人を南辺が必死に押さえていた。


「南辺さん…… 」


 哲也が南辺の横に並ぶ、


「僕からもお願いします。少し待ってあげてください」

「そんな事言われても……上からの指示だからな」


 哲也の事を知っているらしく事務員たちも弱り顔だ。


「わかりました。でも今日は止めてください、僕が話しをしてきますからお願いします」


 深く頭を下げて頼む哲也を南辺がじっと見つめていた。


「まぁ今日1日くらいなら…… 」

「哲也くんは眞部部長とも仲が良いからな」


 2人の事務員は鋸を持って戻っていった。


「ふぅ、何とかなりそうだ」


 ほっと息を付く哲也の手を南辺が握り締める。


「ありがとう哲也くん、助かったよ……何か御礼をしないとな」


 礼を言う南辺を見て哲也がニッと笑った。


「御礼なら話しを聞かせてください、竹から美女が出てくる話し」

「それは……どうなっても知らないよ、哲也くんの筍が生えてきても私は責任が取れないから………… 」


 口籠もる南辺の前で哲也が笑顔で続ける。


「構いませんよ、自己責任です。だから教えてください」


 少し間を置いて南辺が頷いた。


「 ……わかった。話そう、ここじゃ何だから私の部屋にでも」


 部屋に戻ろうとした南辺を哲也が止める。


「一寸待ってください、その前に竹を切らないように話を着けてきます。1週間でいいんですよね? 1週間くらいなら待つように話を着けてきますよ」

「ああ、1週間でいい、竹は増えない、これだけだ。1週間ほどで終るから」


 何が終るのか気にはなったが今は話しを聞くのが先だ。


「じゃあ、話しは昼食が終った後って事で、お菓子と飲み物持って部屋に行きますよ」

「わかった。私も頭を整理して待っているよ」


 南辺と別れて哲也は池田先生の診察室へと向かった。



 診察室のある廊下の長椅子に座りながら哲也がどう話しを持っていこうか考える。


「お化けの話しとかしたら先生怒るしな……香織さんに頼むか」


 診察室から患者が出てきて哲也の前を歩いて行った。


「あらっ? 何してるの? 今日は診察日じゃないでしょ」


 哲也に気付いた香織が声を掛けてきた。


「香織さん、時間ありますか? 」


 おべっか笑いをする哲也を香織が睨み付けた。


「あるわけないでしょ、今診察中よ」

「次の患者さんまだ来てないですよね、一寸でいいんで…… 」

「患者さんが来てないからって暇じゃないのよ」


 忙しいと言いながら香織が廊下に出てきてくれた。


「南辺さんのこと知ってますよね? 竹から美女が出てくるっていう話しの」

「南辺さん? 森崎が担当している患者ね、知ってるわよ、また変な話しを聞いたのね」


 呆れ顔の香織の向かいで哲也が拝むように手を合わせた。


「その南辺さんが竹を切らないでくれって言ってるんですよ、それで池田先生に竹を切らないように頼もうと思って…… 」

「竹って……あぁ、C棟の裏に生えてきたって言ってたわね」

「そう、それです。あと1週間でいいから切るの延期して貰えませんか? 」


 拝みながら頼む哲也を見て香織が溜息をついた。


「南辺さんは竹に囲まれた家で育ったそうよ、だから竹を見ていると心が安らぐからもう少しだけ切るのを延期してくださいって頼みなさい、お化けの話しなんて絶対にダメよ、一寸待ってて、先生に言ってあげるから」


 診察室へと戻ると香織が直ぐに出てきた。


「私は次の患者さんを呼んでくるからその間に先生に話しなさい」


 ポンッと背を叩いて歩いて行く香織に哲也がペコッと頭を下げた。


「香織さん、ありがとう」


 礼を言うと哲也は診察室へと入っていった。



 哲也が入ると池田先生が椅子をくるっと回して体ごと振り向いた。


「竹を切らないで欲しいんだって? 」

「はい、南辺さん楽しみにしているんですよ、生まれた家に生えていた竹と同じだって、邪魔なのは南辺さんも分かってます。だから1週間だけでいいから切らないでくれって頼まれました。僕からも頼みます。1週間だけ切るの延期して貰えませんか? 」


 真剣な表情で頼む哲也を池田先生がじっと見つめた。


「それはいいけど……何で私に頼むんだい? 事務の眞部さんにでも頼んだらいいじゃないか」

「あっ、そうだ! でも一番に池田先生が頭に浮びました。先生なら何とかしてくれるって思ったから…………迷惑でしたか? 」


 顔色を窺う哲也の前で池田先生がニッコリと笑った。


「そうかい、私を一番頼りにしてくれているって事だね」

「はい、何だかんだ言って池田先生は優しいですから」


 調子よく話す哲也の向かいで池田先生が微笑みながら続ける。


「仕方ないな、哲也くんにそこまで言われちゃ断れないな、わかった1週間でいいんだね、それくらいなら切るのを延期しても実害は出ないだろう、私の方から話を着けておくよ」

「ありがとうございます」


 頭を下げる哲也の後ろから香織が入って来た。


「先生、桑畑さん連れて来ました」


 患者を連れて来た香織の横を哲也がペコッと頭を下げて出て行った。



 暫くして診察を終えた患者の桑畑が診察室を出て行く、


「哲也くんはまた変な事に首を突っ込んでいるみたいだね」


 くるっと椅子ごと振り返った池田先生に香織が次の患者のカルテを渡す。


「竹の精です。美女が出てくるって喜んでいましたよ、気が多いんです哲也くんは」


 ムスッと不機嫌な表情の香織を見て池田先生が声を出して笑う、


「ははははっ、哲也くんも男だからな、まぁ今回は気にするほどでもないだろう」

「はい、一応監視はしておきますが南辺個人の問題ですので哲也くんに害はありません」

「そうだな、村の思念とでもいうか……南辺の村に対する思いが呼んだ怪異だ」


 次の患者のカルテを見ながら話す池田先生を香織が見つめた。


「南辺も村も全て竹が飲み込み自然に帰っていくんですね」

「竹細工で栄えた村だからねぇ、人が竹を利用したのか、竹が人を利用したのか、今ではあの辺り一面が竹林、竹山になっているからねぇ、村があったなんて誰も知らないだろうねぇ」

「人間は只の植物と気にも掛けませんが地下茎で繋がった一つの大きな生命体です」


 座っている池田先生が香織を見上げる。


「人には分かるまい、自分たちに都合の悪いことは見ないようにする。知らない振りをする。滅ぼそうとする。害あるものがあってこそ進化していくものだよ、多くの犠牲の上に今の人間がいる。それを忘れてはいけないねぇ」


 厳しい表情の池田先生を見つめる香織は寂しげだ。

 ガララと音を立てて引き戸を開けると次の患者が入って来た。


「先生おはようございます」

「はい、おはよう、野口さん調子はどうだい? 」

「隠れてお菓子食べてないでしょうね? 糖尿なんだからダメですからね」


 池田先生と香織が何事もなかったかのように笑顔で迎えた。



 昼食を終えた哲也はお菓子と缶コーヒーを持って南辺の部屋を訪ねた。


「南辺さん、話を着けてきましたよ、裏の竹は1週間は切らないって事になったので安心してください」


 南辺の顔に安堵が広がっていく、


「本当かい? ありがとう、哲也くんの御陰で安心して向こうへ行けるよ」

「向こうに行くって何ですか? 」


 不思議そうに訊く哲也の前で南辺が声を出して笑い出す。


「はははははっ、哲也くんは気にしなくてもいいよ、それより座ってくれ」


 誤魔化されたと思いながらも哲也はベッド脇のテーブルを囲むように置いてあった折り畳み椅子に座った。


「そんな顔しないで……話しを聞けば分かるよ」


 哲也の気分を察知したのか南辺が微笑みながら向かいに座る。


「お菓子持ってきました。それと缶コーヒーを……南辺さんが何飲むか分からなかったから缶コーヒー買ってきました」


 お菓子の入った袋をテーブルの上に置くと南辺の前に缶コーヒーを置いて自分の分を手に持った。


「気を使わせて悪いな、缶コーヒーは好きだよ」

「気にしないでください、お菓子は先生や看護師さんに貰ったものですから」


 照れながらこたえると哲也は缶を開けてコーヒーを一口飲んだ。


「ありがとう、じゃあ、話をしようか…… 」


 嬉しそうに礼を言うと南辺が話を始めた。

 これは南辺尚雅みなみべなおまささんが教えてくれた話しだ。



 南辺は和歌山県にある小さな村で暮らしていた。雪が積もるような山奥ではない、山の麓にある村だ。山から流れてくる豊富な水によって農耕も盛んだがそれ以上に竹細工が盛んだった。

 南辺の実家も昔は竹細工だけで生計を立てていたが今はそれだけでは成り立たずに農業が主な仕事となっていた。生まれ育った土地だが南辺は親の農業を継がずに都会へ出ていった。2年ほど前に定年退職して帰ってきたのだ。


 南辺は結婚していたが20年前に妻と子供を事故で亡くしている。両親は去年相次いで亡くなった。2人とも苦しみもせずに穏やかな顔をして旅立っていった。家を出て勝手をやって来たが最後に両親を看取ることが出来たのがせめてもの親孝行だと自身に言い聞かせた。それから1人で暮らしてきた。


 生まれ育った村なので昔から住んでいる村人はみんな顔見知りである。35年ほど離れていたが盆や正月には家族を連れて帰ってきていたし両親が健在だった2年の内に昔のように溶け込んで今ではすっかり都会っ気が抜けて気の良い農家のお爺さんというような感じになっていた。


 村の真ん中に小山がある。頂上まで山道を歩いて20分ほどといった小さな山だ。大昔には小さな寺があったそうだが南辺が物心ついた頃には寺はなくなり社があるだけだ。それでも村人たちの墓所となっているので大切に管理されていた。その小さな山を囲むように家々や田畑が広がっているのが南辺の住む村だ。


 南辺が子供の頃は様々な木々が生えていて虫取りや栗拾いなどで遊び回っていた山だがどうしたわけか今では竹しか生えていない竹林に変わっていた。南辺の村も他と同様に過疎化が進んでいて山を管理する者が少なくなって気が付いたら竹だらけになっていたのだという、だが悪いことばかりではない、良質な筍が採れるのだ。噂を聞いた町の料亭が筍を採る代わりに山を管理するという事で話が決まり今では料亭が年に数回業者をよこして竹林を管理してくれるので村は山の上にある墓所を掃除するだけで済んでいる。



 気ままな一人暮らしを送っていたある日、田畑に向かっていた南辺は4つ離れた白滝さんの庭に竹が生えているのを見つける。


「あんな所に竹が? この辺りは竹なんて生えてないんだがな……白滝さんが植えたのかな? 」


 山とは離れた場所である。近くには竹など生えていない、一本だけ生えてくるなど有り得ないのだ。南辺はおかしな事もあると思いながら通り過ぎた。


 3日ほどして白滝家の前を通った南辺が足を止める。


「おお、花が咲いとる」


 15メートル以上に伸びた竹が白い花を咲かせていた。


「花だ……竹の花だ。凄い、凄いぞ」


 南辺が驚くのも無理はない、竹は滅多に花を付けない、100年に一度と言われるほどに花を咲かせないのだ。竹が豊富にある村でも見たことがない、初めて見たのだ。


「どうした尚雅? 」


 驚いている南辺に老人が声を掛けてきた。この家の家長である白滝源吾さんだ。


「白滝さん見てください、竹に花が咲いとるよ」

「ああ、そうじゃな、咲いとるのぅ」


 興奮している南辺に白滝が笑顔で頷いた。

 白滝は父の親友だ。父が亡くなってから農業のことをあれこれ指導してくれる。南辺にとって先生のような存在である。


「初めて見ましたよ…… 」

「儂も初めてじゃ、じゃが良い花じゃぞ」


 笑顔で話す白滝の隣で南辺が顔を顰める。


「良い花って? 竹の花は不吉なんじゃ…… 」


 竹は花を咲かせた後で枯れる。竹林の竹が一斉に花を咲かせて直ぐに枯れて辺り一面が死んだ森となる。この様な事から不吉な前兆と言われることが多いのだ。


「そうじゃな、昔から言われとるのぅ、じゃがこの竹は違う、この竹は神様が宿っとるんじゃ」


 胸を張ってこたえる白滝の横で南辺が首を傾げた。


「神様? どういう事ですか? 」

「この竹からな天女様が現われるんじゃ」


 ニッと笑いながら白滝が話をしてくれた。

 何でも毎晩夢に美女が現われて世話をしてくれるのだという、酒を飲み歌い踊る。まるで天国だと思っていた。ある夜、ふと目が覚めた白滝は庭の竹が白く光っているのを見た。

 何事かと眺めていると光の中から美女が現われてニッコリと笑いかけた。毎晩夢に出てくる美女だと直ぐに分かった。


「あれは天女様に違いない、かぐや姫の話を知っとるじゃろ、あれじゃ、この竹には天女様が入っとるんじゃ」


 嬉しそうに話す白滝を南辺が見つめる。


「天女様ですか……私も会ってみたいですね」

「はははははっ、尚雅にはまだ早いかも知れんのぅ」

「えぇ~っ、何でですか? 」


 惜しそうに叫ぶ南辺に構わず白滝は笑いながら家へと入っていった。


「天女様か……白滝さんボケてきたかな」


 花を咲かせた竹を見上げて呟いた。花は珍しいが普通の竹にしか見えない。


「夢でも良いな、天女様が出てくるなら楽しそうだ」


 そんな事は有り得ない、只の夢だと思いながら南辺は帰っていった。


 翌日、白滝さんが亡くなった。南辺が通夜に顔を出すと竹が枯れていた。白滝の穏やかな死顔に家人も天寿だと言っていた。



 暫くして2つ離れた家に見舞いに行くと庭に筍が生えているのを見つける。


「筍だ……昨日は無かったよな」


 農家の家らしく大きな母屋、その縁側の前、雑草の間から60センチくらいの太い筍が頭を出していた。


「どっから生えてきたんだ? 」


 不思議そうに見ていると母屋の奥から声が聞こえてきた。


「尚雅か? 早う入ってこいや」


 幼馴染みで兄と慕っていた坂田玄治さかたげんじ兄さんの家だ。

 4つ年上で中学生になるまで毎日のように遊んでもらった兄のような存在だ。その玄治兄さんが3週間ほど前に風呂場で倒れて脳梗塞で入院して1週間前に戻ってきてから左足が利かなくなり畑仕事も出来ずにずっと家に居るので南辺は毎日顔を出して話し相手になっていたのだ。


「おぅ、玄兄、遊びに来たぞ」


 南辺は靴を脱ぐと縁側から入っていく、


「よう来たの、まぁ酒でも飲んで将棋でもしようや」


 待ちかねていた様に玄治兄さんが左足を引き摺って縁側のある部屋にやって来た。


「今日は負けんからな」


 傾いた日が差し込む夕方、南辺は玄治兄さんと楽しい時を過ごした。

 酒を飲み、将棋が終る頃には辺りは薄暗くなっていた。


「じゃあ、帰るわ」

「なんじゃ、飯も食ってけ」

「毎日じゃ悪いけん、今日は帰るわ」


 南辺は入って来たように縁側から帰っていく、ふと見ると筍が大きくなっていた。先程見た時は60センチくらいだったのが80センチくらいに伸びている。


「玄兄、これ何じゃ? この筍」


 振り返って訊くと玄治兄さんがニヤッと笑った。


「それか、何か知らんがこの前生えてきたんじゃ、近くに竹林など無いのに珍しいから放ってある。今更採っても食えんからな」

「ふ~ん、珍しいこともあるもんだな」


 白滝さんの話しを思い出したが玄治兄さんは別段変わった様子は無い、変な事を言うのも何だと南辺は帰っていった。



 翌日、畑仕事を終えた南辺がいつものように玄治兄さんを訪ねた。


「うわっ! 何だこれ…… 」


 南辺が驚くのも無理はない筍は3メートル近くに伸びていた。半分竹といった状態だ。


「おう、来たか尚雅」


 叫び声が聞こえたのか奥から玄治兄さんが左足を引き摺ってやってきた。


「凄い伸びてるな、こんなに伸びるって珍しいよね」

「ああ、それな……うん、まぁそうだな」


 感心するような南辺の前で玄治兄さんは歯切れが悪い。


「何でこんな所に生えるんだ? おかしいよね」


 南辺が玄治兄さんを見つめた。

 近くに竹林などない、山から70メートルは離れている。ぽつんと1つだけ筍が生えるなど有り得ないのだ。


「それなんだが…… 」


 怪訝に顔を顰める南辺を窺うように玄治兄さんが話を始めた。

 何でも毎晩夢に女神様が現われるのだという、この世のものとは思えない美しい女神様が現われて世話をしてくれるのだという、酒を飲み歌い踊る。それだけなく寝屋も共にするのだという、それが今まで感じた事のない気持ち良さなのだという。


「それでな、昨日の夜見たんだ。小便にいった帰りな、庭を見たら筍が光ってたんだ。ビビって見てると光の中から女神様が出てきたんだ。夢に出てくる女神様だ」


 恍惚とした表情で筍を指差しながら玄治兄さんが続ける。


「あの筍は神様だ。足を痛めてふて腐れてる俺を慰めに来てくれたんだ。俺はそう思ってるんだ。あの夢は天国に違いない」


 楽しげに話す玄治兄さんの前で南辺の顔が青くなっていく、


「白滝さんと同じだ…… 」


 白滝家の庭に生えていた竹を思い出して南辺は玄治兄さんに話して聞かせた。


「あの竹はヤバいんだ。切った方がいい…… 」


 南辺の忠告を玄治兄さんの怒鳴り声が遮った。


「何言ってんだ! 切ったりしたら絶交だぞ、あれは神様だ。切ったりしたら怒るからな」

「でも玄兄…… 」

「でももへったくれもあるか!! 切ったら本気で怒るからな」


 怒鳴り散らす玄治兄さんを見て南辺はそれ以上何も言わずに退散した。



 心配になった南辺は夕方だけでなく時間の許す限り日に何度も玄治兄さんを訪ねた。

 行く度に竹はぐんぐん伸びていた。2時間ほどしか経っていないのに1メートルほど伸びていることもある。いくら成長速度が早いといっても異常だ。

 だが南辺の心配は杞憂に終る。玄治兄さんは左足の痺れも無くなり畑仕事も出来るようになっていた。玄治兄さん曰く夢の中で女神様が治してくれたのだと言う、元気になった玄治兄さんを見て南辺も竹のことなどすっかり忘れていた。



 筍を見つけてから1週間が経つ、畑仕事を終えた南辺が玄治兄さんの家の前を通ると竹が花を咲かせていた。


「花だ…… 」


 心配になった南辺は直ぐに訪ねる。


「どうした尚雅? 」


 玄治兄さんは庭で農具の手入れをしていた。


「いや……竹に花が咲いてるから珍しいって思って」

「おぅ、あれか? 珍しいよな、まぁ神様の竹だからな、そんな事もあるさ」


 不安気な南辺の前で玄治兄さんは笑い飛ばすようにこたえた。


「心配するなって、白滝さんとは違うからな、昨日病院行って検査してもらったら足も大丈夫だしどこも異常ないってさ、医者のお墨付きだぞ」

「そうだな、玄兄は殺しても死にそうにないな」

「あははははっ、そういう事だ。白滝さんだっていい歳だったからな、竹が花付けたのと死んだのは偶然だ」

「そうだな、うちの親父より2つ年上だからな白滝さん」


 脳梗塞の後遺症で引き摺っていた左足はすっかり治っている。玄治兄さんの元気な様子に南辺は安心して帰っていった。



 翌日、幼馴染みで兄と慕っていた坂田玄治さかたげんじが亡くなる。脳梗塞が再発したらしい、朝起きてこないので呼びに行ったら布団の中で冷たくなっていたらしい、安らかな死顔だった。苦しみ無く旅立ったのが救いだと家人が言っていた。


「竹が…… 」


 葬式の手伝いをして帰り、ふと見ると竹が枯れていた。


「やっぱりおかしい……1週間で伸びて枯れるなんて聞いたこともないぞ、やっぱりあの竹が玄兄を死なせたんじゃ………… 」


 顔を強張らせて南辺が呟いた。

 1週間ほどで大きくなり花を咲かせて枯れていく竹など見たこともない。

 普通は筍から竹へ生長するのに50日~60日は掛かる。年輪がないため1年目で成長がストップして2年目からは成長することはない、だがそれは地面の上だけの話だ。地下茎を伸ばして地面の下では活発に成長しているのだ。


「そう言えば…… 」


 その場から逃げるように歩き出した南辺が立ち止まってくるっと振り返る。


親父おやじが死んだときも竹が生えてた……花が咲いたかは見なかったけど葬式が終った後で枯れてたのは見た」


 玄治兄さんの家の庭で枯れている竹を見ながら去年のことを思い出す。父が亡くなったときに庭で竹が伸びていた。風邪を拗らせたのか父が寝込んでごたごたしていて庭に生えた竹のことなど気にもしていなかった。


親父おやじも天女様とか言ってたぞ」


 母が先に亡くなり、追うように3ヶ月ほどして父も亡くなったのだが、寝込んでいた父が天女様が迎えに来たと言っていたのを思い出す。母が亡くなってから急に老け込んで認知症も発症して妄想でもしているのだと思っていた。


「やっぱあの竹だ。あの竹が殺したんだ」


 昨日まで青々としていた竹が黄色く枯れて長い卒塔婆のように見えた。


「あの竹が親父おやじや玄兄を殺したんだ」


 怖くなった南辺は逃げるように帰っていった。



 数日後、自宅で野菜の苗を育てていた南辺は雑草が生えている庭の隅に筍を見つけた。


「たっ、筍だ…… 」


 震える声を出すと直ぐにシャベルを持ってきた。


「竹の化け物め! 殺されてたまるか」


 筍の根元にシャベルを突き刺そうとして手を止めた。

 白滝さんや玄治兄さん、父の話を思い出して直ぐに抜こうかとも思ったが天女や女神が夢に現われるというのが気になった。


「化け物かどうか確かめてやる」


 南辺は筍を掘り起こすのを止めた。逃げるわけでもないし何時でも切り倒せると考えたのだ。



 3日経ったが何も起きない、天女や女神の夢も見ない、只、筍はぐんぐん伸びて6メートル程になっていた。


 その日の夜、南辺が眠っていると誰かに身体を揺さぶられた。


「うぅ…… 」


 眠りの邪魔をするなと言うように寝返りを打つ南辺の耳に女の声が聞こえてくる。


『ねぇ貴方、ねぇねぇ貴方…… 』


 甘えるような声を出しながら誰かが身体を揺すってくる。


「うぅぅ……眩しいなぁ…… 」


 擦りながら目を開けた南辺は眩しさに顔を顰める。


『ねぇ貴方、ねぇねぇ貴方ぁ~~ 』


 女の声がハッキリと聞こえて南辺がバッと目を開く、


『あはっ、やっと起きた』


 寝ている南辺を女の顔が覗き込んでいた。


「うわっ! 」


 驚いた南辺がバッと上半身を起す。


『あんっ、貴方ったらぁ~~ 』


 甘い声を出しながら女が抱き付いてきた。


「なっ、何が……誰だお前! 」


 南辺が慌てて女を引き離す。


『うふふっ、私は貴方の妻ですよ、さぁ飲んでください』


 妖しく微笑みながら女が杯を差し出した。


「妻? 何を言って……ここは何処だ? 」


 杯を受け取りながら南辺が辺りを見回した。

 何処かの山の上らしい、眩しい太陽の下、青々とした草木が生え、花が咲き乱れている。

 女は1人ではなかった。桜だろうか? 桃色の花の咲く下で女たちが踊っている。


「何処だここは? 」

『さぁさぁ、飲んでくださいな』


 戸惑う南辺に女が酌をする。


「あんたは誰だ? 」


 南辺が改めて傍にいる女を見た。

 時代劇に出てくる姫様のような着物を着ている。袖から伸びた手は透き通るように白く美しい肌だ。胸元が大きく膨らんでいる。着物の上からでも分かるような肉付きの良い体にすっと通った鼻筋をした顔が付いている。美人という言葉で簡単に表わせないような麗しい女性だ。


『私は貴方の妻ですよ、さぁさぁ飲んでくださいな』


 女の言うがままに南辺は杯に注がれた酒を飲み干した。


「旨い! 」


 仄かに青竹のような香りがする旨い酒だ。


『さぁさぁ料理もありますよ』


 傍に居た美女が手を叩くと向こうの桜の下で踊っていた女たちが料理を持ってやって来た。


『さぁさぁ貴方、飲んでくださいな、食べてくださいな』


 女たちが勧めるままに南辺は酒や御馳走を堪能した。

 思考力が落ちているのか、ここが何処で女が誰なのか気にならなくなっていた。


『さぁさぁ飲んでくださいな、食べてくださいな、踊りを楽しんでくださいな』


 酒を飲み歌い踊る。美女は1人ではない、7人ほどが居たが世話をしてくれるのは初めに声を掛けてきた1人だけだ。甲斐甲斐しく世話をしてくれる。それだけではない寝屋も共にした。


『さぁさぁ貴方、可愛がってくださいな、愛してくださいな』


 女に招かれるまま南辺は屋敷に入って抱き合った。

 いつの間に屋敷があったのかさえ分からない、何も考えることなく女を抱いた。今まで感じた事の無い気持ち良さだった。



 雀や烏の鳴き声に南辺が目を覚ました。


「うぅぅ……朝か………… 」


 窓の外は既に明るくなっていた。


「女は? 」


 思い出してガバッと上半身を起した。


「俺の部屋だ……夢か………… 」


 部屋を見回しながら思い出す。


「あれが玄兄や白滝さんの言っていた天女や女神か…… 」


 聞いた話しと先程見た夢、双方思い出しながら考える。


「酒は旨いし女は気持ち良かった……あれが竹の化け物か」


 険しい表情で呟くが怯えてはいない、寧ろ口元は嬉しそうに歪んでいた。



 それから毎晩のように夢に美女が現われる。白滝さんや玄治兄さんがまるで天国だと楽しげに話していた意味が分かった。南辺は夜が来るのが待ち遠しくなる。

 庭に生えた竹もぐんぐん大きくなる。南辺はこのまま死んでもいいと思っていたがある日、ふとこの竹を切ったらどうなるのだろうと興味が出てきた。


「今日で7日目だ。白滝さんは知らないが玄兄は確か筍を見つけて9日目に死んだな」


 大きく育った竹を見ながら考える。

 南辺が玄治兄さんの庭で筍を見つけてから7日目に坂田玄治は亡くなった。南辺が見つける2日前から筍は生えてきたらしい、つまり筍が生えて竹に育って8日目に花が咲き、翌日に玄治兄さんが死んで竹が枯れたのだ。


「筍を見つけて7日目だ。明日花が咲いて、次の9日目に死ぬのか……まだダメだな、親父おやじたちの墓の世話もあるし、永代供養してもらえるようにしてからじゃないと死ねないな」


 竹を切れば死ななくても済むのではないのかと考えた南辺はその日の昼間、竹を切って根っこを掘り起こした。68歳の南辺には重労働で夕方まで掛かった。



 その日の夜、夢に美女が出てきて啜り泣いた。


『あぁぁ貴方……貴方は酷い人…………こんなにも愛しているのに……酷い人』


 いつもは7人ほど出てくるのに今日は1人だ。


『もう少しだったのに……もう少しで私のものになったのに…………酷い人、あんなにも愛し合ったのに…………ああぁ……酷い人』


 女は恨めしげに南辺を罵りながら消えていった。


「うわっ! うわぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら南辺が目を覚ます。既に日が昇って朝になっていた。


「ゆっ、夢だ……おっかねぇ…………恨めしそうな顔は怖かったぞ」


 汗びっしょりで起き上がると庭を見る。竹が生えていないのを確認して安堵した。


「今日で8日目、明日に何も無ければ大丈夫だ」


 怯えながら2日を過ごすが何も起きない、それから1週間経っても元気だ。やはりあの竹が死と関係あるのだと思った。



 それから数日して畑仕事をしていると仙田せんだが話し掛けてきた。

 仙田は小学校の時のクラスメイトだ。家も近く中学に入るまでは玄治兄さんたちのグループで一緒によく遊んだ友人である。


「ナンベ、ナスの苗余っとるからやるぞ」


 仙田の押してきた猫車に載っている茄子の苗を見て南辺が顔を顰めた。ナンベとは南辺の渾名だ。


「ナスかぁ~、あんま好きじゃないからな」

「そうか……玄兄が生きとったらやったんだけどな」

「あぁ……玄兄、ナスが好きだったからな…… 」


 しんみりした雰囲気を嫌ったのか南辺が戯けるように続けた。


「じゃあ貰っとくわ、ナスが出来たら玄兄の墓に持って行ってやる」

「それがいい、墓をナスだらけにしてやれ」

「あはははっ、玄兄が化けて出てくるぞ」


 乗ってきた仙田と一緒に声を出して笑った。

 大声で笑った後、仙田がボソッと呟く、


「最近良くないな……白滝の爺さんに続いて玄兄だろ」


 仙田の神妙な顔を南辺が覗き込む、


「そうだな……どうした顔色悪いぞ」

「それがな、裕史が寝込んどるんだ。風邪が中々治らんでな」


 裕史とは仙田の孫だ。中学生になったばかりだ。


「そっか……裕史くん誕生日近かったな? 」


 思い出して訊く南辺の前で仙田が苦笑いしながら口を開く、


「ああ、来月だ。新しいスマホが欲しいってねだられてるぞ」

「んじゃ、見舞いも兼ねて誕生日プレゼント持って行くか、1万くらいでいいよな」


 南辺が財布の入った後ろポケットをポンッと叩いた。


「気を使わせて悪いな」


 済まなさそうにこくっと頷く仙田の肩を南辺がポンポン叩いた。


「これくらいで気なんか使うかよ、病は気からって言うだろ? 新しいスマホ買ってやるって言ったら直ぐに元気になるぞ」

「あははははっ、そうだな、ちょっと高いけど他に金を使うことも無いしな」


 普段の調子に戻ると仙田が口の前でクイッと杯を仰ぐ真似をする。


「じゃあ、序でに一杯やっていってくれ」

「おぅ、いいね、久し振りに飲むか」


 夕方、仕事を終えて一緒に帰る。



 畑から見て仙田の家は南辺の家の向こう、50メートルほど離れた所にある。


「一寸待っててくれ、裕史くんの誕生日プレゼント持ってくる」


 南辺は一旦家に戻って収穫した野菜や農具などを置いて一万円札を入れた白い封筒を持って出てきた。


「1週間ほど前に見たけど裕史くん背が伸びたな」

「ああ、今が一番成長する時期だからな」


 駄弁りながら仙田の家の敷地へと入っていく、


「変わっとらんな……おいっ! 」


 庭を見回していた南辺が先を歩く仙田を呼んだ。


「あの竹は何だ? 何時から生えてる? 」


 庭の隅、ツツジの木の横に青い竹が伸びていた。


「あれか? 珍しいだろ、何か知らんが4日ほど前に筍が生えてきてな、気が付いたときは大きくなってたから放って置いた」


 楽しげに話す仙田の横で南辺が強張った顔をして声を大きくする。


「今直ぐに切れ、あれは良くない竹だ」

「直ぐにって、せっかく生えたんだしデカくなったら切って竹細工でも作るわ」


 笑顔の仙田を南辺が怒鳴りつけた。


「ダメだ! 直ぐに切れ!! 」

「何怒ってんだよ、只の竹だぞ、それにあれは裕史が大事にしてるんだ」


 怪訝に顔を顰める仙田の話しを聞いて南辺が血相を変えた。


「裕史くんが? 」

「筍を見つけたのも裕史だ。邪魔だから掘ろうとしたんだが俺の竹だからって……喜んどるから放って置いたんだ」

「裕史くんの部屋は何処だ? 」


 挨拶もなしに南辺がドカドカと家へと入っていく、


「裕史くん! 」


 上から見るとL字を横にしたような平屋の大きな屋敷のL字の曲がった短い方の奥に裕史の部屋があった。窓から竹が見える位置である。


「南辺さん……こんにちは」


 布団に横になったまま裕史が挨拶をした。その顔が赤い、熱がある様子だ。


「寝たままでいいよ、来月誕生日だったね、プレゼント持ってきたんだ」

「ありがとうございます」


 枕元に一万円札の入った白い封筒を置くと裕史が首をこくっと動かして礼を言った。


「それで話しを聞きたいんだけど……あの竹の事だけど」


 裕史の機嫌が良くなったのを見て南辺が話を切り出す。


「竹ですか? 竹がどうかしたんですか」


 思い当たる節があるのか裕史が顔を強張らせる。


「あの竹は只の竹じゃない化け物だ。裕史くんも夢に見るんだろ? 天女か女神の様な女が出てくる夢を…… 」


 南辺が話しながら裕史の顔を窺うと熱で赤くなっている顔色がさっと変わるのが分かった。


「見てるんだね、女が出てくる夢を」


 無言で頷いた裕史を見て南辺が続ける。


「あれは悪い夢なんだ。あの竹は化け物だ。白滝さんや玄治兄さんの家にも竹が生えたんだ。2人とも天女や女神の夢を見たって言って…… 」


 言葉を詰まらせ少し間を開けてから南辺が続ける。


「女の夢を見るようになってから2人は死んだ。だからあの竹は切った方がいい、直ぐに切るんだ」


 寝ていた裕史がガバッと上半身を起した。


「そんな事ない! お姉さんは優しい人だ」

「騙されるな、ああやって惑わせて命を取るんだ。あの竹は化け物だ」

「変な事言わないでください、お姉さんの悪口を言わないでください」

「裕史くんは若いから分かってないんだ。これから幾らでも出会いはある。だから夢のことは忘れて…… 」


 叱り付けるが逆効果だ。裕史はムキになって怒り声を出す。


「変な事言わないでください、夢なんて見てません! 」

「切るんだ! あの竹は良くないんだ」


 南辺も心配の余り声を大きくした。

 2人の間に仙田が入ってくる。


「まぁまぁナンベ、その辺にしといてくれ、興奮して熱が出ると困るから」

「ああ……済まん」


 相手は病人だ。仙田の仲裁もあり大人げないと思ったのか南辺は悪かったというように顔の前で手を立てて謝った。

 仙田が裕史に向き直る。


「裕史も止めなさい、見舞いに来てくれたんだぞ」

「 ……ごめんなさい」


 裕史はふて腐れた様子で布団の中に潜り込んだ。

 仙田が苦笑いをしながら南辺の背を叩く、


「飲もうぜ」

「帰る……悪いけど帰らせて貰うよ」


 作り笑いをすると南辺は帰っていった。



 翌日、気になった南辺は朝の畑仕事を終えた帰りに仙田の家を覗いた。


「はっ、花だ…… 」


 震える声を出して見つめる先で竹が白い花を付けていた。


「きっ、切らないと……裕史くんが………… 」


 南辺は慌てて自分の家に戻ると鋸とシャベルを持って仙田の家に引き返してきた。


「切らないと…… 」

「南辺さん、父に用ですか? 」


 ぶつぶつと呟きながら敷地に入ってきた南辺に農具の手入れをしていた仙田の息子である裕次が声を掛けた。


「あの竹は化け物だ。切るんだ……切らないとダメだ」


 裕次を無視して南辺は庭の奥、ツツジの木が生えている辺りへと向かって行く、


「この竹さえ切れば…… 」


 花を咲かせた竹を切ろうとする南辺を裕次が慌てて止める。


「南辺さん止めてください……父さんを呼んでこい」


 南辺の腕を引っ張って止めながら裕次が叫ぶと近くで苗の手入れをしていた妻が慌てて家の奥へと入っていった。


「まだ間に合う、今切らないと大変なことになる」

「止めてください」


 掴んでいる手を振り解こうと暴れていた南辺が真顔で裕次を見つめた。


「裕史くんを死なせたいのか? 」

「ちょっ、何言ってんですか? 」


 突然のことに南辺の腕を掴む裕次の手が緩んだ。

 裕次の手を振り解いて南辺が竹に鋸を当てる。


「この竹を切らないと裕史くんが死ぬぞ、この竹は化け物なんだ」

「ナンベ何やってる! 」


 鋸を引こうとした南辺を仙田が一喝した。

 ビクッと動きを止めた南辺から裕次が鋸を奪い取る。


「あの竹を切らせてくれ、あれは良くないものだ」


 鋸を取り返そうと裕次に掴み掛かる南辺の前に仙田がやってくる。


「いい加減にしろ、幾ら友達でも怒るぞ」

「切らせてくれ! あれは……化け物なんだ………… 」

「ナンベ! もう帰れ!! 」


 仙田と息子の裕次に引き摺られるようにして南辺は追い出された。


「ダメだ……あの竹は…………ダメなんだよ…… 」


 何度か敷地に入って竹を切ろうとしたが見張っていた仙田と裕次に怒鳴られて南辺は仕方なく家へと帰った。



 翌日、裕史が死んだ。仙田の家の者が孫の裕史が死ぬ前に南辺が気持ちの悪いことを言っていたと言い触らして村に話しが広まり村人が南辺を避けるようになる。

 めっきり村人たちとの付き合いが無くなったが南辺は別に気にしなかった。都会で暮らしていたときと同じだ。他人に干渉しない、自分もされない、それでいいと思った。



 暫くして南辺の庭にまた筍が生えてきた。

 南辺は放って置いた。もう歳だし、あの美女たちに招かれるなら死んでもいいと思っていた。気にしないと強がっていたが村人たちの態度に南辺は参っていたのだ。

 だが筍が竹になっても夢に美女は現われない、竹はぐんぐん大きくなっていく、この前切ったので美女は出てこないのかと南辺は落ち込んだ。


「もう6日目だ。それなのに……頼む、私も連れて行ってくれ」


 大きく育った竹に頼むが9日経っても夢に女が現われることはもちろん、竹が花を咲かせることもなかった。


「一度切ったから、もう出てきてくれないのか…… 」


 諦めていた南辺の耳に噂が飛び込んできた。

 何でも山に生えていた竹が一斉に花を付けるとそのまま枯れてしまったのだ。

 確認に行った南辺も驚いた。村の真ん中にある小山を覆うように生えていた竹が全て枯れていた。


「なんて事だ…… 」


 普段は見えない山の頂上にある墓地が見えていた。青々としていた竹が黄色く立ち枯れしてまるで卒塔婆が山全体に並んでいるようだ。



 村人たちは不吉なことが起るのではないかと心配していた。

 その心配が的中する。竹山の管理をしていた料亭が潰れて筍の買い手がいなくなり、山の管理が出来なくなる。


「南辺さんも頼んだよ、仙田さんのことを悪く言ってたってのは無かったことにしてあげるからさ」


 竹の枯れた山の管理は大変だが村人総出ですることに決まり村八分のようになっていた南辺にも連絡が回ってきた。

 村人が帰った後で南辺が何とも言えない複雑な表情で庭に生えた竹を見上げた。


「お前が枯れずに山のが全部枯れるなんてな…… 」


 一本だけで伸びている竹は青々と茂っている。


「山も死んだし、この辺りに他に竹は無いからな」


 この竹が枯れたら何か大変なことが起こるのではと漠然とした不安を抱いた南辺は懸命に竹の世話をした。



 2週間が経った。

 雑草を刈ったり、畑から肥えた土を持ってきて竹の根元の土と入れ替えたり、世話をする南辺にこたえるかのように竹は15メートルほどに大きく育っていた。


 夜、眠っていた南辺は身体を揺すられて目を覚ます。


『ねぇねぇ貴方、ねぇねぇ貴方…… 』

「うぅ……誰だぁ………… 」


 寝返りを打って開けた目に女の姿が映った。お姫様が着るような着物を着ている美女だ。


「おぉぉ……来てくれたのか」


 ばっと上半身を起した南辺に女が寄り掛かる。


『はい、来ましたよ、私は貴方の妻ですから』

「そうか……そうか……私も連れて行ってくれるのか? 」


 嬉しさに涙を目に溜める南辺を見て女がにんまりと笑う、


『ふふふふっ、まだときではありません、今日は礼をしに来たのです』

「礼? そんなものはどうでもいい…… 」


 南辺の口を女が指で押さえて止める。


『貴方の御陰で枯れずに済みました。貴方が世話をしてくれたので私は生き延びることが出来ました。ありがとうございます』


 南辺に寄り掛かったまま礼を言うと女が手をパチンと叩いた。

 何処に居たのか10人ほどの女が現われて御馳走を運んできた。


『さぁさぁ貴方、飲んでくださいな、食べてくださいな、さぁさぁ貴方』


 宴会が始まった。料理を運んできた女たちが踊り、側に寄りそう女が酌をしながら南辺を褒めそやす。


『さぁさぁ貴方、飲んでくださいな、食べてくださいな、貴方は私たちの恩人です。遠慮などいりません、さぁさぁ貴方……私の貴方』


 飲み食いして酔っ払った南辺を女が屋敷に誘う、


『さぁさぁ貴方、可愛がってくださいな、愛してくださいな』


 女と寝屋を共にして南辺はいつの間にか眠りに落ちていた。



 雀や烏の鳴き声で南辺が目を覚ます。


「うぅ……ぅうぅ………… 」


 窓から日が差し込んでいる。朝と言うより昼前だ。


「夢だったのか…… 」


 ガバッと起きると南辺は庭を見た。


「ああぁ…………何で……何で連れて行ってくれないんだ」


 あれ程青々としていた竹が枯れていた。


「何で…… 」


 落ち込んでいると玄関の方から村人が歩いてきた。


「南辺さん、こっちに居たんですか? 玄関で呼んだんですよ」


 憔悴した顔で見つめる南辺の前で村人が笑顔で続ける。


「筍が生えてきたんですよ、山は死んでなかったんですよ」

「山に筍が………… 」


 南辺は取る物も取り敢えず山を見に行った。


「おお……筍が、竹が生えている」


 荒廃していた山に筍が幾つも生えていた。


「枯れずに済んだか……この事を言っていたんだ」


 夢で美女が言っていた礼の言葉が頭に浮んだ。

 その日から南辺は取り憑かれたように竹のことを考えるようになる。



 毎日、山に行っては連れて行ってくれと頼んだ。両親が亡くなり兄のように慕っていた玄治兄さんも居ない、許して貰ったとはいえ仙田の一件で村の中では浮いた存在となっていた。居辛い村でこのまま暮らすより夢の中の美女と一緒に暮らせるのならその方がいいと考えた。


「頼むから連れて行ってくれ……私もそっちに行きたいんだ」


 日に何度も山にいくと生えている竹に頼むがあの日以来、南辺の庭に筍が生えることも、美女の夢も見ることはなかった。

 山の筍はぐんぐんと成長してまだ疎らだが竹林らしくなってきた。それを見て村人たちも安堵した。



 ある日、調理中に鍋を火に掛けているのを忘れて山に出掛けてぼや騒ぎを起してしまう、竹が気になって仕方なかったのだ。

 同じような事が何度もあり近所の人が役所へ相談に行く、医者に診てもらうと認知症だと診断された。身寄りの無かった南辺は役所の勧めで磯山病院へと入ることになった。

 これが南辺尚雅みなみべなおまささんが教えてくれた話しだ。



 話し終えた南辺が哲也をじっと見つめる。


「だからな、私は認知症なんかじゃないんだ。竹が……竹が気になって仕方ないんだ。それで他のものが上の空になってしまうんだよ」

「竹ですか…… 」


 哲也が振り返って格子の入った窓を見た。窓の外、C病棟の裏には竹が生えてきている。


「あの竹が化け物なんですか? 」


 窓を見つめたまま訊いた哲也の向かいで南辺が感慨深い表情で口を開く、


「化け物か……私も初めは化け物だと思っていたよ、昔話でもよくあるだろ? 狐や狸が美女に化けて人を誑かす話しが、それと同じように竹が人を化かして命を奪っていくと思っていた。けどね、今は違うと思っている」


 窓を見つめていた哲也がバッと南辺に振り向いた。


「違うって? 庭に竹が生えた人はみんな死んでますよね」


 哲也を見つめて南辺が優しい顔で頷いた。


「うん、でもね、それは結果だよ、私の親父おやじも白滝さんもいい歳だったし、玄兄は脳梗塞の再発だ。脳梗塞は再発しやすい病気らしいじゃないか、仙田の孫の裕史くんも風邪を拗らせて寝込んでいた。竹が命を奪ったんじゃなくて死に逝く人の前に現われたんじゃないかと思ってるんだ。迎えに来てくれたんだよ」

「迎えですか…… 」


 微笑む南辺を見て哲也は竹を悪く言えなくなる。


「そうだよ、天女様や女神様のような美しい人が迎えに来てくれるんだ。毎晩世話をしてくれて、あの幸せな気持ちのまま逝けるんだよ、親父も白滝さんも玄兄もみんな幸せそうな顔だったよ」

「天女様や女神様か……ひょっとして南辺さんの夢に出てくるんですか? 」


 幸せそうな顔で話す南辺の向かいで少し考えてから哲也が訊いた。


「うん、出てくるよ、やっと出てきてくれるようになったんだ」


 にんまりと笑う南辺の前で哲也が身を乗り出す。


「マジっすか? 」

「本当だよ、あの竹が迎えに来てくれたんだよ」

「じゃあ、南辺さんは………… 」


 片手を着いてテーブルの上に身を乗り出したまま哲也がバッと振り向いて窓を見つめた。


「あの竹を切れば死ななくても済むんですよね? 」


 テーブルの上にある哲也の手を南辺が握り締めた。


「ダメだよ哲也くん、それは止めてくれ」

「だって南辺さん」


 前に向き直った哲也を南辺が真剣な表情で見つめる。


「ずっと待っていたんだよ、初めに生えた竹を切ったあの日から……あの日からずっと後悔してたんだ。哲也くんに話したのは竹を切らせるためじゃない、竹を守ってくれた御礼に話したんだよ」

「でも僕は南辺さんが死ぬなんて嫌ですから」


 不安を浮かべる哲也の向かいで南辺が優しい顔で頷いてから続ける。


「もう充分だ。私がここに入院したのは自分の意思じゃない、民生委員の勧めで入ったんだ。身寄りが居ないんだよ、私には帰る場所なんてもう無いんだよ、ここを出ても行くところは同じような施設だ。もっと悪いところかも知れない……親父も母さんも妻も子も向こうで待ってる。玄兄も友達も…………村のみんなが向こうで待っているんだ」

「南辺さん…… 」


 言葉の出てこない哲也の肩を南辺がポンポン叩いた。


「だから黙って行かせてくれないか? 哲也くんには本当に感謝している」


 目に涙を溜めた哲也が絞り出すような声を出す。


「それでも……それでも僕は嫌です。助けられるかも知れない人を助けないなんて僕は嫌です。でも僕には南辺さんを止める権利なんて無い」


 南辺が立ち上がって哲也を抱き締めた。


「ありがとう哲也くん、話してよかった。本当の事を話したのは哲也くんだけだ。先生にも他の人にも竹から美女が出てくる夢を見て気になって仕方がないとしか話していない、どうせ話しても信じて貰えないから、病気だとしか思われていないからね、初めから全て話したのは哲也くんだけだ。竹を守ってくれた哲也くんなら信じて貰えると思ったからね、誰かに話したかったんだ……信じて貰える誰かに」

「信じますよ南辺さん、僕は信じます……だってあんな所に竹が生えるわけないから、あんなに早く大きくなるわけがないから、僕は幽霊とか信じてますから…… 」


 泣き出しそうな声で話す哲也の背をポンポン叩いてから南辺が離れた。


「少し昼寝をするよ、哲也くんは警備員の仕事があるだろ? 」


 話しは終わりだと言うように南辺はベッドに横たわった。


「昼寝でも夢に出てきてくれるんだよ、飲めや歌えの大騒ぎさ、美女が世話をしてくれるんだよ、天国だ。寝るのがこんなにも楽しみだとは思わなかったよ」


 昼夜関係なく、美女が夢に出てきて飲めや歌えの大騒ぎの宴会をしている。天女か女神かと見紛うほどの美女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのだという、天国とはああいう所で、私は半分天国に足を踏み入れていると言って南辺が微笑んだ。


「正直その夢は見てみたいですよ、でも僕は死にたくないですけどね」


 涙の溜まった目をグイッと腕で拭ってから哲也が言うとベッドに横たわった南辺が声を出して笑った。


「あははははっ、当り前だ。哲也くんは若いんだから当然だ。でもね歳を取るとわかるよ……いや、歳を取っても幸せなら分からないだろうね、私のように身寄りも無くて只その日を生きているようにならないとわからないだろうね」


 南辺の顔にフッと寂しさが浮んだのを見て哲也が慌てて口を開く、


「でも今の南辺さんは幸せそうに見えますよ」

「うん、幸せだ。だからこのままそっとして置いてくれないか? 」

「こんな話し誰も信じませんよ……だから僕も信じません、だから竹を切ったりはしませんよ、じゃあ、僕は夕方の見回りがありますから」


 部屋を出て行く哲也の後ろでベッドで上半身を起した南辺が頭を下げた。


「ありがとう哲也くん」


 哲也は振り向きもせずにドアを閉めた。

 話しに出てきた白滝や坂田玄治や仙田の中学生になる孫の裕史と違い南辺は病気でもなくピンピンしている。とても死ぬとは思えない、本人がいいならそれでいいかと哲也は長い廊下を歩いて行った。



 7日が経った。C病棟の裏に生えていた竹が花を付けた。気に掛けて毎日見に来ていた哲也が慌てて南辺の部屋へと向かった。


「みっ、南辺さん! はっ、花が……竹の花が………… 」


 ノックもせずに慌てて部屋に入ってきた哲也を見てベッドで横になっていた南辺が声を出して笑う、


「あはははっ、来ると思ったよ、咲いてるねぇ、村で見たのと同じだ」

「そんな呑気な…… 」


 血相を変えてベッドの脇に立つ哲也を見上げて南辺が頷いた。


「覚悟というか気持ちの整理は出来ているよ、寧ろ待っていたからね」

「でも南辺さん、やっぱり…… 」


 戸惑う哲也を南辺が叱り付ける。


「ダメだよ! 私の好きにさせてくれないか? 」

「でも南辺さん…… 」

「大丈夫だ。私が死ぬように見えるかい? 見ての通り元気だよ、病気一つ無いからね」


 不安気に見つめる哲也の前で南辺は上半身を起すと両腕を曲げて力瘤を作って見せた。


「おっと、今日は診察の日だった」


 思い出したように南辺はそのまま立ち上がった。


「世話になったね、これで哲也くんとはお別れだ」

「ちょっ、冗談止めてください」


 哲也が不安を浮かべながらぎこちない笑みを作る。


「この病院に来て良かった。哲也くんに会えたからね」


 部屋を出て行こうとした南辺が振り返る。


「そうだ! 前に帰る場所は無いって言ったね……それは訂正しておくよ、帰る場所はあったよ、あの女が連れて行ってくれる場所が私の帰る所だ。親父や玄兄たちが居る場所だよ、だから何も心配は無いんだよ」

「南辺さん…… 」


 不安に顔を顰める哲也を置いて南辺は診察を受けに部屋を出て行った。


「じょっ、冗談だよな……南辺さん病気とかしてないもんな」


 ぎこちない笑みを作りながら哲也も部屋を出る。持病もなく矍鑠としている南辺が今日や明日にどうにかなるなどとても思えない。



 その日の深夜、3時の見回りで哲也が南辺の部屋の前を通る。


「何だ? テレビでも見てるのかな」


 ドアの磨りガラスからぼうっと白い光が漏れているのを見て哲也がそっと近付いた。


『ねぇねぇ貴方、ねぇ貴方…… 』


 女の声がするのを聞いて哲也が慌ててドアを開ける。


「あっ!? 」


 思わず見惚れた。南辺が寝ているベッドの脇に女が立っていた。

 美人である。哲也が立ち止まって見惚れるくらいだ。女は時代劇に出てくる姫か花魁のような綺麗な着物を着ている。


『ねぇねぇ貴方、ねぇ貴方、私の糧になりなさい……ねぇねぇ貴方、ねぇ貴方、貴方は全て私のもの』


 見惚れて動けない哲也など気にした様子も無く女は寝ている南辺の頬を愛おしそうに撫でていた。

 女の声を聞いて我を取り戻したのか哲也が近付く、


「誰だ? 何をしてる…… 」


 哲也が言葉を詰まらせる。ドアの傍ではハッキリ見えなかった女の口元が見えた。

 確かに美人だ。だが女は南辺の言っていた優しい笑みではなく嘲るような笑みを口元に浮かべていた。


『ねぇねぇ貴方、ねぇ貴方……貴方で最後よ、ねぇ貴方、私の糧になりなさい』

「南辺さんから離れろ! 」


 怒鳴りながら哲也が女を押し退ける。


『うふふふふっ、これで終わりよ』


 邪悪な笑みを浮かべて女は消えた。

 哲也は女に構わずベッドで横になっている南辺を確認する。


「南辺さん! 」


 南辺は冷たくなっていた。直ぐに看護師を呼ぶが手遅れだった。

 急性心筋梗塞だ。普通は苦しむのだが南辺は苦しんだ様子はない、布団も乱れてはいない、安らかに微笑んで亡くなっていた。



 病院の敷地の端、普段は使わない古びた建物で身寄りのない南辺の葬儀が行われた。

 先生や看護師に混じって哲也も参列した。葬儀が終り南辺が運ばれていく、あとは火葬されて病院から山3つほど向こうの寺に無縁仏として入れられるのだ。


「何で無縁仏なんですか? いや、身寄りが無いから無縁になるのはわかります。でも南辺さんの村に両親が眠っている墓があるんですよね? そこに入れてあげればいいじゃないですか」


 病院の裏に当たる西門から南辺を乗せた車が出て行くのを見送りながら哲也が近くに居た香織に訊いた。


「何言ってるの? 南辺さんの村なんてもう無くなっているわよ」


 哲也の不満そうな顔を香織が覗き込んだ。


「無くなってるって……どういう事です? 」


 顔を顰める哲也を香織がじっと見つめる。


「本当に知らないの哲也くん? 」

「知らないも何も南辺さんには村の話ししか聞いてませんから」


 不安の混じった怪訝な表情でこたえる哲也を見て香織がフーッと息を吐いた。


「そっか…… 」


 何とも言えない顔をして香織が話してくれた。



 定年退職した南辺が帰った時には村は限界集落となっていた。

 それでも南辺の父親を入れて5人ほどは住んでいたのだが南辺が帰った年に父親は亡くなって2年ほどすると他の住民も亡くなったり引っ越ししたりして村には南辺ともう1人の婆さんが居るだけになる。

 かつて賑やかだった村は竹林に飲み込まれて、かろうじて南辺と婆さんの家だけが竹の中にあるといった状態だったらしい、南辺が認知症で磯山病院へと入院して残った婆さんも都会へ出ている息子夫婦の元へと行って村は無くなった。


「じゃっ、じゃあ、南辺さんが言っていたことは……お母さんが亡くなってお父さんも後を追うように亡くなったって…………他の村人たちも…… 」


 話しを聞いた哲也が焦りを浮かべて香織を見つめた。


「村に帰る前から認知症の症状は出ていたらしいのよ、初期症状だったから本人も気付かなかったんでしょうね、母親が亡くなって年老いた父だけになったから心配して村に戻ったのよ、その父親も直ぐに亡くなって……それから認知症が進んだみたいね、賑やかだった頃の村の記憶が蘇って現実と区別が付かなくなった」


 真面目な表情で話す香織の前で哲也が愕然とした顔で口を開く、


「南辺さんが帰る前にお母さんは亡くなっていたのか……村の人たちは? 玄兄……坂田玄治さんや白滝さんや仙田さんの孫の中学生の裕史くんは? 5人ほどしか住人は居なかったって……南辺さんの話には沢山の人が出てきましたよ」

「全て南辺さんの妄想ね、坂田玄治さんや白滝さんは知らないけど中学生の子供なんて村には居ないはずよ、年寄りだけの限界集落だから」


 難しい顔をしてこたえる香織に哲也が焦るように続けて訊いた。


「竹は? 竹から女の人が出てくるって夢を見るって…… 」

「竹林に囲まれた村だったらしいわ、だから変な夢でも見たんじゃないかな、村はもう殆ど竹に飲み込まれたらしいわよ」

「全部南辺さんの妄想ってことか…… 」


 驚きながらも納得した様子の哲也を見て香織が優しい顔をして話し出す。


「夢か妄想か……認知症で夢と現実の区別が付かなくなる事もあるのよ、哲也くんもリアルな夢を見たことがあるでしょ? 学校へ行っている夢とか、認知症になっている人がそういうリアルな夢を見ると現実と区別が付かなくなるのよ」

「夢……あの女も南辺さんの夢だったのかも………… 」


 南辺の枕元に立っていた女を思い出しながら哲也が呟いた。確かに見た。だが現実だったのか哲也にも自信が無くなっていた。


「さぁ戻るわよ、ほらっ、元気出して」


 香織に腕を引かれて哲也が歩き出す。



 部屋に戻った哲也は何もする気が起きなくてベッドに転がった。


 南辺の話しは全て妄想だったのだろうか? ではC病棟の裏に生えた筍は何なのだろうか? 辺りには竹など一切無いのだ。突然生えてきて南辺を看取るようにして枯れていった。あの竹は何なのだろうか? 哲也が見た南辺の枕元に立っていた女は何なのだろうか? 


「僕が竹を切っていたら南辺さんは助かっていたのかな? 」


 安らかに笑っていた南辺の死顔を思い出して哲也は考える。


「でもそれで南辺さんは喜んでくれただろうか? 死ぬときに死ねなかったなら僕も後悔するかも知れない…… 」


 あの竹が悪しきものだったとしても南辺は満足しているだろう、それなら哲也には何も口出すことはない、ただ自分の前にはあの筍が生えてこないことを願うだけである。



 南辺とお婆さんの家、村に最後まで残った2つの家も直ぐに竹林に飲み込まれていくだろう。

 竹が邪魔な人間を排除して自分たちだけの世界を作ろうとしたのではないだろうか? 南辺が話した出来事は本当にあったことでそれはまだ村が賑やかだった頃の話しではなかったのか、認知症が進んで時間経過が分からなくなって昔の事を最近の事と勘違いして話しを聞かせてくれたのではないだろうか。


 あの竹は何なのだろうか? 地下茎で繋がった一つの大きな生命体と考えると我々の知らない力を秘めているのかも知れない、動物や人間の脳は細い神経で網の目のように繋がっている。竹も地面の下で地下茎が網の目のように広がっているのだ。そこに何らかの意思が芽生えることがあるのかも知れない。


 哲也は今はまだ死にたくはない、だが南辺老人と同じくらいの歳ならどう思っただろう、そう考えるくらいに羨ましい不思議な話だった。

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