第三十二話 タイムトラベル
タイムトラベルとは時間を越えて過去や未来に行き来する事である。
アニメや映画などではタイムマシンという時間を自由に行き来できる機械や乗り物を使って時間旅行をする描写を時々見掛ける。
光の速さを超えたり空間を曲げる事が出来れば実際にタイムトラベルが出来ると唱える者も多い、だが仮に光の速さを越えたり空間を曲げる事が出来たとして、その様な状況に人体が耐える事が出来るのかという問題がある。深海や宇宙へ行くのにも仰々しい装備や乗り物が必要な今の人類にとっては夢物語ということだ。
しかし、何百年、何千年先の未来ではどうだろうか? 遙か未来の技術なら数々の問題をクリアしてタイムトラベルが可能になっているかも知れない。
現代の科学技術によるタイムトラベルは無理だとしても怪異によるタイムトラベルはあるのかも知れない、人智の及ばない何らかの現象によって時間や空間が捩じ曲がり今現在の場所と過去や未来が繋がってしまうことがあるのかも知れない。
哲也は34年前という過去からタイムトラベルしてきたという患者に出会った。先生たちはアルツハイマー型認知症による記憶障害が出て幼い頃の記憶が鮮明に蘇って過去と現在の判断が出来なくなっているだけだと言うが哲也にはそうは思えなかった。
哲也が生まれる前、昭和時代の話しをワクワクしながら聞かせてもらった。そのどれもが幼児の頃の記憶とは思えないほどの鮮明な話しだったのだ。
昼食後、哲也は腹ごなしに病院の敷地内を散歩していた。
「今日は暑いなぁ~~ 」
リハビリの時に着る運動服のジッパーを下ろして胸元を広げた。哲也が着ている運動服は古いタイプで今使われている運動服にはジッパーはついていない、ジッパーで皮膚を挟んだりする事故を防ぐためである。古いタイプの運動服は警備員が着ている作業服に非常に似ているので哲也はこれを着て警備員に成り切っているのだ。
「ぐるっと一周して帰るか、コーラでも飲もう」
自販機で冷えたコーラを飲むのを楽しみに日差しのきつい晴天の遊歩道を歩いて行く、
「んん? 何してるんだろう」
遊歩道の先、脇に置いてあるベンチに中年男性が座っていた。
「見た事ない人だな、何見てるんだろ? 雲でも見てるのかな」
男はぼーっと空を見ていた。
「それにしても暑いな……新しく来た患者さんなら面白い話も聞けるかもな」
今日は晴天で日差しもきつい、熱中症にでもなると大変である。男に話し掛けて建物の中へと入ってジュースでも飲みながら何で入院してきたのか話しでも聞こうと考えた。
「西ノ宮さん、やっと見つけた」
心ここにあらずという様子の男に話し掛けようと哲也が歩き出した後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「哲也さん、ダメですからね」
哲也が振り返ると看護師の早坂が立っていた。
「あの男の人、西ノ宮さんって言うんですか? 」
「そうよ、認知症だけど元気だから歩き回っちゃうのよ」
ちらっと男を見て訊いた哲也の前で早坂が息を切らせて教えてくれた。西ノ宮を探して走り回っていたらしい。
「認知症ですか? まだ若いですよね? 30歳くらいに見えますけど」
相手の事を考えたのか哲也が悲しそうな顔で訊いた。
「うん、西ノ宮さんは39歳だから若年性認知症ね、アルツハイマー病よ、だから哲也さんが面白がって幽霊とか変な話しをしたら困りますから止めてくださいね」
普段なら怒鳴りつける早坂だが哲也の顔を見て優しい声で注意してくれた。
「いや、僕は別に……って言うか、見ず知らずの人に行き成り幽霊の話なんてしませんよ、今日は暑いからあんな所に居たら熱中症になるとヤバいと思って建物の中へ連れて行こうと思っていたところです。まぁ、ジュースでも奢って飲みながら話しは聞こうと思ってましたけど…… 」
あれこれと言い訳する哲也の前でやっぱりという呆れた表情で早坂が続ける。
「幽霊とかの話しは無いわよ、西ノ宮さんは34年前から来たって妄想してるのよ、何だっけ? タイムスリップだっけ、未来とか過去からやってくるヤツ、自分はあれだって思い込んでるのよ」
タイムスリップという言葉を聞いて哲也の顔にパーッと笑みが広がっていく、
「タイムトラベルっすね、タイムマシンを使って未来や過去に自由に行き来できるってSFっす。西ノ宮さんは34年も過去から来たって言ってるんですか? 」
興味津々といった笑みで訊く哲也の向かいで早坂が溜息をつく、
「まったく……ダメですからね、タイムトラベルなんてあるわけないでしょ、今回は原因はハッキリしているからね、認知症による記憶障害です。だから哲也さんが変な事を吹き込んだりしたら怒りますからね」
怖い顔をする早坂の向かいで哲也がおべっか笑いをしながら聞き返す。
「認知症による記憶障害でタイムトラベルするんすか? 」
「タイムトラベルなんて出来るわけないでしょ」
早坂が呆れながら西ノ宮の事を話し出す。
「西ノ宮さんは39歳でしょ、34年前から来たって言うのは5歳の頃の記憶が蘇って今の記憶と混じって判断できなくなっているのよ、5歳頃の記憶は誰でも一つくらいはおぼろげにでも覚えているでしょ? 成長していって記憶の奥底に消えていくけどその頃の出来事は脳に焼き付いているのよ、何かの切っ掛けで脳の回路が繋がって鮮明に思い出す事もあるのよ、西ノ宮さんの場合はアルツハイマー型認知症による記憶障害が偶然過去の記憶を鮮明に蘇らせたのよ、それで今の記憶と混じって過去の記憶と判断できずに自分は過去からやってきたって、タイムトラベルしたって思い込んだらしいのよ」
「成る程……その説明なら僕も納得しました」
わかったと言うように哲也が頷いた。幽霊は何度も見ているので存在していると信じているがタイムトラベルなど出来ないのは常識的にわかっている。ただ面白そうだと思って話しを聞きたいだけだ。
「ただねぇ……西ノ宮さんの御家族が見つからないのよ、西ノ宮って名乗っているけど本当の名前かもわかってないのよ、身分を証明するものを持っていないから」
「見つからないって、じゃあ西ノ宮さんはどうやって入院して来たんですか? 」
弱り顔で呟く早坂に哲也が訊いた。
「うん、警察に保護されたのよ…… 」
西ノ宮誠司39歳、迷子になったのか交番へと駆け込んできた。自分は34年前からタイムトラベルしてきたと話す。両親が住んでいる家へ帰ろうとしたが既に家は無く、マンションが建っていた。近くにいた住民に訊くと17年前に建ったマンションで元からあった家々は土地を売って引っ越しており西ノ宮を知るものはいなかった。
西ノ宮は途方に暮れて徘徊して疲れ切って交番へと駆け込んだ。警察に保護された後も過去から来たとかありもしない事を話すので病院で診てもらうとアルツハイマー型認知症と診断されて磯山病院へとやってきたのだ。
「こんな事している場合じゃないわ、西ノ宮さんを早く中に入れなきゃ」
話し終えると早坂は早足で歩き出す。
「全部妄想だとしても面白そうだ」
西ノ宮の元へと向かう早坂の後を哲也が楽しげについていく、
「哲也さん! 幽霊とかの話しはダメですからね」
後ろから付いて来ているのがわかったのか早坂が振り返りもせずに言うと哲也が背に向かってこたえる。
「わかってますよ、幽霊とかの話しはしません、昔の話しを聞きたいんですよ」
「昔の話しか…… 」
歩きながら考えていた早坂がくるっと振り返った。
「哲也さんが話し相手になってくれれば西ノ宮さんも歩き回らないかも知れないわね」
「任せてください、西ノ宮さんが徘徊しないように僕が見てますよ」
満面の笑みでこたえる哲也を見て早坂が溜息交じりに口を開いた。
「 ……わかったわ、でもお化けの話しは絶対にダメですからね」
「了解っす。僕の方から幽霊の話しとか振りませんから安心してください」
敬礼してこたえる哲也を連れて早坂はベンチに座る西ノ宮の元へと歩いて行った。
遊歩道脇のベンチ、ぼーっと空を眺めながら西ノ宮が何やらブツブツと呟いている。
「どうしたら戻れるんだ……ここは本当に地球なのか? 私は……何でこんな事に…………34年も経っているなんて………… 」
傍に立って聞き耳を立てる哲也にも気が付いていない様子だ。
「西ノ宮さん、こんな所に居たら熱中症になりますよ、早く部屋に戻りましょう」
優しく声を掛ける早坂に西ノ宮がゆっくりと顔を向ける。
「私は病気じゃない……本当にタイムスリップしたんだ。34年前からやってきたんだ。私を病人扱いしないでくれ」
ブツブツと呟いていた表情とは違い、早坂を正面で見据えて真面目な顔で西ノ宮が話した。とても心の病には見えない様子に哲也が横から話し掛ける。
「西ノ宮さん、昔の……西ノ宮さんが居た時代の話しを聞かせてくれませんか? 」
早坂から少し離れて立っていた哲也に西ノ宮が視線を移す。
「君は? 」
「僕は警備員です。警備員の中田哲也と言います。哲也って呼んでください」
哲也がペコッと頭を下げた。
「警備員さんか……哲也くんって言ったね、話しを聞きたいのか? どうせ君も私の事を病気だと思っているんだろう? 」
怪訝な顔で見つめる西ノ宮に哲也が真剣な表情で話を始める。
「病気かどうかは関係ありません、僕は医者じゃないので判断できませんから、西ノ宮さんが34年も前から来たって言うので面白そうだから話しが聞きたいだけです」
「哲也さん! 」
叱る早坂の前に『待ってくれ』と言うように横から腕を伸ばして哲也が続ける。
「34年前って言ったら1980年代ですよね、ゲームウォッチとかインベーダーゲームとかウォークマンが売り出されたのもその頃ですよね」
哲也の話しを聞いて西ノ宮の疑うような顔付きが緩んでいく、
「よく知っているね、インベーダーゲームは1978年くらいから出回り始めたんだよ、私は殆どした事がないけど部下の若い連中がよく喫茶店でピコピコやっていたよ、ウォークマンは私も持っているよ……いや、持っていたと言った方がいいな………… 」
楽しそうに話していた西ノ宮の顔がフッと曇るのを見て哲也が慌てて話し掛ける。
「その頃の……西ノ宮さんが居た34年前の話しを聞かせてください、西ノ宮さんが病気とか関係ないです。ゲームとかパソコンとか音楽の話しとか聞きたいんですよ、僕」
パソコンという言葉に西ノ宮が反応した。
「パソコンか……テレビゲームは余り知らないけどパソコンなら知っているよ、FM―7を持っているからね、パソコンや音楽の話しなら出来るよ」
哲也が身を乗り出す。パソコンやゲームの話しは怪奇現象の次に好きなのだ。
「FM―7っすか、富士通のヤツっすね、7は触った事ないけどX1は触った事があります。高校の時にマニアの友人が居てゲームやらせて貰ったことがありますよ、そいつ他にも古いパソコン色々持ってて…… 」
話しを続けようとした哲也が顔を顰める。確かに古いパソコンでゲームをした事は覚えているが友人の顔が思い出せない、必死で思い出そうとする哲也の向かいで西ノ宮が笑顔で頷いた。
「X1か、いいねぇ、私も迷ったんだよね、でもFM―NEW7が出て前の7が安く売っててね、一式揃えてもX1より大分安かったから7にしたんだよ」
考えて顔を顰めていた哲也がパッと顔を明るくした。
「NEW7っすか、7と性能一緒で安くなったんですよね、安く買えたのなら普通の7の方がお得ですよね」
「そうなんだよ、NEW7よりも1万5千円ほど安く買えてねぇ……あれはお買い得だったなぁ、まぁ8001とか6001はもっと安かったんだけどね、グラフィックが貧弱だったし……7を買ってよかったよ」
西ノ宮のテンションが上がったのを見て哲也が切り出す。
「その当時……西ノ宮さんが居た時代の話しをもっと聞かせてください、パソコンだけじゃなくて音楽とかテレビとか、色々聞きたいです」
「 ……いいだろう、哲也くんなら楽しい話ができそうだ」
少し考えてから西ノ宮が承諾した。目の前の哲也が悪い奴ではないとわかったのだろう。
哲也がくるっと首を回して早坂を見つめる。
「早坂さん、いいですよね? 」
「そうね、楽しそうだから哲也さんに任せるわ、夕食に間に合うように食堂に連れて行ってあげてね」
話しについて行けずに難しい顔をしていた早坂が哲也の背をポンポン叩いた。
「了解っす。夕方の見回り前に連れて行くから任せてください」
敬礼してこたえると哲也は西ノ宮に向き直る。
「ここじゃなんですから西ノ宮さんの部屋で話しましょう、飲み物とお菓子持って行きますよ」
「そうだな、ここじゃ暑くて倒れそうだ」
腰を上げる西ノ宮を見て早坂は一安心といった表情だ。
「僕は一旦部屋に戻ってお菓子取ってきます。西ノ宮さんの部屋は何号室です? 」
早坂と一緒に歩き出す西ノ宮に哲也が訊いた。
「西ノ宮さんはC棟の406号室よ」
西ノ宮の代わりに早坂がこたえると哲也は了解と言うように手を振ると走って自分の部屋に戻っていった。
「優しい人だね、哲也くん」
走って行く哲也を見ながら西ノ宮が呟いた。それを聞いた早坂が苦笑いしながら口を開く、
「わかりますか? とても優しいですよ哲也さんは……でも気をつけてくださいね、幽霊とかオカルトの話しが好きなんですよ、バカな話しは聞き流してくださいね」
「オカルトか……それで私に興味を持ったんだな」
納得した様子の西ノ宮に早坂がペコッと頭を下げる。
「済みません、嫌なら無理に付き合わなくてもいいですよ」
西ノ宮が優しい目を早坂に向ける。
「構わないよ、哲也くんみたいな奴は好きだから……話しをすれば少しは気が紛れるだろうしね」
「西ノ宮さん…… 」
早坂も優しい笑みを返すと並んで歩いて行った。
お菓子の入った袋と自販機で買った缶コーヒーを持った哲也がC棟へと入っていく、
「406号、西ノ宮誠司っと」
ドア横のネームプレートを確認して哲也がドアをノックする。
「西ノ宮さん、哲也です」
「よく来たねぇ、さあ、入って入って」
笑顔の西ノ宮に招かれて部屋の中へと入る。
「これお菓子です。饅頭とクッキーと、それとコーヒーもありますからお茶しながら話しを聞かせてください」
哲也がお菓子と缶コーヒーを差し出すと西ノ宮が済まなさそうに顔を歪めた。
「悪いねぇ、年上の私が用意しないといけないんだが…… 」
「気にしないでください、僕が押しかけたんですから当然です。ここ座っていいですか? 走ってきたから疲れちゃって」
哲也が笑顔でテーブル脇の円椅子に座った。厚かましいとも思える態度だが西ノ宮に気を使わせまいと態と無礼な態度を取ったのだ。
34年前からタイムトラベルしてきたと言い張る西ノ宮は財布は疎か身分を証明するものは何も持っていない、当然、お金も持っていないので自販機や売店などで買い物も出来ない、そんな事は早坂の話しを聞いて哲也はわかっている。だからお菓子は勿論、缶コーヒーも余分に買ってきた。
「先ずはパソコンの話でもしましょうよ」
笑顔で言うと哲也は自分の分の缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「パソコンの話しか……哲也くんはどれくらい知っているんだい? FM―7を知ってるくらいだからそれなりに詳しいんだろう? 」
テーブルの上にお菓子の入った袋を置くと西ノ宮が向かいに座った。
「高校の頃にマニアの友達が居てそいつの家でよく触らせて貰ったんですよ、だからMSXとかX1とか88に98の話しは少しわかりますよ」
「成る程ね……おっ、この缶コーヒー美味しいな、ちゃんとコーヒーの味がするよ」
向かいで缶コーヒーに口を付けた西ノ宮が驚きの声を出した。
「普通に自販機で売ってる奴ですよ……昔の缶コーヒーってそんなに不味かったんですか? 」
首を傾げる哲也を見て西ノ宮が驚いた表情のまま話し出す。
「いや、不味いって言うかコーヒーじゃないって感じだよ、私の居た時代じゃ甘ったるいコーヒー牛乳って感じのやつしかなかったからな、それと比べるとこれは本物のコーヒーに近いね、こんなのが簡単に飲めるんだから凄いよね」
「あはははっ、僕は慣れた味だから凄いとかわかりません、余分に三本買ってきたから後で飲んでください、ブラックもあるんでお菓子と一緒に飲むと美味しいですよ」
「ありがとう、これは嬉しいよ」
照れを隠すように笑う哲也の優しさが伝わったのか西ノ宮が相好を崩して礼を言った。
昔のパソコンやゲームの話題で盛り上がる。自分で簡単なゲームをプログラミングしていたという西ノ宮の知識は哲也にとって新鮮だった。
だが哲也の頭に疑問も浮んだ。
認知症で記憶障害が起って34年前の記憶が今の記憶と混じって自分がタイムトラベルしてきたと言うのなら話の辻褄が合わない。
現在39歳の西ノ宮が34年前というと5歳だ。プログラミングの話しなど5歳児の記憶で出来るだろうか? 仮に西ノ宮が39歳ではなく50歳だとすれば34年前は16歳なのでプログラミングなどの話の辻褄は合う、だが初見で30歳くらいと見間違えた程に西ノ宮は若く見えるがそれでも50歳というには無理がありすぎる。
だとすれば今会話している知識は何処から得たのだろうか? 哲也の友人のようにパソコンマニアで古い物を沢山知っているだけなのだろうか? それならば34年前からタイムトラベルしてきたなどと話す必要はないだろう、記憶が混じっているにしてもパソコンマニアで集めていた事くらいは自分でもわかるはずだ。
「プログラミングの話しは僕にはわかりません、もっぱらゲームしかしてませんから、だから話題を変えて音楽とか映画の話しはどうですか? 流行ってたドラマとかでもいいですよ」
不思議に思った哲也が話題を変えた。
「ドラマは余り見てないな、音楽と映画の話しなら出来るよ」
音楽や映画は好きなのか西ノ宮が食い付いてきた。
昔のものでも有名な映画はそれなりに知っているので哲也もどうにか話題に付いていけるがアイドルの歌やマイナーな映画の話になると、てんで付いて行けなくなる。
西ノ宮さんは本当にタイムトラベルしてきたんじゃ……。話しを聞くうちに哲也の疑問が大きくなっていく、霊現象はともかくタイムトラベルなど信じてはいない、だが目の前にいる西ノ宮さんが嘘を言っている様には見えない、アルツハイマー病で認知障害を起している人の話し方でもない、だとしたら西ノ宮さんはどこから来たのだろうか?
「西ノ宮さん、聞き難いんですがいいですか? 」
楽しげに話す西ノ宮に哲也が真面目な顔を向けた。
「どうしたんだい? 改まって」
笑顔で聞き返す西ノ宮に哲也が話しを切り出す。
「西ノ宮さんはどうやってここに来たんですか? タイムトラベルってどんな出来事が起ったんです? 」
「哲也くん…… 」
顔を曇らせる西ノ宮に哲也が真剣な表情で続ける。
「正直言ってタイムトラベルなんて信じていませんでした。でも西ノ宮さんの話しを聞いて僕はわからなくなりました」
「 ……そうか、そうだね、タイムトラベルなんて私も信じられないよ、でもそうとしか考えられないんだよ」
難しい顔で話す西ノ宮に哲也が頭を下げた。
「済みません、西ノ宮さんを疑っているわけじゃないんです」
西ノ宮が哲也の肩をポンッと叩いた。
「ははっ……いいさ、頭を上げてくれ哲也くん、私自身も今の状況を信じられないんだからね……そうだね、哲也くんなら真面目に聞いて貰えそうだな」
「お願いします。茶化したりしないから教えてください」
必死で頼む哲也の向かいで西ノ宮が頷いた。
「わかった。信じて貰えなくてもいいよ、哲也くんなら話してあげるよ」
西ノ宮が遠い目をして話を始めた。
これは西ノ宮誠司さんが教えてくれた話しだ。
今から34年前、西ノ宮は関西地方のある田舎町に住んでいた。日本は景気が良く人々の生活も活気に溢れていた時代である。
昔と言っても34年程前だ。人々の生活は基本的には変わってはいない、現代と比べて性能は全てにおいて劣るが冷蔵庫やテレビなどの家電はあったし自動車やバイクもある。テレビゲームやパソコンも出始めてきて現代の生活に繋がる基礎的な事は大概出来たのだ。
だが幾つかは現代と圧倒的に違うものがある。
その1つが医療だ。医療の進化は素晴らしく年が進むごとに日本人の平均寿命が延びていく、1980年代と今では男で6歳、女で8歳も平均寿命が上がっているのだ。
もう1つが通信技術だ。当然だが34年前は携帯電話はもちろんインターネットなどは無く、情報伝達速度は今とは全く比べものにならないくらいに遅かった。
個人間の連絡は家にある固定電話や町中にあった公衆電話を使っていた。従って家から外に出ると連絡の取りようがなかった。遊びに行く際は各家まで迎えに行ったり予め待ち合わせ場所を決めていた。
急用が出来て待ち合わせ場所に行けなくなっても伝える手段はなく、待ち合わせ時刻までに相手が来なければ公衆電話を使って此方から連絡を取っていた。相手が家に居ればそれで連絡が付くからいい、だが相手が待ち合わせ場所に向かっている途中なら連絡が取れない、その様な場合に備えて駅などには誰でも書き込める掲示板が置いてあった。その掲示板に先に○○へ行くなどと連絡事項を書いて置き遅れてきた者がそれを見て対応するのだ。
現在からすれば物凄く不自由に思うだろうが昔はそれが当り前だったので誰も疑問など持たなかった。実際の時間ではなく精神的な時間とでも言うのだろうか、日本だけではなく世界中の時間がゆっくりと流れていたのだ。
西ノ宮はそのゆっくりとした時代に生きていた。景気が良く忙しかったが精神的にはゆったりと生きて行けた時代だ。
39歳になった西ノ宮は友人たちと連れだって繁華街へと繰り出した。
「誠ちゃん、誕生日おめでとう」
「誠司も39か、おめでとう、お互い爺になったなぁ」
居酒屋のテーブルを囲んで友人たちが誕生日を祝ってくれる。
「何がめでたいもんかよ、オカンなんて俺の顔見る度にいい女はいないのかとか、孫の顔が見たいとかほざくんだぞ」
酔って頬を赤く染めた西ノ宮が愚痴りながらビールをあおった。
現代と違って39歳にもなって独身だと色々と肩身の狭い思いをしていた時代だ。
「そりゃ言われるわな、仲間内でお前だけだぞ独身貴族は」
「自由で羨ましいと思う事はあるけどさ、早く結婚して親を安心させてやれよ」
「子供作れ子供、可愛いぞ、仕事にも張り合いが出るってもんだぜ」
揃って責める友人たちの前で西ノ宮がジョッキに入ったビールを飲み干した。
「良い女が居たら結婚してるさ……お前たち不良と違って俺は我武者羅に働いてきたからな」
ムッとする西ノ宮を見て友人たちが話題を変える。
「はいはい、流石出世頭は言うことが違うよな」
「部長補佐だっけ? 稼いでるんだろ? 」
「凄いよな、俺なんて係長止まりだぜ」
羨むような友人たちを見て西ノ宮がニヤッと嬉しそうに笑う、
「まぁな」
ニヤつきながら西ノ宮が手を上げて店員を呼ぶ、
「お姉さん、生中二つ、お前らも何か頼め、今日は俺が奢ってやる」
普段は自分のことを私と呼んでいる西ノ宮だが学生の頃から付き合いのある友人たちと遊んでいる時は昔のように口から自然に俺と出てくる。
友人たちがパッと顔を明るくする。
「ほんとか? 太っ腹だな」
「誕生日だから俺たちが奢ろうって話してたのに…… 」
「そうだぜ、悪いよなぁ」
言葉とは裏腹に嬉しそうな友人たちを前に西ノ宮が声を出して笑い出す。
「あはははっ、小遣い制のお前らが無理すんな、俺はなんたって独身貴族だからな」
「悪いな、じゃあ遠慮なく奢って貰うぜ」
「実は小遣い足りなくてピーピー言ってたんだ」
友人たちが追加で注文するのを見ながら西ノ宮は酎ハイを旨そうにグイッと飲んだ。
独身の西ノ宮の楽しみと言えば友人たちと飲む事か最近始めたパソコンを弄くる事くらいである。その間は煩わしい事を全て忘れて楽しめるのだ。
友人たちと居酒屋を何軒か梯子して足下がおぼつかなくなるまで酔っ払う、
「おい大丈夫か? 家まで送ろうか? 」
心配そうに伸ばした友人の手を西ノ宮が払い落とす。
「大丈夫だ。これくらい酔ったうちに入るかよ」
心配する友人たちと別れて西ノ宮はふらつく足で帰路についた。
「ふぅ……ちょっと飲み過ぎたかな、でも楽しかったなぁ、良い誕生日だ」
駅のベンチに腰掛けて一休みする。39歳になっても一緒に誕生日を祝ってくれる友人が居て幸せだと思った。
「おっと、眠ってた」
電車がやってきた音に西ノ宮が飛び起きる。
「そろそろ終電時間だからな、乗り過ごすと大変だぞ」
客は西ノ宮を入れて5人ほどしか乗っていない、ガラガラな電車の中、西ノ宮は居眠り防止に座らずに立って乗ることにした。
「あれ? 気の所為か家が少ないような…… 」
電車の窓から見た景色が普段と違っているように感じたが酔っているので見間違えただけだとそれ程気にしなかった。
家から最寄りの駅に着いて電車を降りる。
「タクシーは……変だな、まぁいいか、歩こう」
田舎町の小さな駅だが普段ならタクシーの2台くらいは駐まっているのだ。だが今日は一台もいない、両親と一緒に暮らしている家までは歩いても30分程の距離だ。酔い覚ましに丁度良いと歩いて帰る事にした。
「静かだな、駅前にラーメンの屋台も出てなかったし…… 」
道路脇の歩道を歩いて駅から離れていく、
「あれ? ここ田んぼだったっけ? 家があったような気がするんだが……相当酔ってるなぁ」
暫く歩くと見慣れない田畑が見えた。西ノ宮が住んでいるのは田舎町だ。町の中心部から外れれば普通に田畑はある。だが今歩いている道路脇に田畑があるのは知らなかった。
「おかしいなぁ……道に迷ったか? まさかぁ~~ 」
独り言を言って声を出して笑った。
何十年も住んでいる町だ。相当酔っていても迷う事など有り得ない、だがその日は違った。勝手知ったる道を歩いていたのだがいつの間にか道々に家がなくなっていた。周りは畑や田んぼだらけだ。
「なんで……いや、待てよ………… 」
西ノ宮は小学生の頃を思い出した。自分が10歳くらいの頃に通った道だ。その頃はまだ開発が進んでいなくて畑や田んぼが沢山あったのだ。
「夢でも見てるのか? 酔っ払って何処かで寝たのかな、それで夢の中か」
周りを見回しついでに自分の手足を見る。夢の中で子供の頃に戻ったのかと思ったが自分自身は大人の姿のままだ。飲み会の帰りのままである。
「まぁいい、夢なら夢で面白い、懐かしいなぁ~~ 」
夢でも見ているのかと懐かしんで歩いていると急に光に包まれた。
「まっ、眩しい!! 」
車のヘッドライトに照らされたのかと眩しくて目を閉じる。
「車……じゃないな、何だったんだ? 」
バッと振り返るが車の通った気配は無い、
「まぁいいか…… 」
前に向き直った西ノ宮が絶句した。
先程まであった田んぼや畑が無くなっていた。
「なっ、なんで……いや、これでいいんだ。けど……なんで………… 」
周りには見慣れたビルや商店に家々が建っている。毎朝通勤で通っている景色に戻っていた。西ノ宮は部長補佐になっても駅まで自転車で通っている。どちらかというとインドア派の西ノ宮にとって運動に丁度良い距離だ。なので周りの景色を見間違えることなど有り得ない。
「なんで……夢じゃなかったのか? 歩きながら寝てたのか? 」
西ノ宮が自分の頬を引っぱたく、
「痛ぇ~~、夢じゃなさそうだ。今は起きてる……じゃあ、さっきのは本当に歩きながら寝てたのか? 」
頬を摩りながら辺りを見回す。先程まで田畑が広がっていたのが嘘のように家々が建ち並んでいる。
「子供の頃の夢を見てたのか……懐かしいなぁ~~ 」
西ノ宮が小学生の頃は駅の近くにも田畑が沢山あった。買い物をする母に連れられて駅の近くの商店街によく行ったのでハッキリと覚えている。その懐かしい景色を夢に見たのだと温かい気持ちで歩き出す。
「でもまぁ、相当酔ってるな、道路の真ん中で寝たりしたら大変だぞ」
少し歩いて道端に立っている自動販売機の前で足を止めた。
「甘ったるいコーヒーでも飲むか」
缶コーヒーを買って自販機横にあったベンチに座って飲み始める。
「暑いな…… 」
酔いもあって体が火照ったのか西ノ宮は上着を脱いでベンチに置いた。
「砂糖の塊って感じだな、疲れてる時には丁度良いんだけどな」
半分ほど飲むと缶コーヒーを片手に歩き出す。
「汗かいたなぁ……風呂入りたいなぁ」
缶コーヒーを飲みながら帰りを急ぐ、
「やけに静かだな」
西ノ宮は奇妙な事に気が付いた。誰も居ない、時刻は夜の10時を回っている。田舎町の夜は出歩く人は少ない、だが今いる場所は駅の近くなので屋台や居酒屋などがあり2~3人くらいには出会ってもいいはずだ。何度か同じ時刻に帰っているが数人には擦れ違うのだ。それなのに今日は誰とも出会わない、人はともかく道路を走る車も一台も見えない。
現代と違い34年前は夜に出歩く人は少なかった。都会ならともかく、田舎町では午後10時を過ぎてからは急な用事も無しに出歩くことなどなかった。コンビニも無く深夜まで営業している店も殆ど無かったので当り前と言えば当り前なのだが、だからといって道路に車一台も見えないのはおかしい、道の空いた夜間に距離を稼ぐ長距離トラックはもちろん、タクシーなどが走っていてもいい時間帯だ。
「なんだ? 今日はみんな休みか? 」
おかしいと気が付いた西ノ宮は建ち並ぶ家々を見回す。
「おいおい、真っ暗だぞ、停電か? でも外灯も信号も点いてるぞ」
どの家にも明かりは点いていない、電柱についている外灯や信号機には明かりは灯っている。それなのに家やマンションの窓からは明かりは見えない。
「どうなってんだ? 車も走ってないし、家に電気も点いてない……みんなどっかへ消えたって言うのかよ」
誰も居ないのではないかと不安になった西ノ宮は近くにある電話ボックスへと駆け込んだ。
「しまった上着…… 」
缶コーヒーを飲んだ際に上着をベンチに置いてきたことに気が付いた。財布や免許など上着の内ポケットに全て入れていた。
「取りに戻るか……その前に電話だ」
幸い小銭入れはズボンのポケットに入れておいたので電話代くらいはどうにかなる。
「 ……何で出ないんだよ、こんな時間に出掛けてるはずないんだがな」
自宅に電話を掛けるが両親は出ない。
「彼奴らなら……坂井はもう家に着いてるな」
先程まで飲んでいた友人の中で家が1番近く既に帰り着いているであろう坂井に電話を掛ける。
「 ……何で出ない? 坂井何してるんだ。さっさと出ろよ」
電話は呼び出しベルを虚しく鳴らし続けるだけだ。
「おかしい? 」
自宅や職場に先程飲んでいた友人の家と、何度も掛けるが誰一人電話に出ない。
「何が起きてるんだ? なんで誰も電話に出ない? 」
怖くなった西ノ宮は慌てて自宅へと向かって駆け出した。ベンチに置き忘れた上着のことなど頭から消えている。
10分程走ると家が見えてきた。
「やっぱり明かりが点いてない……どうなってんだ? 」
両親はまだ起きている時間帯だ。それなのに家の窓からは明かりが見えない。
「隣りも、お向かいさんも、周りの家の電気が全部消えてる……電柱の街灯も信号機も動いてるのに家の明かりだけが消えるなんてあるのか? 」
何が起きているのかと急いで道路を渡る西ノ宮を眩しい光が包み込んだ。
「眩しい! 」
車のヘッドライトか何かだと顔を背けた。
「眩しかった……車なんて来てなかったぞ」
後ろを振り向くが車の通った気配は無い、家に急ごうと前に向き直った西ノ宮はその場に立ち尽くす。
「なっ、なんで…… 」
目の前には家は無く、大きなマンションが建っていた。
「ちょっ……待てよ……私の家は? 」
慌てて自分の家を探すが大きなマンションが並んで2棟建っていて横に小さな公園が見えるだけだ。自分の家どころか隣近所の戸建て住宅が全て消えていた。
「なにが……私の家は? お隣の清水さんは? お向かいの北村さんは? 」
マンションの前を通る大きな道路を歩きながら自分の家を探すが何処にも見当たらない。
「酔っ払って道間違えたか? でもさっきは家が見えたよな……明かりの点いてない私の家が………… 」
マンションの前を行ったり来たりして自分の家だけでなく隣や向かいの家を探すが近くには戸建て住宅など一軒も無い、2棟並んで建つ高層マンションの広い敷地内に西ノ宮は立っていた。
「なんで……酔ってるんだ。落ち着こう、一旦国道まで戻ろう」
道を間違えたのかと家から150メートルほど離れた国道へと向かう、
「この道だ。間違ってない、家の近くのはずだ」
見知った国道に出て安心した西ノ宮は戻ってきた道とは違う少し遠回りになる道路を通って家へと向かう、
「でかいマンションだな……あんなの無かったぞ」
二つ並ぶ高層マンションを見上げながら歩いて行く、
「ちょっ、駄菓子屋が消えてる。どうなってんだ? 」
子供の頃からあって西ノ宮もよく買っていた駄菓子屋が消えて駐車場になっていた。
「何がどうなってんだ? 」
西ノ宮が慌てて駆け出した。向こうに見える角を曲がれば自分の家が見えるはずだ。
「なんで…… 」
西ノ宮が絶句した。自分の家が消えている。先程見た大きなマンションの敷地が広がっていた。
「 ……夢か? さっき見たガキの頃と同じで夢を見てるのか? 」
西ノ宮が自分の頬を思いっ切り叩く、
「いったぁぁ~~、痛い! 夢じゃない……じゃあ、どうなってんだ? 」
西ノ宮が走り出す。少しでも見覚えのある場所を探した。
「向こうの道路にアパートがあって……何だあれは? 」
知人の住んでいる見知ったアパートを探していた西ノ宮の目に煌々と明かりを点けたガラス張りの店が映った。
「すっ、スーパーか? アパートが無くなって小さいスーパーマーケットが出来たのか? 」
近くに行って店の中を覗き込んだ。明るい店内には品物が溢れている。店員が1人に客が数人いた。コンビニだ。
「人がいた……誰も居なくなったのかと思った」
人の姿を見て安堵する西ノ宮がコンビニ前に置いてある公衆電話に気が付く、
「でっ、電話だ」
慌てて受話器を取って掛けようとした手が止った。
「何だ? 凄いなぁ、ボタン式の電話だ。こんな田舎にもある所にはあるんだな」
普及し始めたばかりのボタン式電話機に戸惑いながらも自宅へ電話を掛ける。
「もしもし…… 」
繋がった。安心した西ノ宮が話し出す。
「母さん? 俺だけど…… 」
「どなたです? 」
電話の向こうから怪訝そうな声が聞こえた。
「俺だよ、誠司だよ」
「誠司? どちらの誠司さんです? 」
「何言ってんだ。ふざけるなよ、息子の誠司だよ」
怒鳴る電話の向こうで女性が少し怯えた様子で訊いてくる。
「あのぅ、間違ってますよ番号、どちらにおかけですか? うちは山下ですよ」
「えっ? 西ノ宮じゃないんですか? 済みません」
西ノ宮は謝ると電話を切った。
「おかしいなぁ…… 」
不慣れなボタン式電話で間違ったのかと再度掛け直した。
「もしもし…… 」
「はい、山下です」
先程と同じ女性の声だ。
「えっ? あのぅ、西ノ宮さんのお宅では…… 」
「違いますよ、さっきも掛けてきたでしょう」
「済みません、間違いました」
迷惑そうな声を聞いて西ノ宮は謝りながら電話を切った。
「母さんの声じゃない……番号は間違ってないよな、混線でもしてるのか? 」
受話器を持ったまま途方に暮れていると前の道路をパトカーが通って行った。
「お巡りさん……そうだ」
国道の脇に交番があったのを思い出す。
「家の近くで迷子は恥ずかしいが仕方ないな」
この歳で道に迷ったなど恥ずかしいとは思うが背に腹は替えられない、西ノ宮は交番へと向かって歩いて行った。
見知った道だが周りに建つ家々が変わっていた。築30年以上経つような古くからあった戸建て住宅やアパートが無くなっている。
「どうなってんだ? いつの間にか開発されたって感じだ」
自分の見ているものが信じられないといった様子で歩いて行く、
「あった。交番だ」
交番を見つけて駆け込んだ。
「お巡りさん、助けてください」
「どうしました? 」
自分と同い年くらいの警察官に家までの道がわからないと西ノ宮が泣き付いた。
「名前と住所、電話番号わかりますか? 家に電話を掛けて迎えに来て貰いましょう」
「はい、電話は掛けました。でも自宅じゃなくて他に繋がるんです」
優しく訊いてくる警察官に西ノ宮は住所氏名に電話番号を伝えた。
「電話が繋がらないんですね」
「違うんです。違う家に繋がるんです。自分の電話番号に掛けても父や母じゃなくて違う人が出るんですよ」
必死で話す西ノ宮を警察官がじっと見つめる。
「お酒飲んでるでしょ? 」
警察官が露骨に顔を顰めた。西ノ宮を酔っ払いと判断したのだ。
その時、若い女が交番へ入ってきた。
「どうしました? 」
西ノ宮を放って警察官が女に訊いた。
「財布落としたみたいで…… 」
泣きそうな顔で話す女のスマホが着信音を鳴らす。
「はい、もしもし……えっ、マジ? ちょっと後で掛け直すから…… 」
電話に出た女の顔に笑みが広がっていく、
「お巡りさんごめんなさい、財布見つかったって……友達の家にあったって……ほんとごめんなさい」
照れるように話す若い女に警察官が優しい声を掛ける。
「良かったね、遅くまで遊んでちゃダメだよ」
「えへへ……済みませんでした」
ペコッと頭を下げると女は交番を出て行った。
黙って見ていた西ノ宮が警察官に驚きの顔を向ける。
「あれ何です? 無線機か何かですか? 」
「無線機? 何が? 」
怪訝な表情で聞き返す警察官に西ノ宮が身振り手振りを交えて話し出す。
「何がって、さっきの女の人が持ってた四角い奴ですよ、誰かと話してたでしょ? 四角い機械からも声が聞こえてたし……無線機でも小さすぎるし………… 」
「スマホでしょ? 」
何が珍しいのかと警察官が西ノ宮を見つめる。
「スマホ? スマホって何です? 」
今度は西ノ宮が怪訝な顔だ。警察官が自分のスマホを取り出した。
「スマホ知らないの? スマートフォンだよ、携帯電話の凄い奴、知らないの? 」
「知りません、スマホなんて聞いたことありませんよ」
警察官も説明できないのか私物のスマートフォンを机の上に置いた。
「これがスマホ、今時スマホを知らないのは珍しいね」
「何ですこれ? 」
顔を顰める西ノ宮を見つめて警察官が成る程という顔で頷いた。
「わかりました。ここじゃ何ですから本署へ行きましょう」
警察官は無線機を取り出して何やら会話を始めた。
「こちら○○……はい……徘徊1名…………はい、そうです。お願いします」
自分が徘徊者だと思われていることは西ノ宮にもわかった。バカにされているようで腹も立ったが頼れるのは警察しかないので文句も言わずに我慢した。
記憶障害か何かで徘徊しているのだと思われた西ノ宮は警察署へと保護された。
警察署で色々調べて貰う、話をしているうちに西ノ宮は自分が居た時代から34年も経っている事がわかった。
自分は過去から来たのだと騒ぐ西ノ宮を若年性認知症だとでも思ったのか警察は捜索願が出ていないか調べるが西ノ宮を知っているものは何処にもいない、親戚付き合いも殆ど無かったので西ノ宮の身元を調べる手掛かりはない、西ノ宮自身は酔っていて上着をベンチへ置き忘れたので財布や免許証などは全て上着のポケットの中だと言って身分を証明するものは何も持っていない。
西ノ宮が余りにもしつこく昔の事を調べてくれと訴えるので警察が過去の記録を調べると34年前に西ノ宮誠司の名前で捜索願が出ていた。出したのは両親だ。両親は既に無くなっていて西ノ宮だと証明するものはいない、それどころか34年前なら39歳だった西ノ宮は73歳になっているはずだ。
認知症によって意識の混濁した男が何処かで話しを聞いて自分が西ノ宮だと思い込んでいるのだと警察は判断した。そして引き取り手のない男を暫く預かってくれという事で磯山病院へと連れて来たのだ。
これが西ノ宮誠司さんが教えてくれた話しだ。
幽霊は出てこないが怪異には違いない、面白い話しに哲也は聞き入っていた。
「無理に信じてくれとは言わないが本当に私は34年前から来たんだよ」
長い話を終えると西ノ宮は缶コーヒーをグイッと飲んだ。
「美味しいねぇ、元の時代で最後に飲んだ缶コーヒーとは比べものにならないくらいに美味しいよ……でもね、でも私はあの甘ったるいだけのコーヒーも好きなんだよ、しゃかりきに働いて一休みする時に飲んでいたあの缶コーヒーが………… 」
「西ノ宮さん…… 」
哲也は掛ける言葉が見つからない、倍以上の年齢の西ノ宮をどうやって慰めたらいいのか思い付かない。
「最後まで茶化さないで聞いてくれたのは哲也くんが初めてだよ、警察も医者も途中であれこれ言ってくる。見ていればわかる。彼奴ら初めから信じてないんだ。でも哲也くんは違った。ちゃんと話しを聞いてくれた。ありがとう」
小さなテーブルを挟んで向かいで西ノ宮が頭を下げた。
「ちょっ、止めてください、頭なんて下げないでください、僕はただ……僕も他の人たちと同じです」
テーブルに額が着くくらいに頭を下げると哲也が続ける。
「僕も只の好奇心です。タイムトラベルなんて面白い話が聞けそうだと思って……タイムトラベルなんてあるわけないって思いながら面白そうだって興味本位だけで話しを聞きに来たんです。本当に済みませんでした」
「哲也くん…… 」
西ノ宮が哲也の両肩に手を掛けて頭を上げさせる。
「謝らなくてもいいよ、私だってタイムトラベルなんて信じてない……実際に体験するまでは絶対に信じなかったよ、興味本位でもいいんだ。哲也くんは真面目に話しを聞いてくれた。それが嬉しいんだよ」
「僕でよければ話し相手でも何でもしますよ」
西ノ宮の優しい表情に哲也は何か出来ないかと思った。幽霊を見たり触ったり出来る自分の力が何か役に立たないかと考える。
壁に掛かっている時計を西ノ宮がちらっと見る。
「そろそろ夕食の時間だね」
「そうですね、じゃあ食堂に案内しますよ」
お互い笑顔で部屋を出る。
「昼間も食べたけど学校の給食みたいで懐かしかったよ、病院の食事なんて味気ないものだと思ってたんだがここのは結構美味しいな」
「あっ、わかります。僕も初めはそう思いましたから、トレー持って並んでよそって貰うって小学校の給食みたいだって」
「あはははっ、小学校かぁ、懐かしいなぁ」
食堂へ行く道すがら学校給食の話で盛り上がった。
「じゃあ、僕は夕方の見回りがありますから」
「そっか、哲也くんは警備員だったな……一緒に食べたかったんだが」
見回りに行こうとした前で西ノ宮が残念そうに言うのを聞いて哲也が何かを思い付く、
「朝と昼なら一緒に食べられますよ、そうだ! 席を決めておきましょう、そしたら明日の朝と昼は一緒に食べられますよ」
「待ち合わせだね」
嬉しそうな西ノ宮を連れて食堂へと入っていく、
「この辺りにしましょう、患者さんの中には自分の席を決めている人がいるんですよ、でもこの辺りなら大丈夫ですから」
食堂の奥、後ろの席に西ノ宮を案内する。この辺りは調理場からも出入り口からも遠くて患者たちは余り使いたがらない席だ。
「わかった。明日の朝食はここで食べてるよ」
「それじゃあ、僕は見回りに行ってきます」
西ノ宮にペコッと頭を下げると哲也は食堂を出て行った。
その日の夜、10時の見回りで西ノ宮の部屋の前を通ると眩しい光がドアの磨りガラスから漏れるのが見えた。
「あれは? 」
テレビの光にしては眩しすぎると哲也はドアをノックして入っていく、
「あれっ? 見間違いなんかじゃなかったけどな…… 」
いつの間にか光は消えていて西ノ宮はベッドで寝息を立てていた。
「おかしいなぁ……テレビは消えてるし」
ぐるっと部屋を見回して出て行こうとした後ろで西ノ宮が目を開けた。
「うぅ……誰だい? 」
哲也がサッと振り返る。
「済みません、哲也です」
物音で起したと思った哲也が頭を下げた。
「なんだ哲也くんか、何かあったのかい? 」
「いえ……光が見えたんです」
上半身を起した西ノ宮が眠そうに目を擦りながら訊くと哲也は少し言い淀んでから先程見た光のことを話した。
「本当かい? 」
眠そうだった西ノ宮が驚き顔で目を見開いた。
「はい、何の光か確認しようと思って部屋に入ったんです」
「夢だ……夢を見てたんだよ」
哲也の返事を聞いて西ノ宮が真剣な表情で話を始めた。
「夢の中で家に帰る道を歩いていたんだ。34年前の私の居た時代だよ、そしたら眩しい光に包まれて…………そうだ。光だ。光だよ哲也くん」
西ノ宮がハッとした様子で哲也を見つめた。
「光って……あぁ、昼間聞いた話しでも車のヘッドライトみたいな眩しい光の後でおかしな出来事が起ったんですよね」
わかった様子の哲也の前で西ノ宮が大きく頷く、
「そうだよ、光だ……あの光に包まれれば帰れるかも知れない、夢の中だったけど哲也くんが実際に光を見たんだ。帰れるかも知れない…… 」
「それじゃあ…………そうだとしたら僕は邪魔をしてしまったのかも……僕がドアを開けて部屋に入らなければ西ノ宮さんは帰れたかも知れない、済みません」
バッと頭を下げる哲也に西ノ宮が優しい声を掛ける。
「謝らなくてもいいよ、帰れる希望が出来ただけでいい……それにまた違う時代に飛ばされる可能性もあるんだ。それに哲也くんにさよならも言わずに消えるのは嫌だからね」
「西ノ宮さん…… 」
言葉を詰まらせる哲也に西ノ宮が微笑みかける。
「ありがとう哲也くん、もし私が消えても安心してくれ、何処かで元気にしてるからさ」
「此方こそ楽しかったですよ、西ノ宮さんとはまだいっぱい話がしたいです」
笑顔でこたえる哲也を見て西ノ宮が微笑みながら続ける。
「そうだな、じゃあ、明日も話をしよう」
「はい、明日はお菓子と一緒に甘いコーヒーを持って行きますね」
哲也の嬉しそうな顔を見て西ノ宮が声を出して笑う、
「はははははっ、楽しみにしてるよ」
「じゃあ、僕は見回りに戻ります」
元気に部屋を出て行く哲也を西ノ宮が優しい顔で見送った。
翌日、西ノ宮が居なくなる。
哲也も嶺弥たち警備員や看護師たちと一緒に病院の敷地内を探したが西ノ宮は見つからなかった。丸一日探しても見つからなかったので警察に通報して捜索して貰うが結局見つからない、西ノ宮という名前の自己申請以外に証明するものを持っておらず身元もわからなかったので引き続き調べるという事で有耶無耶になってしまった。
捜索が打ち切られた後も病院の敷地内を探していた哲也が遊歩道のベンチに腰掛けて空を見上げる。
「今日も暑いなぁ~、西ノ宮さん……元の時代に帰れたのならいいけど」
哲也が額に流れる汗を拭く、初めて西ノ宮と会った時と同じく晴天の青空が広がっていた。
西ノ宮が行方不明になって2週間ほどして老人の患者が入院してきた。
大久保誠司73歳、認知症で手に負えないと息子が磯山病院へと入院させたのだ。
大久保老人は認知症が進行し判断能力が低下していて何でも口に入れたりトイレと間違って部屋で粗相をしたり大変な患者で入院して3日経った頃には看護師の間から隔離病棟へ送った方がいいのではという上申が出てきた。
哲也は看護師の早坂から話しを聞いて大久保老人のことは知っていたが日常会話もまともに出来ない状態で怪異な話しも無いようなので興味も湧かずに放って置いた。
大久保老人が入院して来て5日経った。
昼食後、哲也がベンチに座って日向ぼっこしていると早坂に手を引かれて老人が歩いてくるのが見えた。
「ああ……あれが問題の大久保さんか」
普段なら興味深げに近付いていく哲也だが厄介事に巻き込まれるのは御免だとでも考えたのか逃げ出そうと腰を上げた。
「哲也さん」
哲也を見つけて早坂が笑顔で手を振った。有り得ない、来るなと追い返すことはあっても向こうから笑顔で近付いてくるなんて嶺弥絡みで数回あっただけだ。
「あはは……早坂さん」
「日向ぼっこしてたのね哲也さん」
ぎこちない顔で笑顔を作る哲也の元へ大久保老人の手を引いて早坂がやってきた。
「あはははっ、はい、そろそろ部屋へ戻ろうと思ってたところです」
「丁度よかったわ、此方は大久保誠司さん、私は少し用があるから哲也さんに………… 」
乾いた笑いを上げる哲也に早坂が大久保を任せようとした時、バッと大久保老人が前に出てきた。
「てっ……哲也くん………… 」
「えっ!? 」
名前を呼ばれて振り向いた哲也の顔を大久保老人が覗き込む、
「やっぱり、やっぱり哲也くんだ」
大久保老人が哲也の両肩をガシッと掴む、
「哲也くん、私だよ、西ノ宮だよ」
「西ノ宮…… 」
目の前の老人の顔を哲也がじっと見つめる。
「西ノ宮さん……本当に西ノ宮さんですか」
哲也が大声を上げた。目の前の老人の目に懐かしい光が灯る。
「ああ……戻ることが出来たんだよ」
「マジっすか? 本当に西ノ宮さんなんですか? 」
驚く哲也の前で大久保老人がうんうん頷いた。
「ちょっ、哲也さん」
早坂が哲也の手を引っ張って耳に口を近付ける。
「大久保さんは認知症で正常な判断が出来てないだけですから変な事言っちゃダメですよ、西ノ宮さんの事も何処かで話しを聞いただけです。未だに患者さんの間で消えたって話題になっているんですからね、だから余計な話をしてこれ以上面倒事を起して貰っては困りますからね」
耳元で話す早坂に哲也が頷いてから口を開く、
「わかってますよ、変な事なんてしませんから」
「それならいいけど……じゃあ、大久保さんの相手を少し任せてもいい? 」
「了解です。少し日向ぼっこしたら大久保さん連れて部屋に戻りますよ」
用事があるらしく少し不安顔だが早坂は哲也に任せて病棟へと戻っていった。
2人の遣り取りを黙って見ていた大久保老人は早坂が歩いて行くのをちらっと見てから哲也の隣りに腰掛けた。
「本当に哲也くんだ……懐かしいねぇ」
「大久保さんが西ノ宮さんってどういう事です? 名前違ってますよね」
嬉しそうに顔を綻ばせる大久保老人に哲也が怪訝な顔を向けた。
「ははっ……まだ疑っているんだね、34年も経つんだ無理もないなぁ……私は73歳になったしな」
「本当に西ノ宮さんなんですか? 何か証拠とかありませんか? 」
親しげに話し掛けてくる大久保老人に哲也が訊いた。
隣に座る大久保老人は西ノ宮と顔立ちが似ているし言葉使いも同じだ。だがそれだけで西ノ宮と断定はできない、早坂が言ったように噂話を聞いて思い込んでいるだけかも知れないのだ。
「ははははっ、哲也くんは案外疑い深いんだな」
楽しそうに笑いながら大久保老人が話し出す。
「あの日、哲也くんが夜の見回りで光を見たと言って私の部屋に入って来た日だ。あの後、眠っていたらまた夢を見たんだ。夢の中で酔っ払って帰りを急いで歩いていたんだ。そしたら眩しい光に包まれてね………… 」
大久保老人が西ノ宮が消えた日の事を教えてくれた。
夢の中、光に包まれて気が付いたら駅のホームにあるベンチで眠っていた。時間を確認すると39歳の誕生日で友人たちと飲んだ帰りだ。西ノ宮はタイムトラベルしたことや哲也と出会ったことなどは全て夢だったんだと、酔って変な夢を見たのだと今の今まで思っていた。
話を終えた大久保老人が哲也の手を引っ張った。
「だけどねぇ……全て夢だと思っていたんだけどねぇ……この病院へ入れられてから何か懐かしくてねぇ……そしたら哲也くんが居たんだ。哲也くんの顔を見た途端に全て思い出したよ」
哲也の手を握り締める大久保老人の目に涙が浮んでいる。
認知症になりながらも磯山病院の事は何気なく覚えていた。そして哲也に出会った。哲也に会った瞬間、遙か昔に見た夢だと思っていた出来事の数々が鮮明に蘇ったのだ。
「西ノ宮さんだ……本物の西ノ宮さんだ」
哲也が震える声を出した。西ノ宮が消えた夜の出来事は誰にも話していない、西ノ宮もタイムトラベルの原因が謎の光だとは誰にも話していない、そもそも哲也と話しをするまで光は車のヘッドライトか何かだと思っていたのだ。
「そうだよ、私だよ、西ノ宮だよ」
うんうん頷く大久保老人の目から涙が溢れ出す。
「帰れたんですね、よかった……本当に良かった」
哲也も貰い泣きだ。
「ありがとう、哲也くんが光の事を教えてくれた御陰だよ、夢の中で光に包まれた時に元の時代へ、私の住んでいた時へ戻りたいって願ったんだ。そしたら帰れたんだよ」
「そんな……僕なんて何もしてないですよ、でも本当に良かった」
涙を流しながら2人が見つめ合う、照れたのか哲也がグイッと涙を拭った。
「でも何で大久保って名前なんです? 」
「ははははっ、結婚したんだよ、婿養子に入ってね、大久保って名字になったんだ」
大久保老人も恥ずかしくなったのか笑いながら涙を拭いた。
「でも良かったです。本当に消えたから心配してたんですよ、100年くらい未来に飛ばされたらどうしようとか、逆に江戸時代にでも飛ばされたら大変だろうなって」
からかうように言う哲也の隣で大久保老人がニッコリと笑った。
「ありがとう、哲也くん、私は幸せな人生を送ることが出来たよ」
「何言ってんですか、もう終ったみたいに言わないでください、西ノ宮さん……じゃなかった。大久保さんにはまだいっぱい話しを聞きたいんですからね」
「あははははっ、そうだな、まだ時間はある。もう消えないと思うから哲也くんと沢山話をしよう」
楽しげに大笑いする大久保と哲也は時も忘れて語り合った。
数日が経った。大久保老人はみるみるうちに元気になっていく、重度の認知症だったのが信じられないくらいに回復して入院してから2週間後には元気に退院して行った。
息子夫婦が迎えに来て哲也も本館のロビーで大久保老人を見送る。
「哲也くん、世話になったね」
「僕の方こそ、色々話ができて楽しかったですよ」
73歳の大久保老人と19歳の哲也が固い握手を交わした。
「そうだ! お返しをしないとな」
何か思い付いた様子で大久保老人は出入り口横にある自動販売機へと向かった。
後を着いていった哲也の前で大久保老人が自動販売機で缶コーヒーを買う、
「34年前、あの時飲んだ缶コーヒーの味は今も忘れていないよ、哲也くんとの大切な思い出の味だからね」
大久保老人が缶コーヒーを哲也に差し出した。
「大久保さん……ありがとう」
哲也が満面の笑顔で缶コーヒーを受け取った。
「じゃあ、哲也くん」
「大久保さん、いや、西ノ宮さん、お元気で」
お互いの顔を見て笑顔で別れた。タイムトラベルなど誰も信じてくれないだろう、大久保と哲也、2人だけの秘密だ。
重度の認知症だったとは思えないほどに矍鑠とした様子で帰っていく大久保を見て哲也はまたタイムトラベルしたのだと考えた。意識だけタイムトラベルしたのだ。認知症になる前の元気だった頃に戻ったのだ。その切っ掛けの一つが自分との会話だとしたらこんなに嬉しい事はないと哲也は思った。
「大久保さん、いや西ノ宮さんとの思い出の味か……僕にとっては2週間ほど前の出来事だったけど西ノ宮さんにとっては34年前の味なんだよな」
大久保老人に奢って貰った缶コーヒーを手に哲也が嬉しそうに微笑んだ。
西ノ宮さんは元の時代に戻って婿養子として結婚して幸せになった。両親も看取る事が出来て立派な墓も立てる事が出来た。数日という少しの間だが34年先の未来に行った出来事が何らかの役に立って人生を頑張る事が出来たのだとしたら幸いである。
大久保老人、いや、西ノ宮さんはどうにか帰る事ができた。だが怪異の一つにタイムトラベルというものがあるとして全ての人が無事に元の世界へ帰る事ができるとは限らない、未来へ行こうが過去へ戻ろうが、今と全く違う価値観の世界へと投げ出されるのだ。周りに見知った人もいなければどれだけ不安だろうか、自分が望んで行ったのならともかく、知らないうちに飛ばされるのは御免である。
あの夜、ドアから溢れてきた西ノ宮さんを包み込んだ光が自分の前にも現われない事を哲也は願った。




