談話 translucent on Late Show
廃墟三階、無機質な病室の引き戸が並ぶ廊下を歩く。
あまり大きくは無い病院だったようだが、それでも藍達全員が眠るには十分なベッドを備えていた。
藍は長い廊下の真ん中辺り、[308]のプレートが掛かった扉の前で立ち止まった。
廊下の電灯は少数がまばらに点けられているだけだったが、天気が回復しているらしく、大きな窓から射す月光のおかげでプレートの数字が判別できるほどに明るかった。
藍は引き戸特有の奇妙なドアノブを掴んだ。ひんやりと冷たい。藍はその感触が、少し、気に入らない。
がらがらと厚いプラスチック板をスライドさせると、藍の寝室が現れた。
真白いベッドが二つ、前後に並んでいる。元々が病室だったせいか、部屋のすべてが白系で統一されていた。そのおかげで、抑えられた照明の中でも、部屋の内装をしっかりと見ることが出来た。床には、廊下からの月光で、藍の影が出来ていた。部屋の奥にある小窓からは、朝日が指すようになっている。
「おかえりー!お疲れさまー!」
狭い部屋全体に、透き通った黄色い声が響く。藍は後ろ手で扉を閉めながら、近い方のベッドに転がる声の主に告げた。
「ただいま、ミサ。自分のベッドで寝てくれない?」
えー、と何故か藍のベッドに横っている少女が、唇を尖らせて主張する。
「だってだって!アイのベッドの方が絶対に柔らかくて気持ちいいんだもん!」
「どっちも同じ」
「いや、絶対だって!ほら、ネムもそう言ってる!」
弥撒は両腕で抱きしめるクマの人形に顔を近づけた。その姿は少し幼さを感じさせる。
凍えたような、殺人者特有の眼光だけが、その中で異質だった。
彼女は産まれて間もなく捨てられ、街角で激しく泣いていた所を一人の団員に拾われたらしい。藍より三つほど年下だが、ここでは大先輩に当たる。
実際、加入直後は、生活に馴染めるまで何度も迷惑をかけた。本来なら藍が敬語を使っても可笑しくはないのだが本人達にそんな意識はなく、むしろ藍は弥撒を妹の様に思っている。
「わかった、今夜だけ代わってあげる」
やったぁ!ありがと!と、人形を片手で振り回す少女の姿に、藍は思わず頬を緩める。
それから静かに部屋の奥に歩き、白一色のベッドに体を投げた。
ぽすっ、とクッションが、藍の体を心地よく受け止めた。微かに同居人の香りのするベッドに顔を埋めると、先ほど自分の言った言葉が不意に脳裏に浮かんだ。
「ミサ、ちょっといい?」
「んー、どうしたー?」
藍は顔を上げず、ベッドに伏したまま尋ねた。
「ミサは傷さんの隊だよね。あの人普段どんな感じ?」
『Dogmacula』は現在三つの部隊に分かれている。
第一部隊は、『Dogmacula』全体の頭首を務める冷を隊長とする集団戦闘部隊。
平常時は廃墟内で静かに待機している事が多いが、非常時や大規模作戦時には主力となる部隊だ。よって、人を殺める素質に長けた精鋭達が名を連ねる。
第二部隊は例の金髪の青年、傷の率いる強奪部隊。
名称通り、組織を支えるため集団で強盗や殺人を行う。日常的に一般人や警察と戦闘を行うので、最も死に近い部隊であり、そして『Dogmacula』の総員の半分以上が所属する部隊だ。
そして第三部隊が藍や刃汚の所属する、零乃を長とする部隊だ。
この部隊には諜報や密売など、特殊な仕事を受け持つ者と、家事を任された者が配属される。戦力にならない幼児などは普通家事に回されることになっているので、他の部隊の団員に比べ年齢層が低く、また戦闘には向かない貧弱な者が多い。
因みに藍と刃汚は共にこの部隊に、個人活動班として登録されている。
「えー、私は遠くからしか見たことないなー」
「そんなもんなの?」
「びっくりしたよ、三隊から二隊に移った時は。とにかく人が多いからさ、自分と同じ小班のやつしか覚えられない。もう、全班集合とかなったら、人だらけで前後も左右も見えないからね。傷さんも全員を把握しきれてないはずだよ」
第二部隊は過酷な上、壮絶であるらしい。新入り以外の顔と名前が大体わかるような三隊や、長年の戦友たちが集まる一隊とは、訳が違うらしい。
「というか、なんでそんな事聞くの?」
「刃汚が傷さんに名前を憶えられるなんて名誉だぞ、とかなんとか言ってたから気になって」
「あぁ、藍は結構二隊の間で話のネタにされてるから。有名人だよ」
そういうことを本人の目の前で言うのはどうなのだろう、と思いつつ藍は目蓋を下ろした。
夜三時半頃だが、基本的に夜間は外で活動し、昼間寝ている藍に、睡魔は訪れそうになかった。仕方なく、再び瞳を開き、蚊に食われたらしい首筋を掻いた。
今日は偶々いい獲物が引っかかってくれたが、朝まで夜通し裏路地をブラブラすることも少なくは無い。
「あーあ、明日は出動か。嫌だなー」
基本的に夜更かし病である弥撒は、隣のベッドに仰向けになってクマの人形に愚痴を零している。
大きなクマの縫いぐるみを抱いている弥撒の姿は、密かに藍の心の支えとなっていた。
ネムと名づけられたその縫いぐるみは、藍に似た青い瞳を持っていた。半透明な青紫のビー玉の瞳は、時に藍に何かを訴えているようにも見えた。
「ネムって、どこに居たんだっけ」
藍はふと、弥撒に尋ねてみた。
「え、忘れちゃった?まあ四年くらい前の事だったから、無理ないか」
少女はそこで言葉を切り、一回伸びをした後、寝返りを打ってうつ伏せになった。
「なんかの仕事から帰って来た刃汚が連れて来たんだよ。それにしても、刃汚は
どこでこんなに可愛い友達を見つけたんだろ」
なんだかそんな事もあった気がする。詳しくは覚えていないが、たしか冬の頃だった。
そんな風に記憶を遡り、ちょっと座りなおそうかと上体を起こしかけた時藍、は自分の太もも辺りに違和感を感じた。
「あ、ミサ。忘れてた。食事場にいる髪の長い子に、これを渡せって言われたんだけど」
藍はポケットの中に入っていた固形の携帯食料を取り出し、隣のベッドに寝そべる少女へ放った。
「何……ああ、多分セイね。わかった、ありがと」
「凄い心配してたけど、最近ちゃんとご飯食べてる?」
「いやー、それがさ」
弥撒はネムの綿の手を引っ張りながら、鬱そうに答えた。
「慣れて来たとは思うんだけど、さ。やっぱり人を殺した後ってのは、食べ物が喉を通らない訳よ」