四 千の仮面
一杭。
そう書かれた立て看板は錆に覆われ、コンクリートのあちこちから雑草が頭を出しているホームと、古めかしい木造の駅舎の屋根に、雲の隙間からひととき顔を出した夕陽が赤々と降り注いでいる。
事務所の最寄り駅からここまで、普通列車に揺られて約二時間半。
八千斑と仁道の他に、降りる人間はいなかった。
「タンテー、じゃあな! オレの『神眼の黄龍』、大事にしろよな!」
「ボクたち日曜は第三公園いるから! ぜったい来てね!」
「筋肉マン、今度プロレスしよーぜ! オレ、ウィンタニア役なー!」
「オレさぁ、父ちゃんにさぁ、ハゲ薬聞いとく!」
元気いっぱいにはしゃいでいるのは、下校途中の小学生男児の集団である。
見知らぬ大人はみな不審者だと思えと教えられるこのご時世でずいぶんと懐かれ、名前から学校名から家族構成から、流行りのカードゲームや好きな給食のメニューまで、あらゆる個人情報を浴びせられてしまった。
アナウンスとともにドアが閉じ、それでも少年たちは無邪気に叫んでいる。
腕がもげそうな勢いで両手を振ってきている彼らに手を振り返している八千斑の横顔を、仁道は同じく手を振りながら、無言で見つめた。
学生や観光客などで混雑し、次々と乗客が入れ替わる車内で、八千斑の存在は異彩を放っていた。ただ座っているだけでも、その強面と体格とで悪目立ちしてしまう仁道すら霞み、一度も話題にされなかったほどに。
『ねえ、ねえ! あの人ヤバくない?! 芸能人?!』
『わかる~! アタシもあんな顔に生まれたかった~!』
『すっげえ美人じゃね? ああいう彼女が欲しいよなあ』
『お前、逆張りも大概にしろよ。奇形のバケモンじゃねえか』
『よくあんな顔で人前に出られるわね……恥ずかしくないのかしら』
『確かに肌は荒れてるけど……そこまで言う?』
見る人間が抱えた罪の重さで美醜が変わるというのは、冗談ではなかった。
そう思い知るほどに、仁道の中で疑問が深まってゆく。
ならば、どうして自分には、八千斑が美しく見えるのか?
「寒う。上着持ってくるんやった」
不躾に値踏みされることに慣れているのだろう八千斑は、あらゆる視線も言葉も意に介していないようで、投げ掛けられた言葉で機嫌を損ねている様子もなく、いくつか外していたシャツのボタンを首元まで黙々と留めている。
「そうか? まだ涼しい程度じゃないか」
「寒いのあかんのよ。たぶん冷蔵庫入れたら三十分も経たんと動けんくなるで」
「それは誰でもそうだと思うが」
空の回収箱に切符を落とし、無人の駅舎を通り抜ける。
外は曇天もあって薄暗く、真冬の雪国のように彩度が低かった。
視界に映っている範囲すべてに生気が感じられない。
『あのなー、社会科で調べたんだけど、一杭村ってなー、なーんもないんだぜ』
『ほんとになんにもないよ! 名物とか、名所とか、お店もない!』
『観光客がいねーから、Roostarの書き込みも一個も見つかんねーの』
『でもさぁ、ハイソンにはなってないんだって、ケーちゃん先生がゆってた!』
小学生たちはそう話してくれたが、ぽつぽつと点在している古めかしい民家に人影は無く、よく見れば窓ガラスが割れたまま放置されていたり、庭に雑草が生え放題になっていたりと、住人というものが存在しているのかは怪しかった。
今にも物陰から幽霊なり野生の獣なりが飛び出してきそうな、肝試しにやって来た向こう見ずな若者でも踵を返すだろう風景だったが、二人は地図を見ることもせず、全く舗装されていない、石だらけの畦道を歩いてゆく。
「ところで……樽原さんの呪いは、御晴写のせいか?」
「いやァ、この世にゃ呪物も呪法も山ほどあるし。それに御晴写やったら、願いがどう歪むンかは使わなわからんからなァ」
「宗教団体がノウハウを伝授してる可能性もあるだろう」
「よすがが調べとるけど、猿のさの字も出てこォへんのよな。使ったもんも使われたもんもまともに生きれんから、本人が黙っとっても周りが話すやろ? 信者やったら尚更こぞって広めるはずやろし……まあ、朔ちゃん待ちやな」
「朔……ああ。あいつは元気だったか?」
「忙しそうやったけど元気しとったで。かきつばたって喫茶店で話したんやけど、仁道ちゃんが見つけた店なんやってな」
「……そうだな。ずいぶん無沙汰にしているが」
「そしたら今度みんなで行こや。アホみたいな量やったけど」
「そうか。俺はあれじゃ足りないが」
「……ぶっ」
仁道の健啖ぶりと、それを真顔で話すところがすっかり壺に嵌まっているらしく、不意打ちに肩を震わせて笑い始めた八千斑には、今日に限った話ではないが、緊迫感というものがまるで無い。
進めど進めど、こんなところに設置して誰が見るというのか、大小様々な広告看板があちこちに虚しく立ち尽くしているだけで、田んぼは荒れ果て、枯れかけた雑草ばかりで花の一輪も見当たらず、虫の一匹も姿を見せない灰色の世界が、彼の周りだけ明るく色付いて見える。
「……はー……あー、しんど。調査の前から体力使ったわ……一杭山なァ、どんなとこなんやろ」
「最初から気になってたが……お前、探偵なのに下調べはしないのか」
「あんませェへんけど、適当やってへんで? 先入観持たんようにしとんの」
「先入観?」
「悪霊でも怪異でも、人に影響されやすいんよ。特におれみたいな法力の強いもんが、怖いなあ勝てへんなあって思いすぎたら、力が増すかもしれんでな。それに、人の想いが普通の幽霊を悪霊にしてまうこともあるんやで」
「そうなのか?」
「たとえばやなァ……昔、殺人鬼が住んどったっちゅう家で肝試しした子らが悪霊に大怪我させられてな。でも実際は、その家で死んだお人が、殺人鬼やったって掲示板に嘘八百書き込まれて、思い込みで何百人に怖がられて、土地に縛られて成仏できんようなった怒りでおかしなっただけやったんよ。可哀想に、しばらく地獄におったわ……怖いよなァ、インターネット。便利やけど危ないわ」
「……ああ。俺もそう思う」
駅から歩き始めておよそ十五分、無人の風景は延々と果てしなく、変わるのは看板の内容だけで、ほとんど間違い探しじみている。
調査する場所が無いために、移動と会話以外にすることが無かった。
仁道はふと喉の渇きを感じて、内心で驚く。
彼は他者を避けるようになった以前からもともと寡黙で、他人に自身を開示することは苦痛と言ってもよかった。
疑問が尽きないとはいえ、他人とこれほど喋った覚えは無い。
「これ何やろ。城の広告にしちゃ名前が和風やな」
「天青日白……白水宮グループのレストランだな。会員制で、ミュージカルだの何だの観ながら飯が食えるんだと。一番安いコースでも十五万するそうだ」
「詳しいやん。行ったことあるん?」
「いいや。鵜……同僚によく自慢されたから、嫌でも覚えてるだけだ」
「ふゥん……よォ見たら、他の看板もそのシラなんとかばっかやん。ホテル、ゴルフ場、病院、介護施設……ぜェんぶ高級志向かァ。社会が豊かでええこっちゃで」
こんな他愛も無い話をした経験も、無かった。
やはり、心を許しすぎている。
“ヒトを誑かす天才”――よすがは八千斑のことをそう評していた。
確かに、彼には人を惹き付ける、奇妙な魅力がある。
だが、仁道は、自分は誑かされてなどいないと分かっていた。
ただ、単純に、嬉しいのだ。心のどこかで喜んでいるのだ。
“暮井仁道元警部補”ではなく、“仁道ちゃん”として息ができることを。
「……馬鹿馬鹿しい」
「そォ? まあ、何でも豪華にしたらええもんでもないか」
「……いや。こっちの話だ」
「なァん?」
看板でできた林を抜けると、鬱蒼とした森が眼前に広がった。
ようやく景色が変わったが、やはり生き物の気配はしない。
そこから少し進んだところで、またもや巨大な看板に出くわした。
観光地にあるような、登山ルートを示した手書きの地図だ。
分厚い雲の向こうで夕陽が沈んだようで、鈍色に染まった視界に意味をなくしたサングラスを頭の上に載せて、八千斑は細い指で蛇行した道を辿った。名所も難所も無いらしく、どこにも説明書きはされていない。
「そう高い山でも無さそうやな。本人にせよ痕跡にせよ、すぐ見つかったらええんやけど……しっかし、菓子が手に入るようなとことは思えんなァ」
山の中へ続く道は、当然のように整備されていない。
このまま何の準備もなく登れば遭難の可能性もあるだろう。
考えはあるのかと聞こうとしたそのとき、道の向こうから人影が近付いてきた。
「――や、どーもどーも。あんたら観光客? WeBonder?」
へらへらと話しかけてきたのは、筋肉質な男であった。
仁道よりほんの少し低いぐらいの長身だが、彼にほとんど脂肪が無いのに対し、男は筋肉の上に脂肪を載せたレスラー体型で、横幅が広い。
『TAIHEI PRO-WRESTLING』のロゴが前面にプリントされた白いパーカーに、明るいオレンジ色を基調にしたスカジャンと、筋肉で張り裂けそうなジーンズは、明らかに登山のための服装ではない。
外見からでは、それ以上の情報は得られなかった。
その顔は、覆面レスラーさながらのマスクに覆い隠されている。
自分たち以上にこの場にそぐわない人間にいきなり話しかけられて、ぽかんとしている二人に、男は豪快な笑い声を上げた。
「こいつは失敬! 俺様としたことが。名乗らせるよりまず名乗れってな!」
男が勢いよく両手を上げたので、仁道は反射的に、八千斑を背に隠すようにその前に立ったが、その手は男の顔の横で止まり、振り下ろされることはなかった。
「俺様はご存知、マスク・ド・ウィンタニア! ルチャドールの生ける伝説、ミル・ソラールをマットに沈めた、泰平プロレス発のスーパースターだ!」
顔の横で両手の爪を立てて前に出し、威嚇じみて口を開ける。
左右の犬歯に嵌められた黄金のグリルズが、獰猛に光った。




