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第二話 囁(ささや)き

 囁くという言葉は余り良い意味では使われない、甘言で釣られて苦渋を味わった人もいるだろう、だが気のある人に耳元で囁かれるのは気持ちの良いものだ。

 何者かの声が聞こえるタイプの幻聴も一種の囁きと言ってよいのかも知れない、大きな音やハッキリと話しが聞こえる幻聴などは余り聞かない、幻聴の殆どがボソボソと何を言っているのか分からないものだからだ。

 鬱病や神経症の耳鳴りが悪い方へと進むと幻聴となる事がある。神のお告げを聞いたり宇宙から電波を受信するとかいうヤツである。ボソボソとしか聞こえないので自分の頭で補完して声が聞こえたととんでもない事を言うのが殆どだ。


 哲也も神様の声が聞こえるという人を知っている。

 柴谷源弥しばたにげんやさんだ。27歳で落ち着きのない軽い感じの馴れ馴れしい男だ。俗に言うチャラ男である。磯山病院には精神錯乱、いわゆる狐憑きで事件を起こして入れられたらしい、診断では統合失調症となる。今は落ち着いているが暴れ回って手当たり次第に噛みついていたという事だ。磯山病院に入院してからはピタッと収まったらしい。



 柴谷と出会ったのは10日ほど前の事である。

 レクリエーション室のテレビで野球を見ていた哲也に柴谷が賭事をしないかと声を掛けてきた。


「賭ですか? 」


 哲也が怪訝な顔を向ける。柴谷はいつも部屋の隅でコソコソしている連中の一人だ。


「そう変な顔しないでさ、賭けって言ってもお菓子を賭けるだけだからさ、遊びだよ遊び、警備員さん暇そうにしてるからさ」

「これでも警備巡回で忙しいんですけどね」


 チャラそうな男に暇そうだと言われて哲也がムッとしてこたえた。


「そう言わないでさ、今日2人居なくてさ、賭が成立しないんだよね、警備員さんは今から賭けてもいいから得だよ、後3回で終わりだからね、もう先が見えたようなものだよ」


 野球やサッカーで賭をしているらしい、普段は5人ほど居るのだが今日は3人しかいない、それで哲也を誘ったのだ。


「5対2か…… 」


 テレビを見ながら哲也が呟いた。野球も終盤に入りどちらが勝つかほぼ決まっているようなものだ。


「警備員さんは初めてだから今日は途中から入って勝ちでも他の奴らも文句は言わないよ、来てない2人の内の1人はもう直ぐ転院するんだよね、それで新しいメンバーが欲しいと思ってたんだよ、仲間になってくれたら競馬とかボートの予想も教えてあげるよ、絶対勝つから得するよ、あの2人も競馬とかボートで勝たせてやってるからお菓子くらい負けても文句の一つも言わないんだよ」


 絶対勝つ? 自信満々で言う柴谷に哲也が興味を持った。


「絶対勝つって本当ですか? 」


 柴谷がニヤッと意味ありげに笑いながら顔を近付けてくる。


「ああ、ここだけの話だけどね、俺には神様が付いてるんだ。事故とか危ない事から守ってくれたりギャンブルで勝たせてくれるんだよ、守り神ってヤツだな」


 哲也の耳元で囁くとポケットから馬券を取り出した。


「先週も当てたんだ。30万勝ったぜ」

「さっ、30万……マジっすか? 」


 哲也が思わず聞き返す。


「ふふん、本当だよ、俺だけじゃないぞ、あの2人や看護師さんたちも勝ったって大喜びだ。なんたって神様のお告げだからな」


 自慢気に鼻を鳴らす柴谷を見て哲也は益々興味を持った。もちろん自分もギャンブルで勝って金が欲しいという欲も出た。


「でも僕は警備員だから…… 」

「じゃあ決まりだね、さぁさぁこっちへ来て」


 断ろうとしたが哲也は半ば強引に賭の仲間に引き込まれた。

 磯山病院では賭事は禁止されているのだが現金ではなくお菓子を掛ける遊びみたいなものなので派手にしない限りは先生たちも見て見ぬ振りをしている。それどころか柴谷は競馬や競輪などをピタリと当てるので看護師たちが予想を聞きに来るほどだ。


「さぁさぁ、警備員さんも賭けて」


 手書きの試合表を渡される。用紙には今テレビで見ている試合の他に今日やっている野球の試合が全て書いてある。


「基本は100円くらいのお菓子やジュースを1点として賭ける。派手にやって先生たちに怒られるのを防ぐために賭けられるのは一試合最大5点だ。まぁ暇潰しの遊びだよ」


 柴谷が説明すると後ろに居た2人が付け足す。


「今日は6試合だから1点ずつ賭けて全部負けても600円くらいだ」

「柴谷さんに競馬予想聞けば1ヶ月負けっ放しでも損なんてしないぞ」

「まぁ実際負けっぱなしなんだけどな」


 お菓子だとしても負けっ放しでは悔しいはずだが2人はニコニコ笑顔である。

 これは何かあると踏んだ哲也は賭けに加わる事にした。


「それじゃぁ、今日は初めてなので1点ずつ賭けますよ」


 用紙に勝ち負けを書いていく、お菓子は当たった人たちで公平に分けるルールだ。


「おぅ、やってるな」


 大柄の男が箱に入った用紙の束を持ってきた。

 ここに居る柴谷たちだけでなく他にも参加者が居る様子だ。


「篠田さん回収お疲れ様、こちらね、警備員の哲也くん、今日初めて参加するからね」

「哲也です。取り敢えず今日だけ参加と言う事で……気が向いたらまた参加させて貰いますよ」


 柴谷に紹介されて哲也が大柄の篠田にペコッと頭を下げた。


「おう、よろしくな」


 篠田はドカッと床に腰を下ろすと集めた用紙のチェックを始めた。

 その時、テレビから歓声が聞こえた。


「やったホームランだ」

「おお、これで5対4だ。最後までわからなくなったな」


 柴谷だけじゃなく篠田も他の2人もニコニコ顔でテレビに釘付けだ。お菓子の賭事など子供の遊びのようだが外を自由に出歩く事の出来ない患者にはいい気晴らしになっているらしい。


 哲也は床に座り込んだ4人から少し離れた壁際にある椅子に腰掛けた。


「あれっ? 」


 哲也が両目を擦る。

 テレビの野球に夢中になっている4人を見ていると柴谷の肩の辺りの空気が歪んだように見えた。まるで炎の先っぽの空気が熱くなって揺らいだような感じに見える。

 自分の目が霞んでいるのかと擦ったが歪んでいるのは柴谷の肩の辺りだけだ。


 なんだあれは? 哲也がじっと観察を続けると柴谷が肩の辺りに向かってうんうんと頷いている。


「なんだ…… 」


 じっと見ていると柴谷の肩に乗っかるように白い靄のようなものが見えた。痩せた犬のように哲也には思えた。

 不意に柴谷が振り返る。


「哲也くんは霊感があるみたいだな」


 意味ありげに笑うと柴谷が自身の肩をポンポンと叩いた。


「あっ!! 」


 思わず声を上げて驚く哲也の見つめる先で痩せた犬のような白い靄がスーッと天上に昇って消えていった。


「神様だよ、神のお告げがあったからね」


 哲也が聞く前に柴谷は言うと自分が書いた賭けの用紙を差し出した。


「本当はほどほどに負けるんだけどね、今日は哲也くんに信じてもらえるように全部勝って見せるよ」

「全部勝つ……全試合当てるって事ですか? まさか…… 」

「そうだよ、この用紙は哲也くんに預けて置くからね、これでズル出来ないだろ」


 自信満々の柴谷の向かいで哲也は疑い顔で賭の用紙を受け取った。



 夕食の時間となり哲也は定期見回りをする。


「ふ~っ、腹減った」


 見回りを終えた哲也が食堂で他の患者より遅い夕食をとる。

 そこへ柴谷がやってきた。


「哲也くん結果は確認したかい? 」

「まだです。見回りしてましたから」


 柴谷は馴れ馴れしく言いながら哲也の隣りにドカッと座った。


「丁度いい、今ニュースでやるから渡した用紙を見てみなよ」

「はぁ、そうっすね」


 夕食が乗っているトレーの横に哲也が柴谷の賭の書かれた用紙を広げた。


「全部当たってるはずだよ、神様のお告げだからね」


 ニヤニヤ顔の柴谷には少し嫌悪を感じるが神様のお告げも気に掛かる。


 哲也が見つめる先、夕方のニュースでテレビに野球の結果が映る。

 まだ続いている試合はあるが6試合のうち終わった4試合は全て的中していた。しかもどのチームが勝った負けただけでなく何点取ったかまで用紙の端に書いてあった。


「まっ、マジっすか…… 」


 これには哲也も驚きに言葉が続かなかった。


「本当だったろ、哲也くんには神様が見えていたみたいだから信じてくれるよね」

「神様ってあの犬みたいなのが? 」


 白い靄のようなものを思い出して言うと柴谷が怒り出した。


「失礼な事言うなよ、お狐様だ。稲荷神社の神様だよ、哲也くんには見えてると思ったんだけどダメみたいだな」


 急に怒り出した柴谷に少し臆しながらも哲也が質問する。


「ダメってどういう意味ですか? 」

「神様が探してるんだよ、俺の他にも見える人をな」


 ムッとした顔でこたえる柴谷の隣で哲也がほっと胸を撫で下ろす。


「見える人を仲間にしろって神様が仰るんだ。それで探していたんだが……哲也くんなら大丈夫だと思ったんだがな」

「見える人ですか……僕には無理ですよ、そんな力無いですから」


 柴谷に気味の悪いものを感じて哲也が苦笑いして誤魔化した。


「そうみたいだな、神様は結構気に入っていたみたいだったけどな」


 冗談じゃない、あんな得体の知れないものに気に入られて堪るか……、哲也は話を逸らそうと口を開いた。


「柴谷さんは何で入院してるんですか? 」

「ひへへへっ、一寸やんちゃしてね、1人刺しちゃった。神様のお告げじゃしょうがないよね」


 柴谷はニヤニヤしながらそれ以上は話してくれなかった。



 哲也は柴谷の病状などを池田先生に聞く事にした。

 柴谷がやっている賭事を良く思っていないのか池田先生は人の病状など聞くものじゃないと叱りながらも教えてくれた。

 柴谷の病状は幻聴と妄想、それによる暴力衝動が抑えられない統合失調症だとの事だ。

 神様の声が聞こえたと友人の一人を刺したのだ。幸い友人は死ななかったが柴谷は傷害で逮捕された。

 警察官が駆け付ける頃には柴谷は獣のように暴れて手が付けられなかったらしい、拘置所でも暴れて精神鑑定の結果、罪に問えないとして磯山病院へ強制入院させられたのだ。


 診察室を出ると哲也の足は自然と柴谷の病室へと向かっていた。


「神のお告げか……でも柴谷は全部当ててたからな」


 柴谷に良い印象のない哲也は誰も居ないときは呼び捨てだ。

 神のお告げを聞いたとか宇宙から電波を受信したとか言う連中は磯山病院には幾らでもいるが全て狂言だ。だが柴谷は違った。賭事を全て的中させている。


 柴谷の部屋はC棟の6階にある個室だ。ハッキリ言って哲也の部屋よりもお高い裕福なものが入る病室である。


「611号室、ここだ」


 ドアの横の壁に付いているネームプレートを確認してからノックする。


「誰だ? なんだ哲也くんか」


 ドアを開けて顔を出す柴谷を見て哲也がペコッと頭を下げる。


「先程はすみません、神様の事が気になって……それで話を聞けたらなって……ダメならいいですけど」


 下手に出る哲也を見て柴谷はニヤニヤしながら部屋に招き入れた。

 哲也を椅子に座らせると自分はベッドにドカッと腰を下ろす。他の人、特に賭をしている連中には内緒と釘を刺して柴谷が話を始めた。



 これは柴谷源弥しばたにげんやさんに聞いた話しだ。

 去年の夏、柴谷は秋田県にある実家へと帰省した。盆休みというやつだ。

 山深いドの付くくらいの田舎でゆっくりと休んでいたが2日もしないで飽きてしまう、もう東京へ帰ろうかと考えていたところへ山を越えた集落で祭りがあるとの話しを聞いた。

 無名だがそれなりに大きな祭りでそれ目的に帰省するものも多いらしい、チャラチャラした性格の柴谷がお祭りと聞いて行かないわけがない。


「ガキの頃の友達にも会えるかもな」


 夕方の4時前に原付バイクで家を出る。車で行こうと思ったが親に止められた。辺りの集落から大勢が集まってくるのだ。見知った場所ならともかく駐車させるだけで苦労する。しかも最近は厳しくて飲酒検問もあると言われてバイクにしたのだ。小回りの利くバイクならどうとでもなると簡単に考えたのである。


 碌に整備もされていない山道を原付バイクで飛ばす。


「おおぅ! 」


 叫んでバイクを止めた。車一台がどうにか通れる細い道路の真ん中に30センチくらいの大きな石が転がっていた。


「あぶねぇな…… 」


 普段なら避けてそのまま通るのだがこの道は年老いた両親も使っている道だ。


「仕方ねぇな」


 バイクを道の端に止めると愚痴りながら石を抱えて脇の藪に転がした。


「何だ? 道か……違う、階段だ」


 石を放り投げた藪の中に細い階段を見つけた。

 切り出した石で作ってある古い階段だ。所々で石が崩れて土が剥き出しになっている。そこへ草が生えてよく見ないと階段だとは気付かないだろう、柴谷も初めは只の獣道かと思ったほどだ。


「こんなとこに階段かよ、廃屋でもあるのかな」


 階段は五段ほどしか見えないその先は藪で覆われていた。興味は湧いたが今は祭りだ。


「明日にでも探検してみるか……それより祭りだ」


 バイクに跨ると鼻歌を歌いながら山向こうの集落へと向かった。



 祭りは大いに楽しんだ。小中一貫学校だった懐かしい友達の数人にも会えた。


「楽しかったな、ナンパは失敗したけどな、へへへっ」


 夜の9時半ば、酔って真っ赤な顔をした柴谷が原付バイクで山道を走る。懐かしい友人たちと話が弾んでついつい飲み過ぎてしまった。


「うぉあっ! 」


 大声を出してバイクを止める。


「あっぶねぇなぁ~~ 」


 細い道路の真ん中に30センチほどの大きな石が転がっていた。


「ヤバかったぜ、ったくよぉ~~ 」


 避けるように止まったバイクから左横にある大きな石を睨み付ける。

 街灯など無いド田舎の道である。スピードを出さずに酔って良い気分でフラフラ走っていたのが幸いして事故らずに済んだ。


「あれ? 」


 石の形に見覚えがあった。夕方通ったときに脇にどけた石とそっくりに思えた。


「どっから転がってくるんだ……まったく」


 バイクから降りると文句を言いながら石を抱える。


「おやじが事故ると困るからな、まったく」


 脇の藪に石を放り投げる。


「やっぱここだ…… 」


 転がる石を見ていた柴谷の目に朽ちかけた階段が映った。


「同じ場所で何で石が? 」


 不思議に思った柴谷が夕方通ったときに放り投げた石を探す。


「昼間投げた石が無い……同じ石かよ、誰かの悪戯かよ」


 小石ならともかく30センチもある大きな石だ。生えている草を倒して転がったのを確認している。無くなるはずがないのだ。


「マジかよ、悪戯で済むかよ、くそがっ! 」


 怒った柴谷が確認しようと藪に足を入れた。


「やっぱ無い、昼間の石だ。何処のバカだ! 見つけたらボコボコにしてやる」


 先程放り投げた石の他には大きな石が無いのを確認して誰かの悪戯だと思って一人怒鳴った。


「何だ? 誰か居るのか? 」


 怒る柴谷の目に明かりが映った。藪の上からぼうっとした明かりが漏れていた。朽ちかけた階段を上がった先に思える。


「こんな所に家があるのかよ」


 怪訝に思ったが酔って気が大きくなっていた柴谷は道路に石を置いた犯人が分かるかもと朽ちかけた石段を上がっていった。


「何十年も通ってないんじゃないか? 他に道でもあるのかよ」


 ぼうっと見える明かり目指して藪漕ぎをするように左右から生えている草木を掻き分けて上がっていく、


「なっ…… 」


 階段を上りきった柴谷が絶句する。

 家など無かった。藪を刳り貫いたようにぽっかりと開けた場所に神社らしきものが建っていた。


「 ……なんで」


 絞り出すような声が出た。

 屋根が半分崩れて落ちている煤けた木造の社、前に置いてある小さな賽銭箱は板が剥がれて骨組みだけになっている。頑丈に作られているのか鳥居は形を残していた。


「なんで? 」


 頭に疑問符が浮ぶ、崩れかけた社の残った片側の屋根に破れた提灯が一つぶら下がっていた。その破れた提灯に明かりが灯っている。それだけではない、社の中、御神体を祀っている左右に蝋燭の炎が見えた。


「だっ、誰かいるのか? 」


 震えた声を出して辺りを窺う、火を灯した者がいるかも知れない。


「誰も居ないな……誰か来て参拝でもしたのかな……祭りだしな」


 酔っていて頭が回らない、祭りがある集落とは大きく離れている。こんな社に人など来るはずがない、それ以前にあの階段を人が通った形跡など無い、柴谷も酔っていなければ通るのを躊躇したであろうほどの草ボウボウの荒れ具合だったのだ。

 では誰が火を灯したのか? 酔っている柴谷はそこまで考えつかなかった。


「お稲荷さんか」


 誰か居ないかと探していた目に社の脇に倒れている石で出来た狐が転がっていた。


「こんな所に神社があったなんてな、これも何かの縁かもな」


 不思議なものを感じた柴谷はバイクまで戻ると缶ビールと祭りで買った焼きそばをもって神社に戻る。焼きそばは夜食にしようと買ったものだ。


「神様、願いを叶えてください」


 缶ビールと焼きそばを供えるとポケットから100円玉を出して骨組みだけの賽銭箱に放り込んだ。


「ギャンブルに勝たせてください、パチンコ、競馬、競輪、ボート、全てのギャンブルに勝つ運をください、俺を勝ち組にしてください、よろしくお願いします」


 元来チャラい柴谷が酔って気が大きくなって無茶な頼みをする。

 ふと、倒れている狐の像が目に付いた。


「倒れたままじゃかわいそうだな」


 倒れていた狐の像を持ち上げて立たせてやる。


「ふぅ、やっぱ重いな」


 柴谷が汗を拭きながら満足そうに頷いた。

 有り得ない、大きな石の台座と一体になっている狐だ。重いどころじゃない、力自慢でも大人一人で持ち上げられるものではない。

 狐の像に向かって手を合わせる。


「神様、俺の願いを叶えてください、ギャンブルに勝つ運をください、俺を勝ち組にしてください」

『コゥ~~ン』


 手を合わせる柴谷の耳に狐の鳴き声が聞こえてきた。


「よろしくお願いします」


 神様からの返事だと考えた柴谷はもう一度手を合わせると朽ちた神社を後にした。



 何処をどう通ったのか覚えていないが柴谷は家に帰って布団の中で眠っていた。


「うぅ……しょんべん」


 尿意を感じてトイレへと行く、


「飲み過ぎた。何も覚えてない……変な神社に行った夢を見たな」


 小便を終えて台所で冷たい麦茶を飲むと部屋に戻る。泥酔するほど飲んではいないが記憶が曖昧になっていた。神社の事も夢のようにしか思えない。


「2時か…… 」


 スマホで時間を確認すると深夜の2時を少し回っていた。

 まだ酒が残っているのか良い気分でうとうとし始めた。


『柴谷源弥、柴谷源弥、柴谷…… 』


 誰かに呼ばれて柴谷が目を覚ます。


「なん!? 」


 声のする方へ首を向けたままの形で体が固まった。金縛りだ。


『柴谷源弥、願いを叶えてやろう……我に命を捧げるならお前を守り勝たせてやろう』


 光を纏った白い狐が枕元に立っていた。


『柴谷源弥、願いを叶えてやろう……我に命を捧げるならお前を守り勝たせてやろう』


 白い狐が口も動かさずに言葉を発した。

 神様だと思った柴谷は咄嗟に返事を返す。


「ギャンブルに勝たせてくれるなら命などくれてやる。俺の願いを叶えてくれ、俺を勝ち組にしてくれ」


 体は固まったように動かないのに声はハッキリと出す事が出来た。


『叶えてやろう、我の声に耳を傾けろ、すれば勝つ、我が守ってやろう、我を信じよ』


 光と共に白い狐が消えていく、


「うぅぅ………… 」


 柴谷が目を覚ますと朝になっていた。


「夢かよ! 」


 吐き捨てるように言うと柴谷は起きてその日の内に東京へと戻った。

 家に帰り着いた頃には神社の事などすっかり忘れていた。



 話を終えると柴谷はニヤッと厭な笑みをした。


「とまぁ、俺が神様に出会ったのはこんな所だ」


 中途半端に話しを止められた哲也が身を乗り出す。


「その神様が願いを叶えてくれたんですか? 」


 柴谷がニヤつきながら頷いた。


「ここからが本番だ。神様など俺も夢だと思ってたんだ。だから命を捧げるなんて約束も軽くしたんだが……それが本当だった」

「本当って? 」


 続きを話す柴谷に安心したのか哲也が椅子に座り直した。


「囁き声が聞こえるようになったんだ。パチンコに行くとこの台は出るって教えてくれる。競馬なら勝ち馬、競輪もボートも全部囁いて教えてくれる。俺は勝ち組になったんだ」


 柴谷は賭で勝った飴玉を一つ口に放り込むと哲也にも差し出す。

 飴玉を受け取る哲也の向かいで柴谷が続ける。


「それだけじゃない、危ないところも助けて貰ったんだ」


 実家から戻った柴谷がギャンブルをすると神様が囁いてくれるようになる。パチンコなら当たりの台を教えてくれる。競馬なら勝ち馬を、違法の野球賭博なども全て教えてくれて連戦連勝だ。ギャンブルだけではない、事故りそうになったときも神様が囁いてくれて助かった。電車の事故なども教えてくれて時間に遅れる事もない、神様様々だと柴谷は上機嫌だ。


「本物だと思ったね、本物の神様だと……そしたら段々神様の姿が見えてきたんだ。信心の力だと神様が仰った」


 昼間見た白い靄で出来た犬のようなものを思い出しながら哲也が訊いた。


「神様の姿って白い狐ですか? 」

「そうだ。神様の使いだ。やっぱ哲也くんにも見えてたんだな」

「まぁ……白い靄みたいなのが見えただけですけど」


 口籠もる哲也の向かいで柴谷がニヤッとあの厭な笑みをした。


「神様の言う事を聞いていれば俺は安泰だ。勝ち組になれる。そう思ってたんだが…… 」

「そうならなかった。磯山病院に入院するようになったんですね」

「ああ、ギャンブルで勝ちまくって金持ちになったら下らない連中が寄ってくるようになった。まぁちやほやされて気持ちは良かったけどな」


 罰が悪そうに卑屈に笑う柴谷に哲也が思い切って傷害事件の事を訊く、


「確か知り合いを果物ナイフで刺したんですよね? 」

「誰に聞いたんだい? まぁいいか、囁き声が聞こえてさ……あいつを刺せって、殺せって……それで刺しちゃった」


 人を刺したというのに柴谷は他人事のようにへらへらしている。

 少しムッとしながら哲也が続ける。


「声が聞こえたから刺したって乱暴すぎませんか? 」

「えへへっ、確かにな、でもさ、神様の命令だから仕方無いよな、でも神様が守ってくれたから刑務所に入らなくて済んだんだ」

「でもここに入院させられたじゃないですか」


 責めるように言う哲也を柴谷が口元に厭な笑みを浮かべながら見つめる。


「俺が失敗したからさ……あいつを殺せなかったから仕方無いよ、殺してたら大丈夫だったって神様が言ってるからな」

「大丈夫って…… 」


 哲也が言葉を止めた。話の途中から柴谷の目が虚ろになっているのに気付いた。

 その柴谷の虚ろな目が哲也の右肩をじっと見ている。

 哲也がバッと仰け反るように左側に身を逸らす。


『我を信じよ……我を崇めよ』


 囁きが聞こえた。右耳の直ぐ傍、ハァ~っと言う息遣いと共に確かに聞こえた。


「なっ……ん」


 驚いた顔で辺りを探す哲也を見て柴谷がニヤつきながら口を開く、


「哲也くん良かったな、神様が気に入ってくれてるよ」

「ちょっ……止めてくださいよ、悪い冗談ですよ」


 引き攣った作り笑いをしながら哲也が立ち上がる。


「すみません、見回りがありますので…… 」

「そうかい、じゃぁまた。話しが聞きたくなったら何時でも来ていいからね、神様が気に入った哲也くんなら俺も歓迎するよ」


 ベッドに座ったままニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる柴谷から逃げるようにして哲也は部屋を出て行った。

 長い廊下を歩きながら哲也が右耳を擦る。


「確かに聞こえた……我を信じよって………… 」


 先程聞こえた囁き声を思い出してブルッと震える。


「神様が人を刺せって、殺せって言うのかよ」


 冗談じゃない、得体の知れないものに憑かれてたまるかよ……、柴谷に近付くのは止めようと哲也は思った。



 哲也は柴谷たちギャンブル仲間がたむろしている場所には近付かなくなった。レクリエーション室でテレビを見るのも止めた。代わりに警備員控え室に置いてある32型のテレビを見るようになった。揉め事の仲裁や見回りなどを真面目にする哲也の事を認めてくれて本物の警備員たちも仲間のように接してくれているので控え室にも自由に出入り可能だ。

 見回り以外でC棟には行かなくして旨く避けていた事もあり5日ほどは柴谷に会わなかった。



 入院患者が夕食をとっている間に夕方の見回りがある。

 この時間帯は警備員も看護師も忙しい、決まった時間に食事を取るのを嫌がる患者をなだめすかして食べさせたり食事の取り合いをしないように見張るだけでも大変だ。患者がいない間に病室を掃除したりシーツを替える業者もやってくる。哲也たち警備員も徘徊している患者を食堂に連れて行くなどは日常茶飯事である。


「あ~腹減った」


 見回りを終えた哲也が少し遅い夕食をとりに食堂へと向かう、夕食は見回り前に済ませる事もあれば今日みたいに後になる事もある。その日次第なのだ。


「嶺弥さんたちもこのドラマ見てるな……あのタレント嫌いなんだよな、今日は控え室止めて部屋のテレビで我慢するか」


 食堂のテレビを見ながら哲也が呟いた。

 哲也の個室にもテレビは置いてあるが19インチの小さい物なので映画やドキュメンタリーはレクリエーション室や警備員控え室の大きなテレビで見るようにしているのだ。


 夕食を済ませて自室に戻ろうとした哲也の耳に騒ぎが聞こえてくる。


「レクリエーション室だ。また暴れてるのかよ、今度は誰だ」


 哲也が駆け付けると柴谷が騒いでいた。


「お前を! お前を殺せばここから出られるんだ……勝ち組になって遊んで暮らせるんだ。お前を殺せば………… 」


 柴谷は丸めた雑誌を手に持つとギャンブル仲間の一人に殴り掛かっていた。


「ひぃぃ~~、止めてくれ、柴谷さん」


 ギャンブル仲間の下川が頭を庇うようにその場に蹲っている。

 もう1人の仲間はビビっているのか何が起ったのか把握出来ていないのか呆然と見ているだけだ。


「お前を、お前を殺せば……神様が殺せって囁くんだ。お前を!! 」


 近くにいた看護師の東條香織が止めようと必死で柴谷の腕にしがみつく、


「止めて柴谷さん! 止めてください」


 香織の他には看護師も警備員もいない、今哲也が駆け付けたところだ。


「邪魔するな!! 」


 柴谷が持っていた雑誌で香織を殴りつけた。


「きゃあぁ~~ 」

「香織さん!! 」


 悲鳴を上げて倒れる香織を見て哲也が切れた。


「何してんだ! 」


 哲也は横から渋谷の腕を捻り上げて持っていた雑誌を奪い取った。


「柴谷止めろ! 何考えてんだ」

「放せ!! こいつを殺せば俺は自由になるんだ! 神様が言ったんだ! 聞こえたんだお告げが、こいつが俺の邪魔をするって、聞こえたんだ」


 暴れる柴谷をどうにか取り押さえようとするが哲也1人では無理だ。


「哲也くん」


 香織が起き上がると哲也の反対側から柴谷を押さえ付ける。


「柴谷さん止めなさい」

「いいから落ち着け、こんな事をすれば隔離病棟行きだぞ」


 香織と哲也が左右から柴谷を叱責する。


「かっ、隔離病棟…… 」


 暴れていた柴谷から力が抜けていく、腕を掴んで押さえ付ける哲也の向かいで香織が続ける。


「落ち着きましたか柴谷さん」


 優しく声を掛ける香織に虚ろな目をした柴谷が無言で頷いた。

 騒ぎを聞きつけて看護師数名が駆け付けてきた。


「東條さん、何がありました? 」

「喧嘩みたいです。もう落ち着きましたよ」


 すっかりおとなしくなった柴谷を任せると香織が下川に声を掛ける。


「下川さん大丈夫ですか? 一応検査しましょう」


 支えるように下川を立たせると香織が振り返る。


「哲也くんありがとう、助かったわ」


 反対側から下川を支えながら哲也が歩き出す。


「うん、間に合ってよかったよ、でも香織さん一人で喧嘩を止めるのはダメだよ、誰か呼ばないと……怪我したら大変だからね」


 嬉しそうに照れる哲也が香織と一緒に下川を治療に連れて行く、


「柴谷さんが急に暴れ出したから……そうね、今度から気を付けるわ、ありがとう哲也くん、本当に頼りになるわね」

「一応警備員ですからね、それで喧嘩の原因は何なんです? 」


 照れを誤魔化すように哲也が訊くと香織が下川を見つめた。


「急に暴れ出したように見えたけど何があったの? 」

「俺は何もしてない、柴谷さんが急に殴り掛かってきたんだ。殺すとか言って…… 」


 殴られて左目を腫らした下川が分からないというように首を振った。


 それまでおとなしくテレビを見ていた柴谷が急に殴り掛かったのだという、雑誌とはいえ丸めれば棍棒になる。大の男が本気で殴り掛かれば凶器だ。不意を衝かれた下川さんは反撃も逃げる事も出来ずにしゃがんで頭を守るので精一杯だ。


 幸い下川は左目を腫らせただけで済んだ。視力も異常は無い。話し合いの結果、柴谷が見舞金を出す事で収まった。表沙汰にしたくない病院の思惑もあり今回は柴谷にもお咎め無しとなる。



 厄介な相手だと益々避けるようになっていたが3日ほどして柴谷の方から哲也の部屋を訪ねてきた。


「哲也くん、話があるんだ少しいいかな」


 柴谷がドアをノックする。

 流石に居留守を使うわけにも行かず哲也が顔を出す。


「はい、何でしょうか? 」

「嫌だなぁ、俺と哲也くんの仲だろ、他人行儀は止めてくれよ」


 相変わらす馴れ馴れしい柴谷にムッとするが邪険に扱って刺されでもしたら困るので哲也は苦笑いしながら部屋に入れた。


「じゃあ、中で話しましょうか」

「お菓子持ってきたよ、コーラもあるからさ」


 遠慮なく入ってくると柴谷はテーブルの上にお菓子を広げて勝手に椅子に座った。


「今日は良い話しを持ってきたんだ」

「良い話しですか? 」


 競馬か競輪の予想でも教えてくれるのかと向かいの椅子に哲也が座る。


「うん、とても良い話しだよ」


 柴谷がニヤッとあの気味の悪い笑みを見せた。


「今朝起きたらさ、囁きが聞こえたんだ。神様がね、仲間が欲しいって言うんだ」

「仲間? 何の仲間です」


 顔を顰める哲也の向かいで柴谷がニヤニヤしながら続ける。


「いやだなぁ、とぼけてさ、神様を祀る仲間だよ、信者の事だよ、俺の他にも信者が欲しいって言うんだ」

「はぁ信者ですか…… 」


 ヤバいと思った哲也が気の抜けた声で返す。

 柴谷がテーブルの上に身を乗り出す。


「それでね、哲也くんを誘いに来たんだ。哲也くんなら神様も気に入ってくれるよ」


 小さなテーブルだ。柴谷の顔が直ぐ傍にある。


「いや、僕はそういうのには興味無いんで…… 」


 断ろうとした哲也にお構いなしに柴谷が捲し立てる。


「興味とか関係ないからさ、神様だよ、お狐様を貰えば勝ち組になれるんだよ、こんなチャンス滅多にないよ、哲也くんは見込みがあるから話してるんだよ」

「まぁ、その話は置いといて下川さんにはちゃんと謝ったんですか? 何で喧嘩したんですあんなに仲良かったじゃないですか」


 いつの間にか柴谷の目が虚ろになっている。哲也は話を逸らそうと先日の喧嘩の事を持ち出した。


「ああ……あれか、あれは喧嘩じゃないよ、お告げだからさ、仕方無いよね」

「お告げって、喧嘩じゃないって恨みも無いのに下川さんに怪我させたんですか」


 責めるように言う哲也を見て虚ろな目をした柴谷が口を横ににぃーっと広げて不気味に笑う、


「えへへっ、そうだよ、下川には恨みなんて無いよ、でもね、囁きが聞こえたんだ。こいつを殺せって……下川を殺せばここから、この病院から出られるって神様が言うんだ。前みたいにギャンブルで買って何でも好きな事ができる生活に戻れるって……勝ち組に戻れるって、それで殺そうとしたけど哲也くんに止められて…………まぁその事はもういいんだ。それよりさ、哲也くんも俺の仲間に入ろうよ」


 何の反省もしていないようなへらへらした態度で柴谷が言った。

 相手は精神疾患の患者だ。哲也は怒りをぐっと堪えて諭すように話し掛ける。


「神様のお告げも分かるけど柴谷さんはやり過ぎですよ、左目の腫れだけで済んだとはいえ行き成り殴り掛かられた下川さんはショックでまだ寝込んでるんですよ」

「仕方無いよ、神様のお告げだからさ、囁きの通りにすれば勝ち組になれるんだよ、だからさ、哲也くんも仲間になろうよ、他の奴らなんて放って置けばいいよ」


 身勝手な言い分に哲也が声を荒げる。


「入りません! 人を殺せって言う神様なんておかしいでしょ」

「えへへへっ、そう怒るなよ、哲也くんは見込みがある。神様を、お狐様を貰わないか? ギャンブルに勝つだけじゃなくて守ってくれるよ、守り神なんだよ」


 哲也の怒りなど意に介せずに柴谷はへらへら笑いながら虚ろな目でじっと見つめる。


「勝てるようになるのに……勝ち組になれるのに…… 」


 ぶつぶつと呟く柴谷の肩に白い靄が纏わり付くのが見えた。

 その白い靄がすぅーっと飛んできた。直後、右耳の直ぐ傍で囁きが聞こえてきた。


『我を崇めよ、願いを叶えてやるぞ』


 哲也がビクッとして身を逸らせる。


「なっ………… 」

「哲也くん、聞こえたね」


 向かいで柴谷がにぃーっと厭な笑みを見せた。


「神様だよ、囁きを信じるんだ。そうすれば俺みたいに勝ち組になれる」

「聞こえません、僕には何も聞こえませんから」


 必死に否定した。哲也には何か邪な声に思えたからだ。

 厭な笑いを放ちながら柴谷が立ち上がる。


「ふへっ、ふへへへっ、まぁいいさ、哲也くんは見込みがあるんだ。俺みたいに神様に気に入られるよ、チャンスだからね、考えておいてね」

「いりませんから! 僕は神様なんて……そんな神様なんていりませんから」


 強張った顔で断る哲也を気にした風もなく柴谷は笑いながら部屋を出て行った。

 20分も話していないのにどっと疲れが出た。

 哲也はベッドに寝っ転がると一人呟く、


「あんな風に聞こえてたのか……厭な感じだ」


 言っちゃ悪いがとても神様の声には聞こえない邪な声だと思った。

 ブルッと背を震わせると哲也は毛布に潜り込んだ。



 その日の深夜、哲也が見回りでC棟へと入っていく、


「さっさと済まそう」


 哲也が階段を早足で上がっていった。柴谷の部屋があるC棟には近寄らないようにしていたが見回りは仕事なので仕方がない。

 始めに一番上の階まで上がって一階ずつ長い廊下を見回りながら下っていく、柴谷の部屋である611号室の前を通り過ぎる。


『我は願いを叶えたぞ、約束通り命は貰う』


 囁きが聞こえて哲也がバッと振り返る。


「なん!? 」


 柴谷の病室から白い犬のようなものが出てきて廊下の窓から消えていった。

 窓には転落防止の柵が打ち付けてある。それを通り抜けて消えたのだ。


「あれは……狐か? 」


 慌てて駆け寄るが既に何も居なかった。

 確かに見た。細い白い体に太い尻尾、一瞬見えた顔に赤い目が光っていた。神社に祀られている白狐とそっくりだと哲也は思った。


「約束通りって…… 」


 哲也が慌てて柴谷の部屋に入っていく、


「 ……よかった」


 ベッドでいびきをかいている柴谷を見てほっと息をつく、嫌なヤツだが神様だか何だか知らないものに殺されていいわけがない。

 起こさないようにそっと部屋を出ると見回りを再開した。



 翌日事件が起きた。

 診察中に柴谷が窓から飛び降りたのだ。プールに飛び込むように落ちたので2階だったが頭を打ち、首の骨を折って亡くなった。

 先生方が圧迫感を感じるという事で患者が自由に出入り出来ない診療室の窓には鉄格子が付いていなかった。

 先生の隙を付いて柴谷は飛び降りたのだ。


 騒ぎを聞いて駆け付けた哲也は真っ青になっている看護師の東條香織から話しを聞いた。


『飛べばいいんですね、ここから外へ出れるんですね、俺は勝ち組だ。ギャンブルで勝って大金持ちだ』


 柴谷は大声で叫ぶように言いながら飛び降りたのだという、


「慌てて窓に駆け寄ったら地面に倒れた柴谷さんの首が曲がってて、それで……それで何か白い物が巻き付いててスーッと消えていったような気がするの」


 話しの最後に香織が震えながら付け足した。


「見間違いだよ、光の加減で見えただけだよ」


 哲也が態と明るく言った。神様などと言えば動揺するだろう、得体の知れないものが香織に害を成すかも知れない、見間違いと思って忘れる方がいいのだ。


「 ……そうね、有り得ないわよね」

「そうですよ、僕なんて深夜見回りしてたらしょっちゅう見間違えてビビりまくってますから、お化けが出たぁ~って言って嶺弥さんに泣き付いた事もあるからね」


 戯ける哲也を見て香織の顔に赤みが戻る。


「あはははっ、哲也くんらしいわね、そうね見間違いよね」


 笑顔になると香織は仕事に戻っていった。


「柴谷さん……やっぱ僕は遠慮しときます。そんな神様なんていりませんよ」


 警察が来て現場検証を行っているのを見ながら哲也が呟いた。

 この事件の後、診察室の窓にも鉄格子が付けられたのは言うまでもない。



 柴谷の次に自分に憑いてくればどうしようかと焦ったが幸いなことに事件から数日経つが神様とやらの囁きは聞こえてこない。


 柴谷は勝ち組に拘っていた。努力もせずにギャンブルに勝って、楽をして勝ち組になりたいと、そこを邪なものに付け込まれたのだろう。

 哲也は思う、守っていたのではなく操っていたのだと、信じ込ませるためにギャンブルの勝ちを教えたのだ。人を襲わせたのは柴谷がどれ程信じきっているのかを確認するためだったのではないか? 盲目的に信用するようになった頃合いを見計らって自殺へと追い込んだのではないだろうか? だとしたら柴谷に憑いていたのは何者だろうか? 

 ギャンブルの勝ち負けがわかるほどの力を持っていたのは確かだろう、神様というのも本当かも知れない、しかし、こんな神様は御免だと哲也は思った。


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