零 かつて夏の街にて
雑多な街であった。
大通りは息が詰まるような活気に満ち溢れて、忙しなく行き交う人々の表情は満足げでありながらも、どこか虚ろにも見える。安定を選べば不自由になり、自由を選べば不安定になる――危うい天秤の皿を必死に並行に保とうとする、その苦悩が透けているのだろうか。
その陽気な不自由をビルやら何やらで隔てた裏側で、陰気な自由を謳歌している者がいる。者どもがいる。
陰気な自由というのはつまり、真っ当な人間があくせくと汗水垂らして働いている時間にキャンバスに一銭にもならない線を引いているとか、たった数人の客のために帳簿を赤字で埋めつつ料理の仕込みをしているとか、そういうものだ。
まともに表通りを生きられない人間が流れ着く最果てが、この路地裏である。
時刻は正午。
青い絵の具を流したような晴天の下を、まともでない人間の一人が歩いていた。
右脚を重たげに引き摺っており、遊環の通されていない錫杖の先が地面を抉って、奇妙な足跡を残している。
そこかしこから食欲をそそる香りが漂ってくるなか、彼は迷わず『あやめぐさ』と暖簾が出された店の前に立った。
何度か深呼吸し、決意に満ちた表情で扉を開く。
「――あら、いらっしゃい! 一昨日ぶりじゃないの、月彦さん」
カウンターを水拭きしていた女給が、目を細めてしまいそうになるほど明るい笑みを咲かせた。
その顔には、幼児がクレヨンを握り締めて描き殴ったような真っ赤な痣が縦横無尽に走っており、布巾を持つ手も、衿から覗く首筋も、痣と肌とで紅白のまだらになっている。痣さえ無ければ、絶世だ傾国だと軽薄な男たちが店に詰めかけそうな顔立ちだ。
月彦と呼ばれた青年は照れ臭そうに微笑み、勝手知ったる馴染みの店とばかりに窓際の席に着く。
「う、うん。夢中になっちゃってね」
「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。せっかく売れっ子になれそうなんでしょう」
足繁く通っているのであろう証拠に、女給はメニューも出さずおすすめも言わず、にこにこと注文を待っている。
「そうだなあ、モツ煮と銀シャリ、どっちも大盛りで。お新香もお願い」
「お新香はなに? 今日は大根と胡瓜、それからお茄子だけど」
「大根にしようかな」
「はぁい。じゃあモツ煮と白ご飯の大盛りに、大根のお新香ね」
女給が注文を書き留めた紙を手に、厨房に続く珠暖簾をくぐるのを月彦は笑顔で見送ったが、彼女の姿が完全に見えなくなった瞬間、テーブルに突っ伏した。顔を伏せたまま懐を探り、そこにあるものを指先で確かめると、鳥の巣じみた蓬髪をぐしゃぐしゃと手で掻き乱して、
「……いつまで待たせるつもりだ」
足音も気配も無く掛けられた声に、弾かれたように顔を上げる。
長い白髪を後頭部で一本に束ねた和装の老人が、ぎろぎろとした目で彼を見ている。
「……い、いやあ、悪いね、マスター。やっぱりいっとう愛するものは彫りづらくて。軍荼利明王なんかまだ蛇しかできてない。それに、金剛夜叉明王と烏枢沙摩明王を同時に表現してみようかと思ったんだけど、ヤーヌスみたいに両面にするか、両面宿儺みたいに双頭にするか迷ってて……」
「そっちじゃない」
動揺を誤魔化すように捲し立てたのをばっさりと切り捨てられ、言われずとも“そっち”ではないことに最初から気付いていた月彦は一気に耳まで赤く染めて、ふたたび頭を掻き毟った。
定食屋の店主には似つかわしくない肩書きで呼ばれた老人は馬鹿馬鹿しそうに舌打ちをしたが、その表情は愉快でたまらないというのを隠しきれていなかった。隠そうともしていなかった。
「昨日、あのボンボンがまた来て、柘榴石の首飾りを置いていった。『僕の指輪とお揃いなんだよ。海の向こうでも君の美しい肌を思い出したくて』だとか何とか、くだらぬことをほざいてな……おまえが男を見せんばかりに、いつか妥協されても知らんぞ」
「でも……ぼくはこの通りのかたわものですし、まだまだ無名ですし、見た目だってぱっとしないし……」
「不具と言うなら、彼奴もそうだ。だが、おまえは気にしたか? 彼奴は気にするのか?」
――お前は、その程度のものか。
何もかもを見透かすような、正しい意味で獣じみた瞳に睨み付けられ、月彦は息を呑む。
女給が料理の載った盆を手にやって来なければ、本能的に席を立っていたかもしれない。
湯気の立つ皿を机に並べ、常連客の深刻そうな顔色を不思議そうに見る彼女に、マスターはふんと鼻を鳴らした。
「座ってやれ。おまえに話があるそうだ」
「あたしに?」
「ああ。大事な話だ……」
にやりと悪い笑みを浮かべて厨房の奥へ引っ込んでいくマスターの背中と、女給の――この世の誰よりも愛おしく想う女の顔を交互に見て、月彦は観念したように溜息をついて、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。
懐を探り、そこにあるものを、指先で確かめる。
ビロード張りの小さな箱を。
深呼吸し、その中にあるものを、脳裏で思い描く。
ああでもないこうでもないと悩みながら、何日もかけて彫り上げた指輪を。
「そうだよ。とっても大事な話なんだ、おはるちゃん――」




