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第三十話 入れ替わり

 知らないうちに中身が変わっていたというような経験は無いだろうか? 

 インスタントラーメンやレトルト食品などは中の麺や具材がちょくちょく変わったりする。販売しているメーカーは更に美味しくしたと言うが大きなお世話だ。購入者は元の味を求めて買うのである。メーカーの方もそれは分かっていて定番商品に手を加えるような事は滅多にしない、だが止むなく味が変わってしまう事もある。例えば設備の一新で最新の製造機械に変更した場合、原材料も配合分量も全て同じなのに微妙に味が違ってしまう、作る工程も時間も秒単位で同じにしても何処か違った味になってしまう事があるのだ。


 食べ物だけではない、洗剤や化粧品に電化製品や車など身の回りで使っている全ての物が知らないうちに中身だけ変わっていることは良くあるのだ。ゲーム機などは外観や機能は全く同じでも出始めに作られた物と数年経ってから作られた物とでは集積技術が進歩して中の基板が少し変わっているなどは日常茶飯事だ。悪い部分を対策して新しくするという事も多々ある。車などはマイナーチェンジといって外観は殆ど同じで何処か一部だけ変更して新しく売り出すなどは常識になっている。


 物だけでなく人も変わる。

 数年振りにあった知人の性格が変化していて戸惑ったという経験をした人もいるだろう、地味だったクラスメイトが夏休みが明けると人が変わったように明るくなっていたなんて事もある。少し会わない間に何があったのだろうと周りは勘繰るが人間は成長していく動物なのだから変わって当然なのだ。だが中には極端に周りに影響を受ける人もいる。良い影響ならいいのだがその様な人が受けるのは悪い影響ばかりのような気がする。とは言ってもあくまで変化であって人間の中身、精神というものが変わる事などは有り得ない。


 哲也も人の中身、魂や心が他の誰かと変わるなんて有り得ないと思っていた。だがある患者に出会って分からなくなってしまう、その患者は一度死んだ。だが蘇った。自分ではない違う誰かだと言って……。



 夕方、入院患者たちが夕食を取っている時間帯に大きな正門と西門が閉まる。この二つの大きな門が閉まると車は病院の敷地内へは入れない、それどころか人も正門や西門の横にある小さな通用門からしか出入りできなくなる。問題を起すような患者も入院しているのでこの様に厳重な管理がなされているのは分かるが哲也は病院というより刑務所か何かだと常々思っていた。


「あ~腹減った。食堂の時間ギリギリだな、さっさと飯食ってテレビでも見よう」


 夕方の見回りを終えた哲也が食堂へ向かって歩いていると正門横の通用門から誰かが入ってくるのが見えた。


「何だ? 職員さんと誰だ? 」


 見慣れた事務職の男と一緒に初老の男と若い男が入って来た。


「お見舞いかな? 」


 仕事の都合などで夜にしか来られない親族もいる。哲也も何度か見ているので気にしないで歩き出す。


「何だよ此処は? 俺をどうする気だ」


 声が聞こえて哲也が振り返ると若い男が騒いでいた。


「マジか……こんな時間に来るなんて珍しいな」


 思わず哲也が呟いた。騒ぐ男を見て患者だとわかる。初老の男が宥めているのでどうやら親子らしい。

 哲也が興味津々で見ていると本館から看護師の香織が迎えに出てきた。


「あっ、香織さんだ。今日は日勤だったよな、まだ帰ってなかったんだ」


 哲也は夕食を食べに行くのも忘れて見ていると後ろから肩を叩かれた。


「哲也くん、何してるんだい? 」


 振り返ると警備員の嶺弥が立っていた。


「嶺弥さん、患者さんが今頃入ってくるなんて珍しいっすね」


 指差す哲也を見て嶺弥が微笑みながら口を開く、


「そうでもないさ、ちょくちょくあるよ、哲也くんは夕食に夢中で気付いてないだけだ」

「酷いっす。まるで僕が食い意地が張ってるみたいっす」


 拗ねるような哲也の顔を嶺弥が覗き込む、


「違うのかい? 今日は唐揚げらしいぞ」


 楽しそうに訊く嶺弥の前で哲也の顔にパッと明るさが広がっていく、


「知ってるっす。唐揚げは好物っすから……まぁ、食い意地張ってるって思われても仕方ないですね」


 照れる哲也を見て嶺弥が声を出して笑い出す。


「あははははっ、ここじゃ食事が楽しみの一つだからな」

「そうっすね、んじゃ食べに行ってきますね、今日は色々手伝ってたから時間ギリギリだ。あと20分で食堂締め切られるっす」


 哲也が歩き出そうとした時、香織が職員と一緒に親子を連れて歩いてきた。

 本館へと向かって歩いて行く香織たちを哲也と嶺弥が見ていると若い男が急に走り出した。


「冗談じゃねぇ! こんな所へ入れられて堪るか、俺は下井幸作なんかじゃねぇ、清水良二だ」


 若い男は通用門へ向かって走って行く、


「まったく…… 」


 呟くと嶺弥がサッと追い掛ける。


「うぉっ! 何しやがる」


 若い男が嶺弥に組み伏せられた。50メートルほど離れていたのだが直ぐに追い付いてあっと言う間に男を取り押さえたのだ。


「流石嶺弥さんだ」


 感心する哲也の隣りに香織がやってきた。


「何言ってんのよ、哲也くんも警備員でしょ」


 呆気に取られて立ち尽くしていた哲也を見て香織が呆れ顔だ。

 取り押さえた男を連れて嶺弥が戻ってくる。


「痛ててて……何しやがる! お前何者だ」

「ここの警備員だよ」

「警備員? 警備員が暴力振るってもいいのかよ、放せ、放せって言ってんだろ、痛ててて…… 」


 騒ぐ男に嶺弥は容赦しない、後ろ手に捕まえて痛がる男を哲也たちの前に連れて来た。


「須賀さん、そのまま連れて行ってください」


 逃げ出そうともがいている男を見ながら香織が頼むと父親らしき初老の男が出てくる。


「余り手荒な事をしないでくれないか、少し混乱しているだけだと思うから…… 」

「そっ、そうだよ、吃驚しただけだ。もう逃げないから放してくれ」


 庇うような父の言葉に息子らしき若い男が合わせるように言った。

 嶺弥は手を緩めない、若い男を後ろ手に捕まえたまま口を開く、


「痛がるような事はしていない大袈裟に騒いでいるだけだ。放すとまた逃げるだけだぞ」


 父親が息子を見つめる。


「もう逃げたりしないな? ここは病院だ。お前を治してくれるんだよ」

「逃げない、約束するからさっさと放してくれ」

「わかった」


 調子よくこたえる息子を見て頷くと父親が嶺弥に向き直る。


「早く放してやってくれ、だいたい警備員がこんな事をしてもいいと思っているのか」


 横柄に言う父親の前で嶺弥は何も言わずに息子を放した。


「大丈夫か? 痛かっただろう、先生たちには私から言っておくからな、こんな事は二度とさせないから安心しなさい」


 過保護なのか父親が息子に優しく声を掛けた。次の瞬間、息子が走り出した。


「俺は病気じゃない、こんな所に居られるか! 」

「なっ、言ってる傍から…… 」


 喚きながら逃げる息子を追い掛けようとした哲也の手を嶺弥が掴んで止めた。


「ちょっ、嶺弥さん」


 振り返った哲也に大丈夫だと言うように嶺弥が微笑んだ。


「さっき頼んで置いた」


 嶺弥の言葉で哲也が前に向き直る。

 逃げていく息子の先で通用門が閉まっていく、


「何で閉めんだよ! さっさと開けろよ、俺は外に出たいんだ」


 開けろと騒ぐ息子を通用門にいた警備員たちが捕まえようとする。


「くそっ! 捕まって堪るか」


 息子は敷地内の遊歩道を走って逃げ出す。それを警備員たちが追っていく、


「まったく、僕も手伝いますよ」


 呆れ顔の哲也を見て嶺弥が優しい顔で口を開く、


「直ぐに捕まえるさ、彼らに任せておけばいい、哲也くんは食事に行くといい」


 2人の後ろでばつが悪そうな父親に香織が話し掛ける。


「ここは専門の病院です。医者や看護師だけでなく職員はもちろん警備員まで一通りの教育を受けています。息子さん、下井幸作さんのような方も沢山入院しております。経験豊富な者たちが対応しますので全てお任せ下さい」

「そうみたいですね、よろしくお願いします」


 香織に頭を下げた後で父親が嶺弥に向き直る。


「済まなかった。警備員さんの方が正しかったようだ。許してくれ」

「構いませんよ、少々手荒に見えますがお預かりした患者さんを傷付けるような事はありませんので御安心下さい」


 爽やかな笑顔でこたえる嶺弥を見て父親も安心したのか窶れた顔に笑みを浮かべた。


「私は下井健吾しもいけんごと申します。逃げていったあれは息子の幸作です」


 嶺弥の人となりが気に入ったのか息子の下井幸作しもいこうさくが逃げていった方向を向きながら父の健吾が話を始めた。



 下井幸作しもいこうさく26歳、両親と妻と4人で父の買った実家に住んでいる。3年前に結婚したが妻が妊娠しにくい体質だったらしくなかなか子宝に恵まれなかった。だが3ヶ月ほど前に妊娠したのが分かって下井は子供が出来ると張り切って働いていた。


 今から1ヶ月半ほど前ことだ。残業して遅くに帰ってきた下井が風呂場で倒れた。直ぐに救急車を呼んで緊急搬送されたが運ばれた先の病院で下井は亡くなってしまう、死因は心筋梗塞だ。


 父母はもちろん妊娠している妻も身重のお腹を摩って泣き崩れた。だが1時間後、霊安室で下井が目を覚ます。

 気配に気付いた看護師がムクリと起き上がる下井を見て悲鳴を上げて霊安室を飛び出してきた。無理もない、瞳孔反射も無く死亡を確認している。心臓が止まっているのを確認してから1時間も経っているのだ。仮に仮死状態だったとして数分ならともかく1時間も経ってから息を吹き返すなど有り得ないのだ。


 騒ぎを聞いて駆け付けた両親や妻も驚いて悲鳴を上げる。霊安室から下井がフラフラと歩いて出てくるのを見たのだ。生き返った喜びより青白い顔でフラフラと歩く姿を見て驚くのは無理もない。

 下井は直ぐに運ばれて検査を受ける。身体の何処にも異常は無い、心筋梗塞で倒れた際に出来た打ち身があるだけだ。

 幽霊ではなくどうやら生き返ったらしいと聞いて両親や妻は喜んだ。



 意識がハッキリしないのか暫く呆然としていた下井だが1時間ほど経って自分は清水だと言い出した。

 下井幸作ではなく清水良二だと言い張る下井に両親や妻は困惑する。

 医者の説明によると長い間、仮死状態にあったので脳に血液が旨く流れずに酸欠を起して記憶障害が起っているとの事である。手足に麻痺などは出ていないので脳にも致命的な障害は無いだろうとの事だ。

 暫く安静にしていれば元に戻ると言われたが1週間経っても下井は清水と言い張ってお前たちなど知らないと家族に暴言を吐いた。

 両親と妻は困り果てるがこのまま入院させて置くわけにも行かない、家に帰れば思い出すだろうと退院させて様子を見る事にした。


 家に戻ってからも下井は自分の事を清水良二だと言い張り、家族など知らない、自分は独りだと言って両親や妻の話しに耳を貸さない。

 それなりの有名な企業に勤めていたのだがそんなものは知らないと会社も辞めて家を出ていこうとする。それを両親や妻が必死で止める日々が続いた。



 1週間ほど様子を見るが直る兆しすら見えない、困り果てた両親と妻はそれ程言うならと家を出ていく下井の言うがままに着いていった。

 下井は三つ離れた地区にある古いアパートに案内してここが俺の家だと言う、ボロアパートの1階端の部屋には清水良二と表札が出ていた。驚きながらも部屋に入った両親は浴室で腐乱した死体を見つける。その死体を見た瞬間、下井が大声で喚いて暴れ出した。

 両親や妻が必死で押さえ付けると下井は自分が死んでいると言ってぐったりとおとなしくなった。


 直ぐに警察が呼ばれて現場検証が始まる。下井たちも事情聴取を受けた。自分が死んでいると言い張る下井に警察は疑いを抱くが検証の結果、清水は心筋梗塞による病死と断定され事件性は無いとされて下井の疑いも晴れた。


 身寄りの無い清水は無縁仏として役場で処理された。

 その日から下井はおとなしくなった。清水だとは言わなくなって父母や妻の言うことを利いて近くの工場に勤めて真面目に働き出した。


 元の平穏な生活が戻ってくると安堵していた矢先、下井は影のような男の幽霊が襲ってくると怯え始める。

 毎夜、苦しそうに首を押さえて呻く下井を妻が起す。男の幽霊が首を絞めていたと言うが妻には何も見えない、両親も夢でも見たのだろうと幽霊など信じない。

 そのうちに下井は自分は清水だとまた言い始めて下井の幽霊が身体を返せと襲ってくると言って暴れ回るようになる。

 疲れ果てた父親が下井は心の病だと言うことで磯山病院へと連れて来たのだ。

 これが下井の父親が教えてくれた話しだ。



 夕食を食べに行くのも忘れて話に聞き入っていた哲也が口を開く、


「つまり心筋梗塞で倒れて死んだ下井さんの身体の中にアパートで亡くなっていた清水さんが入ったって事ですね、下井さんと清水さんが入れ替わったって事ですね、それで下井さんの幽霊が清水さんに俺の身体を返せって化けて出てくると、逃げていった下井さんがそう言っているんですね」

「哲也くん! 」


 興味津々の顔で話す哲也を香織と嶺弥が同時に叱り付けた。


「ちょっ、違いますよ、お父さんの話を纏めただけじゃないですか」


 哲也が慌てて言い訳をする。香織と嶺弥の目が怖い、本気で怒っているのが分かった。


「何が違うの? また面白そうな話しが聞けると思ってるんでしょ」

「まったく哲也くんは……幽霊なんているわけないだろ、下井さんは心の病だよ」


 並んで叱り付ける香織と嶺弥の後ろで下井の父親が疲れた声で話し出す。


「はははっ……そう叱らないで下さい、そっちの警備員さんの言う通りですよ、幽霊なんぞ私も信じちゃいませんが幸作は幽霊が出てくるって信じ込んでいますからね……心筋梗塞で倒れて1時間近く心臓が止まっていたから脳に障害が残ったのかも知れない、それで自分は下井ではないだの、幽霊が襲ってくるだの騒ぐんだと思います。入院して少しでも良くなればいいんですが………… 」


 茶化すような事を言った自分を庇ってくれた下井の父親に哲也が頭を下げた。


「ごめんなさい、バカにしたりからかうつもりなんて無いんです。変わった話しなので興味を持っただけです。僕に出来る事があれば何でもしますから…… 」

「ありがとう、幸作を、息子をよろしくお願いしますね」


 頭を下げた哲也の肩に手を置いて頼むと下井の父親は香織と嶺弥を見つめた。


「この病院にして良かった。ここなら安心だ」

「お任せ下さい、私たちが責任を持ってお預かり致します」


 窶れた顔に笑みを作る下井の父親の目を見て香織が約束した。


「戻ってきましたよ」


 嶺弥が指差す先から通用門にいた警備員たちが下井を捕まえて戻ってきた。


「放せよ! 俺が何したって言うんだ!! 」


 騒ぐ下井を警備員たちが嶺弥に引き渡す。

 隣で香織が警備員たちにペコッと頭を下げた。


「お疲れ様です。助かりました」

「仕事ですから、じゃあ須賀、後は任せたぞ」


 美人の香織を前に年配の警備員が照れるように言うと通用門に戻っていった。

 嶺弥に後ろ手に捕まえられた下井が父親に助けを求める。


「放せよ、痛いって……痛てて…………助けてくれよ」


 先程と違い父親は耳を貸さない、それどころか嶺弥に頭を下げた。


「世話を掛けますがどうかよろしくお願いします」

「任せて下さい」


 爽やかな笑みを見せる嶺弥の横で香織が父親を手で促した。


「では行きましょうか」


 下井の父と香織が歩き出す。その後ろを下井を掴んだまま嶺弥が続いた。


「流石に僕は付いて行くと怒られそうだ」


 後ろで見ていた哲也に嶺弥が振り返る。


「哲也くんはカップ麺でも食べてくるといい、俺のロッカーに入っているから好きなのを選んで食べてくれ」

「カップ麺……しまった晩飯食べるの忘れてた」


 下井の父親の話しを聞いていて食堂の時間はとっくに過ぎていた。


「あぁ……今日は唐揚げだったのにぃ~~ 」


 悔しげに嘆く哲也の声に香織と嶺弥が吹き出しそうになって本館へと入っていった。



 30分ほど経った。食堂で夕食を食べ損なった哲也が警備員控え室から出てきた。


「唐揚げ逃したのは残念だけど、カップ麺だけじゃなく角田さんにパンも貰ったからラッキーだったな」


 嶺弥の同僚である警備員の角田に菓子パンを貰って哲也のお腹は満足だ。


「あっ、香織さんと嶺弥さんだ」


 部屋に戻ろうと歩いていると通用門の近くに香織と嶺弥がいた。下井の父親もいるので手続きが終って帰るところだろう、下井はいない、病室だ。

 下井の父が会釈をして通用門から出て行く、見送った香織と嶺弥が哲也に気付いた。


「なんか睨んでるぞ」


 怖い目をした2人が近付いてくる。


「ヤバい…… 」


 哲也が思わず逃げ出そうとした時、香織の声が聞こえた。


「逃げたら本気で怒るからね」

「俺から逃げられるかな」


 嶺弥の声も聞こえて哲也は観念した。


「僕が何したって言うんですか」


 情けない声を上げる哲也の前に香織と嶺弥が並んで立った。


「したって言うか、これからするんでしょ? 」

「幽霊か何か知らないが哲也くんは首を突っ込みすぎるぞ」

「本当よ、さっきも見たでしょ? 下井さんは暴れるから近付いちゃダメよ、担当も私じゃなくて佐藤さんに代わったわ」

「哲也くんが何かして下井さんが暴れて怪我でもしたら隔離病棟送りになるかも知れないんだぞ、だから近付くのは禁止だ。これは警備員の先輩からの命令だからな」


 香織と嶺弥が交互に注意する。哲也の行動など2人はお見通しだ。下井に話しを聞きに行く前に釘を刺したのだ。


「えへへ……だって死んだ人と入れ替わるなんて面白そうじゃないですか」


 魂が入れ替わった事はもちろん、一度死んだ下井が生き返ったという話しに哲也は興味津々だ。


「哲也くん! 」

「なっ、何もしませんから……やっ、約束しますから………… 」


 同時に怒る2人を見て哲也は言い訳しながら逃げていった。


「まったく…… 」


 逃げていく哲也を見つめながら香織が溜息をついた。

 嶺弥が体ごと香織に向き直る。


「しかし今回の件は試すのに丁度いいな」


 香織を見る嶺弥の目は真剣だ。


「そろそろ頃合いだろうって選ばれたのよ」


 戯けるようにこたえる香織を見て嶺弥もフッと力を抜いた。


「だろうな、哲也くんがここへ来て8ヶ月過ぎた。そろそろだろうと思っていたよ」


 哲也の部屋のあるA棟を見つめながら香織が口を開く、


「8ヶ月か……哲也くんはもっと長く感じているでしょうけどね」

「記憶操作か、酷い事をする……全く人間は…… 」


 顔を顰める嶺弥の向かいで香織がニヤッと口元を歪ませる。


「そんな事言って貴方たちも人を利用しているじゃない」

「 ……上からの命令だ。俺自身は興味など無い」


 ぶっきらぼうにこたえる嶺弥の顔を香織が覗き込む、


「興味無いって言う割には哲也くんに入れ込んでるじゃない」

「 …………哲也くんはどっちを選ぶのかな」


 話を逸らすようにA棟を見つめる嶺弥の前で香織が楽しそうに笑う、


「あっ、誤魔化した。まぁいいわ、そうね、気になるわね」


 同じようにA棟を見る香織の横に嶺弥が立った。


「下井と清水、どちらを選ぶ……どちらにせよ無事に済めばいいが」

「そうね、心が耐えられるか……失敗すればまた一からやり直しよ」


 じっとA棟を見つめたまま2人が会話を続ける。


「哲也くんは強い男だ。俺は…………何でもない」

「やっぱり入れ込んでるじゃない……そうね、私も哲也くんは好きよ、哲也くんのような適合者を探すだけでも大変だから旨く行ってくれればいいけどね」

「機械と違って人は作る事が出来ないからな」

「機械ねぇ……そっちも大変みたいよ」

「人は神にはなれないさ」

「そうね、でも愚かな人間は分をわきまえない」


 いつの間にか2人の顔が険しく変わっていた。厳しい表情の中に哲也を心配する色も浮んでいる。

 山の夜は早い、雲が月を隠し影が2人を包み込む、雲が切れ月が照らす先に2人の姿は消えていた。



 夜10時、見回りで哲也がD棟へと入っていく、


「下井さんの部屋どこかなぁ……下井って名字は他に無いから直ぐに見つかると思ったんだけどなぁ」


 普段は通り過ぎるだけだが今日はドアの横に付いている表札を一つ一つ確かめながら歩いていた。見回りながら下井の部屋を探しているのだ。


「2人とも凄く怒ってたからなぁ……部屋番号なんて聞けないし、早坂さんに聞いてもいいけど僕だけじゃなくて早坂さんまで叱られるとかわいそうだからな」


 いつも以上に怒っていた香織と嶺弥を思い出して顔を顰める。


「あんなに怒る事ないのに……無理に話を訊いたりしないし」


 ぶつくさ文句を言いながら階段を下りていく、


「入れ替わりはともかく1時間ちかく死んでたってのが興味あるよな、死後の世界とか見たのかな……話し聞きたいなぁ~~ 」


 香織や嶺弥に叱られる事より下井の話しを聞きたいという興味が勝った。


「あれは? 」


 階段を下りて3階の廊下に出たところで人影を見つけた。


「下井さんだ」


 薄暗い廊下の先、下井が部屋のドアを見つめるようにして立っている。50メートルほど離れているが下井の顔だとはっきりと見えた。


「下井さん、どうしました? 」


 声を掛けながら哲也が近付いていく、下井は今日の夕方に来たばかりだ。トイレへ行ってから自分の部屋が分からなくなって迷ったのかも知れないと思った。長い廊下に同じようなドアが並んでいるのだ。初めてならどの部屋だったか少しくらい迷うのは当然だ。


「下井さん……あっ! 」


 笑顔で近付いていく哲也が思わず立ち止まった。

 下井が部屋へと入っていった。ドアを開けずにスーッとすり抜けるようにして消えていったのだ。


「なっ、何が……何で? 」


 哲也が慌てて部屋へと向かう、


「313号室、下井幸作、この部屋だ」


 ドア横のネームプレートで確認するとドアに顔を近付けて中の様子を窺った。


「うぅぅ……やっ、止めろ……止めてくれ………… 」


 途切れ途切れに聞こえてくる下井の焦ったような声に哲也はノックもせずにドアを開けて飛び込んだ。


「下井さん! 」


 名前を呼びながら入った哲也が足を止めた。


「だいじょう……ぶ………… 」


 大丈夫と声を掛けたいのだが旨く出てこない、哲也の目の前に下井が2人居た。

 ベッドで横になっている下井とその脇で立っている下井、全く同じ顔だ。下井が2人居るとしか思えない、違うところと言えばベッドで横になっている下井は病院の患者服を着ていて脇に立っている下井は上下青のジャージ姿だ。


「なん!? 」


 驚く哲也の見つめる先で立っていた下井が横になっている下井に手を伸ばす。


『返せ……それは俺の身体だ…………返せ……返してくれ……俺のだ………… 』


 低いくぐもった声で言いながら立っている下井が寝ている下井の首を絞める。


「ぐぅぅ……しっ、知るか……俺は俺だ…………俺の身体だ」


 横になっている下井が苦しそうに言い返す。金縛りにでも遭っているのか体は動かしていない口だけだ。


『違う……俺のだ……お前が取ったんだ…………それは俺の身体だ…………返せ、返せ、返せぇ~~ 』


 怨嗟を含んだくぐもった声を吐きながら立っている下井が寝ている下井にのし掛かるようにして首を絞める手に力を入れた。


「ぐっ、がぐぅ…… 」


 横になっている下井が絶えるような息をついたのを見て哲也が我に返った。


「下井さん! 」


 名前を呼びながら駆け寄る哲也に寝ている下井にのし掛かっている下井が振り返る。


『なんだ……俺に何か用か? 』


 恨めしげな目で睨まれて哲也の足が止まった。


「なっ……違う、お前じゃない、そっちの下井さんだ」

『そっちの……違う、違う…… 』


 震える声で言いながらベッドで横になっている下井を指差す哲也を見てのし掛かっていた下井の顔がみるみる険しく変わっていく、


『違う! 違うぞぉ~~ 』


 寝ている下井の首から手を離すとのし掛かっていた下井は立ち上がって哲也に向かって来た。


『俺が下井だ……俺が…………こいつじゃない、俺が本物だぁ~~ 』


 目を吊り上げ口を大きく開いた怒り猛った顔で襲い掛かるように下井がやってくる。


「くっ、来るな! 」


 向かってくる下井を哲也は思わず殴りつけていた。


『がはぁっ…… 』


 殴られた下井が倒れる。


「ちっ、違うんです……ごめんなさ………… 」


 謝る哲也の見つめる先、床に倒れた下井がすーっと消えていった。


「幽霊? じゃあ、僕が殴った下井さんは…… 」


 ベッドで横になっている下井を哲也は見つめた。


「入れ替わりって本当だったんだ」


 哲也の目が驚きに見開いた。消えていった下井が幽霊という事はベッドで横になっている下井の中には何が入っているのだろう? 昼間聞いた話しの通りなら清水良二という男が入っている事になる。


「かっ、がはっ、ぐはっ……うぅぅ………… 」


 ベッドで横になっていた下井がむせるようにしながら上半身を起す。


「しっ、下井さん」


 その場に立ったままで哲也が声を掛けると下井が振り向いた。


「大丈夫ですか下井さん」

「あっ、ああ……助かった。ありがとう」


 心配そうに声を掛ける哲也に下井が頷くようにして頭を下げた。


「さっきのアレは…… 」


 声を掛けながら哲也がベッド脇に近付いていく、


「お前には見えたようだな、誰にも見えなかったのに…… 」


 驚きながらも下井の目には期待が浮んでいる。

 何とも言えない表情で哲也がこたえる。


「見えたって言うか……下井さんでしたよ、下井さんが下井さんの首を絞めてましたよ」

「ああ、そうだ。あの幽霊が下井だ。俺は清水だ。清水良二だ」


 じっと目を見つめて話す下井の言葉に嘘は無い、哲也の顔に驚きが広がっていく、


「清水さん? じゃあ本当に入れ替わったんですね、下井さんの身体に清水さんが入ったんですね」


 身を乗り出して訊く哲也の向かいで下井がムッとした怒り顔で頷いた。


「そうだ。だから何度も言ってるだろ……それなのに誰も信じやがらねぇ、病気だと言ってこんな病院へ入れやがって」

「本当に入れ替わったんだ…… 」


 納得した様子で呟く哲也を見て下井がニヤッと笑う、


「へへっ、お前は信じたみたいだな」

「信じるも何も見ましたから」


 下井が哲也の腕を引っ張った。


「だったら医者や下井の家族に言ってくれ、俺は清水だって……さっさとこの病院から出してくれ」


 縋るように頼む下井の前で哲也が首を振る。


「それは無理ですよ」

「何でだよ! 」


 怒鳴る下井にムッとしたのか哲也が掴まれた手を振り払った。


「だって誰が信じるんですか? 僕が幽霊を見たって言っても誰も信じてくれませんよ、それこそ病気だって僕まで治療受けさせられますから」

「じゃあどうすんだよ、どうしたら退院できる? 」


 横柄に訊く下井に呆れながら哲也が提案する。


「退院するには暫くおとなしくして先生の言う通りに従って病気が治ったと思わせるしかないですよ」

「おとなしくか……良いアイデアだがどれくらい待てばいい、1週間か? それとも1ヶ月か? 2週間くらいなら俺も我慢するけど長いのはダメだぞ」


 哲也の事を信用したのか、下井が頼るように見つめてきた。


「そうですね、2週間くらい幽霊が出るとか俺は清水だとか一切言わないでおとなしくしてください、病状が良くなったと判断されたら退院出来ると思いますよ」


 医者を簡単に騙せるはずは無いと思いながらも哲也がこたえると下井が腕を組んで考え始める。


「2週間か……清水だって言わないのは出来るけど幽霊はな…………下井の幽霊が毎晩出てくるんだぞ、さっきも見ただろ? 身体を返せってな」


 険しい表情で話す下井を見て哲也が身を乗り出す。


「毎晩ですか……詳しい話しを聞かせてください、清水さんはどうして下井さんの中に入ったんですか? 何で入れ替わったんです」


 もう見回りどころではない、哲也は見回りを中断して話しを聞く事にした。見回りをサボるのは心苦しいがこのチャンスを逃せばもう聞けないかも知れないのだ。


「いいだろう、警備員さんには幽霊が見えたんだ。俺の話も信じてくれるだろう、全部話してやるよ」


 ベッドから出るとドカッと円椅子に座って下井が話を始めた。向かいに椅子を持ってくると哲也も座って話しを聞く。

 これは自分が清水良二だと言い張る下井幸作さんが教えてくれた話しだ。



 清水良二しみずりょうじ24歳、下井の家がある地区から三つ離れた地区で両親と共に暮らしていた。

 大学生の時に相次いで両親を亡くした清水は大学を辞めて工場へと勤めに出る。自営業だった父には借金があり生命保険料などは返済で全て消えていた。家族も家も何もかも失った清水はボロアパートに引っ越してどうにか生きていくのに必死だった。


 工場で朝から晩まで働いてボロアパートに帰って酒を飲んで寝る。そんな生活をしているうちに心が荒んでいく、世間を恨み、幸せそうな人を見て呪った。

 そんな生活が2年ほど続いた。不摂生な生活に大酒が祟ったのか、ある夜、酒を飲んだ後で風呂に入り身体を洗おうと浴槽を出た直後、胸に痛みを感じて倒れてしまう、その後は覚えていない。


「ぐぅぅ……痛い……痛くない」


 清水が目を覚ました。倒れるほど痛かった胸の辺りの痛みが消えている。


「ここは? 」


 浴室で倒れたはずが何やら硬い台の上にいた。

 横になったまま辺りを見回す。殺風景な白い壁に囲まれた部屋だ。


「何処だ? 病院か? 」


 薬品のような独特な匂いで病院だと思った。

 なんで病院に? 倒れて運ばれたのか? 色々考えていると線香の匂いが漂ってきた。


「線香? 病院で? 」


 頭の上から匂ってくる。清水が首を動かして上を見る。


「なっ、なんだ! 」


 思わず飛び起きた。寝ている頭の上側にある台に蝋燭と線香が置いてあった。まるで死者を弔うようだと吃驚して起きたのだ。


「いやっ! いやぁあぁぁあぁ~~ 」


 清水の何倍もの大きな悲鳴を上げて白衣を着た女が部屋を飛び出して行く、


「ちょっ……何が………… 」


 台の上で上半身を起した清水が女が出て行ったドアを呆然と見つめる。


「看護師さんか…… 」


 呟きながらくるっと後ろの台を見る。何も無い部屋の中、横たわった自分と蝋燭と線香に看護師、頭の中で繋がった。


「霊安室かよ、冗談じゃないぞ、俺は死んでないからな」


 慌てて起き上がるが頭がフラついて寝ていた台に両手を着いた。


「痛てて……頭が痛い、体が怠い……クソッたれが」


 暫くじっとしていると頭痛が治まってきた。


「くそっ、霊安室なんかに入れやがって」


 怠い体を引き摺るように歩き出す。頭もクラクラするが痛みは我慢できる程度まで治まっている。

 ドアを開けてフラつく足で外に出ると60歳くらいの夫婦らしき男女と20歳くらいの女がいた。


「ああ…… 」


 夫婦らしき男女に若い女が清水を見て震え出す。


「なぁぁ……にぃぃ………… 」


 睨み付けながら清水が話すが頭がクラクラしているためか、何見てんだと怒鳴ったつもりが言葉にならない。


「ぎゃあぁあぁぁぁ~~ 」


 家族らしい3人は悲鳴を上げて逃げ出した。


「おっ……おぃぃ………… 」


 3人の態度に吃驚したのか清水は誤解を解こうと追い掛けようとするがフラつく足では歩く事も困難だ。


「ちょ……違ぅぅ………… 」


 数歩歩いて廊下の壁にもたれ掛かると動けなくなった。

 頭も痛くなってきて目も掠れてくる。倒れそうになる清水の目に廊下の向こうから白衣を着た医者らしき集団がやって来るのが見えた。


「下井さん、大丈夫ですか、下井さん」


 誰かの名前を呼びながら医者らしき男が脈拍を取ったり瞳孔を調べたりする。怠くて動けない清水はなされるままだ。


「下井さん、大丈夫ですか」


 医者が呼びかけてくる。下井など知らないが自分を呼んでいるのは何となく分かった。


「ああ……だいじょう…… 」


 大丈夫とこたえようとするが舌が回らない、返事が聞こえたのか医者が清水の手を握って声を掛ける。


「もう大丈夫ですからね」


 清水に優しく声を掛けると医者が看護師たちに指示を飛ばす。


「集中治療室の用意を早く、○○先生にも来て貰え」


 医者の大丈夫と言う言葉を聞いて清水の意識が遠くなっていく、


「幸作は、幸作はどうなったんです? 」

「あなた、あなたぁ~~ 」


 意識が落ちる寸前、先程逃げていった家族らしき3人が医者の後ろで騒いでいるのが分かった。



 次に目を覚ましたのは診察台の上だ。


「うぅぅ…… 」


 動こうとした清水を医者が押さえる。


「動かないで、安心してください、もう大丈夫ですからね」


 優しい医者の言葉に清水は上げようとした頭を枕につけた。

 その後、検査や診察を色々受けた。じっと聞いていると医者たちが驚いているのが分かった。断片的な話を纏めると自分は1時間近く死んでいたらしい、それが生き返ったのだ。奇跡だと言っている医者もいた。


「はい、下井さん、終りましたよ、もう大丈夫ですからね」


 看護師の女が優しく声を掛けてくれた。検査や診察が全て終ったらしい。


「ああ……ありがとう」


 上半身を起そうとするがクラクラして頭が持ち上がらない。


「そのまま寝ていてください、無理しないでくださいね」

「ありがとうございます」


 看護師に言われるまま清水は起き上がるのを止めた。

 向こうで医者が話すのが聞こえてくる。


「幸作は、幸作は無事なんですか? 」

「お父さん、落ち着いてください、幸作さんは無事ですよ、容体は安定しています。もう大丈夫です」

「本当なんですね……よかった……幸作が……よかった」

「あなた……よかった……本当に良かった」


 何やら無事を確認して喜んでいる様子だ。医者と話をしている声に聞き覚えがある。意識が遠くなる前に聞いた家族らしき3人の声だ。

 会話は続いている。清水は疲れたのか眠くなってきた。


「でもどうして? 心臓も止まっていたんですよね」

「ええ、心停止は何度も確認しました。確かに止まっていました。瞳孔反射も無く、死亡確認しました。それが息を吹き返すなんて……全ての検査がミスだったとしても仮死状態から1時間も経って生き返るなんて奇跡ですよ」

「奇跡でもなんでもいい、ありがとうございました先生」

「よかった……よかったねぇ………… 」

「あなた……あなたぁ~~ 」


 喜ぶ声を聞きながら清水は眠りに落ちていた。



 目を覚ますと病室にいた。入院する時に使う普通の病室だ。


「ここは…… 」


 清水が横になったまま呟いた。どうやらベッドに寝かされているようだ。


「お父さん幸作が…… 」


 声のする方を見ると廊下や治療室で見た初老の夫婦らしき男女と20歳くらいの若い女が駆け寄ってきた。


「幸作、幸作……よかった。よかった」

「あなた……あなたぁぁ~~ 」


 初老の男が横になっている清水の手を握り、若い女が涙をボロボロ流して自分を見つめていた。


「ここは? 俺はどうして…… 」


 状況がわからない清水に初老の男が手を握り締めながら話し始める。


「お前は倒れたんだよ、心筋梗塞で倒れて病院へ運ばれたんだ。一時は死んだと思ったんだが……良かった。良く戻ってきてくれた幸作」

「幸作? 」


 清水が首を傾げる。幸作という名前はもちろん涙を流しながら嬉しそうに話す初老の男に見覚えは一切無い。


「幸作って誰ですか? 」


 家族らしき3人の他に誰か居るのだろうと清水が訊くと初老の男が顔を顰めた。


「何を言っている? 幸作はお前だよ」

「俺? 俺は清水良二だ。幸作なんて知らないよ」


 初老の男の隣で若い女が清水の顔を覗き込む、


「あなた……あなたは幸作さんよ、下井幸作さん」

「幸作、大丈夫かい? 母さんだよ」


 若い女の隣で初老の男の妻らしき中年女性が寝ている清水の身体を揺すった。


「あんたら誰だ? 下井幸作なんて知らんぞ」


 怪訝な顔で訊いた清水の腕を初老の男が引っ張った。


「何を言ってる幸作、私が分からないのか? 」


 中年女性が清水の腰の辺りを揺すりながら声を掛ける。


「幸作、母さんだよ、お前の母さんだよ」

「あなた! 妻です。あなたの妻の美由紀です」


 夫婦らしき2人の間で若い女が清水の頬に手を当てて顔を見つめる。

 少し考えるが3人とも清水の記憶には無い。


「美由紀? 誰だ? 俺は清水良二だ。親なんてとっくに死んでるよ」


 若い女が頬に当てている手を清水が迷惑そうに振り払った。

 初老の男が清水の肩を掴んで強く揺すった。


「何を言ってるんだ? お前は下井幸作だ。私の息子だよ」

「そうよ、母さんよ」

「あなた、しっかりしてあなた」


 心配そうに覗き込む3人に気味の悪さを感じた清水がばっと上半身を起す。


「止めてくれ! 気持悪いなぁ、俺は清水だ。下井なんて知らん、誰かと間違ってるんだ」


 肩を掴んでいた手を振り払われて初老の男が驚き顔で口を開いた。


「本当に分からないのか? 」

「分かるも何も俺は清水だって言ってるだろ」


 清水が面倒臭そうにこたえる。


「こっ、幸作…… 」

「あっ……あなた………… 」


 中年女性と若い女が不安気に震える声を出した。


「私は先生を呼んでくる」


 初老の男が慌てて病室を出て行った。

 残った中年女性と若い女がしきりに話し掛けてくるが清水には何のことやらさっぱり分からない。


「あなた、美由紀よ、あなたの赤ちゃんがここにいるのよ」

「幸作、思い出しておくれ、母さんだよ」


 若い女が自分のお腹を摩りながら話す隣で中年女性が清水の腕にしがみつくようにして泣き出した。


「あなた本当に分からないの? 私よ美由紀よ、あなたの妻の美由紀よ」

「母さんだよ、お前の母さんだよ」


 清水が顔を顰める。必死に訴えかけてくる2人には悪いが記憶の片隅にも覚えは無い。


「だから人違いだって言ってるだろ、俺は下井じゃなくて清水だ。清水良二、結婚なんてしてないし父も母もとっくに死んでるからな」


 女相手に怒鳴りつけるわけにいかず弱っているところへ初老の男が医者を連れてやってきた。


「大丈夫ですか下井さん」

「なっ!? 」


 清水が驚く、医者まで自分の事を下井と呼ぶのだ。


「違いますから、俺は下井じゃなくて清水です。清水良二って名前ですから」


 弱り切った顔で話す清水の背を医者がポンポンと叩く、


「落ち着いてください下井さん、あれ見えますか? 」


 医者が壁に貼ってあるカレンダーを指差した。


「今日は何日か分かりますか? 」

「今日? 」


 カレンダーを見て清水が考え込む、壁に貼ってあるカレンダーの日時と清水が記憶している日時が違う、と言うよりカレンダーがおかしい、まだ2月中旬のはずなのに6月になっている。倒れて数日経っていたとしても2月のはずだ。


「今日は……今日は2月の17か18辺りだ。俺が倒れた日は2月の17日だ」


 記憶を辿ってこたえる清水を見て医者が成る程というように頷いた。


「わかりました…… 」


 医者がくるっと振り返って初老の男に向き直る。


「記憶障害ですね、長い間倒れていたので脳に酸素が行き届かずに記憶が混乱しているのでしょう」


 ショックを受けたのか中年女性が初老の男に寄り掛かる。


「記憶障害……あぁ……お父さん」

「大丈夫だから」


 中年女性を支えるようにしながら初老の男が医者に訊いた。


「むっ、息子は幸作は大丈夫なんでしょうか? 」

「手足の痺れも無い様子ですし大丈夫だとは思いますが一応脳の検査を行いましょう」


 カルテを見ながらこたえる医者を若い女が不安そうに見つめる。


「障害とか残ったりするんでしょうか」

「検査結果が出るまで分かりませんが今のところは大丈夫でしょう、手足の痺れもないし会話も出来ているようですから……一時的な記憶の混乱だと思いますよ」


 若い女がほっと胸を撫で下ろす。


「一時的……よかった。あなた良かった………… 」

「幸作、よかったな、幸作」


 家族らしき3人が優しい顔で清水に笑いかけた。

 黙って事の成り行きを見ていた清水が慌てて口を開いた。


「ちょっ、記憶障害? 何言ってんだ? 俺は下井なんかじゃない、俺は清水だ。清水良二って言う名前だ」

「清水? 誰です」


 医者が振り返って訊くが家族らしき3人は知らないと首を振る。


「さっきから自分は清水だって言い張るんですよ」


 初老の男が縋るように医者を見つめた。

 清水が怒鳴るように大きな声を出す。


「だから清水だって言ってるだろ、下井なんて名前じゃない、お前らが間違ってんだ」

「これは……直ぐに検査をしましょう」


 清水を見て危ないと思ったのか医者は直ぐに精密検査の用意をするように看護師に指示を出した。


「冗談じゃない、俺は帰るぞ」


 起き上がろうとした清水を看護師が押さえ付ける。


「ダメですよ下井さん、検査が終るまでおとなしくしてください」

「何言ってんだ。俺は清水………… 」


 看護師を振り払おうとした清水の目に鏡が見えた。


「なん? 」


 清水の動きが止まった。棚の上にある小さな鏡に映っている自分がおかしい。


「ちょっ、一寸待て……待てよ」


 看護師を脇にやって鏡を掴んで持ってくる。


「俺が……俺か…………何で……何が? 」


 鏡には見た事もない男が映っていた。


「なんで? 」


 鏡に映る知らない男がまるで自分のように動いている。


「どうなってんだ? 」


 鏡を傾けたり遠くに離したりするが映っているのは自分ではなく知らない男だ。年齢は自分と同じくらいに見えるが全く知らない男だ。


「おっ、俺が…… 」


 驚きながら清水が自分の腕や腹を見回す。


「俺じゃない……俺が俺じゃない」


 腕にあった黒子やヘソの形が違っている。それに胸毛がうっすらと生えていた。清水は胸毛など生えていない、もう一度鏡を持ってくると顔に手を当てて触りながら覗いた。


「あっ、ああぁぁ…………俺が俺じゃなくなってる」


 清水が絶句した。

 自分自身の身体が違う男になっているとその時初めて気が付いた。


「他の身体に入ったんだ……倒れて死にそうになってこの身体に入ったんだ」


 ハッキリ言って余り頭の良くない清水にも今の状況は理解できた。と言うか知識が無い故に誰かの身体と入れ替わったのだという事実を素直に受け入れた。


「あの日、風呂場で倒れてから覚えてない……気を失って目が覚めたらこの身体だった。下井とか言う奴の身体に俺の魂が入ったんだ」


 ブツブツと呟きながら考える清水の顔を看護師が覗き込む、


「下井さん、精密検査を受けに行きますよ」

「検査? ああ……わかった」


 清水は力無くこたえると医者に従って脳の精密検査を受けた。



 検査の結果は異常無しだ。


「これで一安心だ。幸作良かったな」

「本当に良かったわ、母さんどうなる事かと思ったわよ」

「ゆっくり休んでくださいね、あなた」


 病室に戻った清水に下井の家族が声を掛けてくる。


「違う……違うんだ。俺は下井幸作じゃない、清水良二だ。下井の身体に俺が入ったんだ。何て言うか……魂か何かが入れ替わったんだ」


 必死で話す清水の背を下井の父親が優しく摩る。


「わかった。わかった。心配しなくていい暫く休んでなさい」


 父親の隣で母親が笑顔で口を開いた。


「会社の方には父さんが連絡してくれたから安心なさい、お前は身体を治す事だけを考えなさい」

「あなた大丈夫よ、暫くすれば記憶も戻るって先生も仰っていたから」


 妻らしき女が清水の手を握り締めて微笑んだ。


「だから違うって言ってるだろ! 俺は下井じゃない、倒れて気を失って気が付いたらこの下井って奴の身体に入ってたんだ。俺は清水だ。清水良二だ」


 妻の手を振り払って清水が怒鳴るが下井の家族は微笑みを絶やさない、叱り付けたりしないように医者に注意でもされているのだろう、


「わかったから暫く休んでいなさい」

「明日になれば思い出しますよ」


 父母が優しい声を掛ける横で妻が何かを思い付いたようにパチンと手を叩いた。


「そうだ! あなたの好きな金平牛蒡でも作ってきますね」

「そりゃいいな、美由紀さんの料理を食べたら直ぐに思い出すだろう」


 父が笑うと釣られるように母や嫁も笑い出す。


「それじゃあ、父さんたち帰るからな」

「また明日来るから心配しなくてもいいわよ」

「あなた、食べたいものがあれば言ってくださいね作ってきますから」


 下井の家族が病室を出て行く、記憶障害は出ているが脳や身体に異常は無いと分かって安心して帰っていった。


「勝手な事ばかり言いやがって……何が家族だ! そんなもん俺にあるかよ」


 1人残った清水はふて腐れて布団を被って眠りについた。



 翌朝目を覚ます。清水は真っ先に鏡を見た。


「俺じゃない……下井って奴だ」


 もしかしたら全て夢で目覚めたら元に戻っているかと期待したが裏切られた。下井の身体のままだ。


「幸作、よく眠れたか? 」

「あなた。金平牛蒡作ってきたから食べて」


 朝から下井の父と妻が面会にやってきた。母はいない、もう命に別状はないと分かって安心して留守番でもしているのだろう。


「だから俺は下井じゃないって言ってるだろ、俺は清水だ。清水良二だ」


 必死で清水だと訴えるが下井の家族らしい3人はもちろん、医者も一時的な記憶障害だと言って話しを聞かない。

 入院していた1週間ほどの間に下井の家族はもちろん会社の上司に同僚、友人に知人など何人もが見舞いにやって来る。その度に清水だと訴えたが誰も聞かない。



 長年住んでいる家に帰れば記憶も戻るかも知れないとの医者の助言で1週間後に退院した。清水は下井幸作として見た事も無い家に連れて行かされた。


「こんな家知らない、俺は幸作じゃない清水良二だ」

「まぁまぁ、わかったから、中でゆっくり話そう」


 下井の父や妻に手を引かれて清水は嫌々ながら家へと入っていった。


「幸作お帰り、風呂が沸いてますよ、病院じゃ好きには入れないでしょうからね」


 下井の母が優しい顔で出迎えてくれた。


「だから…… 」


 違うと言おうとして清水は言葉を止めた。下井の母に自分の母親の顔が重なった。清水の父は母と一緒に小さな会社を経営していた。不況の煽りを受けて仕事が殆ど無くなっても必死にかけずり回って安い仕事を引き受けてどうにか清水を大学まで行かせてくれたのだ。心労が祟ったのか清水が大学2回生の時に両親は続けて亡くなった。残された清水は大学を辞めて工場で働いて必死に生きてきたのだ。


 立ち尽くす清水に父が優しい声を掛ける。


「お前の家なんだから遠慮しないで好きに座りなさい」

「そうだわ、あなたの部屋に行きましょう、何か思い出すわよ、きっと」


 妻に手を引かれて2階へと上がっていく、


「ここがあなたの部屋よ、隣は私たちの寝室で向かいは今は空いてるけど後何年かしたらこの子の部屋になるのよ」


 子が宿るお腹を撫でながら妻が嬉しそうに清水の顔を覗き込んだ。


「俺の部屋か………… 」

「何か思い出した? 」

「いや、少し一人にしてくれないか」

「そうね、わかったわ」


 落ち着いた様子の清水を見て安心したのか妻は階下に下りていった。


「下井幸作の部屋か……難しそうな本がいっぱいだな」


 本棚に並ぶ本も飾ってある物も自分とは合いそうもない。


「俺の身体に下井幸作が入っているって事も有り得るな……でも、だったらこの家に帰ってくるはずだろ? 帰ってこないって事は………… 」


 部屋を見回し考える。下井幸作は死んだんじゃないかと思った。その代わりに自分がこの身体に入ったのだ。だが疑問が残る。では自分の身体はどうなったのだろうか? 清水良二の身体は今どうなっているのか? 今の俺、下井幸作のように誰かが清水良二の身体の中に入っているのではないのか? 


「俺の身体はどうなってるんだ? 変なヤツが使ってるんじゃないだろうな」


 一度気になり出すと気になって仕方がない、確かめに行こうと家を出ようとしたが下井の家族に止められた。


「だから俺は清水だ。この下井幸作って奴の身体に入ってるんだ。魂か何かが入れ替わったんだよ、それで俺の身体が……清水良二の身体が気になるから見に行くんだ」


 自分の身体を確かめようと住んでいたボロアパートへ行こうとする度に下井の家族に止められる。

 何度説明しても取り合ってくれない、記憶障害だと言って何も信じてくれない。

 1週間ほどして我慢の限界に達した清水が暴れた。


「いい加減にしろ! 俺は清水だ。お前らなんて知らん、俺は俺の家に帰るんだ」

「幸作……わかった。お前の気の済むようにしてやろう、その代わりそのアパートとやらを見に行ったらおとなしく私のいう事を利いてくれ」


 宥めるように言う父親の前で清水が頷いた。


「わかった。確かめたら……俺の身体を使ってる奴が変なヤツじゃなければ諦める」


 元の身体に戻る方法があるのかわからない、ただ自分の身体が気になったのだ。



 翌日、清水は下井の父と妻の美由紀を連れて朝から出掛けた。

 下井の家から三つ離れた地区にある古いアパートへやってきた。


「ここが俺の家だ。向こうの端の部屋を借りてるんだ」


 嬉しそうに指差す清水について下井の父と妻が歩いて行く、


「ここが俺の部屋だ。清水って名前出てるだろ」

「本当だ…… 」


 2階建ての古いアパートの1階端にある部屋には清水良二と表札が付いていた。


「一寸待っててくれ」


 驚く下井の父と妻の前で清水は郵便受けに手を突っ込んでゴソゴソし始める。


「あったあった」


 嬉しそうに見せる手には鍵が握られていた。


「無くした時のために予備の鍵を郵便受けに隠してんだ」

「なっ、なんでそんな事まで…… 」


 下井の父が驚きの声を上げた。表札は何処かで見て記憶していればわかる。だが鍵の隠し場所まで他人がわかるだろうか、


「だから俺は清水だって言ってるだろ、何かの拍子にこの下井って奴の身体に入ったんだって」


 してやったりと笑いながら清水が鍵を開けて部屋の中へと入っていく、


「遠慮なく入って……なんか臭いな? 何処からだ」


 ドアを開けて部屋に入った瞬間から何かが腐ったような嫌な匂いが鼻を突いた。


「何の匂いだ? 」


 清水はドカドカと奥へと入っていくが下井の父と妻は玄関で待っていた。


「うわっ、うわぁあぁぁあぁ~~ 」

「どうした? 」


 勝手に入るのを躊躇していた下井の父親が清水の悲鳴を聞いて慌てて入っていく、


「おわぁぁ~~、みっ、美由紀さん、電話を……警察に電話をしてくれ」


 慌てて飛び出してきた父を見て妻の美由紀がスマホを取り出す。


「どうしたんですお父さん? 」

「おっ、俺が……俺が死んでた。俺が死んでたんだ」


 父の後ろから真っ青な顔をした清水がやってきて玄関前でへたり込んだ。


「ふっ、風呂場で死んでた……死体があった。早く警察に………… 」


 父に言われて妻の美由紀が警察に通報した。


 直ぐに警察がやってきて現場検証が始まる。発見者である下井たちも事情聴取を受けた。自分が死んでいると言い張る下井に警察は疑いを抱くが検証の結果、清水は心筋梗塞による病死と断定され事件性は無いとされて疑いも晴れた。

 清水は死後4ヶ月経っていた。誰も引き取り手が無かったので無縁仏として役場で処理された。


 翌日から今までの事が嘘のように清水はおとなしくなった。自分の事を清水だと言わなくなって父や母はもちろん妻の美由紀の言う事をはいはいと利くようになった。

 自分が死んだのがわかった清水は下井幸作として生きていく事に決めた。死んだはずなのに下井の身体に入れ替わって生き返ったのだ。今までの不幸な人生をやり直そうと清水は思った。

 下井の家族は治ってきたのだと喜んだ。

 ただ一つ、下井幸作は有名企業に勤めていたらしいが清水は自分には合わないと言って辞めてしまった。下井の家族は何も言わないで好きなようにすればいいと優しくしてくれた。清水はそれにこたえようと近くの工場へと勤めに出て真面目に働いた。



 下井として生きていくことを決めてから10日ほどが経った。ある夜、影のような男が現われて首を絞めてきた。


「うっ、うぅぅ………… 」

「あなた、どうしたのあなた」


 深夜、苦しそうに首を押さえて呻く清水を妻の美由紀が起す。


「おっ、男が……黒い男が俺の首を絞めてきた」


 苦しそうに清水が言うが妻の美由紀は夢だと言って笑う、


「夢じゃない、俺は起きてた。黒い男が首を絞めてきて……美由紀が起き上がって俺を揺さぶったらスッと消えたんだ」


 必死で話すが妻は夢だと言ってさっさと寝てしまった。



 次の日も黒い影のような男に首を絞められた。


「夢なんかじゃない、あれは……あれは幽霊だ。男の幽霊が俺を殺そうとしてるんだ」


 妻だけでなく父や母にも話すが3人とも夢だと言って笑うだけだ。

 黒い男の幽霊は毎晩のように現われるようになった。



 何度か襲われたある夜、黒い影のような男の声が聞こえた。


『返せ……返せぇ~~ 』

「ぐぅぅ…… 」


 苦しげに呻きながら清水は必死に首を絞める男の手を外そうともがいた。


『返せ……返してくれ…………それは俺のだ……俺の身体だ』


 影のような男のくぐもった声にもがいていた清水の動きが止まった。


「おっ、お前は………… 」


 苦しげに顔を顰める清水の見つめる先で影のような男の姿がハッキリとしていく、


『返せ……それは俺の身体だ…………返せ……返してくれ……俺のだ………… 』


 下井幸作が居た。毎日鏡で見ている自分と瓜二つの男が恨めしげに首を絞めていた。


「あぁ……ひあぁぁ………… 」


 清水には直ぐに分かった。本物の下井が化けて出てきたのだと、


『返せぇ……俺の身体……返してくれ…………それは俺のだ』

「ひぃぃ……あぅぅぅ………… 」


 恨むような低いくぐもった声を聞きながら清水の意識が遠くなっていった。



 翌朝、清水は下井幸作の幽霊が出てきたと両親や妻に話した。


「お前、まだそんな事を言っているのか? 」

「そうよ、あなた、変な事を言わないで」


 父と妻が顔を顰めるが清水は話を止めない。


「本当なんだ。あれは下井幸作だ。幸作の幽霊だ。俺は清水だ。どうしてかわからないが俺は死んだ後にこの下井の身体に入ったんだ。入れ替わったんだよ、それで下井幸作は死んだんだ。だから身体を返せって襲ってくるんだ」


 必死に話す清水の前で父の顔に怒りが浮ぶ、


「いい加減にしなさい! バカな事を言ってないで早く仕事に行きなさい」


 今まで優しかった父が清水を怒鳴りつけた。


「あなた、あと半年もすれば赤ちゃんが生まれてくるのよ、変な事言ってないでしっかりして頂戴」


 妻も清水を責める。


「本当なんだ…… 」


 清水が語気を弱めた。下井として暮らし始めて2週間ほどしか経っていないが清水は幸せを感じていた。今の生活を壊したくないと思った。



 その日の夜、また下井の幽霊が現われた。


『返せ……俺の身体だ……返してくれ…………それは俺の身体だ…… 』


 深夜、気配を感じて目を覚ますと枕元に下井の幽霊が立っていた。


「はうぅ…… 」


 清水は驚いて叫ぼうとするが声にならない、全身が痺れたようになって動けなくなっていた。


『返せ……俺のだ……身体を返せ…………俺の身体だ…………返せぇぇ~~ 』


 恨めしげに覗き込む下井の幽霊は鏡でも見ているかのようにそっくりだ。違うところと言えば顔色だけだ。横になっている下井と違い幽霊の下井は血の通っていない青白い顔をしている。


『返してくれ……それは俺の身体だ………… 』

「いっ、嫌だ。今は俺のだ……俺の身体だ。お前のじゃない、お前は……お前は死んだんだ。だからこれは俺の身体だ」


 金縛りに遭って動けない清水が必死に言い返した。


『違う……俺のだ……お前が取ったんだ…………それは俺の身体だ…………返せ、返せ、返せぇ~~ 』


 下井の幽霊が覆い被さるようにして首を絞めてくる。


「嫌だ! この身体は俺のだ……俺のものだ…………お前のじゃない」


 恐怖に震えながらも清水は必死に言い返す。身体を返すと言う事は自分が死ぬと言う事だ。本当の清水の身体はもう火葬されてこの世に無いのだ。


『違う……違う……俺のだ…………俺の身体だぁ~~ 』


 下井の幽霊がグイグイと力を入れて絞めてくる。


「がっ、かはっ、ぐぅぅ…… 」


 清水の苦しげな呻きが聞こえたのか隣で寝ていた妻の美由紀が目を覚ました。


「あなた? どうしたのあなた、しっかりして」


 苦しげに呻く清水を美由紀が揺すって起そうとする。


『返せ……俺のだ……返してくれ』

「あなた、しっかりして」


 覆い被さる下井が見えていないのか妻の美由紀は幽霊の上から清水を揺さぶって起そうとしている。


「うぅぅ…… 」


 美由紀の腕が下井の幽霊を突き通って自分を揺さぶってるのを見て清水が驚きに目を見開いた。


「しっかりしてあなた」


 美由紀は幽霊に一切気が付いていない様子だ。


『俺のだ………… 』


 恨めしげに呟くと下井の幽霊がスッと消えていった。

 同時に金縛りが解けて清水がガバッと飛び起きる。


「がっ、ぐはっ、はぁはぁ…… 」

「あなた大丈夫? うなされていたけど」


 苦しそうに息をつく清水の顔を妻の美由紀が覗き込む、


「ゆっ、幽霊だ……下井の幽霊が俺の首を絞めて…………身体を返せって俺を殺そうとしてるんだ。幽霊が………… 」


 震える声で話す清水の背を美由紀が優しく撫でながら口を開いた。


「また夢を見たのね、一度病院へ行って診てもらいましょうか」


 美由紀の手を振り払って清水が怒鳴った。


「夢じゃない! 本当だ。俺は起きてた。本当に下井の幽霊が……俺は清水だ。だから下井が身体を取り返そうとしてるんだ」

「怒鳴らないで……病院へ行けとか言わないから、わかったからもう寝ましょう」


 呆れ顔で言うと美由紀は隣の布団に潜り込んだ。


「もう俺の身体だ……俺が幸せになるんだ………… 」


 ぶつくさ言いながら清水も横になって目を閉じた。



 翌日、火曜日だ。平日だが工場は火曜と水曜が休みなので清水にとっては休日になる。

 清水は下井の家族を集めて話しをする。幽霊はもちろん魂が入れ替わった事など幾ら真剣に話しても信じてはくれない。


「自分で何とかするしかない」


 清水は独りで何とかしようと考える。


「お祓いだ。下井の幽霊を祓ってもらおう」


 近くの神社に行って玉串料を払ってお祓いをしてもらった。

 だが効果は無かった。その夜も下井の幽霊が襲ってきたのだ。


 清水は文句の一つでも言ってやろうと神社へ行くと神主は難しい顔をして詳しく話しを聞かせろと言う、お祓いをしてもらった昨日は下井の幽霊が出てくるから祓ってくれとしか話していない、魂が入れ替わった話しなど神主でも信じてもらえないだろうと話していないのだ。

 相手から詳しく話してくれと頼まれたのは初めてだ。清水は喜んで全てを話した。清水の倍は歳を取っている神主は真面目に聞いてくれた。

 神主の話では下井は完全には死んでおらず清水の魂が入れ替わった下井の身体と何処かで繋がっているのではないかと言う事だ。つまり生き霊に近い状態だ。完全な幽霊ではないので祓う事ができないという事である。


「それじゃあどうしたら…… 」

「済みませんが私ではどうする事も出来ません、他の神社へ行っても同じだと思いますよ、一時的に祓う事ができても直ぐにまた出てきますよ」


 焦りを浮かべる清水に神主が申し訳なさそうに昨日渡した玉串料を返そうと差し出した。


「いえ、それは受け取ってください、真剣に話しを聞いてくれたのは神主さんだけです」


 いらないと手を振る清水を見て神主が険しい顔で口を開く、


「その幽霊とどうにかして話し合ってみてください、解決の糸口が見つかるかも知れませんよ」

「話し合いか……出来るかわかりませんがやってみます。ありがとうございました」


 話し合いなどとても無理だと思いながら清水は頭を下げて神社を去った。



 その日の深夜、下井の幽霊に首を絞められて清水が目を覚ます。


「ぐぅぅ…… 」

『返せ、俺の身体を返せぇ~~ 』


 覆い被さるようにして青白い顔をした下井の幽霊が首を絞めてくる。

 金縛りで体は動かない、清水は必死で話し掛ける。


「ぐぅ……まっ、待ってくれ…………話しを………… 」

『俺のだ……俺の身体だ……返せ、返せぇぇ~~ 』


 恨みの籠もった目で睨んでくる下井の幽霊は話ができる状態ではない。


「がっ、がぅぅ………… 」


 首を絞められて意識が遠くなっていく、


「あなた! しっかりしてあなた」


 呻きが聞こえたのか妻の美由紀が起きて心配そうに清水を揺すった。


「かかっ、くはっ! 」


 気を失いそうになっていた清水がガバッと起き上がる。


「あなた、大丈夫…… 」

「俺のだ! この身体は俺のものだ」


 心配そうに覗き込む美由紀に清水が殴り掛かった。


「きゃあぁぁ~~ 」

「俺のだ。お前のじゃない、お前は死んだんだ! 」


 倒れた美由紀に馬乗りになって清水が殴りつける。


「きゃあぁぁ~~ 」

「何をやってるんだ幸作! 」


 騒ぎを聞いて2階に上がってきた父と母が清水を妻の美由紀から引き離した。


「おっ、俺は……俺は何を………… 」


 呆然とする清水を見て下井の父が顔を顰める。


「お前何やったかわかっているのか? 」

「美由紀さんは身重なのよ」


 並んで責める父と母の前で清水が項垂れた。


「幽霊だとかおかしな事ばかり言って……明日、病院へ行こう、いいな」


 下井の父の目には怒りだけでなく心配も浮んでいる。


「 ……わかった」


 自分でも何で殴り掛かったのかわからない、清水は素直に利くしかなかった。


 翌日、工場を休んで父と共に心療内科へと行く、清水は統合失調症と診断された。医者によると仮死状態になった時に脳に障害が出たかも知れない、それによって幻覚を見て心が病んだのかも知れないとの事だ。

 薬を貰って暫く様子を見たが清水は治る様子はない、それで下井の両親が磯山病院へと入院させたのだ。

 これが自分は清水良二だと言い張る下井幸作さんが教えてくれた話しだ。



 話し終えた下井がニヤッと笑いながら向かいに座る哲也を見た。


「とまぁ、こんな訳で俺はこの身体に入ったんだ。下井と入れ替わったんだ」

「心筋梗塞で倒れた下井さんの身体に同じように心筋梗塞で倒れた清水さんが入った。それで身体を取り戻そうと下井さんの幽霊が返せって出てくるんですね」


 話しを整理する哲也の向かいで下井が頷いてから続ける。


「そういう事だ。だけど俺が倒れたのは4ヶ月以上前で助けどころか気付いてくれる奴もいなかった。それで死んだはずなんだが気が付いたらこの身体に入ってたってことだ。元の清水良二の身体は風呂場で腐ってたよ、自分なのに汚いって思ったね、惨めなもんだ」


 自嘲するように笑う下井の前で哲也が腕を組んで考える。


「それで下井さんは自分の身体に戻れなくなって幽霊になったって事か…… 」

「そうかもな、神社の神主も完全に死に切れてなくて何処かでまだ繋がってて生き霊みたいになってるって言ってたからな」


 他人事のようにこたえると下井がぬっと身を乗り出した。


「それで相談なんだけどよ」


 腕を組んで考えている姿勢のまま哲也が聞き返す。


「相談? 何です」

「俺に力を貸してくれよ警備員さん」

「力って……僕は何も出来ませんよ」


 顔を顰める哲也を見て下井がニヤッと口元を歪ませて悪い顔をする。


「へへっ、警備員さんなら出来るさ、さっきみたいに下井の幽霊を殴り飛ばしてくれればいい」


 先程、向かって来た下井の幽霊を殴りつけたのを見ていたらしい、愛想よく哲也に話しを聞かせたのも初めから協力してもらおうと思っていたからだろう。


「下井さんとどうにか話し合って解決するしか…… 」


 険しい顔でこたえる哲也を下井が睨み付ける。


「解決? 俺が身体を出て行く以外に解決方法なんてあるのか? 」

「それは………… 」


 哲也が言葉を詰まらせた。話しが本当なら幽霊の下井は悪くはない、自分の身体を取り戻そうとしているだけだ。かといって清水も悪くはない、わざと身体を乗っ取ったのではない、知らない間に自分は死んでいて下井の身体に入っていたのだ。

 考え込む哲也を睨み付けながら下井が続ける。


「今更返せるかよ、これは俺のだ。俺の身体だ。俺は下井として生きていくんだ」


 哲也が腰を上げる。


「少し考えさせてください」

「考える? 何をだ」


 部屋を出て行こうとした哲也の腕を下井が掴んで凄んだ。


「相手は幽霊ですよ、ハッキリ言って怖いです。力を貸したいけど気持ちの整理が付きませんから…… 」


 哲也が咄嗟に誤魔化すと下井は手を離してくれた。


「そうか……そうだな、俺も未だにビビってるからな、わかった少し待ってやる」

「それじゃあ、僕は見回りがあるので」

「良い返事を待ってるぞ」


 部屋を出て行く哲也に声を掛けると下井はベッドに寝っ転がった。

 長い廊下を哲也が早足で歩いて行く、


「10時の見回りは中止だな」


 長い話しに時間を取られて見回りをサボった。


「はぁ~~、協力なんて出来るかよ」


 大きな溜息をつきながらD棟を出て行く、


「どっちの味方も出来るかよ……どっちも悪くないんだからな」


 険しい顔をして自分の部屋のあるA棟へと歩いて行った。

 清水と下井、両方を救う方法があればいいが、無いのなら自分はどちらにも手を貸せない、自分は人の命を選択出来るほど偉くはない、神様でもなければ命を選ぶなど出来ない、そう思った。どちらかの親族や深い友人ならともかく、2人の間に入る事など無関係の哲也に出来る事ではない。



 暗い外を歩いて行く哲也を建物の影から嶺弥が見ていた。


「どちらも選ばないか……哲也くんらしい答えを出したな」

「それで解決するかしらね」


 何処に居たのか香織がスッと嶺弥の隣りに立った。


「解決? 何を持って解決と成す」


 嶺弥がじろっと睨み付ける。普段の優しい顔は無い、冷たい眼だ。

 香織が臆する事もなく笑みを湛えてこたえる。


「哲也くんの心が耐えられれば解決よ」

「心か……失敗すれば一からやり直しだからな」


 香織から視線を逸らせて嶺弥が月を見上げた。


「そういう事、哲也くんには悪いけどね」


 香織も同じように夜空を見上げる。


「適合者か…… 」


 寂しげに呟く嶺弥に香織が向き直る。


「今の哲也くんは哲也くんであって哲也くんでない」

「だが基本は変わらん、哲也くんはいいヤツだ」


 険しい顔で言う嶺弥を見て香織がクスッと笑った。


「やっぱり入れ込んでるじゃない、私も哲也くんは好きだから旨く行くのを祈ってるわ」

「祈るか……お前たちがよく言う」


 始終険しい表情の嶺弥と違い香織は楽しげだ。


「あらっ、祈るのは何も神だけじゃないわよ」

「同意だ。人にとって手を差し伸べてくれるものが神になる。たとえ魔だとしてもな」

「そういう事……じゃあ私は看護師の仕事があるから行くわね」


 ニコッと笑うと香織がスッと姿を消した。


「仕事か……貴様らの目的は人の心に付け入る……いや、俺も同じか、哲也くん………… 」


 哲也の部屋のあるA棟を見つめて寂しげに言うと嶺弥もスッと姿を消した。



 深夜3時、哲也がD棟へと入っていく、


「屋上の鍵は異常無しっと」


 いつものように最上階まで上がって下りながら各階を回っていく、夜10時の見回りを途中でサボる事になった哲也は普段より気を引き締めて丁寧に見て回る。


「下井さん……いや、清水さんの部屋か…… 」


 3階に下りると長い廊下を歩いて行く、


「ぐぅぅ…… 」


 下井の部屋に近付くと苦しげな呻きが聞こえてきた。


「下井さんか? 」


 駆け付けてドアに手を掛けた哲也がそのまま立ち止まる。


「下井さんの幽霊は悪くない、清水さんも…… 」

「かぁぁ……ぐふぅぅ………… 」


 躊躇していた哲也の耳に苦しげな声が入ってきた。


「下井さん! 」


 哲也がドアを開けると横になっている下井に被さるようにして幽霊の下井が首を絞めていた。


『返せ……俺の身体だ…………返してくれ…… 』

「かはっ、くぅぅ………… 」


 苦しげな下井を見て哲也がベッド脇へと近付いていく、


「やっ、止めろ! 」


 止めようと声を掛ける哲也に幽霊の下井が振り向いた。


『俺のだ……俺の身体なんだよ…………俺の…… 』

「それは……気持ちはわかるけど止めないと…… 」


 引き離そうと拳を構えた哲也の前で幽霊の下井が涙を流す。


『俺の身体なのに…………返してくれ……俺の身体……俺の家族…………俺の赤ちゃん』

「下井さん…… 」


 哲也の拳が下がっていく、自分だけでなく家族の事を心配する下井の幽霊を殴る事なんて出来るわけがない。


「がっ、かかっ! 」


 横になっている下井がビクビクと体を痙攣させて動かなくなった。


『俺の身体…… 』


 下井の幽霊がスッと消えていった。


「下井さん、下井さん」


 哲也が声を掛けながら下井の体を揺するが反応が無い、


「ヤバい! 」


 呼吸が止まっているのを見て慌ててナースコールを押した。

 直ぐに看護師が駆け付けてきて下井はストレッチャーに載せられて運ばれていった。


「下井さんごめん、清水さんも悪くないんだ……僕は死にそうな人を見殺しには出来ない、どちらの味方もしないって言った癖に…………ごめんなさい……本当にごめんなさい」


 片方に協力する事になるのだ。それでも哲也はナースコールを押した。運ばれていく下井を見送った後、病室に一人残って哲也は泣いた。



 D棟の建物の外、3階にある下井の部屋を嶺弥と香織が見上げていた。


「泣いてるわよ哲也くん」

「ああ……心が耐えられるか、分離するか」

「それとも作られしものに飲み込まれるか」


 悪戯っぽい笑みを見せる香織を前に嶺弥が険しい顔で口を開く、


「それは無い、哲也くんは強い男だ。飲み込まれるなど有り得ない」

「買ってるのね、まぁ私も同意だけど、ここまで旨く行ってるのは哲也くんだけだからね」


 呼吸の停止した下井が運ばれて大騒ぎになっているのに2人は存ぜぬ顔で会話を続ける。


「それにしても入れ替わりか……作為的でなく起こるのは珍しいな」

「そうね、物の怪共が憑依するならともかく漂っていた清水の魂が倒れた下井と同調するなんて珍しいわね、偶然にしても出来過ぎよ」

「その偶然で哲也くんの適性が見られた」


 険しい表情の嶺弥を前に悪戯っぽい笑みをしていた香織がフッと視線を落とす。


「だけど……凄く悲しそうに泣いてるね」


 嶺弥の表情が緩んだ。


「気になるのか? 楽しんでいると思ったが」

「この目で見ちゃうとね、哲也くんでなければよかったのに…… 」

「 ……その件については俺も同意だが仕方がない」


 嶺弥の優しい目を見て香織が微笑む、


「そうね、私に与えられた権限じゃ手出しできないしね」

「そういう事だ。せめて旨く行くように見守るだけだ」


 2人が見つめる先、一つだけ明かりの点いた部屋で哲也が泣いていた。



 緊急搬送されて下井は一命を取り留めた。1週間ほどして元の病室に戻ってくる。


「警備員さんの御陰だ。警備員さんがナースコールを押してくれなければ私も死んでいた」


 様子を見に行った哲也の手を取って下井が礼を言った。


「私って…… 」


 首を傾げる哲也を見て下井が嬉しそうに続ける。


「私だよ、本物の下井幸作だ。戻ってきたんだよ、ちゃんとこの体に戻れたんだ」


 姿形は同じだが目の前に居る下井は以前の下井と明らかに雰囲気が違っている。


「戻れたって……じゃあ清水さんは」


 驚く哲也の手を握り締めながら下井が話し出す。


「さぁ、清水とかいう男はかわいそうだと思うがこの身体は私のものだ。これが正常なんだ。だから同情はするが譲るつもりはない」

「そっ、そうですか…… 」


 何とも言えない顔をする哲也の前で下井が嬉しそうに続ける。


「ナースコールを押してくれた警備員さんの御陰だ。処置が遅れればこの身体は死んでいた。元に戻れたとしてもそのまま死んでいたところだよ、私が今生きているのは警備員さんの御陰だ。本当に感謝する。ありがとう」

「あはは……そんな……僕はただ…………良かったですね」


 何度も礼を言う下井に哲也はぎこちない笑顔を作ってこたえた。

 それから5日ほどして下井は元気に退院して行った。


「下井さんと清水さんか………… 」


 元の体に戻れたと、清水良二ではなく本物の下井幸作だと言って元気に退院して行く下井を哲也は複雑な顔をして見送った。



 本当に下井幸作さんなのか入れ替わった清水良二さんなのか哲也にはわからない、だが一つ確かな事がある。どちらかが消えたのだと、成仏したのかは分からないがどちらかはもう出てこないだろうと哲也には確信めいたものがあった。


 清水さんは下井さんの身体を奪ったわけではない、気が付いたら下井さんの身体に入っていたのだ。自分に戻りたいと願ったが既にその身体は朽ちていた。それで下井として生きていく事にしたのだ。身寄りのなかった清水にとって家族というものが心地好かったのかも知れない。

 下井さんが幽霊になって恨む気持ちも分かる。自分の身体を好き勝手に使われているのだ。怒らないわけがないだろう、どうにかして取り戻したいと思うだろう、だが取り戻す方法はあったのだろうか? 取り戻せなくても他人が自分の身体を使って幸せに生きていく事に憤りを感じて殺そうとしたのではないだろうか? だから哲也はどちらも選べなかった。2人とも救ってやる方法など無いのだから……。



 ベッドに寝っ転がった哲也が天井をじっと見つめた。


「あの時、ナースコールを押さずに放って置けばどうなったんだろう? 清水さんも下井さんも2人とも死ぬ事になったのかな…… 」


 学生時代に両親を亡くし全てを失ってボロアパートで一人暮らしをしてひっそりと亡くなった清水良二の生い立ちを考えると胸が締め付けられる。


「僕は正しかったのかな………… 」


 哲也が布団に潜り込む、


「下井さんの幽霊を殴って引き離せば清水さんは助かったんだ……僕は…………下井さんは助けたけど清水さんを殺したんだ。僕が………… 」


 ベッドの上で哲也を包み込んだ布団が揺れていた。しゃくり上げるような泣き声と共に、いつまでも揺れていた。

読んでいただき誠にありがとうございました。

次回は5月19日の16:30頃に更新予定です。

5月19日~21日、毎日1話ずつ計3話更新いたします。


一つでも面白いと思う話がありましたらブックマークや評価をしてもらえれば嬉しいです。

感想やレビューもお待ちしております。

単純な人間なので感想やレビューを貰えるとヤル気が湧いてきます。


では次回更新も頑張りますので読んで頂けると嬉しいです。ありがとうございました。

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