表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/54

第二十三話 人形

 人形は『ひとかた』と呼ばれ古くは宗教的な行事に用いられていた。それが鑑賞や愛玩用として発達して現在のように愛されるようになったのだ。


 誰でも人形で遊んだ事はあるだろう、今は手元に無くとも幼い頃に人形遊びをした経験はあるはずだ。女子だけでなく男もロボットやヒーロー人形の一つくらいは誰でも持っていただろう、大人になった今でもアニメに出てくるキャラを象ったフィギュアを集めている人は多い、アニメが好きな事もあるが人の形をしているために親近感を持ちやすいのだ。

 逆に怖いと感じる人形もある。昔ながらの日本人形や青い目をした西洋人形などにまつわる怖い話しを聞いた事があるだろう、髪の毛が伸びたり視線を感じたり歩き回ったなどはよく聞く話しだ。フィギュアやロボットなどと違い人間に似過ぎているために怖く感じるのかも知れない。


 人の形をしてるので何かが入りやすいのだろうか? 哲也も人形に纏わる話しを知っている。ある患者から聞いた話しだ。



 昼食を終えた哲也は院内をぶらついていた。


「何か面白い事ないかなぁ~ 」


 やる気の無い声で哲也が呟いた。週に一度はやる事がなくて暇な時がある。


「早坂さんは忙しそうだったし……世良さんの手伝いは疲れるし……犬猫の世話を任されるだけで余り話もできないしな」


 看護師の香織は夜勤なので夜出勤だ。警備員の嶺弥も夕方からしか来ない。やる気のない気分に何もする事が無い暇が重なって哲也はだらけまくっていた。


「部屋に帰って寝よう…… 」


 踵を返す哲也の目に奇妙な女が映った。


「知らない人だな」


 哲也が顔を顰めた。廊下の先、窓から外を眺めている二十歳くらいの若い女が大事そうに人形を抱えていた。


「人形か…… 」


 呟くと哲也が歩き出す。まるで幼子が片時も離さないように抱いている様子に微笑ましいものを感じるが同時に心の病だと一目でわかった。大の大人が人形を抱きかかえ話し掛けているのだ。


「今日は良い天気ね、姉さん」


 女の後ろを通り過ぎようとした哲也が吹き出しそうになった。


「ぷふっ…… 」


 慌てて自分の口を押さえる。女が抱えている人形は頭の大きな幼子を象ったものだ。俗に言う赤ちゃん人形だ。妹ならわかるが姉に設定するには無理がある。


「一寸待ちなさい」


 笑いを堪えて通り過ぎようとした哲也を女が呼び止めた。


「なっ、何でしょう…… 」


 気弱に振り返った哲也を女が睨み付けた。


「笑ったわね、姉さんが怒ってるわよ」

「いや……あのぅ……ごめんなさい」


 哲也が素直に謝った。心に病を持つ患者だ。状況にも因るが事を荒立てないように謝るのが一番である。


「私に謝っても仕方無いでしょ、姉さんに謝りなさい」


 女が抱えていた人形をずいっと哲也の前に出す。


「ごめんなさい、バカにしたんじゃなくて可愛かったから……可愛い姉さんだなって思って笑ったんだ」


 頭を下げる哲也の向かいで女が人形と向き合って何やら話を始めた。


「姉さんの事が可愛いって言ってるよ、可愛いから笑ったんだって」


 おどけやふざけの無い真面目な表情で人形と話す女に気味の悪さを感じて哲也は一刻も早く立ち去りたかったのだが了承を得ずに去って恨みを買うのは嫌なので暫く待つ事にした。


「 ……うん、そう、うん……わかったわ」


 近くに居ても聞き取り辛いほどのくぐもった声で人形と何やら話していた女が不意に顔を上げた。


「貴方名前は? 」

「えっ? 僕? 僕は中田哲也です。警備員してます」


 突然名を訊かれて哲也が普通にこたえてしまう、ヤバそうな相手には直ぐに名乗らずに様子を見てからにするのだが今回は不意を衝かれた。


「哲也くんね、わかったわ、姉さんが貴方の事を気に入ったって言ってるわよ」


 女が人形を哲也の顔に近付けた。プラスチックかビニールで出来た大量生産品の人形だ。着ている服は手作りだろうか? 綺麗に裁縫してあって人形本体より高そうに見える。


「えっ? 姉さんが……あははっ、ありがとう……あははははっ 」


 哲也が乾いた笑いをあげた。ヤバそうなので直ぐにでも立ち去りたかった。

 女が人形に耳を近付ける。


「うん……わかったわ」


 人形から何かを言われたような素振りをしてから女が哲也を見つめる。


「天気が良いから散歩でもしませんかって姉さんが言ってるわ」

「えぇ……いや……そのぅ………… 」


 どうやって断ろうと考えていると向こうから看護師の早坂がやって来るのが見えた。


「あっ! 早坂さん、探してたんですよ」


 女の後ろ、廊下の向こうにいる早坂に手を上げて言うと哲也は女に向き直る。


「ごめんね、一寸用事があるんだ。散歩はまた今度って事で……ごめんね、お姉さん」


 拝むように謝ると哲也は早坂の元へと駆け寄った。


「早坂さん、頼まれてた仕事ですけど…… 」


 後ろで見ている女に態と聞こえる大声で早坂に話し掛ける。


「仕事? 何言ってるの? 哲也さん大丈夫? 」


 怪訝な顔をする早坂の手を哲也が引っ張る。


「頼むから合わせてください……後ろの女の人に絡まれて………… 」


 哲也の弱り切った顔を見て早坂は直ぐに機転を利かせてくれた。


「ああ……そうそう、それだったわね……じゃあ、ナースステーションへ行こうか」

「はい、何でも言ってください、どんな仕事でもしますよ」


 早坂と一緒に廊下の向こうへ歩いて行く哲也を女がじっと見つめていた。



 廊下の突き当たりの階段を早坂と一緒に降りていく、


「楠本さんと何があったの? 」


 早坂が興味津々といった目で哲也の顔を覗いた。


「楠本さんって言うんすか…… 」


 自分は名乗ったのに相手の名前を聞いていない事に今気付いた。それほど焦っていたのだ。

 何とも言えない表情で哲也が続ける。


「赤ちゃん人形を姉さんって呼んでたから笑いそうになったら怒られて……謝ったら次は姉さんが僕の事を気に入ったって……赤ちゃん人形に気に入られてもなぁ」


 話しを聞いた早坂が笑い出す。


「あはははっ、なんだ……哲也さんの事だからナンパ失敗して助けを求めてきたのかと思ったのに」

「酷いっす。早坂さんは僕の事をそういう風に思ってたんですね……まぁ思われても仕方ないけどナンパするほどメンタル強くないっす」


 ムッとする哲也を見て早坂が更に声を大きくして笑う、


「あははははっ、じゃあ、逆ナンだ。赤ちゃん人形に逆ナンされたんだ」

「ああ確かに……って全然嬉しくないですから怖いですから…… 」


 冗談に乗ってこたえる哲也が気付いたように手をポンッと叩いた。


「あっ、でも人形を使ってナンパしてきたのかも」


 それなりの容姿をしていた楠本を思い出して哲也が嬉しそうにニヤけ顔だ。


「無い無い、残念でした」


 早坂が顔の前で『無い』と手を振って続ける。


「楠本さんは自閉症とそれによる躁鬱よ、妄想も酷くて人形を本物のお姉さんだと思っているのよ、だから哲也さんを気に入ったのは本物のお姉さん、つまり赤ちゃん人形って事になるわね」


 楽しげに話す早坂の横で哲也が不服そうに口を開く、


「でも人形を通して僕の事を気に入ってくれたんじゃ…… 」

「うん、それはあるかも知れないけど哲也さんが楠本さんと付き合うのは無いわよ、楠本さんは姉には逆らわないからね、どういう妄想しているかは知らないけどあの人形に服従しているみたいなのよ」


 今一わからないという顔をする哲也の肩を早坂がポンッと叩く、


「つまり姉さんだと思い込んでいる人形が好きになった哲也さんを妹である楠本さんが奪うなんてことは無いってこと」

「 ……わかったような、わからないような、楠本さんって何をして入ってきたんですか? 」

「人形に気に入られた哲也さんには話してもいいかな、でも誰にも言っちゃダメよ」


 弱り顔の哲也を見て早坂が仕方ないという様子で話をしてくれた。


「楠本さんはね、幼い頃に事故で姉が死ぬのを目の前で見てショックで自閉症になったのよ、トラックに撥ねられて酷い有様だったらしいわ、幼稚園へ通うくらいの子がそんなのを目の前で見たらおかしくなって当然よ」


 楠本優花里くすもとゆかり20歳、幼い時の事件が元で自閉症となり、学校へも行かずにずっと引き籠もっていた。妄想も酷く暴れるようになったので近くの心療内科で診てもらい躁鬱と診断される。二十歳になりこのままでは社会生活を送れないと心配した親が磯山病院へ入院させたのだ。取り敢えず短期入院して各種検査をするという事だ。

 亡くなった姉が大切にしていた赤ちゃん人形を本物の姉と思い込む妄想をしており、片時も人形を手放さない、無理に引き離すと暴れるので風呂に入る時もビニール袋に入れて目に付く所へ置いておく事を特別に許可されているくらいだ。


「そうだったんですか…… 」


 哲也が何とも言えない気まずそうな顔で呟いた。

 楠本を気味悪いと思った違和感の訳がわかった。人形に対する楠本の態度は大事にしているのとは少し違っていた。人形に気遣いをしているように見えて違和感を感じて気味悪いと思ったのだ。


「かわいそうなひとなのよ、とても仲の良かった姉妹だったらしいから……哲也さんも気を付けてあげてね」

「了解っす。他の患者がからかったりしないように注意してやりますよ」


 すっかり同情した様子の哲也に『頼んだ』と言うようにポンッと背を叩くと早坂は階段をスタスタ降りていった。


「散歩したいって言ってたな、暇だし人形遊びに付き合ってみるか」


 楠本の事を気味悪がって悪かったと思ったのか哲也が階段を上っていく、


「あれ? 居ないや…… 」


 窓から外を見ていた楠本は居なかった。


「部屋番号聞いとけばよかったな、夕方の見回りもあるし今からじゃ1時間半くらいしか時間無いし、明日でいいか」


 辺りを探しても居なかったので哲也は仕方なく部屋に戻った。



 夜10時の見回りで哲也がC棟へと入っていく、


「楠本さんは30号室だったな」


 1階にある030号室をちらっと見てから階段を上っていく、楠本の部屋番号は夕方の見回りの時に早坂に聞いたのだ。


「異常なぁ~し」


 呑気な声を出しながら各階を見て回る。


「んん!? 」


 2階の階段横のトイレを見て出てきた時に小さな影が動くのが見えた。


「何だ? 鼠かな」


 山の中に建つ病院だ。どれほど気を付けていても鼠や虫などは入ってきてしまうが定期的に駆除はしているので建物内で見掛けるのは稀である。


「一応報告しとくか……まだ駆除は先だけど」


 階段の陰に消えたものを追うように哲也も歩いて行く、その時、音が聞こえた。

 トンットンットンッとボールを突くような音が階段から鳴っている。


「誰ですか? 何してるんです? もう消灯時間ですよ」


 立ち止まって声を掛けるが返事は無い。

 哲也は懐中電灯を握り締めてそっと近付いた。30センチほどの長さの棒状の懐中電灯だ。警備員の嶺弥に貰ったものである。建物の中は所々に非常灯が付いているので使う事はないがこの懐中電灯は警棒の代わりになる頑丈な作りをしている。何かあった際にと嶺弥が渡してくれたのだ。


「何して…… 」


 バッと階段に出た。誰も居ない、寸前までトントン鳴っていた音も消えている。

 誰かの悪戯だと思った哲也が階段を駆け下りていく、


「なん!? 」


 薄暗い廊下の先に何かが居た。

 50センチほどの人の形をしたものがトコトコと歩いていた。


「赤ちゃん…… 」


 違う、人形だ! 哲也は言葉を飲み込んだ。昼間見た楠本の抱いていた赤ちゃん人形に違いないと思った。

 人形が歩いているという異様な光景に固まったように動けない哲也の目の前で人形がくるっと振り返った。


『うふふふふっ』


 耳の傍で囁かれたかのような笑い声が聞こえた。

 人形は近くの部屋のドアを開けて中へと消えて行った。


「あの部屋は…… 」


 我に返った哲也が駆け付ける。


「楠本さんの部屋だ」


 人形が入っていった部屋は030号室、楠本の部屋である。哲也はドアの外からそっと中の気配を探った。


「楠本さん、入りますよ」


 ノックしてからドアを開ける。

 怖々中を覗くと楠本はベッドの上で寝息を立てていた。人形はベッド脇の椅子にちょこんと座っている。


「気のせいだな、うん、気のせい、気のせい」


 見間違いとは思えなかったが怖かったので態と声に出して言うと哲也はドアから出していた頭を引っ込めた。


『うふふふふっ』


 去り際に微かに笑い声が聞こえたような気がしたが哲也は振り返ったりしないで逃げるようにC棟を出て行った。



 翌日、昼食を終えた哲也が敷地内の遊歩道脇に置いてあるベンチで日向ぼっこしていると赤ちゃん人形を抱いた楠本がやってきた。


「哲也くん、こんにちは」

「あっ、楠本さん……こんにちは」


 笑顔の楠本に哲也が作り笑いで返す。

 楠本には同情しているが昨晩見た廊下を歩く人形が不気味に思えて建物内では会いそうに思ったので外の遊歩道の端っこにあるベンチに来たのだ。


「散歩ですか? 」

「哲也くんに会いに来たのよ、姉さんがここに居るって教えてくれたの」


 大事そうに人形を抱えながら楠本が隣に座った。


「あはははっ、そうっすか…………うわっ! 」


 愛想笑いをしながら振り向くと先程まで正面を向いていた赤ちゃん人形の頭が哲也の方を向いていた。あの一瞬で人形の首を回したのだろうか? 楠本は大事そうに両手で抱えたままだ。


「どうしたの? 」


 楠本が満面の笑みを湛えて哲也の顔を覗き込む、


「いや、そのぅ……人形がこっちを向いてたから………… 」


 しどろもどろにこたえる哲也を見て楠本が顔を顰める。


「人形じゃないわ、姉さんよ」

「ごっ、ごめん……そんなつもりじゃないんだ。そのぅ……何て言うか………… 」


 ムッと怒っている楠本に哲也は昨晩の事を話した。


「暗かったから見間違いかも知れないけど…… 」


 真剣な表情で聞いていた楠本が怒らないように哲也が付け加えた。


「そう……見たのね」


 小さな声で呟くように言うと楠本がニッコリと笑った。


「この子は動くのよ、人形だけど姉さんが入っているからね、だから優しい人には見えるのよ、それに哲也くんの事は姉さん気に入っているから遊んで欲しかったのよ」


 気に入られていると言われて哲也が乾いた声で笑う、


「あははははっ、そうなんだ。姉さんが入っているからその人形は姉さんなんだね、何でそんな事になったのかよかったら話してくれないか? 僕に何か出来る事があれば手伝うからさ」


 人形だと自覚しているのがわかって哲也は思い切って訊いてみた。


「一寸待ってて、姉さんに訊いてみるから」


 楠本が抱えていた人形に耳を近付ける。

 うんうん何やら返事をしていた楠本がバッと顔を上げた。


「哲也くんなら教えてもいいって…… 」


 可愛いがどことなくぎこちない笑みをしながら楠本が話を始めた。

 これは楠本優花里くすもとゆかりさんが教えてくれた話しだ。



 今から15年ほどさかのぼる。五歳になる楠本は両親と姉の4人家族で小さなアパートで暮らしていた。貧しかったが2つ上の姉がいつも優しくしてくれて幸せだった。


 そんな楠本を突然の不幸が襲った。

 いつものように姉と一緒に公園で遊んだ帰り、大きな道路を渡ろうとして姉がトラックに轢かれたのだ。夕方にやっているテレビが見たくて信号を待てずに道路に飛び出したらしい、後ろに居た楠本は無事だったが目の前で姉が轢かれるのを見たのだ。


 只でさえ止まるのに距離がいる大型トラックだ。急に飛び出してきた少女にブレーキが間に合うわけもなくほぼノンブレーキ状態でぶつかった。一般道路だ。スピードはそれ程出ていない、ぶつかった時も時速55キロ程度らしいが人を殺すには充分だ。

 道路を渡ろうとした楠本の姉は横からぶつかってきたトラックのバンパーに腕が引っ掛かり10メートルほど引き摺られた時には頭が胴から離れてグチャグチャに潰れていたらしい、それを目の前で見た楠本の心に傷が付かないわけがない。

 楠本は心神喪失で病院へ運ばれるがショックで数日寝込んだ後に自閉症となってしまった。他人は疎か両親とも話をしなくなった楠本が唯一話し掛けるのが姉が大事にしていた赤ちゃん人形だ。

 いつも抱いている人形をあの日に限って姉は楠本に預けていたのだ。難を逃れた人形を姉の形見だと楠本は貰って大切にしていた。



 入院している間に姉の葬式は終っていた。楠本は退院して家に帰ると2人で使っていた小さな部屋に閉じ籠もった。いつも優しくしてくれた姉はもう居ない、悲しみに暮れていたある日、昼寝をしていた楠本はふと目を覚ました。


『もう大丈夫よ、お姉ちゃんが居るからね』


 机の上に置いていた人形が寝ている楠本の顔の前にいた。


「お姉ちゃん? 」


 寝惚け頭で話し掛けると目の前の人形がニッと笑った。


『そうよ、お姉ちゃんよ、優花里』

「お姉ちゃんなの? お人形がお姉ちゃんなの? 」


 目を擦りながら楠本が上半身を起こした。


『そうよ、帰ってきたの、でも体が無くなったからお人形さんに身体を貰ったの』

「よかった。お姉ちゃん……ママにも教えてあげなきゃ」


 立ち上がろうとした楠本の腕を人形が引っ張った。


『ダメよ! ママやパパには言っちゃダメ、バレたら居なくなるの、そしたら優香里と会えなくなるのよ』

「お姉ちゃん…… 」


 目を吊り上げて怒った顔をする人形を見て楠本は少し怖くなる。

 怯えた楠本を見て人形がニッと可愛い笑みになる。


『ママやパパには後で話すわ、だから今は内緒よ、お姉ちゃんと優花里だけの秘密だよ、約束出来るのならこれから毎日遊んであげるわ』

「秘密……お姉ちゃんと私だけの秘密だね」

『そうよ、2人だけの秘密よ』


 秘密という言葉に楠本の心が踊った。楠本はまだ五歳だ。人形が言葉を話すのも自然と受け入れた。


 その日から毎日人形と遊ぶようになる。赤ちゃん人形を姉さんと呼ぶ楠本を見て両親は驚くが不憫に思ったのか心の傷が癒えるまでと好きなようにさせてやった。

 楠本は幼稚園にも行かずに引き籠もって1人で人形遊びをするようになった。



 時が経ち、楠本も小学生となるが登校したのは初日だけだ。それも直ぐに帰ってしまった。あの人形が手元に無いと暴れて泣き喚くのだ。

 両親が病院へ連れて行くと自閉症と診断されて普通の学校への進学は諦めた。自閉症の子供たちが集まる施設に連れて行くが人形を巡って他の子と騒動を起こし施設も諦めなければならなかった。


 人形を無くせばいいかと両親が一度人形を隠した事がある。結果は散々だ。泣き喚いた挙げ句にひきつけを起こして泡を吹いて倒れて救急車を呼ぶ事になった。

 それから楠本は家で過ごす事になる。ずっと引き籠もって1人で遊んでいた。両親はそれ程心配していなかった。人形が傍にあると落ち着いて普通に会話も出来るのだ。もう少し大人になれば普通に暮らしていけるようになるだろうと考えていた。

 だが楠本は少しも治らなかった。高校へ入る歳になっても人形を片時も離さない、思い余った両親がキツく叱りつけると楠本は自殺未遂を起こした。

 世間体を気にしたのか両親はキツく言わない代わりに心療内科に楠本を通わせる事にした。病院で躁鬱と診断されて治療が始まる。



 ある日、母親に付き添われて楠本が病院へと向かう途中、抱いていた人形に顔を近付けて何やら話し始めた。


「なぁに姉さん…… 」


 道端で人形と話し出す楠本を見て母親が顔を顰める。

 いつもの事だと叱ったりはしない、逆効果になるので叱らずに話しを聞いてあげてくださいと先生に言われているからだ。


「うん……わかったわ姉さん」


 話を終えた楠本が母の手を引っ張った。


「そっちはダメ、姉さんが危ないって言ってるわ、向こうの道にするから」

「何を言ってるの? 遠回りじゃない、予約してる時間に間に合わなくなったら大変でしょ、先生が待ってるのよ」


 構っていられないと歩き出す母親の腕にしがみついて楠本が足を踏ん張って行かせまいとする。


「ダメ! 絶対にダメ!! 向こうじゃないと私行かないから」

「 ……わかったわよ」


 溜息交じりに母親が折れた。一度言いだしたら利かない性格は知っている。


「こっちは大丈夫って姉さんが言ってるわ」


 大きな道路から脇道へと歩き出す楠本の後ろを疲れた顔をした母が続いた。

 普段より7分ほど遠回りをして大きな道路へと出る。


「何かしら? 」


 母親が顔を顰める。いつも待たされる信号の辺りが騒がしい、何事かと近付いていく後ろからパトカーがやってきた。


「事故みたいね」


 険しい顔で呟く母の隣で楠本が人形を抱き締めた。


「もう大丈夫ね、ありがとう姉さん」


 母親がサッと振り向いた。偶然とは思えない、事故の事を知っていて別の道を通ろうと言ったのだ。


「優花里、あなた…… 」

「だから言ったでしょ、危ないって、姉さんが教えてくれたのよ」


 顔を強張らせる母を見て楠本がニッと笑った。


「そっ、その人形が…… 」


 震える声を出す母を楠本がキッと怖い顔で睨み付ける。


「人形じゃないわ、姉さんよ」

「そっ、そうだったわね……早く病院へ行きましょう」


 こんな所で暴れられたら大変だと思ったのか母親は楠本の手を引っ張って歩き出す。

 警官が交通整理をしている道路を渡っていく、途中で母親が呟いた。


「酷い事故…… 」


 いつも待たされる信号のある交差点で車が歩道に突っ込んでいた。信号待ちをしていた3人が巻き込まれたらしく救急車がやってきて楠本と母親が見ている前で痛そうに呻く人たちを運んでいく、いつものように信号待ちをしていたら楠本親子も巻き込まれていたかも知れない。


「電話に夢中になって余所見運転よ、死刑にすればいいのよ、姉さんを轢き殺した運転手もあの車の男も、全部死刑にすればいいんだわ」


 憎むように睨む楠本も怖いが母親にはそれ以上にそれまで何とも思わなかった人形が禍々しいものに見えた。


 その日の夜、仕事から帰ってきた夫に相談するが偶然と言って取り合ってくれない、怖くなったのか母親はその日から楠本に話し掛ける事が減っていった。


 二十歳になっても心に負った傷は癒えず。楠本は人形を手放さない、このままでは社会生活を送れないと心配した父親が磯山病院へ入院させたのだ。

 これが楠本が教えてくれた人形に纏わる話しだ。



 話を終えた楠本が哲也の顔を覗き込む、


「わかったでしょ? この人形は姉さんなの、大好きだった姉さんが乗り移っているのよ、それで私を守ってくれているのよ」


 微笑む楠本を見て哲也が慌てて口を開く、


「そうだったんだ。大事な人形なんだね……って人形じゃなくてお姉さんって呼ばないと怒られるな」

「ふふふっ、哲也くんは別にいいって、人形って言っても怒らないって姉さん言ってるわ、哲也くんは姉さんのお気に入りだから」


 楠本の笑みに何か不安なものを感じたが人形に纏わる話しは良いものだと心を打たれたのは確かだ。だが何故そんな良い話しなのに自閉症から躁鬱になったのだろうかと疑問も浮んだ。


 遊歩道を通って看護師が足早にやってくる。


「楠本さん、こんな所に居たのね、部屋に居ないから探したわよ」


 叱るように言う看護師に楠本の隣に座る哲也がペコッと頭を下げた。


「哲也くんと散歩してたのよ」


 けろっとした顔でこたえる楠本の隣で哲也が気まずそうに愛想笑いだ。

 哲也をちらっと見てから看護師が続ける。


「今日は診察があるから部屋に居なきゃダメでしょ」

「私は何処も悪くないわ、パパに言われて少し入院するだけだから」

「患者さんはみんなそう言うのよ、悪いか悪くないかは先生が決めますから早く部屋に戻りましょう」


 ムッとした怒り顔の楠本を看護師が軽くあしらった。


「行かないから……哲也くんとの話はまだ終ってないから」


 反発する楠本から視線を逸らすと看護師がキッと怖い目で哲也を見つめる。


「ぼっ、僕も警備員の仕事があるから…… 」


 顔は見知っているが殆ど話した事のない看護師だ。揉め事は御免だと哲也が腰を上げた。


「ダメよ、姉さんがまだ話をしたいって言ってるわ」


 楠本が哲也の腕を引っ張った。


「仕事があるからさ…… 」


 どうにか断ろうとする哲也の言葉を楠本が遮る。


「嘘! 夕方まで暇でしょ? 姉さんが教えてくれたのよ」


 ムッとした顔の楠本が抱える人形がじっと哲也を見つめていた。

 向かいに立つ看護師がパチンと手を叩く、


「それじゃあこうしましょう、哲也さんも一緒に楠本さんの部屋に行けばいいわ、診察までまだ少しあるから続きは部屋で話せばいいわ」

「あはは……そうしようか」


 有無を言わせぬ看護師の怖い目付きに哲也は愛想笑いをするしかない。


「わかったわ、姉さんもそれでいいって」


 機嫌を直した楠本と並んで哲也が歩き出す。

 診察が始まるまで30分程を楠本の部屋で過ごすと哲也は自分の部屋へと帰った。


「楠本さんならいいけど人形に好かれるのは御免だな」


 哲也はほっと息をつくとベッドにごろっと横になる。一時間半ほどしか話していないが酷く疲れた。楠本と話しをしている間、ずっと人形から視線を感じていたのだ。


「姉さんが乗り移った人形か…… 」


 うとうとと眠りに落ちていく、哲也は夢を見た。



 哲也は道路脇に立っていた。右に結構大きな公園があり子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。左は道路だ。片側二車線のそれなりに大きな道路だ。時刻は夕方、傍に立つ電柱が長い影を落としている。


「ここは? 」


 哲也が辺りを見回していると公園から女の子が2人出てきた。姉妹だろうか? 前を歩く姉と後ろに続く妹といった様子だ。妹らしき女の子は人形を抱っこしていた。


「あの人形は…… 」


 見覚えのある人形に哲也が注目する。人形を抱えていた女の子が道路を渡ろうと様子を見ていた女の子の背を押した。


「危ない! 」


 駆け出そうとした哲也の前で女の子が大型トラックに撥ねられた。


「なん!? 」


 走ろうとした哲也の身体が重くなる。手足や腰に見えないロープが纏わり付いているかのように体が動かない。

 人形を抱いた女の子が大声で泣きじゃくる。野次馬が集まってきて大騒ぎだ。道路を走っていた車も全て止まっている。


 助けに行かないと……、哲也が見つめる先で泣きじゃくる女の子の口元が動いていた。


「これで全部私のものよ」


 呟くような声が聞こえた。大きな泣き声と混じって確かに聞こえた。泣きじゃくる女の子の声だと思った。だが10メートル以上離れているのだ。大声ならともかく呟き声など聞こえるはずがない、かと言って近くには誰も居ない、あの子の声としか思えない。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 悲惨な事故を見て叫びながら哲也が目を覚ます。


『うふふふふっ』


 何処かから笑い声が聞こえたような気がした。哲也がバッと辺りを見回すと部屋のドアが閉まっていくのが見えた。


「誰か居るのか? 」


 声を掛けながらサッと起きるとドアを開けて廊下に顔を出す。遠くに歩いている患者は見えるが他には誰も居ない。


「気のせいか…… 」


 人形が頭に浮んだが風で揺れたのだと思い込むようにする。


「あの夢は……楠本さんに話しを聞かないと」


 哲也が険しい顔で呟いた。



 深夜3時過ぎ、哲也が見回りでC棟へと入っていく、


「異常無し! 」


 最上階から下りながら各フロアを見回っていく、1階へと下りる階段の途中で哲也が足を止めた。


「人形が居ませんように…… 」


 態と声に出してから階段を下りていく、ある程度怪異には慣れた哲也だが動く人形は流石に怖かった。夜10時の見回りでは何もなかった。楠本が言っていた通り人形が自分に好意を持っているのなら驚かさないでくれと願いながら1階の廊下へと出た。


「ふぅ~~ 」


 廊下に何も居ないのを見て安堵の息をつく、その時、声が聞こえてきた。微かだが静まり返った深夜の廊下なら聞取る事が出来た。


「喧嘩か? 」


 声のする方へ哲也が歩いて行く、患者同士の喧嘩なら止めないといけない。


「楠本さんか…… 」


 030号室の前で哲也が立ち止まる。

 中の様子を探るように耳を傾けていると何やら聞こえてきた。


「私が悪かったわ……でも……でも……もう許して………… 」

『ふふふっ、ダメよ、貴女はずっと私に…… 』

「今までやってきたじゃない……だからもう許して…… 」

『ダメよ、嘘つき女! 私をもっと大事に扱いなさい』


 所々聞こえないがどうやら楠本ともう1人女が居るらしい。

 こんな深夜に他の患者と揉め事でもしてるのか? 哲也はノックしようとドアに伸ばした手を止めた。


「もう許して姉さん……お願いだから許して…… 」


 姉さんって……、人形を思い浮かべる哲也に聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。


『ふふふふっ、何を言っているの? 貴女が悪いんでしょ、貴女が殺したのよ』


 間違いない、人形が歩いているのを見た時に聞いた笑い声だ。


「 ……ごめんなさい」

『わかったら私に従うのよ、でないと全てバラすわよ』

「そっ、それだけは……何でもするから、それだけは許して………… 」

『わかったら反抗しないで私のいう事を聞きなさい』

「ぐぅ……苦し……止めて………… 」

『ふふふっ、私はもっと痛かったのよ』


 楠本の苦しげな呻きを聞いて躊躇していた哲也がバッとドアを開けた。


「くっ、楠本さん…… 」


 震える声で名前を呼んだ哲也がその場に固まる。

 ベッドで横になっている楠本の胸の上で人形が首を絞めていた。


「てっ哲也くん…… 」


 どうにか首を動かして楠本が哲也を見つめた。その目から涙が流れていた。


「何やってんだ!! てめぇぇ! 」


 怒りが恐怖を上回った。哲也が人形に掴み掛かる。


『うふふふふっ、ふふふふふっ』


 人形は哲也の腕をかわすとベッドから飛び降りた。


「なん? 」

『ふふふふっ、うふふふふふっ』


 捕まえようとした哲也の足下を走り抜けると楽しげに笑いながら部屋から出て行った。


「くそっ! 」

「ダメよ哲也くん」


 追い掛けようとした哲也を楠本が止めた。ベッドの上で上半身を起こすと楠本が続ける。


「姉さんには勝てないわ、恨まれたら……私みたいになるわよ」


 泣き腫らした楠本の顔を見て哲也は何とも言えない表情で話し掛ける。


「本当の事を話してくれないか? 何で人形に首を絞められる? 」

「それは…… 」


 言い淀む楠本の顔を哲也がじっと見つめる。


「夢を見たんだ。大きな公園から女の子が2人出てきて1人が事故に遭った……後ろに居た女の子が前の子を押したんだ…… 」


 哲也が夢で見た事を話すと楠本の顔色がさっと変わった。


「全部話してくれ、夢の中の人形を抱いていた女の子は楠本さんだろ? 何であんな事をしたんだ? いや……してしまった事は仕方がない、でもその所為で人形に襲われてるんじゃないのか? だったら全部話してくれ、僕に出来る事があれば何でもしてあげるから、僕が楠本さんの味方になるから」

「哲也くん………… 」


 観念した様子で項垂れる楠本に哲也が優しく畳み掛ける。


「守ってくれると言っていた人形が何で楠本さんの首を絞める? 誰にも話さないから本当の事を教えてくれ」

「わかったわ……誰にも話さないって約束してくれるなら」

「約束するよ、あの夢の通りだったとしても僕は誰にも話さない」

「ありがとう哲也くん、前に話した事は全部嘘よ……姉さんが……人形が話せって言ったの、本当はね……本当は………… 」


 涙を流しながら楠本が話を始めた。

 これは楠本優花里くすもとゆかりさんが教えてくれた本当の話しだ。



 今から15年ほどさかのぼる。五歳になる楠本は両親と姉の4人家族で小さなアパートで暮らしていた。

 両親は共働きで働いていたが暮らしは貧しかった。人の好い父が騙されて借金があったのだ。借金の返済に父の給料の殆どが無くなって母のパートの給金が実際の生活費であった。

 その日を暮らすだけで精一杯だった。余分な金などあるわけもなく楠本の持ち物は服から玩具まで全て姉のお下がりだ。だが幼い楠本に家庭の事情などわかるわけもなく姉のお古である事に不満を持っていた。


 四歳までは良かった。姉のお下がりでも何も知らずに嬉しそうに遊んでいた。だが五歳になって物心がつき始めると姉は何でも買ってもらえるのに自分は買ってもらえない、貧しいのはわかるが不公平だと思うようになる。

 そう思い始めると楠本の中に段々と不満が溜まり、やがてそれが邪な思いに変わっていく、『姉がいなければ全て自分のものになる』と。

 そんな時だ。姉が何処かから赤ちゃん人形を拾ってきた。盗んできたのではなく粗大ゴミと一緒に置いてあったのを持ってきたらしい、嬉しそうに人形で遊ぶ姉を見て貧しかった母は無碍に取り上げる事が出来なかった。持ち主が現われたら謝って返せばいいと思ったのだ。


 二歳年上の姉が七歳になって小学生になる。新しい制服にランドセル、文房具も全て新品だ。自分は全部お古なのに姉は全部新しい……楠本の中で何かが弾けた。



 ある日、家から少し離れた大きな公園で姉と一緒に遊んでいた。

 夕方になり5時を告げる音楽が流れてくる。


「あっ、もうこんな時間だ」


 いつも見ているテレビ番組を思い出して姉が帰り支度を始める。


「帰るよ優花里、人形持ってきて」

「お姉ちゃん待ってよぉ~~ 」


 先に走り出した姉を近くに置いていた赤ちゃん人形を抱えた楠本が追う、


「待ってよぅ~~ 」


 直ぐに追い付いた。姉は片道二車線ある道路を渡ろうと様子を見ていた。普段は50メートルほど離れた横断歩道を渡るのだがテレビ番組が気になって近道をしようとしたのだ。

 息を切らせて追い付いた楠本の耳に声が聞こえた。


『押せ、押しちゃえよ』


 抱いていた人形が囁いた。同時に楠本の中にくすぶっていた不満が頭をもたげる。

 楠本は何かに操れるように姉の背を力一杯押した。

 くるっと身を回しながら姉が道路へ出て行く、


「ゆか…… 」


 姉の声をトラックがぶつかった音が掻き消した。


「あぁ……わあぁぁ~~ん、おねぇちゃんがぁ~~ 」


 大声で泣き出す楠本、走っていた車が次々に止まって運転手が出てくる。姉を撥ねたトラックの運転手は真っ青な顔で狼狽えている。


『これで全部私のものよ』


 泣きながら呟いたのは楠本か人形か……。



 楠本は悪い事をしたと、姉を死なせてしまったと、バレたら叱られると怖くて何日も泣いていた。両親は姉がいなくなって寂しくて泣いているのだろうと楠本を不憫に思った。


 葬儀が終った後も暫くは悲しみに暮れていたが泣いていても姉は戻ってこないと両親は以前にも増して仕事をするようになる。共働きの両親は家を空ける事が多くなり楠本は1人で遊ぶ事になる。

 楠本は寂しくはなかった。姉の持ち物が全て自分のものになったのだ。姉がいつも抱いていた人形はもちろん、玩具も勉強机も新品同様のランドセルも全て楠本のものだ。1人にして悪いと思ったのか両親も以前より優しくなった。あまりの嬉しさに楠本から罪の意識など消えていた。



 そんなある夜、親子3人で並んで寝ていた楠本は苦しさに目を覚ます。


「うぅ………… 」


 姉が大事にしていた赤ちゃん人形が胸の上に乗って楠本の首を絞めていた。


「あぅぅ…… 」


 悲鳴を上げようにも声にならない、隣で寝ている母に助けを求めようとするが体が痺れたように動かなかった。

 動くのは目だけだ。楠本は必死で人形に助けてくれと目で訴える。


『うふふふふっ』


 笑い声が聞こえて首を絞める力が弛んだ。


『私の御陰よ、これで全部あなたのものよ』


 人形の小さな口が動いて言葉を発した。聞き覚えのある声に楠本が話し掛ける。


「お姉ちゃん? 」

『うふふふっ、そうよ、お姉ちゃんよ』


 人形の顔がさっと変わる。赤く目を光らせ口を大きく開いた恐ろしい顔で続ける。


『優花里が殺したお姉ちゃんよ、痛かったわ、怖かったわ、なんで私を殺したの』


 恐ろしい顔の人形が楠本の首を絞めてくる。


『お姉ちゃん、悔しくて、悔しくて……それで戻ってきたのよ、戻って人形の中へ入ったのよ、私を殺した優花里に仕返しをしてやろうって戻ってきたのよ』

「ごっ、ごめんなさい、お姉ちゃん……許してぇ………… 」


 苦しげに顔を歪めて謝る楠本の胸の上で恐ろしい顔をした人形が小さな口を動かして姉の声を出す。


『ダメよ、許さない、だって優花里は私を殺したんだから』

「ごめんなさい……お願いだから許して……ごめんなさい、お姉ちゃん………… 」


 楠本が泣いて謝ると首を絞めていた力が弛んだ。


『うふふふっ、許してあげてもいいわよ、その代わり私の言う事を聞くのよ』

「ごめんなさい……なんでも言う事を聞くから許してぇ………… 」


 許しを請う楠本の胸の上で人形がニタリと不気味に笑った。


『うふふっ、わかったわ、じゃあ私を大事にしなさい、私が乗り移った人形を大事にするのよ、そして私の命令を利きなさい、そしたら許してあげるわ』

「わかった……何でもするから…… 」

『約束よ、約束を破ったら全部話すわよ、私を殺したのは優花里だって全部話すから、そうしたら優花里は捕まるわよ、人殺しで死刑になっちゃうから』

「いや……死刑はいや…………何でもするから許して…… 」


 目の前の人形に恐怖もあったがそれ以上に事故の事をバラされるのが怖くて楠本は必死で約束した。


『うふふっ、わかったら約束を守るのよ、うふふふふっ』


 人形の笑い声を聞きながら楠本の気が遠くなる。



 目を覚ますと朝になっていた。夢かと思って勉強机の上に置いていた人形を見る。


「あぁ……ごめんなさい」


 机の上にちょこんと座る人形の頭がゆっくりと回転して振り向いた。


『うふふふふっ、約束よ』


 直ぐ傍で微かに笑い声が聞こえた。

 その日から楠本は部屋に籠もるようになる。心配した両親が病院へ連れて行くと自閉症だと診断された。姉の事故のショックだと、時間を掛けて治すしかないと言われて両親はきつく叱るのを止めた。


 楠本は人形の事を母や父に何度か話したが当然取り合ってもらえない、全部夢だと片付けられた。その度に人形に首を絞められ楠本は操られるように人形の命令を利くようになっていった。

 幼心を恐怖で縛られ自閉症になり大人になって躁鬱と診断されて今に到る。


 これが楠本が語ってくれた本当の話だ。

 以前に話したのは嘘である。人形に嘘をつけと命令されたのだ。二十歳になった今でも恐怖で縛られているのだ。

 哲也は本当の事を聞いて愛らしいと思っていた人形が邪悪なものに思えてきた。


「ごめんなさい哲也くん…… 」

「あの人形が全て悪いんだな」


 泣き腫らした顔で頭を下げる楠本の向かいで哲也が何とも言えない顔で人形が逃げていったドアを見つめた。

 時間は午前4時近くになっていた。いつもなら深夜の見回りを終えている時間だ。


「話してくれてありがとう、誰にも言わないよ、約束する。あの人形をどうにかしよう、僕も手伝うよ」


 哲也が腰を上げた。まだ見回りの途中だ。


「ありがとう哲也くん、何度も……私も何度も人形をどうにかしようと思ったわ、でも……でも姉さんなのよ、私が殺した姉さんをまた裏切るなんて出来なかった」

「僕が何とかする。楠本さんはもう充分反省してるんだ」


 ベッドの上で泣き崩れる楠本に声を掛けると哲也は部屋を出て行った。


「先ずは人形を捕まえないとな…… 」


 捕まえた後はどうするのか? 寺や神社で供養して貰うのか? 見回りをしながら色々考えるが良い案は浮んでこなかった。



 翌日、楠本が気になって朝食を食べた後に訪ねた。人形は昨晩から戻っていないらしいが楠本の元気な姿を見て一安心だ。


 夜10時の見回りで哲也がC棟へと入っていく、いつものように最上階から下りながら各フロアを見て回る。


「楠本さんの様子を見に行かなくちゃな」


 1階の030号室のドアをノックするが楠本の返事が無い。


「楠本さん! 」


 慌てて部屋に入るが楠本の姿は何処にも無い。


「楠本さん何処に…… 」


 胸騒ぎがした哲也が駆け出した。

 C棟の裏、遊歩道の向こうにチラチラと明かりが見えた。


「あれか? 何が燃えてるんだ? 」


 電気の明かりではない、何かが燃えている明かりに哲也が慌てて走り出す。


「なっ! 楠本さん!! 」


 人が燃えていた。青白い炎だ。楠本だと直ぐにわかった。幸いな事に炎は全身には回っていない、何かを抱くように胸と腕が燃えていた。


「楠本さん! 」


 作業着を脱ぐと哲也は青白い炎をバンバン叩いて消していく、楠本の足下に消毒用アルコールのボトルが転がっていた。これに火を付けて燃やしたのだろう、


「てっ、哲也くん……人形は……人形は燃えたから……私が燃やしたから………… 」


 息も絶え絶えで話す楠本の抱えるような腕の中に人形はいない。


「人形って……楠本さん……僕が何とかするって言っただろ」


 脱いだ上着と自分の身体を使って抱くようにしてどうにか消す事が出来た。消毒用アルコールの弱い炎で助かった。


「いいの……私がやらなきゃ…………私の責任だから……姉さんと一緒に私も死なせて………… 」

「何言ってんだ! そんなのダメだ。楠本さんは生きなきゃダメだよ」


 哲也はギュッと楠本を抱き締めた。



 見回りを終えて宿直室へと戻ろうとした本物の警備員の須賀嶺弥が騒ぎに気付いて駆け付ける。


「哲也くん大丈夫か! 」

「嶺弥さん、看護師さんを先生を呼んでください」


 楠本を抱える哲也を見て嶺弥は事態を把握した。


「わかった」


 嶺弥は事情も聞かずに走って行った。

 直ぐに先生と看護師がやってきて楠本を担架に乗せて運んでいった。



 翌日、哲也は人形を探したが何処にも無かった。欠片どころか灰も残っていない、アルコールの弱い炎で全て焼けるとは思えない、現に楠本も比較的軽い火傷で済んだ。

 楠本はもちろん哲也も事情を聞かれるが過去の事は何も話さなかった。楠本は人形を燃やそうとしたとだけしか話さない、哲也も見回りの途中で偶然見つけて駆け付けたとしか言わなかった。約束を守ってくれた哲也に楠本は涙を浮かべて頭を下げた。


 楠本は消毒用のアルコールを盗み出して夜中に部屋を抜けて人形を燃やそうとしたが誤って自身に火が燃え移って火傷を負ってしまったという事で決着が付いた。

 発見も早く、アルコールの弱い炎だったので大事には到らなかったが自傷するという事で隔離病棟へと移されていった。


 あの人形は何処へいったのか? そもそも何なのか哲也は考えた。

 楠本の鬱積した心に人形が付け入ったのか? 邪な人形に感化されて心が歪んでいったのか? その2つ、邪な人形と鬱積した楠本の心が合わさって怪異が起きたのではないかと哲也は思う。


 大切にしていたのではなくて畏怖いふして慎重に扱っていたのだ。片時も人形を手放さないのは人形を恐れていたからだ。


 あの人形に入っていたのは本当に姉だったのだろうか? 何か邪な別のものが入って楠本を操っていたのではないだろうか? 

 確かに楠本は悪い事をした。だがもう充分な罰を受けたはずだ。幼い頃から今までどれだけ苦しんできた事か、自閉症になり躁鬱になってまで苦しんだのだ。これ以上楠本の前にあの人形が現われない事を哲也は願った。



読んでいただき誠にありがとうございました。

次回更新は3月17日を予定しています。

3月17日~20日、毎日1話ずつ全4話更新いたします。


ブックマークや評価での応援ありがとうございます。

引き続きブックマークや評価をして頂ければ嬉しいです。

文章間違いなど見つけられたら御指摘ください。

感想やレビューもお待ちしております。


では次回更新まで暫くお待ちください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ