朝靄 Sunrise tastes like blood
その娘は、目の前に現れた少年の目をじっと見つめた。
少年の黒い瞳孔は、深い樹海を思わせた。どこまでも静かにそこにあり、映った者の命を絡め取るような、恐ろしい瞳だった。
「なに?どうしたの?」
その言葉に、その娘の身体が無意識に反応した。鼓動が際限なく速まり、手の指の先が細かく震える。
「そんなに怯えないでよ。僕は君を虐めたりしないから」
少なくとも、今はね。少年はそう言うと、その娘の横を通り抜け、小部屋からカウンターへ歩いた。その娘は少年を見失わないようにと振り返った。少年と屋外へ繋がるドアが重なり、逆光が少年の後ろ姿に陰を落とした。
その姿は、後光を携えた神のように見えた。
「僕はもう帰らなくちゃいけないんだ。ごめんね。」
少年は、その娘を振り返らないまま、背中越しに言った。その時初めて、その娘に、少年の背中に複雑な模様が刻まれているのが見えた。
「でも、君なら頑張ってくれるって、僕は信じてるよ。じゃあね、青い瞳の君」
その言葉は理解できなかったが、この先、地獄が待っていることだけは明らかだった。
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藍は、隣のベッドにいるルームメイトの大声で、無理矢理起こされた。
「藍〜!おっきろ〜!朝だぞ〜!」
藍は左半身を下にして寝ころんだまま、思いやりの欠片も見あたらない目覚ましを、ありったけの不満を込めて睨みつけた。
弥撒の声は午前六時半の館内に響きわたったらしい。隣の部屋の住人が壁越しに不満を言ったり、上の部屋で、誰かが床を踏みならしてくるのが聞こえた。同居人達の非難の矛先である当の少女は、気に留めていなかったが。
(多分、朝飯前に怒られるな、私が)
藍は溜め息を零して、重い上半身をのっそりと起こした。
「何でこんなに早く起こしたの?私まだ三時間も寝てないんだけど」
弥撒は、藍の寝転ぶベッドの傍に立っていた。その腕には可愛らしいクマの縫いぐるみではなく、無骨なアサルトライフルが抱えられていた。
幼く見える弥撒が無邪気に振り回しているそれは、確かに人の命を奪ったれっきとした凶器である。
「冷が特別作戦のために藍を連れて来いって〜。朝ごはんの後でいいらしいから、一緒に食べに行こうよ!」
藍は寝ぼけたまま、何も掛かっていない病室の白い壁を見つめた。
はっきり言って食欲はない。と言うか、眠くてしょうがない。
が、特別作戦と言う位だ。その上、藍を名指しで呼ぶくらいである。どう考えても、一筋縄では行きそうに無い。ここは、食事を取れるうちにとっておいた方が良さそうだ。
「・・・わかった。それにしても、私を名指しで呼ぶなんて何があったんだろう」
「さあね。ま、ロクでも無い事は確かだけど」
廃墟の中で、正面ロビーの次に広い場所、食堂。病院として使われていた当時は、患者は自分の病室で食事を取っていたのだろう。
そこはどうやら、職員食堂兼カフェテリアとして使われていたようだ。木目調の茶色の壁紙は無残に破れていたが、壁掛け時計やテーブルクロスなどに少しだけその頃の鱗片が見えた。
弥撒は食堂と厨房とを繋ぐカウンター越しに、ある人物を見つけた。
「セイ〜!久しぶり〜!」
厨房の手前の方で皿洗いをしていた、長い髪を垂らした黄色いエプロンの少女が此方を振り向いた。微笑むその頬に、えくぼが見えた。
「弥撒!何で最近来なかったの?心配してたんだけど」
「ごめんごめん、気が向かなくてさ〜」
聖は弥撒の肩越しに藍の姿を認めると、律儀にお辞儀をした。その立ち振舞いは、幼く見える弥撒とは対照的に大人びて見える。
「藍さん!昨日はありがとうございます」
藍はカウンターまで近づき、黄色い長方形のトレーを左手で取った。
「気にしないで。何か適当に、朝御飯お願い」
寝不足と、ルームメイトの大声に対する、糾弾の視線で疲れ切った表情の藍を、聖は、不思議そうに見上げた。
聖は弥撒と同年代らしく、藍より頭ひとつ分小さい。
最近弥撒の紹介で『Dogmacula』に入ったばかりらしいが、とてもよく働くと、三隊の厨房勤務の同僚の間で褒められていた。
聖は藍のトレーを受け取ると、一度厨房の奥に引っ込み、藍が大きく欠伸をしている間には戻ってきた。
その手に乗るトレーには、藍が見た中で一番美味しそうなサンドイッチと、湯気の立ったココアが乗っていた。
彼女は魔法が使えるのだろう。と、結論づけて、藍は軽く礼を言って、どこに座ろうかと食堂を見渡した。そして、そこに見憶えのある少年を見つける。
「こんな時間にどうしたの?」
藍は刃汚とテーブルを挟んだ向かい側に座った。少年はトーストを咥えたまま顔を上げる。
「ちょっと、トーストを置いてから喋りなよ」
ふがっ。と、謎の音を漏らして、刃汚の口がトーストを飲み込んで行く。
「おはようさん、藍。多少心地の良い朝だったので、ちと早起きを」
「そりゃ呑気ね」
「いってくれるな。お前は?」
「ああ、ちょっと冷さんに呼ばれて」
その言葉で、刃汚の顔が僅かに冷たくなったように感じた。心配とは少し違う、冷たさ。
「どうしたんだ?」
「特別作戦とやらがあるらしくて、ね」
藍がそう言うと、刃汚の表情に元の温かさが戻ってきた。
「そうか、問題でも起こしたのかと思った」
違う。と、応えつつ、藍は心の中で呟いた。
(今の冷たい顔、何処かで見たような。それも、最近じゃない、いつか・・・・・・)
「ところでさ、お前、年下の女の子にはあんな話し方すんだな」
「は?」
刃汚はコーヒーの入った欠けたコップを口元に持ち上げ、傾けて一気に飲み干した。
「いや、前から俺や零乃さんにのと、弥撒に対する態度が違うなって思ってて、弥撒だけかなって思ってたら、聖にもそんな感じだったからさぁ」
「・・・・・・」
「いや、別に構って欲しい訳じゃ・・・って、そんな目で見るなよ!」
藍は目の前で騒ぐ少年を無視して、サンドイッチに齧り付いた。
「・・・・・・美味しい」
「ほんと、あの子はどうなってるんだろうな。天才だよ」
いわゆる、LTBサンドというやつだろうか。耳のない食パンに、レタスとベーコン、トマトが挟まれたサンドイッチは、一流店の味だと言われても違和感のないほどに美味だった。藍は一流店の味など味わったことはないが。
「あの子の名前ってやっぱり、弥撒が付けた訳?」
「そうじゃないの?」
「少なくとも冷さんではなさそうだな」
『Dogmacula』の団員の多くは戸籍を持っておらず、そのため藍のように入団時に仮の名前を付けられることが多い。
仮の、というのは、運良く大人に成長できた時大企業側から名前を貰えるので、それまでの一時的な名前、という意味だ。
「くっそ、なんだよ、刃汚って」
刃汚は、冷に拾われ入団したため、その名前を冷によって決められた。が、不運なことに冷はそういう事に向いていなかったらしい。
結果として刃に汚いと書いてハオと読む、奇妙な名前になってしまった。
因みに、弥撒は教会のすぐ側で泣いていたのを拾われたため、ミサ会のミサを漢字に直した、弥撒という名が付けられたらしい。名づけ親は零乃だったと思う。




