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第十八話 鏡

 鏡とは可視光線を反射する事によって物を映す事が出来る道具である。古くは金属板を磨いて作られていたが現代ではガラスやプラスチックなどの表面にアルミニウムや銀などの金属を蒸着させて作られる。


 人間はもちろんだがチンパンジーや象にイルカなどは鏡に映っているのは自分だと認識できるが鼠や蛙に昆虫などは自分だと認識できない、鏡に映った自分を自分と認識できる能力を『自己鏡映像認知能力じこきょうえいぞうにんちのうりょく』と呼ぶ、動物の知能を測るための目安としても使われている。


 中国から渡来してきた当初は神具として使われていた。今でも御神体として鏡を祀る神社は多い、道教や風水では八角形の枠に鏡をはめた八卦鏡を魔除けとして使っている。物を映すという神秘性からか古来より様々な国で厄除けや魔除けとしても使われている。

 正月に飾る鏡餅は神事に用いる丸い鏡を模したものである。鏡が割れると不吉だとか使わない時にはカバーを掛けて見えなくするなど昔の人は鏡の神秘な力を信じていた。

 鏡に纏わる怪談も多い、鏡の中の左右反対の世界に引き込まれたり、未来の自分の姿が映ったりなどはよく聞く話しだ。


 哲也も鏡に未来が映るという人を知っている。良い未来だけが映るのなら便利なのだが悪い事も映ってしまう、予期して防ぐ事もできて便利だと思うかも知れないがそんなに旨くは行かないものだ。未来が映るがハッキリしたものではなく曖昧にしか映らない、そんなものを見せられたらおかしくなるのは当然だろう。



 午前10時を回ったころ哲也が診察室に入っていく、今日は定期診察の日だ。


「調子はどうだい? 」


 ペコッと頭を下げた哲也に池田先生がにこやかに訊いた。

 池田先生は哲也の担当医だ。白髪の交ざったグレーの髪を綺麗に整え、かくしゃくとした様子からはとても60歳過ぎには見えない、40代でも通用するくらいに若く見える。いつもニコニコしていて温厚な先生は患者たちから信頼されている。


「えへへ、バッチリ元気です。退院できるくらいに元気ですよ」


 おべっか笑いをしながら哲也がこたえた。

 哲也は池田先生が苦手だ。優しすぎて怖さを感じるのだ。何か特別な感情を持っているのではないかと勘繰るくらいに優しいのだ。もちろん池田先生は男性である。


「ハイハイ、わかったから上着脱ぐ」


 看護師の香織が哲也の頭をペシッと叩いた。


「香織くん、暴力はいかんよ、哲也くんは患者なんだからね」


 優しい声で窘める池田先生の向かいで上着を脱ぎながら哲也が続ける。


「そうですよ、香織さんっていっつも叩くんですよ」


 調子に乗った哲也を香織がじとーっと睨む、


「ふ~ん、そんな事言うんだぁ~~、ふ~ん」

「ちょっ! 違います。前言撤回します。香織さんは凄く優しいです」


 香織に嫌われまいと哲也が慌てて言い直した。


「ふふっ、楽しそうだね、みんなと旨くやっているようだね、この調子なら社会復帰も近いかな」


 上着を脱いだ哲也に池田先生が聴診器を当てる。



 診察が終り、香織が薬の束を渡す。


「食後に飲むのよ」

「わかってますよ、今回は新しい薬はないですね」


 薬の入った袋を確認する哲也に池田先生が優しく声を掛ける。


「哲也くんは順調だからね、次から薬の量も減らす事にしよう」


 言いながら饅頭を2つ手渡した。

 池田先生は苦手だが診察が終ると毎回お菓子をくれるのだ。先生曰く、毎日見回りをしている御礼らしい、いい年をした哲也だが病院の売店では売っていない高級なお菓子を貰えるとあって診察日は楽しみになっていた。


「いつもありがとうございます」


 笑顔で頭を下げる哲也の後ろで香織が壁に掛けてある鏡に布を貼り付けていた。


「何してるんですか? 」


 怪訝な顔で訊く哲也の向かいでは池田先生が机の上に置いていた鏡を机の下、足下の奥へと仕舞う、


「先生も……鏡? 何で鏡を隠すんですか」


 振り返った哲也が訊くと弱り顔の池田先生が目で香織に何やら合図をした。


「何でもないわよ、次の患者が来るから哲也くんはさっさと出なさい」


 香織がポンポンと哲也の背を叩く、2人の仕草がおかしいのは哲也でなくとも気が付くだろう、


「鏡が何かあるんすね? 次の患者……鏡恐怖症か何かでしょ? 」


 興味津々の目をして訊く哲也を見て香織が顔を歪める。後ろでは池田先生の顔から笑みが消えていた。


「ダメだよ、哲也くんは直ぐに首を突っ込むね、そういうのはよくないよ」


 哲也が振り返ると池田先生が不機嫌そうに言った。


「いや……あのぅ……ごめんなさい」


 謝る哲也のお尻を香織がパシッと叩いた。


「いいから部屋に戻りなさい」

「痛てて……わかりましたよ」


 怒ってはいるが香織の顔が後で教えてやると言っているのが分かって哲也は素直に出て行った。



 診察室から少し離れた窓の傍で哲也は外を見る振りをして次の患者を待った。

 暫くしてリノリウムの床をスリッパで擦るようにペタペタと音を立てて若い男が歩いてきた。


「見た事ないヤツだな…… 」


 外を見る振りをして哲也が呟いた。

 20歳くらいだろうか、若い男が診察室へと入っていった。


「病気のようには見えないな、鏡恐怖症ってどんなのだろう」


 診察室をじっと見つめて考えていた哲也の肩が後ろから叩かれた。


「哲也さん何しているの? 」


 ビクッと身体を震わせて振り返ると看護師の早坂が立っていた。

 考え事をしていたとはいえ行き成り現われた早坂に哲也が驚き顔で口を開く、


「吃驚した……早坂さんか……驚かさないでくださいよ」

「別に驚かしてないわよ、診察室に来ただけだからね、それより哲也さんは何して……あっ、今日は診察日だったわね」


 怪訝な顔をしていた早坂が一人で納得したように頷いた。

 温厚な先生だけでなく怖い先生や看護師も居るのだ。診察や用事がある時以外は近付きたがらないのが診察室だ。


「でも哲也さん一番初めでしょ、まだ終ってないの? 」

「いやぁ、そのぅ……診察は終りました」


 くるっと回れ右して哲也が逃げ出す。


「哲也さん! 何か企んでるんでしょ、待ちなさい」


 直ぐに早坂が追い掛ける。


「何も企んでないから…… 」


 振り返って言い訳する哲也を早坂が捕まえる。

 その時、若い男が診察室から出てきた。それを見て哲也が早坂の腕を引っ張って顔を近付けた。


「あの人誰なんです? 鏡が怖いとか聞きましたけど」

「あの人は西尾さんよ、まったく…… 」


 またかと言うように早坂が溜息をついた。


「西尾さんか……それで何で鏡が怖いんですか、香織さんが鏡隠してましたよ」

「他の患者の事は話せません」


 笑顔で訊く哲也に早坂がきっぱりと断る。取付く島もない早坂の態度にも哲也は屈しない。


「嶺弥さんが毎週欠かさず見てるドラマ知ってます? 」

「須賀さんが? 何見てるの? 教えて」


 嶺弥に気がある早坂が食い付いてきたのを見て哲也がニヤッと悪い顔で笑う、


「教えてもいいですよ、その代わり…… 」


 話が終らぬ内に哲也の肩が後ろからガシッと掴まれた。


「哲也くん何してるのかなぁ~ 」


 振り返らなくとも声でわかる。香織だ。


「かっ、香織さん…… 」


 ビビって振り向いた哲也に香織が笑顔を近付ける。


「早坂さんに迷惑掛けるんじゃありません」


 笑顔は笑顔だがまったく笑っていない、怖い目をした作り笑いだ。


「だっ、だって香織さんが教えてくれないから…… 」


 完全にビビって声が小さくなっている哲也に作り笑いをした香織が続ける。


「池田先生の前で教えられるわけないでしょ、私が怒られるわよ」

「だから早坂さんに聞こうと…… 」

「だからって早坂さんに迷惑を掛けるなって言ってるのよ」

「でっ、でも……ごめんなさい」


 蛇に睨まれた蛙状態の哲也を見て早坂が溜息交じりに助け船を出す。


「鏡を隠す所を見られたら仕方ないか、哲也さんでなくとも気になるわよね……東條さんはまだ診察があるでしょ、私が話しておくわ」

「済みません、よろしく頼みます」


 早坂に頭を下げると香織がジロッと哲也を睨んだ。


「迷惑掛けるんじゃないわよ」

「わっ、わかってます。話しを聞くだけだから……わかってるから…… 」


 念押しすると香織は診察室へと戻っていった。

 早坂がニコニコ笑顔で哲也の顔を覗き込む、


「それで須賀さんが毎週見てるドラマって何なの? 」

「教えますけど僕から聞いたってのは内緒ですよ」


 先程までと全く違う態度に呆れながら哲也が嶺弥の事を話して聞かせた。


「それ私も見てるわ、夜勤の時は録画してるから……そっか須賀さんも見てるんだ。今度話し掛けよう」

「僕が言ったってのは内緒ですよ」


 嬉しそうな早坂の向かいで哲也が弱り顔で続ける。


「それで西尾さんの事だけど…… 」

「うん、西尾さんの事ね、西尾さんはね…… 」


 早坂が西尾について話してくれた。



 西尾翔にしおしょう18歳、1ヶ月前から鏡の中の自分が勝手に動き出すとノイローゼになる。疲れて幻覚を見たのだと両親が宥めるが西尾の奇行は益々激しくなっていき、ついには家にある鏡という鏡を叩き割ってしまう、怒った父が息子の部屋に入ると真っ暗だ。ガラスにも映ると言って雨戸を閉め切り全ての窓に新聞紙を貼っていた。

 心配した両親は西尾を心療内科の病院へと連れて行く、妄想型の統合失調症と診断されて治療を受けるが一向に良くならない、それどころか家中の窓を塞ごうとする息子に手を焼いて磯山病院へと入院させたのだ。


「鏡に映る自分が勝手に動くのか……下手な怪談より怖いな」


 興味津々の顔で呟く哲也を見て早坂が呆れ顔で口を開いた。


「鏡に映る自分が笑っていたり怒ってたりするって怯えているのよ、でもね、心の病ではよくある事なのよ、自分が気付かずに実際に笑っているのよ、真面目な顔をしているつもりでも笑顔になっていたり怒り顔になっているのよ、それが鏡に映って自分は笑っていないのに鏡の中では笑っているって動揺するの、動揺が幻覚を見せて鏡の中で自分が勝手に動いたと思い込むのよ」


 納得したという顔で頷くと哲也が続ける。


「成る程……有り得る話しですね、嬉しい事があると自然にニヤけてたりしますもんね、逆に腹が立つ事があると意識して無くとも顔に出て怒り顔になってるから、そういうのを鏡で見たら普通は何やってるんだとバカらしいと笑い飛ばすけど、心が不安定の時なら鏡の向こうで勝手に動いたって思うかもしれませんね」

「そういう事ね、妄想が進行しないように薬とカウンセリングで治療していくしかないって池田先生も言っていたわ」


 じゃあねと言うように手を振って去ろうとする早坂に哲也が慌てて話し掛ける。


「西尾さんの部屋は何処なんです? 池田先生の診察を受けてるからA棟かB棟ですよね」

「話しを聞きに行くつもりでしょ? 」


 ムッと怒る早坂の前で哲也が慌てて違うと手を振った。


「変な話なんてしませんから、18でしょ? 僕と歳が近いから色々話ができるかなって」

「哲也さんは19歳だったわね、そうね、お互い気晴らしになるかもしれないわね、でもお化けの話しとかはダメよ、鏡にお化けが映るとか言いだしたら哲也さんの責任にするからね」


 怖い顔で睨む早坂の向かいで哲也がおべっか笑いをする。


「えへへっ、そんな話ししませんよ、安心してください」

「そう、それならいいわ、西尾さんの部屋はB棟の504号室よ、5日前に入ってきた時は大部屋だったんだけど窓ガラスに映る自分が怖いって騒いで個室に代わったのよ、だから鏡とかガラスの話しはしちゃダメよ」

「了解しました。好きな歌とかテレビの話しをしますよ」


 愛想のいい哲也を見て溜息をつくと早坂は診察室へと入っていった。

 くるっと回れ右して哲也が歩き出す。


「鏡の中の自分が動くのか……妄想だとしても面白そうだ」


 早坂との約束など無かったような顔で哲也が楽しそうに笑った。



 昼食の時間になる。食堂の近くの廊下に哲也が居た。普段はゆっくりと後から行くのだが今日は時間前に来て近くをぶらついていた。


「おや、哲也くん早いねぇ」

「一番乗りかい? 」

「一緒に食べようよ」


 顔見知りの患者たちが声を掛けてくる。


「すみません、他の人と食べる約束をしてるので……また今度御一緒させてください」


 気まずそうに頭を下げる哲也を見て顔見知りの患者たちがニヤッと悪い顔で笑う、


「彼女でも出来たのかい? 」

「羨ましいねぇ」


 ニヤニヤとからかう患者の前で哲也が慌てて手を振る。


「違いますよ、男ですから、男友達と食べる約束したんです」

「男……哲也くんはそっちの趣味もあったのか」


 大袈裟に驚く振りをする患者に哲也も怒る振りで返す。


「ありませんから、怒りますよ」


 お互いを見て大声で笑い合う、


「あはははっ、悪い悪い、哲也くんは冗談に乗ってくれるから、ついからかっちゃうんだよね」

「うん、哲也くんと話ししてると楽しいからね」

「僕も楽しいですよ、また今度一緒に食べましょう」


 笑いながら食堂に入っていく患者たちを哲也も笑顔で見送った。

 他の患者たちも続々と集まってくる。その中に西尾が居た。


「皆さん、ちゃんと並んでくださいね」


 食堂で働いているパートのおばちゃんが言う前から綺麗に列ができている。

 哲也は慌てて西尾の近くに並んだ。


「今日は唐揚げか」


 並びながら食堂へと入ると哲也はトレーを持って西尾を追い掛ける。

 磯山病院の食事はセルフだ。トレーを持って並びながら御飯やおかずを盛って貰うのだ。小中学校の給食のシステムと同じようなものだ。


「ブロッコリーいりません、食べませんから入れないでください」


 前に並ぶ西尾が言うと食堂のおばちゃんが叱りながらブロッコリーを載せていく、


「何言ってんだい、野菜食べなきゃダメだよ、半分にしてあげるから食べなさい」


 嫌そうに顔を顰める西尾の隣で哲也が少し大きな声を出す。


「僕もブロッコリーはいらないです」


 食堂のおばちゃんがジロッと哲也を睨む、


「いつからブロッコリー嫌いになったんだい哲也くん」

「えへへ……少し前から嫌いになりました」


 笑って誤魔化す哲也のトレーにおばちゃんが山盛りのブロッコリーを載せた。


「サービスしとくから残すんじゃないよ」

「うぇぇ…… 」


 思わず呻く哲也を見て西尾がプッと吹き出した。


「余計な事言うんじゃなかった」


 がっかりする哲也を余所に西尾は笑いを堪えながら食事の載ったトレーを持って席の方へと向かう、それを哲也が追った。


「隣りいいか? 」


 哲也が訊くと西尾がペコッと頷いた。


「同じブロッコリー嫌い同士、並んで食べよう、僕は中田哲也、みんなからは哲也って呼ばれてる。19歳だ」


 哲也が自己紹介する。ブロッコリーが嫌いというのは嘘だ。西尾に話し掛ける切っ掛けに嘘をついたのだ。


「西尾翔です。18です」


 一つ年上の哲也に気を使ったのか西尾がまたペコッと頭を下げた。


「西尾くんか、よろしくな、歳が近そうだったし見かけない顔だから気になってさ」

「こちらこそよろしく、えーっと哲也さんって呼べばいいんですか? 」

「うん、哲也って呼んでくれ、中田って名前は先生や看護師さんや患者に沢山居るからね」


 話をしながら食事をとる。歳が近いこともあって歌やアイドルの話で盛り上がり食事を終える頃にはそれなりに打ち解けていた。


「ジュース奢るよ、もう少し話ししよう」

「いいですよ、部屋に戻っても暇ですから」


 快諾する西尾はとても心の病には見えない。


「んじゃ、待合室に行こうか、自動販売機もあるし邪魔されずに話しできるよ」


 西尾を連れて待合室へと向かった。レクリエーション室と違い患者たちも余り居ないのでゆっくりと話ができるのだ。


「どれにする? 何でもいいよ」

「じゃあコーラで」


 奥にある自動販売機でジュースを買うとそのまま前にある長椅子に座った。


「僕は統合失調症でここに入ったんだ。妄想型の統合失調症だってさ、自分が警備員だって妄想しているらしい……実際に警備員だって思ってるんだけどね、それで毎晩見回りもしてるし患者さんたちの揉め事の仲裁だってしてる……先生たちは病気だって言うけど僕には自覚は無いんだ」


 哲也が警備員ではなく病人だと自分から話すのは初めてだ。年齢が近い事もあって親近感を抱いたのかもしれない。


「哲也さん…… 」


 哲也が自分と同じ妄想型の統合失調症だと聞いて西尾が何とも言えない顔で呟いた。

 ちらっと西尾の顔を見て哲也が話を切り出す。


「西尾くんはどうしてここに入ったの? 見たところ別におかしなところはないように見えるんだけど……あっ、嫌なら話さなくてもいいからね、僕はこの病院の事は大抵知ってるからさ、何か力になれる事があれば何でも相談してくれよ」

「俺は……俺も統合失調症です。哲也さんと同じ妄想型の統合失調症って言われました」


 少し躊躇ためらってからこたえた西尾を見てこれならいけると思ったのか哲也が続ける。


「そっか、それでどんな症状が出るんだ? 僕は警備員って妄想してるけど」

「あっ…… 」


 目の前の自動販売機を見つめて西尾が固まる。

 哲也が何事かと西尾の視線を追うと自販機のパネルに反射して西尾の姿が映っていた。


「鏡か…… 」


 哲也が呟くと西尾がバッと振り向いた。


「知ってるんだな、鏡の事を」


 険しい顔の西尾の横で哲也がコクッと頷いた。


「西尾くんは池田先生の治療受けてるだろ、僕も池田先生なんだ。それで看護師さんに聞いたんだ。治療室の鏡を全部片付けているのを見て気になったから僕が聞いたんだ」

「それで近付いてきたんだな、初めから鏡の事を聞いて……俺をバカにするつもりだったんだな」


 怒る西尾に待てと言うように哲也が手を伸ばす。


「違う! バカにする気なんて無いよ、その逆だ」

「逆って何だよ」


 怒りながら言う西尾に哲也が神妙な顔をして話しを始める。


「この病院には色んな人がいる。中には幽霊が出るって言う人もいる。先生たちは全部幻覚だと妄想だと言ってるけど僕は幻覚だけじゃないって思ってるんだ。それで話しを聞いて回っていると僕も何度か幽霊を見たんだ。それで何か力になれないかって思ってさ」


 哲也が立ち上がる。


「ごめんな、騙すつもりとかなかったんだ。西尾くんの鏡の話しを聞いてさ、何か出来る事はないかって思ってさ、本物じゃないけど警備員として夜中に見回りもしてるんだ。夜中に幽霊が出るって怯えてる患者さんを助けた事もあるんだ。だから西尾くんにも何かしてやれないかなって思ってさ、ごめんな」


 去ろうとした哲也を西尾が呼び止めた。


「哲也さん待ってくれ……俺をバカにしてるんじゃないって言うのは分かった。哲也さんなら俺の話を真面目に聞いてくれそうだ。親も先生も誰もマジで聞いてくれない、全部病気だって……この病院に入院した時に入った大部屋の連中も俺をバカにして……哲也さんがマジで聞いてくれるなら全部話すよ」


 西尾の顔にはもう怒りは無い、哲也と同じように真面目な表情だ。


「もちろん真面目に聞くよ、バカになんかしない、西尾くんの事を悪く言う患者が居たら僕に相談してくれ、これでも先生や看護師さんたちには信頼されてるんだ。僕に出来る事があれば何でもするよ、だから全部話してくれ」


 目を見つめながら真剣に話す哲也を見て西尾が頷いた。


「わかった全部話すよ、ここじゃ……他の奴らに聞かれたくないから俺の部屋で話すよ」


 立ち上がった西尾に付いて哲也はA棟を出て行った。



 B棟の504号室が西尾の部屋だ。


「お邪魔します」


 部屋に入った哲也がその場で固まる。部屋が薄暗い、格子は付いているが大きな窓から充分な明かりが入ってくるので昼間は電灯を付けなくてもいいくらいに明るいはずなのに西尾の部屋は夜のように薄暗かった。

 困惑する哲也を見て西尾が笑い出す。


「あはははっ、驚いた? 窓にも映るから塞いでるんだ」


 言いながら西尾が部屋の明かりを点けた。


「ああそうか、夜とか反射して映るからな、鏡と同じだ」


 納得した様子で頷く哲也の前で西尾が続ける。


「外は仕方がないとして部屋の中は自由にしてもいいって先生に許可もらったから鏡は片付けて窓も塞いだ。テレビも見ない時はシーツを被せて自分が映り込まないようにしてるんだ。部屋の中だけは安心できるようになったよ」

「徹底してるなぁ、でもそれで安心できるのならいい事だよ」


 哲也が部屋の中を見回した。至って普通の部屋に見えるが窓に掛かるカーテンの隙間から新聞紙が見えた。窓ガラスを塞ぐように新聞紙と段ボール紙を貼り付けているらしい。


「笑わなかったのは哲也さんだけだ。近くの部屋の奴ら俺の部屋を覗いてコソコソ話してやがった。バカにして笑ってやがるんだ」


 ふて腐れるように話す西尾を見て哲也は被害妄想かもしれない、やはり心の病かと思った。


「哲也さん、そこに座ってくれ」


 小さなテーブルの向かいに座れと指差すと西尾は反対側に座った。


「哲也さんを信じて話すんだ。他の奴らには話さないでくれ」

「わかってる。絶対に言わないから安心してくれ、僕に出来る事があれば手伝うから話しを聞かせてくれ」


 一つ違いだ。タメ口など哲也は気にしない、それどころか心を許してくれて話しを聞かせてくれる西尾に親近感を覚えていた。


「笑ったりしたらそこで話すのは止めるからな」


 そう前置きして西尾が話を始めた。

 これは西尾翔にしおしょうくんが教えてくれた話しだ。



 西尾は目的も持たずに大学に行くよりは専門的な事を学びたいとコンピューターの専門学校へと進んだ。システムエンジニアになりたいと思ったからだ。

 同じ道を志す友人も出来て楽しい学園生活を送っていたある日、授業が終り電源を落としたパソコンのモニターに映る自分の様子が変な事に気が付いた。


「へっ? 」


 西尾が自分の目を擦る。モニターに映り込んだ自分がニコニコと笑っていた。

 何で? 呆けたように見つめる先でモニターの中の自分が今度はうつらうつらと船を漕ぎ始めた。


「なんで? 」


 思わず声に出していた。自分は起きているのだ。モニターに映るように眠っていたらその様子を見れるはずがない。


「なんで? 」


 もう一度言いながら自分の太股を抓ってみた。夢だと思ったのだ。


「痛てて…… 」


 痛みを感じるので夢ではない、ではモニターに映ってる自分はどういう事なのだろう? 


「おい、ちょっとこれ見てみろよ」


 怖さよりも楽しさが勝った。西尾は近くに居た友人を呼んでモニターを指差した。


「ん? 何? 何かあるのか? 」


 いつも駄弁っている友人2人が興味深そうにモニターを見つめる。


「俺が映ってるだろ、それが…… 」


 西尾が言葉を止めた。モニターに映る自分は普段と変わらない、友人を呼んだ一瞬の間に元に戻っていた。


「なんで? 」


 西尾が先程見た事を友人に話した。


「またまたぁ~、変な事言って驚かそうとしても無駄だぜ」

「寝惚けてたんだろ、ゲームのやり過ぎだな」


 当然2人は信じない、西尾自身寝惚けていたと言われたら言い返せないほどに不思議な出来事だったのだ。


「いや、確かに……まぁいいか」


 鞄を持って立ち上がった西尾の背を友人の1人がポンッと叩いた。


「ネカフェ寄って帰ろうぜ、読みたい漫画あるんだ」

「そうだな、2時間なら付き合うぞ」


 西尾が元気よくこたえた。先程のことは別に怖さも感じなかったので気にしない事にした。普段の通り友人2人と一緒に帰って行った。



 翌日、徹夜でゲームをしていた西尾は授業中に居眠りをして先生に叱られる。

 昼休み、弁当を食べながら駄弁っていると友人がふと思い出したように話し始めた。


「西尾、お前、昨日モニターに映ってた自分が寝てたって言ってたよな、これじゃね、今日寝て重野に怒られるって事を教えてたんじゃね」


 重野とは先生のことだ。話しを聞いてもう1人の友人がニヤつきながら割り込んでくる。


「おお、マジだ。凄ぇ、予知能力の覚醒かよ」

「中二病全開かよ! 」


 声を大きくして言った後で西尾が笑いながら続ける。


「ゲームして寝不足なだけだ。昨日も眠たかったからな寝惚けてたんだ……まぁ予知能力に目覚めたってことも否定しないがな」


 ニヤッと笑う西尾に友人たちも乗ってくる。


「マジかよ、次は異世界に行くんじゃね」

「おおぅ、それなら俺も連れて行ってくれよ、家来になるからさ」


 バカ話をしながら時間が過ぎていった。



 3日ほどして学校のトイレに入った西尾がビクッと固まった。


「うあぁ…… 」


 低い呻きが口から漏れる。小便を終えて手を洗っていると視線を感じて顔を上げた。手洗い場の壁に付いている大きな鏡、その鏡に映る自分がじっと見つめていた。

 自分が顔を向けているのだ。鏡に映る自分が見つめてくるのは当然だ。だが表情がおかしかった。普段と同じ、いや、鏡を見て驚いているはずなのだが鏡の中の自分はニコニコと楽しそうに笑っていたのだ。


「なっ……マジかよ………… 」


 目が釘付けになって動けない、昨日見たモニターに映る自分はぼんやりしていたので見間違いで済ますことも出来た。だが今映っているのは鏡だ。くっきりハッキリと映る自分が自分の意思とは関係なくニコニコ笑っているのだ。


「どうなってんだ? マジかよ」


 怖いと言うより不思議だった。笑顔なので怖さを感じなかったのかもしれない。

 次の瞬間、鏡の中の自分が踊り出した。両手を上げたり胸や喉を叩くように身体を揺すりながら踊っている。


「何してんだ西尾? もうすぐ授業始まるぞ」


 トイレに駆け込んできた友人を見て西尾が鏡を指差した。


「あっ、あれ見てくれ……えっ? 」


 友人に振り返った後で直ぐに鏡を見たが異変は収まっていた。驚いた顔で指を差す自分が映っているだけである。


「鏡がどうかしたのか? おっと、それよりトイレだ」


 西尾の脇を通って友人が小便器の前に立った。


「鏡の中の俺が踊ってたんだ」


 西尾が先程見た事を話した。


「鏡か……そういやこの前もモニターに映った自分が寝てたとか言ってたな」


 小便を終えた友人が手を洗い始める。その横で鏡を指差しながら西尾が続ける。


「モニターはぼやけてたから見間違いかもしれないけど今度はマジだって、マジで鏡の中の俺がこんな風に踊ってたんだよ」


 西尾が両手を交互に上げたり胸を叩いたり喉を握ったりして踊って見せた。


「あはははっ、何だよタコ踊りか? 」


 ペーパータオルで手を拭きながら笑う友人の前で西尾は強張った表情を崩さない。


「マジなんだってマジで見たんだって」

「わかった。わかった。それより授業始まるぞ」


 笑いながらトイレを出て行く友人を西尾が追って行く、


「嘘じゃないってマジなんだって、マジで笑った後に踊ったんだって」

「あはははっ、タコ踊りはないわぁ~ 」


 友人と一緒に教室へと入っていく、直ぐに先生がやってきて授業が始まった。



 翌日、昼食の弁当のおかずを喉に詰まらせた西尾は胸を叩いたり喉を押さえたり手をバタバタさせて苦しんだ。


「おい、大丈夫か? 」


 心配そうに顔を覗き込む友人に真っ赤な顔をして西尾が頷いた。


「だっ、大丈夫だ……喉が詰まって死ぬかと思った」


 お茶を飲みながら苦しそうにこたえる西尾を見てもう1人の友人が変な顔をして話し始める。


「タコ踊りだ……昨日言ってたよな、鏡の中でタコ踊りしてたって」

「あっ! 」


 西尾も気付いた様子で顔が強張っていく、それを見て友人が疑うような目で口を開く、


「態とだろ? この前のモニターのも態と居眠りして先生に怒られたんじゃないのか」

「予知能力があるとか中二病ごっこかよ、でもさっきのはいい演技だったぞ、マジで喉が詰まったのかと思ったぞ」


 もう1人の友人も西尾がからかっているのだと思って話に乗ってきた。


「いや、態とやって先生に怒られて何の得がある? さっきのもマジで苦しかったからな、マジで喉詰まってたからな」


 必死で言い訳する西尾を見て友人たちは呆れ顔だ。


「はいはい、わかった。わかった」

「中二病は高校で卒業しろよ、オタはいいけど中二病は痛いヤツだぞ」

「だからマジなんだって…… 」


 バカにする友人たちに反論するのは止めた。鏡の中の自分が勝手に動くのは確かに見たのだが西尾自身どういう原理で動いていたのかわからない、他人が同じようなことを言いだしたら痛いヤツだと思うだろう、自分が痛いヤツだと思われたくないのでこれ以上反論するのは止めたのだ。



 4日が経った。授業を終えた西尾がモニターの電源を落とす。


「なん? 」


 明かりの消えた黒いモニター画面に映っている自分が怒っていた。眉間に皺を寄せ、目を吊り上げて口元をピクピクと痙攣させて怒っている。

 固まったように動かずに見つめていた西尾の前でモニターに映る怒った自分がふらっと歪んだ。次の瞬間、何やら箱に手を突っ込んでいる自分が映った。


「マジかよ…… 」


 友人を呼ぼうと振り返るがバカにされるといけないと再度確認してからにしようと前に向き直ると普段のモニター画面に戻っていた。驚いた顔で口を半開きにした自分が映っているだけだ。


「なんで? どうなってんだ? 」


 必死に考えるがどうやって説明したらいいのか何も浮んでこない、


「見間違えだ。錯覚だ。幻覚だ」


 自分に言い聞かせるようにブツブツ言っている西尾の肩を友人が叩く、


「どした? 帰るぞ」

「またモニターに映ったとか? 」


 ニヤつく友人を見て西尾がムスッとした顔で立ち上がる。


「別に……中二病ですから」


 友人が『悪い』と顔の前で片手を立てて謝る。


「怒るなよ、冗談だろ」

「腹減ったからコンビニ寄って何か食おうぜ」


 友人2人と西尾、いつものように3人で帰りについた。



 帰り道、コンビニに寄って買い食いをする。キャンペーンだか何だかでクジを引かせてもらった。


「外れだ」

「ラッキー、ジュース当たった」


 友人2人に続いて西尾がクジを引く、箱の中に手を突っ込んでクジを引いた。


「おおぅ、当たりだ! 5千円当たったぞ」


 西尾は五千円の商品券の大当たりだ。


「マジかよ、ツイてるな、何か奢れよ」

「明日の帰りは西尾の奢りな」


 羨む友人たちの声を聞きながら西尾は別のことを考えていた。


「さっき見たのは…… 」


 モニターに映った箱に突っ込む自分の手、あれはクジを引いていたのだ。


「マジかよ……マジで予知かよ」

「ん? どうした」


 考え込んでいる西尾を友人が覗き込んだ。


「いや、何でもない」


 西尾が平静を装った。本当に予知が出来るのなら凄い事だ。親友ならともかく付き合ってまだ浅い此奴らに教える必要はない、それより友人たちはもちろん他の奴らも出し抜けるとさえ考えた。


「五千円かぁ、いいなぁ」

「明日の帰りに千円ずつ奢ってやるよ」


 羨む友人に西尾が上機嫌で言った。


「マジか、流石西尾だぜ」

「やった。千円なら色々買えるぜ」


 鏡の話しをバカにしてた癖に……、喜ぶ友人たちを見て西尾は作り笑いをしながら別のことを考えていた。



 家に帰ると西尾は自分の部屋に直行した。


「次の予知は何だ? 何が起きる」


 姿見の大きな鏡の前に椅子を持ってきて座り込んだ。

 じっと鏡を見つめるが何も変化はない、15分ほど見つめていたが何も起きなかった。


「自由に見れるわけじゃないらしいな……それに………… 」


 今日はクジが当たった。良いことが起ったのに鏡の中では何で怒っていたのかと不思議に思う、考えているうちにおかしな事に気が付いた。ニコニコ笑顔で先生に怒られたり喉を詰まらせて大変なことになった。今日は怒り顔でクジが当たった。


「笑うと悪いことで怒ると良いことが起きるのかな、どっちでもいいけど自由に使えるようにならないかな、出来たらマジで凄いんだけどな」


 予知しているのは確かみたいだが変な予知だなと大して気にもしなかった。寧ろ人と違う力がついたのかとマジで中二病みたいだと苦笑だ。


「見たいテレビあるし風呂でも入るか」


 着替えを持って西尾が部屋を出て行った。

 西尾は両親と3人暮らしだ。都会と田舎の間くらいの地方都市に住んでいる。家は会社員の父が買った小さな建売住宅だ。父とは仲が良いが勉強勉強と煩い母とはあまり良い関係ではない、大学に行かずに専門学校へ進んだのも幼い頃から勉強勉強と煩い母に反発したからなのかもしれない。


「母さん、風呂沸いてる? 」

「沸いてるわよ、それより勉強は進んでるの? 情報処理の資格取らなきゃダメよ」


 夕食を作っていた母親が振り返って西尾を見つめる。


「わかってるよ、エンジニアになるんだからそれの資格は言われなくとも取るよ」


 不機嫌にこたえながら西尾が風呂場に入っていった。


「ったく、一々ウザいんだよ」


 ブツブツと愚痴りながら湯船に浸かる。

 暫くして頭を洗おうと湯船から出てシャンプーに手を伸ばす。


「あっ? 」


 思わず声が出た。浴室の壁に付いている鏡の中で自分が笑っているように見えた。


「マジかよ」


 曇っていた鏡を慌ててタオルで拭くと水滴の付いた鏡に映る自分が確かに笑っていた。


「マジかよ…… 」


 唸るような声で『マジか』と繰り返す。鏡に映る自分は確かに笑っているがニコニコ楽しげな笑みではない、ニタリと厭な感じで笑っていた。


「くそっ! 今度は何が起るんだ」


 睨み付けているとニタリと笑っている姿がふらっと歪んだ。直後、自転車に乗る自分が映った。


「自転車で何か起きるのかよ」


 険しい顔で呟く西尾の見ている前でスッと消えると普段の鏡に戻った。

 頭と身体を洗ってもう一度湯船に浸かってから風呂から上がる。


「自転車か…… 」


 身体を拭きながら呟いた。笑顔で悪いこと、怒り顔で良いこと、ニタリと厭な顔で笑うと何が起るのかと気になった。



 西尾は電車に乗って専門学校へ通っているが近くの駅までは毎日自転車で行っている。

 鏡で見てから自転車に乗る時には気を付けていたが何も起らないので3日経つ頃にはすっかり忘れていた。


「ああ~疲れた。遅くなったな、母さんに怒られるぞ、遊んでる暇あったら勉強しろってな」


 友人とネットカフェで遊んでいて時刻は既に夜の8時前になっていた。


「さっさと帰るか」


 駅の駐輪場から自転車に跨った西尾が出てくる。駅の周りは明るいが10分も自転車を漕ぐと明かりはぐっと少なくなる。道路の所々にある外灯と各家から漏れてくる明かりだけだ。


「腹減ったなぁ、ネカフェでアイスとジュース飲んだだけだからな」


 急いで自転車を漕ぐ西尾の前に何かがサッと出てきた。


「うわぁっ!! 」


 驚いて急ブレーキを掛けた自転車がくるっと横転した。


「痛てて…… 」


 倒れた自転車の横で西尾が上半身を起す。


「猫かよ」


 道路の向こう側で猫がじっと西尾を見ていた。


「痛てて……いってぇぇ~~ 」


 立ち上がろうとした西尾が叫んだ。左足がじんじん痛む、


「うわぁぁ……ヤバいな」


 ジーンズの腿の部分がべっとりと濡れていた。見なくてもわかる。怪我して出血していた。


「お前は怪我しなかったか? 道路渡る時は気を付けろよ」


 犬猫の好きな西尾が道路の向こうでじっと見つめている猫に声を掛けた。


「いってぇ~~、もう直ぐ家だ。我慢するか」


 痛みを堪えて自転車に跨った。後5分も漕げば家に辿り着く距離だ。


 家に帰った西尾はそのまま父の運転する車に乗って病院へと連れて行かれた。二針縫う大怪我だが骨折しなかっただけマシだと思った。


「やっぱ悪いことが起ったか……厭な顔で笑ってたもんなぁ」


 家に帰ってベッドに寝転びながら風呂場で見た鏡のことを思い出した。



 土日を挟んで2日間学校を休んで5日目、いつものように学校へ行く、


「足大丈夫か? 」

「縫ったんだろ、痛かったか? 」


 心配そうな友人を見て西尾が照れながら口を開く、


「二針縫ったぞ、でも思ったほど痛くなかったな、それより今は痒くて仕方ない、治ってきてるから痒くなるのはわかるんだが掻きたくても掻けないのは苦しいぞ」

「まぁでも怪我で済んでよかったな」


 辛気臭いのを嫌ったのか西尾がニヤッと笑いながら続ける。


「おぅ、猫も無事だったしな」

「猫か……轢かなくてよかったな」

「俺も猫好きだから自分が轢いたらトラウマになるわ」


 友人たちも乗ってきて普段のバカ話に代わっていった。



 授業が終り、モニターの電源を切る。黒くなった画面に映る自分がニタリと厭な顔で笑った。


「うわぁぁ! 」


 思わず叫んだ西尾にクラス中の注目が集まる。

 画面を凝視している西尾の前でモニターに映る自分の姿がふらっと揺らいだ。


「あっ……ああぁ………… 」


 画面に映っている自分の左目が腫れ上がっていた。

 続けて唸るように低い声を上げる西尾の傍に友人がやってきた。


「どうしたんだ? 」

「何があった西尾? 」


 西尾が震える声を出しながらモニター画面を指差した。


「あ……あれを……俺が…… 」


 画面には左目を腫らした西尾がまだ映っていた。


「んん? モニターがどうかしたか? 」


 2人の友人がモニターを見つめる。


「どうしたって……俺の顔が、左目が腫れてるだろ」


 画面から目を離さずに西尾が言った。モニターに映り込んだ西尾の左目は腫れ上がったままだ。


「またからかってんのか? 」

「キモオタの幽霊しか映ってないぞ」


 西尾がバッと友人たちに向き直る。


「見えてないのか? 映ってる俺の左目が腫れてるだろ」

「何言ってんだ。中二病もほどほどにしとけよ」


 友人が西尾の頭をペシッと叩く、もう1人の友人は呆れ返って言葉も出さない。

 注目していたクラスメイトたちが鞄を持って教室を出て行く、西尾がふざけただけだとバカにしたような野次も聞こえてきた。


「違うってマジだって…… 」


 必死で訴えながら西尾が前に向き直ると普段のモニター画面に戻っていた。


「マジで左目が腫れてたんだって、マジだって」

「はいはい、わかったから帰るぞ」


 教室を出て行く友人たちを鞄を掴むように持った西尾が追って行く、


「何で見えないんだよ……マジで映ってたんだって」


 必死で食い下がるが友人たちは全く信じない、鏡と違ってぼんやりとだが確かにモニターに反射して映っていた自分の左目が腫れ上がっていたのだ。


「何で見えないんだよ、何で俺だけ…… 」


 自分にしか見えていないのがわかって西尾はそれまで感じなかった怖さを感じた。



 まっすぐ帰らずに寄り道をしてファーストフード店でハンバーガーを食べながら友人たちとスマホでゲームをする。

 日が暮れた頃に店を出た。駅に向かって歩いていると友人の1人が肩がぶつかったと因縁を付けられて喧嘩になる。加勢した西尾は左目を殴られた。その場では痛みだけだったので大した事はないとそのまま家に帰った。


「マジかよ…… 」


 鏡を見て西尾が言葉を失った。目の痛みが引かないのでどうなっているのかと、場合によっては薬でも塗ろうかと鏡を見ると左目がプクッと腫れていた。


「マジか……厭な顔で笑うと怪我をするのか」


 モニター画面に映った自分がニヤリと厭な顔で笑った後で左目を腫らした顔が映ったのを思い出す。


「 ……マジかよ」


 鏡に映る自分がとんでもなく怖くなっていた。



 暫くして左足の怪我もすっかり治り、それまで濡れタオルで身体を拭くだけだった西尾は久し振りに風呂に入った。


「ああ~、やっぱ風呂はいいなぁ」


 湯船に浸かっておっさんのような声が出た。10日ほど風呂に入っていないのだから無理もない。


「足も治ったし目の腫れも引いたし、もう鏡は御免だ」


 抜糸を終えた傷口を撫でながら風呂場の壁に掛かる鏡を見つめる。


「もう鏡は使わないからな、授業終ったらモニターも見ないでさっさと帰ろう」


 湯気で曇っている鏡を見ながら呟いた。


「あぁ気持ち良いぃ~~、今日は念入りに身体洗わないとな、10日間の汚れを全部落としてやる」


 湯船から上がると頭と身体を洗う、普段なら曇った鏡をタオルで拭くのだが今日は放ったらかしだ。白く曇っていれば映らないので安心である。


「おおぅ、垢いっぱい浮んでるぞ」


 久し振りの風呂に西尾のテンションは上がりっぱなしだ。身体を擦ったタオルを風呂桶で洗うと泡と混じって灰色になった垢の塊が沢山浮んできた。


「ふぅ、スッキリした」


 タオルを掛け、もう一度湯船に浸かろうとしたとき視線を感じて鏡を見てしまう、


「はぅぅ…… 」


 シャワーの湯が当たったのか鏡の曇りは消えていた。その鏡の中で自分がニタリと厭な顔で笑っていた。

 見たくなくとも見てしまう、視線を外せずに固まった西尾の前で鏡の中の自分がフッと揺らぐように消えた。次の瞬間、真っ赤に染まった西尾が映った。


「はぁあぁ……あはぁぁ…… 」


 恐怖で口が大きく開く、鏡に映っている自分は血を吐いたように下顎から胸が真っ赤に染まっていた。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 西尾は叫びを上げて風呂場から逃げ出した。

 何事かと台所やリビングから顔を出す父や母に構わず裸のまま階段を駆け上がって自分の部屋へと飛び込んだ。

 素っ裸のままベッドに潜り込んで震えていると父がドアを開けた。


「翔、どうした? 」

「なっ、何でもない」


 顔も出さずに布団の中からこたえる西尾を見て父が部屋に入ってきた。


「何でもないわけないだろ、悲鳴を上げて風呂から飛び出して…… 」


 父が布団をバッと捲った。


「なっ、何でもないから……何でもないから放って置いてくれ」


 布団にしがみつく西尾の顔は真っ青だ。


「何があった? 全部話してみろ」

「はっ、話してもいい……そっ、その代わりに暫く学校を休ませて欲しい」


 心配そうに覗き込む父に西尾は震える声で条件を出した。


「学校? 」


 父が顔を歪めた。苛めにでもあっているのかと心配しながら続ける。


「話し次第だ。話しを聞いて学校を休む理由になるなら幾ら休んでもいい」

「わかった。信じて貰えないと思うけど話すよ」


 西尾が鏡のことを、今まで起きた出来事を全て話した。


「鏡か…… 」


 何とも言えない顔で黙り込んだ父に西尾が必死の形相で訴えかける。


「だから……だから暫く何処にも行かないで部屋に居る。部屋の中だと事故とかに巻き込まれないから………… 」


 ニタリと厭な顔で笑った後に血塗れになっている自分を見たのだ。怪我どころか死ぬかもしれないと西尾は部屋から出ない事にしたのだ。


「わかった。暫く学校を休め、母さんには父さんから言っておく、疲れて幻覚を見たんだろう、母さんが資格資格と煩いからな……少し休め、そうだな1週間くらいゆっくりすればいい」


 優しく言うと父は部屋を出て行った。神経が参っているのだと心配したのだろう。



 1週間が経った。部屋に閉じ籠もったのがよかったのか血塗れになるような出来事は起きていないが西尾はそのまま不登校となり学校を辞めてしまう、心配して連絡をくれる友人にも返事を返さないでいると2週間で音沙汰なくなった。

 引き籠もった西尾に母は煩かったが父が味方に付いてくれた。自分で勉強して情報処理の資格は取るという西尾に母も折れて1年は黙って見守ると約束してくれた。


「部屋に居れば何も起きない、鏡の俺が何をしても部屋に居ればいいんだ」


 時刻は夜の10時、自室でパソコンに向かってプログラムの勉強をしていた。

 ふと視線を感じて西尾が横を向く、


「うぅ…… 」


 窓に自分が映っていた。ニタリと悪意ある厭な顔で笑っている。


「なっ、何だってんだよ」


 西尾は立ち上がるとカーテンを全て閉めた。


「これでいい、これで映らない……窓を全部塞ごう、空気の入れ換えはドアからでも出来るからな」


 焦り顔で呟くと部屋を出てガムテープと新聞紙を持って戻ってきた。


「雨戸を閉めて光が入ってこないようにしよう、光があるから反射して映るんだ」


 憔悴した顔の目だけをぎらつかせて雨戸を閉めると新聞紙を貼って全て窓を塞いだ。その後でカーテンも全て閉じる。電灯が点いていなければ真っ暗闇になっているだろう。


「これでいい、これで完璧だ」


 ようやく落ち着いたのか机に向かって勉強を再開した。

 30分ほど経っただろうか、部屋の明かりがチラチラと点いたり消えたりちらついた。


「何だ? 停電じゃないよなパソコンは点いてるし……インバーターでも壊れたか? 」


 部屋の明かりはLED電灯だ。蛍光灯のように切れかけてちらつくようなことは無い、基板の故障で壊れかけているのだと西尾は思った。


「何だ? 」


 ちらつく明かりの中、視線を感じて西尾が部屋を見回す。


「鏡も窓も塞いでるから映らないぞ、他に映りそうなものは全部どけたからな」


 部屋に置いてある姿見にはシーツでカバーを掛けてある。使う時だけカバーを外して使うのだ。捨てようと思ったが西尾も身嗜みを気にする年頃だ。不意に見ないようにすればよいとカバーを掛けて使うことにしたのだ。


「 ……気のせいか、電気も元に戻ったみたいだしな、明日、父さんに言って交換してもらおう」


 ちらつきも収まって西尾はまたパソコンに向き直る。

 その時、パッと明かりが消えた。窓を塞いでいるので光はパソコンのモニターだけだ。


 バサッと後ろで何かが落ちる音がした。反射的に西尾が振り返る。


「ふぅぅ…… 」


 椅子に座ったまま西尾が身を固くする。

 姿見の大きな鏡の中にニタリと悪意ある厭な顔で笑う自分が居た。被せてあったシーツが落ちている。先程のバサッという音はシーツが落ちた音だ。


『ひしっ、ひしししっ』


 声が聞こえたような気がした。身を固くして動けない西尾の見つめる先で厭な笑い顔がふっと消えて血を吐いたように下顎から胸まで真っ赤に染まった自分の姿が映った。


「うぅ……うわぁあぁぁ~~ 」


 西尾はパソコンのキーボードを持ち上げると姿見に叩き付けた。

 叫び声とガシャーンという大きな物音を聞いて父が慌ててやってきた。


「ひひっ、鏡が……俺が笑って……ひへっ、ひへへへへっ」


 真っ暗な部屋の中で涎を垂らして譫言うわごとのように鏡鏡と呟く息子を見て父は愕然とした。

 心配した両親は西尾を心療内科の病院へと連れて行く、妄想型の統合失調症と診断されて治療を受けるが一向に良くならない、それどころか家中の窓を塞ごうとする息子に手を焼いて磯山病院へと入院させたのだ。


 これが西尾翔の教えてくれた話しだ。



「初めは……初めは便利だと思ったんだ。居眠りして先生に怒られても、自転車で転んで怪我をしても、それくらいなら大した事じゃない、クジに当たったり良い事もわかるんだって、使いこなせたら凄いって、マジで中二病の能力が手に入るんだって喜んだ。でも、でも、あれはダメだ。血塗れの俺はマジやばい、マジで死ぬかもしれない……死ななくても大怪我だ。だから鏡を見ないことにしたんだ。それなのに親も医者もみんな俺のことを病気だって…… 」


 焦りを浮かべた顔で付け足す西尾の向かいで哲也がじっと見つめる。


「信じるよ、僕は信じる。西尾くんは嘘をついている顔じゃない」

「哲也さん……ありがとう」


 疲れた顔で笑う西尾に哲也が真剣な表情で続ける。


「それで、今でも鏡やガラスに映った自分が勝手に動くのを見るのか? 」


 こくっと頷いてから西尾がこたえる。


「見る……ニタリと厭な顔で笑ってその後で血塗れの姿になった俺が映るんだ。もう1ヶ月以上経つのに………… 」


 哲也の顔が険しく変わる。


「ずっと同じヤツを見てるのか? 楽しそうな笑顔や怒り顔じゃなくて悪意ある顔で笑ってから血塗れになるのをずっと見てるんだな」

「ああ、ずっと同じだ。それまでは見た後の数日後に怪我したりクジで当たったりしてたんだ。だから暫く部屋に閉じ籠もっていれば大丈夫だと思ったんだ。それなのに……家や学校から離れたこの病院でも血塗れの俺を見たんだ」


 焦っているのか、怯えているのか、西尾は早口になっている。

 険しい顔で哲也が続ける。


「入院してからも見たのか? 」

「見た。トイレで……トイレの鏡に映ってた。今はトイレに行っても鏡は絶対に見ないようにしてるんだ」

「そうか…… 」


 険しい表情で哲也が考え込む、未来を予知しているのなら大変だ。事故や事件でないとしたら病気かもしれないと哲也が口を開いた。


「西尾くんは何処か具合の悪いところは無いか? 頭痛とかお腹が痛いとか、疲れやすいとか、何でもいいから身体の具合が悪くなったと思うところは無いか? もしあったら精密検査を受けた方がいいかも知れない、何かの病気になっているかもしれないよ」


 病気という言葉に西尾が反応した。


「なっ、俺が病気だって言うんですか? やっぱり哲也さんも信じてないんですね、どこも異常なんて無いですから」

「違う、僕が言いたいのは血塗れ姿が現われるのは事故でも事件でもなくて西尾くんが何かの病気に掛かってるんじゃないかって思ったんだ」


 哲也が慌てて言い直した。西尾は心療内科に掛かっているのをよく思っていない様子だ。


「病気なんて無いですよ! 心療内科に掛かる前に脳に異常があるかも知れないって精密検査は受けましたから、他も何処も悪くないです。事故とか事件じゃなくて……病気でもなくて彼奴が、鏡の中の俺が俺を殺しに来るんじゃないかって思ってます」


 ムッと怒った顔で西尾がこたえた。本人が大丈夫というならそれ以上突っ込んでも仕方ないと哲也が話題を変える。


「鏡の中の自分が殺しに来るか……窓も塞いでるし、鏡も置いてない、鏡の中の西尾くんだって映らないんじゃ出てこれないさ、だから大丈夫だよ」

「うっ、うん、俺もそう思って全部塞いだんだ。だからこの部屋は安全だと思う、でも……トイレや風呂場は……廊下の窓にも映るから」

「そうだな、それは見ないように気を付けるしかないな」

「うん、だから食事とかトイレとか風呂以外はずっと部屋に居ることにしてる」


 怒りが解けた様子の西尾を見て哲也が安心して続ける。


「それがいいな、でも1人でいると悪いことばかり考えたりしないか? 」

「うん…… 」


 口籠もる西尾を哲也が覗き込む、


「僕でよかったら毎日話し相手になるけど? 」

「ありがとう哲也さん、哲也さんに話しを聞いて貰えると安心できるよ」


 パッと顔を明るくした西尾に頷いてから哲也が話し出す。


「じゃあ何か考えようよ、鏡の中の西尾くんをどうすればいいのか一緒に考えよう、僕も出来ることは協力するからさ」

「ありがとう……そんな事言ってくれたのは哲也さんだけだ」


 嬉しそうな西尾の向かいで哲也が立ち上がる。


「じゃあ、今日はこの辺で帰るよ、夕方の見回りもあるからね、一応警備員って事になってるんだ。僕の妄想だけどね」


 とぼけるように笑うと哲也は部屋を出て行った。



 夜10時、哲也は見回りでB棟へと入っていく、


「本当に鏡の中の西尾くんが勝手に動くのか? それとも全て西尾くんの妄想か? 変な気配もないし何も見てないから西尾くんの妄想と考えるのが妥当なんだけど、だとしたら鏡の中の自分を見た後で怪我をしたことや殴られたことの説明はどうする? 西尾くんが嘘をついていて怪我をした後に鏡の話を作ったのなら説明は付くけど……それならあれ程怯えるのはおかしいし……まぁ心の病って言ってしまえばそれまでなんだけどさ」


 各階を見回りながら考えていた哲也が西尾の504号室の前で立ち止まる。


「西尾くんは眠っているようだな」


 哲也はそっとドアを開けて中の様子をうかがった。


「やっぱ何も変な気配は感じないな」


 何も異常はない、というか窓を塞いでいるので真っ暗で何も見えなかった。嫌な気配などは全く感じない、異常がないのを確認して安心して見回りに戻る。


「全部西尾くんの妄想かなぁ」


 妄想なら妄想でいいが、それなら重度の心の病だ。それはそれで大変だなと考えながら長い廊下を歩いて行った。

 深夜3時の見回りでも何も異常は起きなかった。



 翌日、哲也は昼食を終えた後で西尾の部屋に向かった。


「西尾くん、饅頭持ってきたよ、一緒に食べよう」


 この前の診察で池田先生に貰った饅頭を手土産に部屋に入っていく、


「哲也さん、マジで来てくれたんだ」


 ラジオを聞きながらベッドに寝転んで漫画を読んでいた西尾が起き上がる。


「テレビ無いのか? 」


 昨日は気付かなかったが鏡はもちろんテレビも無かった。


「テレビにも反射して映るから……ラジオがあれば充分だから」


 椅子に座る西尾の向かい、テーブルを挟んで哲也も座った。


「徹底してるなぁ」


 感心するように呟くと饅頭を一つ西尾の前に差し出した。


「二つ貰ったからさ、西尾くんと食べようと思ってさ」

「ありがとう、いただきます」


 ペコッと頭を下げた後で西尾が続ける。


「鏡の中の俺をどうにかするのを手伝ってくれるんですよね? 俺の味方は哲也さんだけです」

「えっ? うぅん、そうだな、どうにかしないとな、僕に出来ることなら何でもするよ」


 嬉しそうな笑顔を見せる西尾の向かいで哲也が慌てて頷いた。怪異ではなく心の病なのではないかと思い始めた哲也は話を合わせる事にした。


 2人で色々話し合った。先ずは周りにある姿が映るものをどうにかしようという話になる。西尾1人のために廊下の窓を塞ぐことなど無理だし、曇った日や夜でないとガラスに反射して映らないので我慢するしかないと結論だ。次に風呂場とトイレだ。風呂場の鏡を外すのは無理としても西尾の部屋に近いトイレの鏡くらいなら外して貰えるかもしれないと哲也が提案する。


「トイレの鏡だけでも外して貰えれば凄く安心できるよ」


 パッと顔を明るくする西尾の向かいで哲也が腰を上げる。


「それじゃあ、トイレに見に行こうか? 直ぐに外せるようなら今日中にも先生に相談してみるよ」

「怖いけど哲也さんと一緒なら…… 」


 緊張した面持ちで西尾も立ち上がった。



 2人で部屋から一番近いトイレへと行く、手洗い場の壁一面に付いている全ての鏡を外すのは無理だとして半分でも外せたら西尾の気も少しは収まると考えた。


「こりゃ無理そうだな、ピッタリとくっつけてあるよ、外すのは無理だな、段ボール紙か何か貼って隠すしかないな」


 大きな鏡を調べていた哲也が言いながら西尾に振り向いた。


「西尾くん? 」


 哲也に返事もしないで西尾が険しい顔でじっと鏡を見つめていた。

 まさかと思って哲也がサッと鏡を見る。


「おおぅ」


 思わず声が出た。鏡に映る西尾がニタニタと厭な顔で笑っていた。驚いた哲也が横にいる西尾に視線を移す。本物の西尾は笑っていない、それどころか顔を強張らせている。


「まっ、マジかよ…… 」


 驚きに哲也の顔も険しくなる。鏡に向き直ると厭な顔でニタニタ笑っていた西尾の姿がふらっと揺らいだ。

 その時、哲也は見た。痩せこけた青黒い顔が一瞬見えた。人間ではなく化け物だと哲也は思った。だがそれが見えたのは一瞬だ。揺らいだ加減でそういう風に見えただけかもしれない。


「ちっ、血塗れだ…… 」


 ふらっと揺らいで一瞬、西尾と違うものが見えたような気がした後に口から血を吐いたように下顎から胸元まで真っ赤に染めた西尾が映っていた。

 哲也の言葉が聞こえたのか西尾がサッと振り向いた。


「見えてるのか? 哲也さんにも見えたんだな、あれが見えてるんだな」


 西尾が『あれ』と指差す先にはもう血塗れの姿は消えていた。顔を強張らせた西尾と少し離れた所に驚いた顔をした哲也が映っているだけだ。


「見えたけど……あれは西尾くんなのか? 」


 目がおかしくなったのかと擦りながら哲也がこたえた。異変が見えていたのは時間にして20秒も経っていないが恐怖のためか長い時間に感じた。


「哲也さんにも見えたんだ。病気じゃないんだ。俺は病気じゃないんだ」


 嬉しそうな声を聞いて目を擦っていた哲也が西尾を見つめた。


「にっ、西尾くん…… 」


 哲也が絶句した。目の前に居る西尾がニタニタと厭な顔で笑っていたのだ。その姿は鏡の中で笑っていた西尾にそっくりだ。

 ニタニタ笑いながら西尾が続ける。


「哲也さんにも見えたんなら病気じゃないよね、全部本当だ。俺は病気じゃない、鏡の中の俺が勝手に動くんだ。これで信じてもらえる。哲也さん、俺が病気じゃないって先生に言ってくれないか? さっさと退院して自分の部屋でじっとしてた方がいい、その方が鏡を見なくて済むからな」

「ダメだよ、僕も病気で入院してるんだよ、僕が見たって言っても先生は信じてくれないよ」


 そんな事を話せば自分も病状が悪化したと思われると哲也は断る。

 ニタニタと厭な顔で笑いながら西尾が迫る。


「何でもしてくれるって言ったじゃないか、話すだけでもしてくださいよ、それでダメなら諦めるから……そしたらまた哲也さんと対策を考えよう、だから先生に言ってくださいよぉ~ 」

「わっ、悪いけどそれは無理だ。僕1人の意見で退院できるくらいなら初めから磯山病院へ入院なんてするわけないからさ」


 哲也は慌ててトイレから出て行く、


「西尾くん、今日はこれで帰るよ、また来るからさ、その時話し合おう」


 まだトイレの中にいる西尾に言うと哲也は逃げるようにその場を去った。



 階段を駆け下りてB棟を出て外を歩きながら哲也は考える。


「鏡も怖かったけど西尾くんも怖かった……あれは本当に西尾くんなのか? 未来を予知する鏡? あれはそんなものじゃない、悪意しか感じなかったぞ」


 鏡に映っていた西尾もそうだが本物の西尾にもゾクッとする何かを感じた。

 哲也が足を止める。


「でも血塗れだった……吐血したような感じだ。やっぱ精密検査してもらった方がいい、もう一度西尾くんを説得しよう」


 引き返そうとしたが思い止まる。


「でも今日は無理だ。鏡で見たことを先生に言ってくれって頼まれると厄介だからな」


 明日出直そうと哲也は自分の部屋に戻っていった。



 翌日、血を吐いて倒れている西尾が見つかる。看護師が見つけた時には既に亡くなっていた。

 寝ている時に特発性喀血症とくはつせいかっけつしょうを起して喉に血を詰まらせて窒息死したらしい、布団の中で少し暴れた形跡があったので苦しさに目を覚ました時には遅く、もがいて亡くなったのだろうとのことだ。


 特発性喀血症とくはつせいかっけつしょう、特発性とはこれといった原因が分からない事である。掻い摘まんで言うと詳しい原因もわからずに喀血を起す症状である。

 喀血かっけつとは気管や呼吸器系統から出血することを言う、気道出血であるため気管を塞ぎ窒息する事がある。普段怪我などをして出血するのと同じ赤い血だ。

 同じように口から血を吐くものに吐血があるが喀血とは基本的に違うものだ。

 吐血とけつは消化管からの出血だ。胃潰瘍や胃癌など消化器系の病気で出血した血が上ってきて口から出る。胃酸で酸化して黒い血となる。

 消化管からの出血である吐血でも喉に詰まらせて窒息する事もあるのに気管からの出血である喀血が大量に起ると窒息するのは当り前だ。



 西尾の死亡推定時刻は早朝の5時頃とのことだ。もがきながら吐いたのか、下顎からお腹の辺りまで血で真っ赤に染まっていたらしい。


「3時の見回りでは何も無かったのに……西尾くん」


 悔やむような表情で哲也が呟いた。

 昼間見た西尾の厭な笑みが気になっていたので夜10時と深夜3時の見回りでは部屋の中を確認したのだ。窓を塞いだ真っ暗な部屋の中で西尾はすやすやと眠っていた。


「やっぱり病気だったんだ……血を吐いて血塗れで死ぬなんて」


 特発性なら検査を受けてもわからなかっただろう、だが哲也はたとえ西尾に嫌われても精密検査を受けるように説得すればよかったと悔やんだ。

 今回は哲也自身は殆ど怪奇な出来事に遭っていない、トイレの鏡に映る西尾が血塗れになっていたのを一度見ただけだ。


 鏡は古来から魔除けや神事に使われてきた。左右逆に映る鏡、西尾を映した鏡は吉凶を逆に映していたのではないだろうか? 笑顔の時に凶事を怒り顔の時に吉事を映して、そして死に招く時にニタリと邪悪な笑みをして血塗れの姿を見せたのだ。


 鏡に映っていた西尾は果たして西尾自身だったのだろうか? 自分でないものを自分と認識していたのではないだろうか? 一瞬だが哲也は痩せこけた青黒い顔を見たのだ。人間とは思えない化け物のような顔だった。

 毎日見る鏡、何気なく見る鏡、そこに映る自分は全て本物の自分自身だろうか? 何かの拍子で他のものも映っているのかもしれないと哲也は思った。

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