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第二十五話 排水口

 四季があり山が多く、それによって雨を降らせてくれる事もあり日本は水に困らない、尤も施設が整っていなかった昔には日照りによる飢饉などで多くの人が犠牲になったこともある。だが現代は水不足によって多少の不便や作物に影響があることはあっても餓死するようなことは起きてはいない、これらは治水技術や浄水技術の賜物である。


 日本の高度浄水処理技術は凄い、蛇口を捻ると飲める水が出てくるだけでなく一般の家庭でその飲める水をトイレや風呂などにも使っている。こんな事が出来るのは贅沢なのだ。水道水をそのまま飲める国は世界でも15カ国程しかない、オーストラリアやニュージーランド、ドイツにスイス、フィンランドやスウェーデンなどの国々だ。その他の多くの国は浄水器で濾過したり煮沸しないと飲めないのだ。其れ故、ミネラルウォーターが普及している。飲み水と言ったら水道水ではなく店で売っているミネラルウォーターなのだ。


 浄水処理の技術が凄いといってもそれは家の前までのことだ。家の下やビルの中を通る配管は各戸が管理しなくてはならない、古い家やビルなどの配管には垢が溜まりどうしても水は汚れていく、建物の上に貯水タンクのあるビルやマンションなどは管理が行き届いていないと直ぐに悪くなってしまう、水の善し悪しは水道水源地にも左右されるのだが各家庭に届くまでの状況にも左右される。よく言われる都会の水は不味いというヤツだ。


 下水も同じだ。一戸建てはともかくマンションやアパートなどは定期的に薬品で掃除しないと直ぐに匂うようになってしまう、配管が立体的に組み合わさっているのだ。何処かの部屋が横着して流してはいけないものを流せば詰まったり入り組んだ配管の先で引っ掛かったりする。それが腐ったりして匂いの元になったりするのだ。

 その匂いは配管を伝って排水口から上がってくる。匂いだけでなく不快な虫もやってくる。だから定期的に点検や掃除が必要なのだ。その為の洗剤も売っている。


 哲也も排水口から上がってくる匂いに弱った人を知っている。もっともその排水口からは匂いだけでなく怪異も上がってきたのだが……。



 夜勤明けの嶺弥を見送るように正門まで哲也が一緒に歩いている。

 時刻は午前の9時を少し回ったところだ。普段なら引き継ぎを終えてとっくに帰っている時間帯である。同僚である警備員の角田つのだが私事で遅れて引き継ぎのために嶺弥が残ったのである。

 珍しく早くから目を覚ました哲也がまだ残っていた嶺弥を見つけてやってきたというわけだ。


「嶺弥さんも大変ですね、角田さん何があったんです? 」

「さぁな……寝坊か、車の調子でも悪いのか、まぁ色々あるさ」


 とぼける嶺弥の隣で哲也が考えるように腕を組む、


「寝坊っすか……そうですね、僕も人のことは言えないっす」

「ふふっ、困った時はお互い様さ、俺も用事があって遅れるかも知れない、その時には角田さんに残って貰うさ」


 優しい顔で微笑む嶺弥を見て哲也が嬉しそうに続ける。


「警備員も先生も看護師さんも24時間働いている仕事ですもんね」

「そういう事だ。一仕事終えて家に帰ってゆっくり休んでまた次の仕事さ」

「家に帰るか…… 」


 哲也の顔を嶺弥が覗き込む、


「ホームシックかな? 」


 哲也が慌てて顔の前で手を振った。


「ちっ、違いますよ……家なんて覚えてないし……記憶がハッキリしないんですよね、僕の家は何処にあったんだろうって………… 」

「哲也くん…… 」


 寂しげに顔を曇らせる嶺弥を見て哲也が慌てて話し出す。


「ちっ、違いますよ、ホームシックなんかじゃないですからね、ただ、たまには外に出て旨い物でも食べたいなぁ~って思っただけですよ」

「ふふっ、それじゃあ何か買ってきてあげるよ、お菓子でもいいし、ケーキでもいい、飯ならカツ丼とか……寿司や鰻重でもいいぞ」


 優しく声を掛ける嶺弥に哲也がバッと体ごと振り向いた。


「マジっすか? お菓子やケーキは池田先生や香織さんに時々貰えるので飯がいいっす。寿司が食べたいっす」

「寿司か……そうだな、ここの食堂じゃ握り鮨なんて出ないからな、了解だ。明日と明後日は休みだからその次にでも買ってくるよ」

「やったぁ~~、だから嶺弥さん好きっす」


 手を上げて喜ぶ哲也を見て嶺弥が微笑みながら続ける。


「そんなに喜ぶなよ、寿司といっても回転寿司の安いヤツだぞ」

「充分っす。というか高い寿司なんて食べたことないっす。腹一杯食える方がいいです」


 テンションの高い哲也の前で嶺弥が声を出して笑い出す。


「あはははっ、わかった。買ってくるから東條さんたちに見つからないようにしてくれよ」


 哲也の顔がキリッと真面目な表情に変わる。


「もちろんっす。見つかっても嶺弥さんに貰ったなんて口が裂けても言わないっす」

「あははははっ、了解だ」


 大笑いする嶺弥に釣られるように哲也も笑っていると車が一台やってきた。


「朝から患者さんかな? 」

「送迎の車じゃないっすね」


 嶺弥と哲也が見ていると門の前で車が止まって親子らしき2人が下りてきた。


「なんだよ此処は……俺をどうするつもりなんだよ」


 磯山病院を見回して20歳くらいの息子が怯えた。


「心配無い祐介、ここは病院だ。ここは安全だから安心しろ」


 父親らしき初老の男が息子の腕を引っ張った。


「嫌だ! ここは病院なんかじゃない! 行きたくない、俺をどうするつもりだ」

「安心しなさい、ここはお前のような心の病気を診てくれる病院だから、ここに入れば直ぐに良くなるから……治ったらまた一緒に暮らそう、心配無いから入りなさい」


 門の前で行くまいと足を踏ん張る息子を宥めようと父は必死だ。


「嫌だ!! 誰かが見てる……俺を監視してるんだ」


 息子の大声を聞いて哲也がさっと視線を逸らした。息子の言っている『誰かが見ている』とは自分たちのことだと思ったのだ。


「哲也くん、違うようだよ」


 嶺弥に腰の辺りをポンポン叩かれて哲也が視線を親子に戻した。


「見てるんだ……誰かが俺を見てる。監視してるんだ。後を付けてくるんだ……俺を……俺をこんな所に閉じ込めて何をするつもりだ」


 大声で叫びながら息子が暴れ出す。


「見てる。見張られてるんだ……監視してるぞ、俺を……俺をどうにかしようとしてるんだ。逃げなきゃ……見つからないように逃げるんだ」

「祐介止めなさい、祐介…… 」


 暴れる息子に振り倒されて父親が尻餅をついた。

 それを見た嶺弥がバッと駆け出した。


「嶺弥さん」


 哲也も後を追う、


「おとなしくしないか! 」


 一喝すると嶺弥が暴れる息子を取り押さえた。


「あぁ……止めろ、放せ! お前も彼奴らの仲間か……俺を見張ってるんだな」


 流石嶺弥だ。暴れていた息子はがっしりと押さえ込まれて口だけになっている。


「大丈夫ですか? 」


 駆け付けた哲也が座り込んだ父親に肩を貸して立ち上がらせた。


「ありがとうございます。この病院の方ですか? 」


 窶れた顔で礼を言う父親に暴れる息子を押さえ付けながら嶺弥がこたえる。


「はい、警備員をしております。手荒なことをして申し訳ありません」

「いえいえ、助かりました。そうですか、警備員さんですか……貴方のような人がいるなら安心だ」


 嶺弥の手際の良さに感心したらしい、父親の窶れた顔に笑みが浮んでいる。

 そこへ看護師の東條香織と早坂萌衣がやってくる。

 嶺弥が押さえ付けている息子をちらっと見ると父親に向かって香織が頭を下げる。


「志賀様、お待ちしておりました」

「御丁寧にどうも、よろしくお願いします」


 父親が香織以上に深々と頭を下げた。


「お前らグルだな……俺に何をするつもりだ。放せ! 逃げないと……見てるんだ。見張られてるんだ……監視してるんだ」


 先程から息子は喚いているが嶺弥にがっしりと押さえ付けられているので動くことはできない、口だけだ。


「いい加減にしなさい! ここは病院だ。何も心配無い、一番安全なんだぞ」


 父親が怒鳴りつけると暴れていた息子がしゅんとなって動きを止めた。

 おとなしくなった息子を嶺弥が立ち上がらせるが腕は掴んだままだ。何かあれば直ぐに組み伏せることの出来る体勢である。


「では案内します。こちらへ」


 笑顔を作る香織に会釈をすると父親が嶺弥に振り向いた。


「警備員さんも一緒に来て貰えると助かるんだが……暴れたら殴ってでもいいから止めてくれると……先生や看護師さんに何かあったら……もう此処しかないんだ」


 今まで様子を見ていた哲也が口を開く、


「嶺弥さんは帰るところだから…… 」


 哲也の前に嶺弥が片手を伸ばした。


「わかりました。私が付いていますので安心してください」

「そうね…… 」


 香織が少し考えるように嶺弥と哲也を見つめた。


「須賀さんがいいのなら2人にも手伝って貰おうかな」

「了解です。哲也くんもいいかな」


 志賀の息子を後ろ手を掴みながら嶺弥が哲也を見つめる。


「もちろんです。僕も警備員ですから」


 哲也に異存はない、嶺弥や香織に頼られるのは嬉しいことなのだ。


「では付いてきて下さい」


 志賀の父親と並んで香織が歩き出す。その後ろを志賀の腕を掴んだ嶺弥が続き、最後尾は哲也だ。


「須賀さん帰るところだったんでしょ? 大変ですねぇ」


 早坂がニコニコしながら嶺弥の隣を歩く、患者の担当は香織だ。早坂は嶺弥が居るのを見て付いてきただけである。


「いえいえ、これも仕事ですから、早坂さんや東條さんに何かあればそれこそ大変ですからね」

「須賀さん、優しいぃ~~ 」


 爽やかに笑う嶺弥の隣で早坂が嬉しそうに頬を赤らめた。

 自分の時とは全然違うと思いながら2人の後を哲也が歩いて病院の本館へと入っていった。



 父親に連れられてやってきたのは志賀祐介しがゆうすけ20歳だ。先程暴れた様子からもわかるように誰かに監視されている。後を付けられている。などの妄想をして閉じ籠もったり暴れたりする。強迫観念が非常に強く所構わず暴れるので近くの心療内科では手に負えないとして磯山病院へやってきたのだ。

 家の近くの心療内科では統合失調症と診断されたが磯山病院では不安障害の一つである強迫性障害とも診断された。統合失調症と強迫性障害が併発しているという事である。なんでも大学に通うために一人暮らしを始めたアパートで死体を見つけてから心を病んだらしい。


 手続きを終えた志賀を香織が部屋へと案内する。もちろん哲也と嶺弥も一緒だ。


「Bの207か…… 」


 ネームプレートをドアの横にある枠に嵌めながら哲也が呟いた。

 父親と香織と嶺弥に付き添われて部屋へと入った志賀は先程まで暴れていたのが嘘のようにおとなしい。


「ここが新しい部屋か…… 」


 部屋を見回す志賀に香織が優しい声を掛ける。


「そうですよ、今日から志賀さんの部屋ですからね」

「俺の部屋か…… 」


 納得した様子でベッドに腰掛ける志賀に香織が続ける。


「はい、ここに居れば安心ですよ、警備員の須賀さんも居ます。誰か怪しい人がやってきても直ぐにやっつけてくれますからね」


 志賀が首を動かして香織の後ろにいる嶺弥を見た。


「警備員の須賀……さっき凄かったな、須賀さんが居れば俺を狙っているヤツが来ても大丈夫だな」

「任せて下さい、私たちが警備しています。ここに居れば安心ですよ」


 力強くこたえる嶺弥を見つめて志賀がうんうん頷く、


「頼みます。これで安心だ…… 」


 父親が隣りに腰を掛けると志賀の背をポンポンと優しく叩いた。


「良かったな祐介、此処で暫く休んでいれば直ぐに良くなる。そうしたら家に帰れるからな、暫くこの部屋でゆっくりと休むんだぞ」

「わかった。少し泊まればいいんだろ、1ヶ月くらい…… 」


 頷く志賀を見て父親が涙を浮かべて立ち上がった。


「ああ……良くなったら直ぐに迎えに来るからな」

「わかった」


 大暴れしたのが嘘のように志賀はおとなしい、香織が志賀の太股を優しくポンッと叩く、


「少し寝ましょうか、長い間車に乗っていたから疲れているでしょう」

「わかった。寝る」


 ベッドに横になった志賀の様子を暫く見ていたが大丈夫だと部屋を出る。



 長い廊下を歩きながら哲也が口を開いた。


「あれならどうにかなりそうですね」

「哲也くん! 」


 後ろを父親と並んで歩いていた香織が怖い顔だ。

 哲也と並んで前を歩いていた嶺弥がサッと振り返る。


「済みません、気を悪くしないで下さい、悪気があって言ったのではなく、息子さんの様子に安心したんです」


 謝る嶺弥の横で哲也も慌てて頭を下げた。


「志賀さん済みません、あの様子ならこの病院なら大丈夫だって意味で言ったんです」


 父親が居るのを忘れていた。実の息子を「あれ」呼ばわりされて気分を悪くしない親はいないだろう。


「頭を上げて下さい、何も気にしていませんよ、彼奴には私も手を焼きましたからね」


 志賀の父親が苦笑いしながら頭を下げている嶺弥と哲也の肩を叩いた。

 顔を上げた2人の前で父親が続ける。


「それよりも感謝しているんですよ、貴方たちのような警備員さんが居るなら安心だ。あの通りだからまた暴れて此処を追い出されたらもう行くところが無いんです。頭を下げて頼むのは此方の方です。よろしくお願いします」

「そう言って貰えると助かります」


 安心した様子でこたえる嶺弥の隣で哲也は申し訳なさそうに縮こまっていた。

 志賀の父親が何か思い付いた様子で哲也たちの顔を窺う、


「少し時間ありますか? 息子のことについて話しておこうと……3ヶ月前までは何も無かったんですよ、一人暮らしを初めて死体を見つけてからおかしくなったんです。その死んだ男の声が聞こえるらしいんですよ」


 死んだ男の声が聞こえるという話しに哲也が色めき立つ、


「はい、時間はあります。僕でよければ話しを聞きます」


 哲也の後ろで嶺弥と香織が顔を見合わせる。2人とも呆れ顔だ。


「そうだな、私も付き合うよ」


 半分呆れながらも嶺弥も付き合ってくれる様子だ。嶺弥は仲間の警備員たちや仲の良い看護師や哲也と二人きりの時は俺と言っているが先生たちの前では私と言い換えている。公私の区別を付けているのだ。


「私は仕事がありますから」


 志賀の父親にペコッと頭を下げると香織が哲也に向き直る。


「哲也くんしっかり聞いとくのよ、後で教えて貰いますからね」

「りょっ、了解しました」


 敬礼するようにこたえる哲也の顔が強張っている。香織は笑顔だがその目の奥が話しを聞いた後に変な事をするなと言っていた。


「では失礼します」


 にこやかに微笑みながら香織が歩いて行った。

 まだ顔が強張っている哲也の肩を嶺弥が叩く、


「正面玄関の待合室にでも行こうか、この時間帯は余り人がいないはずだよ」

「そうっすね、あそこの奥ならゆっくり話ができるっす」


 志賀の父親を連れてロビーにある待合室へと向かった。


「時間を取らせて済まないねぇ、でも聞いて欲しいんだよ」


 待合室の奥、自動販売機が並んでいる前の席に父親を座らせる。


「構いませんよ、少しでも役に立てるなら何でも相談して下さい」


 向かいに座りながら嶺弥が自動販売機で買った缶コーヒーを父親の前と哲也の前に置いた。もちろん自分の分も手に持っている。


「僕は19歳です。歳が近いですから志賀さんの事は気になります。僕に出来ることなら何でもしますよ」


 嶺弥の隣で哲也が真摯な目で志賀の父親を見つめた。


「ありがとう、そう言って貰えると安心できます」


 窶れた顔に笑みを作ると志賀の父親が話を始めた。

 これは志賀祐介しがゆうすけの父親が教えてくれた話しだ。



 大学生になった志賀は数ヶ月は実家から大学へ通っていたが3ヶ月前に念願だった一人暮らしを始めた。バイト代をある程度貯めることが出来た事と格安の物件が見つかった事で叶ったのだ。


 志賀の家は裕福ではなく普通の家庭だ。親を当てにせずにアルバイトで一人暮らしをするために借りたのは築50年は経つだろうというボロアパートだ。どれくらいボロかというと床に置いたボールがゆっくりと転がっていく程度に傾いていた。その代わりに家賃は激安だ。1Kでトイレと風呂は別の6畳間に押し入れ付きの部屋が敷金礼金無しの2万で借りることが出来た。おまけに大家が良い人でボロだから汚しても問題ないから好きに使ってくれとのことだ。

 都会ではなく地方の都市だがそれでも同じ間取りのマンションなら最低3.5万はするのだ。激安で借りることが出来て志賀はラッキーだと、これでバイトしながらどうにか一人暮らしが出来ると安心だ。



 荷物は少ないので引っ越しは親の車で3往復で済んだ。何かあれば実家へ取りに行けばいいという気楽さもある。小さな冷蔵庫や洗濯機はリサイクルショップで安く手に入れた。


「引っ越しシーズンならともかく、格安の部屋が開いてるなんてボロとはいえラッキーだったな」


 引っ越しを手伝ってくれた友人の朝倉勇あさくらゆうが小さなテーブルの向かいに遠慮無しにドカッと座った。朝倉は高校からの友人で同じ大学へと進んだので今でもよく遊んでいる。


「本当にラッキーだったよ」


 テーブルの上に菓子を広げながら志賀が笑顔でこたえた。

 遊びに行った先で空き部屋ありの看板を偶然見つけたのだ。インターネットにも載っていない掘り出し物だと直ぐに部屋を見せて貰ってその場で決めた。


「畳の和室だけど絨毯敷いてベッド置けばそれなりに使えるだろ、少し傾いてるけどベッドの足に雑誌置けば水平に出来るからな」


 言いながら朝倉に缶チューハイを差し出す。


「おっ、頭良いな、傾いたところで寝ると体壊しそうだからな」


 朝倉は褒めながら缶チューハイを受け取ると早速開けた。


「志賀の新しい門出を祝って、かんぱ~い」

「乾杯! 手伝ってくれてサンキューな」


 安酒とスーパーで買ってきた総菜と菓子でささやかな宴会が始まった。

 志賀が借りたボロアパートは2階建てで1階に5部屋、2階に5部屋の計10部屋がある。志賀の部屋は2階の左端だ。右隣と下だけに気を使えばいいので一人暮らし初心者にとっては楽だと思っていた。



 一人暮らしが始まる。学校とバイト、慣れるまでは大変だったが1ヶ月もすれば遊ぶ余裕も出来てきた。

 志賀が選んだバイトは居酒屋だ。昼は食堂、夜は居酒屋となる店で結構繁盛していて時給が良く、おまけに賄いで食事代が浮く、週4日勤務だ。残り物を貰って帰るとバイトの無い日も食事はほぼ賄うことが出来た。炊飯器で御飯を炊くくらいである。



 一ヶ月ほど経ったある日、バイトを終えて夜11時頃にアパートに帰ってきた志賀が匂いに気が付いた。臭い、微かにだが何かが腐ったような腐臭が部屋に漂っていた。


「何だ? 生ゴミは殆ど無いし、袋に入れて縛ってるから……匂い漏れてるのかな」


 ゴミ箱の蓋を開けて確認する。生ゴミを入れてある袋は縛ってあるので匂いはしない、そもそも生ゴミ自体が少ない、バイトの残り物をおかずにしているので調理はしないから生ゴミは殆ど出ないのだ。


「ゴミじゃないか…… 」


 流し台の排水口が目に付いた。


「臭っ! 」


 志賀が近付けた顔を仰け反るようにして引っ込めた。臭いの元は流しの排水口だ。


「古いからな……まぁ仕方ないか、それにしても臭いな」


 顰めっ面で排水口を睨む、今までは忙しくて気にならなかったのかも知れない、バイトにも慣れ余裕が出来て細かなことに気付くようになったのかも知れないと思いながら鍋に水を入れると流しの排水口の上に置いて蓋をした。


「排水口か……掃除でもするかな」


 呟くと窓を開けて換気扇を回した。

 取り敢えずこれで匂いを防いで時間が出来たらパイプ掃除の洗剤でも買ってきて流し込めばいいと考えた。



 翌日、バイトは休みだったので講義が終った後、友人たちと遊びに行った。高校からの友人である朝倉とあとは大学で新しく出来た友人たちだ。

 遅くまで遊んで終電を逃した朝倉をボロアパートに泊めることになり二人で帰ってきた。


「お前のボロアパートが近くで助かったぜ、大学には自転車で通えるし、遊び場も近くにあるし本当に便利だよな」


 良い気分で酔っ払っている朝倉の横を歩いていた志賀が調子よく口を開く、


「おぅ、遠慮無しで泊まってくれ、狭いけどお前一人なら何時でも泊まっていいぞ」


 志賀も酔って赤ら顔だ。朝倉がニッと歯を剥き出して笑う、


「おまけに床傾いてるしな」

「まぁ俺はベッドで寝るから関係ないけどな、お前はゴロゴロ転がりながら寝てろ」


 志賀がとぼけ顔でこたえると2人して声を出して笑った。


 アパートに着いて志賀が鍵を開けて中へと入る。


「お邪魔しまぁ~す」


 ふざけ声を出しながら朝倉も入ってきた。


「ん!? 何か匂わないか? 」


 顔を顰める朝倉の前、靴を脱いで台所に入った志賀がフンフン鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。


「臭いな…… 」


 流し台の排水口を思い出して志賀が覗き込む、排水口からは昨日よりもキツい匂いが出てきていた。


「排水口だ。ここから匂ってくるんだ」


 志賀の肩越しに朝倉が顔を出して排水口を見る。


「成る程な、ボロだから仕方ないぜ、家が傾いてるから配管も傾いててゴミでも溜まってるんだろ、これくらい我慢だな」

「わかってる。だから…… 」


 志賀が言葉を止めた。匂いを防ぐために水を入れた鍋で蓋をしていたはずだ。それなのに鍋は排水口の横に転がっている。


「どうした? 」


 険しい志賀の顔を朝倉が覗き込んだ。


「あぁ……何でもない」


 志賀は酔っていた所為もあり深く考えずに転がっている鍋に水を入れると排水口の上に置いて蓋をした。


「飲み直そうぜ」


 朝倉の一言で宴会が始まる。

 眠りにつく頃には排水口の事などすっかりと忘れていた。


『カリカリカリ……ガリカリカリ…………ガリガリカリ…… 』


 深夜、ふと目を覚ました志賀の耳に何かを削るような音が聞こえてきた。


「鼠かな…… 」


 微かな音だ。鼠でもいるのだろうと気にせずに寝返りを打つとそのまま眠りに落ちていった。



 3日経った。夜の11時過ぎにバイトから帰ってくる。


「臭っ! 」


 ドアを開けた瞬間、思わず声が出た。部屋の中から臭い匂いが漂ってくる。声が出るくらいに臭かった。


「何だよ、何なんだよ」


 ドカドカと乱暴に入っていくと台所の流し台を見る。


「なんで…… 」


 志賀が目を凝らす。水を入れて蓋にしていた鍋が横に転がって排水口が見えている。


「臭っ! 臭すぎる」


 慌てて窓を開けると換気扇を回す。以前よりもキツい匂いが排水口から上がってきていた。


「傾いてるから転がるのかな…… 」


 鍋に水を入れて蓋をするように排水口の上に置いた。ボロアパートだ。傾いているだけでなく振動も激しい、前の道をトラックが通るだけで窓がビリビリ音を鳴らして揺れるほどなのだ。何かの拍子に揺れて鍋が転がったのだろうと考えた。


「洗剤か薬でも買ってこよう」


 明日はバイトが休みだ。遊びに行った先にあるドラッグストアで排水パイプ掃除の薬でも買おうと忘れないようにメモをしてその日は風呂に入って眠りについた。


 深夜、志賀がふと目を覚ます。


『ガリガリ……カリカリ……ガリカリカリ………… 』


 微かに何かを削るような音が聞こえてきた。何の音か耳を澄ます。どうやら下から聞こえてくるようだ。


「鼠が床下にでもいるのかな? それとも下の人が何かしてるのかな」


 下の住人が何かしているのかと思ったが音は微かだし、この程度でいさかいなど起したくはないと布団に潜るようにして眠った。



 翌日、忘れずに排水口掃除の洗剤を買ってきた志賀は早速流し台の排水口に注ぎ込んだ。


「これでよしっと、1時間くらい待ってから水で流せばいいんだな」


 暫く経って確認するとあれ程臭かった匂いが無くなっていた。これで安心だと風呂に入って眠りについた。


『ガリガリ……カリカリ……カリガリガリ………… 』


 深夜、目を覚ます。微かにガリガリと音がする。下からだ。


「煩いなぁ、夜中の2時だぞ」


 スマホで時間を確認すると深夜の2時を回っていた。


『カリカリカリ……ガリ……ウヴゥ…………カリカリ…… 』

「煩いなぁ~~ 」


 下の住人が何かをしているのだろう、またかと腹は立ったが小さな音だ。志賀は布団に潜って眠った。



 次の日、バイトを終えて帰ってきた志賀が顔を顰める。部屋中に臭い匂いが充満していた。耐えられる匂いではない、直ぐに換気扇を回して窓を開ける。


「臭っ! 臭すぎる…… 」


 確かめるまでもない、臭いの元は流し台の排水口だ。


「シャワー浴びた後にもう一度洗剤入れるか」


 サッとシャワーを浴びると志賀は排水口掃除の洗剤を流し込んだ。


「うん、臭くない、これで大丈夫だ」


 暫くすると匂いは消えた。一回で消えないこともあると説明にも書いてあったので志賀は気にせず眠りについた。


『カリカリ……ガリカリ……ガリガリガリ』


 深夜、また何かを削るような音が聞こえて目を覚ました。


「またか……何やってんだ下のヤツ」


 ムッと怒りながら耳を澄ます。


『ガリガリガリ……アヴヴゥ……カリカリ……グウヴゥゥ………… 』

「何だ? 」


 ベッドに横になりながら思わず呟いた。カリカリという何かを削るような音だけでなく低い唸り声のようなものも聞こえる。


『カリカリ……ヴヴゥ……フウヴゥゥ…………ガリガリガリ』

「まったく、何やってんだか」


 下の住人が何をしているのか気になったがこの程度で争いを起したくもないので我慢して布団に潜って眠った。



 翌日、友人と遊んで帰ってきた志賀がドアの前で固まった。


「くっ、臭い…… 」


 ドアを開ける前から何かが腐ったような匂いが鼻を突いた。


「何だよ、あの薬、高かったのに全然効かないじゃないか」


 ブツブツと怒りながらドアを開けた。


「くっ、くっさぁぁ~~、臭すぎるぞ! 」


 部屋中に腐敗臭が充満していた。志賀は流しの排水口を睨みながら換気扇を回して窓を開けた。


「何だよ、この匂いは……幾ら何でも臭すぎるぞ」


 怒りながら残っていた洗剤を全て排水口へと流し込む、普通に使って4回分ほどの分量を一気に使ったのだ。本来なら30分~1時間ほど後に洗剤を洗い流すために水を流さなければならないのだが腹が立っていたのでそのまま一晩置いてみた。


「これでダメなら大家に文句だ。幾ら何でも酷すぎるからな」


 怒りを静めるためか缶チューハイを一缶飲んでからベッドに横になる。暫くスマホを弄っていたがいつの間にか眠りに落ちていた。


「 ……うぅ……小便」


 尿意を感じて夜中に目を覚ます。


「排水口は? 」


 トイレを済ました後で流し台の排水口を確認する。


「よかった。臭くない」


 匂いは消えていた。安心した様子で呟くとベッドに転がる。その夜は下から音も聞こえずにぐっすりと眠ることが出来た。

 翌日から匂いはしなくなった。やっと綺麗に掃除できたのだと志賀も安心だ。



 3日経った。バイトを終えた志賀がアパートに戻ると今まで以上にキツい匂いが部屋に籠もっていた。息を止めながら窓を開けて換気扇を回すとそのまま部屋から出た。匂いがきつくて換気が終るまで入れないほどだったのだ。


「何でだよ……臭すぎるぞ、大家に文句言ってやる」


 怒りながらスマホを取り出した志賀だが電話を掛けようとした手を止めた。夜の11時を回っている。腹は立つが幾ら何でも非常識だ。


「明日はバイトもないし講義もないからな、電話は明日だ」


 暫くして部屋に入る。臭いの元はやはり流しの排水口だ。パイプ掃除の洗剤を全部使ってもダメだった。


「俺の部屋だけかなぁ…… 」


 ふと疑問が浮んだ。アパートの排水管なら全て繋がっているはずだ。


「下のヤツも臭いから何かしてるんじゃないのか? 」


 深夜にカリカリと聞こえてくる音を思い出す。下の階の住人も匂いに困って何かをしているのではないかと考えた。


「2階の俺の部屋が匂って下が匂わないなんて無いからな」


 明日、大家にでも話そうと思いながら眠りについた。


『カリカリカリ……ガリガリ……アヴヴゥ……ヴゥアアァ…………カリカリガリ』


 深夜、音が聞こえて目を覚ます。微かな音だが気に障る厭な音だ。


「またか…… 」


 下の住人も匂いに困っているのかも知れないと考えると腹は立つが同情もあり、怒鳴り込む気にはならない。


『ガリガリ……ヴウゥ……みてる……カリカリ……アヴゥ見てるぞ…………ガリガリ』


 聞き耳を立てると男の唸り声も聞こえてきた。


「俺より先に住んでいるんだろうけど気が小さくて大家に言えないのかもな」


 排水口のついでに下の住人のことも大家に訊けばいいとその夜は我慢をして布団を被って眠った。



 翌日、大学の講義もバイトもないので昼食を終えた後で大家に電話を掛けた。排水口は調べるとのことだが下の階の住人のことを話すと大家は直ぐにやってきた。


 下の部屋には誰も居ないと聞いて志賀が驚く、3ヶ月前までは住人がいたが今は空き部屋だ。大家と一緒に下の部屋を見るが確かに誰も住んでいなかった。

 大家の話によると下の階を借りていた住人は家賃を滞納して消えたのだという、志賀と同じように大学生だった。

 本人はもちろん親にも連絡を付けようとしたが実家に電話しても誰も出ない、滞納は半年分だ。ボロアパートなので大した金額ではないが道徳的に許せないと大家は親の家まで出向いたが実家はもぬけの殻で何処へいったのかもわからなかった。

 一家全て夜逃げでもしたのだと仕方なく住人の荷物を処分して次の借り手を待つ事にしたが時期を外したので今も空き部屋なのだという、


 あの音は? 声は? 何だったのかと焦る志賀に大家はボロいアパートだから配管か何かを伝って他の音が聞こえてきたのだと笑った。そういう事もあるかと志賀は納得するしかない、排水口は直ぐに調べるという事で落ち着いた。


 次の日、大家は早速排水口を調べてくれた。講義もなかったので志賀も立ち会った。業者が調べるが何も異常は無い、パイプ掃除の洗剤で綺麗に掃除されているとまで言われた。不思議なことにあれだけ臭かった匂いは一切しなかった。

 業者まで呼んで調べてくれたのだ。志賀は納得するしかない。

 調べて貰ったことが効いたのか暫くはそれ程匂いもしなかった。大学とバイトで忙しく志賀は匂いのことなどすっかり忘れていた。



 一週間ほどが経った。志賀はバイトを終えて夜の11時過ぎに帰るとシャワーを浴びてから眠りについた。

 ベッドに横になって直ぐ、カリカリという音と唸るような声が聞こえてきた。配管を伝って音が声のように聞こえるだけだと布団を被って寝ようとした志賀が顔を強張らせて身を固めた。


『カリカリカリ……見ているぞ……ガリガリ……気を付けろ見張られてるんだ…………カリガリガリ……誰かが監視してるんだ…………逃げろ……何処かに隠れろ』


 カリカリと何かを削るような音に混じって低く小さな声が聞こえる。


「何か言ってる…… 」


 驚いた志賀が聞き耳を立てる。


『ガリガリカリ……見張られてるぞ……気を付けろ……カリカリ……逃げるんだ……ガリガリガリ……何処かに隠れろ……カリガリガリ………… 』


 小さくて聞き取り辛いが人の言葉だとわかった。


「見張られている? 何に? 俺をか? 」


 頭に幾つも疑問符が浮んだ。何処から聞こえてくるのかとベッドの上で身を起した。その時、階下で大きな音が聞こえた。


 バタン! ボロアパートの志賀の部屋が振動で少し揺れるほどの大きな音だ。


「うわっ! 何だ? 下か? 」


 志賀がベッドから飛び起きる。


「下に誰か居るのか? 」


 下の部屋で何やらゴソゴソ動いているような気配を感じた。


「大家さんでも来てるのか……違う!! 」


 志賀が部屋の真ん中で立ち尽くす。時刻は午前0時を回っている。こんな時間帯に大家が来て何をするというのだ? 仮に大家だとしてあの大きな音は何か? 上の自分の部屋が揺れるほどの振動だ。何か大きな物を倒したような音だ。下の部屋は綺麗に掃除されている。前の住人の荷物は全て整理されて何も残っていないのだ。あの音を立てる物は何も無いはずだ。


「泥棒……あんな大きな音を立てるかよ」


 泥棒かと考えたが直ぐに否定した。下が空き部屋なのは窓から覗けばわかるはずだ。

 誰かが越してきたなどは聞いていない、では誰がいるのだろうか? 固まったように動けない志賀の耳にまた声が聞こえてきた。


『カリガリガリ……見ているぞ……ガリガリ……誰かが監視してるんだ…………カリカリカリ……逃げろ……何処かへ隠れろ………… 』


 俺を見ているのか? 誰が見ているのか? 下の住人が見ているのだろうか? 志賀は怖くなって布団の中へと潜り込んだ。


『カリカリカリ……ガリガリ……ガリカリ………… 』


 暫く何かを削るような音が聞こえていたがそのうちに小さくなって消えていた。下の部屋の気配も無くなっている。


「もう一度大家に話しを聞こう」


 バイトの疲れもあってか怖かったがいつの間にか眠りに落ちていた。



 翌日、ボロアパートの近くにある大家の家を訪ねた。志賀が昨晩の事を話すと大家の顔が露骨に歪んだ。


「声ですか……古い建物ですからね、配管を伝って………… 」


 以前と同じ説明を繰り返す大家の言葉を志賀が遮る。


「いや、配管を伝って聞こえる音じゃないです。人の声です。ハッキリと聞きましたから、それに下から大きな音がしたんです。お願いします。もう一度調べて下さい」

「 ……わかりました」


 厭そうな表情の大家と一緒に下の部屋へと向かう、


「夢でも見たんじゃないですか? 」


 大家が志賀の顔を窺った。部屋の中には何もない、昨晩バタンと大きな音を立てたようなものは何も無いのだ。畳を敷いた6畳間の和室があるだけだ。


「夢なんかじゃないです。起きてましたから」


 反論しながら志賀は何気なく流しを見た。排水口にはゴム製の蓋が被せてあった。臭い匂いが上がってくることは大家は知っていたのではないかと疑問が浮ぶ、


「前に住んでた大学生はどんな人なんです? 3ヶ月前に失踪したんですよね」


 志賀が訊くと大家の顔がさっと変わった。


「そっ、それは話せません、個人情報なんとかで今は煩いんですよ」


 少し焦りながら大家は気の所為だと、また何かあれば呼んでくださいと言って戻っていった。大家の態度に疑問を感じたが志賀もその日はそれ以上追求せずに部屋に戻った。



 次の日、バイトを終えて夜の11時過ぎに帰ってくると部屋が臭い、また排水口から匂いが上がってきていた。取り敢えず鍋に水を入れて排水口に置いて蓋をすると窓を開けて換気扇を回した。


「勘弁してくれ! 匂いは消えたと思ったのに……大家は何か隠してるみたいだし……もしかして下のヤツは失踪したんじゃなくて死んだんじゃ……事故物件だから隠してるんじゃないだろうな」


 臭い匂いに顔を顰めながらシャワーを浴びに行く、


「事故物件だったとして下の部屋だから俺には関係ないのか……それが知られるのが嫌であんな顔してたんだな」


 自分の予想に満足しながら風呂場から出てくると冷蔵庫から缶チューハイを取り出した。


「ここより安いところなんて無いからな……音と唸り声は我慢するとして匂いだけはな、換気扇回しっぱなしにするわけにもいかないしな」


 部屋の匂いは消えていたので換気扇を止めると缶チューハイをグイッと飲んだ。


「明日はバイトも講義もないから酔っ払って寝るか」


 深夜番組を見ながら酒を飲んで良い気分に酔ってからベッドに横になった。正直、怖かったので酒の力を借りて眠りについたのだ。


『カリカリ……ガリガリガリ……誰かが見ているぞ……監視されてるんだ…………ガリカリカリ……見張られてるぞ……カリカリ……逃げるんだ……何処かに隠れろ………… 』


 どれくらい寝ていただろうか、声が聞こえて志賀が目を覚ます。


「逃げる? 俺がか? 」


 寝惚け眼で呟いた志賀にこたえるように下の部屋から大きな音が聞こえてきた。


 バタン! 本棚か箪笥でも倒したような大きな音だ。


「おわっ!! 」


 志賀が飛び起きた。


『カリガリガリ……誰かが見てるぞ……監視してるぞ…………カリカリ……逃げろ……隠れるんだ…………カリカリカリ』


 何か固い物を削るような音と共に低い男の声がハッキリと聞こえてきた。


「夢じゃないからな、起きてるからな」


 大家に夢だと言われた事を気にしていたのか独り言を言ってから立ち上がる。


 バタン! また大きな音が聞こえた。志賀の部屋に振動が伝わってくるほどだ。


「確かめてやる」


 酔いが残っていて気が大きくなっていた志賀は確かめようと部屋を出た。


「鍵は掛かってるな…… 」


 下の部屋のドアの前で様子を伺うが気配も何も無い、仕方なく部屋へと戻った志賀が顔を顰めた。部屋中に臭い匂いが充満していた。有り得ない、部屋を開けたのは5分も経っていない、排水口から匂いが上がってくるとしても5分でここまで酷くなるなど考えられないのだ。


「臭すぎる…… 」


 鼻と口を手で塞ぎながら窓を全開して換気扇を回す。


「問い質してやる…… 」


 スマホで時間を確かめると深夜の3時過ぎだ。明日はバイトは休みだ。講義もないので大学も行かなくてもいい、志賀は大家に話しを聞こうと思った。下の部屋が事故物件ならそれでもいい、全てを話して貰わないと気が済まない。



 翌日、昼過ぎに大家を訪ねた。志賀は昨晩の出来事を話して何かがおかしいと大家に詰め寄った。


「下の大学生は失踪したって言ってたけど本当は自殺したんじゃないんですか? 事故物件だから誰も借りない、上に住む俺にバレたくないから黙ってるんでしょ? 」

「違う、事故物件なんかじゃない、嘘なんて言ってない、前の住人は本当にいなくなったんだ。家賃を滞納して失踪したんだ」


 焦りを浮かべて大家が否定した。


「下に住んでた大学生はどんなヤツだったんです? 話して貰いますよ」


 志賀が凄むと、大家は渋々と言った様子で教えてくれた。


 夜逃げした下の階の大学生は心を病んでいたらしい、『誰かに見張られている。後を付けられている。監視されている。逃げるんだ。隠れるんだ』などと独り言を繰り返し言っていた。

 入居する前は極普通だったが半年ほど前から様子がおかしくなってきたらしい、心療内科にも掛かっていたのだがブツブツと怯えたように話すだけで暴れるわけでもなく、他の住人からの苦情もなかったので追い出すわけにも行かずに住まわせていた。

 下の住人が部屋を借りて1年ほどが経った。家賃を半年分も滞納していたのでこれ幸いと出て行って貰おうと訪ねたのが志賀が越してくる3ヶ月ほど前だ。そうしたら居なくなっていて親とも連絡が取れずに部屋を整理したのだ。


「事故物件じゃなかったのか…… 」


 話しを聞いた志賀は安心しながらもゾッとした。


「じゃあ俺が聞いた声は……見られてるとか逃げろとか…… 」


 深夜、カリカリと固い物を削るような音と共に聞こえてきた男の低い声を思い出す。


「きっ、気の所為ですよ……古いですから配管が変な風に音を伝えるんですよ」


 誤魔化すように話す大家の顔も青くなっていた。


「そんな事もあるかも知れませんね」


 志賀が引き攣った笑みでこたえた。言葉には出さないが志賀も大家も前の住人は既に生きていないだろうと思っている顔だ。


 大家が志賀の顔を窺う、


「出て行って貰っても構いませんよ、今月の家賃は払わなくてもいいです。他に空いている部屋はありませんから」

「ここを出ても他に当ては無いですし…… 」


 志賀が言葉を詰まらせる。他に空き部屋は無いので部屋は替えられない、出て行くなら出て行ってもいいと大家は言うがここより安い部屋は無いだろう。


「でも匂いだけはどうにかなりませんか? 」


 条件を出す志賀の向かいで大家が顔を嫌そうに歪める。


「この前業者に見てもらったでしょう、異常なかったじゃないですか」

「でも匂うんですよ、腐ったような匂いが……頼みますよ」


 食い下がる志賀の前で大家が考えるように黙り込んだ。

 暫くして大家が口を開いた。


「 ……5000円、家賃を5000円引きましょう、今の2万から1万5000円にしますよ、匂うのも夜だけでしょ? 換気扇回せばいいじゃないですか」

「5000円か…… 」


 今度は志賀が考え込む、


「わかりました。それでお願いします。家賃が安いなら匂いも我慢しますよ」


 確かに臭い匂いはするが換気扇を20分も回せば気にならなくなる。何故か昼間は殆ど匂わない、夜だけだ。周の4日はバイトから帰って寝るだけの生活である。5000円安くなるなら我慢できると考えた。


「わかりました。じゃあ今月から家賃は1万5000円でいいですよ」

「ありがとうございます」


 笑顔の戻った大家に志賀がペコッと頭を下げた。



 1週間が経った。志賀は毎晩帰ってくると匂いに関係なく換気扇を回す癖がついていた。部屋の空気の入れ換えにもなるので丁度いいとさえ思っていた。

 カリカリという音と男の唸るような声は相変わらず聞こえてきたが志賀は完全に無視をしていた。


「こんなに安い部屋なんて他に無いからな……1万5000円だぞ、風呂トイレにガスもプロパンじゃない、こんなところ他にあるかよ」


 夜の11時過ぎ、バイトから帰ってきた志賀が換気扇を回すと窓を開けた。匂いはするが臭いとも言わなくなっている。


「誰だ! 」


 換気している間にシャワーでも浴びようと風呂場へ向かうと視線を感じて振り返る。


「誰か見てた……昨日も見てたぞ」


 台所の窓を凝視しながら呟いた。近頃、視線を感じるのだ。


「誰かが俺を見てる。見張ってるみたいだ」


 ブツブツいいながらシャワーを浴びに風呂場へと入っていった。


「ふぅ、さっぱりした」


 シャワーを終え、換気扇を止めて窓を閉めると缶ビールを飲みながら深夜番組を見る。


「あはははっ…… 」


 テレビを見て楽しそうに笑っていた志賀がバッと振り返った。


「誰だ!! 誰が見てるんだ? 」


 ベッドの向こうの壁に付いている窓をサッと開けた。視線を感じたのだ。


「監視しやがって……俺を見るんじゃねぇ! 」


 酔って顔を赤くした志賀が窓から外へ向かって怒鳴った。


「クソッたれが…… 」


 ブツブツ愚痴りながらベッドに横になる。酔っているので直ぐに眠りに落ちていった。


『カリカリカリ……ガリガリ……見てるぞ……誰かが監視してるぞ…………カリガリガリ……見張られてるぞ……カリカリ……逃げろ…………何処かへ隠れるんだ』


 物音に志賀が目を覚ました。


「見られてる……そうだ。逃げないと、隠れないと」


 寝惚け眼で起き上がると志賀はベッドの下へと潜り込んだ。


「隠れるんだ……隠れないと…… 」


 そのままベッドの下で眠りに落ちた。



 翌朝、目を覚ました志賀が起きようとして思いっ切り頭を打った。


「痛てっ……痛ててて…… 」


 頭を押さえながら記憶を辿る。


「ベッドの下だ……ベッドの下に隠れたんだ」


 昨晩の出来事を思い出しながら志賀がベッドの下から這い出てきた。


「何で隠れないとダメなんだ? 変な視線も感じるし…… 」


 自分はどうにかなったのかと怖くなった志賀は大学を休んで布団の中に潜って震えていた。

 いつの間にか寝入っていたらしい、物音が聞こえて目を覚ました。


『カリカリ……ガリカリカリ……逃げるんだ……見張られてるぞ……隠れないと…………監視されてるんだ……カリガリガリ………… 』


 志賀が布団の中で身を固くする。今は昼間だ。昼に声が聞こえてきたのだ。


「誰だ! 」


 布団を被りながら窓を睨んだ。視線を感じたのだ。


『カリガリガリ……見てるぞ……見てる……カリカリ…………逃げないと……隠れるんだ……ガリガリガリ』


 今まで以上にハッキリと聞こえた。


「誰が見てる! 見るんじゃねぇ!! 俺を監視するな、見るんじゃねぇ! 」


 被っていた布団を振り回し叫びながら部屋の中を滅茶苦茶にしている志賀が警察官に取り押さえられた。騒ぐ声を聞いてアパートの住人が大家に連絡して様子を見に来た大家が警察を呼んだのだ。


「隠れないと……誰かが見てる。逃げるんだ。隠れるんだ」


 大家に鍵を開けてもらい警察官が部屋に入った時に志賀は畳を捲ってその下に入り込もうとしていた。


「おっ、同じだ……木之下さんと同じだ………… 」


 志賀を見て大家が震える声を出す。木之下とは下の階に住んでいて失踪した大学生のことだ。

 二人の警察官に押さえ付けられて志賀がおとなしくなる。


「俺は……俺は……何をしてたんだ? 」


 何も覚えていない様子の志賀に大家が事の次第を説明した。


「大丈夫かい志賀さん、気にしすぎて神経が参っちゃったんだよ、この部屋出て実家に帰ったらどうだい? 」


 話しを聞いて愕然とする志賀に大家が優しい声を掛けた。


「あっ……いいえ、心配掛けて済みません」


 大家に謝り、警察には酒に酔って寝惚けていたと話して頭を下げた。民事不介入ということで罪に問われることはないが厳重注意をして警察官は帰っていった。アパートの住民たちにも謝ってその場は収まった。



 落ち着きを取り戻した志賀は全て排水口が悪いと考えた。


「匂いも声も全部ここからやって来るんだ」


 思い余った志賀は排水口へ熱湯を流し込む、給湯器が出せる最高温度の75度ほどのお湯だけでなく、ヤカンに沸かした煮えたぎった熱湯を次から次へと排水口へと流し込んだ。


「熱湯消毒だ! 1時間くらい熱湯を注いでやる」


 30分も流し込んでいただろうか? 


『ぎぃぎゃぁぁーーっ!! 』


 排水管を伝って叫びが聞こえてきた。


「なっ、何だ…… 」


 驚いた志賀が熱湯の入ったヤカンを落としそうになって慌てて流し台にしがみついた。


『ひぃ……ひぃぃ………… 』


 低い男の声と共にバタバタと騒ぐ音が階下から聞こえてきた。


「誰か居るのか? クソッたれが! 」


 恐怖より怒りが先に立った志賀が部屋を飛び出した。


「誰も居ないのかよ、クソッたれが……まぁいい、ザマぁみろ! 」


 下の部屋へと向かってドア越しに様子を伺うが気配も何も無い、だが志賀は何か達成感のようなものを感じて悠々と部屋へと戻った。


 自分の部屋の前、ドアノブに手を伸ばした志賀が顔を顰める。


「何だ? この匂いは…… 」


 ドアを開ける前から臭い匂いが出てくるのがわかった。


「なんだってんだよ! 」


 半ば怒鳴りながらドアを開ける。


「ぐぉっ!! 」


 仰け反るようにして数歩下がった。部屋には耐えがたいほどの悪臭が充満していた。腐乱臭とでも言うのだろうか、息も出来ないほどの臭さだ。

 志賀が顔を顰めて部屋を睨んでいると隣の部屋のドアがバッと開いた。


「臭い! なんの匂いだ」


 右隣の部屋の学生が立ち尽くす志賀の元へとやって来る。


「何かしたんですか? 」


 丁寧な言葉使いだが目付きから怒っていることがわかったので志賀はペコッと頭を下げてから話し出す。


「流しの排水口から匂いが上がってくるんで消毒しようと熱湯を流したんです」

「熱湯か……排水管が壊れたんじゃないだろうな」


 右隣の学生が迷惑顔で志賀を見つめる。その時、下から怒鳴る声が聞こえた。


「くっさぁ~~、なんの匂いだ! どうなってんだ」


 飛び出してきたのは志賀の右隣の1階の住人らしい。


「おいっ! 誰か居るのか? なんなんだよこの匂いは!! 」


 飛び出してきた住人が下の空き部屋のドアをバンバン叩く音が聞こえてきた。


「下かよ!! 」


 志賀が慌てて階段を下りていく、隣の住人も何事かと追い掛けて下りていった。



 匂いの出所は志賀の下の空き部屋だ。志賀の部屋だけでなく、隣りやその下の階の住人までもが出てくるほどの臭さだ。

 直ぐに大家が呼ばれて他の住人たちと共に志賀も空き部屋を覗いた。


「志賀さん何をしたんですか? 」


 ドアを開ける前から悪臭が匂ってくる。大家が鍵を開けながら志賀に訊いた。


「熱湯消毒しようとして排水口に熱湯を流しました」

「熱湯ですか…… 」


 大家が顔を顰めながらドアを開けた。

 部屋の中には何もない、耐えがたい悪臭の中、畳が一枚捲られて転がっていた。


「畳が…… 」

「空き部屋ですよね」


 呟く志賀の傍で隣部屋の学生が確認するように訊いた。


「あっ、空き部屋ですよ……どうしましょう」


 大家が縋るような目で志賀を見つめる。


「泥棒かも知れない、確認しましょう」


 志賀は臭いのを我慢して大家と一緒に部屋に入る。剥がした畳があった床、その床板に穴が空いていた。横60センチ縦30センチほどのギリギリで人が通れるくらいの穴だ。


「床に穴なんて開けて…………ひへぇーっ、いひぃぃ~~ 」


 穴を覗いた大家が悲鳴を上げてその場に腰を落とした。


「どうしたんですか? 」


 何事かと志賀も穴を覗いた。


「うわぁぁ~~っ、ひっ、人が……死んでる……誰か死んでる」


 人がいた。いや人であったものがいた。グズグズに腐乱した人らしきものが横たわっていた。


「けっ警察……でっ、電話を………… 」


 腰を抜かしたのか大家が這うように部屋を出て行く、


「ぐげぇ、ぐがっ」


 嘔吐きながら志賀も出て行く、臭い匂いの原因がわかったのだ。

 通報すると直ぐに警察がやってきて現場検証が始まった。大家始め、志賀たち住人も聞き取り調査を受ける。



 後日、大家から説明を受けた。

 死んでいたのは下の階を借りていた大学生だ。家賃滞納して行方不明になったと思われていたが床下に潜んでいたらしい、誰かに監視されていると言って心を病んでいた大学生は逃れるために床下に入ったが何かの拍子で腕の骨を折って出られなくなったらしい、両腕の骨が折れていた。手が使えなければあの小さな穴から這い上がることは出来なかったのだ。

 現場検証の結果、排水の配管に穴が見つかった。小さな穴の周辺に歯形が付いていた。喉が渇いて大学生が噛んで開けた穴だ。骨折して手も使えずに噛んで開けたのだろう。


「そうですか、わかりました」


 大家の向かいで志賀が頷いた。話しを聞いてこれまでの出来事が全て隠れていた大学生の仕業だとわかって恐怖よりも安堵していた。


「じゃあ、夜中にカリカリ鳴ってた音は排水管を齧ってた音って事ですか? 」

「いや、それが…… 」


 弱り顔の大家を見て志賀が怪訝な表情で口を開く、


「どうしたんです? 違うんですか? 」

「それがね、木之下さん……木之下さんってのは下の部屋を借りていた学生さんの名前なんだけどね、木之下さんねぇ…… 」


 言い辛そうに溜息をついてから大家が続ける。


「木之下さんは死後3ヶ月以上経ってるって警察の人が言ってたんだよ」

「死後3ヶ月って……俺が部屋を借りる前には死んでたって事ですよね」


 驚く志賀の前で大家が黙って頷いた。


「じゃっ、じゃあ、あの音は……声も聞きましたよ……あっ、あれは………… 」


 真っ青な顔で震える声を出す志賀を大家が見上げた。


「家賃、1万円でいいよ、警察も事件性はないって言ってたからさ、夜逃げした親も見つかって木之下さんはちゃんと供養されるからもう出てこないと思うからさ」


 卑屈に見上げる大家の前で志賀が首を振った。


「いっ、いいえ、いりません……出て行きますから」


 断る志賀に大家が引き攣った顔で無理に笑みを作ると続ける。


「そんな事言わないでさぁ、変な噂が立つと借り手がなくなるからさぁ……そっ、そうだ。3ヶ月、3ヶ月家賃只でいいから、その後も大学卒業するまでは家賃1万円でいいからさ、出ていくなんて言わないでよ」


 焦りを浮かべた真剣な表情で志賀が話し始める。


「視線……視線を感じるんですよ、部屋に居ると昼でも夜でも誰かが見てるんですよ、匂いとか音だけなら我慢できるけど視線はダメだ。落ち着かなくてイライラして……逃げたくなって……隠れたくなって…………あれだけはダメだ」


 もうこの部屋には居られない、志賀はアパートを引き払って実家に帰る事にした。



 実家から大学へ通うようになった志賀は真剣に勉強に打ち込もうとバイトも週4日から土日の2日間だけにした。バイトは辞めてもよかったのだが人手が足りなくて居酒屋の店長に土日だけでもと懇願されて続ける事にしたのだ。


 実家に戻ってから10日ほどが経った。バイトを終えた志賀が夜の道を原付バイクでゆっくりと走っている。大学へは電車で通っているがバイトは原付バイクを使っていた。地方の終電は早い、午後の11時には終っている所などざらにあるのだ。


「一人暮らしは当分お預けだな、まぁ幽霊アパートはいい経験になったけどな」


 ボロアパートでの出来事はもう思い出の中へと入れていた。

 志賀は信号で止まると交差する右の道路を見つめる。この道を少し行けばあのボロアパートが建っている。


「俺の部屋、もう誰か入ってるかな? 」


 まだ12日しか経っていない、誰も住んでいないだろうと思いながらも気になって右へと原付バイクを走らせた。


「やっぱりな」


 ボロアパートが見える道の端に原付バイクを止めると然もありなんと志賀が呟いた。借りていた左端の2階には明かりは灯っていない。


「おおぅ……嘘だろ! 」


 帰ろうとハンドルを握った志賀の口から思わず少し大きな声が出た。

 志賀が借りていた部屋の下、1階の部屋に明かりが灯ったのだ。床下から大学生の腐乱した死体が見つかった部屋である。12日程で使えるようになるとは思えない。


「マジかよ…… 」


 驚く志賀の見つめる先で明かりはフッと消えた。


「あれっ、消えた。大家さんでもいたのかな」


 何か用事でもあって大家がいたのかも知れない、それなら挨拶でもしようと暫く待ったが部屋からは誰も出てくる気配は無かった。


「おいおい、マジで住んでるのかよ」


 どんなヤツが住んでいるのか興味も湧いたが今は午前0時前だ。こんな所でうろちょろしていると不審者と思われかねない、暇な時にでも見に来てやろうと思いながら志賀はバイクを走らせた。


 バタン! 後ろから大きな音が聞こえたが誰かが車のドアでも閉めたのだろうと気にもせずに帰っていった。



 その日の深夜、物音を聞いて志賀が目を覚ます。


『ガリガリガリ……カリカリ……カリガリガリ………… 』


 志賀が目を擦りながら寝返りを打った。


「うぅ……煩いなぁ………… 」

『カリカリ……ガリガリカリ……見てるぞ……カリガリガリ……見張られてるぞ…………ガリガリ……逃げるんだ……カリカリカリ……何処かに隠れるんだ』


 ベッドの上で志賀が身を固くする。寝惚けていたのでハッキリとは聞こえなかったが何処かで聞いた音だ。


『ガリカリカリ……見張られてるぞ……ガリガリ……見てるぞ…………ガリカリカリ……逃げるんだ……カリカリ……何処かに隠れるんだ』

「うぅぅ…… 」


 喉の奥から絞り出すような呻きが出た。志賀の頭にボロアパートでの出来事が蘇る。

 音と声は階下から聞こえてくるのがわかったが志賀の家は2階建ての普通の建売住宅だ。志賀の部屋は2階にあり、下には両親の寝室がある。


「なっ、なんで…… 」


 怖くなった志賀は両親の部屋へと逃げようとしたが体が動かない、金縛りだ。


「ぐぅうぅ…… 」


 金縛りを解こうと焦っている志賀の鼻にキツい匂いが突き刺さる。


「くっ、臭い…… 」


 部屋中に腐臭が充満していた。


『カリガリガリ……見てるぞ……見張られてるぞ……カリカリ……逃げるんだ……ガリガリガリ……何処かへ隠れるんだ……カリカリカリ』


 低い男の声が聞こえて同時に視線も感じる。


「ぐぅぅ…… 」


 金縛りを解いて逃げようと志賀は必死だ。


『逃げないと俺みたいになっちゃうよ』


 直ぐ傍で声がした。体は動かないが目玉は動く、志賀は反射的に声のした方を見た。


『逃げないと俺みたいになっちゃうよ』


 腐乱した男の顔が直ぐ傍にあった。青黒く膨れ、皮膚の所々が裂けて腐った汁が滲んでいる。その口元から喉に掛けて茹で上がったように白くなっていた。


『熱かったよ、とても熱かったよ、逃げないと俺みたいになっちゃうよ』

「ひぅぅ……うわぁあぁぁあぁ~~ 」


 志賀がベッドから飛び起きた。



 その後の記憶は志賀には無い、父親が駆け付けた時には『誰かが見ている。監視してるんだ。逃げないと、隠れないと』などとブツブツ呟きながら剥がした畳の下に潜るように隠れていたらしい。

 同じような事を数度繰り返し、暴れるようになってバイトどころか大学も行かずに部屋に引き籠もるようになった志賀に手を焼いた父親が近くの心療内科に連れて行くがそこでは面倒見切れないと磯山病院を紹介されたのだ。

 これが志賀祐介しがゆうすけの父親が教えてくれた話しだ。



 話を終えた志賀の父親が缶コーヒーをグイッと飲み干した。


「死体を見たのが余程ショックだったんでしょうねぇ……それで幽霊などありもしないものを……暫く療養したら良くなると先生は言ってくれましたがどうなることやら」


 半分諦めているのだろう、重い口調で付け足す父親の向かいで哲也も嶺弥も掛ける言葉が出てこない。


「済みませんねぇ、こんな話しを聞かせて……でも警備員さんに聞いてもらって少し楽になりましたよ」


 窶れた顔で笑みを作る父親に嶺弥が優しい声を掛ける。


「私に何が出来るのかは分かりませんが警備員として出来ることは致します。お父さんも時々会いに来てあげてください」

「そうですよ、僕も出来ることはしますよ、志賀さんと歳も近いですから話し相手になれると思います」


 嶺弥の隣で哲也も父親を安心させようと声を掛けた。


「そう言って貰えると助かります。息子を、祐介をよろしく頼みます」


 余程息子のことが心配なのだろう、警備員である嶺弥たちにまで深々と頭を下げて父親は帰っていった。

 正門まで父親を見送ると嶺弥がくるっと振り向いた。


「幽霊の話しはともかく志賀さんには近付くな、暴れたら哲也くんの手に終えないよ、いいね、絶対に志賀さんには近付くな、あれは危険だ。あの霊は…… 」


 言いかけた言葉を嶺弥が引っ込めた。


「とにかく志賀さんには近付くな、暴れたら他の警備員や看護師の佐藤さんたちに任せておけばいい、哲也くんは絶対に近寄るな、約束だぞ」


 いつもと違う真剣な嶺弥の顔を見て哲也は頷くしかない。


「うん、わかった。嶺弥さんがそこまで言うなら……話しはお父さんに聞いたし志賀さんに会う必要はないから約束します」


 真面目な顔で約束した哲也を見て嶺弥が相好を崩す。


「それでいい、約束通り寿司は買ってくるから楽しみにしておいてくれ」


 普段の優しい笑みで言うと嶺弥は帰っていった。嶺弥は明日と明後日は休みだ。



 その日と翌日は何の異常も無かった。哲也は約束通りに志賀には近寄らなかったし、志賀も暴れるようなことはなかった。

 次の日、深夜3時の見回りで哲也がB棟へと入っていく、


「異常無しっと」


 いつものように最上階から下りながら各階を見て回る。

 2階へ下りて長い廊下を歩いていた哲也の鼻を臭い匂いが突いた。


「なんだこの匂いは…… 」


 何処から匂うのかと哲也が探す。何か異常があれば大変だ。警備員として放っておけないのだ。


「段々臭くなってくるぞ」


 匂いの元は少し歩いた先の部屋だとわかった。


「臭っ! ここから…… 」


 ドアの番号を見て哲也がその場に固まった。207号室、志賀の部屋だ。


「志賀さんか……嶺弥さんと約束したしな………… 」


 ドアを開けて確認するか躊躇していたその時、部屋の中からバタンと物音が聞こえてきた。


「志賀さん! 」


 慌ててドアを開けた哲也の目に床に這うようにしている志賀が映った。


「逃げなきゃ……隠れないと……潜らないと………… 」


 這いつくばった志賀が床に爪を立てて必死で掻いている。


「志賀さん、何してるんですか」

「邪魔するな、誰かが見てるんだ……逃げないと、隠れないと、俺も彼奴みたいになるんだ……だから隠れるんだ」


 慌てて止めようとする哲也に掴み掛かる志賀の指が真っ赤になっている。よく見ると床には爪の後と共に血が付いていた。


「志賀さんダメですって」

「邪魔するな! 」


 哲也の力では志賀を止められない、志賀は床下に隠れようとするが畳でもなく剥がれる床材でもない、どうにかしようと掻き毟ったらしく爪先から血が滲んでいた。


「僕一人じゃダメだ」


 哲也がナースコールのボタンを押した。

 直ぐに香織と佐藤が駆け付けてくれた。


「哲也くん大丈夫! 」


 駆け付けた香織が開口一番に志賀ではなく哲也に声を掛けた。


「僕は何ともありません、それより志賀さんを止めてください」

「任せろ」


 大柄の佐藤が難無く志賀を取り押さえる。


「放せ! 逃げなきゃ……隠れないとダメなんだ。彼奴みたいに……彼奴みたいに殺される。見てるんだ……だから隠れるんだ」

「わかったわ、放してあげる。その代わりにこれを飲みなさい、飲んだら放してあげるわ」

「本当だな……それを飲めばいいんだな」


 騒ぐ志賀に香織が薬を飲ませた。


「飲んだぞ、さっさと放せ……約束だぞ」


 志賀が騒ぐが佐藤は放さない、暫くして志賀がおとなしくなった。


「騙して眠剤飲ませたのか……ひでぇ」


 驚く哲也の向かいで香織が悪戯っぽく笑った。


「キツい奴だから朝までぐっすりよ」


 眠っている志賀を佐藤がベッドに横たえる。

 志賀に布団を掛けながら香織が口を開く、


「後は私たちに任せて哲也くんは見回りに戻りなさい。それと次に同じような事が起きても志賀さんの部屋に入ってはダメよ、部屋に入らずに私か佐藤さんに連絡しなさい」

「でも…… 」


 反論しようとした哲也を香織が怖い顔で睨む、


「須賀さんと約束したでしょ、今回は言わないけど、次やったら須賀さんに話すわよ」


 哲也の顔色がさっと変わった。


「それは困るっす……わかりました。次何かあったら香織さんに直接連絡します」


 弱り顔で約束する哲也を見て香織がニッコリと可愛い笑みになる。


「それでいいわ、じゃあ哲也くんは見回りに戻った戻った」


 何となく納得いかないが哲也は部屋を出て見回りを再開した。



 見回りを終えて午前の4時前に自分の部屋に戻る。


「4時間ほど眠れるな、なんか疲れたな、肩が重いや……コーヒー買ってきたけど後でいいや」


 自動販売機で買ってきた缶コーヒーをベッド脇のテーブルに置くと上着を脱いでズボンはそのままでベッドに転がった。風邪を引いた時のように全身が怠かった。


『カリカリ……ガリカリカリ………… 』


 いつの間にか寝入っていた哲也が物音に目を覚ます。


「うぅ……煩いなぁ~ 」


 目を擦りながら寝返りを打とうとしたが体が痺れたように動かない。

 金縛りか……、哲也は慣れたもので全身の力を抜いて金縛りが解けるのを待った。


『カリカリカリ……ひひっ……ガリガリ……ひひひっ、見られているぞ、ひひひひっ』


 何かを削るような音と共に男の低い声が聞こえた。同時に何かが腐ったような匂いが鼻を突く、


『ガリガリ……見てるぞ……監視されてるぞ……カリカリカリ……ひひっ、逃げなきゃ……ガリカリカリ…………隠れるんだ……ひひっ、ひひひひっ』


 金縛りで動けない哲也が目だけを動かして声のする方を見た。


「おうぅぅ…… 」


 叫びが喉に詰まって呻きに代わる。枕元に腐乱した男が立っていた。


『ひひっ、ひひひひっ、見られているぞ、監視されてるんだ。逃げなきゃ、隠れるんだ。ひひひひひ』


 腐乱した男が哲也の首に手を伸ばす。

 どうにかしようと哲也が焦っているとドアがバッと開いた。


「哲也くんにちょっかい出すのは止めてもらいたいわね」


 香織だ。険しい表情をした香織が部屋に入ってきた。


『ひひっ、ひひひっ、逃げなきゃ……隠れるんだ……だからこいつも連れて行く』


 ベッド脇から哲也の首に手を伸ばしていた腐乱した男が振り返る。


「逃げるなら1人で逃げなさい、哲也くんは私のものなのよ、手を出すなら私が相手よ」


 哲也の見つめる先、片手を構える香織の体を靄のような白い光が覆っていく、


『ひひっ……ひぃぃ~~ 』


 腐乱した男は手を引っ込めると数歩下がった。


『怖い、怖い、俺より怖い…… 』


 青黒く膨れ、目玉も無く、頬が裂け歯根が剥き出しになっている恐ろしい顔をした腐乱した男の幽霊が怯えている。


「わかったなら消えなさい、お前如きが来る場所ではない、それともここで始末してあげましょうか? 」


 下がった男を追い詰めるように香織が数歩前に出る。その時、香織がぶつかったのかテーブルに置いていた缶コーヒーが落ちてベッドの下に転がっていく、香織の気が一瞬逸れた。


『怖い、怖い…… 』


 腐乱した男の幽霊がスーッと消えていった。


「逃したか……まぁいいわ、志賀の所にいないからおかしいと思ったらやっぱり哲也くんに憑いてたのね」


 くるっと振り返った香織から白い光が消えていく、


「かっ、香織さん…… 」


 哲也はまだ金縛りで動けない、驚きに目を見開いて香織を見つめるだけだ。

 優しく微笑みながら香織がベッド脇にやってきた。


「お休みなさい、私の哲也くん」


 香織が目を塞ぐように哲也の顔に片手を当てた。良い匂いがして温かで気持ちがいい、哲也の意識が遠くなっていく。



 朝の8時半を回った頃、哲也はベッドの上で上半身を起して何やら神妙な顔をして考えていた。


「夢か……男の幽霊が出て香織さんが追い払ってくれた……夢……か………… 」


 変な夢を見たと首を傾げながらも香織が夢に出てきてくれて嬉しいとも思った。


「変な話しを聞いたからあんな夢を見たんだな……どうせならエッチな夢が見たかったなぁ、香織さんとデートする夢なら大歓迎なのに」


 惜しそうに呟くと哲也はベッドから飛び降りた。



 朝食を食べようと食堂へと向かって哲也が廊下を歩いていると何やら慌ただしいのに気が付いた。知り合いの看護師を捕まえて聞くと志賀が暴れて部屋が滅茶滅茶になっていたらしい、何でも腐乱した男が出てきて殺されそうになったと錯乱してベッドや棚を滅茶苦茶にして重ねてその下に隠れようとしたらしい。


「男の幽霊か……僕の夢に出てきた霊を香織さんが追い払って志賀さんに戻ったのかも」


 食事のことも忘れて哲也が駆け出した。

 B棟の207号室、志賀の部屋に行くと数人の看護師が部屋片付けをしていた。部屋に志賀は居ない。


「あら、哲也くん」


 床にモップを掛けていた香織が振り返る。


「志賀さんは? 」

「15分ほど前に隔離病棟へ連れて行かれたわよ、まぁこれだけ暴れたら仕方ないわね」


 怪訝な顔で訊く哲也の前で香織が部屋を見ろというように手を広げた。

 部屋は酷い有様だ。窓ガラスが二枚割れ、床には血の跡が所々に付いている。ベッドは引っ繰り返ってマットレスは引き裂かれて中のスポンジが彼方此方に飛び散っている。布団やシーツもボロボロだ。


「志賀さんがやったんですか? 」


 顔を顰める哲也の向かいで香織が弱り顔で頷いた。


「佐藤さんと二人で見に来たら吃驚したわよ、全部引っ繰り返して重ねてその下に隠れてたんだから……そのあと大暴れしてガラスまで割って大変だったんだから」


 哲也が真剣な表情で香織を見つめた。


「僕の所にも男の霊が出ましたよ、香織さんが助けてくれたんですよね? 」

「はい? 」


 わからないと言うように香織が大袈裟に首を傾げた。


「茶化さないでください、本当のことを言ってください、香織さんが助けてくれたんですよね、感謝してるんですよ」


 睨み付けるような真剣な眼差しの哲也に香織が手を伸ばす。


「哲也くん大丈夫? 」


 哲也の額に手を当てながら香織が続ける。


「熱は無いようね、変な事は言わない方がいいわよ、池田先生に知られたら病状が悪化したと思われて大変よ」


 香織さんの手、温かいや……、哲也の真面目な顔が崩れていく、


「ちっ、違うんです。夢を見たから…… 」

「夢? どんな夢を見たの」


 哲也の額から手を離すと香織が訊いた。


「腐乱した男の幽霊が現われて…… 」


 見た夢を哲也が説明した。


「ふ~ん、私が夢に出てきたんだ」

「はい、香織さんが助けてくれました」


 嬉しそうな笑みをしてこたえる哲也を香織が睨む、


「夢だからってエッチな事してないでしょうね? 」

「エッチって……してません、してません」


 頬を赤く染めた哲也がブンブンと首を振る。


「本当にぃ~、哲也くんのことだから少しくらいはしたんじゃないの? 」

「してませんから……さっき話したように金縛りに遭ってて動けなかった………… 」


 真っ赤な顔で弁解していた哲也がハッと何かを思い付く、


「缶コーヒー、缶コーヒーが無かった。テーブルの上に置いてた缶コーヒーを香織さんがぶつかって落としたんですよ、夢なら缶コーヒーはテーブルの上にある筈です。でも無かった……と思う、だから確かめに行ってきます」


 回れ右した哲也の腕を香織が掴んだ。


「このまま行く気? 手伝ってくれないの? 掃除大変なのよ」


 先程までにこやかだった香織の顔が不満そうに曇った。


「でも香織さん…… 」


 躊躇する哲也の腕を手繰たぐるように香織が体を寄せた。


「ベッドとか動かすの大変なのよ、女だけだし……哲也くんは手伝ってくれるわよね」


 哲也の腕に抱き付くようにして香織が頼んだ。直ぐ近くにある香織の顔、腕を包み込む胸、シャンプーか香水か、良い匂いが鼻を擽る。

 部屋を片付けているのは香織を入れて女性の看護師が3人だ。香織だけでなく残りの2人も期待するように哲也を見ている。


「そうっすね、女の子だけじゃベッドとか動かすの大変ですよね、わかりました手伝います」


 だらしなく頬を緩めた哲也を見て香織が嬉しそうに口を開く、


「流石哲也くん、頼りにしてるわ、後でみんなで御茶しましょう、池田先生から貰った美味しいお菓子があるのよ」


 ニッコリと可愛い笑みの香織を見て哲也はやる気満々だ。


「なんでも言ってください、力仕事は任せてください」

「哲也くんはベッドをお願いね、壊れてないか確かめてダメなら交換するから」

「了解っす。少しでもおかしかったら使わない方がいいですもんね」

「任せたわね」


 元気よくこたえる哲也に笑顔でこたえると香織が他の2人の看護師に指示を出す。


「それは向こうにお願いね、私は新しい布団を持ってくるから」


 香織が破れた布団とシーツを抱えて部屋を出て行く、


「缶コーヒーか……危ない危ない、確かベッドの下に転がっていったわね」


 廊下の端、用具置き場として使っている空き部屋に布団を置くと香織がすっと姿を消した。並んでいるベッドやマットレスの間に隠れたのではない、部屋から香織の姿が消えていた。



 5分も経たずに香織が新しい布団を持って帰ってきた。


「香織さん、ベッドはオッケーです。このまま使えますよ」

「ありがとう哲也くん」


 大丈夫と言うようにベッドをポンポン叩く哲也の前に布団を抱えた香織がやってくる。


「用具置き場も掃除しないとダメね、いらないものいっぱいあったわよ」


 ベッドの上に布団を起きながら愚痴るように香織が言った。


「ケーキでも奢ってくれるなら手伝うっすよ」


 笑顔でねだる哲也の頭を香織がペシッと叩く、


「夢の中で私にエッチな事したんだから罰として手伝うに決まってるじゃない」

「だから変な事なんてしてませんって……だいたい夢の中でもそんな事したら殴り飛ばされるでしょ……くそぅ、どうせ疑われるなら……エッチな夢ならどれだけいいか」


 必死で言い返す哲也に香織がじとーっと軽蔑の目を送る。


「やっぱり、エッチな夢見たかったんじゃない」

「へいへい、どうせスケベですよ、変態ですよ」


 ふて腐れる哲也の向かいで香織が楽しそうに笑いながら話し出す。


「ふふっ、冗談よ冗談、それより哲也くんはもういいわ、確かめることがあったんじゃないの? 缶コーヒーがどうとか」

「あっ、忘れてたっす。それじゃ僕はこれで」


 慌てて部屋を出て行く哲也に香織が声を掛ける。


「お昼ご飯食べた後で一緒に御茶しましょうね」

「楽しみっす」


 後ろ手に手を振ると哲也は急いで部屋へと戻っていった。



 哲也が部屋に戻るとベッド脇のテーブルの上には缶コーヒーが置いてあった。


「あれっ? 起きた時は無かったような気がしたんだけどな…… 」


 缶コーヒーを持ってベッドに腰掛ける。


「テーブルに置いてあったって事は全部夢って事か……香織さんも何も隠してないみたいだったし…………そうだな、夢だな」


 缶コーヒーを飲みながら哲也は今回の出来事を考える。



 亡くなった下の階の大学生が志賀を引き込んだのだろうか? 大学生は何故助けを呼ばなかったのか? 大声で叫べば誰かが気付いたはずだ。


 警察の捜査では亡くなった大学生は心を病んでいて誰かに監視されていると考え、それから逃れるために床下に隠れた。隠れているので声を出さなかった。両腕を骨折して自分からは這い出ることが出来なくなったが心を病んでいたので声も出さずに潜んでいた。そして体力が落ちていき叫ぶ力も無くなって死んだのだということだ。


 だが彼をここまで追い詰めたものは何だったのだろうか? 心の病と言ってしまえば簡単だが亡くなった大学生も志賀と同じように何かの霊に取り憑かれていたとしたらどうだろうか? 


 腐乱した男の幽霊、あれは亡くなった下の階の大学生ではなく、その大学生に取り憑いた霊だとしたら……大学生は男の幽霊に怯え、逃れるために床下に潜って亡くなったのだとしたら……その霊が志賀にも取り憑いたのだと考えたら、志賀が視線を感じた時には既にあの腐乱した男の幽霊が傍にいたのではないだろうか? 志賀には見えなかっただけで毎晩傍にいたのだ。実家に戻った志賀が見た腐乱した男は亡くなった大学生で他にもう1人、その大学生を引き込んだ幽霊がいたのだ。哲也の元へやってきた幽霊が……。


 この先、志賀はどうなるのだろうか? 考えるだけで怖くなってきた哲也は自分が見たのは夢で良かったと心から安堵した。

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