表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/54

第十話 事故

 事故を辞書で調べてみると『不注意などが原因で起こる人災、思いがけずに起こった悪い出来事』というようなことが書いてある。

 保険や賠償金が欲しくて態と事故を起こすバカどももいるだろうが殆どの人は事故など起こしたくは無いはずだ。だが辞書に書いてある通り、思いがけずに起こるのが事故である。

 事故が起こるのは仕方のないことだ。どんなに気を付けていても相手からもらったりする貰い事故は避けようもない、事故は予防も大切だがそれ以上に事故が起きた時の対処方法が一番大事なのである。

 対処を誤って大変な目に遭った人を哲也も知っている。尤もその人は事故現場に偶然通りかかっただけなのだが……。



 昼食を食べに行こうと食堂へ向かっていた哲也はナースステーションから出てくる看護師の香織を見つけた。


「あっ、香織さんだ」


 笑顔の哲也が近付いていく、惚れっぽい哲也が一番気に掛けている看護師が東條香織だ。


「どうしたの哲也くん? 食堂は向こうよ」

「香織さん、朝いなかったでしょ? だから挨拶でもしとこうと思って…… 」


 素っ気ない香織に哲也が笑いながら護摩をするように顔を窺う、


「ふ~ん、挨拶ねぇ……じゃあ、こんにちは、ハイ、挨拶終わり、哲也くんはお昼食べてちゃんと薬飲むこと、わかったわね」

「冷たいなぁ…… 」


 嘆く哲也の胸を香織がポンポン叩く、


「ハイハイ、優しくしてあげるわよ、プリンでも買ってきてあげるから後で一緒に食べましょう、その代わりゴミ出し手伝ってね、ここのところごたごたしてて溜まってるのよ」


 香織たち看護師は食堂で食べる事も出来るが弁当を持ってきたり外へ食べに行く事も多い、今日は外へ食べに行くのだろう、そのついでにプリンを買ってきて哲也に手伝いをさせるつもりだ。


「何でも言ってください、香織さんとプリン食えるなら何でもしますよ」


 満面に笑みを浮かべて哲也がこたえた。プリンは勿論だが香織と一緒にいられるのが嬉しいのだ。


「それじゃあ、あとでね」


 哲也とは反対側へ歩き出そうとした香織が足を止めた。


「うわぁあぁ~~、また出たぁ~、来るな! 助けてくれぇ~~ 」


 男の悲鳴に哲也が振り返る。


「深井さん、大丈夫ですよ、お化けじゃないから……私です。東條香織ですよ」


 哲也の直ぐ前で香織が優しく声を掛けた。


「くっ、来るな……来ないでくれぇ………… 」


 来るなと両手を突き出す男は見てわかるくらいにブルブルと震えている。


「お化けじゃないですから、この病院の看護師ですから」


 困った顔の香織とブルブル震える男を哲也が見比べるように何度も見ている。


「ひぃぃ……助けてくれぇ~~、俺は悪くない……知らなかったんだ。だから……だから恨まないでくれ……助けてくれぇ~~ 」


 悲鳴を上げながら男が走って逃げていった。


「違いますから……もう………… 」


 珍しく弱り顔の東條を哲也が覗き込む、


「なんすかアレ? 香織さん何かしたんですか? 」


 香織が慌てて口を開く、


「何もしてないわよ」

「でも只事じゃないビビリかたしてたっすよ、治療とか言って何かしたんでしょ? 」

「してません、するわけないでしょ」


 ムッとする香織を見て哲也がニヤッと笑う、


「本当っすかぁ……結構イケメンだったから香織さんがちょっかい出してヤバい事でもしたんじゃないっすかぁ~~ 」


 意地悪顔でからかう哲也の向かいで香織が少し怒りながら話し出す。


「変な事なんかしてないからね……あの人は深井さんっていって情緒不安定なのよ、女の幽霊が見えるって怯えてるのよ」

「幽霊っすか? それで香織さんを幽霊と見間違えたんですね」


 怪異なことが好きな哲也が直ぐに食い付いた。


「そうなのよ……私だけじゃないわよ、女の人は全部幽霊に見えるみたいなのよ、それで担当看護師や先生は全部男の人に任せることになったんだけど……廊下で会うのは仕方無いわよね」

「香織さんが幽霊に似てるとかじゃないのか……女の人全部って大変だな、もう女恐怖症って感じですね」


 興味津々で目を輝かせる哲也の前で香織が弱り顔で頷いた。


「そうなのよ、わかってても悲鳴上げて逃げられたらヘコむわよ」

「僕なら香織さんみたいな美人なら幽霊でも何でもありですけどね、逃げるどころか抱き付いちゃいますよ」


 ニコニコ顔で言う哲也の頭を香織がポンッと叩く、


「何言ってんのよ、哲也くんは女の子なら誰でもいいんでしょ」


 美人と言われて満更でもない様子だ。

 香織の機嫌が直ったのを見て哲也が切り出す。


「それで深井さんでしたっけ? もっと詳しく教えてください」


 話しが聞きたくてうずうずしている哲也の向かいで香織が溜息をついた。


「 ……仕方無いなぁ、本当はダメなんだよ、でも私たち女は近寄るだけで怖がるし……哲也くんに話しとけば何かと手伝ってもらえるからね、帰ってきたら話してあげるわ、プリンでも食べながらね」

「了解です。ゴミ出しの手伝いもしますから何でも言ってください」


 元気よくこたえる哲也を見て香織が弱り顔で苦笑いだ。


「それじゃあ、後でね」


 長い廊下を哲也と香織が反対側に歩いて行く、哲也は食堂へ、香織は外に昼食を食べに行くのだ。


「幽霊でも何でもありか…… 」


 廊下を歩く香織がボソッと呟くが反対側に歩いて行く哲也には当然聞こえない。



 昼食の後、香織が哲也の部屋にやってきた。


「はい、哲也くんは苺味ね」


 香織がカップに入ったアイスクリームを差し出す。


「プリンとか言ってたけど…… 」

「お昼にラーメン食べたら熱くてさ、アイス食べたくなったんだよね」


 椅子に座ると香織はメロン味のアイスをテーブルの上に置いた。


「まぁいいけど、それで深井さんの事なんだけど」


 向かいに座るとアイスの蓋を取りながら哲也が訊いた。


「深井さんはねぇ…… 」


 蓋の裏に付いたアイスを木のスプーンで削るように取りながら香織が話し始めた。


 深井重人ふかいしげと23歳、ほっそりした顔に痩せた長身、中々なイケメンだ。

 血塗れの女幽霊に襲われると暴れて近くの心療内科を受けていたが薬を飲んでも良くならず情緒不安定が進んで統合失調症と診断されて親が磯山病院へ入れたのだ。

 何でも死亡事故の現場を通りかかって幽霊を見てしまい取り憑かれたらしい、両親は霊現象など一切信用しない人だったが余りにも怯える深井を見て気休めになればと近くの寺や神社でお祓いをしてもらったが何も効果はなく、幽霊が出ると言って部屋の中のものを壊すほど暴れ出したので心療内科を受けさせたのだ。


 食べながら話しを聞いていた哲也がアイスにスプーンを突き刺した。


「深井さんっていつ入ってきたんです? 初めて見たけど…… 」


 向かいで口からスプーンを抜くと香織がこたえる。


「4日前よ、話した通り女の人を見ると幽霊を思い出すのか怯えたり暴れたりするのよ、自分でも分かってるみたいで食事と風呂の時以外は部屋に引き籠もってるわ」

「引き籠もりっすか、そりゃ見ないわけだ」


 ふ~んと鼻を鳴らすと哲也がアイスを口に運ぶ、向かいで香織が続けて話す。


「近くの町で3週間前に起きた轢き逃げ事故よ、そこを偶然通って幽霊に取り憑かれたって思い込んでるらしいのよ」

「3週間前って……山道で起きた事故っすね、ニュースでやってたの見ましたよ、トラックがバイクに乗ってた女の人を轢いて逃げたんですよね」


 近くと言っても直線距離で70キロ以上離れている町だ。

 明かりなど無い夜の山道をバイクで走っていた女子大生が後ろから来たトラックに追突されて山の下の方へバイクと一緒に落ちていったのだ。トラックはそのまま逃げた。轢き逃げである。女子大生は自力で這い上がって来たのか山道の端で倒れているのを発見されたが既に亡くなっていたらしい。


「よく知ってるわね、スマホ弄ってて余所見してバイクを轢いたらしいわよ、トラックの運転手は怖くなって翌日出頭してきたヤツ、逮捕されたんだから幽霊がいるならそっちに出ればいいのにって早坂さんたちが話してたわよ、そしたら深井さんも病気にならなくて済んだのにって」


 早坂とは香織と仲の良い看護師仲間だ。当然、哲也もよく知っている。早坂は美人と言うより愛嬌のある可愛らしい看護師である。


「深井さん結構イケメンだったからな、早坂さんイケメン好きそうだからなぁ」


 少し悔しそうな哲也を見て香織が微笑む、


「私が知ってるのはこんなところかな」


 話を終えた香織に向かいに座る哲也が身を乗り出す。


「それで幽霊ってどんな風に出てくるんです? 香織さんと間違うくらいだから美人なんですよね」

「マジで美人なら何でもありか! 」


 アイスを掬ったスプーンを咥えながら香織が怒鳴った。


「えへへ……香織さんみたいなら幽霊でも悪魔でも何でもありっす」


 照れる哲也を見て香織が溜息をつく、


「まったく……詳しい話しは知らないわよ、女の幽霊に襲われるって聞いただけだから……私に似てるんじゃなくて女はみんな幽霊に見えて怯えるのよ、だから今の話しも直接聞いたんじゃないわ、佐藤さんから聞いたのよ」


 佐藤と聞いて身を乗り出していた哲也が椅子に座り直した。


「佐藤さんっすか? 流石に話し掛け辛いな」


 嫌そうに顔を歪める哲也を見てアイスを食べる手を止めて香織がクスッと笑った。


「仏頂面だけど案外良い人だよ佐藤さん、まぁ怒らせたら怖いけどね」

「知ってるっす。もろ体育会系って感じっす。ああいうタイプは苦手です」

「そうか……じゃあ今度から哲也くんが悪さしたら佐藤さんに頼もう」


 意地悪顔で言う香織の前で哲也が頼むように手を合わせる。


「勘弁してください、って言うか悪さなんてしてませんから、警備員の仕事ちゃんとやってるからね」

「あははははっ、冗談よ、冗談、哲也くんにはいろいろ手伝ってもらってるからね」


 楽しそうに声を出して笑った後でアイスのカップに口を付けて底に溜まった溶けかけのアイスをスプーンで流し込むように食べると香織が立ち上がった。


「私の話はここまで、じゃあゴミは片付けといてね」


 家の中で寛いでいるような食べ方だ。哲也を男として意識していないと言うより弟のように思っているのだ。


「そうそう、ゴミで思い出したわ、7時過ぎからゴミ出しの手伝い頼むわよ、新人が忘れてて溜まってるのよ、その娘は今日休みで哲也くんが代わりってわけ」

「新しい看護師さん入ったんですか? 今度紹介してください」


 ガバッと身を乗り出す哲也を見て香織が呆れ顔だ。


「患者ってこと完全に忘れてるな……紹介しなくてもそのうちに会えるわよ、当分B棟を担当してるから見回りで会うかもね」


 じゃあと言うように手を振って香織が部屋を出て行った。


「新しい看護師さんかぁ……香織さんみたいに美人だといいんだけどな」


 ニヤつきながらコンビニの袋に自分の食べた苺味のアイスのカップと蓋を放り込む、向かいのメロン味のアイスカップに伸ばした手を哲也が止めた。


「香織さんの食べたアイス…… 」


 他には誰も居ない自分の部屋で哲也が辺りをキョロキョロ見回す。


「お宝ゲットだぜ!! 」


 嬉しそうに緩みきった顔でガッツポーズを取った。



 夕方の見回りを終えて手早く夕食を済ませ、香織に頼まれたゴミ出しの手伝いを終えると哲也は売店で買ったチョコレートの入った袋を持って廊下を歩いて行く、


「411号だったな」


 深井の部屋番号は香織から聞いていた。ついでにチョコレートが好きだという事も聞いていたので幽霊話を聞く手土産にしたのだ。


「女の幽霊ねぇ……美人なら会ってみたいな」


 階段を上りながら野次馬根性丸出しで呟く、轢き逃げ事故のことはニュースを見て知っていた。遠く離れた他県ではなく近くで起きた事故で偶然通りかかった深井が幽霊に取り憑かれたというのだ。哲也でなくとも興味を持つものはいるだろう。


「あれ? 」


 411号室のある4階にくると哲也が足を止めた。

 長い廊下の向こうの端に私服姿の女がいた。


「誰だろ? 」


 女がドアを開けて部屋に入っていくのを見て哲也が首を傾げる。

 私服姿なので患者ではないとわかったが看護師や先生の付き添いが無いとここまで入ることは出来ないはずだ。


「誰か看護師さん付いてるのかな? 」


 部屋の中に看護師か先生が居て面会に来たらしい女はトイレにでも行って戻ってきたのだろうと考えた。


「まぁ一応確認しておくか」


 男なら警戒するが相手は女だ。哲也は軽い気持ちで女が入っていった部屋へと向かう、


「411……深井さんの部屋だ」


 哲也が何とも言えない顔をしてドアの前で立ち止まる。


「お母さんにしては若く見えたけど……姉さんか妹かな」


 ノックしようとした手を止めた。女が幽霊に見えると言って怯える深井の部屋に入っていける女性は親族以外にいないだろう、話しの邪魔をするのは気が引けたのだ。


「どうするかな…… 」


 出直そうと上ってきたのとは反対側の階段へ歩き出そうとした時、悲鳴が聞こえた。


「うわぁあぁ~~、止めろ! 来るな! 許してくれぇ~~ 」

「深井さん!! 」


 哲也が慌てて部屋へと入る。


「助けてくれぇ……俺が悪かった………… 」


 深井が部屋の隅でぶるぶると震えていた。慌ててベッドから飛び出したのか布団や枕が床に転がっている。


「深井さん…… 」


 震える深井の他には誰も居ない、哲也の表情が強張っていく、


「深井さん1人ですか? 」


 険しい顔で哲也が訊くと深井が震えながら頷いた。


「お……おっ、お化けが……お化けが……でっ、出たんだ」


 ぶるぶる震え、歯をカチカチ鳴らしながら絞り出すように深井が言った。


「お化け…… 」


 哲也の背に冷たい汗が流れる。確かに部屋に入る私服姿の女を見たのだ。ドアを開けて入っていったので幽霊だとは思わなかった。

 深夜ならともかくまだ午後7時半過ぎだ。廊下の明かりも全て点いている。各部屋からはテレビを見ている音や患者同士の楽しげな話し声も聞こえてくるのだ。


「さっきのアレは…… 」


 確かに見たという言葉を哲也が飲み込んだ。深井が怯えた目でじっと見ていたからである。ここで哲也も見たなどと話すとパニックを起こしかねない、部屋にあるものを破壊しまくって暴れたと香織から聞いている。自分の不注意でそんな事になれば大変だ。


「アレって? もしかしてあんたも…… 」


 いくぶん落ち着いたのか深井が立ち上がる。

 ぎこちない笑みを作ると哲也が口を開く、


「何です? 悲鳴が聞こえたから慌てて駆け付けたんですよ」

「幽霊を……女の幽霊を見たんだろ? 」


 同意を求めるようにじっと見つめる深井の前で哲也が平静を装って続ける。


「幽霊? 何ですそれ? 深井さんの悲鳴が聞こえたから来ただけですよ、僕は警備員ですから、警備員の中田哲也です。哲也って呼んでください」


 倒れていた椅子を起こすと深井が座る。


「警備員さんか…… 」

「そうですよ、夕方の見回りで前を通ったら悲鳴が聞こえたから驚いて確認しに来たんですよ」


 疲れたように呟いた深井の向かいで咄嗟に嘘をついた。夕方の見回りなどとっくに終っている。部屋に入った女の事はあくまでとぼけ通すつもりだ。

 床に落ちている枕や布団をベッドの上に置くと哲也が話を切り出す。


「話しを聞かせてもらえませんか? 深井さんの驚き方を見たら幻覚とは思えなくて……僕でよければ力になりますよ、警備員ですから夜とか深夜にも見回りしてますから、今も見回りしてたから駆け付けたんですよ」


 観察するように見つめてから深井が口を開く、


「哲也くんだっけ? 」

「はい、中田哲也です」

「そうだな……哲也くんが入ってきてくれたから幽霊が消えたんだ。見回りしてるならまた助けてもらえるかも知れないな」


 ハキハキとこたえる哲也に深井が座れと向かいの椅子を指差した。


「夕方と夜の10時と深夜の3時頃に見回りしてます。今みたいに悲鳴とか聞こえたら必ず駆け付けますから話しを聞かせてください」

「 ……わかった」


 向かいに座る哲也を見つめてやつれた顔で頷くと深井が重い口を開いた。

 これは深井重人さんが聞かせてくれた話しだ。



 今から3週間前の事だ。夜の10時過ぎ、深井は曲がりくねった細い山道を一人で車を走らせていた。


「いいって言ったのに……まだまだ子供扱いだな」


 ダッシュボードの上に置いた祝儀袋を見つめて呟いた。

 隣町に住む伯父に用事を頼まれての帰り道だ。昼から夜まで手伝ってくれた礼だと言って包まれたものである。


「それにしても危なっかしい道だな」


 明かり一つ無い山道だ。舗装もされておらず対向車がギリギリ通り抜けられるくらいに狭くて曲がりくねっているので夜は余り通りたくないというのが正直なところである。


「でも近道だしな……予約するの忘れてたから見逃したくないし」


 毎週見ているテレビ番組を見るために仕方無く通っているのだ。山を迂回する道路もあるが15分程余計に時間が掛かる。

 それなりにスピードを出しながら尚且つ慎重に車を走らせているとヘッドライトが前方で動く影を捕らえた。


「なんだ? 」


 深井がスピードを落とす。細い道の左は山肌が剥き出しになっていて右は崖と言うほど急ではないが車ごと転がり落ちるほどの斜面になっていた。


「鹿か? 」


 四つ足の細い影を見て鹿か野良犬でもいるのかと更にスピードを落とした。轢くのが嫌なのもあるが乗り上げてハンドルを取られて右の斜面に落ちるのはもっと嫌である。

 ゆっくりと近付きながらどけと言うようにクラクションを鳴らす。


「なっ…… 」


 驚いた深井が息を詰まらせたような声を出した。

 前にいた何かがゆっくりと立ち上がったのだ。


「女か? 」


 10メートル程前でブレーキを踏んで車を止めた。

 前から人が歩いてくる。細い体に肩に掛かるほどの髪をしているので女だとわかる。


「何だ? 」


 じっと見ていた深井の顔が引き攣っていく、近付いてくる女の姿が異様だ。

 薄手のジャンパーにジーンズを穿いている。だが色が変だ。全身茶色に見えた。


「たっ……助けて…… 」


 左足を引き摺るようにして女が歩いてくる。


「ああぁ……助けて…………やっと車が……ああぁぁ……助け………… 」

「うわぁあぁ~~ 」


 女の姿を見て深井が悲鳴を上げた。

 目の前にいる女は土の中から這い上がって来たかのように全身泥だらけだ。それだけではない、茶色い土の色だけでなく所々に赤い色が浮んでいる。ジャンパーやジーンズの彼方此方が裂けたように切れ赤い血が滲んでいた。


「ああぁ……助けて……お願い……病院に………… 」


 女が窓から深井を覗き込む、その右肩がぱっくりと割れて肉が見えていた。とても生きている人間には見えない。


「うわっ、うわあぁぁ~~ 」


 血こそ流れていないが顔にも泥が付いていた。青白い顔の頬に髪の毛が泥と一緒にべったりと付いている。


「ゆっ、ゆっ……幽霊…… 」


 震える声を出す深井の直ぐ横、運転手側の窓に女がべたっと顔を付けた。


「痛い……痛い……助けて…… 」


 泥と血塗れの女と目が合った。しっかりと見つめ合う、真っ暗な山道で必死で目を見開く女幽霊に悲鳴を上げながら深井が車を発進させる。


「ひぃぃ……助けてくれぇ~~ 」

「ああぁぁ………… 」


 女がサイドミラーにしがみついた。


「助けて……助け………… 」

「止めろ! 止めてくれぇ~~ 」


 深井はアクセルを踏んで女幽霊を振り落とした。



 山道を下ると自分の町へ出た。一番近くのコンビニに車を向かわせる。


「はぁぁ~~ 」


 駐車場に車を止めると大きく息をついてハンドルに寄り掛かる。何処をどう通ったのか覚えていないがこのまま家に帰ると幽霊もついてきそうで怖くてコンビニに寄ったのだ。


「何だったんだアレは……あの道に幽霊が出るなんて知らないぞ」


 少し落ち着くと飲み物でも買おうと車から降りる。


「うわっ! 」


 悲鳴を上げて手を引っ込める。ドアを閉めようと掛けた手にヌルッと何かが付いたのだ。


「ひぅぅ…… 」


 悲鳴か呻きか? 喉から変な声が出た。

 車のドアノブに泥が詰まっていた。それだけではないドアの彼方此方に泥と血が付いていた。掴まれて曲がったサイドミラーには手形まで付いている。


「あの幽霊、ドアを開けようとしたんだ……入ってくるつもりだったんだ」


 怖さが戻ってくる。震えながらドアを閉めた。


「うわぁぁ~~ 」


 大きな悲鳴が口から出た。運転席のガラスに女の顔の跡がくっきりと付いていた。



 震えながらコンビニに入るとトイレを借りて手を洗う、コンビニ内には数名の客と店員がいた。悲鳴を聞いたのか全員怪訝な顔で深井を見ている。


「ああ……入ってこなくて良かったぁ~~ 」


 明るい店内と人がいることに安心したのか手を洗っているうちに落ち着いてくる。

 暫く立ち読みして平静を取り戻すとジュースを買ってコンビニを出る。


「スタンド寄って車を洗わないとな……夜じゃなかったら神社に寄って御守りでも貰ってくるんだけどな」


 泥で汚れないようにコンビニの袋を手に嵌めてドアを開ける。


「もうテレビ間に合わないな……近道なんかするんじゃなかった」


 車内でジュースを飲みながら先程の出来事を思い返す。


「マジで幽霊かよ……もう二度とあの道は通らんぞ」


 一人呟くと車を走らせる。

 チラチラと横の窓を見る。光の関係か、車の中からは女の顔の跡は見えない、泥が付いているだけだ。


「ヤバかったよな、マジで怖かった」


 何かあれば怖いという思いでガソリンスタンドで車をしっかりと洗ってから家に帰った。



 その日の深夜、深井は夢を見た。


「遅くなったけど今日中に帰りたいからね」


 真っ黒な山道をバイクに跨って走っている。明かりはバイクのヘッドライトだけだ。深井はバイクの免許は持っていない、原付のスクーターしか乗ったことなどないのだが今は大きなバイクを当然のように走らせていた。


「なに? トラックか……狭い道だけどバイクなら大丈夫ね」


 普通乗用車がギリギリ擦れ違えるくらいの狭い山道だ。大きなトラックと乗用車ではどちらかが待避所に入って道を譲らなければ通れないがバイクなら余裕である。


「下を通ればいいのに15分も惜しいのかな」


 愚痴りながらバイクを端に寄せてスピードを落とす。トラックを先に行かせるつもりだ。

 近道と言っても山を迂回する下の道路と15分ほどしか違わない、舗装もされていない山道を夜に通るのは慣れた地元住民か余程の好き者くらいである。


 後ろからトラックが迫ってくる。狭い山道の真ん中を結構なスピードを出していた。


「ちょっ! 」


 身の危険を感じて避けようとした深井は大きな音と共に宙に浮いた。

 直後、右肩に殴られたような衝撃を感じて意識を失う、


「ここは……俺の部屋だ」


 目を覚ますと実家住まいの自分の部屋だった。柱に掛かる時計を見ると深夜の2時を指していた。12時半頃にベッドに潜り込んだので1時間半ほど寝ていたらしい。


「夢か……嫌な夢だ。マジで死んだかと思った」


 トイレに行こうと起きようとした時、横になって寝ていた後ろから声が聞こえた。


『死んだわよ』


 慌てて飛び起きようとしたが電気が走ったように痺れて体が動かなくなる。


「しぃぃ…… 」


 悲鳴にならない空気が抜けるような声を出す深井の後ろ、横向きになって寝ているその後ろで誰か同じように横たわっている気配を感じた。


『トラックに轢かれて死んだの』


 声色から女だとわかる。深井は23歳だ。高校の時に付き合った彼女と男女の経験はある。枕を並べて寝た経験もある。だが今は彼女はいない、こっそりやってきてベッドに潜り込むような女はいないのだ。


「だれ…… 」


 誰だと聞こうとした深井の背が後ろから撫でられた。


『うふふ……私よ』


 ゆっくりと繰り返し撫でながら後ろで女が笑った。女の暖かい息が首筋に当たる。

 こんな悪戯をするのは誰かと必死で考える。

 考えているうちに妙な事に気が付いた。寝ている後ろは壁のはずだ。30センチも隙間は空いていないはずだ。人が寝られるわけがないのだ。では後ろにいる女は何者だろうか? 


「だっ……だれ…… 」


 誰かの悪戯であってくれと願いながら、どうにかしようと必死でもがくが痺れたように体は動かない。


『さっき会ったじゃない』


 背を撫でていた女の手が深井の首筋に掛かる。


「さっき…… 」


 深井の頭に山道で遭った女幽霊が浮んだ。


「ひぃぃ……しぃぃ…… 」

『やっと気付いた』


 掠れるような悲鳴を上げる深井の後ろから女の嬉しそうな声が聞こえた。


『どうして助けてくれなかったの? 恨めしい』


 深井の首に女の指が食い込んでいく、


「しぃぃ…… 」


 首を絞められる苦しさに気が遠くなっていく、


「がっ、がふっ! ごがっ……ううぅ………… 」


 咳き込みながら目を覚ますと飛び起きるように上半身を起こした。


「助け……なっ……夢か………… 」


 ベッドの上で辺りを見回して普段と何も変わらない自分の部屋にほっと息をついた。


「あの幽霊がついてきたのかと思った……よかったぁ~~ 」


 安堵する深井に後ろから何かがしがみつく、


『うふふ……憑いてきたわよ』


 青白い顔をした女が抱き付いて深井の頬に顔を付けながら言った。


「うわぁあぁぁ~~ 」


 悲鳴を上げて深井がベッドから飛び出す。


「がっ、痛てぇ!! 」


 小さなテーブルに足をぶつけて転ぶ、逃れようと女の方を見ると何もいない、ベッドは空だ。乱暴に捲った布団がベッドから半分はみ出ているだけだ。


「痛てて……夢か? 」


 ぶつけた足を摩りながら考える。寝る前に酒は飲んだ。山道で見た女幽霊のことを忘れようと普段よりも多目に飲んだが酔っ払ってはいないと自分では思っている。だが本当は酔っていて変な夢を見たのだろうか? 


「夢だな……全部夢だ。痛てて………… 」


 ぶつけた足に薬でも塗ろうと部屋を出て行く、リビングで薬を塗るとトイレに向かう、小便を済ませて手を洗う、鏡に映る自分の顔を見て悲鳴を上げた。


「ぶわぁあぁ~~ 」


 深井の頬に泥がべったりと付いていた。


 騒いでいるところを両親に咎められ山道で遭った女幽霊のことを話したが霊現象など一切信じない両親に夢だと言われ、いい大人がそんな事で騒ぐなと叱られて深井も黙るしかなかった。



 翌日、会社勤めの深井は工場の食堂で昼食をとっていると設置してあるテレビに釘付けになった。


「あの道だ…… 」


 昨夜通った山道で轢き逃げ事故があったと放送していた。バイクで帰宅していた女性が轢き逃げされたらしい。


「やっぱり幽霊だったんだ…… 」


 昨夜のことを思い出してブルッと震えた。

 同僚に話をしようかと考えたが笑われるだけならともかく轢き逃げ事故と何らかの関係があるなどと疑われては大変だと考えて相談するのは止めた。

 今晩も幽霊が現われたらどうしようかと怯えながら仕事を終える。


「寺か神社でお祓いして貰おう」


 まっすぐ帰らずに町で一番大きな神社へと車を走らせた。

 神社で自身は勿論、車もお祓いして貰う、余計な出費になったが幽霊に襲われるよりはマシである。


「御札も貰ったし、これで大丈夫だ」


 御守りを車のサンバイザーに引っ掛けて御札を助手席に置くと自宅へと向かう、


「何だ? 工事かよ」


 暫く走っていると毎日通っている道路が工事で通行止めになっていた。仕方無く迂回路を通る。


「渋滞かよ」


 細い道で渋滞が起きていた。車社会の田舎だ。丁度帰宅時間で迂回してきた車が詰まっているのだ。


「チッ! 向こうを通るか」


 不満そうに口を鳴らすと更に迂回路へと車を回す。


「なん? また工事かよ」


 細い道が通行止めになっていた。


「マジかよ、冗談じゃないぞ」


 迂回していく前の車列を見て思わず愚痴が出た。前の車が通っていく道はあの山道に通じている。確かにここからなら一番早く通り抜けられる道だろう、だが深井は二度と通りたくない道だ。


「あんな道通るくらいなら大回りするぞ」


 脇道へ抜けると帰宅する車列を尻目に反対方向へ車を走らせる。一旦町の外へ出て大回りして向こうへ抜けるのだ。普段の倍どころか3倍近く時間は掛かるがあの山道を通るよりマシである。


「踏んだり蹴ったりだ」


 愚痴りながら落ち着こうとラジオを付ける。

 夕方のニュースで轢き逃げしたトラックの運転手が出頭してきたと放送していた。何でも昼のニュースに取り上げられたのを知って怖くなって出頭したとのことだ。


「お前の所為かよ! 」


 深井が車の中で怒鳴った。トラックが轢き逃げなどしなければ幽霊に襲われることなどなかったのだ。


「運転しながらスマホ触るなバカが! 女じゃなくてお前が死ねばよかったんだ」


 流れてくる詳しい話しを聞いて怒鳴りながら車を走らせる。

 前方不注意でバイクを轢いたらしい、トラックの運転手はスマホを弄っていて気が付いたら追突して女性はバイクと一緒に右の斜面へ吹っ飛んでいったらしい、運転手は止まって声を掛けたが何も返事がなく殺してしまったと思い怖くなって逃げたのだという。


「クソが! 俺の所為じゃないからな、俺は何一つ悪くないだろが! 化けて出るならトラックの運転手に出ろ」


 犯人が捕まり、神社でお祓いをして貰ったこともあり、会社を出るまで怯えていたのが嘘のように愚痴りながら車を走らせて帰って行った。



 部屋に入ると真っ先に神社で貰った御札を壁に貼り付けた。


「これでよし! 犯人も捕まったしこれで大丈夫だ」


 いつものように夕食を食べ、風呂に入ってテレビを見たりスマホを弄って時間が過ぎる。


「そろそろ寝るか……神様どうか御守りください」


 壁に貼り付けた御札に手を合わせて祈るとベッドに潜り込む、なかなか寝付けなかったがいつの間にか眠りに落ちていた。


 朝、目を覚ました深井が寝転がったまま伸びをする。


「ふぁぁ~~、よく寝た」


 壁に貼ってある御札が目に入る。


「神様ありがとうございます」


 女幽霊は出なかった。お祓いの御陰だと手を合わせて礼を言った。



 3日ほど経つと幽霊のことなどすっかり忘れてしまう、この日は仕事仲間と飲み会をして帰路についた。

 車は酒の飲めない同僚に運転を頼んだ。数日前から決めていた飲み会だ。深井の家から比較的近くだったので同僚の車は深井の家に停めて深井の車で一緒に通勤したのだ。


「今日も工事してるぞ」


 ハンドルを握る同僚が車のスピードを落とした。

 前方の渋滞を見つめて助手席に座っていた深井がボソッと呟く、


「山を抜けるか」

「山か……夜は通りたくないな、ほら、最近も事故遭っただろ、死亡事故は稀だが追突とかしょっちゅう起きてるぞ」


 渋滞に捕まってのろのろと車を走らせながら話す同僚を見て深井が口を開く、


「あの事故な……実は直ぐ後に俺が通ったんだ」

「マジかよ! 事故見たのか? 」


 驚く同僚を見て深井がニヤッと笑った。


「事故は見てない……けど幽霊は見た」

「幽霊? なんだ冗談かよ」

「冗談じゃないぜ」


 深井が運転席上のサンバイザーに手を伸ばす。


「次の日に車も俺もお祓いして貰ったんだ。この御守りだけじゃなくて御札もあるぞ、御札は俺の部屋に貼ってある。3万も払って冗談すると思うか? 」


 深井の真剣な表情を見て同僚が顔を強張らせる。


「マジかよ……どんな幽霊だ」

「女の幽霊だ。結構若かったぞ、血と泥まみれで山の下に飛ばされて這い上がって来たって感じだ。絶対に轢き逃げされて死んだ女の幽霊だ」

「マジかよ」


 ビビって『マジかよ』しか言わなくなった同僚に深井があの日見た女幽霊の事を話して聞かせた。


「マジかよ、家についてきたってヤバくね」

「俺もビビりまくったよ、だから神社に行ってお祓いして貰ったんだ」


 話し終えると深井は御守りを手で挟んで祈るような仕草をした。


「お祓いって本当に効くんだな」

「俺も本気で信じたわけじゃないけど助かったぜ、3万なんて安いものだ……おっと、次の道、右な、右に入れよ」


 渋滞でのろのろ走っている同僚に右の道へと行けと深井が指示した。


「右って……山に行く気か? 」

「大丈夫だってお祓いしたんだし轢き逃げした犯人も捕まったからな」

「取り憑かれるのは嫌だぞ、3万も払いたくないからな」


 嫌がる同僚の肩を深井がバンバン叩く、


「あははははっ、大丈夫だって、本当言うと俺もマジで幽霊見たのか確かめたいんだ」


 酔って気が大きくなっているだけでなく同僚もいる。深井自身も親の言うように夢か幻だったのではないかと思い始めていた。


「 ……わかった。そこまで言うなら行ってみよう、祟られてもお前の車だしな」


 同僚がハンドルを切る。深井の車は渋滞から外れて山へと向かって行った。



 時刻は夜の10時過ぎ、同僚の運転する深井の車が曲がりくねった山道を上っていく、


「何にも無かったな」


 事故現場の辺りを通り抜けると同僚がほっとした様子で言った。


「犯人が捕まったし成仏したんじゃないか」


 軽口を叩く深井も安堵していた。夢でも幻でもいい、もう怖い目には遭わないだろうと思った。それを確認するためにも山道を通ることにしたのだ。


「ビビりまくってたから狸や鹿を見間違えたんだろ、あ~あ、3万勿体無い」


 からかう同僚の隣で深井が頷く、


「3万あったら結構遊べるよな……もったいねぇ~~ 」

「御陰で渋滞に捕まるより早く帰れてよかったけどな」


 戯けてこたえる深井の横で同僚がからかった。

 深井が身を乗り出してフロントガラス越しに空を見る。


「雲が出てきたな、明日は雨かな」


 それまで山道を照らしていた月が雲に隠れて辺りが暗くなる。明かりなど無い山道だ。車のヘッドライトだけが眩しく前方を照らしている。

 深井はふと視線を感じて助手席の窓を見た。


「ひぅっ!! 」


 息を詰まらせるような悲鳴が出た。青白い顔をした女がべったりと顔を付けて深井を恨めしげに見つめていた。


「うわぁあぁ~~ 」


 深井の悲鳴で同僚が慌てて車を止めた。同時に女幽霊の姿が消えた。


「おいっ、どうした? 」


 同僚のハンドルを握る手を深井がバンバン叩く、


「早くっ! 早く車を走らせろ! 」

「何だよ……わかったから落ち着け」


 深井の剣幕に押された同僚が車を出した。隣でブルブル震える深井を横目で見ながら同僚が車を走らせる。

 山道を抜けて町へ出ると少し落ち着いたのか深井の震えも止まった。


「何があった? 」


 心配そうに訊いた同僚に深井が小さな声で話し出す。


「女が……女の幽霊が窓に引っ付いてた。前に見たのと一緒だ。轢き殺された女の幽霊だ。肩が切れてて肉と骨が見えてた。髪に泥がついて……間違いない、あの時の幽霊だ」

「マジか? 俺は何も見てないぞ」


 同僚が態と明るい声を作って言った。


「見たんだよ、ここに顔を付けて俺を睨んでたんだ」


 ここだと言うように深井が助手席の窓を指差す。


「手の脂か何かの汚れだろ、窓が汚れてるから顔のように見えたんだ」


 窓には白っぽい汚れがついていた。確かに手で触った跡が車内の光に反射して浮かび上がって何かの形に見えることはある。


「違う! 汚れとかじゃない、ハッキリと見たんだ。アレは幽霊だ」


 怒鳴る深井の隣で同僚がサンバイザーに掛けてある御守りを指差した。


「わかった。わかった。幽霊だとしても何も出来なかっただろ、御守りがあるから車の外から睨むしかできなかったんじゃないかな」

「 ……そうか……そうだな、御守りが守ってくれたんだな」


 御守りに向かって手を合わせる深井を見て同僚はそれ以上、幽霊の話しをするのは止めた。



 深井の家の駐車場に車を入れる。今は自家用に米や野菜を作る程度だが昔は農家をやっていただけあって敷地は広いので駐車場には困らない。


「見間違いだよ、気にするなって」


 まだ顔色の悪い深井に車のキーを渡すとドアを開けて同僚が出て行く、


「そうだな、御守りも御札もあるしな」


 こたえながら深井が助手席のドアを開けて外へ出た。


「うわぁ~~ 」


 ドアを閉めようとした深井の悲鳴を聞いて同僚がやってくる。


「どうした……なんだこれは? 」


 ドアノブに泥が詰まっていた。それだけではない助手席のガラスにもうっすらと泥が付いていた。車内から見えた白っぽい汚れはうっすら付いた泥だ。


「これって…… 」


 同僚が言葉を詰まらせる。うっすら付いた泥をよく見ると顔の跡に見えた。


「やっ、やっぱり……やっぱりいたんだ。女が張り付いてドアを開けようとしたんだ」

「マジかよ…… 」


 震える声を出す深井を同僚が強張った顔で見つめていた。


「じゃっ、じゃあ、俺は帰るから」


 少し離れた所へ停めていた自分の車に歩き出す同僚の肩に深井が手を掛ける。


「待ってくれ、帰らないでくれ、泊まっていってくれ」

「明日も仕事だからさ、着替えもあるし……ごめんな」


 青い顔で頼む深井に同僚が悪いというように片手を顔の前に立てて断る。


「着替えなら俺の服を貸すから……頼むよ、俺を一人にしないでくれ、頼むから」

「悪いけど帰るわ、用事があるんだ」


 帰ろうとする同僚の腕を逃すまいと深井が掴んだ。


「頼むから一緒に居てくれ、幽霊が出てきたら…………頼むよ」

「止めろ! 俺は関係ないからな、山を抜けようって言ったのはお前だろ、呪われるなんて御免だ」


 必死で頼む深井を同僚が怒鳴りつけた。


「離してくれ! 」


 深井の手を振り解くと同僚は自分の車で帰っていった。



 泥の付いた車を放り出して深井は逃げるように部屋の中へと転がり込んだ。


「神様助けてください……幽霊から守ってください」


 壁に貼ってある御札に手を合わせて拝んだ。

 御守りがあったから車の中にも入ってこれなかった。御札があるから部屋も大丈夫だと心の中で自身に言い聞かせる。


「大丈夫だ。御札がある。神様が守ってくれる」


 風呂に入るのも忘れて布団に潜り込んだ。

 暫く神様に助けてくれと祈っていたがいつの間にか眠っていた。


『痛い、痛いぃ…… 』


 どれくらい眠っただろう、何か聞こえたような気がして目を覚ます。


「 ……小便」


 酒を飲んだためか尿意を感じてトイレに行こうと上半身を起こす。


「ひぃぃっ…… 」


 喉から掠れたような悲鳴を吐いた。

 女幽霊が枕元に立っていた。肩に掛かるくらいの髪型、青白い顔の頬に髪の毛が泥でべったりと付いている。泥と血で汚れた薄いジャンパーとジーンズ、真っ赤に染まったジャンパーの右肩はぱっくりと裂けて肉と骨が見えていた。間違いない、轢き逃げ事故で死んだ女だ。


『痛い……痛いぃ……なんで助けてくれなかったの……必死で…………痛い、痛い……苦しい……苦しいぃ………… 』


 女幽霊が恨めしげに深井をじっと見つめる。


「くっ、来るな、来ないでくれぇ~~、神様お助けください、神様ぁ~ 」


 深井はベッドの端に這うようにして逃げると壁に貼ってある御札に手を合わせた。

 女幽霊が御札を見てニタリと笑う、


『ふふふふ……無駄よ、そんなもの怖くない』

「なっ、なんで……御守りは効いたのに……なんで………… 」


 がくがくと震える深井に女幽霊がすーっと近付く、


『痛かった。苦しかった。お前だけは許さない……私が憎いのはお前だけ………… 』

「俺だけ……木村が居たから……だから入ってこなかったっていうのか」


 木村とは車を運転していた同僚のことだ。


『痛い……痛い……苦しい……お前が…………お前だけは許さない』


 深井がぶるぶると震える両手を待てと言うように突き出した。


「おっ、俺が悪いんじゃない、あんたを轢いたトラックが悪いんだ……恨むならトラックを運転したヤツを恨め、俺は関係ない…… 」


 女幽霊がくわっと目を見開いた。


『お前が悪い……お前が見殺しにした…………必死に這い上がった私を……お前は振り落としたんだ。お前が……お前がぁ~~ 』


 女幽霊がガバッと覆い被さるように深井の首に手を掛けた。


「たっ、たすけ…… 」


 必死で助けを求めるが首を絞められて言葉にならない。

 直ぐ近くに充血した目を吊り上げ憤怒の形相をした女幽霊の顔がある。


「ひぃ~っ、ひぃぃ……しぃぃひぃ………… 」


 過呼吸を起こしたのかビクビクと痙攣しながら深井は意識を失った。



 目を覚ますと朝になっていた。


「うわぁーーっ……ああぁ…… 」


 ベッドの上でビクッと体を震わせると辺りを見回す。


「ああ、朝か……夢だったのか……くそぅ………… 」


 助かったという安心と共に怒りも湧いてくる。


「俺は関係ないだろが、通りかかっただけだぞ……痒い……なんだ? 」


 痒みを感じて首を掻くと布団の上にボロボロと土が落ちた。


「夢じゃない、女幽霊が俺の首を絞めたんだ」


 もう会社どころではない、その日は休んでインターネットで心霊現象などに詳しい神社や寺を調べてお祓いをして貰うことにした。



 車で1時間半掛けて霊現象に詳しい神社へ行くが怨念が凄すぎて祓えないと断られた。

 神主曰く、苦しみ抜いた恨みが全て深井に向いているらしく祓うことは無理らしい。


「取り敢えずこれで対処してもっと力のある神社や霊能力者とかを探そう」


 気休めくらいにはなるだろうと渡された御札を部屋に貼った。

 霊現象に詳しい神社の御札だ。少しは効果はあるだろうと思っていたが女幽霊には効かなかった。

 その日の深夜、女幽霊が出てくると言って部屋のものを壊して暴れまくっているところを両親に取り押さえられて近くの心療内科に入れられるがそこでも毎晩幽霊が現われると騒ぐので磯山病院へと転院してきたのだ。

 これが深井さんが教えてくれた話しだ。



 話しを聞いて哲也が憤慨する。


「深井さん何も悪くないじゃないですか、完全にとばっちりじゃないですか、事故の後に通りかかっただけですよね、そんなんで祟られたら堪りませんよ」


 自分のために怒ってくれる哲也を深井がじっと見つめた。


「僕に出来ることがあれば何でも言ってください、警備員ですから深夜の見回りで幽霊とか見つけたら文句言ってやりますよ」

「俺の話を信じてくれるのか? 」


 真剣な顔をして身を乗り出す深井の向かいで哲也が頷いた。


「さっき見たんです。この部屋に入っていくジャンパー姿の女を……深井さんが怖がるといけないと思って見てないって嘘をついたけど、話しを聞いて深井さんが言っていた女幽霊と同じだってわかったんです」

「そうか……哲也くんも見たのか…………やっぱり幻なんかじゃなかったんだな」


 青い顔で震える深井を元気付けようと哲也が声を掛ける。


「僕に出来ることなら何でもしますから、夜10時と深夜の見回りの時に深井さんの部屋の様子を確認しますよ、轢き逃げされた女幽霊はかわいそうだと思いますけど深井さんに祟るなんて理不尽すぎます」

「ありがとう哲也くん」


 信じてもらえたのが嬉しかったのか目に涙を溜めて深井が話を始めた。


「怖くて……怖くて誰にも言ってないことがある。俺が一番最初に山で見た血塗れの女は幽霊じゃなくて生きていたんじゃないかと……必死で這い上がってきて俺に助けを求めたんじゃないかと、それを俺は………… 」

「深井さん、それって…… 」


 顔を強張らせる哲也の前で俯きながら深井が続ける。


「 ……トラックが轢いたのが夜の10時頃らしい、俺が通ったのも10時くらいだ。這い上がって来たのならまだ生きててもおかしくないんだ。それを俺が………… 」


 事件の後、報道番組で詳しい状況を説明していたので時間などがわかったのだ。

 深井が真っ青な顔を上げた。


「怖くて親にも警察にも話していない……もし女が生きていて俺の車にしがみついててそれを振り落としたなら調べれば直ぐにわかるはずだ。でも轢き逃げしたトラックの運転手が直ぐに自首してきたから警察もそこまで調べなかったんだろう……俺が助けていれば死ななかったかも知れない……地元の人間なら夜にあの道を通る車が少ないことは知っている。俺の車を逃せば次は無いかも知れない、だから必死でしがみついてきたんだ。それを俺は幽霊だと思って振り落として逃げたんだ」


 震えながら話す深井に同情して哲也が口を開く、


「だからって偶然通りかかっただけの深井さんに祟るのは酷すぎますよ」

「女と……女と目が合ったんだ……血走った目で俺を睨み付けてた。でも今考えると必死で助けを求めてたんだと…………それを俺は振り落としたんだ。神社の神主が言ってた。苦しみ抜いた恨みが全て俺に降りかかったと……あの女は見捨てて逃げた俺を恨んで苦しんで死んだんだ。それで化けて出てきたんだ」


 真っ青な顔で話す深井の口元が笑っているかのように歪に曲がっていた。恐怖に顔が引き攣って笑っているように見えるのだ。


「深井さん…… 」


 掛ける言葉を探していると男の看護師がやってきた。消灯前の見回りだ。


「深井さん、薬飲みましたか? もう直ぐ消灯ですよ」


 磯山病院は午後9時に消灯する。リハビリ室やレクリエーション室などの施設は使えなくなり廊下も明かりが消えるが各病室は10時まで明かりを点けるのは許可されている。つまり夜10時が就寝時刻という事だ。哲也たち警備員が夜10時に見回るのも就寝時刻を守っているか監視する為でもある。とはいえ、規則は規則として他の患者に迷惑を掛けないなら音量を小さくして深夜番組を見る事くらいは大目に見ているのが現状だ。


「おぅ、哲也くん、何して……また変な話しを聞いてたんだな」


 男の看護師が哲也を見て顔を顰める。


「もうそんな時間か……それじゃあ深井さん」


 7時半頃に部屋を訪ねていつの間にか9時前になっていた。腰を上げた哲也が持っていた袋を深井に差し出す。


「チョコ好きだって聞いたから食べてください」


 売店で買ったチョコレートを渡すとペコッと頭を下げて哲也は部屋を出た。



 夜10時の見回りを終えた哲也は仮眠を取るためにベッドに横になっていた。


「異常は無かったけど深井さん大丈夫かな」


 深井に同情して寝付けずにゴロゴロと何度も寝返りを打っていた。

 明かりの無い夜の山道で泥と血塗れの女を見れば幽霊と勘違いしてもおかしくはない、自分だって逃げただろう、轢き逃げされた女の人はかわいそうだと思うが深井さんに祟るのはやはり理不尽だ。


「おしっこ…… 」


 ゴロゴロしているうちに尿意を感じて部屋を出る。

 トイレに向かって長い廊下を歩いていると階下が騒がしいのに気が付いた。


「何かあったのかな? 」


 一階下にはナースステーションがある。夜に患者が暴れて騒ぐのは日常茶飯事なのだがこの日は胸騒ぎを感じて哲也が走り出す。


「哲也くん! 」


 ナースステーションの近くで夜勤の香織に呼び止められた。


「香織さん、何が…… 」

「深井さんが大変なの、哲也くんも手伝って」


 何が起こったのか聞こうとする前に深井の名を出されて哲也が411号へと駆け出した。

 哲也が駆け付けると男の看護師2人が暴れる深井を押さえていた。


「女が……幽霊が……来るな! 俺は悪くない……俺じゃない…………トラックが……ひぃぃ…………止めて……助けてくれぇ~~ 」


 口から涎を流して叫び暴れる深井の焦点が合っていない目を見て哲也はダメだと思った。

 深井は正気を取り戻すことなく隔離病棟へと送られた。


 情緒不安定が進んで統合失調症になり更に悪化して会話も出来ないくらいに精神が崩壊してしまったのだろうと診断されたが哲也はそうは思わない、深井は助けを求めてきた女を見殺しにしてしまったという良心の呵責と苦しんで死んだ女幽霊の恨み、祟りによって心が壊れたのだろう。



 深井が初めて見た女は幽霊ではなく轢き逃げ事故の被害者だったのだろう、バイクに乗っていたところを追突されて山の斜面の下へバイク諸共飛ばされて落ちたのだ。轢いたトラックは殺してしまったと怖くなって逃げ出すが女は生きていた。全身打撲に手足の骨折、内臓破裂、それでも生きようと、泥だらけになりながら必死に山肌を登って道路に辿り着いて深井に助けを求めたのだが夜という事もあって深井は幽霊だと思い込んで車にしがみつく女を振り払って逃げた。

 振り落とされた女はしっかりと見た顔を思い浮かべ、苦しんで死ぬ間に恨みを全て深井に注いだのだろう、自分を轢いたトラックの運転手はわからないが助けなかった深井は顔を見て認識していたのだ。全ての恨みが深井へと向かったのだ。


 一番悪いのは轢き逃げ事故を起こしたトラックの運転手だ。深井はとばっちりみたいなものだがもう少し冷静だったなら、女を助けていれば、瀕死だったとして後で死んだとしてもこんな事にはならなかっただろう。

 轢き逃げで女を死亡させたトラックの運転手は過失運転致死傷罪かしつうんてんちししょうざいで7年以下の懲役もしくは禁固、100万以下の罰金である。

 スマホを弄っていて前方不注意だ。今回は一番重い7年の懲役を受けるだろう、死んだ女性は勿論、祟られた深井は精神に異常をきたして生涯病院暮らしだ。一番悪いトラックの運転手が一番軽いもので済むことになる。

 何処に怒りをぶつけていいのかわからない後味の悪い出来事だと哲也は思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ