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八千斑怪異探偵事務所  作者: 紐縁 椿四句
第一章 霹靂来たりて
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四 目覚める闇

「なんじゃこりゃ。こんな仏は知らんなァ……日本やない国のもんか、新興宗教か。仁道ちゃん、警察で見たことある?」

「いいや。だが、宗教にしたって、この見た目は……」


 仁道が絶句したのも無理はなかった。

 ただの猿の彫刻ならば庚申(こうしん)信仰の可能性もあったろうが――猿の頭は、人を小馬鹿にしたようないやらしい笑みを浮かべ、女の体は、女体の曲線が異常に誇張されていた。有り体に言えば乳房と尻が大きすぎて、立像でありながら、土台の支えが無ければまともに直立できていなかった。

 アダルトグッズだと言われたほうがまだ信じられる滑稽な姿は、とても信仰の対象とは思えない。


 仏壇の調査を八千斑に任せ――分担というのもあるが、あの像をじっと見ていると頭がおかしくなりそうだった――仁道は室内を見回した。ピンク色の布団が載せられたベッドに、可愛らしいシールで装飾された学習机、そして仏壇。何度確かめても、やはりそれだけしかない。


「彼の法……は違うか……荼枳尼天(だきにてん)は狐やし……認知症の父親抱えた娘さんが信じるもんとも思えん……いや、まさかなァ……当たりか……?」


 八千斑は、仏壇の内側を探りながら何事かぶつぶつと言っている。

 独り言すら饒舌らしい様子が重い空気にそぐわず、ほんの少し気分が楽になる。

 陰鬱に靄がかかっていた視界が晴れたような感覚が消えないうちに、仁道は学習机の引き出しを開けた。一段目は文房具、二段目は可愛らしいデザインの便箋や封筒、三段目は手紙や書類が綴じられた薄いファイル。そして、他より大きめの最下段には、分厚い日記帳が三冊並んでいた。

 息を呑み、最も日付の古い、五年前の一冊を引っ張り出し、湿気と黴で張り付いてしまっているページを、破かないようにそっとめくると、写真が一枚、落ちてきた。

 近くにある高校の制服を着た少女が賞状筒を手に、卒業式と書かれた看板の置かれた校門に一人きりで立って、控えめなピースサインをこちらに向けている。

 赤茶けた癖っ毛と全体の雰囲気が、どことなく夏芽に似ていた。


『3月2日 月曜日 雨のちくもり


 朝 食パン・オムレツ・サラダ・牛乳

 昼 ご飯・みそ汁(大根と豆腐)・塩さば・しば漬け

 晩 ちらしずし・お吸い物 ☆卒業祝い☆


 今日からちゃんと日記をつける!

 大学行けなかったの残念だけど仕方ない

 もともと医大は圏外だったし

 バイト見つけなきゃな~』


 しっかり読み込まずとも問題は無さそうな、三食の献立と数行のコメントが記されたページが続き、一冊目は終わった。

 特に期待せず、翌年の日付が書かれた二冊目を開いて、仁道は、もうこれ以上は深くならないだろうという眉間の皺を更に深めた。


『お母さんが出ていった

 知らない男の人と一緒に

 ボケたジジイはいらないって

 なんで これからどうしたら』


 荒れた文字から、慟哭が聞こえるようだった。献立は書かれなくなり、涙の跡であろう丸いシミがぽつぽつと落ちていたのが、日を追うごとに大きく広くなってゆく。

 終盤になると、土砂降りの中に晒したように紙に皺が寄って、黴の勢いも増し、ほとんどの文字が読めなくなっていた。

 単語と単語を繋いでどうにか読み取った範囲で、母親はそれきり登場しなくなり、父親の病状は進行していった。絶縁状態の親戚は“ふゆちゃん”なる人物以外は誰一人として関わろうとせず、そのうち“ふゆちゃん”の存在もまた、娘を苦しめるようになってしまった。

 毎日のように手伝いに訪れ、多額の援助を申し出た彼あるいは彼女に対して、不自由で何も持たない自分が惨めに思えたのだろう。

 ――その、悪化の一途を辿り、昏く沈みきった文章が、ある日を境に、光が射したように明るくなった。


『友達ができた!

 バイト先でおこられてたら助けてくれた

 やさしくてアイドルみたいにかわいい!

 遊びに行く約束をした 楽しみ!』


 その後に続く文章は、どう贔屓目に見ても新興宗教に嵌まった被害者のものでしかなかったが、それでも、丸い文字はうきうきと跳ね回るように幸福を謳っている。

 あの仏壇を買った、いや、買わされたのもこの時期だったようだ。祈れば何でも叶うと友達に言われ、藁にも縋る気持ちで、父親が元気になるように祈った娘……父娘の末路を知っているだけに、次のページに書き殴られた文章が目に飛び込んできた刹那、仁道はこの世の理不尽を呪った。


 ――ふゆちゃん、ごめんなさい。ありがとう。地ごくでつぐないます。


「仁道ちゃん」


 意識の外から、八千斑の声がした。

 仁道ははっとしたが、返事をする前に八千斑は無言で部屋を出て、階段を下りていった。

 何かあったのだろうかと、慌ててその背中を追う。


「来よった……」


 庭の花壇の前に立った八千斑が、縁の下の方向を睨みながら呟く。

 睨んでいると分かったのは、サングラスを外していたからだ。


「ところで仁道ちゃん、今更やけども、霊感ってある?」


 聞きながら、自分の頭に手をやり、髪を数本まとめて引き抜く。

 長い黒糸の端と端とを結び、それを地面に広げて両端を閉じる。

 巨大な円が二人を囲む形になった。


「“同じ土俵に立てるように”したんだろう。視えるんじゃないのか」

「この結界は擬似的な膜みたいなもんで……まあ、説明は後や。これあげる」


 八千斑はシャツのポケットから取り出したものを、仁道の手に押し付けた。フレームが無い、スクエア型のシンプルな眼鏡だ。

 目の前に翳してみると、度が入っていないようで、変わらぬ風景が広がっている。

 話の流れからして、これを着ければ霊が視える、ということなのだろうが――馬鹿馬鹿しいと突き放せる雰囲気ではなく、仁道は素直に眼鏡をかけた。


「お、ええやん。眼鏡しとったほうが優しゅう見えるで」

「……別に、見られたいとは思わんが」

「はァん? さては仁道ちゃん、わざと遠ざけとるやろ、人間」

「……お前に、何が……」


 続く言葉を形にするより先に、八千斑が仁道の口の前に手をかざした。

 その横顔は、金の瞳は、真剣そのものだった。

 ぴりぴりと張り詰める空気には、仁道も馴染みがあった。追っている犯人を見つけた瞬間である。


「こっから、声出したらあかんで。足音もあかん。息もなるべく小さくな」


 出会ったときからの飄々とした雰囲気を一切感じさせない声色に、仁道はただならぬものを感じ取って、八千斑と同じように地面に片膝をついた。


 沈黙は、数分か、それとも数秒だったのか。

 日が落ち、闇に包まれつつある二人の耳に、異質な音が届いた。


 ずる、

 ずる、

 ずる、


 何かを引き摺るような音は、縁の下から聞こえてくる。

 やがて、ぬうっと、人間の顔が覗いた。年老いた男の顔だ。


 ずる、

 ずる、

 ずる、


 腕の力だけで這ってくる老人には、明確な異常が見て取れた。

 老人の顔は当然、老いている。

 皺だらけで痩せ衰えて、頬がげっそりとこけている。

 だが、その腕は、まるで現役のプロレスラーのように分厚い筋肉を張り詰めさせていた。


 ずる、

 ずる、

 ずる、


 老人の上半身が出てきた。

 ストライプ柄のパジャマが、腕と同じくぱんぱんに膨らんだ筋肉で内側から破れて、纏わり付く襤褸切ぼろきれと成り果てている。幼い子供が筋肉質な男を絵に描いて、バランスのおかしなそれを具現化したような、異形の姿である。

 老人は腕の力だけで廊下によじ登り、餌皿に手を伸ばした。

 言葉にならない呻き声を上げながら、ドライフードを鷲掴みにし、頬張る。咀嚼し、飲み込む。


 だが、それは、老人の腹を満たさない。

 満たすことは、どうしてもできない。


 その身体には、下半身が無かったからだ。


 頬張る。

 噛む。

 飲み込む。

 こぼれてゆく。


 延々と繰り返されるおぞましい光景に、仁道は呼吸をすることすら忘れた。

 八千斑は老人から視線を外さないまま太腿のケースに手を伸ばし、


「すみません! 八千斑さん、暮井さん!」


 予期せぬ声に、弾かれたようにそちらのほうを向いた。


 門扉の内側、敷地の中に、夏芽が立っていた。

 肩で息を切らし、踵を踏んでしまったスニーカーの爪先を、地面に叩き付けて履き直しながら。

 慌てて走って転びでもしたのか、擦りむいたのだろう膝の傷から、生々しく血を滲ませて。


「急患、イタズラ電話だったみたいで……連絡せずに来ちゃってすみません。何してるんで……すか……」


 老人の、暗い、暗い目が、立ち竦む彼女を、捉えた。

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