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第九話 パチン

 耳鳴りと聞いてどういう音を想像するだろうか? キーンやシャーやザーという音がするという人はよく聞く、中には音楽のようなテンポある音が微かに聞こえるという人もいるだろう、寝ようと横になっていると聞こえてくるような軽い耳鳴りなら多くの人が経験した事があるはずだ。

 だが中には悪質な耳鳴りもある。それが原因でノイローゼになってしまう事もある。

 哲也も耳鳴りが酷くノイローゼになって入院してきた人を知っている。もっともその人は耳鳴りなどではないと言い張っていた。先生たちが耳鳴りだと勝手に診断したのだと怒っていた。



 昼食を食べた後、哲也は紙の束が入った段ボール箱を抱えて廊下を歩いていた。

 資料の束を運ぶように頼まれたのだ。警備員の仕事ではないが看護師の香織に頼まれれば哲也が断るはずもない。


「おおっと! 」


 段ボール箱からはみ出した資料が落ちそうになって慌てて体勢を立て直す。


「何やってんだ!! 」

「すみません」


 後ろから大声が聞こえて哲也が避けながら振り返る。


「その程度も運べんのか? 近頃の若い奴は……まったく」


 白髪の交じった頭をした60半ばと言った男が睨み付けながら通り過ぎていく、


「すみませんでしたぁ~~ 」


 哲也がムッとしながら男の背に謝った。

 その程度と軽く言うが一抱えもある段ボール箱から溢れるほどの紙が詰まってるのだ。重さは10キロ以上はある。それに哲也がよろけたのは重いからではなく上からはみでた紙の束が落ちそうになった為である。


「誰だろ? 新人かな」


 A棟の患者は全員知っているが見たこともない男だ。


「後で香織さんにでも訊くか」


 紙の詰まった段ボール箱を抱え直すとまた歩き出す。少し歩いた所で綴じていた資料がバインダーごと落ちてリノリウムの床でパチンと大きな音を鳴らした。


「ひぃぃ!! 」


 前を歩いていた男が悲鳴を上げて振り返った。

 怯え顔の男と段ボール箱を抱える哲也の目が合った。


「すみません、落としちゃった…… 」


 おべっか笑いをしながら哲也が落ちたバインダーを拾い上げる。


「 ……それが落ちた音か…………吃驚させやがって」


 安心したように呟くと男が怒鳴り出す。


「ビビらすんじゃねぇ、バカが! ちゃんと運ばねぇから落とすんだ」


 間を置いて哲也が言い返す。


「なっ……謝ったでしょ? バカって何です? 落としたくらいで何言ってんですか、だいたい一寸音が鳴ったくらいでビビりすぎですよ」

「なんだとてめぇ! 」


 怒鳴りながら男が向かってくる。

 抱えていた段ボール箱を哲也が床に置いた。


「なんすか! 何もしてないのにバカ呼ばわりされる筋合いはないです」


 滅多に怒らない哲也だが行き成りバカと怒鳴られれば腹も立つ、ぶつけたとか当たったとかではなく廊下の床に落としただけだ。落とした物も男とは関係のない病院の資料である。先生や香織に叱られるならともかく目の前の男に怒鳴られる筋合いはない。


「運べもしねぇのに無理して運ぶから落とすんだろが! 出来ねぇなら半分ずつ運べ」


 哲也の向かいで男が怒鳴った。


「何言ってんです? この倍の重さでも余裕で運べるから、上に載せてあるのがズレてバランス崩しそうになってよろけただけだから、だいたい僕が避けなくても充分通れたでしょ? 難癖付けてきたのはそっちじゃないか」

「んだとてめぇ……やるってのか? 」


 今にも殴り掛かってきそうな男に哲也も引かない。


「理不尽にも程がある。喧嘩は御法度だけどやるなら受けますよ、場所換えましょう、ここじゃ直ぐに止められるからな」

「その喧嘩買ってやろうじゃないか、丁度むしゃくしゃしてたところだ。誰も俺の話を信じない、先生も病気だって決めつけやがる」


 凄む男に哲也も負けじと睨み返す。


「喧嘩売ってきたのはそっちだろ」


 睨み合う2人を見つけて看護師の香織が駆け寄ってくる。


「哲也くん、なにやってるんです? 廊下で喧嘩は止めてくださいね」

「香織さん……すみません」


 香織の怖い顔を見て哲也が冷静になった。

 哲也の向かいに立つ男に香織が向き直る。


「亀中さんもダメですよ、揉め事を起こすようなら退院なんて出来ませんよ」

「わかってるよ、別に喧嘩なんてする気はない、こんな病院直ぐに出ていくさ」


 男は亀中と言うらしい、相手が女だからか、看護師だからか、亀中は素直に従った。

 哲也が亀中に頭を下げた。


「亀中さんすみません、僕も喧嘩なんて御免です」

「ああ、俺も悪かった」


 謝る哲也を見て亀中も気まずそうに笑った。


「ハイ、一件落着」


 ニコニコ顔で言うと香織が床に置いてある段ボール箱を指差した。


「じゃあ、哲也くんは早く資料運ぶ」

「へぇへぇ、香織さんの頼みなら何でも致しますよ」


 戯けながら哲也が紙の詰まった段ボール箱を持ち上げる。抱えた箱からまたバインダーが落ちてパチンと音を立てた。


「ひぃぃ~~ 」


 亀中が悲鳴を上げてその場に蹲った。

 香織が駆け寄って亀中の具合を確かめる。


「亀中さん大丈夫ですか」

「ばっ、化け物が……将棋を………… 」


 声を震わせる亀中の背中にそっと手を当てると香織が優しい声を出す。


「大丈夫ですよ、何もありませんよ、全部妄想です幻覚ですからね」

「妄想……でもパチンって音が………… 」


 引き攣った顔でこたえる亀中に哲也が拾ったバインダーを見せた。


「これが落ちた音ですよ、リノリウムの廊下はパチンとか良い音鳴るんだよね」


 亀中が顔を強張らせて哲也を睨む、


「なっ……またお前か」

「またって何ですか? ちょっと落としただけでしょ」


 弱り顔の哲也に亀中が声を荒げる。


「んだと! 落とすくらいなら運ぶなって言ってんだ」

「運ぶなって意味が分からないから、頼まれて運んでるだけだからな」


 ムッとする哲也を香織が一喝する。


「哲也くん! 」

「あっ……うん、ごめん」


 香織に睨まれて哲也が亀中に向き直る。


「すみませんでした。今度から気を付けますから」


 ふて腐れたように謝る哲也の前で蹲っていた亀中が立ち上がる。


「わかりゃいいんだ。俺も怒りたくて怒ってんじゃねぇからな」


 気まずそうな亀中の顔を香織が覗き込む、


「亀中さん大丈夫ですか? 薬はちゃんと飲んでくださいね」

「病気じゃねぇが……わかった。飲むよ、飲めばいいんだろ部屋行って飲んでくるわ」


 ばつが悪そうにこたえると亀中は逃げるように歩いて行った。


「しょうがないんだから…… 」


 困り顔で呟くと香織が哲也に向き直る。


「怒ってごめんね、哲也くん」


 謝る香織の向かいで哲也が楽しそうに口を開く、


「別にいいけど……何の病気なんです? 」

「他の患者の事は話せません」


 事務的にこたえる香織の前で哲也がとぼけ顔で話し出す。


「まぁいいですけど……何も知らないで理不尽に怒鳴られたら僕でも怒りますからね、さっきは香織さんが止めたけど次は知りませんからね」

「なっ、ズルいわよ哲也くん」


 怯んだ香織を見て哲也がニッコリと笑う、


「亀中さんの病気が関係してるなら怒鳴られても我慢しますよ」

「仕方無いなぁ…… 」


 負けたというように香織が話し出す。


「亀中さんはノイローゼが酷くて入院してきたのよ、パチンとかパシッて音に敏感なのよ、音がすると化け物が出てくるって騒ぐの、化け物を倒すって大騒ぎして猟銃を持ち出してね、それで息子さんが入院させたのよ」


 化け物と聞いて哲也が目を輝かせて食い付いた。


「音ですか? それでバインダーが落ちた時に鳴った音に反応したんですね、どんな化け物が出てくるんでしょうね」

「また面白そうとか思ってるでしょ」


 睨む香織の前で哲也がおべっか笑いだ。


「えへへへ…… 」

「残念でした。亀中さんの病気はわかっているからね、寝入りばなや寝ている時に頭の中で音がして化け物が現われるって言うのよ、これは全部夢よ、パチンって音は頭内爆発音症候群とうないばくはつおんしょうこうぐんって病気なの」

「なんだ…… 」


 得意気に話す香織を見て化け物については気が逸れたが珍しい病名に哲也は興味を持った。


「頭が爆発するんですか? 物騒な病気ですね」

「爆発なんてしたら死んじゃうでしょ、心の病気よ、爆発したような音が聞こえるだけよ」


 香織が病気について説明してくれた。


 頭内爆発音症候群とうないばくはつおんしょうこうぐんとは入眠時に頭の中でドンやパーンやバンといった爆発するような音が聞こえる病気である。睡眠中でも夢見心地から深い眠りに入る時に爆発するような音が聞こえて目が覚めてしまう事もあるという。

 頭内爆発などと怖い名称だが実際に何かが爆発しているわけではない、疲れやストレスが過度に溜まり心身のバランスが崩れて脳の聴覚をコントロールする部分が誤作動を起こすのが原因ではないかと言われているがまだはっきりした事はわかっていない、治療には抗うつ剤などが用いられる神経や精神の病だ。


 興味津々な顔で聞いていた哲也が呟く、


「へぇ、そんな病気があったんだ…… 」

「パチンとかバーンとか爆発するような音が聞こえたら普通は起きるんだけど亀中さんは眠りが深いのか起きなくて変な夢を見るようなのよ、それでノイローゼになってここに来たってわけよ」

「亀中さんが怒るわけだ」


 怒鳴られた理由がわかって哲也が大きく頷いた。


「わかったら気を付けてあげてね、他の患者と喧嘩しないように頼んだわよ」

「了解しました。警備員として注意しますよ」


 話を終えた香織が哲也の背をポンッと叩いた。


「じゃあ、さっさと運んで頂戴」

「へいへい、香織さんは人使い荒いんだから」


 段ボール箱を抱え直す哲也を見て香織がニコッと可愛い笑みを見せる。


「哲也くんだから頼むのよ」

「僕だから……何でも言ってください、暇だから何でも手伝いますよ」


 嬉しそうに歩き出す哲也の後ろを微笑みながら香織が付いていった。



 資料を運ぶ手伝いを終えた哲也は褒美に貰った洋菓子を持って亀中の部屋へと向かう、


「原因は頭内爆発音症候群だとか言ってたけど亀中さんは病気だって決めつけやがるとか言ってたしな……夢でもいいからどんな化け物か知りたいし」


 手伝った御礼に貰った洋菓子を手土産に亀中に話しを聞きに行くつもりだ。

 亀中の部屋はA棟の406号室だ。哲也の部屋と同じA棟なので見回り以外でも気軽に行くことが出来る。


「406っと」


 ドアをノックする手を哲也が止めた。


「亀中さん居ますか? 」


 ドアの前で緊張気味に大声を出す。ノックの音に吃驚して亀中の機嫌が悪くなって話が聞けなくなると困ると考えたのだ。


「なんだあんたか、何の用だ? 」


 ドアの隙間から亀中が顔を見せた。用心深いらしい。


「先程はすみませんでした。お詫びをしようと思って……これ食べてください」


 哲也は謝りながら香織に貰った洋菓子2つをそのまま差し出した。

 ちらっと洋菓子を見た後で亀中がいらないと手を振った。


「そんなことか……詫びなどいらん、俺の方こそ怒鳴って悪かった」


 神妙に謝るところを見ると亀中は基本的には良い人らしい。

 哲也の中から緊張が抜けていく、


「名前言うの忘れてました。僕は中田哲也です。警備員をしています」

「警備員の哲也くんだな、わかった」


 引っ込もうとする亀中を哲也が止める。


「待ってください、話しを聞かせてください」

「話し? 」


 足を止めた亀中に哲也が続ける。


「亀中さんの病気って頭内爆発音症候群とかいう難しい病気ですよね」


 亀中の表情が曇った。


「先生は病気だと言うが俺は病気なんかじゃない、化け物は本当にいるんだ」

「その話しが聞きたいんです。僕でよければ力になりますから」

「警備員さんに話しても仕方無いだろ、先生じゃないんだからな」


 険しい顔をした亀中が半開きのドアから出していた顔を引っ込めた。


「ちょっ、待ってください」


 亀中が閉めようとしたドアを哲也が押さえた。


「必要です。見回りしてるんです。夕方と夜の10時と深夜の3時にA棟からE棟までぐるっと回ってます。患者に何かあれば部屋に入ることもあります。呻きを聞いて部屋に入って助けたこともあるんですよ、だから亀中さんの話を聞かせてください、何かあれば助けることも出来るかもしれませんよ」

「助けるねぇ…… 」


 怪訝な表情の亀中に哲也が食い下がる。


「他の患者からも病状とか話しは聞いているんですよ、何かあった時に直ぐに対処出来るようにです」


 哲也が嘘をついた。化け物の話しを聞きたいだけだ。嘘は悪いと思っているが何かあれば対処出来るようにというのは本心だ。


「 ……わかった。中へ入れ」


 暫く考えてから亀中は部屋へと入れてくれた。


「これ食べてください、さっき書類運ぶの手伝った礼に看護師の香織さんに貰ったんです。僕の分はあるので遠慮しないでどうぞ」


 貰った洋菓子は2つだけだが哲也は全て亀中に渡した。面白そうな話が聞けるなら安いものだと思っているのだ。


「ありがとう後で食べるよ、そこに座ってくれ」


 菓子を受け取るとベッド脇の椅子に座れと促して亀中も向かいの椅子に座った。

 これは亀中史郎かめなかしろうさんから聞いた話しだ。



 亀中史郎かめなかしろうは山に囲まれた村で農業を営んでいる。田畑を荒らす害獣を駆除するために猟もしていた。何かと力仕事の農業をしているだけあって小柄だがほどよく筋肉が付いた力強そうな体躯だ。今年で66歳になる亀中は昔ながらの農家といった平屋の大きな家に息子夫婦と暮らしていた。

 磯山病院には4日前に入院してきた。2ヶ月ほど前から化け物が出てくると騒ぎ出して最後には化け物を倒すと大騒ぎして猟銃を持ち出して息子さんが入院させたのである。


 事の初めは2ヶ月程前、野菜の苗を植える最盛期を終えた亀中は狩りをするため山へと入った。

 亀中は猟犬を使うような本格的な猟はしていない、畑を荒らす害獣退治の為に始めたようなもので1人で山に入って狩るものといえばカモやキジなどの鳥である。


「カモが捕れればいいんだがキジバトでも文句は無いな」


 楽しげに呟きながら山の上にある池に向かう、


「おかしいな……いつもならカモが沢山泳いでおるのに」


 池を見回して亀中が顔を顰める。

 普段ならカモやサギなど沢山の鳥が集まっている池が静まり返っていた。


「まぁ、こんな日もあるか」


 カモを諦めてキジバトでも狩ろうと池の周りを探す。


「何だ? キジバトどころかヒヨドリ一羽おらんぞ」


 豊かな山でキジにカモにヤマドリなど沢山の鳥がいるのだが今日はカラス一羽さえいない。


「先に山で猟をしたヤツはおらんはずだし……おかしいな」


 異変を感じたがせめて一羽だけでも捕まえようと亀中は山奥へと入っていった。

 鳥を主な対象としているので狩りで山奥まで入ることは滅多に無いが山菜採りで度々来ているので迷うことなど有り得ない。


「いた! キジバトだ」


 普段は入らない山奥で大きな木の枝にとまるキジバトを見つけた。

 キジバトに気取られないように狩りに最適なポジションに移動する。


「気付かれてないな」


 猟銃を構えると息を止めた。仕留めようと引き金に指を掛ける。


『パチン!! 』


 正に撃とうとした瞬間、パチンと何かを弾くような音が聞こえてきた。

 音に驚いたキジバトが飛んでいく、


「しまった! 」


 構えを解くと振り返る。右斜め後ろからパチンと聞こえてきたのだ。

 亀中の視線の先はまばらに木が立ち笹藪が埋めていた。


「誰かおるんか? 」


 笹藪の中に声を掛けた。

 平らな木や鉄板などに小さなものを打ち付けたようなパチンとした音だ。それ程大きな音ではないが空気を裂いて響いてくるような音だった。


「おるなら出てこい! 別に何もせん」


 亀中が藪へと歩いて行く、猟の最中だ。人がいれば大変である。直ちに猟を止めて安全を確保しなければならない。


「怒ったりせんから出てこい、こんな山奥で遊んだらあかんぞ」


 笹藪の直ぐ前で大声で言った。子供の悪戯だと考えた。猟の邪魔をして叱られると思って出てこないのだと考えて何度か優しく声を掛けた。


「何じゃ? 誰もおらんのか? おかしいな」


 枝を折った音や石をぶつけた音とは違う、動物が立てた音とは思えなかった。


「面倒だな…… 」


 亀中はぶつくさ言いながら笹藪へと入っていった。安全確認してからでないと猟を続けることは出来ないのだ。

 背丈ほどもある笹を掻き分け2メートルほど進むと開けた場所に出た。


「何だ!? 」


 亀中が顔を顰めた。

 ぽっかりと直径2メートルほど開けた真ん中に将棋盤が置いてあった。


「何で将棋が? 」


 亀中は近付いてまじまじと将棋盤を見つめた。

 誰かが捨てて朽ち果てているものではない、真新しい将棋盤だ。飴色のかやの木で出来た高そうな将棋盤である。作られてから間もないのかまだ白い榧の木の分厚い将棋盤だ。ただ残念なことに横に引っ掻いたような3本の傷があった。

 奇妙なことに将棋盤の上に駒が並べてある。正に今誰かが将棋を指していたかのような佇まいだ。


「さっきのは将棋の音か…… 」


 先程聞こえたパチンという音は将棋盤に勢いよく駒を叩き付けた音だと理解した。


「誰だ! こんな悪戯をするのは! 怒らんから出てこい」


 怒鳴りつけたい気持ちを抑えて周りの藪を見回した。

 周りの藪には人の通った形跡は無い、亀中が掻き分けた道が一つ出来ているだけだ。


「怒らんから出てこい、出てこんなら将棋盤を叩き壊すぞ」


 おかしいと思いながらも声を掛ける。

 辺りの気配を探るように聞き耳を立てるが風で笹が擦れる音がするだけで誰かが潜んでいる様子はない。


「誰もおらんのか…… 」


 改めて将棋盤を見つめる。


「なかなか良い勝負だ」


 将棋も嗜む亀中は暫く考えていたがひょいっと駒を摘まんだ。


「俺ならこう指す! 」


 パチンと音を鳴らして駒を将棋盤に叩き付けた。


「やっぱりこの音だ」


 勝負に興味もあったが音を確かめたかったのだ。


「こんな場所で誰が将棋をしてるんだ? 将棋をするのはいい、何で誰も居ない? 」


 怪訝な表情で辺りを見回す亀中の背を冷たい汗が伝っていく、


「人じゃないのか? 」


 猿ならパチンと音を立てて指すことはできるだろう、だが駒を整然と並べることは出来るだろうか? 枠に沿って只並べただけではない、将棋のルールを知って勝負をしているかのように駒を置けるだろうか? 


「帰った方がいいな、暫く山は止めだ」


 不気味なものを感じた亀中は笹藪を抜けて元の場所へと出た。


『パチン! 』


 音が聞こえて亀中が振り返る。


「誰だ!! 誰か居るのか? 」


 猟銃を握り締めながら声を掛けるが返事はない。


「誰にも言わん、俺は何も見てないからな」


 怖くなった亀中は笹藪に向かって大声で言うと何も見なかったことにして山を降りた。



 暫く山にも近付かなかったが農作業が一段落して暇になると猟がしたくなってくる。


「違う山なら大丈夫だろう」


 行くと決めたら居ても立っても居られなくなり昼過ぎだというのに猟銃を持って山へと向かった。

 猟場にしている山は幾つかある。将棋盤を見た山とは反対側の山の麓へ軽トラックを止めると亀中はいそいそと山道を登っていった。

 猟場にしている山の一つだ。獲物が集まる場所もだいたいわかっている。

 この山には少し登った所に残土を捨てた場所がある。残土を捨てていたのは10年以上前の事だ。今は大きな木も生えずに開けた野原のようになっていて良い狩り場だ。

 広場に着くと出来るだけ音を立てないように腰の辺りまである藪を踏みしめながら亀中が歩いて行く、


「キジだ! 」


 獲物を見つけて亀中が銃を構える。

 引き金に指を掛けると息を止める。


「ふぅ~~っ 」


 引き金から指を離すと大きく息をついた。また『パチン』と聞こえてきたらと考えて撃てなかったのだ。


「あれは何だったんだろうな…… 」


 一人呟くと銃を構え直す。


『パチン!! 』


 息を止めて撃とうとした瞬間、鋭い音が聞こえてきた。同時にキジが鳴きながら羽ばたいて逃げていった。

 亀中が銃を構えたままバッと振り返る。


「だっ、誰だ! 」


 構えた銃の先、15メートル程向こう、木々の間に四角い白いものが見える。


「あれは……将棋盤か? 」


 眉間に皺を寄せ険しい顔をした亀中が猟銃を構えたまま歩き出す。


「誰か居るのか? 悪戯なら怒らんから出てこい」


 大声を掛けながら白い四角いものへと近付いていく、怖いとは思ったが山奥ならともかく村の畑も見えるほどの場所だ。


「やっぱり将棋盤だ…… 」


 5メートルほど近付いて確認した。

 木々の間、影で暗くなっている場所に榧の木で出来た飴色の将棋盤が浮いて見える。


「誰か居るのか! 誰の悪戯だ!! 」


 怒鳴りながら更に近付いていく、以前見た山奥にあった将棋盤と同じものか確かめたかったのだ。


「これは……間違いない」


 傍に行くと直ぐにわかった。分厚い将棋盤の横に引っ掻いたような3本の傷があった。

 確かめるように見ていると妙なことに気が付いた。


「なっ……俺が指した駒が取られてる」


 駒の配列は殆ど変わっていなかったが以前亀中が指した駒が無くなっていて代わりに相手の駒が置いてあった。つまり亀中が指してから一手進んでいたのだ。


「狸か狐か……何処の誰だか知らんが…… 」


 亀中がひょいっと駒を摘まみ上げた。


「これでどうだ! 王手だ!! 」


 パチンと鳴らして駒を叩き付けた。たかが将棋だ。誰かの悪戯は勿論、狸や狐に化かされたとしても大した事ではないと考えた。


「誰かは知らんが俺の勝ちだ」


 大声で言うと亀中は猟を止めて山を降りていった。



 その日の夜、眠っていた亀中の頭の中でパチンと弾けるような音がした。


「なっ、なんだ…… 」


 慌てて目を覚ますと亀中は山の中に居た。


「ここは……田島さんの山か? 」


 辺りを見回しながら呟いた。最初に将棋盤を見た山だ。知人の田島が所有している山なので田島さんの山と呼んでいる。


「寝とったはずだぞ」


 自分の服に目を落とすと寝間着ではなく普段山に入る時に着ている服装だ。


「どういう事だ? 夢か? 」


 辺りを見回していると後ろで何かの気配を感じた。


『パチン! 』


 音が聞こえて頭の中に将棋盤が浮んだ。


「また将棋か……悪戯もええかげんにしろよ」


 ムッと怒りながら振り返る。


「ううぅ…… 」


 変な呻きが口から漏れた。

 確かに将棋盤はあった。だがそれだけではなかった。将棋盤の向こうに毛むくじゃらの化け物が座っていた。


 なんじゃアレは? 狸か? それとも狐か? 亀中が強張った顔で見つめていると毛むくじゃらの化け物が手招いた。


『早うこい、勝負しろ』

「ひぃぃ…… 」


 化け物が言葉を話したのを見て亀中が数歩後退る。


『逃げんでよかろ、逃げんでよかろ』


 化け物の言葉に亀中が足を止める。


「おっ、俺に何の用だ? 」


 震える声で訊く亀中を見て化け物がニタリと笑う、


『勝負じゃ勝負、王手したじゃろ、勝ち逃げは出来んぞ』


 両手に抱えた箱を振ってジャラジャラ鳴らしながら化け物が嬉しそうにこたえた。


「王手……昨日のことか? 」


 しまった。化け物の将棋だったのか……、別の山で将棋を指したのを思い出す。ジャラジャラ鳴っているのは将棋の駒だろうと見当が付いた。


『そうじゃ、そうじゃ、次は俺と勝負じゃ』


 嬉しそうに将棋の駒が入っている箱をジャラジャラ鳴らす化け物を見て悪いものではないと思ったのか亀中が近付いていく、


「将棋をしたいのか? 」


 化け物は近くで見ると狸のような顔をしていた。


『そうじゃ、そうじゃ、勝負じゃ勝負』


 嬉しそうにジャラジャラ駒を振ってこたえる化け物の向かいで亀中は暫く考えてから口を開く、


「勝負してやってもいいが……俺を食ったりしないだろうな? 」

『食わん、人間など食ったりせん、勝負するだけじゃ』


 狸のような化け物が顔の前で大丈夫だと手を振った。


「 ……それならいいだろう」


 亀中が化け物の向かいに腰を下ろした。間の抜けた狸そのものといった顔をした化け物に警戒心が薄れたこともあるが機嫌を損ねて何かされたら大変だという思いもある。なにより、それなりに将棋を嗜む亀中は殺されたりしないのなら将棋の勝負くらい受けてやろうと考えたのである。


『勝負じゃ勝負』


 化け物が嬉しそうに駒の入った箱を一つ亀中に差し出した。


「言っとくが俺は強いぞ、負けたからといって悪さするなよ」


 駒を受け取る亀中の向かいで狸のような化け物が楽しげに笑い出す。


『わかった。わかった。何もせん、お前が勝ったら何もせん』


 俺が勝ったらって、どういう事だ? 負けたらどうなる? 不安気に見つめる亀中の向かいで狸のような化け物が駒を並べていく、


『早うせい、早うせい、時間が無いぞ』


 化け物に急かされて亀中も駒を並べていく、並べながら将棋盤を改めて見た。数万はするだろう榧で出来た立派な将棋盤だ。惜しいことに側面に引っ掻いたような3本の傷があった。

 駒を並べ終えると亀中が質問する。


「俺が勝ったらってどういう…… 」

『勝負じゃ勝負、早うするぞ、俺からじゃ』


 亀中の言葉を遮って狸のような化け物がパチンと駒を指した。


『お主の番じゃ、早う打て』

「わっ、わかった」


 急かされて亀中が駒を指す。


『ふむふむ、そうか』

「そうきたか…… 」


 化け物が駒を指し亀中も迎え撃つ、自分が負けたらどうなるのか気にはなったが直ぐに勝負に夢中になって質問のことなど忘れてしまう、


『もう朝じゃ、続きは明日じゃ、楽しみじゃ』


 どれくらい経っただろうか、勝負半ばというところで化け物が両手をパンパン鳴らした。

 駒を手に考えながら亀中が口を開く、


「もう少しで勝負がつくぞ」

『もう日が昇る。続きは明日じゃ』


 化け物が手を伸ばして亀中の額を叩いた。


『パチン! 』


 破裂するような大きな音に亀中が目を覚ます。


「ここは…… 」


 布団の中で辺りを見回す。自分の部屋だ。


「夢だったのか? 」


 時計を見ると午前5時前だ。もう直ぐ日が昇る時間である。


「化け物と将棋か…… 」


 夢を思い返して楽しそうに笑いながら亀中が起き上がった。



 翌日、野良仕事を終えて家に帰るといつものように過ごして寝床に入る。


『パチン! 』


 破裂するような音が聞こえたと思ったら亀中は山の中に居た。


「ここは……夢の中か? 」


 辺りを見回す亀中の後ろから声が聞こえてきた。


『待ってたぞ、勝負じゃ勝負』


 狸のような化け物が将棋盤の向こうで手招く、


「昨日の続きか……そうだな、勝負を付けるか」


 亀中が近付いていく、化け物が何かするなら昨日していただろう、なにより将棋をしている化け物は楽しそうだった。夢の中だと認識していることもあるが悪い化け物ではないと判断したのだ。


『勝負じゃ勝負、俺からだったな』


 亀中が向かいに座ると狸のような化け物が楽しそうに駒を指した。


『パチン!! 』


 風を切るような良い音が山に響いた。


「ほぅ、そうきたか……ではこれでどうだ」


 亀中が負けじと駒を叩き付けた。


『パチン!! 』


 澄み切った音が鳴る。向かいに座る狸のような化け物が楽しそうに笑った。


『良い音じゃ、良い勝負じゃ』

「気持ちの良い音だな、良い将棋盤だ」


 亀中も楽しげに笑い返す。

 小一時間ほど勝負が続いた。


『パチン! 』


 亀中が渾身の一手を指した。

 暫く考えていた化け物が大きく息をつく、


『まいった。俺の負けだ』


 頭を下げる化け物に亀中が嬉しそうに声を掛ける。


「だから言っただろ俺は強いって」


 顔を上げた化け物がニタリと不気味に笑う、


『俺の負けだ。命と運、どちらを選ぶ? 』

「いっ、命と運? どういう事だ? 」


 焦って訊く亀中に化け物は同じ言葉を繰り返す。


『俺の負けだ。命と運、どちらを選ぶ? 』

「ちょっ、待ってくれ、たかが将棋の勝負で命なんて…… 」

『俺の負けだ。命と運、どちらを選ぶ? 』


 不気味な笑みを湛える化け物に臆しながら亀中がこたえる。


「命なんて物騒だ。運だ。運を選ぶ」

『運だな、わかった。俺の運をお前にやろう』


 狸のような化け物が手を伸ばして亀中の額を叩く、


『パチン!! 』


 破裂するような大きな音に亀中が目を覚ます。


「ここは……夢か………… 」


 昨晩と同じ布団の中だ。時計を見ると午前5時前だ。もう直ぐ日が昇る時間である。


「時間も同じか……あの狸の化け物は日が昇ると夢の中に居られないのか、もう少し将棋をしたかったな」


 化け物は一切危害を加えてこなかった。楽しく将棋をしただけだ。初めて見た時はギョッとしたが将棋をしている内に親近感のようなものが湧いていた。


 朝の農作業を終えて昼食をとりに家に帰ると息子の嫁が嬉しそうに話し掛けてきた。なんでも品評会に出していた野菜が賞を取ったらしい、受賞した野菜だという事で道の駅で売っていた野菜は売り切れて畑にある分も全て買い手が付いて思わぬ収入が舞い込んで来ることになる。



 3日ほどして亀中が寝ていたらまた音が聞こえてきた。


『パチン! 』


 破裂するような音が聞こえたと思ったら山の中に居た。


「また夢か……将棋は? 」


 振り返った亀中の目に木々の間にある将棋盤が見えた。


『パチン! 』


 将棋盤の向こうにぬめっとした蛙のような化け物がいた。


『勝負しろ勝負、将棋しろ将棋』


 蛙のような化け物が手招く、


「狸の次は蛙か……夢だしいいだろ」


 亀中は呟くと近寄っていった。夢だと認識している。狸の化け物も何もしてこなかったので蛙の化け物も大丈夫だと思ったのだ。


「勝負してもいいが俺を食ったり殺したりしないだろうな」


 念のために確認を取る。狸と違って食われたら大変だ。


『人間など食ったりせん、それより勝負だ』

「 ……わかった。俺は強いぞ、狸にも勝ったんだからな」


 亀中が向かいに座った。

 ハッキリ言ってヌメヌメした蛙の化け物は気持悪かったが将棋をやらないと何をされるかわからないので仕方無く受けることにした。


『勝負しろ勝負、運と命の駆け引きだ』


 蛙の化け物が楽しそうに呟きながら駒を並べていく、


「ちょっ……命の駆け引きって何のことだ? 」

『早く並べろ、勝負しろ勝負』


 焦って訊く亀中に構わず蛙のような化け物が亀中の駒も並べていく、


「わっ、わかった。自分でするから…… 」


 亀中が慌てて駒を並べ終ると蛙の化け物が先に指した。


『パチン! 』


 木々の間を澄んだ音が鳴り響く、負けじと亀中も駒を指す。


『パチン! 』


 蛙の化け物が楽しそうに大きな口を開けてゲロゲロ笑う、


『勝負しろ勝負、楽しい勝負だ』


 嬉しそうな蛙の化け物を見て狸と同じで何もしないだろうと安心して亀中も将棋を楽しんだ。


『ここまでだ。日が昇る。続きは明日だ』


 2時間ほどして蛙の化け物が亀中の額に手を伸ばす。


『パチン!! 』


 何かが破裂したような大きな音を感じて亀中が目を覚ました。


「 ……今度は蛙と勝負か」


 楽しそうに笑いながら亀中が起き上がる。



 いつものように野良仕事を終えて寝床に入る。


『パチン! 』


 破裂するような音が聞こえて亀中は山の中に居た。


『勝負しろ勝負、続きだ続き』


 蛙の化け物の向かいに亀中が座る。

 パチンパチンと駒を指す小気味の良い音を鳴らして小一時間経った。


『ゲゲッ! まいった。俺の負けだ』


 悔しげに負けを認めると蛙の化け物が続ける。


『俺の負けだ。命と運、どちらを選ぶ? 』

「俺は強いって言っただろ、命なんていらない運でいい、運をくれ」


 勝った亀中が余裕でこたえた。


『ゲゲゲッ、わかった運をやる』


 蛙の化け物が亀中の額に手を伸ばす。


『パチン!! 』


 大きな音が聞こえて亀中が目を覚ました。


 朝食前に畑を見に行くと何やら騒いでいた。

 亀中が何事かと訊くと両隣の畑が害虫と病気にやられて作物の半分がダメになったらしい、5メートルも離れていない亀中の畑は無傷である。


「これか……蛙の化け物がくれた運だな」


 亀中は直ぐにピンときた。隣接する畑で同じように作っている作物が自分のものだけ無事だという事など普通では有り得ないのだ。



 3日ほどしてまた夢を見る。『パチン』と音を鳴らして猿の化け物が現われた。


『勝負だ勝負、将棋しろ』


 手招く猿の化け物の向かいに亀中が座る。


「俺を食ったり殺したりしないだろうな? 悪さするなら将棋はしないぞ」


 一応確認を取ると猿の化け物がニタリと笑った。


『人間など食わん、だが負ければ運を貰うぞ』

「運って…… 」


 どういう事か訊こうとして言葉を止めた。


「狸の時も蛙の時も良い事があった……命か運ってこれのことか」


 亀中の全身を冷たい汗が流れる。命か運を掛けた勝負なんじゃないかと思った。


『勝負だ勝負』


 猿の化け物が駒を並べていく、向かいで亀中が待てと言うように手を伸ばす。


「待て、待ってくれ、俺が負けたら運はやる。だから命は取らないでくれ」

『命などいらん、俺は運が欲しい、勝負だ勝負』

「わかった。勝負を受ける」


 ニタリと不気味に笑う猿の化け物の向かいで亀中が駒を並べていった。運と言っても野菜の品評会で賞を貰ったり両隣の畑が害虫や病気で被害を出したのに自分の畑だけ無傷で済んだことなど大したものではない、仮に負けても大丈夫だと安心したのだ。


 パチンパチンと小気味良い音を立てて勝負が続く、


「そうきたか…… 」


 駒を握り締めて亀中が考える。狸や蛙の化け物と比べものにならないくらいに猿の化け物は強かった。


『降参か? 降参か? 』


 嬉しそうに顔を覗き込む猿の化け物を見て亀中がニヤッと意地悪に笑った。


「まさか、降参なんてするかよ、本気を出させて貰うぞ」


 亀中が駒を将棋盤に叩き付ける。


『パチン! 』


 澄んだ音を立てる将棋盤の向かいで猿の化け物から笑みが消えた。


『うぬぬぬ……強いなお前、今日はここまでだ』


 悔しげに言うと猿の化け物が手を伸ばして亀中の額を叩いた。


『パチン!! 』


 大きな音が聞こえて亀中が目を覚ました。


「それなりに強いがどうにか勝てそうだ」


 勝負を思い出しながら亀中が起きる。いつの間にか化け物と将棋をするのが楽しくなっていた。



 次の夜も『パチン』と音がして亀中は夢の中で猿の化け物と将棋をした。

 中々手強い相手だったが亀中が勝った。


『降参だ。俺の負けだ。命と運、どちらを選ぶ? 』

「運だ。命などいらない」

『わかった。俺の運をやろう』


 猿の化け物が亀中の額に手を伸ばす。


『パチン!! 』


 弾けるような音が聞こえて亀中が目を覚ます。


「どうにか勝てたがだんだん強くなってるぞ」


 嫌な汗をかきながら亀中が起き上がる。


 野良仕事をしていた亀中の元へ息子の嫁が大慌てでやってきた。なんでも宝くじが当たったらしい。


「そうか……良かったな」


 何とも言えない表情で亀中が言うと今晩は御馳走を作ると嫁は張り切って帰って行った。

 猿に貰った運だろう事は考えなくてもわかった。


「強い相手なら運も大きくなるのか……そんな相手に負けたら俺はどうなる? 」


 険しい顔をして亀中が呟いた。



 3日ほどしてまた『パチン』と聞こえて夢を見る。


『勝負せい勝負、将棋せい将棋』


 鱗を纏った蛇の化け物が亀中を手招く、


「嫌だ! もう将棋はしない」


 亀中が逃げ出した。

 夢の中とはいえ勝手知ったる山だ。何処をどう通れば村に帰れるのかはわかっている。


『逃げるな、逃げるな、勝負せい』


 後ろから蛇の化け物が追ってくる。


「助けてくれ! もう将棋は嫌だ」


 大声で怒鳴りながら亀中は山道を下った。


『ダメじゃ、ダメじゃ、勝ち逃げは許さんぞ』

「勘弁してくれ! 助けてくれぇ~ 」


 必死で走って麓に出た。村は直ぐそこだ。


「村が……そんな………… 」


 亀中が足を止めた。

 山も山道も普段と変わらないのに村が無かった。家も道路も田んぼも畑も無い、草ぼうぼうの原っぱが広がっていた。


『勝負せい勝負、将棋せい将棋』


 蛇の化け物が長い尻尾で亀中を縛るように捕まえた。


「夢なら覚めてくれぇ………… 」


 蛇の化け物が山奥へと亀中を引き摺っていった。


『将棋せい将棋、勝負だ』


 将棋盤の向かいに亀中を座らせると蛇の化け物は尻尾を使って器用に駒を並べていく、


「わっ、わかった。しょっ、将棋はする。だから命は取らないでくれ、負けても命は勘弁してくれ」


 震える声で言う亀中を見て蛇の化け物が長い舌をちょろちょろ出した。


『命などいらん、儂が勝てば運を貰う』

「わっ、わかった。それなら勝負を受ける」


 亀中が駒を並べていく、


『パチン! 』


 澄んだ音を立てて蛇の化け物が駒を指す。


『パチン』


 亀中が震えながら相手をする。

 パチン、パチンと暫く打っていたが蛇の化け物が長い尻尾を亀中に伸ばしてきた。


『本気でやらんと命を貰うぞ』


 尻尾の先で亀中の頬をペシペシ叩く、


「 ……わかった。許してくれ」


 亀中が震える声で謝った。勝ち逃げがダメなら負けるしかない、蛇の化け物が命ではなく運を選ぶと聞いてわざと負けようとしたのだ。


『勝負せい勝負、本気の勝負じゃ』


 舌をちょろちょろ出して蛇の化け物がニヤッと笑った。

 小一時間が経った。元々将棋好きの亀中はいつの間にか真剣に将棋を指していた。


『今日はここまでだ。日が昇る。楽しい勝負はお預けじゃ』


 蛇の化け物が長い尻尾を伸ばしてくる。


『パチン!! 』


 額を叩かれパチンという音で目を覚ます。


「化け物め……どうにかしないと」


 その日は野良仕事を息子夫婦に任せて亀中は町へと出掛けた。

 昼過ぎに帰ってくると町の大きな神社で貰ってきた御札を家の彼方此方へ貼り付ける。


「お祓いもして貰ったし、御札もある。これで大丈夫だ」


 自分の部屋には特に厳重に四隅に御札を貼り付けた。



 お祓いが効いたのか御札の御陰か、その夜は化け物の夢は見なかった。

 3日経つが夢も見なければパチンという音も聞こえない。


「よかった。助かった…… 」


 1週間経って亀中はすっかり安心していた。

 もう大丈夫だと暫く行っていなかった猟へと出掛けた。もちろん将棋盤を見た山には近付かない、他の山にも入らずに麓の林や藪でキジやヒヨドリを狙うだけだ。


「これだけ獲れば充分だな、今日は鳥鍋が食えるぞ」


 久し振りの猟で腕が鈍っていると思ったがキジやヒヨドリなど合わせて5羽仕留めることが出来た。自分たちで食べる分には充分だ。

 近くに畑が見える野原の岩に座ってお昼の弁当を広げる。


「お祓いが効いたんだな、化け物も出てこないし来週くらいに向こうの山へ行ってみるか」


 全部終ったと安心しきっていた亀中の目の前、藪の中から蛇が1匹現われた。


「ん? シマヘビか」


 何処にでもいる毒の無いシマヘビだ。亀中は気にした風もなく弁当をモクモク食べながら蛇を見ていた。

 通り過ぎると思っていた蛇が亀中の手前までやってきた。


 何だこの蛇? 亀中が不思議そうに見ていると蛇がクイッと鎌首をもたげる。


『勝負せい勝負、将棋せい将棋』


 ちょろちょろと舌を出しながら蛇が話した。


「ひぃぃ……あの蛇か……止めてくれ…………もう嫌だ」


 亀中が逃げるように仰け反る。膝の上に置いていた弁当箱が引っ繰り返って蛇の前に散らばった。

 落ちていた玉子焼きをパクッと咥えて飲み込むと蛇がニタリと笑う、


『勝ち逃げは許さんぞ、勝負せい勝負』

「いっ、嫌だ。勝負なんかするか! 」


 亀中は転げるように岩から離れると脇に置いていた猟銃を掴み取る。


「煩い、お前らが勝手にしたんだろ、もう将棋はしない、それ以上するなら撃つぞ」


 亀中が猟銃を蛇に向けた。


『将棋を打たずに儂を撃つのか? 』


 蛇が怯んだように見えた。亀中が凄む、


「もう将棋は止めだ! 俺に付き纏うな、これ以上何かするなら本当に撃つぞ」


 その時、周りの木々や藪がザワザワと騒がしくなる。

 風など吹いていない、何事かと亀中が辺りを見回す。


『勝負じゃ勝負、勝負せんなら命を貰うぞ』


 右の藪から狸が出てきた。

 左では近くの岩に蛙がぴょんと跳び上がる。


『勝負だ勝負、勝ち逃げは許さんぞ』


 少し離れた後ろの木の枝に猿がいた。


『勝負しろ勝負、勝負せんなら命をとるぞ』


 蛇と狸と蛙と猿が亀中を取り囲む、


「ひぃぃ……止めてくれ、助けてくれぇ…… 」


 キジやヒヨドリなど捕った獲物を放り出して亀中は逃げ出した。



 家に帰ると夕食もとらずに部屋に閉じ籠もる。


「神様お助けください、化け物から御守りください」


 御札と一緒に貰ってきた御守りを握り締めて念じた。


「明日一番でまたお祓いして貰おう」


 部屋の四隅には御札が貼ってある。ここにいれば安全だと考えた。

 何時間経っただろうか、亀中はいつの間にか眠りに落ちていた。


『パチン! 』


 弾けるような音が聞こえて目を覚ます。

 身構えて辺りを見回すが山の中ではなく自分の部屋だ。小さな机に突っ伏すように眠っていたらしい。


「よかった。気のせいか………… 」


 安堵の溜息をついた。


『勝負せい勝負、将棋せい将棋』


 声が聞こえてバッと振り返る。


「ひぃぅぅ…… 」


 掠れるような悲鳴が出た。直ぐ後ろに蛇の化け物がいた。


「たっ、助けてくれぇ………… 」

『勝負せい、続きじゃ、続き、勝ち逃げは許さんぞ』


 怯える亀中を見てニタリと笑うと蛇の化け物は手前に置いた将棋盤の向かいに座れと長い尻尾で指差した。


「わかった。将棋はするから命だけは助けてくれ」


 観念した亀中が座ると蛇の化け物が駒を指す。


『パチン! 』


 小気味良い音を鳴らして将棋勝負が再開された。

 暫くして蛇の化け物の動きが止まる。


『うぬぅ……儂の負けじゃ、悔しいのぅ、命と運、どちらを選ぶ? 』

「どっちも選ばん、その代わりこれで将棋は終わりだ」


 怯えた目で見つめながら亀中がきっぱりとこたえた。

 蛇の化け物が大きな頭を振った。


『ダメじゃ、ダメじゃ、儂が止めても他が止めん、40揃うまで止めんのじゃ』

「40? 何のことだ」


 険しい顔で訊く亀中を見て蛇の化け物がニヤリと笑う、


『駒じゃ、駒じゃ、将棋の駒じゃ』

「将棋の駒? 確かに40個だがそれが何かあるのか? 」

『知らん、知らん、命と運、どちらか選べ』


 明らかに何か隠しているような態度に亀中は腹が立ってきた。


「命と言ったらどうなる? 」


 蛇の化け物が命乞いでもすればそれを使って将棋を止められるように取引出来ると考えた。


『命じゃな、わかった』

「ちょっ…… 」


 待てと止めようとした亀中の目の前で蛇の化け物が苦しみだした。


『ギギャギャギャァァ~~、口惜しや、やっとここまで来れたのに……ゲギャギャギャァァ~~ 』


 蛇の化け物は泡が溶けるように消えていく、


「あれは……昼間見たシマヘビか」


 干からびてカサカサになった蛇の亡骸が将棋盤の上にあった。


『パチン!! 』


 破裂するような音が聞こえて亀中の目の前が真っ暗になる。


「ううぅ…… 」


 眠っていたようだ。目を覚ますと蛇の化け物も将棋盤も無くなっていた。



 いつの間にか一晩経ったようだ。窓から朝日が差し込んでいた。


「夢……夢じゃねぇ」


 部屋を見回していた亀中が絶句した。

 四隅の柱に貼っていた御札が真っ黒になって剥がれ落ちていた。


「御札を貰いに行こう、お祓いもして貰って……もっと力のある神社を紹介して貰おう、神主さんに来て貰えば……そうだ。ここでお祓いをして貰えばいい」


 直ぐにでも神社へ行こうと支度を始める。


『パチン!! 』


 破裂するような音を聞いて亀中はビクッと動きを止めた。


『行かせんぞ、行かせんぞ、勝負じゃ勝負』


 押し入れの戸を開けて狸の化け物が出てきた。

 天井から蛙の化け物が降ってくる。


『勝負だ勝負、終るまでは行かせんぞ』

『勝ち逃げは許さんぞ、勝負せい勝負』


 窓をガタガタ開けて猿の化け物が入ってきた。

 畳を捲ってムカデの化け物が姿を見せる。


『次は俺だ。俺の番だ。勝負じゃ、将棋じゃ』

『その次は儂じゃ、将棋するぞ、将棋』


 直ぐ横の壁から何の動物かわからない毛むくじゃらの化け物がぬっと出てきた。


「ひぃぃ~~、来るな……止めろ……将棋などせん、もう止めてくれ」


 悲鳴を上げながら亀中は保管棚から猟銃を取り出す。


「化け物め! お前らに殺されてたまるか!! 」


 猟銃を撃って暴れているところを警察に取り押さえられた。錯乱して銃を撃ちまくる亀中に驚いた息子が通報したのだ。

 逮捕された時には心神喪失状態でその後も化け物が出ると暴れて罪には問えないと代わりに磯山病院へと入院させられた。

 これが亀中さんが語ってくれた話しだ。


「俺は病気じゃねぇ……化け物は本当にいるんだ」


 話を終えるとぽつりと付け足した。



 向かいに座って神妙な面持ちで聞いていた哲也が口を開く、


「化け物は亀中さんしか見てないんですよね? 息子さんとかは見てないんですよね」

「ああ、俺だけだ。俺も初めは夢だと思ってたからな」


 焦りを顔に浮かべてこたえる亀中の向かいで哲也が微笑む、


「夢でいいんじゃないですか? 夢だと思えば気が楽でしょ? 」

「喧嘩売ってんのか? 俺は病気じゃねぇ、彼奴らは……化け物はいるんだ」


 ムッとする亀中に哲也が待てというように手を伸ばす。


「山の中で将棋盤を見つけて気になったから変な夢を見たんじゃないですか? 亀中さんは将棋が好きだから特に記憶に残ったんですよ、思い込みすぎるとそれの夢を見るって事はよくありますから、映画とか本とか読んでその話にのめり込むと夢に現われるって事あるじゃないですか、僕も映画を見た後でその世界に入り込むような夢は見たことありますよ、化け物の夢と言っても襲われるんじゃなくて好きな将棋をする夢でしょ」


 目の前にいる亀中からは厭な感じも変な気配も感じない、パチンという音も頭内爆発音症候群だと判明している。恨まれるようなこともしていない、山に捨ててあった将棋盤を触っただけだ。何もしていない亀中が怪異に遭うだろうか? 全て亀中の妄想ではないのかと哲也は思った。


「俺の妄想だとして昼間見た化け物はどうする? 猟に行った時に見た蛇どもはどうする? 」


 険しい顔で訊く亀中の向かいで哲也が冷静にこたえる。


「只の蛇でしょ? 狸も蛙も猿も、その辺の山にいる普通の動物ですよ、言葉を話したのは幻聴ですよ、怖いって思い込んで幻聴が聞こえたんですよ」

「じゃあ……じゃあ、俺の部屋に現われた化け物どもは……神社に行かせないように俺を捕まえようとした化け物どもはどう説明する? 」

「それこそ幻覚ですよ、だって暴れているところを取り押さえられたんでしょ? 心神喪失状態だったんですよ、つまり心の病気です。それで磯山病院へ入院したんですよ」

「それは…… 」


 口籠もる亀中を見て自分の推測があっているだろうと思って満足したのか哲也が優しい声を掛ける。


「心の病気は自分ではわからないものですよ、わからないうちにおかしくなって自分ではどうしようもなくなって入院するんですから」

「でも……今でもパチンって聞こえるんだ。化け物が…… 」


 自信なさげに言う亀中に哲也が畳み掛ける。


「それなら先生の言う通り頭内爆発音症候群ってヤツですよ、普通の人は音に吃驚して目が覚めるんですが亀中さんは音が引き金になって変な夢を見るって看護師さんも言ってましたよ」


 頭内爆発音症候群さえ治れば直ぐに退院出来るだろう、心の病だと自覚した方が亀中のためになると思った。


「俺は病気じゃない……病気なんかじゃなくて本当に化け物はいるんだ………… 」


 頑なに病気ではないと怒鳴っていた亀中が語気を和らげた。一方的に病気だと決めつけられて反発していたのかも知れない。


「ここに来てからも1回勝負したんだ」


 勝負と聞いて哲也が身を乗り出す。


「本当ですか? どんな化け物と勝負したんですか」


 完全に野次馬根性だ。


「ムカデの化け物だ。足がいっぱいある長くて気持ちの悪い化け物だ」


 顰めた亀中の顔を哲也が覗き込む、


「それで勝ったんですか? 」

「 ……どうにかな、どうにか勝てた。楽勝じゃねぇ、強い相手だった。負けてたかも知れん」


 疲れを浮かべて亀中がこたえた。


「それで命と運どっちを貰ったんです? 」


 核心を衝くようにように訊くと亀中の表情が緩んだ。


「化け物の命なんていらねぇよ、運を貰った」

「運なら良いことがあるんですよね」


 興味津々で訊く哲也の向かいで亀中が微笑んだ。


「ああ、昨日連絡があってな、孫が出来た。もう出来ないと思ってたんだが嫁が妊娠したんだよ」


 亀中の息子の嫁は妊娠しにくい体質だったらしい、病院で検査を受けたり不妊治療も受けたが子は出来なかった。嫁が35歳を過ぎると子供のことは諦めた。それが妊娠したと連絡があったのだ。


「直晃たちは宝くじに当たった次が子供だと喜んでたよ、俺は宝くじなんかよりも嬉しかったねぇ」


 直晃なおあきとは息子のことだ。嬉しそうに話していた亀中の顔が曇った。


「化け物の力がなければ授からなかったかも知れない、それだけは有り難い事だと思っている……でもな、でも怖いんだ。もう勝負はしたくない」

「亀中さん…… 」


 哲也は掛ける言葉が見つからない、先程無責任に推測したのが恥ずかしくなった。


「化け物ども、だんだん強くなってる。前の勝負でギリギリだ。次は勝てるかどうか……負けて取られるのが運ならいいが孫の顔も見ずに死ぬのは嫌だ。せめて孫を見てからなら悔いはないんだがな………… 」


 何とも言えない表情の亀中を見て哲也が神妙な面持ちで口を開く、


「僕に出来ることがあれば言ってください、警備員ですから深夜の見回りもしてますから亀中さんに何かあったら直ぐに駆け付けますからね」

「優しいな、哲也くんとか言ったな、廊下で酷いことを言って悪かったな」


 話しを真剣に聞いてくれる哲也の人となりがわかったのか亀中が頭を下げた。


「いえ、僕の方こそ事情も知らずに済みませんでした」


 哲也がバッと頭を下げた。


「ありがとう、何かあったら頼むよ」

「僕に出来ることなら何でも言ってください」


 笑いながら互いの顔を見つめる。

 亀中の後ろの壁に掛けてある時計が目に入った。午後4時を回っていた。


「そろそろ夕方の見回りですので僕はこれで…… 」

「話しを聞いてもらって少し楽になったよ、ありがとう」


 ペコッと会釈をして哲也がドアに手を掛けた。


「孫の顔を見れないのは悔しいが命を取られたとしても俺は嬉しいよ、諦めてた孫が出来たんだからな」


 部屋から出て行く哲也の背に亀中が呟くように言った。



 その日の夜から異変がないか見回りでは注意するようにした。

 3日経つが何も怪異はない、深夜の見回りでも亀中の406号室からは嫌なものは何も感じなかった。


「やっぱ只の病気だな、頭内爆発音症候群だっけ頭の中で破裂するような音が聞こえる変わった病気だ。ストレスとか疲労が溜まるのが原因だって香織さん言ってたけど、亀中さんは別にストレスとか溜まってる気がしないけどな、孫が出来なくて不満が溜まってたならわかるけど無事に出来たしな……何が原因なんだろうな」


 深夜3時の見回りをしながら哲也が独り言だ。


『パチン! 』


 406号室、亀中の部屋の前を通った時に音が聞こえた。何かを弾いたような小さな破裂音だ。


「亀中さん? 」


 慌ててドアを開けて部屋の中を見るが何も異常は無い、亀中はベッドの上で寝息を立てていた。


「気のせいか…… 」


 亀中を起こさないようにそっと部屋を出ようとした哲也の足が何かを踏んだ。


「何だ? 」


 小さなものを拾い上げる。


「将棋の駒だ」


 将棋の王将だった。将棋好きの亀中の持ち物だろうとさして気にせずにテーブルの上に置くと部屋を出て行った。



 翌日、昼過ぎに散歩をしているとA棟の壁際で窶れた顔で座っている亀中を見つけた。

 傍に行くと気付いた亀中が哲也を見上げる。


「哲也くんか…… 」


 虚ろな目をしている亀中の隣りに哲也が座る。


「何かあったんですか? 」

「 ……もうダメだ」


 怒鳴り散らしていた亀中とは思えない気弱な声で哲也は直ぐにわかった。


「もしかして将棋ですか? 」

「ああ……負ける。王が取られそうだ」

「なんっ!! 」


 化け物が現われて将棋勝負をしているだけだと思っていたが負けそうだと聞いて哲也が絶句した。

 驚く哲也の隣で亀中が続ける。


「俺よりも将棋が旨い……熊でも猪でもない見たこともない毛むくじゃらの化け物だ。あれこそ化け物だ」

「それでどうするんですか? 」


 化け物の話しを信じたわけではないが昨晩聞いたパチンという音も気になった。


「命は取らないでくれと頼んだんだが何もこたえないんだ……せめて孫の顔を見るまでは生かせてくれと頼んでるんだがどうなるか………… 」

「僕に出来ることはないですか? 」


 心配そうな哲也を見て亀中がフッと笑う、


「代わってくれと言ったら代わってくれるかい? 」

「将棋はやったことないです」


 将棋について哲也が知っているのは王が取られると負けだということと歩は前に一マスしか進めないという事くらいだ。


「それじゃあ無理だな、わざと負けようとしても見破るんだ。将棋の出来ない哲也くんじゃ代わりにならないな」


 力無く笑うと亀中が立ち上がる。


「今も考えてたんだ。勝てるようにやるだけやってみるさ」


 ふと思い出して哲也が口を開く、


「そう言えば将棋の駒拾いましたよ、王将」


 歩き出そうとした亀中が振り向いた。


「将棋の駒? 何処で? 」

「亀中さんの部屋です」

「本当か? 」


 亀中の顔色がさっと変わった。


「ええ、昨日深夜の見回りでパチンって聞こえた気がして亀中さんの部屋を覗いたら床に落ちてたからテーブルの上に置いときましたよ」

「悪い冗談は止めてくれ! 将棋なんて持ってきてない……テーブルも見たが王将なんて無かったぞ」


 青い顔をして亀中が怒鳴った。


「そっ、そんな……じゃあ、あの王将は? 」

「 ……本当だとしたら化け物の将棋だ。昨晩も将棋をしてたんだ。見たこともない毛むくじゃらの化け物と……俺は病気じゃない、哲也くんもわかっただろ、どうにかして勝たないと……考えるから邪魔しないでくれ」


 真っ青な顔をして弱々しく歩いていく亀中を哲也は座ったまま見送った。

 どうにか勝とうと手を考えているのだ。将棋を知らない哲也は邪魔になるだけである。



 その日の深夜、見回りをしていた哲也は亀中の406号室で立ち止まる。


「亀中さん大丈夫かな…… 」


 ドアの前で気配を探るが何も無さそうなのでそのまま歩き出す。


『パチン! 』


 四歩ほど歩いたところで音が聞こえた。

 亀中さん? そっと引き返すと哲也はノックもせずにドアを開けた。


「なっ! ひぅぅ…… 」


 全身の毛を逆立てた哲也が低い悲鳴を上げる。薄暗い部屋の中に毛むくじゃらの何かが居た。


『パチン! 』


 毛むくじゃらの化け物が寝ている亀中さんに跨って額を叩いた。

 哲也は咄嗟にドア横にある照明のスイッチを押すが明かりは点かない。


「うぅ……助けてくれ……命は……頼む、運をやる……運で勘弁してくれぇ………… 」


 亀中は眠ったまま呻いている。

 恐怖で他の行動が取れないのか哲也は明かりを点けようと何度もスイッチを押した。


『パチン! 』


 毛むくじゃらの化け物が亀中の額を叩く度に将棋の駒を勢いよく打ち付けるような音が鳴る。


『勝負じゃ勝負、旨くいったわ、ゲヘヘヘヘッ』


 厭な声で笑うと化け物は脇に抱えていた将棋盤を亀中の顔に押し付けた。


『ゲヒヒヒッ、これで4人目だ。あと36人で魂の駒が揃う』


 嬉しそうに笑いながら化け物が将棋盤の側面を爪で引っ掻いた。将棋盤の側面に付いていた3本傷が4本になっていた。

 化け物がくるっと振り返る。


『勝負じゃ勝負』


 ニヤリと不気味に笑う化け物に固まったまま動けない哲也が必死に首を振って『やらない』と意思表示した。

 毛むくじゃらの化け物は不気味な笑みをしたまま消えていった。


 部屋の明かりが点く、哲也は無意識のまま手を動かして何度もスイッチを押していたのだ。


「がわあぁあぁぁ~~ 」


 亀中が飛び起きた。


「亀中さん! 」


 泡を吹いて痙攣する亀中を見て哲也がナースコールを押した。

 直ぐに看護師が駆け付ける。


「亀中さん、大丈夫ですか? 亀中さん」

「ふひっ、へへふっ、ひふふっ、ふへっ……いへへぇ………… 」


 看護師が話し掛けるが亀中は言葉を話すことも出来なくなっていた。立つことも出来ないのか座り込んで手足をビクビク痙攣させている。

 先生たちが駆け付けて亀中は直ぐに治療室へと運ばれていった。



 翌日、亀中は落ち着いたが正気を取り戻すことはなく隔離病棟へと移されることになった。身体の何処にも異常は無い、頭内爆発音症候群からくる酷い幻覚によって心神喪失状態になったのだろうと診断された。

 暫く安静にしていれば回復するだろうとの事だが哲也はそうは思わない、化け物を見たからだ。亀中は化け物に運を取られて病状が悪化して正気に戻れなくなったのだろう、もう一生治ることはないだろうと哲也は思った。


 山の中で初めて将棋盤を見た時に将棋好きの亀中は相手をしてしまった。それだけならいい、次に見た時に王手をして勝ちだと言ってしまった。勝ち逃げ出来ない勝負に自ら首を突っ込んだのだ。亀中が将棋が弱ければ初めの狸の化け物に負けて少しの運を取られるだけで済んだのかも知れない。


 ただ一つの救いは息子夫婦に子供が出来たことだ。孫の顔を見れないのは悔しいがたとえ自分が死んでも孫が出来たのは本当に嬉しいと言っていた亀中の笑顔を哲也は忘れることはないだろう。

 だが正気を失った亀中は生きているのに孫だと認識出来ないのだ。人として普通に生きていけなくなった亀中は悔やんでも悔やみきれないのではないか? それが化け物の狙いだとしたら、死ぬよりも苦しい思いを味あわせるのが狙いだとしたら? 哲也は何とも言えない不快感を感じて考えるのを止めた。


『これで4人目だ。あと36人で魂の駒が揃う』


 化け物の言っていた言葉が耳に残る。

 将棋盤にあった3本の傷はこれまで勝負に負けた人間の数だろう、亀中の分を入れて4人だ。

 将棋の駒は40個だ。あと36人も捕まえる気か? 哲也は山の中で将棋盤を見つけても絶対に触れないでおこうと思った。


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