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第二十四話 殺しても殺しても

 誰かを殺したいと思った事はないだろうか? 殺したいと思うくらいに憎んでも普通は実行したりはしない、理性が止めるからである。自分自身の先の事や家族の事などを考えると正常な精神状態なら実行に移したりはしない、であるから殺人を起すのは余程の事である。それ以外に解決方法が無いと思い込んだ者や全てを捨ててもいいくらいに恨みがある者が実行に移すのだ。


 しかし、世の中には常識から外れたものがいる。悪い事だと区別の出来ない人、鬱やノイローゼなどで精神が不安定になって正常な判断が出来なくなった人、これらは心の病だ。病んでいるために歯止めが利かなくなって些細な切っ掛けで実行に移してしまうのだ。

 憎しみや恨みによる犯罪には同情の余地がある。だが悪い事だとわかっているが欲望や快楽に負けてしまい自分の事だけを考えて起した犯罪には同情の余地はない。


 人を殺めたにも拘わらず反省の色もなく平然としていた男を哲也も知っている。その男はこううそぶいた。俺は悪くない、相手が全部悪いのだと……。自身を擁護して正当化するその言葉で自分が悪いと言っているようなものだと哲也は思った。



 朝食を終えた哲也は遊歩道のベンチに座って缶コーヒー片手に日向ぼっこをしていた。


「ふわぁぁ~~あ、眠たくなってきた…… 」


 二度寝しようと思ったのだが晴天のお日様に釣られるように出てきたのだ。


「ふわぁ~~ぁあぁ…… 」


 左右に広げるように両手を上げながら大きな欠伸をしていた哲也の動きが止まった。

 哲也の見つめる先、普段は閉じている大きな正門が開いていく、磯山病院は広い敷地をコンクリート製の大きな壁でぐるっと囲っている。車などが入ってこれる大きな出入り口は正門と資材運搬などに使う西門だけだ。二つとも頑丈な鉄製の扉が付いている。テレビで見た刑務所のような門だと哲也は常々思っていた。


「なんだ? 新しい患者でも来るのかな? 」


 興味深げに見ていると看護師の佐藤が早足でやってきた。


「あっ、佐藤さんだ」


 視線を感じたのか佐藤が振り向いた。


「何してる? あっちへ行け」


 向こうへ行けと手を振る佐藤にムッとしながらも哲也は腰を上げた。


「佐藤さんが出迎えか……暴れる患者か何かだな」


 呟きながら哲也がゆっくりと歩き出す。

 チラチラと振り返りながら見ていると送迎用のバンタイプの車ではなく黒塗りの車が門から入ってきた。


「あれは? 」


 黒塗りの車から厳つい男たちに挟まれるようにして小太りの男が出てきた。

 哲也が立ち止まって考える。暫くして前に見た光景だと思い出した。犯罪者の護送だ。男は何かの罪を犯したが心の病で罪には問えないと措置入院してきたのだとわかった。


「成る程ね、措置入院か」


 警察官らしき2人の男が佐藤と何やら話をしている。厳つい2人の警察官に挟まれた男が哲也の方を向いた。


「また現われたな池上! いい加減にしろ、また殺されたいのか!! 」


 哲也と目が合うと男が大声で騒ぎ出した。


「暴れるな、おとなしくしろ」


 今にも駆け出してきそうだった男は警察官に押さえ込まれて地面に転がっておとなしくなった。


「なっ、何が……池上って誰だ? 」


 哲也の近くには誰も居ない、誰に怒鳴ったのかわからずにきょとんとしていた哲也に看護師の佐藤が消えろというように手を振った。


「いや……僕は何もしてないから………… 」


 小声で言い返しながらも哲也は早足でその場を離れていく、苦手な佐藤と諍いは起したくないのだ。


「池上って誰だろう? 殺すとか言ってたぞ」


 近くの建物の影からそっと覗いていると出迎えた佐藤と一緒に男たちが本館へと入っていった。


「佐藤さんは無理、教えてくれるどころか怒鳴られる。早坂さんは休みだし、香織さんしか居ないな」


 興味を持った哲也は男の素性を訊きに香織が居るであろうA棟へと戻っていった。



 ナースステーションの近くで看護師の香織がやってくるのを待つ、


「香織さん、午前の診察に行っちゃったかなぁ~ 」


 なかなか姿を見せないので自分の部屋に戻ろうとした時、ナースステーションから香織が出てきた。


「香織さん」


 笑顔で話し掛ける哲也に待てと言うように香織が右手を突き出した。


「忙しいから後にして」

「わかりました。んじゃ用件だけ言っときますね」


 池田先生の診察室へ向かう香織の少し後を哲也がついて歩く、


「さっき措置入院の患者さんがやってきたんですよ、佐藤さんが出迎えて……それでその患者に凄い剣幕で怒鳴られたんですよ、僕の事を池上だとか何とか呼んで……それで香織さんに話しを聞こうと思って………… 」

「哲也くんは余計な事に首を突っ込みすぎです。他の患者の事は話せません」


 振り返りもしない香織の背を見つめて哲也が続ける。


「池上とか叫んで飛び掛かってきそうだったんですよ……いいです。何かあっても知りませんから、理由も聞かずに殴り掛かってきたりしたら僕も反撃しますからね」


 ふて腐れた声を出す哲也に前を歩く香織がくるっと振り返った。


「わかったわよ、教えてあげるから殴り返したりしちゃダメよ」


 弱り顔の香織の前で哲也の顔にパーッと笑みが広がる。


「わかったっす。理由さえわかれば行き成り殴られても我慢しますよ」

「今は忙しいからお昼前にまた来なさい……ほんと言うと私もよく知らないのよ、佐藤さんに聞いておくから後で話しましょう」


 面倒臭そうに話す香織に哲也がビシッと敬礼した。


「了解っす。だから香織さんは好きっす」

「バカ言ってんじゃないの」


 調子に乗る哲也の頭を持っていた書類でパシッと叩くと香織はくるっと向き直って歩いて行った。


「さてと……戻って寝るかな」


 今は午前9時前だ。2時間ほど眠れると哲也は部屋へと戻っていった。



 昼食前、哲也がナースステーションへと行くと香織が難しい顔で出てきた。


「哲也くん、悪いけど話せないわ」

「なっ!? どういう事っすか? 」


 驚く哲也に香織が強張った顔で話し出す。


「今朝来た患者さんは殺人犯よ、この前の代田さんとは違うの、本当に人を殺めている犯人なのよ、哲也くんが変な興味を持って近付いたらダメだから話しません」


 姉が弟を叱るようにして香織が言うと哲也がムッと膨れっ面だ。


「教えてくれないなら…… 」

「殴られたり絡まれたら遣り返すって言うんでしょ? いいわよ、哲也くんの好きにして」


 茶化すような香織を前に哲也の膨れっ面が不安に染まる。


「ちょっ……どういう事です? 」


 驚く哲也を見て含み笑いをしていた香織が口を開く、


「竹中さん……患者さんの名前ね、竹中さんは5日ほどこっちに居るだけだから、手続きが終り次第、直ぐに隔離病棟へ送る事になっているからね」

「手続きって警察のですか? 」


 不安顔で訊く哲也の向かいで香織が頷いた。


「そうよ、スムーズに済めば3日ほどで終るんじゃないかな」

「それだったら教えてくれてもいいじゃないですか、患者が居なくなるなら僕が話し聞いても関係ないでしょ? 」


 手を合わせて頼むように言う哲也の頭を香織がポンッと叩いた。


「ダ~メ! 哲也くんは余計な事に直ぐに首を突っ込むからダメなの」

「教えてくださいよぉ、僕の事を池上だとか言って怒鳴ってきたんですよ、気になるじゃないですか」


 食い下がる哲也の前で香織が考えるように胸の前で腕を組む、


「池上か……哲也くん、お化けに似てるのかなぁ」


 何気なく呟いた香織の言葉に哲也が反応した。


「なんすか? お化けって、僕に似てるお化けが居るんすか? 」


 パッと顔を明るくした哲也を見て香織がしまったと言うように顔を顰めた。


「えっ……なっ、何でもないわよ、独り言よ独り言」


 誤魔化そうとする香織の向かいで哲也が膨れっ面で話し出す。


「もういいっす。香織さんが教えてくれないなら直接聞きに行きますから、竹中って名前わかってたら見回りで一部屋ずつ確認していけばいいだけですから…… 」


 拗ねて口を尖らせる哲也の腕を香織が掴んだ。


「ちょっ、ダメよ、そんな事しちゃ……わかったわよ、話してあげるわよ、その代わり竹中さんに話しを聞きに行ったりするのはダメだからね、約束するなら話してあげるわ」

「約束するっす」


 弱り顔の香織の前で哲也がニッと笑顔でこたえた。



 竹中久夫たけなかひさお42歳、貸した金を返さない相手に怒って監禁して殴る蹴るの暴行を加えていたが2週間ほどして相手が動かなくなる。死んだと思った竹中は男を海に捨てて証拠隠滅を謀った。暫くして殺した男が幽霊となって現われて付き纏うと怯え錯乱して捕まった。殺人事件の容疑者として逮捕されるが心神耗弱として磯山病院へと措置入院させられたのである。


「その殺された人が池上っていう男なんですね? 」


 哲也が訊くと香織が頷いた。


「そうよ、池上さんは27歳だから哲也くんと見間違えることなんて無いでしょうから幻覚でも見えてたんでしょうね、罪の意識かどうか知らないけど幽霊が出るって騒いで捕まったみたいだから」

「殺した人の幽霊が出てきて犯人が出頭するって話し何度か聞いた事ありますよ」


 よくある話しだと哲也が言うと香織が顔を顰めた。


「それなら反省してるって事でいいんだけど竹中さんは違うわよ」

「違うって? 」


 身を乗り出すようにして訊く哲也に香織が更に険しく顰めた顔で話し始める。


「幽霊に怯えて出頭してきたんじゃなくて出てきた幽霊をまた殺そうとしたって聞いたわよ、それで錯乱して暴れてるところを逮捕されたって」


 話しを聞いて哲也も顔を顰めた。


「怯えずに殺そうなんて相当ですよ」

「だからよ、だから近付いちゃダメ、本来なら直ぐにでも隔離病棟へ入れたい患者なのよ、だから話しを聞きに行こうなんて絶対にダメだからね」


 真剣な表情で見つめる香織の前で哲也が首を傾げる。


「前から思ってたんですけど、なんで隔離病棟へ直接入れないんですか? 犯罪起して措置入院してきた患者を僕たちと同じ病棟へ入れて何かあったら問題になるんじゃ…… 」


 香織の瞼がピクッと動いた。


「さぁねぇ……私も知らないわよ、昔からそういうシステムだったのよ、急に入れろっていっても隔離病棟の都合もあるのよ」


 険しい表情から一転、香織が微笑みながら哲也の背をポンポン叩いた。


「はぁ……そういうもんなんすか」


 香織が何か隠しているような気もしたがダメと言っていたのに話をしてくれた事もあって哲也はそれ以上突っ込むのを止めた。


「ハイ、話は終り、お昼御飯始まってるわよ、今日は早坂さん休みだから午後も忙しいのよ、だから手間を掛けさせないでね」


 早く昼食を食べに行けと言うように哲也の背中を押すと香織はナースステーションへと入っていった。


「殺人犯か……幽霊の話しは気になるけど約束したし今回は近付くのは止めとくか」


 哲也は一人呟きながら食堂へと向かって歩いて行った。



 その日の夜、D棟を見回りしていた哲也が2階の部屋の前で足を止めた。


「やっぱり200号室だったか」


 200号室のドア横のネームプレートに竹中久夫と付いていた。

 以前の首縊りの木で措置入院してきた代田が入っていた部屋だ。D棟は警備員控え室に近く何かあった際に直ぐに駆け付けてこれるので問題のある患者が回される事が多いのだ。


「僕と池上さんってのが似てるのか、それとも僕の近くで池上さんの幽霊でも見えたのか、訊きたいけど香織さんと約束したからな」


 惜しそうに呟くと哲也は見回りを再開した。


「異常無しっと」


 D棟の見回りを終えてE棟へと歩き出した哲也がサッと振り返る。

 視線を感じたのだ。D棟を見上げて窓を確認する。時刻は夜の10時半を回っている。消灯時間は過ぎているので部屋の明かりは消えているがテレビを見ている患者も居るようでぼうっと明るい部屋も幾つかある。


「気の所為か…… 」


 全ての窓には格子が付けられていて外からでは確認しづらいが外を見ている者は居ない様子だ。


「まぁ別に見られてても恨まれるような事してないしな、もしかして僕に気のある美人が……って無いな、D棟はおばさんばかりだしな」


 独り言を言いながら哲也は歩いて行った。



 深夜3時の見回りで哲也がD棟へと入っていく、


「眠い……テレビ見るんじゃなかった」


 何気なく点けたテレビの深夜番組が面白くて仮眠を取るのも忘れて2時近くまで起きていて殆ど寝ていない。


「腹も減ったし……嶺弥さんのとこ行ってカップ麺食べさせてもらおうかな」


 欠伸をしながら各階を見て回る。


『うっ、うぅぅ…… 』


 2階を歩いていた哲也の耳に誰かの呻き声が聞こえてきた。


「何処だ? 」


 哲也が立ち止まって聞き耳を立てる。廊下の奥から聞こえてきた。


「向こう……もしかして」


 哲也が慌てて駆けていく、


「やっぱり竹中さんか」


 呟きながらドアをノックした。


「竹中さん、入りますよ」


 ドアを開けた哲也の目にとんでもない光景が飛び込んできた。


 ベッドで横になっている竹中に男が馬乗りになっていた。馬乗りになっている男は私服を着ているので患者ではないと一目でわかる。その馬乗りになっている男が横になっている竹中の首を絞めていた。


「たっ、竹中さん…… 」


 その場に固まったように動けない哲也が震える声を出した。

 馬乗りになっている男は低く唸りながら竹中の首を絞めている。


『ウゥ……ウヴゥ、ウゥヴヴヴ………… 』


 首を絞められて苦しげに呻きながら竹中は手に持った花瓶で馬乗りになっている男を殴りつけていた。


「ぐがっ! 池上ぃ~~ 」


 竹中が発した言葉で哲也が我に返る。


「竹中さん」


 名前を呼びながら哲也は馬乗りになっている男を両手で押した。

 グチョっと濡れた感触が手に伝わり潮の香りが鼻を突いた。間近で見た男は海から上がってきたばかりというように全身がぐっしょりと濡れている。


『ヴゥゥ…… 』


 青白い顔をした男は恨めしげに哲也を見ながら消えていった。


「幽霊……あれが池上さんか」


 呆然と呟く哲也の前、ベッドで寝ていた竹中が上半身を起す。


「がはっ、くっ、くそ……病院まで出てきやがる池上のやろう………… 」

「だっ、大丈夫ですか? 」


 声を掛ける哲也を竹中がジロッと睨む、


「お前誰だ? 人の部屋に勝手に入りやがって」


 哲也が慌てて口を開く、


「僕は警備員です。苦しそうな声が聞こえので…… 」

「警備員か……そうか、ならいい、それより」


 竹中がニヤッと厭な顔で笑った。


「それより、お前見えてたな、幽霊見ただろ? 」

「いや、何て言うか……仕事上幽霊とかダメなんですけど………… 」


 口籠もる哲也を見てニヤつきながら竹中が続ける。


「ひへへっ、そりゃそうだ。警備員が幽霊見たなんて話ししたらおかしくなったと思って首にされるわな」


 ニヤついていた竹中からスッと笑みが消えた。


「でも見たんだろ? 」


 少し考えてから哲也がこたえる。


「 ……はい、見ました。幽霊が竹中さんの首を絞めてて……竹中さんが殴ってました」


 言い辛そうな哲也の前で竹中が楽しそうに笑い出す。


「ひへへへっ、幽霊なんかに負けてられるかよ、包丁とかナイフとかあればいいんだが無いからな、だから花瓶で殴ってやったぜ」

「幽霊が怖くないんですか? 」


 顔を顰める哲也を見て竹中が嬉しそうに話し出す。


「怖い? まぁ初めはビビったけどな、直ぐに慣れたよ……自分が悪い癖に化けて出てくるなんて腹が立ってな、首を絞める前に貸した金返せってんだ。くそがっ、殺しても殺しても出てきやがる」


 ニタニタと厭な顔で笑いながら話す竹中の前に哲也は円椅子を持ってきて座った。


「それなんですが話しを聞かせてくれませんか? 」

「話し? 幽霊のか? それとも俺が殺した奴の話か? 」


 口元は笑っているが竹中の目に笑みは無い、ヤバいと思いながらも哲也が続ける。


「昼間、竹中さんがこの病院へやってきた時に僕を見て池上って叫んだのが気になって……池上さんってのが僕に似てるのかなと思ったけどさっきの幽霊とは全然似てなかったから……もしかしてあの時僕の近くに幽霊が居たんですか? 」


 竹中が嬉しそうに頷いた。


「ああ、お前の後ろに居た。ここにも付いて来やがったってわかったから花瓶を枕元に置いといたんだ。襲ってきたら殴ってやろうと思ってな」


 品定めをするように哲也を見てから竹中が続ける。


「俺の事は知ってるみたいだな……いいだろ、池上が、幽霊が見えたのはお前が初めてだ。警察も医者も誰も信じやがらねぇ、病気だ何だとこんな所へ連れて来やがって、まぁ御陰で刑務所に行かなくても済んだんだけどな、だから話してやるよ、お前は特別だ」


 ニタリと厭な顔で笑うと竹中が話を始めた。

 これは竹中久夫たけなかひさおさんが教えてくれた話しだ。



 竹中は海に近い地方都市で暮らしていた。親がそれなりに裕福だったので何不自由なく生きてきた。35歳になって両親が相次いで亡くなると竹中は屋敷のように大きな家を売って隣町のそれなりに良いマンションを買って一人暮らしを始める。

 ギャンブル好きで女癖も悪く40を過ぎても定職に就かずにフラフラしていた。俗に言うニートだ。両親は既に亡くなっていたが裕福だったのでそれなりの遺産を残してくれた。それで遊び暮らしていたのが竹中だ。


 竹中の友人に池上慎二いけがみしんじがいた。42歳の竹中より15年下の27歳で羽振りの良い竹中に毎日のように付き纏っていたお調子者の小男だ。ギャンブル好きの竹中の友人だけあって池上も同じようにギャンブルや女遊びで散財していた。だが池上は普通の会社員だ。資産家の息子だった竹中と同じように遊んでは資金が続かない、竹中に金を借りるようになるのは自然の成り行きだった。

 初めは数万借りて給料が出ると返すという具合に旨くやっていたがそのうちに借金は増えていく、1年も経った頃には会社員が気軽に返せる額を超えていた。

 一方、竹中も金のやりくりに困るようになっていく、毎日遊び呆けて親の残してくれた遺産も底を突いたのだ。


 竹中はそれまで「なあなあ」で済ませてきた池上への取り立てを厳しく始めるようになる。どうにか生活できるだけの遺産は残っていたが遊ぶ金が無かったのだ。

 既に1000万を超えていた借金など池上に返せる当ては無い、怒り猛った竹中は池上を監禁して殴る蹴るの暴力を振るった。ギャンブルや女遊びの出来ない鬱憤を池上に暴力を振るうことで晴らしたのだ。



 マンションの一室に閉じ込められて殴る蹴るの暴力を受けていた池上は借金への負い目もあってか初めの2日間はおとなしく殴られていた。


「いい加減にしろよ! 」


 3日経って池上がキレた。


「これ以上やるなら警察に通報するぞ」


 キレた池上が竹中の胸倉を掴んで凄んだ。

 竹中が胸倉を掴む池上の右手を放せというようにポンポン叩く、


「やってみろよ、通報して俺が逮捕されたとしてもお前の借金は消えないんだぞ、借用書があるからな、俺に何かしたら借用書をヤクザに渡すからな、それこそ殴るだけじゃ済まなくなるぜ」

「なっ……くそぅ………… 」


 胸倉を掴んでいる手を池上が放した。


「頼む……もう許してくれ、金は少しずつでも必ず返すから……勘弁してくれ」


 元々気が弱いのか一転して池上が謝り始める。

 竹中が意地悪顔で笑いながら下げた池上の頭をペシペシ叩いた。


「訴えるんじゃなかったのか? 」

「許してくれ……ヤクザとかは勘弁してくれ」


 借金の取り立てにヤクザを使うと思ってビビった様子だ。

 ペシペシ叩いていた手で池上の頭を撫でながら竹中が口を開く、


「俺もヤクザなんかに頼みたくねぇよ、お前は友達だしな……でもよぅ、金は返さないわ、むしゃくしゃして少し殴ったら警察に訴えるとか言われたらなぁ~~ 」

「悪かった……さっき蹴られたのが痛かったからさ…… 」


 卑屈に謝る池上の頬を竹中が引っ叩く、


「痛くなきゃお仕置きにならないだろが!! 」

「痛てぇ~~ 」


 頬を手で押さえながら池上が竹中を睨み付けた。


「だから痛くて当たり前だろが! 金を返さないお前が悪いんだろが!! 」


 竹中の恫喝にも引かずに池上が言い返す。


「だからって酷すぎるだろ……一発や二発は我慢するけど3日前から俺の顔見ては殴ってただろが」


 またキレそうになる池上を見て竹中がニヤッと悪い顔で口を開く、


「じゃあ、こうしようぜ、一殴り5000円、一蹴りは1万だ。1300万の借金だから蹴りなら1300回、殴るなら倍の2600回で借金チャラだ」


 殴られた頬に手を当てたまま池上が竹中を見つめた。


「一蹴り1万……本当だな」

「ああ、約束するぜ、こんないいバイト他に無いぜ」


 ニタリと企むように口元を歪ませる竹中の向かいで池上が頷いた。


「 ……わかった。それでいい、それでチャラになるなら………… 」


 他に返す当ての無い池上は飲むしかなかった。

 内心、池上がキレたらどうしようかビビっていた竹中が旨く行ったとニヤつきながら続ける。


「今までの分は利息って事でいいだろ? ここに居る間のお前の飯代だって掛かるんだからな」

「わかった。その代わり絶対だぞ、約束破ったらマジで警察に行くからな」


 覚悟を決めた顔で返事をする池上を見て竹中が楽しそうに顔を歪めて話し出す。


「ああ、わかった。但し、お前がキレて俺に刃向かったらその場で全部チャラだ。一発でも俺に殴り返したら借金棒引きは無しって事だ」

「一発でも…… 」


 不利な条件に池上が考え込む、それなりに長い付き合いだ。竹中がチャラにさせようと煽ってくるのは少し考えればわかる。


「どうする? 」


 考え込む池上の顔を竹中が覗き込む、


「わかった。でも約束破ったら…… 」


 お前を殺すと言いかけて池上が言葉を飲み込んだ。言えば粗暴な竹中がキレて手に負えなくなると考えた。

 竹中がギロッと睨む、


「破ったら何だよ? 」

「さっ、さっきも言ったろ、警察に全部話すからな」


 慌てて言い直す池上の前で竹中がニッと笑う、


「心配するな、破らねぇよ、お前が借金を返さないから仕方なく殴るんだぞ、それで借金が無くなるなら安いものだぞ」

「わかった…… 」


 優しく声を掛ける竹中の向かいで池上が項垂れた。



 池上を部屋に監禁して殴る蹴るの暴力を振るって1週間が経った。

 初めの4日間はそれなりに抵抗してきたりキレそうになったりしていた池上だが5日目には気力も無くなったのか横たわって竹中のなすがままになっていた。


「つまらんなぁ…… 」


 殴る竹中も飽きてきたのか床に蹲って動かない池上を尻目に風俗などへと遊びに行っていた。



 10日ほど経ってパチンコ帰りの竹中が散歩をしていた犬に吠えられる。


「クソが! 犬の躾くらいしろ…… 」


 悪態をつくが流石に見ず知らずの他人にそれ以上の事はしない。


「チッ、ムカつくぜ……サンドバッグでも殴ってスッキリするか」


 池上をサンドバッグ扱いだ。


「ひへへっ、それにしてもあのバカ、マジで借金がチャラになるとでも思ってるのかよ」


 竹中がニタリと悪い顔で笑った。殴れば借金をチャラにする約束など初めから守る気などはない。

 帰ろうと歩き出した足をふと止めた。


「犬か……面白そうだ」


 池上が大の犬嫌いなのを思い出した。一緒につるんでいた間、散歩の小型犬でさえビビって怯えていたのだ。

 池上に犬を嗾けて怖がらせようと考えた竹中はその足でペットショップに行くが小型犬や子犬しか売っていない。


「こんなんじゃ蹴り返されて終わりだぜ、もっとデカい犬は居ないのかよ」


 店を出ようとした目に出入り口の壁に犬猫の里親情報が貼ってあるのが見えた。


「ひへへっ、あるじゃねぇかデカい犬が…… 」


 募集してある犬の中から大きそうな犬を幾つか選んでその場で電話番号を控えると店を出ていく、


「もしもし…… 」


 店の駐車場で飼い主に電話を掛けた。

 今すぐにでも引き取りたいという申し出に疑惑を持ったのか3人には断られたが4人目の飼い主は海外への転勤が決まって直ぐにでも手放したいとの事で竹中が引き取りに行く事になる。


「わかりました。今から伺いますね」


 如何にも人の好さそうな声を作って受け答えを終えて電話を切った。


「隣の県ならタクシー使って直ぐだ。デカい犬だが金渡せば乗せれるだろ」


 タクシーを止めて犬を乗せられるか交渉する。ここから隣の県までの往復だ。タクシーから見れば上客なので直ぐに交渉は纏った。



 犬を連れて竹中が帰ってくる。雑種だが中型犬のラブラドール・レトリーバーより少し大きな雄犬だ。


「おとなしくしろ! 」


 低く唸る犬の首輪を引っ張ってタクシーから降りてくる。


 ウゥゥーッ、ガウゥー、犬が飛び掛かってくるが噛みつき防止の口輪を付けているので噛まれる心配はない。


「御主人様に逆らうな! 」


 怒鳴りながら犬を蹴り首輪を引っ張る。


「ひへへっ、これなら池上なんて悲鳴を上げて逃げ回るぞ」


 おとなしくなった犬を見て竹中がニヤリと笑った。



 竹中がマンションへと入っていく、親の遺産で遊んで暮らしていた竹中はそれなりの値段のマンションに住んでいる。特に防音は完璧で少々大声を上げても隣りや上下に漏れる事は無い。


「よう、池上、おとなしくしてたか? 」


 外から鍵を掛けて勝手に出られなくした部屋に竹中が入っていく、


「うぅ…… 」


 部屋の真ん中、猛獣を移動させる時に使うような小さな檻の中に池上はいた。小さいと言っても二畳半ほどはある檻だ。


「弁当買ってきたぞ、ゆっくり食え」


 竹中が檻の隙間からコンビニ弁当を差し入れた。水は適度に与えているが食事は1日1回だけだ。


「めっ、めし…… 」


 倒れていた池上がムクリと起きて弁当を食べ始める。


「そう慌てて食うなよ、コーラもあるぞ」


 ニッコリと笑ってペットボトルのコーラを差し出す竹中を見て池上が箸を止めた。


「こっ、コーラ…… 」


 普段は空になったペットボトルに水道水を詰めたものを投げ込むだけの竹中の演技掛かった優しい態度に池上が眉を顰めた。


「どっ、どういうつもりだ……何を企んでる」

「何も企んじゃいねえよ、俺はいつも優しいだろ、早く食えよ、俺が飯食い終わったらお仕置きだからな」


 ニヤニヤ笑いながらこたえると竹中は部屋を出て行った。お仕置きとは借金返済の代わりに殴る蹴るの事だ。



 1時間ほど経ってから池上を監禁している部屋に竹中が入っていく、


「池上ぃ~~、今日はお友達を連れて来たぞ」


 竹中がニタリと笑いながら連れて来た犬を見せた。


「いっ、犬…… 」


 犬を見た瞬間、池上の顔が引き攣っていく、


「やっ、止めてくれ! 俺が犬が嫌いなの知ってるだろ……頼む、犬だけは勘弁してくれ、止めてくれ竹中…… 」


 真っ青な顔で頼む池上を見て竹中は快感にブルッと震えた。


「ふひひっ、ひへへへっ、ダメだ。殴るのにも飽きたからな、今日から俺の代わりにこいつがお前の相手だ」

「代わりって……聞いてないぞ、お前が殴ったり蹴ったりするって約束だろ、犬なんて約束してないぞ、違反だ。だからこれで終わりだ。今日まで殴った分と蹴った分を借金から引いてくれ、残りは少しずつ払って返すから………… 」


 檻をガシッと掴んで睨み付ける池上の向かいで竹中が楽しそうに口を開く、


「なんだ。まだ元気じゃないか、それだけ元気なら犬の相手も大丈夫だな、俺のペットだ可愛がってやってくれ、お前をペットの遊び相手に任命する」

「ふざけるな! 約束が違うだろが!! 俺は止めるぞ、さっさとここから出せ! 」


 怒鳴る池上の檻を掴む手を竹中が蹴った。


「うるせぇ! お前に選択権なんかあるかよ」


 痛そうに手を押さえて蹲る池上を見下ろして竹中が続ける。


「そうだな……一噛み2万だ。蹴るより高いぞ、得したな池上」


 犬の首輪を引っ張って檻の前へと連れて行く、


「やっ、止めてくれ……犬だけは勘弁してくれ、頼む竹中……犬だけは……頼むよ」


 ガウガウ唸る犬を見て池上が必死に懇願するが竹中は笑いながら犬の口輪を外した。

 ウガゥーッ、向かってくる犬の首根っこを竹中が掴んで押さえる。


「相手が違うだろ、俺は御主人様だぞ、遊ぶなら彼奴で遊べ」

「やっ、やめて……助けてくれ……頼む」


 池上は戦意喪失で檻の反対側にしがみついている。


「さぁ行け! 」


 小さな入り口の鍵を開けると檻の中へ犬を放り込んだ。


 ガウガウ、グルルーッ、ウガゥゥーッ、犬が池上に襲い掛かった。


「ひぃっ、ひっ、ひぃぃ~~、助けて……助けてくれぇ~~ 」


 噛まれ引っ掻かれて池上が悲鳴を上げる。

 中型犬よりも少し大きいほどの雑種犬だ。池上の体格なら数発ほど殴り返したら直ぐにおとなしくなるだろう、だが犬が大嫌いで犬恐怖症のようになっている池上には犬に反撃など出来ない。


「ひはっ、ひはははっ、いいぞ、自分で殴るより面白いわ」


 怯えて泣き叫ぶ池上、唸りを上げて襲い掛かる犬、それを見て竹中が缶ビール片手に大笑いだ。


「たっ、助けてくれ……許してくれ、犬だけは……頼む竹中……頼むから………… 」


 必死に頼む池上を見ながら飲む酒は最高だと竹中は思った。


「痛い、痛い……止めて……助けてくれ………… 」


 檻の隅で池上が身体を丸めて蹲った。犬に噛まれた腕や足から血が滲んでいる。


「今日はこんなところでいいだろ」


 首輪に付いている太いリードを引っ張って犬を檻から出した。


「いひひっ、面白かったぞ、10箇所くらい噛まれたな……あぁ、血が出てないところは無効だからな、一噛み2万だから今日は20万の返済だ。良かったな」


 竹中が笑いながら犬を連れて部屋を出て行った。


「うっ、うぅぅ…… 」


 池上は丸まったまま悔し涙を流した。竹中の口車に乗った自分がバカだと後悔するが既に逃げる体力など残っていない。



 翌日から昼と夜の2回、犬を嗾けられるようになる。怯えて逃げ回るだけの池上を格下だと思ったのか犬は攻撃を止めない、日毎に池上の傷が増えていく、それを見て竹中は大笑いだ。


 2週間ほどが経ち衰弱しきった池上が動かなくなる。食事は一日一回、殴る蹴るだけでなく犬を嗾けられて体力も気力も無くなったのだ。1ヶ月ほど持ったのが不思議なくらいである。


「もう終わりかよ……仕方ねぇなぁ」


 自分の部屋で死なれたら面倒だと虫の息の池上を部屋から連れ出してレンタカーへと乗せた。動けないほど弱っている上に犬も一緒なので池上は口喧嘩すら出来ない。


「まぁまぁ楽しかったぜ、これで借金はチャラにしてやるよ、まぁ死んだら流石に取れんわな」


 日が昇り始めた早朝の薄暗い海、竹中はゴムボートで岸から少し離れると池上を捨てた。ついでに犬も生きたまま海へと放り込む、証拠隠滅を謀ったのだ。


「悪く思うなよ、お前みたいなバカ犬など飼うつもりなんてないからな、恨むならお前を捨てた元の主人を恨め」


 竹中はキャンキャン鳴く犬の声を聞きながら笑って帰っていった。



 3日経った。竹中は残り少ない親の遺産を食い潰しながら相変わらず遊んで暮らしていた。


「くそっ、今日も負けた……ヤケ酒飲んで寝るか」


 パチンコで負けて家に帰るとテレビを見ながら安酒を飲む、金が乏しくなってきたので缶ビールは止めて安い缶チューハイや発泡酒に代わっていた。


「くそっ、不味い酒だぜ」


 愚痴りながらも3缶空けて酔っ払ってベッドに転がる。

 どれくらい眠っただろう、何かが腹の上に乗ってきて竹中が驚いて目を覚ます。


「おぉぅ! 誰だ…… 」


 上半身を起そうとした竹中の首に男が手を掛けた。


『ウヴヴゥ……グゥゥ………… 』


 馬乗りになった男が唸りながら首を絞めてくる。

 男は全身ずぶ濡れだ。潮の匂いが竹中の鼻を突いた。


「おっ、お前は…… 」


 青く膨れたその顔を見て池上だと一目でわかった。


「いっ、池上…… 」

『ウゥゥ……グゥゥヴゥ………… 』


 恨めしげな目をして池上の幽霊が首を絞める手に力を入れる。


「がっ、がぁぁ…… 」


 苦しさと恐怖で竹中の意識が遠くなっていった。



 目を覚ますと昼を過ぎていた。


「夢……夢か…… 」


 首を摩りながら竹中がベッドで上半身を起した。


「ちょっと飲み過ぎたか……安い酒で変な夢を見たんだな、クソッたれが……夢にまで現われやがって、自分が悪いんだろが金返せってんだ」


 少しも悪びれた風もなく独り言を言うと竹中は起きていつものようにパチンコへと出掛けていった。



 その日の夜、安酒を飲んで眠っているとまた何かがドンッと腹に乗ってきた。


「ぐぅぅ…… 」


 首を絞められて竹中が目を覚ます。


『ウヴゥ……グゥヴゥゥ………… 』


 全身ずぶ濡れになった池上の幽霊が恨めしげに睨みながら首を絞めていた。


「ぐがっ、いっ、池上…… 」


 恐怖に竦む竹中を見て池上がニタリと笑う、


『グゥゥヴゥゥ……ウゥゥ………… 』


 腐って青黒く膨れた顔では旨く話せないのか池上の唸るような声を聞きながら竹中の意識が遠くなっていった。



 朝、竹中が目を覚ます。


「夢か……また変な夢を………… 」


 ベッドの上で上半身を起した竹中の顔が強張っていく、


「ぬっ、濡れてる……この匂いは海の匂いだ………… 」


 ベッドの枕元がぐっしょりと濡れていた。


「夢じゃねぇ……池上が化けて出てきやがった」


 ベッドの上で震えながら考える。


「俺を殺そうって事か……てめぇが悪い癖に」


 粗野な竹中に自分が悪いと思う気持ちなど湧いてこない、全て池上が悪いとしか思わない。


「だがこのままじゃヤバいな、お祓いして貰おう、向こうにデカい神社があったな」


 朝食を食べ終わるとこの辺りで一番大きな神社へとお祓いに行った。



 神社でお祓いをして貰い昼前に家に帰る。

 粗野な竹中も流石にビビったのか、その日はパチンコや風俗などには行かずに家に籠もって酒を飲んで過ごした。


「三万も払ったんだ頼むぞ」


 神社で貰った魔除けの御守りを枕元に置き、寝室の柱に貼ってある御札を拝んでから眠りについた。


 翌朝、竹中が目を覚ます。


「ふわぁぁ~~あぁ、よく寝た」


 ベッドの上で上半身を起して大きな欠伸をしながら柱に貼ってある御札を見つめる。


「流石神様、ありがとうございます。バカな池上が出てこないようにこれからも宜しく頼みます」


 3日振りに熟睡できて竹中は上機嫌だ。

 幽霊の事などもう済んだ過去の出来事とでも言うように竹中は朝食を終えるといつものように遊びに出掛けていった。



 その日の夜、安酒を飲んで酔っ払って寝ていた竹中が息苦しさに目を覚ます。


「ひぅぅ…… 」


 青黒く顔を腫らした池上が馬乗りになって首を絞めていた。

 恐怖に目を見開く竹中を見て池上が嬉しそうに笑う、


『ウヴゥゥ……ガヴヴゥゥ………… 』

「ひっ、ひひ…… 」


 首を絞められて竹中が苦しそうな呻きを上げた。


『ウウゥ……ヴァウゥゥ………… 』


 池上が首を絞めていた手を緩めると竹中が息を吹き返す。


「がはっ! がふっ……うっ、うぅ………… 」


 苦しそうに息をする竹中を青黒く腫れた顔をした池上がじっと見つめる。


『ウヴゥゥ……なぁ、竹中ぁ~、一殴り5000円、一蹴り1万円、犬が一噛みで2万円だっただろぉ……だからさぁ~~、俺も御札一枚で1日だ。それで恨みが1日除かれるなら安いものだろぉ………… 』


 竹中の顔に恐怖が広がっていく、


「ひぃぃ……しぃぃ……たっ、助けてくれ……勘弁してくれぇ~~ 」


 悲鳴を上げる竹中の首を池上の幽霊がまた絞め始めた。


『ダメだよぉ~、竹中も助けてくれなかったじゃないか…………俺も犬も………… 』


 池上がニタリと笑った。青黒い顔の中、真っ赤な口に牙のような歯が並んで見えた。


「ひしっ……ひぅぅ………… 」


 首を絞められて呼吸が出来ずに竹中の意識が遠くなっていった。



 翌日、竹中がベッドの上でうっすらと目を開けた。


「うわぁぁ~~ 」


 叫びながら目を覚ました竹中が辺りを見回してほっと息を付いた。


「良かった。生きてる…… 」


 枕元や布団が濡れているのに気付いて慌てて起き上がる。


「海水だ……池上の幽霊だ………… 」


 引き攣った顔で柱に貼ってある御札を睨む、


「1日しか効かないのかよ、3万も払ったんだぞ」


 悪態をつきながら御札を乱暴に引き剥がす。


「くそっ……池上のやろう、何が御札一枚で1日だ」


 破れた御札を乱暴にゴミ箱に放り込むとついでとばかりに枕元に置いていた御守りを握り潰して一緒に捨てた。


「御札も効かない……毎日お祓いなんてしてられるかよ」


 ドカッとテーブルの前に座ると考える。


「てめぇが悪い癖に池上のやろう…… 」


 幽霊は怖いがそれ以上に腹が立ってきた。


「どうにかしないと……ビビるから調子に乗るんだな」


 何か思い付いたのか竹中がニヤッと悪い顔で笑った。



 その日の夜、竹中は枕元に包丁を置いて眠った。

 どれくらい眠っただろうか? 布団の上に何かが乗ってきて竹中が目を覚ます。


『ウヴゥ……グウゥゥ………… 』


 池上の幽霊が竹中の首に手を伸ばしてきた。


「ふざけんな! 」


 竹中は怒鳴ると同時に枕元に手を伸ばす。


『グウゥゥ……ヴァウゥゥ………… 』


 首を絞めてくる池上の脇腹に竹中が包丁を突き立てた。


『グギャ! 』


 池上が悲鳴を上げる。それを見た竹中が包丁を抜くとまた刺した。


「クソがっ! もう一回死にさらせ!! 」


 首を絞める池上の手は初めの一撃で緩んでいる。ここぞとばかりに竹中は何度も包丁を突き立てた。


『グヴヴゥゥ……グガァァ………… 』

「逆恨みして出てきやがって、てめぇが金を返さないから悪いんだろが! 」


 苦しげに唸る池上に竹中は暴言を吐きながら包丁を何度も突き立てる。


『ウヴゥゥ………… 』


 苦しげに唸りながら池上の幽霊は消えていった。

 竹中がバッと上半身を起す。


「ザマぁ見やがれ! 」


 幽霊を撃退して得意気に吐き捨てる。

 そのまま起き上がると包丁を枕元に置いてキッチンへ行くと冷蔵庫から缶チューハイを取り出して一気に飲み干した。


「ふへへっ、御札なんているかよ、何度でも殺してやるぜ」


 強気に言うがその手がブルブルと震えている。恐怖を紛らわせるために酒を飲んだのだ。



 次の日から、毎晩現われる池上の幽霊を竹中は包丁で刺し続けた。首を絞められながらも何度も刺すと池上の幽霊は苦しげに唸りながら消えていった。

 人とは面白いもので恐怖も慣れていく、いつの間にか竹中の恐怖心は消えていた。


 池上の幽霊も怖がらない竹中に対抗するように夜だけだったのが昼にも現われるようになる。パチンコをしていると隣に座ってきたり、風俗で遊んでいると女の顔が池上に変わったり、その度に騒ぐので竹中は行きつけの店に出禁をくらい、友人たちからも変な目で見られて疎遠になっていく、


「くそっ、池上め……俺の邪魔ばかりしやがって」


 遊びに行くところを失った竹中は自宅でヤケ酒を飲む日々が続いた。自分のマンションにいる間も昼夜関係なく池上の幽霊は姿を現わす。


「また現われやがったな、クソがっ!! 」


 竹中が怒鳴りながら飲みかけの缶チューハイを放り投げた。缶チューハイは中身を撒き散らしながらガシャッと音を立てて壁に当たると床に落ちる。

 同じような事が何度もあって竹中の部屋は酷い有様だ。酒やジュースが床に染みを作り、コンビニ弁当やカップ麺の食べ残しもそのままで腐って匂いを放ち羽虫が集まっている。



 日が経つごとに竹中の様子がおかしくなっていく、


「そこか! 」


 竹中が怒鳴りながら中身の入っているペットボトルを放り投げた。

 池上の姿は無い、幽霊が見えなくとも少しの音や気配を感じると物を投げたり包丁を振り回したりするようになっていた。


 ある夜、風呂に入っていた竹中は行き成り頭を押さえ付けられて浴槽に沈む、


「がはっ、ぐわぁぁ、がふぅ、ふがぁあぁ~~ 」


 頭を押さえ付けるものを必死で払い湯船の縁に手を掛けて顔を上げた。


「ぐふっ、うぉっ……お前か! 」


 竹中が苦しげに息をつきながら怒鳴った。

 目の前、浴槽の横に池上が立っていた。


『ウッウゥゥ……ヴヴゥゥ…………ガルゥウゥ…… 』


 青黒く膨れた顔を嬉しそうに曲げて池上がニタリと笑う、


「この野郎! 」


 竹中が風呂桶を掴んで殴り掛かった。


『ウヴゥゥ……ガウゥゥ…………グヴヴゥゥ』


 池上は楽しげに笑いながら消えていった。


「くそっ! バカにしやがって……お前なんか怖くないからな! 何度でも殺してやるからな!! 」


 怒鳴りながら風呂桶を投げ付ける。池上の幽霊は既に消えていない、むしゃくしゃする怒りを風呂の壁にぶつけたのだ。

 竹中は首を絞められたり湯船に沈められて殺されそうになるより、バカにしたように笑う池上に腹が立ってイライラするようになっていた。


「良い気分で入ってたのに……クソがっ! 酒でも飲むか」


 風呂を上がって酒を飲もうと冷蔵庫を見るが缶チューハイが一缶しかない。


「クソがっ、まぁいい、つまみも一緒に買いに行くか」


 愚痴りながら近くのコンビニまで酒とつまみを買いに出掛けた。



 竹中がキョロキョロ辺りを見回しながら道を歩いて行く、


「彼奴め……出てきたらぶん殴ってやる。ぶっ殺してやる」


 時刻は午後8時前だ。コンビニの近くにたむろしていた学生らしき数人がサッと逃げるように離れていく、血走った目でブツブツと独り言を呟きながら歩いてくる竹中を避けたのだ。


「お前かぁ! 池上ぃ~ 」


 人影を見て竹中が威嚇するように怒鳴った。

 コンビニから出てきた大柄の男が顔を顰めながら竹中を避けるように歩いて行ってトラックに乗り込んだ。トラックの運転手をしている腕っ節に自信がありそうな大男でさえ竹中はヤバいと思って避けたのだ。それほど今の竹中は常軌を逸している風体に見える。


 竹中がコンビニへと入っていく、中にいた客も店員も固まったように竹中を見つめ、近寄るとサッと避けていく、


「ふひひっ、帰って飲み直すぞぉ」


 缶ビールに缶チューハイなど10本近く買って店を出る。

 その帰り、大きな道路の横、歩道を歩いていた竹中がふらっと車道へ飛び出した。


「うぉう! 」


 誰かに背を押されたのだ。叫びながら足を踏ん張りどうにか体勢を整えた竹中の直ぐ横を大きなトラックが通り過ぎた。


「やべぇ……酔ってたら死んでたぞ」


 傍目には酔っ払いに見えたかも知れないが風呂から上がって直ぐに出てきたのだ。まだ酒は飲んでいない、それが幸いした。酔っ払って足下がおぼつかなくなっていればトラックに轢かれて死んでいただろう。


「誰が…… 」


 背中を押した奴を探そうと辺りを見回した竹中の目に道路の向こう側にいる池上が映った。


「やっぱり彼奴かぁ~~ 」


 へらへらとバカにしたように笑っている池上を見て竹中がキレた。


「ぶっ殺してやる! 何度でも殺してやる! 池上ぃぃ~~ 」


 竹中が怒鳴り散らしながら道路に飛び出した。行き交う車がクラクションを鳴らす。

 その後の事は覚えていない、気が付いた時には3人の警察官に囲まれて地面に押さえつけられるようにして捕まっていた。


 錯乱したまま池上を殺した事を話す竹中はそのまま警察署に連行された。

 取り調べを受けて観念した竹中は池上を殺したことを白状して幽霊が出てくるのでどうにかしてくれと訴える。


 池上は行方不明だと親族から捜索願が出されていた。

 竹中の自白に基づいて遺体を遺棄した海を調べるが池上の遺体は見つからない、だが監禁していたという竹中の部屋から血痕や池上の私物が見つかった。

 これにより竹中は殺人容疑で取り調べを受けるが池上の幽霊が出てくると拘置所でも暴れることから精神鑑定を受けることになり、その結果、心神耗弱として罪に問えない代わりに処置入院となったのだ。

 これが竹中久夫たけなかひさおさんが教えてくれた話しだ。



 話を終えた竹中がベッド脇の円椅子に座る哲也を見てニタリと厭な顔で笑う、


「ふへへっ、兄ちゃんの見た幽霊が池上だ。あの野郎、病院にまで追って来やがった」


 眉を顰める哲也を見て自分の話しに怯えたと思ったのか竹中が饒舌に続ける。


「怖がる事はないぜ、幽霊って言っても所詮は池上だ。気の弱い奴だ。犬にビビって泣き叫ぶヘタレだぞ、もし兄ちゃんの前にも出てきたら殴りつけてやればいい、ぶっ殺してやれ、幽霊なら捕まる事はないからな、ひへへへへっ」

「借金で腹が立ったのは分かりますけど酷すぎませんか? 」


 何とも言えない表情で見つめる哲也の前で竹中がニヤッと口元を歪めた。


「ふへへへっ、借金のカタに遊んだだけだろ、一殴り5000円、一蹴り1万だ。それで借金が減るなら安い物だぞ」

「だからってやり過ぎですよ、結果、池上さんを死なせたんでしょ? 」


 哲也が責めるように言うと竹中が怒鳴って身を乗り出した。


「何言ってんだ! 金を貸してやった恩も忘れて化けて出てくる恩知らずだぞ、1300万も貸したんだぞ、それなのに俺を殺そうとしやがって……池上の味方をするなら兄ちゃんが代わりに払ってくれるのか? 」

「いや……僕はそんな金持ってないですよ」


 無理と言うように首を振る哲也の向かいで竹中がベッドに座り直す。


「だったら黙ってろ! これは俺と池上の問題だ。兄ちゃんも池上も、俺に文句あるなら金を返してから言いやがれ! 」


 無茶苦茶だ。まったく関係のない哲也にまで突っ掛かってくる。粗暴な性格だからか、それとも相当心を病んでいるのか、哲也には判断できない。


「わかりました。僕はこれで」


 哲也が腰を上げた。話しを聞いて怖さより身勝手な竹中に対する怒りが湧いてきた。


「うひひひっ、兄ちゃん、警備員だったな、俺の部屋は特に厳重に警備してくれよ、また池上が出てきたら殴って助けてくれ、頼んだぞ」


 部屋を出ようとした哲也の背に竹中がニヤつきながら声を掛けた。


「警備員ですから見回りはしますよ」


 振り返りもしないでこたえると哲也は部屋を出て行った。



 翌日、警察関係者が訪ねてきて状況が一変する。


 殺されたと思われていた池上は生きていた。海に落ちたショックで息を吹き返したのか溺れているところを偶然近くを通りかかった漁船に助けられたのである。

 一緒に海に放り出された犬の鳴き声で漁船が気付いたのだ。残念な事に池上を助けている間に犬の鳴き声は聞こえなくなった。漁師は暫く探したが早朝の薄暗い海の中で犬の姿を見つける事は出来なかった。


 暴力はもちろんだが大嫌いな犬を嗾けられたことがトラウマとなっていた池上は生きているとわかればまた酷い目に遭うと姿をくらます事にした。1300万を超える借金があるという負い目もあって警察に行くのも躊躇した。竹中が逮捕されたとしても借金が無くなるわけではないのだ。

 話しを聞いた漁師は竹中のことを暴力団か何かと思ったのか暫く池上を匿ってくれることになる。池上は漁を手伝いながら暮らしていたが事件が報道されて竹中が暴力団などではないと知った漁師の勧めで出頭したのだ。


 死んだと思われていた池上が現われたことで竹中の殺人容疑は晴れるが池上を監禁して暴力を振るったことで別の取り調べが始まる。

 竹中が借金を帳消しにするということで示談を申し出て池上側は弁護士を立てて借金の帳消しだけでなく慰謝料として200万円を竹中が払う事で示談成立してこの事件は終った。



 2日経った。措置入院も取り消しとなり竹中は退院する事も出来たのだがそのまま入院する事を選んだ。まだ池上の幽霊が出てくるというのがその理由である。


 気の弱い池上の幽霊など幾ら出てきても怖くないと思っていたのだが池上は生きていた。では毎晩出てくる幽霊は何者なのだろう? 池上の姿をしているのに池上ではないのだ。生き霊だとしても示談が成立して池上の恨みも全てでは無いが晴れたはずだ。だとしたら生き霊など出てこなくなるはずである。それなのに昨晩も池上の姿をした幽霊が出てきて首を絞めてきたのだ。


 得体の知れない恐怖を感じた竹中は入院を継続することにした。病院に居ればナースコールで看護師が駆け付けてくれる。周りに看護師や警備員が居るので何時でも助けてくれると考えたのだろう、磯山病院も酷い幻覚を見るとの事で竹中の入院を認めたのだ。



 香織から事のあらましを聞いた哲也は竹中を訪ねた。

 哲也が心配して様子を見に来たと言うと竹中は両手を握り締めて礼を言った。


「ああ……警備員さん、来てくれたんだ。ありがとう」


 寝ていないのか、眠れないのか、目の下に隈ができている。粗野で暴言を吐いていた竹中は嫌なヤツだったがそれでも自信に満ちているというか力のようなものを感じた。だが今の竹中からは覇気というか気力というものを感じない、3日しか経っていないというのに別人のように思えた。


「まだ幽霊出てくるんですか? 」


 哲也が心配して訊くと竹中が憔悴した顔で頷いた。


「出てくる……昨日も出てきた。首を絞めてくるんだ……だから花瓶で殴ってやった。何度も何度も……でも消えないんだ。今までは消えたのに……今は……池上が生きているって分かってからは消えないんだ」

「幽霊って池上さんなんですよね? 他の人と見間違えてるって事はないですか」


 哲也は池上には会った事も写真を見た事もない、竹中が誰かと間違ってるのではないかと考えた。


「見間違いなんかじゃねぇ! 池上とは毎日のように遊んでたんだ。見間違えるはずはねぇ……池上だ……俺が殺した池上なんだ………… 」


 怒鳴る竹中を見て改心したのではなく怯えてるだけだとわかった。

 改心したのなら力を貸そうと思っていた哲也が何とも言えない顔で見つめる先で竹中が1人で話し始める。


「じゃあ彼奴は? 俺が殺した池上は……何度も何度も殺した池上の幽霊は…………池上じゃなかったら誰なんだ? 」

「池上さんの他に恨みを買っているような人はいないんですか? 」


 哲也の声に反応して竹中が楽しげに笑い出す。


「ふへへへっ、居るだろうな、他にも金を貸してやったヤツは居るからな、まぁそいつらからは取り立てたけどよぉ」

「その人たちの誰かを酷い目に遭わせたりしませんでしたか? 」


 哲也の前で笑っていた竹中の顔が引き攣っていく、


「うぉう! 」


 叫びを聞いて哲也が振り返ると開いた窓から風が入ってきたのかカーテンが揺れていた。


「どうしたんです」

「かっ、カーテンが揺れたから……彼奴が出てきたのかと思った。池上が…… 」


 前に向き直って哲也が訊くと竹中がカーテンを指差しながら怯えて引き攣った顔でブツブツと話し始める。


「誰が……彼奴は……何度も何度も……殺しても殺しても出てきて俺の首を絞めてくる彼奴は…………池上じゃなくて誰が……池上は生きてるんだぞ………… 」

「竹中さん…… 」


 とても話ができる状態じゃない……。哲也はペコッと頭を下げて部屋を出て行った。

 長い廊下を歩きながら哲也が考える。


「病状が悪化したって香織さんが言ってたけど…… 」


 本当に心の病で竹中が見たと言う幽霊は全て幻覚ではなかったのか? だがそれでは哲也自身が見た幽霊の説明が付かない、確かに見たのだ。竹中に馬乗りになって首を絞める男の幽霊を、それに花瓶で殴り掛かる竹中を、哲也はハッキリと見たのだ。


 では幽霊となって現われていたのは何者なのだろうか? 竹中の見た幻覚を哲也も見たと言うのだろうか? 


「正体を突き止めたとして竹中さんがあれじゃなぁ…… 」


 怯えてはいるが悪いとは少しも思っていないような竹中の態度に哲也は今一やる気が出てこない。


「あんな人も世の中にいるんだなぁ~~ 」


 呆れるように呟きながら哲也は部屋へと戻っていった。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也が苦しそうな呻きを聞いて竹中の部屋へと駆け付けた。


「竹中さん! 」


 ノックもせずにドアを開けた哲也がその場に固まる。

 ベッドで横になっている竹中に男が馬乗りになっていた。


『ウヴヴゥゥ……グルルゥゥ………… 』


 全身ずぶ濡れになった男が低く唸りを上げて竹中の首を絞めている。


「がっ、ぐぅぅ…… 」


 苦しげに呻きながらも竹中は跨る男を花瓶で殴りつけていた。

 異様な光景に哲也は動けずに見ていた。池上は死んでいないのに幽霊となって出ているという興味と見るのは二度目なこともあり冷静に観察できた。


「なん!? 」


 哲也は奇妙なことに気が付いた。幽霊の頭から耳がピンと生えている。腰の辺りに尻尾が見えた。人の姿をしているが人じゃない、そう思って改めて見ると青黒い膨れた顔に被さるように鼻口が長い犬の顔が見えてきた。


「犬……犬だ」


 人じゃない、犬の幽霊だ。犬好きの哲也は直ぐにわかった。


『ヴヴゥ……ガヴヴゥゥ…………グルルゥゥ………… 』

「かっ、かはっ」


 人の姿をした犬の幽霊は唸りながら首を絞めている。限界が来たのか殴りつけていた花瓶を竹中が落とした。


「竹中さん! 」


 花瓶が床に落ちた音で哲也が我に返ってベッドに駆け寄る。


「もういいだろ、僕が話す。竹中さんに全部話すよ」

『ガウゥゥ…… 』


 必死に声を掛ける哲也を見つめながら人の姿をした犬の幽霊はスーッと消えていった。



 気を失ってベッドに横たわる竹中に哲也が揺すりながら声を掛ける。


「竹中さん、起きてください、竹中さん」


 何度か声を掛けると竹中が目を覚ました。


「うぅ……ここは……警備員さんか…………彼奴は? 」


 ガバッと上半身を起した竹中の背を哲也がポンポン叩く、


「安心してください、幽霊は消えましたよ」

「そっ、そうか……警備員さんが助けてくれたんだな、ありがとう」


 引き攣った顔で礼を言う竹中に哲也は今見た事を説明した。


「犬ですよ、竹中さんが池上さんと一緒に海に投げ捨てた犬が恨んで出てきたんですよ、生きたまま海に入れられて溺れて死んだ犬が幽霊の正体です」

「なっ、マジか…… 」


 驚きに言葉を詰まらせていた竹中だが直ぐに暴言を吐き始める。


「あのクソ犬か! 犬のくせに俺にこんな事を……正体がわかれば怖くねぇ、次に出てきやがったら殴り殺してやる」


 哲也が慌てて口を挟む、


「ちょっ、待ってください、犬は何もしてないでしょ? 池上さんは自業自得なところもあるけど犬は何もしてないですよね、池上さんを脅すために貰ってきただけですよね」


 竹中がジロッと哲也を睨み付けた。


「ああ、そうだ。それがどうした? 俺が貰わなきゃ保健所送りだ。雑種なんて子犬じゃなきゃ貰い手なんていないだろがっ!! 俺の所にいる間は結構良いもの食わせてやったんだ。池上をいたぶるのに役に立ってくれたからな、それなのに恩を忘れて化けて出てくるなんてふざけるなってことだ」

「いや、だからって殺す事はないでしょ? 生きたまま海に投げ捨てるなんて最低じゃないですか、飼えないんだったら里親を探すとか、保護施設に引き取って貰うとか色々あるでしょ、最終的に保健所に持っていくのは仕方がないとしてもその前に出来る事をやるのが飼い主でしょ」


 弱り顔で説得する哲也をバカにするように竹中が続ける。


「はぁ? なんか文句あるのか? 恨むなら俺より捨てた元の飼い主だろが! 」


 逆ギレしたように怒鳴る竹中の向かいで哲也が首を振った。


「 ……そうですか、もう僕は知りませんから」

「知らないって何がだよ」

「犬は人の言葉なんてわかりません、だから人の霊より祓うのが大変なんですよ、恨みが大きく悪霊になった動物霊は場合によっては人間の霊より厄介なんです」

「だっ、だからどうした」


 強気だった竹中が少し怯んだ。哲也が真剣な表情で続ける。


「ずっと出てきますよ、殴っても殴っても、殺しても殺しても、幽霊は死にませんから」

「ちょっ、それじゃあ……どうすればいい? 警備員さん詳しいから知ってるんだろ、教えてくれ、毎晩出てくるなんて御免だ」


 一転して縋り付いて頼む竹中を哲也が冷たくあしらった。


「知りませんよ、僕は只の警備員ですから……見回りがあるから失礼します」

「ちょっ、待ってくれ、頼むよ、助けると思って…… 」


 慌てて腕を掴む竹中を振り切って哲也はドアへと歩いて行く、


「謝るんですね、許してくれるまで心から謝ってください」

「謝るって犬にか? 俺が犬に謝れってか」


 ムッと怒ったような口調で言う竹中に構わず哲也は部屋を出て行った。



 2日後、錯乱して暴れる竹中が看護師や警備員たちに取り押さえられる。暫く様子を見たが正気を戻さない竹中は隔離病棟へと送られていった。


「犬が……犬の池上だ……池上が……殺したはずだ…………何で池上が…………ふへっ……ふへひっ……犬が…………ふひひひっ」


 粗野で幽霊に悪態をついていた竹中も毎晩現われる人の姿をした犬の幽霊には参ったのか正気を失い会話もままならない様になっていた。

 犬の幽霊だとわかった後で哲也の知らないところで何かあったのかも知れない、だが哲也は何も語らない、搬送されていく竹中を冷めた目で見送るだけだ。



 竹中の前に現われた幽霊は池上の姿を借りた犬の霊だ。

 犬は信じていた元の飼い主に裏切られ竹中に里子に出されてその挙げ句、海に放り込まれて溺れて死んだ。その犬の苦しげな鳴き声によって池上は漁船に見つけてもらえて助かったのだ。犬嫌いの池上が犬に助けられるとは皮肉なものである。


 助けを求めるように鳴いていた犬に竹中は暴言を吐いて笑って見殺しにした。死に逝く犬にその言葉が聞こえたのかも知れない、言葉はわからなくとも感じたのかも知れない、そして化けて出てきたのだ。何の落ち度もない自分を死に追いやった竹中を恨んで……。


 哲也がベッドにゴロッと横になる。


「犬は人の言葉はわからない……けど、人の気持ちはわかるんだよ、感情は読み取るんだよ、怒っている時は近付いてこないだろ、悲しんでいる時は慰めるように寄り添ってくるだろ、楽しい時は犬も嬉しそうだろ、だから…… 」


 涙をグイッと腕で拭った。


「だから心から謝れば許してくれたはずだよ……だから、だから僕は何もしなかった。殴って追い払う事も出来たかもしれない、でもそれじゃあ解決にならない、竹中さんが悪いと思わなくちゃ……僕はそんな解決の仕方は嫌なんだ」


 竹中には悪いと思っている。何もしなかった自分が正しいのかわからない、悲しい気持ちと悔しい気持ちと怒りと寂しさが複雑に混じり合って哲也は布団に潜って泣き続けた。

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