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第三十九話 項羽、帰郷する

【紀元前212年、会稽郡】


 朝霧が長江の水面を白く覆い、会稽の水田は朝日を受けて金と緑に輝いていた。


 遠くの山々は霞に溶け、湿った土と青草の香りが空気を満たす。


 朝露に濡れた竹林からは、鳥のさえずりが響き合い、川のせせらぎがその音に重なる。


 会稽は、項羽にとって故郷の記憶そのものだった。


 会稽は項羽が初めて、乱を起こした地であり、一敗地にまみれ、己の無力さを思い知った地でもある。


 悪徳徴税官を殺し、乱を起こした時の記憶が、頭の奥でかすかに疼く。



 始皇帝に直々罪の恩赦を賜り、秦の兵卒からやり直し、咸陽の軍営で己を鍛え上げた項羽は、久しぶりに項梁のいる会稽に帰郷していた。



 始皇帝の馳道《ちどう》を改良する計画に伴い、内政が加速的な変化を遂げる中、軍が新たに動き出す前の最後の休息期間ともいえる時期を利用して、項羽は一時的に故郷へ戻ることになった。



 科挙・武官試験で受験者相手に100人抜きをしたという逸話や、咸陽近辺での山賊退治などで頭角を現し始めた項羽だったが、その内実は目まぐるしい時代の変化と自身の立場の急変に少し疲れ始めていた。


 咸陽の軍営では、昼夜を問わず訓練と任務と学問に励み、血と汗にまみれた日々を耐え抜いた。


 項羽は極めて非常に、勤勉に懸命に勤めを果たしていた。


 他の兵卒と同じく過酷な訓練に汗を流したり、治安の維持に勤めたり、時間をみつけては、韓信のもとで軍略や戦術を学び、夜にはその内容を竹簡にまとめ、その知識を書きつけ復習する。


 いつ寝てるかも分からない程に、色々な場所に顔を出し、経験を積んでいた。



 そんな日々を重ね、この当時、彼は秦のどの兵よりも働き、学んでいたと言えるかもしれない。



 このまま成長すれば、韓信の上位互換とも呼べる存在になるかもしれない。


 そう思わせるほど、項羽は軍で貪欲に成長していた。


 しかし、急激な変化は時に影を落とす。


 特に項羽のような、驕り昂りやすい人間性を根に持つ者には、時折灸を据える必要がある。


 その意味でも、項羽がこの世で最も頭の上がらない人物――叔父・項梁に会いに会稽に帰郷することは、絶好の機会だったとも言える。


 項羽を見抜いた韓信は、咸陽から会稽までの馳道の視察という名目を与え、休息の機会を巧みに作り出した。


 素直に「休め」と言われても休まない項羽の性格を理解していたからこそ、こうした形で休息を取らせることが効果的だと韓信は知っていた。


 こうして項羽は、馳道を利用して数週間かけ、咸陽から会稽へと帰ってきた。


 やがて馳道の改良が進めば、駅が整備され、咸陽から会稽までの旅は10日を切るようになるだろう。


 項羽の胸には、叔父・項梁を救ってくれた始皇帝への感謝、世話になった韓信への敬意、そして秦に心から忠誠を誓った自らの決意が宿っていた。


 だが、会稽の風を肌に感じるたび、人生で初めて味わった敗北の記憶――そして滅ぼされた楚の記憶が、心の奥でざわめく。


 項羽はそんな気持ちを押し殺し、項梁の住まう邸宅へと向かった。


 実に5年ぶりに会稽の地を踏んだ項羽。


 その間、会稽の市場は想像もつかないほど発展していた。


 朝の市場は賑やかな喧騒に満ち、露店には魚の干物や新鮮な野菜、色とりどりの果物が山と積まれ、商人の威勢のいい呼び声が響き合う。


 川沿いの埠頭では、船頭たちが荷を積み下ろし、木の桟橋が軋む音が水面にこだまする。


 市場の脇を流れる川には、荷物を満載した小舟が行き交い、船頭の歌声が朝の空に溶け込む。


 子供たちが石畳の道を駆け回り、笑い声が市場全体に活気を添えていた。


 それでも、咸陽の市場に比べれば数段劣るものの、その発展ぶりには項羽も驚かされた。


「これが始皇帝の治世の結果か」


 と、項羽は己にそういった視点や実行力がないことを改めて思い知らされた。


 麻布の簡素な衣に身を包み、九尺(約210cm)を優に超える巨躯を揺らして市場の人混みを進む項羽。


 その姿はまるで山が動くようで、市場の民は思わず立ち止まり、囁き合う。


「あれが項羽様だ! 秦の軍でえらい大暴れしてるって話だぞ!」


「なんでも、科挙の武官試験で1000人抜きして、受験者の大半を絶望させたらしい!」


「なんちゅう体格だ!  まるで神話の巨人じゃねえか!」


「兵卒の身でありながら、短期間のうちに賊の首級を何百と、挙げたらしい。鬼神の如き強さだと噂される御方だ!」


 そんな噂は、まことしやかに会稽にまで届いていた。


 噂には尾ひれがつき、人から人へ伝わるうちに誇張されるのは、この時代では日常茶飯事である。


(悪い気はしないが……。)


 項羽は民の視線や噂話には意を介さず、市場の喧騒を抜け、項梁の住まう屋敷へと向かった。



「叔父上は元気にしておられるだろうか?」



 会稽についた今、項羽の心は、敬愛してやまない叔父・項梁の元気な顔を見るため、その一心で満たされていた。




 だが、この時、項羽は知らなかった。会稽でのこの帰郷が、人生の新たな転機となることを。



ーーーーー次回に続くーーーーー

次回、巨大鼎を持ち上げたり、山賊、(桓楚、于英)がでる予定……。




ーーーー後書きーーーー

始皇帝の内政を進めて中華全体の話を先に進めるか、迷いましたが、しばらく項羽、個人話を進める事にしました。


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― 新着の感想 ―
この作品の項羽さん大好きなのでお話し沢山あるのは嬉しいですが!人生の転機て何事が!?、、まさかとんでもない事に巻き込まれるかして離反なんて、、
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