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第十三話 匂い

 匂いと聞くと何を真っ先に思い浮かべるだろうか? 哲也は食べ物ならカレーとラーメンを思い出す。人なら恋心を抱いている香織や兄のように慕っている嶺弥から漂ってくる整髪料やシャンプーの香りだ。父や母の匂いは思い出せないが母が作ってくれた煮物の匂いと味は生涯忘れる事は無いだろう、その料理の匂いが母の匂いなのかも知れない。


 味と同じように匂いも不思議なものである。人によって良いか悪いか様々な反応がある。くさやの干物の匂いを初めて嗅いだ人は食べ物だとは思わないだろう、まるで排泄物のような匂いだが好きな人には堪らない匂いだという、逆に良い香りのミントやシナモンが苦手という人もいる。味の付いていない水でも匂いを付けるだけで苺味やメロン味のジュースだと騙す事も出来る。


 嫌いな匂いの事を臭いという、香りと書くと良い意味で捕らえられる事が多い、まったく同じ香水でも好きな人が付けている香水は良く感じて嫌いな人の香水は臭く感じる。これは相手を見て脳と心が匂いを補填しているからである。


 目に見えないので不意に漂ってくる匂いを避ける事は難しい、イケメンや美人でも口臭が酷い人もいる。目に見えないものだからこそ気を使う人も多い、だがそれが行き過ぎると病気となる。

 哲也も匂いを気にして病気になった人を知っている。



 夕方の見回りを終えた哲也が食堂に向かって長い廊下を歩いていた。


「今日は香織さんも嶺弥さんも休みだしつまんないな」


 看護師の香織は夜勤明けで今日と明日が休みだ。警備員の嶺弥は有給休暇を取っている。病院内での哲也の理解者が二人も休みで退屈なのだ。


「二人とも明日も休みだし、明日はアニマルセラピーでも手伝うかな」


 香織や嶺弥に次いで哲也と親しくしてくれているのが心理療法士の世良静香だ。アニマルセラピーの責任者である。哲也も時々手伝いに行って犬猫の世話をしていた。

 考え事をしながらぼんやり歩いていると20後半くらいの男と擦れ違った。


 臭い……、哲也が顔を顰めた。男から肉や魚が傷んでいるような腐敗臭が漂っていた。


 磯山病院では一人で風呂に入れない要介護者を除いて夏場は毎日、それ以外は一日置きに風呂に入る決まりだ。その為の大浴場も完備されている。腋臭の人はともかく普通の患者が匂うことは無い、毎日風呂に入る人やシャワーを浴びる人はともかく、風呂嫌いや無精して入らない人たちより余程綺麗である。


 何の匂いだと哲也が振り返ると男も立ち止まって此方を見ていた。


「臭いのか? 俺が臭いのか? 」


 目を見開く男にヤバいものを感じて哲也が愛想笑いで口を開く、


「別にそんな事は…… 」

「じゃあ、何で振り返った? 匂ったんだろ? 臭かったんだろ、わかってる。匂うんだ。腐った幽霊が憑いてるからな……だから匂いが付くんだ」


 男は言い訳しようとした哲也に構わず一方的に騒ぎ出す。


「あの幽霊が……腐った幽霊が俺を……洗わなきゃ…… 」

「腐った幽霊? 」


 幽霊と聞いて興味を持った哲也の前で男が服を脱ぎ始める。


「ちょっ、何するんですか…… 」


 焦る哲也の後ろから看護師の早坂萌衣はやさかめいが走ってきた。


「哲也さん、何してるんですか! 」

「僕は何も……この人が急に服を脱ぎだして…… 」


 戸惑う哲也の向かいで上半身裸になっている男を見て早坂が大声を出した。


「中居さん! 哲也さん取り押さえてください」

「わかりました」


 何が何だかわからないが早坂の大声に返事を返すと哲也が男を押さえ込む、


「おとなしくしてくれ……ちょっ……一人じゃ無理だ」

「匂いが……洗わなきゃ……シャワーを浴びさせてくれ…………服を洗濯して…… 」


 後ろから肩に手を回して動きを止めようとするが男は手足を振って暴れ出す。

 哲也一人じゃ無理と思ったのか早坂が男の正面に回った。


「中居さん、大丈夫ですよ、匂いなんてしませんから、ほら私を見てください、何ともないでしょ? 」


 早坂が男の頬を挟むように両手を当てた。


「看護師さん……本当か? 本当に匂わないのか? 臭くないのか? 」


 暴れていた男がおとなしくなるのを見て早坂が続ける。


「大丈夫ですよ、匂いなんてしませんよ、後ろの警備員さんも匂いなんてしないって言ってますよ」

「う、うん、何も匂わないよ、見た事のない人だったんで誰かなって思って振り返ったんだよ、僕は警備員だからね」


 哲也が慌てて話を合わせる。早坂のアイコンタクトを読み取ったのだ。それだけではない、腐敗臭を感じたのは擦れ違ったときだけで男からは臭い匂いなどしなかった。


「警備員……それで振り返って俺を見たのか、臭いからじゃなかったのか……そうか……そうか………… 」


 男は中居と言うらしい、おとなしくなった中居から哲也が腕を離した。


「中居さん、薬は飲みましたか? 」

「 ………… 」


 黙り込む中居を見て早坂が溜息をついた。


「飲んでないんですね、ダメでしょ、薬は食後3回飲むように言ったはずですよ」

「 ……俺は病気じゃない、全部幽霊が………… 」


 気まずそうな中居の背を早坂がポンポン叩く、


「ハイハイ、わかりました。それじゃあ薬を飲みに行きましょうね、部屋に置いてあるんでしょ? じゃあ行きますよ」


 何も言い返さなくなった中居から早坂が哲也に向き直る。


「哲也さんもついてきてください、何かあるといけませんから頼みます」

「僕は夕食が…… 」


 腕時計を見つめて早坂が口を開く、


「まだ時間ありますよ、直ぐに済むから頼みます」

「あはは……わかりました」


 愛想笑いをしながら哲也が引き受ける。頼むと言っているが有無を言わさぬ目付きに哲也は断る事など出来ない。

 早坂は香織より4年先輩のベテラン看護師だ。少しキツめの顔付きの香織と違い早坂はおっとりして優しそうな顔付きだが実は香織よりも強引なところがある。惚れっぽい哲也も少し苦手なのが早坂だ。



 早坂と一緒に中居を部屋まで連れて行く、


「404か…… 」


 後で幽霊の話しを聞こうと哲也は部屋番号を記憶した。

 中居が薬を飲んだのを確認して早坂と一緒に部屋を出る。


「んじゃ僕はこれで…… 」


 食堂へと急ぐ哲也を早坂が止める。


「哲也さん、ちょっと…… 」

「何です? 」


 哲也は振り返りながらエレベーターの上に掛かっている時計を見た。夕食の時間まで20分程余裕がある。


「うん……哲也さんって須賀さんと仲良かったわよね」


 少し頬が赤くなっている早坂の顔を哲也が覗き込む、


「嶺弥さんですか? 仲が良いというか、世話になってますよ」

「それでね……須賀さんの好きな食べ物とか趣味とか……今夢中になってる事とか何でもいいから教えて欲しいのよ」

「あっ!! 」


 鈍感な哲也でも流石にピンときた。


「そうだったんですか…… 」


 驚く哲也の向かいで早坂の頬が真っ赤に染まっていく、


「嶺弥さん格好良いですからね、頼り甲斐があるし、柔道と空手の段持ちで強いし、頭も良いし……それに今付き合ってる彼女もいないし」


 彼女がいないと言う言葉に早坂が反応した。


「本当! 」


 嬉しそうな早坂の向かいで哲也が企むようにニッと笑う、


「マジっすよ、夜勤が多いから彼女も出来ないって愚痴ってましたよ」

「そうなんだぁ~~ 」


 安心するように息をつく早坂を見て哲也がここぞとばかりに中居の事を訊く、


「嶺弥さんの事を教える代わりに中居さんの事を教えてください、腐った幽霊ってなんですか? 」

「中居さんの事……ダメよ、患者の事は話せないから」


 早坂の表情が変わった。普段の口調で断る。香織よりもベテランの看護師だ。仕事に私情は挟まない。


「誰にも言わないですよ、警備員として聞いておいたほうがいいと思いますし、また廊下で服でも脱ぎだしたら困るでしょ? 」


 哲也が畳み掛ける。香織とのやりとりで手慣れたものだ。


「そうだけど…… 」

「香織さんには時々聞いてるっす。新しく入った患者さんの中で暴れそうな人とかは教えてくれますよ、もちろん他の患者には絶対に話しませんので安心してください」


 同僚の香織も話しているという事実を知って早坂が折れた。


「そうね、わかったわ、哲也さんなら大丈夫でしょう」


 早坂が中居の病状を話してくれた。



 中居來斗なかいらいと27歳、精神錯乱で女性を殴って怪我をさせて逮捕されたが情緒不安定という事もあり刑事事件にならずに示談で済んだ。自臭症で躁鬱の症状もあり、妄想も激しく女の幽霊が見えると騒ぐ、今回の事件も女の幽霊が全て悪いと言う中居に警察が磯山病院へ行く事を勧めたのだ。


 自臭症じしゅうしょうとは自分の身体から変な匂いが出て周囲の人々に不快な思いをさせていると悩む状態のことだ。実際は匂いなどしていないのに臭い匂いが出ている。臭いために周りの人が自分を避けている。などと思い込む神経症である。これが原因で人と付き合えなくなり引き籠もって鬱になる事も多い、カウンセリングと薬物療法で治療するのが一般的だ。


 中居も自臭症から躁鬱になったらしく幽霊が出ると幻覚を見る。磯山病院では統合失調症と診断された。


「自臭症か…… 」


 話しを聞いた哲也は中居と擦れ違ったときに感じた腐ったような匂いを思い出した。

 変な顔をする哲也を早坂が覗き込む、


「どうしたの哲也さん? 」

「いや、別に……臭いとか言うから潔癖症かと思ってました」


 誤魔化す哲也の前で早坂が続ける。


「潔癖症は自分自身の問題だけど自臭症は自分じゃなくて周りが気になるのよ、周りの目を気にしすぎるのね、何気ない動きも全部自分に関係があると思ってしまうから気を付けてあげてね」

「そうですね、さっきも行き成り脱ぎだして吃驚しましたから気を付けます」


 納得した哲也の前で早坂が笑顔になる。


「じゃあ、次は哲也さんの番ね」


 ニッコリ可愛い笑みを向けられて哲也は嶺弥に悪いと思いながら話を始めた。


「嶺弥さんはカレーが大好物です。あと唐揚げとかカツとかも好きっすね、それで趣味はドライブと釣りと読書、あとゲームもしますね、それで今はスマホのゲームやってますよ、夜勤の見回りでも休憩時間に遊んでるっす」

「カレーと唐揚げか……それなら私でもどうにかなりそうだわ」


 早坂は目を伏せ口元に手を当てて思案するように言うとサッと顔を上げた。


「それで休憩時間にしているゲームってどんなゲーム? 私でも出来るかな」

「チームプレーが出来るヤツだから早坂さんでも出来ますよ、スマホのゲームなんて指で弾くだけの簡単な操作しか無いですから」


 嶺弥がやっているゲームを教えてやると早坂はメモをしながら聞いていた。

 ニヤニヤしている哲也を早坂がじっと見つめる。


「わかってるでしょうけど須賀さんには内緒だからね」

「わかってますよ、早坂さんこそ僕から聞いたなんて言わないでくださいよ、口の軽いヤツだと思われたくないですから」

「了解、助かったわ、ありがとう哲也さん」


 嬉しそうに礼を言う早坂に照れた哲也が視線を逸らす。その目にエレベーターの上の時計が映った。


「やべぇ! 時間ギリギリだ」


 叫ぶと哲也が走り出す。特別に伸ばしてもらっている夕食時間まで5分も無い。


「こらっ!! 廊下は走らない」


 早坂の怒鳴り声で哲也の足がピタッと止まる。


「嶺弥さん、天気の良い日はE棟の屋上で一人でゲームしてるっすよ、暖かくなってきたから昼だけじゃなくて夜も」


 振り返って言うとまた走り出す。


「本当なの? ありがとう哲也さん」


 早坂は注意どころか怒鳴り声から一転して嬉しそうに礼を言った。



 どうにか夕食に間に合った哲也が広い食堂で一人座って食べている。


「香織さんの代わりに話が聞けたな、早坂さんイケメン好きだからな……嶺弥さんには悪いけどこれからちょくちょく患者さんの事聞けそうだ。池田先生に聞くのに気が引けるときとか早坂さんから聞けばいいな」


 悪巧みしてニヤつきながらご飯を口いっぱいに放り込んだ。


「中居さんに幽霊の話しを聞かなくちゃな……腐った幽霊って面白そうだからな、どうするかな? 」


 考えながら口の中のものをお茶で流し込む、


「池田先生に貰った饅頭が2つ残ってたな、惜しいけど手土産にして明日にでも話しを聞きに行くか」


 明日の昼間の予定が決まった。いつものように警備員として知っておいたほうがいいので聞かせてくださいと手土産を持って聞きに行く作戦だ。

 食べ終わって食器を返しに行こうと立ち上がる。


「うぇぷっ!! 」


 急いで食べた所為か急に立ち上がったためか大きなゲップが出た。

 自分の出したゲップの匂いに哲也が顔を顰める。


「それにしても自臭症ならあの匂いは何だったんだ? 見間違えならともかく匂いは確かに嗅いだぞ」


 中居と擦れ違ったときに嗅いだ匂いを思い出した。臭いだけでなく不快な感じのする匂いだった。



 翌日の昼食後、哲也は中居の部屋を訪ねた。

 哲也が饅頭を差し出すと中居は笑顔で受け取った。どうやら甘党らしい。


「おお、旨そうな饅頭だ。悪いねぇ」


 院内の売店で売っている大量生産の菓子と違って池田先生から貰う和菓子や洋菓子は貴重なのだ。


「幽霊の話しだったな、そうだな、警備員なら話しておいたほうがいいかもな」


 高い饅頭だと一目でわかったらしく中居は上機嫌で話しを聞かせてくれた。

 これは中居來斗なかいらいとさんが教えてくれた話しだ。



 中居は大学を出てから貴金属店で店員として働いていたのだが株取引に失敗して借金を作ってしまい同僚たちにも知られて居辛くなって辞めてしまう、その後は暫くアルバイトをしていたのだがバイトでは借金を返済するなど出来るわけもなく知り合いのつてを頼って特殊清掃の仕事に就いた。社員数名の小さな会社だ。ハッキリ言ってブラックだがその分給料はそれなりに良い、今の中居には選択肢がなかったのだ。


 特殊清掃と言っても事件や事故のあった部屋を掃除するだけではない、夜逃げした部屋の掃除やゴミ屋敷の掃除なども引き受ける。事故物件は精神的に疲れてゴミ屋敷は肉体的に疲れるので慣れるまでは苦労した。


 3ヶ月ほどして仕事に慣れてきた中居はあるマンションの掃除を命じられる。

 60代の社長と30代の先輩社員の三人で現場へと向かう、普段は現場に向かわない社長だが他の仕事が重なって社員が出払っていたので今回は特別だ。


「ヤバいから覚悟しとけよ中居」


 軽のワゴンを運転しながら先輩社員が後ろに座っている中居を脅かす。


「あんまりビビらせるなよ、いつもと同じにすればいいんだ……まぁ気持悪いけどな」


 助手席に座る社長までもが気持悪いというので興味を持った中居が後ろから訊いた。


「そんなにヤバいんですか? どんな部屋なんです」


 この3ヶ月の間に孤独死した部屋を6つ、自殺した部屋を3つ掃除している。どの部屋も遺体が発見されてから1ヶ月以上が経っている傷んだ部屋だ。

 4回まではビビっていたが9回もこなすと流石に慣れる。床や畳や布団に付いた人形の腐った染みも血の跡も虫の山もビジュアルはどうにか耐えられるようになっていたが匂いだけは別である。これは中居だけではない、先輩社員たちも匂いだけは慣れないと言っていた。鼻や口だけでなく目に来るのだ。高性能のフィルター装備のマスクを付けていても何処かから匂いが入ってくる。


「余裕あるじゃないか」


 助手席に座る社長が資料をポンッと投げてよこした。

 マンションの外見や地図などに目もくれず中居は部屋の写真をパラパラと見ていく、


「高そうな部屋だな、高級マンションかよ、虫は湧いてるけど結構綺麗………… 」


 ある写真を見て中居が絶句した。


「風呂で死んだのか…… 」


 眉間に皺を寄せた険しい顔をして中居が呟いた。

 浴室の写真だ。遺体は回収されていて写っていないが水を抜いた浴槽には茶色い泥のような物がべったりと付いていた。

 先輩社員が運転しながらとぼけ声を出す。


「聞いた事あるだろ、風呂で腐って溶けてスープになってるって、それだ」

「心筋梗塞か何かで半身浴してて死んだんだってよ、湯が少なかったから倒れ込んだ頭の半分が溶けて骸骨になってたらしいぞ」


 助手席から社長が説明してくれた。


「マジかよ……風呂場全部取り替えたらいいのに」


 車が信号で止まる。嫌そうに顔を顰める中居に先輩社員が振り返る。


「取り替えるにしても汚れたままじゃ何処もやってくれないぞ」


 社長が資料を返せと後ろに手を伸ばす。


「そこで俺たちの出番ってわけだ」


 浴槽や床のタイルなどを取り替えるにしても今の状態では業者がやってくれるわけもなく、湧いた虫が他の部屋まで汚しているので特殊清掃が呼ばれたという事だ。


「綺麗に掃除出来たら取り替えずにそのままって事も多いんだがな」

「怖い事言わないでくださいよ」


 険しい顔をした中居が資料の入った封筒を社長に返した。

 信号が青に変わり車を走らせながら先輩社員が怖がらせるように声を作って話し出す。


「本当だぞ、今の洗剤は凄いからな、風呂場なら丸洗いすれば匂いも残らないぞ、排水溝だって日を開けて3回も洗剤流し込めば匂いは消えるしな」

「マジかよ……何か見分け方とかないんですか? 」


 後ろから聞こえる中居の嫌そうな声に社長が声を出して笑い出す。


「あはははっ、大家の良心次第だな、普通の感覚なら取り替えるさ、誰も借り手が居ないからだけじゃなくて家賃の安いのには訳があるんだよ」


 大通りから少し離れたマンションの前で車が止まる。


「さぁ着いたぞ」


 先輩社員がエンジンを止めてサイドブレーキを引いた。



 先輩社員が電話を掛けると直ぐにマンションの管理人が出てきた。


「待ってましたよ、本日はよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「ピカピカにしますから任せてください」


 先輩社員と社長が管理人と挨拶をしている間に中居は軽のワゴンから掃除道具一式を下ろす。車には様々な状況に対処出来るように一通りの掃除道具が積んである。今回は風呂場掃除がメインとなるので段ボール一箱分ほどの荷物を下ろした。洗剤やウエスなど足りなければ随時、車に取りに行く事になる。


「じゃあ、早速お願いします」


 愛想のいい管理人に連れられて件の部屋へと向かった。


「中居、挨拶行ってこい、隣は俺がやっとくよ」

「わかりました。いつもの洗剤セットは持ってきてますよ」


 先輩社員に命じられて中居が走って行く。

 両隣と上下の住民に粗品を持って挨拶だ。部屋の中のものを全て運び出すのだ。冷蔵庫や洗濯機などを運ぶ際に音が出るかも知れない、騒音で迷惑を掛けるかも知れないと初めに断っておけばトラブルが起きない、もっとも今日の物件は高級マンションだ。少々の物音などは響かないだろう。


「じゃあ、頼みますね、荷物は全部運び出してください、先程説明した駐車場の端に積んどいてください」


 少し説明をしてから部屋の鍵を預けると管理人は逃げるように去って行った。

 入れ替わるようにして中居が戻ってくる。


「両隣は居ましたけど真上の人はいませんでした」


 余った粗品を段ボール箱に突っ込むとマスクを装着して手袋を付ける。靴も履き替える。土足で入っても汚れないように新品のスニーカーを使う、マスクはフィルター部分を換えて使い回すが他は全て使い捨てだ。


「先ずは他の部屋の荷物を全部運び出すぞ」


 先輩社員を先頭に社長が部屋に入っていき、最後に中居が続いた。


「相変わらず虫が凄いな」


 中居が嫌そうに顔を顰める。玄関に続く廊下の彼方此方に虫の死骸が落ちていた。先輩社員と社長は手慣れたもので気にせず土足のまま上がり込む、高性能フィルターの着いたマスクの御陰か玄関周辺ではそれ程匂わない。


「思ったより本が多いな、中居、全部出して縛って運べ、俺たちはデカいのを運ぶ」

「わかりました」


 中居が本棚から本を出してテキパキとビニール紐で縛り始めた。その後ろで社長と先輩社員が大きなタンスをバラして運んでいく、


「まだ生きてる虫挟まってるから嫌なんだよな、金目のものだけじゃなくて全部持って帰れってんだ」


 社長たちの姿が見えなくなると中居の口から愚痴が出る。

 高価な物は遺族によって回収されているが冷蔵庫やテレビなどの家電やタンスに本棚などは置かれたままだ。その残された物の隙間に虫が入り込んで死んでいる。



 他の部屋の荷物を全部運び出し昼食をとると、いよいよ風呂場の掃除だ。


「うわぁ……酷い………… 」


 浴槽を見て中居の口から思わず漏れた。

 遺体は回収されて水も抜かれているがステンレスの浴槽が泥でも塗ったように茶色に染まっていた。所々に長い髪の毛が見える。腐って溶けた油が様々なものと混じってこびり付いているのだ。


「そっちは任すぞ、俺たちは洗濯機を運ぶからな」


 浴槽の掃除を中居に押し付けると先輩社員と社長は脱衣所から洗濯機を運んでいった。


「クソッたれ! 社長はともかく柴田はこっちの掃除しろってんだ」


 2人の姿が無くなると中居が暴言を吐く、先輩社員を呼び捨てだ。

 風呂場を見回して中居が顔を顰める。高性能フィルターも完全気密ではない、キツい匂いは何処かから入ってくる。


「くっさいなぁ! 臭い臭い、腐って死ぬのだけは御免だな」


 愚痴りながら業務用の洗剤を浴槽だけでなく風呂場全体にスプレーしていく、強力な油落としの洗剤だ。


「どんなババァが死んだんだ。腐れババァだな」


 暴言を吐きながら風呂場から出る。洗剤が染み込むまで数分待つのだ。

 そこへ社長たちが戻ってきた。


「排水溝にも入れとけよ、溶けた油が詰まると面倒だぞ」


 先輩社員が洗剤を中居に手渡す。


「排水溝ですか? 了解しました」

「任せたぞ、俺たちは他の部屋の掃除をするからな」


 排水溝へ洗剤を流し込む中居を置いて社長と先輩社員は風呂場から出て行った。


「 ……ったく、下っ端は損だぜ」


 2人に聞かれないように小声で愚痴る中居の目にキラッとしたものが飛び込んできた。


「何だ? 」


 中居が埃の塊を摘まみ上げる。


「指輪か…… 」


 銀の輪っかに透明な石が付いていた。

 洗濯機の下にあったのだろう、埃まみれで社長たちは気が付かなかった様子だ。排水溝に洗剤を流すためにしゃがんでいた中居だから気が付いたのだ。


「結構なお宝だぞ」


 明かりにかざして宝石を見る。そこへ先輩社員がひょいっと風呂場を覗き込んできた。


「うわっ! 」


 驚いた中居が慌てて指輪をポケットに押し込む、


「ん? どうした? 」

「吃驚したぁ~~、柴田さん顔怖いんだから、急に顔見せないでくださいよ」


 指輪を盗んだのを悟られまいと中居が大袈裟に驚いて見せる。


「お前なぁ~、こんなイケメン捕まえて何言ってんだ」


 冗談っぽく怒ると先輩社員、柴田が続ける。


「こっちのヤツとは混ぜるなよ、今のヤツを全部流してから使え、混ぜたら危険ってヤツだ。事故物件掃除に来て死んだら洒落にならんからな」

「わかってますよ、汚部屋おべやの風呂掃除したときに使った事ありますから、任せてください」


 愛想笑いをする中居を置いて柴田は風呂場を出て行った。


「へへ……儲けたぜ、さっさと掃除しちまおう」


 先程までとは打って変わってやる気を出して掃除を始めた。

 朝の10時から夜の7時前まで掛かって掃除が終った。


 社長に飲みに行こうと誘われる。普段の中居なら二つ返事で喜んで付いていくのだが今日は用事があると言って断った。

 帰り道、駅のトイレに誰も居ないのを確認すると中居はあの部屋から持ってきた指輪を出して水で洗う、


「ダイヤだな……本物だ。流石金持ちだな、腐って死んだババァの汚い油を掃除してやったんだ。これくらいいいよな」


 改めて指輪を見ながら中居が嬉しそうにニタリと笑った。貴金属店の元店員だ。指輪の価値は直ぐにわかった。


「少なくとも30、いや50万は行くぞ、旨く行けば100万超えるぞ」


 中居が悪い顔で呟いた。死者の持ち物を盗んだという罪悪感など無い、只の銀の指輪でも盗んでいただろう。



 休みになると中居は早速あの指輪を売りに行った。3年ほど貴金属店で働いていただけあって裏の情報もそれなりに知っていたので足が付かないように正規の店ではなく裏のバイヤーに買って貰った。

 指輪は300万円で売れた。正規のルートなら500万以上にはなっていただろう、


「足下見られたな……まぁ盗品だからそんなものか、でもまぁ、借金無くなったし、残りで暫く遊べるな」


 指輪を売ったその足で借金を返済しての帰り道、薄いジャンパーの内ポケットを撫でながら中居がニヤリと笑った。借金の残りを返済して余った70万ほどがポケットに入っている。


「遊ぶのは次の休みだな、今日は酒でも買って飲むか」


 近くのスーパーで普段は買わない高い酒と総菜を買って帰路についた。



 テレビを見ながら酒を飲んで良い感じに酔っ払う、


「シャワー……風呂でも入るか」


 普段はシャワーで済ましている中居だが酔っているためか湯に浸かりたくなった。

 風呂場に行ってバスタブに湯を溜める。


「溜めてる間に身体洗うか」


 湯を溜めながら身体を洗い始める。


「いけねぇ、頭洗うの忘れてた。酔っ払ってるなぁ、まぁいいか」


 先に身体を洗うと次は頭だ。

 シャンプーを付けてワシャワシャ洗っているとお湯の溜まり具合が気になってバスタブを見た。


「何だ? 」


 湯船に何か浮んでいる。


「鞄か? 何で鞄が? 」


 汚れて白っぽくなった青色のスポーツバッグに見えた。

 酔っていたためか騒がずに髪の泡をシャワーで流す。


「くさっ! 臭い、どこから…… 」


 臭い匂いの出所は直ぐにわかった。目の前のバスタブだ。

 匂いに顔を顰めながら中居が見ると溜めている湯の中に青灰色の物体が浮んでいた。


「鞄じゃない………… 」


 険しい顔で見つめる先で青灰色の物体がくるっと回った。


「ひゅぅぅ~~ 」


 掠れた悲鳴を上げると転ぶように尻餅をつく、

 青白い物体に顔が付いていた。人の顔だ。その左半分の肉が無くなっていた。半分髑髏になっている肉の残った顔の目がじっと中居を見つめていた。


「うわっ、うわぁぁ~、うわっ、うわぁあぁあぁぁ~~ 」


 中居が風呂場から飛び出した。

 浮んでいたのは身体の半分が骸骨になった腐乱死体だ。

 濡れた身体のまま玄関ドアの前にへたり込んだ中居の鼻に臭い匂いが突き刺さる。


「げっ、現場の匂いだ…… 」


 風呂場で感じた臭い匂い、何度も掃除をした匂いと同じだ。腐乱した人の匂いだ。


「なっ、何で風呂場に………… 」


 わけもわからずに焦っている間に臭い匂いは消えていた。匂いを感じたのは一瞬だ。


「俺は何もやってない……誰かがやったんだ。警察を呼ばないと………… 」


 誰かが死体を風呂場に置いたのだと思った。バスタブに湯を溜めようと蛇口を捻った時には何も無かったのだが動揺している中居には考えつかない。


「警察を呼ばないと…… 」


 通報する前に確認しようと怖々と風呂場に向かう、


「なんで…… 」


 風呂の扉を握り締めて中居が呆然とする。

 バスタブには何も浮んでいない、普段の風呂場と何一つ変わらなかった。


「 ……飲み過ぎだな、酔っ払ってんだ」


 蛇口を捻って湯を止めると排水栓を抜いて溜まった湯を流す。見間違いだとしても風呂に入る気分など吹っ飛んでいた。


「見間違えだ! クソみたいな仕事してるからあんな変なもの見るんだ。クソが! もう寝ちまおう」


 身体を拭いて寝間着代わりのジャージに着替えるとベッドに潜り込んだ。



 深夜、物音に中居が目を覚ます。


「んん? シャワーか…… 」


 ザーと水の流れる音が聞こえてきた。

 中居は寝返りを打つと枕元に置いていた目覚まし時計を見る。深夜の2時半だ。


「誰だ。こんな夜中に…… 」


 寝惚け頭がハッキリしてきて中居が耳をそばだてる。

 音が近い、中居が住んでいるのはワンルームマンションだ。安普請で防音がしっかりしているとはとても言い難い、配管を伝ってくるのか隣が風呂に入る音も聞こえてくる。だが今聞こえている音とは明らかに違う、


「シャワー出しっ放しか? 」


 まるで自分の部屋のシャワーのようだと思ったその時、鼻歌が聞こえてきた。


『ふぅぅ……ふんふふ……ふんぅぅ………… 』


 俺の部屋だ! 中居が布団の中で身を固くする。泥棒だと思った。


『ふふ……ふんふぅぅ…………ふふっふん………… 』

「女か? 」


 声色から女だと思った中居が布団を捲ってそっと起き上がる。

 悟られないようにそっと玄関横の風呂場へと向かう、明かりが点いていた。間違いない誰かがシャワーを浴びている。


『ふぶっ……ふぅぅ……ぶふぅ………… 』


 鼻歌のような声が聞こえる。間違いなく女だと確信した中居は勢いよくドアを開けた。


「てめぇ、何してやがる!! 」


 怒鳴り込んだ中居がその場で固まる。

 鼻歌ではなかった。人がバスタブでもがいていた。俯せなので顔は見えないが長い髪に横から見える胸の膨らみ、体付きから女だとわかる。


『ふぅぅ……ふがっ! ぶぐぅぅ……がふぅ………… 』


 浅く湯の張ったバスタブの中で女が苦しそうに痙攣していた。


「だっ、大丈夫か! 」


 慌てて声を掛ける。不審者だとか言っている場合ではない。


「大丈夫か、おい!! 」


 声を掛けながら女の肩に手を掛けた中居の鼻に臭い匂いが突き刺さる。


「大丈夫か! 」


 匂いに顔を顰めながら肩に手を回して女を引き上げるとボタッと何かが落ちた。


「なっ…… 」


 茶色く染まった湯船の中に長い髪の毛の付いた肉片が浮んでいる。

 ウィッグでも落ちたのか? 何が起きたのか理解出来ずに固まる中居の腕から女がずるりと滑り落ちた。落ちたはずなのに中居の腕にはべったりと何かがくっついている感触がある。


「ひゅいぃぃ…… 」


 鼻を抜けるような言葉にならない悲鳴がでた。

 湯船に落ちた女が青紫になっていた。その顔の肉が半分削げて骸骨が見えている。身体の彼方此方も溶けてグズグズになっている。

 実際には見た事がないが直ぐにわかった。溺死体と同じだと、腐ってグズグズに溶けているのだと、女を抱えた自分の両腕にべったりとくっついているのは腐った肉や皮膚だと、鼻を突く悪臭は仕事で何度か掃除した腐った人の匂いだと、


「うわぁあぁ~~ 」


 悲鳴を上げながら両手に付いたものをシャワーで流し落とす。


『ふぶっ! ぶふふっ……ふふふふっ………… 』


 必死で汚れを落とす中居の隣り、湯船から声が聞こえた。

 反射的に振り向く、湯船の中、青紫に変色した半分肉の落ちた女の顔が笑っていた。


『ぶふっ……ぶふふふふっ……ぶぶふふふっ………… 』


 横向きに顔を浮かべて、笑う度にブクブクと茶色く濁った湯船に泡が立つ、


「いぃ……ひぃぃ~~ 」


 狭い風呂場の壁を背に中居が身を固くする。目の前の女が生きていない事は一目でわかる。笑えるはずなどないのだ。


『返して…… 』


 バスタブの縁に肉が落ちて所々に骨が見えている手を掛けて女が上半身を起こす。


「いぃ~、いひぃぃ~~ 」


 逃げようとした中居の前で風呂場のアコーディオン式の扉がバタッと閉じた。


「ひぃ、ああぁ~~ 」


 必死で開けようとするが扉は開かない。


『返して……私の指輪…… 』


 女の声に中居が振り返る。

 バスタブから這うように半分肉の落ちた腐乱した女が出てきた。


「しぃぃ……ひぃぃ~~、たっ、助けて……誰か助けてくれぇ~~ 」


 中居は逃げようと悲鳴を上げながら扉をバンバン叩く、


『返して……私の指輪…………返して……指輪………… 』


 怖くて顔を背けた中居の背にべたっと何かが張り付いた。


『あの指輪は私のよ……だから返しなさい』


 直ぐ耳元で声が聞こえた。怖くて見れないが腐乱した女が自分の背に張り付いているのは想像出来た。


『ふふふ……返して……私のよ、ふふふふふ………… 』


 耐えられない臭い匂いに包まれて気が遠くなっていった。



 震えながら中居が目を覚ます。普段の部屋より暗く感じる。窓から指す月明かりが無いのだ。


「さっ、寒っ……寒い…… 」


 風呂場だと気付いて慌てて起き上がる。暗いはずだ。風呂場には窓が無い、小さな換気扇が付いているだけだ。


「うわぁあぁ~~ 」


 腐った女の事を思い出して慌てて風呂場から飛び出した。

 部屋の明かりを点けて風呂場のドアをじっと見つめる。


「夢か……だとして何で風呂場で寝てたんだ」


 怖々とドアを開けて風呂場を覗く、


「やっぱ夢だ」


 いつもと変わらない浴室にほっと溜息をついた。


「寝惚けてトイレと間違ったのか? 」


 中居の部屋はワンルームだがトイレと風呂は別になっていた。3点ユニットバスが嫌いなので同じ価格帯ならワンランク下だがトイレと風呂が別のこのマンションを選んだのだ。


「そっ、そうだな、トイレと間違ったんだな、酔ってたからな」


 間違う事など無いとわかっているが怖いので間違っただけだと思い込むようにした。


「まだ4時間寝れるぞ」


 深夜の3時半だ。毎日7時半頃に起きている。寒そうに震えながら中居はベッドに潜り込んだ。



 翌日、普段通りに仕事をする。

 今回は事故物件の掃除ではなく家賃を滞納して逃げた部屋の掃除だ。


「碌な物残ってないな、殆ど廃棄だ」


 先輩社員の柴田がテキパキと指示を出していく、今日は柴田と中居とアルバイトの大学生の三人だ。


「重いのはお前らに任せるからな、それと冷蔵庫と洗濯機は置いとけよ、まだまだ使えるから大家がサービスで部屋に付けるって言ってたからな」


 残された物を物色しながら柴田が命じる。今回の掃除は現金や貴金属などの貴重品以外は全て回収する事になっている。その中から需要があるものは中古市場に回し、残りは処分する。その見極めは先輩社員である柴田に任されていた。


「サービスって前の住人の持ち物だろ、他にも金になりそうなものは全部持ち出してるみたいだし」


 タンスの引き出しを覗きながら中居が言った。引き出しの中の衣類が荒らされている。親族か大家が何か無いかと探ったのだろう。


「まぁな、でも家賃半年も滞納されたら仕方無いぜ、ここに住んでたヤツは今頃どこかで野垂れ死んでるだろうな」


 柴田が『さぁ仕事だ』と言うように中居の背をポンッと叩いた。


「何だ? 」


 中居の脇を通り過ぎた柴田が顔を顰めた。


「臭いな、何か匂わないか? 」


 顰めっ面で訊く柴田に中居とアルバイトの大学生が振り向いた。


「いや、別に何も…… 」


 中居が何も匂わないと言おうとした時、バイトの大学生が口を挟む、


「臭いっすね、何か腐ってるんじゃないんですか? 」

「そうだよな、匂うよな、何処から匂うんだ」


 同意するように頷くと柴田が臭いの元を辿るように鼻をフンフン鳴らす。


「おい、中居、お前から匂ってるぞ」

「マジっす。中居さんから匂いますね」


 臭いと言われて中居が慌てて自分の腕や胸元を開けて匂いを確かめる。


「何も匂ってないよ」


 少しムッとなる中居の前で柴田が顔を顰めたまま口を開く、


「腐った部屋の匂いだぞ、服とかちゃんと洗濯してるのか? 」

「腐った部屋って酷いなぁ……作業着は会社持ちだし、シャツとかパンツは使い捨てにしてますよ」


 冗談だと思ったのか中居の顔から怒りが消えていく、


「腐った部屋ってアレっすか? 事故物件ですよね」


 興味深げにテンションを上げた大学生を見て柴田がニヤッと笑う、


「おぅ、そうだ。お前も直ぐにやらせてやるよ」

「楽しみっす。一度経験したくてバイトに来たから……マジで人の形に染みが残ってるんですか? 」


 軽口を叩く大学生に柴田がニヤついたまま続ける。


「ああ、本当だ。布団とか畳とか床に腐った跡が残ってるぞ」

「マジっすか、早く見てみたいっす」

「喜んでるのも今のうちだ。現場に行ったら臭くて堪らんぞ、大概のヤツは次の日にバイト辞めるくらいだからな」

「マジっすか…… 」


 軽口を叩いていた大学生の顔が強張るのを見て中居が脅かす。


「覚悟しとけよ、酷いのは現場見てそのまま逃げてバイト辞めるヤツもいるからな」

「中居も4回目まで吐いてたよな」


 ニヤつき顔でからかう柴田に中居が勘弁してくれと手を振る、


「ビジュアルは流石に慣れましたよ、匂いだけはダメだけど」

「まぁな、匂いは俺もダメだ。アレは慣れないな」


 柴田が同意するように頷いた。

 2人の話しを聞いて大学生がからかう、


「中居さんの身体に匂いが染みついてるんじゃないんですか? 」

「バカ言え! その日使った下着や靴下は捨ててるし、作業着は会社のだぞ、風呂も入ってるし匂いが付くかよ」

「そういや、臭くないな、屁でもこいたか中居」

「こいてません! 」


 ムッと怒る中居を見て柴田と大学生が声を出して笑った。

 バカ話をしているうちに臭い匂いは無くなったらしく、柴田と大学生も気のせいだと仕事に戻った。



 この日を境に同じような事が何度も続いた。柴田だけでなく他の先輩社員と仕事をした際にも中居から臭い匂いがしたと言われる。匂いは直ぐに消えるが何度も臭いと言われて中居は次第に気にし始める。

 服の洗濯は勿論、身体や頭も普段以上に丁寧に洗うようになっていた。口が臭いのかも知れないと口臭予防の飴やスプレーなどを常備するようになる。


「一寸匂うな」


 中居はハァハァと自分の息を手に当てて匂うと口臭予防のスプレーを口に一吹きした。

 マスクを付けている掃除中を除いて20分おきくらいにスプレーしている。それだけではない自分が臭いと思い込んで潔癖症のように何度も手を洗うようになっていた。



 暫く経ったある休日、指輪を売った残りが60万ほど残っていたのでSNSで女を引っ掛けて遊びに行った。

 ラブホテルに入って事を終える。ガラスで仕切られた向こうでシャワーを浴びている女を見ているうちに欲情した中居がもう一戦と風呂場に入った。


「へへっ、いいだろ、金ははずむぜ」

「もうエッチねぇ」


 絡み合いながら2人が大きな湯船に入っていく、バシャバシャと暴れる湯気で辺りがもやっと曇った。


「久し振りだから何度でも出来るぜ」


 中居がニヤつきながら女の後ろから抱き付いた。その時、鼻を突くようなキツい臭い匂いが漂ってくる。


「何だ? 」


 湯気で白く霞んでいる中、臭いの元を探す中居に女が後ろ姿のまま腰を押し付けてきた。


『うふふっ、どうしたの』

「何でもない」


 女の腰に回した腕がずるっと滑った。同時に臭い匂いがキツくなる。


「腐った匂いだ…… 」


 白い靄の中、前にいる女の身体が青白い。


「おっ、お前…… 」


 震える声を出す中居の前で背を向けていた女がくるっと振り向いた。


『返して……指輪を返して……あれは私のものよ』

「はっ、はぁあぁあぁぁ~~ 」


 振り返った女の顔を見て中居が悲鳴を上げて離れる。青く膨れた顔の半分の肉が落ちて骸骨が見えていた。


「いぃ……ひぃぃ…… 」

『返して、あの指輪は私のよ……返しなさい』


 仰け反るように逃げる中居に女が抱き付いた。体中に臭い匂いが纏わり付く、


『返して、指輪を返して』


 中居の頬に腐った顔を押し付けながら半分骸骨の女がゴボゴボと喉を鳴らしながら言った。


「いぃひぃぃ~~、しっ、知らん……指輪なんて知らん」


 逃げようと掻き分ける手足に茶色に濁った湯がどろっと絡み付く、


「けっ、けっ、毛が…………ひしぃぃ~~ 」


 手足に絡み付いた長い髪の毛を見て悲鳴を上げる中居の耳元で半分腐り落ちて髑髏が見えている女が笑う、


『うふふ……返して……指輪を返して……返すまで逃がさないわよ』

「しっ、知らない……指輪なんて俺は知らん……たっ、助けてくれぇ~~ 」


 必死にもがくが腐乱した女の力は強く、手足に絡まる髪の毛も締め付けてくるので逃れられない。


『返して……あの指輪は私のよ』


 強烈な腐臭に中居の気が遠のいていく、


「ちょっとぉ、どうしたのよ? ちょっとぉ~~ 」


 身体を揺すられて中居が目を覚ます。


「うわぁ~~ 」


 叫んで飛び起きた中居の目にSNSで引っ掛けた女の顔が映った。


「どうしたのよ、急に倒れるんだから病気かと吃驚したじゃない」


 女の話も上の空で中居が辺りを見回す。


「寝てたのか…… 」


 ガラスで仕切られただけのラブホテルの風呂場に居た。半分骸骨の腐乱した女はいない、臭い匂いも無くなっている。


「急に倒れたのよ、覚えてないの? まぁいいわ、そんな事よりねぇ」


 甘え声を出す女を押し退けると中居は風呂場を出て行く、


「ちょっ! どうしたのよ? 」


 不満げに風呂場から出てきた女の前で中居が服を着始める。


「どうしたのよ、もう帰るの? もっと楽しみましょうよ」

「黙れクソ女! こんな所にいられるかよ! 」


 色目を使う女を怒鳴りつけると中居は帰り支度を済ます。


「なっ……何怒ってんのよ」

「金だろ? 金ならやるよクソ女が!! 」


 呆然とする女に金を投げ付けるように渡すと中居は部屋から出て行った。

 ラブホテルから出て真っ直ぐ家に向かう、


「何だってんだ。あのクソ女が……調子乗ってんじゃねぇぞ」


 幽霊に怯えて気絶したのを見られて恥ずかしかったのか忌忌しげに呟いた。

 駅に向かって歩いていた中居は急に立ち止まると前から歩いてくる買い物帰りらしい主婦を睨み付けた。


「俺が匂うのか? 臭いんだな」


 主婦は睨む中居から目を逸らすと顔を強張らせて避けるように距離を取って早足に通り過ぎていく、


「臭い、臭い臭い、臭い! 」


 中居は叫びながら口臭予防のスプレーを口に何度も掛けると除菌テッシュで手を拭き始めた。それを見て主婦は走って逃げていった。



 中居は家に帰り着くと直ぐに風呂場に入っていく、


「臭い臭い……腐った匂いだ。あの幽霊が……腐った幽霊が取り憑いてるんだ。それで臭いんだ。洗わないと……服も身体も全部綺麗にしないと………… 」


 洗濯機に服を放り込んで洗剤をガバガバ入れて洗濯するとそのまま扉を開けっ放しにしてシャワーを浴びて何度も身体を洗った。


「あんな仕事してるから臭くなるんだ。腐った幽霊に取り憑かれるんだ……クソみたいな仕事なんて辞めてやる。借金はもう無いんだ。クソみたいな仕事などしなくていい、腐った部屋を掃除してるだけのくせに偉そうな社長や柴田の顔も見なくていいしな、辞めだ。辞めた。あんなクソ仕事」


 風呂から出ると暴言を吐きながら身体を拭く、水滴一粒も残らないように丁寧に何度も拭いた後で制汗スプレーと口臭予防のスプレーを吹き付けまくる。


「クソが! 酒飲んで寝るぞ」


 ワンルームの狭い部屋に消臭スプレーを拭きまくると冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。

 テレビを見ながら酒を飲んで酔っ払う、


「もう辞めだ! クソ仕事なんて明日から行かないからな」


 布団や枕に消臭スプレーを掛けてから横になる。病的なまでに匂いを気にするようになっていた。



 どれくらい経っただろう、中居がふと目を覚ました。

 キツい腐臭が漂ってくる。まるで腐った肉と共に汚物を撒き散らしたかのような匂いだ。


「なっ…… 」


 あの幽霊だと起きようとしたが体が痺れて動けない、金縛りだ。


『返して…… 』


 声が聞こえて中居が目を見張る。壁にピッタリと付けているベッドの上、腐った女が中居を覗き込んでいた。


「ひしぃぃ、ひぅぅ………… 」


 壁を突き抜けるようにぬっと上半身だけを出した女を見て中居が掠れた悲鳴を上げた。


『返して……私の指輪……返して…… 』


 半分骸骨の女が話す度に汚水がボタボタと顔に落ちてくる。


「しっ、知らん……指輪なんて俺は知らん……しゃっ、社長だ……社長と柴田が盗んだんだ。俺じゃない……呪うなら社長と柴田を呪え…………俺じゃない」


 咄嗟に口から社長と先輩社員の柴田の名が出た。日頃から不満が溜まっていた2人に押し付けようとしたのだ。

 腐った女が動きを止めた。半分残った青黒い顔の肉に付いた白濁した目が中居を見据える。


『返して…… 』


 一言言うと女は消えた。同時に中居の金縛りが解ける。


「うあぁぁ~~ 」


 バッと起きると風呂場に駆け込んでシャワーを浴びた。神経質に何度も身体を洗うと寝間着代わりのジャージも新しいのに着替えてベッドに潜り込む、


「くく……くはははっ、消えた……あのクソ幽霊、社長と柴田に行ったな、くくく……2人とも呪われて死ね、偉そうにしやがってクソ会社のくせに」


 楽しそうに笑いながら眠りについた。



 翌日、会社へ行くが社長と柴田には何の変化もない、幽霊に怯えている気配が無いのを見て中居はがっかりだ。3日経っても何も起らないのを見て中居は仕事を辞めた。


「特殊清掃なんかやってられるかよ、クソみたいな仕事だ! 」


 暴言を吐いて辞めたその足で歓楽街へと向かう、盗んだ指輪を売った金はまだ40万近く残っていた。


「面白くねぇ……社長と柴田に幽霊が行ったと思ったのにな」


 きらびやかな店が並ぶ通りを歩きながら中居が愚痴った。


「クソが! 何が返してだ。指輪なんてもう売っちまってあるかよ……まぁいい、クソ幽霊が出なくなっただけで充分だな」


 ここ4日、幽霊は出てきていない。ノイローゼのようになっているので気のせいかもしれないが腐ったような匂いは何度か嗅いでいる。


「ちょっとお兄さん」


 声を掛けられて中居が振り返る。


「やっぱりお兄さんだ。私よ、覚えてる? 」


 5日ほど前にSNSで知り合って遊んだ女が馴れ馴れしく声を掛けてきた。


「お前か…… 」


 鬱陶しそうに顔を顰める中居に構わず女が続ける。


「ねぇお兄さん遊ばない? 暇してるんだ私」


 女が色目を使って誘う、投げるように渡されたとはいえ指輪を売った残りの泡銭を持っていた中居は金払いが良かったのだ。


「2万ならいいぞ」

「わかった。それでいいわ、ホテル代はお兄さん持ちよ」


 むしゃくしゃしていた中居は丁度いいと女とラブホテルへと向かった。



 ホテルの部屋に入ると中居は真っ先にシャワーを浴びに行く、


「臭くないな? 大丈夫だ」


 匂いを確かめながらゴシゴシと身体を洗っていると女が入ってきた。


「いつまで入ってるのよ……それとも私を待ってた? 」


 意味ありげに微笑む女の腰に中居が手を回す。


「いいぜ、風呂場なら汚れても直ぐに洗えるからな、臭くないからな」


 湯船の横に置いてあるマットの上で躰を重ねる。


「風呂に入るか」


 一戦終えて湯に浸かる中居の後ろで女がシャワーで身体を流す。


『ねぇ、私も入っていい? 』


 女の声と共にキツい匂いが漂ってきた。


「臭い…… 」


 中居が振り向くと湯船の縁に腐った女がしがみついていた。


「ぴっ、ひっ、ひゆぅぅ~~ 」


 驚きに笛を鳴らしたような声にならない悲鳴が出た。

 顔を引き攣らせて驚く中居を見て半分髑髏の見えている女がニタリと笑う、


『返して……私の指輪……返してちょうだい』


 風呂の縁を伝ってズルズルと女が湯に入ってくる。透明だった湯が茶色く変わった。


「ひぃ……いひぃ、ひいぃぃ~~ 」


 湯船の中を中居が逃げるが後ろは壁だ。前には腐って半分骸骨になっている女がいる。


「たっ、助けてくれ…… 」


 逃げ場の無くなった中居が引き攣った顔で懇願する。


『返して……指輪を返しなさい……私のものよ』


 女が腐った顔をぐいっと近付けた。

 どうにか逃れようと中居は後ろの壁に背を付けて立ち上がる。


「しっ、知らない……指輪なんて俺は知らん……俺じゃない、社長と柴田だ。呪うなら彼奴らの所に出ろ……あの2人を呪い殺せ、俺じゃない」

『違わないわ……貴方が取ったのよ……返しなさい』


 立ち上がった中居の身体を這うようにしてグズグズに腐った女が上ってくる。


「ひぅ! しぃぃ……しっ、知らねぇって言ってるだろ」


 恐怖が最高潮に達したのかキレると目の前の女に殴り掛かった。


「痛い! 止めてぇ!! 何をするの……いやぁ~~、誰かぁ~~ 」

「クソ幽霊が!! お前なんかに……お前なんかに…………ひひっ、ふひひひっ」


 助けを求める女の声を聞いてホテルの従業員が通報して中居は逮捕された。

 臭いだの幽霊だの意味不明の事を話す中居は心神耗弱しんしんこうじゃくで罪に問えない代わりに磯山病院へ入院させられたのだ。

 これが中居來斗なかいらいとさんの語ってくれた話だ。



 中居は身勝手な人だと思いながら哲也が話し掛ける。


「どうにかして指輪を返せばいいんじゃないですか? 」


 顔を顰めながら中居がこたえる。


「それが出来たら苦労しないだろ……返せって言われてももう無いから返せないだろ」


 何で僕に怒るんだと思いながら哲也が口を開く、


「警察には話したんですか? 」

「言えるわけないだろが! そんな事言ったら窃盗罪でぶち込まれるだろが、女を殴ったときは心神耗弱で入院する事で許してもらえたんだ。指輪を盗んだなど知られたらもう終わりだ」


 怒鳴るように言うとジロッと哲也を睨み付けた。


「お前も言うなよ、下手な事言ったら只じゃ済まさんぞ」


 凄む中居の前で哲也が言わないと手を振った。


「言いませんよ、証拠も無いし、中居さんが嘘だって言えば済む話しですから、僕も厄介事は御免ですよ」

「そうか……それならいい」


 安心したように表情を緩める中居に哲也が続ける。


「でも返すしかないですよ、本物か幻覚かわからないけど幽霊は返さないと消えないんじゃないんですか」

「へへっ、300万で売った指輪だぞ、買い戻すには少なくとも500万、3倍の値段で売られててもおかしくない指輪だ。返すなんて無理だな、腐った幽霊に諦めて貰うしかないな、へへへっ」


 中居がへらへら笑いながらこたえた。悪いとは少しも思っていない口振りだ。

 身勝手な中居には同情も浮んでこない、普段なら相談に乗る哲也だが今日は早々に腰を上げた。


「話しを聞かせてくれてありがとうございます。僕は夕方の見回りがあるのでこれで失礼します」


 部屋を出ようとした哲也の鼻に臭い匂いが突き刺さる。


「なん? 」


 顔を顰める哲也を見て中居が慌てて口を開く、


「匂うのか? 臭いんだな? あの幽霊だ。腐った女が取り憑いて匂うんだ」

「確かに匂いますけど…… 」


 先程までの威勢は何処へやら、中居は震えながら哲也の腕を掴んだ。


「たっ、助けてくれ、警備員なんだろ」

「幽霊なんていませんよ、中居さんは病気なんです。自臭症って自分が臭いって思い込む病気です。それでノイローゼになって統合失調症になったんですよ、匂いも幽霊も全部幻覚ですから大丈夫ですよ」


 哲也が微笑みながら中居の腕を離した。


「ゆっ、幽霊が……腐った女が出てくるんだ」


 ベッドに潜り込む中居を置いて哲也は部屋から出て行った。


「あの匂い……中居さんの口臭だぞ、自臭症ってなんなんだ? 」


 長い廊下を歩きながら哲也が首を傾げた。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也は中居の部屋から出てくる女を見る。

 私服姿の女だ。普通にドアを開けて出てきた。午前3時過ぎでなかったら見舞いに来た親族だと思っただろう、


「なん!? 」


 驚いて身を固くする哲也に一礼すると女は脇を通り過ぎた。

 普通の人間に見える。嫌な気配も感じない、40近くだろうか歳を重ねてはいるが綺麗な人だと哲也は思った。


「ちょっ…… 」


 誰だか確認しようと慌てて振り返る。


「なんで…… 」


 長い廊下の何処にも女はいない、哲也は一切音がしなかったのに気が付く、ドアの開け閉めの音も、足音も、直ぐ傍を通り過ぎた息遣いや気配といったものも感じなかった。


「幽霊……中居さん! 」


 哲也が慌てて中居の部屋へと入る。


「くっ、ぐぅぅ……うぅぅ………… 」


 ベッドの上で中居が腹を押さえて苦しんでいた。


「中居さん! 大丈夫ですか!! 」


 声を掛ける哲也に気が付いた中居が震える手を伸ばす。本当に苦しいときは大声など出せない、脂汗を流しながら唸るだけだ。

 ヤバいと思った哲也がナースコールを押した。


「中居さん、直ぐに看護師さんが来ますからね」


 声を掛けながら哲也は臭い匂いに気が付いた。中居から魚が腐ったような腐敗臭が匂ってくる。

 直ぐに看護師がやってきて中居を見た後、先生を呼びに走って行った。その後は大騒ぎだ。中居はストレッチャーで運ばれていった。



 中居は肝硬変だと診断された。急速に悪化したらしく手遅れで寝たきりとなって隔離病棟へと移されていった。


 哲也が感じた臭い匂いは魚臭症ぎょしゅうしょうだ。

 魚臭症もしくはトリメチルアミン尿症と呼ばれる病気である。体臭や口臭が魚の腐ったような匂いになる病気だ。臭いの元となるのがトリメチルアミンという物質だ。食べた物を消化するさいに発生するトリメチルアミンが分解されずに汗や息(吸気)や尿から発散されて匂うのだ。

 先天的なものから肝機能障害や肝機能低下など後天的な事でも起る。基本的な治療方法はなく、肉類を断つなど食事療法で改善させるしかない厄介な病気だ。


 中居は初めは自臭症だったかも知れないが急速に肝臓が悪くなって魚臭症を発症して臭い匂いを放つようになったのだ。

 先生は日頃の不摂生が肝臓に負担を掛けていて何かの要因で急速に悪化して肝硬変を発症したのだろうと言うが哲也は違うと思った。


 廊下で擦れ違った女幽霊の仕業だと考える。

 自身が臭いと思い込む自臭症だと診断されているうちに本当の事を言って謝れば窃盗の罪に問われるかも知れないが幽霊には許してもらえたのではないだろうか? 

 かたくなに知らないと言い張っているうちに肝臓が急速に悪くなっていったのだ。そして魚臭症になり本当に臭い匂いが出てきたときには肝硬変の末期で手遅れだった。


 指輪を返して欲しいのは勿論だが返せないのなら返せないで中居の悪いと思う反省する心を示せばどうにかなったかも知れない、警察に捕まりたくないから頑なに指輪など知らないと言い張った中居に幽霊は祟ったのではないだろうか? 


 今回は余りに身勝手な中居に同情が湧いてこなかった。自業自得だと、哲也も気を付けようと思った。

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