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第十七話 死神

 死神を辞書で調べると概ね次のように書いてある。生命の死を司るとされる神で冥府においては魂の管理者とされる。有り体に言うと人を死に招く神様という事だ。

 漫画やアニメの影響か、黒いマントに大鎌を持った髑髏顔の姿を思い浮かべる人もいるだろう、海外では紳士然とした優男と描かれる事も多い。

 世界各地には様々な死神がいる。文明の届かない未開の地に住む少数民族の間にも死に関する神や精霊が存在している。誰にでも必ず訪れる死というものに畏怖する心から生まれたのだろう。


 哲也も死神を見たという人を知っている。その人は見るべくして見たのだが哲也は恐ろしい姿はもちろん優男でも死神なんて会いたくないと思った。



 夕方の見回りをしていた哲也がD棟へと入っていく、A棟から順に回ってこの時間帯なら早く食事を済ました患者がぽつぽつ戻って来る頃だ。


「見回りかい? 御苦労さん」


 古参の患者が気軽に声を掛けてくる。


「岡部さん調子はどうですか? 」


 見知った顔に哲也も笑顔で返す。


「バッチリだ。って言っても入院してちゃ同じだよな」

「そんな事ないですよ、元気なら何よりです」

「がははははっ、毎日見回りしてる哲也くんほどじゃないさ」


 40歳後半といった初老の岡部が楽しそうに大笑いだ。哲也が本物の警備員でない事など百も承知で話を合わせてくれる。本物ではないが哲也が真面目に見回りをしている事を古参の患者なら誰でも知っているのだ。


 その時、言い争う声が聞こえてきた。


「またか……まったく、死神のヤツ」

「死神って何ですか? 」


 呟く岡部に哲也が思わず訊いていた。


「新人だよ、死神が出るって騒ぐバカさ」

「新しく入院してきたのか、死神か……おっと止めなきゃ」


 言い争う声が大きくなり哲也が慌てて走り出す。


「本当に御苦労だねぇ~ 」


 後ろから岡部の呑気な声が聞こえてきた。



 D棟の020号室、6人まで収容出来る大部屋だ。


「何してるんですか! 」


 大声を出して哲也が部屋へと踏み込んだ。

 二十歳前後の知らない顔の男と見知った3人の患者が何やら言い争っていた。


「哲也くん、いい所に来てくれた」

「此奴が勝手にチャンネル変えるんだ」

「大部屋では多数決で決めるって言っても利かないんだ」


 古参の患者たちが助けを求めるように哲也を見つめた。

 その後ろで『お前何者だ』と言うように哲也を睨みながら若い男が口を開く、


「何言ってんだ! クソ面白くもない時代劇なんて見てないでニュースでも見ろって言っただけだろが」


 大の大人がテレビのチャンネル争いかよと思いながらも哲也は騒ぎの仲裁に入る。


「あぁ……ハイハイ、テレビね」


 呆れ声を出す哲也に若い男が食って掛かる。


「何だよお前! 関係ないヤツは引っ込んでろ」

「関係あるよ、僕は警備員だ。揉め事の仲裁も任されてる」

「けっ、警備員」


 堂々と話す哲也に臆したのか若い男が目を伏せた。

 哲也が男の顔を覗き込む、


「名前なんて言うんだ。僕は中田哲也、みんなからは哲也って呼ばれてる」

「久本正樹だ。テレビくらい好きに見てもいいだろ」


 小さな声でこたえる久本はまだ不服そうだ。

 溜息をついて哲也が続ける。


「テレビくらいで怒るなって言うけど勝手にチャンネル変えられたら誰でも怒るよ」

「再放送の時代劇よりニュースの方が大事だろ」


 反論する男に古参の患者たちが野次を飛ばす。


「なんだと! 俺たちは楽しみに見てんだ」

「ニュースなんて何度も繰り返しやってるだろが」


 哲也がハイハイと言うように古参の患者に手を振った。


「喧嘩はダメだよ、ここは僕に任せてみんなはテレビ見ててくれ」


 哲也に信頼を置いているのか古参の患者たちは黙って従った。

 テレビを見始めた患者たちの後ろで哲也が久本に向き直る。


「大部屋では多数決で決めるのがルールだ。何もニュースを見るのがダメって言ってんじゃないぞ、テレビは話し合いで何を見るか決めてるんだ。ドラマとか時代劇は見るのが決まってるから先に居る患者に従うしかない、多数決で決めるって言っても理不尽な事があれば看護師や僕たち警備員に相談すればいい、不当だと判断したら言い分を利いてくれるよ、まぁ新しく入った人は慣れるまで遠慮するのが基本だけどね」


 やんわりと説明する哲也の前で久本がわかったと言うように頷いた。


「ニュース番組が見たいならレクリエーション室で見るといいよ、お金に余裕があるなら個室に移るって手もあるけどね、個室は20インチで小さいけどテレビがあるからね」


 哲也の向かいで久本がサッと顔色を変えた。


「個室はダメだ……絶対にダメだ」


 顔を強張らせて焦るように話す久本を見て何事かと戸惑う哲也の後ろから古参患者の野次が飛ぶ、


「死神が出るってか? 」

「見てみたいねぇ~ 」

「あはははっ、死神なんてガキだよな」


 久本が真っ赤な顔をして怒り出す。


「てめぇら! 」


 怒鳴る久本の向かいで哲也はバッと振り返るとテレビを見ている古参患者たちを睨み付けた。


「何言ってんです! 悩んでる人をバカにするなんて最低ですよ、久本さんが悪いのかと思ってたけど貴方たちも悪いんですね」


 哲也の大声に久本の怒りもすっかり冷めた様子だ。


「いや……俺たちはそんな………… 」

「そういうつもりで言ったんじゃないから……死神とか言うからさ」

「悪かったよ、謝るからさ、テレビ禁止とかしないでくれよ」


 古参患者たちが気まずそうに謝った。本心から悪いとは思っていない、罰として何日かテレビを見れなくされる事を危惧しているのだ。


「まったく……色んな人がいるのは知ってるでしょ、みんなだって事情があるでしょ、他の人をからかうなんて最低だよ、同じ部屋に居るんだから少しくらい嫌な所があっても我慢しないと……あまり騒ぐようだと先生に報告するからね」


 罰則に対する決定権を持つのが看護師長や先生たちだ。

 おとなしくなった患者たちを見て哲也はドアへと歩いて行く、


「警備員さんありがとう」


 ペコッと頭を下げる久本を見て哲也は案外悪いヤツじゃなさそうだと思いながら部屋を後にした。



 深夜3時の見回りでD棟の1階に下りてきた哲也が部屋の前を行ったり来たりする人影を見つけた。


「誰ですか? 眠れないんですか? 」


 トイレにしてはおかしいと哲也が声を掛けると人影はすーっと部屋に入っていった。


「ちょっと…… 」


 返事くらいしろと哲也がムッと怒りながら部屋へと向かう、


「 ……久本さんの部屋だ」


 020号室、6人まで収容出来る大部屋の前で立ち止まった。

 久本が死神に怯えているという話しを思い出した。


「そう言えば服が違ってたな」


 患者たちが普段着ている薄い水色の服ではなく、真っ黒な服だったのを思い出す。

 警棒代わりになる懐中電灯を握り締めながら哲也がドアを開けた。

 起きているものは誰も居ない、6つ並んでいるベッドの内の4つが使用されていて全てカーテンが閉じられていた。


「異常無し……見間違いだな」


 ドアを閉めると足早に見回りを再開する。確かに人影は見たのだが実害が無い以上はスルーした方がいいのは経験上わかっていた。

 D棟の見回りを終えて哲也が外へと出る。


「死神ねぇ…… 」


 呟きながら明日からの見回りは注意しようと思った。もちろん、怪しい人影に遭わないように注意するということだ。



 翌日の昼、レクリエーション室に久本が居るのを見つけて哲也が声を掛ける。


「今日はここでテレビ見てるんだね」

「あっ、警備員さん」


 ペコッと会釈すると久本が続ける。


「喧嘩しても仕方ないからな、こっちのテレビの方が大きいし」

「うん、それでいいよ、大人の対応だね」


 哲也が持ち上げると調子に乗ったのか久本が得意気に話し出す。


「こんな病院に入ってる奴らとマジで喧嘩しても仕方ないからな、何年も入っているヤツと違って俺は落ち着いたら直ぐに出て行くからな、薬が効いてるのか死神も見えなくなったし……もう直ぐ退院だ」


 自分の事を棚に上げて偉そうに話す久本に笑いが込み上げてくるのを必死で押さえながら哲也が続ける。


「久本さんは何で入院したんです? 」


 患者本人に病状を聞くのはタブーだが調子乗りの久本なら大丈夫だろうと思ったのだ。


「俺か? 俺は…… 」


 久本正樹ひさもとまさき23歳、事故に遭った後で死神の幻覚を見るようになり会社も辞め、まともな生活が送れないと思い詰めて病気なら治して貰おうと自ら入院してきた。磯山病院では妄想型の統合失調症と診断されて暫く入院する事になったのだ。


「死神の妄想か…… 」


 昨晩の事を思い出して呟く哲也の隣で久本が何とも言えない顔で付け足す。


「死神が俺を連れて行こうとするんだ……俺があんな事をしたから………… 」

「あんな事? 」


 哲也が訊くと久本の顔色がさっと変わった。


「いや……何でもない……一緒に乗ってた車が事故で友達が死んでさ……それで死神が俺も連れて行こうとするんだよ、でも全部幻覚だったみたいだ。ここに入院してから初めの日しか見てないからな、それで死神だって騒いだら同じ部屋の奴らが俺をバカにしてさ……それでムカついて喧嘩腰になってたんだ」


 饒舌に話す久本が何かを隠しているような気がして哲也が話を切り出す。


「死神の話を聞かせてくれませんか? 」


 哲也の隣で久本があからさまに嫌そうに顔を歪めた。


「見たんですよ、昨日の深夜、見回りで黒い人影を見たんだ」


 驚いた様子で久本が食い付いてきた。


「マジ? マジで黒いヤツを見たのか? 」


 大きく頷いてから哲也が続ける。


「遠くからだったから顔とかはわからないけど真っ黒な影みたいなのが20号室の前をうろうろしてたから誰か眠れないのかと声を掛けたら部屋に入っていったんだ。慌てて確かめに行ったら久本さんたちはみんなカーテン閉めて眠ってたし、起こすのも何だからそのまま出てきたんだけど……あとから考えるとあれが久本さんの言っていた死神ってヤツじゃないかなと思ってさ」

「 ………… 」


 あれほど饒舌だった久本が怯えるようにして黙り込む、哲也が久本の背に手を当てた。


「話しを聞かせてくれ、僕に何か出来る事があれば力を貸すからさ、夜の見回りだってしてるし、また黒い影を見たら追い払えるかも知れないよ」


 じっと話しを聞いていた久本が暫く考えてから口を開いた。


「 ……そうだな、昨日は何もなかったし、警備員さんが居たから死神も消えたのかも知れないな……わかった話すよ、でもここじゃ………… 」


 レクリエーション室には他の患者も多数いる。辺りを見回す久本の隣で哲也が立ち上がった。


「フロントの待合席に行こうか、ジュースでも奢るよ」


 頷くと久本が無言で立ち上がる。

 2人してフロントにある長椅子が並んでいるだけの待合席に行くと端にある自動販売機の前に並んで座った。


「警備員さんが見たのなら幻覚じゃないって事か……マジで死神が俺を…… 」


 哲也に奢って貰った缶コーヒーを両手で持ちながら久本が話を始めた。

 これは久本正樹ひさもとまさきさんが教えてくれた話しだ。



 今から2ヶ月ほど前の事だ。

 ゴルフの打ちっ放しと車で走るのが趣味の久本は友人と一緒に峠を攻めに行った。

 友人と言うが峠を走っていて知り合った浅い関係だ。車だけでなくゴルフの打ちっ放しもするというので同じ趣味を持つ者同士直ぐに仲良くなった。

 いつもなら車2台で連れ添っていくのだが今日は友人の車に相乗りだ。久本は少し前に事故って車は修理中だ。峠を攻めて事故ったのではない、町中の事故である。警察の厄介にもなって罰金だけでなく免許の点数もくらった。



 車を走らせ通い慣れた峠の入り口で止まる。

 時刻は深夜の1時過ぎだ。2時間ほど前まで雨が降っていた事もあってギャラリーは無く走っている車も少ない、正直言ってあまり運転の旨くない久本にとっては練習するのに丁度よかった。


「やっぱ少ないな、たっぷり走れるぞ」

「雨降った後だからな、適当に走って打ちっ放しにでも行こうぜ」


 助手席の久本と違って友人は乗り気でない様子だ。


「おう、打ちっ放しは奢るからさ、俺にも運転させてくれよな」

「いいけどぶつけるなよ、修理費は出して貰うからな」


 久本が事故って車を修理中なのを知っている友人は渋い顔だ。


「オッケー、オッケー、じゃあ走ろうぜ」


 軽口を叩く久本を乗せて車は峠に入っていった。

 2周ほど友人が運転して久本に代わる。


「事故ったら修理費払えよ」

「わかってるって3周走ったら打ちっ放行こうぜ、奢るからさ」


 嫌そうに念を押す友人の横で久本がハンドルを握った。


「まだ乾いてない所はちょっと滑るな、それよりゴトンゴトン言ってるのは何だ? 」


 2周目を終えて3周目に入って暫くしてカーブを曲がる度に後ろでゴトゴト鳴る音が気になって久本が訊いた。


「クラブだ。打ちっ放し行くから積みっぱなしだ。バッグに入れて固定してるんだが何本か出てきたかな? 天辺で止めてくれ、調べるから」


 ゴトゴト鳴っているのはトランクに積んであるゴルフクラブのようだ。友人も気になっていた様子で山の上で止めろと命じた。


「積みっぱなしで打ちっ放しか、クラブ痛むぞ」

「別にいいよ、貰い物の中古の安物だからな」


 久本のおやじギャグに友人が呆れ顔だ。



 山の上にある開けた場所で車を止めてトランクを確かめる。


「やっぱクラブが出てたよ、バッグのチャックが緩んでたみたいだ」

「んじゃ、打ちっ放しでも行くか、今2時だから1時間ほど打って帰ろうぜ」


 深夜の2時過ぎ、友人の運転で山を降りていく、その途中、まだ濡れている道路で滑ったのか車は急カーブを曲がりきれずに山肌に突っ込んで横転した。

 助手席に座っていた久本はロックしていなかったドアが開いて外へと放り出された。


「がっ……ぐぅぅ………… 」


 苦しげに呻きながら辺りを見回す。


「マジかよ…… 」


 横向きになっている車を見て事故だとわかった。

 友人は車の中に居る様子だ。慌てて起き上がろうとした久本の足に激痛が走った。


「痛ぇ……痛てて………… 」


 投げ出されて道路で擦ったのだろう左足が真っ赤に染まっていた。


「痛てて……くそっ! 」


 骨は折れていない様子だが痛くてとても歩けない、その時、辺りに転がっているゴルフクラブが目に付いた。事故ったショックでトランクが開いて入れていたゴルフバッグから飛び出たのだろう。


「くそっ! 待ってろよ…… 」


 久本はゴルフクラブを拾うと杖にして立ち上がる。


「直ぐに助けるからな」


 横転した車に近付くと友人が運転席でぐったりとしていた。


「大丈夫か! 」


 声を掛けながらドアを開けようとするがロックが掛かっているのか、歪んだために開かないのか、ドアはびくともしない。

 どうにかドアを開けようとしていると車の後ろで炎が上がった。


「ヤバい!! くそったれ! 」


 炎を見て久本は一刻も無いと持っていたゴルフクラブを窓に叩き付けた。窓ガラスを割って友人を助けようとしたのだ。

 何度か叩き付けてガラスにヒビが入る。先の方が曲がったゴルフクラブを捨てると久本は手でガラスの破片を外していく、


「うおぅ! 」


 叫びを上げて久本が車から離れた。同時にボンッと爆発が起きて車が炎に包まれた。

 ショックのためか久本は腰が抜けて車から離れた場所で呆然と炎を見ていた。


 暫くして峠を走っていた走り屋が呼んでくれたのかパトカーや救急車に消防車がやってくる。

 車を包む炎が消されて友人が運び出されていく、着ていたジャンパーが燃えたのか、煤が付いたのか、全身真っ黒になって動かない友人を見て久本は気を失った。



 病院のベッドの上で久本が目を覚ます。


「ここは…… 」


 幸いな事に久本は左足の怪我と打撲だけで済んだが友人は閉じ込められた車の中で焼死した。火傷はそれ程酷くはないが煙に巻かれての窒息が原因だ。


「 ……そうですか」


 友人の死を告げられて久本は力無くこたえた。浅い付き合いという事もあり号泣するような感情は湧いてこない。

 久本は4日ほど入院する事になった。怪我はたいしたことはないが内臓や頭などに損傷が無いか検査するためだ。

 入院している間に警察の取り調べを受けて、亡くなった友人の親族にも状況を説明した。

 運転していたのが友人という事で久本にはお咎め無しだ。警察や友人の親族には説教されたり厭味を言われた事は言うまでもない。



 入院して2日目、寝ていた久本がふと目を覚ます。


『此奴じゃない…… 』


 シャーッとカーテンを開ける音に続いて声が聞こえた。久本が居るのはベッドが6つ並んでいる大部屋だ。眠る時はベッドに備え付けのカーテンを閉めている。


『此奴も違う…… 』


 また声が聞こえた。嗄れた声だ。ゼイゼイと苦しげな息も聞こえる。

 何だ? こんな夜中に面会か何か来たのかとスマホで時間を確かめると深夜の2時過ぎだ。有り得ない、幾ら何でも深夜2時に面会など不自然すぎる。

 布団の中で身を固くする久本の耳に隣のベッドのカーテンを開ける音が聞こえた。


『此奴じゃない…… 』


 何者かが1つずつベッドを確かめている様子だ。ベッドは6つあるが今使っているのは4つだ。久本入れて4人がこの部屋の患者だ。

 次は俺の番だ……、何者かはわからないが病院という事もあって怖くなった久本は布団を頭から被って息を潜めた。眠った振りをしたのである。


 直ぐ傍でシャーッとカーテンが開く音がした。


『 ……此奴………… 』


 嗄れた声が聞こえたが久本は頭から布団にくるまって動かない。

 暫くしてシャーッとカーテンの音が聞こえた。何者かが去って行ったと布団の中で久本が安堵する。

 安心すると同時に息苦しさを感じて布団から顔を出した。


「ぷはぁ~~ 」


 何かはわからないが助かったと思ったその時、ベッドの脇に黒い物が見えた。


「ひゅぅぅ…… 」


 久本が掠れた悲鳴を上げた。

 カーテンとベッドの僅かな隙間に黒い人影が立っていた。


『此奴……此奴だ……お前だぁ~~ 』


 黒い人影が嗄れ声を出しながら棒のような物を振り上げた。


「ひぃ……ひぃぃ……にひぃぃ………… 」


 恐怖に顔を引き攣らせる久本の頭に黒い人影が棒のような物を振り落とした。


「ひがっ! 」


 頭に衝撃を感じて久本は気を失った。



 翌朝、久本は看護師の声で目を覚ます。


「久本さん、おはようございます」

「んん……おはよう」


 寝惚け眼を擦りながら返事をした久本を見て看護師が顔を顰める。


「頭どうしたんですか? おでこ赤くなってますよ」

「おでこ? 」


 怪訝な顔をする久本に看護師が部屋の端にある棚の上から鏡を持ってきた。


「マジか…… 」


 鏡に映る自分の額を見て久本が絶句した。額に赤い筋が浮んでいる。昨晩黒い人影が棒のような物を振り下ろした場所だ。


「どうしたんですか? 顔色悪いですよ」


 心配そうに声を掛ける看護師に久本が唇を震わせながら話を始める。


「ゆっ、夢じゃなかったんだ…… 」


 真っ青な顔で昨晩見た黒い人影の話しをした。


「あはははっ、夢ですよ、慣れない入院で変な夢を見たんですよ」


 バカにされたと思ったのか笑う看護師に久本が食って掛かる。


「夢なんかじゃない! 本当に見たんだ。黒いヤツがカーテンを開けて1人ずつ探してたんだ。それで……それで俺の所に来て……俺を殴ったんだ。棒で……だから赤い痣が付いてるんだ」


 看護師がわかったと言うように久本の額に手を当てる。


「痛みはないですか? 薬塗った方がいいかな」

「痛みは無い、薬なんていい、それより話しを聞いてくれ」


 怒って手を払い除ける久本に看護師が優しい声を掛ける。


「夢ですよ、頭の痣はベッドにでもぶつけたんですよ、パイプの太さとかピッタリじゃないですか、久本さん寝ててぶつけたんですよ」

「夢じゃない、痣が出来るほどぶつけたら起きるだろが、黒いヤツに殴られて気絶したんだ。だからあれは夢じゃない」


 必死に話す久本を看護師が正面から見つめる。


「環境が変わって変な夢見たんですよ、事故の事もありますし……ショックで夢に見るのはよくある事ですよ」

「事故で……そうか……夢か………… 」


 事故の事を持ち出されて久本もそういう事もあるかも知れないと声が小さくなる。


「もし本当ならナースコールを押してください、直ぐに駆け付けますからね」

「ナースコール……そっ、そうだな、ナースコールを押せばいいんだ」


 久本の安心顔を見て看護師は部屋を出て行った。



 その日の夜、入院して3日目だ。寝ていた久本がふと目を覚ます。


『此奴じゃない…… 』


 シャーッとカーテンを開ける音に続いて嗄れた声が聞こえた。


「夢…… 」


 呟くと久本は布団の中で自分の胸の辺りを抓った。

 夢じゃない! 痛みを感じて身を強張らせる。


『此奴も違う…… 』


 壁側を頭にして並んでいるベッドの向こう側、足下の隣のベッドから声が聞こえた。

 シャーッとカーテンを閉める音がして何かが動く気配がする。

 何者かが向かいのベッドのカーテンを開けた。


『此奴じゃない…… 』


 嗄れ声と一緒にゼイゼイと息をつく音が聞こえる。

 次は俺だ……、布団の中で固まっていた久本はナースコールを思い出す。


「なっ、なんで…… 」


 思わず口から出た。ナースコールを押しても何の反応も無い。


「なっ、なんで……助けてくれ! 看護師さん、助けてくれ」


 恐怖のあまり怒鳴っていた。その時、カーテンがシャーッと開いた。


『此奴だ……見つけた……お前だぁ~~ 』


 真っ黒な男が先の曲がった棒のような物を振り上げた。


「ひぃっ、ひぃぃ~~、たっ、助けてくれ、おっ、俺が何したってんだよ、たっ、助けてくれぇ~~ 」


 大部屋だ。他の患者に助けを求めようと大声を出した。


「なっ……なんで……誰か! 誰か助けてくれぇ~~ 」


 力一杯叫ぶが誰も起きてこない。


『お前がやった……お前は死ね』


 真っ黒な男が振り落とす棒が久本の頭に当たる。


「がっ!! 」


 衝撃を感じて久本が額を押さえる。


「痛てっ……痛てて…… 」


 痛さに呻くその喉元に冷たい物が触れる。


「ひぅぅ…… 」


 喉を押さえられて声が出ない、真っ黒な男が刈るように曲がった棒を久本の首に当てていた。


『お前……死ね』


 こっ、殺される……、久本は首に当たる棒を掴み、黒い男をどうにかしようと必死で抵抗した。



「久本さん! 落ち着いてください、久本さん」


 男女2人の看護師に取り押さえられて久本が目を覚ます。


「うわぁぁ~~ 」


 暴れる久本を男の看護師がガシッと羽交い締めにした。


「こら、落ち着け! 暴れるな」

「久本さん、大丈夫ですよ、落ち着いてください」


 女の看護師と目が合って久本が我に返る。他の患者たちも何事かと怪訝な顔で見ているのに気付いて久本がおとなしくなる。


「ここは……黒い男は………… 」


 力の抜けた久本の顔を女の看護師が覗き込む、


「黒い男? 何言ってるんですか? 変な夢でも見たんですよ」

「夢? 夢じゃない、黒い男が出たんだ。俺の首を……殺そうとしたんだ」


 強張った顔で話す久本に落ちた枕を渡しながら男の看護師が口を開いた。


「夢だよ、監視カメラもあるし警備員も居る。夜は戸締まりしてるから部外者は入ってこれないよ」

「夢じゃない! 頭を叩かれたんだ。鏡を持ってきてくれ、頭に痣が…… 」


 久本は必死で反論しながら今朝見た痣の事を思い出した。


「痣なんて無いですよ」


 言いながら女の看護師が鏡を持ってきてくれた。


「痣が…… 」


 鏡に映る自分の額には痣など付いていない、今朝付いていた赤い筋のような痣も消えていた。


「なんで…… 」


 戸惑う久本の背を男の看護師がポンッと叩く、


「夢だ。全部夢だよ、あんな事故に遭ったんだ。怖い夢を見ても仕方ないさ」

「そうですよ、夢ですよ、まだ時間ありますからゆっくりと寝てください、眠れないなら薬持ってきますよ」


 事故の事を知っている看護師たちは同情しているのか騒いだ久本に優しく接してくれた。


「夢……夢か…… 」


 自分でも本当にあった事なのかわからなくなった。久本が横になったのを見て看護師たちは部屋の明かりを消して出て行った。



 いつの間にか眠っていた久本が何か聞こえたような気がして目を覚ます。


『お前だ……お前……死ぬ……死ね』


 黒い男が曲がった棒を持って立っていた。


「しぃぃ…… 」


 声にならない悲鳴を上げる久本の頭に黒い男が棒を振り下ろす。衝撃を感じて久本の気が遠くなっていった。


 翌朝、久本は目を覚ますと一番で鏡を見た。


「マジだ……夢じゃない………… 」


 額に赤い痣が浮んでいた。黒い男が殴った跡だ。


「夢じゃない……こんな病院に居られるか! 」


 あの化け物は病院に出るのだと考えた久本は医者が止めるのも利かずに一日早く退院した。



 自分のマンションへと帰り仕事にも復帰する。

 一週間ほどが経つが黒い影のような男は現われていない。


「やっぱあの病院だ。何が夢だ。バカ共が……あそこは幽霊病院だ」


 警察の事情聴取や亡くなった友人遺族からの厭味に近い連絡なども無くなり普段の生活に戻っていた。

 休んでいた間に溜まっていた仕事も片付け一段落すると同僚たちが復帰祝いの飲み会を開いてくれた。



 久し振りに旨い物を食ってほろ酔い気分で家に帰って寝床につく、


「やっと終ったって感じだな……明日は休みだしゆっくり寝るか」


 久本はベッドに入って5分も経たずに眠りに落ちていた。

 どれくらい眠っただろう、プラスチックが焼けたような嫌な匂いで目が覚めた。


「んん……何の匂いだ? 」


 久本が住んでいるのはワンルームマンションだ。掃除など殆どしないだらしない生活をしているが生ゴミは匂わないようにビニール袋に入れてきつく縛ってあるしゴミも決められた日に出している。車で走るのが趣味なだけあって工具やオイル缶などを置いているのでケミカル的な匂いがする事はある。

 今匂っているプラスチックが溶けたような匂いも何かの溶剤の匂いかと工具が置いてある玄関の方を見ようと寝返りを打った。


「ふひゅぅ…… 」


 掠れた変な悲鳴が出た。同時に身体が硬直する。


『見つけた……お前だ……お前が…………死ね』


 影のような黒い男が立っていた。


「しぃぃ……ひぃ………… 」


 久本はどうにか逃れようとするが全身が痺れたように動けない、唯一動く目も正面にいる黒い男が何をするのか怖くて視線を逸らせられない。


「しぃぃ……いぃぃ…… 」

『お前だ……お前が……お前も死ね』


 喉から悲鳴を上げる久本の前で黒い男が先の曲がった棒を振り上げる。窓から差す月明かりに男のシルエットが浮かび上がった。

 棒じゃない……あれは……あれは鎌だ。此奴は死神だ! 久本が恐怖に目を見開いた。


『死ね! 死ね! 死ね! 』


 黒い男が鎌のような物を振り下ろした。


「がっ!! 」


 頭に衝撃を感じて久本の気が遠くなっていった。



 目を覚ますと朝になっていた。


「うぅ……うわぁあぁ~~ 」


 久本は悲鳴を上げて飛び起きる。


「あっ、はぁあぁ~~ 」


 辺りに黒い男が居ないのを確認して安堵した。


「あれは鎌だ。大鎌を持った死神だ。俺は死神に狙われているのか…… 」


 昨晩の事を思い返す。真っ黒な姿をした男が持っていたものは只の棒切れではなく鎌のように見えた。黒いマントを羽織った鎌を持つ男、それが死ねと襲ってくる。間違いなく死神だと思った。


「病院から憑いてきたんだ……あんな病院に入院したから…………冗談じゃない」


 久本は着替えると朝食もとらずに家を出た。


「お祓いして貰おう……直ぐに出てこなかったのは俺の家がわからなかったからだ……引っ越すか? お祓いして貰って引っ越せば死神を撒けるかもしれない」


 勝手に思い込むと久本はその日の内に引っ越し先を探し始める。

 事故で亡くなった友人は保険にしっかり入っていた。搭乗者傷害特約が付いた保険だ。久本の入院費はもちろん慰謝料としてそれなりのものは貰っていた。それを使えば安アパートへの引っ越しなどは賄える。


 休日という事もあって一日探し回って引っ越し先を決めるとレンタカーの軽トラックを使ってその日の内に引っ越しを終えた。引っ越し先は勤めている会社から見て今のマンションの反対側にあたる町にある安アパートだ。


「取り敢えず引っ越しは終わりだ……あとはお祓いして貰おう」


 段ボール箱に詰めた荷物を安アパートの部屋に運び入れると荷解きもせずに神社へと向かった。

 近くの神社に入る頃には既に日も暮れていたが3万ほど包んで渡すと厄払いのお祓いをしてくれた。


「御札と御守りを貰ったからこれで大丈夫だ。御札は部屋に貼って御守りは車に付けよう」


 元が単純なのだろう、久本はお祓いして貰った事ですっかり安心して安アパートへと帰った。



 安アパートに引っ越しして10日経つが死神は出てこない。

 急な引っ越しだったが勤め先や不動産屋には事故を思い出したくないので引っ越したと言うとすんなりと認めてくれた。友人を亡くした死亡事故だ。周りはみんな同情的である。


「これで大丈夫だ。もう安心だ」


 安アパートの部屋で久本は柱に貼った御札を見つめて嬉しそうに呟いた。

 退院して8日目に死神がマンションに現われたのだ。病院から憑いて来たと考えて8日目だ。引っ越して10日経っても現われないという事は死神は諦めたか旨く撒いたかのどちらかだと考えた。

 お祓いが利いたのか引っ越ししたのがよかったのかどちらにせよ、もう大丈夫だと安心しきっていた。



 元々深い仲の友人ではなかった事もあり一ヶ月も経つ頃には死神の事はもちろん事故の事まですっかり忘れてしまう。


「明日は休みだし、久し振りに走りに行くか」


 仕事を終えての帰り道、車の中で久本がニヤッと笑う、修理に出していた車が直った事もありまた峠に走りに行くようになっていた。


「あの峠に行くのは事故以来だな……成仏してるかしてないか、酒でも撒いてやるよ」


 コンビニで缶ビールを買うと友人が亡くなった峠へと車を走らせた。

 他の峠は何度か行ったがこの峠へ行くのは事故以来である。曲がりくねった山道をスピードを出して登っていく、


「おう、ここだ。ここだ」


 どのカーブだか今一記憶に無かったが事故現場は直ぐにわかった。花束が沢山置いてあったからだ。事故から一ヶ月半ほどしか経っていない、未だに供養に来るのか新しい花束も置いてある。

 車を停めると久本が花束の前まで歩いて行く、


「よぅ、来たぜ……まあ飲んでくれや」


 缶ビールを開けると並んだ花束に振り掛けた。


「まぁなんだ……俺だけ助かって悪く思うなよ」


 そう言うと手を合わせる事もなく車に乗り込んだ。

 事故の事など忘れたように3周ほど峠を走ってから家に帰った。



 その日の夜、いつものように酒を飲んでほろ酔い気分で寝床についた。

 どれ程眠っただろう、カンカンと階段を歩く足音で目が覚めた。


「んん? 煩いなぁ~、静かに歩けよ」


 今住んでいる部屋は6畳1Kで風呂とトイレが別で前に住んでいたワンルームよりも広いが隣の生活音が全て聞こえるほど壁も薄い安アパートだ。2階建てで鉄製の外階段が付いている地方都市によくある古いタイプの建物である。その分家賃は格安だ。死神から逃れるために取り敢えず借りた物件だ。落ち着いたらまた引っ越そうと考えていた。


「まったく……2時じゃないかよ」


 騒音で目を覚ました久本が不機嫌に時間を確かめた。深夜の2時過ぎだ。

 バタン! 階段を上がる足音が止んだと思ったら乱暴にドアを閉めた音が聞こえてきた。


「何処のバカだ! ったく」


 愚痴りながら寝返りを打つ、


『此奴じゃない…… 』


 外から声が聞こえてきた。

 バタン! 直ぐ後からドアを閉める音がした。


「なんだ? 」


 久本が上半身を起こして玄関のある方を向いた。

 廊下を歩く足音に続いて隣のドアを開ける音が聞こえた。


『此奴も違う…… 』


 嗄れた声の後でバタンと乱暴にしまるドアの音がした。


「しっ、死神…… 」


 自然と口から出た。久本はバッと布団を頭から被って寝たふりをする。

 ギギィっと立て付けの悪いドアが開く音がした。


『此奴…… 』


 嗄れ声と共に何かが入ってくる気配がした。

 布団の中で身を固くしていた久本を何かがポンポン叩いた。


『此奴だ……見つけた……お前だぁ~~ 』


 布団がバッと剥がされた。


「しひぃぃ…… 」


 喉の奥から掠れた悲鳴を上げる久本の目の前に黒い男が立っていた。

 真っ黒な姿に大きな鎌のような物を持っている。本に載っている死神の姿そのものだ。


『お前だ……お前が……死ね……死ねぇ~~ 』


 死神が大きな鎌を振り上げた。


「ひぃぃ~~、たっ、助けてくれぇ…… 」


 情けない声を上げる久本に死神が大鎌を振り落とす。


「ぐがっ! 」


 頭に衝撃を感じて久本は気を失った。



 その日から死神は毎晩現われるようになる。神社や寺にお祓いをして貰ったが効き目はない、会社の上司や同僚に話しをすると事故のショックで気が参っているのだと心療内科を受けるのを勧められた。

 病院へ行くと情緒不安定で統合失調症の手前だと言われて薬の束を渡された。


 薬が効いたのか病院から帰って3日ほどは死神が現われる事はなかった。


「全部幻覚か? 事故で情緒不安定になって病気になったのか? 」


 仕事も暫く休みを取って部屋でぼうっと過ごしながら考える。自分が見たものが本当かどうかわからなくなっていた。

 その日の夜、カンカンと階段を上がる足音で目を覚ます。


「2時か…… 」


 目を覚ました久本が時間を確認すると深夜の2時過ぎだ。


『此奴じゃない…… 』


 声の後にバタンというドアを閉める音がした。


「死神だ…… 」


 ぼうっとした頭で考える。寝る前に飲んだ薬が効いているのか恐怖心は湧いてこない。


『此奴も違う…… 』


 段々と声が近付いてくる。死神は並んでいる部屋を1つずつ見て回っているらしい。

 ギギィっと立て付けの悪いドアが開く音がして部屋に何かが入ってきた。


『此奴だ……見つけた……お前だぁ~~ 』


 布団に横になってぼうっとしていた久本の前に死神が立った。


「死神……俺を殺す気か? 俺が何をしたってんだ? 」

『お前が悪い……死ね……お前が俺を…… 』


 死神がぐいっと近付いて久本の顔を覗き込んだ。


「うぅ……ひぃぃ……しひぃぃ~~ 」


 直ぐ傍で死神の顔を見た久本は恐怖のあまりブルブルと震えながら失禁した。


『死ね……お前は死ね』


 死神が大鎌を振り上げた。


「ひぃぃ~~、たっ、助けてくれぇ~~ 」


 叫びながら起き上がると脱兎の如く部屋から飛び出した。


「しっ、死神が……彼奴が…………彼奴が俺を殺しに来る……死神が……殺される……助けてくれぇ~~ 」


 安アパートの外で騒いでいた久本は警察官に取り押さえられた。

 警察署で一夜を明かし、死神の事を話すと心の病気だと磯山病院を紹介された。そうして久本は自分から入院してきたのだ。

 これが久本正樹ひさもとまさきさんが教えてくれた死神の話だ。



 哲也がグイッとジュースを飲んでから口を開く、


「死神か……久本さんはいつ入院してきたんですか? 」

「1週間前だ。ここに入院してからも一度見たんだ……死神はまだ俺を狙ってるんだ」


 焦りを浮かべてこたえる久本を見て部屋の前を行ったり来たりしていた真っ黒な人影を思い出す。


「病気だと思ってたのに……幻覚だと……でも警備員さんが見たのなら間違いない、死神は本当にいるんだ。俺を狙ってるんだ」


 缶コーヒーを持つ久本の手がブルブルと震えていた。これ以上怯えさせるのはヤバいと哲也が慌てて続ける。


「僕もハッキリ見たわけじゃないですから……それにあの夜は何もなかったでしょ? 死神が来たのなら久本さんもわかりますよね、何もなかったって事は僕の見間違いだと思いますよ」

「ああ、警備員さんが見たって日には何もなかった。入院してから死神を見たのは一度だけだ。それで騒いだら他の奴らが俺をバカにして…… 」


 それで仲が悪かったのかと哲也が溜息をついた。


「夜の2時過ぎくらいに現われるんですよね? 」

「ああ……死神が現われるのはいつも2時過ぎだ」


 少し落ち着いた様子の久本に哲也が優しく声を掛ける。


「僕は深夜の3時頃に見回りをしてますから、それを1時間早めて2時頃に見回りしますよ、何かあれば直ぐに駆け付けますから安心してください」


 久本がバッと顔を上げた。


「ほっ、本当か? ありがとう警備員さん……信じてくれたのは警備員さんだけだ。本当にありがとう」


 心から礼を言う久本の隣で哲也が照れながら続ける。


「見間違いだと思うけど僕も確認したいからさ、2週間くらい注意してそれで何もなければ幻覚って事にしようよ、久本さんは病気で幻覚を見てたって事で納得してほしい、ここで……磯山病院で治療すればきっとよくなりますよ」


 少し考えてから久本が頷いた。


「 ……わかった。2週間何もなかったら全部幻覚って事だ。俺は病気って事だ。先生の言う事利いて薬も飲んで治るまで入院するよ」

「うん、そうしましょう、じゃあ僕は夕方の見回りがあるから」


 立ち上がった哲也の隣で久本が安心した様子で笑う、


「俺はもう少しここに居るよ、部屋に戻っても俺をバカにした奴らじゃ…… 」

「あの人たちには僕から言っておきますよ、悩んでる久本さんをバカにするなんて許せません」

「ありがとう警備員さん」


 ペコッと頭を下げる久本を置いて哲也はフロントにある長椅子が並んでいるだけの待合席から出て行った。



 深夜2時過ぎ、哲也は約束通り時間を早めて見回りをしていた。


「C棟は異常無しっと……問題のD棟だな」


 久本の部屋のあるD棟へと入っていく、


「人影は無いな」


 1階の長い廊下を見て安堵すると階段を上がっていく、正直言って死神と聞いてビビっていた。


「2階も異常無しだ」


 最上階から下りながら見回って久本の部屋がある1階へとやってきた。


「1階も異常無しだな」


 長い廊下に何も居ないのを確認して呟くと歩き出す。


「うん? 」


 久本の居る020号室の大部屋から声が聞こえたような気がして立ち止まった。


『此奴も違う…… 』


 哲也がドアの前で耳を澄ますと嗄れ声が聞こえてきた。死神の話を思い出して哲也が警棒としても使える頑丈な懐中電灯を握り直す。


『此奴だ……見つけた……お前だぁ~~ 』

「ひぅっ、ひぅぅ~~、たっ、助けてくれぇ~~ 」


 久本の悲鳴を聞いて哲也がバッと部屋へと入る。


『お前……死ね…… 』


 部屋の奥、久本のベッドの脇に黒い男が立っていた。30センチもある長い懐中電灯を握り締めて哲也が駆け寄る。


「あっ、あんた何やってんだ! 」


 怒鳴ったはいいが哲也の声が震えていた。


「けっ、警備員さん…… 」


 哲也に気付いて久本が縋るように叫んだ。

 黒い男がくるっと振り返る。


『此奴が……此奴がやった。此奴が殺した』


 黒い男が哲也の脇をすーっと通り抜けた。


「ひぃっ!! 」


 間近で顔を見た哲也が短い悲鳴を上げた。


「けっ、警備員さん、たっ、退治してくれ……死神を逃がすな」


 哲也という援軍を得て気を持ち直したのか久本が無茶を言う、哲也はそれどころではない、恐怖に身動き出来なかった。

 不思議な事にこれだけ騒いだのにも拘わらず大部屋に居る他の3人の患者はぐっすりと眠ったままだ。


「あっ、あれは……あれは死神じゃない………… 」


 震える声を出しながら哲也は久本のベッド脇に椅子を置いて座った。


「久本さん本当の事を話してくれ、あれは死神じゃない……焼けて真っ黒になった人だ。見た事はないけど焼死体って言うのかな、たぶんそんな感じの幽霊だ」


 薄暗い部屋の中で久本を前に哲也が焦りを浮かべた真剣な表情で訊いた。

 直ぐ傍で黒い男を見たのだ。焼けて膨れてボコボコになった顔に煤が付いて真っ黒になっていた。真っ黒の顔に白濁した目、血を吐いたのか真っ赤な口、顔だけではない、全身焼けて真っ黒だった。


「なっ……死神じゃないって……でも大きな鎌を持ってただろ」


 久本も真剣な顔で返す。軽く首を振ってから哲也が続ける。


「違う、鎌じゃない、何かの棒だ。曲がって溶けたプラスチックみたいなのが付いてて鎌のように見えただけだ。全部真っ黒に焼けた幽霊だ」

「幽霊……焼けた幽霊って…………はっ、畑田だ………… 」


 ブルブルと震える久本を見て哲也が顔を顰める。


「畑田って誰なんです? もしかして事故で焼けた友達なんじゃないんですか」

「ちっ、ちっ……違う……あっ、あれは死神だ」


 取り乱す久本を見れば嘘だと直ぐにわかる。


「本当の事を言ってください、本当の事を言ってくれないと僕も協力なんて出来ませんよ、死神じゃなくても久本さんに恨みがあるから出てくるんですよ、このままじゃ本当に取り殺されてもおかしくないですよ」


 ベッドの上で上半身を起こしていた久本が傍に座る哲也に縋り付く、


「こっ、殺される……嫌だ死にたくない! 」

「誰にも言いません、約束します。だから僕にだけは本当の事を話してください」


 哲也が落ち着かせるように背をポンポン叩くと久本は泣き出しそうな声を出した。


「死にたくない……わかった。誰にも言わないって約束してくれ」

「約束しますよ、誰にも話しません」

「わかった……全部話すよ」


 久本は観念したのか静かに話し始めた。



 あの夜、事故の前に車を運転していたのは久本だ。カーブを曲がりきれずにブレーキを掛けてスピンして横転したのだ。車外に放り出された久本は横になった車が煙を上げているのを見る。その助手席で友人の畑田が助けを求めるように窓を叩いていた。潰れているのか運転席側からは外に出られない様子だ。


 助けに行こうとした久本は左足を怪我しているのに気が付く、痛みでそのままでは歩けない、その時、目の前に散らばるゴルフクラブを見つけた。

 久本はゴルフクラブを杖のようにして車に近付いていく、潰れている運転席を見てゾッとした。車外に投げ出されなければ死んでいただろう、


「運転…… 」


 その時、久本の頭に邪な考えが浮んだ。


「此奴が運転していた事にすれば免許取り消しにならなくても済む」


 駐車違反にスピード違反、車を修理する事になった事故でも点数を喰らって免停直前なのを思い出した。この事故が自分が起こしたとなると免停どころか免許取り消しになりかねない。


「ひっ、久本……たっ、助けて……久本………… 」


 横転した車の中でどうにか窓を開けようとバンバン叩いていた友人の畑田が久本に気付いて助けを求める。

 その時、ボンッと炎が上がった。そのショックでひしゃげたドアに隙間が出来た。


「たっ、助けてくれ…… 」


 畑田が引っ張ってくれと言うように隙間から右手と頭を出した。

 久本がニヤッと悪意ある顔で笑った。


「悪いな、ひへへへっ」


 久本は持っていたゴルフクラブで畑田を殴りつけた。何度も殴るうちに手元が滑って車に当たってゴルフクラブが曲がってやっと正気に戻る。


「ひへへっ、免許取り消しなんて御免だからな」


 久本は動かなくなった畑田を蹴るように車内に戻す。同時に車が炎に包まれた。


「熱ぃ……やべぇ」


 怪我をした左足を引き摺って車から離れる。


 暫くして事故に気付いた他の走り屋が呼んでくれたのかパトカーと救急車に消防車が駆け付けた。

 直ぐに消防車が火を消して全身火傷を負った畑田を救急車が運んでいった。力が抜けたように倒れ込んでいた久本も同じ病院へと搬送された。

 畑田は搬送先の病院でその日の内に亡くなった。それを聞いて久本は大泣きしながら内心旨くいったと喜んだ。



 これが久本が話した事故の真相だ。

 久本は違反したばかりで点数が無く下手をすれば免許取り消しになるかもと事故車を友人である畑田が運転していた事にしたのだ。全て友人の所為にして保身を謀ったのだ。


 その後、入院していると黒い男が現われて久本を襲う、死神だと勘違いしたのも無理はない、全身焼けて真っ黒になった男が持っていたものは大鎌ではなく曲がったゴルフクラブだ。助けを求めた畑田を殴りつけた時に使ったゴルフクラブだ。焼け爛れた車の内装のプラスチックが溶けて付いて大きな鎌のように見えただけだ。大きな鎌で首を切ろうとしたのではなく、自分を殴りつけたように久本を殴っていたのだろう、久本が犯した罪を知らしめようとしたのかもしれない。


「なんでそんな事を…… 」


 哲也が言葉を詰まらせる。事故どころではない、殺人と同じである。直接の死因は車の火災によるものだが助けられるものを助けずに放置したのだ。しかも畑田をゴルフクラブで殴りつけて車の中に押しやったのだ。

 哲也の顔を見て久本が慌てて口を開く、


「こっ、殺すつもりなんてなかった。事故で動揺してたんだ……それで思わずやっちまったんだ。本当だ……殺すつもりなんてなかった。あれは事故だ。俺も焦ってたんだ」


 引き攣った顔で言い訳する久本の前で哲也が険しい顔で続けた。


「殺す気がなくて事故だというのなら警察に全部話したほうがいいですよ、気が動転してやったのなら重い罪にはならないと思います。本当の事を全部話せば畑田さんも許してくれると思いますよ、でも…… 」


 言い渋る哲也の顔を久本が覗き込んだ。


「でも? でも何だ? 」

「でもこのまま嘘をついたままだと畑田さんはずっと出てきますよ、今は頭を叩かれるだけで済んでますけどこの先はどうなるか…… 」

「こっ、怖い事言うなよ……死神じゃないならお祓いでもして貰えばどうにかなるだろ」


 脅すような事を言いたくなかったので言い渋っていたのだが久本には脅すくらいが丁度いいのかも知れないと哲也が続ける。


「どうにもならなかったじゃないですか、お祓いして貰ったんでしょ? それでも出てきたんでしょ? 久本さんが逆の立場だったら許しますか? 僕が畑田さんみたいにされたらずっと呪って出てきますよ」


 叱るような哲也の向かいで久本が震える声を出す。


「ずっ、ずっと……そう……そうだな、わかった全部話す。明日警察に全部話すよ、このまま呪われるよりましだ……全部話すよ、俺が運転してたって話すよ」

「そうした方がいいと思います。じゃあ僕は見回りがありますので」


 哲也が立ち上がる。


「俺が運転してたって話すよ」


 カーテンを閉めた哲也の耳に久本の呟きが聞こえた。

 運転って……、何か言おうとした言葉を飲み込んで哲也は部屋を出て行った。



 翌朝、ベッドで冷たくなっている久本が発見された。死因は心筋梗塞だ。引き攣った顔の額に赤い痣が浮んでいたらしい、心臓発作を起こしてベッドの枠にぶつけたのだろうという事だ。

 不思議な事にベッドの下に曲がったゴルフクラブが1つ転がっていたらしい、誰が持ってきたのかはわからないが事件性はないと処分された。


 看護師から話しを聞いた哲也には直ぐにわかった。事故車に積んでいたゴルフクラブだと、殺した友人が握り締めていたものだ。久本が死神の鎌だと思い込んでいたものである。久本は友人である畑田の幽霊に連れて行かれたのだろう、そういう意味では久本にとっては死神そのものだ。


「やっぱし……運転していたって事だけしか話す気はなかったんだな」


 自分の部屋の中で哲也は一人呟いた。

 全てを話すと言っていたが久本は事故車を運転していた事だけを話して友人である畑田を殴りつけた事を話す気はなかったのだ。最後まで保身の事だけを考えていた久本に畑田の霊は怒ったのだろう。

 最初に行ったお祓いと引っ越しで幽霊は一旦離れたのかも知れないが事故現場の峠に行ってまた連れて帰ってきたのだろう、その後に行ったお祓いでも消えなかったのは久本のバカにしたような態度に霊が本気で怒ったのかもしれない。


 本当の話しを聞いた後から久本に対する同情は消えていた。それよりもほっと安堵していた。本物の死神でなくてよかったと……本物の死神など絶対に見たくはないと哲也は心から思った。


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