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第三十三話 開かずの間

 開かずの間とは禁忌などで戸を閉め切ったまま意識的に使う事が避けられている部屋のことである。その殆どが良い意味で使われることがなく、特別に何かを催す時以外は使用することはない。


 開かずの間を作ってしまう要因は幾つかある。

 何かに祟られている。得体の知れない何かが居る。良くないことが起きる。これらの心霊的な開かずの間だけではなく疫病の患者や死期の近い病者を入れておいた部屋をけがれているとして開かずの間にしたという例もある。


 見聞きした範囲に開かずの間は無いとしても、開けない、もしくは開かない場所は誰でも一つくらいは心当たりがあるだろう、鍵が壊れた扉はもちろんキッチンの上にある棚のような手の届かない場所は滅多に開かないものだ。使い勝手が悪いので使わずに放ってある場所もあるだろう、その様な場所は開かずの場所と言ってもいいのかも知れない。


 哲也は知らず知らずのうちに開かずの間に関わってしまった人を知っている。その人は巧みな罠に掛かるように引き込まれていったのだ。旨い話には裏がある。哲也は改めて思った。



 昼食後、腹ごなしに哲也は敷地内を散歩していた。近頃は暖かくなってきて部屋より外の方が心地が良い。


「あの人たちか、草刈りって言ってたな」


 遊歩道の先に見掛けない男たちが10人ほど居た。

 病院から委託された業者が草刈りにやってきているのだ。暖かくなって草もぐんぐん生えてくる。敷地をぐるっと回っている遊歩道に沿って草を刈っていくのだ。


「草刈機って結構面白そうだよな」


 長い棒の先に回転する刃を付けた草刈機を操る業者の男を見ながら哲也が呟いた。

 同じ事の繰り返しである病院内の生活から見れば草刈りでも楽しそうに見える。確かに草刈機は面白い、だが初めだけだ。手に伝わる振動と重さで30分経たずに嫌になるだろう、草の根元に隠れている蛇や蛙などの小動物を殺してしまうこともある。優しい哲也なら一発で嫌いになるのは間違いない。


「この辺りはもう終ったんだな、綺麗さっぱり丸坊主って感じだ」


 両脇の雑草がが綺麗に刈られた遊歩道を歩いて行くと病院の職員が椅子を置いて座っているのが見えた。


「眞部さんだ。何してるんだろう? 誰か来るの待ってるのかな」


 哲也が今居る場所は裏門に当たる西門の近くだ。患者や見舞客が普段使うのは正門で西門は職員や資材運搬などの業者が使う事が多い、今作業している草刈りの業者もトラックを西門の脇に駐車している。もっとも絶対というわけではなく、患者や見舞客が西門を使うこともある。それで職員が待っていると思ったのだ。


「眞部さん、こんにちは」


 声を掛けながら哲也が近寄った。


「はい、こんにちは、散歩かい」


 病院の事務職員である眞部が人の好さそうな笑みを見せた。

 眞部代古まなべだいご63歳、病院の事務職の主任で勤続年数35年を越えるベテランだ。おっとりとした性格なのだが指示は的確に出す。他の事務員はもとより看護師や先生からも信頼されている。哲也の警備員だという妄想にも付き合ってくれている優しい人だ。


「うん、暖かくなってきたから部屋に居るより楽しいですから」


 笑顔で返す哲也の向かいで眞部が同意するように頷いた。


「そうだねぇ、ポカポカして気持ち良いからねぇ」


 眞部の孫を見るような優しい眼差しに哲也が調子に乗って続ける。


「季節の変わり目って好きなんですよね、暖かくなる春先とか寒くなっていく秋とか、心地好いというか……身体は気温の変化についていくのに疲れるんですけど」

「はははっ、わかるよ、春は私も好きだよ、でもね歳を取ってくると寒くなるのは疲れるだけだねぇ」

「歳だなんて、眞部さんはまだまだ若いですよ、僕よりもしっかりしてますから」

「ははははっ、若いなんて嬉しいねぇ」


 楽しげに声を出して笑う眞部に哲也が気になっていたことを訊く、


「話変わりますけど、何してたんです? 誰か来るんですか? 」

「ああ、これかい? 」


 座っている椅子をポンッと叩くと眞部が続ける。


「通行止めだよ、草刈りしてる所に患者さんが入らないようにね、ここで見張ってるってわけさ」


 患者が業者と諍いを起さないように草を刈る場所を一時的に通行止めにしているのだ。


「見張りですか……そんなの眞部さんがしなくても他にいるでしょ? 新人にやらせればいいじゃないですか」


 上司がやる仕事ではない、眞部に好意を持っている哲也が怒るのも無理はない。

 不服そうに顔を顰める哲也を宥めるように眞部が話し出す。


「まぁまぁ、そう言わないでさ、たまにはいいもんだよ、事務の仕事は若いもんに任せて年寄りは日向ぼっこしながらのんびりやるさ」

「日向ぼっこか……眞部さんがそう言うなら別にいいけど…… 」


 まだ少し不服そうな顔をしていた哲也が言葉を止めた。

 西門から車が入ってくるのが見えたのだ。


「送迎の車だ……お見舞いでも来たのかな? 」


 呟くように言う哲也の向かいで眞部が腕時計をちらっと見た。


「患者さんだよ」


 教えてくれた眞部に哲也が振り返る。


「新しい患者さんか……正門から入ればいいのに、本館まで遠いのに」

「そうだねぇ、西門からじゃ歩いてぐるっと回らないとダメだからね」

「そうですよ、病練が沢山あるから西門からじゃ迷いますよ」


 哲也は前に向き直ると車を見つめた。


「まぁ、初めてで勝手がわからないんじゃないかな」


 来る方からすれば大きなお世話かも知れない哲也の言い分に眞部は優しい表情で合わせてくれる。


「可愛い子ならいいのになぁ」


 期待するように呟く哲也の見つめる先で車から男が2人降りてきた。


「なんだ男か…… 」


 がっかりする哲也を見て眞部が笑い出す。


「あははははっ、新垣さんだよ、可愛い女の子じゃないけど哲也くんの好きなお化けの話しだよ」


 哲也がバッと振り向いた。


「お化けってなんすか? 」


 興味津々の顔で見つめる哲也の向かいで眞部がしまったという表情になる。


「いや、別に……何でもないよ」


 慌てる眞部の顔を哲也が覗き込む、


「何隠してるんです? あの患者の事知ってるんでしょ? 」

「いや、だから……ダメなんだからね」


 弱り顔の眞部を見て哲也がにっと悪い笑みを浮かべる。


「教えてくださいよ、誰にも言いませんから……眞部さんに聞いたって言いませんから」

「ダメだよ、私もちょっと聞いただけだし…… 」

「じゃあ、そのちょっとだけでいいんで教えてください」


 しつこく食い下がる哲也の前で眞部が大きな溜息をつく、


「仕方ないなぁ、口を滑らせた私が悪いんだし……誰にも言わないでくれよ」

「眞部さんに迷惑は掛けませんから」


 調子の良い笑みを見せる哲也に弱り顔の眞部が話を始めた。



 車から降りてきた2人の男は親子だ。心を病んだ息子を父が連れて来たのだ。

 新垣加寿覇にいがきかずは20歳、大学生だった新垣は住み込みのアルバイトをしてから様子がおかしくなった。何でも鬼に憑かれたらしい、毎晩のように鬼が出たと言って騒ぐ、仕舞には鬼が入ってくると言って窓はもちろんドアまで部屋の中から釘を使って板を張り付けて開かなくして閉じ籠もろうとした。

 息子の奇行を心配した父親が心の病だとして磯山病院へ入院させる事にしたのだ。


 話しを聞いた哲也が目を輝かせる。


「鬼って、あの角の生えた鬼ですか? 」

「どうだろうねぇ、詳しい話しを聞いたわけじゃないからねぇ……まぁお決まりの幻覚や妄想ってことだろうけどねぇ」

「幻覚でも妄想でも面白そうっす」


 苦笑いでこたえる眞部の前で哲也が駆け出した。


「本館まで案内してきます」

「あっ、哲也くん…… 」


 止めようとした眞部の声など哲也には聞こえない。


「鬼か……どんな話しかなぁ~~ 」


 浮かれて走っていた哲也の足が止まる。西門の警備員詰め所から看護師の佐藤が出てくるのが見えた。


「なっ、ヤバい! 」


 くるっと回って戻ってくる哲也を見て眞部が首を傾げる。


「どうしたんだい? 」

「佐藤さんは苦手っす」


 先程までの浮かれが消えている哲也の顔を見て眞部が笑い出す。


「はははっ、哲也くんにも苦手があったんだな」

「そりゃ、ありますよ」


 こたえながら哲也が眞部の後ろに隠れるようにして身を縮めた。


「あははははっ、幽霊が平気だから苦手なものなんて無いって思ってたよ」


 大笑いする眞部の後ろで哲也が顔を顰める。


「池田先生と佐藤さんは苦手っす。幽霊の方がマシっす」

「酷い言われようだね、池田先生は余り知らないけど佐藤さんは良い人だよ」

「良いとか悪いとかじゃなくて性格的に合わないっす。佐藤さん怖いから…… 」


 弱り顔の哲也を眞部が楽しそうに見つめる。


「怖いか……確かに身体も大きいし顔もちょっと怖く見えるな」

「ちょっとどころじゃないっす。何度も怒鳴られてるっす」

「あははっ、それは哲也くんが叱られるような事したからだろ」

「そりゃ、そうなんですけど……ちょっとした事でも怒るっす。佐藤さん」


 弱り顔で愚痴る哲也を見て眞部が優しい顔で口を開く、


「叱ってくれる人は必要だよ、哲也くんを心配して叱るんだよ」

「それはわかってますけど…… 」


 新垣親子が佐藤に案内されて建物の影に消えたのを見て哲也が立ち上がった。


「部屋に戻ります」

「お化けの話しを聞くのは諦めたのかい? 」


 楽しそうに訊く眞部の前で哲也がニヤッと悪い顔で笑う、


「部屋に戻って作戦考えます。佐藤さんが担当するなら用心して考えないと」

「作戦か……私から聞いたってのは内緒にしてくれよ」

「わかってますよ、話しを聞かせてくれてありがとうございました」


 ペコッと頭を下げると哲也が走り出す。


「哲也くんにも困ったものだ……話した以上は私が面倒見ないとな」


 去って行く哲也の背を見つめる眞部の顔に先程までの優しい笑みは消えていた。



 夕方の見回りを終えると哲也はナースステーションへと向かった。


「香織さんに聞くのが一番早いからな、新垣さんの部屋番号と病状を詳しく聞かないと、暴れる患者だったら大変だからな」


 作戦を考えると言ったのはいいが結局良いアイデアが浮ばず香織に話しを聞きに来たのだ。

 夕食を食べに出てきた香織に哲也が近付いていく、


「香織さん、ちょっといいですか? 」


 笑顔の哲也を見て香織が顔を顰める。


「ちっともよくないから」


 来るなと言うように手を振る香織に哲也が食い下がる。


「ちょっ、待ってくださいよ、まだ何も言ってないっす」

「言わなくても分かるわよ、また何か聞きに来たんでしょ? ダメですからね」


 呆れ顔の香織の正面に哲也が立った。


「えへへっ、流石香織さん……新垣さんの事でちょっと」


 おべっか笑いする哲也の前で香織の顔色がさっと変わった。


「新垣さんって新垣加寿覇にいがきかずはさんの事? 」

「そうっす。鬼が出てくるって話しを聞きたくて…… 」


 哲也の話を香織の叱咤が遮った。


「誰から聞いたの! 」

「えっ!? 」


 行き成り怒鳴られて哲也がきょとんと驚き顔で香織を見つめた。


「新垣さんの事よ、誰に聞いたの? 怒らないから話しなさい」


 怒らないと言いながら香織は既に怖い顔だ。


「それは……西門から入ってくるのを見ただけで………… 」

「見ただけで何で名前がわかるのよ、鬼のことも……正直に話しなさい、誰に聞いたの? いいから話しなさい」


 冗談交じりではなく本気で怒る香織を見て哲也が後退る。

 香織が声色を和らげて続ける。


「新垣さんに近寄るのは禁止だからね、破ったら怒るからね……それで誰が哲也くんに話したの? 正直に言わないと怒るからね」

「もう怒ってるっす…… 」


 弱り顔の哲也の前で香織がニコッと笑顔を見せた。


「こんなの怒ったうちに入らないわよ、話さないと本気で怒りますからね、誰に聞いたの? 」

「それは…………情報提供者の事は話せないっす」


 哲也はダッシュで逃げ出した。


「あっ! 待ちなさい、怒るからね」

「もう怒ってるっす~~ 」


 後ろから聞こえてくる香織の怒り声を振り切って哲也は逃げるのに成功した。


「香織さん怖えぇ……あんなに恐ろしい笑顔は初めてっす」


 病棟の外、建物の影に隠れると全速で走ってきた息を整える。


「マジで怒ってたよ、嶺弥さん居なくてよかったよ」


 警備員の嶺弥が相手なら直ぐに捕まっているだろう、考えるように顔を顰めながら哲也が続ける。


「どうするかな、あの様子じゃ香織さんから聞き出すのは無理だし……早坂さんに貸しがあったな、うん、早坂さんに聞こう、っと、その前に飯だ」


 悪い顔で一人呟くと哲也は食堂へと走って行った。早坂には嶺弥についての情報を色々と教えている貸しがあるのだ。



 夕食を終えた哲也はC棟へと向かった。夕方の見回りで早坂を見掛けたのだ。


「ナースステーションには居ないみたいだな」


 香織がいるかも知れないと隠れるようにして覗くが早坂の姿は見えない。


「どこ行ったんだ? ナースコールでも掛かったかな、A棟は香織さんが居るから行きたくないんだけどな」


 どうしたものかと考えていると後ろから肩を叩かれた。


「哲也くん、何してるんだい? 」


 ビクッと体を震わせて振り返ると事務員の眞部が立っていた。

 香織にでも見つかったのかと焦っていた哲也の顔に安堵が広がる。


「吃驚した……眞部さんか」


 笑顔の哲也とは対照に眞部が顔を顰めた。


「何してるんだい? 看護師さんに用事でもあるのかい、でも隠れて覗くなんて感心しないな」


 疑われては困ると哲也が顔の前で手を振りながら話し出す。


「ちっ、違うんです。早坂さんを探してて…… 」

「看護師の早坂さんかい? 」

「ええ、そうです。ちょっと用事がありまして…… 」


 口籠もる哲也の顔を眞部が覗き込む、


「用事? 他の看護師さんに見つかるとダメな用事かい」


 眞部の怪訝な表情に哲也は観念して本当のことを話すことにした。


「違います。他の看護師さんというか……香織さんに見つかると怒られるから」

「香織さん? ああ、東條さんか、また怒られるようなことをしたのかい」


 違うと軽く首を振ってから哲也が続ける。


「別に……新垣さんのことを、鬼のことを訊こうとしたら凄く怒られて………… 」


 眞部が呆れるように溜息をついた。


「それで早坂さんに聞こうと思ったんだね」

「だって、鬼が出てくる話しなんて妄想でも楽しそうじゃないですか」

「懲りないなぁ、哲也くんは……早坂さんなら3階に居たよ、先程まで私と一緒に備品のチェックをしていたからね、まだ居るはずだよ」


 目を輝かせる哲也の向かいで眞部が仕方無いといった様子で教えてくれた。


「3階の倉庫か……ありがとう眞部さん」


 笑顔で礼を言うと哲也は小走りで階段へ向かっていった。


「少し怖い目に遭った方がいいのかも知れないねぇ」


 階段へと消えていく哲也を見て眞部が呟いた。



 3階へと上がった哲也は廊下を反対方向へと歩く早坂を見つけて慌てて追い掛ける。


「早坂さん、早坂さん」


 呼びながら走ってくる哲也を見て早坂が顔を顰める。


「廊下は走っちゃダメでしょ、哲也さん」


 振り返って叱る早坂の前へと来ると哲也が違うと言うように手を振った。


「そんな事より聞いてくださいよぉ」


 香織に話しを聞こうとして怒られた話しを早坂に聞かせた。


「時々マジで怒るけど今日のが一番怖かったですよ」


 無言で話を聞いていた早坂が正面から哲也を見据えた。


「それで私の所に来たのね」

「そうです。早坂さんなら教えてくれると思って…… 」


 おべっか笑いをする哲也の前で早坂は無表情だ。


「東條さんより与し易いと思ったわけね」

「ちっ、違いますよ、早坂さんは優しいし…… 」


 図星を指されて動揺する哲也を睨みながら早坂が続ける。


「新垣さんの事でしょ? 鬼が出てくるって騒ぐ話しでしょ? 悪いけど私も話せないわよ、東條さんだけじゃなくて池田先生にも注意されたから」


 哲也の行動パターンなど香織はお見通しだ。前もって早坂に話していたのだろう、


「そっ、そんなぁ~~ 」


 嘆いた後で哲也が拝むようにして頼む、


「お願いしますから、早坂さんに聞いたって言いませんから教えてくださいよ」

「ダメです。哲也くんが話さなくても私から漏れたってバレるでしょ、入って来たばかりの新垣さんの事を知っているのは数人しか居ないんですからね」


 取付く島もない早坂に哲也が最後の手段を使う、


「それはそうだけど……早坂さんには貸しがありましたよね」

「貸し? そんなのあったかな」


 とぼける早坂の前に哲也が身を乗り出す。


「嶺弥さんのこと色々教えたでしょ、何かあればこれからも教えますから早坂さんも教えてくださいお願いしますよ」

「そうねぇ、須賀さんのことを色々教えて貰ったから話してあげたいのは山々なんだけどな…… 」


 悩むような早坂を見て哲也が畳み掛ける。


「僕は早坂さんと嶺弥さんが仲良くなれるように応援してますから、だから頼みますよ」

「う~ん、ごめん」


 悩みながら早坂が頭を下げた。


「今回は無理だわ、東條さんも池田先生も冗談で許してもらえるような顔じゃなかったわよ、哲也さんの頼みは利いてあげたいんだけど今回だけはダメだわ、哲也さんも諦めた方がいいわよ、本気で叱られるわよ」


 今までの表情と違い早坂は本気で心配している顔だ。


「そんなに怒ってたんですか? 」


 不安気に訊く哲也の向かいで早坂が真剣な表情で頷いた。


「東條さんだけならどうにかなるんだろうけど池田先生が相手じゃ私なんかじゃ無理だからね、温厚だから怒らせると怖いわよ」

「マジっすか…… 」


 項垂れる哲也の肩を早坂がポンポン叩く、


「そういう訳だからごめんね、他のことなら何時でも訊きに来ていいわよ」


 落ち込む哲也を置いて早坂は長い廊下を歩いて行った。


「話しくらい教えてくれてもいいのに…… 」


 ふて腐れた哲也がのそのそと反対側に歩いて行く、


「そんなにヤバいのかな? 暴れたりする患者なのかな」


 普段なら患者の事は話せないと叱る早坂が他の患者の事なら話すと言うほどに今回入って来た新垣は危ないのかと思いながら哲也は部屋へと戻っていった。



 夜の11時前、見回りを終えた哲也がE棟から出てくる。


「おかしい……どういう事だ? 」


 首を傾げながらE棟を見上げる。


「何で新垣さんの部屋が無いんだ? おかしいだろ」


 繰り返し『おかしい』と口から出てくる。

 香織や早坂から話が聞けないなら本人から直接聞こうと一つずつ部屋を確かめたのだが哲也の見回っているA~E病棟には新垣の名前は無かった。


「どういう事だ? もう一度見て回るか……いや、3時の見回りでもう一度確認しよう」


 納得のいかない顔をして哲也が部屋へと戻っていった。



 深夜3時の見回りでも新垣の部屋は無かった。気軽に見て回った夜10時の見回りとは違いドア横のネームプレートに付いてある名前を一つずつ呟きながら見回ったのだ。見間違いや漏れなど有り得ない。


「何で無いんだ? おかしいだろ……香織さんはまだ怒ってるだろうから早坂さんにでも聞いてみよう」


 新垣がどこにいるのか分からないのでは哲也には為す術はない。


「諦めるしかないかな、鬼の話し聞きたかったなぁ」


 半分諦めて哲也は部屋へと戻ってふて腐れて眠った。



 翌朝、寝惚け眼の哲也が食堂へ行こうとA棟を出て外を歩いていると看護師たちの話しが聞こえてきた。


「部屋に籠もって出てこないんだってさ」

「新垣さんだったよね、佐藤さんも大変だね」


 哲也の眠気が吹っ飛んだ。話しながら歩いていた看護師たちを直ぐに追った。


「新垣さんって新しく入った患者ですよね? 何処の部屋なんです」


 行き成り話しに割って入った哲也を看護師の1人が怪訝な顔で見つめる。


「貴方も患者でしょ? 」


 新しく入ったのか哲也の知らない看護師だ。


「すっ、すみません…… 」


 咄嗟に謝る哲也にもう1人の看護師が微笑みかける。


「ああ、哲也くんはいいのよ、警備員だから」

「警備員? 」


 もう1人の看護師は哲也の顔馴染みだ。騒ぐ患者を一緒に取り押さえたこともある。

 ペコッと頭を下げると哲也が口を開いた。


「おはようございます。僕も手伝いに行きたいので新垣さんの部屋を教えてください」

「おはよう哲也くん、新垣さんの部屋? 病棟が違うから部屋番号までは知らないけどD棟よ、騒ぎになってるから行けばわかると思うわ」

「ありがとうございます」


 気軽に教えてくれた看護師に元気よく礼を言うと哲也は駆け出した。

 新人看護師が先輩看護師を見つめる。


「警備員って何です? あの人も患者さんですよね」

「ああ、哲也くんね、哲也くんは頼りになるのよ」


 新人看護師に哲也の事を説明しながら顔馴染みの看護師は歩いて行った。



 哲也がD棟に入ると新垣の部屋は直ぐに分かった。馴染みの患者たちの間で新しく入った患者が部屋に籠城していると騒ぎになっていたからだ。


「やっぱりこの辺りの部屋だったか…… 」


 2階へ上がると部屋の前に看護師や職員が数名集まっていた。この辺りはナースステーションの真上でD棟の脇に建つ警備員控え室も近く、問題のある患者にあてがわれる部屋だ。


「200号室か……あれ? 」


 哲也は不思議なことに気が付いた。ネームプレートが空白だ。新垣の名前が付いていない、見回りで各部屋を探しても見つからないわけだ。


「名前付けてないじゃないか、どうなってんだ? 」


 昨晩苦労して探したのを思い出して愚痴る哲也の後ろに香織が立った。


「ひぅ! 」


 気配を感じてサッと振り返った哲也の喉から変な悲鳴が出た。


「おはよう、哲也くん」


 満面の笑みを湛えた香織が挨拶する向かいで哲也の顔から血の気が抜けていく、


「おっ、おぉ……おはっ、おはようございます」


 哲也は震えて声が出てこない、香織の目の奥が笑っていないのは直ぐに分かった。


「どうしたの? 顔色悪いわよ、診てあげましょうか」


 そこらの男が全員惚れてしまいそうな愛らしい笑みをしている香織だが哲也には恐怖以外の何物でもない。


「だっ、だだっ、大丈夫です」


 落ち着かせようと哲也は自分の太股をバシッと叩いた。


「ごめんなさい香織さん」


 バッと頭を下げた。負けるが勝ちだ。逃げることもできたが香織に嫌われたくないという気持ちが働いた。


「謝っても許しません……まったく」


 許さないと言いながら香織の目から怒りが消えていた。


「見つからないように名札も付けてなかったのに直ぐにバレちゃったわ」


 普段の優しい表情に戻った香織に哲也も安心して話し掛ける。


「バレたって……僕に見つからないように名前書いてなかったんですか? 」

「そうよ、早坂さんに聞きに行ったでしょ、次に何をするかなんて直ぐに分かるわよ」

「昨日必死で探したっす……普段の倍の時間掛けて見回りしたのに………… 」


 恨めしそうに話す哲也の背を香織がポンポン叩いた。


「ご苦労様、じゃあ朝食食べに行きましょうね、私が送ってあげるわよ」


 哲也の背を押して香織が歩き出そうとした時、後ろからドアを壊す音が聞こえてきた。


「無茶するなぁ…… 」


 哲也が振り返ると看護師の佐藤がドアを蹴破っていた。


「ストレッチャーを持ってきてくれ! 」


 佐藤の緊迫した声に哲也が走り出す。


「あっ、こら! 哲也くん」


 慌てて追い掛ける香織の前で哲也が新垣の部屋へと入っていった。



 部屋の中は凄い有様だ。ドアの脇でベッドが引っ繰り返っている。ドアが開かないようにベッドを立てていたらしい。


「おっ、鬼が……鬼が来るんだ…………ドアを塞がないと鬼が入ってくる。鬼が……入ってくるんだ……開かずの間に鬼が………… 」


 床に倒れた新垣が譫言のように鬼と言っていた。


「鬼って……新垣さん」


 何があったのかと訊こうとした哲也の腕を香織が引っ張った。


「ダメって言ったでしょ哲也くん」


 怖い顔で叱る香織に臆しながらも哲也が言い返す。


「何か手伝うことはないかと…… 」

「手伝いなんていらん、朝飯でも食べに行ってろ」


 哲也の言葉を佐藤の大声が遮った。


「あぁ……はい、ごめんなさい」


 小さな声で謝ると哲也はすっと部屋を出た。怒る香織も怖いが大柄で強面の佐藤は性格的に苦手だ。


「だからダメって言ったでしょ」


 香織が哲也の腕に手を回して横に並んだ。腕組みだ。


「えへへっ、佐藤さんが居るの忘れてた」


 照れ隠しに笑う哲也の手を引っ張って香織が歩き出す。


「はいはい、朝ご飯食べに行くわよ、新垣さんにはもう近づいちゃダメだからね、約束しなさい」

「うん、わかった。佐藤さんも怖いし今回は諦めるよ」


 だらしなく頬を緩めた哲也が素直に従った。腕に当たる香織の胸が気持ち良かったのだ。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也は新垣の部屋に誰かが入るのを見つけた。


「佐藤さんか? こんな時間に? 」


 哲也がそっと近付いていく、入っていったのは大柄の男に見えた。看護師の佐藤だと思ったので気配を消してバレないように見に行ったのだ。

 新垣の部屋、壊れたドアは取り外されたままだ。代わりにカーテンが掛かっていた。ドアを塞いで籠城しないように暫くはカーテンだけにしておくらしい。


「おっ、鬼が……助けてくれ~~ 」


 カーテンの隙間から覗こうとした時、新垣が悲鳴を上げて飛び出してきた。


「どうしました? おわっ! 」


 声を掛けた哲也に新垣がしがみついてきた。


「たっ、助けてくれ……鬼が……鬼が出たんだ」


 震える声を出す新垣を脇に避けると哲也は部屋の中を覗いた。


「何も居ませんよ、安心してください新垣さん」


 優しく声を掛ける哲也の顔が引き攣っていた。

 部屋の中には誰も居ない、では先程見た大柄の男は誰なのだろう、思い出してみると佐藤よりも遙かに大きかったような気がする。鬼という言葉が哲也の頭の中を駆け巡る。


「ほっ、本当か? 鬼が……鬼が居るだろ? 」


 しがみついていた新垣が怖々と部屋を覗くと安堵したのかその場にへたり込んだ。


「新垣さん、しっかりしてください」


 哲也は抱えるようにして新垣をベッドに寝かせた。


「鬼が……鬼……本当に出たんだ…………鬼が入ってくるんだ」


 腕を離してくれない新垣を安心させようと哲也が優しく声を掛ける。


「大丈夫ですよ、病院は安全ですよ」

「安全なんてあるか! 」


 急に怒鳴った新垣を見て哲也が落ち着かせようと話し掛ける。


「すみません、そうですね、不安になりますよね、無責任なことを言ってすみません」

「ああ……俺も悪かった。怒鳴って悪かった。でも鬼が来るんだ。あの日から……開かずの間で鬼を見たから…………鬼が…… 」


 哲也の腕を引っ張りながら新垣が謝った。


「鬼ですか? 詳しい話しを聞かせてくれませんか」


 鬼も気になったが開かずの間という言葉も気になった。


「話しか……誰も信じてくれない、鬼は本当にいるんだ」


 腕を引っ張る新垣の手に哲也が反対側の手を重ねた。


「僕は信じますよ、だから話しを聞かせてください」

「朝まで一緒に居てくれ……一緒に居てくれるなら話す」


 怯えた目をした新垣が哲也を見つめた。

 哲也は壁に掛かる時計をちらっと見た。3時の見回りをしていたので今は午前4時前だ。


「わかりました。日が昇るまで、6時くらいまで一緒に居ますよ」


 香織や佐藤が見張っているのだ。こんなチャンスはもう来ないだろうと哲也は思った。

 見回りをサボることになるが残っているのはE棟だけだしいいだろうと自分を誤魔化して話しを聞くことにする。


「約束だぞ、朝まで居てくれるなら話すよ」

「約束しますよ、僕は警備員の中田哲也です。哲也と呼んでください」


 近くにあった円椅子をベッド脇に持ってくると哲也は腰掛けた。

 これは新垣加寿覇にいがきかずはさんが教えてくれた話しだ。



 大学2回生の新垣は休みを使って短期の住み込みバイトを始めた。バイト先は古い旅館だ。旅館といっても給仕のバイトではない、ブログの管理やSNSなどを使ったインターネットの仕事である。有り体に言えばネットを使った旅館の宣伝をするバイトだ。

 敷地はもちろん建物も大きな旅館だ。築250年以上は経っている。戦前どころか江戸時代からある文化財級の旅館で客足も多く繁盛している。新垣は宣伝など必要無いんじゃないかと思いながらもバイトを始めた。


 遊ぶだけでなくプログラムを組むほどにパソコンに精通している新垣にとってブログの管理やネットを使った宣伝などはとても簡単なものだった。朝昼晩、少し宣伝するだけの仕事だ。ハッキリ言って1日の実働時間は2時間もない、これで日給1万円貰える。バイトどころかこのまま正社員になっても良いとさえ思える楽な仕事だ。


 ただ一つ不満があった。部屋だ。住み込みのバイトであてがわれた部屋が嫌なのだ。

 大きな旅館には本館と別館がある。新垣の与えられた部屋は本館の端、布団部屋や物置部屋が並ぶ通りの一番端にあった。新垣以外にも住み込みで働いている人はいる。その人たちは別館の裏にある専用の寮に住んでいる。寮の空き部屋が無いという事で新垣1人だけが今の部屋となったのだ。

 自分だけ違う場所というのが嫌なのではない、部屋の雰囲気が嫌なのだ。部屋が悪いと言うわけではない、12畳もある広い部屋で日当たりも良く風通しも良い、ハッキリ言って実家住まいの自分の部屋よりも上等な部屋だ。だが何故か嫌なのだ。日の差す明るい部屋なのに気分が滅入ってくる。歴史ある古い造りの和室なので神経が高ぶっているのだろうと自身に言い聞かせて我慢するしかない。


 部屋の雰囲気は我慢できるとして一番嫌なのは隣の部屋だ。旅館の主人から古い物が仕舞ってあるから絶対に開けるなと言われている。歴史ある旅館だ。価値あるものが仕舞ってあるらしい、主人は『開かずの間』だと言って笑った。

 その隣の部屋が嫌なのだ。寝ているとカタカタと音が聞こえてきたり、何かが歩き回るような気配がするのだ。主人に話すと鼠や鼬などが入って来ているのだろうから気にしないでいいと言うだけだ。

 開かずの間という響きと相俟って幽霊でも出るのではないかと怖かったが常識を疑われるので霊現象とは口が裂けても訊けなかった。その代わりに開かずの間を見せてくれとは訊いた。主人は快く見せてくれようとしたが引き戸の鍵が見つからない、探しておくのでそれまで待っていてくれと言われてそれきりだ。

 簡単に見せてくれようとしたし物置として使っていることに違いないと新垣も気にするのを止めた。10日間の短期バイトという事もある。少し我慢すればいいだけだ。



 バイトは退屈だった。ご主人が写真などを持ってきてそれを掲載したり説明文を書くために1日に数回ブログを更新するだけだ。だが暇だといって外を歩き回ることは出来ない、SNSやブログを見た人からの連絡があるかも知れない。

 旅館の主人からは問い合わせに即時対応できるように出来るだけ部屋に居てくれと言われている。楽な仕事だが待機時間もバイト代の内だという事だ。

 食事も運んできてくれる。それも豪華な食事だ。とても従業員が食べる物ではない、話しを聞くとキャンセルになった客のものだから遠慮無く食べていいとのことだ。新垣は喜んで食べた。

 この様な環境なので初日から部屋を出るのはトイレと風呂くらいだけになっていた。


 12畳の広い部屋に1人で寝っ転がりながら新垣が呟く、


「出ようと思えば何時でも出られるけど俺のバイトも開かずの間みたいなものだな」


 見つめる先、隣の部屋は倉庫となっている開かずの間だ。


「外で遊べないのは残念だけど飯も旨いし温泉も入れるし、これで13万ほど貰えるなんてラッキーだ。バイト終ったらゆっくり観光して土産でも買って帰ればいいな」


 旅館の主人がバイトを終えたら2日ほど泊まっていっていいと言ってくれた。もちろん只だ。飯も食わせてくれるとの事だ。10日も缶詰になるので気を使ってくれたらしい。


「それにしても暇だなぁ~~、問い合わせも来ないし…… 」


 大きな欠伸をすると新垣は目を閉じた。眠っても誰も文句を言うものは居ない。

 バイトは10日間だ。日当1万だから10万になる。働きによってこれに少し色が付く、主人曰く、最後まで続けてくれれば13万円くらいは渡すよと言われて新垣は少々の不満は飲み込んだ。定期的にネットをチェックする以外は漫画を読んでいようがスマホを弄っていようが友人と電話をしていても文句は言われない、遊んでいるようなバイトだ。



 バイトを始めて3日経った。

 朝のブログ更新を終えると新垣はゴロッと横になる。

 パソコンが置いてある小さなテーブルの前、座布団を枕にしてスマホで遊んでいたがいつの間にか眠りに落ちていた。


『ガサガサガサ……ゴソ、ガサガサ………… 』


 物音で新垣が目を覚ます。物置となっている隣の部屋から何かが這いずり回るような音が聞こえていた。

 旅館の主人によると鼠か鼬でも入って来ているのだろうとのことだが新垣はもう少し大きな生き物が居ると思っていた。テレビでも時々放送されるアライグマか何かが巣でも作っているのではないかと考えた。主人に話そうとも思ったが止めた。短期のバイトだ。厄介事は嫌なので音くらいは我慢するつもりだ。昼寝してても叱られないバイトの邪魔はされたくないのだ。


「またか……ふぁわぁ~~あぁ」


 新垣が大きな欠伸をしながら起き上がる。初めは霊現象なのではと考えもしたが音だけで何も起こらない、3日も経つと隣の物音には慣れていた。


「そろそろお昼だな、仕事しないとな」


 怠そうに呟くとテーブルの上にあるパソコンを起動させる。


「問い合わせは無しっと……まあ、空きがあるかって聞かれても予約で半年先まで埋まってるんだけどな」


 座布団を敷き直して座ると新垣はSNSや掲示板などを使って旅館の宣伝を始めた。宣伝を見ても直ぐに泊まれることはない、人気の旅館で半年先まで予約で埋まっているのはブログ内でも告示している。


 暫くして引き戸がスーッと開いた。


「新垣さん、お昼ですよ」


 旅館の主人の妻、つまり女将さんが食事を運んできてくれた。旅館の実質的な権限はご主人が持っているが女将の方が客に受けが良いので奥さんに任せているのだ。


「いつもすみません、言ってくれれば取りに行きますけど…… 」


 申し訳なさそうに頭を下げる新垣を見て女将が微笑んだ。


「構いませんよ、私はコンピュータって言うの? さっぱりですから、新垣さんが来てくれて助かっているんですよ」


 女将がテーブルの上に食事の載った盆を置いた。


「わぁ、美味しそうだ」


 客として泊まりに来た時のような豪華な食事を前に新垣が目を輝かせる。


「余り物ですよ、何かあった時のために多目に作りますからね」


 話をしながら女将がお茶の用意をしてくれる。


「余り物でも僕にとっては御馳走ですよ、家でもこんなの滅多に食べませんよ」


 女将がお茶の入った湯飲みを新垣の前に置いた。


「新垣さんは実家住まいでしたね」

「はい、親と一緒に住んでます。大学を出るまでは厄介になろうって思っています。卒業したら親孝行したいですね、あっ、バイト代入ったら温泉旅行でもプレゼントしようかな」


 女将の顔が曇った。


「そうですか……親御さんと………… 」

「どうしました? 」


 何か気に障ったのかと訊いた新垣の前で女将が笑みを作る。


「いえ、別に……早く召し上がってくださいね、夜はお肉料理ですから、若い人は魚より肉の方がいいだろうって主人が言ってましたから」

「魚も美味しいですよ、料理人の腕が違うんだな」

「うふふっ、いつも残さず食べてくれるって言ってましたよ」


 お世辞を言う新垣に返すと女将は部屋を出て行った。


 新垣が食事を前に手を合わせながら隣の壁を見つめる。


「ふぅっ、危なかった。もう少しで寝過ごすところだ。隣の物音で助かったよ、鼠かアライグマか知らんけどサンキューな」


 壁に向かって礼を言うと食事に向き直る。


「いただきまぁ~~す」


 調子よく言うと豪華な食事をパクパクと食べ始めた。

 決まった時間に食事を運んできてくれるのでだらしない格好を見られないように新垣は起きてパソコンに向かっていたのだ。



 昼食を終えて暫くして旅館のご主人がやってきた。


「新垣くん、新しい写真持ってきたよ、宣伝文句も考えたんだけどね、若い人に受けるように新垣くんが変更して書いてよ」

「わかりました。少し説明いいですか? 」


 デジタルカメラで撮った写真の入ったメモリと説明を書いた紙を新垣が受け取る。


「ブログ評判いいよ、このままずっと新垣くんにいて欲しいくらいだ」


 お世辞を言う主人の前で新垣がメモリをパソコンに繋いで写真を確かめる。


「大学なければずっと居るんですけどね……相変わらずプロ並みですね、旨く撮れてますよね」


 画面に映し出された写真を見て新垣もお世辞を返す。


「写真はもう10年以上、趣味でやっているからね」

「この写真の説明がこれですよね? 」


 画面に映る写真と紙に書かれた説明文を見比べながら主人に訊いてチェックしていく、新しい写真をブログやSNSに載せるのだ。1日で一番仕事らしい作業である。

 世間話を交えながら20分ほど主人とあれやこれやと載せる写真を選定した。


「じゃあ任せたよ」


 新垣が食べ終えた食器の載った盆を持って主人が部屋を出て行った。


「ふぅ……仕事始めるか」


 気合いを入れると新垣がパソコンに向かった。仕事らしい仕事はこれだけだ。だからこそ真剣にやっていた。主人や女将が褒めてくれるのも嬉しいのでやり甲斐がある。


『ガサガサ……ゴソゴソ……ガサゴソゴソ』


 静まり返った部屋の中、音が聞こえて新垣が壁を見つめる。


「またか……気が散るから夜だけにしてくれ」


 物置代わりに使っている開かずの間のある壁に向かって話し掛けると新垣はパソコンに向き直った。


『ゴソゴソゴソ……ガサゴソ…………ガサガサガサ』

「煩いなぁ~~ 」


 音のする方を振り向いた新垣が顔を顰めた。


「向こうはトイレしかないよな」


 音は反対側の壁から聞こえたような気がした。壁の向こうは従業員用の小さなトイレがあるだけだ。


「壁の中に穴でも空いてて鼠が走り回ってるのかな」


 気にはなったが仕事が優先だ。またパソコンに向き直って作業を再開する。


『ガガッ……ゴソゴソ……ガサッ! ガンッ! ガガッ』

「煩い! 」


 ばっと顔を上げた新垣が後ろを向いた。今度は後ろから音が聞こえたのだ。


「マジで壁の中に穴でも空いてるのかよ」


 後ろの壁を睨みながら新垣が呟いた。

 純和風の部屋だ。古い建物らしく太い柱と漆喰の上に色砂を塗った砂壁で囲まれている。その砂壁の中に穴でも開けて鼠が通路に使っているのだろうと考えた。


「もう少しだから静かにしてくれ、鼠とか居ると思うとキモいからな」


 壁に話し掛けるように言うと新垣は作業を再開した。


『ゴソゴソゴソ……ガサガサガサ…………ゴソガサガサ……ガサゴソガサ、ゴソゴソ……ガサゴソ、ガガッ、ゴソ……ゴガッ、ガササ……ゴソゴサ……サササ…… 』

「うぉう! 何だ? 」


 思わず新垣が立ち上がる。音が自分の周りをぐるっと回ったような気がした。

 立ったままで暫く辺りを警戒していたが音は聞こえてこない。


「なっ、何なんだよ…… 」


 座り直すと作業を再開する。音は聞こえてこない、40分程して作業は終った。


「終った。終った……さっきのは何だったんだろうな」


 ゴロッと横になって考える。先程、ぐるっと部屋を回った音が気になった。


「俺が来るまでこの部屋は使ってなかったみたいだからな、鼠が様子でも見に来たのかな」


 横になったまま、天井をぐるっと見回した。古いだけあって染みだらけだ。初日は染みが顔に見えたりして怖かったが霊現象など何も起きなかったので翌日には慣れた。


「普通は天井裏で騒ぐもんなんだがな、ここの鼠は変わってるのか、隣のアライグマか何かに居場所を取られて壁の中に棲んでるのかな」


 あれこれ考えているうちに瞼が重くなってくる。


『旨そうだ。旨そうだ』


 近くで声が聞こえたような気がして新垣が目を覚ます。


『旨そうだ。旨そうだ』


 ハッキリと声が聞こえた。男の嗄れ声だ。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 楽しげな声が自分の周りを回っている。どうやら誰かが歌いながら自分の周りを回っているらしい。

 旅館の従業員でも入って来たのかと新垣が身を起そうとした時、全身に痺れが走った。

 金縛りか……、寝惚けているのか靄の掛かったような頭で考える。今までに金縛りは3回ほど経験している。

 新垣は全身の力を抜いた。暫く待てば金縛りは解けるはずだ。


『旨そうだ。旨そうだ』


 嗄れ声と共にドスドスと足音が頭に近付いてくる。

 どんなヤツだと新垣が目だけを動かして声のする方を見た。


「ふっ、ふぅぅ…… 」


 驚きに喉から変な息が出た。3メートル近くある大男がドスドスと歩いていた。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 大男が頭の傍を歩いて行く、それを見た新垣が掠れた悲鳴を上げた。


「はぁっ、あはぁぁ…… 」


 人ではなかった。顔を含めて全身が赤黒い肌、日焼けで赤くなった肌とは違う赤土のような色だ。上半身は裸で草で編んだような腰布を付けている。彫りの深い顔、大きな口から歌うように話す度に犬歯のような牙が見えていた。

 そして一番驚いたのが頭だ。何日も洗っていないような固いボサボサの頭、その髪を突き抜けて2本の角が生えていた。


 鬼だ……、昔話で出てくる鬼とそっくりだと新垣は思った。同時に視線を逸らせた。目が合うと殺されると命の危険を感じたのだ。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 ドスドスと足音と共に声が足先へと離れていく、新垣は金縛りを解こうと必死でもがいた。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 叫びながら新垣がばっと上半身を起した。


「たっ、助け…… 」


 助けを求めようと立ち上がろうとして直ぐにその場に座り込む、


「なっ!? 夢か……眠ってた………… 」


 誰も居ない部屋の中を見回して安堵する。


「あはははっ、鬼なんているわけないよな、夢だ。作業終って休もうとしてそのまま寝ちまったんだ。あははははっ、鬼の夢か傑作だ」


 照れを隠すように笑っていると引き戸が開いた。


「新垣さん、どうかしました? 」


 女将が夕食を持って入ってきた。


「あっ、いえ……何でもありません、ブログが旨く出来たので喜んでたんですよ」


 新垣が顔を真っ赤にして誤魔化した。


「そうですか、それは良かった」


 女将が微笑みながらテーブルの上に夕食の載った盆を置いた。


「温かいうちに召し上がってくださいね、食べ終わったらお風呂もどうぞ、着替え置いておきますね」


 テーブルの脇に着替えを置くとお茶の用意をしてくれる。


「ありがとうございます。いつもすみません」

「どう致しまして、新垣さんには感謝していますのよ」


 恥ずかしそうに頭を下げる新垣に優しく微笑むと女将は部屋を出て行った。

 新垣がスマホで時間を確認する。


「もう飯か……3時間も寝てたのか、寝過ぎだな、変な夢を見るわけだ」


 うたた寝したつもりが爆睡していたらしい。


「おう、旨そうな肉だ。いただきます」


 さほど腹は減っていなかったが高そうな肉を見ると食欲が湧いてくる。


「旨っ! マジで旨い、マジで高い肉だ。酒があれば最高なんだけど流石にそれは無理だな、仕事だもんな」


 あっと言う間に平らげるとお茶を飲んで一息ついた。


「やっぱ旨いわ、魚も旨いけどやっぱ肉だな、御馳走様でした」


 食べ終えた食器の載った盆を持ち着替えを脇に挟むようにして立ち上がる。


「風呂に入って目を覚ますか……それにしても変な夢見たなぁ~~ 」


 食べ終わった盆を持って部屋を出る。風呂に入るついでに調理場へ寄って食器を返すのだ。トイレは直ぐ傍にあるので新垣が部屋を出歩くのはこの時だけと言ってもいい。

 風呂から上がる頃には夢のことなどすっかり忘れていた。



 バイトを始めて5日目、新垣が体調を崩す。熱があるようで体が怠く頭痛がする。主人に話すと風邪でも引いたのだろうと薬をくれた。その薬を飲むと直ぐに気分が良くなった。身体がふわふわして軽い、頭痛もなくなり気分がハイになる。

 無理しなくて休んでいいと言われて午前中は布団に横になる。


「だいぶん良くなってきた。夕方には仕事が出来そうだ。ブログの更新くらいしないとな」


 4時間ほど眠っていて昼前に目が覚めた。朝に飲んだ薬が効いたのか頭痛は消えているが体はまだ少し怠かった。


「あっ! 綺麗だ…… 」


 目の前をキラキラと光が流れていくのが見えた。幻覚だろう、まだ熱があるのかと寝返ってもう一眠りしようとした時、声が聞こえてきた。


『旨そうだ。旨そうだ』


 足下から聞こえる。確かめようと上半身を起そうとするとじわっと痺れが全身を巡って動けなくなる。

 金縛りか……、新垣が身体の力を抜いた。正座を長時間して足が痺れた時の感覚が全身を覆っている。


『旨そうだ。旨そうだ』


 寝ている足先の辺りから聞こえていた声が右横へとやってきた。

 金縛りをどうにか解こうと力を抜いて安静にしている新垣の頭の傍にドスドスと足音がやって来る。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 楽しげに歌うように言いながら声の主が横向きに寝ていた新垣の顔の傍を通り過ぎていく、


「しぅうぅぅ…… 」


 痺れたようになって動けない新垣の口から言葉にならない悲鳴が漏れた。

 目の前を歩いて行ったものは人ではなかった。熊のように大きな身体、植物で作った腰蓑だけを着けた赤茶色の肌、赤い顔にボサボサの頭、その髪から2本の角が突き出ていた。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 楽しげな声と足音が頭の上を通り過ぎていく、


「しひぃぃ…… 」


 鬼だ。新垣は一昨日見た夢を思い出した。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 ドスドスと足音を立てながらまた頭の近くへやってきた。

 新垣は必死で目を閉じた。金縛りで体は動かなかったが瞼は閉じることが出来た。


『旨そうだ。旨そうだ』


 楽しげな声が寝ている新垣の顔の横を通っていく、


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 ドスドスとまた頭の傍にやってくる。どうやら寝ている新垣の周りを鬼が踊るようにして歌いながら回っているようだ。

 新垣は心の中で神様に助けを求めながら必死に目を閉じた。起きているのがバレると殺されると思ったのだ。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 新垣の周りを5周ほどすると声も足音も聞こえなくなった。

 鬼がいなくなったと安心した新垣が目を開ける。


『旨そうだ』


 目の前に鬼の顔があった。赤い顔に大きな目、瞳は緑色だ。


「しっ! しひぃぃ…… 」

『旨そうだ』


 恐怖に顔を引き攣らせる新垣を見て鬼が黄色い牙を見せてニタリと笑った。


「ひわぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら新垣が飛び起きた。


「ああ……ああぁぁ…… 」


 ガタガタと震えながら辺りを見回すが何も居ない、新垣1人だけだ。


「ゆっ、夢か……熱にうなされて夢を見たんだ」


 風邪で寝込んでいて変な夢を見たのだと思った。


「前に見たのと同じだ……インパクトあったから覚えててまた見たんだな」


 シャツを脱ぐと枕元に置いてあったタオルで身体を拭く、全身汗びっしょりだ。


「それにしても怖かったぁ~~、マジでリアルだ。でも何で鬼だ? 古い和室だからかな、マジで怖かったぞ」


 夢を思い出して笑いが込み上げてくる。


「ははっ、鬼かよ、傑作だな」


 見ている時は恐怖を感じたが所詮夢だ。怯えて悲鳴を上げて起きたのがバカらしくて笑いが止まらない。


「あはははっ、バカみたいだ。1人で良かった。誰かに見られてたらヤバすぎる。鬼に襲われる夢見て悲鳴を上げたなんて恥ずかしすぎるわ」


 一通り笑うと新しいシャツに着替えてテーブルの前に座った。


「風邪も治ったみたいだし、ブログの更新だ。ちゃんと仕事してるって見せなきゃな」


 薬が効いたのか頭痛や怠さはすっかり消えていた。



 翌日、バイト6日目だ。朝、起きるとフラついて布団に倒れ込んだ。全身が怠く頭が痛い、朝食を持ってきてくれた旅館の主人に話して薬を貰う、飲むと直ぐに気分が良くなる。

 効き目抜群だ。何の薬だと主人に訊くと風邪に効く漢方薬だと教えてくれた。

 昨日に続いて悪いと思ったが主人の好意に甘えて午前中は休むことにする。昨日も薬が効いて昼からは普通に作業が出来たので今日も同じようにするつもりだ。


「もう楽になった。マジでよく効く薬だな、漢方薬か……女将さんにでも聞いて帰る時に土産に買って帰ろう」


 横になったまま天井を見つめて新垣が呟いた。

 歩くのも大変だった怠さが消えてふわふわして身体が軽い、頭痛は消えたが頭の中は靄が掛かったみたいだ。だが嫌な感じではない、寧ろ心地好い、綺麗な光が花火のように見える。新垣はハイになっていた。


「気持ち良い……キラキラしたのが見えるなぁ、埃が反射して光って見えるのかなぁ」


 染みだらけの天井板の彼方此方でキラキラと小さな光が乱舞しているのが見えた。窓から入って来た日光に埃が反射して光って見えることはあるがそれとは違う光だ。だが頭がぼーっとして思考力の落ちている新垣には判断できない。


『旨そうだ。旨そうだ』


 声が聞こえて新垣が身を固くする。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに食える』


 ドスドスと足音を立てて声が近付いてきた。

 鬼だ……、昨日の夢を思い出して新垣がどうにかしようとするが体が痺れて動かない、金縛りになっていた。


『旨そうだ。旨そうだ』


 足音と共に声が頭の傍へとやって来る。


「ひぅぅ…… 」


 掠れた悲鳴が出た。赤黒い肌をした熊のように大きな鬼が楽しげに踊りながら寝ている新垣の周りを歩き出す。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 目を合わせたら何をされるかわかったものじゃない、新垣は必死に目を閉じた。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 鬼は楽しげに歌うように言いながらドスドスと足音を立てて新垣の周りを回っていく、


『旨そうだ。旨そうだ』

「くぅぅ…… 」


 これは夢だ。新垣は叫んで起きようとするが声が喉から出てこない。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 新垣は夢を覚まそうと必死でもがこうとするが体は痺れたようになって動かない、その周りを鬼が歌いながらドスドスと回っていく、


『旨そうだ。旨そうだ。もう直ぐだ。もう直ぐ食える』


 6周ほど回ったところで声も足音もピタッと止まった。同時に新垣の金縛りも解ける。


「ぐぅぅ…… 」


 布団の中で金縛りを解こうともがいていた新垣が目を開ける。


「ひゃぅぅ! 」


 喉の奥から咳き込むような変な悲鳴が出た。目の前に鬼がいた。


『旨そうだ。もう直ぐだ』


 寝ている新垣を覗き込んで鬼がニタリと笑った。赤黒い顔の大きく開いた口が真っ赤だ。


「うわっ!! うわぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら新垣が飛び起きる。ドキドキを通り越してズキズキと痛いくらいに鼓動を打つ胸を押さえながら辺りを見回す。


「ゆっ……夢だ……鬼なんていない………… 」


 誰も居ないのを確認して安堵する。


「へへっ、ひへへへっ、はははっ、はははははっ……鬼なんているわけないだろ」


 鬼がいないか確認していた自分が恥ずかしくなって笑い出す。


「夢に決まってる……なにビビってんだ」


 照れを隠すように呟くと汗で濡れた服を着替える。


「11時か……もう直ぐお昼だな、飯前に更新済ますか」


 薬が効いたのか頭痛も怠さも消えていた。

 女将が昼食を持ってくる前にブログの更新を済ませようとパソコンの前に腰掛けた。



 ブログの更新を終えたのを見計らうようにして女将がやってきた。


「お昼持ってきたけど食べられる? お粥にしましょうか? 」


 女将がテーブルの上に置いた料理を見て新垣が目を輝かせた。


「美味しそうだ。これでいいです。風邪なんてもう治りましたよ」

「そうですか……無理しないでくださいね」


 お茶を用意しながら訊く女将に新垣が笑顔でこたえる。


「大丈夫ですよ、力仕事じゃないし少しくらい風邪引いていても出来る仕事ですから、それに最後までやってバイト代貰って親に温泉旅行くらい連れて行ってやりたいですしね」


 親孝行がしたいという話しを聞いて女将の顔色が変わった。


「無理して続けなくてもいいんですよ、もう辞めて家に帰った方が……親御さんが心配なさるといけないし……今ならまだ………… 」


 体調を心配して険しい顔になったのだと思った新垣が割り込むように話し出す。


「心配掛けて済みません、でも大丈夫ですよ、ブログの更新とか仕事はしっかりやってますから、社長から貰った薬が良く効いて風邪なんて吹っ飛びましたよ」

「あの薬は…… 」


 女将が何か話そうとした時、主人がやってきた。


「やあ、新垣くん、調子はどうだい? 」


 気さくに話し掛ける主人を見て女将がすっと立ち上がる。


「御陰様でバッチリですよ」


 元気よくこたえる新垣に主人が笑顔で続ける。


「それは良かった。ブログに使う写真を持ってきたからね、一緒に作業しよう」

「はい、昨日は写真掲載してないから今日は沢山アップしましょう」

「それはいいねぇ、じゃあ新垣くんがお昼食べ終わったら直ぐに始めるか」


 主人が新垣に向けていた笑顔とは違う怖い顔を女将に向けた。


「お前は下がってなさい」

「でも……はい」


 女将は何か言いたそうな顔で新垣を見つめていたが直ぐに目を伏せて返事をすると部屋を出て行った。


「それじゃあ、30分くらいしたらまた来るよ、ゆっくり食べてくれ」

「いつも済みません、いただきます」


 豪勢な昼食を前にペコッと頭を下げる新垣を見て笑いながら主人が部屋を出て行った。


「いただきまぁ~す」


 パクパクと食べ始めた新垣の耳に何やら言い合う声が聞こえてきた。


「あの子は許してやって貰えませんか、親孝行したいって……優しい子なんですよ」

「ダメだ! 今更無理だ。もう魅入られている」


 女将と主人が揉めているようだが直ぐに聞こえなくなった。


「だんだんと豪勢になっていくみたいだな、バイトの賄いじゃなくて御馳走だぞ」


 美味しい料理を前に新垣の頭には主人と女将の言い争いなど入ってこなかった。



 バイト7日目、布団から起き上がれないくらいに怠かった。発熱しているのか全身が熱い、頭痛はそれ程でもないが熱の所為か頭がクラクラして何も考えられない。


「大丈夫かい? 」


 心配したのか早朝から主人が部屋にやってきた。


「だっ……だいじょ………… 」


 新垣は大丈夫ですとこたえたいが言葉にならない。


「お粥も無理だね、食事は諦めて薬を飲みなさい、暫く寝ていれば直ぐに良くなるよ」


 主人が抱えるようにして薬を飲ませてくれた。


「ありがとう…… 」


 薬を飲むと直ぐに楽になってくる。

 礼を言う新垣を寝かせると主人がそっと部屋を出て行く、


「ふふっ、これで安心だ。これで10年は安泰だ」


 眠りに落ちていく新垣の耳に主人の声が聞こえたような気がした。


『旨そうだ。旨そうだ』


 どれくらい眠っただろうか、声が聞こえて目が覚める。


『旨そうだ。旨そうだ。もう直ぐ食える』


 鬼だ。赤黒い肌をして2本の角を生やした鬼が寝ている新垣の周りを楽しそうに歌いながら回っていた。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 新垣はぼーっと天井を見つめたままドスドスと周りを歩く鬼の歌うような声を聞いていた。熱のために思考力が落ちているのか不思議と恐怖は感じない。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 7回ほど回ったところで鬼の声と足音が聞こえなくなる。

 ぼーっとした頭で天井を見つめていた新垣の顔に影が落ちる。


『旨そうだ。あと3日で食える』


 新垣の直ぐ前、30センチも離れていない目の前に鬼の顔があった。


『もう直ぐだ。もう直ぐだ。もう直ぐ食える』


 真っ赤な口を開けてニタリと笑いながら鬼が手を伸ばしてくる。


『あと3日、もう直ぐ食える』


 新垣の頬に鬼の大きな手が当たる。


「うわっ! うわぁあぁぁ~~ 」


 ゴツゴツとした固い感触を頬に感じて新垣が悲鳴を上げた。


「うわっ、うわぁっ、うわあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら飛び起きる。

 震えながら辺りを見回すが何も居ない、鬼の姿など何処にも無い。


「ゆっ、夢か……でも………… 」


 頬に手を当てて考える。ゴツゴツとした鬼の手の感触が残っていた。


「あと3日で食えるって俺のことか? 冗談じゃない、夢かも知れないけど続けて見るなんて異常だ……バイト辞めるか」


 このままバイトを続けるか考えていると旅館の主人がやってきた。


「どうしたんだい? 寝てないとダメだよ」


 優しく声を掛ける主人に新垣は鬼のことを話した。


「鬼? あはははっ、変な夢だねぇ、熱にうなされて夢を見たんだよ、身体が弱っている時は精神も弱って悪夢を見るものだよ」


 笑い飛ばす主人に新垣がおずおずと話し掛ける。


「病院へ行きたいんですけど…… 」

「病院? 大丈夫だよ、只の風邪だからさ、薬を飲めば治るよ」


 顔を顰める主人に新垣が頼み込む、


「でも……お願いします病院へ連れて行ってください」

「大丈夫だって、心配無いよ、あと3日だからさ」


 優しい顔で笑う主人と厭な顔でニタリと笑う鬼の笑みが重なって見えた。


「ふぅぅ…… 」


 怯えながら新垣は布団に潜り込んだ。


「そうだよ、そうして寝ていれば直ぐに良くなるよ」


 優しく声を掛けると主人は部屋を出て行った。



 暫くして新垣が布団から這い出てくる。


「3日って俺のバイトの残りか? バイト終るまで病院行くなってか」


 主人の言葉を思い出して愚痴っていた新垣がハッとして顔を顰めた。


「鬼も言ってた。あと3日で食えるって……鬼が言ってたぞ、鬼の目と同じだった」


 旅館の主人は優しい笑みをしていたがその目付き、目の輝きが夢で見た鬼と同じ事に気が付いた。


「冗談じゃない、なんか変だぞ……取り敢えず病院へ行こう、救急車だ」


 不安を感じた新垣は救急車を呼ぼうとするが枕元に置いていたスマホが消えている。


「どこに置いた? 」


 テーブルの上、パソコンの近く、自分の手荷物を入れてある鞄、何処を探してもスマホは見つからない。


「何で無いんだ? くそっ! とにかく電話だ」


 毎日入っていた温泉の横、自販機が幾つか並んでいて休憩室のようになっている部屋に公衆電話があったのを思い出す。


「電話だ。スマホは後で探せばいい」


 財布を握り締めると怠い体を這うようにして部屋を出た。


「はへっ? 」


 部屋から出た瞬間、身体がすっと軽くなった。


「薬が効いてきたのか? 」


 新垣が壁に手をついて立ち上がる。まだ少しフラつくが立つこともままならなかったほどに怠かったのと比べると随分楽だ。


「電話して救急車を呼ぶんだ。病院で診てもらおう、只の風邪じゃない」


 壁にもたれ掛かるように歩き出した新垣の手に隣の引き戸が触れた。開かずの間だ。


「くそっ、まだフラつくな……うわっ! 」


 足がもつれて転がりそうになる姿勢を壁に付いた手で必死に支える。

 その時、引き戸が動いた。


「おわっ!! 」


 叫びを上げて新垣が転がった。身体を支えようとして付いた手が引き戸を開けるようにして滑ったのだ。


「痛ててて…… 」


 床にぶつけた肘を摩りながら顔を上げる。


「なん!? 」


 驚く新垣の前で引き戸が半分ほど開いていた。鍵が掛かっていたはずだ。


「なっ! おい…… 」


 閉まっていた引き戸の先を見て新垣が言葉を失った。

 少し開いた引き戸からは壁しか見えない、あるはずの部屋が無かった。


「なんで…… 」


 見間違いかと新垣が引き戸を全開するが部屋は無かった。


「壁だ……なんで? 開かずの間」


 開かずの間だから入り口を埋めて塞いだのかとも思って調べるが後から入り口を塞いだような形跡は無い、周囲の壁と同じ色をした古い壁だ。


「なんで…… 」


 どういうわけだと考える。自分の部屋の引き戸と開かずの間の引き戸を見てはっとした。


「狭すぎるぞ」


 開かずの間の引き戸と自分の部屋の引き戸の間を歩いて測る。


「6歩だ…… 」


 また絶句した。自分の部屋は12畳もある。部屋の中で歩いた距離と今歩いた距離の計算が合わない、部屋の中で引き戸の近くから壁まで歩くと6歩どころか10歩近く歩けるだろう、と言うことは開かずの間の引き戸がある辺りも自分の部屋という事になる。


「開かずの間なんて無い……全部俺の部屋だ」


 旅館の主人が開かずの間だと言っていた引き戸のある辺り全てが自分の部屋の中だった。


「ヤバい、逃げないと…… 」


 言いようのない不安と恐怖を感じて早く電話を掛けに行こうと歩き出す新垣の前に旅館の主人が立った。


「もういいのかい新垣くん」


 ニタリと笑う主人の後ろに従業員らしき男が2人いてニヤニヤと企むように笑っている。


「あっ、あのぅ……家に電話を掛けようと思って……スマホが無くなったみたいで」


 新垣は救急車を呼ぶためにどうにかしてこの場を誤魔化そうとした。


「うん、新垣くんのスマホは私が預かっているよ」


 満面の笑みを湛えながら主人がスマホを見せた。


「おっ、俺のスマホ……返して下さい」


 返せと伸ばした新垣の手を主人が叩き払う、


「全部終ったら返してあげるよ、だから部屋に戻るんだ。まだ疲れているだろう? 戻って眠るといい」


 優しく声を掛けるが主人の目はバカにしているように新垣を見ていた。


「戻りません、スマホを返して下さい、救急車を呼んでください、只の風邪じゃないです。病院に行かせて下さい」


 訴えかける新垣の向かいで旅館の主人がニタニタと厭な顔で笑いながら口を開く、


「ダメだよ、只の風邪だよ、寝ていればよくなるからね」

「じゃあ、部屋を代えて下さい、あれは何なんです? 」


 新垣が開かずの間とされていた壁を指差した。


「ふひっ」


 引き戸が開いているのを見て主人が笑いを絶えきれなかったように漏らした。


「ひひひっ、見ちゃったんだ……鍵が開いちゃったんだな、あと3日だからな、鬼様もうっかりしてたんだろう」


 鬼という言葉に新垣が反応する。


「あと3日って何です? 鬼が何なんです? このドア何なんです? 開かずの間って何です。俺が入ってる部屋の壁にドアを付けただけじゃないか」


 パニックを起したように質問する新垣の前で主人の顔から笑みが消えた。


「新垣くんの部屋じゃない、開かずの間だよ」


 無表情で話す主人に新垣が食って掛かる。


「やっぱり、やっぱり俺の部屋が開かずの間だったんだな、あの鬼は何なんだ? 俺に何をしようとしてるんだ」

「違うよ、新垣くんの部屋は開かずの間じゃない、開かずの間はちゃんとあるんだ。新垣くんの入っている部屋と重なるように鬼様の部屋がある。10年に一度繋がるんだよ」

「繋がるって……じゃあ、あの鬼は………… 」

「うちの守り神だよ、鬼様の御陰で安泰さ」


 旅館の主人は無表情だがその目が新垣をバカにしていた。


「スマホを返せ! 俺のだぞ、こんなバイト辞めてやる」


 新垣が主人に掴み掛かる。スマホを取り返して警察にでも通報しようと思った。


「取り押さえろ! 」


 主人が命令すると後ろに居た従業員らしき2人の男がサッと出てきてあっと言う間に掴み掛かる新垣を押さえ込んだ。


「くそっ、放せ! 」


 床に頭を付けるようにして押さえ込まれている新垣を旅館の主人が見下ろす。


「辞める? 今更無理だよ、もう鬼様が憑いている」


 新垣に掴まれて乱れた襟元を直しながら主人が続ける。


「あと3日だ。おとなしく寝ていろ」


 バカにするように言うと従業員の男2人に部屋へと閉じ込めておけと命じた。


「止めろ! こんな事していいと思ってるのか? 警察に全部言ってやるからな」


 新垣は男たちに引き摺られるようにして部屋へと戻される。


「ひひひっ、警察? 言えたらいいな」


 床に転がる新垣を見てニタリと笑うと主人が引き戸を閉めた。


「くそっ……なっ、なんで………… 」


 部屋に戻った途端、全身が怠くなる。発熱しているのか頭も重い、這うようにして引き戸に手を掛ける。


「逃げないと……ここから出ないと」


 引き戸を引くが動かない、


「かっ、鍵か……開けろ、開けてくれ」


 暫く引き戸を叩いていたが直ぐに床に倒れ込んだ。頭がクラクラする。高熱を出した時のように体が動かない、思考も出来なくなっていく、


「生きの良い生け贄ですね」

「そうだろう、鬼様も喜んでいたよ」


 気が遠くなっていく新垣の耳に去って行く旅館の主人と従業員の会話が聞こえたような気がした。



 バイト8日目、新垣は立ち上がるどころか寝返りさえ出来なくなっていた。


「新垣くん、調子はどうだね? 」


 朦朧とした意識の中、旅館の主人の声が聞こえたような気がする。


「返事も出来ないか……無理もないな、この部屋に7日も居たんだからな」


 横になったまま動かない新垣の頭をポンポン叩くと主人は部屋を出て行った。


「うぅ…… 」


 朦朧として思考力が無くなる中、逃げないといけないという気持ちだけが逸るが体が動かない。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに旨そうだ』


 声が聞こえた。横向きに寝かされていた目に引き戸が開くのが見えた。

 有り得ない、壁だったはずだ。自分の部屋の引き戸は寝ている足先にあるはずだ。


「はぅぅ…… 」


 廊下で見た隣の引き戸だ。壁に付いていた開かずの間の引き戸があった辺りの壁だと気付いて新垣が恐怖に目を見開いた。


『旨そうだ。旨そうだ。久し振りに肝が食える』


 2本の角を生やし赤黒い肌をした鬼があるはずの無い引き戸を通って中に入ってきた。


「ひしぃぃ…… 」


 新垣が喉の奥から空気が漏れるような悲鳴を上げた。逃げ出したいが高熱を出して寝込んでいる時のように体が怠くて動かない。


『旨そうだ。旨そうだ。10年振りに肝が食える』


 鬼がドスドスと足音を立てて楽しげに歌うように言いながら寝ている新垣の周りを回る。


『旨そうだ。旨そうだ』


 新垣の周りを8周回ると頭の上で鬼が止まった。

 恐怖に引き攣る新垣を鬼が覗き込む、


『旨そうだ。あと2日で食える』


 真っ赤な口を見せてニタリと笑った。

 食われる……、恐怖に新垣は失神した。



 どれくらい気を失っていただろう、女将に揺すられて目を覚ました。


「新垣さん、新垣さん」

「うっ、うぅ…… 」

「よかった。まだ意識がある」


 頭が朦朧としている新垣を女将が抱えるようにして起した。


「新垣さん、早くここを出ましょう」


 女将が新垣を引き摺るようにして布団から出した時、引き戸が開いて旅館の主人が入って来た。


「何をしている? 」

「あなた……いえね、お風呂に入れてあげようと思って汗でぐっしょりですもの、昨日も入っていないでしょ」


 取り繕うような女将を見つめて主人が頷いた。


「そうか、綺麗にしてやれ、鬼様に失礼のないようにな」


 主人が後ろに居た従業員の男を呼んだ。


「おい、風呂まで運んでやれ」


 従業員の男が新垣を背負うと風呂まで運んでいく、


「たっ、助けて…… 」


 不思議なことに部屋から出るとあれだけ怠かったのが嘘のように楽になっていく、朦朧としていた頭も次第にハッキリとしていった。


「女将さん、電話を……電話を使わせて下さい」

「ダメです! 諦めなさい、貴方は鬼様の供物なのです」


 女将が叱り付けるように言った。


「あと2日だ。もう直ぐだ。これで後10年は安泰だ」


 後ろからついてきていた旅館の主人が嬉しそうに呟いた。


「今のうちに部屋の掃除でもさせたらどうです? 」

「そうだな、パソコンも運び出さないとな」


 女将に言われて主人はもう1人の従業員の男と一緒に戻っていった。



 新垣を背負った男と女将が風呂場にやってきた。


「ご苦労様、新垣さんをここへ、服を脱がせますから」


 女将に命じられて男が脱衣所の床に新垣を下ろした。


「女将さん、助けて下さい、お願いします」


 立ち上がろうとした新垣を見て女将が傍に居た男に命令する。


「押さえ付けなさい、逃がしてはダメですよ」


 男は無言で頷くと立ち上がろうとした新垣を床に組み伏せた。運ぶだけでなく見張りをする意味もあるのだろう。


「さぁ、風呂に入ってさっぱりしましょうね」


 女将が新垣の服を脱がせていく、


「あっ、清めの御神酒を忘れたわ、持ってきてくれる」


 服を脱がす手を止めて女将が従業員の男に頼む、


「私がですか? 」


 始終無言だった男が自分を指差して聞き返した。


「貴方以外に誰が居るの? 」

「しかし…… 」

「安心なさい、立ち上がるのがやっとの男など私一人で充分です。それに廊下の向こうには主人も居ます」

「はぁ……わかりました」


 不服そうにしながらも男は脱衣所から出て行った。

 女将が脱衣所から顔を出して男が居ないのを確認すると棚から男物の服を取り出した。


「早く着替えて、ここからお逃げなさい」


 服を差し出す女将を見て新垣が顔を顰める。


「女将さん」


 どうして助けてくれるのかと訊きたい新垣の気持ちがわかったのか女将が申し訳なさそうに続ける。


「親孝行したいって言っていたでしょ、私は親孝行できなかったのよ、不良娘でね、親に迷惑掛けてばかりで……貴方のような優しい人をこんな目に遭わせて……本当にごめんなさいね、これを持って早く逃げなさい」


 女将が懐から封筒を差し出して新垣に握らせる。


「早く着替えてあの通路から逃げなさい、温泉の掃除に使っている通路です。通れるように鍵は開けてあります」


 急かされるようにして新垣は服を着替えた。


「俺の荷物は……スマホも」


 着替えや本はともかく財布とスマホが気になった。


「諦めて、とにかく今は逃げなさい、死にたいのですか」

「女将さん、ありがとう」


 ペコッと頭を下げると新垣は細い通路を走っていった。


「もう間に合わないかも知れないけど……少しでも親孝行をしてあげてね」


 通路の先のドアを開けて外に出ていく新垣を見つめながら女将が悲しげに呟いた。



 旅館の外に出ると新垣は必死に走った。


「とにかく電話だ。警察に通報しないと」


 何処かに公衆電話はないかと必死に探す。怠くて動けなかったのが嘘のように身体が軽い、頭痛もなく意識もハッキリとしている。


「何処かの店で電話を借りるか」


 キョロキョロと探していた新垣の目に旅館の主人が見えた。


「新垣くん、戻ってくるんだ」


 主人が走ってきた。口調は穏やかだが顔は怒りで引き攣っていた。


「ヤバっ! 」


 逃げ出す新垣を旅館の主人だけでなく従業員たちが鬼のように怒りを浮かべて追い掛けてくる。


「捕まって堪るか」


 必死に逃げていた新垣がコンビニを見つけた。


「電話だ! 」


 コンビニに公衆電話があるのを見つけて新垣が走って行った。


「新垣、逃げるな! 」


 旅館の主人たちが追ってきて新垣は慌ててコンビニの中へと逃げ込んだ。


「けっ、警察を呼んでください、お願いします。警察を……鬼に殺される。鬼が出てくるんだ。開かずの間で……鬼が……早く警察を呼んでくれ」


 コンビニのガラスで出来た壁の向こうにいる旅館の主人たちを見て新垣がパニックを起して店員に掴み掛かった。

 強盗だとでも思ったのか店に居た客が逃げていく、もう1人いた店員が慌てて警察に通報した。

 その様子を見ていた旅館の主人がガラス越しに新垣を睨み付けた。


「もう少しだったのに……コンビニか……何処にでも出来るのは考えものだな」


 憎々しげにコンビニのガラスをバンッと叩くと旅館の主人たちは帰っていった。



 暫くしてパトカーがやってきた。

 警察に保護されて落ち着いた新垣が旅館の出来事を話すが信じて貰えない、当然だ。鬼が出てくるなど心霊現象を信じている人でも鵜呑みに出来ないだろう、風邪を引いて熱を出して幻覚でも見たのだろうという旅館の主人の言い分を警察も利いた。コンビニの店員や客の話からも錯乱していた新垣の方が悪いと思われたようだ。

 旅館の主人がバイトを辞めるにしても置いてある荷物もあるし一旦戻ってこいと連れ戻そうとするのを新垣は必死で断った。余りの怯えように心の病とでも思ったのか警察も無理強いはせずに新垣の荷物を持ってくるようにと主人に頼んだ。



 夕方、旅館の主人が警察署へとやってきた。


「あと2日なんだよ、最後までアルバイトしてくれれば倍出すんだけどねぇ」


 主人がこれまでのバイト代だと言って7万円が入った封筒を新垣の手荷物の入った鞄と一緒に差し出した。


「何がバイトだ! 鬼に食わせようとした癖に」


 新垣が奪い返すように乱暴に鞄と封筒を受け取る。


「まだ言っているのかい? 鬼なんているわけないだろ、新垣くんは高熱を出して寝込んでうなされていただけだよ」


 傍で警察官が見ているのを気にしてか旅館の主人は始終笑みを絶やさない。


「熱でも何でもいいですよ、おか……俺はもう関係ないから」


 女将さんが助けてくれなければどうなっていたのかと言いたかったが迷惑が掛かるといけないと思い話しを終らせた。

 新垣が呼んでもらったタクシーがやってきた。徒歩だと旅館の主人に捕まる可能性もあると考えて駅までタクシーを使うことにしたのだ。


「じゃあ、失礼します」


 ムッとしながら頭を下げる新垣に旅館の主人がスマホを差し出す。


「ああ、忘れていたよ、これも返さなくちゃな、落ちてたよ」

「落ちてた? あんたが盗んだんだろう」


 奪い取るようにスマホを握る新垣の向かいで主人がニタリと厭な顔で笑った。


「何を言うんだね、人聞きの悪いこと言わないでくれないか、落ちてたんだよ、態々届けてあげたんじゃないか」

「ふんっ! どうでもいい、俺はもう関係ないからな」


 怒鳴るように言うが新垣は内心震えていた。ニタリと笑う旅館の主人の目が鬼とそっくりに思えて恐怖したのだ。


「気を付けて帰るんだよ、風邪を引かないようにね」


 タクシーへと歩いて行く新垣の背に旅館の主人が優しい声を掛けた。

 新垣は何もこたえずにタクシーに乗り込む、


「隣の駅までお願いします」

「隣り? そこの○○駅じゃなくて? 」

「はい、隣まで行ってください」

「まぁ私は儲かるからいいんですけどね」


 不思議そうな顔をして運転手がタクシーを走らせた。

 新垣は何とも言えない不安を感じて直ぐ近くの駅ではなく一つ離れた駅までタクシーで行く事にしたのだ。

 13分ほど走って隣町の駅に着いた。料金を払ってタクシーを降りて駅へと入っていく、


「女将さんがくれた10万とバイト代の7万で17万だ。女将さんに何もなければいいけど……怖い目に遭ったんだから遠慮なく貰っとくか」


 逃がしてくれた時に女将が渡してくれた封筒には10万円が入っていた。何も持たずに出た新垣が旨く逃げられるようにと渡してくれたお金だ。


「何処かで土産でも買って帰るかな」


 ホームに入ってくる電車を見て新垣が呟いた。


「開かずの間の鬼か…… 」


 電車に乗って席に座る。


「夢か本当か……どっちにせよ旅館の連中が何か企んでたのは確かだからな」


 電車が走り出すと全て終わったことだと思って心から安堵した。



 新垣は何事もなく家に帰り着いた。

 旅館の主人が捕まえに来たり、鬼が現われるのではないかと暫くは怯えていたが5日経っても何も起こらない、普段と変わらない生活に戻った新垣は鬼のことなどすっかり忘れていた。


『旨そうだ。旨そうだ』


 10日ほど経ったある夜、声が聞こえたような気がして新垣が目を覚ます。


「うぅ~~ん」


 寝返りを打とうとした時、痺れが全身を走った。


『旨そうだ。旨そうだ。女の肝より旨そうだ』


 声と共にドスドスと足音が部屋に入ってきた。


「しぃぃ…… 」


 新垣は聞き覚えのある嗄れ声に悲鳴を上げようとするが喉から空気が漏れるだけだ。全身が痺れたようになって動けなくなっていた。


『旨そうだ。旨そうだ。男の肝は旨そうだ』


 楽しげに歌うように言いながらドスドスと足音が寝ている新垣の頭に近付いてくる。


『旨そうだ。旨そうだ。2人も食える旨そうだ』


 横向きに寝ている新垣の顔の前を赤黒い肌をした大男が通り過ぎた。ボサボサの頭から2本の角が見える。間違いない、旅館の開かずの間に居た鬼だ。


『旨そうだ。あと29日で食える』


 鬼は新垣の周りを一周するとニタリと笑って部屋を出て行った。


「あぁあぁ~~ 」


 同時に金縛りが解けて新垣が飛び起きる。


「鬼が……鬼だ…………夢か? 」


 確かに見た。だが寝ていたので夢かも知れない、怖かったが新垣は判断が出来ない。


「ビビってるから夢を見たのかも知れないな」


 夢であって欲しいと願いながら新垣は横になった。

 暫くスマホを弄っていたがいつの間にか眠りに落ちていた。



 次の夜も鬼が現われた。旨そうだと歌うように言いながら寝ている新垣の周りを2周して部屋を出て行く、


「夢か? 本物の鬼か? 」


 鬼の出て行ったドアを新垣が険しい顔で見つめる。


「昨日は1回で今日は2回だ。2周したぞ」


 旅館の開かずの間と違い自分の部屋だ。体の怠さや頭痛もしない、新垣は冷静に考える。


「お祓いでもして貰うか、その前に夢かどうか確かめよう」


 何かアイデアでも浮んだのか新垣は安心した様子で眠りについた。



 翌日、新垣は寝る前にミントタブレットを布団の周りに並べた。普段から食べている小さなラムネ菓子だ。


「もし鬼が本物なら踏まれてバラバラになるはずだ」


 規則正しくミントタブレットを並べると安心して横になった。ドスドスと足音を立てて歩く鬼が本当にいるのなら規則正しく並べたミントタブレットが踏まれてバラバラになるはずである。


『旨そうだ。旨そうだ』


 どれほど眠っただろうか? 声が聞こえたような気がして新垣が目を覚ます。


『旨そうだ。旨そうだ。男の肝は旨そうだ』


 楽しげに歌うようにして鬼がドアから入ってきた。


「くぅぅ…… 」


 夢かどうか確かめようと新垣は起き上がろうとするが身体が痺れて動かない、金縛りだ。


『旨そうだ。旨そうだ。2人も食える旨そうだ』


 鬼は新垣の周りを3周してから立ち止まる。


『旨そうだ。あと27日で食える』


 新垣の顔を覗き込んでニタリと厭な顔で笑うと鬼はドアを開けて出て行った。

 鬼の気配が消えると同時に新垣の金縛りが解ける。


「ぐぅぅ……夢か…… 」


 ばっと上半身を起した新垣が布団の周りに置いたミントタブレットを確かめる。


「はっ、はぁあぁぁ~~ 」


 掠れる悲鳴が出た。規則正しく並べていたミントタブレットがバラバラになっている。踏まれたのか砕けて粉になっているものもあった。


「ほっ、本物だ…… 」


 愕然として新垣が言葉を失った。

 一粒5ミリほどの小さなラムネ菓子だ。寝返りを打ってその衝撃や布団からの風によって動いたのだと想定もできる。だが粉々に潰れるなど有り得ない。


「本物だ……お祓いして貰おう」


 その後は眠れるわけもなく恐怖に震えながら朝を迎えた。



 翌日、近くで一番大きな神社へ行くとお祓いをして貰った。


「これで安心だ。鬼など出てこないと神主さんも言ってたからな」


 新垣は貰った御札を部屋の壁に貼り付けた。

 だが御札の効き目はなかった。他の神社でもお祓いして貰うが同じだ。

 鬼は毎晩現われると寝ている新垣の周りを回って『旨そうだ。あと○○日で食える』とニタリと笑って部屋を出て行った。


「食えるというのは俺のことなんだろうな、だとしたら後23日は大丈夫だ」


 鬼が出るようになって7日目、怖いのは確かだが鬼が手出しをしてくるまでには日にちもあると新垣は冷静に考えた。


「旅館の開かずの間はともかく、なんで俺の家にまで出るんだ? 旅館のオヤジが何かしたのか? 」


 旅館の主人が何かをして鬼が出てくるのかも知れないと考えた新垣はあの旅館へ持って行った物の検査をした。鞄はもちろん着替えや財布に筆記用具など全て調べたが何も変わったところはない。

 諦めかけていた新垣の目にスマホが映る。


「何だこの傷? 」


 スマホに小さな傷が幾つか付いていた。裏蓋をこじ開けたような傷だ。


「落として付くような傷じゃないぞ」


 まさかと思いながら新垣は裏蓋を開けることにした。

 簡単に開けられるようにはなっていないので壊れるのを覚悟でこじ開けると折り畳まれた小さな紙切れが入っていた。


「何だ? 」


 スマホの部品には見えない紙切れを摘まみ上げて広げる。


「こいつだ…… 」


 掌ほどの小さな紙に何やら梵字のような文字や記号に絵のようなものがびっしりと書かれてあった。不安を感じて新垣の鼓動が早くなる。素人でも呪術か何かだろうと一目でわかった。


「こいつの所為だ。旅館のオヤジだ。彼奴がやったんだ」


 新垣は紙を破り捨てた。効果があったのかその夜は鬼が出てこなかった。

 もう大丈夫だと安堵していたが次の夜、鬼は現われた。


『旨そうだ。旨そうだ。男の肝は旨そうだ』


 ドアを開けて鬼が入ってくる。ドアより大きな身体をしているのに何の抵抗もなく楽しげに歌いながらすっと入って来た。


『旨そうだ。旨そうだ。2人も食える旨そうだ』


 金縛りで動けない新垣の周りをドスドスと踊るようにして回っていく、


『旨そうだ。旨そうだ。女の肝より旨そうだ』


 恐怖で竦んでいる新垣の耳に楽しげに歌うような鬼の声が聞こえてくる。


『旨そうだ。あと22日で食える』


 寝ている新垣の周りを8周するとニタリと笑って鬼は部屋から出て行った。

 同時に金縛りが解けて新垣が飛び起きる。


「わぁあぁぁ~~、鬼が……鬼が出た。呪文の紙は破いたのに何で出るんだ…… 」


 ガタガタと震えながら鬼の言葉を思い出す。


「2人とか言ってた……2人食えるって…………いつもの男の肝だけじゃなくて女の肝って言ってた…………女の肝より旨そうだって、女って女将さんの事か? 」


 自分を逃がしてくれた女将の顔が頭に浮んだ。


「俺を逃がしたのがバレて鬼に……開かずの間に入れられたんだ」


 新垣の恐怖が絶頂に達した。


「食われたんだ。女の肝より旨そうだって言ってた……女将さんを鬼が食ったんだ…………鬼が……うわぁあぁぁぁ~~ 」


 錯乱して叫び暴れる新垣を両親が取り押さえる。

 落ち着いた新垣は全てを親に話した。父親はわかったと言ってくれたが信じている顔ではない、母も同じだ。

 心配を掛けまいとしたのか新垣は変な夢を見たと言って誤魔化した。


「どうにかして鬼が入ってこないようにしないと…… 」


 まだ深夜だ。新垣は横になりながら考える。鬼が出てくるのは1日に一度だけだ。今日はもう出てこないので安心して眠りについた。



 次の日、新垣はホームセンターに行って板と釘を買ってきた。


「これでいい、これで入ってこれないはずだ」


 ドアに板を当てて釘で打ち付けて開かないようにした。


「俺も出れないけど夜だけだ。昼は外せばいい」


 新垣は自分の部屋に閉じ籠もった。

 夜になり新垣は布団に入って鬼が来るのを待っていたがいつの間にか眠ってしまう、


『旨そうだ。旨そうだ』


 声が聞こえたような気がして新垣が目を覚ます。


『旨そうだ…… 』


 板で塞いだドアの向こうに気配を感じて新垣が布団の中で身を固くする。


『これでは入れん』


 鬼の呟きが聞こえて気配がすっと消えた。


「入れん……たっ、助かったぁ~~ 」


 やはり鬼はドアからしか入れないのだと新垣は安堵した。

 これで安心だと次の日もドアを塞いだ。だが鬼は窓から入って来た。


『旨そうだ。あと21日で食える』


 新垣の周りを9周回るとニタリと笑って鬼は窓から出て行った。


「うわぁあぁぁ~~、全部塞がないと…… 」


 鬼が去って金縛りが解ける。飛び起きた新垣は余分に買っておいた板を窓に打ち付けた。


「全部塞がないと……鬼が入ってこないように全部………… 」


 騒ぎを聞いて両親が2階へ上がってくるが新垣の部屋のドアが開かない、内側から板を打ち付けているので当然だ。


「何をしてるんだ? 開けなさい」


 父の声も錯乱した新垣の耳には入らない、ドンドンと釘を打ち付ける音を聞いて父親はドアを壊して部屋へと入った。


「塞がないと……鬼が…………全部塞がないと」


 暗い部屋の中で新垣が窓だけでなく壁の彼方此方に釘を打ち付けていた。息子の姿に狂気を感じた両親は磯山病院へと入院させることにしたのだ。

 これが新垣加寿覇にいがきかずはさんが教えてくれた話しだ。



 窓から日が差し込んでくる。午前4時から話しを聞いて5時前になっていた。


「あの音は……始めに聞いた音は鼠や鼬なんかじゃなくて鬼だったんだ。初めから鬼が俺の周りを回ってたんだ」


 長い話を終えた新垣が憔悴した顔で付け足した。


「見えてなかっただけって事ですか? 」


 向かいに座る哲也が訊くと新垣が頷いてから口を開いた。


「そうだ。鬼はずっと居たんだ。開かずの間だと知らずに入ってた俺を食おうと狙ってたんだ…………割のいいバイトなんかじゃない、俺は生け贄だったんだ」


 生け贄と聞いて顔を顰める哲也の向かいで怯えを浮かべた新垣が続ける。


「ここにも鬼は出た。俺を追ってきたんだ。だからドアを塞いだんだ。塞がないと殺されるんだ」

「殺されるって……大丈夫ですよ、ここは病院ですから、何かあればナースコールもあるし僕たち警備員も見回りしてますから」


 どうにか宥めようとする哲也の前で新垣が首を振る。


「ダメだ。塞がないとダメなんだ……あと3日だ。あと3日で食えるって鬼が言ってたんだ。だから塞がないと………… 」


 ブルブルと震えながら新垣が布団に潜り込んだ。


「今から寝て夜になったらドアを塞ぐんだ……昼は出てこないから」


 怯える新垣に哲也は掛ける言葉が浮ばない。


「新垣さん……夜の見回りはしっかりするので安心してください」


 どうにかしてやろうと思いながら哲也は部屋を出て行った。



 その日の夜、深夜3時の見回りで哲也がD棟へと入っていく、


「鬼か……本当にいるのかな? 見てみたいなぁ」


 普段のように最上階へ上がると一階ずつ下りながら各階を見てまわる。夜10時の見回りでは異常は無かった。新垣の部屋も確かめたが静かに眠っていた。


「誰だ? 」


 2階に下りて階段から廊下に出て直ぐ、長い廊下の先に影が見えた。


「佐藤さん? 嶋津さん? 」


 大柄の人影に看護師の佐藤や見知った患者の嶋津だと思って声を掛けるが返事は無い。


「何してるんですか? こんな夜中に…… 」


 声を掛けながら近付く哲也に影が振り向いた。


「なんっ!? 」


 哲也が息を呑んだ。それまでぼやけていた影が振り返ると共にハッキリと見えた。

 廊下の先に立つ影は佐藤でも嶋津でもなかった。


「おっ、鬼…… 」


 哲也の口から自然と出た。3メートルほどもある巨体、腰蓑だけを着けた赤黒い肌、ボサボサの髪から2本の角が見える。新垣の話に出てきた鬼に違いない。


『我が見えるのか? 』


 鬼がニタリと不気味に笑った。


『旨そうだ。贄ではないが喰らうとしよう』


 鬼がドスドスと足音を立てて向かってくる。


「あぁ………… 」


 哲也は逃げようとするが足が竦んで動かない、鬼の目を見た瞬間、総毛立って動けなくなったのだ。


『旨そうだ。旨そうだ』


 鬼が近付いてくる。哲也がダメだと諦めかけた時、トンッと何かが降ってきた。


「ふぅぅ…… 」


 変な悲鳴が出た。小さな鬼だ。哲也の前、2メートルほどの所に小さな鬼が3匹、背を向けて立っていた。

 1メートルほどの小さな身体、肌の色は茶色や黒や深緑と様々だがそのどれもが頭から角を生やしている。


『旨そうだ…… 』


 廊下の先から歩いてきた大きな赤鬼が立ち止まった。


『それはうぬらのか? 』


 大きな赤鬼が話し掛けるが小さな鬼たちは何もこたえない。


『そうか、そうか、仕方あるまい』


 3匹の小鬼と大きな赤鬼は暫く対峙していたが赤鬼はくるっと背を向けて歩き出す。


「新垣さん…… 」


 大きな赤鬼は新垣の部屋へと入っていった。それを見届けていたのか前にいた3匹の小鬼もすっと消えた。


「冗談じゃない、あれはダメだ。ヤバすぎる」


 哲也がその場にへたり込む、体は動くようになっていたが力が入らない、


「あれはダメだ……僕には何も出来ない」


 廊下の先に見える新垣の部屋を見つめて呟いた。

 霊能力など持っているとは思わない、幽霊が見えてどういうわけか触れるだけだと思っている哲也にもあの赤鬼は危険なものだと一目で分かった。


「でも……新垣さんが…… 」


 壁伝いに立ち上がると哲也は新垣の部屋に近付いていく、手前で中の様子を伺うが音や声などは聞こえない、哲也はドアを開けることなく見回りを再開した。


「あれはヤバい、ヤバすぎる」


 全身が、意識が、持っているもの全てがダメだと拒否していた。

 哲也はヤバすぎると何度も呟きながら逃げるように廊下を歩いて行った。



 哲也が下りてきた階段とは対になる廊下の端の反対側の階段、その壁際に隠れるように職員の眞部が立っていた。その服装が違う、普段着ているスーツではなく神職が着るような着物姿だ。


「鬼に食わせるわけにはいかん、哲也くんは大事な身体だ」


 眞部が口の中で呪文のようなものを唱えながら3枚の呪符を懐にしまう、


「面白いものが見れたわ」


 いつから居たのか階段の中程に看護師の香織が座っていた。

 眞部がサッと振り返る。その手には今懐にしまった3枚の呪術札が握られている。


「式神ですか、あの鬼を引かせるなんて大したものね」


 愛らしく微笑む香織を見て眞部が呪術札を懐にしまった。


「見てたんですか? なら哲也くんを助けてあげなさい、人が悪い……いや、人ではなかったですね」

「うふふふっ、眞部さんの力を見たかっただけですわ」


 楽しげに笑う香織の向かいで眞部が呪術札をしまった胸元を整える。


「私など大したものではありませんよ、所詮人間ですから」

「鬼を追い払うのが大したものじゃないなんて言うじゃない」


 興味津々といった様子で目をクリクリさせる香織と違い眞部は表情を崩さない。


「対処法を知っているだけですよ、鬼や物の怪は……貴女方と違ってね」

「ふふっ、私たちへの対処法も考えてあるんでしょ? 」


 無表情だった眞部の瞼がピクッと動いた。


「さぁ……私は貴女方より詳しい話しは聞かされておりませんから、この実験」


 無表情だがその言葉には明らかに険を含んでいる。


「そうなの? でもその口振りじゃ反対みたいね」

「反対か……そうですね、賛成などしていませんよ、只、馬鹿者共が下手をしないように参加しただけです。雇われたという事もありますがね」


 無表情だった眞部がニッと口元を歪ませるのを見て香織が立ち上がる。


「うふふふふっ、怖い怖い、敵にならないように祈っていますわ」


 愉しげに笑いながら香織がスッと姿を消した。


「敵か……この企みについてか哲也くんについてか…………あのまま鬼に襲われていれば哲也くんは解放されたかも知れない……すまんな哲也くん」


 険しい顔で呟くと眞部は階段を下りていった。



 2日後、朝の見回りでドアが開かないのを不審に思った看護師からの知らせを受けて佐藤たちが駆け付けてドアを蹴破ると血の海の中、新垣が倒れていた。

 手足を突っ張らせて倒れていた。その顔は引き攣り頬は大きく歪んでいる。カッと見開かれた目、叫びを上げたであろう開かれた口、どれ程の恐怖を感じればこの様な姿になるのかという酷い有様だった。

 血溜まりの原因は胸だ。胸が引き裂かれていた。その裂かれた胸から心臓が抜かれていた。状況から生きたまま胸を引き裂かれて心臓を抜かれたらしい、他に傷は一切付いていない。


 誰が新垣を殺したのか? 患者が落ちないように窓には鉄で出来た頑丈な格子が付いているので侵入することは出来ない、出入り口はドア一つだけだが新垣はベッドを立ててドアが開かないように塞いでいたらしい、朝の見回りでドアが開かなかったのは中から塞いでいた所為である。以前にも同じ事をしているので直ぐに新垣の仕業だとわかる。

 仮にドアから犯人が入ったとすればどうやって塞いだのだろう? 死んだ新垣が犯人が出て行った後で塞いだとでも言うのだろうか? 

 警察に通報するが捜査しても犯人どころか何もわからなかった。結局、新垣は自殺として処理された。


 不気味なことに新垣の心臓が見つからない、部屋だけでなく外も探した。窓から捨てたのかと探すが外には血の跡すらない、手の空いているものが総出で探すが結局、心臓は見つからなかった。

 新垣の心臓は何処へいったのだろう、話しを聞いた哲也の頭にあの鬼が浮んだ。赤黒い大きな鬼が新垣の心臓を抜き取って食べている姿が浮んだ。



 経緯を思い返していた哲也が考えるように顔を顰める。


「新垣さんの病室のドアは壊れていたはずだ。またドアを塞がないように取り外してカーテンを吊してたはずだ。それなのにドアが付いてた……僕が見回りをしたときにはドアがあったぞ」


 いつドアを直したのか哲也は知らない、ドアがあるのが当り前なので見回りの際には気にもしなかった。


「誰が直したんだ? しばらくカーテンだけにしておくって話しだったはずだ。何か変だぞこの病院…………考え過ぎだ。僕も病気だからな」


 哲也が否定するように頭を振った。香織や嶺弥がいる磯山病院を悪く思いたくはない。

 話を変えるように呟く、


「開かずの間か…… 」


 新垣は出入り口を塞げば鬼は入ってこないと言っていたが逆効果なのかも知れないと哲也は考える。全ての出入り口を塞いで自分で開かずの間を作ったのと同じだ。開かずの間に棲む鬼がそうなるように仕向けたのではないかと哲也は思った。

 家に帰ってから10日ほど鬼が現われなかったのは新垣の代わりに女将さんが生け贄にされていたからではないだろうか? 家に帰ってきてからは30日も掛かったのは開かずの間と違い鬼の力も全て出せなかったのだろう、新垣と女将を犠牲にした旅館はあと10年は安泰かも知れない、だがこんな事がいつまでも続くはずはない、必ずしっぺ返しが来るはずだ。


 新垣がバイトをした旅館は何だったのだろうか? 江戸時代から続く歴史ある旅館だ。何時からかは分からないが開かずの間に封じ込めた鬼の力によって栄えてきたのではないだろうか、旅館の主人が言った『これで後10年は安泰だ』という言葉が気になった。10年毎に生け贄を捧げてきたのではないかと、新垣は生け贄として成功したのだろうか? 

 哲也は怖くなってそれ以上考えるのは止めた。



 今回哲也は何もしなかったと言うより何も出来なかった。あの時、部屋に入っていっても何も出来なかっただろう、それどころか哲也自身も危なかったはずである。

 立っていられないほどの恐怖で竦み、逃げろと全感覚が訴えてきたのだ。新垣には悪いと思うが決して間違いではない、無茶をしても死体が2つに増えただけだ。

 それでも新垣には悪かったと哲也は布団にくるまって泣いた。泣いて謝ることしか出来なかった。


読んでいただき誠にありがとうございました。

5月の更新は今回で終了です。

次回更新は6月末を予定しています。


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