32.向き合う覚悟
この世有らざる者と言われ、リンファは不思議と驚きはしなかった
ただ、「ああ、そうか」と疑問が一つストンと腹に落ちる感じがした
「あまり驚かないようだね、そういわれてもピンとこないかね」
「いえ、そうではないんですが……ちょっと納得したというか」
「納得……」
リンファはボロボロに傷ついた拳を握って、ジッと見つめる
自身がこれまで覚えてきた八極剛拳の違和感の理由……
「僕が身に着けているこの八極剛拳も、きっとこの世有らざる技なんじゃないかなって」
「なるほどな、言われれば君の使っているその技はとてもこの世界で異質ではある……」
「信じてもらえないかもしれないけど、この技は夢の中でずっと先生に教えてもらったんです」
リンファは少し困ったような表情でそういうと、手のひらをじっと見つめた
「それも……10年前のあの日を過ぎてからずっと今日まで」
その言葉にファルネウスの耳がピクっと動く
「10年前と言ったかね?つまりその夢の出来事はあの日から起きていると」
「厳密にあの日からというわけではないかもしれません、でもあの日以降なのは間違いないと思います」
「曖昧な言い方で申し訳ないのですけど、夢の出来事を起きた後も強く意識できるようになったのは最近なんです」
「それまでは夢の中で誰かに会っていたような、何かを教えてもらっていたくらいで……」
脳裏に先生の優しい笑顔が浮かぶ
「でもそのお陰で、あの日から一人でも不思議と寂しくなかったんです」
その言葉を撫でながらファルネウスを所在なくヒゲを軽く引っ張っては戻す
「現実にリンファ君があの力を使い今日まで戦ってきたことを思うと、嘘ではないんだろうが……にわかには信じがたいな」
「その方は白髪の老人ではないか? リンファ」
「あっ……!」
部屋の扉がゆっくりと開き、室内にわずかに風がふく
薬と清潔な洗い物の匂いの中に、安心する匂いがした気がした
「アグライアさん……!」
「とても不思議な光景だから幻でも見たかと思ったが、今の話でつながったよ」
アグライアは少し足をもつれさせながら杖をつきながらゆっくりとリンファの傍まで歩いてくる
「アグライアさん、大丈夫ですか?」
「問題はない、まだ少しふらつくから用心で杖をついているだけだ……」
体を支えようとするルカをそっと制しただけではなく、支えていた杖をルカに持たせる
ファルネウスはリンファのベッドのそばに立つアグライアを見ながら、誰にも気づかれないように少しだけニヤニヤしていた
「あ、アグライアさん……?座ったほうがよくないですか」
「リンファ、こっちに体を向けなさい」
その雰囲気に何か不思議なものを感じながらもリンファはその言葉に従い体を動かす
リンファとアグライアはお互い向き合い、その視線は交差する
「あ、あの……」
「リンファ、私はこれから騎士ではなく、友達のリリー=アグライアとして君を叱る」
スッと平手をリンファの前に差し出し、重々しい視線を向けるアグライア
「君がこの行為を誤解なく受け止め、その上で自分なりに何かを感じ取ってくれることを信じている」
「え……?」
その手のひらは少しだけ振りかぶられると、小さなパチンという音を立ててリンファの頬で跳ねた
何の痛痒も感じないほどのわずかな平手打ちに、リンファの目が丸く揺れる
「なぜあの時、私やルカさん、ファルネウス卿に相談しなかった?」
「君が何かを感じ取ったのはわかる けれど君はここに来たばかりだし、何が危険かもわからなかったはずだ」
「あ、あぁ……」
叩かれた頬がジンジンと痛い、これまでこれ以上の攻撃を何度もされたはずなのに
自然と涙があふれる、自分でも驚くことに全く制御ができないほどに涙が止まらない
「少なくとも私は君を頭から否定するつもりはない、ダメなものはダメというけれど、それでも君の話を君の目線で聞き理解しようとする努力は絶対に惜しまない」
「一人で遠くに行くなよ、置いて行かれるのは結構応えるんだ 今回みたいな事態になれば特にな」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「こちらこそ……すまない……!」
叩かれた頬に手を当てながら泣きじゃくるリンファ
今まで一人でいることが寂しかった、孤独が怖かった
けれど叩かれたことで、自分が誰かを一人にしてしまったことに気づいたのだ
そんな二人を見ながら尻尾の毛並みを整えるファルネウスは少しだけ呆れながら微笑んだ
『まったく微笑ましいねぇ、あのリリーの表情ったら』
アグライアは眉をしかめ、歯を食いしばりながら涙を我慢し叩いた平手をじっと睨みつけ立ち尽くしていた
『叩いたほうがよっぽど痛そうな顔をしてるじゃないか』
こんな時、包容力のある女性なら優しく抱きしめてやりそうなものだが、アグライアはそれをしない
自分がそれをすべき人間なのかどうかをずっと測りかねている
かつて家を焼き、殺そうとまでしたリンファに
自らの思慮の浅さから心無い言葉をぶつけてしまったリンファに
自分が理解者である、友であるという顔をしていいのかどうか……
けれどリンファにはそういう人物が必要だと強く感じてしまった
人に真正面にから向き合うというのはこんなにも覚悟がいる事なのかと、手のひらの激痛を感じながらアグライアは涙をこぼした
「ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ」
リンファが大声で泣く、火悪さをして初めて強く叱られた子供の様に泣きじゃくる
自分でもなんでこんなに泣いているのか、何故涙が止められないのかびっくりしながら泣いていた
「痛かったか?すまないリンファ……!」
その泣き声が胸に突き刺さるアグライア
「違うんです……!でも、ごめんなさい止まらないんですぅ……!」
リンファは涙でまとまらない頭で、散り散りに思考する
今まで投げられてきた石はすごく痛かった
でも平気な顔はできた
痛いし涙も出そうになるけど、平気な顔を作れた
闘いでついた傷に涙は感じなかった
死にそうにもなってきたし、怖かったけど
命のやりとりをしているときはそんなことも言ってられなかった
アグライアさんは優しいと思う
でも、心のどこかで最終的に自分のことは全部自分で動くのが当たり前だと思ってた
それは諦めとかそういうのじゃなくて、それ以外の考えがあることを心で理解できていなかった
でも今、アグライアさんに叩かれた頬がこんなにも痛い
そして多分、アグライアさんはそれ以上に痛い
リンファは断片的にそんな思考が浮かんでは消えて、そのたびに涙が止まらなくなっていくのを感じた
部屋にはリンファの泣き声だけがしばらく響いていた
「さて、話も中断されてしまったし一回落ち着こう リンリンちゃん、そこに突っ立ってると邪魔だから座りなよ はいタオル」
助け船も兼ねてファルネウスが差し出したタオルをひったくるように受け取ると、くるっと背中を向けて
「う、ううう……!」
獣みたいに唸りながら涙を抑え込むアグライア
こういうとき涙の一つも綺麗に見せるテクニックを身に着けていればもうちょっと生きやすかろうにとファルネウスおじさんはため息をつく
「もうちょっとかわいげのあるリアクションとれないのかねぇこの子は……さてと」
空気を換えようとおじさんなりに必死のファルネウス
でもリンファもアグライアも涙を大放出中でとても場の空気はかわりそうにない
「尋問したいなぁ……天空宰相ちゃんときたら尋問したいなぁって……」
「ファルネウス様」
「なに?ルカさん」
「人の心とかお持ちですか……?」
ルカはこの状況で何言いだすんですかみたいな信じられないものを見るような表情をファルネウスに向ける
「え、なに? 私が一番空気読んでないみたいな扱いになんの?」
「す、すみません……話を戻させてください」
タオルを噛みしめたのか、ボロボロになったタオルを畳みながらアグライアが口を開く
『タオル噛んで抑え込んだのかこの子は……犬かなんかなのか』
半笑いでボロボロになったタオルをアグライアに気づかれないようにそっと回収すると洗い物袋に入れるファルネウス
「あ、あの……さっきの話の続きなんですけど、先生は多分心の中に住んでいるんだと思います」
「な、なるほどな……確かにそうだとすると合点がいく部分が多いな」
瞳を泣きはらして人相すら若干変わってる二人が必死に話を進めようとする
もはや妄想の類の話だとファルネウスは呆れていたが、
『リンファ君のこれまでの戦いぶりやガルド事件の報告書を読んでるとありえそうではあるんだよなぁ……荒唐無稽すぎるけど』
今回の存在が確認できなかった人種の遺体なども含めて、自分の常識外にまだ世界が広がっていることにファルネウスは若干のいらだちを覚えた
「心の中か、なかなか詩的な表現だねぇ その先生とは今も会話ができるのかい?」
「夢の中で話ができるくらいで、最近までお話した内容もよく思い出せませんでした……」
コツコツと足元を鳴らしながら尻尾をブンブンと振り回すファルネウス
「その先生は、こっちの世界の事は見えているのかい?」
「は、はい 夢の中ではその日に会ったことなんかをお話することがあるので」
「聞く限りはまさに夢に出てくる空想って感じなんだけどなぁ……夢、夢ってぇ……」
考えても考えても答えが出ない状況に、ファルネウスはパンと手を打つ
「うん!わからん! 現状わからないことを悩んでも仕方がないからやめやめ!」
顔を洗うというよりも叩く勢いでファルネウスは自分の顔を揉み洗いした
「この世有らざるものが存在する可能性と、リンファ君の心の中に先生という人物がいる その話については今はこれだけで十分だ」
「ゴブリンクイーンの配下でありリンファ君の兄を名乗る規格外のゴブリンと思われる者が、ここに隠れ住み逃走した、理由は不明」
「逃走前に殺害したと思われる人物は緑の民どころかこの世で見たこともないような人種だった……と」
「ファルネウスさん、僕は……」
「待ってくれリンファ君、それを聞く前に君に伝えなければいけないことがある」
ルカがその言葉を聞いて書類をそっとファルネウスに手渡す
手渡すルカの表情は心なしか暗い
「心して聞いてくれ」
その言葉に、リンファは大きく息を呑む
「王都が私に対してリンファ君の引渡し、もしくは討伐の命令を行ってきた」
あぁ、やっぱりそうか
リンファはその事実に驚きながらもどこかそうなるだろうなと感じていた
「わかりました、もし可能であれば今日だけ見逃してください……すぐ立ち去ります、もしそうでなければ」
「まてまてまて!君は覚悟を決めるのが異常に早いな!」
さっきまで傷で呻いていたリンファがとたんに身を起こし行動するので、ファルネウスは慌てて制止する
「そこで私から提案がある、君にとっても私にとっても有益な話だ」




