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第二十八話 迷子

 迷子とは読んで字の如く迷った子供という意味だ。親や友達などの連れとはぐれた子供ということである。

 幼子は方向感覚も未発達で出歩いた経験も少なく対処法を知らないので親から少し離れただけでも迷ってしまう、良くある出来事だったので迷子という言葉が作られたのだ。使い勝手が良いからか他に充てる字も無いからなのか、そのうち年齢関係なく仲間とはぐれた者を迷子と呼ぶようになった。


 携帯電話などの通信手段が発達した現在では大人の迷子は殆ど見掛けなくなったが幼児の迷子は今でも時々見る。ショッピングモールや大型アミューズメント施設などでは迷子センターに駆け込む親がちょくちょくいるのだ。


 昔は道に迷って泣いている子供がいれば近くの大人が声を掛けたものだが昨今では見て見ぬ振りをする大人も多くなった。何かあれば直ぐに不審者と疑われる世の中なので仕方のないことだ。


 哲也も迷子の子供を助けようとした人を知っている。若いのに珍しい、優しい人だと思った。偶然見つけた迷子を助けようとしたその優しさに怪異が忍び寄る。これはそんな話しだ。



 お昼過ぎ、腹ごなしに散歩していた哲也は遊歩道の向こうにいる看護師の早坂と女性患者を見つけた。


「早坂さんだ。あのひとは知らないな、新しく入ってきた患者かな」


 離れているのでハッキリとは見えないが背丈から若い女性に見える。


「ここからじゃ顔が見れないや、よしっ」


 散歩している振りをして哲也が近付いていく、


「あっ、早坂さん、こんにちは」


 傍から見ても白々しい挨拶をする哲也を早坂が怪訝な顔で見つめる。


「はい、こんにちは、じゃあ、さようなら」


 気持ちの一切籠もっていない声で言いながら早坂が女性患者の手を引いてその場から離れようとする。


「ちょっ! 待ってくださいよぉ~ 」


 慌てて2人の前へ出ると哲也が続ける。


「せめて紹介くらいしてくださいよぉ」


 情けない声を出して哲也が食い下がる。

 早坂の隣りにいる女性患者は可愛かった。それだけではない、女子高校生と言ってもいいくらいに若かった。気の多い哲也は一目で惚れた様子だ。


「はいはい…… 」


 呆れ顔で溜息をつくと早坂が隣の女性患者を紹介してくれた。


浅井芳佳あさいよしかさん、哲也さんより一つ下よ」


 若く見えて当然だ。哲也が19歳だから浅井は18歳だ。


「中田哲也です。哲也って呼んでください、警備員です。見回りもしてるので何かあれば気軽に声を掛けてください」


 嬉しそうに自己紹介をする哲也を早坂がじとーっと軽蔑した目で見つめている。


「浅井です。よろしく」


 無表情の浅井がペコッと頭を下げた。取り敢えずという感じで素っ気ない。

 それを見ていた早坂が笑いを堪えるように口を開く、


「浅井さん、行きましょうか」

「はい」


 浅井は哲也に見せた顔とは全く違う可愛い笑みで返事をすると早坂と一緒に歩き出す。


「ちょっ…… 」

「哲也さん、散歩の途中でしょ? 天気良いからたっぷり歩くといいわよ」


 慌てて追い掛けようとした哲也に早坂が意地悪顔で手を振った。


「そっ、そんなぁ…… 」


 哲也は情けない声を上げながら去って行く2人を物欲しそうに見つめた。


「余りしつこくして嫌われたら元も子もないし………… 」


 どうにかして浅井と仲良くなる方法は無いかと考えていると奇妙なものが見えた。


「子供? 男の子だ」


 40メートルも離れただろうか、2人の周りを嬉しそうに歩く男の子がいた。小学校へ上がる前といった様子の男の子だ。


「幽霊か……水子にしては大きすぎるな」


 以前見た水子の霊を思い出して、もしやと思ったが男の子は6歳くらいだ。幾ら何でも浅井の水子霊とは考えられない。


「何なんだろうな? 悪い霊じゃないといいけど」


 満面の笑みを湛えて2人の周りを飛び跳ねるようにして歩いている男の子は悪いものには見えないが哲也は何とも言えない不安のようなものを感じていた。


「あっ、消えた…… 」


 C棟の前で男の子がパッと消えた。早坂と浅井には見えていないのか何事も無かったように建物へと入っていく、


「気になるなぁ……男の子が誰なのかだけでもハッキリさせよう」


 哲也は2人を追ってC棟へと入っていった。



 C棟の1階、ナースステーション近くの窓辺で哲也は待った。7分ほどして早坂がやって来る。


「早坂さぁん」


 笑顔で近付いてくる哲也に早坂があからさまに嫌そうな顔を向ける。


「何も教えないからね」

「そっ、そんなぁ~ 」


 情けない声を出した後、哲也がニヤッと不敵に笑う、


「嶺弥さんの誕生日、もう直ぐなの知ってます? 」


 早坂がガバッと哲也の両肩を掴んだ。


「本当なの? 須賀さんの誕生日」

「痛てて…… 」


 よろけて後ろの壁にぶつかった哲也が悪い顔で話し出す。


「本当っすよ、誕生日も仕事だって言ってケーキでも買ってくるから一緒に食べようって嶺弥さんに誘われたっす」


 早坂の表情が一瞬で崩れた。


「須賀さんの誕生日……一緒にケーキ………… 」


 羨ましさを通り越して憧れるような目付きで呟く早坂の前で哲也が続ける。


「早坂さんも一緒にケーキ食べませんか? 僕が嶺弥さんに旨く言いますよ」


 早坂がバッと顔を上げた。


「食べる! 頼むわ哲也さん」


 即答だ。目がマジで少し怖いと思いながら哲也はニヤッと含み笑いだ。


「じゃあ決まりっす。その代わり…… 」


 哲也の両肩を掴んでいた手を早坂がサッと離した。


「わかったわよ、でも私から聞いたって言わないでよ」


 辺りを見回して他の看護師がいないのを確かめた上で早坂が話しをしてくれた。


 浅井芳佳あさいよしか18歳、男の子の幽霊に付き纏われていると妄想して怯え錯乱するので両親が入院させた。妄想型の統合失調症だと診断されて暫く様子を見ようという事で磯山病院も入院を認めたのだ。


「幽霊の話しとか詳しくは知らないわよ、浅井さんの部屋はここの412号室よ」


 どうせ聞きに行くんでしょ? と言った顔で早坂が最後に付け足した。


「それで須賀さんの誕生日は? 」


 そわそわしながら早坂が期待の目を哲也に向ける。


「嶺弥さんの誕生日は来月の15日っすよ、それでケーキ買ってくるから一緒に食べようって誘ってくれたっす」

「15日か……確か来月の15日は日勤だわ」


 一瞬残念そうに顔を顰めたが直ぐにパッと明るく代わる。


「今からなら誰かと夜勤代われるわね、ケーキは夜に食べるんでしょ? 」

「流石早坂さん、頭の回転速いっす。見回り終った後だから夜の11時くらいに僕の部屋で食べるっす」


 感心した様子で話す哲也の向かいで早坂の目がキラッと光る。


「哲也さんの部屋ってことは須賀さんと哲也さんと2人だけ? 」

「そうっすよ、2人だけって予定だけど早坂さんも一緒に食べられるように旨く言っておきますよ、日頃世話になってるって言えば嶺弥さん承知してくれるっす」


 早坂の顔にパァ~ッと笑みが広がっていく、


「須賀さんと2人だけで……誕生日いいなぁ~~ 」


 うっとりとして自分の世界に浸る早坂を見て哲也が顔を顰める。


「僕もいるっす。って言うか僕の部屋だから」


 自身を指差す哲也に早坂が意地悪顔を向けた。


「哲也さんは部屋の隅にでも固まっててくれると嬉しいんだけどなぁ」

「ひっ、酷いっす。あからさまに邪魔者扱いっす」


 哲也の弱り顔を見て早坂が声を出して笑い出す。


「あはははっ、冗談よ冗談、楽しみにしておくわね、須賀さん何をプレゼントされたら嬉しいのかも訊いておいて頂戴ね」

「了解っす。但しプレゼントの件は貸しにしておくっすよ」


 敬礼しながら哲也がニヤッと笑った。


「ちゃっかりしてるわね、わかったわ、それでいいから頼んだわよ」


 呆れ顔でナースステーションへと戻っていく早坂を哲也が笑顔で見送った。



 哲也が階段へと歩いて行く、


「嶺弥さんには悪いけど早坂さんから聞き出すにはこれが一番確実だからな、プレゼントのことで貸しも出来そうだし…… 」


 少しも悪いと思っていない笑顔で哲也が階段を上がっていった。今は浅井のことで頭がいっぱいだ。


「412号室っと」


 ドア横のネームプレートを確認してからノックする。


「浅井さん、少しいいですか? 」

「はい」


 返事と共にドアを少し開けて浅井が顔を見せた。


「さっきは済みません」


 頭だけを動かしてペコッと礼をする哲也を浅井が怪訝な顔で見つめる。


「何か用ですか? 」


 素っ気ない態度に臆することもなく哲也が笑みを作って口を開く、


「警備員の哲也です。浅井さんに話しを聞きたくて…… 」

「話し? 何の話しですか? 」


 怪訝な顔で聞き返す浅井の向かいで哲也がにこやかに続ける。


「男の子の幽霊の話しです。僕に出来ることがあれば力になりますから話しを聞かせてください」

「 ……誰に聞いたか知らないけどバカにしに来たのね、帰ってください」


 不機嫌な顔で閉めようとするドアを哲也が掴んで止めた。


「バカになんてしません、僕は浅井さんが心配になったから…… 」

「帰ってください! 看護師さん呼びますよ!! 」


 怒鳴る浅井の前で哲也が真摯に話し出す。


「見たんです。さっき男の子の幽霊が浅井さんの周りにいるのを」

「嘘つかないで頂戴、そんな事言っても無駄よ、帰ってください」


 バカにされたと思ったのか更に険しく顔を顰める浅井に哲也が必死で話し掛ける。


「本当に見たんだ。黄色のシャツに緑色のズボンを穿いてた。それから……手に何か持ってた……紐……と言うよりロープかな? 泥で真っ黒に汚れてたから縄跳びか何か持ってたのかな」


 話しを聞いた浅井の顔から血の気が引いていく、


「ほっ、本当に見たの? 」

「マジです。だから気になって来たんですよ」


 力も抜けたのか押さえていたドアがスッと開いた。

 真剣な表情で見つめる哲也の前で浅井が独り言のように話し出す。


「服のことなんか誰にも話してない……うん、服のことは誰かに話したかも知れないけど手に持ってるロープのことなんて絶対に話してない」


 目を伏せて考えていた浅井がサッと顔を上げた。


「本当に見たのね……幽霊よ、あの幽霊が私に付き纏ってるのよ」


 浅井の顔に先程までの険が無い、黙って頷いてから哲也が続ける。


「建物に入る前にパッと消えたから幽霊なのはわかってますよ、僕も幽霊は時々見ますから、だから気になって……何か力になれることがあるかも知れないって思ったから来たんですけど邪魔だったら帰ります」


 ドアを閉めようとした哲也の腕を浅井が引っ張った。


「邪魔じゃない! お願い助けて! 」


 縋るようにして頼む浅井の手を哲也が握った。


「話しを聞かせてください、僕に出来ることがあれば何でもしますから」

「わかった。全部話すわ」


 腕を引っ張られて哲也が部屋の中へと入っていく、


「適当に座って……お茶しかないけど」


 小さなテーブルを囲むように置いてあった円椅子に哲也が座ると浅井が紙コップにお茶を注いでくれた。


「ありがとう、気を使わなくてもいいよ」

「警備員の哲也さんだったよね」


 哲也が微笑みながらこたえると自分の分のお茶を持って浅井が向かいに座った。


「うん、中田哲也、中田ってのは先生に居るから僕は哲也って呼ばれてる」

「そうなんだ……それで、私を助けてくれるよね? 」


 哲也の素性には興味は無いのか素っ気なく流すと浅井が身を乗り出すように訊いた。


「助けられるかどうかはわからないよ。でも浅井さんを助けたいって思ってる。力になりたいって思ったから来たんだ。だから話しを聞かせてよ」


 少し我儘っぽいのかなと思いながら哲也がこたえた。


「わかった。2ヶ月ほど前の事なの…… 」


 座り直すと浅井が話を始めた。

 これは浅井芳佳あさいよしかさんが教えてくれた話しだ。



 浅井は地方都市に住んでいた。都市と言っても所々に田畑が残っている田舎町だ。大きなショッピングモールにドラッグストア、ホームセンターなどはもちろん、病院もあるし交通機関も整っていて適度に住みやすい町である。

 浅井は両親と弟の家族4人で暮らしている。弟は中学生だ。家は一般的な2階建ての建売住宅でまだ少しローンが残っている。

 高校を卒業した浅井はペットのトリミング専門学校へ通っていた。将来トリマーになるつもりだ。学費は親に出して貰っていたが小遣いは貰っていない、そのため週3日のアルバイトをしている。


 ある日、バイトへ行こうと自転車を漕いでいると泣きながら歩いている男の子を見つけた。幼稚園の年長組と言った感じの男の子は黄色のシャツに深緑のズボンを穿いている。手には縄跳びらしいロープのような物を持っていた。

 犬や猫が好きで優しい浅井が泣いている男の子を放っておけるはずがない、その場で降りると自転車を手で引きながら近付いた。


「ボク、どうしたの? 転んだの? お母さんは? 」


 お母さんという言葉に反応して男の子が大声で泣き出した。


「わぁあぁ~~ん、まっ、ママが……ママが…… 」


 バイトまでまだ時間もあったので声を掛けるとどうやら迷子になったらしい、母とはぐれて泣きながら探していたのだ。


「ママとはぐれちゃったのね……お母さん、じゃない、ママはどっちに行ったか分かる? 」

「ひっ、ひっく、ひっく、ママが……ママが…………わぁあぁ~ん」


 男の子は泣きじゃくるだけで要領を得ない、6歳くらいの子供なので仕方がない。


「どうしよう…… 」


 浅井は助けを求めるように辺りを見回す。

 今居る場所はショッピングモールやドラッグストアなどが並ぶ道の近くだ。それなりに人通りも多いが泣きじゃくる男の子に誰も関心を示さない。


「困ったなぁ」


 弱り顔で浅井が呟く、買い物に来てはぐれたのだと思ったがバイトがあるので一緒に探すことなど出来ない。


「うぅ……ひっく、ひっく、うぅ……お姉ちゃん一緒に探して……ねぇ、お姉ちゃん、ママを探して」


 男の子がしゃくり上げ泣きながら一緒に探してくれと頼む、


「ごめんね、お姉ちゃん用事があるのよ」


 どうしようか悩んでいる浅井の目に森が見えた。

 道の反対側にある森だ。私有地なのか柵が囲ってあって浅井は入ったことはないが夏になれば虫取りに子供だけでなく大人もちょくちょく入っていく程には大きな森だ。


「そうだ! お巡りさん」


 森の向こう側に交番があったのを思い出した。


「ボク、お巡りさんの所へ行こう、ママを探してくれるよ」


 男の子が浅井を見上げる。


「一緒に……一緒に探してくれるの? 」

「私じゃなくてお巡りさんが探してくれるよ、だから向こうまで行こう、交番があるから直ぐにお巡りさんがママを探してくれるよ」


 浅井は男の子を自転車の後ろに乗せて交番へと向かった。自転車ならゆっくり漕いでも5分くらいで付く距離だ。


「ママは……ママ……お姉ちゃんも一緒に探してくれるよね? 」

「ごめんねぇ、お姉ちゃん仕事があるんだ。お巡りさんが探してくれるから心配無いよ」

「ママ……お姉ちゃんは一緒に探してくれないの? 」

「うん、お姉ちゃん忙しいんだ。ママはお巡りさんが探してくれるよ」


 男の子に声を掛けながら自転車を漕いでいく、男の子は一緒にママを探してとせがむが浅井はバイトだ。


『なんだぁ~、お姉ちゃんは一緒に探してくれないのかぁ~~ 』


 今までの可愛らしい幼児の声と違う低い掠れた男の声に浅井が思わず自転車を止めた。

 同時に後ろがフッと軽くなる。バッと振り返ると男の子が消えていた。


「ボク? ボクぅ~~、どこ行ったのぉ~~ 」


 呼びかけながら探すが男の子は何処にもいない。


「どこ行ったのかな? どうしたら…… 」


 何処かに隠れたのかと思ったが探すにも時間は無い。


「お巡りさんに話しとくか」


 警察官に迷子の事を話そうと交番に行くが誰も居なかったので仕方なく、そのままバイトへと行った。



 3日後、バイトへ行くために自転車を漕いでいると泣いている男の子を見つけた。


「マジか? 」


 もしやと思いながら浅井が近付いていく、黄色のシャツに深緑のズボン、手には縄跳びらしいロープのような物を持っていた。間違いない、以前見た男の子だ。


「ボク、何で泣いてるの? 」


 自転車から降りると男の子に声を掛けた。


「うぅ、ひぅっ、ひっく、ひっく、ママが……ママが…… 」


 しゃくり上げながら男の子が浅井を見上げた。


「ママが……ママがいないから…………ママぁ~~、ママぁ~~ 」


 どうやらまた迷子になったらしい、声を掛けてくれた浅井を見て安心したのか大声で泣き出した。


「迷子か……今日もバイトだしなぁ」


 どうしようか迷っている浅井の手を男の子が掴んだ。


「お姉ちゃん、ママを探して……ねぇ、お姉ちゃん、ママを探してくれるよね」


 目に涙を溜めて訴えかける男の子を浅井が見つめる。


「ごめんね、お姉ちゃん今日も忙しいんだ。それよりボク、この前どうしたの? お巡りさんの所に行く前にいなくなったでしょ」


 弱り顔で話す浅井の前で男の子がニタリと厭な顔で笑った。


「えへへぇ……あれは……ママがいたからぁ」


 男の子の態度に不穏なものを感じたが母親がいたと聞いて浅井が驚いて聞き返す。


「ママがいたの? 」

「うん、道の向こうにいたから……それで走って行ったの」


 大きく頷いてこたえる男の子を見て浅井が何とも言えない表情になる。


「そっか……それならいいけど」


 無事に母親に会えたのかと安堵する一方で自分に何も言わなかった男の子に少し腹を立てたが迷子をそのままにはしておけない。


「お姉ちゃん、ママを一緒に探してよ、ねぇ、お姉ちゃん」


 男の子が泣き腫らした目で浅井を見上げて頼んだ。


「ごめんね、お姉ちゃんアルバイトがあるんだ。お巡りさんの所までなら送ってあげるからさ、お巡りさんならママを探してくれるよ」


 弱り切った顔でこたえる浅井の手を男の子が引っ張った。


「お姉ちゃんは一緒に探してくれないの? 」

「ごめんね、お姉ちゃんは一緒に探せないのよ」


 浅井が断ると男の子の顔が崩れていく、


「うぅ……ママ……ママぁ~~、ママが……ママが……ママぁ~~ 」

「迷子なのよね、迷子、お巡りさんの所に行こうね、向こうに交番あるからね」


 男の子が大声で泣き出した。自分が何かしたと思われると困ると浅井が辺りを見回しながら声を掛ける。


「交番までお姉ちゃんが一緒に行ってあげるからね」


 焦りながら周りを見るが誰一人見ていない、ショッピングモールやドラッグストアなどが並んでいる通りの近くだ。それなりの行き来がある場所なのだ。周りを見ただけでも10人以上が歩いているのが見える。それなのに誰も泣いている男の子に見向きもしていない。


「うわぁあぁ~~ん、ママが……ママが……うわぁぁ~~ん」

「とっ、取り敢えずお巡りさんの所に行こうか」


 泣きじゃくる男の子を自転車の後ろに乗せて森の向こう側にある交番へと向かう、


「お巡りさんにママを探してくれるようにお姉ちゃんが頼んであげるからね」

「ママ……ママぁ~~、お巡りさんじゃなくてお姉ちゃんがいい、お姉ちゃん、一緒にママを探そうよ……ねぇ、お姉ちゃん」


 どうにか宥めながら自転車を漕いでいく、


「お姉ちゃん、今からお仕事あるからね、だから一緒に探せないのよ」

「一緒に探してくれないの? 」

「ごめんね、ほら、交番見えてきたよ、お巡りさんに…… 」


 前に見える交番を指差して話し掛ける浅井の耳元に声が聞こえた。


『今日もダメか、お姉ちゃんは一緒に探してくれないのかぁ~~ 』

「きゃあぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら浅井が自転車を止めた。直ぐ傍で聞こえたのは男の子の声とは違う低く掠れた男の声だ。


「なっ、なんで…… 」


 慌てて振り返ると男の子が消えていた。


「ボクぅ~~、何処に行ったの? ねぇ、ボクぅ~~ 」


 声を大きくして呼びかけるが返事はもちろん男の子は姿も見せない。


「どこ行ったんだ? バイトもあるし…… 」


 この前と同じ状況に浅井が顔を顰める。


「悪戯か……やられた」


 浅井は男の子にからかわれているのだと怒りながら自転車を漕いでバイトへと向かった。



 4日後の日曜日、学校もバイトも休みだ。浅井は買い物でもしようとショッピングモールやドラッグストアなどが並んでいる大通りへと向かった。


「うわぁあぁ~~ん、ママが……ママぁ~~ 」


 自転車を漕いでいると泣いている男の子を見つけた。黄色いシャツに深緑のズボンを穿いて手には縄跳びか何かのロープを持っている。


「また彼奴か…… 」


 服装で前に見た男の子だと一目でわかる。悪戯されたと思っている浅井は男の子を彼奴扱いだ。


「無視だ無視」


 浅井は男の子の前をゆっくりと通り過ぎた。

 次の瞬間、自転車が重くなる。振り返ると男の子が自転車にしがみついて踏ん張っている。


「何やってんの! 危ないでしょ」


 叱る浅井を見て男の子がニタリと厭な顔で笑う、


「お姉ちゃん、ママを探してよ、一緒にママを探そうよ、ねぇねぇ、お姉ちゃん」

「いい加減にしなさい! もう騙されないからね」


 浅井が一喝すると男の子が大声で泣き出す。


「うわぁぁ~~ん、ママが……ママが……うわぁあぁ~~ん」

「手を離しなさい! 」


 自転車を掴む男の子の手を浅井が払い除けた。嘘泣きだと思っているので容赦はしない。


「うぅ……ママぁ~~、お姉ちゃん、一緒に探してよぉ~~ 」

「忙しいから一人で探しなさい」


 浅井が自転車を漕いでいく、後ろで男の子の大きな泣き声が聞こえるが無視だ。



 1時間ほどして買い物を終えた浅井が自転車に乗って帰っていると前の道で泣いている男の子を見つけた。


「まだやってるのか…… 」


 まだ誰かを騙そうとしているのかと呆れたが自分のように騙される人がいるのかと興味も湧いた。


「時間もあるし少し見ていくか」


 男の子から見えないであろう場所に自転車を止めるとスマホを取り出す。スマホを操作している振りをして男の子を観察するのだ。


「ママ……ママぁ……うわぁあぁぁ~~ん」


 男の子は大声で泣きながらフラフラと道を歩いている。何人かが近くを通るがみんな無視だ。


「あんなに泣いてるのに……みんな知ってるんだ」


 まるで見えていないように無視をする人々を見て、男の子が悪戯しているのを知っているのだと浅井は自分だけが騙された事が悔しくなる。


「バカらしい…… 」


 帰ろうかと自転車に跨った浅井の頭に悪い考えが浮んだ。


「このままじゃムカつくな、仕返ししてやる」


 浅井は騙し返してやろうと男の子に近付いた。


「ボク、ママはまだ見つからないの? 」

「お姉ちゃん! 」


 呼びかけると男の子が笑顔で近付いてきた。

 おいおい、ママを探して泣いてたんじゃないのかよ……、呆れながらも浅井が続ける。


「何処でママとはぐれたの? ママがいなくなった場所わかる? 」

「向こうだよ」


 森のある反対側の道を指差しながら男の子が浅井を見上げた。


「一緒に探してあげようか? 」

「ほんとに! 」


 作り笑いをしながら浅井が言うと男の子がパッと顔を明るくした。


「本当だよ、じゃあ、一緒に探そうか」


 一緒にママを探してやると言って男の子と手を繋ぐ、逃げられないようにしたのだ。反対側の手で自転車を引きながら母親を探して歩く、


「こっちだよ、向こうの道でママがいなくなったんだ」


 男の子は先程まで大声で泣いていたとは思えないほど嬉しそうだ。


「向こうか……ボクの家はこの近くなの? 」


 手を繋いで歩きながら浅井が鎌を掛けると男の子が笑顔で今渡っている道路の右を指差した。大きなマンションが並んでいて最近開発が活発な場所だ。


「家はあっちだよ、ずっとあっち」


 家がわかっているのに迷子なんておかしいだろが……、浅井は笑いを堪えるのに必死だ。何処で男の子を叱り付けてやろうかと考えていた。


「こっちだよ、この辺りだよ」


 男の子に手を引かれるままに道路を渡って森の前までやってきた。


「こんな所に何しに来たのかなぁ~、店もないし…… 」


 辺りに人もいないので丁度いいからここで叱り付けてやろうとした時、男の子が浅井の手を振り払った。


「ママだ! ママぁ~~ 」


 叫びながら男の子が森の中へと入っていった。


「こらっ! 待ちなさい」


 反対の手で自転車を押していたので男の子を捕まえることが出来ずに浅井が怒鳴った。


「ここまでされて逃がすか!! 」


 嘘がバレると思って逃げたのだと考えた浅井は自転車に鍵を掛けてその場に停めると森の中へと追い掛けて入っていく、


「待ちなさい、こらっ! 」


 虫取りにでも使っているのか森の中には踏み固められた細い道が出来ていたがそれも10メートル程でその先は藪のようになっている。


「もうっ、汚い……捕まえて叱り付けてやる」


 草を掻き分けるようにして暫く進むと獣道のような細い道の先に男の子の姿がチラチラ見えた。


「待ちなさい! 怒らないから出てきなさい……危ないから」


 騙されたとはいえ6歳くらいの男の子だ。こんな森の中では危ないと心配が先に立った。


「危ないから出てきなさい、戻ってきなさい、怒らないから」


 大声で呼びかけながら進むと開けた場所に出た。


「なに? 家……じゃないわね、小屋かな」


 森の中にぽっかりと空いた空間、その真ん中辺りに半分屋根が朽ち落ちた小屋があった。


「あっ、小屋じゃない、神社だ」


 足下に木で出来た鳥居が倒れていた。どうやら小さな神社らしい、こんな場所に神社があったなんて浅井は知らない、


「なんか怖い…… 」


 浅井が振り返って通ってきた細い道を見つめた。昔は神社へ通じる道だったのだろう、今は獣道のようになっていた。


「ボク、何処なの? 出てきなさい、出てこないならお姉ちゃん帰るからね」


 一刻も早く立ち去りたかったが男の子が気に掛かって一度だけ声を掛けて何もこたえなかったら帰ろうと思った。


『お姉ちゃんこっちだよ』


 男の子の声がして浅井が何処かと辺りを見回す。


『ママを見つけたよ、ママだよ、お姉ちゃん』


 小屋だと思っていた朽ちた社の後ろから声がした。


「どこ? 隠れてないで出てきなさい」


 声を掛けながら浅井が社の後ろへと歩いて行く、


『ここだよぉ……ママだよ、お姉ちゃん』


 男の子がいた。社の後ろ、鬱蒼と生えた木々を指差しながらニタリと厭な顔で笑っている。浅井が釣られるように男の子の指す先を見た。


「あれ…… 」


 一瞬何かわからなかったが息をつく暇もなく口から悲鳴が飛び出した。


「きゃあぁぁ~~、いやぁあぁあぁぁ~~~ 」


 7メートルほど先、木々が茂って影になった所に人がぶら下がっていた。

 長い髪、スカートを穿いた服装から女だとわかる。


『あれがママだよ、お姉ちゃん』


 直ぐ耳元で声が聞こえた。幼い子供の声ではない、低く嗄れた男の声だ。


「いやぁあぁぁ~~ 」


 浅井は逃げ出そうとした足を踏ん張った。


「ボクは……どこなの? ボクぅ~~ 」


 怯えながらも男の子を連れて逃げようと探すが居ない、


「何処に行ったの? 返事をしなさい」


 男の子を探して見たくもない首吊りの方を見る。首を吊っている女の足下に男の子が転がっていた。


「ボク! 何してるの!! 」


 浅井が慌てて声を掛けるが男の子は動かない、それどころか男の子の様子が変だ。半分泥に埋まっている。横を向いた顔が青黒い、小さな羽虫が沢山たかっている。


「ボク…… 」


 男の子も死んでいる。そう思った時、耳元で声がした。


『ねぇ、ママいたでしょ』

「ひぎゃぁあぁぁぁ~~ 」


 絶叫を上げて浅井が逃げ出す。


『お姉ちゃんどこ行くの? 』


 後ろから男の子の声が聞こえるが浅井はお構いなしに朽ちた神社のある敷地から出ていく、


『ねぇ、お姉ちゃん、ボクねぇ、ママに殺されたんだよ』


 獣道のように荒れた道を走る浅井の耳元で男の子の声が聞こえた。


「いやぁあぁぁ~~ 」

『ママはいつも怒るから嫌い、でもお姉ちゃんは優しいから好きだよ』

「ひぃぃ……いやぁあぁぁぁ~~ 」

『ボク、お姉ちゃんが欲しかったんだ。ねぇ、お姉ちゃん、ボクのお姉ちゃんになってよ、ねぇ、お姉ちゃん』


 必死に逃げる浅井の耳元に声が付いて回る。


「やっ、やめっ、止めてぇぇ~~ 」


 形振り構わず逃げていた浅井の足に何かが絡み付く、


「きゃあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げて浅井が転んだ。


『お姉ちゃん、大丈夫ぅ』


 倒れた頭の横に何かの気配がした。反射的に浅井が身を起す。


『ねぇ、お姉ちゃん、ボクのお姉ちゃんになってよ、ねぇ、お姉ちゃんも一緒に死のうよ』


 男の子が土や血で汚れたロープを持ってニタリと笑った。


「ひやぁあぁぁ~~、いやぁあぁあぁぁ~~ 」


 バッと飛び跳ねるように起き上がると浅井は絶叫しながら走り出す。


『ねぇ、お姉ちゃん、一緒に死のうよ、ねぇ』

『死のう、死んだ方がいい、死ねば楽になるぞ、一緒に死んでやれ』

「いやぁあぁぁあぁ~~ 」


 男の子の声だけでなく、低く嗄れた男の声が聞こえたような気がしたが後のことは覚えていない。


 半狂乱になっている浅井を警察官が取り押さえた。いつの間にか森から出て反対側の交番の近くに来ていたのだ。

 警察官の顔を見て少し落ち着いた浅井は森の中で見た首吊り死体のことを話す。直ぐに警察官が確認に行って辺りは大騒ぎとなる。

 暫くして落ち着いた浅井は迷子になっていた男の子のことを話した。警察官は調べると言ってくれ、ショックを受けた様子の浅井は家まで警察が送ってくれた。


 翌日、警察官が訪ねてきて報告してくれた。男の子が居たという道路だけでなくショッピングモールやドラッグストアなどでも聞き込みをしてくれたが誰も迷子の男の子など見ていないと言う、只、何人かが奇妙な話しをしてくれた。自転車に乗った若い女性が誰かに話し掛けているような素振りをしていたらしい、誰も居ない場所に向かってまるで幼児に話し掛けるように一人で話していたのを見たというのだ。


「私一人って……じゃあ、あれは……あの子は……幽霊…………でも見たのよ、自転車に乗せて……手も繋いだのよ……あれは……あの子が………… 」


 話しを聞いて取り乱す浅井に警察官は死体を見たショックで混乱したのだと優しく宥めてくれた。

 森で発見された遺体は育児に疲れた母親が子供を殺してから自殺したのだと報道された。母子家庭で頼る身寄りもなく母親は心を病んでいったらしい。


 警察官が帰った後、一緒に話しを聞いていた芳佳の母が優しく声を掛けてくれた。


「亡くなった男の子が供養して貰いたくて出てきたんだよ、それを見つけてあげたんだ。芳佳は良いことをしたんだよ」

「もっと生きたかったんだよね、私にお姉ちゃんになって欲しいって言ってたよ」


 母の言葉を聞いて浅井は涙ぐみながら頷いた。



 3日ほど経ってバイトを終えた浅井が夜の道を自転車に乗って帰りを急いでいた。


「工事してるの? 昼はしてなかったのに…… 」


 いつも通っている道が工事で片側通行になっていて渋滞が出来ていた。


「ドラマ始まっちゃうよ」


 スマホで時間を確認すると午後の9時前だ。


「向こうの方が早いな」


 浅井が自転車を脇道に入れる。普段なら遠回りになる道だが片側通行の渋滞よりは早いと思ったのだ。


「やだなぁ…… 」


 必死で自転車を漕いでいると森が見えた。事件以降できるだけ近寄らないようにしていたのだが背に腹は代えられない、人気のドラマで見逃したら友達との会話に入っていけないのだ。


「よしっ、行くか」


 気合いを入れるように呟くとペダルを漕ぐ足に力を入れる。全力で立ち漕ぎして通り過ぎる作戦だ。


『お姉ちゃん……ねぇ、お姉ちゃん、ねぇねぇ、お姉ちゃん』


 森の脇を通ると男の子の声が聞こえてきた。


「きゃあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げると浅井は必死に自転車を漕いだ。

 がくんと後ろが重くなってスピードが落ちた。


『ねぇ、お姉ちゃん、ボクのお姉ちゃんになってよ……ねぇ、ボクと一緒に死のうよ、ねぇねぇ、お姉ちゃん』


 声と共に浅井の首に手が伸びてくる。


「いやぁあぁぁ~~ 」


 浅井は自転車を止めると首に掛かる手を振り解こうと飛び降りた。

 よろけて倒れそうになって体勢を整える。下を向いていた浅井の目に運動靴を履いた足が見えた。


『えへへぇぇ……お姉ちゃん、ボクと一緒に行こうよ、ねぇ、お姉ちゃん』


 サッと顔を上げると男の子がニタリと不気味に笑っていた。


「やだ! やだやだ! いやぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げて逃げ出した浅井がパッと照らされる。同時に大きなクラクションの音が聞こえた。大型トラックがやってくるのを見て浅井が慌てて道路の端へと逃げていく、


「あぶっ、あぶなっ、危なかった……危なかったぁ~~ 」


 竦んで声を震わせる浅井の直ぐ傍を大型トラックがクラクションを鳴らしながら通り抜けていった。


『えへへへぇへぇ…………もうちょっとだったのにぃ~~ 』


 口調は子供っぽいが嗄れた低い男の声が聞こえてきた。


「いやっ、いやぁあぁ~~ 」


 浅井が悲鳴を上げながら辺りを見回すが男の子の姿は消えていた。


「にっ、逃げなきゃ…… 」


 倒れた自転車を起すと浅井は必死に漕いで帰っていった。



 家に帰り母親に先程の出来事を話すが見間違いだと相手にされない、父親にも話したが森の近くを通ったことから神経が過敏になって影か何かを見間違えたのだと暫くは森の近くには行かないようにと注意されただけだ。


「お父さんもお母さんも信じてくれない…… 」


 2階にある自室に戻ると浅井は布団に潜って震えていた。


『ねぇ、お姉ちゃん…… 』


 いつの間にか寝入っていたらしい、何か聞こえたような気がして浅井が目を覚ます。


「あっ、あぁ……ドラマ見るの忘れた」


 壁に掛かっている時計を見て浅井が悔しそうに呟いた。時刻は午前の1時前だ。


「ああ……もうっ、腹の立つ…… 」


 ふて腐れて寝返りを打った浅井の目の前に何かいた。


『お姉ちゃん…… 』


 壁から抜け出たように男の子が立っていた。体の後ろ半分が壁の中で足も腰の下からはベッドに潜り込んでいる。黄色いシャツに深緑のズボン、手には縄跳びだろうか? 泥で汚れたロープを持っていた。


「ぴゅぅ……ひぅぅ…… 」


 声にならない浅井の悲鳴が喉を鳴らす。同時に体が痺れたように動かなくなった。


『ねぇ、お姉ちゃん、ママは直ぐに怒るから嫌い、お姉ちゃんは優しいから好き……だからさぁ、ボクのお姉ちゃんになってよ……ねぇ、お姉ちゃん』


 男の子がニタリと不気味に笑いながら言った。幼児のような言葉使いだが明らかに違う、嗄れた大人の男の声だ。


「ひぃぃ……しぃぃ………… 」


 浅井は叫びたいが言葉にならない。


『ねぇ、お姉ちゃん……ボクのお姉ちゃんになってよ……ねぇねぇ、お姉ちゃん……一緒に死のうよ、ねぇ、お姉ちゃん』


 男の子が嗄れ声を出しながら浅井の首に手を伸ばす。

 その時、隣の部屋の引き戸が開く音が聞こえた。廊下にパッと明かりが点く、どうやら弟がトイレにでも起きたのだろう、


「ひぃぃ……きゃあぁあぁぁ~~ 」


 金縛りが解けて浅井が悲鳴を上げた。

 寝惚け眼の弟がバッとドアを開ける。


「姉ちゃんどうした? 」

「おっ、お化けが……子供の幽霊が………… 」


 震える声で指差すが男の子の姿は消えていた。

 1階で寝ていた両親もやって来る。浅井は必死に説明するが寝惚けたのだと相手にされないどころか夜中に大声を出すなと叱られた。


 この日以降、男の子の幽霊が浅井に付き纏う、昼と言わず夜と言わずに出てくる幽霊に浅井は錯乱して暴れるようになっていた。

 心配した両親が近くの心療内科へ浅井を診せると磯山病院を紹介されて入院することになったのだ。

 これが浅井芳佳あさいよしかさんが教えてくれた話しだ。



 長い話しをして喉が渇いたのか浅井が紙コップのお茶を飲み干した。


「黄色のシャツと緑のズボンは警察にも言ったわ、迷子だと思っていたから……でもロープを持っていたってのは誰にも言ってない、私もそんなの気にしてなかったから」


 小さいテーブルの向かいで浅井が身を乗り出すようにして哲也に迫る。


「助けて哲也さん! 幽霊が見えたのは貴方だけなの」


 哲也が任せろというように大きく頷く、


「僕に出来る事は何でもするよ、見えるんだったら話しもできると思う、男の子の幽霊と話しをして浅井さんに取り憑くのは止めてもらうようにするよ」


 お茶を飲もうと哲也が伸ばした手を浅井が掴む、


「ありがとう哲也さん」


 両手で手を包み込むようにして礼を言う浅井の正面で哲也の頬が赤く染まっていく、


「まっ、任せてよ、深夜も見回りしてるから浅井さんの部屋は特に注意して回るよ」


 照れる哲也を見つめていた浅井の顔がフッと曇る。


「でも……でも男の子の幽霊が話しを聞かなかったら…… 」

「大丈夫」


 自分の手を包み込んでいる浅井の手に哲也が反対の手を被せるようにして握った。


「僕は見れるだけじゃなくて幽霊に触れるんだ。今まで何度か触ったことがある。殴ったこともあるからね」

「本当なの? 」


 驚き顔の浅井の向かいで哲也が得意気に話し出す。


「マジだよ、大人の幽霊を殴り倒したんだ。子供の幽霊なんて簡単に殴り倒して浅井さんから引き離してやるよ」

「あ……ありがとう哲也さん」


 小さなテーブル越しに浅井が抱き付いてきた。


「おっ、おぉう! 」


 突然のことに驚く哲也の目にテーブルの上に置いていた紙コップが倒れてお茶が溢れていくのが見えた。


「うぉう! 濡れちゃうよ」


 浅井を抱きかかえるようにして哲也が立ち上がる。


「あぁん! 」


 浅井が可愛い声を出して哲也に抱き付く、


「ちっ、違うから……お茶が溢れて浅井さんが濡れそうになったから………… 」


 必死で言い訳する哲也は顔どころか全身真っ赤だ。


「お茶が? 」


 浅井が振り返るとテーブルの上に溢れたお茶が広がっていた。そのまま居れば浅井は濡れていただろう、


「ありがとう、哲也さん」


 浅井が哲也の頬にキスをした。


「おおぅ…… 」


 哲也は固まったように動けない、抱き付く浅井の柔らかな身体、良い匂いもする。


「私の味方は哲也さんだけよ、誰も信じてくれなかった……お父さんもお母さんも……頼りになるのは哲也さんだけ、お願い、私を助けて」

「まっ、任せてよ、浅井さんのためなら何でもするよ」


 浅井に抱き付かれてぼーっとなって浮かれている哲也は言いなり状態だ。

 その時、ドアが開いて看護師の早坂が顔を見せた。


「浅井さん、もう直ぐお夕食だから…… 」


 夕食の知らせに巡回してきた早坂が抱き合っている哲也と浅井を見つけた。


「てっ、哲也さん! 」


 今まで見たことの無いような早坂の怒り顔に哲也はバッと浅井から離れた。


「ちっ、違う! 違いますから……違うから……早坂さんの思ってるようなことしてませんから」


 哲也が震えながら違うと必死に言い訳だ。

 テーブルを指差しながら浅井が口を開く、


「看護師さん違うんです。躓いて転けそうになって哲也さんが助けてくれたんです」

「そっ、そうなんです……テーブルに躓いて転けそうになってて……お茶が……お茶で濡れそうになったから慌てて抱き寄せたんです」


 冷静な浅井と違い哲也の声が震えている。

 必死で言い訳する哲也と堂々とした浅井を見比べながら早坂が溜息をついた。


「まったく……わかったわ、浅井さんは食堂、哲也さんは見回りがあるでしょ」


 2人の話など信じていない呆れ顔で早坂が言うと哲也が慌ててドアへと向かう、


「浅井さん、僕は見回りがあるから……出来る事はするからね」


 逃げるように哲也は部屋を出て行った。


「出来る事って? 」

「うふふっ、秘密です。哲也さんって優しいですよね」


 怪訝な顔で訊く早坂の向かいで浅井が嬉しそうに笑った。


「まったく……まぁ哲也さんなら大丈夫か、浅井さんはお夕食だからね」


 溜息をつくと早坂も部屋を出て行った。他の患者に夕食を食べに行くように促す巡回の途中だ。



 2日後、哲也が深夜見回りをしていると悲鳴が聞こえてきた。


「浅井さんか! 」


 慌てて階段を駆け下りて浅井の部屋である412号室へと向かう、


「浅井さん!! 」


 ノックも無しにドアを開けると浅井がベッドの上で震えていた。


「浅井さん、大丈夫か」


 哲也が部屋に入っていくと浅井が哲也を指差した。


「うっ、後ろ…… 」


 浅井の震える声が聞こえたと思った瞬間、後ろから何かが哲也に飛び掛かってきた。


「うわっ! 」

『えへへへぇへぇ……邪魔をするな……お姉ちゃんはボクのものだ』


 嗄れた男の声が直ぐ耳元から聞こえた。


「ふざけんな! 」


 後ろからしがみついてくる何かを哲也が両肘で殴りつけるようにして引き離す。


『グエェ…… 』


 踏まれたカエルのような声を出して男の子が床に転がった。


「お前か! 浅井さんから離れろ、これ以上付き纏うなら僕が相手だ」


 相手は子供の幽霊だ。青黒い顔をしているが腐乱しているわけでもなく普通の顔なので怪異に慣れた哲也には恐怖も浮ばない。


『えへっ、えへへぇ……嫌だよ、お姉ちゃんはボクのだからね……ねぇ、お姉ちゃん、ボクのお姉ちゃんになってくれるよね』


 ニタリと不気味に笑いながら男の子が起き上がる。


「いっ、嫌よ、あんたなんかの姉になるわけないでしょ」


 ベッドの上に居た浅井が哲也の後ろにやって来る。哲也が幽霊を殴ったのを見て安心したのか強気な態度だ。


『えへへぇ、えへっ、えへへへぇ……ダメだよ、お姉ちゃんはボクと一緒に行くんだよ、ねぇ、お姉ちゃん、お姉ちゃんはボクのお姉ちゃんだよ』


 男の子が嗄れ声を出しながら哲也の後ろに居る浅井に両手を伸ばしてくる。


「いやっ! 来ないで」


 後ろからしがみついてくる浅井を庇いながら哲也が怒鳴りつける。


「これ以上するなら僕が相手だ。何度でもぶん殴ってやるからな」

『えへぇ、えへへぇ……嫌だ。絶対に離れないからね』


 凄む哲也を見上げて奇妙な声で笑いながら男の子の幽霊は消えていった。


「こっ、怖かった……ありがとう哲也さん」


 後ろから抱き付く浅井の息が哲也の首筋を擽った。


「もう大丈夫だからね、見ただろ、殴ってやった」

「うん、でも離れないって…… 」


 正面に回ると浅井が哲也を見つめる。2人の顔は20センチも離れていない。


「殴られるのが怖くて消えたんだ。だから大丈夫、次は問答無用でボコボコにしてやる。浅井さんは僕が守るから安心してくれ」

「哲也さん、ありがとう」


 唇が頬に触れるほどに抱き付いて浅井が礼を言った。


「じゃっ、じゃあ、僕は見回りがあるから…… 」


 真っ赤になった哲也が慌てて部屋を出て行った。深夜だ。こんな所を看護師や見回りをしている嶺弥や他の警備員に見られたら言い訳出来ない、最悪、見回りを禁止されるかも知れないのだ。こんな事で信用を失うわけにはいかないと自制心が働いた。



 翌日、昼食を終えた後に浅井の部屋を訪ねた。

 昨晩、男の子の幽霊を追い払ったことで哲也の事を信用してくれたのか浅井は自分のことや家族のことなど色々話しをしてくれたが看護師の早坂に邪魔されて1時間ほどで哲也は追い出された。


「また早坂さんに邪魔された。巡回の時間じゃないのに……浅井さんを監視でもしてるのか? 違うな……僕が変な事でもすると思ってるんだな」


 哲也が愚痴りながら自分の部屋へと戻っていく、浅井との距離が縮まったのを感じて嬉しそうなニヤけ顔だ。



 その夜、深夜3時の見回りで哲也がC棟へと向かって外を歩いていると建物の影から何かが飛び出してきた。


「誰だ! 」


 警棒代わりに使える頑丈な懐中電灯を哲也が握り締めた。


『えへへぇ……えへへへへぇ……ボクだよ、お兄ちゃん』


 黄色のシャツに深緑のズボンを穿いた男の子が厭な声で笑いながら立っていた。


「お前……僕に何の用だ? 浅井さんから離れろ! 離れないなら昨日みたいに殴りつけてやるからな」


 哲也は一瞬怯んだが弱みを見せてはダメだと男の子の幽霊を睨み付けた。

 男の子の幽霊がニタリと厭な顔で笑う、


『えへぇ……えへへぇ……いいよ、お姉ちゃんから離れても』

「本当だな」


 哲也が顔を顰めた。絶対に離れないと言っていたのが簡単過ぎる。


『えへへぇ……本当だよ、その代わりお兄ちゃんに頼みがあるんだ』

「頼み? 僕に出来るなら……話して見ろ、出来る事ならやってやる」


 用心しながら哲也が聞き返した。子供の姿をしているが相手は幽霊だ。今までの経験から油断などしない。


『えへへへぇ……じゃあ、こっちに付いてきてよ』


 ニタリと不気味に笑う男の子の幽霊に用心しながら哲也が後をついていく、



 建物を繋ぐ広い道から外れて敷地内をぐるっと回る遊歩道へとやってきた。


『こっちだよ、こっち…… 』


 男の子が遊歩道の脇にある藪の中へと消えていく、


「おいっ! 何処へ行くんだ? 話しならここでも出来るだろ」


 藪へ入ろうか躊躇していると男の子の声が聞こえてきた。


『えへへぇ……えへぇぇ……お兄ちゃんに見せたいものがあるんだよ、こっちだよ、こっちに来ないとお姉ちゃんから離れてあげないよ』

「わかったよ、行けばいいんだろ」


 罠的なものを感じたが行くしかない、相手が子供の幽霊だという事も哲也の警戒心を緩めたのは確かだ。


『えへへぇ……こっちだよ』


 藪に入るが男の子の姿は見えない、哲也の胸の辺りまである深い藪だ。


「どこだ? 見せたいものがあるんだろ」

『こっちだよ』


 背後から声が聞こえて哲也が振り返る。次の瞬間、哲也の首に何かが絡まった。


「がっ、ぐぐぅぅ…… 」


 哲也が首に掛かったものを掴んで呻きを上げる。


『えへへぇ……旨くいったぁ……ママも……あの女もこれで死んだんだよ』


 男の子が木の枝に座って哲也を見下ろして楽しそうに笑う、


『えへぇ、えへへへぇぇ……邪魔だから死ね……お姉ちゃんはボクのものだ。ボクのお姉ちゃんだ……ボクと一緒に死ぬんだ』


 男の子の手には汚れたロープが握られている。そのロープが哲也の首に繋がっていた。


「ぐっ、ぐぅぅ…… 」


 首を絞められまいと哲也がロープを引っ張る。男の子が持っていたのは縄跳びではなく首吊りに使ったロープだとその時わかった。


『えへへへぇ……じゃあね、お兄ちゃん』


 木の枝に座っていた男の子の姿が変わっていく、猿のような体に犬のような頭が付いている。化け物だ。


「がっ、がぐぅ……お……お前は………… 」


 驚きに目を見開いた哲也が首に巻き付いたロープを手で掴んで必死に広げる。


『えへへぇぇ……神様だよ……だから安心して死んでね』


 木の枝から化け物が飛び降りた。枝に掛かったロープが飛び降りた化け物により引っ張られていく、


「がっ!! 」


 首が絞まって哲也の呼吸が止まる。幼児程度の小さい化け物の体重では哲也を吊すことは出来ないが首を絞めるには充分だ。


「かっ、かか………… 」


 息が出来ずに気が遠くなっていく、


「哲也くん! 」


 嶺弥の声が聞こえたような気がした。


『ギヘェェェ~~ 』


 叫びを上げて吹っ飛んでいく化け物が目の端に見えた気がする。哲也はそのまま倒れ込んだ。



 気を失っている哲也の前に嶺弥が立った。


『げへぇ、えへへぇぇ……なんだ? お前……邪魔をするな』


 猿のような体に犬のような頭を付けた化け物が嶺弥を見て怯えている。


「他はともかく哲也くんに手を出して貰っては困る」


 藪の中を急いで走ってきたのだろう、嶺弥が体に付いた汚れを払いながら言った。


『えへへぇぇ……何か知らんが邪魔をするな! 』


 化け物が嶺弥に飛び掛かる。


「邪魔をしてるのはお前だよ」


 嶺弥は化け物をさっと避けると後ろに回って首根っこを引っ掴む、


『ゲヒィィ……なんだお前……お前なんだ…………俺は神だぞ、神の邪魔をするのか? 』


 首根っこを掴まれた化け物が頭を回して嶺弥を睨んだ。


「神か……まぁ神と言えなくもないが、怖くはないな」


 化け物を片手で吊すように持ちながら嶺弥は余裕だ。


『ギギィィ……お前も殺してやる! 』


 化け物がくるっと身体を捻って首根っこを掴む嶺弥の腕に爪を立てた。


「往生際の悪い神だ」


 嶺弥は腕を地面に突き立てるようにして化け物を殴りつけた。


『ゲヒェェ! 』


 苦しげに呻くと化け物はフッと消えた。



 いつの間にやってきたのか、倒れた哲也を看護師の香織が抱き起こす。


「哲也くんは大丈夫よ、気を失っているだけ」


 嶺弥がくるっと振り返る。


「お早いお着きで」


 嶺弥が両手に拳を作りながら香織を見つめる。


「厭味? 」


 しゃがんで哲也を抱きかかえながら香織が鋭い視線を嶺弥に向けた。


「いえいえ、貴女に哲也くんを任すことが出来たからゆっくり戦うことが出来ましたよ」


 爽やかに微笑む嶺弥を見上げていた香織の表情が緩んでいく、


「まったく……敵には回したくないわね」

「お互い様です」


 嶺弥が拳を作っていた腕の力を抜いた。互いに普段の顔に戻っている。


「何故逃がしたの? 」


 気を失っている哲也の頭を撫でながら香織が訊いた。


「哲也くんに酷いことをした奴を許したくはないがあれは使える。放置神だ……いいサンプルが手に入った。直ぐに向こうへ送ろう」


 哲也の安らかな顔を見つめながら嶺弥がこたえた。

 自分のものだと言うように哲也を抱き締めながら香織が続ける。


「放置神ねぇ、雑魚の物の怪に神なんて大層なことね」

「鰯の頭も信心からさ、人が祀ればそこらの石ころも神になる。ましてや力を持っている妖怪の類いが祀られれば参拝者から力を経てそれなりになるものさ」


 苦笑を浮かべて話す嶺弥を香織がムッとした顔で睨む、


「放置神くらい知ってるわよ、只の悪霊じゃない」


 放置神ほうちがみとは参拝者が居なくなった社や祠などに憑いていたものが放置されたことで人に恨みを持って悪霊と化したもののことだ。神と付いているが大きな力を持つ神様ではない、大抵は物の怪の類いである。

 そこらの道端や山奥にある小さな社や祠など神職でもない普通の人が勝手に祀ったものには尊い神様ではなく物の怪の類いが憑いている場合が多い、狐狸の類いが憑いて人に祀られて神と名乗っているものもあるのだ。


「普通の人に神と悪霊との区別なぞつかないさ」


 とぼけ顔でこたえる嶺弥の前で香織が哲也を地面にそっと横たえた。


「まぁいいわ、その程度の力があれば実験にも使えるからね」

「そういう事だ」


 哲也を置いて香織が立ち上がる。


「手続きは私がやっておくわ」

「哲也くんはいいのかい? 」


 驚いたような振りをして嶺弥が訊くと香織が服に付いた汚れを払いながら口を開く、


「貴方に任せるわ、私がいるとややこしくなるでしょうからね」

「了解だ」


 気絶した哲也を背負う嶺弥を見てフッと笑うと香織はすっと姿を消した。



 自分の部屋で哲也が目を覚ます。


「うぅ……頭がフラフラする」


 眩暈や吐き気を感じて暫くベッドの上でぼうっと考える。


「ここは……僕の部屋だ……僕は…………見回りしてて…… 」


 ベッド脇のテーブルに置いてある目覚まし時計を見る。


「うわっ! 3時過ぎてる」


 バッと上半身を起したが頭がぐらっとフラついてそのまま倒れ込む、


「なんでベッドで? 男の子の幽霊が化け物になって……殺されそうになって…… 」


 少し頭痛もする頭で必死に考えているとノックの音が聞こえた。


「哲也くん? いるのかい、哲也くん」


 嶺弥の声が聞こえてドアが開いた。


「れっ、嶺弥さん…… 」

「大丈夫かい哲也くん」


 ベッドで横になっている哲也に嶺弥が駆け寄る。


「見回りしていたら哲也くんの部屋で気配を感じたからもしやと思ったけど、大丈夫かい? 」


 心配そうに顔を覗き込む嶺弥に哲也が照れて苦笑いだ。


「寝てたみたいっす。済みません」

「寝坊か……風邪を引いたのかも知れないな、身体は大丈夫かい? 」


 嶺弥が哲也の額に手を当てた。


「大丈夫っす。ちょっと頭が痛いだけですから」


 照れ笑いする哲也の額から嶺弥が手を離す。


「熱はないみたいだけど無理はするな、今日の見回りは休んでいいよ」

「済みません……目覚まし付けたのになぁ」


 テーブルの上の目覚まし時計を嶺弥が手に取った。


「アラームのスイッチが入ってないぞ」

「マジっすか? おかしいなぁ、ちゃんと入れたんだけどな」


 頭痛も治まり眩暈も消えた哲也が上半身を起した。


「ははははっ、よくあることさ、哲也くんは1人だからね、俺みたいに寝坊しても他の警備員が起してくれないからな」

「済みません、次から気を付けます」


 項垂れる哲也の背を嶺弥がポンッと叩く、


「いいさ、顔色も良くないし、体調の悪い日は無理して見回りをしなくてもいい、哲也くん1人だけじゃなくて俺たち他の警備員も居るんだからな」


 嶺弥の優しい言葉に哲也の顔に安堵が広がる。


「わかりました。ありがとう嶺弥さん」

「今日はそのまま寝てろ、朝になっても頭が痛かったら東條さんにでも薬を貰うといい」

「そうします。風の所為か変な夢を見て…… 」


 化け物の話しをしようとした哲也の言葉を嶺弥の笑い声が遮った。


「あははははっ、夢だよ、体調の悪い時は怖い夢を見たりするものさ、じゃあ、お休み、俺も控え室に戻って一眠りするさ」


 楽しげに微笑みながら嶺弥は部屋を出て行った。

 哲也は起していた上半身をゴロンと倒して横になる。


「夢か……今までに見た夢で一番リアルだったぞ」


 自分の首を摩りながら独り言を続ける。


「そうだな、夢だな、夢じゃなかったら今頃死んでるからな……でも寝坊するなんてな、しかも嶺弥さんに見つかって…… 」


 恥ずかしくて堪らなくなったのか、哲也は布団に潜り込んでベッドの上でゴロンゴロンと身悶えしながら、もう絶対に寝坊しないように気を付けようと誓った。



 翌日、浅井は隔離病棟へと送られていった。


「なっ、なんで、何で浅井さんが隔離送りになるんですか? おかしいじゃないですか、別に暴れたわけでもないのに浅井さんの病状で隔離病棟っておかしいですよ」


 急な話に哲也が香織と早坂に詰め寄った。


「私は担当じゃないから…… 」


 口籠もる香織から哲也は早坂に視線を移す。


「理由は何なんです? 教えてください、早坂さん担当でしょ? お願いします」


 縋り付くように頼む哲也の前で早坂が弱り顔で口を開いた。


「私も詳しくは知らないのよ、何でも別の症状が見られたって……それで一時的に隔離に送るって今朝早くに搬送されたのよ」

「別の症状って何ですか? 浅井さんは納得してるんですか? 」


 哲也に迫られて早坂が弱り顔で香織に助けを求める。


「そんな事言われても…… 」


 哲也と早坂の間に香織が入る。


「止めなさい! 他の患者の病状を説明する義務はありません、貴方も患者なのよ、人のことより自分を治すことの心配をしなさい」

「香織さん…… 」


 香織に一喝されて哲也がしゅんとなる。

 項垂れる哲也の頬に香織が手を当てる。


「私も早坂さんも本当に詳しいことは知らないのよ、先生が決めたことなのよ」


 早坂が香織の横に立って元気付けるように優しい声を掛ける。


「一時的ってことだから暫くしたら戻ってくるわよ、もしかしたらそのまま退院するかも知れないわよ」


 哲也が項垂れていた顔をサッと上げた。


「浅井さんと連絡取れないですか? 約束したんです」


 香織の顔が強張っていく、


「何の約束? 」

「助けるって……幽霊から助けるって約束したんです」


 香織が大きな溜息をついた。


「哲也くん、その事は先生に言っちゃダメよ、幽霊を見たとか言ったら病状が悪化したと思われて大変なことになるわよ」

「そうね、私たちは日頃から会っているから哲也さんの病状はわかっているけど診察でしか会わない先生なら勘違いするわよ」


 香織と並んで早坂も心配そうに哲也を見つめている。


「 ……わかりました」


 力無くこたえると哲也は自分の部屋のあるA棟へと歩いて行く、


「大丈夫かな? 」


 心配そうな早坂の隣で香織が何か思い付いた様子で話し出す。


「そうね……明日ケーキでも買ってきてお茶に誘ってあげようかな」

「いいわね、ケーキ代半分持つわよ、女子会に哲也くんを招待しよう」


 とぼとぼと歩いて行く哲也の背を2人が優しい目で見つめていた。



 自分の部屋に戻ると哲也はふて腐れてベッドに転がった。


「ごめん、浅井さん」


 先生の決めたことだ。哲也にはどうにも出来ない、浅井に何もしてやれなかった後悔だけが残った。

 横になりながら考える。


 首を吊って自殺した母親、その母に首を絞められて殺された子、自殺した者はその他の原因で死んだ者とは別のところへ行くという、あの世で別々になった男の子が母を探していたのだろうか? あの世で会えずにこの世を彷徨っていたのだろうか? あの世へ行かずに迷っていたという点では迷子と呼んでいいのかも知れない、だが哲也は少し違うと考える。あの男の子は人ではなかったような気がしたからだ。

 夢で見た化け物と関係があるような気がするが今となっては確かめようがない。


 だが一つ確かなことがある。浅井はこれからも幽霊に付き纏われて苦しむのだ。


「浅井さんごめん…… 」


 何も出来なかった自分が悔しくて哲也は泣いた。

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