三 腐敗する悪夢
店内は夜のように暗く、ひっそりと静まり返っていた。
その重苦しいほどの静けさが、足に纏わり付いてくるようだ。
現役の刑事らしく、周囲を警戒しながら一歩ずつ足元を確かめるように進んでいる朔哉に対して、八千斑は纏う雰囲気こそ真剣ではありつつも、散歩めいた軽やかさで荒れた棚の間を歩いてゆく。
仁道は壁に貼られたフロアガイドを、八千斑に渡された懐中電灯で照らした。
一階建てではあるが、走ってもすぐに端まで辿り着けない程度には広い。
臭いの根源がどこなのかはまだ分からないが、マスク越しにも腐臭は凄まじく、着けていないよりはマシという域だった。
「心霊スポットになっとるわりには綺麗やなァ」
八千斑が独り言ちた通り、店内はあちこち焼け焦げてはいるものの、全体的には原形を残していた。
棚は数えるほどしか倒れておらず、壁の落書きも、ゴミも無い。
わずかな怯えを八千斑に貰ったマスクで隠していた朔哉が、あくまで近くで話をするためだというていで二人に寄っていく。
「それに関しては、これのせいだろうな」
朔哉は懐中電灯代わりにしていたスマートフォンの画面に慣れた手付きで、WeBond――世界的に、もはや知らないほうが非常識かつ異常となった動画共有プラットフォーム――のページを表示させた。
『ドラゴン龍尾&フェニックス鳳口の突撃☆イケメンチャンネル』。
「ダッサ……」
あまりにもあんまりなネーミングセンスに、さすがの八千斑も引いている。
「鳳凰はフェニックスちゃうし……ダサ……」
「私に言うな。ダサさはともかく、この動画を見ろ」
再生された動画には、かつては“イケメン”だったのだろう面影だけはある、年甲斐の無い鮮やかな赤と青とにそれぞれの髪を染めた男が二人映っている。
彼らはごちゃごちゃとつまらない前振りをしてから、深々と頭を下げて、またごちゃごちゃとどうでもいいことを喋る。一時間近い動画を十分間隔で飛ばし飛ばし見た中身をまとめれば『狸喜堂で夜を明かす企画を立てたが、撮影当日、柄の悪い男たちから脅迫を受けたので中止する』という、たったそれだけのことだった。
「以前から通報はあった。狸喜堂に肝試しに行ったら脅されただの、殴られただの……どうやら夜間、ここを根城にしている連中がいるようだ。通報のたびに中を調べて、周辺のパトロールもしたが、ずいぶんと隠れるのが得意らしい」
「危ないやん。仁道ちゃんは知らんかったん?」
八千斑の無邪気な疑問に、仁道はぐっと息を飲んだ。
「……いや、俺は……」
「担当じゃなかっただろう。お前は。知らなくて当然だ」
仁道は割り込んできた朔哉の横顔をちらりと見て、泳ぐ目の暗澹を引っ込めた。
何故か、助け船を出した朔哉のほうが傷付いた表情をしている。
その表情を誤魔化すように、腕時計に目をやる。
「……午後三時か。急ごう。あまり長居すると感染症も心配になる」
次なる追求を避けてか、さっさと歩き出した朔哉の後ろを二人は辿る。
店の奥にゆけばゆくほどに、腐臭は強く、濃くなっていく。
途中、何かを見つけたらしい八千斑が一声かけて離れたタイミングで、仁道は朔哉の背中に声をかけた。
「……すまん」
「何を謝る。それは私の台詞だ」
「……お前が、どうして謝るんだ」
「……私が悪いからだ。たかが二年の付き合いだが、それでも私はお前の上司だった。部下を守らねばならなかった……だが、駄目だったな」
朔哉は振り返らない。
握り締めた拳の内側に爪が食い込んで、皮膚が白くなっている。
「罰せられるべき行為はあっても、罰せられるべき存在などいないというのにな。背中を向けた時点で、私も加害者のひとりでしかない……」
声が震えていた。
仁道は返すべき言葉を探しあぐねて、口を開いては閉じ、また開いては閉じる。
重苦しい空気に、重苦しい沈黙が下りたが、
「なあなあ、お二人さん。気まずなっとるとこ悪いけど、ちょっと見てェな」
またしても、八千斑のわざとらしく空気を読まない声が救いになった。
声を辿って、広い店内の最奥の端まで辿り着く。
腐臭が強くなり、濃くなり――近くなった。
八千斑が立っている、その傍らの足元に、穴が開いていた。
「……死体はどこだ?」
朔哉が思わず尋ねてしまった通り、凄絶な悪臭を放っていながら、仁道が懐中電灯を向けた穴の中には、照らし出された床以外には何も見えなかった。
直径は三メートルほどでそれほど大きくはないが、床をくり抜いて倉庫らしき地下まで貫通した円は、何のために開けられたものなのか想像もつかなかった。
朔哉は戸惑う。
仁道は訝しむ。
八千斑は、静かに、脚のケースに手を伸ばす。
「天満さん、仁道ちゃん、ちょーっと覚悟してな」
何のことだと問う隙も無く、投げられた霊符が蝶のように飛んでゆく。
穴に吸い込まれるように落ちていった刹那、無数の羽音が響き渡った。
蠅の群れが黒い柱となり、視界を埋め尽くす。
腐臭がますます強くなって、朔哉は吐くまいと唾を飲んだ。
「……見んほうがええな」
穴を覗き込んだ八千斑が言ったが、現役の刑事が確かめないわけにもいかない。
悪臭のために深呼吸もできず、朔哉はとにかく心を強く持つことだけに集中して、わんわんと蠅が踊り狂う暗闇に目を向ける。
そして、当然のように、後悔した。
死体は、最初からそこにあった。
見えなかっただけだ。
うぞうぞと蠢く蛆がその輪郭を浮かび上がらせていなければ、積み重なるほどの数が置き去りにされていながら、永遠に誰も気付かなかっただろう。
「八千斑、これは……!」
透明な死体――あまりにも非現実的な光景を目の当たりにして絶句する朔哉の代わりに、仁道が叫ぶ。
八千斑はサングラスとマスクに隠された顔を歪めて、すんと鼻を鳴らした。
「……まァた当たりか。臭いで気付かんかったけど、誰か使いよったな」
何となく察しつつも問うより先に、仁道もまた、腐臭の底に嗅ぎ当てた。
甘い、花のような香り――御晴写だ。
「と、とにかく、これは異常だ。応援を呼ぶぞ、いいな?」
我に返った朔哉が焦りながらジャケットを探ろうとした、その背後。
穴の中から、音も無く伸びてくるものがあった。
細長い何かが、鎌首を擡げる蛇じみて、ゆっくりと。
その先端が俯く朔哉の首筋に触れようとするのに、八千斑が最初に気付いた。
「仁道ちゃん!!」
「なん……うわっ!」
八千斑の叫びに、仁道は反射的に朔哉を抱き上げて穴から遠ざけた。
持ち上げられたかと思えば軽々と俵担ぎの形にされて、朔哉は仁道の肩の上で目を白黒させる。
「お、おい、何だ? 何が起きてる?」
答える者も、応える者もいない。
八千斑も、仁道も、視線が一点に釘付けになっている。
「……八千斑、ここはどっちだ」
「入ってきた窓と穴以外はまだ此岸。繋ぐまでもうちょいかかるな」
「眼鏡の予備は?」
「おれのサングラス貸したるわ。おれは無くてもええから」
「お、お前たち、何の話をしてるんだ!?」
ひそひそと小声で通じ合う二人に、朔哉はパニックになりかけている。
八千斑はその顔に、外したサングラスをかけてやった。
一拍置いて、絶叫が響く。
「な、なっ……何なんだ、こいつは……!」
三人の視線の先には、穴がある。
その穴から、無理やりに這い出てこようとするものがいる。
醜悪としか言い様が無いものだ。
頭部と四肢が無い人間の胴体をいくつも縦に連ねて節足動物じみた形にまとめた肉塊から、切断された腕を肘の関節で繋げていったような長い長い腕がぞろぞろと生え並んでいる。
人体で構成された巨大なムカデと喩えるのが、最も適しているだろう。
朔哉は腰を抜かす一歩手前まで来ていたが、二人は動じていない。
「武器は?」
「あれなァ、煉獄でしか出せへんねん」
「なら、どうする」
「いや、そりゃァ……逃げるしかないわな」
言いながら、八千斑はマスクを毟り取るように外した。
仁道も倣う。
全力で走るには、邪魔になるからだ。
「天満、走れるか?」
「い、いや……まだ無理だ。すまない」
ここで意地を張ってもどうにもならず、素直に首を振る朔哉を担ぎ直して、仁道は後ろに飛んだ。
数秒前まで立っていた場所に、異形の手が鞭じみて叩き付けられる。
大きさこそ普通の人間と変わりないが、数人分の腕力が凝縮された一撃で、床板が手の形に凹んでいる。
「天満さん、サングラス落とさんようにな」
「お、落としたらどうなる」
「せやなァ、視えんくなるから、おれらとはぐれたら終わるで」
終わる。つまりは死ぬか、それ以上に酷い目に遭うということだ。
顔をますます青褪めさせる朔哉の背中を勇気づけるように叩き、仁道は八千斑の顔を見た。
互いに見合わせ、頷き合い、駆け出す。
遠ざかる穴の内、腐臭の溢れる漆黒から、異形の怪異が完全にその姿を現した。
見上げても見上げきれない、天井に付きそうな巨躯の、肉の連なる長い胴の先端を引き裂くようにして、人間そのものの口が開く。
生々しい人皮の表面に、無数の眼球が浮かび上がった。
『――熱いいいいいいいいい!!!!』
苦悶と絶望に満ちた咆哮が、空気を震わせた。




