01
思い浮かぶのは、こんな情景だ。
轟々と音を立て燃えさかる炎、火の海の只中で身を焼くのは火を吐いた女自身だ。同じ口で今度は呪詛を吐きながらのたうちまわる。悲鳴にも似た呪いの叫びに呼応するかのように、炎は高く燃え上がる。恨めしいと祟った相手はとっくに事切れていた。煙に肺を焼かれ、実に呆気なく死んでしまったのだ。女だけが、もう人ではなくなってしまった女だけが、焼失と再生を繰り返す。幾度も幾度も、何が許せないのかさえ思い出せなくなっても。
やがて怪物の鳴き声は黒い雷雲を生み、雨を降らせた。鳴いてないて、槍のように雨が降る。声は枯れ果て音を成すこともできなくなった、それでも呪うことが止められない。止められないから、炎は消えない。雨は容赦無く怪物の軀を打ちつけ、同時に炎が怪物に残った理性を焼き尽くしていく。最期の時まで失えなかったのは、恨みか、情か。
稲妻が光って、落ちた。
後には何も残らなかった。
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「男なんて…男なんて!全っっ部滅びてしまえば良いんだわ!!」
本来なら道ゆく誰もが振り返るような美人が鬼の形相で叫んでいる。怨嗟の籠った声は同じだけの悲痛さを伴い、呪いたい相手よりも先に彼女自身を傷つけているようだった。泣き腫らした目を隠して余りあるほど顔全体が朱に染まっている。それは怒りであり、憎しみであり、同時に哀しみでもあった。心の痛みを誤魔化すように、女はーーー花は、腕に抱えたソレにぎゅっと力を込める。そんな様子を見て、隣に座っていた麻希はなるべく優しく声をかける。
「花、もうそろそろ、この辺で終わりにしよう?」
聞くや否や、花は弾かれたように麻希を振り返った。
「何よっ…!麻希まで私のことを見捨てるっていうの!?」
花の顔は絶望に彩られた、と言いたいところだが、相変わらずほんのり上気して真っ赤である。これは複雑に絡まりあう愛憎よりも何よりも、酒の影響が大きいと言わざるを得ない。つまるところ、現在麻希たち2人は路地裏にある小さなバーのカウンター席で飲んだくれていた。恨み節を叫ぶ声は段々と勢いと大きさを増しており、店内に留め置けているかどうか大分怪しくなってきた。飲まれてしまう前には切り上げようと思っていたが、花の様子を見るに、遅きに失したらしい。
「そうよ、そうだわ…皆んな私のことを嫌いになるのよ。私が、嫌な女だから…!私は最低だから!!うっ…ぅぅ…でもっ…でもね゛ぇ!わた゛っ…わだしだっで…!私だっでぇぇ…!!」
末代まで祟ってやりたいが訳あってそれは叶わない憎っくき屑男の話から始まって、「男全部滅びろ!」まで飛躍していたというのに、あっという間に自虐の色が濃くなっていく。
「私なんかがっ…わ、私が、いつも私が悪いのがいけないけど!!でもっ…大切にしてほしいって、思っ…思っちゃっ…ふ、思い上がっちゃって…!!駄目っで分がっでるのに…ぅ、あ、諦める勇気もないからぁ…っ!」
麻希は黙ってハンカチを取り出した。ちょこんと椅子に腰掛けた美女は、腕の中の物をぎゅうぎゅうと抱きしめるのに忙しい。そっと手を伸ばして涙を拭ってやると、長いまつ毛に彩られた金色の目はすっかり充血してしまっているのが分かる。大きな瞳からこぼれる雫は、次から次へと溢れて止みそうにない。
「ぅぅ…嫌われるの、しょうがないのに…気持ち押し付けて…だから皆んなもっと私が嫌いになって…あ、あの男も、そういうの初めから分かって…。っ私が自分勝手で嫌なヤツって知ってたから、あんな…!あんな風に私のこと…ぐぅぅ、あそこまでしなく、たって、私が最低なことは私が一番よく知ってるし…!嫌だって、ちゃんと言ってくれれば私は離れ…っ!!…ぅ、それもできないくらい馬鹿で身勝手って思われてたってことっ!?あああ、あんまりだわ…っ!!」
せっかくの綺麗な顔をべしょべしょにしながら卑屈を極めてくだを巻く花はいじましい。麻希はこの可愛らしく健気な友に弱かった。彼女の心に刻みつけられた深い傷を治してやることはできない。でもだからと言って、放っておけるはずもないのだ。
「ねぇ、そんなことない言わないで。花は良い子だよ。花が友達になってくれて、私は嬉しい。花のこと大好きよ。」
「うっ…!ぅぅ、う、麻希ぃぃ…わた゛しも麻希がすぎぃぃ…!!」
「本当?じゃ両思いだ嬉しい。これからも仲良しでいてね。」
「っい、いるう゛うう!!ずっど友達じゃなきゃ嫌、あぁぁ…う゛ぇうぅぅぅ…っ!!」
ひとしきり泣き叫んで、それから花は右腕を枕にして机に突っ伏した。涙とその他諸々が落ちる先には、素人目にも高そうとだけは分かる見事な刺繍の入った着物の袖がある。引き抜くべきだろうかと庶民の血が騒ぐが、そこは本職、麻希より花の方が余程反物に詳しい。平静になれば自分でどうとでもするだろうと思い直した。今は思う存分泣いたらいい。日頃は無理して胸に溜め込んでいる思いを、酔いにまかせることではじめて吐き出せることもあるだろう。
「ごめんなさい、マスター。」
唸っている花がまた稼働する前に、麻希はこっそりと、完璧に空気になってグラスを磨いていた店の主人に謝罪した。騒がしくし過ぎてしまった。そしてそんな風に酔わせたのは麻希である。いつもならここまで酔う前に杯を取り上げるのだが、今夜はうっかりしていた。いや、少しづつ判断が甘くなっていたのかもしれない。「もう一杯なら大丈夫」を重ねた結果、許容量を超えてしまった。機械じゃないのだ、その日の体調だってある。たとえ今夜は何事もなく終わっていたとしても、そう遠くないうちに同じ迷惑をかけていただろう。分かった気になっていた、ということだ。人はそれを慢心と呼ぶ。不甲斐ない己を反省する麻希に、マスターは静かにカタリと笑いかけた。
「いいえ。他に誰もいらっしゃいませんし。今日は貸切で構いませんよ。」
花さんはお得意様ですから、と続けられた声は深く温かい。このバーに通うようになって長くない麻希だったが、それでももう何度も慰められている。貸切は、きっとマスターの好意だろう。気配を消すことに長けたマスターが、いつの間にかクローズの札を下げに行ってくれたに違いなかった。そういうことをさらっとやってのけるのがマスターなのだ。まったくもって他人を甘やかすのが上手すぎる。
「麻希さんさえよろしければ是非、花さんに付き合って差し上げてください。」
スッと当たり前のようにコースターが取り替えられ、その上に新しいカクテルが置かれた。
「これは友達思いの麻希さんに、僕からです。」
「マスター…!」
私まで泣きそうだ、と麻希は胸を詰まらせた。本当に敵わない。
「人は見た目じゃない」なんて言うけれど、そんなものは綺麗事だと思っていた。だがマスターに出会って、その為人を知り、麻希は同時に自分の視野の狭さを知った。額と頬に大きな裂傷のあるマスターは誰がどこからどう見ても堅気の方ではない。加えて表情は全く読めず、動作には一片の隙もないとくるものだから、初めて会った時麻希は店の中カウンター越しでバーテン服姿を目にしている状況で尚、「そういう世界でそういうお仕事をなさっている方だ」という印象を持った。背中を見せてはいけない、と緊張して身を固くする麻希に、マスターは最初から優しかった。そうあるのが自然のことですとばかりに温かく気遣われ、こちらが恐縮しそうになると茶目っ気たっぷりに「お酒の好きなお客様は大歓迎なんです。」なんて言われて。絆されるのに時間はかからなかった。もっとも視覚情報が強烈なので、本能的な恐怖を克服し、ちゃんと自然に振る舞えるまでには時を要したけれど。今となってはすっかり慣れ、この間なんかは店のドアを開けた時マスターの手にはアイスピックが握られていたが動じなかったくらいだ。これには麻希自身も自らの変化に驚いた。
もう一度、と麻希は思う。もう一度その手にアイスピックを握るマスターを見て、それでも恐れなかったら。笑い話として打ちあけよう。きっとマスターは、喜んで聞いてくれる。
嗚咽に混じり、しゅるりしゅるりという音が聞こえてきて、麻希は左隣に顔を向けた。花が細長い舌を伸ばしたり引っ込めたりしているのだ。マスターもそれに気がついたようで、また一つカタリと笑った。
「花さんには、お水もご用意しませんとね。」
花の左腕には後生大事にと言わんばかりに一升瓶が抱かれ続けている。後ろを振り返ったマスターは、白い指で音もなく戸棚を開けた。
…。
いや、まぁ、白い指っていうか、白い指の骨が。
一体全体どういう原理なのかまるで分からないが、骨の手がグラスを掴んでも何の音もしない。麻希はぼんやりと考える。これがプロの技ということなのだろうか、と。氷はカランと確かに音を立ててグラスに落ちた。
この世界に来るようになって約半年が経つ。目に映る全てが理解の範疇外だった頃を思えば随分と馴染んだ気でいたが、まだまだ驚くことも多い。麻希は、見目恐ろしくも親切で温厚なマスターが作ってくれたカクテルをそっと手に取った。白いカクテルはさっぱりと飲みやすく、それでいてほんのり甘やかだ。不思議で優しい味だ、と思った。
ここは、幽世の小さなバー『hydrangea』。
強面だけど優しい骸骨のマスターが用意してくれるダイキリが、とても美味しいと評判だ。
麻希:主人公。人。
花:蛇の妖。大変な美人。蛇の妖らしく大酒飲みだが、タガを外して飲めばそれなりに酔っ払う。曰く「こういうのは気持ちの問題。」もっともどんなに酔っても次の日にはケロっとしている。麻希の幽世での最初の友人。
マスター:骸骨(妖)。顔(の骨)に大きな傷がある。生前のものなのか死後のものなのかは不明。何に触れても骨の音を立てないが、時々敢えて特徴的な音を出すことがある。どうやらそれが笑っている音らしいと、麻希は10回目くらいで気が付いた。




