第三十四話 寝言
人間の眠りにはレム睡眠とノンレム睡眠の2つがある。
レム睡眠とは身体は深く眠っているが脳は活発に働いている状態だ。脳が記憶の整理や定着のために働いているのだ。夢を見るのもこの時である。
ノンレム睡眠とは身体の眠りは浅く、脳が深く休んでいる状態だ。各種ホルモンを出したりストレスに対処する作業をしていると言われている。
人間はレム睡眠とノンレム睡眠を交互に行っており、1回のレム睡眠とノンレム睡眠の周期が約90分である。
眠っているのに本人は自覚していなくて言葉を発することがある。寝言だ。
寝言は誰にでも起こりうるのだがストレスが溜まったり不安や緊張を抱えていると起こりやすくなることから心が少なからず関係しているものなのだろう、鬱病や認知症などでも寝言が増えると言われている。また薬の副作用で寝言をいう事もあるらしい。
夢をよく見る人も寝言が多いらしい、夢の中で会話をしていれば現実に言葉となって口から出てきても不思議ではない、夢と同じように脳の働きと密接に関係しているので寝言を話すのもレム睡眠時が大半である。
寝言に悩まされた人を哲也も知っている。その人は夢なのか現実なのかわからなくなっていった。寝言のままなら良かったのにと哲也は思った。
昼過ぎ、哲也が敷地内を散策していると遊歩道から少し離れた小山のようになっている斜面で男が寝転がっていた。
「えっ!? 患者さん」
草刈りを終え綺麗に整えられた斜面で何をしているのかと一瞬考えた後、哲也が走り出す。
「ヤバい! 倒れたのか」
事故か事件か、または気を失って倒れたのかと哲也は慌てて近寄っていく、男の傍に行ってほっと安堵した。どうやら眠っているらしい。
「ポカポカして気持ち良いからなぁ~~ 」
羨ましそうに呟くと男の隣りに座り込む、
「んん? あんた誰だ? 」
浅い眠りだったのか男が頭を動かして哲也を見つめた。
「突然済みません、警備員です。警備員の中田哲也っていいます。哲也って呼んでください」
初対面の相手を刺激しないように哲也が笑みを作ってこたえた。
「警備員か……それで私に何の用だ」
邪魔をするなと言う様子の無愛想な男に哲也が笑顔で続ける。
「こんな所で寝ないでください、倒れたのかと吃驚しましたよ」
「何処で寝ようと私の勝手だ」
男がくるっと寝返りを打って哲也に背を向けた。
拒否するような男の背に哲也が優しい声で話し掛ける。
「そうですけど……いや、ダメですよ、僕だって心配して慌てて来たんですから、他の患者や看護師さんもきっと吃驚して騒ぎになりますよ」
「放って置いてくれ! ここならゆっくり眠れる……もう1人の私も現われないからな」
背を向けたまま男が大きな声で言った。
男の話した『もう1人の私』という言葉に哲也が反応する。
「もう1人って? もう1人の私って何ですか? 」
「煩い! 昼寝の邪魔をするな! 」
興味津々の顔で訊く哲也に男は背を向けたまま怒鳴った。
「そんな事言わないで…… 」
どうにかして話しを聞こうとした哲也が何か閃いたのかニヤッと悪い笑みをする。
「暖かくて気持ち良いですよね、本当言うと僕もゴロって寝っ転がりたいですよ、でも山ですからね、山の中だからダニとか刺す虫がいっぱいいますよ」
背を向けて寝ていた男が手を着いて上半身を起した。
「ダニ? 」
身体を捻って振り返って見つめる男に哲也が真面目な表情を作って口を開いた。
「そうです。ダニがいますよ、草を刈って薬を撒いたりしていますが外から鼠とか鼬とか入って来ますからね、それにくっついてダニも入って来ますよ」
「本当か…… 」
不安そうな顔で聞いていた男は身体を捻っていた体勢から哲也の正面に座り直した。
男の様子に込み上げてくる笑いを必死で耐えて真面目顔を保ったままで哲也が続ける。
「それだけじゃないですよ、ヒルもいますよ、ヤマビルって言って知らないうちに引っ付いてて血を吸うんですよ、まぁヒルは日当たりの良いこんな場所には出てこないでしょうけどね」
「ダニだけじゃなくてヒルもか…… 」
「他にも線虫とか寄生虫が…… 」
「もういい、わかった。寝なきゃいいんだろ」
男が立ち上がって体に付いた草や土を払い始めたのを見て哲也も愉しそうに立ち上がる。
「はい、そうしてください」
哲也の笑顔を見て男も相好を崩した。
「警備員さん……哲也くんだったかな、ダニの話しはともかく私を心配してくれたことに関しては感謝するよ」
「礼なんていいですよ、実を言うと患者さんが死んでるんじゃないかと吃驚して見に来たってのが本当です」
冗談で返す哲也の向かいで男が楽しそうに笑い出す。
「あははははっ、勝手に殺さんでくれ、まぁこんな所に寝転がってたら死んだと思われても仕方ないな、あはははははっ」
男が気さくな人だと分かると哲也が気になっていた事を訊いた。
「少し訊いていいですか? 」
「ん? 私に何か聞きたいのかい」
「はい、さっき言ってたもう1人の自分って何の事ですか? 」
哲也が興味津々の顔で訊くと男の顔から笑みが消えた。
「ああ……そんな事を言っていたか」
表情を曇らせる男を見てしまったと思いながらも後には引けずに哲也が頷く、
「ええ、ここならゆっくり眠れる。もう1人の私も現われないからなって言ってましたよ」
「そうか……気になるかい? 」
男が険しい顔で哲也を見つめる。
「はい、無茶苦茶気になります」
「あははははっ、正直で良いな、そうだな、哲也くんなら話してもいいかな」
険しい顔から一転して男がまた楽しげに笑うのを見て哲也は内心ほっと安堵の息をついた。
「マジっすか? 教えてください」
哲也が身を乗り出して話しを聞こうとした時、看護師の早坂がやってくる。
「表平さん、ここにいたんですか、探しましたよ」
男の名を呼びながら早坂が哲也を睨んだ。
「哲也さんが連れ出したんじゃないでしょうね」
「なっ、違いますよ、散歩してたらこの人が…… 」
早坂の怖い目付きに必死で言い訳する哲也の肩に表平が手を置いた。
「挨拶がまだだったな、私は表平巡だ。3日前に入ったばかりなので宜しく頼むよ」
哲也に笑顔で挨拶をすると表平は早坂に向き直る。
「哲也くんは悪くないんだ。ここで昼寝をしていた私を心配して見に来てくれたんだよ」
「そうですか、それならいいわ」
笑顔になった早坂を見て哲也が不服そうに口を開いた。
「そうですか、じゃなくて僕に何か言うことないんですか? 」
「そうねぇ…… 」
少し考えると早坂が意地悪顔で続ける。
「哲也さんには気を付けてくださいね、お化けとか幽霊の話しが大好きで患者さんたちに聞いて回っているんですよ、変な事訊かれてもこたえる必要はないですからね、迷惑だと言って追い払ってください」
「幽霊の話しか…… 」
話しを聞いて考え込む表平を見てヤバいと思ったのか哲也が声を大きくする。
「追い払えって犬猫みたいに言わないでください、それより表平さんに言うんじゃなくて僕に謝るのが先でしょ? 」
早坂がじろっと哲也を睨む、
「何言ってんの、哲也さんに謝る必要なんてないからね、普段から変な事ばかりしているから疑われるんですよ」
「あ~っ、もう、わかった。どうせ変な事してますよ」
ムッと怒って開き直った哲也がくるっと表平に向き直る。
「変な事ついでに訊きます。さっきの続き、もう1人の私って何ですか? 」
興味津々な目付きで訊く哲也の向かいで表平が悩むような表情で早坂を見つめる。
「ああ……あれか、あれは………… 」
話を始めようとした表平の前に早坂が腕を伸ばした。
「ダメです。表平さんは今から診察ですからね、哲也さんの変な趣味に付き合っている暇なんてありません」
「変な趣味ってなんすか! 僕は真面目に話しを聞いてますからね」
怒る哲也の向かいで表平が楽しげに笑い出す。
「あははははっ、変な趣味か……それじゃあ、後で聞きに来るといい、私も変な話しを知っているよ」
哲也がバッと身を乗り出す。
「マジっすか? 行くっす。表平さんの部屋は何処です? 缶コーヒーとお菓子持って話し聞きに行きますよ」
「私の部屋はBの401号室だよ、そうだね、夕食が終った後にでも来るといいよ」
話が聞けると興奮して早口になった哲也の前で表平が苦笑いでこたえた。
「了解しました。夜の7時頃に部屋に行きますよ」
「7時だねわかった。でも哲也くんの期待している幽霊とは少し違った話だよ」
「構いません、もう1人の自分が出てくる話でしょ? それなら興味ありますよ」
「わかった。じゃあ来なさい」
嬉しそうな哲也の向かいで表平が少し疲れたような笑みを見せた。
早坂が呆れた様子で話し掛ける。
「哲也さんに付き合う必要はないですよ、じゃあ診察に行きましょうか」
「看護師さん、私を探していたんだね、世話を掛けたね、済まなかった」
表平は頭を下げると早坂と共に診察を受けに歩いて行った。
「どうせ変ですよ、まったく早坂さんは……でもまぁ、表平さんに話しを聞く約束は出来たからな」
ムッと怒りながら呟くと哲也は散策を再開した。
夜の7時前、哲也はお菓子と缶コーヒーを持って表平の部屋に向かう、
「哲也さん、ちょっと…… 」
自分の部屋のあるA棟を出ようとした哲也を早坂が止めた。
「早坂さん、なんすか? 」
「うん、表平さんの事を話しておこうと思って…… 」
哲也が近付くと早坂が言い辛そうに顔を顰めた。
「早坂さんの方から教えてくれるなんて珍しいっすね」
「茶化さないで聞きなさい」
普段のようにふざけ口調で返すと険しい顔で叱られた。
「ごめんなさい、それでどんな話しですか? 」
只事ではないと哲也がペコッと頭を下げた。
「表平さんね、奥さんに殺されそうになったのよ」
「なん!? どういう事です? 」
一瞬で真面目な表情になった哲也に早坂が話し出す。
表平巡42歳、もう1人の自分が現われて嫌なことを告げると言って自分から磯山病院へと入院してきた。薬物中毒による機能障害によって幻覚と幻聴を見ると診断された。薬物中毒といっても麻薬や危険ドラッグにトルエン、俗に言うシンナー中毒などではない、自然界にある植物から取った毒物だ。自覚無しに毒物を飲まされて障害を負ったのだ。
「表平さん……明るく見えるのは何もかも諦めているのかも知れないって私思うのよ」
早坂が付け加えるように呟いた。
「そうだったんですか……ずかずかと心に入らないように気を付けないといけませんね」
神妙な面持ちで話す哲也を見て早坂が微笑んだ。
「わかっているならいいわ、相手のことを考えないのなら話しを聞きに行くのを止めさせようと思っていたのよ、まぁ哲也さんなら心配してなかったけどね」
哲也がペコッと頭を下げた。
「ありがとう早坂さん、教えて貰わなければ表平さんを傷付けるような事を言っていたかも知れません」
「表平さん、注意してあげてね、治療はしているけど毒物は簡単には抜けないから、心に傷も負っているし、それで心を病んだんだけど……幻覚はまだ見ているようだから夜中の見回りも気を使ってあげてね」
真剣な表情で話す早坂に哲也も真面目に頷いた。
「了解です。早坂さんって優しいんですね」
「なっ、何言ってんのよ、仕事よ仕事、看護師の仕事をしているだけです」
真っ赤になって慌てる早坂を見て哲也が笑いながら早足で離れていく、
「あはははっ、今の顔を嶺弥さんに見せてあげたいよ」
「すっ、須賀さんに……なっ、何言ってんの! 怒るからね」
更に赤くなって怒鳴る早坂から逃げるように哲也は階段を下りていった。
「まったく、哲也さんは…… 」
怒りながらも嬉しそうに早坂は反対側へと廊下を歩いて行った。
B病棟の階段を哲也が駆け上がっていく、エレベーターもあるのだが見回り時の癖で階段を使うのが当り前になっているのだ。
「401号室っと」
B棟の401号室が表平の部屋だ。
「表平さん、哲也です」
「待っていたよ哲也くん」
ドアをノックすると中から返事があり哲也は遠慮無しに入っていった。
「よく来たね、そこらに座ってくれ」
ベッドで横になっていた表平が起き上がる。
哲也が小さなテーブルの脇にある円椅子に腰掛けると表平は向かいの折り畳みのパイプ椅子に座った。
「お菓子と饅頭持ってきました。饅頭は先生に貰った奴で美味しいですよ」
哲也はお菓子の入った袋をテーブルの上に置くと缶コーヒーを1つ表平の前に置いてもう1つを自分の前に置いた。
「ありがとう、甘いものは好きだから嬉しいよ」
「じゃあ、饅頭は2つとも後で食べてください、今はチョコでも食べましょう」
池田先生に貰った饅頭を袋ごと差し出すと哲也はテーブルの上にチョコレート菓子を広げた。
「美味しそうな饅頭だ。遠慮なく貰っておくよ」
嬉しそうに顔を崩す表平の向かいで哲也が缶コーヒーを開けた。
「チョコも美味しいですよ、売店で売ってる奴ですけど」
「気を使わせて悪いね」
表平がチョコ菓子を口に放り込む、
「じゃあ、早速話を始めようか…… 」
缶コーヒーでチョコ菓子を流し込むと表平が話を始めた。
これは表平巡さんが教えてくれた話しだ。
表平はそれなりの規模の地方都市に住んでいた。23歳の時に結婚して19年連れ添った妻と2人暮らしだ。中古で買った小さな一戸建てだが2年前にローンも払い終って贅沢は出来ないが不自由のない生活を送っていた。ただ一つ残念なことは子供が出来ないことだ。表平と妻、2人とも子供が出来にくい体質だった。
今から1ヶ月半ほど前の事だ。
深夜、寝ていた表平が大きな声を聞いて目を覚ます。
『下山課長に叱られる! 』
何事かと部屋を見回すが何も変わったところはない。
「何だ? 佐智子は寝てるし…… 」
妻の佐智子は隣の布団で寝息を立てている。
「夢か……それとも外で酔っ払いでも怒鳴ったかな」
閑静な住宅街だが時々、酔っ払いや調子に乗った若者が騒ぐことがある。
「下山とか言ってたな……まぁいいか」
さして気にもせずに表平は眠りについた。
翌朝、いつものように朝食をとる。
「はい、あなた飲んで」
食後に妻の佐智子が野菜ジュースを差し出した。
「それ苦いんだよな」
「苦いけど身体に良いのよ、市販のジュースは砂糖や甘味料を使ってて良くないのよ」
顔を顰める表平に佐智子が笑顔で勧める。
「わかった飲めばいいんだろ」
妻の機嫌が悪くなるのを恐れて表平がジュースを飲み干した。
佐智子は半年ほど前から朝と夜に野菜ジュースを作ってくれるようになった。砂糖は入れていないので苦くてハッキリ言って不味いが健康に気を使ってくれている妻の気持ちに感謝しつつ我慢して仕方なく飲んでいた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
妻の笑みに送られて家を出る。
駅まで自転車を使い電車に乗って25分、待ち時間などを入れると家から会社まで45分といったところだ。
「料理はそれなりに旨いんだがあのジュースだけは苦手だな」
苦くて不味い野菜ジュースを思い出して愚痴ると表平は駐輪場へ自転車を預けて駅へと入っていった。
「なっ…… 」
駅の階段を上がっていると眩暈を感じて身体がフラついた。どうにかして階段を上るとホームのベンチに腰掛けて休む、
「1本遅らせるか、電車の中で倒れたら迷惑だからな」
近頃体が怠い、疲れが溜まっているのか40歳を越えて無理が出来なくなってきているのだと思った。
「まぁ、ゆっくり行くさ、その為に家を早く出てるんだからな」
電車を1本遅らせて会社へと辿り着くころには体調も良くなっていた。
夜になり表平が帰路につく、残業をして普段より帰りが遅い、ちょっとしたことでミスをして下山課長に怒鳴られた。ミスのカバーとして少し残業したのだ。
「あなた……お帰りなさい」
遅れて帰ってきた表平を妻の佐智子が心配そうに覗き込む、
「遅いから心配したのよ、何かあったの? 具合でも悪いの? 」
「いや、別に普段と同じだよ、ちょっと残業しただけだ」
表平が笑顔でこたえる。身体の調子が悪いなど心配掛けるようなことは言えない、課長に叱られたことなどはもっと言えない。
「そう……それならいいんだけど」
妻の顔がふっと曇った。表平は心配してくれているのかと嬉しくなった。
「それより飯にしてくれ、残業して腹ペコだ」
「はい、出来てますよ」
決して上手ではないが妻の手料理を食べて表平は人心地ついた。
「野菜ジュースも飲んでくださいね」
「ああ……飲めばいいんだろ」
「はい、飲んでください、あなたのために作ったんですからね」
顔を顰める表平に妻の佐智子が笑顔で手作りの野菜ジュースを差し出した。食後に出てくるジュースだけが目下の悩みだ。
「うぇっ! まず……苦い…… 」
一口飲んで不味いと言いかけて慌てて苦いと言葉を代えた。
じっと見つめている佐智子に気付いて誤魔化すように話し掛ける。
「いつもより苦くないか? 野菜って何が入っているんだ? 」
「何って……人参とかセロリとか……苦いのはセロリですよ、いいから飲んでください、身体に良いものしか使っていません」
ムッとして怒る佐智子に表平が申し訳なさそうに口を開く、
「毎日作らなくてもいいぞ、手間も掛かるだろうし…… 」
「手間なんて掛かっていませんよ、あなたの健康のためですから」
自分のためと言われると、もう言い返せない、表平は黙って不味いジュースを飲み干した。全部飲み干したのを見て佐智子がニッコリと微笑む、
「お風呂に入ってゆっくりと休んでくださいね」
先程までムッと怒っていたのが嘘のように機嫌が良くなった。
深夜、大声を聞いたような気がして表平が目を覚ました。
『書類を忘れる! 』
何事かと見回すが変わったところはない、妻も隣で眠っている。夢でも見たのかと表平も二度寝した。
翌朝、いつものように妻の作ってくれた野菜ジュースを飲んで会社へと向かう、
「ふぅ、少し休むか…… 」
息切れを起して駅のベンチで休む、半年ほど前から毎度のことになっていたので電車を1本乗り遅れても間に合うように早く家を出るようになっていた。
「40過ぎるとこれほど体力が落ちるとは思わなかったな」
愚痴るように呟きながら電車に乗って会社へと向かう、
「今日は会議だ。資料のチェックして…… 」
はっとして鞄を確かめるが資料が無い、忘れたと表平は慌てて家へと引き返す。気付いたのが早かったのでギリギリ遅刻しないで済んだ。
その日の夜、寝ていた表平が飛び起きる。
『階段から落ちる! 』
大きな声が聞こえたような気がした。部屋を見回すと隣で寝ていた妻が起きていた。
「あなたどうしたの? 寝言なんて言って」
「寝言? 」
心配そうに覗き込む妻の佐智子に表平が聞き返した。
「そうよ、落ちるとか何とか……大きな声だったから吃驚して起きるとあなたは眠ったままだし」
「寝言か…… 」
表平はここ数日深夜に目を覚ますのを思い出した。
「寝言だったのか…… 」
「吃驚したわよ、声が聞こえて起きたら眠ったままで大きな声を出すんだから」
「そうか……悪い悪い、寝言を言っているなんて分からないからさ」
表平は迷惑そうな妻に苦笑いしながら謝った。
「吃驚させないでくださいね、また時間があるから寝ましょう」
呆れたように布団に潜り込む妻の隣で表平も横になる。
「寝言か…… 」
全て自分の寝言だったとわかって恥ずかしそうに呟くと表平も眠りについた。
翌朝、いつものように妻の作ってくれた野菜ジュースを飲んでから会社に向かう、
「今日の野菜ジュースは特に不味かったな、舌が痺れるくらい苦かったぞ、いい加減に止めてもらわないとな、腹の具合も悪くなるし、健康どころか病気になりそうだ」
妻の前では言えない愚痴をこぼしながら駅の階段を上っていると急に眩暈を感じてフラついた。
「なっ……ん………… 」
足を踏ん張って体勢を立て直そうとするが目の前が真っ暗になって立っていられない、ふらっと浮いたような感覚がして階段を転がっていった。
「きゃぁあぁぁ~~ 」
「何だ? 」
「どうした? 駅員を呼べ! 」
周りにいた人々の声が聞こえる。表平は起き上がろうとするが体が動かない。
「大丈夫ですか? しっかりしてください」
駅員の声が聞こえたような気がするがその後は記憶には無い。
気が付くと病院のベッドの上だった。駅の階段で意識を失って緊急搬送されたのだ。
「あなた……良かったぁ~~ 」
目を覚ました表平に妻の佐智子が抱き付くようにして泣いた。
妻の頭を撫でながら表平が声を掛ける。
「心配掛けたな」
「本当です。病院から電話があってどれ程心配したか……でも無事で良かったわ」
「済まんな、私も…… 」
身体を起そうとした表平が苦痛に顔を歪める。
「痛てて…… 」
佐智子が寝ていろと言うように表平の肩を優しく押してベッドに寝かせた。
「寝ていてください、頭を打っていますから、階段から落ちて怪我をしたんですよ……怪我だけで済んで良かったわ」
起き上がろうとしていた表平が妻の言葉で思い出す。
「そうだ……階段の途中で目眩がして…………それで転がり落ちたんだな」
「そうですよ、周りの方や駅員さんが助けてくれたんですよ」
表平が安心したように枕に頭をつけた。
「そうか、礼を言わないとな」
幸いな事に大きな怪我はなく打ち身だけで済んだ。念のために脳など検査をするという事でその日は会社を休んだ。
「何もなくて良かったですよ」
「そうだな、駅員さんたちが助けてくれた御陰だな」
喜ぶ妻と一緒に病院を出る。検査が終り結果が出た頃には夕方になっていた。
「今日と明日はゆっくり休んでくださいね」
「ああ、そうさせて貰おう」
会社には念のために明日も休みを取っている。家に帰って食事をして身体を休めるために普段より早く寝床についた。
その夜は寝言も無く、ぐっすりと眠ることが出来た。
翌日、会社は休暇を取っているので表平は家でゆっくりとしていた。
「はい、あなた」
夕食後、妻の佐智子が野菜ジュースを差し出してくる。
「いや、まだ身体の調子が悪いから…… 」
断ろうとする表平を佐智子が睨み付けた。
「ダメですよ、明日から会社なんですから飲んで元気になってくださいね」
「作るのも手間だろう? そうだ! サプリメントにしよう、テレビでやっているだろうビタミンや疲労に効くヤツ、あれを買って飲むことにするよ」
どうにか断ろうとあれこれ話す表平の前、テーブルの上に佐智子がドンッとコップを置いた。
「ダメです。手間なんて掛かってません、市販品よりも私が作ったドリンクが一番良いんですからね」
昨晩と今朝は怪我をした頭が痛いと言って飲むのを断ったのだ。妻は不機嫌だったがどうしても飲みたくないと言って飲まなかった。
「 ……わかったよ、飲めばいいんだろ」
これ以上、怒らせるのはよくないと表平は不味い野菜ジュースを飲み干した。
その日の深夜、表平が飛び起きる。
『毒を飲まされているぞ! 』
また寝言かと隣で寝ている妻を見る。佐智子はすやすやと眠っていた。
「まったく変な寝言だ」
妻に聞かれなくてよかったと寝返りを打ってまた寝ようとしたとき、誰かが枕元にいた。
「はぅうぅぅ…… 」
喉が痙攣するような悲鳴が出た。妻が寝ているのとは反対側、右側の壁際に誰かが座っていた。
『毒を飲まされているぞ! 』
大きな声を出しているのは自分だ。鏡で見たのと同じような自分自身が正座をしていた。寝間着ではなく普段会社に行っているような背広姿だ。
「うっ、うぅぅ…… 」
『毒を飲まされているぞ! 』
恐怖に喉を詰まらせる表平を見つめて正座をしている自分が叱り付けるように言うとすっと消えた。
「わっ、私が……私がいた………… 」
隣で寝ている妻の佐智子に手を伸ばす。
「おっ、おい! 起きてくれ…… 」
起そうと身体を揺するが佐智子は起きない、もう1人の自分が出した大声でも起きなかったのだ少々のことでは起きる気配も無い。
「おっ、おい、佐智子、佐智子」
寝ている妻に伸ばしていた手を表平が引っ込めた。
「毒とか言ってたな…… 」
布団の上で座りながら表平が思い出す。
「山下課長に叱られる。書類を忘れる。階段から落ちる。全部当たってるぞ……全部彼奴が言ってたんだ。もう1人の私が………… 」
姿を見るのは今日が初めてだが声は全て同じだと気が付いた。寝言ではなく枕元に正座をしていた自分が言っていたのだと、それが全て忠告ではないかと思った。
「毒を飲まされる? 誰に? 」
表平が隣で眠っている妻の佐智子をじっと見つめた。
「何を考えているんだ。私は…… 」
否定するように頭を振ると表平は布団を被って眠りについた。
翌朝、妻に話すが信じてもらえない、寝惚けたのだと笑うばかりだ。当然だろう表平自身も夢かも知れないと半信半疑だ。だが毒を飲まされていると呟くと妻の顔色が変わった。
「変な事言わないで頂戴! 誰があなたに毒を飲ませるんです。夢の話しなどしないで早く御飯食べてくださいな」
急に怒り出した妻の機嫌を取ろうと表平が誤魔化すように笑い出す。
「はははっ、そう怒るなよ、夢だよ、夢の話しだ……変な夢だから気になってな」
ムスッとした怒り顔で佐智子が野菜ジュースを差し出す。
「夢なんていつでも変なものです。そんなのを気にして失敗しないようにしてくださいね、それと会社で夢の話なんてしないでくださいよ、変な人だと思われるだけですからね」
「ああ、わかってるよ、こんな話、人にはしないさ、お前だから話したんだよ」
これ以上、妻を怒らせるのは得策ではないと思ったのか表平は文句の一つも言わずに野菜ジュースを飲み干して会社へと向かった。
その日の深夜、声が聞こえて表平が目を覚ます。
『毒を飲まされているぞ! 』
枕元に正座をした自分がいた。夢か本当か、確かめようとするが体が痺れたようになって動かない。
「うっうぅぅ…… 」
これが金縛りかと思いながら表平はもう1人の自分を睨み付けた。
『毒を飲まされているぞ! 』
鏡や写真に写っている自分と瓜二つだ。何着か持っている背広のお気に入りの一着を着て少し猫背気味に正座をしている。
「ぐっ、くぅぅ…… 」
表平は恐怖を感じた。42年も生きているのだ。今までの人生の中で様々な経験をした。怖い目にも遭ったし、他人から色々な話しも聞いて知っている。怪談なども色々知っているのだ。故に他人の幽霊か何かなら驚いたとしてもこれ程の恐怖は感じないだろう、だが自分は別だ。目の前にいるもう1人の自分が自分と入れ替わるのではないか? ドッペルゲンガーを見た人は早死にする。色々な嫌な想像が頭を駆け巡る。
「ふっ、ふぅぅ、ぐぅぅ…… 」
どうにかして金縛りを解こうともがくが指先が僅かに動くだけだ。
『毒を飲まされているぞ! 』
正座をしていた自分が叱り付けるように言うとすっと消えた。
「ふぁぁ~~、うわぁあぁぁ~~ 」
同時に金縛りも解けて悲鳴を上げながら表平が飛び起きる。
「あなた何ですか…… 」
「うわっ! 」
驚いて振り向くと横になったままで妻の佐智子が眠そうな顔で見つめていた。
「なっ、なんだ。おまえか…… 」
もう1人の自分がまた出たのかとビビっていた表平がほっと胸を撫で下ろす。
「どうしたんです? 夜中に騒いで」
上半身を起した佐智子に表平が体ごと向き直る。
「佐智子、聞いてくれ、出たんだよ、私が、もう1人の私がここに座って…… 」
「また寝惚けて……夢ですよ」
怪訝に顔を顰める佐智子に表平が必死で訴えかける。
「夢じゃない、本当にいたんだ。金縛りに遭って…… 」
顔を顰めたまま佐智子が声を大きくして表平の話しを遮る。
「だから全部夢ですって、金縛りももう1人のあなたも、全部夢です」
「でっ、でも実際に見たからこうして起きてるんじゃないか」
反論する表平は自信が無いのか声が小さくなっていた。
「寝言ですよ、寝言でも言って飛び起きたんですよ、この前も大きな寝言を言って飛び起きたじゃないですか」
佐智子は構っていられないというように横になって背を向けた。
背を向ける佐智子に表平が話し掛ける。
「いや、だから、あの寝言ももう1人の私が言っていたんだ。もう1人の私が何か伝えようとしているんだ」
「何を伝えるんです? 」
横になったまま寝返りを打つように佐智子が振り返った。
「毒を飲まされているって言ってた」
佐智子がバッと起き上がる。
「まだそんな事を言ってるんですか! 誰があなたに毒を飲ませるんです? 」
「いや、それは…… 」
怖い顔で睨んでくる佐智子の前で表平が口籠もる。
佐智子が両手で顔を覆って泣き始めた。
「酷いわ、夢とか言って私を疑ってるんじゃないでしょうね? 私は今まであなたのためと思って…… 」
「お前を疑うなんてするはずがないだろ、悪かった。私が悪かった。全部夢だ。変な夢を見て気が高ぶっていたんだ。済まない」
表平が必死で宥める。表平が一方的に惚れて何度もアタックして結婚したのだ。19年経った今でも佐智子の事は愛しているのだ。喧嘩になると毎回、表平が折れていた。
「もう変な話しはしないでください」
「わかった。約束するよ」
機嫌を直した妻に表平が頭を下げた。
翌日から毎晩のようにもう1人の自分が現われるようになる。
『毒を飲まされているぞ! 』
大きな声に目を覚ますと正座をしていた自分が叱り付けるように何度も言う、表平は夢か本物か確かめようとするが金縛りで動けない。
それとなく妻にも話すが寝言だと一喝された。度々大きな寝言が聞こえて妻も目を覚ますのだという、あなたは寝言を言う癖があると言われると表平は言い返せなくなる。
しつこく話すと妻が不機嫌になるので寝言の話しはしなくなっていった。ただ毒を飲まされているという言葉は気になったので表平は外出時の食べ物や飲み物に気を付けるようになった。
4日ほど経って駅の階段を上がっていた表平が眩暈を感じて壁際の手摺りを掴んでその場に蹲る。
「大丈夫ですか? 」
「はい、少し息切れして……大丈夫ですから、ありがとう」
声を掛けてくれた通行人に表平がぎこちない笑みを作ってこたえた。
「大丈夫ですから」
立ち上がった表平を見て通行人は階段を上っていった。
「毒か…… 」
ぽつりと呟くと手摺りを手繰るように一歩ずつ階段を上っていく、『毒を飲まされているぞ! 』と聞こえるようになってから体調が思わしくない、半年ほど前から疲れやすく体力が落ちているのは自覚していた。40歳を過ぎて年のせいだと思っていた。だがここ2週間ほどの変化はおかしい、体が怠いだけでなく痺れたり眩暈を感じることが頻繁に起こっている。栄養ドリンクを飲んでも効果はない、只の疲れではないと思っていた。考えたくはないが毒を飲まされているんじゃないかと思い始めていた。
そんなある夜、表平が目を覚ます。
『女に刺されるぞ! 』
枕元で正座するもう1人の自分の言葉が変わっていた。
『女に刺されるぞ! 』
「ふぁっ! 」
表平が飛び起きると隣りに寝ていた妻が起きて見つめていた。
「どうしたの? 大声出して」
心配そうな佐智子を余所に辺りを見回す。いつの間にかもう1人の自分は消えていた。
「どうしたのあなた? また寝言? 」
隣の布団の上に座っている佐智子に表平が向き直る。
「寝言か……お前にも聞こえたのか? それで何て言ってた」
「えっええ、吃驚したわよ、夜中に大声を出すんだから」
何処か余所余所しい態度の佐智子を表平がじっと見つめる。
「だから何て言ってた? 聞こえたんだろ私の寝言が……それで起きたんだろ」
「それは…… 」
暫く考えるようにしてから佐智子がこたえる。
「飲まされるとか何とか……寝言なんていいじゃない、明日も早いのよ、もう寝ましょう」
誤魔化すように言うと佐智子は布団に潜り込んだ。
「そうか…… 」
飲まされるなんて言っていないと思いながらも夜中に喧嘩をする気にもならずに表平も枕に頭を落とした。
翌朝、妻がにこやかに野菜ジュースを差し出した。なんでも作り方を変えたのだという、いつも飲んでいるものより苦いけど身体にいいから飲んでと勧めた。
物凄く苦い、舌が痺れるほどだが表平は我慢して飲んだ。近頃妻の機嫌が悪かったのだ。ここで飲まないなどと言うと喧嘩になりかねない。
全部飲んだのを見て妻の佐智子は凄く喜んで優しい声で見送ってくれた。
「がっ! ぐぅぅ…… 」
駅に向かう途中、自転車に乗っていた表平は失神して倒れた。丁度コンビニの前だったので店員が通報してくれて救急車で搬送された。
何かの中毒らしいが詳しいことはわからない、処置が早かったこともあり表平は命に別状はないが3日ほど入院することになる。
その日を入れて5日間会社を休むことになった。会社に迷惑を掛ける事になったが入院している間、妻が甲斐甲斐しく世話をしてくれたので表平は幸せだった。
だが入院している間ももう1人の自分は現われた。
『女に刺されるぞ! 』
叱り付けるように言うとすっと消えた。思い切って医者に相談すると病気で身体が弱っていて悪夢を見るのだと、この際ゆっくりと身体を休めれば夢など見なくなると言われて安堵した。
3日間入院すると元の生活に戻る。会社には2日余分に休みを取っていたので家でゆっくりと身体を休める事にした。
夕方、妻が買い物に行っている間に郵便配達がやってきて封筒の束を入れていく、ダイレクトメールかと手に取った表平の顔が険しく変わる。
「何だこれは…… 」
封筒の束は全て金融関係だ。大手から聞いたことのない闇金融のような会社まで10社近くから手紙が届いていた。
「いつの間に金なんて借りてたんだ…… 」
何かの間違いかと大手の金融会社に電話をして確かめると全て事実だとわかった。
「何に使ったんだ? 」
封筒を全て開いて借金額を計算しながら妻が帰ってくるのを待った。
玄関のドアが開いて妻が帰ってくる。
「佐智子、ちょっと話がある。佐智子」
帰ってきた妻を問い詰めると金を借りたとこたえた。
何でも株やFX、外国為替証拠金取引に手を出して貯金を失いバレるのが怖くて借金したのだという、金額を聞いて表平は愕然とした。2000万円近くあったのだ。半年前から雪だるま式に増えていったのだという、とても返せる金額ではない、表平は妻と大喧嘩をした。
「佐智子ばかり責められないな、仕事ばかりで……私がもっとしっかりしていれば……初めからやり直そう、なぁに、まだ42歳だ。やり直せるさ」
湯船に浸かりながら表平が呟いた。
借金を返すには家を手放すしかない、それでも500万近く足りない、残りは親族に頭を下げて頼むしかない、ローンを払い終えて安堵したのが嘘のようである。
風呂から上がり普段は余り飲まない缶チューハイを一缶飲んでから寝室へと入る。妻の佐智子は大喧嘩をした後ふて腐れて先に眠っていた。
「少し言い過ぎたよ、悪かったな、金は……2人で頑張って返せばいいさ、何とかなるさ」
横を向いて寝ている妻の背に声を掛けると隣の布団に表平が潜り込む、
「一からやり直しだ」
呟くと目を閉じる。酒が回ったのか直ぐに眠りに落ちていった。
『女に刺されるぞ! 』
どれ程眠っただろうか、声が聞こえたような気がして表平が目を覚ます。
『女に刺されるぞ! 』
また夢かと呆れながら枕元を見るがもう1人の自分はいない、
「なんだ……本当に夢か、寝言か」
尿意を感じて上半身を起す。後ろで気配がして振り返ると無表情の妻がいた。
「こうするしかないのよ…… 」
「どうした? こんな夜中に」
上半身を起した表平が立っている妻の佐智子に声を掛けた。
「こうするしかないのよ! 」
叫びながら佐智子が包丁を振り下ろす。
「なっ、何をする…… 」
防ごうと伸ばした表平の腕に包丁が突き刺さった。
「ぐっ、なっ、何をするんだ! 」
「こうするしかないのよ!! 」
「佐智子! 」
腕力では表平が上だが包丁を振り回す佐智子に押されて布団に倒れ込んだ。
「借金を返すにはこうするしかないのよ……貴方を殺してあの人と一緒になるわ」
佐智子が叫びながら切り付けてくるのを表平は必死で防ぐ、表平は横になっている状態だ。起き上がって反撃しようとするが妻が包丁を振り回すので危なくて起き上がれない。
「やっ、止めなさい! 話し合おう」
「話しなんて無い!! 主婦でも簡単に稼げるって……あなたと一緒に旅行でもしたかった。だから……だから稼ごうと思って…………それなのにあなたは怒った。怒鳴った」
必死で止めようとするが佐智子は泣きながら包丁を振り回す。
「ぐぅぅ……やっ、止めろ…… 」
切られて腕が血だけになって横たわる表平を刺そうとした佐智子の後ろから声が聞こえた。
『女に刺される! 』
「誰が…… 」
振り返った佐智子が悲鳴を上げた。
「ひぃぃ……いやぁあぁぁぁ~~ 」
もう1人の表平が怖い顔で睨んでいた。前には寝ながら止めろと腕を伸ばす表平がいる。
「なっ、何が…… 」
佐智子が頭を何度も動かして2人の表平を見比べる。
『女に刺される! 』
もう1人の表平が佐智子を見てニタリと笑った。
「ひっ、ひぁあぁ~~、なっ、何で……あなたが2人…………殺さないと……2人とも殺さないと………… 」
前と後ろ、2人の表平に挟まれて佐智子がパニックを起す。
「たっ、助けてくれ…… 」
包丁を振り回す佐智子から表平は這這の体で逃げ出した。
『女に刺される! 』
「くっ、来るな! 刺すぞ……本当に刺すから………… 」
玄関を出て行く表平の耳に後ろの寝室で騒ぐ妻の声が聞こえてきた。
「たっ、助けてくれ……誰か、誰か警察を呼んでくれ」
血塗れ姿の表平に驚いた隣人が通報する。
暫くして警察がやってきた。パニックを起した妻の佐智子は保護されるように警察署へと連れて行かれて、両腕を切られて怪我をした表平は病院へと搬送された。
警察からの連絡で妻の佐智子が表平を毒殺しようとしていた事がわかる。動機は単純だ。表平に掛けた保険金で借金を返済しようと企んでいたのだ。
初めは毒で直接殺すつもりはなかったようだ。眩暈や失神を起させて通勤中の事故死を狙っていた節がある。だが表平が毒を飲まされているのに気付いたと思った佐智子は毒の量を増やして直接殺そうとした。野菜ジュースの味が変わり舌が痺れるようになったのは毒の量を増やしたからだ。
半年ほど前から毎日飲まされていた手作りの野菜ジュースに微量に毒が混ぜてあったのだ。毒物は茸や植物など天然にあるもので判明しただけで次の3種の名が上がった。
ケシ科クサノオウ属のクサノオウ、麻酔・鎮痛の作用があり生薬としても使われるが強い毒性を持っている。染み出す黄色い乳液に触れると皮膚がかぶれる。誤って食べると内臓が爛れて最悪死に至る。
ナス科ハシリドコロ属のハシリドコロ、フキノトウに似ていて誤食してしまうケースが多々見られる。下痢や嘔吐、血便、眩暈や幻覚、異常興奮などを起こし最悪死に至る。食べると錯乱状態となり走り回るのでこの名前が付いた。
キョウチクトウ科キョウチクトウ属のキョウチクトウ、葉から根まで全てに毒のある全株有毒植物だ。誤って食べると嘔吐、下痢、眩暈、四肢脱力、最悪死に至る。有毒成分のオレアンドリンの致死量は青酸カリをも上回るという強い毒性を持っている。
他にも何種類もの毒植物が混ぜられており詳細は判明しなかったが肝機能や腎機能に影響が出ているので表平はしばらく通院することになった。
「彼奴の……もう1人の私が言っていたことは本当だったんだな」
病院で治療を受けていた表平は警察から話しを聞いて愕然とした。
妻の佐智子は借金だけでなく浮気もしていた。初めは闇金から催促されて返済できずに嫌々だったらしいがいつの間にかその快楽に溺れていたのだ。
佐智子は殺人未遂で逮捕された。泣いて許しを請うたが表平は佐智子と別れた。全て向こうが悪いので妻の借金は元より財産分与も毒を飲まされた慰謝料で帳消しとなり佐智子には一切渡さなくても済んだ。
これで全て終わったと表平は思っていたが10日ほどしてまたもう1人の自分が現われた。
『苦しんで死ぬ! 』
枕元に正座したもう1人の自分が怖い顔で言うとすっと消えた。
毎日続いて怖くなった表平は病院へ行ったが検査を受けても肝臓や腎臓が悪いと診断されるだけだ。医者にもう1人の自分の話しをすると疲れて幻覚でも見ているのだとビタミン剤などの薬を処方されただけだ。
思い余った表平は心療内科へと駆け込んだ。
毒物による中毒症状によって幻覚や幻聴が出やすくなっているところへ妻の裏切りによって心身に負担が掛かり心を病んだのだと診断された。
体の怠さだけでなく眩暈も頻繁に起こる。病気を治さないと暮らしていけないと表平は会社を辞めて磯山病院へと自分から入院して来たのだ。
これが表平巡さんが教えてくれた話しだ。
話し終えた表平が缶コーヒーをグイッと飲んだ。
「情けない話しだろ、妻に毒を盛られて幻覚を見たんだ。でも幻覚でも何でももう1人の自分には感謝している。教えてくれなければ死んでいたかも知れないからね」
開けた缶コーヒーを飲むのも忘れて話に聞き入っていた哲也が質問する。
「表平さんはもう1人の自分は幻覚だと思っているんですね」
缶コーヒーをテーブルに置くと表平が頷いた。
「ああ、幻覚か寝言か、どちらかは分からないけど先生に診てもらって薬飲んでいるうちにどっちでもよくなったんだ」
話をしながら表平が格子の入った窓を見つめる。
「本当にもう1人の自分がいるとして何故もっと早く教えてくれなかったのかと訊きたいねぇ」
「表平さん…… 」
青い空を見ながら全てを諦めたような表平を見て哲也は掛ける言葉がない。
何とも言えない顔をする哲也を表平が覗き込む、
「お化けの話しじゃないけど面白かっただろ? もう1人の自分なんて誰も信じてくれないさ、まだ幽霊を見たって話しの方が信じて貰えるよ」
暗くなりそうな雰囲気を明るくしようと戯けるように話す表平の向かいで哲也が身を乗り出す。
「僕は信じますよ、幻覚かも知れないけど表平さんは確かにもう1人の自分を見たんですよ、だから助かってここに、磯山病院に居るんですよ」
「助かったか……そうだな、良い方に考えないとな」
寂しそうな笑みを見せる表平を元気付けようと哲也が明るい声を作る。
「そうですよ、早く治して退院してやり直しましょうよ、表平さんまだ42でしょ、幾らでもやり直せるじゃないですか」
「あはははっ、息子のような哲也くんに言われたら世話がないな」
声を出して笑う表平の向かいで哲也が座り直す。
「あっ、済みません、調子に乗りました」
「いいよ、いいよ、哲也くんの言う通りだな、ありがとう、元気出てきたよ」
元気が出たといいながら表平がベッドに腰掛ける。
「少し休むよ、治療はしているがまだ後遺症があるみたいなんだ。体が怠くてね、眩暈も頻繁に起きるし…… 」
「済みません、僕が話しを聞きたいなんて言ったから」
「哲也くんの所為じゃないよ、毒の所為だ。野菜ジュースだとか言って毎日少しずつ飲まされていたからね、昼間も疲れて目眩がして寝っ転がってたんだ」
「そうだったんですか……じゃあ、ゆっくりと休んでください」
哲也が立ち上がると表平はベッドに横になった。
「残りは置いていきますから食べてくださいね」
テーブルの上にある菓子を哲也が指差すと横になったまま表平が頷いた。
「ありがとう、後で食べるよ」
「夜の10時と深夜の3時に見回りもしていますから何かあれば呼んでくださいね」
哲也はペコッと頭を下げて部屋を出て行った。
翌日、表平が死ぬと言って騒ぎ出す。看護師の早坂と一緒に哲也も宥めた。
「大丈夫ですよ表平さん、ここは設備が揃っていますから急に倒れても直ぐに治療ができますから」
「哲也さんの言う通りですよ、何かあれば私たちが直ぐに駆け付けますから安心してください」
騒いでいた表平が哲也と早坂の顔を見て落ち着きを取り戻す。
「そっ、そうだな、ここには哲也くんが居るからな…… 」
「そうですよ、僕が見回りをしていますから安心してください」
表平を椅子に座らせると哲也も向かいに座った。早坂は落ちた布団や捲れたシーツを直してベッドを整えている。
「何があったんです? 」
哲也が訊くと表平が青い顔をして話を始めた。
「もう1人の私が出たんだよ、もう直ぐ死ぬって……もう1人の私が言ったんだよ」
「マジっすか? 」
声を一段高くして身を乗り出す哲也を見て早坂が話に割り込む、
「夢ですよ、表平さん眠れないって眠剤貰っているでしょう? それで夢を見たんですよ、無理矢理眠りに持って行く薬ですからね、人によっては寝入りばなや目を覚ましたときに意識がまだハッキリと覚醒していなくて幻覚を見たりすることがあるんですよ、薬が効いて眠っている間は夢なんて見ないんですけどね」
早坂がベッドをポンッと叩いてから続ける。
「表平さんは少し休んでください、お昼に…… 」
言いかけて哲也を見る。
「哲也さん、お昼は表平さん誘って一緒に食べてくれる? 私、昼から忙しいのよ」
「任せてください、一緒に食堂へ行きますよ」
香織や早坂に用事を頼まれて哲也が断ることなど滅多に無い。
「助かるわ、じゃあ、後は任せたわよ、表平さんは少し休んでくださいね」
「わかった。ありがとう看護師さん」
整えたベッドに表平が横になるのを見て早坂は部屋を出て行った。
座っていた哲也が立ち上がる。
「夢か幻か、それとも本当にもう1人の表平さんがいるのか、僕には判断できませんけど見回りを強化するので安心してください」
「ありがとう哲也くん……色々と迷惑を掛けたね、本当にありがとう」
「迷惑なんて全然ですよ、今度は僕の話しを聞いてください、先生の悪口とか患者さんと喧嘩をしそうになった事とかいっぱい話しましょう」
元気付けようと哲也が戯けて言うと表平が横になったまま楽しそうに笑った。
「ははははっ、楽しそうだな、愚痴なら私も負けないよ」
「じゃあ、お昼に迎えに来ますね」
ペコッと頭を下げて哲也は部屋を出て行った。
「哲也くんのような息子がいてくれれば私も頑張れるんだが…… 」
格子の入った窓から空を見上げて表平が呟いた。
夜10時の見回りで哲也がB棟へと入っていく、
「消灯時間過ぎてますよ、騒がないでくださいね」
テレビを見て騒いでいた大部屋を注意する。消灯時間は過ぎているがテレビは0時頃までは大目に見てくれている。但し騒がないという約束ありきだ。
「余り騒ぐとテレビ禁止されますよ」
静かになったのを見て哲也が見回りを再開した。
階段を下りて4階へと出る。
「表平さんか! 」
近くの部屋から呻き声が聞こえてきて哲也が駆け出す。
「表平さん、表平さん」
名前を呼びながらドアを開けて入っていくと表平がベッド脇の床に倒れていた。
「ぐっ、ぐぐっ…… 」
「表平さん! 」
苦しげに胸を押さえる表平を見て哲也は直ぐにナースコールを押した。
「表平さん、しっかりしてください、気をしっかり持って……負けないでください」
先生たちが駆け付けるまで意識を失わないように哲也は大きな声で話し掛ける。
「かっ、ぐぐぅ……てっ……てつ……ががっ」
来てくれたのが分かったのだろう、表平が何かを訴えるように哲也の腕を握った。
直ぐに早坂ともう1人の看護師が駆け付けてきた。
「表平さん!! あなたは先生を呼んで」
同僚の看護師に命じると早坂は哲也が抱える表平の脇にしゃがんで処置を始める。
暫くして先生がやってきて表平はストレッチャーに載せられて運ばれていった。これ以上は哲也には何も出来ない。
翌日、早坂から表平が亡くなったことを告げられた。直接の死因は心筋梗塞だが半年という長期間に少しずつ毒を盛られていた事で身体が弱っていたのも関係しているだろうとのことだ。
「表平さん……気さくで優しい人だった。僕に何か出来たら……もう1人の表平さんって何だったんだろう? 先生の言うように毒による幻覚か、初めは寝言だったから夢なのか、どちらにせよ霊的なものは感じなかった。悪い気配はしなかった」
もう1人の自分が死を予告したことを気に病んで眩暈か何かちょっとしたことが原因で倒れたのではないかと哲也は思った。そしてもう1人の自分が言ったように死ぬと恐怖してショックを起したのだ。あるいはもう1人の自分が現われたのかも知れない、気力を失っていたところへ死を告げられてそのまま亡くなったのかも知れない。
昔の人は寝言に返事をしてはいけないと戒めていた。返事をすると寝ている人が近い内に亡くなったり、良くないことが起こると信じていたのだ。
迷信だとバカにすることは出来ない、科学的に的を射ているのである。寝言に返事をするのはレム睡眠の邪魔をしてしまうのでよくないのだ。
レム睡眠は浅い眠りのことで脳は活発に働いているが体は休んでいる状態だ。この時に人は夢を見るといわれている。寝言に返事をするのはレム睡眠の邪魔をして睡眠不足の状態に陥りやすくなるのだ。
それだけではない、レム睡眠時は周囲のことをある程度把握しているらしく脳が反応してしまう、そのため寝言に返事をされると無意識にこたえなければいけないという気持ちが働き脳に負担を掛けるのだ。
昔の人たちは寝言に返事をすることで寝ている人にどういうことが起るのか科学的にわかっていたわけでないだろう、だが寝言に返事をすることで寝ていた人が体調を崩したり睡眠不足になったりするのを見て返事をするのはよくないことだと体験で知っていたのだ。
表平の場合、幻覚を見たのか夢なのかはわからないがもう1人の自分が言った言葉に反応しすぎて心労が溜まっていったのだろう、もう1人の自分が夢なら寝言に反応したと言ってもいいのかも知れない。
妻に盛られた毒の所為で幻覚を見たのか、それとも本当にもう1人の自分が存在していたのか、どちらにせよ悪いことばかり教えてくれるなんてごめんである。
寝言、それは本当に自分が言っているのだろうか? 自分の口を借りて何か他のものが言わせていることもあるのかも知れない、今回の怪異を聞いて哲也はそう思った。