二 新月ふたたび
「で、狸喜堂って何なん?」
「まず何よりもそれを先に聞け。本当に探偵かお前は」
「ごめんて」
呆れきった声に悪びれる様子もなくころころと笑ってみせる八千斑に、しかし仁道は不快感を覚えない。自分でも不思議なほどに。
「狸喜堂はオモチャ屋だ。去年、火災で廃墟になってる。かなり話題になったんだが、知らないのか」
「おれは基本、依頼でしか動かんからなァ。そんな変な事故やったん?」
「事故と言うか、事件と言うか……原因が、人体発火だったからな」
「人体発火ァ?」
人体発火――正しくは、人体自然発火現象。
呼んで字の如く、人体から自然に発火する現象のことである。
有名なものとしては、1988年にイギリスにて、アルフレッド・アシュトンという男性が、周囲に火気の無い状態で下半身のみを残して焼死した事例がある。
「生存者の証言によると、一人で来ていた女性がいきなり燃えたそうだ。何の前触れも無く。パニックで消火が遅れて、そのまま燃え広がって……最終的に、子供を含めた六名が亡くなった」
「悲惨やなァ……可哀想に」
「そういうわけで、世間は大騒ぎになった。連日連夜マスコミに押し掛けられて心を病んだ店主が事件現場で焼身自殺してからは、心霊スポットとして話題になって……今も、解体されていない」
仁道が語り終えると同時に、外壁の焼け焦げた建物がぬっと姿を現した。
幹線道路沿いに建つ、いわゆるロードサイド店舗であった。
オモチャ屋にしては巨大で、駐車場が広く、近くにはあらゆるジャンルのチェーン店が並んでおり、かなりの利益が出ていたことは想像に難くない。
心霊スポットであるなら配信者の一人や二人いそうなものだが、時間帯のせいか、人影も気配も無かった。
晴れた午後で遮蔽物らしい遮蔽物も無いというのに、建物の周囲だけが妙に薄暗く、肌寒い。
ガラスが割れて窓だった痕跡だけが残された穴を「鍵探す手間省けてええわ」などと言ってのんきに覗き込んでいた八千斑が、突然、電気でも流されたような勢いで窓枠から飛び退いた。太腿に留めたケースから、霊符――なのだと、仁道は車中で教えられた――を数枚取り出して、中に放り込む。
「どうした?」
「……あー……あかんな。ちょい待って、車からマスク取ってきたるわ」
「マスク?」
「窓から離れとき。気持ち悪なるで」
それだけ言い残し、ジープのほうへ歩いていく。
気持ち悪くなる――そうなるものが、中にあるのか。
『たくさん、しんで、いまも』。
男の言葉を思い出した仁道は、八千斑の忠告を捨て置き、ぽっかりと口を開けた穴を覗き込もうとして、
「暮井仁道ォーーーッ!!!!!」
メガホンでも通したような凄まじい大声に、窓から離れた。
怒り狂った猛牛じみて、何者かが全身でぶつかってくる。
いや、何者なのかは、声で分かっていた。
「お前ッ!! 連絡も無しに!! 心配させておいて!! こんなところで何をッ!!」
声の主は胸倉を掴みたかったようだが身長差のせいで叶わず、柔道の組み手めいて下襟を引くに留まった。仁道が細身であれば全身を揺さぶられていただろうが、身長差だけでなく体格差も激しいために、子供が癇癪を起こしたのを静観している父親のような有様になっている。
サングラスに不織布のマスクという不審者丸出しの様相で戻ってきた八千斑も、頭の上に疑問符を浮かべてしばらく見守っていたが、埒が明かないと悟ったのか、素人目にも仕立ての良いブリティッシュスタイルのネイビースーツの肩を押さえた。
「……仁道ちゃん、このやっかましいの友達?」
「やかましいとはなんだッ!」
「やかましっ」
スーツの男は怒りで肩を上下させながら、切れ長の目で仁道を睨み付ける。
成人男性の平均身長ほどで決して小柄ではないのだが、自販機並みの仁道と、彼よりやや低いだけの八千斑に挟まれると、童顔も相俟って、やはり子供が精一杯に威嚇しているようにしか見えない。
「で、仁道ちゃん。友達?」
「いや、こい……この人は、俺の」
「お前ッ! 今『こいつ』と言いかけなかったか?!」
マイクを通してもいないのに音割れを疑うような声量に顔を顰めつつ、仁道はそっとさりげなく八千斑の隣に移動する。
「……こいつは俺の元上司、天満朔哉警部だ」
「おいッ! 開き直るなッ!」
「……心配は有り難いが、あんたはもう上司じゃないからな」
突き放すような物言いに、男――朔哉はぐっと言葉に詰まった。
気まずい空気が流れかけたが、
「上司にしちゃァ若いなァ。それにしてもこの子といい仁道ちゃんといい、刑事って顔良くないとなれへんの?」
八千斑の脳天気な声で一掃された。
わざと空気を読まなかったのか天然なのかはさておき、険悪な雰囲気にならなかったことにだけは感謝したようで、朔哉も全身から幾分か棘を落として、八千斑を不審げに見る。
「ふん、おだてても何も出んぞ。お前こそ誰だ、暮井の友人か?」
「今の上司やで。おもろいお坊ちゃんに名刺あげよな、あと飴も」
あからさまにおちょくった態度で、マナーもへったくれも無く適当に渡された名刺とザラメまぶしの飴玉に、朔哉は怒るべきか呆れるべきか嫌味の一つでも言うべきか、考えるあまり一瞬だけ無表情になり、ややあって、頬の引き攣った困惑の色を浮かべた。
「怪異探偵? そんな仕事があるのか?」
なぜダミーでないほうを渡したのか。
仁道は訝しげな顔をしたが、渡す必要があったのかもしれないと思い直して、真顔になる。
「ありますやろ、目の前に」
「この通りの廃墟だぞ。依頼人は誰だ」
「いやァ、守秘義務がありますんで。そもそも依頼人はおらんのですけど……」
八千斑は困ったふうに後頭部を掻いて、ちいさく溜息をつくと、朔哉の腕を、組むような形で掴んだ。
「天満さん、心はお強いほう?」
「な、なんだ。暴力なら……」
「まあ、暴力ですわな。ある意味では」
八千斑は朔哉の腕を引いて、先ほど覗いていた窓のほうへ連れてゆく。
そして手を『どうぞ』の形に差し出して、暗に覗けと指示した。
ここで拒絶してもどうにもならないと分かったのか、朔哉は渋々と、しかし素直に覗き込んだ。
「……ッ、ぐ、おぇっ、な、なぁ……ッ?!」
ごぷ、と人間が嘔吐する寸前特有の呼気が朔哉の喉からせり上がる。
吐きこそしかなかったが、顔色が一気に悪くなり、全身の筋肉が本能的な拒絶に突っ張った。
「た、探偵! これは……!」
「仁道ちゃんは? マスクしとく?」
朔哉の反応を無視して差し出されたマスクを受け取りつつも、仁道はそのまま、一歩前に進んだ。
窓の中を覗き込む。
途端に、胃がひっくり返り、心臓が暴れ出した。
おぞましい臭気が鼻腔を貫き、脳天にまで突き刺さったのだ。
「……死体か……?!」
廃墟なら犬猫や小動物が死ぬこともあろうし、生ゴミの不法投棄もあるかもしれないが、そんな次元の臭いではない。生ゴミであれば何十キロも捨てられ、動物であれば数十匹は死んでいなければ説明がつかない、総毛立つような腐臭だ。
「『たくさん死んで、今も』……おるんか。ここに」
窓枠を越えようとする八千斑の、黄色い蛇の刺繍が一周した黒いシャツの裾を、朔哉は慌てて掴んで引き止める。
「待て! 本当に死体なら、今すぐ通報を……」
「天満さん、申し訳ないけどこらァおれの領分や。何人連れてきても無駄やで」
冗談を言っているわけでも、狂気じみているわけでもない、真摯な声色に朔哉の反応が遅れたのを見計らって、八千斑は窓を越えた。仁道もそれを追ってゆく。
一人残された朔哉は逡巡ののち、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「――お疲れ様です、天満です……ええ、はい、昼食に出て……ええ。狸喜堂跡地で不審者を発見しましたので、対応してから戻ります。一時間経っても連絡がなければ、応援を……はい。よろしくお願いします」
深呼吸を何度か繰り返し、焼け焦げた暗闇に身を投じる。
道路を挟んだ向かい側に停められた車の中から、四つの瞳が、すべてを見ていたことには気付かぬまま。




