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第二十六話 夜鳴き蕎麦

 屋台と聞くと多くの人は祭りの夜店を思い浮かべるだろう、屋台でしか出せない味もあるだろうが冷静になって考えると割高で大して美味しくなかったりもする。お祭りという雰囲気込みの価格だと納得するしかない。

 祭り以外でも屋台を見掛けることがある。駅前でたこ焼きや鯛焼きの屋台を見つけてつい買ってしまった経験もあるだろう、目の前で焼くビジュアルと匂いには敵わないものだ。


 屋台の一つに夜鳴き蕎麦がある。名前の通りラッパを鳴らして知らせながら蕎麦やうどん、ラーメンなどを先々で作って売る移動食堂だ。小腹の空く夜半に哀愁のあるラッパの音に釣られて食べに出てしまうというわけである。

 昭和の時代にはまだ彼方此方で夜鳴き蕎麦の屋台を見掛けたがコンビニが小さな町にまで出来るようになると見掛けなくなった。深夜までやっている飲食店が増えた影響もあるだろう、何時でも直ぐに買い物に行ける現代と違って昔は不便だったのである。


 哲也も二度ほど夜鳴き蕎麦を食べたことがある。一度目は幼稚園の頃だ。哲也の住んでいた地方の都市では軽トラックを改造した屋台が走っていた。夜に聞こえるラッパの音が気になって父に訊くと食べに連れて行ってくれたのである。二度目は中学の頃、遅くなった塾の帰り、仲の好かった先生が駅前に出ていた屋台を奢ってくれたのである。


 二つとも哲也にとっては温かな思い出だ。だが世の中には夜鳴き蕎麦の温かさを吹き飛ばすような嫌な体験をした人もいる。ある患者に聞いた話しも何とも言えない嫌な話しだった。



 夜の10時過ぎ、見回りをしていた哲也は微かに聞こえる音に足を止めた。


「ラッパだ……ラーメン……夜鳴き蕎麦の屋台が来てるのかな」


 建物の外を歩いていた哲也が病院を囲む大きな壁を見つめた。決して旨くはない哀愁あるラッパの音が近付いたと思ったら直ぐに遠ざかっていく、病院の敷地を囲む大きな壁の外を走る道路を夜鳴き蕎麦の屋台が通り過ぎたらしい。


「食べたいなぁ~~、患者じゃなかったら外に出て食べにいけるのに…… 」


 愚痴りながら見回りを再開する。

 C棟へと入る手前でふと足を止めた。


「でも夜鳴き蕎麦なんて初めてだな、1年半ほど入っているけど初めて聞いたぞラッパの音……いや、まてよ……病院の外ってどうなってるんだ? 」


 入院してくる前に通ったはずなのに病院の外がどのようになっているのか思い出せない、


「あの門から道が続いてるんだよな……少し行くと坂道になってて………… 」


 閉じている大きな正門を見つめて考える。患者が退院していく際に門の向こうは何度か見た。山道を切り開いた道路が続いていて先は坂になっていて見えない。


「ああ……上の階から見たら病院の横を道路が通ってて、正門に続いてる道の横に自動販売機が二つ並んでて……あとは山に囲まれて山を通る道路が数本見えるだけだ」


 病棟の上階から見た景色も山しか見えない事を思い出す。


「あれ? 下の町って何て言う所だっけ? 」


 山の下にある町の名前や町並みを思い出そうと必死で考える。


「どうしたんだい? 」


 考え込んでいた肩を叩かれて振り返ると警備員の須賀嶺弥が立っていた。


「あっ、嶺弥さん」

「何かあったのかい哲也くん」


 心配そうに見つめる嶺弥の前で哲也が顔の前でブンブンと手を振った。


「違うんです。異常はありません…… 」


 手を止めると思い付いたように哲也が口を開く、


「嶺弥さんは下の町に住んでるんですよね? 」

「うん、ボロいアパートを借りてるよ、それがどうかしたのかい? 」


 笑顔でこたえる嶺弥に哲也が安心した様子で続ける。


「下の町って何ていう町でしたっけ? 磯山病院って…… 」

「どうしてそんな事を訊くんだい? 何か気になることでもあるのかな? 」


 哲也の言葉を遮って嶺弥が聞き返す。その顔からは笑みが消えていた。


「あっ、いえ、そう言うんじゃなくて……さっき夜鳴き蕎麦が通ったみたいで、下の町から来たのかなって考えてたら町の名前ど忘れしたみたいで思い出そうとしてたんです」


 慌てる哲也を見て嶺弥がフッと優しく微笑んだ。


「夜鳴き蕎麦か……哲也くん腹減ってるんだな」

「いや、そういう訳じゃないですけど…… 」


 否定しながら口籠もる哲也の向かいで嶺弥が微笑みながら続ける。


「新製品のカップ麺を買ってきたんだけど食べるかい? どの味にしようか迷って三つ買ってあるから哲也くんに一つあげるよ」


 哲也がパッと顔を明るくした。


「マジっすか? 頂きます。夜鳴き蕎麦のラッパ聞いて腹減ってたんですよ」

「あははははっ、じゃあ、さっさと見回り済ませて控え室に来るといいよ」

「了解っす」


 ふざけるように敬礼すると哲也はC棟へと入っていった。


「どうにか誤魔化せたな……疑問を持つには時期が悪い」


 哲也に向けていた顔とは全く違う険しい表情で嶺弥が歩いて行った。



 翌朝、朝食も食べずに昼前まで寝ていた哲也がモソモソと起き出した。


「カップ麺美味しかったな、最近の高いヤツは下手な店より旨いんじゃないかな」


 昨晩、嶺弥に御馳走になったカップ麺で腹が減っていなかったので朝食を食べずに昼まで寝ていたのだ。

 コップと歯ブラシを持ってトイレへと向かう、トイレの洗面台で顔を洗って歯を磨くのが哲也の日課だ。


「あっ、香織さんだ! 」


 何気なく見た廊下の窓から正門から入ってくる看護師の香織が見えた。


「新しい人だな……香織さんと一緒ってことはA~Eに入ってくるな、どんな人だろ」


 香織と一緒に中年男が見えた。新しい入院患者だ。


「男だな……可愛い女の子だったらよかったのに、まぁいいや、あとで聞きに行こう」


 寝惚け眼を擦りながら哲也はトイレへと入っていった。



 服を着替えた哲也は昼食をとろうと食堂へ向かう、


「あっ、香織さんだ」


 B棟から出てくる香織を見つけて駆け寄っていく、


「おはようございます。新しい人ですか? 」


 香織の隣りにいる患者に哲也がペコッと頭を下げる。


「おはようって今まで寝てたな」

「えへへっ、昨日見回り終わって嶺弥さんと少し話ししてたから、さっきまで寝てました」


 弱り顔の香織に哲也がおべっか笑いだ。


「まったく……此方は新しく入った高山さん、B棟だから哲也くんの見回り担当ね」


 香織に紹介されて高山が軽く会釈をした。

 哲也がキリッと真面目な表情を作って返す。初めが肝腎というヤツだ。


「中田哲也です。哲也って呼んでください、警備員をしていますので何かあれば何でも言ってくださいね」

高山静夫たかやましずおです。此方こそよろしくお願いします」


 警備員と聞いて高山が改めて頭を下げた。

 香織が哲也の背をドンッと叩く、


「何かあれば相談するといいわよ、これでも頼りになるのよ哲也くん」

「やだなぁ、そんなに褒めても何も出ませんよ」


 珍しく褒める香織に作為的なものを感じたがそれを上回る嬉しさに哲也は満面の笑みだ。


「今から食事に行くから丁度いいわ、哲也くんも一緒に行きましょう」

「あっ、ハイ、高山さんに食堂の使い方を説明しますよ」


 優しい香織の後ろを浮かれるように哲也が付いていく、

「聞いたと思いますが磯山病院はセルフで並んで食事を入れて貰います」


 高山にトレーを渡すと自分も持って配食の列に並んだ。香織は哲也に任せていつの間にか消えている。


「席とか決めてる人もいるので気をつけてくださいね、一番奥のこの辺りは大丈夫ですから慣れるまではこの辺りの席で食べるといいですよ」


 差し障りのない会話をしながら並んで食事を終えた。気難しそうな顔をしている高山を見て神経質なのかも知れないと込み入った話は避けたのだ。


「帰りはわかりますよね? 部屋番号覚えてますよね? 病院内を案内してもいいですけど…… 」


 哲也の隣で高山がこくっと顎を引くように頭を下げた。


「ありがとう、哲也くんだったな、気を使わなくてもいいよ、案内はいい、部屋に戻ってテレビでも見るから……直ぐに退院するつもりだからな、俺は病気じゃない、寝惚けて徘徊しただけだ」

「そうですか、わかりました。それじゃあ僕はこれで」


 立ち上がると哲也が食堂の奥を指差す。


「食べ終わったトレーはあそこに返して下さい、僕は夕方と夜に見回りしてますから高山さんの部屋の前通ったら顔見せますよ、何かあればその時にでも相談して下さい」

「わかった。本当にありがとう哲也くん」


 頷く高山を置いて哲也は先に食堂を出て行った。



 昼まで寝ていたので今日は眠たくならない、長い廊下をナースステーションに向かって歩く、


「僕に全部押し付けて……香織さんの仕事でしょ」


 愚痴りながらも高山のことが聞けると考えた。


「早坂さんは居るのか……佐藤さんは居ないな」


 苦手な佐藤が居ないのを確かめてから哲也がナースステーションに近付いていく、


「あら哲也くん、何か用? 」


 奥の机に座っていた香織が白々しい笑顔を向けてきた。


「頼まれていた用事終りましたよ、それで他に何かないかと…… 」


 看護師たちが一斉に香織を見つめた。早坂が溜息をつく、また哲也に用事を頼んだのかという顔だ。哲也は患者である。患者に用事を頼むなど普通はしない、哲也の方から手伝うと言ってきた場合は頼むこともある。男性看護師が居ない時に嶺弥たち警備員と一緒に力仕事を頼むこともある。度々手伝って貰う香織がイレギュラーなのだ。


「あはははっ、ありがとう」


 香織が笑いながら出てきた。


「助かったわ、高山さんは注意しないといけないから哲也くんにも教えておこうと思ってね、本当に助かったわ」


 同僚の看護師たちに聞こえるように言うと香織は哲也の腕を引っ張って歩き出す。


「悪かったわよ、ほっぽり出して……仕返しすること無いじゃない」

「ごめん……今度から気を付けるよ」


 哲也が素直に謝った。組むようにして引っ張られた腕が香織の胸に当たって気持ちが良かったのだ。


「それで何か話があるんでしょ? 」


 ナースステーションから一番近い階段前の窓際で香織が立ち止まった。


「高山さんの病状を詳しく聞いておこうと思って……何かあるんでしょ? 」

「流石哲也くんね、後で話そうと思ってたのよ」


 普段は此方から聞いても言い渋る香織が進んで話し出す。



 高山静夫たかやましずお32歳、若年性認知症と診断された。夜中に徘徊して食べ物でないものを口に入れてしまうのだ。本人は至って健康で認知症などではないと言っているが深夜徘徊するのは認めていて寝惚けているのか病気かわからないとのことで入院してきた。

 65歳以下の人が発症する認知症を若年性認知症じゃくねんせいにんちしょうという、多くがアルツハイマー病だ。症状はイライラや不安感から鬱のようになったり、妄想や幻覚を見て徘徊したりすることもある。高齢者と違い物忘れではなく、仕事上の失敗や普通と違う行動で本人ではなく周囲が気付くことが多い。会話などは普通に行えるので鬱や統合失調症など他の病と間違われることも多い厄介な病だ。


「それで寝惚けて徘徊するって言ってたのか…… 」


 昼食の時に聞いた話しを思い出して哲也が呟いた。


「本人は病気じゃないって言い張ってるけど親御さんが夜中に出歩いてそこらの土とか口に入れているのを見つけたのよ」

「そこらの土ですか……寝惚けてるにしても何らかの病気ですね、本人は直ぐに退院するとか言ってましたけど」


 苦笑いする香織の隣で哲也が嫌そうに顔を顰めた。

 食べ物以外でも何でも口に入れてしまう認知症なので気を付けてくれとのことだ。口に入れるということは中毒や窒息などに直結するという事である。目が離せない患者なので哲也にも見張ってもらおうという事で教えてくれたのだろう。


「何でも口に入れるか……隔離した方がいいんじゃないですか? 」


 思い付いたように話す哲也の横で香織が弱り顔で続ける。


「普段は……昼間は異常ないのよ、夜に寝惚けて徘徊して落ちてる物とか口に入れちゃうみたいなのよ、親も望んでいないし本人も嫌がっているから問題が起きないと隔離には送れないわね、それで哲也くんにも注意してもらおうとおもって…… 」


 実際に症状を見たわけではないので香織も正直困っているといった様子だ。


「まぁ普通に話せますし、病気には見えませんね、わかりました僕も気を付けておきます」


 好意を寄せている香織が困っているのを助けないわけにはいかない、哲也は二つ返事で引き受けた。

 香織が哲也の手を包み込むようにして握った。


「頼んだわよ、夜の見回りは特に気を付けてね、須賀さんには私から言っておくから」

「了解しました。任せて下さい」

「やっぱり哲也くんは頼りになるわね、だからついつい頼んじゃうのよ、それじゃあ任せたわよ、今度ケーキでも買ってくるからね」


 胸を張ってこたえる哲也を煽てると香織はナースステーションに戻っていった。


「やっぱり僕に押し付けるつもりだったんだ。香織さんから話してくるなんておかしいと思ったんだよなぁ、でも僕を頼ってる証拠だし……他の患者には頼んだりしないしな、僕だけだからな」


 愚痴を言いながら階段を上っていく哲也の顔は嬉しそうな笑顔だ。



 その日の深夜、午前3時の見回りで哲也がB棟へ向かっていると人影を見つけた。


「誰だ! 」


 建物の裏へと回っていく人影を哲也は追った。


「待ちなさい!! 」


 50メートルほど距離があったが直ぐに追い付いた。フラフラと歩く人影の後ろから腕を掴んで前に出る。


「たっ、高山さん」


 寝惚けた顔をした高山がモゴモゴと口を動かす。


「らっ……ラーメン………… 」

「ラーメン? 」


 首を傾げながら哲也が高山の両肩を持って前後に揺すった。


「高山さんしっかりしてください、高山さん」

「うぅ…… 」


 高山のとろんと夢心地だった目に光が戻る。


「あれ? ここは? 」

「高山さん気が付きましたか? 」


 心配顔で見つめる哲也に気付いて高山がはっと顔を顰めた。


「また寝惚けたのか……哲也くんだったな、迷惑を掛けたね、ありがとう」

「大丈夫ですか? 高山さんが寝惚けて出歩くってのは聞いてましたけど」

「うん、ラーメンの笛が聞こえたんだ……夜鳴き蕎麦だよ、それで食べたくなってね、気が付いたらここに立ってた」


 遠い目をして話す高山の前で哲也は昨晩の事を思い出した。


「夜鳴き蕎麦ですか……最近近くを通るみたいですね、僕も昨日ラッパの音聞きましたよ」

「哲也くんも聞いたのか? 俺もさっき聞いたんだ。寝ているところを起こされてね、それで無性に食べたくなって…… 」


 病院の敷地を囲む高い壁を見つめる高山を見て哲也が成る程と頷いた。


「それで寝惚けて出歩いたんですね」

「うん、そうみたいだな」


 恥ずかしそうに目を伏せる高山に哲也が優しく声を掛ける。


「寝惚けるくらいに食べたかったんですね、そういう事もありますよ、でも病院には夜鳴き蕎麦なんて入ってこれませんから諦めて部屋に戻りましょう」

「そうだな……でも食べたいよなぁ」

「退院してからの楽しみにしておけばいいじゃないですか」


 高山を部屋に送ってから哲也は見回りを再開した。


「高山さんラーメン好きなのか……無性に食べたくなる気持ちはわからないでもないな」


 B棟の見回りを終えて出てくるとC棟に向かいながら独り言だ。


「一寸待て、僕が聞いたのは夜の10時頃だぞ、幾ら何でも午前3時にラッパの音鳴らす夜鳴き蕎麦なんて聞いたことないぞ」


 ふと足を止めて高山の403号室を見上げる。


「夜鳴き蕎麦の音なんて聞いてないぞ、見回りしてたんだから僕にも聞こえるはずだ。高山さん完全に寝惚けてたな、寝惚けて徘徊するんだ。それで食べ物だと思って拾って食べるんだ。これは気を付けないとマジでヤバいぞ」


 厄介事が一つ増えたと険しい顔をして哲也は歩いて行った。



 翌日、昼食を終えた哲也は高山の部屋に向かった。


「香織さんに言って嶺弥さんのケーキも頼んでおかないとな」


 カップ麺を手土産にB棟に入っていく、嶺弥が夜食に買い置きしていた高いカップ麺を貰ったのだ。


「高山さん入りますよ」


 403号室のドアをノックして顔を見せるとベッドに転がってテレビを見ていた高山が上半身を起した。


「哲也くんか」

「突然済みません、心配だから見に来ました」


 おべっか笑いをする哲也を見て高山が顎を引くようにして頭を下げた。


「昨日は済まなかったな」


 照れるように苦笑いする高山に哲也がコンビニの袋を差し出す。


「夜鳴き蕎麦は無理ですけど夜中にお腹減ったらカップ麺でも食べてください、僕も食べたけど結構美味しいですよこれ」

「済まないな、貰っとくよ」

「お湯は食堂で言えば保温ポットに入ったのをくれますから夕食食べた後にでも貰うといいですよ」


 嬉しそうに受け取った高山に哲也が本題を切り出す。


「それで昨日のことなんですけど、夜鳴き蕎麦の音が聞こえたって言ってましたよね、何時頃かわかりますか? 僕が見回りをしていた午前3時頃じゃないですよね」

「いや、何時かわからないけど哲也くんに助けて貰った時間くらいだと思うよ……夢かも知れないけど確かに夜鳴き蕎麦の音が聞こえたんだ。それで………… 」


 言い辛そうな高山の顔を哲也が覗き込む、


「夜鳴き蕎麦が何かあるんですか? 」

「そうだな哲也くんには話してもいいかな、夜鳴き蕎麦…… 」


 言葉を詰まらせる高山のベッド脇に椅子を持ってきて哲也が座った。


「話してください、昨日みたいに力になれるかも知れませんから」

「そうだな、また助けて貰うかも知れないからな……夜鳴き蕎麦なんだよ、今まで食べたラーメンの中で一番旨かった……でもその所為で入院するようになったのかも知れない」


 遠い目をして高山が話を始めた。

 これは高山静夫たかやましずおさんが教えてくれた話しだ。



 山に囲まれた町に住んでいる高山は仕事に行くにも遊びに行くにも毎日山を幾つも越えていた。

 四ヶ月ほど前のある夜、仕事で失敗して上司に叱られた高山はむしゃくしゃして車を走らせて帰路についていた。


「何だあのトラック? 」


 曲がりくねった峠に差し掛かると前を軽のトラックが走っているのが見えた。


「急いでるってのに……へへっ」


 ゆっくりと走る軽トラをむしゃくしゃしていた高山が後ろから煽る。高山が乗っているのはRV車だ。軽トラよりも一回り大きな車である。


「おらおら、さっさとどけよ、ヨタヨタ走ってんじゃねぇ」


 ヘッドライトを点滅させてパッシングしたり邪魔だというようにクラクションを短く連続で鳴らしたり、憂さを晴らすように軽トラを煽った。


「邪魔だ! どけってんだ」


 どけと言うが山奥の道路である。車線は一つだ。道を譲りたくても避けることなど出来ない道だ。曲がりくねった峠なので反対車線に出るなど対向車が来たら危なくて出来ない、そもそも交通違反だ。


「どけってんだよ!! 」


 煽る高山の前で軽トラックがヨロヨロとガードレールに車体を擦り付けながら道路脇にある待避所へ逃げるように入っていった。


「下手くそがっ! 」


 高山は悪態をついて通り過ぎていった。



 翌日の夜、残業を終えた高山が帰りを急いで山道を通っていると軽トラックが走っているのを見つけた。


「昨日のヤツか……へへへっ」


 今日は別にむしゃくしゃしていなかったが昨晩の軽トラックの慌てふためく様を思い出して意地悪してやろうと高山がスピードを上げた。


「おらおら、ノロノロ走ってんじゃねぇ、邪魔だどけ! 」


 後ろから煽ると軽トラックは慌ててスピードを上げて逃げていく、


「へへっ、面白い、逃がすかよ」


 意地悪にニヤつきながら高山が追っていく、屋台か何かだろう、荷台を改造してある軽トラックだ。スピードも高山のRV車に敵うはずもなく直ぐに追い付いた。


「おらおら、さっさとどけ! 邪魔なんだよ、反対車線に出て道を空けろよ」


 威嚇するようにパッシングをすると軽トラックは慌ててガードレールに車体を擦り付けて止まった。ガードレールの向こうは崖になっている。悪戯で済む行為ではない。


「あははははっ、気を付けろよ崖に落ちるぞ」


 高山は大笑いしながら軽トラックの横を通り過ぎていく、


「屋台のトラックか、夜鳴き蕎麦ってヤツか……ラーメンでも食って帰るかな」


 ちらっと軽トラックを見ると気の弱そうなおやじが運転席で縮こまっていた。



 次の日の夜、高山はまた仕事でミスをしてその補填にサービス残業をして遅い帰りについていた。


「なんだ今日は居ないのかよ」


 上司に叱られたことと金にならない残業でイライラしていた高山が悪態を付いた。昨晩の軽トラックがいたら憂さ晴らしに煽ってやろうと思っていたのだ。


「せっかく遊んでやろうと思ったのによぉ、ビビって逃げやがったな」


 乱暴な運転をして峠のカーブを走り抜けた。

 次の日も、その次も軽トラックに遭うことはなくなった。ビビって道を変えたのだと高山は勝ち誇った。



 1週間ほどが経った。また仕事でミスをした高山はサービス残業でミスの穴を埋めて愚痴りながら夜の山道を帰路についていた。


「くそぅ……何で俺が……やべぇ眠くなってきた。さっさと帰ろう」


 金にならない残業をしたという倦怠感で眠気が襲ってくる。早く帰ろうと自然とスピードを上げていた。


「ん? あれは……彼奴だ」


 高山がハンドルを握り直す。前の山道を軽トラックが走っているのが見えた。


「へへへっ、眠気覚ましに丁度いいぜ」


 軽トラックをからかってやろうとスピードを上げていく、眠気などすっ飛んでいた。


「いへへっ、峠だ。おらおら! 」


 曲がりくねった峠に差し掛かったところで軽トラックに追い付いた。


「おらおら、さっさと道を空けろ! 」


 ここぞとばかりに煽り出す。後ろからパッシングされて軽トラックが慌ててスピードを上げて逃げていく、


「逃がすかよ、たっぷり遊んでやるぜ」


 直ぐに追い付くとクラクションを鳴らして触れるかと思うほどに車間を詰めていく、


「おらおら、さっさとどけよ」


 軽トラックはあたふたと道路脇にある待避所に入っていった。


「ぎゃははははっ、ビビってやんの、あははははっ」


 態とスピードを落として軽トラックの運転手を見ながら高山は大声で笑いながら通り抜けていく、


「あのおっさん、完全にビビってたな、あははははっ」


 楽しげに笑っていた高山の目に道路脇にある待避所が見えた。


「いへへっ、もっとビビらせてやる」


 高山は待避所に車を止めてエンジンを切ってライトも消した。明かりなどない山道だ。高山の黒い車体は闇に紛れて見えなくなる。

 5分ほど待っただろうか、高山が止めた待避所の脇を軽トラックが通り過ぎていった。


「いへへへっ、馬鹿が…… 」


 エンジンを掛けると高山が軽トラックを追っていく、


「おらおら、邪魔だ! どけ」


 直ぐに追い付くと後ろから煽りはじめた。

 軽トラックは慌てて逃げ出すが高山のRV車に敵うわけもなく難無く追い付かれる。


「邪魔だ邪魔! さっさと道開けろよ」


 軽トラックの後ろに付くとクラクションを鳴らしたりパッシングをして煽る。

 余程慌てたのだろう軽トラックは対向車線に出て車を止めた。


「チッ! くそが」


 高山は悪態を付くとそのまま車を走らせる。

 暫くしてまた待避所に車を止めて軽トラックが来るのを待った。


「今日は徹底的にやってやる」


 高山が目をぎらつかせてニヤリと笑った。普段ならここまで執拗に嫌がらせをしないのだが今日は連続でミスを起して上司に叱られたイライラが抑えられなかった。


「いひひっ、来た来た」


 高山の車に気付かずに軽トラックが通り過ぎていく、


「おらおら、早く逃げろ、直ぐに追い付くぞ」


 後ろからパッシングをしながら軽トラックを追っていく、慌てた軽トラックはヨロヨロとガードレールに車体を擦り付けながら必死で逃げていく、


「あはははっ、下手くそが」


 笑いながら高山がスピードを落とした。


「カーブを曲がって安心したところでまた煽ってやる」


 曲がりくねった峠のカーブの向こうに消えていく軽トラックを見ながら高山が悪い顔でニヤついた。一旦煽るのを止めたと思わせておいて再度煽ってやろうと考えたのだ。

 高山の悪巧みも知らず軽トラックは必死で逃げていった。


「そろそろいいかな、いへへっ」


 ニヤリと笑いながら高山がスピードを上げていく、


「どこ行った? 」


 カーブを三つほど曲がったが軽トラックは居ない。


「あのスピードで逃げれるわけないぞ…… 」


 苛ついた頭で考える。一本道の山道だ。暫く脇道はないはずだ。軽トラックが消えるはずなどないのだ。


「クソが! どっかの待避所に止めやがったな」


 スピードを落としてバックミラーを見た。自分が騙したように軽トラックも何処かの待避所に車を止めたのだと考えた。


「次は覚えてろよ! 」


 悪態を付くとそのまま帰路についた。



 翌日から軽トラを見る事はなくなった。怖くなって道を変えたのだろうと高山はいつの間にか軽トラのことなどすっかり忘れていた。


 2週間ほどして帰りを急ぐ山道、明かりなどない道の先にぼうっと温かな光が見えた。


「屋台? ラーメンか…… 」


 峠の曲がり道の向こう、待避所となっている小さな空き地に夜鳴き蕎麦の屋台が出ていた。蕎麦と呼んでいるがラーメンの屋台である。総称として夜鳴き蕎麦と呼んでいるのだ。


「こんな所に屋台出して儲かるのかよ」


 珍しいものがあるとその場は通り過ぎていった。


 翌日も同じ場所で夜鳴き蕎麦の屋台を見つけた。


「今日もやってる…… 」


 珍しさに思わずスピードを緩めて通って行く、客も3人ほど居る様子だ。


「旨いのかな……でも車止める所なんてないぞ」


 ラーメン好きの高山はどこか車を止められそうな所を探すがやっと見つけた待避所は屋台から2キロは離れている。


「こんなとこから歩いて行けないしな…… 」


 その日は諦めて帰って行った。



 次の日、また失敗をして上司に叱られサービス残業で遅くなる。


「確かこの先だよな」


 曲がりくねった峠のカーブの手前、道路脇の待避所を見て車を止める。


「ここからなら直ぐだ」


 夜鳴き蕎麦を思い出して待避所に車を入れた。叱られたイライラを何かで晴らそうと無性にラーメンが食べたくなったのだ。

 車から降りると暗い山道を歩き出す。


「あった。今日もやってた」


 カーブを二つ曲がった先の待避所に夜鳴き蕎麦の屋台が見えた。やっと食べられると高山は笑顔で屋台に駆け寄った。


「ラーメンとチャーシュー麺か…… 」


 段ボールで作られた手描きの看板にラーメン900円、チャーシューメン1100円と書いてあった。

 先客は3人居た。高山はペコッと会釈すると屋台前に並べてある円椅子に腰を掛けた。


「ラーメン一つ」

『はいよ』


 高山が注文すると店主がくぐもった声でこたえた。

 待っている間に屋台を見回す。軽トラックを改造した夜鳴き蕎麦の屋台だ。客は3人、全て男だ。1人は古めかしいスーツを着ている中年男で後の2人は野良着と言うのだろうか? 時代劇にでも出てくるような農民みたいな着物姿だ。みな青白い顔をして黙々とラーメンを啜っていた。


「こんな所に屋台なんて珍しいですね」


 何か違和感を感じた高山がスーツ姿の客に話し掛けた。


『ああ…… 』


 青白い顔をした男がニタリと笑った。

 店主が丼を高山の前に置く、


『へい、ラーメン』


 スーツ姿の男に気味の悪さを感じたが待ちに待っていたラーメンだ。高山は気にもせずに食べ始める。


「旨い…… 」


 思わず口から出た。旨いラーメンだ。今まで食べたラーメンでも一番旨いと思った。


「出汁が利いてるのか? 汁も旨いしメンも丁度いい」


 ズルズルとあっと言う間に平らげた。


「ごっそさん」


 高山が財布を出すと店主が手を振った。


『お客さん、うちはお金じゃなくて代金は命なんですよ』


 くぐもった声で言うと店主がニタリと不気味に笑った。その顔の半分が青黒く腫れている。痣か何かだろうと高山は思った。


「あははっ、冗談言ってぇ、ビビりませんよ、えーっとラーメンは900円だったね」


 千円札を台に置くと高山が腰を上げた。


「釣りはいいよ、旨かったからね、また来るよ」

『お客さん…… 』


 店主を気にした風もなく高山は暗い山道を下って行った。


「旨かったな、また食おう、次はチャーシューメンでも食うか」


 待避所に止めてあった車に乗り込むと喉に違和感を感じて飲みかけのペットボトルのお茶に手を伸ばす。


「何だ? 喉に何か引っ掛かったか? 」


 ゴクゴクとお茶を飲んでから車を走らせる。

 カーブを二つ曲がって夜鳴き蕎麦の屋台の脇を通っていく、


「旨かったけど客は気味が悪かったな」


 青白い顔をした3人の客を思い出してぶるっと震えた。


「酔ってたんだな彼奴ら」


 酒に酔って顔色が悪いのだと大して気にもせずに帰って行った。



 翌朝、起きると直ぐに吐き気が襲ってくる。


「何だ? 気持悪い」


 高山はトイレに駆け込んで吐いた。


「やべぇ、寝坊した」


 吐瀉物の中に何やら細長い白いものが動いたような気がしたが慌てていたので確認せずに流して着替えると仕事に出た。



 またミスを起して残業を終えて帰路につく、


「今日もやってるといいんだが」


 曲がりくねった峠のカーブの手前、道路脇の待避所に車を止める。

 暗い山道を歩いて行くとカーブを二つ曲がった先に夜鳴き蕎麦の屋台があった。


「おっ、やってるやってる」


 小走りで屋台に近付く、軽トラックを改造した屋台の車体には何処かで擦ったのか大きな傷が付いていた。


「ボロい屋台だな、年季が入って旨いってか」


 軽口を叩きながら高山が屋台前の円椅子に座った。


「チャーシューメン一つ」

『はいよ』


 注文すると奥から店主のくぐもった声が聞こえてきた。

 待っている間に屋台を見回す。客は3人、スーツ姿の中年男と野良着の2人だ。昨晩見たメンバーと同じである。


「こんな場所で店出すなんて珍しいね」

『前は山向こうの駅前に出してたんですがね…… 』


 高山が声を掛けると店主が顔も見せずにくぐもった声でこたえた。


「そうなんですか、向こうの駅ですか、道理で見掛けなかったはずだ。この道、毎晩通ってるんですけどね」

『ひっひひっ、3日前からここで出してます。もう他に出せなくなったんでね、ひひひっ』


 引き攣ったような声で笑う店主に不快感を感じたが漂ってきたラーメンの良い匂いに高山のテンションが上がる。


「おじさんのラーメン旨いから贔屓にしますよ」

『それは有り難い……はい、チャーシューメン』


 店主が丼を高山の前に置いた。


「おわっ! 」


 店主の顔を見て高山が思わず声を出した。痣だと思っていた青黒かった顔の半分が昨日よりも腫れているように見えた。


『ゆっくりしていってくださいね』


 そう言うと店主は奥に引っ込んだ。

 高山は黙ってラーメンを啜りはじめる。病気か何かだろう、人には色々事情があるものだ。他人がとやかく言うことではない。


「はぁぁ……旨い」


 溜息が出るくらいラーメンは旨かった。奇妙な声で笑う店主、気味の悪い3人の常連客、おかしな所はあるが全てを吹き飛ばすほどの魅力がこのラーメンにはあった。


「旨かったぁ~~ 」


 一気に食べ終わると一息ついた。

 何やってるんだろう? 周りの客を見て高山が首を傾げる。一気に食べた高山と違って3人の客はズルズルとスローモーに麺を啜っている。


「皆さんはよく来るんですか? 昨日も来てましたよね」


 麺が伸びるんじゃないかと心配しながら高山が声を掛けた。


『ああ……俺たちはこの下だからな』

『おやじが来たから……力を貸してやろうと思ってな』


 野良着姿の男2人が待避所の下を指差しながら青白い顔でこたえてくれた。


「この下ですか? 下の村ですね」


 下に集落でもあったかと待避所の向こうを見る。下は崖のようになっているのでガードレールが付いているはずなのだが何故かその待避所だけ付いていなかった。


『ふひひっ、下の村……ふひひひっ』


 スーツ姿の中年男がニタリと不気味に笑った。

 気味が悪くなった高山が腰を上げる。


「おじさん、ここに置いとくよ」


 チャーシューメンの代金1100円を台に置くと店主がひょいっと顔を見せた。


『お客さん、うちはお金じゃなくて代金は命なんですよ』


 顔の半分を青黒く腫らした店主がじっと高山を見つめる。


「あははははっ、冗談言ってぇ、驚かそうとしても無駄ですよ、こんな場所にある屋台なんてお化けだって言われても信じちゃうかも知れないけどね」


 笑いながら高山が手を振った。


「じゃあ、また来るよ、ごちそうさん」

『お客さん…… 』


 暗い山道を高山が車を止めてある場所まで下っていった。

 車に乗り込みエンジンを掛ける。


「力を貸してやるって……常連になって売り上げに協力してやるってことか」


 野良着姿の客が言っていた言葉をふと思い出した。


「店のおやじも客もキモいけどラーメンは本物だ。俺も常連になって売り上げに協力してやろう」


 車を走らせカーブを曲がって夜鳴き蕎麦の前を通る。

 御馳走様という意思表示にクラクションを短く鳴らして通り過ぎた。


「あれ? 」


 バックミラーで後ろを見ると屋台の明かりが消えていた。


「なんだ? 」


 スピードを緩めて振り返って確かめるが明かりは見えない、


「曲がって見えないのか……後ろからだと明かりが漏れないのかな」


 さして気にもせずに高山は帰っていった。



 翌朝、起きると直ぐにトイレに駆け込んだ。


「ぐえぇ…… 」


 苦しげに唸りながら腹の中のものを全て出し尽くす。


「がっ、がはっ……気持悪い……変なものでもくったかな」


 水を流そうとして何気なく便器を見た高山がその場に固まる。


「わあぁ……なっ、なんだ………… 」


 今吐いた吐瀉物の中に蠢くものがいた。凧糸のように白く細長いものがウネウネと動いていた。


「ちょっ、まて……寄生虫かよ」


 寄生虫か何かなのは知識のない高山でもわかる。


「この前の飲み会で食った刺身か……昼に抜けて病院でも行くか」


 飲み会で食べた刺身か何かに付いていたのだろうとその場は一先ず会社へ行った。



 仕事が終って帰りにつく、


「あっ、病院行くの忘れてた」


 忙しさに今朝吐いた寄生虫のことなどすっかり忘れていた。


「薬屋寄っていくか、虫下し売ってるだろ」


 腹も何処も痛くはない、そもそも寄生虫だと決まったわけではない、薬局で駆虫剤でも買って飲めばいいだろうと簡単に考えた。


「まだ少し早いな……やってなかったら嫌だし時間潰すか」


 薬局で薬を買うとその足で近くのパチンコ店へと入っていった。夜鳴き蕎麦が店を出す時刻まで時間を潰すつもりだ。


「今日はツイてるな」


 嬉しそうな笑顔で高山がパチンコ店から出てくる。少し時間を潰すつもりが勝って普段より遅くなっていた。


「いつもより2時間ほど遅いけどまだやってるよな」


 高山が急いで車を走らせる。

 カーブ手前の待避所に車を止めると暗い山道を上っていった。


「あれ……今日はやってないのかよ」


 夜鳴き蕎麦の屋台は無かった。


「食いたかったなぁ…… 」


 呟きながら何気なく待避所の下、崖を覗き込んだ。


「んん? 何か落ちてるな、車か? ここだけガードレール無いからな、でもこんな所で事故ったら大変だぞ」


 暗い崖の下、白い箱のようなものが見えた。昔に落ちた車だろうと高山は気にした風もない、事故は時々起きている。崖の下に落ちて引き上げることが出来なくてそのまま放りっぱなしになっている車など幾らでもあるのだ。


「今日は金曜か……金曜は休みなのかなぁ、店が出てた気配も無いからな」


 高山が車に向かってとぼとぼと山道を下っていく、


「食いたかったなぁ~~ 」


 惜しそうに叫ぶと車を走らせ帰路についた。



 翌日、土曜日で仕事は休みだ。

 高山は親の持ち家で一緒に暮らしている。昼間から酒を飲んでだらだらと休みを過ごし夜になる。


「ラーメン食いたいなぁ」


 夜中にふと目が覚めた。昨日食べられなかった所為もあって夜鳴き蕎麦が食べたくなる。


「今日はやってるかな…… 」


 無性にあの店のラーメンが食べたい、だが両親と暮らしていた高山は深夜に出掛けるのも気が引けた。それに今日も休みかも知れないと思い直して目を閉じた。


『はい、ラーメン』


 夜鳴き蕎麦の店主が高山の前に丼を置いた。


「ああ、旨い」


 待ってましたとばかりに高山がラーメンを啜る。


「これだよ、このラーメンだよ、昨日やってなかったでしょ? 食べたくて、食べたくて……やっと食べれたよ、やっぱ旨いねぇ」


 褒めながらズルズルとラーメンを啜る。それを常連客の3人が青白い顔をして見ていた。


『嬉しいねぇ、お客さん、替え玉でもどうです』


 店の奥から店主がひょいっと顔を出した。痣だろうか? 顔の半分が青黒く腫れている。


「替え玉か、頼むよおじさん」

『ひひっ、いいですよ、でもお代は命ですからね』


 店主が奇妙な笑いをあげて丼に麺を落とした。


「あはははっ、こんな旨いラーメンなら命を払ってもいいぞ」


 高山が楽しそうに笑いながらお代わりのラーメンをずるりと啜る。


『いひっ、いひひひひっ、確かに聞きましたよ、お代は頂きますからね』


 顔の半分を青く腫らした店主がニタリと嬉しそうに笑った。


『俺たちも聞いたぞ』

『命を払ってもらうぞ』

『これでやっと仕返しが出来る』


 スーツ姿の中年男と野良着姿の2人の男もその青白い顔をニタニタと嬉しそうに曲げていた。


「なっ、なんだよ、気味が悪いな……ラーメン代くらい払うよ、替え玉と合わせて二千円あればいいだろ」


 財布を出そうとした高山の前に店主が立った。


『金じゃない……お代は命ですよ、いひひひひっ』


 顔半分の青黒く腫れた肉がずるりと落ちて顎の骨と赤い肉が見えている。


「ひぃっ…… 」


 仰け反るように驚く高山に顔半分が崩れた店主が迫る。


『命を貰いますよ、ラーメンの代金ですから…… 』


 口を開く度に赤黒い血と黄色い膿の混じった粘液が糸を引いて滴っていく、


「たっ、助けて…… 」


 助けを求めて振り返った高山の目に3人の客が映る。


『食い逃げはダメだよ』


 スーツ姿の中年男、その頭が座っている台の上に転がっていた。伸びた首で体と繋がっている。


『うひひっ、食い逃げなんてしないさ』

『きひひひっ、何処にも逃げられないからな』


 野良着姿の2人は白かった。骸骨だ。肉などとっくに無くなって灰白色の骨だけだ。その骨がカチカチと顎と鳴らして奇妙な声で笑っている。


「ばっ、化け物だ……たっ、助けてくれぇ~~ 」


 ばっと逃げ出した高山の足が絡まって転んでしまう、


「くぅぅ…… 」


 早く逃げないととガバッと起きた。


「ばっ、化け物が…… 」


 慌てて辺りを見回す。化け物たちがいなくてほっと安堵すると共に思い出した。


「そうだ! 寝てたはずだ」


 土曜の休み、昼から家で酒を飲んで夜になり少し早めに布団に潜って眠っていたはずだ。


「ここは……いつも通っている峠か」


 道路の曲がり具合や周りの木々に見覚えがあった。


「寝惚けてるのか? 」


 高山は家から歩いて1時間は掛かる峠に寝間着代わりのスウェットを着て立っていた。


「夢……じゃないな、寝惚けて出歩いたみたいだな」


 辺りを見回してどうにか状況を理解した。


「うえっ! 」


 口の中が泥っぽい、喉の奥から吐き気が上がってきた。

 道路の脇に行って茂みに向かって吐く、


「なっ、なんだ…… 」


 泥のような嘔吐物に白い糸のようなものやミミズみたいなものがモゾモゾと蠢いていた。


「寄生虫? ミミズか? 何を食ったんだ。俺は…… 」


 寝惚けてそこらの土でも食ったのだと怖くなった高山は逃げるようにして家に向かって駆け出した。

 30分ほど走って家に帰り着くとうがいをしてシャワーを浴びて自分の部屋に行ってやっと落ち着いた。


「ははっ……あのラーメンが食いたくてあんな夢を見て寝惚けて出歩いたんだな」


 あの夜鳴き蕎麦のラーメンはラーメン好きを自称する自分が今まで食べた中でも一番旨いラーメンだ。夢に見るくらい旨いラーメンだ。寝惚けて出歩いても仕方のないくらいに旨いラーメンだと自身に言い聞かせるようにして眠りについた。



 日曜日、休みをダラダラと過ごした高山が寝床に付いた。


「明日はラーメンが食える。我慢したんだ2杯食うぞ、ラーメンとチャーシューメンの二つ食うぞ」


 明日の仕事帰りに食べる夜鳴き蕎麦のラーメンを思い浮かべながら眠りについた。


『はい、ラーメン』


 夜鳴き蕎麦の店主がラーメンの丼を高山の前に置いた。


「待ってました」


 高山が丼に顔を付けるようにしてラーメンを啜る。


「ああ……やっぱ旨いねぇ、おじさんのラーメン最高だよ」

『それはもう……命懸けのラーメンですから』


 顔の半分を青黒く腫らした店主がニタリと笑うが高山はラーメンを食べるのに夢中で気が付かない。


「チャーシューメンも頼むよ、続けて食うからな」


 ズルズルと麺を啜りながら追加で頼む、


『毎度、お客さんいい食べっぷりだ。気に入ったよ』


 ニヤリと笑いながら店主が奥へと引っ込んだ。


『いひひっ、本当によく食べる』


 スーツ姿の青白い顔をした中年男がじっと高山を見つめている。


『うひひひっ、そんなに美味しいのか』

『きひひっ、旨いともさ、ここらの土は肥えとるからのぅ』


 野良着姿の男2人も奇妙な声で笑い出す。

 いつもの気味の悪い常連客だと高山は気にした風もなくラーメンの汁を残さず飲み込む、


「ごちそうさん、チャーシューメン早く頼むね」

『ああ……お客さん済みません、今日はここまでみたいです』


 奥からひょいっと顔を出した店主がニタリと不気味に笑った。


「ここまでって? 」


 怪訝に首を傾げる高山の頬が思いっ切り叩かれた。


「痛てて……痛い! 何するんだ!! 」


 叫ぶ高山の胸倉を掴んで父親が大声を出す。


「静夫しっかりせい! 何しとる! おかしゅうなったんか!! 」

「痛てて……おっ、オヤジ………… 」


 父の顔を見て高山が慌てて上半身を起した。


「ここは? 」


 辺りを見回す高山の顔を父親が覗き込む、


「覚えとらんのか? お前が夜中に出て行くから着いてきたらこんな所に来て土を食っておったんじゃ」

「土を? 」


 喉の奥から吐き気を感じて高山がその場でゲエゲエと吐き出した。


「ぐぅぅ…… 」


 嘔吐物の中に泥と共にミミズや白い糸のような線虫が蠢いてた。


「なっ、何が……俺はラーメンを食べた夢を見て………… 」


 真っ青な顔で吐き続ける高山の背を父が摩る。


「何がラーメンじゃ、お前はそこの土を掘り返して食い始めたから慌てて止めたんじゃ」

「夢か……また夢を見て寝惚けて出歩いたんだ」

「寝惚けたって……ようもこんな所まで歩いてきたもんじゃ」


 父親が呆れるのも当然だ。家から3キロ以上離れている峠だ。

 どうやら寝惚けて峠まで来て道路脇の土を掘り返して泥やミミズを食べていたらしい、高山本人は夢の中でラーメンを食べていたのだが実際は泥を食べていたというわけだ。


「なんじゃ病気かも知れんの、一度見てもらえ」

「大丈夫だ。寝惚けただけだから……また同じようなことがあったら病院でも何でも行くよ」


 心配する父に言い訳すると高山は歩いて帰りについた。



 翌日、月曜日だ。少し残業をして帰路についた高山が峠のカーブの手前にある待避所に車を止めた。


「あのラーメン……なんであんな場所で店出してんだ? あんなに旨いんだから駅前で出せば大儲けできるのに外灯も水も無いあんな場所で………… 」


 車の中で高山が呟いた。あの夜鳴き蕎麦が怪しいのは薄々気が付いていた。


「いつも居る3人はどうやって来てるんだ? 下の村なんてあるのか? あったとしてどうやって来る? 崖になってて道なんて無いぞ、車も自転車も無かったし、回り道があったとして1時間以上掛けて態々ラーメンを食べに来るのか? 」


 いつも居る3人の常連客のことを思い出す。


「スーツ着てるおっさんはともかく、残りの2人は何だ? あんな野良着は時代劇でしか見たことないぞ」


 青白い顔をして黙ってラーメンを啜っていた3人が不気味に思えてくる。


「確かめてみるか……何も無ければ安心して旨いラーメンが食えるって事だ」


 高山は車から降りると暗い山道を上っていった。


「あった……取り敢えずラーメン注文して野良着の連中に話し掛けてみるか」


 カーブを曲がった先に夜鳴き蕎麦の明かりを見つけて高山が早足になる。


「ラーメン一つね」


 屋台の横に置いてある円椅子に座るとラーメンを注文して辺りを見回す。

 いつもと同じ3人の常連客が黙ってラーメンを啜っていた。


「皆さんいつも来てるんですね、ここのラーメン旨いですからね」


 笑みを作って話し掛けると3人がラーメンを啜る手を止めた。


『ああ……俺たちはこの下だからな』

『おやじが来たから……力を貸してやろうと思ってな』


 野良着姿の男2人が以前と同じような言葉を返してきた。


「この下に村なんてありましたっけ? どうやって来てるんですか? 車は何処に停めてるんです」


 愛想良く訊く高山を野良着姿の男たちがじっと見つめる。


『うひひっ、村って…… 』

『きひひひっ、村なんて無いよ』


 奇妙な笑い声を上げる野良着姿の男たちの手前、高山に一番近い席に座っているスーツ姿の中年男が口を開いた。


『前はあったんだけどね……20年以上前は……今は誰も住んでないから無くなったよ』


 青白い顔で話す男の前で高山の顔から血の気が失せて白くなっていく、


「村が無いって……じゃあ皆さんは何処から来たんですか? 下の村って言ってましたよね、この辺りに村なんて無いですよね」

『はい、ラーメン』


 店主がラーメンの入った丼を高山の前に置いた。


『伸びないうちにどうぞ』


 顔の半分を青黒く腫らした店主がニヤッと笑った。


「いただきます」


 それもそうだと高山が割り箸でラーメンを食べ始める。


「んん? 」


 いつもと違うような気がした。味が無い、というより臭い、何だと思って丼を見つめる。


「うおぅ! 」


 思わず声が出た。黒く濁った汁の中、白くて細長いものがウネウネと動いていた。赤茶色のミミズも見える。ラーメンの麺が全てミミズや線虫になっていた。


「うげぇ…… 」


 高山は口の中に入っていたものを足下に吐き出した。吐瀉物の中で線虫がウネウネと動いている。


「なっ……なんだこれ………… 」


 事態がわからず助けを求めるように常連客に振り向く、


『いひひひっ、酔ってるのかい』


 スーツ姿の中年男の後ろ、野良着姿の2人がズルズルと啜るラーメンがウネウネと動いていた。


『うひひっ、勿体無い、こんなに旨いラーメンを吐くなんて』

『きひひひひっ、スープも残さず全部食べるんだよ』


 青白い顔をした男たちの口の端からミミズや線虫がはみ出て動いていた。


「ひぃぃ……こっ、こんなもの……こんなものが食えるか! 」


 バッと立ち上がった高山に店主が青白い手を伸ばす。


『お代を…… 』

「金なんて払えるかよ! 」


 怒鳴る高山を見て店主がニタリと笑った。


『お金じゃない、お代は命ですよ』

「なっ、何言ってんだ馬鹿か! 」


 帰ろうとする高山を常連客の3人が取り囲む、


『いひひっ、食い逃げはダメですよ』


 スーツ姿の中年男の頭がだらりと胸元まで垂れている。細く伸びた首がかろうじて繋がっていて頭が胸元でぶらぶらと揺れていた。


『うひひひひっ、ここのラーメンは命で払うんだ』

『きひひひっ、死んでもいいくらいに旨いラーメンだ』


 野良着姿の2人には肉が無かった。骸骨だ。白い骨の顎をカチカチと鳴らして奇妙な声で笑っている。

 異臭が高山の鼻を突く、バッと振り返ると店主が後ろに立っていた。


『お客さん、お代を……命を払ってください』


 手を差し出す店主の顔半分、青黒く腫れた所々が裂けて赤黒い血や黄色く濁った膿がドロドロと吹き出ていた。


「ひぃ……ひぃぃ………… 」


 後退あとずさる高山の背に誰かが触れた。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 野良着姿の骸骨を押し倒して高山が走り出す。


「ばっ、化け物だ……たっ、助けてくれぇ~~ 」


 全力で走って車まで辿り着いた。


「化け物だ……化け物のラーメン屋だ」


 エンジンを掛けると車を発車させる。


「ああ…… 」


 しまったと思った。下って逃げるつもりだったのだが焦って正常な判断が出来なかったのだろう夜鳴き蕎麦がある上がりの道を走っていた。普段通る道順に出てしまったのだ。


「突っ切って家に帰ろう」


 覚悟を決めた高山が峠のカーブを曲がっていった。


「なっ……消えてる」


 夜鳴き蕎麦の屋台が消えていた。

 ほっと安堵したその時、後ろからくぐもった声が聞こえた。


『お客さん、代金がまだですよ……命を払ってください』


 高山が振り向くと顔の半分を青黒く腫らした店主がニタリと笑って手を伸ばしてきた。


「ひぃぃ……いひぃぃ………… 」


 逃れようと思わずハンドルを切った。

 同時に体が上を向く、ふわっと浮いた感じがした。次の瞬間、落ちていくのがわかった。直ぐに大きな音が聞こえてショックに気を失った。


『私もね、ここに落ちたんですよ』


 気を失う直前、くぐもった声が聞こえたような気がした。



 どれほど時間が経っただろう、高山は病院のベッドの上で目を覚ました。

 崖から車ごと落ちたらしい、高山が落ちた崖は峠の曲がり道の先にある待避所の下だ。どういうわけかそこだけガードレールが切れていた。

 幸いな事に高山は打撲だけで済んだ。


「夜鳴き蕎麦が……化け物の夜鳴き蕎麦があったんだ。俺は彼奴らに落とされたんだ」


 あの夜の出来事を話すと先生も親も顔を顰めた。


 通りかかった車が落ちていく高山の車を見て通報してくれたのだ。

 高山の救助に当たっていた警察官がおかしな事に気が付く、高山の車の下にもう一台車があった。軽トラックだ。

 屋台の軽トラが一ヶ月ほど前に落ちて誰にも見つからずに運転手は亡くなっていた。その近くには苔むした古い墓が幾つかあった。


「あっ……彼奴らだ……屋台の……夜鳴き蕎麦のおっさんと彼奴らだ……下から来たって言ってた。彼奴らが俺を………… 」


 事情聴取を受けた高山は軽トラックのことは何も話さなかった。

 一ヶ月ほど前に自分が煽った軽トラックであることは直ぐにわかった。まさか崖の下に落ちたなどとは思ってもみなかった。話せば罪に問われると怖くなったのだ。



 入院していた高山が夜鳴き蕎麦の笛の音が聞こえると騒ぎ出す。挙げ句の果てに夜中に出歩いて土を食べていたところを取り押さえられた。

 話しを聞いた父親が高山を責める。


「お前、何を隠しとる? 何をした? 」

「なっ、何もしてない……化け物がやってる夜鳴き蕎麦を食っただけだ」


 言い訳する高山の顔を見て父は何か感じるところがあったのか崖の下にあった墓を掃除して坊主を呼んで供養した。

 それでも高山の奇行は収まらない、入院先の病院から心の病だという事で心療内科を勧められる。


 夜中に徘徊して食べ物でないものを口に入れたのを見た父は嫌がる本人を引き摺って無理矢理磯山病院へ入院させた。

 磯山病院で診断を受ける。普通では有り得ないような職場でのミスの数々、幽霊など有り得ないものを見る幻覚に徘徊、以上のことからアルツハイマー病だと断定された。つまり若年性認知症じゃくねんせいにんちしょうだ。

 これが高山静夫たかやましずおさんが教えてくれた話しだ。



 ベッド脇の円椅子に座って聞いていた哲也が神妙な面持ちで口を開く、


「高山さんが山道で煽った屋台のトラックが崖の下に落ちたんですね、それが……その屋台が毎晩夜鳴き蕎麦を、ラーメンを売っていた。それを高山さんが食べていたってことですか? 」


 ベッドの上で上半身を起して話していた高山が頷いた。


「そうらしい……夜鳴き蕎麦のトラックを見た時に気が付けばよかったんだが……ラーメンに夢中になってて………… 」

「常連客の3人は崖の下にあった墓の人たちってことか…… 」


 考えるようにして話す哲也の向かいで高山が思い出すように目を伏せた。


「たぶんな……20年ほど前に集落があったらしい、その墓が丁度トラックの落ちた辺りにあったんだ」

「首を吊って死んだスーツ姿の男も野良着姿の骸骨男たちもその墓に眠ってたってことか」


 高山がサッと顔を上げた。


「悪気は無かったんだ。ちょっとからかってやっただけだ。まさか崖に落ちるなんて思ってなかった……死ぬなんて思ってなかったんだ……それが古い墓の連中と一緒になって襲ってくるなんて………… 」


 哲也が神妙な面持ちで高山を見据えた。


「警察に全部話して死んだ屋台の店主にも……お墓参りして謝った方がいいですよ」

「悪気は無かったんだ……死ぬなんて……あれは事故だ。俺は悪くない、あれは事故なんだ。俺はちょっと煽っただけだ……だから俺は悪くない」


 目を泳がせて言い訳をする高山を見て哲也が腰を上げる。


「高山さん…… 」

「えへへっ……ラーメン……あのラーメンは旨かったなぁ、あんな旨いラーメンは食ったことがない……化け物の作ったラーメンでもあれは旨かった……あのラーメンは本当に旨かったんだ………… 」


 遠い目をして宙を見つめる高山を部屋に残して哲也はそっと出て行った。


「何かに取り憑かれている目だ。僕に出来ることがあればするけど、高山さんに謝る気がないなら何も出来そうにないな、旨いラーメンか……代金が命なんて本当に美味しくても僕はごめんだな」


 何とも言えない顔をして哲也は自分の部屋に戻っていった。



 その日の夜、深夜3時の見回りで哲也は有り得ないものを見た。


「なっ、なんで…… 」


 B棟とC棟の間、病棟を繋ぐ30メートル程の細い道に屋台があった。有り得ない、病院の敷地内に入ってこれるわけがないのだ。


「門は閉まってるよな」


 高い壁に囲まれた敷地に入るには表門と西門しかない、ここから見える表門は閉まっている。

 険しい顔をした哲也が近付いていく、何とも言えない美味しそうな匂いが漂ってくる。どうやらラーメンの屋台のようだ。


「夜鳴き蕎麦か? 」


 軽トラックを改造した夜鳴き蕎麦の屋台だ。

 客が4人居た。1人はスーツを着たサラリーマン、2人は時代劇に出てくるような野良着姿、後の1人は病院の患者服を着ていた。高山さんだ。


「たっ、高山さん! 」


 哲也が慌てて駆け寄ると高山が振り返った。


「ああ哲也くんか……ラーメン美味しいよ、1つどうだい? 俺が奢るよ」


 青白い顔をして高山がニヤリと不気味に笑った。


「高山さん何してるんですか…… 」


 高山の虚ろな目を見てヤバいと哲也が大声を出す。


「この屋台は何なんです! 許可貰ってるんですか? 」


 怒鳴り声が聞こえたのか奥から店主がひょいっと顔を見せた。


『ひひひっ、許可……ああ、済みません、直ぐに出て行きますから』


 顔の半分を青黒く晴らした男がニタリと笑った。

 哲也の腕を高山が引っ張る。


「哲也くんいいじゃないか、固い事言うなよ、奢ってやるからさ、一緒に食べようよ、このラーメン凄く旨いぞ」


 ニヤリと笑う高山の口から白く細長いものがウネウネとはみ出ている。


「たっ、高山さん…… 」


 哲也が丼に目を落とすと黒く濁った汁の中、麺の代わりにミミズや白く細長い線虫がウネウネと蠢いていた。


「たっ……高山さん、ダメです! 行きましょう」


 高山の腕を引っ張る哲也に店主の男がぬっと顔を出した。


『ひひひひっ、只食いはダメだよ、お代は命だ。お兄さんも食べるかい? 』


 顔の半分が青黒く膨れている。破れた頬から真っ黒な血と粘っこい唾液が漏れていた。話す度に小虫がボロボロと落ちていく、


「ぼっ、僕は遠慮しておきます……高山さんも行きましょう」


 震える声を出しながら哲也が高山を立たせようと後ろから両脇に手を伸ばす。


「ダメだよ、まだ残ってる勿体無いよ、凄く旨いんだよこのラーメン」


 高山が哲也の腕を振り払う、3人居た客が一斉に立ち上がった。


『いひひっ、食い逃げはダメだよ』


 スーツ姿の男の頭がごろりと台に転がった。異様に伸びた首にはロープが絡まっている。首吊りをしたのだろう、


『うひひひひっ、ラーメンくらい食べさせてやりなよ』

『きひひひっ、お兄さんも食べなよ、俺たちも奢るよ』


 野良着姿の男たちは骸骨だ。目玉も鼻も無い、肉の削げた白い髑髏が奇妙な笑い声を出している。


『はい、ラーメン、兄さんの分だよ』


 顔半分を腫らした店主が丼を哲也の前に置いた。


「らっ、ラーメン…… 」


 哲也が絶句する。黒く濁った汁の中、ミミズや線虫が蠢いていた。


「さぁ、座って食べなよ」


 高山が哲也の腕を引っ張った。


「やっ、止めてくれ! 」


 捕まるとヤバいと哲也が駆け出した。


「嶺弥さんに…… 」


 1人ではダメだと警備員の嶺弥を呼びに必死で走った。



 見回りをしていた嶺弥を捕まえて一緒に戻ってくると夜鳴き蕎麦はもう消えていた。


「無くなってる…… 」


 哲也がバッと嶺弥に振り向く、


「本当にここにあったんです。夜鳴き蕎麦の屋台があって高山さんがラーメンを食べてたんです」

「話しは信じたいが…… 」


 神妙な顔付きの嶺弥が何かに気付いた。


「誰だ? 」


 駆け出した嶺弥を哲也が追った。


「たっ、高山さん」


 C棟の建物の影に高山が倒れていた。


「ヤバいぞ、俺は先生を呼んでくる」


 高山の呼吸を確認すると嶺弥は全速で走っていった。


「大丈夫ですか高山さん! 」


 哲也が抱きかかえると高山は既に冷たくなっていた。


 先生や看護師を連れて嶺弥が戻ってくる。


「これは…… 」


 哲也の足下に欠けた丼と割り箸が転がっていた。高山はここで何を食べていたのだろうか? ストレッチャーで運ばれていく高山を見送りながら哲也は考えた。



 10分もしないうちに高山の死亡が確認された。死因はアレルギーに因るショック死だ。

 アナフィラキシーショックだ。抗原抗体反応により急激なショック症状を起こし著しい場合は死に至る事もある。つまりアレルギー反応が激しすぎて死に至ったのだ。

 お腹からは大量の寄生虫が見つかった。本来寄生虫が付いている人はアレルギーが少ないと言われている。だが高山の場合は短期間に増えた寄生虫そのものがアレルギーに反応したのではないかという事だ。


 全ては若年性認知症と診断されてアルツハイマー病になっていた高山の見た幻覚だったのだろうか? では哲也の見た夜鳴き蕎麦の屋台は? 確かに見たのだ。ラーメンの旨そうな匂いを漂わせる夜泣き蕎麦屋を、あれも幻覚だというのだろうか? 

 アルツハイマーが進行して幻覚を見たのか、怪異に遇って病が進んだのか、どちらが正しいのか、両方とも正しくないのか、哲也にはわからない。だが一つだけ間違いないと思うことがある。高山はラーメンの代金を命で払ったのだ。煽られて崖に落ちて無念の死を遂げた屋台の店主に古い墓の下で眠っていたものたちが力を貸したのかも知れない。


 何故こんな場所にあるのか不思議に思う店が時々ある。山奥なのに24時間やっている飲食店、道無き道の先にある蕎麦屋、知る人ぞ知る店ではなく何の変哲もない店がぽつんと森の中にある様は異様ではあるが人の営みを見つけてほっとすることも事実である。だがそれは本当に人の店なのだろうか? 中には人でないものがやっている店もあるのかも知れないと哲也は思った。

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