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八千斑怪異探偵事務所  作者: 紐縁 椿四句
第三章 光芒見えて
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三 天蓋なお厚く

 どんよりと曇った空が、憂鬱を加速させていた。

 数日前まであれほどの暑さだったというのに、カレンダーが秋を告げた途端に気温が下がり、それもあってか、胸の奥がざわついて落ち着かない。

 視線の先で、石を大雑把に積み重ねて作られた(かまど)にかけられた鉄鍋の中身が、揺れる火に合わせてぐつぐつと煮えている。

 もともと椅子の代わりとして残されているのだろう切り株に腰掛け、(すね)のあたりに炎のぬくもりを感じながら、仁道は内臓が転がり出てきそうな溜息をついた。


「……いつまで引き摺ってるんだ、お前は」


 独り言は自虐と自嘲に満ち満ちて、近くでのどかに草を食んでいたバイドゥーリヤがぱっと顔を上げるほどに、低く重たく地面に落ちてゆく。

 背中を丸めて、冷え切った指先を炎に翳したが、体温は戻ってこなかった。

 ふと、視線が右手首に止まる。

 壊した腕時計の代わりに八千斑がくれた、数珠のようにも単なるブレスレットのようにも見える、珠の連なりがそこにある。

 胡桃の殻を思わせる、凹凸が不可思議な茶色の珠と、三つの艶やかな黒い珠。

 数珠に用いられる石には意味があるというが、それを調べることはできない。

 ジャケットのポケットにはスマートフォンが収められているが、もうずっと、未練がましく充電してはポケットに入れるのを繰り返しているだけだ。


「……お前は……何を、期待してるんだ……」


 背中に冷や汗が滲んでくる。

 吐き気が込み上げてくる。

 バイドゥーリヤが静かに歩み寄ってきて、膝の上に顎を置き、濡れた鼻を腹に擦り付けてきても、仁道は動かなかった。動けないでいた。


「思ってた以上だな、こいつァ」


 ふと、背後から声がした。

 聞き覚えはあるが、こんなにも近くで聞いたことはない声。

 若々しいが、深みのある男の声――五月雨よすがのものだ。


「おっと、振り向くなよ。まだ見せられねえ……てめえが新参だからどうこうって話じゃねえからな。そこらへん気にすんなよ」


 相変わらず口調こそ乱暴だが、声色は柔らかく、温かかった。

 丸まった背中を、何か平たいものが軽く叩く。

 人間の手の形ではないと仁道は気付いたが、見せられないということは知られたくないということでもあるのだから、振り返りも、問い詰めもしなかった。

 それどころではないというのもあるが。


「どうする? 一回吐いとくか?」

「……いや……いい」

「そうかよ。ま、吐くっつってもオレは手伝えねえが」


 よすがは手らしきもので仁道の背中を優しくさすってやりながら、溜息なのか苦笑なのか、とにかく、優しい響きをした息を吐き出した。


「難儀なもんだぜ。どうせ無くすぐらいなら、最初っから持ってねえほうがマシだもんな。誰かに嫌われるぐらいなら、誰にも好かれてねえほうがいいもんな」


 知ったような口を利くよすがに、お前に何が分かる、と仁道は言わなかった。

 たった五日の付き合いで、よすがも、バイドゥーリヤも、そして八千斑も、仁道の中では『お前』で片付けられる存在ではなくなっていた。

 なくなってしまっていた。

 そんなふうに想う資格など、自分には無いというのに。


「まあ、あれだ。夜明け前が一番暗い、ってあるだろ」

「……いつか明けるのを……信じろと?」

「いーや。オレ、あの言葉大ッ嫌いなんだよな。こっちが真っ暗闇にいるって分かってんなら、ぐだぐだ言ってねえで灯りを寄越せって思っちまう」

「……」

「神様じゃあるめえし、てめえの夜明けがいつ来るかなんて知らねえよ。何なら死ぬまで明けねえかもな。でもよ、真っ暗闇のほうがいいことだってあるだろ。花火とか、散歩とか、遊園地とか……あと酒もだな」

「それは……人それぞれだろう」

「そうかもな。だからてめえも見つけろよ、真っ暗闇でよかったって言えるもんを。そいつを楽しんでりゃ、気付いたときにゃ明けてるだろうさ」

「……」

「とりあえず晩飯でも食ってけ。腹減ってるときは何やってもダメだぜ」


 背中から感触が、気配が消える。

 同時に、石段を踏む足音がかすかに聞こえてきた。

 ゆっくりと顔を上げ、振り返る。

 そこには池の、波紋一つ無い水面が広がっている。


「ただいまァ。仁道ちゃん、体調どない?」

「……マシにはなった」


 感謝を込めてバイドゥーリヤの額を掻きながら、とてもマシになったとは思えない顔色で答える仁道に、八千斑は露骨に嫌な顔をした。もちろん、彼に対するものではなく、不調が前職に起因していると察するがゆえの、大の大人をここまで追い詰めやなあかん理由って何やねん、という疑念と不快感からくる表情である。


「火ィ当たるより寝たほうがよかったかもなァ……汁だけでも飲むか? 腹ン中から温めたら良うなるかもしれんし」

「……お前とよすがの晩飯が減るぞ」

「ええよ。こんな食えへん」


 煮詰まって尚なみなみと暗褐色の水面を揺らす鍋に、恐らく最初から自分にも食べさせる気で作っていたのだろうと今更ながら察して、仁道は背中の汗が引いてゆく気配に小さく息を吐く。

 実のところ、八千斑が戻ってきたと気付いた瞬間、ほんのわずかに心が軽くなった気がしていたのだが、彼に安堵の自覚は無かった。


「仁道ちゃん、嫌いなもんある?」

「無い」

「アレルギーとかは?」

「無い」

「そら健康的でええこっちゃな」


 八千斑が鍋の(つる)に手をかけたそのとき、バイドゥーリヤが一声鳴いた。

 頭の動きに合わせて門のほうを向けば、人影がある。

 視線が合って、八千斑が手招くと、おずおずと近付いてきた。


「あの……八千斑怪異探偵事務所というのは、こちらで……?」


 不健康にげっそりと痩せた、背の低い、不惑に近い男である。

 もともとかなり太っていたのだろう、頬や首の皮が少し弛んでいた。

 手書きの広告を差し出しながら、男は不安げな表情で二人と一匹を見る。


「合っとるけど……先に病院行ったほうがええんとちゃう?」


 依頼人に対して一応は敬語を使う八千斑が思わず素で返事をしてしまうほどに、男は顔色が悪かった。青褪めているどころではない。肌はほとんど死人じみた土気色で、唇は真っ白になっている。


「いえ、大丈夫です……それより、依頼のほうを……」

「なんや、急ぎ? まずは入り。話なら聞いたるから」


 鍋を提げた八千斑に、男は覚束ない足取りでついてゆく。

 事務所の座卓に敷かれた麻紐編みの鍋敷きに鍋を置いた八千斑は、不動明王のそばの壁に設けられた、閉ざされた小窓を叩いた。


「よすがァ、お客さん。急須と湯呑み、椀と箸頼むわ。二人分な」

「おう。茶菓子は?」

「えーっと……お兄さん、甘いもん好きィ?」

「あっ……いえ、遠慮します、すみません……」

「やってさ」

「了解。後で煎餅でも探しとくわ」


 来客を察した時点で準備していたのか、一分も待たずに窓が開き、一式の載った盆が出された。

 小窓の高さは八千斑の腰ほどしかないうえ、盆を持っていたのだから素早く飛び退くことも不可能だろうに、相変わらず、よすがの姿は見えない。

 八千斑は草を食む羊が描かれた湯呑みに茶を注いで男の前に置いたが、彼は落ち窪んだ目で緑色の水面をじっと見つめるだけで、飲もうとする素振りも見せなかった。


「あ、もしかしてなんか薬飲んどる? 白湯にしよか?」

「いえ、飲んでません……お気遣い痛み入ります。それで、依頼が……」

「慌てへんの。焦ってもええことないで」


 母親めいて窘めながら、自然な木目の美しい汁椀に、鍋の中身をよそう。

 男と仁道の前に、それぞれ椀が出された。

 仁道の椀には、とろりとした暗褐色の汁が湯気を立てているだけだが、男の椀には、いちょう切りされた大根と人参、薄茶色に染まった豆腐とネギ、手綱こんにゃく、そして細かく切られた何かの肉が山積みになっている。


「汁だけでもええで、まず食べ。死相が出とる。こっちも逃したお昼食わせてもらうから、一緒なら気ィ引けへんやろ」


 男はそれでも躊躇っていたが、香ばしい味噌の香りに、正直な腹の虫が獣の如く喚いたことで、観念したように箸を取った。

 昼食を終えている八千斑の気遣いを受け取って、仁道も椀を持ち上げる。

 一口啜ると、味噌と具材の出汁の溶け込んだ旨味が口いっぱいに広がり、心地好い熱が喉を滑り落ちていった。

 胃の中に灯った火が、不愉快な寒気を端から焼いてゆくような安心感。

 ちらりと横目で窺った男もまた、生気が失せた顔に僅かながら温もりを取り戻していた。


「……美味いな。これだけで店が出来るぞ」

「せやろ。師匠直伝やでな」

「師匠?」

「おれの育ての親。どんな生き方もできるようにって、符術から家事から何から何まで叩き込まれてなァ……」


 しみじみと遠い目をしながら、八千斑は仁道の空になった椀に勝手にお代わりを、今度は汁だけでなく具材もたっぷりと盛り込んで()ぐ。

 男にもどうかと勧めようとして、彼が、泣いていることに気付いた。

 座卓に大粒の涙が落ちて、水の玉をいくつも作っていく。


「どないしたん。お腹痛なった?」

「ち、違います……お、美味しくて……嬉しくて……」


 男は椀に涙が落ちるのも構わず、がつがつと貪るように箸を動かした。

 あっと言う間に空になった椀に八千斑がお代わりを注いでやると、それも夢中で掻き込む。

 その間も、涙は止まる気配がない。

 四杯目のお代わりとともに差し出された、かぎ針編みのカバーがついたボックスティッシュを受け取って、男は拭えど拭えど涙と鼻水で濡れたままの顔で、嗚咽混じりに言った。


「い、今まで、何を食べても、甘かったんです……た、たとえ、岩塩を丸齧りしたって、気分が悪くなるだけで……甘くて、ぜ、全部、何もかも……」


 子供のように激しく泣きじゃくりながらも、男は鞄を探り、名刺ケースから一枚を取り出した。ハンバーグやエビフライなどが豪華に盛り付けられた鉄板のイラストが切り抜かれたそれを受け取って、八千斑はサングラスの下で目を細める。


 『株式会社シキョーズ社長 トーテツ樽腹(たるばら)樽原(たるばら)哲人(てつと)』。


 ハンバーグの上にそう印字されており、裏面にはWeBondのアカウント、テレビやラジオ番組、グルメ情報誌、著書のタイトルなどが映画のエンドロールじみてずらずらと並んでいた。


「ぼ、僕は……食べることが仕事で、趣味で、生き甲斐で……美味しいものや珍しいものがあると聞けば、どんなに遠い場所にあっても、どんなに高価でも、食べずにはいられない性分で……二ヶ月ぐらい前に、アルバイトのスタッフ二人が、企画を持ち込んできたんです。『甘くて死ぬお菓子がある』って」


 インターネットによって地球上のあらゆる土地が丸裸にされたと言っても過言ではない現代では、さほど驚きもしない謳い文句であるが、インドのグラブジャムン、トルコのバクラヴァ、長崎県のカスドース……それをも上回るのだと熱弁されて、興味を惹かれた。


「数日後に、彼らがそのお菓子を持ってきてくれたんですが……どこからどう見ても、ただの饅頭でした。食べてみても、普通の餡子の味で。これのどこが死ぬほど甘いのかと聞こうとしたら……お菓子を置いていったきり、二人ともいなくなったんです。そして……僕の地獄が始まりました」


 二人の捜索を他のスタッフに任せ、口直しをしようと水を飲んだ。

 自販機で買ったミネラルウォーターが、ガムシロップのように甘かった。


 数時間後、仕事で焼肉を食べた。

 ただ焼いただけの肉が、どれもこれも、砂糖を固めた板のようだった。


 翌日、妻の誕生日祝いに、フレンチのフルコースを食べた。

 甘さを控えめにしてほしいと注文したというのに、何もかもが甘かった。


 あらゆる病院、あらゆる名医を頼っても、異常は見つからなかった。

 怖くて、怖くて、なにも食べられなくなった。

 気付いたからだ。

 気付いてしまったからだ。

 乾いた唇に滲んだ血だけは、変わらぬ味がした。


「必死で我慢しましたが、お、お腹が減って……心配してくれる妻が、柔らかそうな肉にしか見えなくて……ほ、本当に、怖くて……で、でも……これは、味が……い、一体、どういうことなんでしょうか……?」

「……せやなァ。うちの()()()()のお陰やろな」

「まじない……?」

「たとえば樽原さん、うちの広告、どこで見つけたん?」

「ええっと……え……あれ、そういえば……気付いたら、持ってたような」

「うちの広告な、そのへんの壁に貼ったりデパートのスタンドとかに紛れ込ませたりしとるんやけど、心の底から必要としとるお人にしか届かんようになっとんのよ。その証拠に、見てみ」


 樽原は握り締めてくしゃくしゃになっていた広告を広げ、あっ、と声を上げた。

 濃い墨色だった文章が、今にも消えそうな淡い灰色に薄れている。

 彼の望みが果たされそうになっているからだろう。


「この事務所も、同じまじないが効いとる。ここが必要で、ここの害にならんもんだけ通すんや。鍋の野菜が庭で採れたもんやから、樽原さんの内側から結界が張られて呪いが消えたんやろな」

「じゃ、じゃあ、食べ続ければ……?」

「完全に消えると思うで。あとで野菜分けたるわ」

「あ……ありがとうございます! ほ、本当に……ありがとうございます……!」


 平伏した樽原は床に額を擦り付け、何度も何度も頭を下げる。

 地獄で仏に会ったかのように、八千斑を拝み倒す勢いである。


「そしたら、依頼はこれで達成っちゅうことでええの?」

「……それは……いや、まだです!」


 樽原は顔に残った涙と鼻水をティッシュで拭い、表情を引き締めた。

 鞄を探り、大判の写真を一枚、座卓に置く。

 集合写真だった。

 丸々と(ふと)った樽原を中央に、思い思いのポーズを取って笑顔を見せている十数名の下に、各々の直筆らしいサインが入っている。


「いなくなってから知ったんですが、二人はWeBonderでした。登録者数も再生数も合わせて千にもいかない……言い方は悪いですが、底辺WeBonderだったので……気付かなかったんです」


 言いながら、写真の上に、スマートフォンを重ねた。

 操作ののち表示されたページに、八千斑と仁道は揃って目を見張る。

 『ドラゴン龍尾&フェニックス鳳口の突撃☆イケメンチャンネル』だ。


「これが最新で、最後の動画です。一週間前の投稿ですね」


 『登録者数50人突破記念!イケメンが視聴者のお願い聞いちゃいます☆スペシャル生配信』と題された動画は三時間を超えていたが、樽原はシークバーを動かし、最後の十分間ほどに合わせた。

 写真と動画を照らし合わせたところによれば、やや薄くなりつつある頭髪を鮮やかな赤色に染めているほうが鳳口、青色に染めているほうが龍尾のようだ。

 ひどく酔っ払っている様子の二人は狭い部屋で、酒の肴の散らかったテーブルを囲んで、発泡酒の缶を片手にぐだぐだと不満げに何事か語り合っていたが、突然、ノートパソコンを覗き込んで破顔した。


『コメントありがとうございま~す! 現役JK♡クモ……ハさん? 女の子が見てくれてるなんて嬉しいなあ!』

『はしゃいでんじゃねえよ。こういう名前は大体ちやほやされてえブスだろ』

『お、今日も毒舌冴え渡ってんね~。それじゃあお願いのほう読み上げます! ……私は甘いものが大好きなんですが、太っちゃうしお金もかかるしガマンしてます! ぜひ、安いのに甘くて美味しいお菓子を見つけてほしいです! とのこと!』

『ブスで貧乏でデブかよ、生きてる価値ねえな』

『いいじゃん、女の子らしい悩みでさあ。俺は女の子は太ってるほうが好きだけどね。最低50kgはあってほしいよな~……で、安くて太らない甘いものね。知ってる知ってる! 甘くて死んじゃうぐらいのお菓子、それもタダ!』

『じゃあ、このビンボーデブスのために取りに行ってやるか』

『イエーイ! 続きは別枠で~!』


 底辺と呼ばれるのも頷ける配信は、そこで唐突に終わった。

 樽原は続いて、Roostar――メッセージや画像、短い動画を世界中と共有できる、WeBondと同じく今や使っているのが常識となったSNS――の、鳳口と龍尾の共用アカウントを表示した。

 十数秒の短い動画が自動再生される。

 舗装されていない夜道を、鳳口がふらふらと千鳥足で歩いている。


『今からお菓子を取りに行きま~す! いざ、()()()()()()~!』


 樽原は深呼吸し、決意の宿った目で、八千斑と仁道を、しかと見据えた。


「責任は取ります。お金も望むだけ出します。何だってします。これ以上、僕みたいな被害者を出さないために……彼らを探しに行ってもらえませんか」

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