第四十話 項羽、会稽にて巨大鼎を持ち上げる
【紀元前212年、会稽郡・項梁の邸宅】
項梁の邸宅は、竹林に囲まれた静かな丘の上に佇み、瓦屋根に日光が反射していた。
庭には小さな池があり、鯉がゆったりと泳ぐ音が、静寂に溶け込む。
項羽は、市場を抜け、街から続く道を行き、石畳の小道を登り、懐かしい邸宅の門前に立った。
懐かしい項梁の家の門をくぐると、庭の木々が風に揺れ、かつての記憶が蘇る。
少年時代、項梁に剣を握らされ、書を押し付けられた日々。
自分が万の兵を率いる術を学びたいと言えば、その通りに手を尽くし、様々な協力をしてくれた。
乱を起こしてからも、牢に入ってからも、常に自分に心を割いて道を示してくれた。
そんな叔父・項梁の厳しさと愛を思い出し、項羽の胸が熱くなる。
「叔父上は元気であろうか……」
その思いが、足を急がせる。
邸宅の玄関に立つと、老いた使用人が項羽を見て目を丸くした。
「羽……羽様!? お帰りなされたのですか!」
古くから仕える項梁の家人は、声を震わせ、慌てて屋内に駆け込む。
項羽は苦笑し、懐かしい木の匂いが漂う玄関に足を踏み入れた。
奥の広間から、掠れた咳が聞こえる。
項羽の心臓が早鐘を打つ。
広間の戸を開けると、そこには項梁がいた。
白髪がわずかに増えたものの、かつての精悍な顔つきは健在で、目は依然として鋭く、知性に満ちている。
見た目は、項羽が知る元気だった頃の項梁の姿そのものであった。
項羽はその姿を見て、会稽に帰郷して初めて安堵した。
書簡にて、体調は順調に回復し、元気にやっているとは聞いていたが、やはり自分の目で見るまでは、どうしても不安であった。
故に、項羽は元気な項梁の姿を見て、立ち尽くしていた。
項梁は座椅子に座り、竹簡を手にしていたが、項羽の姿を見るや、驚きに目を瞠った。
「羽……! おぉ、羽ではないか!」
項梁の声は震え、竹簡が床に落ちる。
項羽は一瞬、言葉を失い、ただ叔父を見つめた。
久しぶりの再会。
項羽にはずっと牢で病に苦しむ項梁の姿が脳裏に焼き付いていた。
が、今、目の前にいる叔父は、確かに元気になり、生きている。
項羽の目に涙が滲む。
「叔父上……俺は、帰ってきた。無事でよかった……本当に、よかった……!」
項羽は巨躯をかがめ、項梁の前に膝をついた。
項梁は立ち上がり、項羽の肩に手を置く。
近くで見ると、その手は痩せ細り、かつての力強さは薄れていたが、温もりに変わりはなかった。
「お前、また大きくなったな……。そして立派な男になった!」
項羽からは、自信が満ち溢れ、気が充実し、ただ佇むだけでも圧倒的な覇気をまとった風格を帯びるようになっていた。
項梁の目には涙が光る。彼は項羽の顔をまじまじと見つめ、頬を撫でた。
「咸陽での苦労、噂で聞いておる。辛い事も苦しい事も多々あったであろう……。よく耐えたな、羽よ。よく……無事に生きて帰ってきてくれた」
「叔父上、大袈裟にござる。俺には丁度良い暮らしにございました。それに、本当に充実した環境に恵まれていた。それよりも……」
項羽は項梁の手を握り、声を詰まらせながら言う。
「叔父上、俺があの時、短慮で徴税官を殺さなければ、叔父上をあんな目に遭わせずに済んだ。あの牢で、叔父上が苦しむ姿を見て、俺は……俺は自分の無力が心底、嫌になった。それに比べれば、咸陽での苦労などあってないも同然。こうして叔父上が元気であれば、俺にはそれ以上の幸せはないのです」
項梁は涙を堪え、静かに微笑み、項羽の頭を撫でた。
「馬鹿者……。あまりわしを泣かせるような事を言うでない……。お前が生きて、ここにこうして帰ってきた。それだけで、わしは満足じゃ。もう、過去を悔いるな。羽よ、お前は立派な武人になった。それでいい」
二人はしばし言葉を交わさず、ただ互いの存在を確認するように抱き合った。
庭の竹林から吹く風が、広間の戸を揺らし、静かな時間が流れる。
項羽は、項梁の温もりに、少年時代に戻ったような安堵を覚えた。
こうして、項羽の会稽への帰郷の初日は、とても心温まるものとなった。
ーーーーーー
【市場での巨大鼎持ち上げの件】
翌日、項梁は項羽を市場に誘った。
「羽よ、たまの休日だ。会稽の街を見て回るのはどうだ? 久しぶりに一緒に見ようではないか。会稽もだいぶ変わったぞ」
項梁が笑う。項羽は久しぶりに叔父と過ごす時間を楽しみ、二人で市場へと向かった。
会稽の市場は朝の喧騒に満ち、露店の匂いと商人の呼び声が響き合う。
川沿いの埠頭では船頭が荷を運び、子供たちが石畳を駆け回る。項梁は、市場の活気に目を細め、
「始皇帝の治世は、確かに民を豊かにしておる」
と呟いた。項羽はそれに頷きつつ、市場の発展に改めて驚く。
そして、市場の中心広場に差し掛かると、野次馬の群れが騒がしく集まっていた。
広場の中央には、巨大な青銅の鼎が置かれ、その周りで商人が威勢よく叫んでいる。
「さぁ! お立会い! 勇者、豪傑、強者に知恵者はいないか!? この巨大な鼎を持ち上げられたら銭1000! できなかったら銭10! さあ、我こそはと思うものはおらぬかな? 会稽に、怪力無双はおらぬかな?」
商人は市場にいる人間を適当に指さしながら煽る。
巨大な鼎は、人が四人で抱えても持ち上がらないほどの大きさで、青銅の表面には龍の彫刻が施されている。
野次馬の間では、
「あんなもん、1人じゃ誰も持ち上げられねえよ」
「商人の小狡い儲け話だな」
「挑戦するだけ無駄無駄」
と笑い声が上がる。
だが、そういった声が上がる中、屈強な男たちは益々プライドを刺激され、次々と巨大な鼎に挑戦していた。
一人の鍛冶屋らしい巨漢が、腕をまくり上げて鼎に挑む。顔を真っ赤にして力を込めるが、鼎は微動だにしない。
次に、船頭の親方らしい筋骨隆々の男が挑戦。野次馬の声援を受けながら持ち上げようとするが、鼎は地面に根を張ったように動かない。
さらには、旅芸人の力自慢や、近隣の農夫までが挑むが、誰も成功しない。何十人の自称力自慢たちが巨大な鼎に敗北した。
その様を見て、商人は得意げに笑い、
「ほら、誰もできねえ! 次は誰だ! 会稽には口だけの弱者しかいないのか? 次に挑む勇者はいないか?」
と、商人は煽るだけ煽る。
項梁は野次馬の後ろで笑いながら、
「羽よ、あの鼎、昔はこの辺の祭りで使われたものじゃ。重さは馬二頭分はあろうな」
と呟く。
項羽は鼎を一瞥し、わずかに興味をそそられた。
「叔父上、ちょっと遊んでみるでござる」
と笑い、野次馬をかき分けて広場の中心に進み出た。
項羽の登場に、市場が一瞬静まり返る。
九尺を超える巨躯、麻布の衣から覗く筋肉の塊のような腕。野次馬の間から、
「あれ、項羽様じゃねえか!」
「鬼神の項羽だ!」
と囁きが広がる。
商人は項羽を見て一瞬たじろぐが、すぐに笑顔を作り、
「おお、こりゃすごい挑戦者だ! さあ、やってみねえ!」
と叫んだ。
「銭10だったな」
項羽はそう言い、商人に銭を差し出した。
項羽は鼎の前に立ち、軽く肩を回す。野次馬の視線が一斉に注がれる中、彼は鼎の両端を掴んだ。
だが、鼎は微動だにしない……。
項羽をもってしても持ち上がらないのか?
そう誰もが一瞬思った。
そこで、項羽の口元が綻ぶ。
「おりゃ!」
項羽の声が響いた瞬間、巨大な鼎がわずかに動き、ついには軽やかに持ち上がった。
鍛冶屋や船頭、何十人もの挑戦者が顔を真っ赤にして挑んだ鼎が、項羽の手にかかると、まるで竹の籠のように軽い。
項羽は鼎を頭上に掲げ、市場全体に響く声で笑った。
「なんだ、こんなものか! 軽いもんだな!」
市場は雷鳴のような歓声に包まれ、
何がどうなっているのかと、人々の常識が覆るほどの歓声が上がった。
野次馬が口々に叫び、子供たちが飛び跳ねる。
「すげえ!」
「項羽様は、化け物だ!」
「あんな巨大な鼎、一人で持ち上げるなんて有り得ぬ!」
商人は目を丸くし、口をぽかんと開けたまま立ち尽くす。
項梁は後ろで手を叩き、満足げに笑った。
「羽よ、相変わらず凄い力よな」
項羽は鼎を地面に下ろし、商人に向かって笑う。
「おい、商人! 銭1000、ちゃんと払えよ」
商人は慌てて金袋を取り出し、項羽に渡す。
野次馬の拍手と笑い声が市場に響き、項羽は民の歓声に高らかに笑い声を上げた。
だが、項羽は内心では、叔父の笑顔を見られたことが何より嬉しかった。
項梁は項羽の肩を叩き、
「羽よ、お前は民を喜ばせる才能もあるな」
と茶化す。
項羽は照れ笑いを浮かべ、
「叔父上が喜んでくれるなら、俺はそれが一番嬉しゅうございます」
と答えた。
そうして、二人は市場を後にし、笑い合いながら邸宅へと戻った。
ーーーーーー続くーーーーーー
ーーーー補足事項ーーーー
「1銭」の定義
秦の時代に「銭」という言葉は、半両銭を指す一般的な呼称として使われていました。
1銭で、
成人1人が1食~2食分程度の穀物に換算出来たそうです。たとえば、粥や簡素な食事なら1銭で賄えたかもしれません。
また、
秦の時代は農村部が多く、自給自足が基本だったため、貨幣を使う場面は市場での取引や税金の支払いが中心でした。都市部(例:咸陽)では、1銭で日常的な小規模な買い物ができたと考えられます。
なので、1000銭はわりと大金です!