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第二十七話 ペットロス

 ペットと言っても様々なものがいる。犬や猫など知能が高く吠えたり尻尾を振ったりじっと見つめてきたりして感情を表すことが出来、ある程度の意思の疎通がはかれる動物から魚や虫など此方の思いなど殆ど伝わらないものなど様々だ。


 人間は古来から様々な動物をペットにしてきた。犬や猫は食料や家畜の番をさせるために飼い始めたものに愛着が湧いてきて愛玩用としても飼うようになったのは想像に難くない、小鳥などは姿の美しさや鳴き声を楽しむためだ。

 自身の力を誇示するために力の象徴として虎やライオンなどの猛獣を飼ったり、金や権力の証として他人が持っていないものを求めて珍しい生き物を世界中から集めた。ペットを飼うという事は暮らしに余裕があるということでもあるのだ。


 昨今はペットに過大に愛情を注ぐ飼い主が増えてきた。広く浅い交友関係、ギスギスした社会、その中で暮らしていく唯一の安らぎがペットだという人もいるだろう、其れ故、愛情の注ぎ方を間違えて躾が出来ていないペットも多い。

 他人に迷惑を掛けなければいいのだが四六時中吠える犬や放し飼いで余所の庭に糞尿を垂れ流す猫など至る所で見掛けるのは困ったものである。


 それ程に愛情を注いでいたペットがいなくなると反動も大きなものとなる。所謂いわゆるペットロスという奴だ。

 ペットロスとは可愛がっていたペットを失うことによって負う喪失感、悲しみから立ち直れない状態、単なるペットではなく家族や友人のように思っていた犬や猫、その他の動物が亡くなることによって発生する憂鬱となる症状だ。

 人のように言葉を話せないだけにもっと何かしてやれたのではないかと思い悩み後悔しその罪悪感から鬱病などの更に重い心の病になってしまうことも少なくない。


 哲也もペットロスになった人を知っている。ペットロスで傷心していたところへ巧みに声を掛けられ裏切られ心を病んでしまった人を……だがその人には心配してくれるペットがいた。



 ある日の昼下がり、哲也は子犬を散歩させていた。


「笑顔で手招くから何かなって行くとこれだもんなぁ~~ 」


 アニマルセラピー用に保健所から引き取ってきた子犬3匹のうちの1匹だ。

 少しやんちゃで噛み癖があるのが分かってセラピーに使う前に躾をするというになりアニマルセラピーの責任者である臨床心理士の世良静香せらしずかに頼まれて哲也も手伝うことになったのだ。


「まぁ、世良さんに頼まれたら断れないけどな、あとでお茶も出来るし…… 」


 手伝いも悪いものではない、世良や他の看護師たちと休憩時にお茶を飲みながら話ができるのだ。

 ニヤニヤと嬉しそうな哲也の手が引っ張られる。


「ちょっ、こらっ、どこ行くんだ」


 子犬が急に走り出して散歩用のリードを引っ張った。


「犬を近付けるな! 向こうへ連れて行け! 」


 怒鳴り声に振り向くと若い女が『向こうへ行け』と手を振りながら怒っていた。


「怒られただろ、向こうはダメだ」


 哲也が慌てて散歩用のリードを引っ張って子犬を止める。


「早く連れて行け! 犬を私に近付けるな、犬なんて見たくもない」


 物凄い剣幕で怒っている女を見て心を病んでいるのが直ぐにわかった。


「すっ、済みません、直ぐに連れて行きますから」


 謝りながら散歩用のリードを引っ張って向こうへ行こうとした。その時、子犬の首輪がすぽっと外れた。

 ワンワン鳴きながら子犬が走って行く、


「あれ? 首輪が……ちょっ、おい」


 綺麗にすぽっと抜けた様子に一瞬笑いが込み上げてきて動作がワンテンポ遅れる。


「ちょっ、ダメだって」


 子犬は女の元へ一直線だ。哲也が慌てて追っていく、


「犬!? 」


 哲也が驚いて足を止める。女の後ろ、足下に中型犬が伏せをしていた。

 その間にも子犬がワンワン鳴きながら女に近寄っていく、


「ちょっ、待てって……あれ? 確かに見えたけど」


 慌てて追い掛けようとした哲也が目を凝らす。女の足下にいた中型犬がいつの間にか消えていた。


「見間違いかな…… 」

「来るな! 来るなって言ってるでしょバカ犬が!! 」


 女の怒鳴り声に我に返ると哲也が慌てて走り出す。


「すっ、済みませ…… 」


 謝ろうとした哲也の前で子犬が女に飛び付いた。


「来るなって言ったじゃない……なんで来るのよ」


 その場にしゃがむと女が子犬を抱きかかえた。

 クンクン鼻を鳴らし尻尾をブンブン振りながら子犬が女にしがみつく、


「よしよし、良い子だねぇ~~、急に走り出したらダメだよ、道路だったら轢かれちゃうよ、ふふふっ、よしよし」


 子犬を抱き締めて背中を撫でながら女が優しい声を出した。犬が嫌いか苦手だと思っていたが違うようである。


「あはははっ、こら、舐めるな、あははっ、犬臭い、あははははっ」


 しゃがんで子犬を抱いている女の前で哲也はほっと安堵した。嫌いどころか犬好きに見える。


「ごめんねモコ……ごめんね」


 笑っていたかと思えば涙ぐんで謝り始めた。


「あのぅ、何か…… 」


 話し掛ける哲也を見上げて女がキッと怖い顔になる。


「飼い主ならしっかりしなさい! 事故に遭ったり心ない人に蹴られたりしたらどうするのよ」

「いや、飼い主とかじゃなくて……ごめんなさい」


 反論するのを止めて哲也が謝った。どちらにせよ悪いのは自分だ。


「あんたもダメだよ、御主人様が心配するからね」


 哲也に話す言葉とは全く違う優しい声で言うと女が子犬の頭を撫でた。

 何か事情があるのだろうと哲也が話し掛ける。


「犬が好きなんですね、でも何で来るなって怒鳴ったんですか? よかったら話しでも…… 」

「お前に関係ない! 犬も男も全部嫌いだ」


 女は立ち上がると抱いていた子犬を哲也に渡した。


「済みません…… 」

「私に犬を近付けるな! 」


 何とも言えない表情をして謝る哲也に言い放つと女は早足で去って行った。


「うふふっ、フラれたわね哲也くん」


 楽しげな声に振り返ると臨床心理士の世良静香が立っていた。


「うわっ、吃驚した。いつの間に……見てたんですか」


 嫌そうに顔を歪める哲也から子犬を奪うように受け取ると世良が続ける。


「セラピーの報告して戻るところで哲也くんが見えたから……面白かったわよ」


 世良が笑いながら子犬に首輪を付けた。


「笑い事じゃないっすよ、何もなかったから良かったけど、本当に犬嫌いの人だったら大事になってたかも知れないですから」


 顰めっ面の哲也の前で子犬の頭を撫でながら世良が話し出す。


「首が絞まるといけないと思って緩めに掛けてたでしょ? 子犬は頭が小さいから緩くすると直ぐに外れるわよ、散歩の時はきちっと絞めて帰ってきたら緩めるようにしないとダメよ、首に付ける奴じゃなくて胸に付ける奴が一番なんだけどね」

「確かに緩くしてたっす。今度から気を付けます……じゃなくて」


 謝る途中で何かを思い出したように哲也が話を振る。


「あの女の人誰ですか? 知ってるような口調ですよね」

「知ってるわよ、アニマルセラピーを受けさせたいって頼まれた患者だからね」


 足下に落ちていた棒を子犬に咥えさせて遊ばせながら世良がこたえた。


「アニマルセラピーっすか、犬好きみたいでしたからわかりますけど…… 」


 難しい顔をして哲也が世良を見つめた。


「でも犬を近付けるなって怒鳴られましたよ、犬好きみたいなのに犬も男も嫌いだって言ってたし……男はわかるとして何で犬が嫌いだって言うんです? 」


 世良が悲しそうに目を伏せて頷いた。


「うん、彼女ね、ペットロスになってしまって……もう二度と犬は飼わないって思ってるらしいのよ」

「ペットロスっすか、確か可愛がってたペットが死んで悲しみから立ち直れないってヤツですよね」


 哲也が難しい顔を更に顰める。どうにか力になってやりたいという表情だ。

 ちらっと哲也の顔を窺うと世良が少し考えてから話し出す。


「そうね……哲也くんには話しておいたほうがいいかもね、彼女にアニマルセラピーを受けさせるのを手伝って貰えるかしら? 」


 哲也がバッと身を乗り出す。


「手伝います。それであのひとの症状が少しでも良くなるなら……僕も犬は好きですから、本当は犬が大好きなあのひとが犬が嫌いなんて言わせたくないです」

「わかったわ」


 優しい顔で頷くと世良が話をしてくれた。



 彼女は遠藤亜里彩えんどうありさといいペットロスで心を病んだらしい、可愛がっていたペットに死なれ結婚の約束をした彼氏に裏切られて自暴自棄になり自殺未遂を起こし心配した両親が磯山病院へと入院させたのだ。

 ペットロスを治す手っ取り早い方法は新たなペットを飼うことである。だがこれは一時凌ぎの対処法でしかない、また悲しい別れをしなければいけないと分かっているので飼いたくないと考える飼い主は多い、遠藤も同じだ。もう二度とペットは飼わないと心に誓っていた。

 鬱病にまでなってしまった重症のペットロスを治すためにアニマルセラピーを受けさせようという事になり世良が遠藤の症状を知ることになったのだ。

 アニマルセラピーで犬猫と触れ合わせてペットロスを癒やして一時的にでも鬱を緩和させた上でじっくりと治癒しようという事である。


「遠藤さんか…… 」

「哲也くんのことだからまた好きになっちゃった? 」


 世良にからかわれて哲也の頬が赤くなっていく、


「ちっ、違いますから……そんなのじゃなくて遠藤さんの力になってあげたいって思っただけですから」


 焦りまくる哲也を見て世良が悪戯っぽい顔をして続ける。


「遠藤さんは23歳よ、そんなに離れてないから哲也くんなら話が合うでしょ、旨く言ってどうにかアニマルセラピーを受けるように仕向けてくれると私の仕事が一つ減るんだけどな」


 旨く言ってるのは世良さんの方ですからね……。思っていることを顔に出さずに哲也が口を開く、


「任せてください、あんなに犬好きなんですからアニマルセラピーを受けたら直ぐに良くなりますよ」

「じゃあ、遠藤さんの事は哲也くんに任せてみるか」


 面倒事が一つ片付くと思ったのか世良は笑顔だ。

 考えるような顔をして哲也が続ける。


「ペットロスになって彼氏に振られて自暴自棄になったから犬も男も嫌いだって言ってたんですよね……それで鬱になった。病状はどんな感じですか? 幻覚とか見たりしてませんか? 犬の幽霊とか」


 遠藤の足下にいた中型犬らしきものが気に掛かったのだ。

 少し驚いた表情をして世良が口を開く、


「よくわかったわね、妄想か幻覚か、詳しくは知らないけど男の幽霊が出てきてモコを苛めるらしいのよ」

「モコって? 」

「遠藤さんが飼っていた犬よ、コッカースパニエルのモコ、モコが死んでペットロスになったのよ」


 成る程と頷いてから哲也が更に質問する。


「モコはわかりましたけど男の幽霊って何ですか? 」

「私も詳しくは知らないわ、でも男の幽霊とモコの幽霊が出てくるらしいわよぉ~ 」


 世良が胸の前に両手を垂らした古風な幽霊の物真似をする。


「今時うらめしや~は古いですからね」


 知的なお姉さんと言った世良がボケるのを見て哲也が口元に笑みを浮かべて続ける。


「その男の幽霊がモコの幽霊を苛めるんですか? 」


 少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら世良がこたえる。


「そうらしいわね、それでね、他の犬猫も苛められるとかわいそうだからアニマルセラピーは受けないって言うのよ」

「それで子犬に近付くなって怒鳴ったのか……優しそうにこいつの頭撫でてたもんな」


 足下で落ちていた棒を咥えて遊んでいる子犬のリードを哲也が引っ張った。


「散歩は終わりだ。遠藤さんに話しを聞いてくるよ」


 哲也が散歩用のリードを世良に差し出した。


「亡くなったモコに対する思いが強いのよ、アニマルセラピーで他の犬猫たちに触れたら少し和らぐと思うの、だから出来るだけ早く受けるように頼んだわよ」


 リードを受け取る世良に真摯な目をした哲也が頷いた。


「わかりました。一日でも早く受けるように話しを持っていきますよ、それで遠藤さんの部屋とかわかりますか? 」

「確か……B棟の406かそこら辺だったと思うわよ」

「Bの400番台か、それだけわかれば充分ですよ」


 くるっと踵を返す哲也の背に世良が話し掛ける。


「そうそう、遠藤さんの話し、私から聞いたってのは内緒にしといてよ」

「わかってますよ、誰にも言いません、僕が勝手にやったことですから」


 哲也は振り返ると笑顔でこたえた。

 世良も笑顔で手を振ると子犬を連れてE棟へと戻っていった。



 哲也は一旦部屋に戻ると遠藤からどうやって話しを聞こうか考える。


「2時半か、夕方の見回りまで時間もあるし今から訊きに行くか」


 貰ったお菓子を入れている丸い缶を哲也が開けた。


「楽しみにしてたんだけどな……遠藤さん可愛いし話しも聞きたいから勿体無いけど持っていくか」


 2日前の診察で池田先生に貰ったチョコレートの載ったラスクを四つ持って部屋を出る。前にも貰ったことがあり美味しかったので食べるのを楽しみにしていたのだが話しを聞くための手土産にしたのだ。


「缶コーヒーも買っていくか、僕の分と遠藤さんの2つ」


 長い話になると喉も渇くだろうと自動販売機で缶コーヒーを2つ買ってB棟へと向かう、自分の部屋のあるA棟から外へ出たところで看護師の香織に声を掛けられた。


「あらっ、哲也くん何処へいくの? 」

「どっ、何処にも行きません」


 作り笑いをしてこたえる哲也の顔を香織が覗き込む、


「嘘ついてもわかるわよ、哲也くん顔に出るんだから」

「うっ、嘘なんかついてませんよ、さっ、散歩してるだけですから」


 焦って旨く言葉が出てこない哲也を香織が見回す。


「ふ~ん、散歩ねぇ~~、缶コーヒー2つ持って散歩するんだぁ」

「あっ! 」


 しまったと思ったがもう遅い、顔を顰めて必死に言い訳を考える哲也の前で香織が声を出して笑い出す。


「うふふふふっ、知ってるわよ、遠藤さんの所へ行くんでしょ? 」

「へっ!? 何で知ってるんすか? 」


 顰めっ面から一瞬で呆けた顔になった哲也を見て香織が楽しそうに話し出す。


「アニマルセラピーでしょ? 世良さんに聞いたからね、私が言っても利いてくれないから哲也くんに頼んでみたって、だから哲也くんが遠藤さんの部屋を訪ねても叱らないでやってくれって頼まれたのよ」

「ああ……世良さんに……焦って損した」


 安堵する哲也を香織がじろっと睨む、


「ふ~ん、焦ってたんだぁ~、私に隠そうとしてたし……良いところ見せて世良さんに気に入られようって思ってるんだな」

「そっ、そそっ、それは…… 」


 焦りまくって声が上擦る哲也を睨みながら香織が続ける。


「まぁ仕方ないかぁ~、女の私から見ても世良さんって美人だからなぁ、哲也くんが惚れるのも仕方ないなぁ~~ 」

「ちがっ、違うから……そんなんじゃないから、遠藤さんの役に立ちたいって思っただけで………… 」


 必死で言い訳する哲也の前で香織がポンッと手を叩いた。


「あっ、そっちかぁ、遠藤さんも可愛かったからなぁ~、哲也くんって本当に惚れっぽいよねぇ」

「はい、惚れっぽいです。もう勘弁してください」


 哲也が降参した。これ以上言い訳しても泥沼の様相を深めるだけだ。

 怖い顔で睨んでいた香織の相好が崩れる。


「うふふっ、冗談よ冗談、からかうと面白いからついからかっちゃうのよ、哲也くんって」

「 ……勘弁してください」


 どっと疲れた様子の哲也の背を香織がバシッと叩く、


「さっき話してきたんだけど、世良さんが哲也くんなら旨く言ってくれるかも知れないって期待してたわよ」


 そう言うと香織はA棟の中へと入っていった。


「また香織さんに遊ばれた…… 」


 項垂れていた哲也がバッと顔を上げる。


「でも世良さんが期待してくれてるんだ。遠藤さんも可愛いし……やる気出てきた」


 足取りも軽く哲也がB棟へと入っていく、惚れっぽいのはいつものことだ。



 哲也が長い廊下を歩きながらドア横のネームプレートを確認していく、


「402……403…… 」


 廊下にたむろしている患者たちに気付かれないように何気ない風を装って歩いて行く、


「406も違うぞ、香織さんに部屋番号聞けばよかったな」


 世良が勘違いでもしたのだろうと思いながら歩いて行く、


「あっ、あった。408号室だ」


 ドアの横に遠藤亜里彩と名前を見つけて哲也が立ち止まった。


「406じゃなくて408だ。まぁ世良さんも40いくらとしか覚えていないみたいだったしな、まぁいいか」


 哲也が緊張した面持ちでドアをノックする。


「済みません遠藤さん、少しいいですか」

「はい」


 ドアを開けて遠藤が顔を見せた。


「何か用ですか? 」


 あからさまに嫌そうな顔をする遠藤に哲也は精一杯の笑みを作って口を開く、


「先程は済みませんでした。僕は警備員です。警備員の中田哲也って言います。哲也って呼んでください、中田ってのは先生に居るのでみんなには哲也って呼んでもらってます」

「警備員の哲也さんが何の用なの? 」


 警備員と名乗っても遠藤は警戒を解かない、渋い顔の遠藤に哲也が続ける。


「遠藤さんの事は聞きました。それで僕に何か出来ることがあるんじゃないかって思って、何でもするので何かあれば言ってください」

「わかったわ、ありがとう、でももう来ないで頂戴、言ったでしょ、私は犬と男が大嫌いだって……何でもするって言ったわね、じゃあ二度と来ないで頂戴」


 つっけんどんな態度の遠藤に哲也が食い下がる。


「待ってください、遠藤さんは犬が好きなんでしょ? 男を、僕を嫌いになるのは構いません、でも犬を嫌いだなんて言わないでください」

「勘違いしないで、犬なんて嫌いよ」


 険しい顔だが遠藤の眉がピクッと動いたのを哲也は見逃さない。


「子犬を可愛がる遠藤さんはとても優しい人だと思いました。それが犬を近付けるなって怒鳴るなんて余程の事情があるはずです。僕も犬は好きです。雑種ですが飼ってました。ペットロスの気持ちもわかります。犬が死んだ時に僕も泣きましたから……だから、だから遠藤さんが気になって…… 」


 険しかった遠藤の顔が緩むのを見て哲也が畳み掛ける。


「男に騙されたって聞きました。それが犬と何か関係があるんですか? もし関係があっても犬を嫌いだなんて言わないでください」


 訴えるように必死に話す哲也を見て遠藤がふっと悲しそうに笑った。


「犬は好きよ、でもね……でも私に近付くと犬が不幸になる。あの男が、男の幽霊がモコを苛めるように他の犬も苛められるわ、だから犬を近付けたくないの」


 遠藤を見つめる哲也が安心するように笑顔になった。


「良かった。やっぱり犬が好きなんですね、詳しく話しを聞かせてください、僕なら力になれるかも知れない、僕は幽霊に触ることが出来るんです。幽霊を殴ったこともあります。遠藤さんを苦しめる男の幽霊もどうにか出来るかもしれません、だから話してください」


 遠藤がパッと顔を明るくした。


「私の話を信じてくれるの? 親も先生も幻覚を見てるだけだって、病気だって信じてくれないのに」


 哲也が笑顔で頷く、


「信じますよ、見ましたから、さっき子犬が走り出した時に遠藤さんの後ろに中型犬みたいな茶色いのがいるのが見えたから、それで吃驚して子犬を捕まえるのが遅れて遠藤さんの所まで行ってしまったんです」

「茶色い……モコだ。モコが守ってくれてるんだ」


 目に涙を溜める遠藤に哲也が続ける。


「だから僕にも何か出来るかもしれないと思って来たんです。話しを聞かせてください」

「幽霊を触れるって本当なの? 」


 怪訝そうに訊く遠藤を見つめて真剣な顔をした哲也が口を開く、


「本当です。昔から幽霊みたいなものは見えていたんですが触ったことはありませんでした。でもある患者さんの話しを聞いて腹が立って幽霊に殴り掛かったら殴れたんです。それから何度か幽霊を触りました。だから遠藤さんの力にもなれると思って…… 」


 真面目な表情で話す哲也に遠藤が縋り付く、


「モコを助けてあげて、私を守ろうとしてモコはあの男に何度も殴られて……全部話すからモコを助けてお願いよ」

「僕に出来ることは何でもします。絶対に助けるなんて約束は出来ません、でも出来ることは全てやります」


 絶対に助けよう、話しながら哲也は誓った。


「わかったわ、話すから中に入って」


 部屋に招き入れてくれた遠藤の顔からは先程までの険は消えていた。

 小さなテーブルの上に哲也が持ってきたお菓子と缶コーヒーを置いた。


「お菓子持ってきました。それと缶コーヒーも1つどうぞ」

「ありがとう、そこに座って」


 やっぱり遠藤さん可愛い……。はにかむような遠藤の笑みを見て哲也の頬が赤くなる。

 哲也の向かいに座ると遠藤が話を始めた。

 これは遠藤亜里彩えんどうありささんが教えてくれた話しだ。



 ある地方の都市に遠藤の実家がある。地方といっても人口50万人以上はいる政令指定都市の大きな町だ。

 その町にある閑静な住宅地に両親が建てた持ち家に一緒に住んでいた。遠藤の家は金持ちではないが貧乏でもない、家も父がローンを組んで買ったものである。一般的な庶民といった暮らしだったが遠藤は一人娘という事でそれなりに大事に育てられていた。


 2ヶ月前に愛犬のコッカースパニエルのモコが死んで両親が心配するほどに塞ぎ込む、所謂いわゆるペットロスというやつだ。

 ペットロスになるのも仕方がない、遠藤が小学校へ上がった頃に父が知り合いから貰ってきてくれた犬だ。兄弟のいない遠藤は弟のように可愛がり、一緒に育ってきた犬だ。この世で一番大切な親友と言ってもいい存在だった犬である。


 職場でも塞ぎ込む遠藤を慰めようと同僚が合コンを開いてくれた。行く気はなかったが同期の親しい同僚に半分無理矢理に連れて行かされる。

 その合コンで伊藤尚哉いとうなおやと知り合う、イケメンでも不細工でもない普通の顔立ちの男だ。だが伊藤は犬猫のことに詳しく、愛犬を失った遠藤を慰め、また励ましてくれた。

 伊藤とはSNSで何度か連絡を取り合い、2人だけで会うようになって、自然と付き合いが始まった。



 初めてのデートを終えた遠藤が家に帰って寝ていると布団に何かが入ってくる気配がした。フンフン鼻を鳴らしながら潜り込んでくる気配に直ぐに愛犬のモコだとわかった。

 会いに来てくれたのかと喜んで布団を捲るが何もいない、寝惚けたのかと落胆しながら眠りについた。


 遠藤はショッピングモールを歩いていた。隣には伊藤尚哉がいる。


「あっ、あの帽子可愛いぃ」


 店に飾ってある帽子を遠藤が指差す。


「亜里彩さんに似合いそうだね、入って見ようか? 」


 笑顔の伊藤と一緒に店へと入っていく、


「うわぁっ! 」


 先に店に入った伊藤が叫びを上げた。


「どうしたの尚哉さん」


 遠藤が後ろから顔を出すと伊藤の前に犬がいた。


『ウゥーッ、フウゥゥーッ 』


 犬は牙を剥いて伊藤を威嚇している。


「犬? 店の犬かな…… 」


 遠藤はハッとした。犬種は直ぐにわかった。コッカースパニエルだ。


「モコ……モコなの? 」


 以前飼っていたモコに似ている気がした。


『フウゥゥーッ、ウガゥッ! 』


 犬が伊藤に飛び掛かる。


「うわぁあぁ~~、助けてくれ~ 」


 伊藤が慌ててドアの外に飛び出して逃げていった。


「尚哉さん!! 」


 追い掛けようとした遠藤の足に犬が纏わり付く、


『クゥ~ン、フンフン、クゥゥ~~ン』


 間違いないモコだ……。鼻を鳴らし甘え声を出す犬を見て遠藤はモコだと確信した。


「モコ、会いたかったよモコ、モコ…… 」


 遠藤はしゃがむとモコを抱き締めた。


『ヒュ~ン、クゥ~ン、クゥゥ~ン』


 モコも嬉しそうに鼻を鳴らして遠藤に身を預けるように擦り寄った。


「モコ、会いに来てくれたんだね、ありがとうモコ、でも何であんな事したの? あの人は伊藤尚哉さんって言って私に良くしてくれる人なのよ、だからもう吠えたりしたらダメだよ」


 モコの頭を撫でながら遠藤が言い聞かせる。

 バッとモコが離れた。


『フゥウゥーッ、ガルルッ、ウゥーワン、ワン! 』


 モコが牙を剥いて吠える先、ドアの向こうに伊藤が居た。


「モコ! ダメでしょ」


 叱る遠藤を見てモコが悲しげに一声鳴いた。


『クゥゥ~~ン』


 遠藤は気が付くとベッドの中だった。窓から日が差している。


「うぅ……夢……モコ……モコの夢だ」


 寝惚け眼の遠藤がベッドの上で身を起す。


「モコの夢は嬉しいけど何で尚哉さんに吠えたのかな……焼き餅焼いてるのかなモコ」


 伸びをして起きると本棚に飾ってあるモコの写真に手を伸ばす。


「安心してモコのことは忘れないから、尚哉さんも好きだけどモコも好きだからね」


 写真に写る今は亡き愛犬のモコを撫でながら優しい声で言った。



 二度目のデートで2人は結ばれた。

 ラブホテルで愛し合っていると遠藤の目の端に茶色い犬のようなものがチラチラと映る。


「どうしたの亜里彩さん? 」

「うぅん、何でもないわ」


 優しい彼に包まれて遠藤は幸せだった。

 伊藤がシャワーを浴びにベッドから出て行く、


「モコ? モコなの? 」


 遠藤が小さな声で呼びながら部屋を見回すが何も居ない。

 その時、悲鳴が聞こえた。


「痛ぇ! わあぁぁ~~ 」


 濡れた体のまま伊藤が風呂場から飛び出してきた。


「尚哉さんどうしたの? 」


 驚いて訊く遠藤の前で伊藤が焦りを浮かべて話し出す。


「何かに噛まれた。顔洗ってたら後ろから何かが飛び掛かってきた」

「何かって何? 」


 怪訝な顔で訊く遠藤に伊藤が首を横に振る。


「わからん……初めは亜里彩さんの悪戯だと思ったんだけど………… 」

「私は何もしてないわよ、ずっとここに居たから」


 違うと手を振る遠藤の前で伊藤が頷いた。


「うん、わかってる。あれは人じゃなかった」


 暫く考えてから伊藤が続ける。


「これくらいの大きさ……いや、もっと大きかったかな、猫か何か入ってきたのかな」


 胸の前で両手を広げてジェスチャーしながら話す伊藤の前で遠藤の顔が曇っていく、


「犬じゃなかった? 」


 頭の中に愛し合っている最中にチラチラ見えた茶色の犬らしきものが浮んだ。


「犬? 犬か……犬か猫かわからないけどマジで噛まれたから」


 伊藤が左の脹ら脛を見せた。小さな歯形が付いていた。


「歯形だ…… 」


 顔を顰める遠藤を見て怖がっているのだと思った伊藤が笑いながら口を開く、


「あははっ、気の所為だよ、顔洗ってて何か見えた気がして慌てて転んだから、その時に何処かにぶつけたんだと思うよ」

「なっ、何だ。そうだったの、吃驚させないでよ」


 遠藤も合わせてその場は収まった。

 ラブホテルを出ると喫茶店でコーヒーを飲んでから帰りについた。



 その日の夜、遠藤が寝ていると何かが布団の中へと入ってきた。


『フンフン、フンフン、クゥ~ン、キュゥゥ~~ン』


 懐かしい犬の匂いにモコだと直ぐにわかった。


「モコ…… 」


 遠藤は布団を捲らずにそっと抱き付いた。


「モコ、会いに来てくれたんだねモコ」


 モコという名前の通りふわふわでモコモコの毛並みと温もり、暗い布団の中、確かにそこにモコがいる。


『クゥゥ~~ン』


 こたえるように鳴くとモコはそっと布団から出て行った。


「モコ! 」


 追い掛けようと布団を捲ったその時、枕元のスマホが鳴った。


「尚哉さんだ」


 慌ててスマホを取って確認したあとで部屋を見回す。

 モコがいた。ベッドの脇でお座りしてじっと遠藤を見つめている。


「モコ……一寸待っててね」


 電話に出ようとした遠藤を見てモコが牙を剥く、


『ウゥーッ、ワン、ワン、ヴヴゥーーッ 』


 唸りを上げながらモコは消えていった。


「モコ…… 」


 消えていくモコに手を伸ばす遠藤の耳にスマホから伊藤の声が聞こえてくる。


「もしもし」


 気落ちした声で電話に出た遠藤に伊藤が焦りながら話し出す。


 なんでも寝ていて犬に襲われたらしい、犬の幽霊だと伊藤が慌てた様子で伝えた。ホテルで噛んだのもあの犬の幽霊かも知れないと遠藤の所にも幽霊が現われたら大変だと電話をしてくれたのだ。


「なっ……あはははっ、尚哉さん寝惚けたのよ」


 モコが頭に浮んだが遠藤は寝惚けて変な夢を見ただけだと誤魔化した。



 電話を切るとベッドに横になる。


「モコ……尚哉さんと付き合うのダメって言ってるのかな」


 亡くなった後に幽霊でも会いたいから出てきて欲しいと願っても現われなかったモコが何故急に出てくるようになったのか色々考える。


「尚哉は優しいんだよ、生きてたらモコもきっと可愛がって貰えるよ」


 暫く寝付けずに何度も寝返りを打っていたがいつの間にか眠りに落ちていった。


 遠藤は賑やかな町中を歩いていた。伊藤と一緒にショッピングモールを冷やかして歩き適当な店で昼食をする。


「なかなか美味しかったね」

「うん、値段の割には旨かった」


 歓談しながら歩いて行く、ショッピングモールを抜けて繁華街の端へと行った。


「あそこにしようか? 」


 伊藤が指差すと遠藤が照れるように頷いた。この辺りにはラブホテルが幾つか並んでいる。


『ウヴゥーッ、グヴヴヴーッ 』


 ホテルに入ろうとした2人の前に犬が現われた。


「モコ! 」


 遠藤が思わず呟いた。

 おとなしくて誰にでも懐いた愛犬のモコが飼っている時には見せたこともない怖い顔で牙を剥いて威嚇している。


「なっ、何だこの犬は…… 」

『ヴヴゥー、ワンワン』


 怯む伊藤にモコが飛び掛かる。


「うわぁ~~っ、噛みやがった」

「モコ! 止めなさい」


 伊藤の足に噛みつくモコに遠藤が手を伸ばす。


「モコっ、離れなさい、噛んじゃダメでしょ」

『グウゥ……ヴウゥ…… 』


 どうにかして引き離そうとするがモコは唸りを上げて離れない。


「痛てっ、痛ててて…… 」


 伊藤の悲鳴が聞こえて遠藤が咄嗟にモコを叩いた。


「モコ止めなさい! 」


 力一杯叩くとモコがバッと離れた。


「ダメって言ってるのが分からないの! 」


 怒鳴る遠藤を見上げてモコが悲しそうに鳴いた。


『クゥゥ~~ン』

「今更甘えてもダメ! 」


 叱りつける遠藤を寂しげな目でじっと見つめながらモコはすーっと透けるように消えていった。

 同時に遠藤が目を覚ます。


「 ……夢? 尚哉さん……モコ…… 」


 何故か悲しくて涙が溢れていた。


「モコどうして…… 」


 ベッドから起きると本棚に飾ってあるモコの写真を手に取った。


「なんで邪魔をするの? 尚哉さんは結婚してくれるって言ったのよ、焼き餅焼くのもわかるけど私の幸せの邪魔をしないで……お願いよモコ」


 写真を撫でながら頼んだ。雄犬のモコが焼き餅を焼いているのだと思ったのだ。死んでも焼き餅を焼いてくれるなんて嬉しいとも思っていた。



 それから何度かデートをするが毎回モコらしき犬が現われて伊藤を噛んだり体当たりして転ばせたりの悪戯をした。伊藤が必死で犬を探すが何処にも居ない、遠藤は気の所為だと言ってモコを庇った。

 夢にもモコは出てきた。毎回唸りを上げて伊藤に飛び掛かっていく、遠藤が叱りつけると悲しそうに鳴いて消えていく夢だ。



 付き合い始めて2ヶ月ほどが経った。

 伊藤が正式にプロポーズして遠藤が承諾する。

 マンションでも借りようと遠藤が言うと、借りるより買った方がいいと伊藤が提案する。毎月の賃料を払うくらいの金額でローンが組めるのだ。ただ頭金が少しいるという、自分の貯金では足りないと悩む伊藤に遠藤が金を出すと伝える。実家住まいだった遠藤はそれなりに貯蓄があった。


「ありがとう、助かるよ」

「2人で暮らすんだから当然よ」


 満面の笑みの伊藤に遠藤が幸せそうにこたえた。

 2人の物件探しが始まった。

 物件を探すついでにデートをするという日々が続く、モコの幽霊は相変わらず現われて伊藤に吠え掛かる。この頃から遠藤は邪魔をするモコが鬱陶しく思うようになっていた。


 ある日、ホテルで愛し合って休んでいるとモコが現われて伊藤に飛び掛かった。


「うわぁ~~、また出た」


 伊藤が情けない声を上げる。犬が幽霊らしいのは伊藤も気付いていた。


「モコ! 止めなさいって言ってるでしょ」


 遠藤がモコに殴り掛かった。

 モコがバッと離れて遠藤の前に出る。


『クゥゥ~~ン』

「そんな顔してもダメ! 」


 叱りつける遠藤の後ろから伊藤が顔を出す。


「モコ? 亜里彩ちゃんその犬知ってるのか? 」

『ウヴゥーッ、ヴガゥ! 』


 モコが伊藤に飛び掛かる。


「止めろって言ってるでしょ」


 遠藤がモコを本気で蹴った。幽霊なので当たった感触は無いがモコはバッと身を翻して遠藤の前に立った。


「モコなんて嫌い! 二度と出てくるな! 私の邪魔をするモコなんて見たくもない」

『キュ~ン、クゥゥ~~ン』


 怒鳴りつける遠藤を見上げてモコは悲しげに鳴くと消えていった。

 遠藤の後ろに隠れていた伊藤が前に出る。


「亜里彩ちゃんあの犬は? 」

「ごめんなさい尚哉さん、あの犬は…… 」


 遠藤がモコのことを話した。


「亜里彩ちゃんが飼っていた犬か…… 」


 神妙な面持ちで呟く伊藤に遠藤が慌てて声を掛ける。


「焼き餅焼いてるだけだから、私が叱れば直ぐに消えるから安心して、何だったらお祓いして貰ってもいいから…… 」

「あははっ、焼き餅ならしょうがないね、お祓いはいいよ、どうせもう直ぐ……おっと」


 笑いながら何か言いかけて伊藤が言葉を止めた。


「それより、今日見た物件良かったよね、アレにしようよ」


 慌てて話題を変えると伊藤が続ける。


「誰かに取られないうちに契約しちゃおう、頭金入れてさ、それで悪いけどお金頼むよ、俺のだけじゃ毎月のローンが高くなるからな」


 遠藤がパッと顔を明るくする。


「うん、わかった。帰りにうちに寄って行ってお金はもう下ろしてあるから」


 幸せいっぱいという笑顔の遠藤の前で伊藤も笑顔だがその目が笑っていない。



 ホテルを出て遠藤の家に行くと部屋に上がって少し話をしてからマンションの頭金に充てる為の金を受け取って伊藤は帰っていった。遠藤が貯めたほぼ全財産だ。


 その夜、遠藤が寝ているとモコが布団に入ってきた。


『フンフンフン、クゥ~ン、キュゥゥ~ン』


 鼻を鳴らすモコの頭を遠藤がバッと掴んだ。


「何で邪魔をする? モコなんていらない、二度と出てくるな! 私の前から消えろ! 出て行け」


 怒鳴りながらバッと布団を捲った。モコの姿は何処にも無かった。只、キューンという悲しげな声が聞こえたような気がした。


「モコが悪いのよ! 尚哉さんとの邪魔をするから……モコが悪いんだからね」


 怒りながら布団を被った。

 何故掴めたのかわからない、その前に現われた時は抱き締めることも出来た。全て夢だったのかも知れない。


 気が付くと遠藤は伊藤と一緒に並んで歩いていた。


「何処で食べようか? 」


 伊藤が笑顔で訊く、食事する店を選んで歩いているのだ。


「イタリアンが食べたいなぁ」


 遠藤が甘え声で言った。


「向こうにイタリアンの店があったな」


 指差す伊藤の首筋にモコが飛び付いた。


「うわぁ~~ 」


 モコに押されるようにして伊藤がその場に倒れ込む、


『ヴヴゥーーッ 』


 唸りを上げて伊藤の首筋に噛みつくモコを見て遠藤が血相を変えた。


「バカ犬が! 」


 怒鳴りながらモコを蹴っ飛ばした。


『ギャン!! 』


 痛そうに鳴いて転がるモコには目もくれず遠藤が伊藤に駆け寄った。


「尚哉さん大丈夫」


 心配そうに伊藤を抱きかかえる遠藤から少し離れた所でモコが起き上がる。


『キュゥ~~ン、クゥゥ~ン』


 甘えるように鼻を鳴らすモコを遠藤がキッと目を吊り上げて睨み付けた。


「このバカ犬が! お前なんて私の犬じゃない、こんな事をして……許さない、絶対に許さないからね」

『キュゥゥ~~ン』


 寂しそうに一声鳴くとモコはスーッと消えていった。

 同時に遠藤の目が覚める。


「なっ……夢か……バカ犬が」


 ベッドから起き上がると本棚に飾ってあったモコの写真を手に取った。


「もう私の犬じゃない、邪魔をするな、二度と出てくるな」


 悪態をつきながら写真立てごとゴミ箱に放り込んだ。かわいさ余って憎さ百倍というヤツだ。

 日が昇っていたので少し早いがそのまま起きる。


「あれ? 繋がらないなぁ、どうしたんだろう? 」


 顔を洗って歯を磨いたあと、伊藤に電話を掛けるが繋がらない。


「メールの返事も無いし…… 」


 モコがもう出てこないように2人でお祓いに行こうと思ったのだが電話だけでなくメールやSNSも返事がなかった。

 仕事の合間にも電話をするが電源でも切っているのか伊藤は出ない、メールやSNSも音信不通だ。


「どうしたのかなぁ尚哉さん」


 心配しながらその日が終る。その夜はモコの夢は見なかった。



 翌日、朝から電話を掛けるがやはり伊藤との連絡は付かなかった。

 どうしたものかと心配していた遠藤の元へ警察が訪ねてきた。

 伊藤は結婚詐欺をしていた。通信記録で遠藤の番号もあって警察が訪ねてきたのだ。伊藤は遠藤の他にも2人から結婚の約束をしてマンションの頭金だと言って金を預かっていたらしい。


「尚哉さんが詐欺…… 」


 話しを聞いた遠藤はその場に崩れてそのまま寝込んでしまう、


「初めからお金目当てで…… 」


 布団に潜るようにして泣いた。貯めていた全財産を伊藤に渡していたのだ。


「だからモコは吠えてたんだ。それなのに私は……モコに酷いことをして………… 」


 モコが言いたかったのはこの事かと思ったが後の祭りだ。心配して幽霊になってまで出てきてくれたモコを裏切った。伊藤に騙された事も心に傷を付けたがそれ以上にモコに対して済まないという気持ちが遠藤の心を蝕んだ。


「ごめんなさいモコ……許してなんて言えないね…………ごめんねモコ」


 1週間が経ち、会社も辞めて引き籠もって泣いていた遠藤の元へ警察が訪ねてきた。

 何でも伊藤が死んだらしい、事故死だ。見通しのいい道でハンドル操作を誤って壁に激突したのだ。病院へ運び込まれた時はまだ息があり事故の様子を話してくれた。車の前に犬が飛びだしてきて慌ててハンドルを切ったらしい。


「あの女の犬だ……あの犬が……、そう言って息を引き取ったらしいんですが何か心当たりはありませんか? 」


 警察官が事務的に訊いてきた。


「犬ですか…… 」


 モコが仇を討ってくれたんだと遠藤は思った。

 遠藤を見つめながら警察官が続ける。


「犬や猫を避けようとして事故を起すのはよくあるんですけどね、でもねぇ、犬を避けたのならブレーキの跡があってもいいんですがね、それが無い、それだけなら只の余所見運転で片付くんだが…… 」


 何とも言えない顔の警察官を怪訝な表情で遠藤が見つめる。


「何かあったんですか? 」

「それがね……う~ん、まぁいいか」


 悩むような表情で警察官が話し出す。


「容疑者の首にね、犬の歯形が付いてたんだ。中型犬って言うのかな、それくらいの大きさの歯形がハッキリとね……でも車の中には犬なんて居ない、調べたんだが犬の毛1本も出てこない、容疑者は犬を飼っていないし、それで報告も兼ねて被害者である貴女たちに何か心当たりはないかと思ってね」

「そうですか…… 」


 目を伏せる遠藤の顔を警察官が覗き込む、


「何か心当たりでも」


 流石警察官だ。遠藤の少しの変化も見逃さない。


「はい、心当たりはあります。伊藤を噛んだのはうちのモコです。モコが…… 」


 遠藤はこれまでのことを全て話した。モコの幽霊の事も毎晩見た夢のことも、一つも隠さずに全て話した。それがモコに出来る精一杯の詫びだと思った。


「そうですか……守ろうとしてたんだな、モコちゃん」


 神妙な面持ちで聞いていた警察官が呟くように言った。


「あのぅ……何か罪になるのでしょうか? 」


 不安気に訊く遠藤に警察官が優しい顔を向ける。


「時々ね、時々あるんですよ、こういう話し、幽霊なんて逮捕できませんよ、もちろん貴女もね、貴女たちは被害者です。協力ありがとうございました」


 微笑みながら警察官は帰っていった。

 幸いな事に取られた金は返ってきた。全額ではない、伊藤は借金をしていたらしく3人の女たちから巻き上げた金の半分は返済で消えていた。遠藤の元へ戻ってきたのは半分だけだ。この手の犯罪では半分でも戻ってくるのは珍しいのだ。


「モコありがとうね、半分だけどお金も戻ってきたよ……あんなに酷いことをしたのにモコが……モコの御陰で戻ってきたんだよ、本当にありがとうね、本当にごめんね」


 本棚に飾ってあるモコの写真を撫でながら遠藤が泣いて謝った。ゴミ箱に捨てたものを慌てて拾って丁寧に拭いて飾り直した写真だ。


「でもね、でもお金なんかよりモコに戻ってきて欲しい……モコに直接謝りたい、モコをもう一度だけでいいからギュッて抱き締めたい」


 お前なんて私の犬じゃないと怒鳴ったあの日から幽霊はもちろんモコは夢にも出てこない、遠藤は写真を抱き締めてその場に崩れるようにしていつまでも泣いていた。



 その日の夜、寝ていた遠藤は首に圧迫感を感じて目を覚ます。


「うぅ……ふぐぅ! 」


 苦しげに呻きながら遠藤が目を見開いた。


「あっ、あぁ…… 」


 驚きに身を固くする遠藤の目の前に伊藤がいた。


『お前が……お前が犬を使って俺を殺したんだ』


 ぱっくりと割れた頭から血を流した生きているとは思えない伊藤が恨めしげに遠藤の首を絞めている。


「ぐぐぅ…… 」


 意識がぼやけていく、伊藤の幽霊に殺される。もうダメだと思ったその時、茶色い影が遠藤に跨る伊藤に飛び掛かった。


『ぐわっ! 』


 首を絞めていた手を伊藤が離した。


『グゥゥ……グルルゥゥ…… 』


 ベッドの脇で犬の唸り声が聞こえた。


「がっ、がはっ……うぅ…… 」


 咳き込みながら遠藤が見るとモコが牙を剥いて立っていた。


「もっ、モコ…… 」

『キュゥ~~ン』


 牙を剥いていたモコが遠藤を見ると甘えるように一声鳴いた。

 遠藤に跨っていた伊藤がふらりと立ち上がる。


『このクソ犬が! 先にお前を始末してやる』

『ヴヴゥーッ、ヴァン、ウヴァン!! 』


 バッとベッドから飛び降りた伊藤にモコが飛び掛かる。


『痛てっ、痛てて……このクソ犬が! 』


 腕に噛みついたモコを伊藤が反対の手で殴りつけた。


『キャイィン』


 殴り飛ばされてモコが床に倒れ込む、


『このクソ犬が! 』


 倒れたモコに伊藤が蹴りを入れようとした。


『ヴガガァ~~ 』


 モコはさっと避けると伊藤の足に噛みついた。


『痛てて……離れろクソが』


 伊藤がモコを殴りつける。


『ギャン! 』


 痛そうに鳴いてモコが転がる。

 何度も飛び掛かり、その度に殴られ蹴られ悲鳴を上げる。それでもモコは何度でも立ち上がって伊藤の霊に飛び掛かる。


 いつの間に朝になったのか窓から日が差してきた。


『くそっ、覚えてろよ』


 伊藤の霊がスーッと消えていった。


「モコ! 」


 床に倒れているモコを遠藤が抱きかかえた。


「モコ……ごめんねモコ、私が悪かったわ、ごめんなさいモコ」

『クゥゥ~ン、キュゥ~~ン』


 嬉しそうに尻尾を振りながらモコは消えていった。


「モコ……本当にごめんなさい」


 消えたモコを抱いていた腕で自身を抱き締めるようにして遠藤は泣きながら謝った。



 次の日もその次も寝ていると伊藤の幽霊が現われて首を絞めてくる。それをモコが守ってくれた。何度倒れても向かって行くモコを見て遠藤の心は張り裂けそうだ。


「私が居るからモコは伊藤に苛められるんだ。全部私の所為だ。モコを信じなかった私が全部悪いんだ…… 」


 連日の出来事に遠藤は耐えられなくなった。

 幽霊になってまでモコが苦しむのは自分の所為だと思い込んだ遠藤が自殺未遂を起す。


 遠藤が部屋で首を吊ったその時、父と母が駆け付けて直ぐに病院へ運ばれて一命を取り留める事が出来た。

 後で訊くと両親が寝ているとモコがやってきて天井を向いて吠えたのだという、モコの幽霊には驚いたが吠えながら飛ぶように2階へと消えていくモコを見て何かあったかと両親が駆け付けて首を吊っている遠藤を助けたのだ。


「モコが助けてくれた。モコが死ぬなって言ってる…… 」


 遠藤は心配する両親に二度とバカな事はしないと誓った。それはモコへの誓いでもある。


「モコ……私も一緒に戦う、あんな男なんかに負けない」


 病院のベッドの上で両親が持ってきてくれたモコの写真を撫でる遠藤の顔には決意が浮んでいた。



 入院している間にも伊藤の霊は現われた。


「ぐふぅ…… 」


 夜中、首を絞められて遠藤が目を覚ます。


「ぐぐぅ…… 」


 首を絞める伊藤の幽霊を引き離そうとするが手は空を掴むだけで伊藤を触ることが出来ない。


『ウヴゥーッ、ガウゥーーッ』


 モコが現われて伊藤に飛び付く、ベッドの上から飛び退くように逃げると伊藤はモコに蹴りを食らわせた。


『クソ犬が! 邪魔をするな』

『ギャウン』


 悲鳴を上げてモコが床に転がった。


「モコっ! 」


 遠藤がモコを加勢しようと枕を投げ付けるが伊藤の体をすり抜けて壁に当たるだけだ。


「なんで……なんでよ、モコは触ることが出来たのになんでお前を殴れないのよ」


 遠藤が悔しげに伊藤を睨み付ける。伊藤の幽霊は自分の首を絞めることが出来るのに自分は伊藤の幽霊に何も出来ない、モコが殴られ蹴られるのを見ていることしか出来ない。


「モコ…… 」


 何か出来ないかと見回す遠藤の目にナースコールが映った。


「お願い! 」


 祈りながらボタンを押した。


「どうしました? 」

「助けてください、男が……あの男がモコを……早く来てください」


 看護師の声が聞こえて遠藤が必死に話し掛ける。

 直ぐに廊下からパタパタとリノリウムの床を早足でやって来る音が聞こえてきた。


『 ……くそっ……バカ犬が邪魔をしたんだな』


 伊藤の幽霊がすーっと消えていった。


「モコ! 」


 床に倒れていたモコを遠藤が抱きかかえた。


『キュゥ~~ン、フンフンフン』


 甘え声を出すモコの鼻息が遠藤の首筋に当たった。


「モコ、ごめんねモコ、でも二度と自殺なんてしないから……私も戦うからね」

『クゥゥ~~ン』


 嬉しそうに鳴くとモコはペロッと遠藤の頬を舐めてから消えていった。


「遠藤さん、どうしました」


 看護師がドアを開けて入ってきた。遠藤は先程の出来事を話すが信じて貰えない、夢でも見たのだろうと睡眠導入剤を勧めてくるが遠藤は断った。


 同じ事が続き、遠藤が退院する日に担当医が両親に心療内科を受けることを勧めた。

 塞ぎ込んで鬱のようになっていたのを見ている両親も一度心療内科で見てもらった方がいいと考えた。それで設備の整っている磯山病院へ入院してきたのだ。

 これが遠藤亜里彩えんどうありささんが教えてくれた話しだ。



 哲也が缶コーヒーをテーブルの上に置いた。

 途中で飲もうとしたのだが健気なモコの話しに引き込まれて缶を開けることもなく両手で握り締めていた。


「モコちゃんは遠藤さんが大好きなんですね」


 優しい顔で話す哲也の向かいで涙ぐみながら遠藤が頷いた。


「私もモコが大好きよ、でも……でもモコを助けてやれないの、モコは何度も私を助けてくれるのに私はモコに何もしてやれない……伊藤に、あの男に殴られるモコを見ているしかないの」


 遠藤が縋り付くような目で哲也を見つめた。


「今でも、入院しているこの部屋にも出てくるんですか? その伊藤って男」

「出てくるわ、3日おきくらいに出てきて私の首を絞めるの、その度にモコが助けてくれるのよ……でも、もう限界よ、モコが苦しむ姿はもう見ていられないのよ」


 流れる涙を手で拭きながら遠藤が続ける。


「昨日も出てきてモコが助けてくれたのよ……私に近付いたら他の犬も酷い目に遭わされるわ、だから……だから………… 」


 言葉を詰まらせる遠藤に哲也が優しく声を掛ける。


「犬が大好きなんですね、やっぱり遠藤さんは優しいひとだ」

「優しくなんてないわ、モコに酷いことをしたのよ、貴方にも、哲也さんにも酷いことをしたじゃない」


 違うと首を振る遠藤の向かいで哲也が真剣な表情に少し怒りを浮かべた。


「全部伊藤って男が悪いんですよ、遠藤さんは悪くない」


 哲也が腰を上げる。


「3日おきくらいに出てくるんですよね? 昨日出たって事は今晩は出てこない、明日か明後日に出てくる可能性がある。僕が殴ってやりますよ、その伊藤ってバカ男を、遠藤さんだけじゃなくてモコを苦しめるなんて僕も本気で腹が立ってきましたから」


 立ち上がった哲也を遠藤が見上げる。


「本当に殴れるの? 私が何をやっても触ることも出来なかったのに」

「任せてください、僕も何で触れるのかわかってないんだけど幽霊に触ることが出来るのは本当です」


 まだ少し疑っているような遠藤の前で哲也が自分の手を見つめながらこたえた。


「本当ならお願い、モコを助けてあげて」


 涙を流して頼む遠藤に哲也がニッコリと笑って頷いた。


「僕もモコに会いたくなりました。今晩から見回りを強化するので安心して寝てください、何かあれば直ぐに駆け付けますから」


 優しい顔で笑いながら哲也は部屋を出て行った。

 ドアを閉めて廊下を歩いて行く哲也は今まで見たことのないような真剣な表情だ。


「絶対に助ける! 死んでまで飼い主を助ける犬に酷いことをするヤツなんて絶対に許さない、たとえ僕がどうなっても絶対に殴り倒してやる」


 長い廊下を歩きながら哲也が拳を挟むようにしてバシッと鳴らした。その顔に怒りが浮んでいる。お人好しで気のいい哲也が本気で怒っていた。



 2日後の深夜、見回りをしていた哲也がB棟へと入っていく、いつものように最上階へ上がると下りながら各階を見て回る。


「昨日は異常無しだった。出るとしたら今日か明日だ」


 緊張した面持ちで4階の廊下を歩いて行くと遠藤の部屋である408号室で立ち止まる。


「408号室異常無し」


 哲也が小さな声で呟いた。ドア越しに中の様子を伺うが何も聞こえてこないので安心して歩き出す。


「出なくなったのならそれでいい、でも全部遠藤さんの妄想なら…… 」


 階段を下りながら哲也が首を横に振った。


「違う、妄想じゃない、僕も見たんだ。遠藤さんの足下にいたモコを…… 」


 心の病ではなく全て怪異の所為なら解決すれば直ぐに良くなるはずだ。遠藤が心の病だとは思いたくないのだ。

 3階の長い廊下を歩いていると犬の鳴き声らしきものが微かに聞こえてきた。


「アニマルセラピーかな? 」


 長い廊下を歩いてた哲也が窓を開けて様子を伺う、滅多に無いがアニマルセラピーの犬が吠えることがあるのだ。

 アニマルセラピーはE棟にある。そちらに聞き耳を立てるが犬の鳴き声など一つも聞こえない。


「違うな……だとしたら」


 哲也が慌てて階段へ走り出す。


「さっき通った時は何もなかったのに」


 4階へ上がると遠藤の部屋へと向かった。


『ヒャウゥン』


 ドアノブに手を掛けた。その時、犬の悲鳴が聞こえてきた。


「遠藤さん! 」


 ノックもせずにドアを開けた哲也の目にベッドで寝ている遠藤の上に跨る男が見えた。


「何やってる! 」


 怒鳴る哲也の足下に茶色い中型犬が倒れていた。コッカースパニエルだ。犬好きの哲也には直ぐにわかった。


「モコ? 」

『キュゥ~ン』


 倒れていたモコが顔を上げて哲也にこたえた。

 遠藤に跨っていた男が振り向いた。伊藤の幽霊だ。


『クソ犬だけじゃなくてお前も邪魔をする気か』


 伊藤がジロッと哲也を睨んだ。

 頭がぱっくりと割れて血や黄色く濁った体液が漏れている。その奥に灰白色の脳らしきものも見えていた。薄暗い中で見ると恐怖しか感じない姿だ。


「えっ、遠藤さんから離れろ」


 哲也が震える声を出す。


『お前も殺してやろうか? この女の次にな』


 伊藤がニタリと不気味に笑った。余りの恐怖に普段の哲也なら逃げ出していただろう。


『ヴウゥ…… 』


 哲也の前で倒れていたモコが起き上がった。


「モコ、お前…… 」


 何発か殴られたのだろう、モコの足下がフラついている。


「クソッたれが! 」


 哲也が気合いを入れるように震える自分の腿を思いっ切り叩いた。


『ヴヴゥーッ、ワンワン』


 モコが伊藤に飛び掛かる。


『クソ犬が! 』


 伊藤がモコを殴りつける。注意がモコに向いた隙を突いて哲也が向かって行った。


『ギャゥン! 』


 伊藤に殴られたモコが悲鳴を上げて宙を舞う、


「この野郎!! 」


 哲也が伊藤の腕を掴んで肩越しに背負うように投げた。柔道の背負い投げだ。柔道など高校の授業で少しやっただけで哲也は殆ど知らない、偶然背負い投げのようになったのだ。


『うわぁ~ 』


 叫んで転がる伊藤に哲也が殴り掛かる。


「ふざけんな! お前が悪いんだろうが! 」


 倒れた伊藤に跨って連続で殴りつける。哲也は恐怖と怒りでキレていた。


『ひぎぃ……なんで……ひぃぃ……たっ、助けてくれ………… 』


 伊藤に先程までの勢いはない、その顔に恐怖が浮んでいた。普通の人間に殴られるなど思っても見なかったのだろう、元から小心な男だったのかも知れない。


「二度と遠藤さんの前に現われるな! 遠藤さんには僕がついてる。何度来てもボコボコにしてやるぞ」

『ひぃぃ……助けて…… 』


 悲鳴を上げる伊藤から哲也が離れる。


『ガウヴヴゥ…… 』


 倒れている伊藤の首元にモコが噛みついた。


『ぎゃあぁぁ~~ 』


 叫びを上げて伊藤が消えていった。


「モコ…… 」


 哲也が息を切らせてモコを見つめる。

 ベッドの上で遠藤が身を起す。


「モコ! 」


 主人の呼び声にモコがサッと身を翻してベッドに飛び乗った。


「モコ……モコごめんね、ありがとうねモコ、モコ…… 」

『クゥ~ン、クゥゥ~~ン、キュゥ~ン』


 泣きながら謝る遠藤に抱かれてモコが嬉しそうに尻尾を振っている。


「よかったなモコ」


 哲也はそっと部屋を出て行った。

 あの様子では伊藤の霊は二度と出てこないだろう、モコが守ったのだ。



 翌日から遠藤はアニマルセラピーを受けるようになった。大好きな犬や猫に囲まれて心が晴れたのか症状はぐんぐん良くなっていった。伊藤の幽霊は出てこなくなったがモコは布団に潜り込んできたり夢に現われてくれるという。


「哲也さん、ありがとう、哲也さんの御陰であの男は出てこなくなったわ」


 2週間が経ち、すっかり良くなった遠藤は退院することになった。あとは家の近くの心療内科に通院するだけでよいと先生も太鼓判だ。


「僕は何も……モコが、モコが守ってくれたんだよ」


 照れる哲也に遠藤が抱き付いた。


「うん、モコが守ってくれてるってわかったから私は一からやり直してみる。そのモコを助けてくれた哲也さんには本当に感謝しているわ」

「おおぅ…… 」


 急に抱き付かれて哲也は顔どころか全身真っ赤に染まっていく、


「ぼっ、僕もモコに会えて良かったよ」

「ありがとう、モコも喜んでるよ」


 照れまくる哲也の頬に遠藤がチュッとキスをした。


「哲也さんが早く良くなるように祈ってるわ」


 哲也が警備員ではなく患者だと誰かに聞いたのだろう、遠藤はパッと離れるとニッと可愛い笑みを見せて走って行った。


「あっ……うん、さようなら遠藤さん」


 迎えに来た両親だろう、大きな門の前にいた2人が哲也に向かってお辞儀をした。


「ありがとう哲也さん」


 先生たちと何らや話す両親の横で遠藤が手を振った。その足下に茶色い影がチラチラと見えた。モコだ。


「よかったなモコ」


 呟くと哲也も手を振り返す。

 両親と共に遠藤が車に乗り込んだ。もちろんモコも一緒だ。

 モコが守ってくれている。遠藤はもう大丈夫だ。哲也は胸の奥が暖かくなって姿が見えなくなるまで遠藤とモコを見送った。



 車が見えなくなるまで振っていた手を下ろす。


「遠藤さん可愛かったなぁ…… 」


 抱き付かれて頬にキスされた事を思い出して哲也がニヤけ顔だ。


「よかったわねぇ~~ 」


 後ろから声が聞こえて哲也がビクッと体を震わせて振り返る。


「かっ、香織さん……世良さんも…… 」


 看護師の香織と臨床心理士の世良が笑顔で立っていた。


「良かったわね、哲也くん」

「なっ、何が良かったんですか」


 満面笑顔の香織に哲也が必死でとぼける。

 世良が自分の頬を突きながら口を開く、


「キスマーク付いてるわよ」

「うぉう! 」


 慌てて頬を手で拭く哲也を見て2人が大笑いだ。


「あははははっ、ほんとに哲也くんは気が多いんだから」

「うふふふっ、まったくだ。でもまぁ今回は哲也くんの御陰で助かったよ、遠藤さんにアニマルセラピーを受けさせたのは哲也くんのお手柄だからね」


 何も悪くないのに哲也が頭を下げる。


「ちょっ……勘弁してください」


 香織と世良、1人ずつでも敵わないのに2人など無理だ。

 哲也を見て香織がニヤッと悪い顔で笑う、


「そうねぇ、哲也くんのお手柄だし、ケーキでも御馳走してあげるわよ」


 哲也がバッと顔を上げた。


「マジっすか? 」


 嬉しそうな哲也の前で世良が含み笑いをしながら話し出す。


「うん、そうだな、私も奢ってあげるよ、ケーキでもアイスクリームでも哲也くんの好きなの奢るよ」

「世良さんも…… 」


 哲也がぐっと拳を握り締めた。


「やったぁあぁ~~ 」


 大声を上げて喜ぶ哲也の向かいで香織と世良が顔を見合わせてニヤッと企むように笑った。


「それでどっちにするの? 」

「へっ? 何がですか」


 呆けた顔で聞き返す哲也に香織がニヤつきながら口を開いた。


「私と世良さんのどちらの招待を受けるのか訊いてるのよ」

「 ……香織さんと世良さんの? 」


 哲也が香織と世良の顔を交互に見つめた。


「そうだ。私のケーキと東條さんのケーキ、どちらを食べに来るか訊いてるんだ」


 ニヤつく2人の前で哲也の顔が強張っていく、


「香織さんのケーキと世良さんのケーキ…… 」


 右から香織が哲也の腕を取る。


「もちろん私よね、哲也くんは私を選んでくれるわよね」


 左から世良が哲也の左手を掴んだ。


「私に決まってる。哲也くんは私と2人だけでケーキが食べたいんだよね」

「香織さんと世良さん………… 」


 2人に挟まれた哲也の顔が弱り切っていく、


「ごっ、ごめんなさい……どっちかなんて選べませんからぁ~~ 」


 2人を振り払って哲也が走って逃げ出した。


「こら! 逃げるな哲也!! 」

「本当に気が多いんだから…… 」


 怒鳴る香織の隣で世良が溜息をつく、その後、直ぐに大笑いだ。


「あははははっ、哲也くん足早いわね」

「ふふふふっ、犬に追われて逃げる時と一緒だ」


 必死で走る哲也に2人の笑い声が聞こえてくる。


「まただ……またからかわれた……酷い、香織さんも世良さんも、酷すぎるっす」


 泣き出しそうな顔で哲也は自分の部屋へと逃げていった。

 お茶の誘いを断るのは勿体無いが香織と世良のどちらかなんて選べない、惚れっぽいだけじゃなく気が多いのも哲也の良いところでもあり悪いところでもあるのだ。



 逃げるように部屋に駆け込むとベッドに寝っ転がる。


「香織さんも世良さんも覚えてろよ」


 悪態をつきながら哲也が頬を撫でる。


「遠藤さんのキス……抱き付かれたし、気持ち良かったなぁ~~ 」


 幸せいっぱいといった緩みきった表情で考える。


「モコも可愛かったな……よかったなモコ」


 愛する御主人様を守るためにモコはずっと遠藤の傍にいたのだ。遠藤がモコにどれほど愛情を注ぎ信頼されていたのかがわかる。其れ故にペットロスになったのだろう。


 心が病んで耐えきれないほどのペットロスを癒やすには新しいペットを飼うのが一番の近道だが全ての人が簡単に次のペットを飼える状況にいるわけではない、別れのつらさに二度とペットを飼わないと誓った人もいるだろう、だが飼われていたペットたちは幸せだっただろうと哲也は思う、ペットロスになるほどに愛して貰えたのだから……。


 飼い主がペットに注いだ愛情と同じようにペットたちも飼い主を愛しているのだ。だから亡くなったペットたちが天国で心配しないように飼い主は頑張って生きていくしかない、ペットロスなんかに負けてはいけないのだ。空元気でもいい、元気を絞り出して前に進んでいくのだ。今回の怪異に遇って哲也はそう思った。

読んでいただき誠にありがとうございました。

次回更新は4月20日の15:30頃を予定しています。

4月20日~22日、毎日1話ずつ計3話更新いたします。


執筆最大の敵、花粉症

思考力が落ちて思うように筆が進みません

毎月4話更新したかったのですが今月は3話となりました。


5月も3話になると思います。

寒さより暑さに弱いので暫く3話更新になるかもしれません


一つでも面白いと思う話がありましたらブックマークや評価をしてもらえれば嬉しいです。

感想やレビューもお待ちしております。

単純な人間なので感想やレビューを貰えるとヤル気が湧いてきます。


では次回更新も頑張りますので読んで頂けると嬉しいです。ありがとうございました。


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