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第三十七話:とある秦の強過ぎる精兵の話 後編の参


 はなしは韓信が奇異な上奏をする事になる、数日前に遡る。



 項梁と項羽のいる咸陽の牢は、冷たく湿った石壁に囲まれ、松明の光が鉄格子の影を揺らしていた。


 埃と血の匂いが漂う独房で、項梁は簡素な寝台に横たわり、弱々しく咳き込んでいた。


 白髪交じりの頭は汗で濡れ、かつての知的な顔立ちは病に蝕まれたように痩せ、憔悴していた。



 隣の牢に繋がれた項羽は、鉄格子を握り締め、叔父の日々弱々しくなる声を聞く度に、歯を食いしばった。



 巨躯の若者は、鎖を軋ませるほどの力で格子を揺らし、看守に叫んだ。


「おい、医者を呼べ! 叔父上が死にかけているんだ! こんな牢で死なせる気か!」



 看守の一人は冷たく言い放った。

「反乱者の治療など認められん。黙れ、罪人が!」


 もう一人の看守は項梁の状態を観察し、黙って上に確認をとりに行った。


 項羽の目が怒りに燃え、今にも看守に食ってかかりそうな勢いだったが、項梁が掠れた声で制した。


「羽よ……やめろ。わしは平気じゃ……気にするでない」


 言葉とは裏腹に弱々しい項梁の言葉に、項羽の胸が締め付けられた。



(叔父上……をこんな目に合わせたのは俺だ。悪徳徴税官を殺した事には今も後悔はないが……。その結果がこれだ。叔父上は俺を庇って乱を起こしたに過ぎない、こんな黴びた牢屋で叔父上が朽ちて死んでしまう……。そんな事に俺には耐えられぬ!)




 項羽は格子に額を押し付け、大粒の涙をこぼした。



 戦場でなら無双を誇る若者は、叔父の命を救う術を持たず、ただ無力感に苛まれた。



 項梁は弱々しい声で、項羽に囁いた。


「羽よ。そう気にするでない。人間はなるようにしかならぬ。ここで朽ちるならそれも、わしの天命なのだろうよ」


 項梁は牢に入ってから、しばらくして何かを悟ったようなっていた。


 何かに期待するでもなく、ただ時を待つ。そういう人間だけが持つ静かな雰囲気であった。



 しかし、項梁のその言葉とその態度が、項羽の心に火を点けた。


 項羽は拳を握り、内心で決意した。


(叔父上をこの牢で死なせるわけにはいかない。たとえ秦に頭を下げても、誰かに大きな借りを作ろうとも、何をしてでも叔父上を故郷の地に帰す! 俺の誇りなんざ、叔父上の命に比べれば何でもねえ!)


 そう項羽は心に誓った。


 そして、項羽の深い情念の火は、思いがけない形で叶う事となる。


 

ーーーー


 項梁が体調を崩し始めてから数日がたち、項羽、項梁が捕らわれている牢屋に韓信が現れた。



 韓信は始皇帝といる事が多く、最近になって始皇帝が項羽、項梁の事で頭を悩ませている事を偶発的に知り、何か解決する手段はないか模索していた。



 主の悩みを先んじて取り除く。

 それこそ臣下の誉れ。



 それに韓信は、始皇帝が人材を大事にする事を何より知っており、人材を無為に死なせる事を厭う性格である事を、骨身に染みる程に理解している。


 故に、項羽と項梁に関して何かあれば報告が来るよう、信頼できる看守に密かに指示は出していた。


 そして、項梁の体調に異変ありと報告が上がり、直接確かめに来たのである。


 これは、始皇帝の為にだけ出来る、韓信の細かい《《気配り》》とも言えた。


 それと、韓信も項羽の圧倒的な個人の武勇に関してはそれなりに興味を持っていた。



 韓信は久しぶりに項梁を見て口を開く。



「久しぶりだな。項梁殿、お加減が悪いと聞いたが、本当のようだな、やはり牢の暮らしは辛いと見える、始皇帝に忠誠を誓う気にはやはり、なれぬのだろうか?」


 項梁は牢の中で佇まい正し、静かに答える。


「秦で大元帥ともなった、貴方がこんな場所に直々に会いに来られるとは……。会稽で何かありましたかな……」


「そういうわけでないがな、陛下は、そなたと、項羽を今だ、重く用いようと検討されていてな……。牢で朽ちる前に私が再度意思を確認に来た迄の事だ」


「そういう事でしたら、期待に応える事は難しゅうございますな。第一、私はもう年でございます。故にそれ程の役に立たぬでしょう。牢で朽ちる事がお似合いでございます」


 項梁は頑なだった。

 この時、項梁の中では亡国の復讐心に折合いはつけれていたものの……。


 自分が折れてから、項羽が折れては意味がないとも考えていた。


 仮に、自分がここで始皇帝に忠誠を誓い、項羽を説得し、無理矢理言い聞かせ、忠誠を誓わせても、項羽は長続きしないだろう。


 項羽が自らが、今の自分の置かれている立場、境遇を理解し、過去と折合いをつけれるまで項梁は待つと決めていたのである。


 韓信は冷たく。「そうか……」と言ってその場を去ろうとしたその時だった。



 項羽が格子に近寄り、韓信に言う。


「始皇帝は今だに、俺を必要としているのか? 始皇帝に忠誠を誓えば、叔父上を牢から出し、病気の療養に故郷に帰してもらえるのだろうか?」


 韓信は項羽を見て少し、驚く。

 項羽は牢にいながらも身体が尋常ではない程に、大きく成長していた。


 その姿はまさに堂々とした偉丈夫。


 項羽は韓信が数年前に対峙した時より、数段は身体は大きくなり、迫力も増していた。


 項羽の体躯は、韓信が今迄みたどの人間よりも大きく見えた。



 韓信は項羽を見上げ、静かに答える。


「陛下はこの中華で誰よりも、人材を大事にする御方である。そして、万民を幸福に導く偉大な君主でもある、故に項羽殿よ。陛下はそなたを必要としていると私は思う……。しかし、必要だからと言って罪ある者を用いる事に懸念を感じてはいるし、また、そなたらを心から信頼できるかどうかも、迷っていると私は推察している」



「すまねぇ。もう少し分かりやすく言ってくれると、助かるんだが……」



「つまりだ、そなたが、直接、陛下に会って話をする機会を私が用意しよう! そこで、陛下に今の希望を直接伝えて見ると良いだろう。しかし、無礼な口のきき方には気おつけよ! 何が最後の言葉になるか分からんからな。項羽殿はその機会を望むか?」


「たしか、あんたは俺を捕らえた。韓元帥って偉い人だよな。機会を与えてくれる事には本当に感謝する。しかし、何で、そこまでしてくれるんだ?」


 韓信もそこに、はっきりとした答えがあるわけではなかった。


 勿論、始皇帝の為ではあるのだが。


 そして、自分のしている事に少し罪悪感を抱いた。


 確かに項羽の武勇に興味はあるが、その気になれば勝つ手段は幾らでも思いつく、それに項羽を自軍に編成したいかといえばそうでもない。


 そもそも、韓信の見立てでは、項羽は人に仕えて武勇を振るう人間にも見えない。


 だが、始皇帝なら、この項羽という人間すらも懐に入れ、天下にとって有用に使いこなせるのではないか? 


 そういう期待感もある。


 だが、何時までもこの件に時間をかけるのも良いとは思えない。


 だから韓信は動いた。


 そして、あえて項梁の体調が悪くなるよう密かなる仕掛けをうったのである。


 牢屋にて、項梁が体調を悪くすれば情に厚い項羽の事である。項梁を助けたくば、何かに縋るしかないだろうと……。


 その縋る相手は始皇帝以外にはいない。


 こうお膳立てすれば、どんなに馬鹿でも人に感謝する心、時には人に縋り頭を下げる必要性がある事を理解するであろうと。


 かなり、あくどい仕込みであった。


 それで、後は始皇帝がうまくとりなしてくれるだろうと……。


 そういう計算の元に韓信は動いていたが、あまりに項羽が素直に感謝の位を示すので、内心はチクリと痛むのであった。


 韓信はそう思いながら、すっと心の内を隠して、答えた。


「そうだな。項羽殿に期待しているからかな……」


 項羽は、少し不可思議な表情で韓信見て、


「俺はあんた程に、用兵が上手い人物がいて、秦軍が、あんなに強いとは思わなかった。もし、始皇帝と話してうまく言ったら俺に、色々と教えてくれよな」


 この時、何故かそう言う、年近いの項羽の純粋な発言が、韓信にとっては自分にはない、何とも面白い感覚に思えた。


 と、同時に罪悪感にも芽生えたが、

(楚の項羽とはこういう人物だったのか)


 韓信はそう思い少なからず、項羽に好感を持つようになった。




 こうして、少し後ろ暗い思いを抱えつつも、韓信と項羽の間で話はまとまり、始皇帝に上奏という形で、項羽が謁見する事なった。




ーーーー後編の「肆」に続くーーーー




 ちなみに、項梁が体調を崩したのは韓信が看守に指示し、密かに安全で死なない程度に毒を盛ったからです。故に安静にしてれば多分ですが、すぐに良くなります。


 韓信からしても、項梁の体調が悪くなれば項羽が何かしら心を変えるだろうと思ったはかりごとでしたが効果はかなりあったようです。


 次回 項羽が始皇帝に謁見する! 誠は項羽に新たなる価値を見いだせるか? 項羽は始皇帝とうまく対話する事ができるのか? 韓信のアシストをうまく決めきれるか? 作者も不安です……。

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