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八千斑怪異探偵事務所  作者: 紐縁 椿四句
第二章 円満却りて
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四 桜花の祈り

『――あああっ、熱い、熱い、熱いいいいい……痛い、痛いッ! 痛い痛い痛いぃいいいい!!!!!』


 甲高い叫びは、女の声をしている。

 怪異は、痛みを発散しようとするかのように足代わりの手で地団駄を踏んだ。

 無数の眼球が、ぎょろぎょろと違う方向を見る。


「八千斑! あれは……助けられないのか!?」

「難しいわ。あの手と目、ぜんぶ別人のやで。南羽柊とはわけが……違うッ!」


 道連れを求めているのか、痛みを誤魔化すためなのか。追跡の疾走をそのままに、振り下ろされては床板を割り、薙ぎ払っては棚を吹き飛ばす手の連撃を避けつつ、二人は一心不乱に走る。

 仁道に背負われたまま、彼の進行方向に懐中電灯を向ける役割を担った朔哉は、焦ったように辺りを見回した。広いとはいえ横断に何十分もかかる面積では無いはずが、走れど走れど入ってきた窓すら見えてこない。


「道が延びてるぞ! どうなってるんだ!?」

「……此岸と、煉獄が、中途半端にッ……混ざると……空間が……歪むんや!」

「し、しが……?」

「あとで、説明するからッ、道、照らしといてッ!」


 まだ余裕のある仁道に対して、八千斑は息が上がってきている。

 体力があろうがなかろうが、危機的状況で五分以上に渡って全力疾走しているのだから無理もない。


『熱いぃぃぃ……なんで、なんでぇぇえええ……!!』

『……ばぺ……よ……』

『らくを、らくを、をばを……』

『やだぁぁ、死にたくない、死にたくないいいい……』


 おまけに、この声である。

 最初は女が苦痛を訴える声だけだったが、ラジオが混線するように老若男女さまざまな声が放たれ始め、追い縋ってくる、輪唱と化した悲鳴のどす黒い絶望と悲嘆が、精神を疲弊させてゆく。


『……れる……んまあ……』

『痛いぃ、やだ、やだぁぁぁ……』

『なあぬ……るろきば……』


 ふと、仁道は、発する声が言葉として成立しているのは女だけのようだと気付き、足を止めないまま、隣に並んだ八千斑に視線だけで問う。


「たぶん……核になっとる……!」


 ぜえぜえと肩で息をしながら、八千斑は答えた。


「女の……未練が、強すぎて……他の霊が、主導権を、取られとる……どうにか、女以外も、正気を、取り戻せば……暴れるんは、止められる、かもな……!」


 どうにか言い終えると、八千斑は大きく咳き込んだ。

 酸素不足で薄い唇が色を失いかけている。

 しかし仁道も、さすがに二人を担いで走ることはできない。

 脱出口は、まだ見えてこない。

 その焦りを悟り、好機を察したかのように、怪異が大きく跳んだ。

 爆弾でも落ちてきたような衝撃と風圧に、三人は木の葉めいて軽々と吹き飛ばされる。


「――暮井! 探偵! 無事か?!」


 もうもうと白煙じみて埃と砕けた床板の粉塵が舞い上がる中、どうにか無傷で立ち上がった朔哉は叫ぶ。返事が無いことに焦りながら、しかし、どう動くべきか判断がつかず、床に手をついて周囲を窺い、そして咄嗟に口を手で塞いだ。

 すぐ横を、全員を見失ったのだろう怪異が無言でずるずると這っていく。

 その表面に浮かんだ眼球のひとつが、不意に、朔哉を捉えた。

 いや、朔哉そのものではない。

 目は、彼が床を転がった衝撃で、内ポケットから落とした警察手帳を、じっと見ている。


「……さん……」


 か細い声が、確かに聞こえてきた。

 視線は警察手帳から朔哉に移り、白くけぶる視界の向こうから、あまりにも細く頼りない、小さな手が伸びてくる。


「……おまわり……さん……」


 自分に縋ろうとする手と声に、雷に打たれたような衝撃を受け、朔哉は思い出す。

 狸喜堂の火災で亡くなった六名の中に、少年がいたことを。

 大はしゃぎで誕生日のプレゼントを選んでいる途中に業火に巻かれ、両親とともに短い人生を終えた、まだたったの五歳の子供がいたことを。


「……ママ……パパ……どこ……こわいよお……」


 怪異の動きに引っ張られて遠ざかってゆく腕を掴み損ねた朔哉は、胸の奥から、何か強い感情が込み上げてくるのを感じた。

 拾い上げた警察手帳を握り締める。

 サングラスを外し、ポケットに滑り込ませ、目の前に広がる現実を己の目で睨み付ける。

 あの怪物は――いや、彼らは。恐ろしい化け物ではない。

 人間だ。一般人だ。市民だ。警察が守るべき、無辜の人々だ。


「……私は……」


 守りたいものがあった。

 守らなければいけないものがあった。

 そのために、守れなかったものがあった。

 守られなかったものがあった。

 百人のために一人を見捨てることは、ある意味では正しい。

 全員を救うことはできない。一人の犠牲で済めば安い。正義と平和は綺麗事ではどうにもならない。

 分かっている。分かりきっている。そんなものは――くそくらえだと。


「私は、」


 背中に矢を受け、肉に(やじり)を残し、それでも闘った男を知っている。

 認められずとも、蔑まれようとも、決して俯かなかった男を知っている。

 知っていたのに、憧れていたのに、自分から手を伸ばしたくせに、中途半端に手放してしまった。

 もう、あんな思いはこりごりだ。

 守りたいものを守れないなら、旭日を背負う価値も意味もあるものか!


「私は!!」


 大きく息を吸い、丹田に力を込め、喉も裂けよとばかりに、朔哉は声を上げた。

 気付いた怪異が引き返してきたが、もはや恐怖は微塵も感じなかった。

 警察手帳を突き出し、伝えるべき言葉を叫ぶ。


「私は! 警視庁刑事部! 捜査第一課! 強行犯捜査係所属! 天満朔哉警部です! 皆さんを救助するために来ました! ご協力を! お願いいたします!」


 空間そのものを揺るがすような、ほとんど咆哮めいた決死の叫びに、怪異がたじろぐ。


「お願いします! 力を貸してください! せめて、子供だけでも! 家に帰してやってください! あなたたちにも、家族がいるでしょう! 家族でも、友人でも、ペットでもいい! 今も! 今でも! 待っている誰かが……いるでしょう……!」


 粉塵を吸い、喉を痛め、激しく咳き込んでよろめく朔哉の背を、声を頼りに駆け付けた仁道が支える。

 肉塊の表面で辺りを忙しなく見回すばかりだった眼球が、一斉に警察手帳を見つめ、そして、はたと気付いたように、自分たちの腕の根元を見た。

 そこにぽつんと浮かぶ、小さな眼球を。

 そこからこぼれる、無垢な涙を。

 一年もの間、苦痛と恐怖に閉じ込められ、もう二度と時を刻むことのない、ほんの五歳の子供を。


 腕が、動いた。


 本来の女のものであろう二本は、朔哉と仁道へ振り下ろすために。

 そして、それ以外は、その手を邪魔するために。

 数えきれない手を振り払い、なおも攻撃を続けようとする女の腕を、白煙の消えた暗闇から、にわかに鋭く飛来したものが貫いた。


「――裁きに非ず!」


 八千斑の手にはそれぞれ、弓と矢とが握られていた。

 弓幹ゆがらから弦まで漆黒の弓に、羽から鏃まで漆黒の雁股矢を番えている。

 女が怯んだ隙を逃さず、手が、呪詛を垂れ流す口に殺到する。

 歯が肉に食い込み、裂くのも構わず、更に大きくこじ開けてゆく。


「赦しに非ず、救いに非ず!」


 顎が外れるどころか上下から別たれているだろう角度になって、その奥に、脈動する肉塊が見えた。

 女は一本きり残された腕を振り回して藻掻くが、今やほとんどの腕が別の意思で動いているため、足代わりの腕も足りず、立っていることすらままならない。


「我は唯、喰らい、断ち、貫き、灼く者なり。故に我、力に非ず、仰に非ず、誉に非ず。汝は唯、善ならば昇り、悪ならば――落ちるのみ!」


 風を切って伸びてゆく矢の、腸抉(わたくり)の鋭い先端が、口を射抜く。

 赤黒い肉塊が果実めいてはじけると同時に、その巨体が内側から爆ぜた。

 絶叫が轟く。


 やがて、抜け殻からいくつもの白い影が抜け出し、天に昇ってゆく。

 呆然と見守る朔哉の隣に、半透明の人影が近付いてきた。

 男と女、そして子供だ。

 ふくふくとした赤い頬に満面の笑みをたたえた少年の姿は、頭を下げる男女の影とともに消えた。


「……終わったのか……?」


 いつぞやの夏芽と同じような感想をこぼす朔哉を、


「まだや」


 八千斑の声が鋭く現実に呼び戻した。


 彼の指差した先、怪異がいた場所に、女が立っている。

 痛々しいほどに昏い目をした、妙齢の女だ。

 彼女はのろのろと顔を上げ、八千斑を見た。


「……嘘を……つかれたの……」


 その身体が、爪先から沈んでゆく。


「……何でも願いが叶うって……一瞬で綺麗にだってなれるって……なのに……ごめんなさい……でも……」


 女は縋るように手を伸ばし、八千斑が差し出した手の上に、何かを落とした。

 辛うじて名前だけが読み取れる、焼け焦げた名刺だった。


「……あたしだって、幸せに……あのひとの奥さんに……なりたかった……」


 女の全身が、強い力で地面に引き摺り込まれた。

 唐突な静寂が、辺りを支配する。

 肺が裂けそうなほど走ったというのに、三人は正面の入り口から数メートルしか離れていない位置に立っていた。


「……天満さん、これ、頼める?」

「あ、ああ……調べれば何かは出るだろう」


 八千斑から受け取った名刺の燃えかすを、朔哉は警察手帳のポケットに挟んだ。

 この目で視てしまったのだ。もはや彼の肩書きを疑う余地などどこにもない。

 無礼を謝らなければと言葉を探す朔哉をよそに、八千斑は首を傾げて辺りを見回す。


「……あれ? 仁道ちゃん、どこ行った?」

「さっきまでいたんだが……そういえば、眼鏡をかけていなかった気がするが。落としたか?」

「別に探さんでも、帰ったらあげるんやけど……天満さんは今からどないする?」

「いったん戻る。この名刺を調べてもらわないと――」


 朔哉の言葉を遮るように、唐突に、入り口のほうから強い光が射した。

 懐中電灯の光だ。

 暗闇に慣れていた目にまともに光線を食らって、眩しげに顔を背けた二人のもとに、複数の足音が近付いてくる。


「……そんなことされちゃあ、困るんだよなあ」


 いかにも性格の悪そうな、粘着質な声。

 見知らぬ五人組の男が、それぞれ懐中電灯と凶器とをを携えて、入り口を塞ぐように立っている。

 堅気にはとても思えない男が、不愉快な笑みを浮かべて、二人を睥睨した。


「兄ちゃんたち、命が惜しけりゃ、そいつを渡しな」

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