五 目醒める闇
「えっ、なに、誰……あ、足っ!? 足が、きゃああっ!」
異常に筋肉質な老人が凄まじい形相をして上半身だけで襲いかかってくるという現実離れした光景に、当然パニックになった夏芽の引き攣った悲鳴に、仁道は八千斑の指示を待たず、髪の結界から飛び出した。
老人が彼女の足を掴むギリギリのところで、その身体にわずかにへばり付いたパジャマを握り締め、渾身の力で掃き出し窓に叩き付ける。轟音とともにガラスが割れ、フレームが拉げたが、分厚い筋肉は飾りでは無いようで、大したダメージも無く、刺さったガラスを落とそうと、犬のように全身を震わせる。飲み込んでいたドライフードが、上半身の断面から露出した臓腑からぼとぼととこぼれた。
「鍋島さん、俺の後ろに!」
「あ、ありがとうございます……暮井さん、あれ、なっ、何、何なんですか?」
夏芽の疑問は尤もだが、仁道は答える術も余裕も持っていない。
老人の視線は一心に夏芽の膝の傷に注がれている。
流れる血を見る目は、おおよそ人間のするものではなく、飢えた肉食動物のそれだ。それに、ただ空腹なだけではなく、他人から悪意を以て食事を奪われてきたような、凄まじい憎悪も感じられる。
「おいッ! どうするんだッ!」
「待ちィ! こっちも立て込んどる!」
夏芽を背中に庇いながら八千斑のほうに目をやれば、先ほど彼女が入ってきた門扉の柱に自棄のようにあの白い紙を貼りたくっていた。何も書かれていなかったはずの札に複雑な紋様が浮かんでおり、生きているかのように蠢いている。
「外と繋がってもうとんや! しばらく頑張っとって!」
よく見ると、門扉の向こうに、人の形をした靄が何体も揺らめいていた。
八千斑の言葉を借りるなら、この家だけを煉獄に繋ぐはずが、夏芽の登場で膜に穴が開き、門扉の部分だけ境目が曖昧になってしまったということだろう。
「暮井さんっ! 危ないっ!」
振り向きざまに、物理法則を無視して飛び掛かってきた老人の顔面を殴り抜く。高齢者の皮膚とは思えない、鋼じみた感触に拳が鈍い痛みに痺れる。地面に顔を打ち付けた老人は、それでも鼻血の一滴も出さず、餓死寸前の野犬の形相で、まばらに生え残った黄色い歯をがちがちと噛み鳴らした。
飢餓ゆえの憤怒に呑まれたか、老人は諦めない。
仁道に飛び掛かっては殴るなり蹴るなりされて落とされ、何度も同じことを繰り返す。
おもちゃを追い回す動物じみて傍から見れば滑稽かもしれないが、仁道は気が気でない。
少しでもタイミングがずれてしまえば、我に返った老人が獲物を変える可能性がある。
長身巨躯の仁道すらよろめかせる異形の筋力を、夏芽や八千斑が耐え切れるとはとても思えない。
「まだか! このままじゃジリ貧だぞ!」
仁道の叫びに、未だに門扉から離れられないでいる八千斑が懐に手をやった。
取り出されると同時に放り投げられた何かが、夏芽の足元に落ちる。
「鍋島さん! それ鳴らして! 左手で! 思いっきり!」
攻防を尻餅をついたまま見守るしかなくなっていた夏芽は、慌てて這ってゆくと、それ――奇妙な持ち手が付いた漆黒の鈴を拾い上げ、訳が分からないなりに、スーパーの店員が福引きの大当たりでハンドベルを振りたくるように、ぶんぶんとがむしゃらに振った。
勢いに反し、涼やかに澄み切った音色が辺りに響き渡る。
まさしく心が洗われるような美しさに、しかし老人は顔を歪め、縁の下の前まで飛び退くと、両手で耳を塞ぎ、上半身しか無い身体をどうにか丸めようと藻掻く。
『……にゆど……にゆ……は……』
老人は悶え苦しみながら、初めて声を発した。
言葉こそ聞き取れるが、意味は分からない。
「おい、何だあれは!?」
「中陰の言葉やな。理性が磨り減ってくほど、此岸のもんには変に聞こえんねん」
「そっちじゃない! 中陰だか何だか……とにかく、あいつのことだ!」
さすがに冷静を欠いた仁道の当然の疑問に、
「――南羽柊やな」
八千斑は冷然なまでに静かに答えた。
「南羽柊……行方不明になった父親か!?」
「せや。死んで、あれに成り果てたんやろな。逆かもしれんけど」
「だとしても、どうしてあんな姿に」
「……仁道ちゃんなァ。あるんよ、この世には……人間を、そういうふうにしてまうもんが」
打って変わって、感情の滲んだ声だった。
憐れんでいるような、怒っているような、自嘲しているような。
『……ゆゆだ……じらくぢ……をろは……!』
老人は脂汗を滴らせ、十指の爪で地面を引っ掻く。
そして、飛んだ。先ほど仁道に噛み付こうとしたように。
だが、その身体はすぐに地面に縫い止められた。
八千斑がいつの間にか手にした、瑠璃を削り出したように蒼い剣によって。
「……なってもうたんは仕方無い。それはそっちの罪やない……でもな、今のあんたは導けへんのよ」
剣がいつ取り出されたのか、いつ振るわれたのか、仁道には見えなかった。動体視力がどうこうという話ではなく、全くの別次元から出現したとしか思えない。しかしいま重要なのは八千斑の不可解な能力ではなく、これから老人をどうするのかという一点だけだ。
「――裁きに非ず」
八千斑は剣の柄に右手を添えて、囁くように言った。
死にかけの虫じみて暴れていた老人の動きが止まる。
何をしようとしているのか、仁道には分からない。
何もできない。そもそも、何ができるのか、すべきなのかも。
「……赦しに非ず、救いに非ず――」
ぎりぎりと柄を握り締める音が、言外に無念だと告げていた。
薄闇の中で、伏せられた瞼を飾る長い睫毛が、目の下に影を落としている。
そうして金の瞳が見開かれた刹那、鈴の音が不意に止んだ。
ぐったりと倒れ伏す老人の前に、勢いよく飛び出してくるものがあった。
「ま、待ってください、待って、お願いです、待ってください!」
夏芽だ。
萎えようとする足を奮い立たせて、八千斑の腕を掴んでいる。
「あ、あなたが何をしようとしてるのか、分かりませんけど……優しい方法じゃないってことは、分かります……も、もちろん、娘さんが苦しんだのは事実です。でも、だ、だからって……こ、こんなふうに、化け物みたいに退治される謂れは、無いはずです……!」
夏芽は息を荒げながら、老人を見下ろす。
ぼんやりと見上げてくる老人と、目と目が合う。
それは、何もかも食い尽くそうとする怪物のものではない、傷付いた人間の目だった。
「……鍋島さんなァ、気持ちは分かる。おれだって納得いかん。でも、もう無理なんよ。今は大人しゅうなっとるけど、そのうち、さっきみたいに……いや、もっと酷いことになる」
「でも」
「そしたら、一刺しじゃ済まん。それこそ、化け物退治になってまう」
「でも!」
「そんなこと、させんといてや。おれにも、親父さんにも」
「でも……!」
ぼろぼろとこぼれる涙でアイメイクが崩れてゆく。
嗚咽で肩を震わせながら、それでも、夏芽は手を離そうとしない。
「で、でも、どうにか……なにか、私に……わ、私は、人でも、動物でも、助けたいから、医者になったんです! 私、こんなふうだから、みんな心配してたけど、お父さんが、応援してくれて。夏芽は優しいから、医者に向いてるって……!」
そのとき、いざとなれば夏芽を無理やりにでも引き剥がそうと南羽柊の様子を観察していた仁道は、彼の表情が変わったことに気付いた。“夏芽”と“医者”、そして“お父さん”。その単語を耳にした瞬間、飢餓と苦痛の色濃い顔に、ほんのわずかな希望が宿ったように思えた。
仁道は思い出す。
一冊目の日記帳の表紙を。
そこに律儀に書かれていた名前を。
この家で生まれ、死んだ、娘の名前を。
「な、なつめ――」
誰のものでもない声に名前を呼ばれて、夏芽は飛び上がらんばかりに驚く。
声は、足元からした。
見下ろすまでもなく、そこにいるのが誰なのか、夏芽は知っている。
「帰ってきてくれたのか、夏萌……」
老人の、暗い目――そこにかすかに灯ったあたたかな光が、彼女を捉えた。




