閑話:陳平の辣腕光る:咸陽の蹄音、競馬興国の策 後編
紀元前214年、春
誠が匈奴遠征から冒頓を連れて咸陽に帰還した時、
『咸陽競馬場』
は既に五度のレースを成功させ、秦中にその名を轟かせていた。
陳平の報告書は竹簡九巻に及び、豪族の協力、馬の選出、騎手の訓練、競馬場の運営、民の反応まで詳細に記されていた。
競馬場を訪れた誠は、目の前の光景に息を呑んだ。
咸陽の南、川沿いの平地に広がる競馬場は、石と木で囲まれた楕円形のコースが陽光に輝き、観客席は三万人を収容する規模になっていた。
土煙を上げて疾走する馬、騎手の鋭い号令、老若男女で埋まる観客席からの
「走れ、黒嵐!」「蒼蹄が一番だ!」
という叫び声が響き合う。
屋台では焼き魚や酒、果物の香りが漂い、子供たちが馬の模型を手に歓声を上げていた。
陳平は貴賓席で、袍の裾を整え、軽薄な笑みを浮かべて報告した。
「陛下、ご覧の通り、競馬は大当たりでさ! 秦と旧六国の豪族が馬主になり、四十頭の名馬が揃いやした。騎手は将兵から百二十名を選び、更に軍経験者の中からも希望者を募り、馬術に優れた者を選別し、精鋭を集めました。民は賭けに熱狂し、賭け金の上限で乱れもなし。税収は1レースにつき20万銭を軽く超えやす。調教師、飼料屋、馬具職人も増えて、馬産業は秦の柱になる産業になりやすぜ! 陛下の帰ってくる迄の期間の仕事としては最高の結果を出せたと思いやす!」
(馬鹿野郎やりすぎだ! だが、それが良い! 実に素晴らしい!)
と、誠は思い、陳平の手腕を改めて認めた。
今後も陳平の才能を掘り起こすために色々と丸投げするのも悪くないと考える程に……。
(少し、現代知識を与えて実権を与えるだけでこうなるとはな……。)
誠は改めて競馬場を見渡し、民衆の熱気とその盛り上がる競馬熱に感嘆の声をもらした。
「凄いな……。中華の民は戦乱が終わって、平和になって、豊になった事で余裕が生まれて、その実は娯楽に飢えてたのかもしれないな」
誠はそう思うのであった。
ーーーー
陳平はその後も馬の種類に応じてレースを多様化させ、民の興奮と競馬産業の成長を加速させていた。
競馬場には三つのコースが設けられ、それぞれ異なる魅力で観客を惹きつけていた。
障害レースは、匈奴の良血馬や趙の騎馬に最適だった。コースには木の柵や浅い溝が設置され、馬の跳躍力と騎手の操縦技術が試された。
匈奴の馬「風刃」は、軽やかな跳躍で柵を越え、観客の喝采を浴びた。
ある豪族は「我が馬が障害を越える姿は、趙の誇りそのものだ!」と胸を張り、民は馬の勇姿に熱狂した。障害レースは、馬の持久力と調教師の技術を磨き、軍馬の訓練にも直結した。
斤量レースは、秦の軍馬や楚の俊足馬が主役だった。馬の体格や過去の成績に応じ、鞍に鉛の重りを載せてハンデを調整していった。
楚の「雷蹄」は軽い体躯を生かし、重りにも負けず疾走し、観客を沸かせた。
騎手の若者は「重りを背負っても馬が応えてくれる。こいつは戦友だ!」と笑い、斤量レースは馬の筋力と騎手の戦略性を引き出した。
豪族たちは自慢の馬の適正を見極め、調教師に新たな飼料を試させるなど、育成ノウハウが飛躍的に向上した。
距離別レースは、燕の耐久馬や斉の万能馬が輝く場だった。短距離(約三里)は瞬発力、長距離(約八里)は持久力が鍵となり、馬の特性を最大限に活かした。
燕の「蒼風」は長距離で驚異的な粘りを見せ、観客の「まだ走れるぞ!」という声に押されてゴールを切った。距離別のレースは、馬の血統管理を精緻にし、交配計画にも影響を与えた。
民は賭けの戦略を練り、どの馬がどの距離で強いかを語り合うのが楽しみとなった。
馬の種類に応じたレースは、秦と旧六国の名馬を競わせ、豪族の誇り、民の団結、馬産業の成長を同時に実現していった。
騎手たちは将兵の名誉を胸に馬を駆り、観客の喝采を浴びた。若い軍人騎手の一人は
「民の声が聞こえるたび、馬と一つになる」
と語り、騎手は若者の憧れの象徴となっていた。
陳平に厳しい韓信も流石に陳平の手腕は認めざる得なかった。
『競馬』の効果は様々な馬の育成に役立った。
障害レースは軍馬の機動力を磨き、斤量レースは馬の筋力を鍛え、距離別レースは血統の選別に役立つ。
馬の生産力も上がり、育成の技も進んだ。
軍を預かるものとしてはこのような軍馬の育て方もあるのだなと感心していたが、あえて直接的に陳平を褒めないのが韓信である。
とりあえず陳平に、
「賭け事が過熱せぬよう、衛兵の管理を厳しくせねばならぬ。陳平、そこらへんもきちんと監督し、治安を乱す事にならぬように気おつけよ」
と、釘を刺すのである。
そんな韓信に陳平は笑って応じる。
「韓元帥、厳しいねえ。あっしは、ちゃんと管理監督してやすよ。それにこんなに民が楽しんでる! 平和で豊で楽しい! これで民の秦への帰属意識も上がるってもんでさ!」
匈奴の良血馬が秦の馬と競い、調教師が血統を吟味し、馬具職人が革を磨く。
障害レースで跳躍する馬、斤量を背負って疾走する馬、長距離を粘り強く走る馬――それぞれが秦の馬産業を多角的に強化していた。
豪族は馬主として名誉を競い、旧六国の民は競馬を通じて秦に心を寄せた。騎手の訓練場は新たな才能で溢れ、馬の生産は飛躍的に増えていた。
『競馬』事業は大成功を収める結果となった。
しかし、誠には懸念があった。
故に、競馬事業が軌道に乗った時期を見計らい陳平を呼び出した。
夜、宮殿の奥まった一室で、誠は陳平と話をする。
燭台の火が揺れ、誠の袍に刻まれた龍が淡く輝く。
韓信も李斯いない。
二人きりの場だった。
誠は玉座から立ち上がり、陳平に近づいた。穏やかな笑みを浮かべつつ、声には鋭さが潜む。
「陳平、『競馬』は見事だった。障害レース、斤量レース、距離別の工夫――民の心を掴み、馬産業を育て、民を喜ばせ、秦を富ませた。だがな……」
誠は一瞬目を細め、陳平の顔を覗き込んだ。
「お前、今回どのくらいの金をこっそり抜いた?」
陳平はギクリとし、顔が強張った。
軽薄な笑顔が消え、額に汗が滲む。
「陛、陛下、何の話でさ? あっし、帳簿はキッチリ――」
誠のこれは完全にカマかけである。
史実で陳平が賄賂をとったり、金を使い込む逸話があったので、もしかしたら的な感じてある。
しかし、史実でも陳平は理由もなくそんな事をしたわけでもないので、誠は強く問い詰めるような真似はしなかった。
誠は笑い、陳平の肩を軽く叩いた。
だが、その目は冗談ではないことを示していた。
「証拠はない。今回は競馬が大成功したし、目をつぶってやる。だがな、陳平、もし不正が発覚したら、韓信にその首を飛ばすよう命じる。やるなら覚悟してやることだな。分かったか?」
陳平は喉を鳴らし、冷や汗を流した……。
誠は手を上げ、陳平を制した。
「今後の結果で示せ。今後も『競馬』の運営をしっかりこなし、秦のために尽くせ! それが、お前の首を繋ぐ唯一の道だ」
陳平は深々と頭を下げ、部屋を後にした。
夜の咸陽は静かで、遠くで馬の嘶きが微かに響いていた。
翌日、陳平は密かに帳簿を広げた。競馬場の税収から抜いた金。
――誰も気づかぬように何重にも細工した使途不明な金。
証拠はでない……。
出ないはず……。
そう確信はしていたが。
始皇帝の底知れぬ知識と洞察だけは、陳平にとって想定外の脅威である。
その誠の鋭い言葉が脳裏に焼き付いていた。
「不正は許さぬ!」
陳平から軽薄な笑顔は消え、手は震えながら帳簿を改めた。抜いた金を戻し、痕跡を消し、不正をなかったことにした。
額に汗を浮かべながら、陳平は呟いた。
「やっぱり陛下の目はごまかせねえなぁ……あっし、命賭けて正直にやるしかねえな。」
陳平は今回も誠を試していた。
不正を見逃ざず断罪する冷徹な君主か、不正に気づかぬ愚鈍な君主かを。
しかし、誠はどちらでも無かった。
不正に気づき、あえて泳がし、絶妙なタイミングで自分を更生させるよう、指摘する。
そんな器の君主に陳平は感じた。
その事に気づいた陳平は、「こりゃあとんでもねぇ名君に巡り会えたかもしれなぇな」
とことんついてって信頼に応えなければならない!
と、陳平が始皇帝に忠誠固く誓う一件となった。
ーーーー
競馬はその後も秦の国家事業として隆盛を極めた。
咸陽競馬場の仕組みは各地に広がり、各地で障害レースは軍馬の機動力を、斤量レースは筋力を、距離別レースは血統管理をそれぞれ進化させた。
秦国全体での馬の生産力も飛躍的に向上し、調教師は新たな飼料を開発、馬具職人は軽量で頑丈な鞍を生み出した。
秦国の騎馬隊も副次的に強化され、交易も活性化、税収は宮殿の拡張や民の福祉に還元されたりもした。
豪族は馬主として名誉を競い、旧六国の民は競馬を通じて秦に親しんだ。騎手は若者の憧れとなり、訓練場は新たな英雄を次々と生んだ。
匈奴の良血馬は秦の馬と交配され、さらに強い馬が生まれ、軍事と経済の両輪を支えた。
障害レースで跳躍する馬、斤量を背負って疾走する馬、長距離を粘る馬――それぞれが秦の馬産業を多角的に強化し、国力を押し上げた。
誠は玉座に座り、陳平の報告を聞くたび、内心で確信した。
(『競馬』のもたらす恩恵が、秦を更に揺るぎないものにした。民の笑顔、馬の蹄音、国力の隆盛――これが叶った今、秦は新たなるステージに行ける!)
誠はそう確信する。
旧六国の懐柔、頭曼との交渉、冒頓の獲得、馬産業の興隆――全てが繋がり、誠の治世は更に盤石の礎を築いた。
咸陽の空には、競馬場の歓声が響き、秦の未来を照らす光が満ちていた。
その後も陳平は軽薄な笑顔を取り続けてはいたが、心の奥には誠の鋭い目と言葉が刻まれ、二度と不正に手を染めることはなかったという。
陳平には今回の件は良い薬になったようです。




