閑話:韓信は背水の陣を知り、狡兎死して走狗烹らるを知る
韓信の背水の陣は、中国の前漢時代(紀元前203年頃)に起こった井陘の戦いにおいて、漢の将軍・韓信が用いた有名な戦術です。この戦術は、兵士たちを背水の状態に追い込み、退路を断つことで死に物狂いの戦意を引き出し、圧倒的な勝利を収めたことで知られています。
韓信の背水の陣は、伝説的な戦術で、趙軍20万の大軍を韓信軍はわずか3万で破った逆転劇です。川を背にした陣形、陽動と奇襲、敵の心理を突く戦略が見事に組み合わさり、韓信の天才性を示しました。この戦いは、単なる軍事的勝利にとどまらず、「逆境での勝利」の象徴として、歴史や文化に深い影響を与えるのですが……。
今日はそんなお話……。
紀元前214年、春
咸陽の宮殿は、春風が桃の花びらを運び、石畳に柔らかく舞い落ちる夜を迎えていた。
月光が庭園の池に映り、さざ波が銀色の光を揺らし、遠くで夜鳥の囀りが響く。
宮殿の屋根には、瓦の間に溜まった春露がきらめき、夜の静寂を一層深めていた。
北辺への遠征から戻った秦の始皇帝・嬴政(佐藤誠)は、匈奴の頭曼単于との交渉を成功させ、頭曼の長子・冒頓を咸陽に預かるという成果を携えて都に凱旋していた。
誠の凱旋は都に活気をもたらし、街路には民の歓声が響き、宮殿の門前には旗が春風にはためいていた。
この夜の咸陽は、誠が重臣たちと共に宴を催していた。宮殿の広間は、青銅の燮台に灯された火が揺らめき、絨毯の上で袍の裾が擦れる音が響く。
壁に刻まれた龍の彫刻が火光に照らされ、まるで生きてうごめくかのように威厳を放っていた。
開け放たれた窓からは、春の夜風が桃と梅の香りを運び込み、広間の空気を甘く清らかにしていた。
庭園では、新緑の柳がそよぐ中、蛍が小さく光を瞬かせ、遠くで春の川のせせらぎが聞こえていた。
池の畔には、宴の喧騒から離れた静かな空間が広がり、時折、魚が水面を跳ねる音が夜の静寂を破った。
誠は黒と金の袍を纏い、玉座に座して杯を手にしていた。袍の裾には龍と鳳凰の刺繍が施され、火光に映えて荘厳な輝きを放つ。
誠の瞳には、遠征の疲れと成功の誇りが混在し、玉座に座する姿は威厳と余裕に満ちていた。
韓信は誠の近くに呼ばれ、質素だが上質な薄緑の袍に身を包み、落ち着いた佇まいで酒を傾けていた。
韓信の袍は簡素ながらも、袖口に施された細やかな刺繍が彼の品格をさりげなく示していた。
この夜、誠は韓信と戦談義で盛り上がることになった。
「韓信、北辺の行軍はお前の統率があってこそ成功した。悪路が続く中、隊列を乱さず、軍の指揮も最初から最後まで見事であった。軍事の才能で、朕はお前を凌ぐ者はおらぬと疑わぬが、今日はちと、お前に聞きたい戦の話があるのじゃ」
誠の声は穏やかだが、その奥には韓信への深い信頼と、どこか試すような好奇心が潜んでいた。杯を手に持つ彼の指先は、火鉢の光を受けてわずかに輝き、言葉の間には遠征の記憶と今宵の宴の余韻が漂う。
韓信はまんざらでもないという気持ちを抑えつつ、謙虚に返す。だが、その瞳には、誠の言葉に浴する喜びと、わずかな緊張が宿っていた。杯を握る手は一瞬強ばり、すぐに緩む。
「過分にお褒めいただき、ありがたき幸せにございます。此度は直接戦闘にならず、陛下の徳によって匈奴を懐柔できた故に、被害もなく遠征を終えられました。これが何より素晴らしい結果であります。臣の才は陛下にまったく及びつかないものにございます。それで、臣に聞きたい戦の話とはどんなものにございましょう?」
韓信の声は落ち着いているが、口元のわずかな笑みが彼の好奇心を隠しきれなかった。広間の喧騒が一瞬遠のき、誠と韓信の間にだけ静かな空間が生まれたかのようだった。
誠はできるだけ実名を伏せて背水の陣の説明をすることにした。内心、彼は韓信の反応を観察することに密かな楽しみを感じていた。史実の韓信が成し遂げた戦を、当の本人に知られず語る――その状況に、誠の胸は高鳴り、まるで秘めた遊び心が火鉢の炎のように揺らめいた。
「ある将軍が無理難題を君主に求められて、仕掛けた戦について、意見を聞かせて欲しいのじゃ」
韓信は杯を置き、目を細めた。口元に控えめな笑みが浮かび、その奥には知的好奇心が宿っていた。
火鉢の光が彼の顔を照らし、薄緑の袍が揺れる。窓の外では、春風が桃の花びらを運び、庭園の柳がそよぐ。
「陛下の仰せとあれば、臣は喜んでお答えさせていただきます。どのような戦の話か、ぜひ聞かせてください。臣は古今の戦の記録をほぼ全て記憶しておりますが、陛下の知る戦となれば、さぞ興味深いものでございましょう」
(今の歴史じゃあ、韓信が背水の陣なんてやる状況にはならないだろうから……とりあえず韓信に話してどう対応するか生で聞いておきたいのだよな。)
誠にとって、史実の韓信の背水の陣の話を、背水の陣を知らない本人に聞いてみるというのは、かなり浪漫がある愉快な話であった。誠の心には、過去の歴史と現在の韓信が交錯し、まるで時間の糸を手繰り寄せるような興奮があった。
誠は杯を手に、火鉢の炎を見つめながら、声を低くして話し始めた。
【背水の陣の物語】
「ある戦の話だ。とある将軍が、敵軍と対峙した。舞台は狭い谷間、両側を険しい丘に挟まれ、背後には大河が流れ、渡河点は限られている。谷間の空気は湿り、霧が地面を這い、遠くで河の轟音が響く。丘の木々は風にざわめ、戦場の緊張を一層高めていた。
敵軍は兵力で大きく勝り、自軍の七倍近く、およそ二十万に対し三万という兵力差だった。敵は地形の利を活かし、谷間の出口を固め、堂々と布陣。軍旗が風にはためき、甲冑の金属音が谷間にこだまする。対する将軍は、兵力の不利を承知で、敢えて自軍を大河の岸辺に布陣させた。自軍に退路はなく、兵の背後には増水で勢いを増した河の流れだけだ。岸辺の葦が風に揺れ、兵たちの足元には泥濘が広がっていた」
誠は一息置き、韓信の反応を窺った。韓信は無言で耳を傾け、杯を握る手は静止したままだった。
彼の瞳には、戦場の情景を頭に描くような鋭い光が宿り、まるで自らがその場に立つかのように集中していた。
誠は話を続けた。
「将軍は夜明け前、兵を集め、こう告げた。『我々に退路はない。生き残るには敵を破るのみだ。河を背にすれば、逃げる心は消え、ただ前へ進むのみ』兵は恐怖と覚悟を胸に、死に物狂いの士気を高めた。夜の闇の中、兵たちの息づかいが重く響き、松明の火が彼らの顔を赤く染めた。
将軍はさらに策を重ねた。まず、小部隊を敵の側面に送り、陽動として敵の斥候を攪乱。霧が谷間に漂う中、敵が谷間の出口に集中する隙に、主力は正面から突撃した。敵は数に物を言わせ、正面を固めるが、将軍の軍は予想外の猛攻で敵の前衛を突破。陽動部隊が敵の補給線を脅かし、敵軍は混乱に陥った。谷間には喊声と剣戟の音が響き、霧が血の匂いで重くなった」
誠は杯を手に、火鉢の光で龍の刺繍が輝く袍を軽く整えた。韓信はなおも無言で、だがその目は戦場の情景を追い、誠の語りに引き込まれていた。
「戦は半日で決した。敵軍は混乱し、谷間を埋めるように総崩れ。将軍の三万は二十万を破り、敵の将を捕らえた。兵は河を背にした覚悟で戦い、将軍の奇策が敵の慢心を突いた。この戦を韓信、どう評する?」
韓信は杯を手に、しばし黙考した。火鉢の炎が彼の顔を照らし、鋭い目が思索の光を帯びる。窓の外では、春風が桃の花びらを運び、庭園の柳がそよぐ。広間の喧騒は遠く、韓信の周囲には静かな思索の空間が広がっていた。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「陛下、実に興味深い話にございます。臣は古今の戦に詳しいつもりでしたが、この戦は初耳でございます。流石は陛下、臣の知らぬ戦をよくぞご存知でいらっしゃる。しかし、こんな大胆な戦の話なら臣が知らぬのに違和感はありまする。陛下の創作にございますか?」
韓信の声には、軽い揶揄と深い好奇心が混じる。彼の笑みは控えめだが、瞳には誠の意図を探るような鋭さがあった。誠は内心で笑い、韓信の洞察力に感心しながらも、軽く肩をすくめた。
「まあ、そんなところだ……」
(史実に記載された、お前の実演による実話だよ!)
誠は心の中で韓信にツッコミを入れる。火鉢の炎が揺れ、誠の袍に施された龍の刺繍が一瞬、生き物のように動いた。
韓信は軽く笑い、杯を置いて身を乗り出した。広間の空気が一瞬張り詰め、まるで二人の間に戦場の緊張が再現されたかのようだった。
「さて、この戦……名を伏せられたゆえ、仮に『背水の陣』とでも呼びましょうか。実に奇抜な戦術でございますな。退路を断ち、兵の士気を極限まで高める。敵の慢心を突き、陽動で混乱を誘う。確かに一撃で大軍を破る妙手ではあります。だが、臣から見れば、この戦は少々……どう言えばよいか、攻め手は不利過ぎますな。わざわざ敵よりも七倍近くも少ない兵で攻める……という時点で意味不明にござります」
誠はズルッとなった。杯を握る手が一瞬止まり、内心で苦笑する。
(韓信、お前自身の井陘の戦いだぞ! 史実の傑作の話に辛辣だな。)
だが、誠の顔は穏やかさを保ち、韓信の言葉を静かに受け止めた。火鉢の光が誠の顔に影を落とし、彼の心中の遊び心と歴史への感慨が交錯する。
誠は穏やかに促した。
「まあ、敵より少ない兵で、この状況だ。お前ならどうやって改善する?」
韓信は杯を手に、火鉢の炎を見つめながら、静かに言葉を続けた。声は落ち着いているが、その奥には軍略家の鋭さが滲み出ていた。広間の喧騒が遠ざかり、韓信の声だけが誠の耳に響く。
「陛下、背水の陣と名付けたこの戦、確かに奇抜ではございますが、臣から見れば、攻め手の将軍は無謀に過ぎますな。七倍の敵を相手に、わざわざ大河を背にして布陣するなど、常人の発想ではありえませぬ。百回行って一度勝てるかどうかでございましょう。しかし、勝ったからこそ歴史に残り評価されたのでしょうな。臣なら、こんな賭けには出ません」
誠は杯を傾け、韓信の言葉に耳を傾けた。韓信の冷静な分析に、誠は史実の韓信の果敢さと目の前の韓信の慎重さの対比を感じ、胸中に複雑な思いが広がった。
「ほう、無謀とは厳しいな。では、韓信、お前ならこの戦をどう戦う? 背水の陣の何が問題だ?」
「まず、背水の陣の核心は、兵の士気を極限まで高めることにあります。退路を断ち、死に物狂いの力を引き出すのは見事ですが、危険が大きすぎます。兵の統率が少しでも乱れれば、自軍が先に崩れる。大河を背にすれば補給も絶たれ、敵が冷静に包囲すれば、数日で飢えて終わりです。臣なら、こんな状況にまず持ち込みませんし、戦いません。だが、もし戦うなら、こうします」
韓信は杯を置き、身を乗り出した。火鉢の光が彼の顔を照らし、まるで戦場に立つ将軍のような威厳が漂う。彼の声には、戦場を俯瞰するような自信と、戦略を紡ぐ喜びが滲んでいた。
「地形を活かすのは同じですが、背水の陣は見せかけにします。兵には大河を背にしたと見せつつ、密かに迂回路を確保。たとえば、河の浅瀬に小部隊を隠し、舟で食料や武器を運ぶ。林を隠れ蓑に、敵の目を欺くのです。敵が突撃してきたら、正面で受け止め、陽動部隊を敵の側面に送るのはそのままで良いですが。だが、臣なら陽動を二重にします。一隊は敵の補給線を攪乱し、另一隊は敵の後方を脅かし、退路を匂わせる。敵が混乱した隙に、正面から一気に突破。背水の勢いは借りつつ、攻めまする……が、これでも賭けの要素が多くあり、必勝とは言えませぬ。まあ、普通に闘えば必敗間違い無しの状況でございますし、気休め程度の戦術にございますな」
誠は渋い顔を浮かべた。
(史実の韓信も一か八かの賭けだったのかもな。)
内心、誠は韓信の慎重な分析に感心しつつも、史実の韓信の大胆さに思いを馳せた。火鉢の炎が揺れ、広間の空気が一瞬重くなる。
「なるほど、それほどに不利な状況であるか」と、誠が納得すると、韓信はさらに付け加えた。
「これは実際の現場を見てない者の意見にございます。臣は常に情報を集め、目の前の現状を把握して戦略を練り、適切な戦術を用意し、戦闘を行います。ですので、正直なところ、この戦に関してはやってみなければ分からない。そう結論させていただきます」
誠は「なるほど」とさらに納得した。韓信の現実的な姿勢に、彼の軍略家としての深さを感じた。
だが、誠の胸中には、わずかな物足りなさが残った。誠は戦に浪漫を持ち込みすぎていると自覚しつつも、韓信ならもっと奇抜な戦術を思いつくのではないかと、どこかで期待していたのだ。
火鉢の光が誠の顔に影を落とし、彼の瞳には歴史への郷愁と現在の韓信への信頼が交錯していた。
そこで、誠は話題を振り直してみた。
「なるほどな。実戦は実戦の中でしか分からない。そういうことか……。では、守備側の敵軍はどうだ? 彼らの失策はなんだと思う?」
韓信は一瞬、杯を手に持ち直し、火鉢の光を瞳に映した。声は冷静だが、どこか楽しげだ。彼の笑みには、戦術を論じる喜びと、敵の失策を暴く快感が滲んでいた。
「守備側の敵軍は、はっきり申し上げて、とんだマヌケでございます! 七倍の兵力を持ち、谷間の地形も有利。なのに、攻め手の奇策に慌てふためき、総崩れとは情けない。臣なら、まず斥候を倍に増やし、敵の布陣を事前に把握します。背水の陣と見れば、正面から突かず、両翼から包囲。陽動部隊が来ても、本隊を動かさず、補給線を死守。丘に弓兵を配し、敵の突撃を遠くから削る。敵の士気が高くとも、谷間の出口を固め、弓と投石で削れば、数日で息絶えまする。守備側の将軍、慢心が過ぎましたな」
誠は「なるほどな」とまたも思いながら聞く。韓信の分析は鋭く、史実の趙軍の失態を的確に突いていた。
(韓信容赦ねぇ……。まあ、でも趙側がそれくらい有利だったんだもんな。その戦に勝つんだから、史実の韓信は国士無双と呼ばれるわけだ……。)
「なら、相手がマヌケ過ぎたのが最大の敗因というわけか?」
「その通りでございます、陛下。背水の陣は、守備側が冷静なら必ず破れます。臣なら、敵が背水の布陣を取った時点で動きます。谷間の出口に本隊を置きつつ、両翼に騎兵を配し、陽動部隊を即座に潰す。主力は動かさず、敵の突撃を弓と投石で迎え撃つ。背水の敵は補給がないゆえ、数日で疲弊する。そこを一気に包囲し、殲滅。敵の士気が高くとも、補給と地形の利を握れば、勝ちは揺るぎません。この戦、守備側がマヌケだったからこそ、攻め手が勝ったのです」
誠は韓信の言葉に頷きつつ、内心で史実の韓信の偉業を再評価した。だが、同時に、現在の秦が超大国として繁栄している今、韓信がこのような劣勢な戦を戦う機会はもう訪れないかもしれない。
そう思うと、誠の胸には一抹の寂しさが広がった。火鉢の炎が揺れ、広間の喧騒が遠く感じられた。
韓信は始皇帝に咸陽に招かれてから、これ以上ない程に厚遇されていると実感していた。
誠の信頼と評価は、彼の心に深い喜びと誇りを与えていた。だが、誠の表情が一瞬曇るのを見て、韓信の胸に小さな不安がよぎった。
陛下は何を思っておられるのか――その一瞬の沈黙に、韓信は誠の心を探るような視線を向けた。
やがて、韓信は口を開いた。
「臣の才は軍を編成し、率いて勝利を収めるものでしかございません。しかし、陛下は違う。その気になれば簡単に踏み潰せる者達を救い、敬い、道を示し導く徳の高さ、更にその知識は天井知らず。それに心は天国、慈悲と寛容に溢れまする。古今東西、不世出の名君にして、中華全土の唯一無二の支配者であり、臣とは比べようのない器にございます。故にこれからも臣に末永く忠節を尽くさせていただければ、臣にとってこれ以上ない事でございますゆえ……。末永く……これからも……ご健勝であらせられますよう……。ごにょごにょ……」
韓信は人を褒めるのが実は苦手だ。誠の曇った表情に焦り、思いつく限りの賛辞を並べたが、言葉はどこか拙く、声は次第に小さくなった。
火鉢の光が彼の顔を照らし、頬にわずかな赤みが差す。広間の喧騒が遠く、韓信の声だけが誠の耳に届いた。
誠はそんな韓信を見て、内心で「ういやつ」と微笑んだ。韓信の不器用な忠誠心に心を温められ、誠の気分は一気に晴れた。
杯を手に、誠は軽く笑い、韓信に柔らかな視線を向けた。
韓信は誠の表情が明るくなるのを見て安堵し、何気なく攻め手の将軍のその後を尋ねた。
「陛下、して、この攻め手の将軍はその後も戦に勝ち続けたのでしょうか?」
「気になるか?」
誠の声には、どこか試すような響きがあった。火鉢の光が彼の瞳に映り、歴史の重みを帯びた。
「少しだけですが、気にかかりました」
韓信は控えめに答えたが、その瞳には純粋な好奇心が宿っていた。
「そうだな、まあ、続きの話はあまり面白い話ではないが、その将軍はその後も戦に勝ち続けたよ。無理難題を言う君主の命令に従い、忠節を尽くして天下人にまで押し上げた……。でもな。天下人となった君主は、平和になったその国でその戦に強い将軍を冷遇し、罪に嵌めて殺したよ……」
誠の声は低く、どこか遠い記憶を語るような響きがあった。火鉢の炎が揺れ、広間の空気が一瞬重くなる。韓信は杯を握る手を止め、誠の言葉を静かに受け止めた。
「『狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)』という事でございましょうか?」
韓信の声は静かだが、その奥には深い思索が宿っていた。
「必要がなければ、どんなに能力の高い人間だとしても疎まれ、避けられ、生きているだけで邪魔になるのかもしれんな」
誠の言葉には、歴史への深い感慨と、韓信への信頼が込められていた。
「しかしな、韓信よ。それも朕は君主の器量と国のシステム次第と考える。必要があろうがなかろうが、人間は人の群れ、国というシステムの中で幸せになれる権利がある。君主はそのシステムを維持し、効率を高めれば高める程に、良き君主と言われるのかもしれん」
誠の声は力強く、広間に響いた。火鉢の光が彼の顔を照らし、玉座に座する姿はまるで中華全土を統べる王そのものだった。
「だが、朕はな。必要が無くなったから功ある臣を邪魔だと冷遇し、罠に嵌めて罰するような君主は君主たる資格はない! 朕はそう考えておる。故に韓信よ。朕がもし、そのような君主になる事があれば、構わず朕の首を刎ねてよい。其方の腕なら朕の首など簡単に飛ばせるであろう?」
誠の言葉は冗談めかしていたが、その瞳には真剣な光が宿っていた。韓信は一瞬息を呑み、杯を握る手に力がこもった。広間の喧騒が遠ざかり、二人の間に静かな緊張が流れた。
「陛下、御冗談が過ぎまする。臣はこれ以上ない程に厚遇され、陛下はこれ以上ない程に理想の君主にございます。その陛下にそのようにまで思われる臣はこの国一の幸せ者にございます。臣のほうこそ陛下のためなら、もしも、かりに臣が陛下の治世の邪魔になりそうならこの首を刎ねるよう申し付けください。臣はその場でこの首を差し出す覚悟にございます」
韓信の声は熱を帯び、瞳には誠への絶対的な忠誠が宿っていた。火鉢の光が彼の顔を照らし、薄緑の袍が揺れる。広間の空気が一瞬張り詰め、誠と韓信の絆がまるで目に見えるかのようだった。
「今日は酒に少し酔ってしまい、余計な事を言い過ぎたやもしれぬ。韓信よ。其方の忠節に今後も期待する!」
誠は笑い、杯を掲げた。韓信はそれに頷き、杯を手に静かに微笑んだ。火鉢の炎が揺れ、広間の喧騒が再び戻ってきた。
これからも、誠と韓信は常に水魚の交わりが如く、刎頸の友のようにお互いを認め、色々な場所に行くことになる。
春風が桃の花びらを運ぶ咸陽の夜、宮殿の広間には二人の笑い声が響き、火鉢の炎がその絆を温かく照らしていた。
立場は主と臣下の間ではあるが、誠は韓信を心から信じ、韓信は誠に対して忠義を貫き通したという。
そこには利害を超えた本当の信頼関係が存在した。
史実では劉邦に仕え、大功を打ち立てたにもかかわらず、その後に冷遇され、最後には裏切りを唆され、罠に嵌り非業の死を遂げた韓信。
しかし、始皇帝の臣として未来を得た韓信はその最後まで、始皇帝に忠節を尽くし臣下の極みにいたと評される事になる。
仕える君主が変われば未来も変わる!
誠はそう信じ、韓信をいつまでも重用するのであった。
改稿に改稿を重ねて章末の最終話故に冗長になりました。




