Ep.87 忘却とは前進⑤
ジューデス、魔王城前。ドーナはガステイルの加勢でさらに優位になったネームレスと小さな傷をあちこちに作り肩で息をしているリィワンを見比べ、リィワンの肩を掴み言った。
「ここまで、ねぇ。英雄二人相手じゃ分が悪いもの。」
リィワンは項垂れたまま、その場を動こうとはしなかった。
「帰りましょう、リィワン。魔王が我々に協力する気がないことは十分に分かったんですから。」
「……」
リィワンは黙ったまま立ち上がり、空中に魔法陣を描く。すると、魔獣のような彼の四肢が人間のそれへと戻った。ネームレスはその様子を見てニヤリとほくそ笑みながら呟いた。
「気付いたのね、抜け穴に。魔族を閉じ込め人間を追い出す結界というのならば逆に、魔族として侵入し人間として出て行くのであればなんら問題はないと。」
「はああ!?ちょっと殿下、どういうことですか!?」
「どういうことも何も、今言った通りよ。そもそもそんなことができる奴なんて限られているんだから。」
ネームレスはガステイルを窘めるように言う。その間にドーナとリィワンは二人から間合いを取り、結界の境界線付近へと後退した。
「それでは魔王様、ごきげんよう。竜族が復活した暁にはその城ごと、跡形もなく焼き尽くして差し上げますわ。」
「ハ!笑わせる……この期に及んでまだ封印されている者たちの力に頼りっきりではないか。自分の手を下すことを覚えたらどうだね?」
「挑発がへたくそねぇ。またお会いするときはもっと色の良い返事をお聞きできると信じていますわ。」
ドーナはそう言い、高らかに笑いながら去って行った。リィワンはそれとは対照的に、一度も魔王城へと振り向くことなく無言でジューデスを後にした。ネームレスはそんなリィワンの背中を寂しそうに見つめながらも、すぐに切り替えてガステイルの方へと向いた。
「それで、今日は何の用でここまで来たのかしら?」
「……」
ガステイルはネームレスの方を向いたまま、言葉に詰まってしまう。ネームレスはその様子で何かを察したように、ガステイルに再び尋ねた。
「私の力が、必要なのね?」
「……俺は、必要ないと言いました。ですが先程の戦闘を見てよく分かりました。貴女……いや、アンタはリィワン・ワンズリースを知っている。それもお互いに、よく知り合った仲だ。」
「ほう……」
「これから人間たちがここに来る。彼らはリィワン達に友人を人質に取られている。だからアンタに、リィワンのことを聞きにくるはずだ……だから、結界を解いてやって欲しい。」
ガステイルはそう言って頭を下げた。ネームレスはガステイルをじっと見つめ、表情を崩すことなく質問する。
「ガステイルは、それでいいの?貴方は知っているでしょう……この結界の自壊効果は『全ての人間族がアルエット・フォーゲルについての記憶を失う』ことだって。」
「良くないさ。俺だって、ルーグさんやアムリスが殿下のことを忘れちまうなんてこと、嫌に決まってる。だがな……」
ガステイルは唇を噛み締め、やがて顔を上げてネームレスを見つめて言った。
「俺も親になってわかったんだ。おそらくそれ以上に、自分の子供が無事に帰って来て欲しいって想いの方が強いってことに、気付いちまったんだ。」
ガステイルの拳はわなわなと震えていた。ネームレスはガステイルの演説を聞き、眉一つ動かすことなく、
「……そう。」
と呟いた。
ほどなくして、ルリやアルマスト達が乗る馬車が魔王城の周辺に到着した。馬車を降りた私は早速魔王城へと乗り込もうとするが、かなり手前の地点で見えない壁に阻まれてしまった。
「あれ……なんだこれ。」
「件の結界ですよ。これがあるから人間は魔王城に近付けないんです。」
「へぇ……」
私はそう声を漏らし、結界をそっと撫でる。結界の表面は非常に滑らかな感触で、透明度を高くしたガラスのような手触りであった。すると、結界の中から声が聞こえた。
「へぇ、魔力が見える目でも結界は見えないのか。」
声の主・ガステイルは結界を触れている私をまじまじと見つめながら結界の外に出てきた。それを嫌味だと受け取った私は眉を顰めてガステイルを見つめるも、彼は全く意に介さず真顔で私の隣を通り去った。
「魔力の使い方の原理はガステイルの魔法と大差ないわよ。結界の壁は物質なんだから、魔力が見える目であっても何も変わりはないの。」
結界内部から、女性の声が聞こえた。私はその声のする方を確かめる。そこには一人の女魔族が立っていた。黒と白のコントラストが特徴的な翼、艷めく長い黒髪に爛々と輝く紅い瞳。その出で立ちに気圧され、私は息を呑んで呟いた。
「アンタが……魔王……」
「いかにも、私は魔王ネームレス。だが……」
「痛っ!」
魔王ネームレスはそこまで言うと、一瞬で私の目の前へと移動した。彼女にとっては、ただの移動に過ぎなかったのだろう。だが、私には何一つ見えていなかった。擬似妖羽化を扱うにあたり、通常状態でもかなり良くなっていた私の動体視力ですら、姿を一切捉えることができなかったのだ。そして私は、二人の間を結界が隔てているのにも関わらず、ただの移動だけの圧で思わず尻もちをついてしまっていた。
「……ああ、そうだね、改めて……もうこの結界は、役目を終えたのだ。」
怯えきった表情でネームレスの顔を見上げる私を、彼女は一瞥し微笑んだ。そして結界に触れるべく、ゆっくりと右手を伸ばした。
「……くっ!!」
その瞬間、結界は音を立てて割れた。呆気にとられる私とアルマスト達の隣でガステイルはただ一人、悔しそうに歯を食いしばっていた。




